2018年01月04日

嫌われ作戦

嫌われ作戦展開中。2018年度Academic Yearは私にとって最後の年度となるので、できれば、人知れず、そっと辞めることを目指している。辞める時が一番似合っていた(12日の記事参照)かどうかわからないが……。まあその器ではなかった職を定年で辞めることになるのだが、辞める時が一番似合っているのかもしれないものの、とにかくそっと辞めたいので、最終講義かそれに類するものは、しないことで迷惑がかかるので、それはするが、あと、お別れパーティのようなものも、教授会関係の惜別の回その他は、病気にでもならない限り、出席しないのは、まずいので、とにかく最低限の義務は果たすが、それ以上のことは絶対しない方針なので、逆に送り出す側に負担をかけないために、嫌われることにした。


もともと善人なので(こういう言い方をすれば嫌われることになるので、どんどんしていきたいが)、何をやってもよいほうにとられてしまい、嫌われ方がわからない(こういう言い方をすれば嫌われることになるので、どんどんしていきたい)。そのためささやかなかたちで不義理を働くことで、嫌われ度を上げていきたいと思っている。


もちろん不正なことはしない。ただ、年賀状は出さないし、また、年賀状に返事を出さないことをここ数年心がけている。ここ数年、一通の年賀状も出していないし、いただいた年賀状は、ありがたく受け取るが、それに対して一通も返事をしていないので、そろそろ、失礼な奴だと嫌われ度がいよいよ上がるのではないかと期待しているのだが、今年も、年賀状は、返事をふくめ一通も出さない。


最終的には、自分を偽って好かれるよりも、本当の自分をさらけ出して嫌われたほうがいいというのが目的なのだが。まあ、そこまでかっこいいことにはならないという確かな予感はあるのだが。

posted by ohashi at 10:15| コメント | 更新情報をチェックする

2018年01月03日

教育関係者

元横綱日馬富士の暴行障害事件について、日本相撲協会の対処法が正しいかどうか、私には判断を下せる見識なり資格なりはないが、どうしても解せないことがある。私の誤解であればいいと祈っているのだが。


今回の騒動というか事件、何が起こったのかについて、なにも解明されていないように思われる。最初の伝えられたことは、どうやら元横綱日馬富士や横綱白鵬らが口裏合わせをして周囲に伝えたものであって、その後の貴ノ岩の証言からつきあわせると、どうも事件の真相ではないように思えてきた。もちろん貴ノ岩の側の言い分も、自己弁護として事実をねじまげているのかもしれず、真相は藪の中という様相を呈してきた。結局、このまま真相はわからないまま終わってしまうのだろうか。


唯一の救いは、現場に教育関係者がいたことである。残念なのは、彼らの声が全く聞こえてこないことだ。私も教育者のはしくれだから、二つの教育者像を確認したい。つまり教育者のよいイメージと悪いイメージ。どちらの立場にいるかによって、よいと悪いはいれかわる。


ひとつは、不偏不党の立場から、真実をねじまげることなく語れる人間というものだろう。もし元横綱日馬富士の暴行現場にいあわせたら、何が起こったかについては、口裏合わせをするモンゴル勢(実際にそうしていなくても、そうしているような印象を与えている)や事なかれ主義の日本相撲協会関係者とは一線を画して、真実を臆せず語る人間、またそれゆえに真相を明らかにする際、信頼するに足る人間、それが教育者であろう。なにしろ教育者である彼らは学校で生徒に対して嘘や不正はいけないと口をすっぱくして語っているのだから。嘘をつくなと教えているはずだから、みずから範を示して当然である。現場に教育者がいたら、彼らは、信頼するに足る証言者となりうる。


しかし、もうひとつの教育者のイメージがある。空気をよみ忖度し時流にさからわぬ事なかれ主義の人間。実際、暴行事件のあと、貴ノ岩に白鳳や元横綱日馬富士と和解するように促し、貴ノ岩が頭を下げ握手したというの、すべて挙育関係者の助言だという。となると暴行を目の当たりしても、また暴力による制裁を加えて、そのあとラーメン店に行った白鴎や元横綱日馬富士を告発もせず、相撲協会の顔色を窺い、相撲協会以上に、事件をもみ消そうとしたのも教育関係者である。空気を読み、忖度すること、その重要性を生徒に教え、生徒からバカにされる教育者――これもまた教育者像であろう。


おそらく教育関係者は暴行現場にいなかったということだろう。彼らが帰ったあとに事件は起こったのだと思う。そうであることを祈りたい。そうでなければ、その場に居合わせた教育者は警察による聴取を受けたとしても、彼らの目撃証言は、相撲協会とか相撲関係者に都合のよいだけの中身のないものと捨てられたとしか思えない。その場に教育関係者はいなかったのだろうと思う。いたというのは私の誤解でありますように。



posted by ohashi at 23:04| コメント | 更新情報をチェックする

2018年01月02日

辞める時が

Nothing in his lifeBecame him like the leaving it.


シェイクスピアの『マクベス』のなかにある台詞で(1.4)で、国王に反旗を翻して破れ処刑されるコーダー(耳で英語の台詞を聞くと「コード―」と聞こえるのだが)の領主について、「彼の人生のなかで、人生を捨て去るときほど、彼に似つかわしいものはなかった」と言われるのだが、不思議な台詞だと思っている。


人生を去る、つまり死ぬときほど、彼に相応しいものはなかったというのは、どういう意味だろうか。この台詞は、報告として語られるので、その時のコーダーの領主がどのような言動に及んだのかは、舞台上で示されることはない。ただポランスキー監督の映画『マクベス』(1971)では、コーダーの領主の処刑場面が映像化され、そのとき首に縄をかけられた領主は、高いところからみずから勢いをつけて飛び降りて死ぬ。命乞いをしたり、暴れて無理や突き落とされるということはない。つまり潔く死ぬ、あるいはあっぱれな死にざまなのである。


まあ、たぶんそういうことだろうと思う。だから、この台詞で言わんとしたのは、見事な死にっぷりでしたということだろう。


ただ、それでも気になるのは、だったら、そういえばいいのであって、似合っている、似つかわしいという表現は、やはりなにかひっかかる。つまり行為ではなく性格について語っているように思われる。つまり彼は、王様になるときには、なにかぎこちなく、その地位にふさわしい威厳とか権威を欠いていて、王様には、似合っていないように思えるのだが、王様をやめるとき、戦いに敗れたとか、暗殺されるとか、没落とか、退位させられるとか、処刑されるとか、そういう時には、実によく似合っていた、いかにも没落する王者、退位する王者に似合っていたという意味になる。


これはこじつけめいた説明ではない。『マクベス』には体に合わない衣服のイメージがある。新しい地位の服が似合っていないということから、体に似合わない衣服を身に着けて芸をしたり笑いをとったりする道化にそっくりという暗示がある。また人生は歩く影法師というように人間は役者、人生は演劇、世界は舞台という世界劇場のイメージもある。だから、王様もふくめ、なんらかの地位なり役割と、それをうまく演じられるか演じられないかという役割演技のテーマは通奏低音のように作品の底流にある。


そのため、こうなるのだろう。コーダーの領主は、領主の演技はあまりうまくなかったけれども、領主をやめるとき、没落するとき、処刑されるときは、実にうまく演じた、てらいも気負いも迷いもなく、敗北し処刑される人間を堂々と演じきった。あるいは領主という立場とは相性がよくなかったけれども、だめ領主、領主失格というときの演技は、たぶん本人の性格と相性がよく、違和感がなかったということになる。


もちろんこれは悲劇一般についてもいえて、主人公は、その役割をやめるとき、人生から降りる時が一番似合っているのである。また相手を非難するときにも使える。その役割、あなたには荷が重かった、いまこうして辞任するとか退職するときこそ、あなたに一番似合っている、つまりあなたはその器じゃなかったというような。まあ、学生には、私は責任をもたないけれども、誰か嫌な人がいたら、こう言ってやるといいよ、と(なお、これはいさぎよく辞めたという意味にもなるので、必ずしも一元的に非難の言葉にならないかもしれないが)。


とはいえ、こういう冗談も冗談でなくなってきた。私自身が2018年をもって、この職を辞めることになったからだ。あいつは、この職の器じゃなかった。だから、こうして辞めるときが、あいつに一番似つかわしい。辞める時が一番似合っていた……。まあ、そう思っていても、また自分でもそう思っているのだが、どうか情けをかけて、言わないでね。なさけなくなり、悲しくもなるので。

posted by ohashi at 09:08| コメント | 更新情報をチェックする