2017年06月25日

暴言国会議員2

追記

今回のコメントは、豊田議員の離党が、安倍政権の数々の不祥事あるいは問題から目をそらすための口実にすぎないということだったが、実際には、安部一強政治のもたらす弊害として、今回の事件をとらえ、都議選にとっての逆風であるという評価がされていて、ちっとも目をそらす口実になっていないのではと思われる。


しかし安倍政権、内閣府の策謀あるいは印象操作を甘く観てはいけない。政権にとって不利になるようにみせかけて敵を倒すことは、日常的に行われる。肉を切らせて骨を切る戦略である。今回、自民党の女性議員の不祥事を示すという肉を切らせて、なんの得があるのか。内閣府は策謀に長けているが、同時に、内閣府でうごめいる警察公安官僚の頭のなかは、思想的に保守反動である。


たとえば女性について古いイメージしかもっていない。つまり女性が高い地位に就く、指導的役割につく、たとえば国会議員になる、そうするお秘書を顎で使うようになる。するとこれだ。


女性は指導者、上司にはなれない。いくらエリート官僚から議員へと転身しても、ヒステリックで、前後の見境がつかなくなる。女性は、指導者として不適切である。このことを示すために、読売新聞と同じく自民党の御用メディアである週刊新潮に材料を提供した。


たとえば小出恵介事件では、相手の女性に対して美人局、ハニートラップではないかとバッシングしていのに対し、この無能な秘書に対して、無能さを装ったスパイではないかというようなバッシングはなされていない。


スパイだからであろう。そして最終的、高い地位の女性、女性指導者に対する負の印象ができあがれば、それで印象操作は完了する。女性指導者は決断できない。決断してもろくなことにならない。女性はヒステリックである。この印象操作のターゲットが都議選の有権者であることは、まちがいないだろう。


実際、小池知事を貶めるような印象操作を内閣府がおこなっていることは指摘されている。


posted by ohashi at 21:40| コメント | 更新情報をチェックする

2017年06月24日

『山田孝之3D』

20171~3月にかけて金曜日深夜にテレビ東京で放送されていたドキュメンタリー『山田孝之のカンヌ映画祭』はみていない。長澤まさみも登場する面白いドキュメンタリーだったようだが見てない。このドキュメンタリー最終話で制作発表されたのが、主演山田孝之、監督松江哲明・山下敦弘の3D映画『山田孝之3D』。言葉と映像を通して「山田孝之」を3Dで体感する作品というふれこみの、この3D映画を、結局、何の予備知識もなく観ることになった。


インタヴュー映画なので、テレビ東京のドキュメンタリー番組のほうが面白かったのではなかったかという推測とともに、心配していたような難解な映画でも、悪ふざけ映画でもなかったのでほっとした。リラックスして観ることができて、それはよかった。山田孝之へのインタヴューを中心に、そこに記録映像やスタイリッシュに加工された映像を展開し、山田孝之という、ある意味、怪物的俳優の、素の部分を垣間見ることができた。


もちろん、フェイク・ドキュメンタリーという可能性もないわけではないだろうが、それについてほのめかしたり、つまり現実と虚構の区別があいまいで、どこまでが現実/真実で、どこまでが虚構/虚偽なのかはわからなくなったり、どこまでがマジメで、どこまではオフザケなのかわからないというようなことはない。もしこれがフェイクだとしたら、最初から最後までフェイクということになるとしかいえないほど、なにか二重性を感じさせる仕掛けなりヒントはなかったと思う。


家庭でテレビで観てもいいような映画で、あえて映画館で観る必要性あるいは必然性はあるのかと疑問にも思うのだが、3Dだから映画館でみるしかないということもあろう(久しぶりに3D映画をみた。ふだんは3D映画でも2Dでみるので)。しかしインタヴューによって、山田孝之の素の部分、カメレオン俳優と呼ばれた彼の正体(というほど大げさなものではないのだが)を暴く、あるいは、垣間見せるという形式の映画の場合、家庭の茶の間でみるよりは一人での視聴がふさわしいように思われる。その意味なら、映画館で飛び出ている3Dの山田孝之に観られつつ(もちろん当人は撮影カメラを観ているだけなのだろうが、観客は、自分が山田孝之に直接観られている、あるいは話しかけられているようにみえるので)、じっくり、その語りに耳を傾けるかっこうになる。だったらこれは映画館の暗がりでみるのが一番の映画といえるのかもしれない。


もちろん観ていて引き込まれ緊張して耳を傾けるような面白い話や珍しい話が聞けるわけではない。時には4歳の頃にまでさかのぼる山田孝之の自分語りは、退屈はしないが、熱狂もいない、そこそこに面白いが、そこそこに凡庸なのである。最後まで飽きることなく見ることができたのだが、なにかが足りないような気もする。せっかく山田孝之の自分探しの自分語りなのだから、目指すのは山田孝之の真実の姿というよりも、そのキャラクター(人物/性格/変人)を観客に好きにならせるということではなかったか。その意味でなら、たとえこれがフェイクであろうがリアルであろうが、とくに山田のことを好きになるような映画ではないのである。


「猫を救う」


そう、猫を救ったらどうかと、途中から思い始めた。ブレイク・スナイダーはSaving the Cat 

という本のなかで(翻訳もある。『Saving the Catの法則』)、映画などで、どうしたら観客が主人公を好きになるか、その秘訣を「猫を救う」主人公を示すことだとした。べつにほんとうに猫を救わなくてもいい。犬を救ってもいいのだが、とにかく、そういうやや英雄的な行動あるいは心の優しさのようなものを示すこと。そうすれば、つまり主人公なり特定の人物が、自己犠牲もいとわず、躊躇することのなく救助・救出行為に出ることができるよい人、善人、ヒーローであるとわかれば、その特定の人物が、どんなにいい加減な人間であろうと、嘘つきであろうと、悪人であろうと、詐欺師であろうと、信頼し、好きになる。観客は、キャラクターの真実を知りたいのではなく、キャラクターが好きになりたいのである。そのためにも、主人公は猫を救わなければならない。山田孝之は、猫を救わなけれればならいのだ。


興味深いのは、いや、ほんとうにドキドキしたのは、山田孝之が、かつて住んでいた鹿児島の実家を訪れる場面である。もうそこには家屋はなく、土地も、新地になって、売りに出されている。かつての実家があとかたもなくなって呆然とする山田孝之の目からは涙がほとばしる。ここは感動的な場面かもしれないが、同じようなことは私自身経験していて、そのときは、たしかに呆然としたけれども、涙までは出てこなかった。


ちなみに私の生まれた家は、いまはない。戦後で一、二位を争う大きな台風であった伊勢湾台風によって地形までかわったため、生まれた家はない(家屋はなく、その土地は、小学校の敷地の一部になっていた)。伊勢湾台風が来る前に引っ越したのだが、もし引っ越さなければ、生家どころか私自身、消えてなくなっていたかもしれない。引っ越した先の家は、昨年、名古屋での日本児童英文学会の帰りに立ち寄ったのだが、再開発の波にあらわれ、完全に真っ平らな新地になっていて、山田孝之の実家跡と同じ状態だった。とはいえ涙は出てこなかったのだが。


実家跡で、思い出にひたる山田孝之は、鎖のようなものに目を止める。それはかつて飼っていた犬の首輪を鎖でつないだ杭のようなものの残骸だった。さすがに、ここで緊張した。彼は、猫ではないが、犬を救う話をするのではないか、と。あるいは心のなかで、猫でなくていいから、犬を救え、犬を救え、そうすれば山田孝之を絶対に好きになるからと、念じていた……


結果、彼の話は、その実家でのかつての幸福な家族団らんの瞬間の思い出にシフトしてしまった。そして犬については、かわいそうなことをしてしまって、と、ただ謎めいた言葉を残すだけだった。


これが本当のことなら、結局、猫を救うどころか、犬を殺したんかい!?としかいえない事態となって、これは、だめだと思うほかはない。もしこれがフェイクあるいはフィクションなら、もっとうまくつくれよ、せっかく犬を出してきたのだから、「悪いことをした」じゃだめでしょう、と、心のなかでつぶやくしかなかった。


猫を救え。

posted by ohashi at 15:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年06月23日

『セールスマン』

『セールスマン』(ペルシア語: فروشنده‎)は、アスガル・ファルハーディー監督・脚本による2016年のイラン・フランスの映画である。第69回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映され、男優賞、脚本賞を獲得した。第89回アカデミー賞外国語映画賞にはイラン代表作として出品されて受賞した


アスガル。ファルハーディの映画は、つねに淡々と進むのだけれども、そこにひりひりするような緊張感が漂っていて、一瞬たりとも目を離せない、一種たりとも聞き逃せない。そんな非日常ではなく、日常にこそ、ひそむ謎と不安を、極端なほど危険なあるいは重大ではなくとも、それなりに重大な事件の発声をとおしてあぶりだしてゆく。


それはまた真実を知りたいという激しい欲求につき動かされるか、まら知りたくもない真実を突き付けられるかして、ようやくたどり着く真実は、問題の解決ではなく、さらなる大きな問題へと開かれたり、行き詰まりであったりして、不穏な真実なのだが、そこに、これまで触れられたり開示されたりしなかった真実を得たという確かな手ごたえのある感慨、そしてそれによって湧き上がる限りない不安の思い、この新たな次元に観客は置き去りにされる。


『セールスマン』は、まさにファルハディの世界である。異様なまでの重苦しい緊張感。真相解明への着実な足取り。そしてポスト真相(ポスト・トゥルースとは違う)におけるどこまでも不穏な雰囲気。


今回は、ここに愚行が加わる。人物の行動は、どれも問題があるが、そうせざるをえなかった必然性のようなものはある。人物の行動は正しい行動ではないが、同時にまた、そうせざるをえなかった必然性は感じられる。それはまた愚行にはしらざるを得ない必然性なのである。


また今回、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』を上演する俳優夫妻の話と重なるという劇中劇構造ももっていて、この重層性に限りなく引き付けられた。


原題のペルシア語はわからないが、たぶん「セールスマン」というタイトルなのだろう。これはミラーの『セールスマンの死』から来ているのだと思うのだが、ミラーの戯曲は『セールスマンの死』であって『セールスマン』ではない。たぶんこれはイランでは『セールスマン』として翻訳されているのではないか。したがってペルシア語に翻訳された作品名をそのまま使ったということもかもしれない。


ミラーの『セールスマンの死』は、私が大学の1年生のとき授業で生まれてはじめて英語で最後まで読んだ戯曲である。今から思うと、そんなにむつかしい英語の芝居ではないと思うのだが、高校卒業したての大学一年生にとっては、高校英語のレヴェルでは、とても出会うことのない英語表現の台詞に、驚き戸惑ったことを覚えている。まさにこれがアメリア口語の洗礼だという感じがした(ただ、繰り返すが、今にして思うと、それほどのことではなかったのだが――あと、授業では、日本で注釈をつけたような教科書ではなく、ペンギン版を使うから、各自購入するようにと、教員に言われ、東京の書店について何も知らない私は、クラスメイトに教えられて、神田神保町の東京堂の、いまはなき洋書売り場で、ペンギン版の『セールスマンの死』を購入した。なつかしすぎるぞ。)。


内容面ではいうまでもなくアメリカン・ドリームの破綻であり、父親ウィリー・ローマンの教え――学校でスポーツ万能の人気者であれば、人生の勝者になれる――を忠実に実践したあげく、若くして人生の落伍者になったビフとハッピー兄弟の挫折と夢からの覚醒の物語は大学一年生の私には強烈な印象を残した。また隣人の家族で、ビフとハッピーの同級生でもあった男は、スポーツの才能はなく、めだたないまじめな学生だったが、社会に出て仕事に成功しているというのも、けっこう説得力があった。またこのウィリー・ローマンの妻や隣人の男が善人で、はったりで生きてきたようなウィリーとは好対照だったことも印象に残っている。とりわけ妻が、いわゆるアメリカンな強い女性ではなくて、まるで日本の古いホームドラマ映画に出てくるような善良で夫をたてる女性であったことは、授業中で教師もアメリカン・ワイフとは思えないと指摘していたし、私もその通りだと思ったことも鮮明に記憶に残っている。居間から40年前のことである。


この映画のなかで上演される『セールスマンの死』は、少し大きめの小劇場公演で、その舞台を見る限り、完全に本格的な舞台で、あそこで実際に上演しようと思えば完全に可能である。ステージのデザインも、けっこうしゃれている。映画のなかでは、基本的に、毎日上演しているのだが、映画そのものなかでは、稽古風景から、上演中の光景、そして映画の最後には舞台の最後の場面が登場するというように、毎日上演されている舞台だが、映像としてみせられる舞台・劇場のシーンは、映画の進行にそって、はじめ、中、おわりと区切られる。そして映画のなかで示される舞台上演は、この『セールスマンの死』を夫婦のドラマとみているようなところがある。それはアーサー・ミラーの原作のテーマとは異なる。そのため『セールスマンの死』を知っている者にとっては、映画のなかの事件と、この戯曲とがどういう関係にあるのか、つまり内容的にはシンクロしていないので、そこをいぶかしむことになる。


だが、この戯曲の稽古や上演から、映画のなかの事件について、解明のための重要な手がかりを得ることができるのも事実である。


端緒は、稽古の場面で、ウィリー・ローマンと長男ビフと娼婦が絡むところだった。そういえばウィリー・ローマンは愛人がいて、そのことを長男に発見されて、父親の権威の失墜、父親の偽善性が一挙に暴かれるという痛い場面があったことを思い出した。ウィリーと娼婦とのからみ、そこにいる長男ビフ。娼婦役の女性がウィリーのもとを捨て台詞とともに去っていくとき、ビフが手で顔を覆って、泣いているのか笑っているのか、わからない仕草をする。これは理想的な父親像が崩壊したことに対しする長男の側からの、まさに泣き笑いという悲痛な場面かと思ったら、たんに娼婦役の女優のことを笑っているのである。そのため稽古が中断する。観ている側は、なにがおかしいのかよくわからない。笑われた女優は憤慨するが、他の劇団員たちは男女ともに、ビフ役の男優に同調して笑っている。この笑いの理由が、ほんとうによく分からない。いや、ビフ役の男優は、娼婦役の女性が、裸で(まあ下着姿でということだが)部屋を出ていくという台詞を発するのに、稽古ではコートをはおっていることがおかしいからといって笑うのだが、衣装をあわせの稽古ではなく、あくまでも稽古なので、裸だという台詞を発するとき服を着ていることが、そんなにおかしいとも思わない、というか、なにもおかしくない。


ところが笑われた女優も、なにか大きく侮辱されたかのように反応する。おそらく、ここにあるのは、娼婦という存在を蔑視する笑いだろうが、その笑いは娼婦役の女性に、侮蔑のターゲットとなる穢れを帯びさせているのだろう。なにかここには、女性に対する、いわくいいがたい蔑視的姿勢が垣間見えるのだ。


主人公の男性、主役のウィリー・ローマンを演ずる男優は、高校の国語の教員でもあり、ある意味、アマチュア劇団での『セールスマンの死』公演なのかもしれないのだが、高校での授業風景もよく出てくる。国語や文学の授業をしているのだが、最初、この教室風景をみて、なにか違和感があった。そう、女子高生がいないのである。男子高校生しかいない。これはたまたま男子校ということだけなのか、あるいは共学が認められていないのか、わからないが、強烈な男性中心主義を感じ取ることはできる。


(実際そうらしく、学校は共学でも、生徒はほとんどが男性で、教員は男性教員しかないため、女子を学校にやることはなかったらしい。ただ近年は、就学する女子生徒も多くなり、教育改革もすすんでいるようだ。だとすると、女性の地位改革にもかかわらず、それを好ましく思わない無意識、精神の古層が、隠れた原因として女性の活動を束縛,阻害する、まさにそれが、この映画のテーマだともいえるかもれない。)


実際、高校生の一人は、タクシーのなかで、主人公の男性教師に対して無礼な態度をとった女性を批判するのであり(あれが相乗りのタクシーだったとは、わからななかった)、またクラスの高校生が問題を起こすとき、呼び出されるのは母親ではなく父親なのである。女性たちはヒジャブの着用を義務付けられているので、『セールスマンの死』の舞台でも、ウィリー・ローマンの妻は、舞台上の寝室でも、ヒジャブを着用(アメリカに場所設定されているアメリカの戯曲にもかかわらず)。ヒジャブは夫婦しかない寝室では着用しなくてもよいらしいのだが、映画では、ヒジャブの着用を強調して、イラン社会で女性が置かれている立場を暗示しているのではないかと思う。


実際のところイランは、イスラム圏では、もっとも多くの女性の社会進出がみられる国である(サウジ・アラビアのようなジェンダーに関しても保守的な国の対極にある)。そのイランにおいても、女性の立場は、おおっぴらにではないにしても、なおも伝統的なジェンダー観に立脚し、女性たちは制度的に束縛されている。そしてそこにあるジェンダー前提とは、1)女性は、男性の所有物・財産であり、また2)すべての女性は娼婦であるという差別的な考え方なのである。


それゆえ、主人公の妻をレイプした犯人は、まるで娼婦への支払いであるかのように現金を犯行現場にあえて残しておくのである。現金を盗むのではなく、自分のお金を置いておく。実は、自宅で客をとっていた娼婦の家に引っ越したため、その娼婦の顧客が、まだ娼婦がいるものと思って訪問したら、別人がシャワーを浴びていた(なぜ、そんな客を招き入れたかはについては、偶然のいたずらによるのだが、夫や隣人たちは、それを疑うところもある)。


だが別人であっても、むらむらっときた犯人は、レイプしたようだ。また残した現金は、娼婦への支払いともとれるし、お詫びのお金ともとれる――いずれかは定かではない。ただ、イランではレイプして逮捕された犯人が終身刑で、レイプされた女性が死刑になった例があるようで、レイプされた女性被害者への同情よりも、レイプされた女性をさげすみ侮蔑し、財産として傷者になったことを重視するようで、ここには男性中心社会の歴然たる性差別が存在する。またこれは女性が本来、娼婦にすぎないという侮蔑的ジェンダー観。つまり、女性のなかには家庭の妻あるいは母に収まってうまくやる女性もいるが、女性の根本は娼婦にすぎないという性差別もあるのだろう。だからレイプした女性に金を残した。相手は娼婦ではなく素人の女性だったが、性差別社会では素人とプロの区別はないのである。たとえ、残したお金が、詫びのお金だとしても、その意味は支払いという意味にかき消されてしまう。


となると性差別社会において、女性に対する差別的前提は男性の言動にも影響する。女性への暴行は、その女性の所有者たる父親とか夫が帯びる権利の重大な侵害なのである。主人公の高校教師/俳優が、犯人をつきつめ、執拗に罪を問うのは、傷ついた妻の無念を晴らすというよりも、自分の名誉が汚されたことへの怒りのほうが強い。いわゆる伝統社会とか部族社会におけるような「名誉コード」がここで影響力を発動させているとみることができる。


たとえばパスタを食べる場面。夫妻が自宅で、男の子(たまたま預かった仲間の女優の子ども――先ほど触れた稽古中に笑われた女優の子どもであるが、嘲笑の原因は、彼女がシングルマザーではないが、夫と別居し母子家庭を形成していることにもあるのかもしれない。母子家庭の女性は母親ではなく娼婦なのである)とパスタを食べる場面がある。妻は家計(かけい)の責任をもたないから、たまたま家にあった現金で料理の材料を買う。夫は、それが犯人が残していった現金であることを知ると、ただちに食べるのをやめ料理を捨てて、ピザをとることにする。夫である自分を嘲笑するかのように犯人が置いて行った現金で購入された材料でつくった料理は汚れていて、さらには夫である自分への侮辱であり、名誉コードでは絶対に許されないことなのだ。現実的に考えれば、置いて行った現金を使ったとしても、自分の財布から補填しておけば済む問題であって、お金にも、またそのお金で料理をつくった妻にも、罪はないのだが、名誉コードがそれを許さないのである。


そう、この映画は、『愚行録』とタイトルをつけてもいいような作品なのだが。その愚行、愚行だけれども、そうするしかない必然性を伴い、その隠れた原因、不在の原因ともいえるのが、名誉コードあるいは、それを存続させる性差別社会における女性蔑視のジェンダー観なのである。


この現代生活にある古層が露呈すること、そしてその古層からは、それが運命であるかのように逃れられないこと。日常こそが、非日常であるという危険性、それを、思い知らさせるのが、この作品の静かな、だが強い緊張感にみちた展開だろう。ここには悲劇をみることの喜びがある。またいうまでもないが、この差別的男女観、名誉コードはイランだけの話ではない。日本では、もっとひどいといえるかもしれないのだから、決して他人ごとではない。


そして今回は、『セールスマンの死』について、私の大学生活(学生、研究者、教員としての)の出発点にあったこの作品について、記憶をあらたにできたことに、なつかしさとともに、個人的に感謝したい。

posted by ohashi at 19:29| 映画 | 更新情報をチェックする