この作品は、翻訳者の小田島恒志氏がプログラムのなかで述べているように、
『オーファンズ』は1983年、アメリカ、北フィラデルフィア出身のライル・ケスラーによって書き下ろされました。【中略】1986年、ロンドンのウェストエンドで上演されると、名優アルバート・フィーニーがハロルドを演じたことも相まって、人気に火がつき映画化もされました。日本では1986年に劇団四季によって初演が打たれ、トリート役を市村正親さんが演じました。私が初めて翻訳したのは2000年、サンシャイン劇場での上演です。演出は栗田芳宏さんで、トリート役に椎名桔平さん、フィリップ役に伊藤高史さん、ハロルド役を根津甚八さんが演じました。2017年のマキノノゾミさんの演出では、トリート役に細貝圭さん、フィリップ役に佐藤祐基さん、ハロルド役に加藤虎ノ介さんで上演されました。他にも東京演劇集団風が『Tochi』という題目で毎年のように上演するなど、世界各国で幾度も上演されている人気作です。これはもうモダン・クラシックスといってもよい作品であり、そうであるがゆえに、私個人としては、もう舞台で観なくても、あるいは本で読まなくてもよいのではと勝手に考えていた。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に、アルバート・フィニーのものはアルバート・フィニーのもとへ……というわけである。
しかし今回、荒井遼氏の演出によって上演されることになり、私は原作を虚心に読んでみた――これが日本でも多くの名優によって演じられ上演されてきた作品であることを忘れて。当然のことながら、原作の熱量に圧倒された。しかもそれは一見、都会の片隅で悪事に手を染めながら細々と暮らす兄と弟のリアルな物語にみえて、兄が拉致監禁に失敗した男が登場すると、それがにわかに形而上性あるいは寓話性のようなものを帯び、リアリズムと不条理劇とを混在させる、具体的でありながら(その具体的な地名と商品名の羅列をみよ)同時に象徴的である、まさに具体性と象徴性がインターセクトする演劇空間が立ち上がるのだ。読みながら興奮をおぼえずにはいられなかった。
おそらくこの劇をモダンクラシックにしているのは、俳優にとって、これは演じて楽しい芝居だからと思う。兄と弟の兄弟。そしてそこに介在する父親的な第三の男。それぞれ役割が明確ながらも、同時に、三人にはその役割におさまりきらない余剰の部分があって、それが三人の衝突に、たんに激しいだけの暴力的なものではなく、人間的な陰影にとむ情念のドラマを生起させているからでもあろう。そこには俳優に自由に処理できる多くの余白がある。挑戦的だが、同時に、そのぶんやりがいのあるドラマ。俳優をはばたかせる構造的な力をこの劇は具備している。
また過去の名優たちが演じたこの作品は、そうであるがゆえに、この作品は、年齢的に壮年期をすぎた晩年期に入っているような印象を受ける。本来、新鮮で輝いているはずなのに、なにかほこりがたまりさび付いているような印象をうける。私は新鮮な驚きをもって原作を読んだので、作品は当然新鮮で輝いてみえた。だが日本でのこれまでの上演史を思うと、なにかセピア色の写真のように古びて見える。だが、そのような違和感を、荒井氏の演出は払拭した。3人の人物が、若いのである。若々しい新鮮なドラマ。モダンクラシックであることを極力忘れて私が読んだときの脳内劇場のありようが、荒井氏の演出によって、舞台に実現していたことには驚いた。
登場人物の年齢を下げるという荒井氏の狙いは、この芝居をまちがいなく次世代のためのモダンクラシックに仕立て上げているといえる。ここにあるのは次の時代のスタンダードである。
トリート/山時聡真は、フィリップの兄で、強盗・窃盗などの暴力的手段で金をかせぎ、廃屋で弟をやしなっている。
弟のフィリップ/本島純政は、兄によって庇護されている(アレルギー体質であるらしく外出を兄から禁じられている)。しかしその庇護は強権的・強制的でもあって、彼を無力化する。しかし、文字も読めず、外的世界の知識をもたないフィリップだが、兄の目を盗んで本を読み、文字を学ぼうとしているし、知的好奇心にもあふれ、また亡き母への追慕の感情にも身をゆだねるなど、兄とは異なる人格を育み、未来の人生へと希望を託している。
この兄と弟の二人暮らしの家(おそらく母親は死に、父親は出奔し、残された兄と弟が暮らす実家/廃屋なのだろう)に、兄が酔っぱらったハロルドを連れてくる。ハロルドは成功した実業家のようで、兄はこのよっぱらったハロルドを縛り上げ、監禁して、身代金を取ろうとする。
ここまではリアルな物語が展開する。問題は、このハロルドである。トリートによってがんじがらめに縛られながらも、みずからをフーディにーを気取って、いともやすやすと、さるぐつわを、また縛っているロープをはずしてしまう。トリートに財布をもっていかれたにもかかわらず、体中いろいろなところに札束を隠しているし、さらには拳銃も隠し持っている。このあたりから話はにわかに非現実性を帯びる。いくらトリートが不注意だといっても、ハロルドを縛り上げるときに、ハロルドが体中にしのばせている札束や拳銃に気づかないということがあろうか。このハロルドは無尽蔵にお金をもっているらしく、兄弟をボディーガードとして高額で雇うという【なお劇中のドル表記は、この劇の初演時の円安水準、すなわち1ドル200円で換算すべき】。
ハロルドのフーディニー気取り、そして兄弟への気前のよい援助者。いかがわしい闇の世界の住人。それでいて、みずから孤児であったことから同じく孤児二人の兄弟への共感と同情と援助。そして彼が口ずさむ、もしも天使の翼があったなら……という歌。彼には、この世のものとは思えない、彼岸的、非現実性あるいは超現実性がある。【アメリカでは定番(日本では円安で高級品)のヘルマンのマヨネーズと、これも定番(日本では高級品)のスターキストのツナ缶だけでは、いくら美味しいからといって、栄養失調になって生きてはいけないと思う――これも非現実性のひとつ】
現実性と非現実性。それはまた閉塞感と解放感の共存というかたちで舞台装置においても表象されていた。荒井遼氏の演出は、舞台に兄弟が暮らす廃屋を出現させる。古くてぼろぼろになった薄汚れた住居である【ただし、舞台の廃屋が、それほど汚さを感じさせないのは荒井氏のもつ美的感覚のなせるわざだろう。上演前に舞台をスマホで撮影していた観客が多いことも、荒井氏の舞台の高度な美術性が認知されていることの証左である】。その廃屋は、閉塞感を漂わせるように構築されている。と同時に、夜の場面では、舞台のうえに満天の星が輝く。本来なら屋内から星空は見えないのだが、この廃屋には天井がない。舞台の廃屋のうえにも、また客席のうえにも、満天の星。それはまた閉塞状況にありながら希望の星が輝く二重性――閉塞と解放、束縛と自由、忌まわしい過去と希望に満ちた未来の二重性――が、舞台装置のレヴェルで具現化されているのである。
この作品の登場人物たちをこれまでの上演にはない若い年齢にした荒井氏の演出に、私は自分の演劇的感性との一致をみて驚いた。プログラムを読むと、ハロルドはもともと50代に設定してあるが、若くしたとあるが、私が読んだ英語版のト書きによれば、ハロルドはa middle aged manとあって、それにひっぱられて私は40代の男を想像した――ハロルドを演ずる村井良大の実年齢とあまり違わない人物を想像していた。ハロルドを若くしたのは、あきらかに父親的な彼の言動が、なにか絶対的な権威と慈愛へと固定されることなく、彼の教育もまた限界のあることを示唆するためだということを荒井氏はブログラムのなかで語っている。私はというと、彼を限界のある父親像にするのではなくて、父親ではなく、先輩あるいは兄貴的な存在にハロルドのことを想像していた(まあ勝手な想像だとしても)。
ハロルドを若くすることは、私にとってそれはハロルドの脱父親化であり、ハロルドをベテランの先輩あるいは兄的な存在にすることだった。彼は権威と威厳のある父親としてではなく、トリートにかわるもうひとりの兄、そう長男として立ち上げることだった。そしてこれは、演出の荒井遼氏の意図ではないとは思うのだが、ハロルドを父・神ではなく、援助する天使(ラファエル的な)にしてソフト化すると同時に、もういっぽうで、このハロルドを父性愛ではなく兄弟愛、それも同性愛へとつながる兄弟愛の具現者とすることになろう【聖書のなかで天使がみずから名乗って援助のために登場するのは、聖書外典あるいは旧約聖書続篇の「トビト記」である。それひとつだけなのだが】。
この作品のエピグラフには、ヘレン・ケラーの言葉が使われている。サリヴァン先生と出逢う前に彼女はどこにもない宙に浮いたような世界の住人だったが、以後、現実の世界に生きることができるようになったという内容の。教師・導き手としてのサリヴァン先生の重要性を語るこれは、劇中におけるハロルドの教師としての重要性を暗示する。そしてヘレン・ケラーはある意味フィリップである(そして間接的にトリートもまた)。と同時にハロルドのもついかがわしさ、詐欺師的性格、もと孤児のローン・オペレーター的性格、友人はおらず、逆に闇の組織から命を狙われているかもしれないという危うさは、ハロルドをトリックスター的な、そしてステレオタイプ的なゲイ的存在にみせている。また血のつながらないトリートとフィリップを援助する彼の慈愛は、ゲイ的なものであることも匂わされているのではないだろうか。
ゲイ的な兄弟愛と、父性愛とは反比例する。父性愛の弱体化、消滅化と、兄弟愛の台頭と強化は連動している。トリートとフィリップは、父親に捨てられて辛酸をなめたようだが、その兄弟を助けるために、アルバート・フィニー的な父性まるだしのハロルドが登場したのでは、助けになっていない。むしろもうひとりの兄弟としてハロルドが登場することのほうが、この劇の内的ロジックを強化するように思えてならない。その意味で荒井氏の演出は卓越している。
私の脳内演出では、このハロルドはゲイである。女性の影がまったくない。トリックスター的詐欺師であり、また善き人間を助ける大天使的な、現実と非現実、卑俗さと神聖とが彼の中でまじりあっている。そしてこのハイブリッド性が、兄弟を強権的に威圧的に束縛することも、また威圧的に自立させることもなく、ただ兄弟自身が自発的自律的に個として独立すること可能にしているように思われる。ハロルドは任が終われば天上に帰還する天使(大天使ラファエル)のようである。確かにハロルドは最後には死ぬ。おそらくその詐欺行為なり裏切りによってギャングたちの制裁を受けることになったのだろう。ただ、彼は兄弟たちに殺されるのではない。兄弟たちが自立独立のために父性的ハロルドを殺し、その屍を踏み越えて雄々しく社会に出てゆくというエディプス的物語とはならない。この芝居は、ある意味、アンチ・オイディプスなのである。ハロルドは、兄弟を善導し、彼らの行く末を見極めて、みずから消滅するところがある。まさに消滅する媒介者vanishing mediator。兄弟を社会へと旅立たせ、その廃屋に外気を入れることになったとき、ハロルドは静かに息をひきとる。兄弟たちにトラウマを残さないように、あるいは兄弟愛の記憶を永遠にするために。
私の読み方は荒井遼氏の演出とは違うかもしれないクィア的なものだ。男三人の芝居は、女性性が欠如しているが、母親の赤いハイヒールを密かに愛でているフィリップの、女性との同一化をどうとらえるか。また最後に、突然、内臓的な激痛をうったえるトリートが、そのマッチョな装いのもとに、実は自身の女性性を抑圧していたこと、その抑圧されていた女性性が激痛とともに彼のなかで生起したことをうかがわせることをどうとらえるか。解放されるのは、兄弟だけではなく、抑圧された女性性でもあるのかもしれない。
ただしこうした読解は、荒井氏の舞台を、三人の男性俳優の力演を決して阻害するものではない。阻害するどころか、(余計なお世話といわれるかもしれないが)むしろ舞台のよさを裏書きするような、さらなる可能性の提示といってもよいかもしれない際立たせるものといってもよい。
なにしろ舞台はアメリカのフィラデルフィア。フィラデルフィアといえば、兄弟愛の街である。そういう評判があるというのではなく、フィラデルフィアという名前そのものが「兄弟愛の街」という意味なのだ。この兄弟愛には友愛、同胞愛、家族愛のほかに、同性愛もふくまれる、というか同性愛に拡大解釈されることもある。
そしてまたフィラデルフィアは、アメリカの独立宣言の地である。1776年7月4日、フィラデルフィアにおける会議で、ジェファソンが起草したアメリカ独立宣言が全会一致で採択された。そしてこの日がアメリカの独立記念日となる。それは父なる英国からアメリカが独立した日でもあった。父に導かれるのではなく、父から独立すること。それはまたこの『オーファンズ』のテーマそのものでもある。50代のハロルドを拒否して、若いハロルドを採用したことは、この劇を兄弟愛・脱父親の方向へと開くことになる。そしてそれこそがこの作品が本来持つ可能性を十全に開花させる貴重な試みでもあるのだ。荒井遼氏の演出によって、『オーファンズ』は父性の呪縛から解放されて、はじめて、本来の姿を取りもした。父性愛から独立したのである。
2026年7月4日、アメリカ合衆国独立記念日に。
