2014年08月01日

DNA鑑定

正確には8月1日の深夜のテレビだが、気持ちとしては7月31日の深夜のテレビなのだが、テレビ東京の『裏ネタワイド DEEPナイト』をぼんやり見ている私がいた。今夜のトピックは「麻美ゆま/DNA鑑定/歌舞伎町」の三つ。

癌で卵巣摘出後、抗がん剤治療を続けて、今はタレントとして復帰した麻美ゆま本人が最初に登場したので、思わず、見入ってしまった。企画単体女優としての彼女のDVDは見たこともないし持ってもいないのだが、何かの総集編のAVのDVDでは見たことがある。まあテレビ東京の深夜の『マスカット』シリーズに出演していたので、一般にもよく知られているAV女優であったのだが。癌から回復して、ほんとうによかった。AVに復帰しないのは、手術跡がある裸体はAVには向かなということなのか。ただ一般にAV女優の女優としての寿命は短いし、知名度を生かしてタレント活動ができれば、それが一番いいのだろう。また出演作が180本ということだが、どういう数え方はわからないのだが、彼女くらいの人気で180本というのは、そんなに多くない。最近よくテレビに出ている川上ゆうは、もちろんキャリアが長いということもあるが、500本くらい出ているのだから。とはいえAV業界のことは全く無知なので、あまり知ったかぶりをしていい加減なことを語ってもよくないので、やめるけれど。(追記 最近川上ゆうの出演AV本数を調べたら800作品を超えていた。8月14日)

麻美ゆみの出演が終わったので、本来なら、そこでテレビを見るのをやめてよかったし、DNA鑑定というのは、犯罪捜査で使われるくらいの知識しかなかったし、まあ、そういう話だろうと思ったので、興味もわかなかったのだが、夫婦間のいざこざで、誰が子供の親なのかを認定するときにDNA鑑定が最近使われるということが多く、調べるとわが子が、奥さんの浮気によってできた子供だと知って唖然とする父親が多いという話になった。夫は、自分の子供が誰の子供かわからない。妻だけが知っている。妻の浮気というのは文学のテーマとしてはありふれている。子供が誰の子供かわらない。妻だけが知っているというのは、不倫とか浮気といった陳腐なテーマに隠れて、あまり目立たない。夫が自分の子供が誰の子供かわからなくて悩む。妻だけたほんとうの父親を知っている。

これは、例えば最近ハロルド・ピンターを読んでいるので、ピンター作の『背信Betrayal』のテーマかと思ったが(そこでは子供の真の父親が暗示されているところがある)、それよりもなによりも、これはストリンドベリの『父』のテーマそのものではないかと思い当たった。つづく

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2014年05月08日

お詫びの言葉

謝罪いたします。

過去に、このブログに掲載した記事のうち4点が、記事の中に書かれた当事者への重大な名誉棄損、誹謗中傷、人権侵害にあたるのではとの指摘を受け、その指摘の真摯さならびに的確さを理解し、深く反省し、該当記事4点をすべて削除いたしました。

またその記事によって不安になったり不快に思われた方には、名誉をいちぢるしく傷つけられた方に深くお詫び申し上げます。また、さらには、このような記事を読まれて不快に思われた方にも、ここに心からお詫び申し上げます。またこのようなことは二度とおこなわないことを、ここに誓います。

平成26年5月8日
大橋洋一


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2013年12月06日

マンデラ氏死去

20世紀の終わりころ、私は大学で専門(英文学)と英語の授業を担当していたが、英語の読解の授業では、時事英語の教材を選んでいた。大学によっては英語の授業に時事英語という枠を設けているところもあるが、私が所属していた大学ではとくに時事英語枠はなく、教員は自由に教材を選んでよかったので、私は迷わず時事英語を選択していた。まあ教科書もたくさん出ている。新聞、ラジオ、テレビが、主要な媒体にしてジャンルだったが、いずれも教科書の内容は1年前のものだが、それでも学生にとっては、1年前のことを英語で振り返るという面白さもあったようだ。

前年度の内外の英語の新聞記事を集めた教科書が、私の好みの教材のひとつで、それを最初から丁寧に読んでいくのが私の英語の授業だった。時事英語の授業の面白さはいろいろあるが、それは本題とははずれるので、やめておくが、私が使っていた教科書には、毎年、南アフリカのネルソン・マンデラの投獄中の記事が掲載されていた。1964年から終身刑になりロベン島に収監されていたのだが、毎年、記事は、今年で投獄からかぞえて何年めで、不当な収監を非難する国際社会の声を伝えるものだった。

毎年、教科書で、その記事を読むたびに、私は、マンデラについての簡単な説明をし(マンデラについては教科書でも説明文があったのだが)、南アフリカのアパルトヘイトはいつになったら終わるのか、マンデラはいつになったら解放されるのか、可能性がまったくみえない未来を短く嘆いていた。毎年、教科書では、収監年月がふえていく。終わりは、まったくみえてこなかった。

しかし、ある日、ニュースでマンデラ解放の知らせが飛び込んできた。奇跡の知らせであった。正直なところ、結局解放されずに獄中死しましたというニュースがあっても全くおかしくなかった状況だったので、感慨もひとしおだった。もちろん、よその国の話とはいえ、英字新聞の教科書を通して毎年南アの動向とマンデラの状態には注目していたので、ほんとうに明るい陽がさした奇跡の瞬間だった。それはまたアパルトヘイト撤廃への力強い一歩でもあったからだ。人類史のなかで記念すべき日でもあった。

それから20年以上もたつことになった。政治家を引退したとはいえ、まだまだやり残したことは多くあったとは思うし、むしろ無念の死だったかもしれないが、95歳まで生きたのだから大往生と言えるだろう。あのときの解放のニュースは、奇跡と自由への道は、いまだ閉ざされてはいないことを私に教えてくれた稀有の瞬間だった。

ちなにみ解放された翌年というか、たぶんその年の時事英語の授業で(解放は、1990年2月のことだから、ぎりぎりで、1990年度の教科書に記事が掲載できたはずだから)、私は、マンデラ解放の記事を教室で読んでどんな感慨をもったかについては、なにも語ることはない。なぜならその年、私は英国に海外研修に出て、大学で英語の授業は担当しなかったからである。いまから思うと、ちょっと残念だった。

posted by ohashi at 21:02| 日記 | 更新情報をチェックする

2013年11月22日

オフの日2

オフの日にどうしているのかと学生に聞かれることがよくあるので、オフの日の行動を赤裸々に報告(赤裸々というほど、悪いことも激しいこともしていません。バナールな日常です)。

先週の金曜日はひどい目にあったが、今週は順調にことがはこぶことを祈って。

朝10時に出かける前には、朝食【概算で100キロカロリー前後】を取り、ゴミ出しを終えている。外出するときにごみを出せばよいと思うかのしれないが、金曜日は回収が早いこともあり、9時前にはゴミを出す。

外出して目的地は上野公園の東京藝大の美術館。11時前には上野駅に着くが公園口の改札を出ると嫌な予感。人が多い。春の花見シーズンの頃と同じくらいに人が多い。噴水あたりまで来ると人がまばらになったが、それでも明らかに藝大美術館に行く人の流れができている。中高年が多い(私もその一人だが)。まあ人気があるのだろう。それに24日に終わるということもある。

興福寺創建1300年記念国宝 興福寺仏頭展
展覧会そのものは、予想どおり、仏頭よりも、12体の守護神ともいえる神将の「板彫十二神将像」と「木造十二神将立像」とが圧巻で、3センチか5センチくらいの板に彫られたレリーフは、板の薄さを感じさせない奥行と動きのある表現ですばらしいのだが、やはりなんといっても「木造十二神将立像」が、すばらしい。ガラスのケースに入れるのではなく、手を伸ばせば届く距離に、台のうえに載せて展示してある。この近さが、木彫の立像をじっくりみる喜びを与えてくれる。しかも、十二体の神将像が一堂に会するのは圧巻。薬師如来である仏頭と十二神将像は、主従の600年ぶりの再会の場となるとのこと。図録を購入し、クリアファイルを購入(とはいえ藝大美術館の展示は、クリアファイルになりにくい。カイユボット展のクリアファイルなら、代表作の一つの図を使えばいいのだが、仏頭だけではさまにならないので、結局ポスターのミニ版のようなクリアファイルなので、全部は購入しなかった)。

でも展示を見て、元気になったので、このぶんだとターナー展も行けるぞと考えたが午後の予定を考えると12時を過ぎているので時間がない。やむなく出口に向かうと、出口では入場制限をしていた。午前中にすんなり入れたので、まあ、よかったのでは。

カバンなどにも荷物を極力少なくして身軽で来たのだが、図録その他の物品を購入したので重たくなった。それに家を出てからずっと立ちっぱなしなので足も疲れた。すこし休もうかとも考えたが、自分の研究室で休むのがいいと判断、これから上野公演をつききって、不忍の池に。ちょっと道に迷い、文化会館方面に来て、引き返すなどして時間がかかったが、不忍の池までくれば、あと大学は目のまえなので、門からずっと坂になっているキャンパスの道を上り続けて、自分の研究室にたどり着く。

研究室につくとしなければいけない仕事に出あうのだが、とりあえず昼食78キロカロリー。あとは夜まで何も食べない。またネットで映画館を予約する。ただ、時間を勘違いしたみたいで、『マラヴィータ』のあと『危険なプロット』にしようとしたら、バッティングする。勘違いをしていた。そこで時間的に、そんなに待つことがない『ラガーフェルト』のドキュメンタリー映画に。

1時30分頃に研究室に出る。郵便局で送金するを済ませる。また同僚の阿部先生がサントリー学芸賞を受賞することになり、めでたいのだが、授賞式に招待されたが、欠席の通知を投函する。火曜日の夕方の授賞式の時間は、本郷で授業がある。この時間帯、月曜日は祭日のとき駒場では火曜日に授業をするように要求されるため、駒場の授業を休講にしてもいいのだが、他学部の授業なので、迷惑をかけたくないので、本郷の授業を休講にした。それがすでに2回。また1回はやむを得ない事情で、休講。となると火曜日はこれ以上、休講はできない。それどころか補講をしても当然なので、やむなく授賞式には欠席となった。阿部先生本人にも、欠席を伝え、お詫びしている。

『マラヴィータ』
TOHOシネマズ有楽座の『マラヴィータ』は、偉く面白い。ブラックな笑いでもあるのだが最後まで飽きさせなかった。時間帯が時間なので、中高年の人間が多いのだが、デニーロが歳とったこともあり、まあ中高年向けの映画かもしれない。家族愛が大きな比重をしめるが家族でみる映画ではない。詳しくは明日以降に。

『ファッションを創る男 カール・ラガーフェルド』
午後4時30分に終わったので、つづいてヒューマントラスト有楽町に移動。2007年の映画だが、それを今頃なぜ。ファッションとは無縁の私が見てもしかたがない映画かもしれないが、ゲイのデザイナー/アーティストのドキュメンタリーは興味がある。また、このオフ日記もそうだが、他人の日常を覗くというのは、純粋にそれが面白い。映画そのものについては明日。

そんなに人は入っていない。それはそれでいいのだが、列の右端に座っていた私の、すぐ左隣に座ったくそおやじがいる。全体にがらがなので、おまえどこかに移れよと思ったが、すぐ私の隣である。ならば私が移動するしようと思っても右端で、前後の右端は詰まっている。どこへ行くにも、誰かの前を横切らねばならない。もちろん、私の隣に座った中高年のバカが静かに見ていてくれればいいのだが、向こうは、その左隣に誰も座っていないので、ひじ掛けを両方独占できる。こちらは一つだけだ。そんなこともあって、だんだんイライラしてくるのだが、そのバカ男とはじまってからまもなくして席をたって出て行った。やれやれと思ったら、また戻ってきた。たぶんトイレにでも行ったのだろう。がっかり。そして映画を見ながらもぞもぞしている。またやたらに時計を気にしている。要は映画がつまらないらしい。早く終わればいいと思っているらしい。こんなバカ、どんな理由があるにせよ、人で映画館にやってくるなバカ野郎。私は、立ち上がって、いやながらとっと帰れと、相手の股間に蹴りをいれて、その禿げ頭にもっていた折り畳み傘をたたきつけて、頭を割って、さらに口に傘の柄を食わさせて半殺しにしてやろうか……、いけない、すぐ前にみた映画に影響をうけすぎている。

その男は映画が終わると誰よりも早く、暗い映画館を出て行った。まあ、そういうバカがいてもいいのだが、なぜよりにもよって、私の隣に。あとで見つけて住所を聞き出し、そいつの家の前にプロパンガスの……、いけない、直前に観た映画『マラヴィータ』の影響を受けすぎている。

『ファッションを創る男 カール・ラガーフェルド』については、明日以降に記事にする。

映画が終わったと、西銀座デパートの宝くじ売り場に並ぶ人たちの列を横にみて、丸の内線銀座駅のホームに向かう。ヒューマントラストシネマズ有楽町からは、有楽町線の有楽町駅にも行けるのだが、丸の内線のほうが池袋まで座って帰ることができるので(東京駅、大手町で多くの乗客が下車する)、銀座・日比谷・有楽町の帰りはたいてい丸の内線である。実際、東京駅で座ることができたし、池袋駅で副都心線に乗り換えたが、和光市まで座って帰ることができた。

駅に到着してから、近くのイトーヨーカドーにインクジェット・プリンターの黒インクを買うために立ち寄る。購入後、自宅近くのスーパーで食料品と、金曜日は花が2割引きなので、仏壇の花を購入する。帰宅したのが8時30分くらい。

遅い夕食だが、豚のすき焼きにする。豚ですき焼きと言うなかれ。群馬県では今でも豚のすき焼きが食されているし、関東風のワリシタで煮込めば、豚肉でも、においなど気にせずふつうに食べることができる。これはほんと。牛肉のすき焼きとは味は違うし、別の料理ということになるが、全く抵抗なく食することができる。あとすき焼きのわりしたは甘すぎるのだが、カロリー半分のものにして、さらにシラタキをいっぱい入れて、満腹にする。白米は食べない。

あとラディシュからクリームシチュー用のルーを購入したので、これで根菜たっぷりのクリームシチューを作りおきすることにした。人参、玉ねぎ、レンコン、ゴボウ、サトイモ(えびイモ)、鳥の胸肉を、適当な大きさに切って鍋に入れる。油は控えているので、材料をいためない。そのまま水から煮込む。20分から30分くらい煮ると、材料は十分にやわらかくなる。火を止めて、ルーを割りいれる。またマッシュルームも入れ、最後に牛乳を入れて完成。深夜。味見をするために一口二口食べてみたが、あまりのうまさに圧倒される。

もちろんクリームシチューを作りならが、来週の授業のための準備をする。コメント・ペーパーにコメントをするのである。おわり
posted by ohashi at 22:56| 日記 | 更新情報をチェックする

2013年11月15日

オフの日1

オフの日にどうしているのかと学生に聞かれることがよくあるので、オフの日の行動を赤裸々に報告(赤裸々というほど、悪いことも激しいこともしていません。バナールな日常です)。

本日は夕方の5時30分に人と会う約束がある。それまでのことを記す。

午前中にすべきことがある。それはゴミだし。履歴書に貼る写真撮影。履歴書投函。チケットの引き取り。

ゴミを出した後、写真を撮影できるブースのようなものがあった記憶があるので、どこにあるか探しに出かける。結局、駅までやってくる。証明写真撮影のためのブースで、900円支払うことに。

これは履歴書に貼るための写真だが、べつにすぐに転職をする予定があるということではない。60歳になって、そろそろ定年の年齢というのがみえてきた。しかし65歳で退官しても、天下りでどこかべつの大学に移籍することはしない。頼まれれば非常勤くらいするかもしれないが専任になることはないだろう。再就職して、若い人たちのポストを奪いたいくないなどとは考えない。若者にポストをゆずるくらいなら、意地でも、そのポストにしがみついていたい。そうではなくて、もっと明白な理由として、1)そもそも私を呼ぼうという大学なり人物は、存在しない。人徳がないことと、友人が極端に少ないからである。2)もうあまり働きたくはない。静かに余生を送りたいからである。だから履歴書を作成するといっても再就職とか転職とは全く関係がない。どこに提出するかは秘密。

次にネットで予約した劇場チケットを、セブンイレブンでまだ引き取っていないので、駅の近くのセブンイレブンを探す。というか駅の近くにセブンイレブンはなかった。となると私が知っているのは自宅近くのセブンイレブンで、そこに立ち寄ってから帰宅することにした。引き取り完了。帰宅してからは、履歴書に写真を貼り、封筒に入れ、駅に行く途中にあるポストに投函。約束の時間は5時30分なので、それまでに映画をみることにした。

新宿のピカデリー。ネットでチケットは予約していある。午後1時26分の副都心線の急行に乗る。これれでいけば開演10分前には、チケットを手に入れることができる。映画は2字10分から4時30分くらいまで。そこから移動すれば5時には約束の場所の近辺に着ける。

だが、順調なのはそこまでで、地下鉄の池袋駅で、突如、車両が動かくなくなる。有楽町線上で安全器の故障がみつかったので、有楽町線と副都心線、全線で運転を見合わせているとのこと。池袋に停車して動きそうもない。なかには池袋駅で下車することにして出ていく乗客もいる。こちらもぎりぎりで動いているので、時計を見ると、これで開映10分前に到着は無理だ。…これで開映ぎりぎりで入ることも無理だ。これで予告編で入ることも無理だとわかった。つまり停車したまま午後2時になったので、映画はあきらめることにした。もう間に合わないからである。

もっと早く出かければよかったと悔やまれるが、しかし、少しばかり早くでかけても池袋と新宿三丁目の間のどこかの駅で立ち往生ということになるだろし、そうなった運転再開まで動けない。まあ幸い、池袋で止まったくれてよかった。丸の内線に乗り換えられるので、自分の研究室に行くことにした。午後2時、丸の内線に乗り換えるべく下車。最終的に午後2時30分までには研究室にいた。

それにしても1800円の損失である。いやもちろん60歳を超えたので、映画は1回1000円で見ることができる。しかし60歳になりたくないので、また年齢のわかる身分証明書を持ち歩くのが嫌なので、見栄を張って1800円の一般チケットを購入したら、このざまである。1000円のチケットを購入しておけば、損失も半分で済んだというのに。

残念な気持ちになりながら、とにかく研究室にいれば、しなければいけないことが、やまのようにある。それらをひとつひとつ片付けながら、5時過ぎに研究室を出て約束の場所に。所要時間を少し間違えていて、5分ばかり遅刻したが、無事に到着した。あとは省略。べつにデートとか、秘密の仕事のうちあわせということではないのだが、相手がいるので、ここではあえて書かないことにする。最悪の午後だった。おわり
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2013年11月08日

『ある愛へとつづく道』

二度と生まれるな

この映画については、予想を裏切る映画だった。それもよい方にではなく、悪い方に。

実際にペネロペ・クルスが女子大生か息子のいる壮年の母親になるまでを演じ、戦争によって引き裂かれた人間関係、狂わされた運命を描きながら、最後には、ふたたび人生の意味を見出すというような、まあ、凡庸だが見る価値のある映画と予想していた。凡庸どころか、いらいらがつのる最低の展開だった。そのくせその映像には最後まで瞬きもせずに見入ったという比喩がふさわしいくらい、じっくりとみた。問題のある内容に、感銘深い映像。いちばんたちの悪い映画である。

いつもは、Moviewalkerにおいて、ど素人の馬鹿映画評を探して喜んでいる私だが、今回は、共感できる映画評があった。書き出しは間抜けで期待できないが(「ペネロペさんファンのカミさんにお供して観賞。
自分としては「面倒臭ぇ~」系でした」と書くような男は、ろくなやつじゃないのがふつうだが)、残りは、私と同じようなことを思う観客がここにもいたということで、すべからく同感の映画評である:
女、妻、母の“エゴ”の向こうに、どんな“愛”が有るの? (投稿日:11/11)
ペネロペさんファンのカミさんにお供して観賞。
自分としては「面倒臭ぇ~」系でした。
恋愛、結婚、不妊、代理母、集団レイプ、望まぬ妊娠、誰のだか分からない子、事実の隠蔽、全く血縁の無い親子・家族、全てを知る者の葛藤と後悔、事実の提示、そして様々な有り方の“愛”。色々な要素を詰め込んで、全てが“戦争”で人生を狂わされてしまった男女の時の流れの物語という仕立てです。でも、この現象はニューヨークやパリの裏町にゴロゴロしている訳で、殊更にサラエボ紛争に引っ掛けた意図が???
ところで自分的には、あの“カメラマン=最初の夫”が全ての元凶でしょ?と言いたいですネ。自分の好き勝手に生きてきた、そのツケでカミさんが不妊なのに養子縁組不可裁定。代理母でウダウダしてたら戦争で悲劇。結局2人の女性を不幸にして、自分は自殺。最後まで自分勝手に辻褄合わせをしてしまったように思えます。
全てを知っている親友は、黙って飲み込み女性たちを慈しむ。「〇〇の為に・・・」と言いながら己のエゴを振りかざす女性の前では、男は成す術も無いってところでしょうか?
詩的に活用・構成された風景映像は効果的です。
ペネロペさんが大学生から壮年母までを演じているのは一見の価値有りです。
結局、まるっきりの赤の他人同士で蚊帳の外的な、今の夫と息子の気持ちが通じているようだったのが救いでした。

映画を見ていないと、この映画評は何を語っているのかわからないところもあると思うが、問題点をほんとうに的確についている。すべての元凶なのは「あのカメラマン=最初の夫」だが、もちろん、そんな馬鹿な男と結婚したペネロベ・クルスもまた元凶だろう。奥さんの趣味につきあって映画に行っている上記の映画評者は、ひそかに女性へのミソジニーをはぐくんでいるので、女性への批判はミソジニーだと思うかもしれないが、まあ、そうかもしれないが、同時に真実をついている。

ペネロペ・クルスは、イケ面だが、みるからにチャラ男のカメラマンに言い寄られ旅先のアヴァンチュールとして身体をゆるすのだが、その後、彼のことが忘れられなくなって、婚約者と結婚してもすぐに離婚、やんちゃで、信用のおけないけれども、どうしても憎めない男にひかれてゆき、ついに結婚する。しかし、相手は、つめたくあしらわれると、それだけ征服欲に燃えて、彼女の実家にまで押し掛けるのだが、結婚したら、すぐに浮気をするような男である。別の男と結婚したにもかかわらず、離婚して、くっつくような相手なのか。まあ、好きならしょうがないが、しかし、彼女の選択は子供をつくるということである。日本のことわざに子はかすがいというのがあるが、ペネロぺ・クルスは全く同じことを言う。しかし子供をつくらないと相手をひきとめられないくらないなら、そんな男と結婚などするなと言いたい(もっともこの男は子供ができても、離れていくと思うのだが)。それは愛ではなく、愛なき結婚でしょう。もちろん、そんなことは、いまここにある現実であって、 バナールな愛の破たんの結婚形態であって、いちいち目くじらを立てるには及ばないなかもしれない。しかし、それが大河ドラマの進行を支えるとなると話は別である。

子供がいなければ夫を引きとめられないと信ずる「子はかすがい」女の愚かな信念と、逆にそこまで追い込まれた結婚生活の悲惨のなかで、そのきわみのなかで、愚劣さが至高の信念となり、悲惨さとバナールさが栄光に変容するのならまだしも、彼女は最初から子供が産めない体であり、そのため養子をとることにする。これもおかしい。そのうえ、夫である男は、以前、薬物所持の前科があり書類審査で父親として不適格の判定を受ける。そのためこの夫婦は養子をもてない。そのためカウンセラーのシャルロット・ゲインズブールは、この馬鹿夫婦にひたすら泣いて謝り同情するのだが、しかしカウンセラーなら、おそらく今薬物をやめていない男に、薬物犯罪がいかに重い帰結をもたらすか、奥さんが必死に子供をつくるとするのは、彼女のエゴではなく、夫を愛し、夫をひきとめたいからで、そこのところを理解すべきだということがぐらい、なぜ言えないのか、馬鹿カウンセラーめ。泣いてるばあじゃないぞ。まあ、作者にしてみれば現実のカウンセラーはそんなこと言わないと主張するかもしれないが。しかし、リアリズムをこの作者に口に出してもらいたくない。ここにあるのは、リアリズムではなくて、ただ悲惨な話をつくろうとする作為性しかないのだから。

そう、たとえば内戦により凶悪な軍が侵入してくるとなると、人々は、避難すべくあわてふためいて都市から逃げ出す。しかし、物語の関係者たちは、町に残る。なぜみんなが逃げ出した後に町に残るのか。そこにやむをえない事情があるのか、在留することへの信念があるのか、何も示されないまま、砲撃にあい、狙撃にあい、死んでいく。まさに悲惨さを演出さるために、彼らが逃げだすのを阻止しているかのようなのだ。ここにあるのはリアリズムではなく、飛散な物語をつくろうとする人為性(まさにリアリズムの対極)でしかない。

その具体例を列挙しはじめたらきりがない。まさに「困った系」の映画としてかいいようがないのだ。

あとシネ・シャンテでみた映画は、Twice Bornと英語のタイトルが入っていた。また映画のなかでもペネロペ・クルスをはじめて英語を交えて話す人物もけっこういる。ただ主要人物たちの英語とべつの言語の使い分けがどうなっているのか、実際違和感満載だったのだが。たぶん国際版だと思うのだが、英語とその他の言語の関係もわからないまま。また、いろいろな点で、受け狙いでだが、ひとりよがりで、空回りしている作者と映画製作者が、子供向けに悲惨な話を書き、子供たちから支持をえて、なんとか映画として成立させているという、とにかく、そう、まさに「困った系」の映画だった。
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2013年11月01日

『人類資金』

グランド・イリュージョン--『人類資金』-

阪本順治監督の映画で、豪華出演俳優だから、安心して見られる、きちんとした映画だと思っていたが、裏切られたということはないが、なにか物足りなさが残った。スケールの大きな長い小説だから、たとえ2時間超えの映画でも、原作のすべての要素をさらうことができないばかりか、省略・圧縮しても、さらには翻案しても、無理が出た、薄味になったというところだろうか。

とはいえ俳優の使い方にも問題があろう。森山未来の最後の国連での英語の演説はよかった。話しぶりがいい。ただ、森山は日本人という設定ではない。外国人なので多少メイクで顔を変えているのかもしれないが、まるで宇宙人みたいない顔をしている。これは減点でしょう。観月あずさは、まさに紅一点でしかないが、彼女の役割も、ある意味、男のそれであって、そうなるとなにも彼女でなくてもよかったし、逆に言えば、もう少し、べつの使い方もあったのではないかと思う。さもなければ新人を使ってもいいくらいだ。

外国人俳優の起用しても、ヴィンセント・ギャロを、あんなふうに使うのはもったいない。地元の俳優なら誰もでもできるような役に使わないでほしい。映画ではウラジオストックで詐欺をはたらくとき、地元の俳優を一時的に雇うというエピソードもあったが、だったらそれをアメリカですればいいので、ヴィンセント・ギャロのあの使い方はもったいないし、実際、あれは黒幕としてもただの変態でしょう。また韓国の俳優ユ・ジテを、ただの殺し屋に使うのはもったいない。原作では複雑な人物だろうと予測はつくのだが(豊川悦司ふんするハリー遠藤の関係者)、映画の中では有能だがうすっぺらい殺し屋にすぎず、しかも、日本人の役とういのは、なんという使い方なのだろう。原作では陰影のある人物のようなだが、映画のなかからは説明不足で、それが伝わってこない。

原作を読めばわかるということだろうか。そもそも説明がなかったところがけっこうある。海に沈んだ金塊がM資金になったということだが、それはいつ引き揚げたのかわからない。それが戦後利用されたのだから、ある時点で引き揚げられているということは分かるだろうという作り方なのか(まさか海中あるいは海底銀行ということはあるまい)。まあ、そういうことだとしたら、それはそれでいいとしようか。たとえば冒頭に登場する豊川悦司も、どういう人物か説明がないまま、終わりのほうで、ユ・ジテ=遠藤への語りかけのなかで触れられるというのも、あまりにわかりにくい。とはいえ原作を読んでいないので、解釈が違っているかもしれないという不安がよぎる。そう、限られた時間のなかですべて説明するのは無理だから、あとはわかれという作り方は、暗示的・示唆的表現というよりも、不安にさせるものである。不安はひいては不満になる。一言あってもよいではないかというような。あるいは原作を読めばわかるというのは、不親切ではないかという不満。

世界が始まるところを見せるということだったが、それがどこか、わからない。カピラという東南アジアの架空の国なのか。簡易携帯電話を使いこなすようになったカピラの子供たちのなかに、世界が変わる端緒があるということか。あるいは森山未来の国連での演説なのか。内容は、カピラ(東南アジアの架空の共和国)の人材資源は可能性の宝庫で未来に開かれている、テロリストの巣窟ではない、だから軍隊を送り込まないで欲しい、国を発展させる援助資金は必要ない、簡易スマートフォンがあればやっていける。ただ友情だけでいいから、あとは暖かく見守って欲しい――世界は、変わりそうもない。

世界の七割の人間は、電話をかけたこともないというのは、ほんとうかどうか知らないが、映画のなかで明かされる衝撃的な事実である。しかし、この問題の解決が、世界の最貧国の人たちに簡易携帯電話を与えることだというのは、問題のすりかえではないか。電話の話は象徴的な次元でのことだと無視しても、下手をすると貧乏人相手に廉価商品を多数販売して巨万の富を得るとうい**商法と同じになりかねない。それで世界が変わるといわれても、なにか釈然としないものが残る。説得力がない。

大きな原因は、敵の存在があまりに薄っぺらことである。資本主義の競争原理と市場経済をなんとしても守らねばならないというだけでは、いまどきそんなお題目をとなえて満足しているのは、世界のどのセクターなのだろう。さすがに敵はそんなに単純ではないことを知らせるべく、エンドクレジットのあとに、日本の国家がかかえる負債もそうされて金融市場を潤わせている(「ありがとうジャパン」の揶揄的な声が入る)という小細工を弄せねばならなかった。まあ、青臭いと感じたのか、世界の金融市場は甘くなく日本はどんどん食い物にされているという、おちをつけた。これなどは本編における敵の扱いへの不満や不安の証左であろう。

またM資金財団を護る家族三代の物語に収斂させたことで、密度感が増してもいいのだが、密度感よりもスケールが小さくなり、矮小化されたきらいがあるのも残念だ。父の遺志に逆らう子。さらにその子が祖父の遺志をつごうとする。先般亡くなった山崎豊子の『華麗なる一族』と同じではないか(テレビ版ではSMAPの木村拓哉が演じていた役を、『人類資金』では同じSMAPの香取慎吾が演じていることになる)。すべては、この祖父、父、孫の三代の愛憎劇に端を発しているだが、実際には、この三代、敵対しているようで、みな善意の人たちであり、二転三転したあとは、三人とも目的と遂行が同じだったとわかるために、深いといえばそうだが、同時にスケールが小さくなるということも言えるだろう。

終わりのほうでは、ヴィンセント・ギャロの財団の執務室か応接室かよくわからないが、大きな部屋で主要人物が集まり(拉致されてきたのだが)、テレビで国連の森山の演説を聞いているとうい場面が登場するが、これなどは演劇的である(演説のシーンは、国連本部内のカメラでも撮られているので、テレビ画面のなかだけに収斂するのではないが)。部屋とテレビで、国連演説とそれを憎んだり応援する主要人物というのは、なんという演劇的趣向なのだろう。これも密度感、緊迫感が出てもいいのだけれども、せっかくの国連総会議場のロケの効果を相殺しているようにもみえる。

しかもこの作品は、死ぬ人間が少ない。財団関係者のなかでも殺されるのは岸部一徳だけだ。殺し屋も実際に殺すのは、岸部ただ一人である。もちろんたくさん人が死ねばいいというような話ではないし、むしろむやみやたらと人を殺すのを控えるという製作意図も窺えるのだが、最終的に、そこが映画から説得力を奪っている。つまり犠牲者が少ないのである。

現在、公開されている『グランド・イリュージョン』も、実は発想は人類資金と同じで、貧しい人、被害者に、盗んだお金を分配する話である。もちろん大金を盗むとはいえ、世界の金融市場を変革するほどのスケールの大きな話ではない。むしろ倍返しというレヴェルの話なのだが、実は、こちらのほうが、人間的次元でも、家族の次元でも、そして大いなるマジックとイリュージョンという点でも、本来はけち臭い話なのだが、安っぽさがないのはどうしてだろう。いっぽう『人類資金』は、世界のシステムを変えるという、革命性を前面に出していながら、説得力がないのは、青臭い発想ということではない。それは死者が少ないこと。犠牲者が少ないからである。

森山の国連の演説では、何も知らずに人身売買のためか、内戦の混乱か、行方不明になった自分のかけがえのない妹のエピソードが語られる。おそらく死んでいるだろうと思われるその妹を、なぜ死んだと設定できなかったのか。最近の青春映画は、たいてい恋人たちのどちらかが死ぬという設定が多いのだが、そうした死の安易さ陳腐さ安っぽさを避けようとしたのか、あまり人が死なない映画なのだが、こうした内容の作品であればこそ、多くの人を殺しておくべきだ。

映画のなかのカピラ共和国という架空の国も、ただそれだけでは、説得力のない虚構にすぎないが、アメリカからテロリストの温床と名指しで非難され侵略されて蹂躙され住民あるいは国民が虐殺されてはじめて、存在感が出る。M資金の財団の管理者一族も、金融市場の投資のためにしか資金を使おうとしない勢力によって皆殺しにされ、打つ手すべてが先手を越され、多少有利にたったとしても、すべて偽りの勝利で、つぎの瞬間、絶望のどん底に突き落とされる。そうした犠牲者の累々たる山を背景にして、国連で演説すべきであろう。いや、そうしているといわれても、関係者が生き残っている状態では、説得力が欠ける。そもそもM資金なるものは、第二次世界大戦のなかで死んでいった日本人あるいはアジア人いや軍人も民間人も含む人類の未曾有の犠牲を背景にしていたはずが、それがなにも実感として感じられない。日本は戦争で道を誤ったなどという抽象的な物言いでしか語られない物語のどこに説得力があるのか。日本は戦争で、他国民のみならず、自国民も虐殺し、戦争を遂行した軍部もまた犠牲者へと変わっていった総体的犠牲を生み出した。国連総会での森山の演説を支援するのは、M資金を管理した一族でもなければ、善意の日本人でもなければ、カピラという架空の国の国民でもなければ、生死が定かでない妹でもない。戦争のおびただしい犠牲者たち、過去の、そして現在の戦争の犠牲者たちのこそが真の支援者だ。死者を味方につけない理想は、何を語ってもただのグランド・イリュージョンである。
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2013年10月29日

バトラーのアーレント論

ジュディス・バトラーがスピヴァックと対談している薄い本のなかで、アーレントについて語っているというか、批判しているところがあって、そこを読んで、バトラーともあろうひとが、なんというへ理屈でいちゃもんをつけているのかと唖然としたところがある。

ここでは詳しく語らないとしても、批判へと至る発想も変だし、また批判そのものもいちゃもんとしかいいようのないものだった。なぜこれほどアーレントに対して無理解なのかと驚いたふしがある。バトラーはアーレントを人種差別主義者とまで言い放っている。対談相手のスピヴァックは、バトラーの暴走にはつきあわずに、むしろ冷静に議論しているのだが、それにしても不思議だった。

今回フォン・トロッタの映画『ハンナ・アーレント』を見て、なるほどそうかもしれないと思うことがあった。つまり映画でも中心的主題でもあったのだが、アーレントはユダヤ人への裏切り者として非難されていたのであって、ユダヤ人コミュニティにとって、アーレントだけは許さないということだったのかもしれない。結局、バトラーも、そのアーレント非難の空気の中で、偏見に汚染されていたのではないだろうか。しかし、それはポストモダンの批評家としては、あるまじきことのように思えるのだが。
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2013年10月28日

『ハンナ・アーレント』

バナールなナショナリズム

連日、満席の映画館で映画を見ている。本日は岩波ホールの『ハンナ・アーレント』。ナチスのホロコーストの最高責任者であったアイヒマンの裁判が戦後のイェルサレムで開かれる。その傍聴記を書きたいと『ニューヨーカー』誌に申し出た、アーレントは、さぞや悪魔的な人物かと予想していたアイヒマンが「命令されたから」を繰りかえすだけの小役人であることを発見して愕然とする。非凡さのかけらもない小市民的人物によく、あれだけの大虐殺が敢行できたのかと驚くアーレントは、「悪の陳腐さ・凡庸さ」という概念に辿り着く。悪は、役所仕事の日常的な遂行のなかに存在し、悪の遂行者も凶悪な犯罪者というよりも凡庸な小役人にすぎない。むしろそこに怖さがあると考えた。

「悪のバナリティ」あるいは日本では「バナールな悪」とも呼ばれたこの概念そのものが驚異的な概念であり、私は一時期、あれこれ研究したことがある。アーレントはここに「組織化された犯罪」という概念も導入していて、システマティックかつ煩雑な書類仕事のプロセスを確立してしまうと、その書類作成と完成をめざすことのために多くのエネルギーが費やされ、判断停止に陥ることも説いていた。たとえば遂行と記録に関するプロセスをシステマティックに確立し、それを煩雑な書類仕事の連続として組織すると、たとえ虫も殺せぬ人間でも、大虐殺が可能になる。

もちろんアイヒマンを命令遂行のための書類仕事に忙殺されて判断停止してしまった小役人ととるか、ホロコースト関連業務の遂行には確固とした使命感をもって臨んだのかは、いまなお意見の分かれるところだろうが、しかし、アーレントの議論は、ホロコースト問題のみならず現代の社会や文化の研究に重要な一石を投じたことはまちがいないだろう。

問題は、この傍聴記で、アーレントがユダヤ人指導層の不手際をも、あわせて指摘したことである。協力と抵抗の狭間というか板挟みのなか、もう少し、うまく立ち回ったら、犠牲者が少なくてすんだのではないかと問題提起した。これがユダヤ人コミュニティからの強い反発を招いたということだろう。悪の問題に対して批判するユダヤ人いない。ユダヤ人指導層に対する批判はBlaming the Victimsとしてアーレントに対すす風当たりが強くなり、その影響で悪の問題も怒りを買うようになったのかもしれない。

映画のなかでは、傍聴記投稿後、批判の嵐のなかで沈黙を守ったいたアーレントは、大学からの辞職勧告を受けて、みずからの立場を大教室で説明するという展開になる。教室には人事委員らも混じって彼女の講義を聞いている。ここでの講義というか演説は、実にうまい。私は岩波ホールで同じ俳優による『ローザ・ルクセンブルク』の映画を見ていて、ローザの演説のうまさに感服したが、アーレントの演説も、この映画の白眉というべきか、実にうまい。「悪のバナリティ」のところまで演説が進むと、私は、なつかしさもあって思わず涙ぐんでしまったが、その直後、聴講していた人事委員たちは教室から出て行く。講義の内容に憤慨して。そこで私の感動もそがれてしまったのだが、それは悪の議論に反対したのではなく、ユダヤ人指導層への批判に対する弁明とか陳謝がなにもなかったことへの憤慨であろう。となればフォン・トロッタ監督の『ハンナ・アーレント』は、彼女の監督第一作(共同監督)であった『カタリーナ・ブルームの名誉』と同じである。アーレントもまたカタリーナ・ブルームに連なる人物である。匿名電話でお前なんか死んでしまえと罵られる人物(女性)をフォン・トロッタ監督は描いてきた。

結局、アーレントは狭量なユダヤ・ナショナリズムと戦ったことになる。それは相手国への理解を示したり、自国を少しでも批判すれば、自虐的と批判する日本の右翼ナショナリズムの跳梁を目の前にしている私たちにとっては、見慣れた、そしてうんざりする光景である。

悪のバナリティ概念によって、過去の戦争責任やホロコースト問題をあらためて考える機会をもった観客は、ユダヤ人指導層批判への反発をとおして現在のナショナリズム状況の言論封殺の危機をあらためて認識することにもなるだろう。そう、今の私たちが直面しているのは、悪のバナリティのみならず、ナショナリズムのバナリティでもあるのだから。
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2013年10月19日

『トランス』

ストーカー殺人事件

ダニー・ボイル監督のこのミステリー、実際に、どこまでが現実で、どこまでが催眠状態のヴァーチャルな現実なのかわからなくなる。最後まで。

予告編では、燃え盛る車とともに、その上に仁王立ちになった男が、落下してく映像があって、前後関係から、どうやら催眠状態あるいは夢の中の一場面ということが推測されたのだが、映画本編をみてみると、これが夢の中ではなく現実の場面だとわかる。このシュールな場面が現実の場面だったとはと息をのんだが、映画は、そこで観客を不安にさせる。やはりこれも夢の中の場面ではないか、と。この映画、最後まで、夢と現実との境がわからない。わかったと思った瞬間、わからなくなる。その意味で、一筋縄ではいかないというか、こういう映画なのだと理解すべきだろう。

しかし、ほんとうは「こういう映画」ではなく、「映画とは、こういうものなのだ」。たとえば最後に、主要人物(本当は彼が誰なのかは、最後になるとわからなくなる)のもとに動画メッセージ付のタブレットが送られてくる。タブレットをみるかぎり、画面の向こう側から人物が話しかけてくる。しかし、実際には、画像メッセージを作成した人物は、タブレットの画面のむこうではなく、こちらがわからメッセージをタブレットに撮影させている。タブレット動画を見る者と、タブレット動画をつくるものが対面しているようで、実は同じ位置にいる、つまり憑依しているともとれる。それが映画全体の主題を集約している。ネタバレになるので、これ以上は書けない。

これ以上、書けないが、映画がみせてくれるのは、映画を見る者にとって「理想的な環境である」。理想的といってもユートピアということではない。たとえばそれは、この映画のなかでは、男性幻想の世界なのである。ミステリーとアクションの連続する世界は、暮らしやすい世界とは間違ってもいえないが、しかし日常性を超越した退屈しない世界である。そこではどんなに傷ついても不死でいられるアクション映画の世界。そしてそれを見せることで心があやつられていく。催眠術(正確に言えば、催眠療法、催眠操作)と映画とは同じだというのがもうひとつメッセージである。映像は、客観的現実世界の記録であるかにみえて、主観的妄想と同じ、あるいは操作された主観的妄想なのである。

そして映画の中で興味深いのは、催眠療法によって、忘却したことを思い起こさせるかにみえて、同時に、逆のことをしている、つまり忘却させていることである。トータル・リコールとオブリビオン。そこが興味深いところである。なぜなら思い出しているのか、忘却しているのか(たとえば擬似記憶を刷り込まれるというようなかたちで)わからなくなる以上、主観と客観、現実と虚構の境界はくずれるほかないからである。

覚醒と忘却。『朝日新聞』の夕刊の映画評の最後では「映画に翻弄されるという醍醐味が得も言われない」(評者 秋山登)とある。まあ映画評の原稿は過去に書かれたものだろうから、べつに触れてなくても当然なのだが、しかし、ネタバレを覚悟でいえば、この映画の犯罪は、ストーカーが、愛する者への嫉妬妄想から、暴力的になり殺害にいたるものである。最近、東京都三鷹市で、ストーカーの男が、女子高校生を殺害した痛ましい事件があったが、この時期、この映画をみると、この悪辣なストーカー事件を思い起こさずにはいられない。いや、この映画はストーカーの恐怖を、これはリアルに描いている。だが映画評は、そんなことなかったように、観客に忘却させようとしている。映画(あるいは映画評)とは、覚醒の装置であるかにみえて、案外、忘却の装置なのである。

posted by ohashi at 02:09| 日記 | 更新情報をチェックする