2017年07月10日

『ジョン・ウィック 第2章』

前回、『ジョン・ウィック』はどんな内容だったか、必死で思い出すことにした。詳しいあらすじ紹介を読みながら。とはいえ細部は憶えていない。前回、鉛筆一本で人を殺していたかどうか、思い出せない――まあ、割りばしか箸一本で人を殺すというのは、北野監督の『アウトレイジ』がそうだが、あの映画では鮮明に覚えているのに。あと「また、会おう」というのがキーワードみたいなのだが、前回、最後がどうなったのかよく覚えていない。ロシア。マフィアのボスをロシアまで行って殺してきたと覚えていたのだが、どうもあれは、『イコライザー』の最後と勘違いしていたようだ。では、『ジョン・ウィック』はどうだったのか。たしか犬用の薬品を自分に注射して一命をとりとめ、殺処分か実験用の犬を連れて帰ったことまでは思い出した。ロシアのマフィアのボスは、殺したのだったか?


ネット上には


この映画の見どころはキアヌさんのアクションと演出効果の芸術性だと思います。

 1作目でのクラブの銃撃戦で青いライト に光る壁にバタバタと人が倒れて血が飛び散るシルエットはもはやアートのようでしたし、今作は舞台がローマなので、イタリアの彫刻だったり、噴水だったり、景色の背景がすでに芸術なのでそれをバックにした人々の様々なやりとりは見ものですよ!


というようなコメントがあって、このコメントの主は、プロかと思われるほど鋭いのだが、あるいは監督の芸術性重視とか、先行作品のオマージュということは定着した評価でもあるので、ひょっとしたらそんなに珍しくない反応なのかもしれないが、前作との共通性について、私から付け加えるのなら、肉体的に「痛い」という特徴がある。


キアヌ・リーヴズが無傷で活躍して人を殺しまくるというのではなくて、満身創痍状態で逃げ周り、殺しまくるというのは、まさに、そこもねらい目なのだろうが、けっこう観ていて痛い。肉体的な痛さが伝わってくる。もちろん、ある意味不死身の主人公なのだが、同時に、安定して歩くことすらできず、ずっと傷を負っていて、ほぼ全編、苦しくて顔をゆがめ体の一部を手で押さえ、体を傾け脚を引きずり出血しつつ、でも殺しまくるという、傷つくことで前景化される肉体も特徴のひとつであろう。


おそらくこれは、アクション映画に数多く出演していながら、いまや50歳代になったキアヌ・リーヴズ自身のアクションが、やはり切れを失ってしまうせいだろうか。群衆のなかで的確にボディーガードや刺客だけを殺すというのは、たとえば『コラテラル』におけるトム・クルーズが演ずる殺し屋の動きと比べれた場合、残念ながら、やや劣るといわざるをえない(ちなみに地下鉄の座席に座って殺し屋が死ぬというのは『コラテラル』が入っているので、『コラテラル』へのオマージュもあるのだろう)。そのためにも動きの鈍さを、本人が傷を負っているという設定によって隠しているのかもしれない。


しかし同時に、それはたんにいいわけではなく、主題的にも関係してくる。それは、本人、心身ともに、満身創痍状態であることの暗示でもある。そもそもロシア・マフィアから取り戻した車も、結局、壊れる寸前のボロボロ・ガタガタ状態なのだが、あの高級車の無残な姿こそ、主人公の心身の今が集約されているのだろう(たとえ取り戻したいのが車そのものではなく、中にあった亡き妻の思い出の手紙であったとしても)。


そしてそこに、殺しの掟が関係してくる。契約の束縛とか契約による保護を設定とするこの作品世界においては、まさに裏社会・闇社会においても、法と秩序が支配していることを示しているが、それゆえに殺し屋の掟が重要になる。『ブラッド・ファーザー』あるいは『ローガン』のところでも述べたが、またとりわけ『ローガン』における映画『シェーン』のいう一人でも人を殺したら永遠に殺人者の汚名がついてまわるという殺しの掟は、『ジョン・ウィック』では、これほど、殺しまくっていれば、なきに等しいだろう。しかし、契約とか掟の重視、そして、これほどの殺しの代償も支払わねばならないというのが、この作品世界とは別個かもしれないが、常識的な世界観のひとつでもあろう。しかも彼がなにかを守っているのならいいのだが、それもない。愛する妻は殺された、その遺品すら今回は消滅する以上、彼にとって守るのは犬一匹なのである。


彼と観客をつなぎとめているのは、Saving the Dogでしかない。なおこのSaving the dogSaving the catのヴァリエーションだろう。


となると第三作はどうなるのか。今回は、たとえばローレンス・フィッシュバーンは、いったい何のために出てきたのか、よくわからない。イタリアのコンチネンタル・ホテルの支配人にフランコ・ネロが出てきたときは驚いたが、彼は、次の作品に出番はないだろうが、フィシュバーンはなやらしでかそうである。実際、終わり方も、まさにTo be continuedというかたちだったから、ジョン・ウィックの運命は、次にもちこされるのだろう。


そこで今回中心的なのは、命を狙われて助からないと悟った女ボスが、自らの手で、両手首の動脈を切って、殺される前に死ぬことである。これまで自分の流儀で生きてきたのだから、死ぬ時も自分の流儀で死ぬのだと言い残すのだが、おそらくこれはジョン・ウィックの行動も暗示しているのだろう。


すべてを失って、全世界を敵に回した彼は、結局、死に場所を求めているのだが、同時に、自分の手でみずからの死を演出したいと望んでいる。まさに死のアーティスト。芸術的な殺人場面の構築に全力を注いでいるようにみえる映画(今回は、鏡の間での殺し合いが後半登場するオーソン・ウェルズの映画のような/ブルース・リーの映画のような)であればこそ、主人公もまた、自分の死の芸術作品化をめざしているかのようだ。


次回作をお楽しみにということか。


posted by ohashi at 22:31| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

『ライフ』

日本版ウィキペディアに、この映画の評価がこう書いてあるが、まあ率直なところ同感である。


本作は批評家から好意的に評価された。映画批評集積サイトのには174件のレビューがあり、批評家支持率は66%、平均点は10点満点で5.9点となっている。サイト側による批評家の見解の要約は「どこかの空間に閉じ込められるというシチュエーションを題材にした映画に新味を吹き込むには至っていない。しかし、『ライフ』はスリリングで、演技の質も高い。それは欠点を補うに足るものだ。」となっている。また、Metacriticには44件のレビューがあり、加重平均値は54/100となっている。なお、本作のシネマスコアC+となっている。


ということは大傑作ではないかもしれないが、水準以上の作品であって、一部の日本のSFおたくが低い評価を与えているのは彼らの感性と知性を疑わせるのに十分なものがある。


監督の先行作品は『デンジャラス・ラン』 Safe House 2012年)と『チャイルド44』 Child 44 2015年)、後者は台詞は英語だが全編ソ連が舞台のサスペンス(主演トム・ハーディ)で、面白かったので、今回も期待値は高い。そして期待どおりの面白い映画だった。


そのため、たとえば以下のような映画評にまどわれないことを祈りたい。


宇宙ではなくB級とC級の間を彷徨ったSFパニック映画! (投稿日:7/8)

 ジェイク・ギレンホール、ライアン・レイノルズと主役を張れる2人が出演しているのに、なぜか話題にならずに公開された「ライフ」!
 観てみたら、話題にならないのは納得、しかし、ラストに納得がいかず、暗黙のルールを破ってしまったこの映画に「悪い意味で」裏切られてしまいました!
 そのおかげで、私的には評価がB級からC級に成り下がってしまいました。
 ちなみに、殆どの映画を「ぜひ、大画面での鑑賞を・・・」と勧めていますが、この映画には言いません!
 唯一、主役級に出番が多く、頑張っていた真田広之に★2つ!


この映画評で、唯一わからないのは「暗黙のルール」を破ってしまったということ。そもそも、なにが「暗黙のルール」なのか。最近、映画・演劇における殺人をめぐる「暗黙のルール」について語ってばかりいる私にとっても、なにが暗黙のルールなのかわからない。


こういう場合、もっともやってはいけない暗黙のルールというのは、ありもしないルールをでっちあげるだけでなく、自分の勝手な好み、根拠もなければ意味もない自分の好みを暗黙のルール化することだ。これだけはやっていはいけないと思う。


この映画のインスピレーションが『エイリアン』であることは誰もが認めているところである。リドリー・スコット監督の第1作ではリプリーがエイリアンを宇宙空間に放り出して消滅させるところで終わった。しかしつづく第2作から第4作までどうなったかといえば、結局、第4作では、エイリアンとリプリーから生まれた子供が地球に到着するところで終わる。地球の破滅のはじまりで終わるのである。努力と犠牲のかいなく、侵略を許してしまうという設定の映画は、やまののようにある。なにかハッピーエンディングではなく嫌だから勝手に暗黙のルールとか言い始めたのか。いずれにせよ、暗黙のルールが何であるか暗黙のうちのするという暗黙のルールはない。


ちなみにこのモンスター、成長型というのはエイリアン風だが、最初は単細胞であり、それが成長するのだが、初期状態では可愛い。そして実験室の隔離装置から逃げ出したのをバーナーで焼き殺そうとする乗組員の姿は、逃げ回るゴキブリを殺虫剤で殺そうとする私自身の姿と重なった。そう、侵略する宇宙生物であるこのモンスターのアレゴリーを考えると、国境を越えて侵入する不法移民とか、あるいは工作員やテロリスト、あるいは社会の中枢に潜むスパイや裏切り者というよりも、すばやいゴキブリといった、小動物以下の昆虫である。


実際、この映画をみながら、侵入を食い止めようとする必死の努力にもかかわらず、侵入を許してしまうであろう結末を考えると(これは予測可能なので、ネタバレではない)、いま現在、まだ少数が発見されたというに段階であったのが、いつもまにか完全に繁殖していることが確認されたヒアリのことを思い浮かべずにはいられなかった。


実際、ヒアリとこの映画の宇宙生物とは共通するところがある。だから奇しくも、日本人にとって、この映画は、妙にリアルなものとなった。外国での評価はともかく、この映画のモンスター、エイリアンは、ヒアリそのものである。その意味で充分に怖い映画なのだが、日本のSFおたくは(とはいえ全員というわけではないが)、この映画のもつリアリティに鈍感なことこのうえもない。そもそもSFは「せんす おぶ わんだー」などではなくて風刺ではなかったか。その意味でこの映画を低く観ている一部のSFおたくボケどもはSFの精神にも背いていることになる。


なおこの物語、サスペンスというか意外性は、けっこうあって、ソユーズが助けにきたかと思うと、ドッキングの仕方が荒っぽくて、ステーション内の機材にひびかはいるほどの衝撃があたえられる、しかし、それには理由があったというのは面白かった。また、最後にどちらが地球に着水しても、結果は同じだと思っていた(あのモンスターにひっかかれた傷からの出血は何の意味だったのだ)が、しかし結末は、予想外の人物の着水で終わっていあ。ただ、どちらが着水しても同じだと思っていたので、予想外の人物という流れそのものが予想外のことだった。


あと2点。どうもSF映画はシェイクスピアの『テンペスト』ねたを使うことが多い。『ローガン』でも「キャリバン」という人物が、ミュータントを発見できるミュータントとしえ登場していた。これはキャリバンという名のモンスターが登場する『テンペスト』の設定の応用だろう。そして今回の『ライフ』には、カルヴィンと命名されるエイリアン・モンスターがいる。これは絶対温度の単位ケルヴィンKelvinのもじりかもしれないが、キャリバンのもじりかもしれない。なぜなら、この映画には、レヴェッカ・ファーガソン演ずる検疫官が登場するが、彼女の名前はミランダ。『テンペト』に登場する魔術師プロスペロの娘の名前である。となるとこのケルヴィンは、キャリバンだろう。


あと、このモンスター、水が好きで、女性よりも男性にとりついている。しかも単細胞から発育していく。つまり単性生殖。つまり自家発電型。そして女性を嫌うようで、水の惑星たる地球を好んでいる。あきらかにこのモンスター、ゲイの人間の特性を備えている。となると、そこに、祈るしかない、ホモフォビアが入っていないこと、を。

posted by ohashi at 21:32| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年07月01日

『22年目の真実』

入江悠監督のことを『サイタマノラッパー』の、と紹介している場合が多いのだけれども、『サイタマノラッパー」を観たことがあるのだろうか。そもそもそれは『SR サイタマノラッパー』(2009)『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー傷だらけのライム』(2010)『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』(2012)を指すのだけれども、そのすべてなのか、第一作だけなのか。そして全部を観たことがあるのだろうか。私は観ているのだれど、残念ながら『タマフルTHE MOVIE 〜暗黒街の黒い霧〜』(2012)とか『日々ロック』(2014)はみていない。演劇版と映画版どちらにしようかと思って、結果、どちらもみそびれているのが『太陽』――映画版のDVD2016年でているが。ただ『ジョーカー・ゲーム』(2015)は映画館でみて、ごくふつうに面白かった。ただ良質なエンターテインメント映画だが、監督ならではの特徴があるのだろうかといぶかった。


今回の『22年目の告白 -私が殺人犯です』(2017年)は、韓国映画のリメイクで、韓国映画のほうはみていないのだが、先が読めず、二転三転する物語がなんとも心地よく、飽きさせない。またなにより映像が攻めている。これはすくなくとも『ジョーカー・ゲーム』にはなかったようだ(『太陽』はみていないが)。


たとえばテレビの報道番組とかニュース番組の事件映像、新聞雑誌の写真的なスチール、そしてテレビ番組のスタジオ内部からの映像、またネット上の動画など、特殊な事件のメディア報道の、ある種のステレオタイプ的な映像を、スピーディにたたみかけてくる映像構成は、事件の本質が、メディアによってつくられるだけでなく、メディアを通しても構成されることの雄弁な例証となっている。


それらステレオタイプ的映像は、メディア映像の限界を示す風刺的な意図でもって示されるのではなく、むしろ事件を構成するメディア手法を前景化すること、その限界でなく、仕掛けの露呈であるように思われる。


この点、どれほど強調してもしすぎることはないのは、たとえばテレビ局のスタジオ収録の場面などは、ひと昔というか昭和の時代の映画では、どこかのビジネスホテルのロビーに机と照明器具と衝立と、それらしいテレビカメラを置いて、それらをむりやりテレビスタジオに見立てるという安っぽい映像が、ほんとうにふうつだったのだが、いまや21世紀も17年目の映画としては、日本テレビの協力もあって、夜の報道番組が、タイトルからスタジオ、ニュースキャスターの語り口や全体の演出にいたるまで、ほんとうにこういう番組があってもおかしくないというつくりかたをしているのだ。つまり映像が、何かの再現表象ではなく、すべてが本物なのである。本物そっくりということではない。こういう報道番組があったら、それを実際のテレビ番組として、コンテンツを現実の事件の報道として、放送できるということである。


つまり演技者がピアノを演奏しているふり、演技をしているのではなく、演技者が、実際にピアノを演奏している映画、高いところから飛び降りる場面で、俳優が、スタントマンを使ったり、CGで処理することなく、自分で飛び降りるというようなことを考えてもらっていい。そのような本物感が、テレビの報道番組の場面では漂っていた--とでもいえようか。


その意味で、この映画の映像の攻め方は、メディアによる報道をどこまでも正確に再現することによって、そこにさまざまなモードのメディア表現を実現させていた。そこがなんとも刺激的であった。知的にも、映像美的にも。


あと特筆すべきは、いまふれたテレビの報道番組のスタジオ撮影のところで、すべてが振出しに戻るように感じられるところがあることだ。


ドミノ倒しで、予定枚数の98%くらいドミノ版を立てたところで、アクシデントで、全部倒してしまったような、絶望感、虚脱感のようなものを、映画のなかで観る者が感ずるところがある。すべてが振出しにもどり、またゼロから一から始めるしかないという、なんともいえぬ絶望感。まさにここまでの虚無感をかもしだす映画というのは、そんなにない。


だが絶望のなかに希望がある。もしこれが現実の出来事なら、すべてを投げ出したくなるし、完璧にやる気をなくすことだろう。しかしこれは、あくまでも現実の話である。映画の場合、話はちがう。たとえ時計で確認しなくても、この段階で、いよいよ最後の部分に物語が入ろうとするとき、つまり佳境に入るわけだから、いくら、すべてが振出しに戻ってしまうように見えたとしても、それは見せかけであって、続篇とか後篇でも造る予定なら、それでもいいのだろうが、一話完結では、それはないだろう。となると、一見、振出しに戻るようにみえても、実は、もう終結部に入っている。つまり解決への糸口に、たとえそんなふうにみえなくともたどり着いているということである。


絶望する必要はない。絶望感と戯れながらも、また明確な理由はつかめなくても、ここで希望をいだいていのだとわかる。解決編に、もう入っているのだ。それがどんな解決とはわからなくても。あとはサプライズ・エンディングの到来を目撃すればいいという感覚。


絶望と、絶望から生まれる希望。こんな感覚を味会わせてくれるのもこの映画の魅力のひとつだと思う。

posted by ohashi at 19:36| 映画 | 更新情報をチェックする