2017年12月24日

『プラハのモーツァルト』

『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』Interlude in Prague(2016)


Trio in Pragueのタイトルでもあったかもしれないが、私が観たスクリーンではInterlude in Pragueだった。


すごく感動的だとか深い感銘をあたえるとか芸術的に満足感を与えるとか刺激的というような映画ではないが、また、堂々たる劇場映画というよりも、テレビの2時間ドラマという感じの映画だが、エンターテインメント作品として、十分に楽しめた。


ボヘミアというかベーメというか、そこのプラハで初演を迎えたモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』創造において、こんなドラマそれも悲恋と悲劇があったのではないかという映画。最後は、ぎりぎりで完成した『ドン・ジョヴァンニ』の初演において、みずから指揮をするモーツァルトの脳裏には、これまで起こった出来事が、舞台でのオペラの進行とともによみがえってくる――そうした事件がオペラの物語に織り込まれているという設定だが。そして舞台でアリアを歌うソプラノ歌手の顔が、モーツァルトを慕い愛して殺された事件の被害者の女性歌手の顔と重なってくる。涙ながらに指揮をしながら彼女を見上げるモーツァルト。映画はそこで終わる。


モーツァルトを演じているアナイリン・バーナードは『ダンケルク』にも出演していたようだが憶えていない。女性歌手を演じたモーフィッド・クラーク、どこかで観たような気がしていたが『高慢と偏見とゾンビ』に出演していたとのことだが、憶えているような憶えていないような。彼女は『VRミッション:25』に出演していたとのことだが、『VRミッション:25』は、驚くなかれ、私は映画館で観ている。設定の面白さにひかれたが、それを充分に活かしきれていないというか、そうなるほかはないチープなBSF映画だったように記憶している。つい先日観たような気がしたが、一年前に公開されていた映画だったが、よく覚えていない。ひょっとして最後まで生き残る女性の役が彼女だったのか。そうだとすれば、『プラハのモーツァルト』とは異なる彼女の体育会系的演技をみることができるのだが、よく覚えていない。


ただ『プラハのモーツァルト』を支えているのは、この男女のペアでもなければ、素人オーディション番組で人気のでたサマンサ・バークス(彼女は舞台と映画の『レミゼ』に出演しているのだが、憶えていない)でもなく、ひとつは音楽(モーツァルトの楽曲に現代的アレンジを加えた)と、あとなんといっても悪役のサロカ男爵だろう。


サロカ男爵役の俳優、どこかでみているのだが、名前がどうしても出てこないまま、映画も終わり、エンドクレジットの最初に登場した俳優名で、わかった――ジェームズ・ピュアフォイ。いやあ、彼は、悪役として、もう大成したといってもいいでしょう。最近作では『ハイ・ライズ』にも出ていたことを知ったが、映画をみたときは、あまり認識できなかったし、『ハイ・ライズ』自体、ちょっと残念な映画だったので、それにあわせて印象が薄かったのかもしれないが、ジェイムズ・ピュアフォイ、『バイオハザード』の初期にも出ていたが、なんといっても、BBCのドラマ『ローマ』におけるマーク・アントニー役が強烈な印象を残した。『ローマ』はアクの強い人物、癖の強い人物しかいない強烈な連続テレビドラマだったが、そんななか、ジェイムズ・ピュアフォイのアントニーは、アクの強さで際立っていた。その彼が今回の映画では、善良さのひとかけらもない、みるからにクズの貴族を演じていて、映画を引き締めている。彼の珠玉の悪役ぶりをみるだけでも、この映画は観る価値がある。


なお素人オーディション番組出身のサマンサ・バークスは、舞台でのメイクアップは、まさに舞台用の化粧でグロテスクなのだが、舞台用の化粧を落とした彼女は美人である。これに対しモーフィッド・クラークは、『フィガロの結婚』のケルビーノ(小姓役)に扮したり、仮面舞踏会で仮面をつけたときのほうが、ずっと魅力的であるのは不思議なところ。



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2017年12月14日

『婚約者の友人』

オゾン監督のモノクロ映画だが、一部、カラーになる。このモノクロとカラーの使い分けの原理のようなものが、微妙すぎて、よくわからないのだが、まあ、いいか。


ルビッチの『私が殺した男』原題The Broken Lullabyのリメイク。ルビッチの映画はフランスの劇作家モーリス・ロスタンの『私が殺した男』に基づいている。モーリス・ロスタン? 『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者かと思ったが、あれはエドマン・ロスタン。モーリスは、その息子で『私が殺した男』で有名になったようだ。ルビッチによる映画化ではThe Broken Lullabyだが、タイトルの意味がよくわからない。ルビッチの映画を見る限りでは。現在DVDのタイトルでもルビッチ作品の紹介としても『私が殺した男』というタイトルで知られているのだが

 (なおルビッチ映画の字幕がときどきとんでもなくひどいということを聞くが、この『私が……』のDVDでもひどい字幕があった。それは「ヴィクトリア朝のフランスが、そんなことを命じたのか……」という台詞で、え、フランスにヴィクトリア朝などないし(19世紀英国のヴィクトリア女王時代をヴィクトリア朝ということはあっても)、映画のなかの時代設定1919年は英国でもヴィクトリア朝ではなくなっているし、どういう意味の台詞なのかと一瞬戸惑ったが、べつに英語の台詞を耳で聞いていなくても、なにを誤訳したのかくらい、すぐにわかった。これは「勝利者側のフランスが、おごってそんなことをするのか」という意味でのVictoriousをヴィクトリア朝と間違えたのだろう、ひどいものである)


ルビッチの『私が殺した男』は、トーキー作品で、シリアスドラマなのだが、難しい設定をうまくこなし、またそこに軍国主義批判をからめて感動的な映画でもあるのだが、それをオゾン監督はどのようにリメイクするかという興味が先行した。なるほど始まりも違っていて、オゾン版のほうは途中からはじまっている。フランスからやってきた青年が、いったい何者で、目的は何か、すべて謎めいていて、ある意味、ミステリー仕立てである。ルビッチ版では、青年の動機も目的も明確である。ただし、それは実行しないほうがいいのではと観客は思わざるをえない。青年の気持ちはわかるし、善意ゆえの行為であることはわかるものの、難しい。目的達成はむつかしいのではないかと、そのことではらはらする。オゾン版ではこのハラハラ感をなくしてミステリーに変えた。どちらがいいのかは、わからない。ただルビッチ版の作り方は、ある意味、演劇的なのだが(原作は演劇であることとも関係しよう)現在では古めかしいのかもしれない。


オゾン版をみた人から、ヘンリー・ジェイムズの小説のようだという感想をもらった(ヘンリー・ジェイムズの研究家でもあるのだが)、ヘンリー・ジェイムズ風というのはどういうことなのか正確なところはわからないけれども、微妙な心理状態を丁寧に描くということだろうか。あるいは本物の写実ではなく、虚構をつくることのなかに真実が宿るというようなテーマ性なのだろうか。


これは映画のせいではなく、私のせいなのだが、疲れていたこともあり、途中で眠ってしまって、気づくと、もう映画が終わりかかっている。すくなくともルビッチ版との照応からみると映画はもう終わりにさしかかっている、しまった寝すぎたと思い、これでは映画をみたことにならないと深く反省したが、映画は実はすぐに終わらず、延々とつづいていた。つまりルビッチ版とは結末が違うのである。それはいっぽうで微妙な終わり方になっている。またもういっぽうで嘘から出た真あるいは幸福の拡大版になっている。


たしかにルビッチ版は70分くらいの短い映画である。そこにめんどうなシチュエーションをつめこんだのだから、どうしても省略とか飛躍によって一気に結末へとむかうしかない、つまり後半はトントン拍子に話がすすみ、ハッピーエンディングを迎えるのである。これに対しオゾン版は約2時間の映画であって、そこでは微妙な心理の揺れ動きが丁寧に示されることになるし、図式的な、あるいは単純化された展開とは背反するリアルな物語の展開を示される。実際のところオゾン版では過去にとらわれて生きるのではなく未来の幸福を求めることにこそ人生の意味があるようにみえるのだが、しかし、では、この結末でいいかどうかは、誰にも確信をもって言えないというのが、この映画の特徴だろう。


そもそもルビッチ版の設定にもどると、婚約者を殺された女性が、その婚約者を殺した男性と結ばれる、しかも両者は敵国同士であり、ふたりの最終的な結婚が、両国の平和共存への橋渡しになるかもしれないという展開は、『ロミオとジュリエット』を思い出させるが、婚約者を殺した男と結ばれるというのは、トリスタンとイゾルデの物語と同じである。あるいは婚約者/夫になりすます別の男と結ばれるというのは、それこそマルタンゲールの帰還物語のようなものであり、いずれも豊かな物語性を秘めている。またそこに人間関係の深い闇と希望とがみえてくる。最終的に喜劇的結末へと収斂するルビッチ版とは異なり、オゾン版は、この可能性をさらに多方向に発展あるいは深化させているようにみえる。ただし、そのどれもが最終的に宙吊り状態になっていて、それをどう発展させるかは観客の手にゆだねられているように思われる。


――よく言えば。またよく言えば、垣間見せてくれるともいえる要素が多いものの、どれもが中途半端だと言えなくもない。そんななか、今回のオゾン版であらためて気づかされたことは、またルビッチ版では気づかなかったというのは、同性愛の可能性である。


ルビッチ版では人間の贖罪と救済というテーマが最初から前面にでて、この可能性は周到に退けられているようにみえる。実際には婚約者と、その婚約者を殺した男が同一化していることが明確になっているにもかかわらず。


いっぽうオゾン版では婚約者と婚約者を殺した男とが、美しい友情さらには愛情で結ばれているようにみえる、あるいはそういう幻影のなかに男が生きていて、ドイツ人たちも、その幻影を現実として支持している。夢の場面などでもオゾン版は二人の男の同一性あるいは交換可能性が強調されている。となると同一化のテーマは同性愛と連絡し、さらに発展する可能性がある。


だが、残念ながら垣間見せてくれるだけで、映画の最後は、虚構と現実という問題系へと回収される。ヘンリー・ジェイムズ的テーマなのだが、この虚構性問題と同性愛テーマが、どのようにつながるのか、あるいはつながらないのか、この映画は教えてくれない。もちろん、この二つは同性愛者でもあったヘンリー・ジェイムズのなかでは繋がっているのかもしれないが、そのからくりや論理や情動的関連がジェイムズにはみえていたかもしれないが、残念ながらみえてこない、そう思うのは、私だけだろうか。


ただオゾン版では、第一次世界大戦(あるいは戦争)と同性愛テーマとの関連性をあらためて思い起こさせてくれることは、たとえそれが垣間見えるということだけでも、特筆すべきことだと思う。私の編集した、といいたいのだが、出版社の側の要請で、監訳者として登録したいということになったので、ドイル、メルヴィルほか『クィア短編小説集』大橋洋一監訳(平凡社ライブラリー2016)ということになるが、そこの収録されたアンブローズ・ビアスの短編が、こうした戦争で殺した相手と結ばれていくテーマの嚆矢かどうかわからないが、初期のものであるように思われる。いわゆる南北戦争時代、夜、敵襲に備えて待ち伏せしている兵士が敵を銃撃して倒したと思ったのだが、翌朝になると死体が存在しない。幻覚か寝ぼけて敵を銃撃したとは思えなかった兵士は、死体を探し始める。そして死体があったが、死体の顔をみると……という話なのだが、戦争で出会い殺した相手が、ビアスの短編では関係があった(同じアメリカ人が南軍と北軍に分かれたことによる悲劇)。しかし第一次世界大戦でも、同じヨーロッパ人がドイツとフランスとに分かれていて殺した相手は、自分の身内とか友人とか親戚だったということではないか。さらにいえば、それは決して偶然の例外的出来事ではなくて、殺した相手は、たとえ客観的に血縁関係や人間関係はなくても、友人であり家族であり親戚であるような、連帯と親近感によって、殺した者と結ばれるのではないか。私が殺した男と、私とは、殺すという破壊と排除行為にもかかわらず、誰よりも強い絆で結ばれてしまうのである。これは戦地ではなく、内地で故国で、安全地帯で、敵対する民族に対してヘイトスピーチを繰り返しているようなネトウヨから絶対に出てこない深い認識であり人間関係の創成なのである。


第一次世界大戦は、同性愛に対して新たな認識を提供したといわれている。残念ながら第二次世界大戦では、そのようなことが起こらなかった。第一次世界大戦では長い塹壕戦によって男どうしあいだに強い連帯意識が、あるいは愛がはぐくまれたと、そういうように男性同性愛文学の深化を考えてきた。だが第一次大戦で戦死した詩人ウィルフレッド・オーウェンの代表作ともいえる‘Strange Meeting’という詩では、塹壕のなかで敵兵と出会う詩である。そのあと何が起こっているかは、その詩からはよくわからないのだが、出会った兵士は味方ではなく敵であるようだし、そもそもそこは塹壕であり地獄でもあるような曖昧でよくわからない場所なのだが、そこで起こったことは、それこそ、ルビッチの『私が殺した男』あるいはオゾンの『婚約者の友人』で怒ったことと同じではないか。私が殺した男は、私の友人なのである。その新たな友人と私とは、友人に成りすましてもいいような、あるいは成りすましたい強い同性愛的感情で結ばれているのかもしれない(まあ、正確にいえば同性愛ではなくホモソーシャル的感情かもしれないが)。


オゾン版の『婚約者の友人』の原題はFrantzである。これは婚約者の名前であるが、ルビッチ版では婚約者はWalterという名前だった。オゾン版でFrantzに変えたのか、あるいは原作がそうなのか私にはわからないが、フランツというのはドイツ語ではFranzである。フランス人は往々にして Frantzと綴ることが多いらしく、映画でも、こちらのほうの綴りが採用されている。そこから暗示されることはいろいろあろうが、ひとつには、このドイツ語の人名が、発音すると「フランス」と聞こえるということがあげられる。ドイツ人の名前がフランスと重なるのである。

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2017年12月13日

『オリエント急行殺人事件』

アガサ・クリスティーの同名の小説だが、国民の教養、あるいは全人類の文化遺産、あるいは、ちょっと規模が小さくなるのだけれど英文科学生の基本的教養ともいうべきもので、そのトリックは誰でも知っている。もちろん、まだ読んでいない若い読者もいるから、ここではネタバレをしないけれど、でも、誰でも知っている作品といっても過言ではない。


とはいえ個人的なことをいえば、中学生の時に翻訳で読んだきりで、その後は読んでいないから細部は忘れている。今回のブラナー監督主演版は、基本的なトリックについては原作どおりで、そこは変えていない。ただ、細部については、変えている部分があっても、大きな変化はともかく、細部となるとまったくわからない。しかし原作からの大きな逸脱はなかったようだ。


全体の構成を変えない変化というと、今回の映画化では、オリエント急行が途中で雪崩にあい、脱線する。そして復旧するまで、乗客は足止めをくらうのだが、ただ、動いていようが足止めを食らおうが、乗客は基本的に下車できないのだから、物語の展開は同じである。足止めをくらう映画版では、車外でのアクションも用意されているが、しかし、車外へと逃亡するわけではない。


なお全体の感想となると、ネット上では、面白くて及第点を与えられるエンターテインメント映画だが、なんとなく物足らないとか、また雪崩とか車外でのアクションは、結局、中途半端で、最初からそんなものはなくてもよかったとか、とにかく面白い楽しめる映画だが、いまひとつピンとくるものがないという感想が多いようだ。


しかし、そうだろうか。むしろ、今回の設定は、けっこうぞっとするような不気味さを秘めていないだろうか。


これはネタばれとならないと思うが、事件が解決してポワロは途中駅で下車する。そこにナイル川での殺人事件があり、捜査してほしいという依頼がくる。ケネス・ブラナーのポワロで、『ナイル殺人事件』もリメイク続編をつくるのか(あるいは続編が決まっているのか)と思わせ、その貪欲さというか、ブラナー=ポワロのシリーズ化に、いまからややうんざりな感じもするのだが、それはともかく、これからポワロは下車して冬季のオリエント急行からエジプトへの赴き、残りの乗客は、終点のフランスあるいはイングランドへの旅を続ける。


ラストシーン、駅舎と線路の左側は遠くに去ってゆく列車の後ろ姿、右側はポワロを乗せてエジプトへ出発する車。車は走り去るが、列車は、走り去ってその姿を小さくすることなく、なかなか消えがたく残っている。この平坦な雪景色のなかに閉じ込められているように思えてくる。これはほんとうで、後ろ姿が小さくならないし、動いているようにも見えないのだ、オリエント急行の車両が。


そしてまたこの駅。現在の駅にするとクロアチア国内の駅なのだそうがだが、平坦な雪景色で、いくらヨーロッパの駅が日本のように町の中心ではなく町外れにあるといっても、周囲に何もなさすぎる。人間が暮らしている気配がない。そんなところにオリエント急行が停車する意味があるのか。そもそもこの世のものとは思えない駅なのだ。不条理演劇の舞台にぽつんと置かれた駅舎のようにみえてしまう。


実のところ、この映画には死をイメージさせるものは多い。もしかしたら雪崩で列車は転覆どころか崖下に転落、全員、死亡したのではないか。私たちがみている列車の乗客は、雪崩で死んだことを知らない亡霊たちではないのだろうか。


あるいはトンネルの入り口でのポワロの謎解きの場面は、ダヴィンチの最後の晩餐の図柄になっている。キリストが磔刑にかけられる前の晩の出来事。また脱線した列車を、ろくな機材もない鉄道係員がもとにもどせるとも思えない。彼らは到着しない列車を心配して調査しにきた。そこで破壊された列車を発見し、乗客たちの死亡を確認したのではないか。また立ち往生した列車は高い橋の上で、ほうっておいても、いつ何時落下してもおかしくない不安定な状態にある。そこから乗客たちは、まだかろうじて生きているといえるのだが、生死の境にいるというのは、生ではなく、死の側にいることではないかとも思えてしまう。


いや、勝手な妄想をと叱られそうだし、そもそもポワロも死んでいるのかと批判されそうだが、そう、ポワロが途中下車すること自体が、重要なのだ。ナイル殺人事件は、ナイル殺人事件への予告編ではなく、ポワロに途中下車させる口実なのである。


フロイトの夢解釈におけるイメージ解読は、今では精神分析のなかでもっとも顧みられない部分で、ただの迷信扱いのところもあるが、ただ思い出すのは、フロイトが、列車の夢は、死に向かう夢、あるいは死の夢であると語っていたことだ。列車は、目的地にむかって、レール上をただひたすら走り続けということでも、死への旅路を連想させるということのようだ。乗り物のなかでもとくに列車は、ただ目的地に向かうしかないという運命感覚を強く喚起する。そして列車を途中下車することは、まだ死ぬのは早いと思う気持ち、死を回避する願望のあらわれであるらしい。


この映画のなかで乗客たちは、雪崩で死んでしまったか、あるいは死の直前を生きているか、確実な死へと着実に進んでいるのかの、いずれかであろう。オリエント急行は幽霊列車なのである。


そして最後に、ただネタバレにならないことを祈っているが、乗客たちは誰もが、比喩的にいって亡霊であることを付け加えておきたい。

posted by ohashi at 19:24| 映画 | 更新情報をチェックする