2026年08月08日

『ヌーヴェルヴァーグ』2

ディザスター・アーティスト

前回の記事『ヌーヴェル・ヴァーグ』1は、副題をつければ、「プロジェクト:ヘイル・メアリー」あるいは「〈ヌーヴェル・ヴァーグ〉は〈プロジェクト:ヘイル・メアリー〉」とでもなろうか。今回の副題は〈ディザスター・アーティスト〉である。

リンクレイター監督の『ヌーヴェル・ヴァーグ』の最後に、映画が完成して、プロデューサーや仲間の映画監督たち(みな〈カイエ派〉の監督たち)を招いて試写会をおこなうところがある。上映後、出席者は、ゴダールに対して、出来上がった映画をぼろくそにいうのである。「史上最低の映画だ」とか「こんな映画はつくるべきではない」といった、罵詈雑言が出席者たちの口から飛び出る。

しかし、よく聞くと、彼らは、ゴダールが自身の映画評論で、既存の監督たちの作品をぼろくそにけなした言葉をそのまま、ゴーダ―ル自身にぶつけて遊んでいるのだとわかる。つまり彼らが口々にいう「最低の映画だ」という評価は、実は「最高の映画」ということの裏返しである。すばらしい、最高の映画だというかわりに、最低の映画だといって、からかっているのである。

【understatementの一種かもしれないが、ただし、これは「すばらしい」というかわりに「悪くない」という控えめな表現のことで、真反対の語を使って、けなしているようで事実はほめているという表現とは異なる。おそらく、反語法(antiphrasis)に近いか、その強烈なものではないか。これは、通常は、ほめているようで、実はけなす表現が多い(「こんなことがわからないなんて、あなたは頭のいい人ですね」というような)。今回の場合、これは反対語をぶつけてほめることになる――おまえは大バカ野郎だといって、ぼめする用法である。】

ただし、映画のその部分だけを切り取ると、やはり、素人が撮影した映画は、大失敗だったのかと受け取る観客がいてもおかしくない。そうならないのは、観客のほとんどが回顧的にみているからである。つまりゴダールの第一作『勝手にしやがれ』が完成したときは、大傑作として称賛され、大ヒットしたことを皆知っているから、裏返しのほめ言葉が、なにか洗練されたおしゃれな修辞であるかのように思えるのである。

なおこの試写会での反語的べたぼめは、実際にあったことなのか、今回の映画のなかだけのフィクションなのか私は知らないないのだが、いずれにしても、この映画が大いなる賭けであり、まさに成功したプロジェクト:ヘイル・メアリーであったこと、つまり一歩間違えば大失敗作、災厄的映画製作になりかねなかったことを暗示している。映画監督経験ゼロの映画評論家が限られた予算と時間ではじめて撮影した映画は、無残な結果に終わることのほうが多い。まさに奇跡が起こったのである。

しかし、危ない橋を渡ってというか、危ない橋を渡ること自体が、まさに冒険的あるいは運まかせの犯罪的映画製作であって、ゴダールの天才がかろうじて失敗作を成功作へと変貌させたのだということだけではすまされないなにかがある。実は失敗してかまわなかったのではないか。失敗に終わることこそ、最初からの狙いであって、ぶざまで無残な姿の廃墟となった映画を見せることができれば、それでよかったのだったのが、もののみごとに失敗して成功作ができてしまった。ほんとうは最悪で災厄の映画をめざしていたのではなかったか。ゴダールは、あるいはヌーヴェル・ヴァーグの映画製作者たちは、みんなディザスター・アーティストではなかったのか。

2017年、ジェームズ・フランコ監督・主演の映画『ディザスター・アーティスト』(The Disaster Artist)が公開される。最低監督の誉れが高いトミー・ウィゾーTommy Wiseauが、今にいたるまで唯一の代表作『ザ・ルーム』を撮影・完成させる話である。トミー・ウィゾー自身をジェームズ・フランコが演じ、ウィゾーの友人・支援者をジェームズ・フランコの弟デイヴ・フランコが演じている(兄弟だが、顔は似ておらず、おまけにジェームズ・フランコ自身メイクで顔をトミー・ウィゾーに似せているため、兄弟共演という印象はまったくない)。

アメリカの最低監督の系譜には、エド・ウッドがいるのだが、トミー・ウィゾーは、それに輪をかけてひどいというかド素人で素性の全くわからぬ監督で、演技経験なし監督経験なしにもかかわらず、映画を撮ろうとして周囲を困惑させ混乱を引き起こす。それでも映画を最後まで完成できたのは、不思議なことにウィゾーはお金をもっていた。とにかく金払いがよく、経費とか給与の支払いが滞ったりしなかったからである。もちろん完成した映画『ザ・ルーム』は歴史に残る最低の映画(反語ではなくストレートな表現)で、試写会では誰もが唖然として言葉をなくしたそうだが、それでも上映を重ねるうちに、サブカル的な興味からカルト的映画と評価されはじめ、一部で熱狂的なファンの支持を得るようになった。ただし、最低の映画であることにかわりはないのだが。

【映画のなかでトミー・ウィゾーの出自や経歴は謎であると語られているが、1955年ポーランドで生まれ、1984年にアメリカ市民権を獲得したことはわかっている。ただ、その資産の出どころは今もまだ謎とのこと。】

私としてはただの変人レベルなのか、精神障害すら疑わせる病人レベルなのか定かでないのだが、このトミー・ウィゾーという人物と、その惨憺たる失敗に終わった映画製作を、ゴダールならびにその『勝手にしやがれ』の撮影と同じようなものだという失礼な暴論を吐こうとしているのではない。

トミー・ウィゾーの『ザ・ルーム』の撮影・完成までを描く映画『ディザスター・アーティスト』(2017)は高い評価を得ている。すでに触れたのだが、エド・ウッドのような伝説的最低監督でも、その映画愛と情熱は、結果はどうであれ、人を感動させる要素をもっている。エド・ウッドよりも変人レベルがうえで、精神障害すら疑わせ(もしほんとうに精神障害者ならば、病人を見世物にしている点で倫理性が問われてもしかたがないと思うのだが、障害者かどうか定かではない)、また映画の知識なり見識はゴダールの足元にも及ばないトミー・ウィゾーだが、それでも映画愛には事欠いていない。『ザ・ルーム』の制作現場の混乱(まさに『ディザスター・アーティスト』が描いている情景)は、繰り返すが、その結果はどうであれ、映画『ヌーヴェル・ヴァーグ』が描くところの『勝手にしやがれ』の撮影現場の混乱にあ通ずるところはある。

いやふたつの映画は撮り方も似ている。一例をあげれば、ゴダールの映画撮影期間は20日と限られているのだが、同様に『ザ・ルーム』の撮影期間も40日と限られていて、どちらの映画も~日目/20日、~日目/40日と字幕を入れて映画製作の進展状況を逐一知らせるかたちをとっている。ゴダールは20日という限られた期日に映画を撮り終えたようだが、『ディザスター・アーティスト』では最初の方は5日目/40日とか30日目/40日というふうに経過が示されるのだが、気づくと、45日目/40日とか50日目/40日というように完全に撮影が予定期日をオーヴァーしてしまうのだ。まさにディザスター・アーティストの面目躍如といったところか。

また完成披露試写会では、『勝手にしやがれ』では、仲間の映画監督たちがぼろくそにいう(愛ある反語的表現)。いっぽう『ディザスター・アーティスト』のほうでは完成した『ザ・ルーム』の完成披露試写会では、最初のうちは観客は唖然とするばかりで言葉もでないのだが、最後には、あまりのばかばかしさに大爆笑の渦ができる(実はこれは映画だけのフィクションで、実際の完成披露試写会では観客は最後まで沈黙していたとのこと)。

どうやら『ヌーヴェル・ヴァーグ』の『勝手にしやがれ』秘話と、『ディザスター・アーティスト』の『ザ・ルーム』制作秘話では、陽と陰、ネガとポジのような関係になっていて、『ザ・ルーム』は、『勝手にしやがれ』がなりえていたかもしれない悪夢という位置づけになるかもしれない。

もちろん、それでよいのだろう。なにしろ、『ディザスター・アーティスト』を観ることで、ゴダールの偉大さがよくわかる。その大胆さと繊細さ、豊富な映画知識と映画愛に裏打ちされた映画製作の理念と実践、そして一歩間違えば大失敗に終わっていたかもしれない危険な賭けと、その勝利を通して、私たちはゴダールの天才性と時代の趨勢とをあらためて認知することになるのだから。そしてまさにこの正確な陰画が、トミー・ウィゾーとその大惨事ともいえる失敗作『ザ・ルーム』の撮影秘話なのだから。

しかしゴダール的ヌーヴェル・ヴァーグと、トミー・ウィゾーという思い出したくもないディザスター・アーティストは、表と裏、良性面(Benign aspect)と悪性面(Malign aspect)、光と影、顕在面と陰在面、現実態と可能態などという、決して出会うことのない、あるいは排除しあう(まさに表と裏のような)対立項ではなくて、互いに意識し、視野におさまっていた対立項ではなかったか。しいて言えば、両者は対立しているのではなく、類似しているのではないか。あるいはむしろ両者はひかれあっていたのではないか。

トマス・ウィゾー的な偏差値の低すぎるディザスター・アーティストを、高偏差値(まあ嫌な言い方ではあるが)のゴダールはあこがれていた、あるいはそうなろうと、つまりディザスターになろうとしていたのではないか、その第一作映画において、いや、その後においても、つまり即興撮影、整合性に対する無頓着にして無視、連続的ではなく不連続で断片的な映像、ウェルメイドではなくて芸術性の追求、それは、こじんまりであろうと大きなものであろうと成功する映画ではなく、失敗する映画を、最低とののしられる映画を追及したのではなかったか。

トマス・ウィゾーは、創造性もないのに、大成功を夢見ていた。いっぽうゴダールは、その創造性の横溢する映画製作において、大失敗を恐れていたのではなく、むしろ夢見ていたのだ。ヌーヴェル・ヴァーグが目指していたのは大失敗(fiasco)であった、大惨事(diaster)であった。

だが、皮肉なことに、フィアスコに成功したのは、成功を確信していたナルシスティックで愚昧なトマス・ウィゾーであり、ゴダールは、フィアスコに失敗しつづけた。そのように映画史を書き換えることができるのではないかと、『ヌーヴェル・ヴァーグ』を、『ディザスター・アーティスト』を思い出しながら観ていて思った。ゴダールこそ、真正のディザスター・アーティストになりそこねた映画監督ではなかったか。彼は、自分の手で、自分の目を閉じて、みずからの死を宣告しようとして失敗しつづけ、それを最後の安楽死まで持ち越すことしかできなかったのではなかったか。

まただからこそ、リンクレイターの『ヌーヴェル・ヴァーグ』は観ていて気にならないのだ。それが、そっくりさん総出演のフェイク映画、バッタモン映画であるにもかかわらず、ゴダールの精神を継承する正統的な映画にみえてしまうのだから。ゴダール役の俳優も、ベルモント役の俳優も演技経験や映画出演がほぼない新人といってもいい――彼らから刺激的で感動的なパフォーマンスを期待することはむつかしい、そもそも、彼らに求められているのは独立性の高い個性と存在感の顕示ではなく、そっくりさんとしての、なりきり演技でしかない。しかも映画自体も、モノクロ撮影で、『勝手にしやがれ』そっくり映画たらんとしている(ちなみに『勝手にしやがれ』を撮影したカメラを博物館のようなところから借り出して『ヌーヴェル・ヴァーグ』を撮影したとのこと)。そしてこのそっくりさん総出演の、『勝手にしやがれ』の物まね・そっくりさんB級映画が、みじめな駄作どころか、ゴダール映画の、その芸術的精神の(つまり不完全性、フェイク性、非整合性、安っぽさ、そして失敗志向の)体現者にみえてしまうのだ、いや、体現しているのだ。

しかも、ヌーヴェル・ヴァーグ映画について、あろうことか、ゴダールにとっては敵だったかもしれないハリウッド映画の監督が映画にするという、フィアスコと背中合わせとなった試行こそが、実は、ヌーヴェル・ヴァーグ映画の心髄の体現であったかもしれないことを、映画『ヌーヴェル・ヴァーグ』は教えてくれたのである。

【とはいえ、『カイエ』派は、ハリウッド映画を敵対視しているだけではなく、評価もしていた。ハワード・ホークス、ジョン・フォードらの戦前から活躍しているハリウッド映画監督たちは『カイエ』派による称賛によって再評価されたともいえる。またリンクレイターは、いうまでもなく、ハリウッド映画の監督としては異色あるいは異端的存在でもある。】

ちなみにジーン・セバーグ役のゾーイ・ドゥイッチは、リー・トンプソンの娘だが、リンクレイター映画によく出ている。私がタイム・ループ物の映画をよく見ていた頃、『ビフォア・アイ・フォール』というこのジャンルの佳作映画で、彼女は主演だった。それ以来、ずっと記憶しているし、いろいろな映画に出ている。そういえば、ゾーイ・ドゥイッチは、あろうことか『ディザスター・アーティスト』にも出演していた(演劇クラスの参加者ですぐに出番は終わるから記憶に残らないかもしれないが)。

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映画『ヌーヴェル・ヴァーグ』の最後に、映画が完成して、プロデューサーや仲間の映画監督たち(みな〈カイエ派〉の監督たち)を招いて試写会をおこなうところがある。上映後、出席者は、ゴダールに対して、出来上がった映画をぼろくそにいうのである。「史上最低の映画だ」とか「こんな映画はつくるべきではない」といった、罵詈雑言が出席者たちの口から飛び出る。

しかし、よく聞くと、彼らの「最低の映画だ」という評価は、実は「最高の映画」ということの裏返しである。すばらしい、最高の映画だというかわりに、最低の映画だといって、からかっているのである。

しかし、同時に、それはゴダールが無意識のうちに求めていたことを、彼の仲間たちがくみとったのだと言えなくもない。ゴダールが求めていていたのは称賛の言葉ではなく、最低の大失敗(フィアスコ)という言葉だったのだ。
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2026年08月07日

人間のいのち、動物のいのち

ある架空の対話

登場人物
暗田堕悪隷:ご意見番と称する日本人女性。2026年8月の日本からタイムリープする。

救命ボート操船担当の乗組員

救命ボートの乗客
 乗客1犬を抱えた老婦人

 乗客2老紳士

 乗客3怪我をしている男

その他、救命ボート内に乗客多数。

場所
 沈みゆくタイタニック号の救命ボート。

救命ボートは、ダビットにつるされ、海面へと降ろされるのを待っている。そこに、ある女性が日本から突然タイムリープして登場。

彼女は、ボートが海上に浮かべられるのを待っている乗客たちにむかって。

暗田
私の名前は、暗田――「あんた」と読まないでね。「あんでん」でもない。日本では私は「先生」と呼ばれているの。

救命ボートの係員
学校でなにか教えているのですか

暗田
いえ、日本で先生といわれるのは、学校の先生はもちろんだけど、医師、政治家も「先生」と呼ばれ、それ以外にも「弟子」のいる一芸に優れた人などが、「先生」と呼ばれるわね。

救命ボートの係員
あなたの場合は?

暗田
私の場合は、たくさんのアシスタントがいる……、そんなことはどうでもよくて、私は21世紀の日本ではご意見番と呼ばれているの。で、その天下のご意見番の私が、沈みかかっているタイタニック号で人びとはどうふるまっているか観に来てやったの。21世紀の人間たちに報告するんだから、しっかり、ほんとうの姿をみせなさい。

で、いま気が付いたんだけど、あなた【と、老婦人に向かって】、犬を抱えているわよね。その犬はどうしたの?

犬を抱えた老婦人(乗客1)
私のペットで、いっしょに旅をしているのです。船が氷河にぶつかったときの混乱で行方がわからなくなったのだけれども、そのことを乗組員の方にうったえたら、通路でうろうろしているこのわんちゃんを親切なこの方がみつけてくれて、私のところに届けてくれたんです。

暗田
う~ん、それは問題ね。まだ乗客全員の安否がわからないときに、あなたは自分のペットの犬のことを探してくれとうったえたのですね。

犬を抱えた老婦人(乗客1)
探してくれとうったえたわけではありません。いなくなって心配だと言ったのです。あなたは犬はきらいなの?

暗田
私は犬は好きですよ。動物は全部好き。でも、でもですよ、人の安否確認が終わっていない段階で、犬の安否を気遣うなどということは言語道断です。気持ちはわかります。でも人の救助や安否確認が終わっていない段階で、動物救出を訴えることには明確に反対します。

救助活動や乗客誘導のために、乗組員の方たちは、この沈みゆくタイタニック号のなかでいま全力をつくしているのです。これから船を離れようとしている乗客の皆さんにとって、行方が分からなくなっている、もしくは離れ離れになってしまった身内や友人や知人のことは心配でならないはずです。そういう人たちにとって、そこに、犬猫の安否を気遣い、その救助を求めるような声があがったとしたら、それはどう響くのでしょうか。

何よりも人命優先です。少なくとも公の場では、その前提を共有すべきと思います。ですから乗組員の方に自分のペットを探し出してもらうというのは、あってはならないことです。

救命ボートの係員
ペットだけを探し出して、乗客のことを見捨てるなんてことはしませんよ。ペットを探すなかで、船内を迷っている乗客の方をみつけることもあります。そうすれば迷っているペットと乗客をともに安全なところに誘導できるので、ペットを探すことになんら不都合はありません。そもそもペットのわんちゃんは、ネコもそうですが、無力な存在ですので。

暗田
なにをバカなことをほざいているの! いまは、あなたの尽力で、ペットの犬が見つかったからよかったようなものの、しかし、沈みかかっている危険な客船の船内で動物をみつけたり助けようとして、乗組員のあなたが命を落としていた可能性もあるわけでしょう。そうしたことにならないためにも、ペットは二の次、人命最優先という前提を公の場で共有すべきなのです。

救命ボートの係員
まあ、まあ、そんなに、このご婦人とペットのわんちゃんを責めないでください。おまえも【と犬にむかって】助け出されてよかったよな、ご主人とはぐれたりしなくってよかったよな。【暗田にむかって】このご婦人もよろこんでいらっしゃるのですし、なにより、ペットを救うことができて、私たちもうれしいのですから。

暗田
なにをふざけたことを言っているんだ、おまえは。よくみたら、この救命ボートにいるのは、幼い子供とよぼよぼの老人とかよわいご婦人と、あと、けが人か病人、それにペットしかいないわね。ほかに助ける人がいるんじゃないの。

救命ボートの係員
いえいえ、人命尊重をしての結果ですから。そもそも、あなたが降りてください。そうすればあと一人は載せられますから。

暗田
私はこの時代の人間じゃないから、ここで死んだりしないから、すぐに救命ボートを降りて誰かをかわりに乗せてあげる。心配しないで。でも、もうちょっと、まともな、生き残ってほしい人たち、その命を尊重できる人たちを先に乗せられなかったの?

救命ボートの係員
先に乗せるべき人は、まず病人やけが人やそれに類する人たちです。次に老人や子供です。そして男性ではなく女性です。だから最初に海上に降ろされようとしている救命ボートに、こうした人たちが乗っているのは当然のことです。つまり、弱いか無力な人たちこそが先に救出される人たちです。人間とちがってペットの動物たちも無力です。ペットが飼い主といっしょに救命ボートにいることはおかしなことではありません。

暗田
え~と、いいですか。そんな決まりなどあるのですか? 救命救出時のマニュアルに書いていある?

救命ボートの係員
マニュアルに書いてあるかどうか知りませんが、またそういうルールがあるかどうか知りませんが、そういうことになっているのです。みんなそれに従って行動しているのです。ここからもみえるでしょう、隣の救命ボートに、若い男が一人紛れ込んでいることが。老人や女子供のなかに、ひとりぽつんとね。あいつのことは知っているんですが、婚約者の女性といっしょに乗船しているのですが、その女性が画家志望の労働者階級の若い男といちゃついているところ発見して、嫌気がさしたのか、フィアンセのことはそっちのけで、自分だけ、さっさと救命ボートに乗り込んでやがる。あいつは鉄鋼王の御曹司らしいのですが、隣の救命ボートの乗組員はなにをしてやがるんだ。俺だったら、御曹司だかなんだか知らないが、あんな奴はつまみ出してやるんだが。

暗田
あなた気でも狂ったんじゃないの? アメリカの鉄鋼王の御曹司なら、いずれアメリカの産業界を牽引する最重要人物になる人じゃないの、そういう人は社会に役立つ人です、そういう人こそ優先的に救出すべきでしょう。ここにいる人たち、あんたが担当のこの救命ボートにいる連中ときたら、病人、怪我人、障害者、老人、女子供――みんな人間のガラクタばかりじゃない。それにペットもいる。まともな人間、有能で優秀な人間を乗せずに、こんなのばっかり乗せて、いい、あんた地獄に墜ちるわよ。

救命ボートの係員
ちょっと、あんたのいう御曹司、あいつですよね、いま隣の救命ボートで、後から乗り込もうとする人たちをオールを振り回して、押し戻そうとしているんじゃないですか。自分だけ助かればいいんと思ってんだよな、あいつは。

暗田
ちがうわよ、あれは正しいことよ。この救命ボートもそうだけど、あの救命ボートももう人がいっぱいで、これ以上乗せたら、重みでダビットから外れて海に落下するか、海に無事に降りても乗客が多すぎてバランスを失って転覆するかもしれない。あの人のやっていることは、実は、ちゃんと理にかなった、正しいこと、りっぱなことなの。そんなこともわからないの、あんた。地獄に堕ちるわよ。

救命ボートの係員
数人ふえたくらいで、このボートはタビットからはずれたり海で転覆したりしませんよ。あの御曹司は、少しでも多くの乗客を助けてあげようなんてこれっぽっちも思っていなくて、早く、この船から救命ボートで離れたいだけなんだ。ほら、あいつはまた、乗り込もうとした乗客をオールでぶったたいて押し戻した。自分だけ助かればそれでいいんだよ、あいつは。あんた、隣の救命ボートにところにいって、あいつに、あんたの好きな言葉をいってやりなよ、「そんなことをしていると、あんた地獄に堕ちるわよ」って。

暗田
ふん、人間、正しいことをすると嫌われるものよ、あの御曹司は、みずから悪役をかってでているの。そこが偉いところよ。私だって、日本で、言いにくいことを、ご意見番としてずけずけいうものだから、悪役にされて、誹謗中傷されまくっているの。いまだってどこかのバカが、ペットについての私の発言を茶化しねじまげて悪意ある風刺をこしらえているに決まっているわ。

救命ボートの係員
そういえば、あなたは、犬や猫が好きだって言ってたけど、ほんとうは、犬や猫が嫌いなんでしょ。

暗田
何を言っているの、私は犬や猫は大好き。

救命ボートの係員
でも、犬や猫というのは、まあペットですよね、だから人間じゃない、人命尊重の立場からしたら、ペットの動物は、人命救助のじゃまだから、船に残って船といっしょに沈んでもらうということですよね。動物が好きか嫌いかは関係ない。動物を救うのではなく動物を平気で見殺しにできるから、あんたは、こうした弱い立場の乗客たちのことを、がらくた呼ばわりして、見捨てればいいなんてことをほのめかせるんだよ。人命尊重、動物二の次なんでいうやつは、つぎは、人命もランク付けして、お金持ちの実業家や政治家たちを優先して、ごくつぶしの労務者とかよぼよぼの老人とか足手まといの子供なんか置いてきぼりにすればいいなんていいだすんだろう。

暗田
いい加減にしなさいよ、私は人命尊重第一といっているだけよ。公の場では人命尊重を前提とすべきといいたいだけなの。だから、動物はだめ、かわいそうだけれども、人間のために死んでもらうしかない。冷たいようだけれどもそれはしかたがないの。だからこの救命ボートの、動物じゃないけれども、動物に近いガラクタどもを、いったん船内にもどして、もっとりっぱな人たちを乗せて海に降りるべきだっていっているの。とにかくこの救命ボートのなかはガラクタばかりなの。まあガラクタという言い方は失礼かもしれないけれどね。

救命ボートの係員
ふん、あんたこそ、地獄に堕ちればいいんだ。

老紳士(乗客2)
暗田さん、また水夫さん、そんなに怒らないで。暗田さんは、日本人だから、西洋人の習慣というかものの見方が異様にみえるかもしれないけれども、ガラクタの一人として言わせてもらうと、私だってもっと若くて元気ならば、こんな救命ボートにのって下船を待っているようなことはしなくて、この船の乗組員たちに協力して、乗客を誘導したり、ケガ人の手当てをしたり、私も少しは楽器がひけるので、あそこの楽隊のみなさんにまじって、乗客のみなさんたちを勇気づけたり慰めたりする音楽を奏でてもいたでしょう。あいにく、この歳なので体もいうことをきかず、頭もはたらきません。でも最初は、女性や子供を優先すべきで、私は男だから救命ボートには乗らいと言い張ったのだが、乗組員の皆さんが私の高齢をかんがみて救命ボートに乗れるように手配してくれた。だから、こうして救命ボートのなかで海に浮かぶのを待っているのです。なさけなくもあり、またありがたくもあるのですが。

でも、もし私が若くて元気いっぱいで、実力も実績もある実業家であったという理由で、あなたのような人から優先的に救命ボートに乗るようにいわれても、後味が悪いだけですよ。ここにいる皆さん方を船内においてきぼりにして、私あるいは私のような実業家だけが助かっても、嬉しくなんかないな。

暗田
そんなことはないです。あなたの身内、あなたの安否を気遣っているご家族や友人たち、そして実業家なら事業関係者や会社関係者の皆さんたちは、あなたが助かったことを知ったら、心から喜ぶことでしょう。ガラクタをあとに残して、優先的にあなたを助けた乗組員の人たちを非難するような声はあがって欲しくないな。ほんとですよ。

老紳士(乗客2)
まあ、興奮しないで暗田さん。私が、ガラクタの皆さんをあとに残して、自分だけ助かったら、あの御曹司みたいにですが、そうしたら、私は一生、死ぬまで後悔するでしょうね。このボートに連れてこられる前に、すでに、別の救命ボートが、一等船室の客だけを乗せ、三等船室の労働者たちを置き去りにして、もちろんペットなど海に放り出して、船から離れていったのを目撃しました。あの人でなしの連中は、かりに無事助かったとしても、その先、どうやって生きていくのでしょう。夜な夜な良心の呵責に苦しめられ眠れぬ夜をすごすのでは。もし私も同じようなことをしたら、正直いって、私は、あなたの好きな言い方を借りると、いずれ地獄に堕ちるでしょうね。

暗田
だったら、どうするっていうの。あなたにはなにもできないでしょう。よぼよぼの老人なのだから。

老紳士(乗客2)
そうです。私は高齢なので、助けてもらうだけで、なんの助けもできません。でももし今よりも若くて、気力と体力があれば、私はほかの乗組員のみなさんと協力して、ケガ人や病人、お年寄りや女性や子供たちを助け、救命ボートに乗せて送り出すことを、最後の最後まで続けるでしょうね。そしていまこの救命ボートに乗って待っているような人たち全員が、無事に船から離れていくことを確認してから、自分の身を救うことを考えるでしょう。ただ、その時は、もう船は沈みかかっている。あとは運を天にまかせて、この極寒の海に飛び込む(たぶん、この海では長くは生きられない)、あるいは沈みゆく船と運命をともにするでしょう。

死ぬのは怖い。家族や友人たちと別れるのはつらい。孫たちともう会えないとわかったら胸が張り裂けそうです。でも、私は満足しています。年寄りや子供たち、それにペットを置き去りにして自分だけ助かったのではなく、無力な人たち、非力な人たち、自分で自分を助けることのできない人たち、そしてペットの動物たちをみんな助けたうえで、死ぬことができたのだから。私は地獄に堕ちるのではなく、天国で神様から褒められるでしょう――人命を尊重し、動物の命もなおざりにせず、自分を犠牲にしてよく頑張ったねと。まあ、それだけで大満足なのです。私は地獄に堕ちたくはない。とはいえいまは無力で何もできないのですが。

暗田
ふん、なにをくだらないバカ話を。公の場では人命尊重を前提としてほしいといっただけで、なんでこんなくだらないバカ話を聞かされなくてはいけないの、この私が。

あ、いま21世紀の日本から連絡が入って、日本の警察官が、犯人を射殺したということ、これに対して射殺を批判するバカな連中がいるので、私としても黙っておけないので、これから日本に帰ります。みなさんも、この救命ボートで無事に生き延びることを祈っています。

怪我をしている男(乗客3)
あの~、21世紀の日本もたいへんなことになっているようですね。警官は、テロリストなんかを射殺したのですか?

暗田
いえ、包丁をもって暴れていた男を射殺したらいい。

怪我をしている男(乗客3)
殺人犯だったのですか?

暗田(乗客3)
いえ、殺人犯ではありません。包丁をもって暴れていたとのこと。ただね、日本では、射殺はけしからんというバカがいるのです。警官だって生身の人間です。自分を守る権利はある。私は、ご意見番として、射殺した警官を断固擁護するつもりです。

怪我をしている男
アメリカでも、犯人はその場で射殺されることは多いのですが、でもこの場合は、警官は不意に襲われたわけでもなく、しかも警官は5人もいて、その包丁男を追いつめていたのですよね、だったら、人質をとってもいない、ただ丸腰の相手を,射殺したということになる。アメリカの警官は、そんなことはしませんよ。その男は、銃を乱射したのではなく、包丁を振り回していただけ、つまり丸腰の男を射殺した? ちょっとひどくないですか。

暗田
まあ、詳しい事情はまだわかっていないので、調べてみないといけないのですが、こういうときにかぎって、警察の対応がまちがっているとかいう、やからが日本には多いのですよ。だからこれは正当防衛だったのだ、文句あるんかと、私がご意見番として、びしっと言ってやらなければいけないと思って。だから、これで失礼します。

怪我をしている男(乗客3)
丸腰の相手を射殺しておいて、正当防衛もくそもないのでは。アメリカでは、それは許されませんよ。日本にも武士道というのがあったのでは。

暗田
ああ、もうあなたと議論している時間はないので、ほんとうにこれで失礼しますよ。

怪我をしている男(乗客3)
いや、ナイフを持って暴れる相手がいたら、それがナイフの名人とかプロの殺し屋ではなく、ただ頭のおかしい素人なら、また人質をとっているのでなければ、警察官それも5人もいた警察官なら対処できるのでは。それでも射殺した警官をあなたは弁護するのですか。射殺された男は、動物と同じなのですか、あなたのいう人命尊重は、いったいどうなったのですか。公の場では人命尊重を前提として共有すべきではなかったのですか。なんとか言ったらどうなんだ。

暗田
もう時間がないので、ほんとに行かないのまずいので、失礼します。

とタイムリープして消える。
付記1:
当時世界最大の客船であったタイタニック号は、イギリス・サウサンプトン発アメリカ合衆国・ニューヨーク行きの航海中の1912年4月14日23時40分(事故現場時間)に氷山に衝突し、翌4月15日の2時20分に沈没した。1,514人が亡くなり、710人が生還。これは1912年時点で、過去最大死者数を記録した海難事故となった。

付記2:
2026年8月4日午後7時ごろ、河内長野市の路上で、「包丁を持った血だらけの男が暴れている」との通報を受け、5人の警察官が現場に急行。警察官らは「刃物を捨てろ」と再三警告したが、男性(60)は応じず、刃体約16センチの包丁を向けて近づいてきたという。これに対し、男性巡査部長(32)は空に向けて威嚇射撃を1発行ったが、男性がなおも向かってきたため、2発目を男性の左胸付近に発射。銃弾は体を貫通し、男性は搬送先の病院で出血性ショックにより死亡が確認された。



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早口言葉:指示対象なき言語3

最初から人為的に作られた早口言葉は、指示対象なき言語の最たるものかもしれない。いや、「東京特許許可局」という早口言葉があるではないかといわれるかもしれないが、「東京特許許可局」もまた指示対象なき言語の最たるものである。「東京特許許可局」という「官庁や部局は実在せず、架空の機関である。特許は許可を受けるのではなく、特許庁により認定されるもの」(Wikipedia)なのだ。あるいは英語では、有名な‘She Sells Seashells by the Seashore’がある。

あるネット記事の記述をそのまま引用すると(なお句読点の「。」は引用者がつけた):
この早口言葉は、Sの発音と Shの発音の違いを見分けるのに役立ちます。
日本語には シはひとつしかないけど、英語は ʃ と sがあります。
She (ʃíː) 初めの She は shなので、ʃ シー。
sea (síː) seaの sは ガス漏れのようなスーに母音のeをつける感じで発音します。ABCのCと同じ発音です。
sells (selz) sellは「~を売る」という意味の他動詞です。「売れる」という自動詞でも使われます。
shells (ʃélz) shell は貝がらのことを言います。
shore(ʃɔr) 海岸、沿岸のことを言います。 seashore も同じ意味です。
She sells seashells by the seashore.
(彼女は海岸のそばで貝がらを売ります)
要は「シー」と「スィー」とを区別するための、あるいは区別よりはむしろ混同を面白がる早口言葉ということになる。

Nursery Rhymesのひとつでもある。タイトルはその歌詞のからとって‘She Sells Seashells by the Seashore’あるいは ‘Sally Sells Seashells by the Seashore’(Sallyは歌詞の中に出てくる女性の名前)として知られる。1908年 Terry Sullivan作詞、Harry Gifths作曲のミュージック・ホールの歌として有名になったのだが、元歌はThe Family Herald; a Domestic Magazine of Useful Information and Amusement(1871年12月号)に掲載されているとのこと。

‘She Sells…’は、基本的にまぎらわしい発音の単語をならべて早口言葉歌を作るために人工的に構築されたもので、指示対象はない。海岸で貝殻を売るというのは、言葉遊び的には面白いのだが、内容は全くナンセンスである……。

ところが、この歌詞は、メアリー・アニングを想定している、あるいは彼女の存在からインスパイアされたという説がまことしやかに唱えられるようになった。

メアリー・アニング(Mary Anning1799 - 1847)は、イギリスの初期の化石採集者で古生物学者だが、いまでは、不当にも貶められていたその功績が正しく評価・再評価され、最も著名な英国の女性科学者のひとりに数え上げられている。その彼女の名が一般にも知られるようになったのが、 ‘She Sells Seashells by the Seashore’の歌なのである。

メアリー・アニングは、生まれ故郷のイギリス南部沿岸ドーセット州のライム・リージス村で暮らし(その地は日本の福井県みたいに化石が多く含まれる地層に恵まれていた)、化石収集をして古生物学の研究をしながら、生計のために化石を観光客に売っていた。貝殻も売っていたのかは不明(その「貝」はアンモナイトの殻(平たい巻貝状)の化石のことだったかもしれないが)。だから実のところ、‘She Sells Seashells by the Seashore’が、彼女のことだというのはあとからのこじつけであろう。漢字の「道」の成り立ちと同じで、フィクションである可能性がきわめて高い。そのため現在は、この早口言葉が彼女のことを指しているとは信じられていないかもしれないが、同時に、彼女のことだとも伝えられている。
【ちなみに昔イギリスにいたとき、女装しているテレビタレントがいて、どうみても男性(まあマツコ・デラックスの先輩みたいなタレントなのだが)なのに、あらゆる媒体が、そのタレントを女性代名詞(She, her)を使って指示していたので、私自身、自分の判断に自信をもてなくなって、真剣に調べてみたら、やはりというか当然、男性であった。で、結局、その後、そのタレントのことを、男性だとわかっているが、私も一貫して「彼女」と呼ぶことになった。これは、She Sellsがメアリ・アニングのことではない(証拠がない)とわかっていても、あらゆる資料が、いまなお彼女とその早口言葉を結び付けているのと似ている。】

とはいえ、もし、それが真実であったとしたら、ナンセンス・ソングが実は現実と歴史のなかに存在していた指示対象をもっていたことになり、これはひとつの驚きの発見となる。いっぽう、もしこれが捏造であったとしたら、本来謎めいていたり無意味なもの、指示対象のないフレーズと思われていたものに、無理やり物語なり歴史なりを捏造して指示対象を創作・捏造したことになる。おそらく「道」の漢字に対してこじつけられた切られた首の話のように。

ここで興味深いのは、発見と捏造が、その効果は大きく異なるのだが、構成が同じになる場合である。古生物について記憶のある人間はいないので(人類登場以前に絶滅している)、古生物の化石の発見はりっぱな発見である――デジャ・ヴュ効果は生まれない、そもそもそんな古い時代の人類の集合的記憶などあるべくもないのだから。もし古生物の化石めいたものを自分で作って、それを自分で掘り出すか、他人に掘り出させて、発見だと大騒ぎすれば、これは詐欺であり捏造である。ところが記憶に残っておかしくないもの、たとえば今読んで、その内容のすばらしさを発見し感動した本が、実は、まえに一度読んだことのある本だとわかる場合――Xを認識⇒Xを忘却⇒Xを発見(実は、忘却したものの回帰)となり、この場合、デジャ・ヴュが起こりうることもある。

一方捏造の場合――Xをこしらえる⇒Xとは無関係を装う⇒Xを発見(実は自作自演)となる。ただしデジャ・ヴュは慎重に避けられ、絶対にあってはならないこととなるが、実は、すべて知っている、すべて記憶にあることとなる。

どちらもの場合も、忘却と無知がカギを握る。

ほんとうの発見ということもあるのだが、時として、実はすでに発見していることを忘れて再度発見することがある(この裏返しが、自作自演の詐欺的捏造である)。フロイト的にいうと「抑圧されたものの回帰」である。これが起こるのがなんとも興味深いのだ。それは無意識のうちの心的防衛機制からもしれない。無意識が捏造と詐欺行為を招来するのである。そしてそれは文化的にも、忘却されたものの再発見と再評価とか、意図的な忘却と欺瞞的な発見といった、文化的捏造行為の場合もある。

そして私たちがこだわっている指示対象との関連でいえば、不在の指示対象が、実は忘却されていたか、指示対象の忘却を忘却して新発見の指示対象として見出されるか、あるいは不在の指示対象をあえて創造する――捏造する――される、欺瞞行為あるいは文化的創造行為が行なわれるのか、興味深い主題群がたちあがることになる。

発見された化石として。

メアリー・アニング自身に限れば、興味深いのは、彼女が自身の研究対象だった古生物学の絶滅した生物さながら、‘She Sells Seashells by the Seashore’というナンセンス・ソングのなかに化石のように埋もれていたこと、あるいは化石のように発見されたことである。化石ハンターだった彼女は、いつしか、自身が追われる発見される化石になっていた。

また、失われたものの発見は捏造と背中合わせになっている。考古学者が、自分で偽物を仕込んでおいて、それをさも発見したかのように大々的に喧伝するという詐欺行為はよくあることである。2014年2月16日から3月9日まで放送されたWOWOWの連続ドラマW『地の塩』(主演:大泉洋)は、最初、私は、松本清張の小説とまちがえていて、ドラマが大学の裏口入学がどうのという話ではないので戸惑ってしまったが、私がタイトルを間違っていた(ドラマのタイトル『地の塩』を松本清張の小説のタイトル『地の骨』とまちがえた――なお清張には『砂漠の塩』という小説もある)。『地の塩』における旧石器捏造は、現実に起こった「藤村新一」の捏造事件をモデルにしている。

メアリー・アニングの発見した化石は真正の化石だったのだが、なんという皮肉か、‘She Sells Seashells by the Seashore’のなかに発見された彼女という化石は、彼女のあずかり知らぬところで仕組まれたものだった可能性がたかいが、もし捏造でなければ、奇跡的な符合あるいは奇跡的な発見に近い――だからこそ、出来過ぎた話で捏造の疑惑が生まれたのだが。発見と捏造は、つねに背中合わせになっているというよりも、つねに手を携えているし、メアリー・アニングと‘She sells. . . ’の場合も、真実であれ捏造であれ、その符合はなにやら奇跡的だし、そこに神の技ではないにしても、歴史的・文化的な創造性を感知することができるのではないか。

発見が、すでに述べたように、抑圧されたものの回帰である場合(それ以外の場合もあるので、あくまでも限定的だが)、発見されたものはすでに知っていたものである。自分で仕込んでおいて、それをさも発見のように驚いてみせるのと、すでに遭遇していたのに忘れてしまい、発見であるかのように思い込むこととは、意図的か無意図的かという違い(だが重要なこときわまりない違いかもしれないが)を無視すれば、同じ構図を形成する。無意図的な場合、つまり忘却した場合、既知のものを発見と思い込むとき、発見の驚きと喜びが生まれる。忘却の人、無知な人のほうが発見の喜びが大きい、いや、そもそも発見を体験しやすい。いっぽう、記憶の人、経験が豊富な人ほど、発見から遠のくことになる。彼らにとって、太陽の下に新しいものはないからである。発見するものはすべて実は既知のものである(発見などありえないのである)。【なおあらゆる発見は、例外なく、すでに発見されていたものであるという観点もある。私はすでに発見されたものでないと発見することはできないという、ヴィトゲンシュタイン的観点は重要だが、ここでは、そちらの方向には舵を切らない。】

忘却の人、無知なる人こそ幸いである。彼らには数多くの発見の驚きと喜びが待っているのだから。だがこれは愚かさの証左でもあるとは、いわないで欲しい。

これを痛感したのは、メアリー・アニングを題材とした映画『アンモナイトの目覚め』(2020)を観たときである。ちなみにこの映画、ゲイ映画の傑作『ゴッズ・オウン・カントリー』(2017)のフランシス・リー監督作品で、『アンモナイト』のほうはレズビアン版となる。メアリー・アニングは生涯独身だったのだが、彼女がレズビアンであったという証拠はない。しかし映画のほうではメアリー・アニングは、彼女を尊敬する地質学者ロデリック・マーチソンとの交流なのかで、マーチソンの妻シャーロット(シアーシャ・ローナン演ずる)といつしか肉体関係をもつにいたる。ただし映画のなかではシャーロットはメアリー・アニングよりも若いのだが、現実には、シャーロットのほうがメアリーよりも十一歳年上だった。二人の間には、レズビアン関係というよりも、女の美しい友情の始まりがあったようだが、映画では年齢を逆転させ、史実に基づきながらもフィクションとして成立させている。

しかし、19世紀のドーセット州の海岸を軸とするこの世界線に含まれている化石(メアリー・アニングと彼女の秘められた性生活)としては、レズビアンしかないではないか。現実的証拠などあってもなくても関係ない。海を観ながら生まれる女性の美しい友情のはじまりがレズビアンにいたらなくして、その友情はなんであろうか。海辺の物語。水の物語として、海辺で売られる物語としては、同性愛物語こそがもっともふさわしいのではないか。

発見の驚きは、メアリー・アニングを演じている女優が誰かわからなかったことと関係する。予備知識なしで観たのだが、シアーシャ・ローナンはすぐにわかったのだが、メアリー役の女優、ベテランの女優ようだが、残念ながら私が知らない女優なので、映画を観た後調べてみようと思いつつ、エンドクレジットをみて驚いた。ケイト・ウィンスレットの名前がそこにあったのだが、彼女が誰を演じていたのかわからなかった。そしてやがてメアリー・アニングを演じていたのだとわかったとき、私は思わず驚きを声に出しそうになった。

映画のなかのメアリー・アニングは、その仮面のしたに、その存在を割ってみると、ケイト・ウィンスレットという著名な女優が横たわっていた。まるで絶滅した古生物の化石のように。既知の俳優を前にしていながら、未知の俳優と遭遇したと勘違いし、未知の俳優を発見したと思い込んだ――既に知っている俳優なのに。幸いなるかな、あるいは愚かなるかな忘却の人、無知の人、この私。

だが、メアリー・アニングをめぐる化石発掘物語は、これで終わることはない。

ジョン・ファウルズの『フランス軍中尉の女』の映画版(1981、日本公開1982)のなかでメリル・ストリープ演ずる19世紀の女性は、メアリー・アニングをモデルにしていた。1982年に日本でこの映画を観た私は、メアリー・アニングが誰かも知らなかった。ましては、『アンモナイトの目覚め』でもロケ地になっていたライム・リージス村とか、その突堤などについて、なんの感慨ももたなかったのだが、Amazonのなかでこの映画のDVDのレヴューアーのひとりは、2018年の時点で、こんなことを書いていた。「この映画を見てメリル・ストリープの美しさに溺れました。この頃に撮った ソフィーの選択、殺意の香り のストリープは本当に美しく思います。高校生の頃に見たときは女性の心の綾を知らず早く大人になりたいと思ったものです。30年以上経っても分かっちゃいませんが。大学の時にイギリスのライムリージスへ行ったのもいい思い出。今で言う聖地巡礼。冒頭のシーンのままの世界。突堤の先に立ってフランスの方角を眺めました。【以下略】」

「ライムリージスへ行った」だと。そこは、メアリー・アニングが貝殻、いや化石を売っていた海辺のある村じゃないか。‘She sells seashells by the seashore’と思わず口に出そうになった。1982年、この映画をみていた私は、44年後にライム・リージスがどこにあるのか知ることになる運命にあるとは夢にも思わなかったのだ。『アンモナイトの目覚め』を観ていた私は、まさかそれが『フランス軍中尉の女』へとタイムリープするはじまりとなるとは想像だにしていなかった。

目白の人気店で舌鼓を打つことから始まった私たちの旅は英国南部のドーセット州のライム・リージスの海岸で旅の終わりを迎えることになった。

いやほんとうはまだ終わらない。「舌鼓を打つ」が、現実に指示対象をもたない言語表現と思うかもしれない世代に対してそれはかつて現実に存在していたことを指摘した私は、‘She sells seashells by the seashore’という早口言葉歌という、現実に指示対象をもたないような言語構築物にも、実は指示対象があったことを指摘することになったのだが、ただし、その指示対象は後付けの捏造だった可能性もある。またそれが捏造であったとしても、捏造を含め、発見と忘却、抑圧されたものの回帰、記憶による発見の消去と、無知と忘却による発見の強化といった主題群が、化石という歴史でもあり社会でもありメタファーでもある象徴をともなって、あるいはメアリー・アニングその人とともに、ライム・リージスにおいて飽和することになった。

またさらにライム・リージスは発掘すれば次々と新たな化石(過去)が掘り起こされるのだが、ここでは、それについては触れないでおこう。

そして最後になって、私は思い出した。メアリー・アニングという、ゴッドハンド(藤原新一のあだ名)ともいえる化石ハンターを世に出し、彼女を一躍有名人にした、そしてもしかしたら早口言葉歌の題材にもしたのは、当時の博物学熱であったが、それについて扱った本を私は、翻訳していた、というか翻訳していたことを、すっかり忘れていた。『アンモナイトの目覚め』を観るまではというか、観てからもなお、まだ忘れていて、今回の記事を書くに及んで思い出した。
リン・L・メリル『博物学のロマンス』大橋洋一+照屋由佳+原田祐貨訳(国文社2004)【Lynn L. Merril, The Romance of Victorian Natural History(1989)】
である。私が学習院大学で教えていた頃に指導学生あるいは授業参加者として知ることになった二人の女性たちとの共訳だが、照屋由佳氏による丁寧かつ的確な訳者あとがきのあと、私自身が短いアポロギアを付記しているのだが、翻訳出版が大幅に遅れたのは私のせいである。共訳者のお二人と出版社には対して、私の怠慢をただただお詫びするしかなく、私は「序」と「むすび」しか訳していない(ほんとうはもっと多くを分担する予定だったが、私の怠慢によって共訳者のお二人の担当を増やすことになった)。そのこともあってか、忘却してしまったのはいたしかたないのかもしれない。

とはいえ覚えていることもある。出版当時、高山宏先生にこの翻訳を献本させていただいた。そうすると丁寧はお礼の手紙をいただいた。それに対して、私は、ヴィクトリア朝の博物学熱についての本としては、同じファースト・ネーム「リン」を共有している著者の本
リン・バーバー『博物学の黄金時代』高山宏訳(国書刊行会1995)【Lynn Barber, The Heyday of Natural History, 1820-1870(1980)】
のほうが、学術的にしっかりした本であって、リン・バーバーのほうは学術文献というよりも読み物的性格が強い本だと思いますと返信したことを覚えている。いまも、その評価は変わっていないが、ただ、リン・バーバー『博物学のロマンス』も、いま読み返してみると、実によくできた本で、思わず読みふけってしまう細部にあふれていた。忘却していたぶん、発見の驚きも大きい――なさけない話だが。また照屋さんと原田さんの翻訳も実によくできていて読みやすい――お二人の実力が如実にあらわれている。リン・バーバー『博物学の黄金時代』とともに、このリン・L・メリル『博物学のロマンス』も、19世紀英国の博物学熱について知るには有益な本であるので、おすすめしたい。

ただし両著作において、メアリー・アニングは、『博物学の黄金時代』では一か所、『博物学のロマンス』では二か所と、扱いが少ない。現代において、女性科学者を扱う本のなかでメアリー・アニングはもっと重要視されている。ジェンダーが研究の軸となる前の時代の本としてやむをえないことなのかもしれないが。

メアリー・アンニングは、私は記憶しておいてしかるべき人物だった。映画『アンモナイトの目覚め』は、原題はただの『アンモナイト』であるが、日本で「目覚め」というタイトルをつけた。私にとってもメアリー・アニングは、ただそれだけではなく、「メアリー・アニングの目覚め」というにふさわしい発見の対象、よみがえった指示対象であった。
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2026年08月05日

忘却と捏造:指示対象なき言語2

いまテレビで全国高校野球の開会式を実況中継していたが、開会式が終わり、第一試合が始まる際にアナウンサーは、いよいよ高校野球の試合が「開幕です」と語っていた。これも「舌鼓を打つ」と同じ表現で、甲子園球場には、開幕する設備は存在しない。開幕はそもそも、幕を開け閉めできる劇場のような屋内施設でのことだが、実際に、幕を開けることをしなくとも「開幕です」と語ることは日本語としておかしくない。「舌鼓」の場合と同じように。

とはいえ、おそらく多くの日本人にとって「舌鼓を打つ」というのは、指示対象のない、具体性や身体性を欠いた抽象的表現でしかないかもしれない。だから私のように「~などさまざまな絶品グルメが提供され、大吉らは舌鼓を打っていく」という表現を読んで、彼らは絶対に舌鼓を打っていないはずだから、この表現はおかしいと違和感を抱いたり、いきり立ったりする者は少数派か、もしくは私くらいかもしれない。

しかし、ここでは、少し違った方向に舵をきろう(この表現もメタファーだが)。

「舌鼓」の話だが、私は古い人間というか人間が古くなっているので、「舌鼓」の音を知っている。しかし、何度も述べているように、現在の若い世代にとって、「舌鼓」は架空の存在あるいは想像不可能な存在かもしれない。だから、「舌鼓を打つ」という表現を、食事に満足することを意味するメタファーではなく、言語表現のなかだけで成立する抽象的な言表(つまりメタファーではなく、そういう独自の表現)として受け止めるかもしれない。だからこそ、実際に、誰も、ほんとうに「舌鼓」など打っていないときでも、平気で「舌鼓を打つ」と表現していられる。

私が試みたのは、「舌鼓」というのはほんとうにあったと知らしめることである(そんなことは承知している人が多いことは認めつつ)。抽象的かつニュートラルなフレーズたる「舌鼓」が、人間の具体的な身体行為(どちらかといえば不快な)を指示対象としていたことに驚きを感ずる人たちに向けて私は語っている。もしかしたら、人によっては、これを驚きの発見と受け止めるかもしれない。まるで、なんの変哲もない石ころをたたいて割って観るとなかに化石があった(生き物それも絶滅した生き物の痕跡があった)というような驚きがそこにあるのかもしれない。

漢字の成り立ちについても同じことが言える場合がある。現在、日本人が使っている漢字は、現代中国で使われている漢字よりも抽象度あるいは記号性が少ないかもしれないが、それでも十分に抽象度が高いことはいうまでもない。そのため象形文字あるいは表意文字として発達しつつも、表意性は失われ記号性だけが際立つため、表意度ゼロ度の漢字は多い。

そんなとき「道」という漢字にはなぜ「首」がみえるのかという疑問がわいてくる。

ネット上の記事をパッチワークしてつなぎ合わせると、
「道」の部首である「しんにょう」は道で立ち止まる人の姿を表し、一方の「首」は人の頭部そのものをかたどった象形文字に由来する。したがって「道」は他人の首を持って歩く人の姿を表す。古代中国では征服した場所に新しい道を作る時に、被征服民の首を持って歩くという風習があった。土地の霊を鎮めるためには、その土地に由来した魂の力が必要であったと考えられ、征服時にはねた人間の首を持った練り歩き、土地の邪霊を祓い清めたという。
となる。これはけっこう有名な話で、テレビのクイズ番組などでも出題されたりするようなのだが、私はこれは、民間語源説(フォーク・エティモロジー)のような、後付けの捏造だと思っている。実際、諸説あって、この「首をもって歩く」説だけが、「道」の表意性ではないのだから。

指示対象がないと思われていた表現あるいは文字が宿していた具体的で思いがけない指示対象。整理してみると、「開幕」行為はおこなわれていなくとも「開幕」と語ることはできる。「舌鼓」の場合も同じで、具体的な「舌打ち音」がなくとも、舌鼓を打たなくとも、「舌鼓を打つ」と語ることはできる。「腹を切る」も、実際に切腹しなくとも、そう語ることはできる。ただし「舌鼓」には、「開幕」とちがって、あからさまなメタファー性は感じられないかもしれない(「腹を切る」も、若い世代にとっては切腹とも、あるいはそれに類する行為とむすびつかないかもしれない、あるいは、そういう日がいずれ来る)。

「舌鼓」(「腹を切る」も)は境界例である。そうした表現は、時がたつと、オリジナルな行為なり指示対象を認知できず、ただ人為的に構築されたもので、現実となんらつながりがないフレーズなりセンテンスと感じられるようになるかもしれない。やがてそうした表現は、原基となるようなオリジナルな行為や身体現象や事象がまったくないような表現、最初から、現実と歴史とのかかわりがない人為的あるいは人工的な言語表現とみなされることになろう。
posted by ohashi at 19:46| コメント | 更新情報をチェックする

2026年08月02日

「舌鼓」:指示対象なき言語1

7月18日(土曜日)深夜(正確には――Technicallyには――7月19日だが)放送の『二軒目どうする?~ツマミのハナシ~』(テレビ東京系)で、お笑い芸人・博多大吉が“許せない後輩”に触れる一幕があったという記事(sirabee編集部「博多大吉、許せない“食事中の行為”を赤裸々告白 「それはないって」と思うことは…」)が目についた。

記事の内容は、酔っぱらいのたわごとを紹介するもので、どうでもいいことなのだが、出てきた「刺身の盛り合わせ」が酒の肴にぴったりで、こういう料理をご飯のおかずにして食べる奴はけしからんと番組のなかで博多大吉が怒っていたとのこと。酒の肴にしてこそ、美味さも引き立つ料理をご飯のおかずにしてむしゃむしゃ食べる無粋さはやめてほしいという主張らしいのだが、たしかに酒の肴あるいはつまみにこそふさわしく、ご飯のおかずにはふさわしくないものがある。たとえば枝豆だけをおかずにご飯を食べることは、可能だが、そうする者はいない。しかし刺身の盛り合わせはご飯のおかずにもなるではないか。刺身定食というのは邪道なのか? 酢飯とはいえ海鮮丼というのもあるし、寿司も刺身を白米(酢飯)で食べる料理ではないか。なぜ刺身と白米はあわないと決めつけるのだ。まあ加工肉のCMに出演している不道徳な二人(博多華丸・大吉--それにしても、よくもまあ加工肉のCMに出たものだ!)のひとりのごたくなど私は聞く耳などもたないのだが、問題はそこではなく記事のなかの表現。
■目白の人気店
大吉と俳優・タレントの松岡昌宏の酒好きコンビが、ゲストと一緒に名店の酒と肴を満喫しながら、ほろ酔いトークを繰り広げる同番組。
 今回はゲストの女優・円井わんと豊島区・目白駅周辺に集合、炉端焼きが名物の人気店「炉端と和酒と青森 あかきんぎょ」を訪れた。
元イタリアンシェフが青森から届いた食材を和洋問わず調理する同店だけに、こだわりのポテトサラダや納豆ちくわ天、くじらユッケ、刺身の盛り合わせなどさまざまな絶品グルメが提供され、大吉らは舌鼓を打っていく。
内容についてではなく、「舌鼓を打っていく」という表現。端的にいって博多大吉・松岡昌宏・円井わんの三人は、番組を観ていないのだが、まちがいなく舌鼓などうっていないはずだ。

しかし、日本語の表現として「舌鼓を打つ」の用法はまちがってはいない。

ネット上の『意味解説辞典』によれば(一部省略して引用)
「舌鼓」は「したつづみ」と読みます。「したづつみ」と読むこともできます。
「舌鼓」は、「舌を太鼓のように鳴らす」という意味があり、「美味しいものを飲食したときの、舌の音」を意味します。また「不満げに舌を鳴らすこと」も意味し、「舌打ち」と同じ意味も含まれています。「舌鼓を打つ」という言葉の場合は、前者の「美味しいものを飲食したときの、舌の音」という意味が使われています。これらを踏まえて「舌鼓を打つ」には、「美味しいものを食べたり飲んだりする場面で、舌を鳴らす音」という意味があり、そこから転じて「とても美味しいこと」「料理に満足すること」と言った意味があります。

「舌鼓を打つ」という言葉は、食事の場面で、美味しい料理を食べたり、美味しいお酒やソフトドリンクを飲んだときに、心から満足する様子を意味する言葉になります。そもそも「舌鼓を打つ」には、舌を太鼓のように鳴らすという意味がありますが、実際に舌で音を鳴らさない場合でも、「舌鼓を打つ」という言葉を使います。現代の食事のマナーでは、料理を食べて美味しいと感じても、舌を打って音を出したりしないためです。
つまり実際に「舌鼓を打って」いなくても、食事に満足したという意味で「舌鼓を打つ、打った」という表現は使えるのであり、まちがいではないことになる。

しかし、そうであっても、この「舌鼓を打つ」という表現は、メタファーとして回収するには、あまりにも身体的具体性が強すぎる(音声も伴うし)。つまりメタファーとしての、具体性身体性を捨象した抽象性に到達していない感じがする。なぜなら私は「舌鼓」について記憶があるからだ。

たとえば「腹を切る」という表現がある。切腹行為が、責任を取ることのメタファーになっている。「このプロジェクトが成功しなければ私は腹を切ります」と言ったりする。もちろんほんとうに切腹するわけではない。この場合は実際に成功しなくとも私は切腹などしないし、私が切腹することを誰も期待していないし、求めてもいない。ただし私は責任をとって辞任したり、私は自腹を切って(これもメタファーだが)損失分を補填するかもしれない。ただし、繰り返すが本当に切腹はしない。しかし、もしこれが江戸期より前で、ほんとうに切腹して自害した身内が私にいたり、私自身、いつ何時、ほんとうに切腹し自害することを要求されるかもしれない状況にいたら、私はメタファーとしての「腹を切る」という表現を不快に思うし、ほんとうに「切腹」しないのであれば、「腹を切る」という表現は使ってほしくないと思うだろう。

これと同じで、たとえば以前、20世紀の終わり頃だったか、テレビの旅番組で、あるタレントが、旅先の名物料理を紹介するときに、ほんとうに「舌鼓」を打って食べていて、観ていて実に不快だった。食レポをするたびにそのタレントの「舌鼓」が画面から聞こえてくる。そのタレントにしてみれば、自分の舌鼓によって、美味しさを視聴者に伝えようとしたのであって、視聴者への嫌がらせではないことはわかっているのだが。ちなみに、そのタレントが以後、食レポをする番組に登場したことはないのだが、多くの視聴者が私と同じように不快感を抱いたとは想像できる。

しかしそれは食事の場で「舌鼓」など、もう誰も打たなくなった時代のことだからこそ、私は不快に感じたのであって、もっとさかのぼれば、私が子供の頃は、誰もが、家族だろうが友人だろうが、舌鼓を打っていた。古い日本映画において食事を堪能するシーンを調べてみるといい。舌鼓を打っている人間が絶対いるはずだ。そして当時も、私のように「舌鼓を打つ」ことは品のない行為だと嫌っていた者は多いと思う。いまならなおさらのことそうであって、今現在、「舌鼓を打つ」日本人はまずいないだろう。

だから、ネット記事で「~などさまざまな絶品グルメが提供され、大吉らは舌鼓を打っていく。」などと書かれると、彼らは「舌鼓を打つ」というそんな品のない行儀の悪いタレントたちではないはずで、いくらメタファーとはいえ、また日本語表現として許容されているとはいえ、実際に「舌鼓を打って」いない者たちに対して、「舌鼓を打つ」という表現を使わないで欲しい。食事に満足するということを、現代の基準では下品きわまりない「舌鼓を打つ」という下品な行為で表現するのは、いかがなものかと言いたいのである。

ここから話は、どんな表現も、実はメタファーであって、メタファーではない字義通りの表現と思われているものも、実はメタファーなのだと話をつづくけることはできる。

現代の若い世代の人たちは、「舌鼓」の音は聞いたことがなく、「舌鼓を打つ」という表現も、具体的な身体行為に基づくとは夢にも思わず、口のなかにある鼓を打つという、詩的かどうかわからないが、なにか非日常的な表現として違和感を抱かないかもしれない。そもそも、あらゆる言語表現は、メタファーである。仮に文字通りの意味として受け止められる表現があるとしても、それは実のところメタファーとして受け止められなくなったメタファーに過ぎないかもしれないのだ、というかそうなのである。

そのため「舌鼓を打つ」といっても、具体的行為など想像すらできなくて、抽象的なメタファーとして受け止められていてもおかしくない。『意味解説辞典』(とはいえたかだか学校文法の域を出ていない通俗的な辞典だが)で述べられているように、実際に「舌鼓」を打っていなくても、「舌鼓を打つ」という表現は使ってかまわないのである。つづく
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