登場人物
暗田堕悪隷:ご意見番と称する日本人女性。2026年8月の日本からタイムリープする。
救命ボート操船担当の乗組員
救命ボートの乗客
乗客1犬を抱えた老婦人
乗客2老紳士
乗客3怪我をしている男
その他、救命ボート内に乗客多数。
場所
沈みゆくタイタニック号の救命ボート。
救命ボートは、ダビットにつるされ、海面へと降ろされるのを待っている。そこに、ある女性が日本から突然タイムリープして登場。
彼女は、ボートが海上に浮かべられるのを待っている乗客たちにむかって。
暗田
私の名前は、暗田――「あんた」と読まないでね。「あんでん」でもない。日本では私は「先生」と呼ばれているの。救命ボートの係員
学校でなにか教えているのですか暗田
いえ、日本で先生といわれるのは、学校の先生はもちろんだけど、医師、政治家も「先生」と呼ばれ、それ以外にも「弟子」のいる一芸に優れた人などが、「先生」と呼ばれるわね。救命ボートの係員
あなたの場合は?暗田
私の場合は、たくさんのアシスタントがいる……、そんなことはどうでもよくて、私は21世紀の日本ではご意見番と呼ばれているの。で、その天下のご意見番の私が、沈みかかっているタイタニック号で人びとはどうふるまっているか観に来てやったの。21世紀の人間たちに報告するんだから、しっかり、ほんとうの姿をみせなさい。で、いま気が付いたんだけど、あなた【と、老婦人に向かって】、犬を抱えているわよね。その犬はどうしたの?
犬を抱えた老婦人(乗客1)
私のペットで、いっしょに旅をしているのです。船が氷河にぶつかったときの混乱で行方がわからなくなったのだけれども、そのことを乗組員の方にうったえたら、通路でうろうろしているこのわんちゃんを親切なこの方がみつけてくれて、私のところに届けてくれたんです。暗田
う~ん、それは問題ね。まだ乗客全員の安否がわからないときに、あなたは自分のペットの犬のことを探してくれとうったえたのですね。犬を抱えた老婦人(乗客1)
探してくれとうったえたわけではありません。いなくなって心配だと言ったのです。あなたは犬はきらいなの?暗田
私は犬は好きですよ。動物は全部好き。でも、でもですよ、人の安否確認が終わっていない段階で、犬の安否を気遣うなどということは言語道断です。気持ちはわかります。でも人の救助や安否確認が終わっていない段階で、動物救出を訴えることには明確に反対します。救助活動や乗客誘導のために、乗組員の方たちは、この沈みゆくタイタニック号のなかでいま全力をつくしているのです。これから船を離れようとしている乗客の皆さんにとって、行方が分からなくなっている、もしくは離れ離れになってしまった身内や友人や知人のことは心配でならないはずです。そういう人たちにとって、そこに、犬猫の安否を気遣い、その救助を求めるような声があがったとしたら、それはどう響くのでしょうか。
何よりも人命優先です。少なくとも公の場では、その前提を共有すべきと思います。ですから乗組員の方に自分のペットを探し出してもらうというのは、あってはならないことです。
救命ボートの係員
ペットだけを探し出して、乗客のことを見捨てるなんてことはしませんよ。ペットを探すなかで、船内を迷っている乗客の方をみつけることもあります。そうすれば迷っているペットと乗客をともに安全なところに誘導できるので、ペットを探すことになんら不都合はありません。そもそもペットのわんちゃんは、ネコもそうですが、無力な存在ですので。暗田
なにをバカなことをほざいているの! いまは、あなたの尽力で、ペットの犬が見つかったからよかったようなものの、しかし、沈みかかっている危険な客船の船内で動物をみつけたり助けようとして、乗組員のあなたが命を落としていた可能性もあるわけでしょう。そうしたことにならないためにも、ペットは二の次、人命最優先という前提を公の場で共有すべきなのです。救命ボートの係員
まあ、まあ、そんなに、このご婦人とペットのわんちゃんを責めないでください。おまえも【と犬にむかって】助け出されてよかったよな、ご主人とはぐれたりしなくってよかったよな。【暗田にむかって】このご婦人もよろこんでいらっしゃるのですし、なにより、ペットを救うことができて、私たちもうれしいのですから。暗田
なにをふざけたことを言っているんだ、おまえは。よくみたら、この救命ボートにいるのは、幼い子供とよぼよぼの老人とかよわいご婦人と、あと、けが人か病人、それにペットしかいないわね。ほかに助ける人がいるんじゃないの。救命ボートの係員
いえいえ、人命尊重をしての結果ですから。そもそも、あなたが降りてください。そうすればあと一人は載せられますから。暗田
私はこの時代の人間じゃないから、ここで死んだりしないから、すぐに救命ボートを降りて誰かをかわりに乗せてあげる。心配しないで。でも、もうちょっと、まともな、生き残ってほしい人たち、その命を尊重できる人たちを先に乗せられなかったの?救命ボートの係員
先に乗せるべき人は、まず病人やけが人やそれに類する人たちです。次に老人や子供です。そして男性ではなく女性です。だから最初に海上に降ろされようとしている救命ボートに、こうした人たちが乗っているのは当然のことです。つまり、弱いか無力な人たちこそが先に救出される人たちです。人間とちがってペットの動物たちも無力です。ペットが飼い主といっしょに救命ボートにいることはおかしなことではありません。暗田
え~と、いいですか。そんな決まりなどあるのですか? 救命救出時のマニュアルに書いていある?救命ボートの係員
マニュアルに書いてあるかどうか知りませんが、またそういうルールがあるかどうか知りませんが、そういうことになっているのです。みんなそれに従って行動しているのです。ここからもみえるでしょう、隣の救命ボートに、若い男が一人紛れ込んでいることが。老人や女子供のなかに、ひとりぽつんとね。あいつのことは知っているんですが、婚約者の女性といっしょに乗船しているのですが、その女性が画家志望の労働者階級の若い男といちゃついているところ発見して、嫌気がさしたのか、フィアンセのことはそっちのけで、自分だけ、さっさと救命ボートに乗り込んでやがる。あいつは鉄鋼王の御曹司らしいのですが、隣の救命ボートの乗組員はなにをしてやがるんだ。俺だったら、御曹司だかなんだか知らないが、あんな奴はつまみ出してやるんだが。暗田
あなた気でも狂ったんじゃないの? アメリカの鉄鋼王の御曹司なら、いずれアメリカの産業界を牽引する最重要人物になる人じゃないの、そういう人は社会に役立つ人です、そういう人こそ優先的に救出すべきでしょう。ここにいる人たち、あんたが担当のこの救命ボートにいる連中ときたら、病人、怪我人、障害者、老人、女子供――みんな人間のガラクタばかりじゃない。それにペットもいる。まともな人間、有能で優秀な人間を乗せずに、こんなのばっかり乗せて、いい、あんた地獄に墜ちるわよ。救命ボートの係員
ちょっと、あんたのいう御曹司、あいつですよね、いま隣の救命ボートで、後から乗り込もうとする人たちをオールを振り回して、押し戻そうとしているんじゃないですか。自分だけ助かればいいんと思ってんだよな、あいつは。暗田
ちがうわよ、あれは正しいことよ。この救命ボートもそうだけど、あの救命ボートももう人がいっぱいで、これ以上乗せたら、重みでダビットから外れて海に落下するか、海に無事に降りても乗客が多すぎてバランスを失って転覆するかもしれない。あの人のやっていることは、実は、ちゃんと理にかなった、正しいこと、りっぱなことなの。そんなこともわからないの、あんた。地獄に堕ちるわよ。救命ボートの係員
数人ふえたくらいで、このボートはタビットからはずれたり海で転覆したりしませんよ。あの御曹司は、少しでも多くの乗客を助けてあげようなんてこれっぽっちも思っていなくて、早く、この船から救命ボートで離れたいだけなんだ。ほら、あいつはまた、乗り込もうとした乗客をオールでぶったたいて押し戻した。自分だけ助かればそれでいいんだよ、あいつは。あんた、隣の救命ボートにところにいって、あいつに、あんたの好きな言葉をいってやりなよ、「そんなことをしていると、あんた地獄に堕ちるわよ」って。暗田
ふん、人間、正しいことをすると嫌われるものよ、あの御曹司は、みずから悪役をかってでているの。そこが偉いところよ。私だって、日本で、言いにくいことを、ご意見番としてずけずけいうものだから、悪役にされて、誹謗中傷されまくっているの。いまだってどこかのバカが、ペットについての私の発言を茶化しねじまげて悪意ある風刺をこしらえているに決まっているわ。救命ボートの係員
そういえば、あなたは、犬や猫が好きだって言ってたけど、ほんとうは、犬や猫が嫌いなんでしょ。暗田
何を言っているの、私は犬や猫は大好き。救命ボートの係員
でも、犬や猫というのは、まあペットですよね、だから人間じゃない、人命尊重の立場からしたら、ペットの動物は、人命救助のじゃまだから、船に残って船といっしょに沈んでもらうということですよね。動物が好きか嫌いかは関係ない。動物を救うのではなく動物を平気で見殺しにできるから、あんたは、こうした弱い立場の乗客たちのことを、がらくた呼ばわりして、見捨てればいいなんてことをほのめかせるんだよ。人命尊重、動物二の次なんでいうやつは、つぎは、人命もランク付けして、お金持ちの実業家や政治家たちを優先して、ごくつぶしの労務者とかよぼよぼの老人とか足手まといの子供なんか置いてきぼりにすればいいなんていいだすんだろう。暗田
いい加減にしなさいよ、私は人命尊重第一といっているだけよ。公の場では人命尊重を前提とすべきといいたいだけなの。だから、動物はだめ、かわいそうだけれども、人間のために死んでもらうしかない。冷たいようだけれどもそれはしかたがないの。だからこの救命ボートの、動物じゃないけれども、動物に近いガラクタどもを、いったん船内にもどして、もっとりっぱな人たちを乗せて海に降りるべきだっていっているの。とにかくこの救命ボートのなかはガラクタばかりなの。まあガラクタという言い方は失礼かもしれないけれどね。救命ボートの係員
ふん、あんたこそ、地獄に堕ちればいいんだ。老紳士(乗客2)
暗田さん、また水夫さん、そんなに怒らないで。暗田さんは、日本人だから、西洋人の習慣というかものの見方が異様にみえるかもしれないけれども、ガラクタの一人として言わせてもらうと、私だってもっと若くて元気ならば、こんな救命ボートにのって下船を待っているようなことはしなくて、この船の乗組員たちに協力して、乗客を誘導したり、ケガ人の手当てをしたり、私も少しは楽器がひけるので、あそこの楽隊のみなさんにまじって、乗客のみなさんたちを勇気づけたり慰めたりする音楽を奏でてもいたでしょう。あいにく、この歳なので体もいうことをきかず、頭もはたらきません。でも最初は、女性や子供を優先すべきで、私は男だから救命ボートには乗らいと言い張ったのだが、乗組員の皆さんが私の高齢をかんがみて救命ボートに乗れるように手配してくれた。だから、こうして救命ボートのなかで海に浮かぶのを待っているのです。なさけなくもあり、またありがたくもあるのですが。でも、もし私が若くて元気いっぱいで、実力も実績もある実業家であったという理由で、あなたのような人から優先的に救命ボートに乗るようにいわれても、後味が悪いだけですよ。ここにいる皆さん方を船内においてきぼりにして、私あるいは私のような実業家だけが助かっても、嬉しくなんかないな。
暗田
そんなことはないです。あなたの身内、あなたの安否を気遣っているご家族や友人たち、そして実業家なら事業関係者や会社関係者の皆さんたちは、あなたが助かったことを知ったら、心から喜ぶことでしょう。ガラクタをあとに残して、優先的にあなたを助けた乗組員の人たちを非難するような声はあがって欲しくないな。ほんとですよ。老紳士(乗客2)
まあ、興奮しないで暗田さん。私が、ガラクタの皆さんをあとに残して、自分だけ助かったら、あの御曹司みたいにですが、そうしたら、私は一生、死ぬまで後悔するでしょうね。このボートに連れてこられる前に、すでに、別の救命ボートが、一等船室の客だけを乗せ、三等船室の労働者たちを置き去りにして、もちろんペットなど海に放り出して、船から離れていったのを目撃しました。あの人でなしの連中は、かりに無事助かったとしても、その先、どうやって生きていくのでしょう。夜な夜な良心の呵責に苦しめられ眠れぬ夜をすごすのでは。もし私も同じようなことをしたら、正直いって、私は、あなたの好きな言い方を借りると、いずれ地獄に堕ちるでしょうね。暗田
だったら、どうするっていうの。あなたにはなにもできないでしょう。よぼよぼの老人なのだから。老紳士(乗客2)
そうです。私は高齢なので、助けてもらうだけで、なんの助けもできません。でももし今よりも若くて、気力と体力があれば、私はほかの乗組員のみなさんと協力して、ケガ人や病人、お年寄りや女性や子供たちを助け、救命ボートに乗せて送り出すことを、最後の最後まで続けるでしょうね。そしていまこの救命ボートに乗って待っているような人たち全員が、無事に船から離れていくことを確認してから、自分の身を救うことを考えるでしょう。ただ、その時は、もう船は沈みかかっている。あとは運を天にまかせて、この極寒の海に飛び込む(たぶん、この海では長くは生きられない)、あるいは沈みゆく船と運命をともにするでしょう。死ぬのは怖い。家族や友人たちと別れるのはつらい。孫たちともう会えないとわかったら胸が張り裂けそうです。でも、私は満足しています。年寄りや子供たち、それにペットを置き去りにして自分だけ助かったのではなく、無力な人たち、非力な人たち、自分で自分を助けることのできない人たち、そしてペットの動物たちをみんな助けたうえで、死ぬことができたのだから。私は地獄に堕ちるのではなく、天国で神様から褒められるでしょう――人命を尊重し、動物の命もなおざりにせず、自分を犠牲にしてよく頑張ったねと。まあ、それだけで大満足なのです。私は地獄に堕ちたくはない。とはいえいまは無力で何もできないのですが。
暗田
ふん、なにをくだらないバカ話を。公の場では人命尊重を前提としてほしいといっただけで、なんでこんなくだらないバカ話を聞かされなくてはいけないの、この私が。あ、いま21世紀の日本から連絡が入って、日本の警察官が、犯人を射殺したということ、これに対して射殺を批判するバカな連中がいるので、私としても黙っておけないので、これから日本に帰ります。みなさんも、この救命ボートで無事に生き延びることを祈っています。
怪我をしている男(乗客3)
あの~、21世紀の日本もたいへんなことになっているようですね。警官は、テロリストなんかを射殺したのですか?暗田
いえ、包丁をもって暴れていた男を射殺したらいい。怪我をしている男(乗客3)
殺人犯だったのですか?暗田(乗客3)
いえ、殺人犯ではありません。包丁をもって暴れていたとのこと。ただね、日本では、射殺はけしからんというバカがいるのです。警官だって生身の人間です。自分を守る権利はある。私は、ご意見番として、射殺した警官を断固擁護するつもりです。怪我をしている男
アメリカでも、犯人はその場で射殺されることは多いのですが、でもこの場合は、警官は不意に襲われたわけでもなく、しかも警官は5人もいて、その包丁男を追いつめていたのですよね、だったら、人質をとってもいない、ただ丸腰の相手を,射殺したということになる。アメリカの警官は、そんなことはしませんよ。その男は、銃を乱射したのではなく、包丁を振り回していただけ、つまり丸腰の男を射殺した? ちょっとひどくないですか。暗田
まあ、詳しい事情はまだわかっていないので、調べてみないといけないのですが、こういうときにかぎって、警察の対応がまちがっているとかいう、やからが日本には多いのですよ。だからこれは正当防衛だったのだ、文句あるんかと、私がご意見番として、びしっと言ってやらなければいけないと思って。だから、これで失礼します。怪我をしている男(乗客3)
丸腰の相手を射殺しておいて、正当防衛もくそもないのでは。アメリカでは、それは許されませんよ。日本にも武士道というのがあったのでは。暗田
ああ、もうあなたと議論している時間はないので、ほんとうにこれで失礼しますよ。怪我をしている男(乗客3)
いや、ナイフを持って暴れる相手がいたら、それがナイフの名人とかプロの殺し屋ではなく、ただ頭のおかしい素人なら、また人質をとっているのでなければ、警察官それも5人もいた警察官なら対処できるのでは。それでも射殺した警官をあなたは弁護するのですか。射殺された男は、動物と同じなのですか、あなたのいう人命尊重は、いったいどうなったのですか。公の場では人命尊重を前提として共有すべきではなかったのですか。なんとか言ったらどうなんだ。暗田
もう時間がないので、ほんとに行かないのまずいので、失礼します。とタイムリープして消える。
付記1:
当時世界最大の客船であったタイタニック号は、イギリス・サウサンプトン発アメリカ合衆国・ニューヨーク行きの航海中の1912年4月14日23時40分(事故現場時間)に氷山に衝突し、翌4月15日の2時20分に沈没した。1,514人が亡くなり、710人が生還。これは1912年時点で、過去最大死者数を記録した海難事故となった。
付記2:
2026年8月4日午後7時ごろ、河内長野市の路上で、「包丁を持った血だらけの男が暴れている」との通報を受け、5人の警察官が現場に急行。警察官らは「刃物を捨てろ」と再三警告したが、男性(60)は応じず、刃体約16センチの包丁を向けて近づいてきたという。これに対し、男性巡査部長(32)は空に向けて威嚇射撃を1発行ったが、男性がなおも向かってきたため、2発目を男性の左胸付近に発射。銃弾は体を貫通し、男性は搬送先の病院で出血性ショックにより死亡が確認された。
