2026年08月07日

人間のいのち、動物のいのち

ある架空の対話

登場人物
暗田堕悪隷:ご意見番と称する日本人女性。2026年8月の日本からタイムリープする。

救命ボート操船担当の乗組員

救命ボートの乗客
 乗客1犬を抱えた老婦人

 乗客2老紳士

 乗客3怪我をしている男

その他、救命ボート内に乗客多数。

場所
 沈みゆくタイタニック号の救命ボート。

救命ボートは、ダビットにつるされ、海面へと降ろされるのを待っている。そこに、ある女性が日本から突然タイムリープして登場。

彼女は、ボートが海上に浮かべられるのを待っている乗客たちにむかって。

暗田
私の名前は、暗田――「あんた」と読まないでね。「あんでん」でもない。日本では私は「先生」と呼ばれているの。

救命ボートの係員
学校でなにか教えているのですか

暗田
いえ、日本で先生といわれるのは、学校の先生はもちろんだけど、医師、政治家も「先生」と呼ばれ、それ以外にも「弟子」のいる一芸に優れた人などが、「先生」と呼ばれるわね。

救命ボートの係員
あなたの場合は?

暗田
私の場合は、たくさんのアシスタントがいる……、そんなことはどうでもよくて、私は21世紀の日本ではご意見番と呼ばれているの。で、その天下のご意見番の私が、沈みかかっているタイタニック号で人びとはどうふるまっているか観に来てやったの。21世紀の人間たちに報告するんだから、しっかり、ほんとうの姿をみせなさい。

で、いま気が付いたんだけど、あなた【と、老婦人に向かって】、犬を抱えているわよね。その犬はどうしたの?

犬を抱えた老婦人(乗客1)
私のペットで、いっしょに旅をしているのです。船が氷河にぶつかったときの混乱で行方がわからなくなったのだけれども、そのことを乗組員の方にうったえたら、通路でうろうろしているこのわんちゃんを親切なこの方がみつけてくれて、私のところに届けてくれたんです。

暗田
う~ん、それは問題ね。まだ乗客全員の安否がわからないときに、あなたは自分のペットの犬のことを探してくれとうったえたのですね。

犬を抱えた老婦人(乗客1)
探してくれとうったえたわけではありません。いなくなって心配だと言ったのです。あなたは犬はきらいなの?

暗田
私は犬は好きですよ。動物は全部好き。でも、でもですよ、人の安否確認が終わっていない段階で、犬の安否を気遣うなどということは言語道断です。気持ちはわかります。でも人の救助や安否確認が終わっていない段階で、動物救出を訴えることには明確に反対します。

救助活動や乗客誘導のために、乗組員の方たちは、この沈みゆくタイタニック号のなかでいま全力をつくしているのです。これから船を離れようとしている乗客の皆さんにとって、行方が分からなくなっている、もしくは離れ離れになってしまった身内や友人や知人のことは心配でならないはずです。そういう人たちにとって、そこに、犬猫の安否を気遣い、その救助を求めるような声があがったとしたら、それはどう響くのでしょうか。

何よりも人命優先です。少なくとも公の場では、その前提を共有すべきと思います。ですから乗組員の方に自分のペットを探し出してもらうというのは、あってはならないことです。

救命ボートの係員
ペットだけを探し出して、乗客のことを見捨てるなんてことはしませんよ。ペットを探すなかで、船内を迷っている乗客の方をみつけることもあります。そうすれば迷っているペットと乗客をともに安全なところに誘導できるので、ペットを探すことになんら不都合はありません。そもそもペットのわんちゃんは、ネコもそうですが、無力な存在ですので。

暗田
なにをバカなことをほざいているの! いまは、あなたの尽力で、ペットの犬が見つかったからよかったようなものの、しかし、沈みかかっている危険な客船の船内で動物をみつけたり助けようとして、乗組員のあなたが命を落としていた可能性もあるわけでしょう。そうしたことにならないためにも、ペットは二の次、人命最優先という前提を公の場で共有すべきなのです。

救命ボートの係員
まあ、まあ、そんなに、このご婦人とペットのわんちゃんを責めないでください。おまえも【と犬にむかって】助け出されてよかったよな、ご主人とはぐれたりしなくってよかったよな。【暗田にむかって】このご婦人もよろこんでいらっしゃるのですし、なにより、ペットを救うことができて、私たちもうれしいのですから。

暗田
なにをふざけたことを言っているんだ、おまえは。よくみたら、この救命ボートにいるのは、幼い子供とよぼよぼの老人とかよわいご婦人と、あと、けが人か病人、それにペットしかいないわね。ほかに助ける人がいるんじゃないの。

救命ボートの係員
いえいえ、人命尊重をしての結果ですから。そもそも、あなたが降りてください。そうすればあと一人は載せられますから。

暗田
私はこの時代の人間じゃないから、ここで死んだりしないから、すぐに救命ボートを降りて誰かをかわりに乗せてあげる。心配しないで。でも、もうちょっと、まともな、生き残ってほしい人たち、その命を尊重できる人たちを先に乗せられなかったの?

救命ボートの係員
先に乗せるべき人は、まず病人やけが人やそれに類する人たちです。次に老人や子供です。そして男性ではなく女性です。だから最初に海上に降ろされようとしている救命ボートに、こうした人たちが乗っているのは当然のことです。つまり、弱いか無力な人たちこそが先に救出される人たちです。人間とちがってペットの動物たちも無力です。ペットが飼い主といっしょに救命ボートにいることはおかしなことではありません。

暗田
え~と、いいですか。そんな決まりなどあるのですか? 救命救出時のマニュアルに書いていある?

救命ボートの係員
マニュアルに書いてあるかどうか知りませんが、またそういうルールがあるかどうか知りませんが、そういうことになっているのです。みんなそれに従って行動しているのです。ここからもみえるでしょう、隣の救命ボートに、若い男が一人紛れ込んでいることが。老人や女子供のなかに、ひとりぽつんとね。あいつのことは知っているんですが、婚約者の女性といっしょに乗船しているのですが、その女性が画家志望の労働者階級の若い男といちゃついているところ発見して、嫌気がさしたのか、フィアンセのことはそっちのけで、自分だけ、さっさと救命ボートに乗り込んでやがる。あいつは鉄鋼王の御曹司らしいのですが、隣の救命ボートの乗組員はなにをしてやがるんだ。俺だったら、御曹司だかなんだか知らないが、あんな奴はつまみ出してやるんだが。

暗田
あなた気でも狂ったんじゃないの? アメリカの鉄鋼王の御曹司なら、いずれアメリカの産業界を牽引する最重要人物になる人じゃないの、そういう人は社会に役立つ人です、そういう人こそ優先的に救出すべきでしょう。ここにいる人たち、あんたが担当のこの救命ボートにいる連中ときたら、病人、怪我人、障害者、老人、女子供――みんな人間のガラクタばかりじゃない。それにペットもいる。まともな人間、有能で優秀な人間を乗せずに、こんなのばっかり乗せて、いい、あんた地獄に墜ちるわよ。

救命ボートの係員
ちょっと、あんたのいう御曹司、あいつですよね、いま隣の救命ボートで、後から乗り込もうとする人たちをオールを振り回して、押し戻そうとしているんじゃないですか。自分だけ助かればいいんと思ってんだよな、あいつは。

暗田
ちがうわよ、あれは正しいことよ。この救命ボートもそうだけど、あの救命ボートももう人がいっぱいで、これ以上乗せたら、重みでダビットから外れて海に落下するか、海に無事に降りても乗客が多すぎてバランスを失って転覆するかもしれない。あの人のやっていることは、実は、ちゃんと理にかなった、正しいこと、りっぱなことなの。そんなこともわからないの、あんた。地獄に堕ちるわよ。

救命ボートの係員
数人ふえたくらいで、このボートはタビットからはずれたり海で転覆したりしませんよ。あの御曹司は、少しでも多くの乗客を助けてあげようなんてこれっぽっちも思っていなくて、早く、この船から救命ボートで離れたいだけなんだ。ほら、あいつはまた、乗り込もうとした乗客をオールでぶったたいて押し戻した。自分だけ助かればそれでいいんだよ、あいつは。あんた、隣の救命ボートにところにいって、あいつに、あんたの好きな言葉をいってやりなよ、「そんなことをしていると、あんた地獄に堕ちるわよ」って。

暗田
ふん、人間、正しいことをすると嫌われるものよ、あの御曹司は、みずから悪役をかってでているの。そこが偉いところよ。私だって、日本で、言いにくいことを、ご意見番としてずけずけいうものだから、悪役にされて、誹謗中傷されまくっているの。いまだってどこかのバカが、ペットについての私の発言を茶化しねじまげて悪意ある風刺をこしらえているに決まっているわ。

救命ボートの係員
そういえば、あなたは、犬や猫が好きだって言ってたけど、ほんとうは、犬や猫が嫌いなんでしょ。

暗田
何を言っているの、私は犬や猫は大好き。

救命ボートの係員
でも、犬や猫というのは、まあペットですよね、だから人間じゃない、人命尊重の立場からしたら、ペットの動物は、人命救助のじゃまだから、船に残って船といっしょに沈んでもらうということですよね。動物が好きか嫌いかは関係ない。動物を救うのではなく動物を平気で見殺しにできるから、あんたは、こうした弱い立場の乗客たちのことを、がらくた呼ばわりして、見捨てればいいなんてことをほのめかせるんだよ。人命尊重、動物二の次なんでいうやつは、つぎは、人命もランク付けして、お金持ちの実業家や政治家たちを優先して、ごくつぶしの労務者とかよぼよぼの老人とか足手まといの子供なんか置いてきぼりにすればいいなんていいだすんだろう。

暗田
いい加減にしなさいよ、私は人命尊重第一といっているだけよ。公の場では人命尊重を前提とすべきといいたいだけなの。だから、動物はだめ、かわいそうだけれども、人間のために死んでもらうしかない。冷たいようだけれどもそれはしかたがないの。だからこの救命ボートの、動物じゃないけれども、動物に近いガラクタどもを、いったん船内にもどして、もっとりっぱな人たちを乗せて海に降りるべきだっていっているの。とにかくこの救命ボートのなかはガラクタばかりなの。まあガラクタという言い方は失礼かもしれないけれどね。

救命ボートの係員
ふん、あんたこそ、地獄に堕ちればいいんだ。

老紳士(乗客2)
暗田さん、また水夫さん、そんなに怒らないで。暗田さんは、日本人だから、西洋人の習慣というかものの見方が異様にみえるかもしれないけれども、ガラクタの一人として言わせてもらうと、私だってもっと若くて元気ならば、こんな救命ボートにのって下船を待っているようなことはしなくて、この船の乗組員たちに協力して、乗客を誘導したり、ケガ人の手当てをしたり、私も少しは楽器がひけるので、あそこの楽隊のみなさんにまじって、乗客のみなさんたちを勇気づけたり慰めたりする音楽を奏でてもいたでしょう。あいにく、この歳なので体もいうことをきかず、頭もはたらきません。でも最初は、女性や子供を優先すべきで、私は男だから救命ボートには乗らいと言い張ったのだが、乗組員の皆さんが私の高齢をかんがみて救命ボートに乗れるように手配してくれた。だから、こうして救命ボートのなかで海に浮かぶのを待っているのです。なさけなくもあり、またありがたくもあるのですが。

でも、もし私が若くて元気いっぱいで、実力も実績もある実業家であったという理由で、あなたのような人から優先的に救命ボートに乗るようにいわれても、後味が悪いだけですよ。ここにいる皆さん方を船内においてきぼりにして、私あるいは私のような実業家だけが助かっても、嬉しくなんかないな。

暗田
そんなことはないです。あなたの身内、あなたの安否を気遣っているご家族や友人たち、そして実業家なら事業関係者や会社関係者の皆さんたちは、あなたが助かったことを知ったら、心から喜ぶことでしょう。ガラクタをあとに残して、優先的にあなたを助けた乗組員の人たちを非難するような声はあがって欲しくないな。ほんとですよ。

老紳士(乗客2)
まあ、興奮しないで暗田さん。私が、ガラクタの皆さんをあとに残して、自分だけ助かったら、あの御曹司みたいにですが、そうしたら、私は一生、死ぬまで後悔するでしょうね。このボートに連れてこられる前に、すでに、別の救命ボートが、一等船室の客だけを乗せ、三等船室の労働者たちを置き去りにして、もちろんペットなど海に放り出して、船から離れていったのを目撃しました。あの人でなしの連中は、かりに無事助かったとしても、その先、どうやって生きていくのでしょう。夜な夜な良心の呵責に苦しめられ眠れぬ夜をすごすのでは。もし私も同じようなことをしたら、正直いって、私は、あなたの好きな言い方を借りると、いずれ地獄に堕ちるでしょうね。

暗田
だったら、どうするっていうの。あなたにはなにもできないでしょう。よぼよぼの老人なのだから。

老紳士(乗客2)
そうです。私は高齢なので、助けてもらうだけで、なんの助けもできません。でももし今よりも若くて、気力と体力があれば、私はほかの乗組員のみなさんと協力して、ケガ人や病人、お年寄りや女性や子供たちを助け、救命ボートに乗せて送り出すことを、最後の最後まで続けるでしょうね。そしていまこの救命ボートに乗って待っているような人たち全員が、無事に船から離れていくことを確認してから、自分の身を救うことを考えるでしょう。ただ、その時は、もう船は沈みかかっている。あとは運を天にまかせて、この極寒の海に飛び込む(たぶん、この海では長くは生きられない)、あるいは沈みゆく船と運命をともにするでしょう。

死ぬのは怖い。家族や友人たちと別れるのはつらい。孫たちともう会えないとわかったら胸が張り裂けそうです。でも、私は満足しています。年寄りや子供たち、それにペットを置き去りにして自分だけ助かったのではなく、無力な人たち、非力な人たち、自分で自分を助けることのできない人たち、そしてペットの動物たちをみんな助けたうえで、死ぬことができたのだから。私は地獄に堕ちるのではなく、天国で神様から褒められるでしょう――人命を尊重し、動物の命もなおざりにせず、自分を犠牲にしてよく頑張ったねと。まあ、それだけで大満足なのです。私は地獄に堕ちたくはない。とはいえいまは無力で何もできないのですが。

暗田
ふん、なにをくだらないバカ話を。公の場では人命尊重を前提としてほしいといっただけで、なんでこんなくだらないバカ話を聞かされなくてはいけないの、この私が。

あ、いま21世紀の日本から連絡が入って、日本の警察官が、犯人を射殺したということ、これに対して射殺を批判するバカな連中がいるので、私としても黙っておけないので、これから日本に帰ります。みなさんも、この救命ボートで無事に生き延びることを祈っています。

怪我をしている男(乗客3)
あの~、21世紀の日本もたいへんなことになっているようですね。警官は、テロリストなんかを射殺したのですか?

暗田
いえ、包丁をもって暴れていた男を射殺したらいい。

怪我をしている男(乗客3)
殺人犯だったのですか?

暗田(乗客3)
いえ、殺人犯ではありません。包丁をもって暴れていたとのこと。ただね、日本では、射殺はけしからんというバカがいるのです。警官だって生身の人間です。自分を守る権利はある。私は、ご意見番として、射殺した警官を断固擁護するつもりです。

怪我をしている男
アメリカでも、犯人はその場で射殺されることは多いのですが、でもこの場合は、警官は不意に襲われたわけでもなく、しかも警官は5人もいて、その包丁男を追いつめていたのですよね、だったら、人質をとってもいない、ただ丸腰の相手を,射殺したということになる。アメリカの警官は、そんなことはしませんよ。その男は、銃を乱射したのではなく、包丁を振り回していただけ、つまり丸腰の男を射殺した? ちょっとひどくないですか。

暗田
まあ、詳しい事情はまだわかっていないので、調べてみないといけないのですが、こういうときにかぎって、警察の対応がまちがっているとかいう、やからが日本には多いのですよ。だからこれは正当防衛だったのだ、文句あるんかと、私がご意見番として、びしっと言ってやらなければいけないと思って。だから、これで失礼します。

怪我をしている男(乗客3)
丸腰の相手を射殺しておいて、正当防衛もくそもないのでは。アメリカでは、それは許されませんよ。日本にも武士道というのがあったのでは。

暗田
ああ、もうあなたと議論している時間はないので、ほんとうにこれで失礼しますよ。

怪我をしている男(乗客3)
いや、ナイフを持って暴れる相手がいたら、それがナイフの名人とかプロの殺し屋ではなく、ただ頭のおかしい素人なら、また人質をとっているのでなければ、警察官それも5人もいた警察官なら対処できるのでは。それでも射殺した警官をあなたは弁護するのですか。射殺された男は、動物と同じなのですか、あなたのいう人命尊重は、いったいどうなったのですか。公の場では人命尊重を前提として共有すべきではなかったのですか。なんとか言ったらどうなんだ。

暗田
もう時間がないので、ほんとに行かないのまずいので、失礼します。

とタイムリープして消える。
付記1:
当時世界最大の客船であったタイタニック号は、イギリス・サウサンプトン発アメリカ合衆国・ニューヨーク行きの航海中の1912年4月14日23時40分(事故現場時間)に氷山に衝突し、翌4月15日の2時20分に沈没した。1,514人が亡くなり、710人が生還。これは1912年時点で、過去最大死者数を記録した海難事故となった。

付記2:
2026年8月4日午後7時ごろ、河内長野市の路上で、「包丁を持った血だらけの男が暴れている」との通報を受け、5人の警察官が現場に急行。警察官らは「刃物を捨てろ」と再三警告したが、男性(60)は応じず、刃体約16センチの包丁を向けて近づいてきたという。これに対し、男性巡査部長(32)は空に向けて威嚇射撃を1発行ったが、男性がなおも向かってきたため、2発目を男性の左胸付近に発射。銃弾は体を貫通し、男性は搬送先の病院で出血性ショックにより死亡が確認された。



posted by ohashi at 20:42| コメント | 更新情報をチェックする

早口言葉:指示対象なき言語3

最初から人為的に作られた早口言葉は、指示対象なき言語の最たるものかもしれない。いや、「東京特許許可局」という早口言葉があるではないかといわれるかもしれないが、「東京特許許可局」もまた指示対象なき言語の最たるものである。「東京特許許可局」という「官庁や部局は実在せず、架空の機関である。特許は許可を受けるのではなく、特許庁により認定されるもの」(Wikipedia)なのだ。あるいは英語では、有名な‘She Sells Seashells by the Seashore’がある。

あるネット記事の記述をそのまま引用すると(なお句読点の「。」は引用者がつけた):
この早口言葉は、Sの発音と Shの発音の違いを見分けるのに役立ちます。
日本語には シはひとつしかないけど、英語は ʃ と sがあります。
She (ʃíː) 初めの She は shなので、ʃ シー。
sea (síː) seaの sは ガス漏れのようなスーに母音のeをつける感じで発音します。ABCのCと同じ発音です。
sells (selz) sellは「~を売る」という意味の他動詞です。「売れる」という自動詞でも使われます。
shells (ʃélz) shell は貝がらのことを言います。
shore(ʃɔr) 海岸、沿岸のことを言います。 seashore も同じ意味です。
She sells seashells by the seashore.
(彼女は海岸のそばで貝がらを売ります)
要は「シー」と「スィー」とを区別するための、あるいは区別よりはむしろ混同を面白がる早口言葉ということになる。

Nursery Rhymesのひとつでもある。タイトルはその歌詞のからとって‘She Sells Seashells by the Seashore’あるいは ‘Sally Sells Seashells by the Seashore’(Sallyは歌詞の中に出てくる女性の名前)として知られる。1908年 Terry Sullivan作詞、Harry Gifths作曲のミュージック・ホールの歌として有名になったのだが、元歌はThe Family Herald; a Domestic Magazine of Useful Information and Amusement(1871年12月号)に掲載されているとのこと。

‘She Sells…’は、基本的にまぎらわしい発音の単語をならべて早口言葉歌を作るために人工的に構築されたもので、指示対象はない。海岸で貝殻を売るというのは、言葉遊び的には面白いのだが、内容は全くナンセンスである……。

ところが、この歌詞は、メアリー・アニングを想定している、あるいは彼女の存在からインスパイアされたという説がまことしやかに唱えられるようになった。

メアリー・アニング(Mary Anning1799 - 1847)は、イギリスの初期の化石採集者で古生物学者だが、いまでは、不当にも貶められていたその功績が正しく評価・再評価され、最も著名な英国の女性科学者のひとりに数え上げられている。その彼女の名が一般にも知られるようになったのが、 ‘She Sells Seashells by the Seashore’の歌なのである。

メアリー・アニングは、生まれ故郷のイギリス南部沿岸ドーセット州のライム・リージス村で暮らし(その地は日本の福井県みたいに化石が多く含まれる地層に恵まれていた)、化石収集をして古生物学の研究をしながら、生計のために化石を観光客に売っていた。貝殻も売っていたのかは不明(その「貝」はアンモナイトの殻(平たい巻貝状)の化石のことだったかもしれないが)。だから実のところ、‘She Sells Seashells by the Seashore’が、彼女のことだというのはあとからのこじつけであろう。漢字の「道」の成り立ちと同じで、フィクションである可能性がきわめて高い。そのため現在は、この早口言葉が彼女のことを指しているとは信じられていないかもしれないが、同時に、彼女のことだとも伝えられている。
【ちなみに昔イギリスにいたとき、女装しているテレビタレントがいて、どうみても男性(まあマツコ・デラックスの先輩みたいなタレントなのだが)なのに、あらゆる媒体が、そのタレントを女性代名詞(She, her)を使って指示していたので、私自身、自分の判断に自信をもてなくなって、真剣に調べてみたら、やはりというか当然、男性であった。で、結局、その後、そのタレントのことを、男性だとわかっているが、私も一貫して「彼女」と呼ぶことになった。これは、She Sellsがメアリ・アニングのことではない(証拠がない)とわかっていても、あらゆる資料が、いまなお彼女とその早口言葉を結び付けているのと似ている。】

とはいえ、もし、それが真実であったとしたら、ナンセンス・ソングが実は現実と歴史のなかに存在していた指示対象をもっていたことになり、これはひとつの驚きの発見となる。いっぽう、もしこれが捏造であったとしたら、本来謎めいていたり無意味なもの、指示対象のないフレーズと思われていたものに、無理やり物語なり歴史なりを捏造して指示対象を創作・捏造したことになる。おそらく「道」の漢字に対してこじつけられた切られた首の話のように。

ここで興味深いのは、発見と捏造が、その効果は大きく異なるのだが、構成が同じになる場合である。古生物について記憶のある人間はいないので(人類登場以前に絶滅している)、古生物の化石の発見はりっぱな発見である――デジャ・ヴュ効果は生まれない、そもそもそんな古い時代の人類の集合的記憶などあるべくもないのだから。もし古生物の化石めいたものを自分で作って、それを自分で掘り出すか、他人に掘り出させて、発見だと大騒ぎすれば、これは詐欺であり捏造である。ところが記憶に残っておかしくないもの、たとえば今読んで、その内容のすばらしさを発見し感動した本が、実は、まえに一度読んだことのある本だとわかる場合――Xを認識⇒Xを忘却⇒Xを発見(実は、忘却したものの回帰)となり、この場合、デジャ・ヴュが起こりうることもある。

一方捏造の場合――Xをこしらえる⇒Xとは無関係を装う⇒Xを発見(実は自作自演)となる。ただしデジャ・ヴュは慎重に避けられ、絶対にあってはならないこととなるが、実は、すべて知っている、すべて記憶にあることとなる。

どちらもの場合も、忘却と無知がカギを握る。

ほんとうの発見ということもあるのだが、時として、実はすでに発見していることを忘れて再度発見することがある(この裏返しが、自作自演の詐欺的捏造である)。フロイト的にいうと「抑圧されたものの回帰」である。これが起こるのがなんとも興味深いのだ。それは無意識のうちの心的防衛機制からもしれない。無意識が捏造と詐欺行為を招来するのである。そしてそれは文化的にも、忘却されたものの再発見と再評価とか、意図的な忘却と欺瞞的な発見といった、文化的捏造行為の場合もある。

そして私たちがこだわっている指示対象との関連でいえば、不在の指示対象が、実は忘却されていたか、指示対象の忘却を忘却して新発見の指示対象として見出されるか、あるいは不在の指示対象をあえて創造する――捏造する――される、欺瞞行為あるいは文化的創造行為が行なわれるのか、興味深い主題群がたちあがることになる。

発見された化石として。

メアリー・アニング自身に限れば、興味深いのは、彼女が自身の研究対象だった古生物学の絶滅した生物さながら、‘She Sells Seashells by the Seashore’というナンセンス・ソングのなかに化石のように埋もれていたこと、あるいは化石のように発見されたことである。化石ハンターだった彼女は、いつしか、自身が追われる発見される化石になっていた。

また、失われたものの発見は捏造と背中合わせになっている。考古学者が、自分で偽物を仕込んでおいて、それをさも発見したかのように大々的に喧伝するという詐欺行為はよくあることである。2014年2月16日から3月9日まで放送されたWOWOWの連続ドラマW『地の塩』(主演:大泉洋)は、最初、私は、松本清張の小説とまちがえていて、ドラマが大学の裏口入学がどうのという話ではないので戸惑ってしまったが、私がタイトルを間違っていた(ドラマのタイトル『地の塩』を松本清張の小説のタイトル『地の骨』とまちがえた――なお清張には『砂漠の塩』という小説もある)。『地の塩』における旧石器捏造は、現実に起こった「藤村新一」の捏造事件をモデルにしている。

メアリー・アニングの発見した化石は真正の化石だったのだが、なんという皮肉か、‘She Sells Seashells by the Seashore’のなかに発見された彼女という化石は、彼女のあずかり知らぬところで仕組まれたものだった可能性がたかいが、もし捏造でなければ、奇跡的な符合あるいは奇跡的な発見に近い――だからこそ、出来過ぎた話で捏造の疑惑が生まれたのだが。発見と捏造は、つねに背中合わせになっているというよりも、つねに手を携えているし、メアリー・アニングと‘She sells. . . ’の場合も、真実であれ捏造であれ、その符合はなにやら奇跡的だし、そこに神の技ではないにしても、歴史的・文化的な創造性を感知することができるのではないか。

発見が、すでに述べたように、抑圧されたものの回帰である場合(それ以外の場合もあるので、あくまでも限定的だが)、発見されたものはすでに知っていたものである。自分で仕込んでおいて、それをさも発見のように驚いてみせるのと、すでに遭遇していたのに忘れてしまい、発見であるかのように思い込むこととは、意図的か無意図的かという違い(だが重要なこときわまりない違いかもしれないが)を無視すれば、同じ構図を形成する。無意図的な場合、つまり忘却した場合、既知のものを発見と思い込むとき、発見の驚きと喜びが生まれる。忘却の人、無知な人のほうが発見の喜びが大きい、いや、そもそも発見を体験しやすい。いっぽう、記憶の人、経験が豊富な人ほど、発見から遠のくことになる。彼らにとって、太陽の下に新しいものはないからである。発見するものはすべて実は既知のものである(発見などありえないのである)。【なおあらゆる発見は、例外なく、すでに発見されていたものであるという観点もある。私はすでに発見されたものでないと発見することはできないという、ヴィトゲンシュタイン的観点は重要だが、ここでは、そちらの方向には舵を切らない。】

忘却の人、無知なる人こそ幸いである。彼らには数多くの発見の驚きと喜びが待っているのだから。だがこれは愚かさの証左でもあるとは、いわないで欲しい。

これを痛感したのは、メアリー・アニングを題材とした映画『アンモナイトの目覚め』(2020)を観たときである。ちなみにこの映画、ゲイ映画の傑作『ゴッズ・オウン・カントリー』(2017)のフランシス・リー監督作品で、『アンモナイト』のほうはレズビアン版となる。メアリー・アニングは生涯独身だったのだが、彼女がレズビアンであったという証拠はない。しかし映画のほうではメアリー・アニングは、彼女を尊敬する地質学者ロデリック・マーチソンとの交流なのかで、マーチソンの妻シャーロット(シアーシャ・ローナン演ずる)といつしか肉体関係をもつにいたる。ただし映画のなかではシャーロットはメアリー・アニングよりも若いのだが、現実には、シャーロットのほうがメアリーよりも十一歳年上だった。二人の間には、レズビアン関係というよりも、女の美しい友情の始まりがあったようだが、映画では年齢を逆転させ、史実に基づきながらもフィクションとして成立させている。

しかし、19世紀のドーセット州の海岸を軸とするこの世界線に含まれている化石(メアリー・アニングと彼女の秘められた性生活)としては、レズビアンしかないではないか。現実的証拠などあってもなくても関係ない。海を観ながら生まれる女性の美しい友情のはじまりがレズビアンにいたらなくして、その友情はなんであろうか。海辺の物語。水の物語として、海辺で売られる物語としては、同性愛物語こそがもっともふさわしいのではないか。

発見の驚きは、メアリー・アニングを演じている女優が誰かわからなかったことと関係する。予備知識なしで観たのだが、シアーシャ・ローナンはすぐにわかったのだが、メアリー役の女優、ベテランの女優ようだが、残念ながら私が知らない女優なので、映画を観た後調べてみようと思いつつ、エンドクレジットをみて驚いた。ケイト・ウィンスレットの名前がそこにあったのだが、彼女が誰を演じていたのかわからなかった。そしてやがてメアリー・アニングを演じていたのだとわかったとき、私は思わず驚きを声に出しそうになった。

映画のなかのメアリー・アニングは、その仮面のしたに、その存在を割ってみると、ケイト・ウィンスレットという著名な女優が横たわっていた。まるで絶滅した古生物の化石のように。既知の俳優を前にしていながら、未知の俳優と遭遇したと勘違いし、未知の俳優を発見したと思い込んだ――既に知っている俳優なのに。幸いなるかな、あるいは愚かなるかな忘却の人、無知の人、この私。

だが、メアリー・アニングをめぐる化石発掘物語は、これで終わることはない。

ジョン・ファウルズの『フランス軍中尉の女』の映画版(1981、日本公開1982)のなかでメリル・ストリープ演ずる19世紀の女性は、メアリー・アニングをモデルにしていた。1982年に日本でこの映画を観た私は、メアリー・アニングが誰かも知らなかった。ましては、『アンモナイトの目覚め』でもロケ地になっていたライム・リージス村とか、その突堤などについて、なんの感慨ももたなかったのだが、Amazonのなかでこの映画のDVDのレヴューアーのひとりは、2018年の時点で、こんなことを書いていた。「この映画を見てメリル・ストリープの美しさに溺れました。この頃に撮った ソフィーの選択、殺意の香り のストリープは本当に美しく思います。高校生の頃に見たときは女性の心の綾を知らず早く大人になりたいと思ったものです。30年以上経っても分かっちゃいませんが。大学の時にイギリスのライムリージスへ行ったのもいい思い出。今で言う聖地巡礼。冒頭のシーンのままの世界。突堤の先に立ってフランスの方角を眺めました。【以下略】」

「ライムリージスへ行った」だと。そこは、メアリー・アニングが貝殻、いや化石を売っていた海辺のある村じゃないか。‘She sells seashells by the seashore’と思わず口に出そうになった。1982年、この映画をみていた私は、44年後にライム・リージスがどこにあるのか知ることになる運命にあるとは夢にも思わなかったのだ。『アンモナイトの目覚め』を観ていた私は、まさかそれが『フランス軍中尉の女』へとタイムリープするはじまりとなるとは想像だにしていなかった。

目白の人気店で舌鼓を打つことから始まった私たちの旅は英国南部のドーセット州のライム・リージスの海岸で旅の終わりを迎えることになった。

いやほんとうはまだ終わらない。「舌鼓を打つ」が、現実に指示対象をもたない言語表現と思うかもしれない世代に対してそれはかつて現実に存在していたことを指摘した私は、‘She sells seashells by the seashore’という早口言葉歌という、現実に指示対象をもたないような言語構築物にも、実は指示対象があったことを指摘することになったのだが、ただし、その指示対象は後付けの捏造だった可能性もある。またそれが捏造であったとしても、捏造を含め、発見と忘却、抑圧されたものの回帰、記憶による発見の消去と、無知と忘却による発見の強化といった主題群が、化石という歴史でもあり社会でもありメタファーでもある象徴をともなって、あるいはメアリー・アニングその人とともに、ライム・リージスにおいて飽和することになった。

またさらにライム・リージスは発掘すれば次々と新たな化石(過去)が掘り起こされるのだが、ここでは、それについては触れないでおこう。

そして最後になって、私は思い出した。メアリー・アニングという、ゴッドハンド(藤原新一のあだ名)ともいえる化石ハンターを世に出し、彼女を一躍有名人にした、そしてもしかしたら早口言葉歌の題材にもしたのは、当時の博物学熱であったが、それについて扱った本を私は、翻訳していた、というか翻訳していたことを、すっかり忘れていた。『アンモナイトの目覚め』を観るまではというか、観てからもなお、まだ忘れていて、今回の記事を書くに及んで思い出した。
リン・L・メリル『博物学のロマンス』大橋洋一+照屋由佳+原田祐貨訳(国文社2004)【Lynn L. Merril, The Romance of Victorian Natural History(1989)】
である。私が学習院大学で教えていた頃に指導学生あるいは授業参加者として知ることになった二人の女性たちとの共訳だが、照屋由佳氏による丁寧かつ的確な訳者あとがきのあと、私自身が短いアポロギアを付記しているのだが、翻訳出版が大幅に遅れたのは私のせいである。共訳者のお二人と出版社には対して、私の怠慢をただただお詫びするしかなく、私は「序」と「むすび」しか訳していない(ほんとうはもっと多くを分担する予定だったが、私の怠慢によって共訳者のお二人の担当を増やすことになった)。そのこともあってか、忘却してしまったのはいたしかたないのかもしれない。

とはいえ覚えていることもある。出版当時、高山宏先生にこの翻訳を献本させていただいた。そうすると丁寧はお礼の手紙をいただいた。それに対して、私は、ヴィクトリア朝の博物学熱についての本としては、同じファースト・ネーム「リン」を共有している著者の本
リン・バーバー『博物学の黄金時代』高山宏訳(国書刊行会1995)【Lynn Barber, The Heyday of Natural History, 1820-1870(1980)】
のほうが、学術的にしっかりした本であって、リン・バーバーのほうは学術文献というよりも読み物的性格が強い本だと思いますと返信したことを覚えている。いまも、その評価は変わっていないが、ただ、リン・バーバー『博物学のロマンス』も、いま読み返してみると、実によくできた本で、思わず読みふけってしまう細部にあふれていた。忘却していたぶん、発見の驚きも大きい――なさけない話だが。また照屋さんと原田さんの翻訳も実によくできていて読みやすい――お二人の実力が如実にあらわれている。リン・バーバー『博物学の黄金時代』とともに、このリン・L・メリル『博物学のロマンス』も、19世紀英国の博物学熱について知るには有益な本であるので、おすすめしたい。

ただし両著作において、メアリー・アニングは、『博物学の黄金時代』では一か所、『博物学のロマンス』では二か所と、扱いが少ない。現代において、女性科学者を扱う本のなかでメアリー・アニングはもっと重要視されている。ジェンダーが研究の軸となる前の時代の本としてやむをえないことなのかもしれないが。

メアリー・アンニングは、私は記憶しておいてしかるべき人物だった。映画『アンモナイトの目覚め』は、原題はただの『アンモナイト』であるが、日本で「目覚め」というタイトルをつけた。私にとってもメアリー・アニングは、ただそれだけではなく、「メアリー・アニングの目覚め」というにふさわしい発見の対象、よみがえった指示対象であった。
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2026年08月05日

忘却と捏造:指示対象なき言語2

いまテレビで全国高校野球の開会式を実況中継していたが、開会式が終わり、第一試合が始まる際にアナウンサーは、いよいよ高校野球の試合が「開幕です」と語っていた。これも「舌鼓を打つ」と同じ表現で、甲子園球場には、開幕する設備は存在しない。開幕はそもそも、幕を開け閉めできる劇場のような屋内施設でのことだが、実際に、幕を開けることをしなくとも「開幕です」と語ることは日本語としておかしくない。「舌鼓」の場合と同じように。

とはいえ、おそらく多くの日本人にとって「舌鼓を打つ」というのは、指示対象のない、具体性や身体性を欠いた抽象的表現でしかないかもしれない。だから私のように「~などさまざまな絶品グルメが提供され、大吉らは舌鼓を打っていく」という表現を読んで、彼らは絶対に舌鼓を打っていないはずだから、この表現はおかしいと違和感を抱いたり、いきり立ったりする者は少数派か、もしくは私くらいかもしれない。

しかし、ここでは、少し違った方向に舵をきろう(この表現もメタファーだが)。

「舌鼓」の話だが、私は古い人間というか人間が古くなっているので、「舌鼓」の音を知っている。しかし、何度も述べているように、現在の若い世代にとって、「舌鼓」は架空の存在あるいは想像不可能な存在かもしれない。だから、「舌鼓を打つ」という表現を、食事に満足することを意味するメタファーではなく、言語表現のなかだけで成立する抽象的な言表(つまりメタファーではなく、そういう独自の表現)として受け止めるかもしれない。だからこそ、実際に、誰も、ほんとうに「舌鼓」など打っていないときでも、平気で「舌鼓を打つ」と表現していられる。

私が試みたのは、「舌鼓」というのはほんとうにあったと知らしめることである(そんなことは承知している人が多いことは認めつつ)。抽象的かつニュートラルなフレーズたる「舌鼓」が、人間の具体的な身体行為(どちらかといえば不快な)を指示対象としていたことに驚きを感ずる人たちに向けて私は語っている。もしかしたら、人によっては、これを驚きの発見と受け止めるかもしれない。まるで、なんの変哲もない石ころをたたいて割って観るとなかに化石があった(生き物それも絶滅した生き物の痕跡があった)というような驚きがそこにあるのかもしれない。

漢字の成り立ちについても同じことが言える場合がある。現在、日本人が使っている漢字は、現代中国で使われている漢字よりも抽象度あるいは記号性が少ないかもしれないが、それでも十分に抽象度が高いことはいうまでもない。そのため象形文字あるいは表意文字として発達しつつも、表意性は失われ記号性だけが際立つため、表意度ゼロ度の漢字は多い。

そんなとき「道」という漢字にはなぜ「首」がみえるのかという疑問がわいてくる。

ネット上の記事をパッチワークしてつなぎ合わせると、
「道」の部首である「しんにょう」は道で立ち止まる人の姿を表し、一方の「首」は人の頭部そのものをかたどった象形文字に由来する。したがって「道」は他人の首を持って歩く人の姿を表す。古代中国では征服した場所に新しい道を作る時に、被征服民の首を持って歩くという風習があった。土地の霊を鎮めるためには、その土地に由来した魂の力が必要であったと考えられ、征服時にはねた人間の首を持った練り歩き、土地の邪霊を祓い清めたという。
となる。これはけっこう有名な話で、テレビのクイズ番組などでも出題されたりするようなのだが、私はこれは、民間語源説(フォーク・エティモロジー)のような、後付けの捏造だと思っている。実際、諸説あって、この「首をもって歩く」説だけが、「道」の表意性ではないのだから。

指示対象がないと思われていた表現あるいは文字が宿していた具体的で思いがけない指示対象。整理してみると、「開幕」行為はおこなわれていなくとも「開幕」と語ることはできる。「舌鼓」の場合も同じで、具体的な「舌打ち音」がなくとも、舌鼓を打たなくとも、「舌鼓を打つ」と語ることはできる。「腹を切る」も、実際に切腹しなくとも、そう語ることはできる。ただし「舌鼓」には、「開幕」とちがって、あからさまなメタファー性は感じられないかもしれない(「腹を切る」も、若い世代にとっては切腹とも、あるいはそれに類する行為とむすびつかないかもしれない、あるいは、そういう日がいずれ来る)。

「舌鼓」(「腹を切る」も)は境界例である。そうした表現は、時がたつと、オリジナルな行為なり指示対象を認知できず、ただ人為的に構築されたもので、現実となんらつながりがないフレーズなりセンテンスと感じられるようになるかもしれない。やがてそうした表現は、原基となるようなオリジナルな行為や身体現象や事象がまったくないような表現、最初から、現実と歴史とのかかわりがない人為的あるいは人工的な言語表現とみなされることになろう。
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2026年08月02日

「舌鼓」:指示対象なき言語1

7月18日(土曜日)深夜(正確には――Technicallyには――7月19日だが)放送の『二軒目どうする?~ツマミのハナシ~』(テレビ東京系)で、お笑い芸人・博多大吉が“許せない後輩”に触れる一幕があったという記事(sirabee編集部「博多大吉、許せない“食事中の行為”を赤裸々告白 「それはないって」と思うことは…」)が目についた。

記事の内容は、酔っぱらいのたわごとを紹介するもので、どうでもいいことなのだが、出てきた「刺身の盛り合わせ」が酒の肴にぴったりで、こういう料理をご飯のおかずにして食べる奴はけしからんと番組のなかで博多大吉が怒っていたとのこと。酒の肴にしてこそ、美味さも引き立つ料理をご飯のおかずにしてむしゃむしゃ食べる無粋さはやめてほしいという主張らしいのだが、たしかに酒の肴あるいはつまみにこそふさわしく、ご飯のおかずにはふさわしくないものがある。たとえば枝豆だけをおかずにご飯を食べることは、可能だが、そうする者はいない。しかし刺身の盛り合わせはご飯のおかずにもなるではないか。刺身定食というのは邪道なのか? 酢飯とはいえ海鮮丼というのもあるし、寿司も刺身を白米(酢飯)で食べる料理ではないか。なぜ刺身と白米はあわないと決めつけるのだ。まあ加工肉のCMに出演している不道徳な二人(博多華丸・大吉--それにしても、よくもまあ加工肉のCMに出たものだ!)のひとりのごたくなど私は聞く耳などもたないのだが、問題はそこではなく記事のなかの表現。
■目白の人気店
大吉と俳優・タレントの松岡昌宏の酒好きコンビが、ゲストと一緒に名店の酒と肴を満喫しながら、ほろ酔いトークを繰り広げる同番組。
 今回はゲストの女優・円井わんと豊島区・目白駅周辺に集合、炉端焼きが名物の人気店「炉端と和酒と青森 あかきんぎょ」を訪れた。
元イタリアンシェフが青森から届いた食材を和洋問わず調理する同店だけに、こだわりのポテトサラダや納豆ちくわ天、くじらユッケ、刺身の盛り合わせなどさまざまな絶品グルメが提供され、大吉らは舌鼓を打っていく。
内容についてではなく、「舌鼓を打っていく」という表現。端的にいって博多大吉・松岡昌宏・円井わんの三人は、番組を観ていないのだが、まちがいなく舌鼓などうっていないはずだ。

しかし、日本語の表現として「舌鼓を打つ」の用法はまちがってはいない。

ネット上の『意味解説辞典』によれば(一部省略して引用)
「舌鼓」は「したつづみ」と読みます。「したづつみ」と読むこともできます。
「舌鼓」は、「舌を太鼓のように鳴らす」という意味があり、「美味しいものを飲食したときの、舌の音」を意味します。また「不満げに舌を鳴らすこと」も意味し、「舌打ち」と同じ意味も含まれています。「舌鼓を打つ」という言葉の場合は、前者の「美味しいものを飲食したときの、舌の音」という意味が使われています。これらを踏まえて「舌鼓を打つ」には、「美味しいものを食べたり飲んだりする場面で、舌を鳴らす音」という意味があり、そこから転じて「とても美味しいこと」「料理に満足すること」と言った意味があります。

「舌鼓を打つ」という言葉は、食事の場面で、美味しい料理を食べたり、美味しいお酒やソフトドリンクを飲んだときに、心から満足する様子を意味する言葉になります。そもそも「舌鼓を打つ」には、舌を太鼓のように鳴らすという意味がありますが、実際に舌で音を鳴らさない場合でも、「舌鼓を打つ」という言葉を使います。現代の食事のマナーでは、料理を食べて美味しいと感じても、舌を打って音を出したりしないためです。
つまり実際に「舌鼓を打って」いなくても、食事に満足したという意味で「舌鼓を打つ、打った」という表現は使えるのであり、まちがいではないことになる。

しかし、そうであっても、この「舌鼓を打つ」という表現は、メタファーとして回収するには、あまりにも身体的具体性が強すぎる(音声も伴うし)。つまりメタファーとしての、具体性身体性を捨象した抽象性に到達していない感じがする。なぜなら私は「舌鼓」について記憶があるからだ。

たとえば「腹を切る」という表現がある。切腹行為が、責任を取ることのメタファーになっている。「このプロジェクトが成功しなければ私は腹を切ります」と言ったりする。もちろんほんとうに切腹するわけではない。この場合は実際に成功しなくとも私は切腹などしないし、私が切腹することを誰も期待していないし、求めてもいない。ただし私は責任をとって辞任したり、私は自腹を切って(これもメタファーだが)損失分を補填するかもしれない。ただし、繰り返すが本当に切腹はしない。しかし、もしこれが江戸期より前で、ほんとうに切腹して自害した身内が私にいたり、私自身、いつ何時、ほんとうに切腹し自害することを要求されるかもしれない状況にいたら、私はメタファーとしての「腹を切る」という表現を不快に思うし、ほんとうに「切腹」しないのであれば、「腹を切る」という表現は使ってほしくないと思うだろう。

これと同じで、たとえば以前、20世紀の終わり頃だったか、テレビの旅番組で、あるタレントが、旅先の名物料理を紹介するときに、ほんとうに「舌鼓」を打って食べていて、観ていて実に不快だった。食レポをするたびにそのタレントの「舌鼓」が画面から聞こえてくる。そのタレントにしてみれば、自分の舌鼓によって、美味しさを視聴者に伝えようとしたのであって、視聴者への嫌がらせではないことはわかっているのだが。ちなみに、そのタレントが以後、食レポをする番組に登場したことはないのだが、多くの視聴者が私と同じように不快感を抱いたとは想像できる。

しかしそれは食事の場で「舌鼓」など、もう誰も打たなくなった時代のことだからこそ、私は不快に感じたのであって、もっとさかのぼれば、私が子供の頃は、誰もが、家族だろうが友人だろうが、舌鼓を打っていた。古い日本映画において食事を堪能するシーンを調べてみるといい。舌鼓を打っている人間が絶対いるはずだ。そして当時も、私のように「舌鼓を打つ」ことは品のない行為だと嫌っていた者は多いと思う。いまならなおさらのことそうであって、今現在、「舌鼓を打つ」日本人はまずいないだろう。

だから、ネット記事で「~などさまざまな絶品グルメが提供され、大吉らは舌鼓を打っていく。」などと書かれると、彼らは「舌鼓を打つ」というそんな品のない行儀の悪いタレントたちではないはずで、いくらメタファーとはいえ、また日本語表現として許容されているとはいえ、実際に「舌鼓を打って」いない者たちに対して、「舌鼓を打つ」という表現を使わないで欲しい。食事に満足するということを、現代の基準では下品きわまりない「舌鼓を打つ」という下品な行為で表現するのは、いかがなものかと言いたいのである。

ここから話は、どんな表現も、実はメタファーであって、メタファーではない字義通りの表現と思われているものも、実はメタファーなのだと話をつづくけることはできる。

現代の若い世代の人たちは、「舌鼓」の音は聞いたことがなく、「舌鼓を打つ」という表現も、具体的な身体行為に基づくとは夢にも思わず、口のなかにある鼓を打つという、詩的かどうかわからないが、なにか非日常的な表現として違和感を抱かないかもしれない。そもそも、あらゆる言語表現は、メタファーである。仮に文字通りの意味として受け止められる表現があるとしても、それは実のところメタファーとして受け止められなくなったメタファーに過ぎないかもしれないのだ、というかそうなのである。

そのため「舌鼓を打つ」といっても、具体的行為など想像すらできなくて、抽象的なメタファーとして受け止められていてもおかしくない。『意味解説辞典』(とはいえたかだか学校文法の域を出ていない通俗的な辞典だが)で述べられているように、実際に「舌鼓」を打っていなくても、「舌鼓を打つ」という表現は使ってかまわないのである。つづく
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2026年07月18日

地元の力/現地の力

日本の女性ボーカルデュオ・ユニットのPUFFY(パフィー)が1996年にシングル『アジアの純真』でデビューしてから30周年にあたるということで、最近、テレビで久しぶりに観ることになった。

そのパフィーはデビューしてから人気はうなぎのぼりで1997年には初の冠番組であるバラエティ番組『パパパパパフィー』(テレビ朝日系で深夜に放送、2002年3月31日までつづく)をもつにいたる。

その『パパパパパフィー』に大泉洋が出演していた。実際、大泉洋は当時まだ無名だったのだが、私自身は、その存在感からむしろ有名なタレントだろうと思っていた。大泉洋について知らないのは私だけで、すでにベテランの域に達しているお笑いタレントに違いないと思っていた。それが『パパパパパフィー』番組終了とともに、関東圏のテレビで見かけなくなった。北海道に戻り、ローカルなお笑いタレントとして地元で活躍していると聞いてほんとうに驚いた。私は当時、大泉洋を全国区のタレントだと思い込んでいたからである。

ただそれでも北海道のバラエティ番組で人気タレントとして活躍しているという話は伝わってきていて、それはどんな番組だろうかと興味をもっていたのだが、始めて北海道の釧路に行ったとき、宿泊するホテルの部屋で夜の11時頃にテレビをつけたら、大泉洋出演のバラエティ番組を放送している。途中から観たので番組名も番組の内容もわからなかったのだが、深夜のゆる~いバラエティ番組であることはわかった。これが北海道でしかみることのできない大泉洋の出演しているバラエティ番組かと感動したことを覚えている。私はそのときはじめて、いま自分が北海道に来ているということを実感した。

はじめての釧路行だったのだが、はじめての北海道旅行ではなかった。また、たぶんその番組は『水曜どうでしょう』だったと思うのだが、実際にはレギュラー放送はその当時終わっていて、特番なのか、あるいは別のバラエティ番組なのか定かではないのだが、消えた大泉洋と、その伝説的なローカル・バラエティ番組を観ることができたときの感激はいまでも鮮明に記憶している。

ちなみに私は、ああ、今、イギリスにいるのだと実感したのも、テレビを観ていたときだった。

20世紀終わりの頃のことである。イギリスのテレビのコマーシャルにガブリエル・ドレークが出ていたのである。みまちがいではなかった。いまならスマホかなにかで検索してそれが彼女であることをすぐにつきとめることができるのだが、当時は、またそんな時代ではなかったので、あとで雑誌などで調べて彼女であることをしっかり確認した。

それにしても日本のテレビではまったくみかけなくなったガブリエル・ドレークをイギリスのテレビでみかけたときの感激。それは、彼女をコマーシャルにでるくらいの日常的存在にしているイギリスという現地にしっかり触れることができたというという感激そのものだった。

ただし、ガブリエル・ドレークって、いったい誰だと疑問に思われてもしかたがない。

1970年から1971年にかけて日本のテレビでも放送された(その後も何度も再放送されている)SF特撮ドラマ『謎の円盤UFO』に出演していたムーンベースのエリス中尉といえば、私の世代の前後の世代の人たちには思い当たるふしがあるかもしれない。

イギリスのAPフィルムズ(のちのセンチュリー21プロダクション)は、それまで『キャプテン・スカーレット』や『サンダーバード』といった人形劇によるSFドラマを制作し、日本のテレビでも人気を博していた。『謎の円盤UFO』は登場する近未来的メカは、人形劇の『サンダーバード』的なのだが、ドラマの部分は俳優が演ずるという初の実写版であり、人気はたかかったと思うのだが、1シーズン(26話)で終わってしまった。

ただその影響は大きく、その一例としてたとえば『エヴァンゲリオン』をあげることができる。『エヴァンゲリオン』も『謎の円盤UFO』も、毎回、訪れる侵略者(使徒あるいはUFO)を迎撃する話である。『エヴァンゲリオン』のほうは、少年少女が巨大ロボットに搭乗して戦うという、『ガンダム』とか『マジンガーZ』(あるいは『ゲキガンガー』?)の設定を踏襲しているが、侵略者を撃退する秘密組織SHADOWとかネルフが存在し、その最高司令官(ストレイカー/エド・ビショップ & 碇ゲンドウ)には右腕的人物(フリーマン大佐/ジョージ・シーウェル & 冬月コウゾウ)がいたり、その組織のさらに上部組織も存在したり、あるいは司令部には男女のオペレーターがおり、さらに組織の活動を支える医師や科学者、そして基地の外で活動するエージェントがいるなど、シャドーとネルフはよく似ている。

なお『謎の円盤UFO』でストライカー司令のもうひとりの右腕となる女性のヴァージニア・レイク大佐を演じているワンダ・ヴェンサム(存命中)は、ベネディクト・カンバーバッチの実の母親である。また『謎の円盤UFO』 の出演者の多くは他界しているが、カンバーバッチの母親の女性、そしてエリス中尉役のガブリエル・ドレークは存命中である。

ガブリエル・ドレーク扮するエリス中尉は、ムーンベースで勤務中は、シルヴァーのコスチュームと紫色のウィッグをつけ、小顔で妖精のような宇宙人的な扮装(他の女性オペレーターも同じ扮装)だったのだが、ムーンベース外で勤務中のエピソードの回もあって、そこでは(いわゆるスッピンとは違うのだが、それに近い)別の表情をみることができ、強く印象づけられた。実際、私がイギリスのテレビでガブリエル・ドレークを観たのは実に20年ぶりなのだが、しっかり覚えていたくらいだから。

とはいえ、繰り返すのだが、これはパソコンもスマホもタブレットも一般化していない時代の話で、いまだったら、ガブリエル・ドレークがどうなったのか、簡単に検索して調べることができる。地元のテレビで遭遇して感激することはまずないだろう。まあだからであろう、海外旅行が下火になっているのは、円安の影響が大きいのだが、同時に、わざわざ現地に行かなくとも情報を得ることができる時代になったからでもあろう。
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2026年06月30日

ふざけるな

これはオールド・メディアの偏向報道なのか、ネットの虚偽・捏造・誹謗中傷記事(報道の名に値しない)なのか、その中間なのかもしれないが、ネット記事の低級さを如実に示す、こんな記事があった。

見出し
ふざけるな!「年金月20万円・70代夫婦」を戦慄させた一通の最終催告状。元凶は「42歳息子」に届いた差出人・日本年金機構の「赤い封筒」
THE GOLD ONLINE によるストーリー
この見出しからは、最終催告状(すぐあとにでてくるように日本年金機構の「赤い封筒」の最終催告状のこと)に対し、年金生活者の夫婦が「ふざけるな」と激怒したかにみえる。何も悪いことあるいは督促されることはしれないのにという理由で。だとしたら事件です。

しかし記事を読んでみると、最終催促状は、この夫婦に届いていない。え?

最終催促状は、夫婦の「42歳息子」に届いている。この息子が「元凶」らしいのだが、何の「元凶」なのかわからない。「赤い封筒」の最終催促状がその息子に届いたのは、息子が原因なのか。その場合、「元凶」とはいわないだろう。記事を読んでみると、最初の「ふざけるな!」は、日本年金機構に対してでも、「赤い封筒」の最終催促状に対してでもなく、「42歳の息子」に対してであるとわかる。はあ?

なんとも舌足らずな見出しだが、おそらく意図的なものだろう。つまり、つましい生活をしている年金生活者の夫婦に赤い封筒の最終催促状がとどたいた。なにかとんでもない事件が起こっている、そう思わせる、ひっかけの見出しである。

まず記事のイントロ:
近年、フリーランスや個人事業主などの不安定な雇用形態が増加するなか、国民年金保険料の未納問題が深刻化しています。日本年金機構の最新の業務計画によると、所得が一定以上で未納期間が長い滞納者に対しては、例外なく督促状が送付され財産調査が開始されるなど、強制徴収の基準が厳格化されています。背景には、日々の生活困窮から保険料の支払いを後回しにせざるを得ない困窮層の増加があります。そんな社会課題に直面している一つの事例を通して、その実態をみていきます。
とある。これに続く記事の内容をきちんと要約しているまっとうなイントロである。ところで、ふざけるなと叫んでいる老夫婦はいったいどこにいるのか。

イントロは二段構えである。記事の本文の冒頭がこれである。
とことん無駄を削る高齢夫婦の切実な日常
食卓に並んだのは、ご飯とみそ汁、あるいは、もやし炒め。2人分の夕食代は100円を切ります。
「今日はもやしが安くて、助かったよ」

佐藤正一さん(74歳・仮名)の妻、正美さん(72歳・仮名)は夕食の支度をしながらそう話しました。
これが、読者をさらにひきこむためのツカミの部分なのだが、これをみるだけで、うんざりする、ふざけるな、と言ってやりたい。続きを読む気がしなくなる。

なにが「今日はもやしが安くて、助かったよ」だ。もやしはいつも安い。もし、もやしが高い日があったら、それは大問題で、物価高ももやしにまで及んだかと暗澹たる思いがする。【もやし生産者には申し訳ないが、いまもやしは限界まで安くなっている。これ以上安くなったらとんでもないことになる。そんなこともこの記事を書いたAIあるいは人間は知らないとは!】

また「ご飯とみそ汁、あるいは、もやし炒め」の「あるいは」はどういう意味だ。なにが「あるいは」なのだ。この文章を作成したAIはかなり性能が悪い。人間が作成したのなら、その人間はかなり頭が悪い。

「佐藤正一さん(74歳・仮名)の妻、正美さん(72歳・仮名)は……」というフィクション。こんな夫婦がほんとうにいるのなら、表に出せ。仮名という口実のもとに、やりたい放題である。ふざけるな。そもそも「正一」に「正美」という名前。「まさかず」に「まさみ」? いくら仮名で適当に名前をつけているとはいえ、これでは夫婦ではなくて兄弟妹味じゃないか、AIが使いこなせていない。いっそのこと名無しにするか「山田太郎」に「山田花子」にすべきである。

つづいて
夫婦の収入は、2人分の公的年金だけです。正一さんが月13万円、正美さんが7万円で、合計約20万円。手取りにすると、月18万円ほどです。地方都市にある築45年の持ち家は住宅ローンこそ終わりましたが、固定資産税の積立、光熱費、通信費といった固定費に、毎年のように増えていく医療費を考えると余裕はありません。2人の食費は月1万円以内と決めています。とことん無駄を削る――そんな生活を続けていました。
こんなフィクションについてあれこれコメントするのはバカまるだしなのだが、月20万円の公的年金は少ないほうではない。ただし一人20万円ではなく夫婦で20万円というのは少ないかもしれないが、食費が月に1万円というのは困窮度が高い。あと年金にも税金がかかるが、給料と同じように年金額を税込みと手取りで分けるということは聞いたことがない。あとこれだけ困窮しているのなら、確定申告すれば、とりすぎた税金分は還ってくる。

夫婦で年金18万円、食費が1万円という困窮生活は、じつは、42歳のフリーランスの息子に仕送り(!)をしているからである。嘘だろう。息子のほうも仕送りを断れよ。ところがフリーランスの悲しさ、収入が安定しない。月18万円の年金生活者たる両親からの仕送りでかろうじて生きていけるという、ほんとうだったら悲惨な状態だが、フィクションなので怒りしかわいてこない。

このフリーランスの息子が、国民年金保険を長年未納。ついに「赤い封筒」の最終催促状が届く。未納分46万円を期日までに払えという。このフリーランス息子は自分で払えないので、両親に支払いを頼んだ。そこで、「ふざけるな」という両親の叫び。仕送りしていた金はどうしたのか。生活が苦しくて国民年金保険を支払わずにいた。「ふざけるな」。

ただ、国民年金保険が未納だったら当然催促状が届く。ふさけるなもくそもない。ふざけるな。それがふざけたことであるように書いてあるこの記事の見出し、ふざけるな。

また両親、貯金があったので、46万円、フリーランス息子のために払ったという結末。だったらいいじゃないか。このもやし夫婦。ふざけるなといってやりたい。もっと劇的な嘘をつけよ。ふざけるな。

国民年金保険を払っていないと催促状が来ますよ。その通り。当たり前である。

このもやし夫婦とフリーランス息子の場合、夫婦に貯金があってそれで未納分をすぐに払ったので、悲惨な結果にはなりませんでした。だったら事件でもなんでもないじゃないか。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。

なお附録としてこの記事の全文を掲載しておく。ふざけるな。
近年、フリーランスや個人事業主などの不安定な雇用形態が増加するなか、国民年金保険料の未納問題が深刻化しています。日本年金機構の最新の業務計画によると、所得が一定以上で未納期間が長い滞納者に対しては、例外なく督促状が送付され財産調査が開始されるなど、強制徴収の基準が厳格化されています。背景には、日々の生活困窮から保険料の支払いを後回しにせざるを得ない困窮層の増加があります。そんな社会課題に直面している一つの事例を通して、その実態をみていきます。

とことん無駄を削る高齢夫婦の切実な日常
食卓に並んだのは、ご飯とみそ汁、あるいは、もやし炒め。2人分の夕食代は100円を切ります。

「今日はもやしが安くて、助かったよ」

佐藤正一さん(74歳・仮名)の妻、正美さん(72歳・仮名)は夕食の支度をしながらそう話しました。

夫婦の収入は、2人分の公的年金だけです。正一さんが月13万円、正美さんが7万円で、合計約20万円。手取りにすると、月18万円ほどです。地方都市にある築45年の持ち家は住宅ローンこそ終わりましたが、固定資産税の積立、光熱費、通信費といった固定費に、毎年のように増えていく医療費を考えると余裕はありません。2人の食費は月1万円以内と決めています。とことん無駄を削る――そんな生活を続けていました。

それでも夫婦には、削れない支出があったのです。東京で一人暮らしをする長男の健太さん(42歳・仮名)への送金です。

健太さんはIT系のフリーランスとして働いています。年収はおよそ520万円。一見すれば安定した生活に見えますが、実態は違います。月収にしたら40万円強ですが、事業経費などを差し引き、実際に生活費に回せる金額は月22万円ほどだといいます。そこから家賃9万円のほか、光熱費・通信費などの固定費を差し引くと、収支はトントンでした。

またフリーランスのため、収入には波がありました。収入がゼロというときも一度や二度ではありません。そのような生活のなかで、「今月だけ頼む」と親に頼み込むことも珍しくなかったのです。そしてそんな電話が来るたびに、夫婦は3万円、多い月は5万円を振り込みました。

「親だから仕方ありません」

そのようななか、おざなりになっていたものがありました。国民年金保険料です。

「生活するだけで精いっぱいだった。後で払えばいいと思っていた」と健太さんは振り返ります。そしてその判断が、家族全体を追い詰めることになります。

日本年金機構から届いた「赤い封筒」に騒然
国民年金保険料は一定額で、所得が少ない人には免除や納付猶予制度もあります。しかし、制度を利用しないまま未納を続けると、督促や催告が段階的に進みます。

「役所へ行く時間もなかったし、何とかなると思っていた」

その「何とか」は続きませんでした。ある日、健太さんのもとに赤い封筒が届きます。差出人は日本年金機構。表には大きく「最終催告状」と印字されていました。中を見ると、健太さんの名前と未納額。その額は「約46万円」で、納付期限も記載されています。

「ごめん……今の俺じゃあ、とても払えなくて」

自分宛てに届いた封筒を差し出しながら、健太さんは何度も頭を下げたといいます。

日本年金機構『令和8年度(2026年度)業務計画』および厚生労働省の資料によると、保険料の未納者に対する強制徴収の基準は明確で、「控除後所得が300万円以上、かつ未納期間が7カ月以上」に該当する滞納者に対しては、例外なく督促状が送付され、財産調査が開始されます。かつては所得1,000万円以上の高額所得者が主な対象でしたが、段階的に拡大されました。

厚生労働省『令和6年度の国民年金の加入・保険料納付状況を公表します』によると、令和6年度に最終催告状が送られたのは16万8,456件、最終的に財産の差し押さえに至ったのは2万6,797件。最終催告状を受け取ったケースのうち、約6件に1件が実際に財産を差し押さえられている計算になります。

「ふざけるな! 俺たちが毎月送っていた金は何に使っていたんだ」

正一さんは激昂しました。しかし、健太さんも贅沢をしていたわけではありません。収入が安定しないフリーランスゆえ、親からの仕送りは収入が足りないときの補填として使いきっていました。また、余裕があるときのお金もすべて足りないときの補填にまわり、赤い封筒で支払いを迫られても、貯蓄はほぼゼロだったのです。

一方で、金融経済教育推進機構『家計の金融行動に関する世論調査(単身世帯調査)2025年』によると、健太さんと同年代である40代・単身世帯のうち、金融資産をまったく持たない「非保有世帯」の割合は32.1%に達しています。実に同年代の約3人に1人が余裕ゼロという厳しい現状があり、いざという時に身動きが取れなくなるリスクを抱えているのです。

結局、夫婦は定期預金を解約し、健太さんの保険料未納を解消しました。ただ、生活が苦しいとはいえ、保険料の免除・猶予制度は利用しない(させない)といいます。

「今、国民年金は満額もらえて月7万円くらい。あの子が年金をもらうころに何円になっているかはわからないけど、満額もらっても生活は成り立たない。それでも、もらえないよりまし」

厚生労働省は、保険料の免除制度や納付猶予制度の利用を呼びかけています。経済的に納付が難しい場合でも、放置するより制度を利用したほうが将来の年金受給や督促の面で不利益を抑えられるケースがあります。しかし、受け取れる年金額は納付した保険料に左右されます。保険料の免除・猶予制度を利用して、一時的に生活が楽になっても、その後、保険料の追納がなければ将来の年金は減額され、それが一生続くのです。

親は自分の老後を削って子を支える。だからといって、子が年金世代になったとき、十分な年金がもらえるわけではなく、負の連鎖を断ち切ることはできない――それが現実です。
わかりきったことを、いちいち、もっともらしく書くな。ネット民をバカにしているのか。ふざけるな。
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2026年06月28日

納豆のパック

最近かどうか定かではないが、人に迷惑をかける男女をぎゃふんと言わせてすっきりするという記事をネットで多くみかけるようになった。もちろんそうした記事のほとんどは、ふつうにみるだけで捏造であり虚偽であることがすぐにわかるようなものばかりだが……。

たとえば次のような記事
タイトル:納豆をパックのまま出すと「ありえない」「ズボラ」夫が深〜く謝罪した
「SNSの声」妻「スッキリ♡」       Coordi Snap の意見
内容の要約:これは細かすぎる夫にある方法で反撃した、私の職場の後輩の体験談です。
いちいち細かい夫にモヤモヤ私が言えなかった本音を、SNSのコメントが届けてくれました。そのおかげで食事の出し方について口を出されなくなり、私のモヤモヤもスッキリしました。【体験者:30代・女性会社員、回答時期:2026年4月】
※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
夫に納豆をパックの容器にいれたまま出すと、器に盛れといわれ、頭にきた妻が、SNSで夫への不満をぶちまけたところ、ネットでは夫がおかしい、夫が横暴だ、妻の苦労をわかっていないモラハラ夫だというコメントが多く寄せられ、それを読まされた夫は妻に深く謝罪したというもの。

ひどいおとぎ話である。納豆は毎日食べるものである。これはいつの話なのか。結婚して初めての朝、朝食に納豆を出したときのことか。あるいは結婚して第一日目でなければ、数日後ということか。たまたま月に一度納豆を出したのか。具体的な「いつ」がわからない。逆にその「いつ」が特定されたならば、新婚初日だったら、話し合ったほうがいいし、月に一度のいつかだったら、そもそも納豆は夫も妻も嫌いなのだろうから、最初から食卓にださないほうがいいとなる。具体的な「いつ」を示すと、この話はすぐに非現実的となる。そもそも、こんなことは実際にはないのだから。

またこの話の作者(体験談とは笑わせる)は全く常識がない。おそらく納豆をパックから容器に移し替えて出せと、形にこだわり、妻の苦労など意に介さず、こまかいことをいうモラハラ夫はけしからんということをいいたいのだろうが、そもそも納豆をパックのまま出したらだめです。健康上の理由から。

納豆のパックとは発泡スチロールのパックのことだろうが、健康食品である納豆を不健康食品にしているが、ひとつは添加物だらけの納豆のタレ、そしてもうひとつがこの発泡スチロールの容器である。くっついている容器をパカットあける。そのときマイクロプラスチックの微粒子が納豆にふりかけのようにかかる。納豆といっしょにマイクロプラスチックを食べることになる。もちろん、それは微量も微量のマイクロプラスチックなので、問題ないという意見もあろう。だが問題は、次、つまり納豆を発泡スチロールの容器のなかでまぜることが危険なのである。

納豆をまぜることで、発泡スチロールの容器の表面からマイクロプラスチックを大量に削り落として納豆と混ぜることになる。マイケルプラスチック入りの納豆のできあがりである。それを毎日食べる。健康にいいわけがない。

現在、プラスチック米というのがでまわっていて危険視されている。匂いを消し、長持ちさせるために、薬品処理をした危険な米が安く売られているという。それをプラスチック米という。べつにプラスチックでできているわけでもなく、プラスチックでコーティングしているわけでもない、プラスチックとは関係なくても、いまわしくて、危険な食品であることを強調して「プラスチック米」と呼んでいるらしいのだが、それにくらべたら納豆の発泡スチロールの容器は、納豆をプラスチック納豆にするために材料そのものである。

納豆は発泡スチロールの容器から、ガラスとか陶器の容器にうつしかえ、味付けをしたければ、添付のタレは絶対に使わず、自分でもっている醤油とかポン酢で味付けをすればよく、これが納豆を健康食品として食べる最良の方法。

納豆をパックのまま出さず、器に入れ替えろというモラハラ夫の要求は、妻の苦労をかえりみぬわがままな非常識な要求だとしても、健康上は正しい要求である。

そのことをほんとうにSNSで訴えたとしたら、夫の横暴さを非難するレスポンスのほかに、納豆は、いま述べたような理由から、パックのまま出さないほうがいいというコメントも多くあったにちがいない。そのため夫どころか妻も恥をかいたはず。とはいえ最初から作り話なのだろうから、恥をかいたのは作者だけだろう。

くりかえすが、納豆はパックのまま出さないほうがいい。パックに入れたまま納豆をかきまぜて食べない方がいい。これはかたちにこだわる、細かいことをいうモラハラ夫がどうのということではなく、健康上の理由である。いまほんとうに嫌われているプラスチックやマイクロプラスチックの問題を作者は知ったほうがいい。あと恥を知ったほうがいい。

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とはいえ陰謀かもしれない。というのも納豆の発泡スチロールのパックはやはり問題となっていることがわかる。発泡スチロールのパックはやめろという声は大きいのだと思う。その証拠に、ネットでは、納豆の発泡スチロールが、いかに理にかなったものなのか、運搬とか保管にいかに便利なものかを力説する業界のウェブページがいっぱいある。これには驚いた。発泡スチロールのパックでなければ、納豆を保管し運搬できないという議論を展開している業界の必死なさまにはあきれかえるばかりである。

パックのまま納豆を出す妻に文句をいう、かたちにこだわるモラハラ夫をやり玉にあげることで、納豆の発泡スチロールのパックの危険性から目をそらさせるために、駆り出されたのでしょう、いくらもらっているのですか――、「ライター業をしながら、実は現役の保育士でもある。その実体験を元にしたエピソードをSNS発信すると好評を得て、執筆者としても活躍するように。幼稚園教諭や歯科受付などの、多彩な職業も経験。読者からの共感の声やお悩み相談、体験談が届き、それらも元に執筆中。育児エピソードや義母・夫とのバトルなど、ママ世代から共感を呼ぶリアルな体験記事が人気」というEPライター:逢坂 ゆな さん。
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2026年06月15日

建国250年

1976年にアメリカ合衆国が建国200年を祝ったことは、私には記憶に新しい。あれから100年もたっていないのに何を祝うのかと思ったら、今年は建国250年ということ。勝手に祝えばいいし、トランプのような大統領を選んで世界に混乱を引き起こしている合衆国という国については苦々しい思いしかないが(もちろん合衆国民全員が悪いわけではないとしても)、ただひとついえるのは、日本という国に暮らす人間にとって、建国250年の合衆国は国として若い、若すぎる。

たとえば現在にいたるまで、さまざまに国家の体制が異なってきて、現体制になったのは、それこそ250年くらいだという国がある。王政から共和制に転換したフランスである。しかし、フランスには、アメリカなど足元にも及ばない、長い歴史がある。現体制の年齢を考慮しなければ、総じてヨーロッパの国々はアメリカよりは歴史が古い。また非ヨーロッパ圏ではインドとか中国はヨーロッパよりも長い歴史をもつ。アジア圏のなかで日本は、国家としてみると若い国なのだが、それでもアメリカと比べればはるかに長い歴史をもつ。

国が若いことは良い面もあれば悪い面もある。おそらく国が若いことへのコンプレックスからかアメリカは若さを強調してきた。どの主要国に比べても国が若いというのは、何もしなくとも国力を高いまま維持できる。国のありかたが擬人化される。元気溌溂な若者と、老いて弱っている老人。アメリカは前者で、その他の国は後者である。【実はこれは、アジアのなかで若い国である日本と、その他のアジア諸国との関係にもあてはまるのだが、ここではあえて追及はしない。】

だがこの擬人化において盛りを過ぎた老人にたとえられた古い国々は、その歴史の長さによって貴重な知的財産や伝統を数多く蓄積しており、学ぶべき師といえる存在でもある。そもそも若ければいいということにならない。経験と叡智をもつ年長者は、若者を指導できるような優位に立っている。古い国には学ぶべきことが多く蓄積されている。若い国にはそれがない。では、どうするか。

欧米圏における植民地表象では、非西洋、アジアアフリカ、オリエント圏は、歴史の古い国々は多いが、同時に、彼らは文明の進歩発達が不充分である。つまり非西洋は、老いた子供なのである。だから西洋が非西洋を指導しなければならない(いいかえると征服しなければならない)。なぜなら非西洋は文明化の度合いが低い子供だから。子供はしっかりしつけ、子供には大人の知識を教えなければならない。かくしてアメリカは大人である。非西洋は子供であるという図式ができあがる。

ただ子供である非西洋は大人のアメリカよりも年をとっている。親より大人よりも年をとっている子供。アメリカは大人であり、日本はアメリカに教えを乞う子供だが、親であるアメリカよりも年をとっている(建国250年なんて屁みたいなものだ、こちらは神武天皇のDNAが受け継がれているのだぞ)。だが老人は子供と相性がいい。孫と仲良しの老人ということではない。老人は耄碌してもしなくても子供にもどる。耄碌すればなおのこと子供じみてくる。だから若いアメリカにとって、日本を含む非西洋の国々は、基本的に、耄碌し子供並みの知能しかもたなくなった老人なのである。私たちアジア人・日本人は、こんなこと夢にも思わないが、アメリカ人の無意識の心象風景のなかでは、まちがいなく、アジア人は大人びた子供ではなく、子供じみた老人であることはまちがいない。

映画『マンダロリアン・アンド・グローグ―』は、エンターテインメントとしても、面白いとも思わなかった映画だが、タイトルになってあるマンダロリアン(銀河辺境で活動する賞金稼ぎ)とグローグー(ヨーダと同じ種族でマンダロリアンの養子で50歳だが、ヨーダ族ではまだ赤ん坊に近い)との関係が、擬似親子だが、この親子は子供のほうが年長である。マンダロリアンは顔を見せないことになっているが、映画の中で、顔を暴かれる。しかしペドロ・パスカル演ずるマンダロリアンは一時的に顔を出すのだが、映画のなかで8割くらいはマスクを着用している。素顔をさらすのは、彼が子供のグローグーよりも若いことを観客に知らしめるかのようだ。

ここに登場するのはヨーダ種族の子供だが、しかし、スター・ウォーズ・フランチャイズででは、そもそもヨーダというのは、子供のように小さな体の老人であって、子供じみていても老人であり、老人じみていても実は子供であったりと、老人=子供であり、それは非西洋人の表象そのものであった。しかも超能力をもって主人公たちを導いたり助けたりする。これぞ、よきアジア人(あるいは非西洋人)の植民地表象そのものであることは、どれほど強調しても強調したりないだろう【ただし、このことと、この映画のつまらなさとは関係がないのだが】。あとSFエンターテインメントに登場する宇宙人は、地球にやってくるぐらいだから、地球人が足元にも及ばない高い文明を出自としているのだが、アメリカに観光にやってきたか勉強するためにやってきた、未開の地域の非ヨーロッパ人の子供というイメージになることも付け加えておきたい。【これは冗談ではない。実際、このステレオタイプに私たち自身がみずからを適合させると、アメリカ人は親切にもいろいろなことを教えてくれる。まずは大人でも子供のふりをすることが、アメリカあるいは西洋での学びを成功させる秘訣である。】
posted by ohashi at 20:06| コメント | 更新情報をチェックする

2026年06月14日

プライム・パラダイム

ダイソーとは関係ありません。

パラダイム Paradigmは、文脈に応じていろいろな訳し方ができる語で、実際のところ、訳さずにただ「パラダイム」としている場合も多いのだが、ここでは「範型」と訳して、一種のモデルのようなものと考える。

モデルというと、一種の原型であり、それをもとに再現・模倣・変形操作を加えて何かを創造するものとすれば、範型は、創造過程において、出発点であり土台であり基盤であり、常に立ち返る原型ということになろう。

さらにいえば、paradigmには語形変化表という意味もある。変化、活用、ヴァリエーションの全体像をパラダイムともいう。break-broke-brokenという現在・過去・過去分詞了は、breakという語のもつ語形変化一覧(パラダイム)ともいえるし、またこの語形変化は同様の語形変化 steal-stole-stolenという語形変化一覧の範型・原型になっているといえる(逆もいえるのだが)。

あるいは、単語の活用レベルを超えて拡大解釈すれば、創造者が用いる、発想の、創造のための「テンプレート」といってもいい。ただし創造者が、それを意識していないこともある。

いっぽう創造者ではない受容者の場合、ある人工物を認識するとき、類似のもの、あるいは創造の原型なりモデルとなったものを想定することで、理解を深める場合がある。たとえ創造者が意識していなくとも、受容者にとっては、それが認識のための「テンプレート」といってもいい。

そのようなパラダイムとなりうるのが、ひとつは誰もがよく知っていて記憶にのこっている「童話」「フェアリーテイル」である。

とくに興味深いのは、大人が読んでも読むにたえる童話あるいはファンタジーである。つまりそこにいろいろな意味が読みこめるという、さまざまな解釈に開かれた物語が選ばれるようにも追われるのだが、同時に、人口に膾炙しているということも第一条件であろう。

ちなみにシェイクスピアの作品は、どれも童話はフェアリーテイルがパラダイムとしてあるという研究もある。とはいえ、シェイクスピアの主要な作品、そのあらすじがよく知られている作品もまた、パラダイムとして活用されることは多いのだが。もちろん、シェイクスピアに限らず、よく知られた作品ならどれでもパラダイムになりうる。たとえば『ハムレット』は悩める若者の悲劇のパラダイムとなってきたし、『ロミオとジュリエット』は、若い恋人たちの運命に翻弄される悲劇のパラダイムにもなってきた。とはいえ、『シンベリン』がパラダイムになったという話は聞いたことがない。『シンベリン』は、なにかをパラダイムにしているとはいえるだろうが。

たとえば桃太郎の鬼退治の話がある。近年ではそれが植民地征服戦争のパラダイムになっているという批判もあるが、そしてその観点は正しいと思うのだが、侵略戦争の要素を排除して、仲間を集めて悪と戦うというのは、黒澤明の『七人の侍』がそうである。もともとは日本の戦国時代に置き換えたアメリカ西部劇の日本版というつもりだったが、幸か不幸か、やがて本家のアメリカにおいて、『七人の侍』をパラダイムにして西部劇が作られた。また戦国武将の日本統一物語は、歴史上の人物たちはそのようなことを夢にも思っていなかっただろうが、後世の私たちにとっては、それは桃太郎物語の戦国版にみえる。桃太郎の物語は、まさにパラダイムであり、そのヴァリエーションは数限りなくあるだろう(ちなみに桃太郎侍というのは、桃太郎物語を、鬼退治=悪人退治としてパラダイムに使っているにすぎず、それ以外の点で共通点はないが)。

そのようなプライム・パラダイム、あるいはハッピー・パラダイム(ダイソーとは関係ありません)として、英米圏で、たとえば『オズの魔法使い』があげられるかもしれない。この場合、物語というよりもミュージカル映画版のほう。エメラルド・シティ、黄色いレンガの道、家・故郷ほどよいところはない、など『オズ』関連のテーマはけっこうあるだろうし、同時にまた発想の原点としても『オズの魔法使い』は依拠されることが多い。

あるいは私などもそうだが『不思議の国のアリス』なども、発想なり認識のテンプレートとしてよく使われる。私事で恐縮だが、私は『不思議の国のアリス』は、子供の頃に読んだが、さして面白い話とは思わなかった。そのため印象も悪かったし、記憶に残るようなものではなかった。当然、私にとって、およそパラダイムになりそうにもなかった。

ところが大学生になったころ、書店に、『不思議の国のアリス』を扱った現代詩手帖の増刊号が積んであった。おそらくアリス・ブームは始まっていたというよりも、その全盛期を過ぎかかっていた時期だと思うが、私にとってはなぜアリスがと不思議に思い――curiouser and curiouser――(なにしろ私が高校生の頃、通学の途中にあって毎日立ち寄っていた大きな書店に積んであったのは、毛沢東語録とか羽仁進の『都市の論理』という本ばかりだったので)、さっそく購入してすみからすみまで読んだ。そして原作も英語で読んだ――まあ英語はわかりやすすぎた。以後、アリス物語は私にとってはハッピー・プライム・パラダイムになった(ダイソーとは関係ないです)。

あるいはフランス語圏では『星の王子さま』がハイパー・プライム・パラダイムになっているかもしれない。是枝裕和監督の『箱の中の羊』であり、タイトルは『星の王子さま』のエピソードからとられている。

またその一作だけでは、とくに認識できなかったのだが、続編がつくられるにおよんで、にわかに似てきた映画がある。『アリス物語』がハッピー・プライム・パラダイムとして立ち上がってきたかにみえる映画、『プラダを着た悪魔』の1と2である。

前編にあたる『プラダを着た悪魔』は、ジャーナリストを目指す女性が、ひょんなことからファッション誌の編集者に応募して、編集長のアシスタントになる話である。ジャーナリスト志望の彼女にとっては、ファッション誌ならびにファッション業界の世界は、まさに不思議の国そのもので、そこに迷い込み、理不尽な編集長の要求に翻弄される彼女は、戸惑うアリスそのものである。しかし、最後には、彼女はファッション業界という不思議な国を後にして、最初から目指していたジャーナリストになる。まさにトランプの女王が支配していた不思議の国で、アリスが、夢から目覚めたように。

だが『プラダを着た悪魔2』では、ファッション誌とは縁を切り、ジャーナリストになった彼女は再びわけあってファッション誌の編集部にもどることになる。ちょうど、不思議の国を後にしたアリスが、こんどは鏡の国に赴くように。不思議の国ではトランプの女王が、鏡の国ではチェスの女王がともに暴君として君臨しているのだが、『プラダ』でも「ランウェイ」誌の女性編集長は、2ではやや衰えたとはいえ(コンプライアンス重視の風潮のなかで)、その暴君ぶりは健在である。そして主人公は、そこでアシスタントではなく特定のジャンルの記事の編集をまかされたとはいえ、編集長に翻弄されることは前作と同じである。やがて混乱のち、『鏡の国のアリス』のように、その不思議な国=鏡の国を去るかと思いきや、とどまる。アリスのように、不思議な国、ある意味、魔界でもあるそこでの冒険から帰還するのではなく(異世界にとりこまれるのではなく、断固として包摂を拒否するアリスは、のちの少女物映画のパラダイムになった)、そこにとどまり続けるのである――主人公は、なにものにも支配されない少女から離脱するのであろう。とまれ2度も不思議な世界に入ってゆく主人公は、アリスをまちがいなく彷彿とさせるのである。
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2026年06月08日

シン事なかれ主義と暗黒時代の幕開け

阿部慎之助元巨人軍監督の事件が驚きをもって迎えられたのが5月25日の逮捕報道。逮捕の理由は予想外のことで長女に対する暴行による現行犯逮捕。しかしその後すぐに釈放されるが、阿部氏は、巨人の山口寿一オーナーに辞任を申し入れ、監督の座を失うことになった。

発端は家庭内における姉妹の喧嘩で仲裁に入った阿部氏が長女から言い返され激昂し長女に暴行(どのようなものかは不明)。AIに相談した長女はAIの忠告に従い児童相談センターに相談、センターは警察に通報という流れのようだ。

家庭内の姉妹の喧嘩が、父親である監督の辞任にまで発展するとは、家族の誰が予想しえただろう。事態を重大案件へと加速させた元凶が、AIだと考えられるようになった。

何が起こったかはわからないままで、辞任会見のとき読み上げられた長女の手紙は、長女がAIに相談した事実をあかすもので衝撃的だったが、その手紙は本人が書いたものではないといまではみなされていて、真相は隠されたままであり、AIに相談した件も真実かどうか疑わしい面もあるが、一応、相談したものとしよう。

よりにもよってAIに相談しなくともとか、AIはそもそも感情を欠いた機械であって、このような案件の場合、適切な助言などできないという意見もある。

私の知り合いに、なんでもAIに相談して、助かっている知人もいるのだが、私自身はAIに相談したことはない。自分で調べられるものは自分で調べるようにしないと、それこそAIに振り回されてなにもできなくなると思っているからだし、AIに頼りきっている人は私の目からは依存症患者にみえる。

AI依存の人たちは、実は、好きでやっている。日ごろからAIと対話するのが楽しいのであって、ささいなことでもAIに相談する。AIに相談するチャンスができて、とにかくうれしいのだと思う。AIは頼りになるロボットであり、親友以上に親友じみている。人間よりも家族よりもAIと話しているほうがずっと楽しいのだろう。憶測だが阿部氏の長女は暴力をうけて動転し怒りと困惑のなかでAIに頼ったのかもしれないが、AIに相談する機会ができてうれしかったのかもしれない。この点が今回の事件で見落とされていることのひとつ。

いっぽうAIの回答を検証すると、たとえば警察を呼ぶというような選択肢を示しつつ、ただ警察の介入を要請すると、父親は逮捕され罰せられ、職を失うかもしれないから、警察の事案に値するかどうか冷静に判断しましょう――というような助言をAIはしてもよいだろ。しかしAIは人間がプログラミングしたものである。その際、冷静に慎重にという助言をして、相談者がそれに従うと、事態が悪化して取り返しのつかない惨事を引き起こす可能性もある。そうなるとAIが慎重な情勢判断を促し警察を呼ぶのを最後の最後の手段としたことが大惨事につながったとしてAIが徹底的に攻撃される。したがってAIは、児童相談センターへの相談という積極的な行動プランを推奨するしかない。慎重論はAIとそのメーカーにとって命取りになりかねない。少々大げさでも大事をとって思いきった手段にうったえるしかない。そうしないで惨事を招くよりも、騒いで事件にしたほうがまだ許されるということになる。この点、ネットでも指摘されているのだが、同時に、あまり強調されることのない観点である。

あとは同じことの連鎖である。児童相談センターでも、冷静に落ち着いてと助言し説得することは、それが大惨事を招くことになれば、責任を問われるのであって、警察に通報し、警察に介入してもらうしかないということになる。

警察がかけつけたときには、姉妹喧嘩もおさまり平穏をとりもどしていたかもしれないのだが、大事をとって父親と娘たちを引き離すために父親逮捕に踏み切ったのかもしれない。これも当事者たちを放置して家族間での解決に任せたら、死傷事件まで起こったとなると警察の大失態であり重い責任を問われることになる。事態は、たとえば長女の思いとか家族の思いに反して、加速度的に大事になるしかなかったのである。

事なかれ主義というのは、重大事にならないことを願って騒ぎ立てない(消極策)とか、すでに起こってしまった重大事を観て見ぬふりをする(黙殺策)、あるいは端的に抑圧すること(隠蔽作)をいう。なぜ、そうするかといえば、自分がかかわりたくない、ひいては自分が責任をとりたくないためである。

今回の事件は、これとは逆に、長女、AI、児童相談センター、警察、みな積極策を講じている。果敢に攻める姿勢をみせていて、事なかれ主義とは無縁というか正反対のように思われる。しかしその根底は同じである。つまり誰も責任をとりたくないから、大事になる選択肢にとびつく。AIやAIメーカー(プログラミングした人間)は責任をとりたくないから児童相談センターへの相談をすすめ、センターも、訴えを却下し無視したと思われては責任問題になるので、ただちに警察に通報し、かけつけた警察官も、家族に解決をゆだねると惨事が起こってしまうと責任問題になるので、ひとまず逮捕ということになったのだろう。

誰もが責任をとりたくない。結局、これは事なかれ主義と同じである。いや、もしかしたら、現代の事なかれ主義というのは、最悪を常に見越し、どんなにささいなことでも積極的に警察沙汰にすることだともいえようか。

事件を前にして、それがなかったかのようにふるまう事なかれ主義と、事件を前にして最悪の結果をつねに予想して大事にする裏・事なかれ主義、いや現在の事なかれ主義(責任をとることを嫌う)とは、つねに重大化する、あるいはつねに警察沙汰にする、積極的対策しか眼中にないものかもしれない。

昨今の気象庁の警戒警報をみればわかる。地震があり津波が様相されると広範囲に津波警報が出される。各地の津波到達時間と津波の大きさが告げられ避難するようにいわれる。30センチという予想よりもはるかに下回る津波、あるいは津波かどうかわからない津波が観測され警報をだすほどのものではなく、住民の日常生活が大きく乱される。しかしそのことには気象庁は無頓着である。もし万が一大きな津波がきて甚大は被害を出したらこまるし、その際、安全宣言でも出していようものなら責任者の首がとび、警報なり注意報の信用度が失われる。だからはずれてもいい。大災害を予想して警報をだしておけば、文句はでても批判されても、気象庁の権威と信用は傷つくことはない。保身と責任回避からなる事なかれ主義が、かつては重大事態を抑圧したが、現在では、重大事態を積極的に想定する、もしくは作り出すのである。現在の事なかれ主義は心配性の仮面をかぶっている。

阿部元監督の事件は、AIも公共機関もどちらも最悪の事態を想定して積極策を講じている。これが現在の風潮である。阿部元監督は現在の事なかれ主義の被害者といえるだろう。大惨事を想定する、よくいえば心配性の、悪く言えば現代の事なかれ主義には、実は有効な反論が提示できない。安全を想定するよりも危機を想定することこそ危機管理の要諦となる。

だが、それでいいのか。そのはてにくるのはなにか。

容疑者を、最悪の事件を起こしたというだけでなく、最悪の事件をは起こしてもおかくしない重罪人として逮捕する。いや重大事件を想定して、事件が起こるまえに、容疑者を特定して逮捕する。まさに事件なき容疑者が一般化する可能性がある。事件が起こる前に、大惨事になる前に、危険人物を逮捕する。映画『君のクイズ』では、クイズ問題が読まれる前から正解を出す解答者があらわれる。ゼロ文字解答と呼ばれるのだが、それは、事件が起こる前から犯人が特定され逮捕されるという新たな時代の到来を告げる出来事ともなろう。ゼロ文字解答――このメカニズムが激化すると、犯罪が起きる前に、容疑者が特定されるまえに、重罪人として誰かがAIの指示によって死刑になる、そんな暗黒時代がいまそこに迫っているのである。

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