2026年02月19日

久米宏逝去のニュースとともに、以下のようなエピソードも伝えられた。Yahooニュース1/18(日) 6:00配信
【追悼】久米宏さん『ニュースステーション』立ち上げメンバーが明かす“テレビの天才”の素顔「亡くなった520人分の靴をスタジオに並べました」
【前略】
久米さんの代名詞ともなった『ニュースステーション』の立ち上げに参加し、プロデューサーも務めたのが、テレビ朝日映像現社長の、若林邦彦氏だ。【中略】中でも、若林氏が特別に覚えている企画があった。1985年、『ニュースステーション』放送開始と同じ年に起こった、日航機墜落事故の特集だ。

「10月に番組が始まって、その年の最終回で、60分くらいの御巣鷹山特集をしました。その冒頭、事故で亡くなった520人分の靴を座席順にスタジオに並べたんです。

 その年はやはり墜落事故が大きな話題になりました。テレビや新聞の報道が続く中で『520』という数字がどうしても記号化してしまっているようでした。

 靴を並べるというのは、久米さんの提案だったと聞いています。亡くなった方の年齢や座席表もほぼ判明していたので、それに見合うような靴を美術に探してもらって、スタジオに並べたということです。

 本当なら520人分の人生があり、家族があり、友達がいる。靴を並べることで、視聴者は誰もが想像してくれるはずだと。この“仕掛け”はやっぱり、すごいなと感じました」【以下略】

たしかに靴は多大な視覚的効果を生んだであろうことは想像にかたくない。もちろん靴は、520という数字と同様に、記号であることは確かである。靴は、記号としてはメタファーではなくメトニミー(対象の一部)でしかないが、その具体性において、無機的な数字よりも訴えるものが大きい。

となると、ここでは、メタファーかメトニミーかという二元論ではなく、パースの記号論の分類のほうが有効かもしれない。類像記号(アイコン)というのは、対象と似ている場合(たとえば人間を示す「棒人間」の図)、象徴記号(シンボル)は、対象を示す約束事となる表記(たとえば人間を「A」とか「B」で示すとき)、そして指標記号(インデックス記号ともいう)は、現実における対象の存在を指示するもの、痕跡と同じようなもの。たとえば煙は、火のないところにたたないから、何かが燃えているもしくは燃えていたことを示す記号である。こう考えると、靴というのは、それを履いていた/履いている人間の存在を示すから、インデックス記号であり、それは特定の現実そのものを指示することになる。

もちろんニュースステーションのフロアにおかれた520足の靴は、犠牲になった人たちが実際に履いていた靴ではない。実際に履いていた靴の類像記号(アイコン)だが、同時にインデックス記号としての靴を示す象徴記号もしくは、記号の記号つまりメタ記号である。とまあ、そのようなことを考える前に、私たちは靴のもつリアルな存在感に圧倒される。

たとえば靴といえば、一足のよれよれになった革靴を描いたゴッホの『農民の靴』という絵がある。この有名な絵は、対象のもつ形態的な特異性をクローズアップするというよりも、その対象を中心として浮かび上がる人間の営みとか社会的歴史的現実といったリアルな領域を観るものを誘う。まさにインデックス性全開の表象である。

逆にいえば、この靴、おそらく過酷な肉体労働と古靴であることの貧困的現実のインデックスでもあるこのゴッホの靴(農民ではなく、ゴッホの靴だという説もあり)は、それを中心に現実を構築する――これまで顧みられなくなったか目を背けられていた現実を。しかも、人間が身に着けていたもの、たとえば手袋、ハンカチ、衣服などよりもはるかに強く、靴は現実を喚起する。おそらくそれは靴が大地(もしくはその相関物)と直接つながっているからであろう(ハイデッガーの視点だが)。くたびれた靴は、大地と人間とのインターフェイスとなって最終的に人間を蘇生復活させるともいえる。

と同時に、それを履く人間を想起させる靴は、そこにそれを履く人間がいない場合、その不在によって、死をも喚起する。靴と犠牲者と死。遺品としての靴。久米宏がニュースステーションのスタジオのフロアに520足の靴を並べたとき、考慮されていたかどうかわからないのだが、また、そのエピソードを知ったとき私はすぐに思いつかなかったのだが、靴で犠牲者をあらわすことには前例がある。ホロコーストの靴、アウシュヴィッツの靴である。

映画『関心領域』の最後にも登場していたが、現在、ホロコースト博物館として保存されているアウシュヴィッツ収容所跡地の建物の壁面にしつらえられたガラスケースのなかに、おびただしい数の靴が保管されている。それらは犠牲者の靴であり、観る者から言葉を奪うほど、その数は膨大である。なぜ、死者たちの靴を収容所が保存していたのか。いや靴だけでなく衣類や持ち物、身に着けていた宝飾品などもきちんと保管されていたようだ。関係者が処分を合理的かつ厳格に遂行したあと、そうした付属物を整理・記録するために保管したということだろうか。几帳面さのもつ暴力か。『関心領域』で示唆されていたことでもある。

と同時に、それはまた残忍な暴力性を隠蔽する機能もある。死者の靴や衣類や宝飾品をきちんと保管することで、事務処理は完璧となる。この事務処理こそが、非人道的凶悪な犯罪を、生々しい大虐殺を、無機的な数字に、また無機的な保管物の集合体へと変容させる。だからアイヒマンのような小市民的官僚にも良心の痛みを覚えることなく大虐殺が完遂できた。これがハンナ・アーレントが示唆していたことである(とはいえアイヒマンは筋金入りの反ユダヤ主義者だったことが今では判明しているので、この説はもう全面的に有効とは思われていないのだが)。

とはいえ衣類や靴を、持ち主の氏名とか特徴とか死んだ日付などを細かく記録して保管していたわけではないだろう。むしろそれらを利用していた。死者の持ち物だったもので、利用できるものは何でも利用した。流通や販売経路が確立していたら大々的に売り出したり、あるいは配給に回したりしたかもしれない。収容所長の家族や召使たちが、死んだユダヤ人の衣類を利用するさまは、『関心領域』でも示されていた。

靴は、こうしてホロコーストの真実を開示する契機となる。ハイデガーも戦後にゴッホだけでなく、アウシュヴィッツの靴を考察していたら、大地と接触するとか大地との闘争といったたわごとではなく、歴史の真実の開示をそこに見出しかもしれない。まあ本人もナチスに心酔していたから、むしろ加害者の側として真実を開示するどころか、隠蔽するほうに向かっただろうが。
posted by ohashi at 10:34| コメント | 更新情報をチェックする