前回の記事『ヌーヴェル・ヴァーグ』1は、副題をつければ、「プロジェクト:ヘイル・メアリー」あるいは「〈ヌーヴェル・ヴァーグ〉は〈プロジェクト:ヘイル・メアリー〉」とでもなろうか。今回の副題は〈ディザスター・アーティスト〉である。
リンクレイター監督の『ヌーヴェル・ヴァーグ』の最後に、映画が完成して、プロデューサーや仲間の映画監督たち(みな〈カイエ派〉の監督たち)を招いて試写会をおこなうところがある。上映後、出席者は、ゴダールに対して、出来上がった映画をぼろくそにいうのである。「史上最低の映画だ」とか「こんな映画はつくるべきではない」といった、罵詈雑言が出席者たちの口から飛び出る。
しかし、よく聞くと、彼らは、ゴダールが自身の映画評論で、既存の監督たちの作品をぼろくそにけなした言葉をそのまま、ゴーダ―ル自身にぶつけて遊んでいるのだとわかる。つまり彼らが口々にいう「最低の映画だ」という評価は、実は「最高の映画」ということの裏返しである。すばらしい、最高の映画だというかわりに、最低の映画だといって、からかっているのである。
【understatementの一種かもしれないが、ただし、これは「すばらしい」というかわりに「悪くない」という控えめな表現のことで、真反対の語を使って、けなしているようで事実はほめているという表現とは異なる。おそらく、反語法(antiphrasis)に近いか、その強烈なものではないか。これは、通常は、ほめているようで、実はけなす表現が多い(「こんなことがわからないなんて、あなたは頭のいい人ですね」というような)。今回の場合、これは反対語をぶつけてほめることになる――おまえは大バカ野郎だといって、ぼめする用法である。】
ただし、映画のその部分だけを切り取ると、やはり、素人が撮影した映画は、大失敗だったのかと受け取る観客がいてもおかしくない。そうならないのは、観客のほとんどが回顧的にみているからである。つまりゴダールの第一作『勝手にしやがれ』が完成したときは、大傑作として称賛され、大ヒットしたことを皆知っているから、裏返しのほめ言葉が、なにか洗練されたおしゃれな修辞であるかのように思えるのである。
なおこの試写会での反語的べたぼめは、実際にあったことなのか、今回の映画のなかだけのフィクションなのか私は知らないないのだが、いずれにしても、この映画が大いなる賭けであり、まさに成功したプロジェクト:ヘイル・メアリーであったこと、つまり一歩間違えば大失敗作、災厄的映画製作になりかねなかったことを暗示している。映画監督経験ゼロの映画評論家が限られた予算と時間ではじめて撮影した映画は、無残な結果に終わることのほうが多い。まさに奇跡が起こったのである。
しかし、危ない橋を渡ってというか、危ない橋を渡ること自体が、まさに冒険的あるいは運まかせの犯罪的映画製作であって、ゴダールの天才がかろうじて失敗作を成功作へと変貌させたのだということだけではすまされないなにかがある。実は失敗してかまわなかったのではないか。失敗に終わることこそ、最初からの狙いであって、ぶざまで無残な姿の廃墟となった映画を見せることができれば、それでよかったのだったのが、もののみごとに失敗して成功作ができてしまった。ほんとうは最悪で災厄の映画をめざしていたのではなかったか。ゴダールは、あるいはヌーヴェル・ヴァーグの映画製作者たちは、みんなディザスター・アーティストではなかったのか。
2017年、ジェームズ・フランコ監督・主演の映画『ディザスター・アーティスト』(The Disaster Artist)が公開される。最低監督の誉れが高いトミー・ウィゾーTommy Wiseauが、今にいたるまで唯一の代表作『ザ・ルーム』を撮影・完成させる話である。トミー・ウィゾー自身をジェームズ・フランコが演じ、ウィゾーの友人・支援者をジェームズ・フランコの弟デイヴ・フランコが演じている(兄弟だが、顔は似ておらず、おまけにジェームズ・フランコ自身メイクで顔をトミー・ウィゾーに似せているため、兄弟共演という印象はまったくない)。
アメリカの最低監督の系譜には、エド・ウッドがいるのだが、トミー・ウィゾーは、それに輪をかけてひどいというかド素人で素性の全くわからぬ監督で、演技経験なし監督経験なしにもかかわらず、映画を撮ろうとして周囲を困惑させ混乱を引き起こす。それでも映画を最後まで完成できたのは、不思議なことにウィゾーはお金をもっていた。とにかく金払いがよく、経費とか給与の支払いが滞ったりしなかったからである。もちろん完成した映画『ザ・ルーム』は歴史に残る最低の映画(反語ではなくストレートな表現)で、試写会では誰もが唖然として言葉をなくしたそうだが、それでも上映を重ねるうちに、サブカル的な興味からカルト的映画と評価されはじめ、一部で熱狂的なファンの支持を得るようになった。ただし、最低の映画であることにかわりはないのだが。
【映画のなかでトミー・ウィゾーの出自や経歴は謎であると語られているが、1955年ポーランドで生まれ、1984年にアメリカ市民権を獲得したことはわかっている。ただ、その資産の出どころは今もまだ謎とのこと。】
私としてはただの変人レベルなのか、精神障害すら疑わせる病人レベルなのか定かでないのだが、このトミー・ウィゾーという人物と、その惨憺たる失敗に終わった映画製作を、ゴダールならびにその『勝手にしやがれ』の撮影と同じようなものだという失礼な暴論を吐こうとしているのではない。
トミー・ウィゾーの『ザ・ルーム』の撮影・完成までを描く映画『ディザスター・アーティスト』(2017)は高い評価を得ている。すでに触れたのだが、エド・ウッドのような伝説的最低監督でも、その映画愛と情熱は、結果はどうであれ、人を感動させる要素をもっている。エド・ウッドよりも変人レベルがうえで、精神障害すら疑わせ(もしほんとうに精神障害者ならば、病人を見世物にしている点で倫理性が問われてもしかたがないと思うのだが、障害者かどうか定かではない)、また映画の知識なり見識はゴダールの足元にも及ばないトミー・ウィゾーだが、それでも映画愛には事欠いていない。『ザ・ルーム』の制作現場の混乱(まさに『ディザスター・アーティスト』が描いている情景)は、繰り返すが、その結果はどうであれ、映画『ヌーヴェル・ヴァーグ』が描くところの『勝手にしやがれ』の撮影現場の混乱にあ通ずるところはある。
いやふたつの映画は撮り方も似ている。一例をあげれば、ゴダールの映画撮影期間は20日と限られているのだが、同様に『ザ・ルーム』の撮影期間も40日と限られていて、どちらの映画も~日目/20日、~日目/40日と字幕を入れて映画製作の進展状況を逐一知らせるかたちをとっている。ゴダールは20日という限られた期日に映画を撮り終えたようだが、『ディザスター・アーティスト』では最初の方は5日目/40日とか30日目/40日というふうに経過が示されるのだが、気づくと、45日目/40日とか50日目/40日というように完全に撮影が予定期日をオーヴァーしてしまうのだ。まさにディザスター・アーティストの面目躍如といったところか。
また完成披露試写会では、『勝手にしやがれ』では、仲間の映画監督たちがぼろくそにいう(愛ある反語的表現)。いっぽう『ディザスター・アーティスト』のほうでは完成した『ザ・ルーム』の完成披露試写会では、最初のうちは観客は唖然とするばかりで言葉もでないのだが、最後には、あまりのばかばかしさに大爆笑の渦ができる(実はこれは映画だけのフィクションで、実際の完成披露試写会では観客は最後まで沈黙していたとのこと)。
どうやら『ヌーヴェル・ヴァーグ』の『勝手にしやがれ』秘話と、『ディザスター・アーティスト』の『ザ・ルーム』制作秘話では、陽と陰、ネガとポジのような関係になっていて、『ザ・ルーム』は、『勝手にしやがれ』がなりえていたかもしれない悪夢という位置づけになるかもしれない。
もちろん、それでよいのだろう。なにしろ、『ディザスター・アーティスト』を観ることで、ゴダールの偉大さがよくわかる。その大胆さと繊細さ、豊富な映画知識と映画愛に裏打ちされた映画製作の理念と実践、そして一歩間違えば大失敗に終わっていたかもしれない危険な賭けと、その勝利を通して、私たちはゴダールの天才性と時代の趨勢とをあらためて認知することになるのだから。そしてまさにこの正確な陰画が、トミー・ウィゾーとその大惨事ともいえる失敗作『ザ・ルーム』の撮影秘話なのだから。
しかしゴダール的ヌーヴェル・ヴァーグと、トミー・ウィゾーという思い出したくもないディザスター・アーティストは、表と裏、良性面(Benign aspect)と悪性面(Malign aspect)、光と影、顕在面と陰在面、現実態と可能態などという、決して出会うことのない、あるいは排除しあう(まさに表と裏のような)対立項ではなくて、互いに意識し、視野におさまっていた対立項ではなかったか。しいて言えば、両者は対立しているのではなく、類似しているのではないか。あるいはむしろ両者はひかれあっていたのではないか。
トマス・ウィゾー的な偏差値の低すぎるディザスター・アーティストを、高偏差値(まあ嫌な言い方ではあるが)のゴダールはあこがれていた、あるいはそうなろうと、つまりディザスターになろうとしていたのではないか、その第一作映画において、いや、その後においても、つまり即興撮影、整合性に対する無頓着にして無視、連続的ではなく不連続で断片的な映像、ウェルメイドではなくて芸術性の追求、それは、こじんまりであろうと大きなものであろうと成功する映画ではなく、失敗する映画を、最低とののしられる映画を追及したのではなかったか。
トマス・ウィゾーは、創造性もないのに、大成功を夢見ていた。いっぽうゴダールは、その創造性の横溢する映画製作において、大失敗を恐れていたのではなく、むしろ夢見ていたのだ。ヌーヴェル・ヴァーグが目指していたのは大失敗(fiasco)であった、大惨事(diaster)であった。
だが、皮肉なことに、フィアスコに成功したのは、成功を確信していたナルシスティックで愚昧なトマス・ウィゾーであり、ゴダールは、フィアスコに失敗しつづけた。そのように映画史を書き換えることができるのではないかと、『ヌーヴェル・ヴァーグ』を、『ディザスター・アーティスト』を思い出しながら観ていて思った。ゴダールこそ、真正のディザスター・アーティストになりそこねた映画監督ではなかったか。彼は、自分の手で、自分の目を閉じて、みずからの死を宣告しようとして失敗しつづけ、それを最後の安楽死まで持ち越すことしかできなかったのではなかったか。
まただからこそ、リンクレイターの『ヌーヴェル・ヴァーグ』は観ていて気にならないのだ。それが、そっくりさん総出演のフェイク映画、バッタモン映画であるにもかかわらず、ゴダールの精神を継承する正統的な映画にみえてしまうのだから。ゴダール役の俳優も、ベルモント役の俳優も演技経験や映画出演がほぼない新人といってもいい――彼らから刺激的で感動的なパフォーマンスを期待することはむつかしい、そもそも、彼らに求められているのは独立性の高い個性と存在感の顕示ではなく、そっくりさんとしての、なりきり演技でしかない。しかも映画自体も、モノクロ撮影で、『勝手にしやがれ』そっくり映画たらんとしている(ちなみに『勝手にしやがれ』を撮影したカメラを博物館のようなところから借り出して『ヌーヴェル・ヴァーグ』を撮影したとのこと)。そしてこのそっくりさん総出演の、『勝手にしやがれ』の物まね・そっくりさんB級映画が、みじめな駄作どころか、ゴダール映画の、その芸術的精神の(つまり不完全性、フェイク性、非整合性、安っぽさ、そして失敗志向の)体現者にみえてしまうのだ、いや、体現しているのだ。
しかも、ヌーヴェル・ヴァーグ映画について、あろうことか、ゴダールにとっては敵だったかもしれないハリウッド映画の監督が映画にするという、フィアスコと背中合わせとなった試行こそが、実は、ヌーヴェル・ヴァーグ映画の心髄の体現であったかもしれないことを、映画『ヌーヴェル・ヴァーグ』は教えてくれたのである。
【とはいえ、『カイエ』派は、ハリウッド映画を敵対視しているだけではなく、評価もしていた。ハワード・ホークス、ジョン・フォードらの戦前から活躍しているハリウッド映画監督たちは『カイエ』派による称賛によって再評価されたともいえる。またリンクレイターは、いうまでもなく、ハリウッド映画の監督としては異色あるいは異端的存在でもある。】
ちなみにジーン・セバーグ役のゾーイ・ドゥイッチは、リー・トンプソンの娘だが、リンクレイター映画によく出ている。私がタイム・ループ物の映画をよく見ていた頃、『ビフォア・アイ・フォール』というこのジャンルの佳作映画で、彼女は主演だった。それ以来、ずっと記憶しているし、いろいろな映画に出ている。そういえば、ゾーイ・ドゥイッチは、あろうことか『ディザスター・アーティスト』にも出演していた(演劇クラスの参加者ですぐに出番は終わるから記憶に残らないかもしれないが)。
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映画『ヌーヴェル・ヴァーグ』の最後に、映画が完成して、プロデューサーや仲間の映画監督たち(みな〈カイエ派〉の監督たち)を招いて試写会をおこなうところがある。上映後、出席者は、ゴダールに対して、出来上がった映画をぼろくそにいうのである。「史上最低の映画だ」とか「こんな映画はつくるべきではない」といった、罵詈雑言が出席者たちの口から飛び出る。
しかし、よく聞くと、彼らの「最低の映画だ」という評価は、実は「最高の映画」ということの裏返しである。すばらしい、最高の映画だというかわりに、最低の映画だといって、からかっているのである。
しかし、同時に、それはゴダールが無意識のうちに求めていたことを、彼の仲間たちがくみとったのだと言えなくもない。ゴダールが求めていていたのは称賛の言葉ではなく、最低の大失敗(フィアスコ)という言葉だったのだ。
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