2026年07月04日

『オーファンズ』

ライル・ケスラーの『オーファンズ』(荒井遼演出、小田島恒志訳)が6月28日から7月5日まで池袋の東京芸術劇場シアター・イーストで上映中。男性3人の芝居で、原作では二幕の作品、設定場所は同じ。

この作品は、翻訳者の小田島恒志氏がプログラムのなかで述べているように、
『オーファンズ』は1983年、アメリカ、北フィラデルフィア出身のライル・ケスラーによって書き下ろされました。【中略】1986年、ロンドンのウェストエンドで上演されると、名優アルバート・フィーニーがハロルドを演じたことも相まって、人気に火がつき映画化もされました。日本では1986年に劇団四季によって初演が打たれ、トリート役を市村正親さんが演じました。私が初めて翻訳したのは2000年、サンシャイン劇場での上演です。演出は栗田芳宏さんで、トリート役に椎名桔平さん、フィリップ役に伊藤高史さん、ハロルド役を根津甚八さんが演じました。2017年のマキノノゾミさんの演出では、トリート役に細貝圭さん、フィリップ役に佐藤祐基さん、ハロルド役に加藤虎ノ介さんで上演されました。他にも東京演劇集団風が『Tochi』という題目で毎年のように上演するなど、世界各国で幾度も上演されている人気作です。
これはもうモダン・クラシックスといってもよい作品であり、そうであるがゆえに、私個人としては、もう舞台で観なくても、あるいは本で読まなくてもよいのではと勝手に考えていた。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に、アルバート・フィニーのものはアルバート・フィニーのもとへ……というわけである。

しかし今回、荒井遼氏の演出によって上演されることになり、私は原作を虚心に読んでみた――これが日本でも多くの名優によって演じられ上演されてきた作品であることを忘れて。当然のことながら、原作の熱量に圧倒された。しかもそれは一見、都会の片隅で悪事に手を染めながら細々と暮らす兄と弟のリアルな物語にみえて、兄が拉致監禁に失敗した男が登場すると、それがにわかに形而上性あるいは寓話性のようなものを帯び、リアリズムと不条理劇とを混在させる、具体的でありながら(その具体的な地名と商品名の羅列をみよ)同時に象徴的である、まさに具体性と象徴性がインターセクトする演劇空間が立ち上がるのだ。読みながら興奮をおぼえずにはいられなかった。

おそらくこの劇をモダンクラシックにしているのは、俳優にとって、これは演じて楽しい芝居だからと思う。兄と弟の兄弟。そしてそこに介在する父親的な第三の男。それぞれ役割が明確ながらも、同時に、三人にはその役割におさまりきらない余剰の部分があって、それが三人の衝突に、たんに激しいだけの暴力的なものではなく、人間的な陰影にとむ情念のドラマを生起させているからでもあろう。そこには俳優に自由に処理できる多くの余白がある。挑戦的だが、同時に、そのぶんやりがいのあるドラマ。俳優をはばたかせる構造的な力をこの劇は具備している。

また過去の名優たちが演じたこの作品は、そうであるがゆえに、この作品は、年齢的に壮年期をすぎた晩年期に入っているような印象を受ける。本来、新鮮で輝いているはずなのに、なにかほこりがたまりさび付いているような印象をうける。私は新鮮な驚きをもって原作を読んだので、作品は当然新鮮で輝いてみえた。だが日本でのこれまでの上演史を思うと、なにかセピア色の写真のように古びて見える。だが、そのような違和感を、荒井氏の演出は払拭した。3人の人物が、若いのである。若々しい新鮮なドラマ。モダンクラシックであることを極力忘れて私が読んだときの脳内劇場のありようが、荒井氏の演出によって、舞台に実現していたことには驚いた。

登場人物の年齢を下げるという荒井氏の狙いは、この芝居をまちがいなく次世代のためのモダンクラシックに仕立て上げているといえる。ここにあるのは次の時代のスタンダードである。

トリート/山時聡真は、フィリップの兄で、強盗・窃盗などの暴力的手段で金をかせぎ、廃屋で弟をやしなっている。

弟のフィリップ/本島純政は、兄によって庇護されている(アレルギー体質であるらしく外出を兄から禁じられている)。しかしその庇護は強権的・強制的でもあって、彼を無力化する。しかし、文字も読めず、外的世界の知識をもたないフィリップだが、兄の目を盗んで本を読み、文字を学ぼうとしているし、知的好奇心にもあふれ、また亡き母への追慕の感情にも身をゆだねるなど、兄とは異なる人格を育み、未来の人生へと希望を託している。

この兄と弟の二人暮らしの家(おそらく母親は死に、父親は出奔し、残された兄と弟が暮らす実家/廃屋なのだろう)に、兄が酔っぱらったハロルドを連れてくる。ハロルドは成功した実業家のようで、兄はこのよっぱらったハロルドを縛り上げ、監禁して、身代金を取ろうとする。

ここまではリアルな物語が展開する。問題は、このハロルドである。トリートによってがんじがらめに縛られながらも、みずからをフーディにーを気取って、いともやすやすと、さるぐつわを、また縛っているロープをはずしてしまう。トリートに財布をもっていかれたにもかかわらず、体中いろいろなところに札束を隠しているし、さらには拳銃も隠し持っている。このあたりから話はにわかに非現実性を帯びる。いくらトリートが不注意だといっても、ハロルドを縛り上げるときに、ハロルドが体中にしのばせている札束や拳銃に気づかないということがあろうか。このハロルドは無尽蔵にお金をもっているらしく、兄弟をボディーガードとして高額で雇うという【なお劇中のドル表記は、この劇の初演時の円安水準、すなわち1ドル200円で換算すべき】。

ハロルドのフーディニー気取り、そして兄弟への気前のよい援助者。いかがわしい闇の世界の住人。それでいて、みずから孤児であったことから同じく孤児二人の兄弟への共感と同情と援助。そして彼が口ずさむ、もしも天使の翼があったなら……という歌。彼には、この世のものとは思えない、彼岸的、非現実性あるいは超現実性がある。【アメリカでは定番(日本では円安で高級品)のヘルマンのマヨネーズと、これも定番(日本では高級品)のスターキストのツナ缶だけでは、いくら美味しいからといって、栄養失調になって生きてはいけないと思う――これも非現実性のひとつ】

現実性と非現実性。それはまた閉塞感と解放感の共存というかたちで舞台装置においても表象されていた。荒井遼氏の演出は、舞台に兄弟が暮らす廃屋を出現させる。古くてぼろぼろになった薄汚れた住居である【ただし、舞台の廃屋が、それほど汚さを感じさせないのは荒井氏のもつ美的感覚のなせるわざだろう。上演前に舞台をスマホで撮影していた観客が多いことも、荒井氏の舞台の高度な美術性が認知されていることの証左である】。その廃屋は、閉塞感を漂わせるように構築されている。と同時に、夜の場面では、舞台のうえに満天の星が輝く。本来なら屋内から星空は見えないのだが、この廃屋には天井がない。舞台の廃屋のうえにも、また客席のうえにも、満天の星。それはまた閉塞状況にありながら希望の星が輝く二重性――閉塞と解放、束縛と自由、忌まわしい過去と希望に満ちた未来の二重性――が、舞台装置のレヴェルで具現化されているのである。

この作品の登場人物たちをこれまでの上演にはない若い年齢にした荒井氏の演出に、私は自分の演劇的感性との一致をみて驚いた。プログラムを読むと、ハロルドはもともと50代に設定してあるが、若くしたとあるが、私が読んだ英語版のト書きによれば、ハロルドはa middle aged manとあって、それにひっぱられて私は40代の男を想像した――ハロルドを演ずる村井良大の実年齢とあまり違わない人物を想像していた。ハロルドを若くしたのは、あきらかに父親的な彼の言動が、なにか絶対的な権威と慈愛へと固定されることなく、彼の教育もまた限界のあることを示唆するためだということを荒井氏はブログラムのなかで語っている。私はというと、彼を限界のある父親像にするのではなくて、父親ではなく、先輩あるいは兄貴的な存在にハロルドのことを想像していた(まあ勝手な想像だとしても)。

ハロルドを若くすることは、私にとってそれはハロルドの脱父親化であり、ハロルドをベテランの先輩あるいは兄的な存在にすることだった。彼は権威と威厳のある父親としてではなく、トリートにかわるもうひとりの兄、そう長男として立ち上げることだった。そしてこれは、演出の荒井遼氏の意図ではないとは思うのだが、ハロルドを父・神ではなく、援助する天使(ラファエル的な)にしてソフト化すると同時に、もういっぽうで、このハロルドを父性愛ではなく兄弟愛、それも同性愛へとつながる兄弟愛の具現者とすることになろう【聖書のなかで天使がみずから名乗って援助のために登場するのは、聖書外典あるいは旧約聖書続篇の「トビト記」である。それひとつだけなのだが】。

この作品のエピグラフには、ヘレン・ケラーの言葉が使われている。サリヴァン先生と出逢う前に彼女はどこにもない宙に浮いたような世界の住人だったが、以後、現実の世界に生きることができるようになったという内容の。教師・導き手としてのサリヴァン先生の重要性を語るこれは、劇中におけるハロルドの教師としての重要性を暗示する。そしてヘレン・ケラーはある意味フィリップである(そして間接的にトリートもまた)。と同時にハロルドのもついかがわしさ、詐欺師的性格、もと孤児のローン・オペレーター的性格、友人はおらず、逆に闇の組織から命を狙われているかもしれないという危うさは、ハロルドをトリックスター的な、そしてステレオタイプ的なゲイ的存在にみせている。また血のつながらないトリートとフィリップを援助する彼の慈愛は、ゲイ的なものであることも匂わされているのではないだろうか。

ゲイ的な兄弟愛と、父性愛とは反比例する。父性愛の弱体化、消滅化と、兄弟愛の台頭と強化は連動している。トリートとフィリップは、父親に捨てられて辛酸をなめたようだが、その兄弟を助けるために、アルバート・フィニー的な父性まるだしのハロルドが登場したのでは、助けになっていない。むしろもうひとりの兄弟としてハロルドが登場することのほうが、この劇の内的ロジックを強化するように思えてならない。その意味で荒井氏の演出は卓越している。

私の脳内演出では、このハロルドはゲイである。女性の影がまったくない。トリックスター的詐欺師であり、また善き人間を助ける大天使的な、現実と非現実、卑俗さと神聖とが彼の中でまじりあっている。そしてこのハイブリッド性が、兄弟を強権的に威圧的に束縛することも、また威圧的に自立させることもなく、ただ兄弟自身が自発的自律的に個として独立すること可能にしているように思われる。ハロルドは任が終われば天上に帰還する天使(大天使ラファエル)のようである。確かにハロルドは最後には死ぬ。おそらくその詐欺行為なり裏切りによってギャングたちの制裁を受けることになったのだろう。ただ、彼は兄弟たちに殺されるのではない。兄弟たちが自立独立のために父性的ハロルドを殺し、その屍を踏み越えて雄々しく社会に出てゆくというエディプス的物語とはならない。この芝居は、ある意味、アンチ・オイディプスなのである。ハロルドは、兄弟を善導し、彼らの行く末を見極めて、みずから消滅するところがある。まさに消滅する媒介者vanishing mediator。兄弟を社会へと旅立たせ、その廃屋に外気を入れることになったとき、ハロルドは静かに息をひきとる。兄弟たちにトラウマを残さないように、あるいは兄弟愛の記憶を永遠にするために。

私の読み方は荒井遼氏の演出とは違うかもしれないクィア的なものだ。男三人の芝居は、女性性が欠如しているが、母親の赤いハイヒールを密かに愛でているフィリップの、女性との同一化をどうとらえるか。また最後に、突然、内臓的な激痛をうったえるトリートが、そのマッチョな装いのもとに、実は自身の女性性を抑圧していたこと、その抑圧されていた女性性が激痛とともに彼のなかで生起したことをうかがわせることをどうとらえるか。解放されるのは、兄弟だけではなく、抑圧された女性性でもあるのかもしれない。

ただしこうした読解は、荒井氏の舞台を、三人の男性俳優の力演を決して阻害するものではない。阻害するどころか、(余計なお世話といわれるかもしれないが)むしろ舞台のよさを裏書きするような、さらなる可能性の提示といってもよいかもしれない際立たせるものといってもよい。

なにしろ舞台はアメリカのフィラデルフィア。フィラデルフィアといえば、兄弟愛の街である。そういう評判があるというのではなく、フィラデルフィアという名前そのものが「兄弟愛の街」という意味なのだ。この兄弟愛には友愛、同胞愛、家族愛のほかに、同性愛もふくまれる、というか同性愛に拡大解釈されることもある。

そしてまたフィラデルフィアは、アメリカの独立宣言の地である。1776年7月4日、フィラデルフィアにおける会議で、ジェファソンが起草したアメリカ独立宣言が全会一致で採択された。そしてこの日がアメリカの独立記念日となる。それは父なる英国からアメリカが独立した日でもあった。父に導かれるのではなく、父から独立すること。それはまたこの『オーファンズ』のテーマそのものでもある。50代のハロルドを拒否して、若いハロルドを採用したことは、この劇を兄弟愛・脱父親の方向へと開くことになる。そしてそれこそがこの作品が本来持つ可能性を十全に開花させる貴重な試みでもあるのだ。荒井遼氏の演出によって、『オーファンズ』は父性の呪縛から解放されて、はじめて、本来の姿を取りもした。父性愛から独立したのである。

                           
2026年7月4日、アメリカ合衆国独立記念日に。

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2026年05月26日

『リア王』

個人的な感想――評価ではない――を最初に。『リア王』を見るたびに、作品冒頭のリア王が末娘のコーディーリアを勘当・絶縁状態にするところ、その専制君主ぶりが際立つのだが、その際、どうしてもトランプ大統領のことを思い浮かべてしまうのだ。大竹しのぶ演ずる女性版リア王(設定は男性)ですらそうだった。アメリカ史上もっとも腐敗した政権といわれるトランプ政権への私たちの嫌悪感が、リアにトランプ的唾棄すべき独裁者のイメージを付着させてしまうのだろうか。最近見るリア王の専横ぶりは、過去に観たときには感ずることのない不快感を覚えてしまうということ。今回、吉田鋼太郎演ずるリア王をみても、その最初のほうの専横ぶりは唾棄すべき独裁者=トランプの姿とどうしても重なった。

『リア王』には、ふつうにみていても、あるいはどんな演出においても、手紙の数の多さに驚く。もちろんリア王の時代というのは、紀元前数世紀前というような時代(ただしリア王自身が伝説上の存在で実在しない)であって、紙が発明されている時代ではない。中国では『Kingdom』に出てくるような、文字を書かれた竹や木の札(簡という)が手紙の代わりに用いられたが、その頃のブリテンでは、絶対に紙が使われていたことはないはずだ。それなのにアナクロニズムを承知のうえで、何通もの手紙がやりとりされ、なかには手紙も書き手・受け手・持ち主を運命を変えてしまうものもある。また、手紙がここまで重要な意味を帯びるシェイクスピア作品は他にないようだ。もちろんシェイクスピアと手紙を扱った研究書もある。いつかじっくり読んでやろうと思うだけで、まだそれを実行できていないが、そろそろシェイクスピア的手紙について考えるべきときがきたのかもしれない。

いきなりの閑話休題をお詫びして、以前にもこのブログに書いたのだが、「彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd」は現代日本における、日本語による翻訳上演のシェイクスピア劇では最高峰である――他のいかなるシェイクスピア上演も、この「彩の国シェイクスピア・シリーズ」を目指すべきであるがゆえに、そしてどんなに目指しても乗り越えることはできないだろうがゆえに、そしてさらに現代シェイクスピア劇の到達点であるがゆえに。

もちろん今回のように吉田鋼太郎演出ではなく長塚圭史演出であって、1人の演出家の統一的ヴィジョンによって企画上演されるのではない場合でも、吉田鋼太郎が出演している限り、多様性のなかに統一性もしっかり立ち上げられている。24日で彩の国さいたま芸術劇場での公演は終わり、これから全国をまわることになって、多くの人たちを圧倒し多くの人たちに感銘を与え続けるであろう――もうそれはひとつの事件といってもいい。

舞台には、土俵のような盛り土があるだけで、あとはなにもないシンプルだが荘厳な印象をあたえるものとなっている。それはまたシェイクスピアの『リア王』の世界と驚くほど見事にシンクロしている。『リア王』は、実にさまざまなことが次々と生起する息もつかせぬ芝居であるが、同時に、その舞台世界は簡素さの極みに達している。もともとシェイクスピア時代の劇場は、なにもないところに演劇世界をパフォーマンスを生起させたのだが、『リア王』は屋外という設定が多く、むしろ飾りのない実存的不条理の世界を徹底して守ろうとしているようにみえる。

たとえば当時の舞台には、バルコニーが舞台奥にしつらえられていた。そのバルコニーがなければ『ロミオとジュリエット』は大きな見せ場を失ったことだろう。バルコニーを有効に使った当時の演劇作品はいくつもある。またこのバルコニーは映画『ハムネット』がまったく無視して再現していないのだが、バルコニーは劇中世界を空間的に大きく広げ、観客にも空間の多様性を意識させる重要な働きを担っていた。ところが『リア王』の上演は、当時、バルコニーを使わずとも可能であったはずだ。つまりそれほどまでに『リア王』は、舞台装置にこだわっていない。ただの平たい舞台だけの演劇であり、これは今回の舞台装置の簡素さともまぎれもなく通底している。

プログラムを読むと、シェイクスピア劇の他の例にもれず、この『リア王』も世代対立が主題になっていて、そこを強く打ち出すような演出を目指していることが感得できる。その演出意図は正しいだろう。古い親の世代の硬直化と頑迷さが若い世代を圧迫する。若い世代は旧世代に反発し抵抗し、自身の自由な空間を切り開こうとする。新旧世代の激しい対立と、そこから生まれる悲劇。それはシェイクスピアの意図そのものでもあっただろう。

実際、今回の演出で石原さとみは、当然、コーディーリアかと思っていたが、予想に反して悪女役の長女ゴネリルであった。もちろん演技の幅を広げ、固定された役柄を嫌う本人の意向、あるいは演出家による挑戦的な取り組みなど石原さとみのゴネリルにはいろいろな理由があるだろうが、石原さとみのゴネリルにはやはりコーディーリアの影がある。つまりゴネリルとコーディーリアを二人とも親の世代に反抗する新世代の人間として接近させたととれなくもない。実際、それは『リア王』に対する深い読みに裏付けされていると思う。

ではシェイクスピアは新旧どちらの世代の側なのか。頑迷固陋な旧世代の言動を批判的に暴露しながらも、新世代の冷徹な合理主義実利主義もまた批判する、いやむしろ新世代のほうが風当たりが強いところもある。どちらにも共感し同情しながらも、結局、どちらにもコミットしないというシェイクスピアは結局のところ保守的なシェイクスピア研究者とさほどかわらないのか。おそらく『リア王』において衝撃的なのは、新旧の対立が、最終的に共倒れ状態を招くことである。

シェイクスピアは新旧両世代にコミットしながらも、同時に、新旧両世代を断罪していることころがある。旧世代は世界を古い規範によって、自分の都合のいいように意味づける。その恣意性、身勝手さを、新世代は徹底して否定するが、しかし、新世代もまた、科学的合理的世界観と競争的実力社会観によって、自分の都合のよういように世界を意味づけているにすぎない。恣意的な仮構が消滅しつつあっても、その後釜に座るものもまた恣意的な仮構なのである。虚妄から目覚め、あるがままの実存的リアルに向き合え――『リア王』はそう登場人物に、また観客に迫る。

舞台の簡素さは、実存的不条理の出現と軌を一にしている。今回の舞台は、これ以上なく『リア王』的なのだ。実は、『リア王』は、たとえばエドガーが扮する乞食のトムの語る意味不明の言葉もあるのだが、全体的に台詞は簡素化している。

ケネス・ブラナーが1990年だったか来日し、自身が率いる「ルネサンス・シアター・カンパニー」で『リア王』を上演したことがある(ブラナーはその時エドガーを演じた--ちょうど今回のさいたま芸術劇場版では、主役級の藤原竜也がエドガーを演じたように)。いわゆる旧パナソニック東京グローブ座での公演を、英語が堪能だが、文学や演劇が専門でもない日本人女性と観劇したことがある。彼女にとって初めての英語のシェイクスピア劇だったので、彼女自身理解できるかどうか心配していたが、結果として、シェイクスピア劇の英語わかりやすかったようだ。現代英語に書き換えて上演しているのかと私は聞かれたので、省略したりすることあっても、書き換えはないと答えたが、だとすれば、シェイクスピアの英語はわかりやすすぎるということで彼女は驚いていた。

『リア王』にかぎれば台詞はわかりやすくなっている。当然である。そもそものはじまりは、リア王の二人の娘の美辞麗句を連ねたお世辞合戦に反発して簡素な一語でNothingとのみ答えた末娘コーディーリアがリアの怒りをかって追放されるという事件である。美辞麗句に、いやそもそも言語操作によって真実が捻じ曲げられたことから、悲惨が連続して襲い掛かるようになった。修辞的装飾的言葉は有害なのである。逆に簡素な言語しか舞台に降臨することを許されない。

この劇の最後の締めの台詞は、その簡素さで悪名高い――「感ずるままを語り合おう、儀礼のことばは口に出すまい」(小田島雄志訳)。なんじゃこれは?!これほどの悲劇を生起させ観客から生きる気力すら奪うかのような悲劇作品の締めの言葉としては、あまりにもそっけない。

だが、この簡素さなのかにこそ、このそっけなさのなかにこそ、この悲劇作品が集約されている。身体の感覚、身体の自然な動き、それを抑圧し無視し歪曲し加工するような言語表現は唾棄すべき虚飾であり許されざる虚偽なのだから。演技する者の身体と言語がすべてだと演出の長塚圭史氏はプログラムのなかで述べている。そのとおりだと思うし異論はないのだが、ただ、シェイクスピアの『リア王』では、もはや身体と言語は、演劇創造のためのデフォルトではなくなっている。身体も言語もはげしくぶつかるのである。そして言語が身体を組み伏せたときに悲劇が始まる。『リア王』後半は、抑圧された身体が帰還し言語の専制を崩壊させるのである。だから「感じたままを語り合おう」となる。

もちろん社会的・政治的な解釈も可能である。言語は上層階級・貴族階級である(事実、現実においてエリート層しか言語を運用できない)。これに対して身体は庶民であり、さらには奴隷あるいは獣的存在でもあるが、この身体に光をあて、身体の反乱をうながすようなところがこの劇にはある。もちろん、そのような解釈あるいはアレゴリーもまた、言語操作による虚飾であり虚妄でもあり、その廃墟に、実存的リアル、言語と身体のゼロ度が登場することのほうが重要かもしれないが。

もし重要なら、この『リア王』は、〈反・言語〉と〈身体の復権〉を生起させる、むきだしの何もない舞台を志向していることになる、まさにそれは反演劇そのものでもあるのだろう。

なおこれは致命的なものでもなく、むしろ、理不尽なないものねだりかもしれないし、私自身、ではどうするのかと言われても解答がないのだが、リアの最後の台詞をおぼえておいでだろうか—死せるコーディーリアにむかって「おまえは息を止めたのか?もうもどってこないのか、二度と、二度と、二度と、二度と!……これが見えるか?見ろ、この顔を、この唇を/見ろ、これを見ろ!」(小田島雄志訳)と語るのだが、「……」で示したところに、次のような台詞がある――「頼む、このボタンをはずしてくれ。ありがとう。」と。

今回の上演には、この台詞はあったが、誰もボタンをはずさないので(というかそもそもリアの着ているものにボタンはないように思われた)、「ありがとう」というのかカットされていた。

では、これは何か。実は、リアは嵐の夜に半裸の乞食のトムの姿をみて、このあわれな二本足の動物こそが人間のリアルな姿だと言い、自分も服を脱いで裸になろうとするとき、「このボタンをはずしてくれ」と語る(第3幕第4場)。リアに裸になられては困るので、このときは誰もボタンをはずすことはない。

この場面とリアの最後の言葉の「ボタンをはずしてくれ」は響きあっているのかもしれない。哀れな裸のトムを見たときの光景が、コーディーリアの死体を前にして蘇ったのかもしれない。ただ、それにしても紀元前数世紀の昔のリアの時代にはボタンなど発明されていない。したがってこれはとんでもないアナクロニズムなのだが、それは無視しても、ボタンでとめてあるために襟とか袖口が苦しいのかもしれない。その苦しさから逃れようと、リアの最後の絶命する直前に、こんな散文的台詞を入れてしまった。

おそらくここには身体の反乱がみてとれる。私たちは誰でも精神が身体をコントロールする例を体験したことがある。たとえば悲しいことがあったり、衝撃を受けたりして、精神的に落ち込むことがある。精神的に落ち込むと、食欲がなくなり、食べ物・飲み物が喉に入らない。そのため衰弱するが、それでも食欲はない。そうしてあとは死を待つしかない……かというと、そうでもない。

どんなに絶望して食欲がなくなっても、そのまま餓死することはまずない。身体が反乱する。食事なんかしたくない、このまま餓死してもいいと思っても、身体が反抗し、端的にいって、お腹がすくのである。身体は、精神的衰弱の巻き添えをくって、身体的衰弱を受け入れることを断固として拒む。精神と身体――明確に加齢の影響を発現させるのは身体のほうだが、そのくせ身体は、精神とちがって成熟も円熟も知らない、成長も学習もせず、ただ苦痛を嫌い快感のみを貪欲に追求する。身体はわがままな子供であり、ただの耄碌老人にすぎない。そして精神が疲弊し絶望の淵にあるとき、唯一頼れるのはこのわがままな子供である身体なのである。身体こそが最後の希望となる。身体こそが私たちを生へと引き戻す。

繰り返すが、リアがコーディーリアの死体を前にして悲嘆の極みに達し、臨終の間際に最後の力を振り絞っての辞世の句ともいえる台詞を発しているそのさなかに、着ている衣服のせいで首筋が痛いか苦しくなるというのは、なんというアンチクライマックス、なんというベイソス(ペイソスではなく)――だがそこにこそ、生きている身体の最後のあがきがみてとれ、そこにこそ、たとえ臨終のときであっても息づく生の鼓動が感じ取れるのだ。だからこそ、リアはコーディーリアがまだ生きているという幻想にとらわれる――「これが見えるか?見ろ、この顔を、この唇を/見ろ、これを見ろ!」と。

つまりまだ生きているとリアが思い込んだコーディーリアの死体は、リア自身の身体とも共鳴する。リアの身体はまだ生きようとしている――コーディーリアの死体はまだ完全には死んでいない、生きようとしている。たとえどれほど絶望しようとも、私たちの身体は、その痛み、かゆみ、こそばゆさ、寒さによるふるえやこごえ、熱さによる発汗やほてり、もちろん空腹や乾き、息苦しさなどをとおして生きている証を伝えている。この身体の自己主張に精神は抵抗できない。そして身体による生への執着こそが、疲弊した精神のなかに生きる希望を育むのである。

『リア王』は、いかなる苦難にも負けない魂のドラマではない。いかなる苦難においても生を主張しつづける身体のドラマなのである。そのような身体とシンクロせよと魂に命ずるドラマなのである。

今回の上演では、リアの最後の「ボタンをはずしてくれ」は、死にゆく老人の無意味な独り言のような扱いであった(すでに述べたように、ボタンのある衣服ではなく、また誰もボタンをはずそうとしなかった)。だからその演出は致命的ではないが問題があるなどとい語るつもりはない。そもそも、ほんとうにボタンをはずす演出など、私は舞台で観たことはない(あらゆる『リア王』の舞台を観ているわけではないので、そのような演出があったかもしれないが)。またそれを舞台でどのように示すのかについても、私は何の代案もない。またもしほんとうにボタンをはずす演出があったのなら、それはあとで問題を提起する刺激的な演出となるかもしれないが、その場では違和感マックスの大惨事となるだろう。

だから、リアのボタンははずさないほうがいい。しかし、頭の中では、ボタンをはずすという所作にボタンをかけないで、ボタンをはずしてもいいだろう。
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2026年04月26日

『夢見るチェリー』

本多劇場で、ロバート・ボルト作『夢見るチェリー』(小田島恒志訳、早船聡演出、加藤事務所公演4月15日~23日)を観る。

いまになってこの作品を劇場で観ることができることに、深い感慨を禁じ得ない。というのも、この作品は私にとってなつかしい作品で、学部学生だった頃、英語の授業がなにかで、この作品を原文で読んだからである。Flowering Cherry――当時は『花咲くチェリー』のタイトルで知られ、英語の教科書になっていたその作品を教室で読んだときには、文学座の北村和夫主演の舞台がすでに評判になっていた。

今の若い人たちにとってロバート・ボルトは誰だということになろうが、映画にもなった『わが命つきるとも』で有名な劇作家だった。映画版『わが命つきるとも』は、それほどでもないが、原作の戯曲のほうは、それはそれは台詞が難解で、最初に原文で読んだとき私にはとても歯が立たなくて、もののみごとに返り討ちに会った。そのロバート・ボルトが家庭劇を書いている。これがそれかと読みながら驚いたことがある。

さらに今の人たちにとっては北村和夫とは誰だということになろうが、文学座に所属していた名優(1927.3.11 – 2007.5.6)で、舞台、映画、テレビ(大河ドラマには14回出演!)で活躍。俳優の北村有起哉の父親である。Wikipediaには「1965年に初演した『花咲くチェリー』のチェリー役は当たり役で、上演回数は400回に達する」とある。残念ながら舞台をみていないのだが、翻訳・演出をした木村光一が『花咲くチェリー』の舞台について書いていた文章を読んだことがあって、火かき棒のような鉄の棒を渾身の力でもって曲げるその姿にこそ(舞台を観た人には何のことかわかる)、劇の主題とエネルギーが集約されているというようなことが書かれていたと思う(なお翻訳には小田島雄志訳もあった)。私にとって『花咲くチェリー』といえば、火かき棒を体の前で渾身の力でもって曲げようとする北村和夫(ただし実際に舞台で観たことはないのだが)なのである。

英語の教科書版の『花咲くチェリー』(朝日出版社)は、今も持っている(おそらく探せば出てくると思うのだが)。そして今回の加藤健一主役の舞台は面白くないわけがない。きっと感動的な舞台だろうと予想した。もうひとつ、芝居の内容からして高齢の観客にアピールするものがあるから観客には高齢者が多いだろうと思っていたが、予想は的中した(ただし、若い人たちがみても面白く満足できる舞台だと思う)。そしてまったく予想通り、加藤健一の熱演によって、舞台には、まぎれもない花咲くチェリー、ジム・チェリーが降臨した。

最近の舞台公演ではプログラムが高くなって2000円のプログラムを私は先週二つの公演で購入した。その点、加藤事務所の公演プログラムは良心的で、600円。しかも内容は必要な情報が過不足なく入っていて観劇の助けになる。俳優のこともよくわかる。座談会もまた刺激的である。

ただし、この有益なプログラムのどこにも触れていないことがあった。私はこの作品は今の目からみると、男性それも家父長の弱さやもろさを扱った悲劇的あるいは悲哀に満ちたドラマであって、男性ジェンダー劇ではないかと思っている(残念ながプログラムはこの点に関するコメントはなかった)。大言壮語し夢ばかりみて、現実に直面しようとしない男――まあ人間誰しもそうなのだが――が、最後に破滅するとはいえ、そこには愚か者の死への憐れみや批判だけがあるのではなく、むしろそこに避けられぬ運命、人生の真実があるのではないか。

誰もが果樹園の夢をもっている。しかもそれは夢としてあこがれのままとどめておくしかない夢であって、それを実現しようとするとき、夢は実際に破れる前に破れてしまうのである。

またこれは家族の物語である。妻がいる。思春期というか成人になろうとしてる息子と娘がいる。自分から辞表をたたきつけて会社を辞めたのに、それを妻に言い出せずに、毎朝、家を出て暇をつぶしている。そしてその嘘が妻にも子供にもばれてしまう。お約束の展開かもしれない。しかし、これはある意味、また意表を突く指摘かもしれないが、英国版あるいはボルト版『セールスマンの死』である。

アーサー・ミラーの『セールスマンの死』(家族構成は、夫と妻、ふたりの息子)が、庶民もまた悲劇の主人公になりうるのかという挑戦的作品であり、そのなかでアメリカン・ドリームという、アメリカ人に宿痾のように取り付いている成功の夢の虚妄が暴かれる。自己欺瞞と妄想的夢想と現実逃避。だがこの救いのない悲惨の極みの中に残るかすかな人間性の光、いやそこから垣間見える人間的偉大さが、ウィリー・ローマンを古代ギリシアの神話的英雄たちと同期させる。いっぽう『夢見るチェリー』は、そこまでの負の崇高性はないとしても、夢と現実、個と社会、親と子供の対立が、相反するのではなく常に表裏一体化しているという、人間のありようと真実を暴き出す。それはまた、救いなきところに救いを、希望なきところに希望を見出すような、決して消滅しない悪あがきのなかに、人間のかろうじて残る偉大さをかいまみせることになる。

ちなみに、そこから日常性に潜む崇高性なり偉大さを取り去ったらどうなるのか。ボルトのこの劇(1957)の数年後に上演された不条理劇の傑作がある。ハロルド・ピンターの『管理人The Caretaker』(1970)――このなかで、衣食住を援助されるようになるホームレスの男が、自分の本名とか自分の経歴、要は自分のアイデンティティは、シドカップ(大ロンドンの南東部の地名)に行き、そこにある書類によって証明できると口癖のようにいう。だが観客は、あるいは他の登場人物も、シドカップにまつわることが虚偽であり、自己のアイデンティティの不確かさを隠蔽する虚妄の場所であることは容易に理解できる。このシドカップこそ、ジム・チェリーが語る果樹園である。幸福な子供時代の想い出の場であり、また未来にサマセットに実現すべき楽園としての果樹園。この夢あふるる果樹園幻想から虚飾をはぎ取り、それを無意味な記号あるいは地名へと還元するとシドカップが出現する。果樹園幻想には、妄想であっても花が咲く。だがシドカップ。それはなんだ。ピンターの不条理劇は、むきだしの妄想を前景化している――ああ、シドカップ。

『夢見るチェリー』は(これもまたプログラムでは触れられていないのだが)父親の悲哀を前景化している。虚勢をはり、力強さの誇示から逃れられない父親がいるいっぽうで、母親と息子と娘は、仲がいい。母と子供たちは、口に出さなくても、強い信頼と愛で結ばれていることがわかる。ふつうの家庭はそんなものだろう。だが家父長として煙たがられ、どうしても宙にういてしまう父親は、母親と子供たちとの情愛に満ちた信頼関係に割り込めず、虚勢をはるばかりで、結局、敗れ去るしかない。くりかえすが、これが多くの家庭における常態であろう。だがストリンドベリの有名な『父』という劇は、これを悲劇の出発点としている。仲のいい母親と娘を前にして、けむたがられる父親は、妻の不貞を疑い始め、娘がほんとうに自分の子供かわからなくなる。猜疑心と嫉妬に懊悩するなか、ついに父親は発狂し心臓が鼓動をとめる。

『夢見るチェリー』のチェリーにとって父親あるいは男性ジェンダーのよりどころとなるのは、幻想の果樹園のほかに、力自慢という肉体性である。だが、その肉体性が彼から命を奪く。火かき棒を曲げられるという力自慢こそ、チェリーが最後にたよるものだが、老いた肉体は、彼のジェンダー的アイデンティティを支えることはできない。力自慢に失敗したというよりも力自慢によって心臓に負担がかかって彼は死ぬ。

『セールスマンの死』『父』『夢見るチェリー』――いずれも、裏切られ、信頼を失い、絶望して死ぬ父親が登場する。『夢見るチェリー』は、父親の死という男性ジェンダー劇にさおささす作品であることはまちがないだろう。

だが、それはまた21世紀になると事情はことなってくる。もはや、父親中心に悲劇を組み立てることが不可能になっている。時代がそれを許さなくなっている。流行ではなくなったというのではない。ランダムにあげたこの3作(『セールスマンの死』『父』『夢見るチェリー』)は父親の悲憤と絶望による死で閉じられる。しかし、現在においては父親は家族をまきぞえにする。FamilicideあるいはFamily annihilationの時代が、父親の死で閉じられる演劇を一昔前のものに変えたのである。

『夢見るチェリー』の翻訳は小田島恒志氏によるものである。しかし同時期、子息の小田島創志氏の優れた翻訳による『ガールズ&ボーイズ』が公演中でもあった。こちらは女性(真飛聖と増岡裕子のダブルキャスト)による一人芝居だが、タイトルからして、中年女性の、恋バナかと思われる芝居だが、中身は、深刻なFamilicideあるいはFamily annihilationの話である。事業に失敗し夢破れた父親が実の子供二人を殺害する。この物語を、ジム・チェリーの場合のように、父親中心にして、もしかしたら父親が語る独り芝居として組織することも可能ではない。だが、今の時代に、そんな芝居を誰が観たいか。まさにこの時期、京都では父親が息子を殺していた。あるいは同時期、愛知県安城市では父親が妻と娘を殺していた。もしジム・チェリーが追い詰められて妻と子供たちを皆殺しにしていたら、『夢見るチェリー』は観るにたえる芝居になっていただろうか。神のものは神に、カエサルのものはカエサルに、20世紀の芝居は20世紀に返還すべきであろう。【なお『ガールズ&ボーズ』については記事を準備している】

プログラムにある座談会のなかで小田島恒志氏は、この戯曲の翻訳を依頼されたと語っている。ただ、それだけを。しかし、この作品には御父君の小田島雄志氏の翻訳がある。初演であろう木村光一訳は、出版はされていないと思う。そして小田島雄志訳に問題があるとも思えないので、あえて新訳を出さなくてもよいのでは(小田島雄志訳のシェイクスピアはいまでも上演されている。小田島訳を好む劇団や演出家もいる)。またタイトルも長らく親しまれてきた『花咲くチェリー』から『夢見るチェリー』に変えられた。この間、小田島恒志氏が御父君となにか相談されたか、助言があったのか、そのところを知りたいものである。小田島雄志氏は、『花咲くチェリー』というタイトルが気に入らなかったが、初演から『花咲くチェリー』で通してきたのでやむをえずそうしたが、今回、ご子息が新訳をつくられるというので、タイトルも変えるように助言されたということは充分に考えられる。もちろん私の勝手な想像であって、『花咲くチェリー』を気に入らなかった恒志氏が、ただタイトルを変えただけということも十分に考えられる。

たしかにリンゴの木の花が咲き乱れるという幻想とともに死んでゆくチェリーにとって、咲くのは桜(チェリー)ではなくリンゴなので、『花咲くチェリー』ではなく、『花咲くリンゴの木』がタイトルにふさわしいのかもしれない。あるいはチェリーを残すのなら「夢見る」と表記して、桜のイメージが残らないようにしたほうがいいかもしれない。しかし、桜の花の満開のイメージの方が、ぴったりというよりも、ずれていて不安定であるがゆえに、タイトルにふさわしと思う。タイトルにはぴったりなものをつけるべきだという考えにしたがえば、「夢見るチェリー」よりも「花咲くチェリー(原題に近い)」のほうが、まさにぴったりではないがゆえに、その齟齬なり不安定さ、虚妄性が、内容にぴったりということになる。私は『花咲くチェリー』に一票。
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2026年02月18日

『またここか』2

2月15日の記事の補足を。

『またここか』は、最初、夏の日のガソリンスタンドに、その店主の兄だという人物(腹違いの兄らしい)が現れ、父親が入院中なのは医療事故の疑いがあり、病院を訴えたいと、その兄が提案するところから始まる。

しかし、ここを発端として事態は思わぬ方向にすすみ、隠されていた事情なり出来事があらわになり、剣呑な事態へと発展する。お人好しでどこか抜けている店主/弟は、父親の介護に疲れ精神に異常をきたしていることがわかる。弟は兄とはまったくの初対面であるようにふるまっているが、実は、兄のことはよく知っている。またその兄が連れてくる病院の看護師と、その弟は隠しているが、恋愛関係にあった。兄は小説家だが、その小説が問題を起こし、小説家としての仕事がなくなり、離婚した妻との養育費でお金が必要であり、それで病院を訴えようとしていることがわかる。この兄はほどなく弟の殺人衝動を発見する。弟は連続殺人犯かもしれないと心配になる。

いっぽう弟のほうも自分の抑えがたい危険な衝動におびえ、兄に相談する。小説家の兄は、危険な衝動を処理するために、すでに行なった行為なり犯罪を書き、そしてそれを抑止できたからどうなっていたかを、同じ紙に書き記すこと提案する。実際に起った事件と、それを別のものに昇華した物語を書くことで精神のバランスを保つようにと弟に忠告する。また自分もそのようにして小説を書いてきたのだと兄は言う。

そして最後の第5場。最初と同じガソリンスタンドでのやりとりがはじまる。最初の場面とは異なり、なにか狂気じみていたり、攻撃的だったりした人物の言動は、消え失せ、礼儀正しく思いやりのある人間関係がすでに築かれていたり、これから築かれようとしていることで幕。

この第5場をどう考えるかによって、このドラマの解釈がわかれると、2月15日の記事には書いた。

その時私が考えたのは、この第5幕は、弟が兄にすすめられて書いた小説の場面であるということ。それも実際の事件とは見かけは同じでも、根本は異なっている。そこにあるのは望ましく平穏な日常であり交友関係である。これは現実のユートピア的を理想化であって、自らの危険な衝動を抑えた弟が夢見ているか望んでいる世界だと、そう考えた。

私は、この解釈は有効だと思っているが、しかし、べつの解釈もある。やはりお前の頭のなかは、お花畑だと批判されないように、別の解釈を記しておきたい。

このドラマのなかでガソリンスタンドの店主である弟のほうは、最初のうちは、お人好しでちょっと頭のにぶい男だという印象をもつが、次第に、変人であることが露呈し、さらに変人を通り越して偏執狂的な危険な人物だということがわかってくる――ここまでが第一場。そのあとの場面では、この弟はただ頭のおかしい人間ではなく、殺人衝動を秘めた危険かわまりない人物であることが露呈する。もちろん、本人もそのことで悩んでいる。その悩みを解決するために、弟に殺人を犯させないために、兄は先ほどの述べたような小説を書くようにすすめる。

となると、これは一種の「じゃじゃ馬ならし」劇である。危険な、凶暴な欲望なり衝動を内に宿すだけでなく実現しないと気のすまない人間。社会に害をなす邪悪な人間をどう抑え込むか。たとえそのエネルギーを善用できなくとも、とにかく抑止できればよい。そのためにどうするのか。その解答と結果がここにある。

もちろん小説を書くというのではなく、もっと非人道的な手段で危険な欲望を抑え込むことはできる。今は行なわれていないがかつて精神病患者に行なわれていた前頭葉切除手術、あるいはテロリストや犯罪者の精神を破綻させ従順な家畜にする洗脳――オーウェルの『1984』に登場する「101号室Room 101」で行なわれているような。

そう、このドラマのプロットの原型ともいえるのは、危険な犯罪者や犯罪者気質をもった人間を、洗脳して社会性をもつ従順な人間へと変えることであり、このドラマの「ガソリンスタンド店主/弟」は、最後に、前頭葉を切除された廃人、あるいは心の折れたウィンストンである。

最後の場面は、このガソリンスタンド店主・弟/ウィンストンの脳内劇場ともいえるものかもしれない。いや、そのような特定の人物の視点的世界ではなくて、それはもっと非人称的な観点からの世界像の提示ではないか。もし彼のように治療あるいは洗脳されたら、またそれを実現するのが正常な規範的な世界のありようだとしたら、そこから生まれた世界とは、これだというかたちで最後の場面が始まる。

第1場と同じ設定、同じ人物、そしてほぼ同じ展開であるがゆえに第5場は、その差異も際立つ。第1場から始まる芝居は、滑稽で、不条理で、深淵で、悲劇的でもあり喜劇的でもあり、希望もあれば絶望もあり、不安あるいは恐怖が充溢し……、とにかく、そこには、変な癖と、強烈な毒があった。それがどうだ。第5場――毒気をぬかれ、平穏だが平凡でありふれた日常。もうこんな退屈な、ドラマともいえないドラマは観ていられるか。これでいいのか、と作劇者たち(作者や演出家や俳優たち)が観客に問いかけているように思われる。

荒井遼氏の演出の舞台では、最後の第5場では、ひまわりの花が舞台周囲を取り囲む。15日の記事では、これをユートピア的なものの実現と考えた。ひまわりたちはそれを祝福しているようにもみえる。しかし、見方をかえれば、このひまわりは、実に白々しいユートピア、いやディストピアを暗示する皮肉な装飾かもしれない。おそらく作者のいう「バッドエンド」とはこのことだったのかもしれない。

とはいえ、この劇そのものは、そのような非人道的拷問・洗脳過程を提示しているわけではない。危険な欲望の抑え方は、もっとゆるやかで人道的であり、欲望を完全に押さえつけるのではなく、欲望から逃げず、欲望に向き合いながら対処する方法を提示していることもまた確かである。

第5幕は、単純化すれば、ユートピアなのかディストピアなのか。その選択は観客にゆだねられているのだろうか。いや、観客としては、その選択をゆだねられても困る。選択などできない。それは劇を作る側もわかっているだろう。二つの可能性があること。二つの可能性が点滅すること。楕円のように中心が二つあること。だから観客は選択を迫られるのではなく、選択肢があることを見極めるよう求められているのだ。それはまたドラマ一般の意義でもある。
posted by ohashi at 11:42| 演劇 | 更新情報をチェックする

2026年02月15日

『またここか』

作:坂元裕二、演出:荒井遼、キャスト:奥野荘・馬場ふみか・永瀬莉子・浅利陽介、座・高円寺1、2月5日~15日。

少なくとも1週間前に観劇し、舞台の感想を述べる予定が、インフルエンザのため、ようやく14日に観劇することができた。本日は最終日、どんなに褒めても宣伝にはならないのが残念だが、しかし、宣伝するまでもなく、私の観た回は、満席だった。

劇場に入ると、そこには原作で読んだガソリンスタンドのサービスルームがリアルに出来上がっていて、思わず引き込まれた。と同時に、舞台の奥にも客席がみえる。舞台奥に鏡でも設置されているのかと思い、そこに着席する自分の姿が映っているかどうか確かめようとして、鏡でないことに気づいた。舞台奥にも、階段式の客席が設けられていて、二つの客席エリアで舞台を挟むことになった。

座・高円寺1は、劇場としてみると、中劇場か大劇場に匹敵する広い舞台と、小劇場規模の階段状の客席という配置となっており、広い舞台をどう使うかは、演ずる側にまかされているのだが、ただ小劇場規模の観客に対して舞台が広すぎると感ずることもある。今回は、広い舞台の半分を演技スペース、残り半分を客席として使い、通常の倍の客席を用意することになった。8年前の初演は観ていないのだが、おそらく今回が初めて試みだろう。再演とうたっているが、演出家も俳優も異なる、リブート版というべきものだろう。

原作(リトルモア、2018年)の帯には「父はなぜんだのか――ドロリとした状況と、反比例する小刻みな笑いの。滑稽なの物語。」とある。また後ろの帯には「ミステリアスな夏の一幕」というフレーズもみえる。確かにそのとおりで、最初はとまどいながら見始めると、目が離せなくなる。なぞがどんどん深まり、真相らしきものが見えてくると、そこに救いがないこともわかり、むなしさを感じつつ、最後は、なにかほっこりする。相反する要素がせめぎあいながら進行する不条理劇のようでもあって、観る者の解釈によって劇は様相を変える。

オールカラーのパンフレットはよくできていて情報量も多く読みごたえがあるのだが、そのなかで原作者の坂元裕二氏が、自身のこの作品を「バッドエンド」と考えていることだ。(今回の公演中、ご本人がアフタートークされていたようだが、それは観ていない)。むしろ、この作品は、救いのなない悲惨な状況を提示しながらも、同時に、救いとなるような結末を提示していないだろうか。観客の解釈にゆだねられているとはいえ、この作品を「バッドエンド」と思う人は、少ないのではないだろうか。

かつて戦前のアメリカの新批評では、「作者の意図を考慮する誤謬」(Intentional Fallacy)ということを主張した。作品の解釈や批評を行なうとき、作者の意図は無視してよい。そうしないと作品本来の意味を見失い、作者の勝手な意図にふりまわされることになる。そもそも作者の意図通りに作品が出来上がったかどうかは不明だし、作品には、作者の意図とは無関係に、内在的意味を宿している。作者とは作品の解釈や批評にとって障害でしかない。もちろん、人間が作ったものは、なんであれ、そこに意図というものがあるはずである。もし宇宙人が地球にやってきて、地球文明を理解しようとするのなら、自然物と人工物を区別し、人工物が何故何のために作られたのかを理解しないと混乱するしかないだろう。どんなものにも意図はある。しかし、芸術作品の場合、作者の意図は絶対ではない。むしろ受容者(読者や観客)が把握した意図の方が優位に立つべきである。私は個人的に作者というのは「歩くインテンショナル・ファラシー」だと日ごろから思っているので、今回、作者の坂元氏がどのように考えていようとも、この作品はバッドエンドではないと私は自信をもっていってのけられる。

劇中で小説家の根守真人/浅利陽介が語っているように、物語には「はじめ」と「終わり」、そしてそれをつなぐ「中」がある。この劇の最後の場面は、この劇のはじまりの場面とほぼ同じ(異なる部分もある)であって、「終わり」に「はじまり」が来てしまう。もちろん、物語それも終わりを見出せない物語を終えるときの一つの原則は、最初にもどることである。だから「最初」にもどる「終わり」方は、決して珍しいものではないのだが、この最初にもどった最後の場面は、唐突すぎて問題である。それは『またここか』というタイトルとも関係しているのかもしれないが……。

【この演劇作品の最大の疑問は、そのタイトル「またここか」である。パンフレットでもタイトルについて聞かれた坂元氏は、こう答えている。
タイトルはストーリーを書く前から決めていたんです。……僕の心の口癖なんですよ。いつも思うんです、「またこれか、またここか」って。結局新しいことってそんなに起きない。新しいいって十代の頃までの話で、そこから先は大体、「またここか」が続くから。仕事の面でも、生活の面でも、常に新しいことをやりたいけど、またここかってことが何回も起きて。でも、何かちょっとでも今までと違うことを見つけようと創意工夫して、少しでもまたここかって思わないうよおうにしているというか。ま、愚痴みないなタイトルですよね(笑)。

ああ神様、この悪魔みたいな坂本氏の首を絞めてもいいですか。】

最後の場面(第5場)をどうとらえるかで、この劇の意味がかわってくると思う。

すでに述べたが最後の場面は最初の場面と同じ、あるいは差異も含むから、焼き直しである。そうだとしても、なぜこの場面が最後に置かれているのか。基本的に最初の場面と同じ展開をするこの場面が、なぜ。

ひとつの解釈は、この場面は根森真人/浅利陽介が、弟の近杉祐太郎/奥野荘に書くようにすすめた小説の場面である。実際、前の場面の最後で根森/浅利は弟の書いた原稿の最初を朗読しながら退場する。その最初の部分が次の場面で劇として示されるのである。この最後の場面は劇中劇という面もあるのだろう。【もちろん、弟に小説を書かせるところ、そして最後の場面も、実は兄の夢という解釈も成り立とう。何しろこの兄は、よくしゃべるが、同時によく眠るのだから。】

ちなみにこの兄がなぜ弟に小説を書くようにすすめたかというと、弟の反社会的な暴力的な衝動を抑えるためである。根森はいう:「……全部文章にするの。やっちゃったら駄目なこと、人に迷惑をかけそうになった時【中略】、そういうのを書いて、全部そこに、そこに吐いて、小説みたいにするの。」(p.164)「小説に書くのは二つのこと。本当はやっちゃいけないこと。もうひとつは、もう起こってしまった、どうしようもなくやりきれないことをやり直すってこと。そういうことを書く。そこに夢と思い出を閉じ込める。それが、お話を作るっていうこと」(p.166)と。

したがって最後の場面は、弟の近杉が書いた小説の世界の舞台化である。そこでは店主の近杉とアルバイトの宝居鳴美/馬場ふみかが暇を持て余しつつ戯れているが、そこにとげとげしくぎすぎすした感じ、無理やり感のある笑いは存在しない。危険な欲望と法との弁証法的関係ではないが、法があり禁止がある限り、不穏で危険な欲望が生まれる。そのためそれを抑圧するため法が強化される。そこでますます危険な欲望が抑えがたくなる。むしろ禁止を緩和し自由な放任状態が実現すると逆に危険な欲望が消滅する。弟で店主の近杉が望んでいたアルバイトとのゆるやかな関係が実現する。

そこにメイド姿の女性/永野莉子が登場する。違和感のあるその姿も、近所の喫茶店の制服であり、ガソリンスタンドを探していた客を案内してきたのだとわかる。その客とは、兄の根森/浅利陽介であり、彼は自分が兄であると礼儀正しく自己紹介し、長年父の介護をしてきた近杉に礼の言葉を述べ、入院中の父親のもとにいっしょに見舞に行きたいと申し出る。近杉が望んだような、兄、その紳士的で礼儀正しい物腰と、弟の労をねぎらう謙虚で人間味のあふれる性格。すべて近杉が望んだことだった。最後の場面は、すでに犯した犯罪や危険な欲望の成就を、彼、近杉が、望ましいかたちに書き直した世界なのである。

これはけっこう容易に実現できる世界でもある。もしそれが気味の悪いほど実現不可能な世界、ユートピア的パラレルワールドであったらな、綺麗すぎて、幸福すぎてうそっぽく、まさにバッドエンドだといってもいいが、そうではなくそれは、バッドエンドを抑止するための防衛手段でもあって、その非現実性が現実的な効果を生むとわかるのである。近杉の夢想は、抑止効果がある。不穏な現実を、危険な欲望を腐葉土として、そこに花を咲かせることができたのだから。

これがバッドエンドなのか。今回の舞台では、最後の第5場には、原作にはないひまわりがガソリンスタンドの周囲に植えられている。黄色いひまわりで飾られた舞台。演出の荒井遼氏の舞台を知る者にとっては、これは、荒井氏の舞台のどこかで、あるいは荒井氏の舞台では必ずおめにかかる、まさに荒井遼・印といってもよい装飾と意匠である。荒井氏はこれをありえないユートピア的幕切れを暗示するためのわざとらしさを伝える仕掛けとしたのだろうか。それとも、おそろしい暴力と欲望の渦巻く世界を腐葉土して咲きほこる花という私たちの平穏な日常のありようと伝える仕掛けとしたのだろうか。

なお、結局は同じことかもしれないが第5場はガソリンスタンド店主のユートピア的夢想ではなく、むしろ現実そのもの、平穏だが、ありふれたドラマにもならない日常なのかもしれない。これが現実であり、第1場から第4場まで展開してきて事件は、すべて店主が夢見てきた悪夢、いや特定の個人の夢想を超えた、一般性を帯びる事態とみることができる。現実は平穏無事でありきたりで万事順調である。しかし、それはつねに悪夢の上に成立する砂上楼閣のようなものである。悪意と殺意、欲求不満と制御しきれない欲望、自暴自棄と殺人衝動が休みなくうごめく悪夢の世界が、いつ平穏な日常を突き破り噴出してきてもおかしくない……。

だから私たちの世界にヒマワリは咲く――絶望と希望に支えられながら。

付記
はじめて原作を読んだがとき、ガソリンスタンドのアルバイトの女性がもっているハンドスピナーというのが何かわからなかった。ガソリンスタンドで使う工具のようなものかと思っていたのだが、調べてみてそうではなかった。:Wikipediaによると
2016年末から米国で流行し始めた。【中略】2017年3月28日にYouTuberのセイキンが「アメリカで大人気」「ハンドスピナーとはなにか」と説明する動画を公開しており、この動画がきっかけとなり、日本でも爆発的なブームになった。【中略】日本では2017年秋頃にブームが終焉している。

とある。
原作ならびに初演時の2018年にはブームが終わっていたようだが、恥ずかしながら、私はハンドスピナーの存在も、ブームがあったことも全く知らなかった。ただ、今でも手に入るので(ブーム再来なのか、細々と売れているのかは不明)、どんなものか購入してみた。う~ん、これのどこが面白いのでしょう。

おそらく現在の若者たちも、ハンドスピナーについては知らない者が多いのでは。そのため今回の公演ではハンドスピナーをどう扱うのか興味を持ったのだが、原作どおりに、ハンドスピナーを回す、アルバイトの女性が登場した。となると逆に、それをみた若い観客層、あるいはその存在もブームも全く知らなかった私のような老人たちは、それをどう受け止めたのだろうか。興味がわいてきた。異世界感を抱いたのだろうか。
posted by ohashi at 15:29| 演劇 | 更新情報をチェックする

2026年02月10日

デュマ『アントニー』 アントニー劇1

1月26日の『役者になったスパイ』に関する記事のなかで、アントニオとセバスチャンのペアは中世以来、西洋ではペアになって描かれることが多いことを指摘した。西洋の初期近代におけるシェイクスピア作品ではアントニオとセバスチャンのペアがゲイ・カップルとして登場する。その際、セバスチャンはゲイのアイコン的存在だから、あえて指摘するまでもないのだが、アントニオは、ゲイであれ、そうでなくとも、特徴的な性格付けがなされている。この映画においてシェイクスピアの『十二夜』のアントニオと、そのアントニオの役を割り振られる警察のスパイの男性も、片やゲイ、片やヘテロではあっても、なにか共通の性格類型のようなものを認めることができる。今回は、その答え合わせをしてみたい。

アレクサンドル・デュマの戯曲『アントニー』である。私は、この戯曲の存在を知らなかったのだが、今回といっても、少し前のことだが、翻訳で読んでみて、主人公というかタイトル・ロールのアントニーが、いかにもアントニーしているので驚いた。

その前におことわりせねばならないのだが、Amazonでこの戯曲をみつけ、タイトルに惹かれて、電子書籍版を購入した。アレクサンドル・デュマ『アントニー 五幕散文ドラマ』中田平訳(デジタルエステイト2014)である。フランス文学の専門家ではなく、フランス文学の翻訳事情をよく知らない私にとって、この演劇作品の翻訳は、見知らぬ翻訳者と出版社、そしてださい表紙(失礼)によって、過去それも版権の切れた古い翻訳を電子書籍化したものと思った。失礼な話だが。

しかし読んでみると、わかりやすいりっぱな翻訳で、ゆきとどいた解説にも驚いた。つまり、これは過去の翻訳の電子書籍化ではなく、新しい翻訳であって、調べて観ると紙媒体でも販売されていた。また翻訳者の中田平氏は、愛知県安城市にあるデジタルエステイト株式会社から電子版と単行本の二種類の書籍を販売していることもわかった。デュマのこの『アントニー』は日本初の翻訳のようで、それだけでも価値のある本である。中田氏はデュマの戯曲を次々と翻訳されている。その仕事というか業績が広く知られるとよいと思う。実際、デュマの戯曲は面白い。

その戯曲の内容だが--アデル・デルヴェーのもとに三年前に姿を消したアントニーが手紙を送り、自身もやってくる。二人は相思相愛の仲だったが、アデルは両親が望むデルヴェー大佐との結婚に応じ、今は娘がいる。いっぽうアントニーは私生児だったこともありみずから身を引くのだが、アデルへの思いが絶ち切れず三年ぶりの訪問となる。しかしアントニーに会いたくないアデルは馬車で外出。そのとき馬が暴走、そこにとおりかかったアントニーが身を挺して馬車を止め、アデルを救うが自身は大怪我をして、アデルの家に運び込まれ、そこで再会となる。

結婚し娘もあるアデルは、かつての恋人アントニーを避けるのだが、アントニーへの恋心が再燃しアントニーに身をまかせるまでになる。そのことが社交界で噂になり、最後にはアデルの夫がストラスブールからパリにおけるアデルの居室へとかけつける。せっぱつまったアントニーとアデルは駆け落ちをしようとするが……。

なおロマン派演劇であって、三一致の法則は守られていない。場所も第一幕・第二幕はパリ、第三幕はストラスブールに近い宿、第四幕と第五幕はパリとなる。第一幕から第五幕の間に5か月経過する。なお幕と場面分割については、各幕は同じ場所というか同じ部屋で展開。登場人物の数に増減がある場合に場面がかわる。この点で古典主義演劇の作劇術を踏襲している。ちなみにシェイクスピアはこの方式をとっていないが、同時代の劇作家・詩人のベン・ジョンソンの演劇は劇作家が古典主義者を標榜しているだけにこの形式を遵守している。

読みやすくわかりやすい翻訳なので、作品を理解することは容易である。問題はアントニーがどこまでアントニーかである。

比較のためにシェイクスピアの『十二夜』のアントニーを例にあげる。

アントニーの出自は問題がある。デュマの『アントニー』では主人公は私生児ということで自身の家系を知らない。財政的援助を受けていて金に困らないようだが、誰から援助を受けているかはわからない。また母親も父親もわからず、孤児に近い。本人もそのことを嘆いている【『十二夜』のアントニーは船乗り・船長で、出自そのものは特に問題はない。】

その出自のせいもあって、アントニーは社会のなかで、自身の正体をカミングアウトできない秘密のアイデンティティを保持することになる。その私生児であることから、負い目を感じ、うしろめたい存在となる。【『十二夜』のアントニオは、イリリアとは敵対関係にある国の出身で、身分・出自を偽ってイリリアに上陸し、愛するセバスチャンを人目を忍びながら守ろうとうる。『役者になったスパイ』においても警察官であることを隠して劇団のエキストラになり、やがてアントニオ役をまかされる。アントニオは、その真の隠れた姿と合致する。】

アントニーは、自身が愛する者に対しては激しい情熱でもって接する。出自に問題があり、、身分などを偽っているために、そのぶん愛情と愛情表現がエスカレートしがちである。愛のためにはなんでもする男、それがアントニーである【『十二夜』におけるアントニオにとって愛の対象は男性だが、その男性のためには何でもすることを宣言する。】

アントニーは、愛する対象に翻弄される。あるいは愛する者に裏切られる。デュマの『アントニー』は、アデルを愛したことによって、身を亡ぼすことになる。アデルは悪意のある女性ではないし、決してファムファタールではないのだが、彼女との交流によって、アントニーは自身を破滅へと追いやることになる。【『十二夜』でアントニオは、窮地に陥ったセバスチャンの助太刀をするのだが、彼が愛するセバスチャンと思ったのは、実はセバスチャンの双子の妹で男装しているヴァイオラであり、彼女はアントニオのことは何も知らず、ただ戸惑うばかりだが、アントニオはそれを裏切りと受け止める。アントニオにとっては、愛する者に裏切られたかたちになる。シェイクスピアにおけるもうひとりのアントニオ/アントニーを思い出してもいい。『アントニーとクレオパトラ』のアントニー(アントニウス)。彼がクレオパトラに翻弄されることはいうまでもない。】

アントニーは情にもろい。アントニーは感情的というか感情にゆさぶられる。それも恋愛にかかわる感情に。片想い、競争心、嫉妬、怨嗟、怨念、未練など、報われぬ愛における感情の全レパートリーがアントニーの性格表現の全レパートリーとなる。アントニーは悪人ではない。だがアントニーにはどこか弱い。感情的にも、道徳的にも弱い。その弱さと不幸がつながっている。アントニーは哀れをさそう人物なのである。

決して悪人ではないが、かといって観客からの全面的同情と共感の対象となるかというと、そうでもない。かわいそうだが、全面的な同情と共感の対象にはならない、あわれだが、同時にうっとうしい、そうした人物なのである。そのような人物をどう形容したらいいのだろうか。いまのところいえるのは、それが「アントニー的」だということである。

デュマが主人公にアントニーという名前を選んだのは決して偶然ではない。偶然に翻弄され不幸になるのがアントニーという名前の人物の特徴だが、そうした人物にアントニーという名が冠せられたのは決して偶然ではないのである。

予告編:次回は、私がもっともアントニー的と思われる人物が登場する劇作品をとりあげたい。シェイクスピアの次の世代の劇作家(シェイクスピアとも共作したか、シェイクスピアを改作した劇作家)トマス・ミドルトンの『魔女』(The Witch)である(日本語訳はおそらくない)。こんなにアントニーしている人物はないと思われる人物が登場する。その名はもちろんアントニー。
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2025年11月19日

『ヴォイツェック』ふたたび

昔々、『悲しき天使』というヒット曲があった。メリー・ホプキンスの歌唱をテレビで観たとき、そのいかにもイギリスらしい素朴な、そして親しみやすいフォークソングにいたく感動した私は、全世界的にヒットしていることにも納得した。その後、英語の歌詞を検討して、昔をなつかしむというこの曲が、なぜ「悲しき天使」なのか理解に苦しんだが、当時、日本でこの曲は自由に歌詞をつけられて歌われていたから、そうした日本語ヴァージョンのひとつとマッチしていたのだろうと考えたが、あとから、当時は、なんでも無差別に「悲しき~」とか、「~の天使」いうタイトルをつけるのが流行っていたと知り唖然とした。

日本でつけたいくつかの日本語の歌詞には、ひどいもの、吐き気がするものも多くて、このイギリスのフォークソングのしみじみとした味わいに及ぶものはなかった。最近では、この曲の歌詞、“Oh my friend we're older but no wiser.”というのは、私の座右の銘にまでなっている。

ちなみにこの「悲しき天使」の原題はThose were the daysで、このなかのリフレインには、シェイクスピアの時代に使われていたようだが、なんといってもシェイクスピアの『お気に召すまま』の台詞として有名になった(テオ・アンゲロプロス監督の映画のタイトルにもなった)「永遠と一日Forever and a day」というフレーズがある。【テオ・アンゲロプロス自身は『お気に召すままの』の台詞からとったのではないとことわっているので、『永遠と一日』の英語のタイトルはEternity and a Dayなのだが。】ネット上でこの曲の歌詞を日本語訳しているサイトがいくつもあるのだが、forever and a dayがシェイクスピアに端を発していることに気づけ、そして「永遠と一日」というフレーズのニュアンスを無視して、「いつまでも」と適当にごまかして訳すなといっていやりたい。

ただし、後年になって驚いたのだが、これはイギリスのフォークソングではなくて、「ロシアの民謡」であった。そういわれれば、ロシア風の音階ではないかと納得した。しかし、それはロシアの民謡ではなく、20世紀初期に創られたれっきとした歌曲であった。ロシア的であることは納得したが、民謡ではなかったことにも驚いた。しかも曲は、クレズマーというイディッシュの民謡にルーツに持つ音楽、あるいはロマ音楽の様式をとりいれたものということになり、ロシア的でもなかったことがわかった。もう、そういわれれば……と思うことはやめたい。自分自身の判断力のなさ、あるいはいい加減な情報の流されている自分の愚かさを痛感するだけだから。

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長い前振りだったが、9月に喘息じみた咳に悩まされ観劇をあきらめた『ヴォイツェク』が、地方公演から再び東京に戻って来たので、そしてチケットがあったので、観劇することができた。

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『ヴォイツェック』の原作そのものは短い芝居であって、ふつうに上演すれば、1時間30分もあれば確実に終わるのだが、今回は、それを2時間30分(休憩20分)の作品にしたものの上演だった。つまり原作のアダプテーションであった。主人公を北アイルランドのベルファストの孤児とし、長じて、ドイツのベルリンにNATO(ネイトー)軍の英国部隊の兵士として派遣され、ワルシャワ条約機構軍と対峙する日々を送る兵士に変えた。上官の髭を剃るとか、科学者の人体実験に参加することなどは原作と同じだが、しかし、それ以外に、原作を思い起こさせる設定なり人物なりはいない。ヴォイツェクの妻を誘惑する上官たちはいない。最終的に妻を殺すことは原作と同じだが、そこにいたる過程はずいぶんと違う。

だが、これは批判しているのではない。このアダプテーションは、原作以上にヴォイツックの内面を掘り下げるというか、そのトラウマを可視化し舞台化することで、原作にはない驚くべき深みと奥行を実現しえたのは特筆に値するのだから。

実際、原作を知らずに今回の上演に接した観客は、これを冷戦期の事件を扱った、それもいかにも英国的な演劇としてとらえるだろう。社会的・政治的に緊張の高まる北アイルランドのベルファストと、東西対決の最前線であるベルリンとは地政学的に同じ位相であることは誰もが気づくであろう。また東西緊張の真っただ中に派遣された英国兵士が、その緊張の中で心を病んでゆくというのも、ある意味、必然的かつ蓋然的な展開であるように思われる。主人公がヴォイツェックという英国系でもアイルランド系でもない名前をもつのは変だが、それはドイツでの事件であることとなにかつながりがあることをにおわせているくらいにしか観客は感じないだろう。

だが観客は驚くはずである。これはドイツの戯曲であって、ドイツ人のヴォイツェックを英国人の主人公にしたものだと知ることになったら。とはいえ、それで主人公の名前がドイツ系であることに納得することになるだろう。また医師(不思議なことにドイツ人ではなくイギリス人になっている)が人体実験をするのも、ナチスの医師が強制収容所でユダヤ人に人体実験をした忌まわしい過去の歴史を彷彿とさせる設定だったのかとも納得するかもしれない。しかし、観客はさらに驚くだろう。この芝居はナチスとは関係がなく、原作は19世紀(1835年頃)に書かれたと知れば。

逆にいうと、これは英国の芝居としては、実によくできているし、英国らしさ――それがどんなものかは定義できないが、なにかよくわからないが、これこそが英国風だと思わせるような迫力に満ちている。演劇的強度、人物の掘り下げ、悲劇へと向かう緊張感など、英国現代劇の要件をすべて満たしているような感がある。

また英国ではなく外国を舞台にした作品、ここでは冷戦下のドイツベルリンに駐留する英国軍人と、現地の人々との関係など、英国の芝居にありがちな設定である。またそもそも外国において、妻もしくは愛人を嫉妬ゆえに殺してしまうというのは、オセローの世界ではないか。まあヴォイツェックは、身分的にはオセローというよりもイアーゴーに近いのだが。またヴォイツェックの上官の妻が浮気をしているというか、夫の部下の兵士たちと次々と寝ているというのは、ほんとうに浮気するデズデモーナと老将軍オセローのようではないか(ちなみに、これは原作にはない設定である)。

したがって、今回のアダプテーションは、繰り返すが、いかにも英国演劇らしさがふんぷんとしていて、原作の舞台化というよりも、独立した演劇作品、それもきわめて興味深い英国的悲劇作品とみることができる。

おそらく今回の舞台は、同じ原作をもつアルバン・ベルクのオペラ『ヴォツエック』よりも原作ばなれした、独立した作品と思っていいのだが、しかし、同時に、原作にある未完成で未整理でなおかつ空白ですらある部分を丁寧に埋めたという点で、原作のあるべき姿、その完成形を、独自の追加創作によって示したという点で、アダプテーションの見本のような作品かもしれない。原作創作時には盛り込めなかった細部を、今回のアダプテーションは可能なかぎり盛り込んでいる。そのため、原作から離れているが、離れていることは、原作を変容させその完成形を見せてくれるプロセスの成果としてある。

そして、それがまた原作とは異なる演劇性を実現してしまったという皮肉な結果になる。

というのも今回の上演は、圧倒的にヴォイツェック中心である。主演の森田剛の全舞台をみているわけではないのだが、今回の役柄は珍しいのではないかと思ったが、その経歴を振り返ると、ヴォイツェック的な人物はけっこうこれまでにも演じていることがわかる。そのすべてを観ているわけではないのだが、今回のヴォイツェックは、まちがいなく経歴のなかでベストのひとつに入るだろう。

そして言えるのは今回のアダプテーションは、ヴォイツェクの人生を徹底的に掘り下げていることで、ベルファストで孤児になったことからはじまる苦難の人生とトラウマがねちっこく語られる。これに比して、他の人物は類型的な造型にとどまる。今回のキャストは、原作にある人物だけをあげると、大佐に冨家ノリマサ、医師マーティンに栗原英雄と豪華キャストなのだが、ヴォイツェックと同棲し、彼にからみ、また殺される役の伊原六花は、ヴォイツェックの掘り下げとともに、原作にはない重要性を帯びることになるが、栗原、冨家は、スター俳優の無駄遣いという気がしないでもない。その役柄が、ヴォイツェックの圧倒的な存在感の前にかすんでしまっているからである(また原作にはない上官の妻/ヴォイツェックの母(伊勢佳世)、同僚の兵士(浜田信也)らのほうが存在感があるのも面白いのだが)。

原作では上官や医師、その他の人物(アダプテーションでは消された)らが、ヴォイツェックと同等の存在感をにじませている。それはまたヴォイツェックだけが突出するのではなく、他の人物と同等の薄っぺらさしかないのである。そう、今回のアダプテーションにおけるヴォイツェックは、立体的(ラウンド)な人物である。しかし原作の彼は、二次元的というか薄っぺらい平面的(フラット)な人物である。他の戯画化された人物たちと同等の一人であって、傑出した一人ではない。ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』は、革命と政治をめぐるねちっこい芝居である。今回の芝居もヴォイツェックの内面を掘り下げ、その苦悩やトラウマや愛への渇望と狂気を惜しみなく舞台に現前させるねちっこい芝居である。しかし原作の『ヴォイツェック』は、ねちっこくない。

原作は、未完の複数の断章というかたちで残っているだけで、場面の順番も確定していない。そして短い場面の連続によって、ある特定の人物を掘り下げることなく、深さを拒否した平面的芝居に終始する。ベルクのオペラも、今回のアダプテーションも、ともにこの軽さには到達していない。凶器と嫉妬、社会的分断、不正と正義への要求というテーマは次々と登場するが、いずれも、ダイナミックな有機的関係を構成することなく、あるいはメタフォリックな関係性を構築することなく、メトニミックに流れてゆくだけである。

かつてアウエルバッハは『ミメーシス』の有名な序章「オデュッセウスの傷跡」のなかで、ホメロスの叙事詩は、「現在」しかない、たとえ語りのなかで過去の出来事が言及されても説明のための注釈としてしか機能しないのに対し、聖書の物語では、過去と現在がダイナミックにインターセクトする――過去は現在を変え、現在もまた過去を変える――と論じたことがある。この二つの潮流、ヘレニズム的潮流とヘブライイズム的潮流の緊張関係が、やがてヨーロッパ文学を形成するというのがアウエルバッハの議論だった。

それを思い出すなら、今回の『ヴォイツェック』のアダプテーションは、過去と現在とが交錯し、その交錯はまた西と東という二つの世界の対立(さらにイングランドとアイルランドあるいは北アイルランド)とも、交錯し、個人的な生と、政治と歴史そして社会との葛藤を私的かつ公的に展開していたといえよう。

それに比べて原作の『ヴォイツェック』は、そうしたダイナミズムを知ることはない。そこには現在しかない。過去はないし、過去との葛藤もないし、トラウマもない。いっぽうアダプテーションでは人間が動いている。過去を背負い、過去の重圧に押しつぶされている哀れなヴォイツェックがいる。これに対し原作では、輪郭だけのスケッチのような人物が動いている。そうスケッチ。天然色のアニメでもない、色のない粗削りな輪郭だけのスケッチの動画。それが『ヴォイツェック』であり、そしてだからこそ、『ヴォイツェック』は、モダニズムを超えて、ポストモダン的な演劇へと突出しているのである。

ベルクのオペラも、今回のアダプテーションも、原作をモダニズムにとどめようと、あるいはおしもどそうとしている。だが原作はモダニズムすら超えてその先をいっている。ポップなというと軽すぎるかもしれないが、戯画的で類型的で平面的な人物像が織りなす魅惑的な薄さを誇示する群像劇、それが『ヴォイツェック』の、なかなか見出してもらえない、現代性あるいはポストモダン性だと私は信じている。

今回のアダプテーションはすでに述べたように原作とは独立した演劇として観れば、とても優れた迫力のある舞台であることはまちがいない。実際、観客の誰もが息を殺して見入ってしまう力強さ、演劇的迫真性がそこにある。

けれども原作の舞台化としては、原作のもつ独自の良さ(おそらくは観る人を選ぶであろう良さ)は具現化されていない。おそらく亡き岩淵達治先生は、この舞台をみて、怒るにちがいないと思う。原作とは似ても似つかぬ劇として。とはいえ私の議論に対しても岩淵先生は同様に激怒するにちがいない。呼び出されてしっかり説教をくらうことはまちがいないだろう--お前は何もわかっていない、と。
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2025年11月10日

明治大学シェイクスピアプロジェクト 2


明治大学シェイクスピアプロジェクト(以下MSPと表記する――これは正式な略号である)の舞台は、人物が登場して最初に台詞を発せする瞬間、なぜアマチュアがプロとしか思えない発声と台詞まわしをするのかと、いつも驚かさせるのだが、今回の『冬物語』でも、その驚きは、いつもと同様に、あるいはいちも以上に大きかった。

もちろん発声やデクラレーションだけではない、主要人物の存在感がはんぱないのであって、あとは観るの者の好みによって、レオンティーズが、ポリクシニーズが、ハーマイオニーが、ポーライナが、オートリカスが、それぞれの個性によって深い感銘をあたえることになろう。

また舞台装置や衣装というか美術については、これは上演の場(講堂でもあり劇場としても使える大ホール)の制約と、おさらく伝統を踏まえているのであろう、びっくりするような舞台美術ではなくて、どちらかというとアマチュア的な、学生演劇らしさが残る、まあ、ちょっとダサい舞台装置がMSPの特徴だったが、今回は、例年とは少しちがってプロの舞台美術に近いものとなった。

また衣装は、これは準備期間と予算の制約もあるのだろう(あるいはデザインがプロではなく学生によるもののせいか)、無国籍で、ややおとぎ話的で、アマチュアっぽい、少々ダサいという特徴は、今年も同じだったが、しかし、今年は、リアルであると同時にファンタジーでもあり、悲劇的でもあり喜劇的でもあり、深刻でもあり祝祭的でもあるという劇の特徴と見事にシンクロしていて、違和感を抱かなかったばかりか、劇中世界と見事な調和を達成していた。

台詞回しに戻ると、どうしてアマチュアがこんなに素晴らしい台詞を易々と口にできるのか、とにかく台詞回しのうまさに聞きほれていたし、それはまた、シェイクスピアが、当時の大劇場グローブ座の舞台ではなく、当時としては珍しい室内劇場であるブラックフライアーズ座での上演を考慮して人物の微妙で繊細な心理が観客に伝わる台詞を作ったことをあらためて実感させるものであった。

つまりシチリア王レオンティーズは、突然、后のハーマイオニーと、友人のボヘミア王ポリクシニーズと仲をというか不倫を疑い始めるのだが、そこにあるのは、不安と猜疑心からなる心理的苦悩であって、台詞がすべてである。オセローのようにイアーゴーに騙されて、口から泡をふいて卒倒するようなことはしない。レオンティーズにとって、イアーゴーは、レオンティーズ自身である。この自家中毒的葛藤をすべて台詞で表明しなければならないとき、台詞に説得力がなければ、すべてがだいなしになる。今回のMSPの舞台は、演者たちの見事な台詞回しによって、説得力のある見事な舞台が実現していた。

あと、これはいろいろな配慮ゆえの決定だろうが、熊が登場しなかった。『冬物語』では、「ボヘミアの海岸」というこの世に存在しない場所が登場する。そのボヘミアの海岸で、レオンティーズの家臣アンティゴノスは、「熊に追われて退場する」――シェイクスピア劇のなかで最もばかばかしいと言われているト書き(Stage Direction)である。

この熊は、本物の熊なのか、着ぐるみの熊なのか、熊の毛皮をかぶったのか、あるいは熊のはく製みたいなものなのか、昔から議論されてきた。この点については別の記事で語ることにするが、昨今の熊被害もあって、『冬物語』といえば熊なのだが、最終的には熊は登場しなかった。私が国内外で観た『冬物語』の舞台では、熊を登場させない演出もある。今回もMSPの舞台も、熊の存在を音響効果で暗示させるだけで終わっていた。私は残念に思うのだが、熊被害のことを考えると、たとえぬいぐるみのようなものであっても熊を登場させないのは英断だったかもしれない。とはいえ、熊被害に関係なく最初から熊は出さないことになっていたのかもしれない。そのへんはなんともいえないのだが。

あと劇は前半と後半で16年経過する。その後半の始まりに、「時Time」というコーラス役が登場して、30行余りの台詞を話す。その時、15行目の台詞あたりで、もっていた砂時計を逆転させる。あらたな時間がはじまることを暗示する。前半は悲劇。後半は、笑劇ではなく喜劇となる。そしてこの喜劇的後半が最後には奇跡へと至る。

ただ今回の舞台に登場した「時」は白いドレスの美しい女性で、女神というよりも妖精のような感じもしたのだが、あれが「時」をつかさどる超越的存在であると、この劇作品ついて何も知らない観客に思わせるには無理がある。『冬物語』はシェイクスピア作品のなかで知名度の高いものではない。知らない観客がいて当然である。だから、女性の「時」は美しすぎ洗練されすぎていて、なにかよくわからない。もっとどんくさく、いかにも時をつかさどる、たとえば「時の老人」のような人物にしてほしかった。せめて時計(砂時計でも、機械時計でも、デジタル時計でもいい)をもっていてほしかった。

とはいえ、演出としては、突然、若くきれいな女性が登場して、観客が不思議に思うことを狙っていたのかもしれない。それはちょうど、突然、熊があらわれて、観客が戸惑うのと似ている。熊という、いまや日本人すべてを敵に回している動物にかわって、妖精のような女性を出したということかもしれない。

ちなみに前半の最後に登場する、熊と、熊に食い殺されるアンティゴノス(ただしナレーションでのこと、実際に舞台で食い殺されるわけではない)のエピソードは、そのすぐあとの羊飼いの親子が赤子(パーディタ)を発見することから、死にゆく者と生まれたばかりの者との対照性が仕組まれていることはまちがない。そして熊に追われて退場するアンティゴノスの場面は、それまでの暗い悲劇的場面を喜劇的世界に転換させるピヴォットのような働きをしている。

私は学生の頃、今は亡き笹山隆氏(誰もが認めるすぐれたシェイクスピア学者だった)の、この熊を扱った論文を読んで衝撃を受けた。熊の登場が、観客操作と劇中世界の変換と連動していることの指摘は、当時は、誰もしていないかったように思われる。その考察の刺激性に私は圧倒された。ちなみに笹山ご夫妻は、北海道旅行中に、ほんとうに熊(子熊をつれた母熊)に遭遇されたとのこと。その時、笹山氏はやってはいけないことをしたらしい。つまり熊に背をむけ一目散に逃げだしたのである。取り残された奥様は冷静に熊に対峙しつつ、声を出して熊を威嚇し、ゆっくりと後ずさりして、その場を離れ難を逃れたとのこと。この話も、別の記事で。

熊の登場(今回の舞台では不在)が導く後半の祝祭世界は、そこにオートリカスという詐欺師・泥棒を登場させることによって、とりわけ彼が売り物にするのは、奇想天外な、あるいは下世話なバラード物語であることもあって、劇中世界の認識異化的視点への開かれや、虚構と現実との反転可能性の示唆など、通常の詐欺師的人物が帯びることのない役割をともなっていて、興味が尽きない。オートリカスは、たんなるトリックスターではない、というかそれこそがトリックスターの可能性の中心を体現しているのではないかと思う。

ちなみにこのオートリカス役の学生、とてもうまく存在感も抜群にあるし、劇がこの役に課した機能を真正面から受け止め、またその意義をみごとに発信していた。ちなみに彼が2年前の『ハムレット』公演で墓堀人を演じたときに気づいたのだが、左手の指がない。ある意味、ハンディを負っているのだが、そのハンディをまったく感じさせない力のある演技で、オートリカスという、けっこう面倒な役を演ずるのはこの人しかないと思わせ、アマチュア臭さは全く感じさせなかったことはすごい。なお指の件に関しては、私の親戚にも指のない者がいる。だから全く気にならないのだが、同時に、同じようなハンディのある人たちに、彼の頑張りと活躍が希望を与えることになることを確信している。

このオートリカスもそうだが、シェイクスピアは、ファンタジー的要素とたわむれている。「冬物語」というタイトルは、冬の物語りではなく(前半の世界の季節は冬だが、後半のそれは秋である)、かんたんにいえば「おとぎ話」「夢物語」という意味である。現実にはありえないおとぎ話ですが、まあ信じてくださいというタイトルの芝居のなかで、うそぽっい物語を売り物にする詐欺師を登場させるシェイクスピアは、虚構と現実との緊張関係を積極的に構築している--「ボヘミアの海岸」など、その最たるものだろう。「信じる者に、奇跡は起こる」とMSPのパンフレットには書いてある。もちろんそれに異議はないのだが、ただ、そういうあなた方はオートリカスとどう違うのですかという、けっこうやっかいな問題も生まれてくる。ただし、MSPに関しては、オートリカスと違うと自信をもって断言できる。オートリカスは、おとぎ話にうっとり聞きほれる人間から財布を盗むのだが、MSPはお金を一銭もとらないので、詐欺師ではない。

シェイクスピアの攻めたつくりは、劇の最後にあらわれる。本来なら、16年ぶりの友人との再会、死んだと思われていた娘との再会がクライマックスであるはずのところ、その場面は目撃者の語りですましている。いわばナレーションだけで終わっていて、観客の期待をおおきく裏切っている。

1989年『一杯ののかけそば』という童話が実話にもとづき誰もが泣ける童話として日本でブームをおこしたことを年配の人なら覚えておいでだろう。大みそか、そば屋に、若い母親とこども二人がやってきて、一杯のかけそばを親子三人でわけて食べたという話だが、それだけでは可哀そうな話だがそこだけでは泣けはしない。そこではなく、そば屋の夫婦が、この親子のことを覚えていて毎年大みそかになると現れるのではと心待ちしていたものの、いつしかあらわれなくなる。しかし、それでも夫婦は待ち続けて、やがて成人した二人の子供とともに母親がやってくる。待ち望んでいた親子が奇跡のように帰ってくる。しかも子供たちは立派な大人になり、そば屋夫婦に感謝の言葉をのべるのだ。長い時間のあとでの再会、待ってはいても再会できるとは思われなかった人物との再会は、時間的経過の介在によって、泣けるものとなっている。恥ずかしながら私は泣いた。

ただし作者の栗良平は、自作をテレビで朗読(口演)して有名になった(作品は毎日といってよいほどタレントや俳優が朗読していた時期がある)が、学歴詐称や詐欺行為によって、オートリカスさながらの詐欺師であることがわかり、お涙頂戴の作品への反発と作者が詐欺師であったことから、ブームは終わったのだが。【なおこの作品は映画化もされた。永井愛が脚本を書いていたことには驚いた。】

とにかく長い年月のあとの再会ほど、感動的なものはない。それも絶対に会うことがないと思っていた者どうしの再会となればなおのこと感動的である。シェイクスピアはそれを知っていたはずである。『ペリクリーズ』という、これもおとぎ話的なシェイクスピア劇では、死んでいた母親と娘が、またその夫ペリクリーズが、最後に再会するのだから。

しかし『冬物語』でシェイクスピアは感動的であることがまちがいない再会シーンをカットして、次の彫像場面を最後のクライマックスとした。このあたりの作劇術は、超絶技巧的で、けれんみたっぷりで驚異的なのだが、MSPも、実に見事な彫像の場面を用意してくれた。人間が彫像のふりをするのは、シェイクスピアの時代、現存ずる演劇作品としては作者不詳の『トラキアの悲劇』という作品があるのみである(私はそれを読んだが、なぜそんな誰も読まない作品を読んだかのかといぶかるなかれ、私は、『冬物語』を含む、シェイクスピアの晩年の劇で卒論を書いたからである)。シェイクスピアは『トラキアの悲劇』を知っていたかどうかわかないが、人間が彫像になる趣向は、神話や伝説(ピグマリオン伝説)、さらにはおとぎ話や民話にあっておかしくない。また演劇的な趣向としても、ふつうに存在するのではないかと思う。

今回ハ―マイオニーの彫像ぶり、ギリシア・ローマの彫刻のようではなく、人形やフィギュアのような形態で、けっこう真に迫っていた。その格好は、私のような筋力のない者には長時間していられない無理な格好なのだが、MSPの舞台では、その目覚め動き始める前まで、見事に微動だにせず静止し続けた。それを観るだけでも今回の舞台は価値がある。

また今回の舞台では、彫像の姿が実に美しく、人間に戻ってしまうとがっかりするかもしれない――私のような観客にとっては。そう、人形愛、あるいはフィギュア愛を刺激することもシェイクスピアは狙っていたふしがある。

そしてこのことをふくめ、今回のMSPの舞台は、シェイクスピアが狙っていたかもしれない、さまざまな挑戦的・挑発的効果を、可能な限り受け止め発信した点で、まさに語り継がれる舞台になったのではないかと思う。
posted by ohashi at 22:08| 演劇 | 更新情報をチェックする

2025年11月09日

明治大学シェイクスピアプロジェクト 1

私は、東京大学の文学部で、シェイクスピアに関する講義を担当していたときに、毎回、課題として、レポート以外に、シェイクスピア劇一作品についての観劇記を課題としていた。

学期中にシェイクスピア劇(授業で扱わなかった作品も可)をひとつ観て、感想を書く(400字程度でよい、それ以上書きたければたくさん書いていいが、それを書くエネルギーがあれば、もっとべつの有意義なこと、あるいは楽しいことに使ったほうがいいともコメントした――一応、ここは笑いどころ)。

ただし課題レポートは評価の対象となるのだが、観劇記は、評価の対象とはならない。観劇記を出さなくても評価に影響しない。ただし、観劇記を出さない理由は簡単に書いて欲しいと要求した。先祖代々、演劇を観てはいけないという教えがあり、演劇を観たら親から破門されるというような理由を書いて欲しいと――ここは笑いどころなのだが、毎回まったく受けなかった。観劇記を出さなくても評価に影響しない。優れた観劇記でも評価に影響しない。ひどい観劇記でも評価に影響しない。なら、なぜ、それを要求するのか。

この観劇記の目的は、ふだんから劇場に足を運んでいる演劇ファンには関係がない。むしろこれまで一度も劇場に行ったことがない学生こそが、はじめて劇場体験をすることになり、これからの人生にとってなにか有意義なものを得ることになるかもしれない。

たとえば文学部の講義では、そのなかでさまざまな文学作品を紹介したり解説したりするものが多い。熱心な学生なら、授業で触れられたり論じられたりした作品を全部読むかもしれない。実際は、それは不可能に近いのだが。たいていは興味のある作品をのぞいてみる、あるいは読破する。演劇の場合も、戯曲を読めばいいのだが、上演されてこその戯曲なので、実際に劇場に足を運んで上演を観ることに意義がある。そこでシェイクスピアの講義ではシェイクスピア劇を劇場で観てはどうかということで観劇記を課題とした。

ただし授業ではいくつかのシェイクスピア作品を選んで講ずるので、扱われた作品が学期中にどこかで上演されるかどうかはわからない。そこでシェイクスピア作品なら授業で扱わなかった作品でもよいことにした。さらに翻訳劇でも英語劇でも英語や日本語以外の言語で上演されたシェイクスピア劇ならなんでもよいことにした(海外で観てきたシェイクスピア劇でもOK)。

とはいえふつうシェイクスピア劇はチケットが高額である。高額なチケット代を払って観劇記を作成する余裕のない学生が観劇記を出さなかったら、それで単位がないということになれば、不適切な授業として訴えられ裁判にでもなれば負けるので――ここは笑いどころなのだが、ここでも毎回、受けなかった――、観劇記は出さなくてもOKなのだと語った。

また無料で観ることのできる演劇はある。アマチュア劇団の演劇とか、学生演劇などは、無料で公開していることが多い。というか無料だからアマチュア演劇なのである。そうした演劇形態でシェイクスピア作品を観てもよいことにした。

そのなかで私がレベルの高い、プロの劇団にも引けを取らない学生演劇として、明治大学シェイクスピア・プロジェクトを毎年授業で紹介した。そのせいもあってか観劇記では、明治大学シェイクスピア・プロジェクトでシェイクスピア劇を観た学生がけっこういた。学生たちは高い評価を与えていた。いや、それはレポートといっしょに提出する観劇記なので、なにかぼろくそに書いたら教員の心証を悪くするから、高い評価しか書かないと思うかもしれないが、観劇記は成績評価の対象外であるから、好きなように書いてよいとも伝えてあるので、明治大学シェイクスピア・プロジェクトに対する高い評価は真実の声である可能性大である。

実は第22回明治大学シェイクスピアプロジェクト『冬物語』を観た翌日、二兎社公演『狩場の悲劇』(原作:チェーホフ、脚色・演出:永井愛)を観た。明治大学シェイクスピアプロジェクトの舞台は、二兎社公演と比べてもまったく遜色ない、むしろ肩を並べるような舞台だった。もちろん、これはけなしているのではない。どちらも優れた、完成度の高い舞台であることは申し添えておく。

【なお、シェイクスピア作品の映画作品は観劇記の対象外とした。映画館ではなく劇場に足を運び、舞台を観ることを要求したのだが、当時はまだ配信がさかんではなかった。現在明治大学シェイクスピアプロジェクトは、上演した舞台を配信している。詳しく確認していないが、ライブ配信とアーカイブ配信があるようだが。また一般に舞台を配信することはけっこう多い。私もそれらを視聴することが多い。またナショナル・シアター・ライブのように劇場中継録画を映画館で上映することもいまでは多くなっている。劇場へ足を運ばなくても劇場の雰囲気は充分に味わえる。そんなときもし私が授業していたらどうしただろうと、ふと思ったりした。】
明治大学シェイクスピアプロジェクト 2 へ続く。
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2025年10月24日

『西に黄色のラプソディー』

フライングシアター自由劇場 第六回公演『西に黄色のラプソディ』(原作 シングThe Playboy of the Western World、脚色・演出・美術 串田和美、10月20日~27日)を吉祥寺シアターに観に行く(本日ではない)。

串田和美氏によれば、
この作品は今回で6度目の上演になるけれど、今までで一番、ぶっ飛んだ作り方をします。これまでは酒場のセットをポンと置いたんだけど、最初は何もない更地から始めようと。そしてだんだんノスタルジーというのが少しずつ具体的に浮かんできて〔中略〕。本当は全てが不確かなノスタルジーに包まれてるようにしたいんです(公演プログラムp.22より)

ということだが、なぜノスタルジーにしたのか、最初は、よくわからない。更地といっても、舞台には鶏(生きている本物)が動き回っているし(鶏のいつもながらの力強い歩行に開演前に見入ってしまった)。嘘と祝祭的狂騒を基軸として、振り返れば結局夢か現実か定かでなく、終わってみればむしろ物悲しくなるといった出来事を扱う戯曲は、なるほど、ノスタルジーと同じ構造をしているのであって、串田氏の炯眼には感銘を受けた。

そのためか、ぶっ飛んだ演出でも、劇の基本構造は損なわれるどころか、むしろくっきりと際立つことになり、これはまぎれもなくシングのThe Playboy of the Western Worldの、おそらく誰にでも勧められる舞台である。

The Playboy of the Western World。シングの有名な代表作だが、タイトルの定訳がない。『西の人気者』とか『西の国の伊達男』と訳されている。私が持っているのは大場健治訳の『西の国の伊達男』を収録したシング選集(戯曲編)である。

Western Worldというのは、アイルランドで大西洋側を向いている地域。イングランド側を向いている地域に比べて田舎で辺鄙なところなのだろう。Playboyがうまく訳せない。いわゆる「プレイボーイ」なのだが、たしかに主人公の若者にはそう呼ばれて当然の要素があるが、同時に、その語が示唆するような都会的で洗練された(そして堕落した)要素というのがあまりない。また主人公は運動競技にも優れていて、このプレイボーイはいろいろな競技をプレイするスポーツマンでもある。さらにはほら話や嘘を語り、真実とプレイ(戯れ)をし、その真実とも虚偽ともつかぬ話で周囲の者を手玉にとる(プレイする)、詐欺師でもあるいたずら者でもある――この場合、プレイボーイの同義語はトリックスターである。と、こうなると適当な一語の訳語というのがみつからないのである。

あと、アイルランド文学や文化の専門家ではない私でも気づくこととして記しておきたいことがある。シングとアイルランドというと、ローカル性や文化的後進性だけが強調されて、アイルランドの持つ文化的先進性なり先端性、そして脱ローカル的な文化が見落とされることである。

たとえばシングの最初の劇、一幕物の『谷の陰』は、どうみてもアイルランド版『人形の家』なのだが、たとえば上記『シング選集【戯曲編】』では、どこにもそのことが触れられていない。地方の老人から聞いた話が元ネタとのことばかりが強調されて、この文化的後進国のアイルランドの田舎作家シングには、ヨーロッパを席巻したイプセン劇も、またヨーロッパにおけるフェミニズムも無縁と思われたのだろうか。ちなみに『谷の陰』の主人公の名前は、『人形の家』の主人公の名前と同じノーラである(『人形の家』のノラは、ノーラとするほうが正しいらしい)。

つまりシングは、アイルランドの土着文化なりローカル色を強く出した作品を残したのだが、同時に、文化の最新の潮流について無関心どころか目配りをしていて、れっきとしたモダニズム作家なのである。そうであるがゆえに、その戯曲のいくつかは、アイルランドのローカルな生活を描いていながらも、アイルランドの田舎者たちに気に入られなかった。そのようなシングの先進性とモダニズム性を無視していいのだろうか。

もうひとつ、アイルランド文化はギリシア・ローマ文化と直結していた。そのため、時々ショートする。アイルランドのことを何も知らないT・S・エリオットという評論家・詩人が、あるアイルランド出身の作家の手になるダブリンの一日を描く小説について、現代社会のカオスを、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』の物語になぞらえて秩序付けた快作と作者をほめたたえ、これこそがモダニズムの手法だと語って私たちをだましたのだが(しかもモダニズムの手法であるという勝手な断定が、その後、ほんとうにモダニズムの手法となった)、それはジョイスの特徴というよりもギリシア文化とショートしているアイルランド文化の特徴ではなかったのか。

ジョイスの『ユリシーズ』、オケイシーの『ジューノーと孔雀』というタイトル。そういえば、ブライアン・フリールの『トランスレーションズ』には、頭のおかしな男が、よりにもよってアテナ女神と結婚するという妄想を抱いていたのではなかった。

そしてシングのこの『プレイボーイ』。父親を殺したという若者の登場と、それにつづく狂騒は、まさにソポクレスの『オイディプス王』の世界――ただし近親相姦なし――ではないか。先に触れた『谷の陰』がローカルな伝承物語を『人形の家』とショートさせ、『人形の家』を基盤にして古い物語を読み解いた作品ともいえるのだが、もちろんそれはまた『人形の家』をアイルランドのローカルな伝承物語を鏡として読み解く試みでもあった。同じことは、『プレイボーイ』にも言えて、父親殺しの若者が英雄としてもてはやされるアイルランドの田舎の奇妙な出来事を『オイディプス王』という原型をもとに秩序付けたともいえるのだが、同時に、『プレイボーイ』は、『オイディプス王』に対する優れた注解(コメンタリー)ともなっている。

『オイディプス王』の場合、たしかに、ぶらっとテーバイにやってきたよそ者の青年が、どうして、後家の女性と結婚し、国王にまでなったのか、その間に何があったのかを考えると、オイディプス、やはりウーマナイザーというかプレイボーイではなかったか。それだけではなく、体力・知力にすぐれていなければ、国王になれない。彼はスポーツ万能のスポーツマンではないか。結局、ギリシア悲劇のオイディプスは、多義的な意味でいうプレイボーイではなかったのか。

しかもオイディプス、国王でありながら、最後には、父親を殺したことで罪人となり乞食の身となって追放されるのである。とはいえ、それはオイディプスが神に召される第一歩でもある。いっぽう『プレイボーイ』のほうでは、息子は民衆に殺されそうになるが、父親が生きていたことがわかり、父親とともに村を去るが、そのとき息子のほうは、象徴的に父を殺し、独り立ちをするのである。こうみてくると、『プレイボーイ』は、『オイディプス王』の、大胆かつ狡猾なアダプテーションとみえてくる。父親が死んだか死んでないか定かでないところは『オイディプス王』そっくりだし、後家のクイーンは、『オイディプス王』のイヨカステだし【それにしても後家のクイーンを演ずる銀粉蝶氏、歳をとられても、これ以上はないという美しさを示されて、今回の上演では、主役といってもよい圧的存在感を発散されていて、大いに感銘を受けた。ちなみに銀粉蝶氏とは、かつてブリキの自発団を立ち上げられた頃、一度だけお会いしたことがある――とはいえ、一言二言言葉を交わしただけで、会ったともいえないような出会いだったが――、以後、その活動は今日にいたるまで断続的だが追わせていただいている】、なんといっても、きわめつけは、この青年、劇の最後のほうでは足を焼かれそうになる――オイディプス同様に腫れた足首のなりそうなる。

幕切れは、老人(父親)と息子の出発だが、このとき三度殺されそうになる老人は、なにかオイディプスそのものとなり、その手をとって勇躍歩み出る息子は、オイディプスというよりも、目が見えなくなった父親(オイディプス)を導く娘のアンティゴネーのようにもみえる。さらにいえば、この親子は、旅芸人であり、行く先々で今回の出来事を語って観衆を楽しませることになるだろうから、この出来事は、エンターテインメント(演劇)の神話的起源ともなる。父親殺しの青年は、そのほら吹きといい、その身体的魅力あるいはカリスマ性によって民衆を魅了することといい、演技者、役者のメタファーである。
【嘘かほんとかわからないことをべらべらとしゃべり、その身体能力でみんなを魅了したあと、よその村や町へと父親とともに旅立っていったクリスティーを、一時はクリスティーとの結婚を考えていた居酒屋の娘ペギーン/那須凛はなつかしむところで原作は終わる。彼女はクリスティーのあとを追いかけてはいかない。だが、このクリスティーとその父親のプレイ(演技・詐欺・いたずら・遊戯)は、旅役者あるいは役者のメタファーそのもの、いやこの作品では、役者(プレイボーイ)そのものである。そしてペギーンのようにただなつかしむだけではなく、実際に、田舎町から、旅役者たちを追いかけていき、やがて自身も役者に、そして劇作家になった人物がいる。ウィリアム・シェイクスピアである。】

また出来事のカオスを『オイディプス王』によって秩序化したこの戯曲は、演技や演劇についての自意識性をにじませ、最終的に演劇の神話的起源ともなることで、ポストモダン的地平へと乗り出すのである――歴史的に回顧すると、当時のアイルランドの観客からの囂々たる非難をものともせず。

脚色・演出・美術の串田和美氏の舞台をすべてみているわけではないが、今回も含め、串田氏の舞台は(演出のことではなく、ご自身で出演されていること)、やはり違和感がある。
演技の質が違うのである。これをどう考えてよいかわからない。

もし独り芝居をされれば、癖のある独特の演技かもしれないが、違和感があるとか、演技の質が違うなどという感想をもつ観客はいないだろう。ところが他の演者にまじると、なにか違うのである。もし共演者たちが経験の少ないプロとはいいがたい俳優たちばかりだったら、串田氏の演技は、ずぬけて優れたものと言えるかもしれないが、今回のように、あるいはほかの場合もそうだが、共演者は、だれもが力のある、経験豊かな俳優たちであって、そのなかで、串田氏の演技だけが、下手とは思わないが、なにか異世界なのである。これをどう考えてよいかわからないのだ。

失礼を承知の上でいうと、串田氏は、こんなに優れた舞台を演出できたのだから――役者にどのようなかたちであれ演技指導され、役者もそれに応えて演出家の求める世界像にそった迫力あるドラマを生成できるのだから――、そして舞台美術もセンスのよさで際立っているともいるのだから、ご自身は舞台に立たなくてもよいのではないか。

しかし、むしろそこが面白いとことかもしれない。つまりこの劇『西に黄色のラプソディ』におけるように、よそ者は、なにか得体の知れない魅力のようなものを漂わせる――たとえその代償が周囲からの妬みや排斥願望だとしても。それと同じで、芸達者な演者のなかで、上手いとか下手というのを超越した異邦人的な串田氏は、その存在自体が、その違和感によって魅力となっている。なにか惹きつけるものをもっているような気がする。

今回、『西に黄色のラプソディ』では、主役は父殺し(と嘘をついた)クリスティーであり、串田十二夜という串田和美氏のご子息が演じられているのだが、作品上の主役・よそ者は、彼であっても、演技者のあいだでの、舞台での主役・よそ者は、串田和美氏であるように思われる。劇の内容のレヴェルでは、クリスティー/串田十二夜が主役だが、舞台レヴェル・演技レヴェルの主役は、クリスティーの父を演ずる串田和美氏ということである。そして、この劇作品『西に黄色のラプソディ』の内容は、串田和美氏(とその演技)を前景化する理論的根拠となっているという、ある意味、稀有な関係性を示している。劇の内容は父親殺しだが、演技レヴェルでは、息子が父親の存在意義を保証し補強しているのである。

であればこそ、今後も、串田和美氏の舞台をみてみたい――つまり演出家としての串田氏の舞台と、串田氏自身が劇中人物として登場する舞台を。

付記:
ここで宣伝をひとつ。このシングの『プレイボーイ…』について、短いながらもすぐれた議論を含むのがテリー・イーグルトン『悲劇とは何か』大橋洋一訳(平凡社1925)である。シングのこの作品は悲劇ではないので、どうせソポクレスの『オイディプス』の話がメインではないかと思われるかもしれないが、たしかに『悲劇とは何か』には、すぐれた刺激的な『オイディプス』についての議論があるが、シングのこの作品が論じられているのは「有益な嘘」と題された章である。今私が語ったこととは異なる観点から、シングのこの作品を鋭角的に論じているので、読まれて損はない、有益な本である。本の価格が5キロの米の値段とあまりかわらないのがこの本の唯一の欠点だが。
posted by ohashi at 23:01| 演劇 | 更新情報をチェックする