2月15日の記事の補足を。
『またここか』は、最初、夏の日のガソリンスタンドに、その店主の兄だという人物(腹違いの兄らしい)が現れ、父親が入院中なのは医療事故の疑いがあり、病院を訴えたいと、その兄が提案するところから始まる。
しかし、ここを発端として事態は思わぬ方向にすすみ、隠されていた事情なり出来事があらわになり、剣呑な事態へと発展する。お人好しでどこか抜けている店主/弟は、父親の介護に疲れ精神に異常をきたしていることがわかる。弟は兄とはまったくの初対面であるようにふるまっているが、実は、兄のことはよく知っている。またその兄が連れてくる病院の看護師と、その弟は隠しているが、恋愛関係にあった。兄は小説家だが、その小説が問題を起こし、小説家としての仕事がなくなり、離婚した妻との養育費でお金が必要であり、それで病院を訴えようとしていることがわかる。この兄はほどなく弟の殺人衝動を発見する。弟は連続殺人犯かもしれないと心配になる。
いっぽう弟のほうも自分の抑えがたい危険な衝動におびえ、兄に相談する。小説家の兄は、危険な衝動を処理するために、すでに行なった行為なり犯罪を書き、そしてそれを抑止できたからどうなっていたかを、同じ紙に書き記すこと提案する。実際に起った事件と、それを別のものに昇華した物語を書くことで精神のバランスを保つようにと弟に忠告する。また自分もそのようにして小説を書いてきたのだと兄は言う。
そして最後の第5場。最初と同じガソリンスタンドでのやりとりがはじまる。最初の場面とは異なり、なにか狂気じみていたり、攻撃的だったりした人物の言動は、消え失せ、礼儀正しく思いやりのある人間関係がすでに築かれていたり、これから築かれようとしていることで幕。
この第5場をどう考えるかによって、このドラマの解釈がわかれると、2月15日の記事には書いた。
その時私が考えたのは、この第5幕は、弟が兄にすすめられて書いた小説の場面であるということ。それも実際の事件とは見かけは同じでも、根本は異なっている。そこにあるのは望ましく平穏な日常であり交友関係である。これは現実のユートピア的を理想化であって、自らの危険な衝動を抑えた弟が夢見ているか望んでいる世界だと、そう考えた。
私は、この解釈は有効だと思っているが、しかし、べつの解釈もある。やはりお前の頭のなかは、お花畑だと批判されないように、別の解釈を記しておきたい。
このドラマのなかでガソリンスタンドの店主である弟のほうは、最初のうちは、お人好しでちょっと頭のにぶい男だという印象をもつが、次第に、変人であることが露呈し、さらに変人を通り越して偏執狂的な危険な人物だということがわかってくる――ここまでが第一場。そのあとの場面では、この弟はただ頭のおかしい人間ではなく、殺人衝動を秘めた危険かわまりない人物であることが露呈する。もちろん、本人もそのことで悩んでいる。その悩みを解決するために、弟に殺人を犯させないために、兄は先ほどの述べたような小説を書くようにすすめる。
となると、これは一種の「じゃじゃ馬ならし」劇である。危険な、凶暴な欲望なり衝動を内に宿すだけでなく実現しないと気のすまない人間。社会に害をなす邪悪な人間をどう抑え込むか。たとえそのエネルギーを善用できなくとも、とにかく抑止できればよい。そのためにどうするのか。その解答と結果がここにある。
もちろん小説を書くというのではなく、もっと非人道的な手段で危険な欲望を抑え込むことはできる。今は行なわれていないがかつて精神病患者に行なわれていた前頭葉切除手術、あるいはテロリストや犯罪者の精神を破綻させ従順な家畜にする洗脳――オーウェルの『1984』に登場する「101号室Room 101」で行なわれているような。
そう、このドラマのプロットの原型ともいえるのは、危険な犯罪者や犯罪者気質をもった人間を、洗脳して社会性をもつ従順な人間へと変えることであり、このドラマの「ガソリンスタンド店主/弟」は、最後に、前頭葉を切除された廃人、あるいは心の折れたウィンストンである。
最後の場面は、このガソリンスタンド店主・弟/ウィンストンの脳内劇場ともいえるものかもしれない。いや、そのような特定の人物の視点的世界ではなくて、それはもっと非人称的な観点からの世界像の提示ではないか。もし彼のように治療あるいは洗脳されたら、またそれを実現するのが正常な規範的な世界のありようだとしたら、そこから生まれた世界とは、これだというかたちで最後の場面が始まる。
第1場と同じ設定、同じ人物、そしてほぼ同じ展開であるがゆえに第5場は、その差異も際立つ。第1場から始まる芝居は、滑稽で、不条理で、深淵で、悲劇的でもあり喜劇的でもあり、希望もあれば絶望もあり、不安あるいは恐怖が充溢し……、とにかく、そこには、変な癖と、強烈な毒があった。それがどうだ。第5場――毒気をぬかれ、平穏だが平凡でありふれた日常。もうこんな退屈な、ドラマともいえないドラマは観ていられるか。これでいいのか、と作劇者たち(作者や演出家や俳優たち)が観客に問いかけているように思われる。
荒井遼氏の演出の舞台では、最後の第5場では、ひまわりの花が舞台周囲を取り囲む。15日の記事では、これをユートピア的なものの実現と考えた。ひまわりたちはそれを祝福しているようにもみえる。しかし、見方をかえれば、このひまわりは、実に白々しいユートピア、いやディストピアを暗示する皮肉な装飾かもしれない。おそらく作者のいう「バッドエンド」とはこのことだったのかもしれない。
とはいえ、この劇そのものは、そのような非人道的拷問・洗脳過程を提示しているわけではない。危険な欲望の抑え方は、もっとゆるやかで人道的であり、欲望を完全に押さえつけるのではなく、欲望から逃げず、欲望に向き合いながら対処する方法を提示していることもまた確かである。
第5幕は、単純化すれば、ユートピアなのかディストピアなのか。その選択は観客にゆだねられているのだろうか。いや、観客としては、その選択をゆだねられても困る。選択などできない。それは劇を作る側もわかっているだろう。二つの可能性があること。二つの可能性が点滅すること。楕円のように中心が二つあること。だから観客は選択を迫られるのではなく、選択肢があることを見極めるよう求められているのだ。それはまたドラマ一般の意義でもある。
