2018年04月08日

『しあわせの絵の具』

サリー・ホーキンズの演技は、『シェイプ・オブ・ウォーター』よりもすごいという評価がネット上にみられるのだが、それには同感だが、ただ、この映画、2015年に撮影され、2016年完成し、2017年にアメリカでも公開された映画であって、こちらほうが古い。そして、この演技から『シェイプ・オブ・ウォーター』の主役へと展開したのではないかと思う。また『しあわせの絵の具』も、『シェイプ・オブ・ウォーター』がアカデミー賞にノミネートされ受賞しなかったら、日本で公開されなかったかもしれないので、アカデミー賞にただただ感謝。


監督のアシュリング・ウォルシュは、サリー・ホーキンスとTVドラマ『荊の城』(2005)以来だが、『荊の城』は、テレビドラマ版のDVDももっているし、韓国版のリメイク(『お嬢さん』)もブルーレイをもっている(うかつにも劇場公開時に観に行くチャンスを逸した)。だからサラ・ウォーターズ原作もテレビドラマ版も映画版も好きな作品なのだが、そのテレビ・ミニシリーズ版の監督がアシュリング・ウォルシュだとは知らなかった。まあ個人的な好みで、今回の映画とは関係がないが。


映画の最後のエンドクレジットで、実際のモード・ルイスに取材したときのテレビ番組のモノクロ映像が少し流れる。実際の彼女は、サリー・ホーキンズとは似ていないのだが(似ているような表情をみせるときがあるにしても)、顔がアップになったとき、幸せそうな表情をしていて圧倒される。障害をかかえての彼女の人生は、恵まれたものではなくて、苦労の連続で、悲痛な出来事にも事欠かなかったのだが、また無骨で感情表現が下手で暴力的でもあった夫とのつましい生活も陽気な笑い声のたえない雰囲気とは無縁の陰気なものだったように思うのだが、しかし彼女は幸福だったとわかる。そこで思わず涙が出てきた。このエンドクレジットでほんとうにスイッチが入る。号泣の上級者の姪(44日の記事参照)といっしょに見なくてよかった。

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2018年04月04日

『ボス・ベイビー』

観客はたくさん入っているようだが、『リメンバー・ミー』といったアニメに比べると、評価がやや低い。ふたつを見た数人に聞いたところ、両方とも面白いという意見から、『ボス。ベイビー』は面白かったが、それほど感動はしなかったという意見にわかれた。とはいえ統計的信憑性はない。聞いたのは3人だから。

『ボス・ベイビー』は、最後に2017年3月に至る(つまり米国での公開時になる)。ということはこの物語は、現時点から30年くらい前の出来事である。空港ではDC10 が飛んでいたという指摘があった(DC10 は知っているし、いまでは飛んでいないが、それは完全に見落としていた――ヒコーキ・ファンとしては残念)。たぶん出てくるおもちゃにも1960年代あるいは70年代に流行したものがあるのだろうが、米国で生まれ育ったわけではないのでわからない。『シェイプ・オブ・ウォーター』も冷戦時代を舞台にしていて、時代の文化を濃厚に漂わせる仕掛けなのだが(『ミスター・エド』のテレビ番組を垣垣間見ることができて、個人的にかなり興奮したが、この件については別記事で)、『ボス・ベイビー』は、力点を風俗習慣ではなくアニメ表現そのものに置いている。そこが逆にわかりにくいところだったのかもしれない。まあ少年の寝室にはガンダルフの目覚まし時計もあるし(これは知人から指摘されるまでわからなかった。映画版のイアン・マッカランのガンダルフではなくて、本の挿絵で描かれている、あるいは古い『指輪物語』のアニメのガンダルフの格好をしていたので――だから映画版の『指輪物語』はまだ存在していない世界だったと気づくべきだった)、現在の物語と思ってもしかたがない。古さは、アニメ表現そのもので伝えている。つまり主人公の少年ティム(芳根京子)の空想・妄想世界のアニメ表現が、昔懐かしい60年代や70年代の米国アニメ(大雑把な表現で恥ずかしいが)の様式なのだが、ただ、この様式は現在でも米国のテレビアニメではふつうに使われているので完璧にノスタルジックなわけではない。そこが、アニメ表現がノスタルジックではなく古臭いと思われてしまったのではないか?

兄弟争いのアニメ

ボス・ベイビーといのは、Baby Corporationが調査あるいは諜報活動のために送り込んだエージェントなのだが、この荒唐無稽なお伽噺のなかに、弟や妹が生まれる長男長女の悲哀を盛り込んだということになって、最初のうちは興味をそそられる。

実際、私自身、それまで一身に受けていた両親の愛をすべて、新しく生まれた妹の奪われて、相当むずがったようだが、まあ同じような経験は、弟や妹が生まれた兄や姉は、経験していると思う。新しく生まれ、親の愛をすべてもっていく弟や妹はボス・ベイビーなのである。

とはいえ弟や妹にとって、親の愛を奪おうと思ったり、家族の自分中心に運営するよう計らったりすることなど夢にも思わず、また大きくなっても、このことで兄や姉に対して悪い感情などもつこともない(別の理由で憎んだりすることはあっても)。だから弟や妹がボス・ベイビーだというのは兄や姉からの完全な投影である。つまり姉や兄が妹や弟を憎んでいるのに、逆に弟や妹が自分を憎んでいるという物語に変えてしまうのである。

もちろん兄弟姉妹も大人になってからは、骨肉の争いに身を投ずることになるかもしれないし、たとえば兄弟喧嘩の芝居も生まれてくることになろう。私の大嫌いな岩田美喜の『兄弟喧嘩のイギリス・アイルランド演劇』の世界がリアルに迫ってくる。

なお岩田美喜氏とは一面識もないから、ご本人に関して好きも嫌いもないのだが、そのエクリチュールの主体としての岩田については、本人ではなく、あくまでもエクリチュールの主体としての岩田氏には、つねにいらっとさせられるので(政治的信条とか信念が異なるからということではない。嫌われる文体で書いているからだ)。

それはともかく、ボス・ベイビーは最後にはお約束どおり仲良しになるのだが、途中は、まさに兄弟喧嘩のドラマ。このドラマは、姉や兄たちが、親の愛を奪う弟や妹に対して、つまりボス・ベイビーに対していだく、ある意味、理不尽な怨念みたいなものを原動力にしている。その点を嫌だと思う人はいるかもしれない。

プロティウス的ダーク・ヒーロー ネタバレ注意 Warning:Spoiler

アニメ『ボス・ベイビー』については、なんといってもボス・ベイビーの顔だろう。赤ん坊らしさが感じられないこと、赤ちゃんの愛らしさかわいさがないことに対して、残念に思う観客もいよう。だが、最終的にボス・ベイビーがふつうの赤ん坊になってしまうと、なんだかがっかりするのも事実で、ボス・ベイビー時代の大人と子供の顔の使い分け、子供なのに言動は大人のアンバランス、どれをとってもボス・ベイビーであったときのほうが、ずっと魅力的なのである。

これは芸達者なコメディアンの超絶芸を見ているような楽しさがある。またボス・ベイビーにとって、かわいい赤ん坊の姿は、人をあざむくための仮装、あるいは演技であって、そのため最後にかわいい赤ん坊にもどっても、本物になったというよりも、偽物になった観がいなめない。そこが面白いし、そこに残念なものを感ずる観客もいるのかもしれない。

しかし大人と赤ん坊の表情やしぐさの使い分けと、その融合、どこをとっても、ボス・ベイビーの魅力は圧倒的であり、この映画の面白さの中心はここにあるといってもいい。アニメとしては超絶的なのである。そそして逆にいうと、それ以外の要素が、この点を支援するところがうすい。べつに邪魔しているわけではないが、超絶的な表情やしぐさの情景と、物語の上の要請とはいえ、古臭いアニメの技法、その両者の統一感に欠けるし、両者が分裂したり矛盾としてぶつかりあうわけではない、そこがやや中途半端なのかもしれない。

クィア・ベイビー

赤ん坊はどこから来るのかという問題は、性や性行為の問題とからんでくるので、本来、ただかわいいだけではすまないところがある。しかし、このアニメは、この問題を回避している。なにしろ、赤ん坊はBaby Corpからやってくるという設定(あるいはこれは後日、ティモシー(兄のこと)が自分の娘に語って聞かせる物語)となっているからだ。ここには性やセックスについて、ひとかけらもない。子供とみることができる家族向き映画だから当然と言えば当然だが、オスカー・ワイルドの童話にゲイ的要素が入り込んできたように、こうしたノン・セクシュアルな映画にクィア的要素が入ってくる。

このアニメ、お尻ネタが多い。そもそもオープニングは赤ちゃん(たぶん未来のボス・ベイビー)のお尻のアップから入る(オープニングだけならネットの動画でみることができるから確認していただきたい)。またBaby Corpのベイビー・マシン(というのかどうわからないが)で、未来のボス・ベイビーはおしゃぶりを肛門に刺されそうになる。オナラネタもあるし、圧巻は、ボス・ベイビーとティモシーがPuppy Corpに見学に行く場面。二人はアトラクション用の大きな犬の置物の肛門から出てくるし、犬に化けているボス・ベイビーは、本物の子犬に、尻のにおいを嗅がれる。犬の習性だからそうなるのだが、肛門、犬などからゲイ的な要素が浮上する。

いや、それはまたすべてクィアに還元する悪い癖というなかれ。この兄と弟、ミドル・ネームが女性である。セオドア・リンゼイ・テンプルトン(ボス・ベイビー) とティモシー・レスリー・テンプルトン(ティム)。ふたりは両性具有的、あるいかクィアである。またこの映画には女性がからんでこない。母親や赤ん坊を生むのではなく、連れてくる。

またボス・ベイビー誕生の冒頭のシークエンスをみてもいい。彼は他の赤ん坊とはどこか異なるために、家族の一員として生まれるのではなく、Baby Corpの経営担当の仕事を割り振られ、のちにエージェントとなって、ティムの家の赤ん坊となるのであって、変わり者のモンスターあるいは才人で、Baby Corporationの中にいる限り、歳をとらない。つまり外見的には赤ん坊のままで成長しない。フロイト流にいうのなら肛門期でストップしている。そして言うまでもなく、のちに批判されるフロイトの議論では、この肛門期でストップしてしまう人間(とりわけ男性)が同性愛者になるのである。

つけ加えれば、Puppy Corpが売り出す新しい子犬も、永久に歳をとらない子犬である。ここにも肛門期/子犬/停滞から、同性愛的イメージがわいてくる。また子犬をロケットで全世界にむけて拡散させるという荒唐無稽な展開も、ロケットと言うファリック・シンボル(異性愛へつながる可能性)を無効にして子犬を解放するというシークエンスを用意したからったのではないか。ロケットというファリック・シンボルは機能不全に陥るのである。

結局、兄とボス・ベイビーとの争いから協力関係へといたるプロセスもまた、兄弟愛の名の下に同性愛的要素を濃厚に漂わせるのであり、兄のティムが、弟と自分を、二人組の海賊として空想することもまた、海、海賊、海賊の同性愛ユートピアへという連想を引き寄せることになろう。女性がからんでこない、このアニメは、子供向けのノン・セックス、兄弟愛という口実、女性を介在させない無性生殖あるいは無性増殖を通して、クィア的要素を全開させる。そういう意味では面白かったし、まただからこそ、観客のなかに、無意識のうちに反発を招いたかもしれないのだが。とにかくクィア映画であることは強調しておきたい。

posted by ohashi at 08:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年04月03日

『レッド・スパロー』

映画というのは、最初から見たい映画ではなかったり、当然、そうだから観る予定もない映画をみたほうがよく、そんなとき掘り出し物もあるし、自分の好みだけの選択では遭遇しない世界にも触れることができるということで、ある女性を誘って公開初日に観に行った。神奈川県のシネコンだったが、平日ということもあるにしても、あまり人がはいっていない。女性客も、いないわけではないが、ほぼほぼ男性客しかない。映画を観終わったあと、ジェニファー・ローレンスはあまり好きじゃないというその女性に、すみません、ずいぶん残酷で痛い映画につきあってもらってと、謝罪をするはめに(もっとも彼女は、面白い映画だったと言ってくれたのだが)。


たとえば『トレイン・ミッション』でも格闘シーンは痛々しいところがたくさんあるが、この『レッドスパロー』の残虐さは、ちょっと異次元である。主人公は、格闘能力にすぐれているわけではない。ハニートラップ専門なのだからアクションでみせるのではないものの、ただ拷問シーンが多い。この拷問が痛いそうにみえることハンパではない。もっとも異次元の残酷さに行きすぎて耳を疑うようなものがある。人間の皮膚をはぐ、それも出血させることなく皮を少しずつ剥ぐ器具(もともとは医療器具)での拷問は、そんなに痛いものなのか疑問である。むしろ痛くもなんともないうちに、皮膚がはがされるものではないか。


以下、ネット上にあった印象的なコメント(行替えは変更)

等身大の人間が描く迫真のドラマ (投稿日:3/31)

これはスパイ映画ではあるものの、アクション映画ではありません。それこそが、この映画の最大の魅力なのでしょう。


人を信じることができない国で、スパイになることを迫られ、強要され、その道を選ばざるを得なかった者たちが、人間としての苦悩を背負いながら追い込まれていく様子には、一種異様な胸騒ぎと感動を覚えさせられます。もちろん、人間の心理を操って自由自在に動かすためのプロセスなども豊富に実例が盛り込まれています。


人間の本質とは何か。人をうならせ、エモーションをかきたてるドラマとはどんなものか。

そういう映画を観たいと思う人にこそ、お勧めできる、凄い映画だと思います。


と同時に、こういう映画も作られるハリウッドという存在を、心底うらやましく、また恐ろしくも感じたのでした。あと、旧・共産圏をはじめとする、「言葉に担保力がない地域」へ赴任する人は、漏れなく観ておいたほうが良いかもしれない映画だとも感じました。


実は、これは『トレイン・ミッション』で引用したのと同じコメンテイター(匿名)。語り口は印象的だが中身はからっぽでしょう。


「人間の本質とは何か?」―― たとえばバレリーナが、その実力を疎まれ、事故にみせかけて傷つけられバレリーナとしての経歴をあきらめなければならなくなった。最初は不幸な事故かと思っていたら、諜報機関に勤める叔父から、実は自分のパートナーだった男性とその恋人による意図的な傷害事故だとわかった元バレリーナ(ジェニファー・ローレンス)が、自分を陥れた二人がセックスしているところに乗り込んで、松葉杖でめった叩きにする。殺すつもりで。また、その暴行を知っている叔父によって諜報組織に引き入れられる。しかもその諜報組織はハニートラップを教える組織。娼婦養成学校のようなところだった……。いや、人間の本質をつく、実に深い物語? あほらしすぎるわ。


作者が元CIA職員だというが、それは諸刃の刀のようなもので、仮に職員といっても会計係とか清掃係にいたるまでエージェントではない場合もあるのだが、エージェントだとしよう。もし元CIAエージェントならば、国際的な政治や経済や文化の、常人で知りえない裏の裏まで熟知していて、驚愕すべき国際政治のからくりなど、闇の真実を白日のもとに曝してくれるという期待もふくらむ。諜報活動の記述についても、信頼のおけるリアルな説明となっているはずで、読者は隠された真相を目の当たりにして言葉を失うということにもなりかねない。元CIAのエージェントだったら、嘘くさいスパイ・スリラーなど用廃処理にするような真実を語ってくれる、と。


しかし、この元CIA職員が、CIAの活動を批判するとか内部告発をするというのであれば話は別だが、そうでなければ、CIAのエージェントとしての心性をそのまま引き継いでいるとすれば、アメリカは聖なる国で、周囲を鬼畜のようなテロリストに狙われていて、ロシアなどはいまだに悪の帝国だと、プロパガンダではなく本気で信じているかもしれないではないか。もちろん、嘘としりつつもプロパガンダで悪の帝国を捏造することで、国際政治をコントロールするという冷めた視点をもっていることもあろう。その場合は、そうした人物から、内部告発者と同様の真実を聞けそうだが、この映画の原作者にそれは期待できないだろう。


つまり元CIAのエージェントだったら、外国人とか移民とみれば、みんなテロリストにしか見えないだろう。同盟国といっても信用できず、諸外国はテロリストの隠れ処で、アラブ諸国ときたら国民一人一人がテロリストにすぎないと、そんなことを本気で思っているだろう。とすれば、彼らの世界観ほど、あてにならないものはない。そのパラノイアによって常人の足元も及ばないほどの歪んだ世界観、はっきりいって狂人の世界観だろう。だから元CIAのエージェントが創作する小説は、虚構ではなく、彼らが抱く真実そのものなのである。その、誰もが感ずる、安っぽいスパイ・サスペンスこそ、彼らが抱く真実だとしたら、彼らの真実は嘘として用廃処理しても失うものはないだろう。


実際、元CIAエージェントが語る国際政治の舞台裏ほど、信用できないものはない。CIAの内部告発者なら真実をもらえそうだが、彼らからは常人が足元にも及ばぬ、虚構の上級者である。


たしかに、この映画の物語は、はっきりいって、それは嘘だろうとしか思えないことが多いし、諜報活動にしても、とくにリアルだとも思えない(原作ではなく映画の話だが)。リアルなのはジェニファー・ローレンスのむちむちの肉体で、彼女はこの映画ではじめて全裸を曝している。


もちろん映画としては、両陣営に対して、等距離でわたりあう主人公の目標となるのは、監視のめを潜り抜けての「敵中突破」であって、まさに映画の王道をいくプロット展開となるし、敵中突破が意外なかたち決着するのも、この映画の面白さであろう。


いっしょに見た女性は、男女のやりとりも公開されるところが『ハンガーゲーム』と同じだと言っていた。たしかに『ハンガーゲーム』の監督とジェニファー・ローレンスのコンピ復活なのだが、監視されても一般公開されていないと疑問に思ったが、ハニートラップ学校での出来事の指摘だった。


しかし私が一番感銘をうけたのは公開初日における朝日新聞夕刊の映画評である。そのごく一部を引用すると、


(映画評)「レッド・スパロー」 性被害の怒りこもる復讐劇 2018330

前略

近年、業界にはびこるセクシュアルハラスメントに耐えかねた女優たちの告発が相次ぎ、ジェシカ・チャステインは女優の同意なしにレイプシーンを撮影した監督を公然と批判するなど、演出の在り方までもが問題視された。


 そんな状況下、今作の題材は演じ手にとってはリスキーでしかないが、フランシス・ローレンス監督は主役のジェニファー・ローレンスにデリケートな場面の編集権を与えている。


 中略 映画の重点は、最初の諜報活動でレイプされたヒロインの怒りである。ある種、性犯罪を受けた女性の復讐劇となっているのは、実力・人気共にナンバー1のジェニファーの力だ。(金原由佳・映画ジャーナリスト)


なるほど、もしこの視点が有効なら、この映画は、ロシアの話のとなっているが、実は、それはアメリカの話の偽装である。ハニートラップを教える学校は、女性に枕営業をさせるハリウッドの映画体制そのものへの批判的視点の具現化だろう。映画のなかでロシアで起こっていることは、アメリカで起こっていることである。さらには政権の中枢に隠れる二重スパイの話は、そもそも大統領自身が、ロシアの諜報機関に弱みを握られて操られているかもしれないというアメリカのトランプ政権の寓意あるいは戯画化であろう。


そして女性を性的対象としてみる差別的世界観は、アメリカであろうがロシアであろうが同じという点でも、女性はそれに憤っているし、男性はいつ女性に復讐されてもおかしくないという点でも、現代の寓話になりえている。


なおちなみにこれは叔父が姪に復讐される話である。このブログに姪を登場させて、からかっていると、やがて姪に復讐されるかもしれないという点では、私的には教訓的な映画でもあった(いっしょに行った相手は、姪ではないが)
posted by ohashi at 11:07| 映画 | 更新情報をチェックする