2026年08月08日

『ヌーヴェルヴァーグ』2

ディザスター・アーティスト

前回の記事『ヌーヴェル・ヴァーグ』1は、副題をつければ、「プロジェクト:ヘイル・メアリー」あるいは「〈ヌーヴェル・ヴァーグ〉は〈プロジェクト:ヘイル・メアリー〉」とでもなろうか。今回の副題は〈ディザスター・アーティスト〉である。

リンクレイター監督の『ヌーヴェル・ヴァーグ』の最後に、映画が完成して、プロデューサーや仲間の映画監督たち(みな〈カイエ派〉の監督たち)を招いて試写会をおこなうところがある。上映後、出席者は、ゴダールに対して、出来上がった映画をぼろくそにいうのである。「史上最低の映画だ」とか「こんな映画はつくるべきではない」といった、罵詈雑言が出席者たちの口から飛び出る。

しかし、よく聞くと、彼らは、ゴダールが自身の映画評論で、既存の監督たちの作品をぼろくそにけなした言葉をそのまま、ゴーダ―ル自身にぶつけて遊んでいるのだとわかる。つまり彼らが口々にいう「最低の映画だ」という評価は、実は「最高の映画」ということの裏返しである。すばらしい、最高の映画だというかわりに、最低の映画だといって、からかっているのである。

【understatementの一種かもしれないが、ただし、これは「すばらしい」というかわりに「悪くない」という控えめな表現のことで、真反対の語を使って、けなしているようで事実はほめているという表現とは異なる。おそらく、反語法(antiphrasis)に近いか、その強烈なものではないか。これは、通常は、ほめているようで、実はけなす表現が多い(「こんなことがわからないなんて、あなたは頭のいい人ですね」というような)。今回の場合、これは反対語をぶつけてほめることになる――おまえは大バカ野郎だといって、ぼめする用法である。】

ただし、映画のその部分だけを切り取ると、やはり、素人が撮影した映画は、大失敗だったのかと受け取る観客がいてもおかしくない。そうならないのは、観客のほとんどが回顧的にみているからである。つまりゴダールの第一作『勝手にしやがれ』が完成したときは、大傑作として称賛され、大ヒットしたことを皆知っているから、裏返しのほめ言葉が、なにか洗練されたおしゃれな修辞であるかのように思えるのである。

なおこの試写会での反語的べたぼめは、実際にあったことなのか、今回の映画のなかだけのフィクションなのか私は知らないないのだが、いずれにしても、この映画が大いなる賭けであり、まさに成功したプロジェクト:ヘイル・メアリーであったこと、つまり一歩間違えば大失敗作、災厄的映画製作になりかねなかったことを暗示している。映画監督経験ゼロの映画評論家が限られた予算と時間ではじめて撮影した映画は、無残な結果に終わることのほうが多い。まさに奇跡が起こったのである。

しかし、危ない橋を渡ってというか、危ない橋を渡ること自体が、まさに冒険的あるいは運まかせの犯罪的映画製作であって、ゴダールの天才がかろうじて失敗作を成功作へと変貌させたのだということだけではすまされないなにかがある。実は失敗してかまわなかったのではないか。失敗に終わることこそ、最初からの狙いであって、ぶざまで無残な姿の廃墟となった映画を見せることができれば、それでよかったのだったのが、もののみごとに失敗して成功作ができてしまった。ほんとうは最悪で災厄の映画をめざしていたのではなかったか。ゴダールは、あるいはヌーヴェル・ヴァーグの映画製作者たちは、みんなディザスター・アーティストではなかったのか。

2017年、ジェームズ・フランコ監督・主演の映画『ディザスター・アーティスト』(The Disaster Artist)が公開される。最低監督の誉れが高いトミー・ウィゾーTommy Wiseauが、今にいたるまで唯一の代表作『ザ・ルーム』を撮影・完成させる話である。トミー・ウィゾー自身をジェームズ・フランコが演じ、ウィゾーの友人・支援者をジェームズ・フランコの弟デイヴ・フランコが演じている(兄弟だが、顔は似ておらず、おまけにジェームズ・フランコ自身メイクで顔をトミー・ウィゾーに似せているため、兄弟共演という印象はまったくない)。

アメリカの最低監督の系譜には、エド・ウッドがいるのだが、トミー・ウィゾーは、それに輪をかけてひどいというかド素人で素性の全くわからぬ監督で、演技経験なし監督経験なしにもかかわらず、映画を撮ろうとして周囲を困惑させ混乱を引き起こす。それでも映画を最後まで完成できたのは、不思議なことにウィゾーはお金をもっていた。とにかく金払いがよく、経費とか給与の支払いが滞ったりしなかったからである。もちろん完成した映画『ザ・ルーム』は歴史に残る最低の映画(反語ではなくストレートな表現)で、試写会では誰もが唖然として言葉をなくしたそうだが、それでも上映を重ねるうちに、サブカル的な興味からカルト的映画と評価されはじめ、一部で熱狂的なファンの支持を得るようになった。ただし、最低の映画であることにかわりはないのだが。

【映画のなかでトミー・ウィゾーの出自や経歴は謎であると語られているが、1955年ポーランドで生まれ、1984年にアメリカ市民権を獲得したことはわかっている。ただ、その資産の出どころは今もまだ謎とのこと。】

私としてはただの変人レベルなのか、精神障害すら疑わせる病人レベルなのか定かでないのだが、このトミー・ウィゾーという人物と、その惨憺たる失敗に終わった映画製作を、ゴダールならびにその『勝手にしやがれ』の撮影と同じようなものだという失礼な暴論を吐こうとしているのではない。

トミー・ウィゾーの『ザ・ルーム』の撮影・完成までを描く映画『ディザスター・アーティスト』(2017)は高い評価を得ている。すでに触れたのだが、エド・ウッドのような伝説的最低監督でも、その映画愛と情熱は、結果はどうであれ、人を感動させる要素をもっている。エド・ウッドよりも変人レベルがうえで、精神障害すら疑わせ(もしほんとうに精神障害者ならば、病人を見世物にしている点で倫理性が問われてもしかたがないと思うのだが、障害者かどうか定かではない)、また映画の知識なり見識はゴダールの足元にも及ばないトミー・ウィゾーだが、それでも映画愛には事欠いていない。『ザ・ルーム』の制作現場の混乱(まさに『ディザスター・アーティスト』が描いている情景)は、繰り返すが、その結果はどうであれ、映画『ヌーヴェル・ヴァーグ』が描くところの『勝手にしやがれ』の撮影現場の混乱にあ通ずるところはある。

いやふたつの映画は撮り方も似ている。一例をあげれば、ゴダールの映画撮影期間は20日と限られているのだが、同様に『ザ・ルーム』の撮影期間も40日と限られていて、どちらの映画も~日目/20日、~日目/40日と字幕を入れて映画製作の進展状況を逐一知らせるかたちをとっている。ゴダールは20日という限られた期日に映画を撮り終えたようだが、『ディザスター・アーティスト』では最初の方は5日目/40日とか30日目/40日というふうに経過が示されるのだが、気づくと、45日目/40日とか50日目/40日というように完全に撮影が予定期日をオーヴァーしてしまうのだ。まさにディザスター・アーティストの面目躍如といったところか。

また完成披露試写会では、『勝手にしやがれ』では、仲間の映画監督たちがぼろくそにいう(愛ある反語的表現)。いっぽう『ディザスター・アーティスト』のほうでは完成した『ザ・ルーム』の完成披露試写会では、最初のうちは観客は唖然とするばかりで言葉もでないのだが、最後には、あまりのばかばかしさに大爆笑の渦ができる(実はこれは映画だけのフィクションで、実際の完成披露試写会では観客は最後まで沈黙していたとのこと)。

どうやら『ヌーヴェル・ヴァーグ』の『勝手にしやがれ』秘話と、『ディザスター・アーティスト』の『ザ・ルーム』制作秘話では、陽と陰、ネガとポジのような関係になっていて、『ザ・ルーム』は、『勝手にしやがれ』がなりえていたかもしれない悪夢という位置づけになるかもしれない。

もちろん、それでよいのだろう。なにしろ、『ディザスター・アーティスト』を観ることで、ゴダールの偉大さがよくわかる。その大胆さと繊細さ、豊富な映画知識と映画愛に裏打ちされた映画製作の理念と実践、そして一歩間違えば大失敗に終わっていたかもしれない危険な賭けと、その勝利を通して、私たちはゴダールの天才性と時代の趨勢とをあらためて認知することになるのだから。そしてまさにこの正確な陰画が、トミー・ウィゾーとその大惨事ともいえる失敗作『ザ・ルーム』の撮影秘話なのだから。

しかしゴダール的ヌーヴェル・ヴァーグと、トミー・ウィゾーという思い出したくもないディザスター・アーティストは、表と裏、良性面(Benign aspect)と悪性面(Malign aspect)、光と影、顕在面と陰在面、現実態と可能態などという、決して出会うことのない、あるいは排除しあう(まさに表と裏のような)対立項ではなくて、互いに意識し、視野におさまっていた対立項ではなかったか。しいて言えば、両者は対立しているのではなく、類似しているのではないか。あるいはむしろ両者はひかれあっていたのではないか。

トマス・ウィゾー的な偏差値の低すぎるディザスター・アーティストを、高偏差値(まあ嫌な言い方ではあるが)のゴダールはあこがれていた、あるいはそうなろうと、つまりディザスターになろうとしていたのではないか、その第一作映画において、いや、その後においても、つまり即興撮影、整合性に対する無頓着にして無視、連続的ではなく不連続で断片的な映像、ウェルメイドではなくて芸術性の追求、それは、こじんまりであろうと大きなものであろうと成功する映画ではなく、失敗する映画を、最低とののしられる映画を追及したのではなかったか。

トマス・ウィゾーは、創造性もないのに、大成功を夢見ていた。いっぽうゴダールは、その創造性の横溢する映画製作において、大失敗を恐れていたのではなく、むしろ夢見ていたのだ。ヌーヴェル・ヴァーグが目指していたのは大失敗(fiasco)であった、大惨事(diaster)であった。

だが、皮肉なことに、フィアスコに成功したのは、成功を確信していたナルシスティックで愚昧なトマス・ウィゾーであり、ゴダールは、フィアスコに失敗しつづけた。そのように映画史を書き換えることができるのではないかと、『ヌーヴェル・ヴァーグ』を、『ディザスター・アーティスト』を思い出しながら観ていて思った。ゴダールこそ、真正のディザスター・アーティストになりそこねた映画監督ではなかったか。彼は、自分の手で、自分の目を閉じて、みずからの死を宣告しようとして失敗しつづけ、それを最後の安楽死まで持ち越すことしかできなかったのではなかったか。

まただからこそ、リンクレイターの『ヌーヴェル・ヴァーグ』は観ていて気にならないのだ。それが、そっくりさん総出演のフェイク映画、バッタモン映画であるにもかかわらず、ゴダールの精神を継承する正統的な映画にみえてしまうのだから。ゴダール役の俳優も、ベルモント役の俳優も演技経験や映画出演がほぼない新人といってもいい――彼らから刺激的で感動的なパフォーマンスを期待することはむつかしい、そもそも、彼らに求められているのは独立性の高い個性と存在感の顕示ではなく、そっくりさんとしての、なりきり演技でしかない。しかも映画自体も、モノクロ撮影で、『勝手にしやがれ』そっくり映画たらんとしている(ちなみに『勝手にしやがれ』を撮影したカメラを博物館のようなところから借り出して『ヌーヴェル・ヴァーグ』を撮影したとのこと)。そしてこのそっくりさん総出演の、『勝手にしやがれ』の物まね・そっくりさんB級映画が、みじめな駄作どころか、ゴダール映画の、その芸術的精神の(つまり不完全性、フェイク性、非整合性、安っぽさ、そして失敗志向の)体現者にみえてしまうのだ、いや、体現しているのだ。

しかも、ヌーヴェル・ヴァーグ映画について、あろうことか、ゴダールにとっては敵だったかもしれないハリウッド映画の監督が映画にするという、フィアスコと背中合わせとなった試行こそが、実は、ヌーヴェル・ヴァーグ映画の心髄の体現であったかもしれないことを、映画『ヌーヴェル・ヴァーグ』は教えてくれたのである。

【とはいえ、『カイエ』派は、ハリウッド映画を敵対視しているだけではなく、評価もしていた。ハワード・ホークス、ジョン・フォードらの戦前から活躍しているハリウッド映画監督たちは『カイエ』派による称賛によって再評価されたともいえる。またリンクレイターは、いうまでもなく、ハリウッド映画の監督としては異色あるいは異端的存在でもある。】

ちなみにジーン・セバーグ役のゾーイ・ドゥイッチは、リー・トンプソンの娘だが、リンクレイター映画によく出ている。私がタイム・ループ物の映画をよく見ていた頃、『ビフォア・アイ・フォール』というこのジャンルの佳作映画で、彼女は主演だった。それ以来、ずっと記憶しているし、いろいろな映画に出ている。そういえば、ゾーイ・ドゥイッチは、あろうことか『ディザスター・アーティスト』にも出演していた(演劇クラスの参加者ですぐに出番は終わるから記憶に残らないかもしれないが)。

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映画『ヌーヴェル・ヴァーグ』の最後に、映画が完成して、プロデューサーや仲間の映画監督たち(みな〈カイエ派〉の監督たち)を招いて試写会をおこなうところがある。上映後、出席者は、ゴダールに対して、出来上がった映画をぼろくそにいうのである。「史上最低の映画だ」とか「こんな映画はつくるべきではない」といった、罵詈雑言が出席者たちの口から飛び出る。

しかし、よく聞くと、彼らの「最低の映画だ」という評価は、実は「最高の映画」ということの裏返しである。すばらしい、最高の映画だというかわりに、最低の映画だといって、からかっているのである。

しかし、同時に、それはゴダールが無意識のうちに求めていたことを、彼の仲間たちがくみとったのだと言えなくもない。ゴダールが求めていていたのは称賛の言葉ではなく、最低の大失敗(フィアスコ)という言葉だったのだ。
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2026年07月24日

『マイケル』

是枝裕和が嫌いなある知人は、『箱の中の羊』を観たあと、まあ大人の事情で監督もたいへんなんだろうなと悪口を言っていた。私には、その知人の意見(悪口)は映画のどうでもよい細部の揚げ足取りにしかみえず、とても同調する気になれなかったし、大人の事情をいうのなら、映画『マイケル』のほうこそ、大人の事情で、こんな中途半端な作品にしかならなかったのではないか。大人の事情による改変は、『箱の中の羊』と比べれば、『マイケル』のほうが圧倒的に、比べるものもないほど大きいのだから。

そもそもオリジナルというか、いまや跡形もなく消え去ったオリジナルの『マイケル』は、少年に対するマイケル・ジャクソンの児童性虐待スキャンダルで始まっていたらしい。しかし、最終的にそれはなくなり、マイケル・ジャクソンという稀代の天才的アーティストが、親と家族の呪縛(とりわけ父親の呪縛)を離れ、独り立ちするところで終わっていた。それはまさに人生の半ば、人生の最盛期に達したアーティストの成功物語であった。もしこれが虚構の人物の物語なら、やや単調のきらいはあっても、よくまとまった、またよくできた成功物語として確実に一定の評価を獲得することであろう。

実際、この作品が評価されたかたちで消費されているとすれば、それはマイケル・ジャクソンをめぐる、とりわけ晩年のスキャンダルを無視しているか忘却しているか知らないかのいずれかである。だが観客が忘却していたとしても、映画そのものは忘れてはいない。

実際、今回の映画は、スキャンダルを忘れてはいない。というか異常なまでに気にしている。マイケル・ジャクソンは鎮痛剤の過剰投与で死亡したのだが(担当医師は有罪となった)、それは彼が公演中の事故で頭部に火傷を負い、その治療のなかで鎮痛剤を使ったため、望まぬかたちで、鎮痛剤依存症になったという言い訳が示唆される。

またマイケルの白斑症のことも紹介され、それを隠すために、肌を白くするしかなかったことが暗示されている。とはいえ白斑症の場合、白くなっているというか色素が抜けている部分を隠すのだから、メイクなどで自分の肌の色にあわせるのが通常のやりかたではない(メイクは治療にはならないのだが)。白くなった部分を隠すために、ほかも白くするなどいうのは聞いたことがない。だが、それが後年の白人化したマイケルを擁護する伏線にもなっている(その伏線が回収されたどうかははっきりわからなかった)。

あるいは心優しいマイケルは、病気の子供たちを絶えず病院に見舞いつづけていた。そのことは映画のなかで強調される。おそらくそれが、児童の性虐待スキャンダルへの伏線となっているのだろう。子どもたちへの慰問が幼児性愛と誤解されたとか、過剰なまでの子供たちの愛がいつしか性愛的なものにかわったのか、どう伏線を回収するにせよ、続編においても、というか続編の内容がスキャンダルまみれのものになるがゆえになおのこと、マイケルの聖人化が進むことになろう。そのために準備とみることもできる。

とはいえ続編の制作をにおわせているのだが、まあ、やれるものならやってみろとしか言いようがない。徹底した真実暴露のドキュメンタリー的内容でないかぎり、さすがに嘘と虚飾にまみれた後期マイケルの聖人化が通用すると思っているのだろうか。ちなみに、今回の作品は、スキャンダルが始まる直前で終わっている。今回の映画のなかでは、彼は聖人とみられてみおかしくはない。だが続編では、スキャンダルは配慮か無視の対象ではなく、そこに現前している――聖人化をまっこうから否定するかたちで。まあ、やれるものならやってみろ。

ただ、全面的な聖人化の今回の映画でも、意図的ではないかもしれないが、マイケルの目指した音楽の方向性、あるいはこの時期のグローバルな文化のなかでの芸術や思想文化のある種の方向性が垣間見えることは否めない。つまりそこには、いまや忘れらたわけではないが、また解決したわけでもないが、ただ顧みられなくなったポストモダン・モーメントがあったのである。

映画から観る限り、マイケルの好む音楽や映像はあきらかに白人かぶれであるからだ。いわゆる「黒人性」なり「ブラック・ミュージック」的性格は、感じられないし、それがあっても可能な限り抑圧されるかに思われる。彼は黒人のアーティストの列に加わるのではなく、白人文化のなかに参入しようとしているかのようだ。彼が目指すのは白人文化における自身の貢献なのである。

たとえば彼のお気に入りの俳優はチャップリンだし、その著名なミュージック・ビデオは白人が主人公のホラー映画から着想をされている--ともに映画のなかで語られる。おそらく、マイケルというか、彼と同時代の一部のアーティスたちは、みんなめざしていたのだ――ローカルな黒人性に呪縛されるのではなく、白人文化の継承者となること、それもただ継承者となるのではなく、白人文化に新風をもたらすこと、白人文化の変容を進化を促すような、後継者となること。

図式的に語ると、たとえば圧倒的に有力な過去の男性中心文化のなかで女性アーティスト(文人、研究者・学者、音楽家、画家その他の芸術家)は、どう自己の確立するのかという問題がある。第一段階は、男性文化を模倣すること、男性文化をつきつめることである。次に来るのは、最初の過程で失われる女性性を育み発展させる段階である。男性文化を模倣するのではなく、女性文化を新たにたちあげることである。そしてこれが一定の成果をおさめるようになったら、男性文化でもなく、女性文化でもない、あるいは男性文化的であるとともに女性文化的でもあるような、そうした新たな文化創造の段階がくる。同じことは西洋と東洋の近代以降の関係についてもいえる。最初は、進んだ西洋に追いつくべく東洋が西洋を模倣する。つぎに東洋がみずからの独自性を追求する段階がくる。そして最終的に、西洋と東洋の融合した、あるいはそのどちらでもない新たな文化が生まれる……。

しかし、この弁証法的過程は、どの段階においても残余が生じ、それが変容と発展を妨げる可能性がある。男性文化・西洋文化は、女性文化・東洋文化をすべて抑圧あるいは吸収しているわけではない。男性文化や西洋優位の段階でも女性文化や東洋文化はその存在を主張している。男性文化や西洋文化の一元的支配ということはない。また女性文化や東洋文化の再発見や発展は、男性文化や西洋文化を否定するものではなく、むしろ男性文化や西洋文化の庇護のもとで、つまり優位な文化のシナリオのもとで、あるいはそれがなければ構築・発達できなかったともいえる――文化はただ抑圧するのではなく、むしろ生産する(フーコー的な)。女性文化や東洋文化の仮面をとれば、そこにあるのは純然たる男性文化であり西洋文化でしかないかもしれないのだ――男性文化が女性文化を想像し、西洋文化が東洋文化を定義したということ。そのため最終段階は、捏造された女性文化や東洋文化ではない文化を、しかも純粋ではなくハイブリッドな女性文化や東洋文化を、模索することになろう。事態は純粋に、あるいは単純に、弁証的段階をたどらないのである。

この過程のなかでポストモダン的契機(モーメント)はどこにあるかといえば、それはつくられた女性文化や東洋文化あるいは黒人文化に対して抵抗するときである。それは女性性、東洋性、黒人性への回収と呪縛に抵抗することである。純粋な女性性、東洋性、黒人性――それを絶対的価値として信奉するアイデンティティ・ポリティクスの、なんとまあ、浅薄なことよ。あるのは、ハイブリッドな、捏造された、女性性や東洋性や黒人性しかないというのに。だとすれば目指すべきは純粋性への回帰ではなくて、ハイブリッド性に対してはハイブリッド性で抵抗することである――これがポストモダン的ストラテジーだった。

ポストモダン文化規範において敵となるのはアイデンティティ・ポリティクスなのである。だから女性らしさ、アジア人らしさ、黒人らしさを強調することは、一昔前のナショナリズム的アイデンティティ・ポリティクスに差しもどしておけばいいということになる。とにかくアイデンティティ・ポリティックスのおよばぬ圏域に逃げ込むか、あるいはそうした圏域を構築することが、ポストモダン文化の使命なのである。

おそらく20世紀末近くのポストモダン文化時代において、黒人性の主張(アイデンティティ・ポリティックス)への抵抗(アイデンティティを根拠にすることへの抵抗全般がというべきか)が、はじまっていた。黒人性の主張は、もはや時代遅れのものとなり、そもそも、主張される黒人性など虚偽の産物にすぎないということになった。そしてその結果……。

このポストモダン的契機は、21世紀における反リベラルの新自由主義、格差と差別を助長するポピュリズム、ローカル性(人種・ジェンダー・階級)を融解するどころか固定化するグローバリズムの時代になると、アイデンティ・ポリティクスは左右どちからも疎まれつつ利用されることになる。つまりアイデンティ・ポリティクスは、解放のためにも覇権のためにもかなめとなる枢軸となったのである。そしてこれは、マイケル・ジャクソンがアーティストとして目指そうとしていたポストモダン的・反アイデンティティ・ポリティクスを埋葬することになった。

この点を少し考えてみる。

映画『マイケル』のなかでも、マイケルが「魚の群れ」のようになって踊る群舞を誘導する場面がある。やがてそれはミュージックビデオ(MV)の「バッド」(Bad)において、マイケルがダンサー達と踊る地下鉄駅構内のシーンへと結実することになるのだが、今回、18分におよぶ、そのミュージック・ビデオをあらためて観てみた。まずマーティン・スコセッシがそのMVを監督していることにも驚いたのだが、同時に内容にも驚いた。なにが「バッド」なのかわかったようでわからないのである。

MVは、白人のエリート寄宿学校が長期休暇を迎え生徒たちが故郷へ向けて帰るところからはじまる。生徒たち一行にマイケルがいる。白人至上主義のような私立寄宿高校の生徒であるマイケルはそこで人種差別や階級差別の犠牲になっているかと思うと、その気配は全くない。彼はクラスメイトたちとほんとうになじんでいて、白人しかいないクラスメイトたちもマイケルのことを他者扱いしていない。【こうしたエリート高校は、実際はどうであれ、映画やドラマでは、悪の温床そのもので、いじめやリンチ、詐欺や盗難、あげくのはて殺人まで起こるのだが、このMVにおけるエリート寄宿学校の仲睦まじい生徒たちの姿は、ほんとうにこの世の者とは思えないユートピア的なものであった。】そして最後にマイケルはひとり、黒人たちが住み着く、自身の故郷に帰る。その地では彼は同世代のかつての不良仲間たちから、おまえはbadでなくなったとなじられる。その不良たちはbadというのはこうなんだと地下鉄の駅構内を歩く男からカツアゲしようとするが、マイケルは不良たちから男を救う。そしてほんとうのbadとはこうなんだと、地下鉄構内でのマイケルを中心とした群舞が始まるのである。

物語の流れからすると、エリート寄宿学校に通い、黒人性や庶民性を失い、人種と階級の裏切り者となじられる名誉白人のような人物が、自分は黒人の魂も庶民の魂も失っていないことを裏切り者ではないことを証明するということになる。このMVではBadは「らしさ」と結びつけて考えられている。Badは黒人らしさと結びつく。Badは貧民らしさとむすびつく。だがそれは差別的ステレオタイプ的(いいかえれば白人から押し付けられた)「らしさ」にすぎない。しかもそれは悪のイメージである。

これに対して、MVでマイケルが示すのは、そのすぐれた踊りの才能と、彼を中軸とする圧倒的迫力の群舞というのでは、なんの冗談か、なにがいいたいのか、ということになる。

いや、そう、ダンスは、つまるところ、現実のものではなく形而上的なものとなっている。黒人の魂の、あるいは黒人の卓越性の寓意的表象そのものなのである。いや「黒人の」ではない、黒人、白人を問わず、「人間の」卓越性、「人間の」もつ爆発的なエネルギーのようなものである。「悪」とは、犯罪的な暴力ではなく、人種的枠組みを突き破って輝きわたる激しい躍動と破壊的というか打破的な魂の叫びのようなものである。だからMVのなかで、マイケルは、不良たちの犯罪的悪とは異なる、爆発的変革的躍動的エネルギー(そう真の悪bad)を体現するのである。

ただし、これではポストモダンどころか恥ずかしげもないロマン主義だといわれそうなので、「悪」について、ほかの解釈が必要だろう。

かつて「ブラック」が「ビューティフル」だったように、「バッド」――黒人性あるいは貧民性に付与された指標――を、逆手にとるというか、機能転換して、良いものにすることが行なわれているのだが、たんに善悪を逆転させるということではなくて、「バッド」に、悪しき破壊性や犯罪性ではなく、自由な創造性なり芸術性をもたせることで、悪しき言葉を、望ましき良き言葉へと転換させるのである。これがポストモダン的契機だといえるのは、同時期、たとえば嫌悪感とか侮蔑をもって発せられた「クィア」――変態とか倒錯者とか奇人変人を意味するが、その主たる対象は同性愛者であった――というネガティヴなレッテルを、同性愛者を意味する隠語とするだけでなく、LGBTのどの範疇にも所属しない無所属性から生まれる自由と可能性を意味するポジティヴなレッテルに変えることが起こったのだが、まさにこれと似ている。

ただし「悪」がネガティヴではなくポジティヴなものにかわるといっても、オリジナルのネガティヴ性が失われることはなく、それどころかのネガティヴ性をしっかり保持しながら同時にポジティヴなものとして屹立するところに、この「バッド」は、ポストモダン時代の「クィア」と同じ境位にあったと思われるのである。

「クィア」は今でもそうだが忌まわしき変態・倒錯者・おかまを意味する侮蔑語であると同時に、あえてそのマイナスの侮蔑性を引き受けることで新たな可能性の領域を開く文化実践であり記述用語であり思想であり実践でありそして理論になりおおせてきた。なにしろ、この忌まわしい下品な「クィア」なものは、ジェンダー理論研究においては、その最先端ともいえる「クィア理論Queer Theory」としてアカデミックな場で熱く論議されている。ハイ・ロー・ミックスのこのハイブリッド性――まさにポストモダン手的文化アイコンの代表のひとつにふさわしい越境性は、脱アイデンティティ・ポリティクスとも連動していたのである。

マイケル・ジャクソン的「バッド」も越境性なり脱アイデンティティ・ポリティクスをみることができるというか、それを明確にねらっているように思われるのだが、エンターテインメントの世界では、マイケルのダンスの超絶技巧がもてはやされるだけで、その思想性は消費されることなく終わった――ブラック・ミュージック・ファンからの反発だけが、皮肉なことに、その思想性を正しく理解していたという結果を残して。
【これは私は知らなくて、ある人から教えてもらったのだが、日本における音楽評論における有名な事件のひとつとして、中村とうよう(1932 – 2011)が「マイケル・ジャクソンの『スリラー』に対して、ミュージック・マガジン編集長時代のクロスレビューコーナー上で「黒人のもっともダラクし果てた姿を見せつけられた気がする。(中略)1980年代という時代にこんな安っぽい音楽が作られたことを後世の歴史家のための資料として永久保存しておくべきレコード」などと酷評し0点という評価を下した」(Wikipedia)ことがあった。マイケル・ジャックソンの音楽がブラック・ミュージックではないことを(その反ブラック・ミュージック的思想性を)中村は正しく見抜いていたのである。】

だが、これはマイケルの個人的問題ではない。ポストモダンの時代は、ベルリンの壁の崩壊により東西冷戦の終結を迎えるのだが、それ以後、世界はグローバル化によって対立から統合へとすすみ、新世界秩序のもと、先進国と途上国の格差、北と南の格差、東洋と西洋との対立などなくなるかに思われたのだが、結局は、対立と分断は冷戦時代よりも激化し、さまざまな格差は解消されるどころか倍化されて継承され、ポピュリズムとファシズムの新たな台頭をみることになる。このなかでアイデンティティ・ポリティクスは、消滅するどころか、激化することになる。新人種差別、新ジェンダー対立、新民族対立、新階級社会……。もはや対立と分断は否定すべくもなく明白なものとなった。越境性は忘れ去られ国境は固定される。人種もジェンダーも階級も移動が禁じられる。

かくしてマイケル・ジャクソンのポストモダン的契機はグロテスクな反動性となって停滞を余儀なくされる。停滞、そう、マイケルは白くなり、白人文化にただおもっているだけだとみられるようになる。〈ブラック・オア・ホワイト〉という曲は映画『マイケル』で扱われている時代よりも、もう少しあとに発表されるのだが、白人みたいな顔をして、黒人性を捨てて、何が「黒人も白人もないか」だと批判されるようになる。マイケルは、その財産を白人的なドリームランドへの閉じこもりに費やすがいい。そしてあげくのはてに、幼児・少年への性虐待。ポストモダン的移動性・越境は、脱アイデンティティ・ポリティクスは、失敗したかもしくは劣化した美容整形顔として、その醜態をさらすことになった。つまり輝かしい越境の天使が墜落して、翼をもがれた老いたモンスターに変貌を遂げたのである。

映画が、今述べたようなマイケルのポストモダン的契機をドラマ化すればよかったのにというつもりはまったくない。たとえそれが大人の事情であっても、あるいはエンターテインメント映画の限界であれ、また映画が最終的が何を目指したにせよ、映画のなかでポストモダン的契機は、確かに、現前していた――どこまで気づかれるか、どこまで注目されるか、どこまで問題視されるかは別として。

もしそうなら、この映画『マイケル』は、失われた、あるいは失敗して醜態をさらすポストモダン的越境性に対するレクイエム以外の何物でもないのである。
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2026年07月16日

『シラート』2

地雷というのは、人間が踏みつければそれで即死ということになるものの、同時に殺すのではなく、けがをさせるための悪魔の兵器だとの指摘もある。対人地雷の場合、もちろん即死ということもあろうが、手足が欠損しても死にはいたらない。そうなると救護や看護に人手を取られるため、1人のために複数の人員が足止めを食う。それが狙いだというのである。

Sマインという第二次大戦中にドイツが考案した跳躍地雷がある。飛び出して空中で金属球をまき散らして、周囲の人間を複数殺傷する。おそらくこれが地雷の理想形だろう――殺さなくてもできるだけ多くの人間にけがをさせる。かくして地雷による負傷者は減ることはない。手足欠損者は増え続けるのである。

「対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約」(対人地雷全面禁止条約)が1999年3月1日に発効した。アメリカ、ロシア、中国、インド、パキスタン、北朝鮮、大韓民国、イスラエル、イラン、エジプト・シリア・サウジアラビア、そして東欧諸国はこれを批准していない。世界地図をみるとアフリカ地域のなかで、北アフリカのモロッコと西サハラが批准していないことが目立つ。

北アフリカの西サハラ地域は、過去に、スペイン、モロッコ、モーリタニア、この地での独立国家を主張するサハラ・アラブ民主共和国(独立を目指すポリサリオ戦線がアルジェリアに設立した亡命政府)、そしてアルジェリアがせめぎあう紛争地帯である。

この地には西サハラの領有を主張するモロッコが、ポリサリオ戦線によるゲリラ攻撃から沿岸主要都市を防衛する名目で建設した「砂の壁」がある。モロッコ軍が1980年代サハラ砂漠の砂を高さ数メートルに積み上げて作ったもので、周辺は鉄条網と地雷で防御されている。この壁は、イスラエルの技術者と専門家が中心となって建設され、総延長は約2000kmに及び、西サハラの南部国境を経て西サハラ領域内を南北に縦断、モロッコ・アルジェリア国境に達する。

ちなみに2020年、「モロッコはイスラエルと国交正常化で合意し、イスラエルを後押しするアメリカは見返りとして西サハラに対するモロッコの主権を認めた。……これによりモロッコはイスラエルと外交関係を回復した第6番目のアラブ国家となる」とWikipediaにはある。地雷原、砂の壁は、イスラエルまでからんでいる――まあ、国境防衛のためなら非人道的手段をもいとわないというお家芸ではイスラエルにかなう国はない。

『シラート』には西サハラ問題は出てこないが、しかし映画が舞台としているのは、まさにこの「砂の壁」の周辺の地雷原である――映画は、世界地図の中でも話題に上ることがあない、取り残された紛争地域をあらためて提示している。それはまた手足の欠損した中年ヒッピー男性を含む一行が地雷原に迷いこみ、犠牲者を出し始める頃から、観客が否応なく直面させられるテーマでもある。地雷原は現実の地雷原であるとともに、いったんそこに足を踏み入れたら進退かなわない砂の牢獄である。

【なおはっきりとはわからないが、映画の冒頭で大掛かりな音響設備が据えられる背後にそそりたっている断崖は、雄大すぎて人工的な「砂の壁」ではなさそうなのだが、しかし想像のなかでの「砂の壁」をイメージさせるのにじゅうぶんなものがある。
 レイヴ用の音楽は、砂漠からそそり出た断崖であるかのような、自然からのうめき声であるとともに、砂の壁が発する呪いの音楽であるかのようにもみえる。両者の融合が、まあ、この映画の面白いところなのだろう。】

したがっていっぽうで『シラート』は、ドラッグでハイになりゾンビ化して【なおゾンビ映画の流行とレイヴ文化とは連動していると私は確信している――いい意味でも悪い意味でも】レイヴで踊っている中年ヒッピーたち(ただし参加者は圧倒的に若者が多い)が、その現実逃避の彷徨の先に、地雷というリアルによる復讐にあい、命を落としてゆく物語といえる。

しかしまたいっぽうですでに手足が欠損していた中年ヒッピーの男性たちは、すでに戦争・紛争(地雷)の犠牲者であり、その過酷な現実から、レイヴの世界に逃れる(ただの現実逃避かもしれないが、紛争と死への積極的な抵抗であってもおかしくない)。だが、やがてまた紛争の置き土産、あるいは紛争の犠牲となって命を落とすとうふうに考えられる。

地雷は、突然登場して現実逃避をしている登場人物たちを恐怖に陥れる結果である(だとすれば愚か者たちの逃避が成功しない諷刺劇)であるとともに、登場人物の行動を左右するトラウマとしてすでにいつもまえもって存在していた原因ともいえる(だとすれば運命から逃れられない悲劇)。原因でもあり結果である地雷。茶番でもあるとともに悲劇。一度目は悲劇それとも茶番? 二度目は悲劇それとも茶番? それはまた犠牲者たちが二度死ぬことでもある。地雷は過去の未来の二度にわたってさく裂する。地雷は二度ドアをたたくのである。

映画のタイトルにもなっている「シラート(Sirat)」は、「正しい道(Sirat al-Mustaqeem)」として、信者たちが日々の祈りの中で頻繁に口にする言葉ということらしい。またそれはイスラム教における天国と地獄を隔てる「シラートの橋」のことでもあるという。それは「天国と地獄を結ぶ橋」のことで、「髪の毛よりも細く、剣よりも鋭く」、その下には地獄の業火が燃え盛っているとのこと。

映画のなかでこの「シラート」として想像できるのは(あくまでもイスラム教徒ではない一般観客としての感想だが)、地雷原を脱出する通り道であろう。そしてつぎに、南方のレイヴ会場を求めて移動する彼らの旅も、最後に地雷原に到着するのだが、気づけば、彼らの旅路も、また彼らの旅そのものがシラート上の歩みであったことがわかる。それは生きていることが不思議なくらいの、「髪の毛よりも細く、剣よりも鋭い」シラート上での、ほぼ致死的な道行きだったのだ。

結局、彼らのうち3人は助かったようで、映画の最後の場面は、3人が鉄道の客車なのか貨車なのかわからないが、いわゆるトレイン・サーフィン(train surfing)【客車】または「フレート・ホッピング(freight hopping)」【貨物車】とよばれる列車車外に乗ること(映画では客車か貨物車の天蓋の上)によって移動している。

無軌道な冒険心からそうするのは先進国の場合で、多くの発展途上国では、満員で乗り切れなかったり無賃乗車のためにそうするのを余儀なくされるのであって、それが紛争地域なら、これは難民たち、移民たちの移動方法である。

また映画で登場する存在感ありすぎの列車はモーリタニア鉄道の車両のようだが、全長3キロにおよぶという世界最長の列車(路線距離ではない、牽引される車両の長さ)で有名なこのモーリタニア鉄道は、しかしながら、その具体的な場所と路線は関係なく、世界における難民の移動のメタファーとしてて受け取るべきであろう。

列車に乗る(とくに移民あるいは難民として乗る)ことは、ただ運命のなすがままに、目的地(ときにはどこが目的地かわからぬまま)へと連れていかれるよるべなさの象徴ともなる。おそらくは行く先は、途中下車するか飛び降りるかしない限り、死であろう。死への旅路(天国か地獄かわかないまま)となる細長い列車、それもまたシレートであることを、この映画は最後に伝えてくれる。

結局、彼ら3人は助かったのだろうか。時系列的にいえば、彼らはからくも、地雷原を生き延びたということになるのだが、それは結果なのか原因なのかわからないところがある。つまり彼らは、9人と2匹の犬との旅路で、からくも生き残った3人と1匹なのか【サヴァイヴァルは結果】、あるいは最初から3人と1匹しかいなくて、あとの6人と1匹は、過去においてすでに死別した友人・知人・家族の、そのトラウマとなった幻影かもしれない【サヴァイヴァルは原因】。つまりこのバッドランドでの地獄の逃避行は、実際におこったというよりも、難民たち誰もがかかえている心象風景のひとつだったかもしれず、もしかしたらこの3人は最初から旅の仲間ですらなかったのかもしれない。

彼らはこの旅によって仲間を失い、トラウマをかかえることになったかもしれない。しかし、彼らは最初から、すでに仲間を失っており、喪失と服喪を生きており、その心象風景として地雷原への逃避行があったのかもしれない。

世界においてこれから待っているのは、手足を失い、家族肉親を失い、恋人を仲間を失う、誰もが難民となる未来かもしれないが、同時に私たちは、すでに手足を失い、肉親家族を失い、恋人を、仲間を、同胞を失った難民なのかもしれない――ただ、そのことに気づかないだけの。

いずれにしても、私たちは、いずこへと行くのかもわからない、砂漠をゆく見るからに頑丈なモーリタニア鉄道の列車のルーフに乗っているのだろうか、いや私たちが歩むのは「髪の毛よりも細く、剣よりも鋭い」シラートの上なのであろう。おわり

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2026年07月15日

『ヌーヴェルヴァーグ』1

ルイ・マルは、いわゆる『カイエ』派ではないので、ヌーヴェルヴァーグに含めないほうがいいかもしれないのだが、その作品は、たとえすべてではなくとも、まぎれもなくヌーヴェルヴァーグ映画の特色(もっと絞っていえば「方法」)を色濃く残すものであって、たとえば初期の『死刑台のエレベーター』(1958)は、製作年代からしても、作品の内容からしても、どうみてもヌーヴェル・ヴァーグ映画だといえよう(トリュフォーの『大人はわかってくれない』が1959年、ゴダールの『勝手にしやがれ』が1960年)。

その思いを強くしたのは、2010年に日本でリメイクされた『死刑台のエレベーター』(緒方明監督)を観たからである【実際、このリメイクの宣伝文句は、「ヌーヴェルヴァーグの傑作を日本でリメイクとある」】。へんな映画ではない。それどころかよくできた映画なのだが、同時に、オリジナルの『死刑台のエレベーター』の精神というか方法を、もののみごとに裏切っているようなところがあって、それが逆にオリジナルの映画のヌーヴェルヴァーグ性を見事に照らし出してくれたのである。

オリジナルの『死刑台のエレベーター』では、会社員が完全犯罪をたくらみ社長を殺す。犯人は、社屋に自分用の個室をもち秘書もいる。その彼は、自分の部屋の窓から社屋の壁をよじ登り、社長室のある最上階に忍び込むと、社長を殺し、再び壁をつたって自分の部屋にもどってくる。秘書は、彼がずっと部屋にいたと思っているので、アリバイが成立する。もちろん彼は用意していたロープで壁をよじ登っていくのだが、あろうことか、社員である彼は背広にネクタイをしている。その格好で壁をよじ登るというのは、通行人にみあられたら不信がられること必至である。

日本版リメイクでは、そこが気になったのだろう、阿部寛演ずるところの犯人は、背広にネクタイの姿だが、ロープで壁をよじ登るときに、作業服の上着のようなものをまとう。これだと、検査員がなにか点検作業をしているようにみえて、仮に歩行者が見上げて、壁に誰かが張りついていることみても、何かの点検作業だろうと思い、違和感など抱くことはないだろう……。

この判断を褒めている日本の評論家もいたが、しかし、それでは犯罪の、おもしろさ、わくわく感が消えてしまう。ひいてはそれが映画から魅力を奪ってしまう。犯罪には周到な計画が不可欠だが、しかしハムレットのいうように、どんなに周到なプランでも予定どおりにいかなくなる、見落としがある、失敗しそうになる、そんなときは、本能的に、直観的に行動する(「即興的に演技する」という意味もかけている)ことでうまくいくことがある【‘we must acknowledge that acting impulsively sometimes serves us well, especially when our well-laid plans fall apart.’(Hamlet 5.2)】。

とにかく二十日鼠も人間も、どんなによい計画でもとん挫することがある。ロバート・バーンズのいうように【‘The best-laid plans of mice and men / Often go awry’】そんなときには、一か八かやるしかない。そしてそれが犯罪という冒険のなんともいえぬ醍醐味だろう。死の恐怖のない冒険、失敗の可能性のまったくない冒険、いや失敗の瀬戸際にまでいかない冒険は、冒険の名に値しない。だから周到なプランと、一か八かの賭けにも似た暴挙。これこそが犯罪という名の冒険なのである。

オリジナルの『死刑台のエレベーター』は、このことを知っていた。だから一見完全犯罪を目指しているかにみえて、計画は穴だらけで、勢いだけで事をすすめている。だが、そこに緊迫感と陶酔感が生まれる。それはまたこのオリジナルの映画の方法ともシンクロする。

これは有名な話だが、音楽はマイルス・デイヴィスが、ラッシュフィルムを見ながら即興演奏したものである。音楽だけではない、撮影もまた、台本がありながら、撮影監督のアンリ・ドカエの手持ちカメラによる即興的な撮影となる。日本版リメイクでは、なぜこれができないのか。ヌーヴェル・ヴァーグの時代は遠い過去になってしまったということではあるまい。日本版リメイク製作者たちの頭が悪すぎるわけでもないだろう。もうヌーヴェル・バーグの方法では映画が撮影できない時代になったのである。つまりエンターテインメントに特化するしかなく、阿部寛には作業着を着てもらうしかないのだ。

逆に言うと、ヌーヴェルヴァーグはエンターテインメントの殻を脱して、芸術になる瞬間を、芸術への開かれをつくりだした。しかもそれで、芸術的映画ほどわくわくするものはなく、エンターテインメント映画ほどつまらないものはないことを証明してしまったのである。

このことはリンクレーター監督の映画『ヌーヴェルヴァーグ』(2025)を観て痛感した。ゴダールが『勝手にしやがれ』を撮影し、完成させるまでの映画なのだが、ゴダールの撮影方法は、ツーテイクまでしか撮らない。何度も撮り直していると鮮度が落ちるからである。つじつまのあわないところ、つなげると不自然になるところがあっても、ゴダールは頓着しない。むしろ、その非整合性、ぎくしゃくとした不自然な不連続性そのものが映画の特徴となり、撮影手法は、その矛盾と不整合性を消すことなく際立たせるようにする。まさに冒険であり、またそれは通俗的映画概念に対する犯罪そのものである。実際、映画の内容も無軌道な犯罪者の死に至る必死の悪あがきである。

このことを確認させてくれたリンクレーターの映画は、私がルイ・マルの『死刑台のエレベーター』に感じ取ったヌーヴェルヴァーグ性が決して的外れなものではなかったことを実感させてくれた。というか、リンクレーターと、私の、ヌーヴェルヴァーグ理解はシンクロしているということである。映画は周到な計画のものとの、破綻をもいとわない一か八かの賭けである。

ゴダールの『勝手にしやがれ』も、あるいはルイ・マルの『死刑台のエレベーター』も、そもそもヌーヴェルヴァーグも、「プロジェクト:一か八か」なのである。撮影の形式もそうであり、映画の物語内容もそうである。いいかえると映画の物語内容は、映画の形式のアレゴリーともなっている、あるいは映画の形式そもののが主題ともなっている。

ちなみに「一か八か」あるいは「一か八かの神頼み」は、最近の映画のタイトルでいうと、ヘイル・メアリーHail Maryであり。もともとは聖母マリアに対する祈りの冒頭にくる呼びかけなのだが、比喩的に、絶望的な状況での最後の手段や一発逆転の賭けを意味する。

まあゴダールの映画製作が、そこまでせっぱつまったものではなかったとしても、期日までに仕上げないとあとがない、いや最初の映画でヒットさせないと転落しかないせっぱつまった状況での、一発逆転をねらう悪あがきであったことはまちがいないだろう。まさにその映画製作に私たちはヘイル・メアリーの名を冠したくなる。切実だから、せっぱつまっているから、いや、犯罪的大胆さと冒険があるからである。

ヌーヴェルヴァーグとは、プロジェクト:ヘイル・メアリーだった。つづく
posted by ohashi at 10:19| 映画 | 更新情報をチェックする

2026年07月14日

『シラート』1

是枝裕和が嫌いなある知人は、『箱の中の羊』を観たあと、よくこの作品をカンヌまでもっていったなと悪口を言っていた。その知人の意見(悪口)に同調する部分もあったのだが(とはいえ『箱の中の羊』はひどい映画だとは思っていない)、2025年カンヌ国際映画祭4冠(審査員賞、サウンドトラック賞、AFCAE賞スペシャルメンション、パルムドック審査員賞受賞)の『シラート』を観てからは、意見を変えた。こんなこけ脅し映画に『箱の中の羊』が負けたのかと思うと、むしろ腹が立ってきた。声が大きい人間、やたらと経歴をひけらかす人間、苦労をこれ見よがしに語る人間、バックになんらかの団体(とりわけ宗教団体)がいることをほのめかす人間には、なかなか逆らえない。そこそこの出来なら、賞を出して引き下がってもらうしかない。こんなものの評価の高さは一時的なものであろう。ほどなく、歴史の屑籠に投げ入れらることは目に見ている。

カンヌではパルムドッグ賞を受賞している。まあ、これがこの映画にみあった賞であろう。犬が二匹登場する。行方不明になった娘を探す父親についてゆく少年(彼にとっては姉を探す旅となる)にはペットの犬がいる。残念ながら少年と犬は、途中で事故で死んでしまう。もう一匹の犬は、映画の最後の方で、地雷原を歩いてゆく男に抱かれている。映画のシナリオの指南書には、登場人物の好感度を上げようと思うなら、その人物が動物好きであることを示すこと、とある。ペット、とりわけ、犬や猫を愛する人間は観客から好かれる。だから最後に犬を抱いて地雷原を歩む男が、無事に、その地雷原を通過できることは最初からわかっている。

最後の地雷原を通過できるのは、ひとつには宗教的理由(自我を捨て虚心になるものは、一度死んでいるわけだから、死ぬことはない――監督が信奉しているスーフィズムの教えらしいが)と、もうひとつには映画的理由(犬を愛でる者は善人であり悲惨な死をとげることはない)が関係している。だが、どちらも浅薄な理由であってとりたてていうほどのことはない――いや、犬が救い主になることはどれほど強調しても強調したりない(私は警察犬レックスのファンである)。ちなみに宗教的理由は、作品の象徴性なり寓意性と関係する。いっぽう犬は、作品のメタファー(象徴性や寓意性)ではなく、作品のメトニミー(「エンブレム」)である。パルムドッグ賞は、この映画の「エンブレム」が犬であることを認定したものといえよう。

なお「シラート(Sirat)」という言葉は、アラビア語で「道」や「方法」を意味する単語である。イスラム教における天国と地獄を隔てる「シラートの橋」とは「天国と地獄を結ぶ橋」のことで、「髪の毛よりも細く、剣よりも鋭い」と表現され、その下には地獄の業火が燃え盛っているとされている。まあ進めば天国、引けば地獄だが、どちらにもいても死ぬことがまちかまえているというのは、『黒労城』において石山本願寺の浄土真宗信徒がとなえてもおかしくない世界観である。それとまったく同じということではないが、それをなにか深遠な形而上学のように提案されると、しらけるばかりである――もちろん『シラート』のことだが。

あと、自我を捨て虚心になるものは、一度死んでいるわけだから、死ぬことはないというようなスーフィズムの教えだが、同じことは、スーフィズムとは無関係なところでも主題となっている。たとえばスタニスワフ・レムのSF小説『無敵 Niezwyciężony』(1964)において【日本語訳は『砂漠の惑星』飯田規和訳(早川書房1968/ ハヤカワ文庫1977)、『インヴィンシブル』関口時正訳(国書刊行会2021)】。

と、まあ私はネタバレをしまくっているのだが、ああ、神の呪いが私に降りかからんことを。この映画、日本での初公開時には、観客にネタバレをしないように誓約書を書かせたとかいう噂がある。ほんまかいな。ネタバレをするなというのなら、大どんでん返しがあるというか、緻密に練られた確固たるプロットがあるというのが前提となる。サプライズ効果を実現するためにも、ネタバレは厳禁であろう。しかし、シンボリックな、アレゴリカルな作品の場合、どうネタバレをするというのか。

たとえば田舎道にホームレスめいた二人が立っている。ゴドーという人物を待っているのだが、そのゴドーは、二人に仕事をあたえ、精神的な力になってくれそうな人物で、とにかく直接会えば二人は救われると思っている。そこで二人はゴドーがやってくるまでたわいもない会話をつづけて暇つぶしをする。さて、ゴドーはやってくるのでしょうか。ネタバレです。最初の日にはゴドーはやってきません。二人はやむなく次の日もゴドーを待つことになります。次の日、ゴドーはやって来るのでしょうか、来ないのでしょうか。ああ、結末はいかに。ゴドーは次の日もやってきません。でも、予想どおりではないでしょうか。そして二人のホームレスは次の日もまた次の日もゴドーを待ち続けることになるでしょう。こうネタバレしても、それによってベケットの『ゴドーを待ちながら』が読まれなくなったり、上演されなくなることはないだろう。

また、二人のホームレスの間には、一本の木が植えられている。枯れ木だが次の日には葉が出ている。ゴルゴダの丘では、磔刑になったイエスのほかに、ふたりの強盗も磔刑になったと新約聖書にはある。この二人はイエスをはさんでともに磔刑になった強盗なのだ。二人の間にイエス(死んだ枯れ木だがまだ生きている生命の樹でもある)はいる。それはまた二人の名前(ゴゴーとディディー)からもいえる。ふたりあわせてゴドーになる……。と、こう語っても、これはネタバレではない。あくまでも作品の一解釈であって、これ以外にも解釈は多く存在するし、また解釈がふえることも予想できる。それはつまり作品そのものが謎めいている、あるいは多様な解釈にひらかれているからであって、『シラート』もそのような作品であればこそ、ネタバレほどこの作品にそぐわないものはない。映画会社側(あるいは映画製作者側)の浅薄な戦略にふりまわされるな、踊らされるなと観客に言ってやりたい。また腹が立ってきた。

『シラート』については、ネット上でも考察が盛んである。日本人のコメントをみると、素人が勝手なことを書いていると、専門家ぶっているコメントがけっこう多いのだが、笑えるのは、素人をバカにしている当人がどうみても素人でしかないことが明白であることだ。むしろ素人なればこそ、領域と専門性に縛られている専門家からは望めない自由な発想で作品を語ることができる。またそうすることで作品の良さ(またひどさ)を浮かび上がらせることができると、正しく開き直ったほうがいいのだが。

映画紹介には「行方不明になった娘を探す父親(セルジ・ロペス)が、息子と飼い犬と、レイヴァーのグループと共に旅をする姿を描く」とあるが、映画の冒頭はレイヴのために大きなスピーカーなどの音響機器を山々を背景として砂漠に城壁のように設営するところからはじまり、ハイになって踊っている気色悪い連中(私の個人的感想)が大音響とともに画面に映し出されてから、ようやく娘を探す父親が登場する。作品のタイトルにいたっては上映開始から30分後である。本題(目)の登場が遅すぎるというか、それは本題ではないかのようだ。

父親役のセルジ・ロペスについては、私は、20年以上も前から、チューイッテル・イジオフォー主演の『堕天使のパスポート』(2002)から観ているのだが、正直いって、あまり記憶に残っていなかったのだが『シラート』以後、絶対に忘れることはないだろう。薄気味悪いレイヴァーの群れのなかに、娘を探す父親として彼が登場するとき、それはまたモンスターやクリーチャー、いや宇宙人のなかにまぎれこんだ唯一の地球人の様相を呈し、俳優の存在のもつ力強さと美しさを再認識させてくれるからである。

レイヴは、ドラッグと表裏一体化していて、ハイになって踊る。とはいえドラッグによるハイな状態ではまともな踊りなどできるはずもなく、ゾンビのようにただうごめくだけである。酔っぱらい当人はアルコールによる酩酊状態で気持ちがいいのかもしれないが、はたから見ていると、おぞましいとまではいえなくても、醜態をさらしているだけである。それと同じでレイヴでのゾンビ・ダンスほど、はたからみてこれほど見苦しいものはない。たとえどんなに大音響を浴びせられても、ただただしらけるだけである。

ところでこの父親と旅するライヴァーたちだが、ビギ/リチャード・ベラミー、ステフ/ステファニア・ガッダ、ジョシュ/ジョシュア・リアム・ヘンダーソン、トニン/トニン・ジャンビエ、ジェイド/ジェイド・オウキドの5人のなかで4人が役目と実名が同じである。

彼らは演技経験がないということだが、しかし、それをまともにとることはできないほど、演技に素人らしさはない。たとえば『マイケル』の主役ジャファー・ジャクソンは演技経験・映画経験ゼロというふれこみだが、いくらマイケル・ジャクソンのDNAを受け継いでいるかもしれないからといって、あそこまでの歌と踊りを、すぶの素人にできるはずもない。実際ジャファーはプロの歌手でダンサーであり、それを知れば、映画のなかで素人らしさが微塵もないことの説明がつく。おそらくは『シラート』の5人組も演技経験・映画経験ゼロとだということだが、まったく素人ではないだろう。と同時に、まったくアットランダムに5人を選んだわけでもないだろう。

昔の人、昭和の映画ファンなら、この5人はいかにも映画の登場人物らしく、クセが強い、アクの強い人物で、5人とはいえ、よくもまあこれだけ、観ていて暑苦しく汗臭く不快な中年男女をそろえたものだと思う。彼らの実年齢はわからない。レイヴに参加する者たちは若者が多いのではないかと思うのだが、彼らはみかけは中年の男女である(白人だから見た目よりも若いのかもしれないが)。そして日本独自かもしれないが、中高年の男女(とりわけ男性)が若作りすることへのネット上での嫌悪感と同じものを、このレイヴに陶酔している5人の中年男女に抱くのは私だけだろうか。彼らがもう少し若くて、汗臭そうでも垢まみれそうに見えなかったら、『シラート』は日本の若者たちに好感をもって迎えられたかもしれないのだが。

くりかえすが、ただでさえ気色悪いレイヴ参加者たちの挙動が、中年4人組の薄汚さによって倍化されたとでもいえようか。映画のなかで彼らは、軍隊によって解散させられたレイヴ集団から離れて南方で開催されているレイヴを目指して、ある意味、あてのない旅にでる。娘を探す父親も、彼らと旅を共にすることを選ぶのだが、なぜそうしたのかはとくに説明はない。彼らに名状し難い魅力を感じたからかもしれないし、また彼ら中年四人組に、無軌道な若者にはない信頼性を観ていたのかもしれない。

とはいえ、彼らは昔風にいえば「中年ヒッピー」であり、中年ヒッピーほど醜悪で情けない存在はないのだが、彼らにまじっている、父親の息子(美形の少年、ただし、着ているTシャツ、日本のアニメか怪獣物のイラストがプリントされているようだが、漢字やかなが少しおかしい。おそらく日本製ではなく日本製に模したスペインのバッタ物だろうが、このインチキイラストがこの映画監督と映画の根源的浅薄性を如実に物語っている)と犬は、このバッドランズの逃避行における、一滴のうるおいのような機能を果たすのだが、嗚呼、ふたりとも事故で死んでしまう。残されたのは中年ヒッピーと生きる希望を失った父親。この映画の面白さはどこにあるいかといえば、こうした魅力とか好感度とかをどんどん削っていき、本質のまえに存在する実存へと至ろうとする意志がみえることだといえようか。

この4人の中年ヒッピーはすでに指摘したように、ストリート・キャスティング・プロセスとかいうらしいのだが、要は、素人をスカウトして得られた登場人物である。そしてそのうち男性2人は身体が欠損している。ひとりは片足の膝から下がなく、もう一人は片手がない。このことは、日本におけるこの映画の考察で触れられていないのだが、触れるべきだろう。ストリート・キャスティング・プロセスで、100人を集めてきたら、そのうち2人の手足が欠損状態だったということはふつうに起こるだろう。それは問題にしなくていいし、欠損にもかかわらず、採用したことによる映画製作側のリベラルな姿勢や基準は褒められるこそすれけなされることはないだろう。問題は5人、そのうち性別でいえば男性2人が2人とも手足が欠損状態である。これは明らかに意図的に選別したとしか思えない。つまり手足が欠損状態の男性2人をキャスティングしたのである。

映画のなかでは最初に地雷で死ぬ女性ジェイドの恋人であり、彼女の死体のもとにかけよる途中でみずからも地雷によって死ぬトニンは、最初から片足がない。トニンを演ずるトニン・ジャンピエは、バイク事故によって片足を失ったようなのだが、映画のなかでトニンの片足欠損について説明されたり語られたりすることはない。またビギというあだ名の、中年ハゲ男(禿げ頭を差別するつもりは毛頭ないが、レイヴでは、禿げ頭で陶酔的に踊ったりはしないでほしい)は、片手がない。生まれつきかもしれないのだが、片手がないことの理由は映画のなかで語られることはない。

手足の欠損にはいろいろ理由がある。トニンを演ずるトニン・ジャンピエのように交通事故による怪我で手足を失うことはあろう。あるいは、仕事中に機械にはさまれたりして、指や手足を失うことはあろう(映画『教場』におけるある人物のように)。もちろん生まれつきということもあろう。とにかく理由はいろいろあることはまちがいないのだが、同時に、手足欠損からふつうに思いつくのは、生まれつきではなくて、戦争である。戦傷といってもいい。もちろん戦傷にもいろいろとあるのだが、手足欠損のもっとも一般的な戦傷とは地雷によるものである。

つづく
posted by ohashi at 02:24| 映画 | 更新情報をチェックする

2026年06月21日

『君は映画』

上田誠脚本・監督による68分の映画。ヨーロッパ企画の舞台はハズレなしだが、その舞台と同じような刺激と面白さを満喫できた。ヨーロッパ企画の舞台はおよそ2時間だが、この映画は68分。短すぎる。2時間くらい続けてほしかった。

ネット上では68分が長すぎるとほざいているバカ、いや失礼、レヴューアーがいたが、そういうバカ、いや失礼、そういう無理解を恥じるのではなく誇らしげに思っている傲慢な人間には、ふたつのことを述べておきたい。もっと大人になれ、このガキが。あるいはもっと子供になれ、中途半端に大人になっているんじゃないぞ。

下北沢トリウッドという映画館があるのは知っていた。ただし入ったことはない。いつか行ってみようと思っていたのだが。そして今回、主人公(W主演のふたりとも)が映画館トリウッドへ入る。はじめてみるその内部は面白かったが、小さい、狭い、おそらくまず行かないだろうと思った。実際、今回の映画をみて行ったつもりになったというせいもある。【説明を追加すべきだが、たとえば下北沢の劇場としては駅前劇場、本多劇場、少し離れたスズナリしか行ったことがないのだが、それ以外の小さな劇場あるいは演劇空間は敬遠している。そうしたところでは、演ずる者も観る者も知り合いどうしである。みんな友達なのである。だからただ演劇的興味で観劇するつもりならやめたほうがいい。彼らの知己になりたいと本気で望んでいるのなら話は別なのだが。私には彼らのなかに溶け込む勇気も元気もない。だから小さすぎる劇場や映画館は避けることにしている。】

それほどカメラワークが主人公の背中を追うよう長まわし撮影で、街の様子、建物の外と中、外から中への移動など、空間性あるいはその空気を強く感じさせることになって、私の嫌いな言葉でいうと「没入感」がすごいのだ。

没入感というのはファシズムでありナショナリズムであり大政翼賛会とつながるので、反吐が出るのだが、ただ、今回の映画の場合、どこに没入しているのかを考え始めると、頭がぐるぐるしはじめる。また上田誠氏のシナリオは、SFとか科学における話題や流行を常に押さえているので、たんにナンセンスな発想に基づく笑いを提供しているのではない。そこがいつもすごいと思うところ。

今回も、いろいろな知識がちりばめられていて、それらを数えればかなりの数になる。また後半から終盤、一挙に、ステレオタイプ的スペースオペラ的設定に走るのも、始めての観客にはぐだぐだな展開とうつるかもしれないが、あれはお約束の上田誠的SF展開、まさに上田誠印である。

今回、ふたつの宇宙が混線したという設定なのだが、だが、そこにあるのはマルチヴァース的設定というよりも、ホログラフィック宇宙論あるいはホログラフィック原理と呼ばれるものに想を得た、エンタメよりのSF展開である。

たとえば優れた科学者が自身の優れた想像力を駆使して、まったくの素人にも、ホログラフィック原理をわかってもらうために、なんらかの物語それもちょっと奇抜なSF的物語を作ったとしよう。それが今回の『君は映画』となる。

映画は平面のスクリーン、二次元の世界である。私たちの三次元は私たちの現実であり、映画のフィルム、あるいはスクリーンは、この三次元世界を二次元媒体に落とし込んだものということができる。しかし、その逆ではないか、あるいは、その逆も考えられる。

たとえばスクリーンに映し出される映画に記載された情報が、私たちの現実を創造しているのであり、その逆ではないとしたら。二次元媒体に記載された情報は、ホログラフィーのように平面に造型された画像が立体的にみえるのと同じく、私たちの現実、その立体像を形成する基盤であるとしたら。この私たちの三次元世界は幻である。これがホログラフィック原理あるいはホログラフィック宇宙論。私たち、私たちの現実は、造られたもの、私は映画であり、私の現実は映画なのである。

映画のスクリーンは、私の世界を作っている。ただしこの映画は観客がいないので、私は自分が映画(私は映画)だとは意識することはない。しかしもし混線して私の映画が、私がスクリーン上に観ている人物によって観られていたら(君は映画)。観る者が観られ、観られる者が観る側になれば、いよいよ私の現実は私にとって逃れられない監獄に思えてくる。だが、私が観ている映画の主人公が、私を観ている観客でもあるとしたら、二人が、観ている映画の内容について情報交換すれば、この監獄のような二次元の(スクリーンの)監獄から脱出できる可能性がみつかるかもしれない……。

とまあホログラフィック宇宙論については、その1%も理解していない私にはここまでが限界だが、ただ、この映画に触発されてホログラフィック宇宙論的思索へと赴くことは、決して無意味なことではないように思われる。

なおこの映画は、そうした思弁的要素もあるが、同時に、下北沢という場についての立体的な画像であり動画であり、下北沢の今の空気をそこに集う若い世代の人々の日常をよく伝えている、あるいは記録している。この映画自体が、下北沢をホログラフィックのように構成する情報基盤ともなっている。それを劇場で確かめた欲しい。私のようにトリウッドのような小さな劇場が怖い人は、TOHOシネマズの系列館で観ることができるので、ぜひ、そちらで。
posted by ohashi at 01:08| 映画 | 更新情報をチェックする

『ユマカウンティの行き止まり』2

承前

4.ルバーブパイ

ドクター・インクはいきなり「ルバーブは、茎部分は可食だが、葉には強い毒性がある」と書いている。毒性があることは知らなかった。ただ、そうであってもルバーブに毒とか死のイメージはない。もしそれをいうなら、たとえばジャガイモの芽には毒がある。だからといって、ジャガイモに、肉じゃがとかマッシュポテトに毒・死のイメージがあるかというと、そんなことはない。

それはともかくドクター・インクの声に耳を傾けてみよう:
看板に、「このパイの為なら死ねる」と言うニュアンスの売り文句がある程の、店の名物にして誇りとも言えるが、もう既に死の香りが漂っている。

一時、若者の間で流行した言葉に当てはめて言い換えると、「このルバーブパイ、美味しすぎてシヌ」とも言えそうで、褒め言葉と死とを合わせる逆説的表現は、インパクトがありとてもキャッチーで普遍的なのだと感じた。

ナイフセールスマンは、ウェイターの勧めで、娘への土産としてパイを持たされる。
はじめは、「パイにはまだ早い」と、レイモンド・チャンドラー氏著『ザ・ロング・グッドバイ』の「ギムレットには早過ぎる」を連想させるセリフまわしがあり、ここにも死の香りが漂う。

だが、その看板メニューは、カップルの彼女しか食べない上に、「あんまり美味しくない」とまで言われてしまう。

セリフでは確か「Not great」だったと記憶している。

不味くは無いが、期待ハズレと言ったニュアンスに思える。
ガソリンを期待するが品切れ、助けを期待するが失敗、様々な期待と、ことごとくの期待ハズレが詰まっている本作だが、まさかルバーブパイも期待ハズレだとは。
実際、ルバーブは国内ではなかなか入手しにくいのだが、葉付きで売られていることはないので、毒にあたることはない。またルバーブには整腸作用があるなど健康によい面も指摘されていて、ルバーブ=死というステレオタイプ的なイメージはないだろう。あるいはどのようなイメージにも良性面benevolent aspectと悪性面malevolent aspectがある。ルバーブはカリウムが多く含まれ健康によいといわれているが、私のような老人にはカリウムが多いルバーブは危険すぎる。老人には死を、若者には生を――これがルバーブであって一概に死と結びつくとはいえないだろう。

映画のなかのダイナーではルバーブパイが売りなのだが、店の入り口に近くに大きな紙に、手書きなのか印字なのかよくわからないが、‘You’ll die for our Rhubarb pie’とうたっている。‘die for’はよく使う表現(たぶんアメリカで)なのだが、「~のために死ぬ」から「~が(死ぬほど)欲しい、~がすばらしくて好きでたまらない」と日本語に訳すとわかるのだが、意味に幅がある。ドク田・院躯のように「このパイの為なら死ねる」あるいは「若者の間で流行した言葉に当てはめて言い換えると「このルバーブパイ、美味しすぎてシヌ」」とするのは、まちがいではないものの、やや行き過ぎか。私は「若者の間で流行した言葉」など、死んでも覚えたくないので、「美味しすぎてシヌ」などというフレーズは聞くだけで死にたくなる。ああ頻発する死のイメージ! ただ死のイメージは、キャッチコピーにあるのようにdieとpieが韻を踏んでいることからもいえて、死のイメージは、ルバーブではなくパイのほうである。

またルバーブと死のイメージをどうしてもむすびつけたい毒田・韻キは、「ナイフセールスマンは、ウェイターの勧めで、娘への土産としてパイを持たされる。はじめは、「パイにはまだ早い」と、レイモンド・チャンドラー氏著『ザ・ロング・グッドバイ』の「ギムレットには早過ぎる」を連想させるセリフまわしがあり、ここにも死の香りが漂う」と――はあ?まあよく覚えていないが、セールスマンは、娘にはルバーブパイは早すぎるといっているように思う。「ギムレットには早過ぎる」というのは、子供には早すぎるというような年齢に関することではない—「ギムレットを飲む時間としては早過ぎる」という意味で、そこから人間関係(友情)のありかたが問われていくような含意がある。ちなみにドクター・陰キ氏は、チャンドラーの知り合いなのか、「チャンドラー氏」と書いていある。不思議だ。

いっぽう包丁セールスマンのいう「娘には早過ぎる」というのは、ふつうに、まだ幼い娘には早過ぎるといったくらいの意味だろう。ルバーブは酸味が強く、砂糖でそれを打ち消しても酸味は残る。私は昔、イギリスで、ルバーブジャムを作ったことがある。だから、ルバーブを使った料理とかお菓子は子供向けではない。

5 ビスケットとグレービー

食べ物の話がつづいて恐縮だが、映画のなかにはグレービーソースのかかったビスケットというのが登場する。アメリカではよくある料理らしいのだが、はじめて聞いたもので、驚いた。ビスケットに、グレーヴィー? なんじゃそれは?

毒田淫苦は、次のように説明してくれている:
ここで言われるビスケットとは、アメリカ南部料理の一つで、いわゆるケンタッキーフライドチキンなどで食べる事が出来る、フワフワのパンの様な食べ物の事。

また、グレービーソースとは、肉を加熱した際に出る、いわゆる肉汁を使って作られる、とろみのあるソースの事。

アメリカ南部では、家庭料理としても、本作の様なダイナー等の提供メニューとしても食され、レシピは作り手の数だけ存在するらしい。

私も、アメリカ南部の家庭料理が掲載された料理本を元に、一度だけ作った事があるが、想像以上に手間がかかったのでそれきりになっている。

今度、簡易メニューを探して、再び作ってみたい。
【中略】
銃撃戦の後の遺体は、グレービーソースがかかったビスケットの様でもあった。
まずビスケットには二種類あって、日本人がふつうに思い浮かべるビスケットは、英国式のビスケット。一方北米仕様のビスケットは、英国のスコーンみたいな外見の、ふわふわな食感のパンということだろうか。とにかく私には初めてのもので、映画のなかでどんなものが出てくるのかと目を凝らした。すると、大きなスコーンみたいもののうえに白いクリームソースのようなものをかけたものが出てきた。え、グレーヴィソースって、透明か不透明かの差はあっても、茶色じゃないのか。どうして白いのか。白いクリームシチューのようなものがかかっている。あとでネットで画像を調べたら、どれも白いクリームソースのようなものがかかっている。あれがビスケット&グレーヴィーソースかと驚きつつ確認をした。

ということは、毒田陰故先生、「銃撃戦の後の遺体は、グレービーソースがかかったビスケットの様でもあった」――なにを勘違いしとるんじゃい。映画のなかでビスケットにかかっているグレーヴィーソースは白いクリームソース状だった。下から流れ出る血を思わせるものは何もなかった。むしろ毒育先生は、こういうべきであった、銃撃の後の遺体は、まるでルバーブパイのようであった、と。

6 ルバーブパイ 再び

典型的なアメリカンパイは中身がアップルつまり黄色系統の色だが、Damn goodなチェリーパイ【私が学習院大学に奉職していた頃、昼食は、学内の売店で売っていたチェリーパイとサンドイッチとコーヒーで済ますこと多かった。なつかしい。『ツイン・ピークス』もなつかしい。】そしてブルーベリーパイの中身は赤かったり赤黒かったりする。ルバーブパイの場合も切り口(傷口)からみえる中身は赤い。そう流血している死体は、ルバーブパイにこそ、たとえる対象としてふさわしい。

とはいえ、映画のなかの死体をみて、私はルバーブパイだとは思わなかった。死体=ルバーブパイというのは、死体=ビスケット&グレーヴィーソースの場合はなおさらのこと、無理のある譬えである。

それよりもドクター・インクのつぎのようなコメントは正鵠を射ている。すでに引用したコメントだが:
だが、その看板メニュー【ルバーブパイのこと】は、カップルの彼女しか食べない上に、「あんまり美味しくない」とまで言われてしまう。

セリフでは確か「Not great」だったと記憶している。

不味くは無いが、期待ハズレと言ったニュアンスに思える。

ガソリンを期待するが品切れ、助けを期待するが失敗、様々な期待と、ことごとくの期待ハズレが詰まっている本作だが、まさかルバーブパイも期待ハズレだとは。
そう「ノット・グレート」。これはシビルにとって、大人の味である「ルバーブパイ」は食べるにはまだ早過ぎる、彼女がまだお子ちゃまだという暗示もあるのだが、それよりもドクター・インクの指摘するように、これは映画の物語展開に関するメタコメンタリー(「たいしたことない」)として読めるし、またそのメタコメンタリーで示される物語の典型的要素(つねに「ノット・グレート」な展開)を体現しているともいえる。メタ的・超越的なコメントであるとともに内在的な特徴の実例でもあるという二重性がここにある。

そう、確かにこの映画は「ノット・グレート」である。人物たちのキャラクター、その言動、期待の高まりとすっぽかし、すべてにわたって、グレートになりそこねている「ノット・エレガント」な「ノット・グレート」のオンパレードである。だが、そのような自己批評の姿勢を示すことで、この映画は、なみなみならぬ超越性をもっていることを証しだてているではないか。「ノット・グレート」と謙遜することほど、「グレート」なことはないのだから。アイロニックな他者の目をもつことほど、無敵なものはない。

自虐的な自己批評という、この切腹行為は、この映画が暗示していることである。包丁セールスマンが宣伝するのは、「オダチナイフ」という日本製の日本刀からつくった包丁であり(ほんまかいな。エンドクレジットではオダチナイフのコマーシャルソングが流れていたが、ほんまかいな)。それは日本人の腹切りを強く暗示する。腹切りは、切れ目をいれたルバーブパイを暗示する。このルバーブパイは、切り裂かれ赤い中身を出されて、あげくのはてにたいしたことはないと言われて自死するが、その自死をとおして超越性を手に入れる。

この映画の登場人物の全員ではないがそのほとんどが拳銃を持っていて、それで相手を威嚇しねじ伏せることができたはずが、互いに撃ちあい自滅する。拳銃を持っていない者が最後に生き残る。これもノット・グレートな展開だが、ノット・グレートな人物だけが、グレートになれるというのが、この映画のロジックである。

この映画の最初と最後に小鳥が登場する。ドクター・インクも気づいているが、私にはその鳥の種類もわからず、なにか象徴性があるのかもからないため、この映画に謎は残るのだがそろそろ私自身の結論を出すべきときだが、それは次回に。

そしてここまで細部にこだわる思考を刺激してもらったドクター・インクにはただただ感謝をささげるしかない。そのコメントは、「ノット・エレガント」ではあっても、決して「ノット・グレート」ではなく、「グレート」なものであったのだから。

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2026年06月20日

『ユマカウンティの行き止まり』1

この映画について絶賛の記事なり感想文がネット上にUPされているが、ネットの偏差値そのままに、どれも薄っぺらい感想でしかない。結局、何が面白いのか細部にわたる説明がされていないものばかりである。

しかし、note(no+e)のドクター・インク「『ユマカウンティの行き止まり』を観て――このパイの為なら死ねる」(2026年6月15日)【(https://note.com/drink1989/n/nbccf01f21574)】からは、ほんとうにいろいろ教えられた。その知識と知性に脱帽したといっても過言ではない。

以下、その考察を検証しながら、この映画の面白さを探ってみたい。すべての項目にわたって検証しているわけではない。

1. 額入りの1ドル札
キッチンナイフ(いわゆる包丁)のセールスマンの男がガソリンスタンドの事務所から警察に電話をかけようとするところがある。そのとき彼は、壁掛け電話の周囲のなにかをみている。そして心変わりして警察に通報するのをやめる。私は、このとき、なぜ彼が心変わりしたのか、そもそも何に触発されて心変わりしたのかわからなかった。

私には無知ゆえにみえなかったものを、このドクター・インクはみていた。そのコメントにはこうある:
ヴァーノンの事務所には、電話の近くに「額入りの1ドル札」が飾られている。
あれは、「最初に稼いだ売上札を額縁に飾る」と言う、日本ではあまり馴染みのない風習のものと思われる。
初心忘れるべからず、と言った意味合いがあるらしい。
このコメントの裏を取ろうと調べたところ、お札のディスプレイ・フレームの宣伝サイトのようなところに次のような記事があった。“Framing Your First Dollar Still Matters | CurrencyDisplay.com by MedalBlocks | Sep 23, 2025 | The Ultimate Display” https://currencydisplay.com/2025/09/23/framing-your-first-dollar/

お札を飾ること自体、私は全く知らなかったので、その場面で何が起こっているのかわからなかった。繰り返すが、何が彼の心変わりを誘発したのか、理解できなかった。

で、このお札ディスプレイの存在意義がわかったところで、このrock-dumb movieの展開をみてみると、映画の細部に宿る皮肉な運命をここでも感じ取ることができる。

最初の1ドル札というのは、何かの対価として受け取った謝礼あるいは初めてもらった給料の記念であって、稼ぐにせよ、あるいは貯金するにせよ、目標にむかっての真摯で堅実な経済活動への出発の契機、門出であったはずだ。それなのに、その額縁1ドル紙幣は、包丁セールスマンにとっては、盗難金の横取りという真逆の行為への方向転換となった。繰り返すが額に飾られている1ドル札をみて強奪を思いとどまるのではなく、強奪(Loot)へと邁進するのだ。予想外の展開だが、同時に、この映画では予想外の出来事が常態化するので、予想された予想外でもあった。

2 フォード・ピントとダットサン510
車のことに関しては、映画に登場するボンクラな保安官助手と同じかそれ以上のボンクラである私は、車種について、ドクター・インクから示唆を受けることになった。
作中に強盗の車として登場する「緑のピント」とは、アメリカの大手車メーカーであるフォード社のピントと言う車種との事。調べた限りでは燃料タンクをめぐる安全性の問題でも知られる車種らしい。
1960年代後半から1970年代前半のダットサン(日産の海外向けブランド)の510と思われる。
作中で「古い車」と言われているが、仮に舞台が1970年代中盤から後半だとしても5年から10年程しか経過していないにも関わらず、古い車呼ばわりされているのは、色合いや汚れ、使い込まれた使用感があったからなのかも知れない。【この指摘はそのとおりなのだが、映画のなかで同じ日に横転事故を起こした給油車は、まるで10年間放置されていたかのようにほこりだらけ錆びだらけだった。これもおかしい。ただ、それをいうなら、1970年代を舞台にするこの映画も、錆びだらけ、ほこりだらけなのである。本来ならあってしかるべき新鮮感・新品感などまるでない。おそらくそれが狙いなのだろう。】
燃料にまつわるいわくを背負ったピントと、燃費の良いダットサン。
対比と皮肉の効いたアイテムに思える。
ピントとダットサンの対比と類似性に気づかせてもらったドクター・インクには感謝しかないが、しかし、炯眼なドクター・インクがなぜ見落としているのか、あるいはゲイ差別で無視したのかわからないが、包丁セールスマンの乗っているダットサン510は、私は初めて観たのだが、後部のナンバープレートを持ち上げると、そこがガソリンの給油口になっているのだ。自動車の給油口は、ふつう後部の右側か左側で、排気口から遠いところにある(排気口が左にあれば、給油口は右画にある)と思っていたが、これが北米仕様なのか。後部のナンバープレートの奥に給油用の穴があいている。ケツの穴か?!

そうなると包丁セールスマンが、ガソリンの入ったポリタンクの注ぎ口をそのダットサン510の給油口(尻の穴)につっこむというのは、浣腸の、あるいは肛門性交のアナロジーではないか。

またフォード・ピントに関してもせっかく史実を調べたドクター・インクは、なんと詰めが甘いのだろう。「調べた限りでは燃料タンクをめぐる安全性の問題でも知られる車種らしい」とある。もっと具体的にいうと「ピントの燃料タンク配置には、被追突時に燃料漏れ・火災を起こしやすい欠陥があった」(Wikipedia)。そして被追突とは、いわゆる「おかまを掘られる」ということである。車そのものが人間の体であり、尾部が臀部という意味付けである。そういうおかまを掘られることとつながっていたフォード・ピントと、肛門が後ろにあるダットサン510。ここにあるのはゲイ・ネタではないか。【なお「おかまを掘る、掘られる」に相当する英語表現はないようだが、かりになかったとしても後ろから追突されることは、動物の性行為、ゲイ・ネタを連想させるに十分なものがある。】

そもそも映画に登場するカップルというかダイナーに立ち寄るカップルは夫婦か擬似夫婦で肉体関係が想定されていた。そうなれば二人組の強盗にも肉体関係があってしかるべきであろう。あの二人がゲイ・カップルなのである。そして包丁セールスマンは娘がいるらしいのだが、ゲイ的な欲望をもっている、自身がおかまっぽい人間ということである。実際、彼の挙動にシシー的なものを感じないのはよほど鈍感としかいいようがない。【なお、ゲイ的なもののが差別的に使用されている映画について非難・抗議しないのかと批判されるかもしれないが、ゲイ的なものは、ドクター・インクのおそらく無視からもわかるように、観て観ぬふりをされ表面化されない(Hidden from History)。そのためゲイの歴史的考察と資料収集において、差別的と顕在化の両方を秤にかけて、顕在化を選ぶことのほうが多いことは、ここで明記しておかねばならない。差別的でも、とにかく登場すること、浮き彫りにされること、浮上させられることの意味は大きいのである。】

3.  ボニー&クライドあるいはキット&ホリー
ゲイ関係の暗示に目を背けたドクター・インクの男尊女卑的観点があらわれるのが、以下のコメント:
マイルズとシビルは、アウトローな映画の登場人物への憧れを抱いている。
彼氏はマイルズ、彼女はシビル。
シビルがボニー&クライドへの憧れを語るが、マイルズがそれを否定しキット&ホリーだと言う。【このコメントでは説明がないが、キットとホリーは、テレンス・マリックの映画『バッドランズ』の二人――キット/マーチン・シーンとホリー/シシー・スペイク――のこと。この映画を私はイギリスにいたときテレビではじめて観た。あとでバッドランズというのが、普通名詞ではなく固有名詞だと知って驚いた。ちなみに昨年の映画『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』でもとりあげられていた。】
彼氏の方は、銃撃戦で真っ先に亡くなってしまうが、彼女は撃ち合いでは死なない。
【中略】
それまで彼氏からもどこか邪険と言うか、もっと言えば過保護に扱われているとでも言えようか、「お前はやらなくて良い」と言ったニュアンスでイナサレ続けていたが、その様子は一見優しさの様にも見えるが、決して尊重している訳では無い。
「俺がやってやるからお前は黙って見とけ」と言った、亭主関白的軽蔑発言と言えなくも無い。
彼氏の抑圧から解放された彼女は、セールスマンに向け銃を放つも命中しない。この辺りに、彼氏が抑えつけていた所以が垣間見え、単に軽視されていた訳でも無さそうとさえ思う。
ボニー&クライドへ憧れた彼女に、残念ながら伝説的な華々しい銃撃戦は用意されておらず、極めて地味で生々しい殺人だった。

ここには炯眼と女性差別的な視線が共存している。たとえば「「お前はやらなくて良い」と言ったニュアンスでイナサレ続けていたが、その様子は一見優しさの様にも見えるが、決して尊重している訳では無い。「俺がやってやるからお前は黙って見とけ」と言った、亭主関白的軽蔑発言と言えなくも無い。」というのは、そのとおりで、言えなくもないわけではなく、そうはっきりと言えるのだ。

しかし、このジェンダー力学というか力関係や対立への炯眼も、「彼氏の抑圧から解放された彼女は、セールスマンに向け銃を放つも命中しない。この辺りに、彼氏が抑えつけていた所以が垣間見え、単に軽視されていた訳でも無さそうとさえ思う」というところ、女性蔑視への馬脚をあらわすというべきか。男は亭主関白的にみえたかもしれないけれど、やっぱり正しかった、男は常に正しい、女はつねにまちっている。あほか!

マイルズとシビルのふたりがバカップルであることはいうまでもない。男が女に銃をもたせない撃たせないというのは過保護ではなく亭主関白的であるのはそのとおりである。と同時に、この男はそうやって自分のプライドを守る。もし女に拳銃を持たせ、男よりも銃の扱いが上手かったら、男のバカ加減やポンコツぶりが隠しおおせようもなくなって人格崩壊を招くしかない。実際、映画のなかで、この男、ほんとうにポンコツで、口で偉そうなことを言っていても、なにもできない無能な男である。銃で的を狙ってもまったく当たらないのだから。こういうポンコツ男が女に、お前は銃を撃たなくていいというとき、女が銃を扱えないし扱ってもそそうをしでかしそうだから止めた? クズ男が自分のプライドを守っているだけでしょう。また女はそれを見抜いているふしがある。とにかくこの男のrock-dumbぶりが際立っている。まったく弁護の余地はない。

逆に言うと、この男は救いようのないバカだが、女のほうはむしろ有能ではないのか。バカ男に抑圧されていなければ、本来の有能ぶりをいかんなく発揮できるのではないかと、そう期待するだろう――あなたが男尊女卑的Male-chauvinistic Pigでないかぎり。

ところがいよいよ彼女に出番が回ってくると、あっけなく殺される。活躍するのではという期待はあっというまにしぼんでしまう。風景は、さびだらけ、ほこりだらけで、斬新さや生気を欠いているが、物語もまたほこりをかぶりさびついていて、端的にいって故障している。その実力の半分もだせないまま、どんどん追い詰められてゆく。つづく
posted by ohashi at 01:37| 映画 | 更新情報をチェックする

2026年05月25日

『マンダロリアン・アンド・グローグー』

『マンダロリアン・アンド・グローグー』(The Mandaloria and Grogu, 2026)は、ジョン・ファヴロー監督の手慣れた演出と画像処理で、安心して観ることができるエンターテインメント作品だが、ただ、その手慣れたぶん、退屈だといえなくもない。アクションシーンを延々と見せられても、たとえそれがどれほど斬新なものでも(とくに斬新さは感じなかったが)、なにかテーマ・パーク的アトラクションのような、興味をいだかせつつも、深入りさせないような、うすっぺらさがどうしても鼻に着く。

ペドロ・パスカルの出番が、つまり顔をみせている場面がきわめて少ない。まあ水中でのシーンは、危険をともなうものであって、それだけでも、高いギャラをもらってしかるべきかもしれないが、水泳は得意なペドロ・パスカルにとっては、苦もなき演技かもしれない。

ULTRA4DXでの上映もあるのだが、この映画を観ていると、どこで椅子が激しく振動するのかできる。というか、しょっちゅう、揺れているのだと思う。またULTRA4DXは、ただ揺れ動いているだけではなく、水しぶきがかかる。そういえば、『マンダロリアン…』、水中シーンや、水に落ちるシーン、水辺のシーンが多い。ULTRA4DXでの上演を最初から考慮しているかのようだ。

そこで最初から考慮していなかったであろうこと、意外性を考えてみることにした。たとえば、どうしてシガニー・ウィーヴァーが出演しているのだ。70歳代後半の彼女が、まあとくに体をはるような場面はないとしても、なぜ出演しているのか。もちろんこの問いに対しては、なぜ出演して悪いのかと返されたら、どう答えたらいいかわからない。問いかけの瞬間に、その出来事としての問いにみあった出来事としての答えが想定されているというのなら、これは答えのない問いかもしれない。つまり、たいした問いではないのだ。

マーティン・スコセッシがどうして出演しているのか。特殊メイクで本人とはわからないのだが、それにしても、どうして出演しているのか。シガニー・ウィーヴァーとマーティン・スコセッシで出演者リストの締めとなる役割をになっているのか。まあ二人とも高齢者だし。

ただし、顔がわからず声だけだと、もっとしかり観ておく、あるいは聞いておくべきだったと後悔したのが、ロッタ・ザ・ハット。声はジェレミー・アレン・ホワイトが担当。クレジットをみて誰だと思ったのだが(既視感はありつつ)、昨年の終わり頃に観た『スプリングスティーン孤独のハイウェイ』(Deliver Me from Nowhereスコット・クーパー監督2025)のスプリングスティーン役だった――アメリカでも日本でもコケた映画だったが、決して悪い映画どころか、よい映画だった。あと『アイアンクロー』(23)の早死にするレスラー役であったジェレミー・アレン・ホワイトも忘れてはいけない。残念ながら声だけではわからなかった。もっとしっかりその台詞を聞いておくべきだった。ジャバ・ザ・ハットの息子役ロッタ・ザ・ハットということだし。

そうロッタ・ザ・ハットでいま眼前に蘇った。この映画は手慣れたテーマ・パークのアトラクション的、子供向け、家族向けの映画ではあるが、それを突き抜けた、「神的」エピソードがあったことを。

今年1月に公開され、いまでは配信もされている『アンダーニンジャ』(福田雄一監督)には、おそらく原作漫画にもアニメもないであろう、おそろしく、ばかばかしくて笑える爆笑場面がある。それは比較的初めの方で展開する。アパートの住人ムロツヨシと、雲隠九郎/山﨑賢人が、二つの部屋の境界(押し入れの一部)において、ふすまを閉めたり明けたりして行なうやり取りのところである。その不条理なまでの笑い、山崎賢人も必死に笑いをこらえるというか、もう笑ってしまっているのだが、二人の延々と続くやりとりは、物語とはまったく無関係に出現する至上の至福の笑いの場面である。あの映画のなかで、奇跡ともいえる場面である――それ以外は観るに値しないというような憎まれ口はたたくまい。

『マンダロリアン・アンド・グローグー』にも同様の奇跡的に笑える場面がある。もちろん子供にも家族全員も笑うことができる場面である。なめくじモンスターの三つ巴の戦いの場面。スター・ウォーズ・フランチャイズ全体をみても、これほど笑える場面はないと思う。この場面をみせるためだけにといえば制作陣には失礼だが、この場面の超越的お笑いは、なにものにもかえがたないのだ。おかしい。笑いが光速を超えている。
posted by ohashi at 02:08| 映画 | 更新情報をチェックする

2026年05月24日

『ミステリー・アリーナ』

深水惣一郎原作と比べると映画は原作を大きく改変しているので、同じ設定を共有している別々の作品として――つまり原作の映画化ではなく――とみるほうがよいだろう。そしてどちらが面白いかというと、小説のほうが面白い。

とはいえ、これは優劣の問題ではない。そもそもこの小説は、紅白歌合戦なきあとの近未来において毎年大みそかに生放送される国民的人気クイズ番組を舞台として展開するため、いかにも映像化しやすい作品にみえるのだが、実は小説は映像化を拒否するような叙述トリック(つまり文字媒体であることの特異性を最大限生かすようなトリック)を多用するため、映像化とは馴染めない。そのため映画版は最初から不利なのである。

小説を読む読者のためにも、映画を観る観客のためにも、ネタバレはしないように注意して語ることになるが。

小説版における推理クイズ番組「ミステリー・アリーナ」は、解答者が、謎めいた事件の一部始終を知らされてから推理を競うのではなく、早押しクイズであるため、事件の途中で、つまり事件の全体像が明らかになるまえから、推理を披露することになる。こうなると『君のクイズ』のような0文字解答も可能になる。このような事件の場合、犯人はこれこれだと、結末を知る前に推理できてしまうのである。まあ、あたえられた情報なりヒントから推理するというよりも、ジャンルの特性とか推理のパタン、また小説の約束事からクイズ番組の約束事などをふまえたメタ推理が主流になる。

ただしこの小説にも映画にもはじめて接する読者なり観客は、その推理ドラマ(山荘における殺人事件)は、どのように提示されるのかと疑問に思うかもしれない。小説版では、テレビのクイズ番組中、殺人事件が小説のように文字で綴られ、解答者も視聴者も画面の文字を読むのである。え~、え~、視聴者も文字だけが示されるテレビ画面をただ読む? まさにそのとおりで、実際、解答者も、文字情報のみから推理する。

さすがに、そんなテレビ番組は制作されるわけもなく、映画版でも、事件は映像ドラマ化されて示される(その映像化が問題でもあるのだが、ここではネタバレになるために触れない)。まあ、そうであろう。そのため小説においてトリックを見破る推理は文字情報に基づくものとなる。たとえば「ヒデ」とのみ語られる人物が最初から登場するが、その年齢や職業などわからず、文字からだけでは性別も不明である。あるいは「鞠子」というのは名前に思われるが、姓の可能性もあると推理されたり、タマは、ネコのようで実は人間なのだという推理がおこなわれるが、これすべて限られた文字情報ゆえに成立する推理である。

しかし、それを映像化すると、ヒデも、鞠子モ、タマも、どういう人物か、性別や人間か動物かは瞬時にして確定してしまう。だから映画版では推理のプロセスが狭小化する。叙述トリックは使えないので、トリックが少なくなる。事実、映画版は小説版とくらべて参加者(解答者)が小説版の半分しかいない。そして単純化されたぶん、映画版のほうは小説版にはない要素を追加することになる。それはまた映画にしやすいような小説が、実は映画化をこばむようなジャンル独自の仕掛けを横溢させる小説版に対する反動として、映画版でのジャンル独自のモチーフを導入することになる。

たとえば映画版でも小説版でも解答者は、推理が正しい(正解)かまちがっている(不正解)か確定するまで別室で待機させられ不正解ならば退場させられるのだが、映画版では、不正解の解答者は、全員殺される。いや過去に正解して多額の賞金を手に入れ海外で悠々自適のヴァカンスを楽しむレジェンドの解答者も紹介されるが、それはフェイクで、海外どころかスタジオのある建物のなかに潜んでいるにすぎない。

となるとこれはシュワルツェネッガー主演の『バトルランナー』(原題Running Man 1987)の世界である(これは2025年に『ランニング・マン』としてグレン・パウウェル主演でリメイクされた)。『バトルランナー』の、あくの強い司会者も、『ミステリー・アリーナ』と共通しているし、随所に踊りを入れる番組の演出もまたよく似ている。いやそもそも、『ミステリー・アリーナ』における推理クイズ番組の演出そのものが、いまから10年後の未来のテレビ番組という設定だが、なにか意図的にダサさ古臭さを強調している。昭和の匂いがふんぷんとする(対照的に『君のクイズ』のテレビ・クイズ番組は、いま放送されてもおかしくない演出の番組である)。それは1987年の映画『バトルランナー』の世界を踏まえているからである(『ミステリー・アリーナ』の名古屋の大須観音前〔名古屋生まれの私にはどこだがよくわかる〕からの中継なども『バトルランナー』に似せたのかもしれないし、先ほど触れたレジェンドの正解者の姿も、『バトルランナー』から借りてきたのだろう)。そして特筆すべきは、『バトルランナー』で話題となった、フェイク映像(シュワルツェネッガーが死んだことになるというフェイク画像だが映画公開当時はその技術はなかったが今や現実化した)に相当するものが『ミステリー・アリーナ』でもみられること。実に、『ミステリー・アリーナ』は、『バトルランナー』の洗練されたアダプテーションあるいは別ヴァージョンとすらいえるのである。
【なお『バトルランナー』のリメイク『ランニング・マン』はエドガー・ライト監督による映画で、映画館で観たかったのだが、まだ観ていない。もし観て付け加えることがあるのなら、上記の一節は著者としての私があとから書き直しておく。映画『ミステリー・アリーナ』にならって。英語の著者・作者authorにあたるのフランス語の単語auteurの意味を参照。】

主題面でも『ミステリー・アリーナ』は映画の伝統へのオマージュを実践している。ひとつは正義と幸福の問題である。両者が両立することが理想である。しかし往々にして、正義を追及することで、不幸になることは多い。また幸福を追求することで、不正にとりこまれることも多い。幸福であれば不正をおこなっていいのか。あるいは正義を追及して幸福の問題をなおざりにしていいのか。不正な基盤のうえに築かれるユートピアはディストピアである。真のユートピアは正義を実現するものでなければならない。

正義と幸福の葛藤は永遠のテーマかもしれないが、映画ではほぼまちがいなく正義が尊重される。不正のうえに築かれる幸福は映画では徹底して断罪される。たとえ不幸になっても、偽りの幸福を解体し、その廃墟から正しい幸福を築き上げること――これが映画の不文律である。『ミステリー・アリーナ』でも、製薬会社のもたらす幸福の欺瞞が徹底して暴かれるとともに、幸福の追求がすべてであることも徹底的に主張される。幸福の追求という敵は、映画の中では常に手ごわいのだが、この敵に立ち向かうのが、映画のなかでのもうひとつのジャンルの伝統、少女である。

製薬会社と結託し、またこのクイズシステムを構築したのがアフロヘアの樺山桃太郎/唐沢寿明だが、この敵に対して戦いをいどむのが一子という名の推理クイズの天才少女(芦田愛菜)である。一子が暗示しているように彼女は孤児であり、家族からの桎梏からも、また社会的人間関係の桎梏からも免れている。まさに映画ならではの、誰にも所有されない「少女」。この「少女」が、製薬会社の魔王と対決するのが、映画『ミステリー・アリーナ』である。そう『ミステリー・アリーナ』は少女物なのである。

この小説の読者なら、小説版『ミステリー・アリーナ』は、そんな作品だったのかとわが目を疑うことはまちがいない。同じ設定を共有していながらも、映画版における戦う「少女」の登場は、読者には想定外であるだろう(ちなみに一子/芦田愛菜の脳内に存在する別人格サンゴ/三浦透子もまた映画独自の設定である)。巨悪と体制と戦う少女(芦田愛菜)の物語を構成することで、この映画は、映画としての自己正当化を達成しえたのである。
posted by ohashi at 18:36| 映画 | 更新情報をチェックする