2017年08月17日

『タイタス・アンドロニカス』

カクシンハン公演『タイタス・アンドロニカス』(814~20)を吉祥寺シアターでみる。5周年記念公園ということで、もう5周年かという思いが強いが、カクシンハン版『タイタス・アンドロニカス』は新宿三丁目の遊座で上演したものもみているが、今回、劇場も大きくなり、またスケールや仕掛けも大きくなった。


吉祥寺シアターはスタジオのような小劇場とは違うが、かといって大劇場でもないと思っていたのだが、今回、客席は、ギャラリー席、さらには立体的に活用された舞台を目の当たりにすると大劇場の公演であるかのような錯覚を覚えた。


前回の『タイタス・アンドロニカス』も面白かったのだが、今回は、さらにいろいろな趣向が加わり、しかもいつものようにシェイクスピアの台詞は、これ以上ないともいえるほど丁寧に扱われ、鮮明に発せられていて、見どころの多い感動的な舞台だった。


私がいつもバカペディアと呼んでいるウィキペディア日本版の『タイタス・アンドロニカス』にはこうある――


シェイクスピア全作品中、最も残虐で暴力に溢れているという点で異質な戯曲であり、そのため最近まで上演される機会も少なかった。だが20世紀後半以降は徐々に上演が増え、近年では2006年にイギリスにて、ロンドンのグローブ座での上演、ストラトフォード・アポン・エイヴォンで行われたRSC主催のフェスティバルに招聘された蜷川幸雄演出版の上演が共に注目を集めた。


この記述によると「最近まで上演される機会も少なかった」とあるが、その最近とは20世紀前半ということみたいで、雄大な時間感覚に圧倒されるが、「上演される機会が少ない」というのは嘘である。カクシンハン版も2回めだし、個人的なことをいえば私は大学院の修士課程で、翻訳劇の『タイタス・アンドロニカス』をみている。劇団昴が、いまはなき三百人劇場で上演したもので、大学院の授業のあと地下鉄にのって見に行ったことを覚えている。タイタスは石田太郎が演じた(銀座セゾン劇場版とはちがう)ことも覚えている。2006年のフェスティヴァルでの蜷川版『タイタス』もふくめ、この「シェイクピア全作品中、最も残虐で暴力に溢れている」この作品は、現代性がかわれて、よく上演されているのである。


しかし、それだけではない。作品の梗概を知れば、ただ、必要以上に残酷・残虐なだけで、けっこう一本調子の芝居ではないかと予想するかもしれない。タイタスとその子供たちを襲う悲劇、そしてタイタスの度を越した悲嘆は、確かに、圧倒的だが、それだけではない。素朴な、あるいは未熟な劇作術なのか、それとも洗練された劇作術なのか、どちらともとれれるし、またどちらでもない、不思議な展開をする。


たとえばタイタスはあまりに残酷な仕打ちに狂気に陥るのだが、狂気が度を越してブラックな笑いを誘うまでになる。そうなるとこれは現代の不条理演劇に限りなく接近するのだが、気づくと、タイタスの狂気は敵を欺くための戦術であることもわかる。なんとも一筋縄ではいかない作品なのだ。


したがってカクシンハン版『タイタス・アンドロニカス』を通して、はじめてシェイクスピア作品に接する観客は、さまざまな趣向が凝らされ、原作にいろいろ盛られていると思うかもしれないが、もちろん盛っている部分も多いが、同時に、これはやりすぎだろうとか、これはおかしすぎるという趣向は、実は、原作に忠実な演出なのである。カクシンハン版で使われている松岡和子氏訳の『タイタス・アンドロニカス』をぜひあわせて読まれることを。変だと思ったところは、実は、原作通りであって、驚くと思う。


『タイタス・アンドロニカス』という、粗雑なのか洗練されているのかわからない不思議な芝居は、現代風の趣向が満載で、ブラックな笑いも盛り込み、同時に、悲劇的悲嘆の極致を追及するというカオス的・祝祭的カクシンハン演劇と、妙に性があうといえるかもしれない。演出のほうは、どんどん暴走して原作の束縛から逃れ自由な趣向を追及していくのだが、気づくと、原作に忠実な演出になっている。ブラックでポップで不条理な演劇。まさにシェイクスピアは、カクシンハンのために、この『タイタス・アンドロニカス』を創作したのだ。そう私は信じている。



河内大和のタイタスと真以美のラヴィニアは予想通りの俳優だが、前回の『タイタス・アンドロニカス』(河内大和のタイタス)と比べると、カクシンハンは第二期に入ったのではないかと思えるようになった。演出も違うが、演者たちも様変わりしているところがある。


その一番の特徴は、前回には出演していない、岩崎MARK雄大の活躍だが(今回のエアロンははまり役だと思った)、同時に、岩崎君(といわせてもらうが)が、素晴らしい俳優になった。カクシンハンの顔とも言えるし、またカクシンハン以外にも活躍の場が増えることをほんとうに願っている。


彼の英語の語りは、私にはよくわかるが(英語もきれいだし)、一般の観客には、絶対にわからないか、わかりにくいと思う。そこで、今回は通訳が入った。舞台に通訳として登場したのは演出の木村龍之介氏で、たぶん、彼はいまでこそ演出だが、これまで舞台に立ったことがあるにちがいないという落ち着きとたたずまいで、通訳の役をこなしていたが、やがてお約束というべきか、途中で通訳のほうが思わず英語で岩崎氏に話しかけると、それまで英語で話していた岩崎氏が、日本語をしゃべりはじめ、どちらが通訳かわからなくなる。またこのときわかるのである。木村龍之介氏も英語が上手いということ。


岩崎雄大君と、木村龍之介君、どちらも東大英文の卒業で、あれだけ英語が流ちょうに話せるというのは東大英文の誇りである。文学部卒業生インタヴューにも出てもらいたい気がするのだが、このところインタヴューには、英文の卒業生がつづいているので、すぐにというわけにはいかないのだが。


最後に、今回、はじめてみた大洞雄真君。彼のことを子役といっていのだとすれば、この子役、まさに神童じゃないかと思われるくらいの演技で驚いた。

posted by ohashi at 07:25| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

SF映画二篇


『スターシップ9』(2017 スペイン・コロンビア映画)

Orbita 9

予告編からもだいたい予想がつくと思うので、驚きの展開といっても予想済みである。以下ネット上にあったコメントの一部だが、これなどははっきりいってステマの一種だろう。


さて、開始20分でショックシーンといったが、その後も観客をあちこちにふりまわす同レベルの驚きが仕掛けられ、まったく退屈することはない。 //ラストもこの監督は、ちゃんと言葉ではなく絵で必要十分な物事を観客に伝え、きっちり結末をつける。//ストーリー全体の解釈としては、恋愛ものとして見る視点ももちろんあろう。私などはそれに加えて移民問題についても考えさせられた。//とくにこの映画がユニークなのは移民問題を移民の側から考え直した点で【中略】//「スターシップ9」は、テクニカル的にも良くできているし、意外性と満足感の高いエンディングもすばらしい。この夏見られるSF映画としてはかなり良い部類に入る。 //それにしてもNetflixが手がける映画はいま、「BLAME!」にしろこれにしろ、実に勢いがある。もはやそのブランドで見ようと思えるほどである。


私は自信をもっていえるが、そんなにすごい映画ではない。理由はアイデアがないことである。最初の驚きの――かなり予想できるものだが――のあと、次の段階でどうなるのか、明確なプランがないように思われる。いや、あるのかもしれない。愛は地球を救うというような。しかし、それはノープランに等しいだろう。次の段階が無計画・無策で、最後のところで取引をして、解放のテーマめいたものを暗示して終わる。


上記コメンテイターも「ラストもこの監督は、ちゃんと言葉ではなく絵で必要十分な物事を観客に伝え、きっちり結末をつける」と書いているが、絵で示すことはたしかだが、その絵が鮮明ではない。まあそれは説明不足を、設定をぼかすための方便である。低予算だがら、たとえば地球にどのような異変が起こったのか逆に絵で示すことができずに言葉だけである。


上記コメンテイターは移民問題がどうのと書いているが、それがテーマとなっているとも思えない。移民ではなく移住はテーマかもしれないが。これは昔のSF小説ではなつかしい。世代交代宇宙船物であって、遠い惑星に行くいまひとつは、『パッセンジャー』の宇宙船であるところの冷凍睡眠状態での飛行である。世代交代宇宙船なのに少女一人というのも変な話だし、そこに修理のために他の宇宙船からエンジニアがやってくるというのも変な話だ(いや別に意地悪くあら捜しをしなくても、たとえばあんなに皮膚が弱くては、未知の惑星に移住することなどむりでしょう。そもそも皮膚を脆弱なままにする実験というのはどういう意味があるのだろう)。


またこの映画『テンペスト』のヴァリエーションともなっていて(これを書くとネタバレになるのでやめる)、そこに新鮮味はない。また映画の王道である少女物にしてもよかったのだが、それも後半では生かされていない。


低予算映画なので実際、ロケ・レベルでいえば、この映画、学生が創る映画とかわりない。つまり予算がないせいか、チープな背景とか舞台設定が目立つ。べつに低予算映画が悪いということはない。予算がなくてもアイデアがあればいい。予算がなくても迫力があればいい。このふたつをこの映画は欠いている。残念な映画だった。


これを毎日数回上演するくらいなら、つぎのロシアのSF映画『アトラクション』を毎日上演したほうがいいのではないか。驚異のCGをみることができるし。


付記:朝一番の回でもあったのか、よくわからないが、ヒューマントラスト渋谷のスクリーン3、ほぼ満席か満席状態だったが、私の見る限り、最初は、女性がひとりもいなかった。若い男性もいなかった。中年からジジイまでの男ばかりだった。開映間際になって女性が三人か四人にふえた(とはいえ五人はいなかった)。SF映画というのはオジサンかジイサンに人気のあるジャンルなのだろうか。


『アトラクション―征圧―』

PrityazhenieAttraction


こちらはロシアのSF映画で、予算があって高精度のCGを使って観る者をあきさせない。といいたいのだが、観客として、SF映画だとしてもどういう映画なのかとまどうことがあり、視座が確定しない。最終的にヤングアダルト映画だとわかるときにはもう映画がおわりかけている。


ただ、冒頭のシークエンスは、これぞSF特撮スペクタクル映画だといえる迫力がみなぎっている。隕石雨の話を高校の科学の授業でしている。隕石がたくさんふってくる。それって『君の名は。』を思い出した。ただ、隕石雨だけではない。『君の名は。』の魅力が、明るく鮮明なアニメ画面で、しかも実写かと見まごうリアルさであったことを思いうかべたのである。このロシア映画も、画面が実に鮮明で、CGらしがみじんもない。また出てくる宇宙船のデザインも斬新で、その巨体が都市の上空にあらわれ徐々に降下して建物を壊しながら墜落するまでのシーンは、実に見事の一言に尽きる。


隕石雨にまじって謎の飛行物体が宇宙から飛来、ロシアでは空母アドミラル・クズネツォフのスキージャンプ甲板からSu33(スホーイ27ではなくて、33だと思う)を発艦させる。Su27系列の戦闘機は世界中にファンがいる。今回、実際に飛行しているスホーイ33をみて、かっこよすぎておしっこをちびりそうになった。あとカモフの二重反転式ローターの攻撃ヘリコプター(Ka50Ka52)。見かけはよくないけれど、実際に飛行している姿は、けっこうさまになっている。まあプラモデルでスホーイ33はいろいろなスケールのものが販売されているが、カモフは調べてみると小スケールで出ている。小さいから安い。今度、買ってみようかともも思う。


閑話休題。この謎の飛行物体が、攻撃をうけて、モスクワの北にある都市にゆっくりと落ちてきて、高層マンションなどを破壊、都市の一画を廃墟と化す。この墜落シーンもすごいのだが、そこからさらに飛行体の中から不気味な姿の宇宙人――これまで見たこともないような面妖な生物あるいはロボットもしくは宇宙服にもみえる――が登場し、地区の軍の責任者と下院議員とファースト・コンタクトする……。ここまでが面白い。だが以後の展開は予想を裏切るものだ。


映画は、若い女の子とペットの犬が大規模な団地を背景として、過去の思い出を語るシーンからはじまる。場面は高校の授業。そこで教師の話をそっちのけにしてボーイフレンドの話をしている女子生徒のふたり(そのひとりが飛行体の墜落に巻き込まれて死亡)が、どうやら物語の中心となることがわかる。女子高校生の父親は軍の幹部、また彼女は不良グループの男とつきあっている。飛行体墜落の大迫力場面は、実は、彼女が自宅で、この男とセックスをしている場面と交互にスクリーンに登場する。しかし観客がみたいのは、こんなバカップルのセックス場面ではなく、見事なCGで描かれる巨大飛行体(とはいっても映画『インデペンデンス・デイ』に出てくるような巨大宇宙船ではない。真上から落ちてくれば高層マンションをひとつ下敷きにする程度の大きさ)墜落のシーンなのだが、この思いは、墜落後の展開にも引き継がれる。


実は彼女と不良グループが暴走しないと物語が混迷を深めつつ先に進まないことはわかる。このバカグループの活動というか活躍なくして、この映画が成立しないことがわかる。最終的に彼女の中心としたヤングアダルト映画だということがわかる、というかそういうふうに観客の頭をリセットするまでに時間がかかるということである。簡単にリセットできる観客と、それよりもリアルなSF映画をみたいという観客の間に、評価の差があらわれるのではないかと思う。


終わり近くで、主人公の女性は宇宙人に、ロシアではなく別の国に墜落すればよかったと語るのだが(宇宙人とロシア語で語りあえるというのも最初には予想できなかったことだが)、たしかにそれは一理あるのだが、同時に、この女子高校生と不良グループが当局の目を盗んで不法行為に走らなければ、こんな面倒なことはおこらなかった、おまえのせいだぞ、と、その女の子や不良グループにつっこみを入れたくなる。さらにいえばその女の子と、父親(地区の軍司令官)とのこじれた親子関係がなければ、問題はもっと早く解決されたことはわかる。つまり観ている側は、いらいらする。通常は軍の抑圧的・統制的性格が宇宙人と地球人とのコミュニケーションを阻み、問題を生じさせるのだが、ここではバカ不良グループが、こそこそ動きまわることで、問題がこじれてくる。


好意的に解釈すれば、謎の飛行体墜落後の社会の混乱を、ある意味、シミュレーションするために、実は不良グループは必要とされたともいえる。確かに興味深いのは、ロシアも、現在の他の世界とあまりかわらないことである。つまり、右傾化していて、ポピュリズム、扇動家、ヘイト・グループが跳梁跋扈する。アメリカもロシアも、日本も、イギリスもフランスも、かわらないことが、この映画からわかる。つまりドキュメンタリーではないのだが、これは日本に堕ちてきても、同じような展開になることがわかる。ネトウヨが市民を扇動して、宇宙人ヘイトへと走るだろう。ロシアも日本もかわりはない。この狂気を生き延びる道を教えよ。


もうひとつは、ここでもまた『テンペスト』のパターンが、アメリカ映画のこの手のSF物のパターンともども踏襲されている。なにか最初は観たことがないような驚異的CGの新しい世界が展開すると期待できたのだが、最後にはThe Same Old Storyという落胆が支配的にとなる。


『テンペスト』に関して言えば、プロスペロが父親で軍司令官の大佐。ミランダが、その娘となり、彼女が外宇宙から到来した宇宙人=ファーディナンドに惚れてしまう。いっぽうキャリバンは彼女のボーイフレンドであり、不良グループのボスともなり、最後の最後まで、ミランダ、ファーディナンド、プロスペロを苦しめる。


クロエ・グレース・モレッツ主演のSF映画『フィフス・ウェイブ』は、地球を襲ってきた異星人たちが第一波から第四波まで攻撃をしかけてくる。この映像はかなり衝撃的で、地球の多くの部分が廃墟となっていくさまを冒頭の短い時間で一挙にみせる。そして最後の第五波が迫りくるというところから映画ははじまるのだが、衝撃的な映像は、ここまでで、あとはとりわけスペクタクルなシーンもなく、異星人に征圧された地球での若者たちの逃避行とレジスタンスということになる。原作はヤングアダルト小説。映画は、さらにつづくというかたちで終わるのだが、続編はつくられてはいないようだ。予告編でも使われる驚異的な映像は、冒頭のみで肩透かしをくらうのだが、ヤングアダルト映画であることは最初からわかる。見る側のクロエ・グレース・モレッツが出演していればそれでいいのだから(これは私のことだけかもしれないが)、彼女の顔をみていればそれでよく、いらいらすることもない。むしろ若者たちがいかに暴走しても、確立された異星人の支配体制はゆるがないかにみえるので、逆に、若者たちの暴走を、応援したくなることはあっても、そこに不快感はない。ジャンルの規制を明確にして期待の地平を制約するからである。


ところがこのロシア映画は、期待の地平の制約感がない。むしろ冒頭から期待マックスで展開する。いや飛翔体の墜落と若者のセックスシーンが同時進行することからも、彼ら二人がこれから主役になることはわかる。しかし彼らは善人ではない。彼らは猫を助けない。むしろ猫(この場合は地球人の女性)を助けるのは宇宙人のほうである(宇宙人はまた犬も助ける)。そして助けれてくれた宇宙人を今度は助けることになる女の子の、この二人が観客のシンパシーの中心となるのだが、しかし、女の子は父親と仲が悪い。人間関係も、プロットも、ずっとこじれたままである。


結論として、これは日本の技術をつかってアニメ化しても面白かったのではないか。それこそ新海誠風のアニメ映画としたほうが、登場人物全員のアクの強さが薄まって、宇宙人と地球人少女との愛が世界を救う物語になったのではないかと思う。とはいえアニメ版は実写版にくらべると驚異の度合いは薄まるのだが。

                       

posted by ohashi at 10:06| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月15日

『ハクソー・リッジ』

モグラ戦

 戦争映画のファンではないし、ましてや戦争についての専門家ではないが、第二次世界大戦中の日本軍陸軍の戦い方の表象について、日本映画では、敵との撃ちあい、白兵戦、敵の強力な火力の前に犠牲者の山、英雄的行為による勝利、恐怖のあまり硬直する新兵、敗北を予感して自決など、いろいろなイメージがあるが、日本人の観客として、地下通路をはりめぐらせ、砲撃があれば地下深くに待機して、砲撃が止んだら進出してくる歩兵に対し奇襲攻撃をかける。神出鬼没なその行動で、敵をさんざん悩ませる。というイメージは、日本の陸軍の戦闘イメージではない。


ところがアメリカ映画では、ずっとこうなのだ。クリント・イーストウッド監督の硫黄島の戦いを描く二部作でも、地下トンネルを巡らせて攻撃する神出鬼没の日本の守備隊が描かれた。『ハクソー・リッジ』の沖縄戦でも、日本の守備隊は地下トンネルを構築して、艦砲射撃によって損害を受けることがない。どちらも史実に基づいていると考えたい。実際のところ、朝鮮戦争における共産軍の攻撃は、逃げも隠れもせず、ただ横一列に並んで防御することもなく押し寄せるという恐怖の人海戦術だった。だから朝鮮半島と硫黄島や沖縄では戦い方が違うのだろう。


しかし気になることもある。メル・ギブソン主演の『ワンス・アンド・フォーエヴァー』We Were Soldiers(2002)は、1965年のヴェトナム戦争中のイア・ドラン渓谷の戦いを扱った映画で、北ヴェトナム軍との激戦(双方ともに多くの犠牲者を出した)、「ブロークン・アロー」命令を出すまでい追い詰められる米軍、また兵士たちの家族(米国の陸軍基地の周辺か基地内に居住し、同じ舞台の兵士たちの家族は皆隣人という状況)の生活、さらには戦闘終了後、戦場にメディアを招いて状況説明するというような、従来の戦争映画で描かれることのない部分も映像化されていて、変にリアルな映画だった。この映画、どういうわけかテレビで放送されることが多く、私もはじめて観たのは旅先のホテルのテレビ(地上波での放送)だったが、その後、自宅のテレビでもみることになった。


で、このメル・ギブソン主演の映画では、北ヴェトナム軍は、洞窟というか地下トンネルに身を潜め、まさに神出鬼没な動きと攻撃で米軍を苦しめる。これも史実にも基づいているのだろうか。どっちが先かわからないのだが、つまりヴェトコンや北ヴェトナム軍の地下トンネル・モグラ戦術が、時代錯誤的に過去に投影され、硫黄島とか沖縄戦でもモグラ戦術に光があたったのか。あるいはその逆で、硫黄島とか沖縄戦の日本軍の戦い方のイメージが、ヴェトナム戦争の映像化においてリサイクルが起こったのか。映画『野火』では日本軍は敗走しているだけだが、地下トンネルは作らなかったのだろうか。映画『太平洋の奇跡』ではサイパン島で洞窟らしきところに司令部があったようだが、そこで司令官南雲中将は玉砕する前に先に自決し、あとは全軍の兵士が平原で突撃する。地下道は存在しない。地下道はオリエンタリズム的表象ではないかとも思うのだが。


無謀な突撃

 一方、攻める側だが、最初に砲撃をして敵の陣地を叩く、次に歩兵隊が突撃して敵陣を征圧するという、常套的な作戦だが、映画では、砲撃によって征圧ができず、歩兵同士の白兵戦となるのも常套的な展開である。ハクソー・リッジの場合、断崖絶壁の一部に縄梯子的なロープがすでに垂らしてある。先遣部隊が創ったのか。あるいは米軍を何度も撃退した日本軍が、なぜロープの梯子をすきをみて外さないのか、わからないことが多い。ただ絶壁を上った台地での戦闘で米軍は、地下にはりめぐらされた坑道に潜んで砲撃によるダメージを受けない日本軍の攻撃によって最終的に撤退を余儀なくされる。


しかも台地に米兵が残っているときに艦砲射撃を要求するほど、逼迫した状況に追い詰められる。これは、先ほど述べた映画『ワンス・アンド・フォーエヴァー』We Were Soldiers(2002)におけるブロークン・アローのシークエンスを思い起こさせる(なお「ブロークン・アロー」というのは核兵器の紛失事故を意味する暗号名ということらしいが(実際『ブロークン・アロー』という映画もあった)、この『ワンス……』では、窮地にたった軍隊が味方への被害を承知のうえで航空攻撃を要請するコール・サインとして使われていた。その用法でいいのかどうかは不明だが)。


いっぽう砲撃を避けて地下壕に逃れた日本軍が砲撃が止んで砲兵が進軍してくると、それを迎え撃つというシークエンスは、砲撃後の突撃のタイミングがずれて迎撃準備が完了した敵前に歩兵が突撃して甚大な被害を出したという第一次大戦中のガリポリの戦いをほうふつとさせる、というかメル・ギブソン主演の映画『誓い』(第一次大戦の激戦地であった「ガリポリ」が原題で、監督はオーストラリア出身のピーター・ウィアー)が、オーストラリア兵の悲劇を描くものだった。『ハクソー・リッジ』は、メル・ギブソン主演のふたつの映画『誓い』と『ワンス……』の遺伝子を受け継いでるとでもいえようか。そして突撃するオーストラリア軍の歩兵の悲劇は、オーストラリア出身の俳優をつかったアメリカ軍の突撃の映画へと変貌を遂げた。



オーストラリア映画

メル・ギブソン監督だからということではないが、オーストラリアの俳優は多い。


主人公のデズモンド・ドス/アンドリュー・ガーフィールドは『スパイダー・マン』や遠藤周作原作『沈黙』でおなじみだが、その父親トム・ドスはオーストラリア出身のヒューゴ・ウィーヴィングが演じている(年取りすぎていて、最初、誰だかわからなかった)。


ドス/ガーフィールドの恋人で妻となるのがオーストラリア出身のテレサ・パーマー。彼女は『ロミオとジュリエット』のゾンビ版である『ウォームボディ』でジュリエット役だったし、さらには『Xミッション』や『トリプル9』でも観ているはずだが、あまり覚えていない。また私が、一応、理由があって引き合いに出すことが多いオーストラリアの学園映画『明日君がいない』では彼女は主役だった。
部隊長のグローヴァ―大尉は、オーストラリア出身の有名な俳優サム・ワージントンが演じている。このほか軍曹役ヴィンス・ヴォーンが出ている(私の印象に残っているのは『サムサッカー』と『ドッジボール』という、いまから10年以上も前の映画だが)。
こうしてみると主要な俳優たちは、よく知られた中堅俳優といってよく、それがこの残酷で、ある意味、悲惨な戦争映画を、安心してみることができるエンターテインメント映画にしているといえようか。しかもメル・ギブソン監督の仲間かもしれないオーストラリア人俳優たちがアメリカ人を演じている。実際、一瞬、この軍隊はオーストラリア軍かアメリカ軍かと、ふとわからなくなるときがある。

変人

 主人公は「良心的兵役拒否者(Conscientious objector)」なのだが、その彼が陸軍に志願したというのは、誰もが思うことだが、なにを考えているのかということになる。衛生兵となって負傷した兵士を救うという志は立派なものかもしれないが、衛生兵も自己防衛用に武器を扱うこともあり、その訓練もあるのだろうから、それをわかっていて志願・入隊し、兵器は手に取らないというのは、ほんとうに迷惑な人間である。ただ実際に衛生兵は戦場では武器をもたないようだから、最初から衛生兵志願者として、その訓練を集中的に受ける、あるいは受けさせれば、周囲も迷惑しないと思うのだが、またほんとうにこんな頭のおかしな迷惑を者を除隊させることができなかった米国陸軍は、おかしいのではないかと思う。


おかしいといえば、主人公は「セヴンスデー・アドヴェンティスト教会」(SDA)の敬虔な信徒ということだが、このアドヴェンティストというのは、よくわからず、調べてみても、キリスト教系新興宗教で異端か正統かは意見が分かれているようだ。これもおかしな話である。私の見るところ、異端の新興宗教だろう(だからといって悪いとか、いけないということではない)。


とにかく主人公は頭がおかしい。良心的兵役拒否者であるのはいい。だったら、その反戦の姿勢をつらぬけばいいのに、志願して入隊するとは。もうめんどくさい行動をとるなといいたくなる。また軍隊で周囲に迷惑をかけるために入隊したのではないだろうが、結果的に、ものすごい迷惑をかけることになる。しかも異端的新興宗教の熱心な信者。


ああ、これが実話でなかったらいいと思う。というのも変な新興宗教の信者、その信仰のせいか、良心的兵役拒否者にもかかわらず、志願して、戦地へ。そこで衛生兵として多くの負傷兵を助けたというのが実話での因果関係であり、それはまた特殊例として強調されることになるが、しかし、これが実話に基づくものでなければ、特殊例としてではなく、通例として考えられていたかもしれない。


というのも、このように戦地において、なおざりされる人命を、任務の範囲を超えて助けることは、変人か狂人でなくてはなしえないとみなされるからだ。戦争という狂気のなかでは、人命救助という行為そのもの(味方を支援するという意味では戦闘行為だが、彼のように味方を重視するが場合によっては敵も助ける無差別な救命行為)が、正気ではなく狂気とみなされるからだ。あるいは新興宗教に洗脳された変人か狂信者とみなされるからだ。


だから戦争という狂気のなかで、戦争に反対する、あるいは戦争行為とは逆のことをする者は狂人か変人扱いされる。今回の場合、良心的兵役忌避者ながら陸軍に志願して、結果的に75人の負傷兵を後方に送って助けたという奇跡的な偉業によって勲章までもらったのだから、戦争に反対しているのか協力しているのか、よくわからない変人の行為、あるいは反対か協力かの区別がつかない脱構築状態なのだが、聖人か、いかがわしい偽善者なのか、いずれにしても、戦争という狂気のなかで、正気を保つものは、変人、狂人、いかがわしさという負のイメージを点けられる。


今回は、それが実話に基づくというせいで、変人イメージが押し付けられるというよりも、ただの変人でしかなかったが、これがフィクションなら、正気の人間に変人イメージが押し付けられるという、まさに狂気が前景化されていたはずである。


この映画、内向的で自己表現が下手な主人公――のちの妻になる女性、テレサ・パーマーというちょっときつめの女優が演じている彼女に対しては、ひるむどころか押しの強さ丸出しだったが――が、危機に対して、誰もがもちえなかった強さを示すという点で、『風と空と星の詩人』のユン・ドンジュンの、内向的で繊細で誤解もされやすいが弾圧に対してはひるむことなく抵抗するという人物像に通ずるものがある。


どちらも現実の人物は、映画のなかよりも、もっと表面的にも強い人ではなかったのかという感じもする。とまれ周囲から変人あつかい異物扱いされる人間が英雄になる。


善き人

 他方で、この映画は、衛生兵と兵士、殺戮と救命という相反する行為、あるいは大量殺戮のなかの救命を描くことによって、最近、ずっと気になっている「善き人」あるいは「正義の人」のテーマと繋がっている。ホロコーストのなかでユダヤ人を助けたりかくまったりした「善き人」「正義の人」のテーマは、戦闘行為と変人の衛生兵という対比のなかで表象されているのではないかと思う。この点は、今後も考える余地がある。


その意味で衛生兵というのは興味深い存在である。クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』でも、中心はライアン・フィリップ演ずる海軍の衛生兵であった。衛生兵からみた戦争。そして沸騰するお湯のなかの氷、あるいは氷山のなかの沸騰する湯のようなパラドクシカルな存在様態である衛生兵は、いまひとつの戦争の姿、戦争の裏面へといたるへの回路ではないだろうか。


結果的に『ハクソー・リッジ』の主人公は、勲章をもらい戦争における英雄として、戦争と国家に包摂されてしまう。人命救助が、国家による殺戮への批判と抵抗行為であったとしても、それも国家と権力の側に呑み込まれてしまった。


衛生兵ではないが、第一次世界大戦中に看護師として大陸に渡った英国人女性を、アリシア・ヴィキャンデル(主演)が演じた『戦場からのラブレター』(Testament of Youth2014日本では劇場公開されなかったがDVDは販売されている)の最後のシーンを思い出す。


(ちなみにアリシア・ヴィキャンデル、調べたら彼女がAIを演じた『エキス・マキナ』が山のように賞にノミネートされたり受賞しているが、あれはそこまでいい映画だったのだろうか)。また最近では斉藤由貴が不倫相手とみたという、マイケル・ファスベンダー、ヴィキャンデル主演の『光をくれた人』が話題になったが、芸能スキャンダルには詳しくても、映画など観たこともない芸能記者が、観ていないことを公言したうえで、ロマンス映画だと書いていたが、流産をして子供ができない灯台守の妻が、たまたま海から流れ着いたボートに乗っていた赤ん坊(その父親らしき人物は死亡)を自分の子供として育てるという内容の映画のどこがロマンス映画なのだろうか、まあ不倫をしない夫婦愛の映画だが)。


『戦場からのラブレター』の最後の場面。第一次大戦終戦直後、英国では、敵国だったドイツに対する憎悪が消えるどころか大きくなり、街の集会場では、家族を戦争で失った者たちが敵国を呪詛しているのだが、看護師として大陸に従軍し疲弊して帰国したヴィキャンデルも、思い余って登壇する。


自分は看護師として大陸にわたり戦争の悲惨さをつぶさにみてきた。戦争が始まった頃は、半年くらいで終わると思っていたし、自分の弟にも、男だったら戦争に行くべきだったと従軍することをすすめた。戦争に協力することが義務だったと思っていた。だが、弟は戦死した。戦場で死にかかっていたところを看護して回復した弟だったが、ふたたび戦場におもむけ戦死した。自分の幼馴染だった男も戦死した。結婚を約束したフィアンセだった男も戦死した。しかも、自分は志願して看護師となって、大陸にわたって、そこで負傷したドイツ兵の看護をまかされた――ここで、さぞかしドイツ兵をいじめて殺したんだろうな、という野次が入る――。ドイツ人も苦しんでいた。イギリス人も、皆、苦しんでいた。自分は、どうしてあのとき戦争に反対しなかったのか。どうしてもっと声を上げて戦争に反対しなかったのか……。


実話に基づく話である。彼女はヴェラ・ブリテンVera Britain(1893-1970)。オックスフォード大学に在学中に看護師となって、この従軍体験をもとにした小説Testamemt of Youth(1933)を出版しベストセラーになる。そして、以後、彼女は作家として、それ以上に、反戦運動家として死ぬまで活動する。「善き人」、真の英雄である。

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