2017年11月27日

『ノクターナル・アニマル』

トム・フォード監督の二作目は、予想外にすごい話しで圧倒された。第一作『シングルマン』も面白い作品だった。第一作の原作となったイシャーウッドの原作も読んでみたが、原作では最後に主人公は急死するのだが、自殺ではない。たしかに自殺を決意した主人公の一日にしては映画における言動はあまりに不自然すぎる。映画が、自殺決意という点を除いて、あとは原作に忠実になればなるほど、違和感が増していた。とはいえまたいっぽうで、自殺が映画全体に緊張感を付与していたのも事実で、ゲイ映画としても、そのメランコリックな喪の儀式(主人公の長年の愛人に対する)という主題に独特の哀調を付与することになった。


才能が二つもある人間は、ほんとうにうらやましいと、才能がひとつもない私としてはひたすら羨望の念のしか感じないのだが、今回は、前作からは予想もつかぬ展開に驚きまた感動した。


もちろん前作にあったおしゃれな生活空間やアートフルな雰囲気は横溢しているが、同時に、むき出しの暴力と救いのない死のテーマなど、メランコリックな雰囲気あるいは克服できない死のトラウマなどのテーマも重みを増している。いや、その重いテーマの部分は、物語の部分、つまり主人公の女性が読んでいる物語の部分での話なのだが、ああ、物語だったと思うよりも、むしろ、その物語の部分が、突出して全体を覆いつくすようなところがある。出てこようとしている物語なのだ(すみません。ヨーロッパ企画の『出てこようとしているトロンプロイユ』の影響をまだ受けている)。


美術館の学芸員か館長であるエイミー・アダムズのもとに元夫(ジェイク・ギレンホール)が書いて、今度出版されるという小説のゲラが送られてくる。読んで感想を聞かせてほしいということだったと思うが、その内容は、元夫の小説家の彼女への思いが描き込まれているという。そうなのかと、ゲラを読み始める彼女。彼女とともに観客も小説の世界に入り込むと……


夜のハイウェイ、妻と娘を乗せて走るジェイク・ギレンホール。進路を妨害する二台の車をどかせて追い越すと、今度は後ろからあおられ、車をぶつけられ、路肩に追い込まれて、あきらかにならず者というか、やさぐれた男たちに、車外に引きずり出される……


予想もつかない展開となる。これはエイミー・アダムズと彼女の元夫、ジェイク・ギレンホールとの間に実際に起こった出来事のことを描いたのだろうか。そうなると彼女の元夫と、彼が書いた小説の主人公のふたりをジェイク・ギレンホールが演じていることはわかるが、彼の妻をアイラ・フィシャーが演じているのは、なぜか、なぜ彼女をエイミー・アダムズが演じていないのか。どうやら小説に描かれている出来事は、元夫とエイミー・アダムズの実際にあった出来事とは異なり、元夫の頭の中の、いうなれば心象風景ということなのだろう。小説に描かれているのは実際の事件ではない。小説のなかの出来事、その暴力性と悲劇性、怒りと悲しみが、元夫がエイミー・アダムズに対して抱いている現在の感情とシンクロするということだろう。


このへんはわかる。ただ、問題は、ハイウェイであおられて、車をぶつけられ、いんねんをつけられて、車外に引きずり出される。そして命の危険にさらされる。これは、怖すぎる。現実に日本で同じような事件が起こったばかりだ。しかも、たまたま悪辣な人間が一般人に対して起こした例外的な事件というのではなく、似たような事件が続いて起こったし、いまも起こっている。高速道路にすくう悪魔。ああいう連中は一掃すべきだし、厳罰に処するべきだと怒りと恐怖を感じている日本人は多いと思うが、まさにその感性をいま、この映画から刺激されるとは!


ネタバレになるのだが、あるいは以下はネタバレになるかもしれないので、ネタバレ注意:Warning Spoiler


エイミー・アダムズは不眠症である。そのため注意散漫になるだけでなく、幻視までするようになる。いうなれば現実と夢/悪夢との区別がつかなくなる。この関係は、元夫が書く小説と実体験との関係と同じである。つまり実体験では、周囲の反対を乗り越えて愛のある結婚をしたのだが、生き方の違いというか、夢にみた結婚生活と結婚生活の現実との乖離、さらには女性の側にも自己実現の夢があり、それが結婚生活の障害となるなど、ある意味で、ありがちな過程をへて離婚へといたる。これが小説のなかではハイウェイで地元の不良に襲われえ、最終的に妻と娘を殺されるという事件に変貌する。娘? 実は実生活においても彼は娘を失っている。離婚後か離婚を控えてか、彼女は元夫とのあいだにできた子供を中絶しているからだ。小説のなかにおいて、なぜ、じぶんは死に物狂いで妻と娘を助けなかったのかという悲痛な叫びは、妻か元妻の妊娠中絶手術を止めようとして手遅れだったことの悲嘆とシンクロしているのである。


小説と実体験が、直接的ではなく間接的にあるいは象徴的にシンクロしていることがわかる。ただ、これは現実と夢との区別がなくなるということではない。そうなのだが、しかし、最近、絨毯の表と裏という比喩を使って小文を書いたこともあり、その比喩をここでも使えば、実体験と小説は、絨毯の裏と表ということになるとしても(もちろん地と図という比喩でも同じことがいえるのだが)、どちらが夢か確証はないのである。


つまり小説で描かれる暴力的な出来事が虚構化された裏、表は夫婦の出会いと終わりと悲劇的終わりという実体験となるが、これは逆ではないか。妻と娘をならず者に殺され、やがて復讐を終えてもみずから死ぬことになる男が、死ぬ間際に、あるいは事件が起こってから白昼夢のようなかたちで、夢見た、もう一つの現実ではなかったのでないか。


都会のソフィスティケートされた現代アートを収める美術館。いっぽうで田舎の殺伐とした荒廃した土地と社会。田舎のほうを悪夢とみることはできるが――悪夢にふさわしい不条理な暴力が噴出するが――、しかし、都会の美術館とその館長(学芸員主任)の生活のほうこそ、現実と遊離した、夢のような、また夢のようにはかない、あるいは薄っぺらい夢の世界ではないか。


つまりどちらが絨毯の裏か表かわからなくなる、あるいは両方の可能性があるところが、この映画の悪夢的特徴なのだと思ってしまう。この作品をジェンダー化すればバイセクシュアルなのだ。裏と表が反転する。そしていえることは、現実と悪夢との対立が交代するのではなく、どちらも悪夢にしかみえなくなる。不眠症に苦しむ人間が、いつしか現実も悪夢と化し、そしてもとからも悪夢と共存する。これも怖すぎる。


posted by ohashi at 17:37| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年11月18日

『ロミオとジュリエット』

カクシンハンの『ロミオとジュリエット』、一日限りの東京公演(絵空箱)をみる。これは113日から5日まで、カクシンハン主宰・木村龍之介氏の生まれ故郷である大分・玖珠町立わらべの館にて上演され、東京では1日限りの上演、一日3回公演となる。幸い、その日は一日あいていたので、また夜の回は満席だったので、午後1時の回でみることになった。


この公演の唯一の欠点は、公演場所の絵空箱が、英語英米文学関係で名高い出版社の近くというか、すぐ隣じゃん、であること。この出版社には不義理をしていて、その前をあせって素通りした。


「絵空箱」は、有楽町線江戸川橋にあるカフェバーで、演劇やダンス、パフォーマンス、

音楽ライブ、映像の試写会、絵画や彫刻等の個展などに貸し出されているとのこと。カクシンハンあるいは木村氏の好みかもしれないが、ピアノのあるサロンでの、ピアノ伴奏による朗読劇という体裁をとりながらの『ロミオとジュリエット』の上演で、くつろぎの空間でゆったりとした気分でみるパフォーマンスにこだわってか、当日は、ワンドリンク無料券が配られた。


このコンセプトは悪くない。たとえばブレヒトにとって理想の観劇とは、スポーツ観戦であって、選手のプレーに一喜一憂するというより、選手のプレーをわいわいがやがや講評しながら見ることこそ、劇の異化効果を最大限引き出す方法だった。サロンでの、ゆったりとした気分での観劇も、ある意味、どんなに舞台が熱く盛りあがっても、クールに知的に受容することを意図しているのではないだろうか。


ポケット版なので、ピアニストを除くとカクシンハンの4人で『ロミオとジュリエット』を演ずることになる。4人はカクシンハンのベストメンバーであり、河内大和、岩崎Mark雄大、のぐち和美、真以美。河内大和は、佐々木蔵之介主演の『リチャード三世』にも出ていたが、存在感のある俳優だが、ハムレットは似合っていても、河内ロミオが実現したら、ちょっと違和感があるので、今回は岩崎氏がロミオで、河内大和は脇にまわるという、ある意味ととても贅沢なパフォーマンスであった。


少人数で大きな作品を演ずるというのは、私はあまり好きではない。どうしても要約になり、また省略が多くなるからだ。だからKAATで観た『オーランドー』も、評判の舞台だったが、個人的には好まなかった。もちろん例外もあって昨年、世田谷パブリックシアターでみた野村萬斎版の『マクベス』は、5人で上演するもので、マクベス夫妻はそのまま、残りの役柄を3人の男性が演ずることになるが、この3人が3人の魔女の変容体でもあるということで意味付けはじゅうぶんにあり、また全体にお金をかけた大スペクタクルを展開したので、満足度はたかかったし、海外での公演も、この和風スペクタクルは、うけるだろうと納得できた。ところが毎年日本にやってきて56人の俳優でシェイクスピア劇を上演する、それも地域の公会堂以外に、いろいろな大学のキャンパスでも上演する劇団があるのだが、それは正直言って面白くない。演劇としてそんなにすぐれているとも思えない。やはりセンスの問題だろうか。カクシンハンの上演は、ポケット版という少人数による上演で、省略も多いのだが、そのセンスのよさで圧倒するし、省略があっても、シェイクスピア作品をまとまったかたちで受け止めたという達成感をもたせてくれる。それは、サロンでのピアノ伴奏付きの朗読からはじまって、いつしかそこがロミオとジュリエットの物語を幻視する空間へと変貌をとげるという構成となる。朗読にうながされて、観客は、そこに恋人たちの悲運の物語をたちあげることになる。


演出のすばらしさを例にあげればきりがないが、たとえば、最後に二人が死ぬ場面。最初にロミオが毒を飲んで死ぬ。このとき岩崎/ロミオは立って死ぬ。現実には立ったまま死ぬということは、ありえないのだが、ここでは立ち姿の死というのは妙に説得力がある。そしてつぎにジュリエットが短剣で自害して、ロミオに、まさに寄り添うようにして、これもまた立って死ぬ。二人の死が、二人の寄り添う立ち姿となって結実する。これは原作において最後に予言されている死んだ二人を記憶に残すための黄金の立像への暗黙の言及であろうが、同時に、立ち姿の二人の死は、二人が死ぬことによって、伝説あるいは神話的存在となり、まさにサロンの装飾的な彫像化することも暗示している。またこの暗示性は、さらにいろいろな解釈や意味を引き寄せることになろう。こうした演出あるいは構成は、イギリスからやってくる中途半端な劇団の上演など足元にも及ばぬ芸術性あるいは演劇性を獲得している。


なお金曜日の午後なので、観客には私のような年寄りも多くいたのだが、若い人から中高年までに愛される上演となっているのは、カクシンハンの将来の大いなる可能性を暗示しているように思う。


追記

公演のあと、時間があったので大学に立ち寄ることにした。研究室にむかう途中、知り合いの学生にばったり出会った。彼女をうらやましがらせようと、いまカクシンハン公演をみてきたばかりだと話したら、その公演のことは、知っていたが、金曜日は授業があって見に行けなくて残念だということだった。ただ、ただ?、ワークショップには出席したとのこと。え、ワークショップ? そう、カクシンハンの木村龍之介氏は、公演に先立ってか、公演とは別個に演劇ワークショップを開催していて、そこに参加したとのこと。複数回。しかも彼女から聞いた限りでは、あと私の知っている二人の学生も参加していた。はっきりそうだと言っていなかったが、どうも、私の授業よりも、木村氏のシェイクスピアのワークショップのほうが面白いみたいで、軽い嫉妬すら感じている今日この頃である。

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posted by ohashi at 20:39| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年11月17日

『出てこようとしているトロンプロイユ』

ヨーロッパ企画第36回公演『出てこようとしているトロンプロイユ』を見る。本多劇場での東京公演は終わっているので、1119日までの神奈川芸術劇場の公演を見る。大ホールの公演で、そんな大掛かりの公演かといぶかったが、エスカレーターで上がっていくと、いつもは左手にある受付が、右側にある。今年のKAATの公演『春のめざめ』のときと同じで、大ホールを区切って使うときの受付である。会場は、こじんまりとしていて、どこに座っても舞台がよくみえるようになっている。


ヨーロッパ企画の公演は前からのぞいてみようと思っていたのだが、チャンスがなく、今回、たまたま機会にめぐまれた。評判どおり、めちゃくちゃ面白い。笑いを喚起する工夫にみちていて、客席から笑い声が絶えない。私も自然と笑うことができた。


公演前の舞台については、ホール内に入ると、おどろく。舞台装置がリアルで、第四の壁を想定して、きっちりディテールまでがつくりこまれている。絵画とのアナロジーで言うと、現在の小劇場あるいは中劇場は、抽象絵画が主流である。もちろん俳優が演ずるので抽象絵画というと語弊があるかもしれないが、ただ、時代設定もぼんやりしていて(たとえば漠然と現在の日本とか)、さらに時代も国籍もわからない無国籍で、イメージ喚起力はあっても、ローカルな具体性を示さない演劇世界ということを抽象絵画的といえば、今回の舞台は、舞台のつくりこみという点において具象絵画的であった。老画家が死んだあと、その画家の部屋を訪れた大家と、その店子たち(彼らも画家)が、遺品を整理しているうちに……という物語なのだが、遺品の絵画ひとつひとつが、この作品のために描かれつくられていることに驚く。もちろん、その遺品の絵画がひとつひとつに意味が出てくるのだが。それにしても、台本のつくりこみはふつうのことだとしても、こうしたプロップへのつくりこみまでなされていることは特筆すべきことだろう。


ただ内容はSF的というよりも形而上的コントである。コントの部分は、おもしろすぎる。喜劇の部分は、もう完成の域にきていえ、笑いのツボなどをすべて心得ていて、こんなにもスムーズに笑いを引き出す演劇術に驚きあきれるほかはない。そしてメタフィジカルな部分も、説得力がある。もちろんこれはオブジェクト・レベルとメタレベルの話を、だまし絵とからめていて、二次元のものが三次元であるかのようにみせるのが「だまし絵」であり、また一瞬、本物かと思うと、実は二次元の絵であったとわかるところにだまし絵の真骨頂があるとすれば、そもそも「でてこようとしている」というのが、あるいは「でた」と思ったら「でていなかった」というのは「だまし絵」の基本条件だといってよく、そこから生ずるドタバタが劇の中心となっていく。


つまりこのSF的、形而上的設定が、笑いをアフォードする。つまり、この設定にひそむ笑いの可能性を徹底して顕在化することで喜劇が成立しているといえようか。形而上的設定は、あるいはタイムマシンのようなSF的設定と喜劇性は、相補的である。もしその設定をつきつめれば喜劇あるいはスラップスティックしかなくなることで、逆に状況の意味を顕在することにもなる。


とはいえ、これについて説明すればするほど、めんどくさくなってわからなくなると思うでの、原作は刊行され、舞台のDVDもいずれ発売されると思うので、それを読んだり見ていただくか、まだ続いている全国公演(KAATでの公演も19日まである)をみていただくほかはないが、面倒くさい、メタシアター的状況を、見ている者が、きちんと説明できるまでになるのは、作品の構築がすぐれているからであろう。


見る者は、誰かに見られている。その見ている者も、また上位の誰かに見られている……。となるとこの無限後退あるいは無限上昇、まさに「無間地獄」ともいえるような状況は、どこで終わるのか、結局、終わりがないのかという問題を、時間を逆行させて同じ登場人物をつかって世界を作り変えるという展開は、個人的なことで恐縮だが、メタ的なもの(メタシアター、メタドラマ)から出発して、アダプテーションに興味をもつようになる私の知的関心の軌跡と一致していて、個人的には感銘を受けた。

posted by ohashi at 10:04| 演劇 | 更新情報をチェックする