2017年07月16日

監視社会と共謀罪

共謀罪の成立によって、いよいよ日本も世界に冠たる監視社会になったといえるのだが、監視社会は、個人のプライヴァシ―が侵害されると批判すると、やましいところがなければ監視されてもいいのではないかと反論される。また、そもそも監視社会といっても、自分には関係ない(自分にやましいところはないから)という能天気な人間(能天気な若者と書こうとして、愚かさに年齢の壁はないと悟ったのでやめた)は多い。


本日の報道番組で、スノーデンも日本の共謀罪では国民のプライヴァシ―は守られないこと、そして潔白な人なら関係ないということはナチスもプロパガンダで広めていたとインタヴューに答え、そして警鐘を鳴らしていた。


関係ない(潔白だから)というのは、国民のプライヴァシーがすべて開示されたとしても、犯罪者は困るだろうが、そうでない国民にとっては、なんら損失はないとしいう考え方であって、この場合、国民のプライヴァシーがすべて公になることは、よいことで、また悪い人でなければ、何ら問題ないということが前提となっている。このとき忘れられているのは、まさに盲点となっているのは、監視者は誰が監視するのかということである。


監視社会では監視者は、その立ち位置から、たんに透明で中立的存在であるだけでなく、超越的な存在とみなされ、そこからなんの根拠もなく善であるとみなされるのである。犯罪を取り締まる警察は、自然と、公正中立で不可侵な正義の体現者と想定されてしまう。これはポジションの問題であって、実際のところ、警察のなかにも不正はあるだろう。そしてそれが警察や司法組織だけでなく、政権全体となると、たとえば現在の日本の政権のようになること(腐敗と悪の巣窟みたいになることは)は、権力は腐敗する原則からすれば、当然のこととなる。そしてもしこの監視者を監視するシステムが完備しない限り、監視者側になれば、あとはやりたいほうだいである。監視者のポジションは、誰もみることができない完全な盲点となる。


もし監視社会が、すべてをすみずみまでまんべんなく監視する体制であるなら、その分、監視者だけが、この監視ネットワークの埒外に置かれることになる。完璧な盲点である。つまり監視システムは、誰にも邪魔されない、つまりやましさマックスの独裁権力を誕生させることになる。


共謀罪も同じである。改憲勢力というのは、日本の政体を根底から覆そうと、まさに共謀している勢力で、自民党と、その協力政党、さらには極右団体など、どうみても共謀罪で逮捕されても当然の、ならず者集団、国家転覆をはかるテロリストといてもいいだろう。だが、共謀罪は、彼らに適用されない。彼らを共謀罪で裁くことができない。とりわけ既存の政党関係者は完全に共謀罪の埒外にある。そしてまた共謀罪は、権力者の独裁(と腐敗)に対しては適用されないのである。共謀罪をつくった共謀者たちは、この共謀罪から免れているのである。


そして監視社会は、絶対にプライヴァシーを開かされることのない犯罪者、監視者という犯罪者を野放しにするだけでなく、このやましさマックスの犯罪者に絶対的権力を与えるのである。


おそらくこれがファシズムというのものだろう。

posted by ohashi at 17:12| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年07月15日

『ヒトラーへの285通の手紙』

フランス人監督が、脚本も書き、ドイツ人の原作を、英国の俳優を使って映画化した作品というとパトリス・ルコントが、シュテファン・ツヴァイクの原作をもとに、脚本を書き、レベッカ・ホール、リチャード・マッデン、アラン・リックマンといった英国人俳優を使って作った『暮れ逢い』(2014)がある。


舞台はドイツだが、台詞は全編英語だった。フランス人監督、英国人俳優、ドイツ人の原作、舞台はドイツ、台詞は英語という、仏独英参加国をまたがる映画だった。


これを思い出しのは、今回の『ヒトラーへの285通のハガキ』も同じだからだ。監督は、脚本も書いている(共同執筆)、ヴァンサン・ペレーズ! 俳優でもあるペレーズが、すでに映画監督でもあることを知らなかった。原作はドイツ人作家ハンス・ファラダ『ベルリンに一人死す』。原作は1947年刊行。2014年にみすず書房のより翻訳刊行。これが新訳か初訳なのわからない。この時期、つまり2014年頃、ハンス・ファラダの作品を見直す機運が高まったのだろうか。


俳優は英国人。エマ・トンプソン、ブレンダン・グリアソン、ダニエル・ブリュール。舞台はドイツのベルリン。台詞は全編英語。映画の中で、本や新聞はドイツ語で印刷されているが、台詞は英語である。なんとまあ国際的な。ただそれにしてもヴァンサン・ペレーズが映画も撮っていたことは知らなった。しかも前作『秘密』は東野圭吾原作で、日本でも映画化、連続テレビドラマ化された『秘密』のフランス版だったとは!


『ヒトラーへの……』は、全編英語の映画なので映画のタイトルがAlone in Berlinでもおかしくないのだが、これはイギリス版英訳タイトルで、アメリカ版はEveryman Dies Alone、そして日本語訳もハンス・ファラダ『ベルリンに一人死す』(みすず書房2014)となっている。しかしAloneは内容から察するに、夫婦ふたりだけになったということで、ふたりで孤独な戦いをしたということになって、なぜベルリンで一人死すなのだろうか。そこのところはよくわからない。


しかし、いっぽうで息子を失った夫婦が、悲しみと怒りによって、政権と体制に抗議するささやかで孤独な戦いを展開し、たとえ傷心と絶望を癒すことができなくても、消えそうになっていた夫婦の絆を強めていくという、ある意味、これは、強烈な愛の物語である。またそれにあわせて見事なまでの映像表現(とこの種の映画にありがちな抒情的な音楽)を堪能できるのだが、同時に、その背景となっている、ファシズム体制下での日常が今の日本(あるいは全世界的現象か)とシンクロしすぎて絶句するところがある。


原作がもとにした事実はOtto HempalElize Hempal夫妻のことで、妻Elizeの弟の戦死がもとで、夫妻はナチス政権を批判するハガキ・カードを285通書き、ベルリンのいろいろな場所(郵便受けとか建物の階段)に置いたという事件。原作・映画ではオットーとアンナ・クワンゲルと名前を変え、戦死したのは息子に変えた。配布したカードは285通に及ぶのだが、そのほとんどが発見したベルリン市民によって当局に届けられたので(未届けは映画によれば18通)、影響力はなかったかもしれないが、この犯罪によって、夫妻は死刑になった(斬首刑)。


ほとんど流通しなかったハガキ・カードを秘密裏に配布したことで、斬首刑。つまりこれは政治犯罪でもなくて、ファシズム下では、反逆罪という扱いを受けたのだろう。


唯一の救いは、斬首刑だったこと。首をはねるのは残酷に思われるのだが、絞首刑と違って苦しむことがない。実際、シェイクスピアの時代には、庶民は絞首刑だったが、王族、貴族は斬首刑だった。斬首刑のほうが楽に死ねたからである。そして当時、ナチス政権を批判した市民たちは、処刑されて食肉のように吊るされたのだから、それに比べれば、幸せな処刑法でもあった。もっとも首か首なし死体を辱めるようなことを親衛隊のクズどもはしたかもしれないのだが。


実はこのヘンペル夫妻(映画ではクワンゲル夫妻)の事件は、すでに映画化あるいはテレビ・ドラマ化されているらしく、今回の映画化はリメイクというかたちになるようだが、歴史的再現度とその映像美、エマ・トンプソンとブレンダン・グリーソンという英国の俳優たちの内面の動揺を感じさせながらも抑えた演技によって、見ごたえのある映画となっている。そして、すでに述べたように、この映画は戦場ではなく銃後の市民生活の現実というかその裏面を暗示的ながらも明確に提示しているのだが、そこで描かれる日常が、今の日本のそれとあまりにも似ていることに慄然とする。


ナチスの一党独裁、あるいなナチス一教の政治。ファシズム体制における建前だけの理想社会と、腐敗しきった権力者たち。戦争状態という口実のもとに統制を強め、暴力支配を蔓延させる。親衛隊とならず者とが市民生活を圧迫する。警察国家と監視体制。ファシストどもは、当然、共謀罪によって、恣意的に警察権権力を行使でき、恐怖政治を常態化させる。反対する者に対しては、これを徹底的に弾圧する。警察による監視体制を活用し、印象操作をおこない、相手が反発したら、権力者を悪者にする印象操作をおこなっていると何度もぶちぎれる。それでも批判がやまなければ、共謀罪によって一掃する。しかも権力者は抑圧し弾圧することに喜びを見出す犯罪者サディストであり、権力者は権力を濫用して身内に友人に利益誘導をも辞さず、国民に忍耐と自制を強いる一方で自らは特権を享受して安逸な生活をいとなむ。みずからに甘く腐敗しているのに、国民に対しては、清浄と勤勉と愛国と清廉さを求めるという権力者の病理……


さらにいうなら暴力的権力体制を前にして、ひたすら忠誠と従順さを強いられる市民生活の悲惨さも理解できる――たとえカードの内容に賛同しても、それを表明したら殺されるがゆえに、当局にカードを届け、あとは沈黙を守るしかない市民について、理解できるが、同時に、そしてこれが重要あなことだが、だからこそ、たとえどんなにささやかななものでも、どんなに賛同者も仲間もないまま孤独を強いられていても、みずからの命を、身内を危険にさらすことになっても、体制を批判せずにはいられない市民が存在すること、その動機と行動もまた理解できることである。


若い人たちにとって体制を批判することは将来にかかわる危険なことである。むしろ老人こそが、たとえ老後の不安のなかで行動できないことが多いとはいえ、若者のよりも失う未来がないぶん堂々と体制批判ができるのではないだろうか。老人は、仏(ほとけ)になっている場合ではない。怒れる鬼神となって、ファシストの跳梁跋扈を許してはならない。


いまファシストたちが日本を破壊しようとしている、いまこの時に。

posted by ohashi at 22:36| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年07月12日

中嶋しゅう氏追悼

中嶋しゅう氏は。今月76日に東京芸術劇場シアター・ウェストでの公演『アザー・デザート・シティーズ』で、舞台から客席に転落し、病院に搬送されたが同日22時頃に亡くなられたとのこと。最初は舞台からの転落事故で死亡かと思われていたが、舞台上で急性大動脈解離を発症したことが死因だったようだ。


翻訳劇をよく見ている私としては、昨年は、中嶋しゅう氏の舞台を、『あわれ彼女は娼婦』(新国立劇場中劇場)『いまここにある武器』(シアター風姿花伝)『ヘンリー四世』(新国立劇場中劇場)とみてきただけに、その死が悔やまれる。実は勘違いして今年のKAATの『春の目覚め』にも出演されていたと思い込んでいたのだが、出演していたのは大鷹明良氏であった。ただ二人は似てはいないのだが、風貌、性格付けなど同じタイプといえなくもなくて、翻訳劇を見に行けば、なんとなく中嶋しゅう氏に会っているような錯覚を覚えた。それほどまでに中嶋しゅう氏は、出演していると、その劇作品が一挙に緊迫感と立体感を増すような、珠玉の俳優だったし、同時に、どんなにつまらない作品でも中嶋氏の存在が、その作品を重厚な傑作にするようにも思われたのだ。7月は忙しすぎて、『アザー・デザート・シティ』を観劇予定からはずしていたのだが、また初日に行くことはめったにないのだが、目撃していたら、ショックが大きすぎて、こちらもどうかなってしまっていたかもしれない。本日葬儀がいとなまれたとのこと。謹んで哀悼の意を表したい。


posted by ohashi at 22:48| コメント | 更新情報をチェックする