2025年10月24日

『西に黄色のラプソディー』

フライングシアター自由劇場 第六回公演『西に黄色のラプソディ』(原作 シングThe Playboy of the Western World、脚色・演出・美術 串田和美、10月20日~27日)を吉祥寺シアターに観に行く(本日ではない)。

串田和美氏によれば、
この作品は今回で6度目の上演になるけれど、今までで一番、ぶっ飛んだ作り方をします。これまでは酒場のセットをポンと置いたんだけど、最初は何もない更地から始めようと。そしてだんだんノスタルジーというのが少しずつ具体的に浮かんできて〔中略〕。本当は全てが不確かなノスタルジーに包まれてるようにしたいんです(公演プログラムp.22より)

ということだが、なぜノスタルジーにしたのか、最初は、よくわからない。更地といっても、舞台には鶏(生きている本物)が動き回っているし(鶏のいつもながらの力強い歩行に開演前に見入ってしまった)。嘘と祝祭的狂騒を基軸として、振り返れば結局夢か現実か定かでなく、終わってみればむしろ物悲しくなるといった出来事を扱う戯曲は、なるほど、ノスタルジーと同じ構造をしているのであって、串田氏の炯眼には感銘を受けた。

そのためか、ぶっ飛んだ演出でも、劇の基本構造は損なわれるどころか、むしろくっきりと際立つことになり、これはまぎれもなくシングのThe Playboy of the Western Worldの、おそらく誰にでも勧められる舞台である。

The Playboy of the Western World。シングの有名な代表作だが、タイトルの定訳がない。『西の人気者』とか『西の国の伊達男』と訳されている。私が持っているのは大場健治訳の『西の国の伊達男』を収録したシング選集(戯曲編)である。

Western Worldというのは、アイルランドで大西洋側を向いている地域。イングランド側を向いている地域に比べて田舎で辺鄙なところなのだろう。Playboyがうまく訳せない。いわゆる「プレイボーイ」なのだが、たしかに主人公の若者にはそう呼ばれて当然の要素があるが、同時に、その語が示唆するような都会的で洗練された(そして堕落した)要素というのがあまりない。また主人公は運動競技にも優れていて、このプレイボーイはいろいろな競技をプレイするスポーツマンでもある。さらにはほら話や嘘を語り、真実とプレイ(戯れ)をし、その真実とも虚偽ともつかぬ話で周囲の者を手玉にとる(プレイする)、詐欺師でもあるいたずら者でもある――この場合、プレイボーイの同義語はトリックスターである。と、こうなると適当な一語の訳語というのがみつからないのである。

あと、アイルランド文学や文化の専門家ではない私でも気づくこととして記しておきたいことがある。シングとアイルランドというと、ローカル性や文化的後進性だけが強調されて、アイルランドの持つ文化的先進性なり先端性、そして脱ローカル的な文化が見落とされることである。

たとえばシングの最初の劇、一幕物の『谷の陰』は、どうみてもアイルランド版『人形の家』なのだが、たとえば上記『シング選集【戯曲編】』では、どこにもそのことが触れられていない。地方の老人から聞いた話が元ネタとのことばかりが強調されて、この文化的後進国のアイルランドの田舎作家シングには、ヨーロッパを席巻したイプセン劇も、またヨーロッパにおけるフェミニズムも無縁と思われたのだろうか。ちなみに『谷の陰』の主人公の名前は、『人形の家』の主人公の名前と同じノーラである(『人形の家』のノラは、ノーラとするほうが正しいらしい)。

つまりシングは、アイルランドの土着文化なりローカル色を強く出した作品を残したのだが、同時に、文化の最新の潮流について無関心どころか目配りをしていて、れっきとしたモダニズム作家なのである。そうであるがゆえに、その戯曲のいくつかは、アイルランドのローカルな生活を描いていながらも、アイルランドの田舎者たちに気に入られなかった。そのようなシングの先進性とモダニズム性を無視していいのだろうか。

もうひとつ、アイルランド文化はギリシア・ローマ文化と直結していた。そのため、時々ショートする。アイルランドのことを何も知らないT・S・エリオットという評論家・詩人が、あるアイルランド出身の作家の手になるダブリンの一日を描く小説について、現代社会のカオスを、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』の物語になぞらえて秩序付けた快作と作者をほめたたえ、これこそがモダニズムの手法だと語って私たちをだましたのだが(しかもモダニズムの手法であるという勝手な断定が、その後、ほんとうにモダニズムの手法となった)、それはジョイスの特徴というよりもギリシア文化とショートしているアイルランド文化の特徴ではなかったのか。

ジョイスの『ユリシーズ』、オケイシーの『ジューノーと孔雀』というタイトル。そういえば、ブライアン・フリールの『トランスレーションズ』には、頭のおかしな男が、よりにもよってアテナ女神と結婚するという妄想を抱いていたのではなかった。

そしてシングのこの『プレイボーイ』。父親を殺したという若者の登場と、それにつづく狂騒は、まさにソポクレスの『オイディプス王』の世界――ただし近親相姦なし――ではないか。先に触れた『谷の陰』がローカルな伝承物語を『人形の家』とショートさせ、『人形の家』を基盤にして古い物語を読み解いた作品ともいえるのだが、もちろんそれはまた『人形の家』をアイルランドのローカルな伝承物語を鏡として読み解く試みでもあった。同じことは、『プレイボーイ』にも言えて、父親殺しの若者が英雄としてもてはやされるアイルランドの田舎の奇妙な出来事を『オイディプス王』という原型をもとに秩序付けたともいえるのだが、同時に、『プレイボーイ』は、『オイディプス王』に対する優れた注解(コメンタリー)ともなっている。

『オイディプス王』の場合、たしかに、ぶらっとテーバイにやってきたよそ者の青年が、どうして、後家の女性と結婚し、国王にまでなったのか、その間に何があったのかを考えると、オイディプス、やはりウーマナイザーというかプレイボーイではなかったか。それだけではなく、体力・知力にすぐれていなければ、国王になれない。彼はスポーツ万能のスポーツマンではないか。結局、ギリシア悲劇のオイディプスは、多義的な意味でいうプレイボーイではなかったのか。

しかもオイディプス、国王でありながら、最後には、父親を殺したことで罪人となり乞食の身となって追放されるのである。とはいえ、それはオイディプスが神に召される第一歩でもある。いっぽう『プレイボーイ』のほうでは、息子は民衆に殺されそうになるが、父親が生きていたことがわかり、父親とともに村を去るが、そのとき息子のほうは、象徴的に父を殺し、独り立ちをするのである。こうみてくると、『プレイボーイ』は、『オイディプス王』の、大胆かつ狡猾なアダプテーションとみえてくる。父親が死んだか死んでないか定かでないところは『オイディプス王』そっくりだし、後家のクイーンは、『オイディプス王』のイヨカステだし【それにしても後家のクイーンを演ずる銀粉蝶氏、歳をとられても、これ以上はないという美しさを示されて、今回の上演では、主役といってもよい圧的存在感を発散されていて、大いに感銘を受けた。ちなみに銀粉蝶氏とは、かつてブリキの自発団を立ち上げられた頃、一度だけお会いしたことがある――とはいえ、一言二言言葉を交わしただけで、会ったともいえないような出会いだったが――、以後、その活動は今日にいたるまで断続的だが追わせていただいている】、なんといっても、きわめつけは、この青年、劇の最後のほうでは足を焼かれそうになる――オイディプス同様に腫れた足首のなりそうなる。

幕切れは、老人(父親)と息子の出発だが、このとき三度殺されそうになる老人は、なにかオイディプスそのものとなり、その手をとって勇躍歩み出る息子は、オイディプスというよりも、目が見えなくなった父親(オイディプス)を導く娘のアンティゴネーのようにもみえる。さらにいえば、この親子は、旅芸人であり、行く先々で今回の出来事を語って観衆を楽しませることになるだろうから、この出来事は、エンターテインメント(演劇)の神話的起源ともなる。父親殺しの青年は、そのほら吹きといい、その身体的魅力あるいはカリスマ性によって民衆を魅了することといい、演技者、役者のメタファーである。
【嘘かほんとかわからないことをべらべらとしゃべり、その身体能力でみんなを魅了したあと、よその村や町へと父親とともに旅立っていったクリスティーを、一時はクリスティーとの結婚を考えていた居酒屋の娘ペギーン/那須凛はなつかしむところで原作は終わる。彼女はクリスティーのあとを追いかけてはいかない。だが、このクリスティーとその父親のプレイ(演技・詐欺・いたずら・遊戯)は、旅役者あるいは役者のメタファーそのもの、いやこの作品では、役者(プレイボーイ)そのものである。そしてペギーンのようにただなつかしむだけではなく、実際に、田舎町から、旅役者たちを追いかけていき、やがて自身も役者に、そして劇作家になった人物がいる。ウィリアム・シェイクスピアである。】

また出来事のカオスを『オイディプス王』によって秩序化したこの戯曲は、演技や演劇についての自意識性をにじませ、最終的に演劇の神話的起源ともなることで、ポストモダン的地平へと乗り出すのである――歴史的に回顧すると、当時のアイルランドの観客からの囂々たる非難をものともせず。

脚色・演出・美術の串田和美氏の舞台をすべてみているわけではないが、今回も含め、串田氏の舞台は(演出のことではなく、ご自身で出演されていること)、やはり違和感がある。
演技の質が違うのである。これをどう考えてよいかわからない。

もし独り芝居をされれば、癖のある独特の演技かもしれないが、違和感があるとか、演技の質が違うなどという感想をもつ観客はいないだろう。ところが他の演者にまじると、なにか違うのである。もし共演者たちが経験の少ないプロとはいいがたい俳優たちばかりだったら、串田氏の演技は、ずぬけて優れたものと言えるかもしれないが、今回のように、あるいはほかの場合もそうだが、共演者は、だれもが力のある、経験豊かな俳優たちであって、そのなかで、串田氏の演技だけが、下手とは思わないが、なにか異世界なのである。これをどう考えてよいかわからないのだ。

失礼を承知の上でいうと、串田氏は、こんなに優れた舞台を演出できたのだから――役者にどのようなかたちであれ演技指導され、役者もそれに応えて演出家の求める世界像にそった迫力あるドラマを生成できるのだから――、そして舞台美術もセンスのよさで際立っているともいるのだから、ご自身は舞台に立たなくてもよいのではないか。

しかし、むしろそこが面白いとことかもしれない。つまりこの劇『西に黄色のラプソディ』におけるように、よそ者は、なにか得体の知れない魅力のようなものを漂わせる――たとえその代償が周囲からの妬みや排斥願望だとしても。それと同じで、芸達者な演者のなかで、上手いとか下手というのを超越した異邦人的な串田氏は、その存在自体が、その違和感によって魅力となっている。なにか惹きつけるものをもっているような気がする。

今回、『西に黄色のラプソディ』では、主役は父殺し(と嘘をついた)クリスティーであり、串田十二夜という串田和美氏のご子息が演じられているのだが、作品上の主役・よそ者は、彼であっても、演技者のあいだでの、舞台での主役・よそ者は、串田和美氏であるように思われる。劇の内容のレヴェルでは、クリスティー/串田十二夜が主役だが、舞台レヴェル・演技レヴェルの主役は、クリスティーの父を演ずる串田和美氏ということである。そして、この劇作品『西に黄色のラプソディ』の内容は、串田和美氏(とその演技)を前景化する理論的根拠となっているという、ある意味、稀有な関係性を示している。劇の内容は父親殺しだが、演技レヴェルでは、息子が父親の存在意義を保証し補強しているのである。

であればこそ、今後も、串田和美氏の舞台をみてみたい――つまり演出家としての串田氏の舞台と、串田氏自身が劇中人物として登場する舞台を。

付記:
ここで宣伝をひとつ。このシングの『プレイボーイ…』について、短いながらもすぐれた議論を含むのがテリー・イーグルトン『悲劇とは何か』大橋洋一訳(平凡社1925)である。シングのこの作品は悲劇ではないので、どうせソポクレスの『オイディプス』の話がメインではないかと思われるかもしれないが、たしかに『悲劇とは何か』には、すぐれた刺激的な『オイディプス』についての議論があるが、シングのこの作品が論じられているのは「有益な嘘」と題された章である。今私が語ったこととは異なる観点から、シングのこの作品を鋭角的に論じているので、読まれて損はない、有益な本である。本の価格が5キロの米の値段とあまりかわらないのがこの本の唯一の欠点だが。
posted by ohashi at 23:01| 演劇 | 更新情報をチェックする

2025年10月23日

『プンティラ旦那と下男のマッティ』

この記事は、上映が終わる26日以降にアップしようと思ったが(その理由は、記事を読んでいただければわかる)、しかし、ブレヒトのこの劇は、パブリックなパフォーマンスとしては、おそらく日本では2度目くらいであり、さらにはブレヒトについて、また主従をめぐる劇について、いろいろ考えさせてくれる貴重な機会を提供してくれるということもあり、宣伝もかねて、ここにアップする次第。とはいえ誰も読まないだろうとは予測しているのだが。
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『プンティラ旦那と下男のマッティ』17日から26日まで、座・高円寺1で上映中のブレヒト作『プンティラ旦那と下男のマッティ』(構成/演出:松本修)を観てきた。

ブレヒトのこの作品の上演をこれまで観たことはないし、そもそも読んだこともなかったので、今回、上演にあわせて岩淵達治先生の翻訳を予習のために読んでみた。

タイトルからして、一幕物のみじかい喜劇あるいは笑劇かと思っていたが、読んでみると全12場の本格的な長編作品である【岩淵達治個人訳の『ブレヒト戯曲集』(未來社)の第5巻には「肝っ玉…」と「ゼチュアン…」とこの「プンティラ…」の三作品が収録されているが、「プンティラ…」は他の二作品に質量ともに匹敵する】。しかもフィンランド亡命中にフィンランドの女性作家ヘラ・ウォリヨキとの共作というかたちで書かれたこともあって、フィンランドを舞台にして地方色が濃い。

はたせるかなフィンランドの豊かな自然の風景が喚起されるのだが、それと同時にしっかりフィンランドの黒歴史も語られる。第二次大戦中にはソ連とドイツの侵攻を受け苦境に立たされたフィンランドの苦難の歴史は、全世界的に憐憫の情を喚起したのだが、しかし、そのようなセンチメンタリズムなど踏みにじる――そして作品の随所で語られる――国内の反体制勢力弾圧の歴史が、資本家と庶民の分断の歴史がフィンランドには紛れもないかたちで存在していることを、ブレヒトは容赦なく暴露する。愛されるフィンランド。だがフィンランドよ、おまえもかという嫌悪されるフィンランドがそこにあった。

今回の上演では、「構成/演出:松本修」とあったので、この長い芝居を適当にアレンジして2時間以内に収めるのだろうと思っていたが、上演前に示された配役表をみて驚きまた期待がたかまった。全12場すべてを上演するのである。細かな省略やアレンジはあるにせよ、作品全体を観られるのはすばらしい。上演時間も休憩をはさんで2時間半近くに及んだ。

このところ、誰のせいでもないのだが、最近観る演劇の私の座席がすべてが見切り席みたいになってしまい、視界が前に座った観客のせいで遮られていたのだが、座・高円寺1は客席が傾斜が急な階段状でどこに座っても、またすぐ前にどんな巨漢が座っても、視界が遮られることのない、よい劇場である。小劇場の客席だが、舞台は、中劇場並み、いや大劇場といってもいいくらいに大きい。

そして上演が始まると、舞台の両脇には椅子が並べられ、そこに演者が座っている。演技する者と演技しない者とを同時に見ることのできるこの上演法は、演劇性を意識させる仕掛けであって、この作品のもつ、演劇性をしっかり照射するものであった。【ブレヒトにとっては、貧乏人もひとつ演技であり、どの芝居か忘れたが、私は、貧乏人のスプーンの持ち方というのをブレヒト劇から学んだ。】

先に述べた配役表にはエヴァ(プンティラの娘のこと)とあったが、岩淵達治訳では「エーファ」となっている。そこは変えたのだろうと思ったし、訳文自体も、「構成/演出」の松本修氏がつくったのだろうと考えた(翻訳者の名前は明記されていないので)。しかし、どうも岩淵達治訳を、ほぼすべてにわたって使っているような気がした。

それは「焼酎」というセリフからもうかがえる。あたりまえのことだがフィンランド人は「焼酎」を飲まない。ブレヒトは「美食家」とか「美食的演劇」を嫌っていたのだが、美食的もしくはそこまでいかなくても飲食物にこだわる人物やセリフはけっこう多い。ブレヒトの『男は男』だったか定かでないが、岩淵訳のなかに「生のビフテキ」というセリフがあって、なんだその不気味なものはと驚いたことがあるが、英訳で、それが「タルタルステーキ」であったことがわかった――「おまえなんぞタルタルステーキにして食ってしまうぞ」というようなセリフ。当時は「タルタルステーキ」と訳しても観客は誰もわからなかったのだろうからやむをえない処置(「生のビフテキ」)なのだろうが、「焼酎」もなんとかしてほしかった。

とはいえ、その他、舞台装置も工夫がこらされていて、この大きな舞台を立体的に活用していて、演出家の力の入れようも理解できたのだが……。

全体として、最後まで、はじけることのない舞台だったのが残念だった。

そもそも、これはいうまでもないことだが、〈主人と召使〉物は、ボケとツッコミの漫才パタンのひとつであって、面白くないはずがない。

この作品、大地主のプンティラとそのお雇い運転手マッティの話は、一応、漫才のボケとツッコミの拡大版として予想できるパタンがある。英国演劇でいえば、また日本でも人気のある、ロナルド・ハーウッド『ドレッサー』(The Dresser, 1980.映画化は1983)がある(『ドレッサー』のほうが、『プンティラ…』から影響を受けたかもしれないのだが、ただ、『プンティラ…』の場合、その原型はディドロの『運命論者ジャックとその主人』が指摘されている)。第二次世界大戦中、横暴でわがままな老シェイクスピア俳優と、彼をコントロールするその付き人が、『リア王』を上演中の楽屋でくりひろげるやりとりは、暴君的な老俳優と狡猾な付き人との笑いあり涙ありの活力ある舞台を出現させた。このパタンは基本的に舞台をはじけさせる。

そうしたダイナミズムは、最近の例としては映画『ベートーヴェン捏造』におけるベートーヴェンとその秘書アントン・シンドラーの関係にもみることができる。ベートーヴェンにパパゲーノとバカにされ解雇されるシンドラーだが、最終的に楽聖ベートーヴェン像を捏造する――それはベートーヴェンへの復讐かもしれないが、同時に愛でもあった。つまり、主人と召使のパタンは、劇的要素が詰まっていて、喜劇にも、時には主従逆転でスリラーにもなりうる(たとえば映画『召使』(The Servant、1963、ロビン・モームの小説をもとにピンターが脚本を書いた)。そうしたものを期待した観客には、あるいはとくに期待しなかった観客にも、今回の上演は、やや物足らなかった。

俳優の方々は、みんな、それなりにベテランでもあって、実際、みばえもいいのだが、こうした演劇(喜劇、ブレヒト劇、主従劇)をはじめて演ずるようにみえる(そうではないとしても)。数年前に近畿大学舞台芸術専攻の卒業公演で、この劇を上演したとのことだが、学生演劇一般の質の高さを私は充分承知しているし、その卒業公演をみたわけではないので、あくまでも学生演劇を観たことのない一般観客の偏見に満ちた物言いを想定しただけのことだが――今回の上演は、下手な学生演劇の舞台のようにみえなくもない。

プンティラ/孫高宏とマッティ/小谷真一のふたりは、最初は違和感があったのだが、慣れてくると、それもなくなって、実際とくに不満はなかったのだが、いかにも暴君的な主人と狡猾な運転手というこの二人は、役柄をかえて、プンティラ小谷、マッティ孫としても、芸達者なふたりは、それなりに別様の主従関係を見せてくれるのではないかとふと思った。役割を変えるというこのブレヒト的「処置」は、他の俳優たちにも適用すれば、でくの坊的男性俳優たちは、活気のある女性俳優たちと交代しては面白いのではないかと思った。ジェンダーの逆転が、この作品を活性化してくれるかもしれない。作品中の「外交官」は、物語のなかでは浮いているが、かといって舞台で浮いていいとは限らない。デルソ・ユリスは見栄えもよく力演なのだが、いくら物語レベルで浮いている道化的人物だからといって、舞台で「異人化」する演出はいかがなものかと思った。

ただし、このブレヒト劇のむつかしさが舞台から活気を奪ったということもあるだろう。いかにもありそうな主従関係物語なのだが、こうした劇の例にもれず、悪辣な主人の方が魅力的で人間的にみえてしまうのは避けられない――たとえ酩酊するときに限り人間的になるとしても。そして召使の側の活躍が、この劇ではいまひとつ地味である。ただし、あまり活躍しすぎると、トリックスターとしての魅力はますが、同時に、召使の側が、犯罪者にみえてしまい、作品がスリラー化あるいはホラー化する。主人を聖人化しないために、また召使を悪魔化しないために、どうすべきかは、舞台にこの作品を載せる俳優たちや演出家にとっての難題である。

幸か不幸か、現在では、プンティラ的気前の良さと横暴さと冷酷さ、まさに暴君的大地主・資本家の自己中心的暴走は、トランプの予測不能な(だか同時にいかにもという)言動を思い起こさせ、同情の余地なき不快なものである(少なくともトランプ支持者以外の人間にとっては)。したがってマッティが最後にプンティラに背を向けることは必然的成り行きのように思われる。プンティラがどうなろうが知ったことではない。

プンティラのもとを去るマッティの最後の台詞、召使がよき主人をみつけるのは、みずからがよき主人になったときであるという趣旨の発言は、階級闘争の真実をみごとに要約している。それはけっしてブレヒト流の解釈ではないと思う。つまり召使がよき主人を探そうしても、けっしてみつからない。みずからがよき主人となるしかない。階級闘争には和解も融和もそして休戦もない。あるのは勝つか負けるかである。勝つしかない。勝ってみずからが主人となるほかはない。そのときは、苦しみぬいた召使たち、庶民や労働者や農民たちは、愚劣で残忍な主人ではなく、よい主人となっているだろう。召使の学びとは、主人のようになるのではなく、主人のようにならないことなのである。脱・模倣、脱・まなびが求められる。あらゆる主人、あらゆる教師は、反面教師なのである。

はたしてこのブレヒト的学びを、この難題を、いいかえるとブレヒト的叙事演劇の要諦を、俳優や演出家はうまく伝えるような試みは何度もなされるべきだろうか。ペシミストは、イエスというだろう。オプティミストはノーというだろう【ミスプリントではなく、パラドックス--原作を参照のこと】。


これは今回の上演とはまったく関係のない話だが、以前、ブレヒト劇をみたとき、上演前の劇場の床、それも席と席のあいだ(たとえば横に広がるA列とB列の間の空間のようなところに)にうつぶせに横たわっている観客がいたのを私は発見した(すぐ後ろの列の席に座ろうして)。驚いて、どうしたものかと一瞬戸惑ったが、すでにこの異変に気付いた観客が係員に通報したらしく、係員がとんできた。係員に声をかけられたそのうつ伏せの観客は、腰が痛くて、こうしていと楽なのでと話して周囲を驚かせた。かなり大柄な客だったが、立っていても座っていても腰が痛い、床にうつぶせになっていたら痛くなくなる? そんな病人なら、芝居なんかみにくるか。早く家に帰って安静にしておけと心の中で思ったのだが、その後、その男は移動して自分の席にもどったようだ。自分の席の近くの床のにうつぶせになっていたわけではなかった。なんだこの男は、とあきれたが。

今回、私は座・高円寺1の劇場で、遮ることのない視界を大いに満喫したが、隣に座ったクソジジイが、大きな咳をするは(マスクは着用していない)、自分の禿げ頭や足をさすったりする。勝手にそうすればいいのだが、ただその都度、揺れが私の座席にも伝わってきて、舞台に集中できないことが多かった。さすがに我慢できなくなって、横にいるそのクソジジイをにらみつけ、「こんな奴は死んでしまえと言えばいい」と思った瞬間、その足元が目に入った。地下足袋のように指先が二股に別れている革靴なのである(いわゆる仕事用の地下足袋とは異なる)。え、こいつ、二股の蹄、悪魔あるいはバフォメットかと思わず息をのんだ。と同時に、まさか悪魔であるはすがないので、なにか足に障害をかかえている人かもしれないと思い、「こんな奴は死んでしまえと言えばいい」とは思わないことにした。障害者をせめるのは絶対によくない。しかし、帰宅してから調べてみると、おしゃれで地下足袋型のブーツをはくこともあるとのこと。やはりあのクソジジイは、足に障害を抱えているのではなく、たんにおしゃれでそのようなブーツをはいていたのだ。一瞬、悪魔かとひるんだ私は大バカだったが、それにしても、そんなに体調が不良なら劇場に来るな。しかもどうしてもブレヒト劇を観たいから劇場に来たというのではまったくないようなのだが。ブレヒト劇は体調不良者を呼び寄せるのか、神様いや悪魔が、私に意地悪をしているのか。
posted by ohashi at 14:46| 演劇 | 更新情報をチェックする

2025年10月18日

『埋められた子供』

Pit昴/サイスタジオ大山第一での劇団昴公演(10月3日から19日)、サム・シェパード作『埋められた子供』広田敦郎訳、桐山知也演出を観る。

実は最近というか観劇の直前まで、ひどい咳に悩まされ(実際、9月にはそのために『ヴォエツェク』を観ることができなかった)、しかも、この芝居、ドッジ/金尾哲夫という70歳代の家父長が最初から激しく咳き込み、薬代わりにウィスキーを飲み、煙草も吸うため、最後あるいは最期まで咳が治ることはないために、なおのこと、つられて私も咳き込むのではないかとかなり心配はした。幸い、咳の発作もおさまって快方にむかっているようなので、上演中、私は一度も咳をすることはなかった。ほんとうによかったとしかいいようがない。

なんとか咳もおさまったようなので、あきらめかけていた、ブレヒトの『プンティラ旦那と下男のマッティ』を来週、観劇することにした。

サム・シェパードの芝居は、いくつか読んだり、舞台(翻訳劇)で観たこともあるのだが、『埋められた子供』は、読んだことがあるような気がするのだが、内容はすっかり忘れていたので、今回は予習のつもりで読んでみた。Revised editionだったので、初演とどこがどうちがっているのかは気になったが、確かめてはいない。そもそも、今回の演出は改訂版をもとにしたということでもあるので。

劇中に「ヒットラーだってヴェジタリアンだった」というセリフがある。今でこそ、有名な事実だが、私がはじめてこの作品を読んだときには、その事実を知らなかった。というかそういうセリフがあることを覚えていなかった。最初はどうしたのだろう? 変なセリフだと思いつつ読み飛ばしたのだろうか。そもそも決して難しい英語ではないのだが、ひっかかると先にすすめなくなるので、忘れて先にすすんだのだろうか。

ヒットラーはヴェジタリアンで、ナチスは環境にも配慮していたことは、アニマルスタディーズやエコロジー界隈では衝撃とともに受け入れられたのだが、ヴェジタリアンやエコロジストがファシストということではないだろう。私などは、むしろあっけらかんと、ヒットラーの個人的好みあるいは利用できるものはなんでも利用するナチスの策略(そもそもナチスは、共産主義者を弾圧するいっぽうで社会主義を標榜していたのではなかったか)と気にしてはいないのだが。

そのようなことがあったにせよ、今回の上演は、私が原作を読んで想像した舞台と、そんなに変わっていなかったので、充分満足した。もちろん私の想像と合致していた舞台ということが、優れた上演ということにはならないだろうが、それにしても、丁寧に原作を英語で読んだ一観客である私が、原作との相違に驚いたり、苛立ったりしなかったのは、翻訳者の正確で丁寧な訳文と、演出家の原作へのリスペクトにあふれた上演ゆえであるとまちがいなく言えるだろう。

またこの作品は、リアリズムであるとともにマジック・リアリズムで、堅固な現実に裏打ちされているようで、不安定な幻覚的要素もあり、複数の世界線が共存する、ある意味、とらえどころのない作品ながら、同時に、劇的な衝突は、劇場的なリアルとなって、けっこう私たち観客を揺さぶるところがある――端的にいうとよくわからないながら、迫力に圧倒されるのである。

それを確信させてくれるのが舞台での俳優たち(家父長ドッジ/金尾哲夫、妻のハリー/一柳みる、長男ティルデン/佐藤洋杜、次男ブラッドリー/中西陽介、三男のヴィンス/赤江隼平、ヴィンスのガールフレンド・シェリー/高橋慧、牧師デュイス/宮島岳史)のすばらしい演技で、正直言って、劇が終わったらスタンディング・オベイションをしてもよかった、あるいは私以外の誰かがそうしてもよかったと思うのだが、幕切れが、そうした熱狂をやや場違いなものにするものであったので、千秋楽でもないので、誰も立ち上がることはしなかったのだろう。【金尾哲夫のドッジは、咳をしていても、あるいは咳をしているからこそ、そして破綻者であっても、あるいはそうであるがゆえに、強烈な存在感で舞台を引き締めていて、すぐれた人選というか当然の配役だと思うのだが、金尾氏は、映画やドラマでエド・ハリスの吹き替えをしていたとのことで、それでドッジ役に選ばれたのかもしれない2016年の上演ではドッジをエド・ハリスが演じていたのだから】

今回予想しなかった舞台構築として、原作では二階につづく階段がある。小劇場とかスタジオでの上演が一番しっくりくるような作品だが、その舞台装置は、けっこう多彩で、たとえ二階というか階上のようすは示されることがなくても、舞台に階段をもうけることは、それなりに大きく広い舞台を必要とすることがわかった。今回、サイスタジオ大山第一の舞台では、階段を舞台に設けることはできなくて、階段状の客席の中央通路を階段にみたてる演出だった。

それはいいとしても、不気味だったのは、部屋があり、アメリカンなスクリーン・ドアがあり、そして玄関ポーチがあるのは、原作どおりなのだろうが、部屋の背後に壁はないために、家の外であるはずの空間が、見えてしまう。というか本来ならそこに雨空あるいは翌朝の青空がみえるところ、あるのは劇場の壁でしかない。しかもその壁の、あくまでも劇場の壁の、窓とかドアがあるらしきところに板張り枠が貼り付けてあり、外部の光景を遮断している(本当は窓などないのだろうが、板張り枠をつけることで、そこに窓があるかのような錯覚をあたえる)。ここには演出上の工夫があるのだろう。たとえばこの舞台での家族たちは、実は、この廃屋というか納屋あるいは物置小屋に住み着いている幽霊ではないかという。もちろんほかにも解釈はあろうが、そこは原作にはないかなりエキサイティングな解釈となっているとはいえるだろう。

ちなみに、『埋められた子供』とほぼ同時期(10月11日から18日)に、水道橋のIMMシアターで、清水邦夫原作『狂人なおもて往生をとぐ』を上演していた。もちろん両作品は異なる作品で、『狂人』のほうは原作を読んだかぎりでは、メタドラマ的二重構造というか、一周回ってもとにもどるという構造で、『埋められた子供』とは趣向が異なるのだが、ただ、両作品とも家族物語である。ともに家父長が破綻者であり、そしてどちらも二階に通ずる階段がある(IMMシアターでの公演には行かなかったし、行く予定もなかったので、確かめることはできないが、階上へと続く階段を使ったのかどうかわからないが)。そしてあえていえば、どちらの作品にも近親相姦がある(『埋められた子供』もどこに近親相姦がと思われるかもしれないが、それは解釈上の問題)。ふたつを比較しながら論ずることは面白いのではないかと思うが、それはいずれ、チャンスがあれば。


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2025年10月08日

『ベートーベン捏造』

そもそも翻訳劇しか観ない私が、日本人がベートーヴェンや彼の秘書だったシンドラーを演ずるのは違和感があるなどといえた義理ではないが、実際、今回の『ベートーヴェン捏造』は違和感で息が詰まると思いきや、そうでもなく、すんなりと映画の中に入って行けたので、いったい違和感の臨界点はどこなのかと思いをはせることになった。

たとえば浅田次郎原作で、橋本一監督の映画『王妃の館』(2015)では、ルイ14世が寵姫のために建てたという『王妃の館』に宿泊した日本人作家(水谷豊)がルイ14世時代の出来事(ルイ14世と、その寵姫と息子をめぐる)について思いを巡らせるのだが、そのとき、作家の想像のなかに登場するルイ14世を石丸幹二が演じている(その他、主要人物を日本人が演じている)。せっかくパリまでロケにでかけ、ベルサイユ宮殿を一日貸切りでロケまでしたにもかかわらず、なぜルイ14世が、石丸幹二なのだ。

ただ理由がないわけではない。ルイ14世とその寵姫のことを調べた作家は、それをもとにミュージカル台本を創作しようとする。当然、その台本は、日本人の歌手たちがルイ14世その他を演ずることになる。石丸幹二=ルイ14世は、作家の脳内劇場のなかに登場したルイ14世を演ずる歌手、もしくは作家が完成させた日本語によるミュージカル台本によって実現した公演でルイ14世を演ずる歌手なのである。だからルイ14世が石丸幹二であることに納得できるかというとそうでもない。実際のパリの風景のリアリティは何物にも代えがたいのだが、それを日本人のルイ14世は損なうのである。

実は、この『王妃の館』の宝塚版をみたことがある。『王妃の館-Château de la Reine-』(2017年2 ~ 4月)の宙組公演で、作家を朝夏まなとが、ルイ14世の亡霊を真風涼帆が演じていた(いまや二人とも退団しているのだが)。これには何の違和感もなかった。たとえていえば、翻訳小説とか翻訳劇で、外国人の名前の登場人物が全員日本語をしゃべり、地の文というか描写もすべて日本語であっても、べつに違和感を抱かないのと同じである。

しかし、たとえば英語の小説の日本語訳のなかで、一人か二人のある特定の人物が、英語だけを話している(ローマ字で記載されている)としたら、あるいは逆に、英語の小説で、ある特定の人物が、日本語で話し、日本語を書いているとしたら、よほどの理由付けがないかぎり、違和感満載であろう。これと同じで、石丸ルイ14世は、日本人とフランス人が交流しているところに、突然、フランス人の格好とメイクをした日本人が出現するようなものであり、違和感はハンパない。

だが、ベートーヴェンの時代の人物全員を日本人が演ずる場合はどうか。翻訳小説と同じことなのだろうか。翻訳劇をみているようなものなのだろうか。

映画のなかでは山田裕貴扮する高校の音楽教師が、音楽室に忘れ物をとりにきた男子高校生に対してベートーヴェンの秘書だったアントン・シンドラーによる捏造事件について話をする。ちなみにこの高校生、シンドラーはベートーヴェン像を勝手にこしらえたのかもしれないが、それを語る音楽の先生のシンドラー像も、ある意味、想像の産物で捏造かもしれないと脱構築的に語るのが印象的だった。で、それはともかく、彼が音楽室に向かう途中に高校の教員の何人かに出会う。古田新太もその一人で、音楽教師/山田裕貴の語りのなかで、この古田新太がベートーヴェンとなる。その他、高校の教員の何人かが、ベートーヴェンやシンドラーをとりまく人々となる。むろん、山田裕貴が、シンドラーとなる。

これは音楽教師/山田裕貴の脳内劇場で、職場の同僚である他の教員に役を割り振ったということなのか。それならばベートーヴェンをはじめとして当時のドイツやヨーロッパの関係者が全員日本人なのも納得がゆく? むしろなぜ古田新太がベートーヴェンなのかと考えたときに、山田の高校での同僚だったという、それだけでは因果関係にはならないのだが、なんとなく関連性をにおわせることで、なんとなく観客を納得させるものかもしれない。

ただ、ここでいえるのは、音楽教師/山田裕貴が語るシンドラーによる捏造事件に、身近な同僚が登場しているということは、この遠い過去の異国の出来事を想像し再現するというきわめて困難な試みを前にして、おそらく慣れ親しんだものを基軸として、そこからアナロジーを駆使することにしたということだろう。つまり、身近にあるもの、手に入りやすいものなら何でも利用し、限られた材料や手段を可能な限り活用して、想像力を駆使したのである。この手仕事感、知のブリコラージュといってもいいが、それを映画の設定は前面に押し出している――音楽教師/山田裕貴の語りのなかに登場する欧米人がみな日本人であることで。

原作とされているのが、かげはら史帆『ベートーヴェン捏造―― 名プロデューサーは嘘をつく』(2018)というノンフィクション作品だが、映画のほうは、この著書に触発された、実話に基づく再現ドラマ映画である。再現ドラマというのが日本人ベートーヴェンの鍵となる。たとえばテレビの知的バラエティー番組において、再現ドラマは、実際に起った事件を簡潔にまた要点だけを示すために、外国の事件でも日本人俳優を使う。そのほうが手っ取り早くてわかりやすい。再現ドラマは実際に起った事件の再現である以上、主導権は事件のほうにある。再現ドラマは便宜的なものでいい――挿絵的なもの、写真、アニメ、CGでもいいのだ。そうした便宜的手法のひとつに、日本人俳優を使ったコント的なものがある。この映画は、実際に起った事件・実話に基づく劇映画というよりも、実際に起った事件をわかりやすく説明するための再現ドラマなのである。

と、まあ、こう考えれば、違和感は減少するかもしれない。逆に観客は、簡略的なコントでよいものを、けっこう力を入れてドラマとしても成立させたことに、感銘をうけるかもしれない。そしてさらにいうなら、音楽教師と男子高校生という枠物語の部分もまたコント的であって、映画全体が、長いコントとみることができる。ならば違和感はさらに減少するのかもしれない。


なお『ベートヴェン捏造』に関して、まず語るべきは、こうした違和感についてであろうが、内容に即してみると、「嘘」の問題が次に語られることかもしれない。これについては、このブログで紹介しているイーグルトン『悲劇とは何か』についてで、語られることを参照していただきたい。
posted by ohashi at 13:44| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年10月06日

『ヴォイツェク』観劇できず

『ヴォイツェク』は、東京での公演は9月28日に終了したが、残念ながら観劇できなかった。というのも、このところ咳が止まらなくて、ひどいときには、喘息の発作のような咳がでる。観劇当日までには、なんとかなるだろうと思っていたし、咳もおさまりかけていて快方にむかいつつあると実感できたので、病院にもいかなかった。

ところが観劇当日、咳が悪化した。これでは上演中、ひどく咳き込んで周囲に迷惑をかけることは必至であった。『ヴォイツェク』は短い芝居だが、今回は20分の休憩をはさんで、2幕構成にするようだ。そのぶん上演時間は長くなる。上演時間中、咳を抑えることができるかまったく自信がなかった。苦渋の決断ではあったが、観劇はやめることにした。

以前、観劇中に、ずっと咳をしている観客が近くにいて、舞台に集中できなかったという苦い経験もあった。病気で、咳き込むくらいなら、劇場に出てくるな、殺すぞと、心の中で呪いつづけていたのだが、私自身、このまま劇場で観劇したら、それこそ殺されてもおかしくないほど、呪われる存在になる。他人に厳しくする場合、それ以上に、自分に厳しくあらねば意味がない。結局、高価なチケットだったが、観劇をあきらめることにした。

『ヴォイツェク』は、これから日本各地を回るようだが、11月に東京でもう一度公演をする。もしチケット購入が可能なら、その時、観劇できればと思っている。

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これは今回の『ヴォイツェク』上演とは直接関係のないことだが、このブログの、2020年5月29日の記事「翻訳の闇5」のなかで『ヴォイツェク』について触れていた。お酒にガンパウダー(黒色火薬)を入れて飲むという英語訳が荒唐無稽ででたらめであるという岩淵達治先生のコメントを紹介していたが、これは別にでたらめな英語訳ではなく、かつてヨーロッパではガンパウダーに薬効があると信じられていたのではないかという私の疑念を表明しておいた(関連するネット上の記事(英語版)も紹介した)。

それを思い出した。

とはいえ2020年5月29日の記事に付け加える情報はとくにないのだが、ずっと気になっていた。たとえば『ガンパウダー・ミルクシェーク』という映画がある。これは映画のタイトルというよりは歌のタイトルなのだが、ガンパウダーと飲み物とがポジティヴもしくはネガティヴに結びついていることがわかる。

「午後の死Death in the afternoon」というのはヘミングウェイのノンフィクションのタイトルだが、ヘミングウェイが考案したカクテルの名前でもあって、かつては黒色火薬をシャンパンで割っていたものだった。現在は製法が異なる。

ガンパウダー茶は、黒色火薬ではないのだが、乾燥させ丸めた茶葉が黒色火薬にみえることから名づけられたようだが、それにしても比喩として、なぜ黒色火薬が出てくるのか。これについては、黒色火薬が飲み物でもあったかもしれないというぼんやりした関連性が浮かび上がる。

ガンパウダー・ラムというラム酒もあって、これはかつて船に積んでいたラム酒が時間がたってアルコール分が抜けていないかどうか確かめるために、黒色火薬をまぜて火をつけた。火が付けば、アルコール分が残っていて酒として飲めるが、火がつかなければアルコール分はなくなっていると判定されたとのこと。この風習が記憶されていて、別に黒色火薬をまぜいていなくても、比喩的にガンパウダー・ラムという名前をつけたラム酒があるとのこと。

ガンパウダーは、薬だけでなく、酒にまぜて飲むものではなかったかという疑念は深まるばかりである。
posted by ohashi at 10:16| コメント | 更新情報をチェックする