2025年01月02日

御器所

以下のネット記事が目についた。
「撫牛子」「御器所」「放出」「十六島」←全部読める? 全国4700人が答えた「他県民には読めない地元の地名」発表 オトナンサー編集部 の意見 • 2025年1月2日

ソニー生命保険(東京都千代田区)が「47都道府県別 生活意識調査2024」を実施。「他の都道府県の県民には読めないと思う地元の地名」についての結果を発表しました。

調査は2024年10月18日から同月28日、全国の20~59歳の男女を対象に、インターネットリサーチで実施。計4700人(各都道府県100人)から有効回答を得ています。

「他の都道府県の県民には読めないと思う地元の地名」について各都道府県の在住者に聞いたところ(自由回答)、北海道では「倶知安(くっちゃん)」、青森県では「撫牛子(ないじょうし)」、千葉県では「匝瑳(そうさ)」、富山県では「石動(いするぎ)」、長野県では「麻績(おみ)」、愛知県では「御器所(ごきそ)」などの回答が。

また、京都府では「間人(たいざ)」、大阪府では「放出(はなてん)」、奈良県では「京終(きょうばて)」、島根県では「十六島(うっぷるい)」、福岡県では「雑餉隈(ざっしょのくま)」、長崎県では「女の都(めのと)」、宮崎県では「都城(みやこのじょう)」といった回答が集まったということです。

あなたの地元にある「他の都道府県の県民には読めないと思う地名」は、どんな名前ですか?

この記事で、愛知県では「御器所(ごきそ)」という回答があったということだが、やはり、これは読めないか。

私には読める。実際、パソコンで「ごきそ」と打つと、「御器所」に変換される。だからPCのデータに入っている地名なのだが、それとはべつになぜ私に読めるのかというと、私は名古屋市の昭和区の御器所(ごきそ)という地名のところに住んでいたからである。子供の頃からずっと成人するまで。だから子供のころから親しんだ、またいまとなってはなつかしい地名なのだが、それがよりにもよって、愛知県のなかの読めない地名の例としてあがるとは。

正月早々、縁起がいいのか悪いのかわからないのだが。
posted by ohashi at 23:13| コメント | 更新情報をチェックする

『正体』

監督:藤井道人。2024年11月29日公開
【冤罪とか警察の捜査方法とか死刑制度などについて、この映画をめぐっていろいろ語られているので、ここでは映画の様式あるは形態に集中して語ることを許していただきたい。】

映画の冒頭近くで、脱獄した死刑囚・鏑木慶一/横浜流星を追ってきた刑事・又貫征吾/山田孝之が、脱獄後の鏑木/横浜流星と接触した数人と対峙する場面がある。左側に刑事/山田、右側に関係者が位置して、対峙するふたりの横顔が画面を占める。鏑木/横浜と接触した数人は、鏑木/横浜が嘘をついていた、あるいは何も語らなかったので、脱獄し指名手配された人間とは気づかなかったと口をそろえて証言する。いらだちを隠せない刑事/山田の顔が、最後に、正面から映し出される。それは取り調べたこの数人の特定の誰かではなく全員に語りかけている、あるいは全員に同じことを語りかけているという印象をあたえるのだが……。あなたたちは、彼の正体を見破れなかったのですか、と。そして次にタイトル「正体」の文字が大きく画面にでる。

私たちと言ってもいいのだが、つまり私と同じような平均的な知力をもつ平均的な観客、私たちは、ここで脱獄囚が、その逃亡生活のなかで、こうした人たちと接触し、彼らをもののみごとに騙しおおせたのだろう、そういう物語の映画にちがいないと予想する。そしてさらに予想する、彼が、その狡知によって、いかに正体を見破られずにすごしたのか、それが映画の醍醐味となるだろう、と。

だが映画の最後になって、刑事と関係者が横向きで対峙するこの冒頭の場面は、最初とは異なる意味合いを帯びることに気づくことになる。

これは私が勝手に、あるいは気まぐれに、冒頭の場面を思い出したということではない。映画の最後のほうでも、この対峙の場面がもう一度出てくるのだ。対峙する右側の人物(つまり彼と接触していた人たち)は同じであり、左側の人物だけが異なる。左側の人物は、刑事ではなく鏑木/横浜流星であり、彼は収監され、いま面会室でガラス越しに対峙しているのである。そして彼と接触している人物たちはみな口をそろえて、彼の無実が立証されることを信じ、彼を励ますのである。

【ここですでにネタバレを一つ。原作では鏑木は最後に殺され、生きているうちに冤罪を晴らすことができなかった。映画では彼は銃で撃たれるものの一命をとりとめ、収監され、裁判に臨むことになる。なお、以下、ネタバレを含む記述となるので注意。】

この最後の場面、正確には裁判で判決が言い渡される前の収監中の鏑木と、関係者が対峙する場面は、冒頭の同じような対峙の場面(おそらくは警察の取調室での)を思い起こさせるものであり、冒頭の対峙場面の再考を観る者に迫るのである。

冒頭で、刑事・又貫征吾/山田孝之は、彼の正体が見抜けなかったのかと咎めるように言い放す。だが、映画を観終わったか、観終わりそうになっている観客にはわかる。彼らは正体を見抜いていた。鏑木慶一/横浜流星が、指名手配されている脱獄囚であることを、そして彼が人殺しなどしない無実の人間であることを。そうこの映画は、狡猾な脱獄囚が出会った人びとを騙して逃げおおせる話ではなかった。彼と出会った人々が、騙されるのではなく、彼の正体を知るようになる話だと。そして彼の正体を知るようになった人びとはみな彼を愛するようになるのだ、と。誰一人としてだまされてはいなかった。誰一人として正体を見失うことはなかった。

この冒頭の場面は、こうして最初の印象とは異なるものとなるのだが、異なるのはそれだけではない。刑事/山田孝之は、彼の正体を見破れなかったのですかと問うのだが、その問いは、刑事自身にもはねかえってくる。刑事は、鏑木/横浜の正体をほんとうにわからなかったのか。いや、ひょっとしたら刑事/山田自身、鏑木/横浜が無実であることを最初からわかっていたのではないか、彼は正体を見破っていたのではなかったか。

かくして冒頭の対峙する場面は、無知をテーマにしているかにみえて、実は、洞察をテーマとした場面へと反転する。

これが冒頭の対峙場面の正体である。

無知を装った洞察、あるいは洞察を語れない沈黙といってもいい。鏑木慶一/横浜流星が逃亡するときの方法が壮絶なのだが、彼は独房でガラスの破片かなにかで自分の口の中を、舌を傷つける。口腔内からおびただしい出血をする。それを吐血と思わせることによって、彼は救急車で刑務所から病院へと運ばれる。その途中で救急車から逃げ出すのである。

この、ある意味、狡猾な、そしてその命がけの脱出方法には感動すら覚えるのだが、同時に、そこにはアレゴリカルな意味も込められている。口を舌を傷つけることは、彼が無実を主張しても聞き入れてもらえなかったこと、声を言葉を失ったも同じ状態であったことを、私たちに強く印象付けるのである。

となると冒頭の対峙場面における彼と接触した人びとの無知(思われるもの)も、彼の無実を主張したい声を封じられていたことのアレゴリーともとれないことはない。実際、彼と接触した人びとは、やがて連帯し、彼の無実を主張する運動を起こすまでになる。声を奪われていた彼に声をあたえる人びとがあらわれてくるのである。

無知から知へ、無音・無声・沈黙から音と声そして主張への変遷は、映画の最後の判決申し渡しの場面でも繰り広げられる。

いま変遷といったが、反転といったほうがいいのかもしれない。冒頭の対峙場面が無知から知へと反転する。この場面の刑事の問いかけが、問いかける者つまり刑事へと反転する。問う者が問われる者になるという反転。

ここで思い出されるのが鏑木慶一/横浜流星が、ジャーナリストの安藤沙耶香/吉岡里帆の住居に隠れていたところ刑事たちに踏み込まれ窓から街路へと飛び降りて逃げ出すシーンである。住宅街か商店街かどちらともつかないところだが、人通りの多い場所を彼は必死で逃走する。ワンテイク・ワンシーンで撮られていたと記憶するが、迫力のあるこの逃亡シーンにおいて、街の人びとは彼の行く手を阻む敵でもある。おそらくは全員エキストラなのだろうが、観ている側からすると、一般人を巻き込むゲリラ撮影をしているとしか思えず、道行く人びとが、彼の逃走経路上の障害物にしかみえず、ごく普通の庶民ともいえる人びとが凶悪な妨害者・通報者・監視者にもみえてくるというパラノイアを観客は主人公と共有できてしまう(なお彼は川に飛び降りて逃げおおせるのだが)。

逃亡者である彼にとって、妨害者・通報者・監視者でしかない人びとの群れは、映画の最後のほうには、反転して、彼を冤罪事件・誤認逮捕の被害者として再捜査を求める声をあげる人びとへと変わってゆく。敵とみえていたものが、味方へと反転する。それは鏑木/横浜流星が事件の真相を追い、自己の無実を証明するために奔走するなかで多くの人と接触してきたことによって、彼の支援者たちをはぐくむことにもなったからである。

その行程は、一方で彼の存在を警察に通報することになっても、他方で、彼の支援者をつくりだした。敵と味方とが、不分明にまざりあり、それが最後には、味方だったとわかる。敵と即断することなく味方であることを見極めよ。あるいは敵が味方となることはある――これが最後の判決言い渡しの場面に劇的なかたちで反復される。

裁判所で判決が言い渡されるとき、傍証席にいる安藤沙耶香/吉岡里帆の顔が大きく映し出されるのだが、判決が言い渡されているとき、音が消える。無音で映像だけとなる(心理的に解釈すれば、判決を聞く前の彼女の極度の緊張状態から、茫然自失となり周囲の音が聴こえなくなったということだろうか)。彼女の周囲の人は判決を聞いて興奮している。なかには拍手している傍聴者もいる。だが無音なので、判決内容がわからない。拍手している人は彼が無罪を勝ち取ったことに対して拍手しているのか、凶悪な死刑囚の逃亡犯にこれでようやく正義の鉄槌がふりおろされ極刑が言い渡された、このことに拍手しているのかわからない。無音のまま、私たちは、傍聴席の人々の顔やふるまいをつぶさに観察することになる。そして彼の支援者が満面の笑みを浮かべて拍手している様をみて、確信する。無罪判決だったのだ、と。と、このとき音が戻る。無罪判決に沸き立つ傍聴席、そして笑顔をみせる横浜流星。エンドクレジットがはじまる。

この判決言い渡しの場面が、映画全体の集約となっていることは詳しく語る必要はないだろう。またそれは奇をてらった演出ではなく、映画のロジックの延長線上に確固たるかたち位置づけれる映像表現であることは、どれほど強調しても強調したりないのであるが。

結局、正体とは、死刑囚の逃亡犯の無実の正体であっただけでなく、彼の正体を見抜き、彼を支援する人たちを集わせる社会のありようでもあったのだ。凶悪な犯罪者の正体は、無実の無垢の高校生だった。誤認逮捕した刑事や警察はまた再捜査を決断する真相究明者でもあった。凶悪殺人犯を糾弾した世論はまた冤罪事件を糾弾する正義の声でもあった。敵の正体は、敵ではなかったかもしれない。あるいは敵の正体が味方であると信ずること。そしてその化学変化を、そのプロセスをみきわめること、それがこの映画の映像表現の賭けだったのだ。
posted by ohashi at 22:58| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年01月01日

『ライオンキング:ムファサ』

I always wanted a brother.

『ライオンキング』は、最初のアニメ版(正確には舞台ミュージカルのアニメ版)しかみていなくて、その後のアニメ版や実写版のスピンオフ篇などなにもみていないのだが、今回、『ライオン・キング:ムファサ』(原題Mufasa: Lion King, 2024)を予備知識なしの吹き替え版実写版でみることに。

ただ正確には実写版ではなくて、実写のようなCGによる映画なのだが、それにしても、予備知識ゼロで観たために、最初は知らない名前のライオンたちが出てきて、物語がつかめなかったが、最後にスカー(アニメ版ではムファサの弟)が誕生し、ムファサがシンバの父親であることもわかり、最初のアニメ版の前日譚であることがはっきりして大団円を迎えることになった。

それはそれでよかったのだが、予備知識ゼロで観たために、監督がバリー・ジェンキンズであることをエンドクレジットではじめて知ることに。バリー・ジェンキンズ、そう、正統派とでもいうべきゲイ映画でアカデミー賞も獲った『ムーンライト』(2016)の監督じゃないか。それがわかると、この映画がにわかにゲイ映画にみえてきた。

最初のアニメ版はシェイクスピアの『ハムレット』の翻案でもあって、兄が邪悪な弟に殺され、その兄の息子が、その兄の弟つまり叔父に復讐する物語だった。シェイクスピアお得意の兄と弟の確執と、弟による兄殺しの世界だが、それは『ハムレット』のなかで言及もされているように、聖書で語られる世界で最初の殺人事件、弟カインによる兄アベル殺しという原型的な兄殺しにもつながる神話的次元をももっていた。アニメ版では、ムファサ(兄)とスカー(弟)の対立である。

ところが今回の『ライオン・キング:ムファサ』(以後、『ムファサ』と表記)では、ムファサとスカーは兄弟ではなくなった。血のつながりはなくなった。アメリカのディズニー・ファンはこの設定の変更を怒っているらしいのだが、ふたりは兄弟ではなく、血のつながりのない他者となった。そしてここにゲイ物語誕生の契機があった。ムファサとスカーは、兄弟未満、友達以上の情愛関係をむすことになるのだから。

ムファサとスカー(スカーは後年の綽名のようなもので、もともとはタカと呼ばれていた)の物語は、川でワニに追われていたムファサをタカが救出するところからはじまる。そう水の物語。

よそ者の流れ者(文字通り「流れ者」なのだが)となったムファサは、タカの父ライオンであるオバシから嫌われ、雌ライオンの群れのなかで暮らすことを命じられる。流れ者になってからのムファサのジェンダーは雄雌の中間に、あるいはトランス的なものとなる。ジェンダー的にも流れ者である。いっぽうタカは父ライオンの後継者として優遇されるが、タカとムファサは、おかれた境遇に関係なく、血のつながった兄弟のように仲が良い幼少期を過ごすことになる【予告編では「兄弟が欲しかった」というセリフが強調されていて、それを語るのがムファサで、新たにできた兄弟は弟のスカーだと思っていた。新しく子供が生まれて弟や妹になる。ところが映画をみると、そう語るのはタカ/スカーのほうであり、これで頭が混乱してしまった】

だがそれも、凶悪なはぐれライオンの襲撃の際にタカが臆病風にふかれたことから、勇気あるムファサに対して優位に立てなくなり、物語が新しい段階に入る。

兄弟のように仲の良い二人は、血のつながった兄弟ではないから兄弟愛というよりも友情関係にあるのだが、おそらくそれを〈兄弟未満・友情以上〉のゲイ的関係とみるのは、こじつけがはなはだしいと批判されるかもしれない。たしかに、映画のなかで幼い二人に明確なゲイ的関係はない。そこには是枝裕和監督の映画『怪物』にあるような小学生どうしの同性愛的関係はない。しかし『怪物』との類似性はある。それが水。つねに諏訪湖のみえる場所で事件は起こり、最後には少年二人が洪水で流されて死ぬという『怪物』の物語は、『ムファサ』とともに水のイメージを共有し、『ムファサ』も『怪物』と同様の同性愛物語であることを暗示してはいないだろうか。水の力で。

実際、『ムファサ』がこれほど水にこだわる映画とは予想だにできなかった。ムファサは洪水によって父・母と別れ、急流に流され滝つぼに落ち、そして救出される。また最後の白いライオン、キロスとの決闘の場面も、水のなかである。これはムファサにとって幼い頃の経験から、水がトラウマになり、水が弱点となっていることによる物語の盛り上げ方とも関係しようが、それにしても水が多い。『ムファサ』の水は、ゲイ的物語を暗示しているのである。

そもそも動物界は、セックスが後背位であることもあって、ゲイの世界である。そしてもうひとつ、アニメ版では声を担当している俳優陣は白人と黒人との混合によって成り立っているが、『ムファサ』では、アフリカのライオンを含むすべての動物がほぼ全員、黒人の俳優が声を担当している。『ムファサ』において強大で邪悪な天敵ともいえるキロスは白いライオンで、その声だけは白人が担当している(マッツ・ミケルセンである)。したがって『ムファサ』における白いライオンとその他のアフリカ・ライオンとの対立は白人と黒人との対立となっている(日本語吹き替え版ではこの関係は再現できない)。

アニメ版から『ムファサ』へと移行する段階で、その世界は、アフリカ系アメリカ人の世界になった。では、セクシュアリティの面で、アニメ版から『ムファサ』への移行において、その世界は、ヘテロからゲイへと変遷ととげたのか。いや、そもそもアニメ版においてもゲイ的要素は濃厚だった。むしろ『ムファサ』ではヘテロ性が強化される――とはいえゲイ的要素は消えることはないのだが。

最初のアニメ版、『ハムレット』の翻案であった『ライオン・キング』では、兄のムファサを殺すスカーは、兄の死後、兄のハーレムを引き継ぐこともなく雌ライオンに興味をしめさず、雄のハイエナたちとの生活を変えようとしない、まあゲイ的要素が濃厚なライオンだった(声はジェレミー・アイアンズが担当)――悪魔化されたゲイ男性というイメージだった。実際、『ハムレット』の場合、兄には大学生になる息子(ハムレットのこと)がいるのに、その兄の弟はずっと独身なのである。そのために考えられることは二つ。ひとつはゲイであること。もうひとつは兄嫁(ハムレットの母)に対する恋慕の情があって、機をみて兄を殺害し、兄嫁と結婚するに至ったという設定。このふたつの設定を『ムファサ』は引き受けているようにも思われる。

『ムファサ』におけるヘテロ化プロジェクトとは、おそらくこうである。ムファサとタカは、子供頃は同性愛のふたりのようにじゃれあっていたのだが(そもそも子供は同性愛者である――フロイト的にいうと子供は多形倒錯期あるいは肛門期にある――要は子供はみんな変態のホモだということである)。やがて、ヘテロの世界へと成長をとげ、子供は大人になる。『ムファサ』において、その契機となるのが、雌ライオン・サラビ(シンバの母)との出会いである。サラビをめぐってムファサとタカはライバル関係になるのだが、ムファサはつねにタカをたててサラビを譲る格好になるのだが、実はそれがサラビに見抜かれ、サラビとムファサの仲がかえって深まるかたちになる。そしてタカは、ムファサによる盛り上げにもかかわらず、サラビとは結ばれなくなる。

実はこの映画ではタカに差し出される援助の手はどれも悪手となって、彼を不幸な目にあわせてしまう。そのアイロニックな悲劇性が顕著である。そして彼が不幸になるのと反比例してムファサはヒーロー化してゆく。不安定なジェンダーの雄から一人前の王者としての雄ライオンへと変貌をとげる。宿敵の白ライオン・キロスも倒す。そして王者として動物界に君臨する。

しかし、このヘテロ化には裏面がある。雌ライオン・サラビをめぐってムファサとタカはライバル関係にあったのだろうか。たしかに最終的にタカは、サラビをムファサによって奪われるかっこうになる。その恨みが後年、タカ/スカーによるムファサ殺しとなるように思われる。しかし、ムファサとタカは兄弟のように仲が良かったのであって、そこに旅の友として雌のサラビが入ってくることによって二人の疑似兄弟関係にひびが入りはじめる。ゾウの暴走からサラビをまもったムファサのことに対し、タカは、サラビを恨んでいたのではないか。つまりサラビをめぐっての雄ふたりのライバル関係とみえたものの裏には、ムファサをめぐるサラビとタカのライバル関係があったのではないか。前者はつまり女一人を男二人が奪い合うヘテロの三角関係、後者は男一人を男と女が奪い合う、ヘテロとホモとの競争関係となる。

ムファサは、サラビをタカに譲ることによって、タカとのホモソーシャル関係あるいはホモセクシュアル関係を維持しようとする。ところがそれが裏目にでて、サラビはムファサを愛するようになる。そうなるとムファサとタカとのホモソーシャル関係が分断されることになる。ヘテロ関係はホモ関係と絡まり合っているのである。

要は『ムファサ』において典型的なヘテロ物語とみえたものが、その裏面ではゲイ物語でもあったということである。これをムファサの物語とスカーの物語といってもいい。両者は同じ物語を共有している。だがその意味は異なる。ちょうど絨毯の裏と表が同じ図柄を共有しながらも見た印象が大きく異なるように。したがって『ムファサ』は、ヘテロ物語と読んで全然問題ないのだが、同時に、ゲイ物語と読んでも全然問題ないのである。

タカは、キロスからムファサを助けるために顔面に傷を負う。それがスカーという名前の由来になるのだが、ある意味、それは名誉の負傷でもある。しかし、ムファサにとって、それは裏切り者のタカの忌まわしいしるしでもある。しかも傷をもつ者は、物語においては同性愛者であることが多い(現実に、傷のある人間が同性愛者であることはまずない。あくまでも物語のなかでの常套的設定のことである)。スカーは、ゲイのしるしである。それが名誉の負傷のしるしであることが判明することはあるのだろうか。『ムファサ』の後日譚を知っている私たちは、残念ながら、その日が来ないことを知っている。
posted by ohashi at 12:02| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年12月20日

筑波大学の思い出

秋篠宮家の長男・悠仁親王が筑波大学に推薦入学で合格されたことで筑波大学そのものもがいろいろなところで話題にのぼるようになった。

私は筑波大学では集中講義で教えたことはないのだが、研究会の講師として招かれて話をしたことがある。私を招いていただいた先生にキャンパスを案内していただいたときのこと。

当時は、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』の日本語翻訳者であった筑波大学の五十嵐助教授が殺害されたあとのことで――直後ではないが、その余波が続いていたころのこと――、構内には目撃情報を求める文書がまだあちこちに掲示されていた。

そのひとつに目をとめた私は、ふと、気になって、いまいるキャンパス内の道路上で、周囲を、それこそ360度見まわしてみた。そして愕然とした。人間の姿がまったく見当たらない。無人の空間だった。これでは目撃者などいようはずもない。

ちなみにいま私は自分の住居の窓から外を眺めてみた。その窓が向いている方角には、人間の姿が一人もみあたらなかった。しかし車が動いている。近くの道路の騒音が聞こえてくる。また私鉄の電車が動いているのも見える。たまたま人間の姿を見かけなくても町は生きている。ところが、そのときの筑波大のキャンパスは、人間の姿も車の姿もなにもみえず、しかも雑音すら聞こえてこなかった。神秘の無人の沈黙のキャンパスだった。

ただし正確な日時を覚えていないのだが、夏期か春期の長期休暇中だったので、学生がほとんどいなかったせいもあるのだが、それにしても人口密度が低すぎた。いや人間がいなかった。とはいえ、1990年代のことである。今は違うのかもしれない。


もうひとつ。筑波大学の院生、2,3人に東大での大学院の授業の一環で研究発表をしてもらったことがある。筑波大学の院生を個人的に知っているという東大の院生の紹介だが、興味深くまたほんとうにすぐれた研究発表内容で、その後、その院生は本も出した。

授業後の雑談のなかで、筑波大学の院生は、キャンパス生活のことを、自虐的に面白おかしく紹介していた――幽霊が出るとかいうような話を。その時、自殺者が多いという話にもなった。しかし、自殺者はどの大学でも、あるいはどの学校でも多い。わざわざ大学に来て自殺する学生もけっこういる。そうした事例は、どの大学も積極的に公表しないか、そもそも伏せてしまうから、実態はよくわからない。ただ、自殺する学生はどの大学でも多い。自殺者の多さがその大学の特徴にはならないというようなことを私は話した気がする。

すると、その院生は、いえ、自殺する学生が多いのではないのです、と語った。教員や研究者の自殺が多いのです、と。

絶句。まあ21世紀初期の話である。今は違っていると思う。

posted by ohashi at 12:10| コメント | 更新情報をチェックする

2024年12月18日

血小板

本日は、コロナワクチンとインフルエンザワクチンの両方を同時に接種してきた。

このところワクチン接種の時間がとれず、本日までのびのびになっていたのだが、ようやく二種のワクチンを接種、それも同時接種。ワクチン陰謀論者からしたら、ふたつも同時に接種するとは自殺行為なのかもしれないが、もちろん政府・厚労省は同時接種が可能であるとしている。

病院で支払いをすませて帰り道、近くの公園のブランコや砂場があるセクションで、幼稚園児たちが黄色い歓声をあげて遊んでいる(近くの幼稚園では、午前中のこの時間、公演で園児たちを遊ばせている)。みんな帽子をかぶっている。

あ、こっ、こっれは、血小板ちゃんたちだ。心の中で思わずそう叫んだ。

これはワクチン接種の副反応によって起こった幻覚ではないよ。
posted by ohashi at 17:58| コメント | 更新情報をチェックする