「宝」の字を共有、ともに3時間の長編映画でありながら、いまなお上映が続いている『国宝』と、主要な映画館からは上映がなくなった『宝島』とで、運命が二分された観がある。
原因については、いろいろ言われているが、それは映画の優劣の差ではないだろう。まあ、たしかに『国宝』の主要出演者、吉沢亮、横浜流星、高畑充希、森七菜、渡辺謙らと、『宝島』の主要出演者、妻夫木聡、広瀬すず、窪田正孝、永山瑛太らを入れ替えたら、つまり吉沢亮と横浜流星の『宝島』と、妻夫木聡、広瀬すずの『国宝』となっていたら、ひょっとして『宝島』のほうに人気が出たと思えなくはないのだが、それはともかく出演者、監督の優劣の差ではないと思う。では何が原因か。
それは『宝島』が「政治的」と思われているからだろう。これに対し『国宝』のほうは、同じく女性役の男性俳優の50年にわたる出来事を描く3時間の中国映画の『覇王別姫』と比べた場合、政治性は希薄というか全くない。『覇王別姫』が激動の中国史を背景にしているのに対し、『国宝』の50年は平穏無事で変化を感じさせない非政治的歴史となっている。また『覇王別姫』にあった同性愛は、本来、あってしかるべき『国宝』にはない。いっぽう『宝島』は返還前の沖縄史のなかの出来事であって、「政治的」であることが観る前からわかる。だから、観客、特に若い観客層の足を遠のかせた。
同じようなことは『ワン・バトル・アフター・アナザー』にもいえて、ポール・トマス・アンダーソン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の映画であっても、予想されたほどのヒットには恵まれていない。3時間近い映画だということも不人気の原因かもしれないのだが。これも「政治的」ということもあって若い観客層の足を遠のかせた。
昔は、おそらく今も、社交の場では政治の話をしてはいけないよくいわれてきた。せっかくの友好的な関係が、政治的立場なり支持政党が異なると険悪なものとなったり、論争が生じたりしかねない。政治的話題は忌避することが友好な人間関係を維持する秘訣ということになる。
しかし、若い世代の多くが、「政治的」を嫌うのは、そういうことではないだろう。そもそも与党も野党も、左翼も右翼も、よくわからない若い世代にとって(若い世代はそんなぼんくらばかりと私は本気で思っているわけではないが、ここでは選挙にすら行かない若い世代のことを考慮している)、政治的な話題で意見が異なるということはまずない。
『ワン・バトル・アフター・アナザー』に対する忌避は、3時間近い映画だということも大きな要因かもしれないが、非合法な反政府組織を主題としているというだけで恐怖もしくは嫌悪感が生まれるのだ。ごくふつうの基準からして『ワン・バトル・アフター・アナザー』は政治的な映画ではない。私などは、非合法の反政府活動を扱っているのに、この政治性の希薄感にむしろいらだった。政府と戦う反体制地下運動ごっこでしかない薄っぺらさが目立つし、実際のところ、この映画は観ればわかるのだが、諷刺性を凌駕するスラップスティック性が顕著で、政治的問題を考える気にもならない。
実は若い世代における「政治的」というのは隠語のようなもので、それは「反体制」「左翼」の言い換えである――もしこのような語を使うと、逆に、保守とか右翼とか極右のレッテルが貼られてしまう。そうではなくて、レッテルなき立場こそ、特定の政治的立場を標榜しない、普遍的に正しい立場であるというわけだ。
『宝島』も、その内容からして返還前のアメリカ統治下の沖縄における、反体制運動のようなものを扱っているとなると、左翼的映画として忌避感情が働くのである。革命、反体制、左翼という言葉なりレッテルに接すると、まるで洗脳されたかのように条件反射的に忌避感情が生まれる。『宝島』が若い世代に人気がでなかったのは、「政治的」つまり「反体制的」「左翼的」な映画であると判定されたためである。
逆に高市首相人気を考えてもいい。保守を通り越して極右的思想の持主である高市首相のその「政治的」なところに若い世代は嫌悪感を示すどころか、むしろ熱狂している。「政治的なもの」には、保守的・右翼的なものは入らないのである。左翼的政治性はだめだが、保守的政治性は問題ない、いや保守は政治的ですらない、正しい常識いや良識なのである。
20世紀の終わりにおいて、日本では顕著な右傾化がみられた。その成果は、21世紀を待たねばならかった。いま、洗脳は着実に若い世代に定着している。
2025年10月30日
戦争省を作る大統領にノーベル平和賞を!
ロイターによると
米国全土でも「王はいらない」デモが起こり、トランプ訪英中は、英国でも「王はいらない」デモが起こった。そして韓国でも。日本は、トランプのけつの穴を舐めるだけの政権が人気を博している。こういうバカな日本人は、アメリカに移民となって出て行って欲しい。
トランプのけつの穴をなめている日本の首相が、トランプをノーベル平和賞に推薦するだと。トランプは、米国国防総省を「戦争省」に改称しようとしている人間だぞ。改称ではあっても、「戦争省」を創設したのと同じことである。「戦争省」を作る人間にノーベル平和賞が与えられでもしたら、それは狂気の世界である。「戦争省」を作る人間にノーベル平和賞は絶対に値しない。まあトランプにはイグノーブル平和賞でもやっておけばいい。
付録1
戦争省への解消についてのwikipediaの記事。
付録2
戦争省について
韓国で「王はいらない」デモ、トランプ氏訪韓に抗議 10/30(木) 10:44配信
韓国・慶州で29日、トランプ米大統領の訪問に抗議する集会が行われた。デモ参加者は、トランプ氏の権威主義的な傾向を批判する際に米国で使われる「王はいらない」というスローガンを連呼した。
米国全土でも「王はいらない」デモが起こり、トランプ訪英中は、英国でも「王はいらない」デモが起こった。そして韓国でも。日本は、トランプのけつの穴を舐めるだけの政権が人気を博している。こういうバカな日本人は、アメリカに移民となって出て行って欲しい。
トランプのけつの穴をなめている日本の首相が、トランプをノーベル平和賞に推薦するだと。トランプは、米国国防総省を「戦争省」に改称しようとしている人間だぞ。改称ではあっても、「戦争省」を創設したのと同じことである。「戦争省」を作る人間にノーベル平和賞が与えられでもしたら、それは狂気の世界である。「戦争省」を作る人間にノーベル平和賞は絶対に値しない。まあトランプにはイグノーブル平和賞でもやっておけばいい。
付録1
戦争省への解消についてのwikipediaの記事。
2025年9月5日、ドナルド・トランプ大統領は、国防総省(Department of Defense)の名称を恒久的かつ正式に戦争省(Department of War)へ改称することを目指す意図を発表したが、それには連邦議会の承認が必要なため、実際の改称が施行されるまで、国防総省の補助的名称として戦争省の使用を認める大統領令に署名をした。
付録2
戦争省について
アメリカ合衆国戦争省(アメリカがっしゅうこくせんそうしょう、英語: United States Department of War)は、かつて存在したアメリカ合衆国連邦政府の行政機関。1789年から1947年9月18日まで、陸軍(後に空軍も含む)の管理を行うため存在した。戦争省は英語で War Office とも記される。陸軍に関する官庁であるため、日本語では米陸軍省、アメリカ陸軍省と訳されている。
posted by ohashi at 23:36| コメント
|
2025年10月29日
高市=サッチャー体制
日本にもいつか女性の宰相が誕生する日があるだろうと期待していたが、それが早いか遅いかは別にして高市早苗首相の誕生は、日本における女性史における最大のアンチクライマックスだった。なにしろファシストが首相になったということ、日本の憲政史においても汚点以外の何物でもない。
内閣の顔ぶれをみても、高市首相が誕生したことで、女性閣僚の数が増えるかと思ったら、首相を含めわずか3人。そのうち、首相を含めファシストが2人もいるとなると、もう日本ではファシストでないと女性は大臣になれないのではないかと暗澹たる気持ちになる。
高市首相は英国のサッチャー首相を崇拝しているようだが、思い出して欲しい。1979年のイギリス総選挙において保守党が過半数を獲得し、政権交代が起こり、保守党党首サッチャーが首相になった年、女性の地位向上と政界進出が加速化すると期待されたこの時期、当選した女性議員の数は、1950年代レベルに落ち込んだ。つまりサッチャー政権が誕生した1979年、女性議員の数は最低とはいわないまでもそれに近い数だった。
かたや女性の首相、かたや女性議員の減少。なんとも皮肉なことと当時は思われたのだが、今から考えると、サッチャー首相誕生と女性議員減少とは連動していた。つまり女性の存在が軽んじられたというか、女性の社会進出・政界進出を拒む勢力が力強かったため女性議員が数を減らすことになり、またそうであればこそ保守のタカ派のサッチャーが党首に、そして首相になれたのである。サッチャーならば保守的な男性以上に保守的で、男性支配を打破するどころか強化することが確実に思われ、リベラリズムやフェミニズムをまちがいなく後退させると思われたからである。
高市首相のことを考えても、彼女が、そして自民党が人気を盛り返したのも、男性支配を強化してくれることが期待されたのである。世界経済フォーラムが発表する2025年「ジェンダーギャップ指数」ランキングで日本は118位だが、この最低ランクだからこそ、高市首相が誕生しえたのである。ランキングの上昇などねらっていない。ただ男性支配と女性差別の強化を望むファシストの国民が多いからこそ、ジェンダーに関係なく首相が選ばれたのである。
国民生活、とりわけ女性に関係するも目につきにくいに生活の細部はこれからどんどん無視されるだろうし、目立ちやすい話題、女性の天皇とか、女性にとって切実な夫婦別姓問題なども、高市首相によってアジェンダの外に置かれることはまちがいない。女性の敵は高市早苗なのである。
内閣の顔ぶれをみても、高市首相が誕生したことで、女性閣僚の数が増えるかと思ったら、首相を含めわずか3人。そのうち、首相を含めファシストが2人もいるとなると、もう日本ではファシストでないと女性は大臣になれないのではないかと暗澹たる気持ちになる。
高市首相は英国のサッチャー首相を崇拝しているようだが、思い出して欲しい。1979年のイギリス総選挙において保守党が過半数を獲得し、政権交代が起こり、保守党党首サッチャーが首相になった年、女性の地位向上と政界進出が加速化すると期待されたこの時期、当選した女性議員の数は、1950年代レベルに落ち込んだ。つまりサッチャー政権が誕生した1979年、女性議員の数は最低とはいわないまでもそれに近い数だった。
かたや女性の首相、かたや女性議員の減少。なんとも皮肉なことと当時は思われたのだが、今から考えると、サッチャー首相誕生と女性議員減少とは連動していた。つまり女性の存在が軽んじられたというか、女性の社会進出・政界進出を拒む勢力が力強かったため女性議員が数を減らすことになり、またそうであればこそ保守のタカ派のサッチャーが党首に、そして首相になれたのである。サッチャーならば保守的な男性以上に保守的で、男性支配を打破するどころか強化することが確実に思われ、リベラリズムやフェミニズムをまちがいなく後退させると思われたからである。
高市首相のことを考えても、彼女が、そして自民党が人気を盛り返したのも、男性支配を強化してくれることが期待されたのである。世界経済フォーラムが発表する2025年「ジェンダーギャップ指数」ランキングで日本は118位だが、この最低ランクだからこそ、高市首相が誕生しえたのである。ランキングの上昇などねらっていない。ただ男性支配と女性差別の強化を望むファシストの国民が多いからこそ、ジェンダーに関係なく首相が選ばれたのである。
国民生活、とりわけ女性に関係するも目につきにくいに生活の細部はこれからどんどん無視されるだろうし、目立ちやすい話題、女性の天皇とか、女性にとって切実な夫婦別姓問題なども、高市首相によってアジェンダの外に置かれることはまちがいない。女性の敵は高市早苗なのである。
posted by ohashi at 23:13| コメント
|
『グランドツアー』
ポルトガルのミゲル・ゴメス監督とは、ほんとうに相性が悪い。いまをさかのぼること10年以上も前、『熱波』(2012)が公開されたときのこと。評判のこの映画を私はイメージ・フォーラムに観に行った。そうしたら不覚にも眠ってしまった。
まあ誰でも映画を観ながら眠ってしまうことはある。ただ、目が覚めて最後まで観終われば、眠っていてもどんな映画なのか理解に苦しむことはない。ところが『熱波』の場合、物語が複雑なこともあり、さらによほど長く眠ったらしく、内容がさっぱり把握できなかった。そこでさすがにこれではいけないと私は深く反省した。
反省したので、もう一度、映画館イメージ・フォーラムに足を運ぶことにした。前回は疲れていたのかもしれない。今回は、どんな映画かは、たとえ眠っていたとしても、ある程度はわかっているから、そしてたとえ疲労していても、映画に取り残されて眠ってしまうことはないだろう。そう考えた。
そして二度目も眠ってしまった。
それから13年。今回公開された映画『グランドツアー』(2024)をル・シネマ渋谷宮下で観た。ル・シネマ渋谷宮下は、席と席との間が、前席の背を蹴ろうとしても足が届かないくらいに広い。それはいいのだが、傾斜が急ではないので、以前、大男が私の前に座って見切り席みたいになってしまい困ったことがあった。今回は見切り席にならずに、映画を満喫することができた。
13年前は寝てしまったが、今回は、眠ることはないだろうと思っていたが、今回も寝てしまった。129分の映画が短く感じた。あたりまえだろう。寝ていたのだから。
そのため眠っていた人間の無責任な発言なのだが、そして自分の注意力散漫を棚に上げての暴言かもしれないのだが、この映画、クソ・オリエンタリズムでしかないだろう。眠ったことは後悔していない。といいつつも、まだ公開中なので、再度観に行くかもしれない。どうせまた眠るのだろうが。
まあ誰でも映画を観ながら眠ってしまうことはある。ただ、目が覚めて最後まで観終われば、眠っていてもどんな映画なのか理解に苦しむことはない。ところが『熱波』の場合、物語が複雑なこともあり、さらによほど長く眠ったらしく、内容がさっぱり把握できなかった。そこでさすがにこれではいけないと私は深く反省した。
反省したので、もう一度、映画館イメージ・フォーラムに足を運ぶことにした。前回は疲れていたのかもしれない。今回は、どんな映画かは、たとえ眠っていたとしても、ある程度はわかっているから、そしてたとえ疲労していても、映画に取り残されて眠ってしまうことはないだろう。そう考えた。
そして二度目も眠ってしまった。
それから13年。今回公開された映画『グランドツアー』(2024)をル・シネマ渋谷宮下で観た。ル・シネマ渋谷宮下は、席と席との間が、前席の背を蹴ろうとしても足が届かないくらいに広い。それはいいのだが、傾斜が急ではないので、以前、大男が私の前に座って見切り席みたいになってしまい困ったことがあった。今回は見切り席にならずに、映画を満喫することができた。
13年前は寝てしまったが、今回は、眠ることはないだろうと思っていたが、今回も寝てしまった。129分の映画が短く感じた。あたりまえだろう。寝ていたのだから。
そのため眠っていた人間の無責任な発言なのだが、そして自分の注意力散漫を棚に上げての暴言かもしれないのだが、この映画、クソ・オリエンタリズムでしかないだろう。眠ったことは後悔していない。といいつつも、まだ公開中なので、再度観に行くかもしれない。どうせまた眠るのだろうが。
posted by ohashi at 02:19| 映画
|
2025年10月28日
『ハウス・オブ・ダイナマイト』
すでに10月10日から劇場公開もされていたようだが、私はNetflixの配信でみた。実はこのところ風邪と仕事で忙しく、映画館にも足を運べない状態なので、予備知識なしで観て、キャスリン・ビグロー監督作品であることをエンドクレジットで初めて知った。
ビグロー作品は『ラブレス』(1982)から『デトロイト』(2017)までほとんどすべてを観ているので、本当なら気づくべきだったが、まあぼけ老人になっているのでしかたがない。ただ近年のビグロー作品らしい内容・形式ともに骨太な映画で、充分に満足できるものだった。
核弾頭ミサイルについては、昭和脳から脱却できていない私は、大陸間弾道ミサイル(ICBM)を迎撃するのは不可能に近いと常々思っている。
ただ、迎撃する側も核弾頭付きのミサイルを使用すれば、直撃しなくても、近くまで行って核爆発の力でICBMを無力化できるのだが、自国の上空で核爆発を起こすのは危険なのでこの方法は採用されていない。そうなるとICBMが発射されて放物線を描いて飛翔するとき、発射から放物線の頂点に達するときが狙い時で、とりわけ放物線の頂点では速度がゼロになる。しかし、その後、落下しはじめ、最終的に複数各弾頭に別れたら、もう迎撃は不可能になる。またICBMの飛翔コースは、放物線ではなく、台形の底辺以外の3辺の形をとる。上昇段階・水平飛行段階・落下段階の三段階のうち、現在では、ICBMが慣性によって水平飛行に入ったときが落とし時であり、それ以外には、発射される前に発射基地を攻撃する以外にICBMを防ぐ方法はない。
この映画のなかで「傾斜が水平に」というタイトルが第一部というか第一章についているが、これはICBMが水平飛行コースに入ったということだろう。この段階で、弾道弾迎撃ミサイル(GBI)で迎撃しないと、あとは打つ手がないというのも驚きである。ICBMは落下しはじめたら落とせないだろう。そもそも迎撃ミサイルは、高空をのんびり飛んでくる大型の戦略爆撃機を落とすためのもので、それなら成功の確率は高いだろうが、落下してくるミサイルを落とすためのものではない。実際それは「弾丸で弾丸を打つ」ようなものと常々思っていた私にとって、同じことがセリフとして映画で聞けたのは驚いた(第2章のタイトルにもなっている)。
とはいえ私の脳は昭和脳であって、現代でも進歩はないのかと驚きもした(もう少し迎撃ミサイルの精度はあがっているのではないか)。
映画のなかではミサイルによる迎撃の成否は五分五分である。戦略空軍の指令室で空軍大将がいうようにこれは「fuckingコイントス」でしかない――成否が五分五分ということと、運を天にまかせるということか。そして迎撃に失敗し、ICBMは18分でシカゴを直撃するとわかる。
同じNetflix配信の映画『INTERCEPTOR/インターセプター』(Interceptor2022)は、太平洋上に浮かぶミサイル防衛拠点を舞台に、テロリストたちによる攻撃(彼らはロシアから盗んだICBMで米国攻撃を計画)に対し、単身立ち向かう女性指揮官という、ダイ・ハード型のアクション映画だが、その防衛拠点には迎撃ミサイルも装備されていたように記憶する(実際には洋上の拠点にはレーダーがあるのみ)。『ハウス・オブ・ダイナマイト』では、GBIを発射するアラスカのフォート・グリーリー基地と洋上レーダー施設のみがICBM防衛システムのようだ(ICBMを打ち合うような世界大戦は起こらないと予測されていたのだろうか)。実際には、もっと多くの防衛施設があるようだ。とはいえ落下モードに入ったICBMを落とすのは、コイントス状態である。
映画は、朝、「ホワイトハウスのシチュエーションルーム(WHSR)で、オリヴィア・ウォーカー海軍大佐は深夜帯の当直チームから勤務を引き継いでいた」(Wikipedia)というところからはじまるが、ウォーカー/レベッカ・ファーガソンのいるところはシチュエーション・ルームそのものではなく、モニター・ルームのようなところで、シチュエーション・ルームは彼女の上司であるミラー大将/ジェイソン・クラークが赴くホワイトハウス地下の小さな会議室だと思われる(公開されている実際のシチュエーション・ルームの写真から判断すると)。
あと、大統領(POTUS――この威厳のない表現は好きである)が乗り組むのがヘリコプターというのも最初は驚いたが、これは、いわゆる「マリーンワン」――POTUSが短距離間を移動するときに利用するヘリコプターのこと。映画のなかで予算がなくて、エアフォースワンではなくて、ヘリコプターにしたのではない。いや、予算がなかったのかもしれないが。実際、現在、来日中のPOTUSもこれに乗っている(二機編隊で飛んでどちらにPOTUSが載っているのかわからないようにしているらしい)。
またこうした映画の感想として、日本人の右翼は、「平和ボケ」という言葉が好きなようだ。たしかにこの映画では、POTUSをはじめアメリカ人はみんな平和ボケであり、日常生活のリアルに埋没して、非常事態、つまり世界に終末をもたらす危機に対し、なんら対処できないまま、茫然と立ちつくことしかできない。平和ボケの末路である。
とりわけイドリス・エルバ扮する大統領は、平時に、有権者のご機嫌をとるために、ハイスクールのバスケットボールのイベントに参加、そこで、気さくで頼りがいのあるカリスマ的魅力をたたえた大統領像を強烈に印象付けるのだが、しかし非常時になって決断を下す段になると、優柔不断なポンコツの大統領となる――この落差を示すイドリス・エルバの演技はすごすぎる。平和ボケの大統領には有事の際の指導は荷が重すぎるのである。
だが、「平和ボケ」を日本人がいうな。この映画のなかではICBMは日本海あたりから発射されたようだが、最初、北朝鮮の潜水艦からと推測されたが、最終的にはどこの国なりどこの勢力が発射したのかわからないままである――つまり宣戦布告なき攻撃。
いうまでもなく、この宣戦布告なき不意打ち攻撃の原型は日本の真珠湾攻撃である(ちなみに、日露戦争時にも宣戦布告前に攻撃を始めた卑劣な日本軍にとって、宣戦布告なき奇襲はお家芸みたいなものである。当時の外務省が米国に宣戦布告を伝えるのを手間取ったというような話はあとから捏造したものだろう)。そして真珠湾攻撃を全く予測していないアメリカ海軍とアメリカ政府は、最終段階まで攻撃可能性を信ずることなく、気づくと日本の奇襲攻撃にさらされていた。この日本の狡猾さ卑劣さを宣伝することで当時のPOTUSは米国民を奮い立たせた。米国の平和ボケに乗じて卑劣な奇襲攻撃をかけたのは日本の軍部である。
前置きはこれくらいにして、この映画の特徴は、結局、ICBMはどうなったのかをオープン・エンディングにしていること――身も蓋もないことをいえば、世界最終戦争になり地球の文明は消滅したということだろう。そして同一の出来事を三つの視点から描いているこことを指摘したい。
基本的に主人公のレベッカ・ファーガソンがICBMによるシカゴ直撃が避けられないことを知り、何も知らない家族に愛を伝えるところで終わる第一章「傾斜が水平に」のあと、物語は最初にもどり、ホワイトハウスに向かう途中の大統領補佐官ジェイク・バリントン/ガブリエル・バッソ夫妻から話が始まる。基本的にこの大統領補佐官と戦略空軍司令施設の軍幹部の視点から同じ出来事が眺められるのが、「弾丸で弾丸を打つ」と題された第二章。第三章「爆薬が詰まった家」もふたたびふりだしにもどり、今度はPOTUS中心に話が展開する。同じ出来事が三つの視点から描かれる。
これをループ物とみていいように思う。もちろん、ループ物ではなく、同じひとつの事件を、多角的に語る様式であり、たとえば『バンテージ・ポイント』(Vantage Point2008 監督:ピート・トラヴィス)のような映画――スペインでのPOTUS狙撃事件の際、その現場にいた8人の視点から同じ事件を描くもの。同一対象の見え方の違いを、視差=パララックス・ヴューというが、それを主題としたジャンルでもある。ただしこれはパララックス・ヴュー好きのジジェイクに触発されたもので、映画『パララックス・ビュー』(The Parallax View 1974)とは無関係。とはいえ『バンテージ・ポイント』はタイム・ループ物として分類されることもあるので、今回の『ハウス・オブ・ダイナマイト』もそれと同等とみなしたい。というかそもそも、物語はループするのだ。ただし理由なく。
タイム・ループ物、あるいは無限タイム・ループ物の小説とか映画たるものの、第一条件は、主人公が、周囲が、世界が、反復・ループしているのを知っていること。これまでの世界についての記憶があることである。そうなると同一の出来事を視点をかえて描く今回の映画の表象法では、主人公ないし登場人物が、これは前回の反復だとは思わないから、ループ物の要件を満たしていないことになる。しかし、その中間的存在がある。出来事は反復される。そして主人公ないし登場人物は前回の出来事の記憶を保持しているように思われる。ただしループの原因についてSF的説明はない。というか原因は心的なものである。失敗した前例に対してセカンドチャンスを求めずにはいられない人間の願望がそこにある。
たとえば有名な例として『ラン・ローラ・ラン』(Lola rennt/Run Lola Run1998 監督:トム・ティクヴァ)がある。これはタイム・ループ物の映画として数えられていないかもしれないが、しかし、まぎれもなく物語が最初にもどり、最初からやりなおされる。ローラは、恋人のために高額な金を用立てることに失敗、強盗に入るが、発砲した警官の流れ弾に当たって死亡。と物語は、最初に戻る。今度は、ローラは、お金を強奪することに成功するが、恋人が死んでしまう。そして三回目に、偶然と幸運が重なりローラは恋人のためにお金をつくり、恋人も失った金を取り戻し、再開した二人には明るい未来が開けている……。この場合、なぜ出来事が3回も反復するのかについては、最初とその次の出来事は失敗に終わるがゆえに、前2回の失敗を教訓に3回目には成功するという、失敗をなんとか挽回したい、リセットしたい、あるいは失敗に対する悔恨ゆえに別の可能性を模索せずにはいられない人間のリセット願望の具現化ととることもできる。
『ハウス・オブ・ダイナマイト』は、同じ出来事を異なる視点から描くので、それぞれの視点は、補いあうことはあっても、矛盾したり、異なるものになったりすることはない。2回目も3回目も、それまで描かれていない細部が露呈しても出来事の展開は全く同じである。しかし、最初の出来事のあと、同じ出来事をもう一度描くということのなかに、『ラン・ローラ・ラン』におけるような、失敗を克服したい願望を感じ取れるのではないか。米国が宣戦布告鳴きICBM攻撃を受けて壊滅するという出来事は、あってはならない惨事であり、それを未然に防ぎたい、あるいは防衛方法のオルターナティヴを探りたいという、ある意味素朴な人間の願望が、出来事の振出しにもどるような物語を希求したともとれる。
『ハウス・オブ・ダイナマイト』のループ構造は、出来事をリセットしたい、オルターナティヴを探りたいという人間の願望の影をにじませている。とはいえ、通常のループ物と異なり、繰り返される出来事には、異変はなく、まったく同じ出来事であって、どうあがいても、出来事のオルターナティヴや、変更点や、マルチユニヴァースはみあたらない。破局へむかう必然的放物線(まさにICBMのコースそのもの)から誰も逃れられないというかたちで映画は終わる。
とはいえ、三つの視点からの物語は、どれもオープン・エンディングであって、結末はわからない。これは視聴者が想像せよということかもしれないが、同時に、核攻撃(さらには核の報復の連鎖)はすべの消滅をもたらすのであって、終わりそのものをも消し去るともいえる。
この映画の真の恐怖がそこで暗示される。三つの物語、三つの視点の物語は終わりを失っている、つまり物語は終わりがない、いわゆる成仏できないまま宙刷りになっている。そして成仏するまで、終わりがみつかるまで、さらに別の人物の視点からの物語が紡がれてゆくだろう。しかもそれらは同じ一つの出来事を、異変も差異もないかたちでただ再構築するだけであり、破局は回避されず、破局の核心は明示されず、別の視点からの物語は永遠に終わることがない。核という最終兵器による最終戦争によって瞬時にして消滅する人類が消滅のまぎわに夢にみた、何度も繰り返される終末の最後の瞬間、まさに悔恨と絶望の無限ループがここに生起するのだ。そう、同じ一つの出来事を語るこの映画は、ループ物の映画ではないかもしれないが、もし核戦争が起こったら生ずるであろう、隠れた戦慄的無限ループの誕生を暗示しているのである。
付記:1 とはいえ映画は、核攻撃後の世界も映画いている。ICBMの着弾後、ペンシルヴェニアのレイヴンロック・マウンテン・コンプレックスの核シェルターに入る人々が描かれているし、フォート・グリーリー基地の外にたたずむ指揮官の姿もみえる。ポストアポカリプスの世界が始まろうとしている。続編でもつくるつもりなのだろうか。あるいは絶望で終わらせたくなかったのだろうか。
付記:2 『トワイライト・ゾーン』の第4シーズン(このシーズンだけ1時間物となった)のなかで「幻の宇宙船」(Death Ship)は、すでに墜落して全員死亡したのに、それを知らない宇宙船の乗組員たちが遭遇する異変を描くものだが、彼らクルーは、自分たちの死を発見するや、ふたたび出来事の発端へと引き戻され、無限のループに囚われる。そして、囚われているかぎり、成仏できずにいる。死ぬことができない。『ハウズ・オブ・ダイナマイト』における最終的に露呈する無限ループと似た構造を、このエピソードは持っているのではないか。詳しい考察はいまは行なわないが。
ビグロー作品は『ラブレス』(1982)から『デトロイト』(2017)までほとんどすべてを観ているので、本当なら気づくべきだったが、まあぼけ老人になっているのでしかたがない。ただ近年のビグロー作品らしい内容・形式ともに骨太な映画で、充分に満足できるものだった。
核弾頭ミサイルについては、昭和脳から脱却できていない私は、大陸間弾道ミサイル(ICBM)を迎撃するのは不可能に近いと常々思っている。
ただ、迎撃する側も核弾頭付きのミサイルを使用すれば、直撃しなくても、近くまで行って核爆発の力でICBMを無力化できるのだが、自国の上空で核爆発を起こすのは危険なのでこの方法は採用されていない。そうなるとICBMが発射されて放物線を描いて飛翔するとき、発射から放物線の頂点に達するときが狙い時で、とりわけ放物線の頂点では速度がゼロになる。しかし、その後、落下しはじめ、最終的に複数各弾頭に別れたら、もう迎撃は不可能になる。またICBMの飛翔コースは、放物線ではなく、台形の底辺以外の3辺の形をとる。上昇段階・水平飛行段階・落下段階の三段階のうち、現在では、ICBMが慣性によって水平飛行に入ったときが落とし時であり、それ以外には、発射される前に発射基地を攻撃する以外にICBMを防ぐ方法はない。
この映画のなかで「傾斜が水平に」というタイトルが第一部というか第一章についているが、これはICBMが水平飛行コースに入ったということだろう。この段階で、弾道弾迎撃ミサイル(GBI)で迎撃しないと、あとは打つ手がないというのも驚きである。ICBMは落下しはじめたら落とせないだろう。そもそも迎撃ミサイルは、高空をのんびり飛んでくる大型の戦略爆撃機を落とすためのもので、それなら成功の確率は高いだろうが、落下してくるミサイルを落とすためのものではない。実際それは「弾丸で弾丸を打つ」ようなものと常々思っていた私にとって、同じことがセリフとして映画で聞けたのは驚いた(第2章のタイトルにもなっている)。
とはいえ私の脳は昭和脳であって、現代でも進歩はないのかと驚きもした(もう少し迎撃ミサイルの精度はあがっているのではないか)。
映画のなかではミサイルによる迎撃の成否は五分五分である。戦略空軍の指令室で空軍大将がいうようにこれは「fuckingコイントス」でしかない――成否が五分五分ということと、運を天にまかせるということか。そして迎撃に失敗し、ICBMは18分でシカゴを直撃するとわかる。
同じNetflix配信の映画『INTERCEPTOR/インターセプター』(Interceptor2022)は、太平洋上に浮かぶミサイル防衛拠点を舞台に、テロリストたちによる攻撃(彼らはロシアから盗んだICBMで米国攻撃を計画)に対し、単身立ち向かう女性指揮官という、ダイ・ハード型のアクション映画だが、その防衛拠点には迎撃ミサイルも装備されていたように記憶する(実際には洋上の拠点にはレーダーがあるのみ)。『ハウス・オブ・ダイナマイト』では、GBIを発射するアラスカのフォート・グリーリー基地と洋上レーダー施設のみがICBM防衛システムのようだ(ICBMを打ち合うような世界大戦は起こらないと予測されていたのだろうか)。実際には、もっと多くの防衛施設があるようだ。とはいえ落下モードに入ったICBMを落とすのは、コイントス状態である。
映画は、朝、「ホワイトハウスのシチュエーションルーム(WHSR)で、オリヴィア・ウォーカー海軍大佐は深夜帯の当直チームから勤務を引き継いでいた」(Wikipedia)というところからはじまるが、ウォーカー/レベッカ・ファーガソンのいるところはシチュエーション・ルームそのものではなく、モニター・ルームのようなところで、シチュエーション・ルームは彼女の上司であるミラー大将/ジェイソン・クラークが赴くホワイトハウス地下の小さな会議室だと思われる(公開されている実際のシチュエーション・ルームの写真から判断すると)。
あと、大統領(POTUS――この威厳のない表現は好きである)が乗り組むのがヘリコプターというのも最初は驚いたが、これは、いわゆる「マリーンワン」――POTUSが短距離間を移動するときに利用するヘリコプターのこと。映画のなかで予算がなくて、エアフォースワンではなくて、ヘリコプターにしたのではない。いや、予算がなかったのかもしれないが。実際、現在、来日中のPOTUSもこれに乗っている(二機編隊で飛んでどちらにPOTUSが載っているのかわからないようにしているらしい)。
またこうした映画の感想として、日本人の右翼は、「平和ボケ」という言葉が好きなようだ。たしかにこの映画では、POTUSをはじめアメリカ人はみんな平和ボケであり、日常生活のリアルに埋没して、非常事態、つまり世界に終末をもたらす危機に対し、なんら対処できないまま、茫然と立ちつくことしかできない。平和ボケの末路である。
とりわけイドリス・エルバ扮する大統領は、平時に、有権者のご機嫌をとるために、ハイスクールのバスケットボールのイベントに参加、そこで、気さくで頼りがいのあるカリスマ的魅力をたたえた大統領像を強烈に印象付けるのだが、しかし非常時になって決断を下す段になると、優柔不断なポンコツの大統領となる――この落差を示すイドリス・エルバの演技はすごすぎる。平和ボケの大統領には有事の際の指導は荷が重すぎるのである。
だが、「平和ボケ」を日本人がいうな。この映画のなかではICBMは日本海あたりから発射されたようだが、最初、北朝鮮の潜水艦からと推測されたが、最終的にはどこの国なりどこの勢力が発射したのかわからないままである――つまり宣戦布告なき攻撃。
いうまでもなく、この宣戦布告なき不意打ち攻撃の原型は日本の真珠湾攻撃である(ちなみに、日露戦争時にも宣戦布告前に攻撃を始めた卑劣な日本軍にとって、宣戦布告なき奇襲はお家芸みたいなものである。当時の外務省が米国に宣戦布告を伝えるのを手間取ったというような話はあとから捏造したものだろう)。そして真珠湾攻撃を全く予測していないアメリカ海軍とアメリカ政府は、最終段階まで攻撃可能性を信ずることなく、気づくと日本の奇襲攻撃にさらされていた。この日本の狡猾さ卑劣さを宣伝することで当時のPOTUSは米国民を奮い立たせた。米国の平和ボケに乗じて卑劣な奇襲攻撃をかけたのは日本の軍部である。
前置きはこれくらいにして、この映画の特徴は、結局、ICBMはどうなったのかをオープン・エンディングにしていること――身も蓋もないことをいえば、世界最終戦争になり地球の文明は消滅したということだろう。そして同一の出来事を三つの視点から描いているこことを指摘したい。
基本的に主人公のレベッカ・ファーガソンがICBMによるシカゴ直撃が避けられないことを知り、何も知らない家族に愛を伝えるところで終わる第一章「傾斜が水平に」のあと、物語は最初にもどり、ホワイトハウスに向かう途中の大統領補佐官ジェイク・バリントン/ガブリエル・バッソ夫妻から話が始まる。基本的にこの大統領補佐官と戦略空軍司令施設の軍幹部の視点から同じ出来事が眺められるのが、「弾丸で弾丸を打つ」と題された第二章。第三章「爆薬が詰まった家」もふたたびふりだしにもどり、今度はPOTUS中心に話が展開する。同じ出来事が三つの視点から描かれる。
これをループ物とみていいように思う。もちろん、ループ物ではなく、同じひとつの事件を、多角的に語る様式であり、たとえば『バンテージ・ポイント』(Vantage Point2008 監督:ピート・トラヴィス)のような映画――スペインでのPOTUS狙撃事件の際、その現場にいた8人の視点から同じ事件を描くもの。同一対象の見え方の違いを、視差=パララックス・ヴューというが、それを主題としたジャンルでもある。ただしこれはパララックス・ヴュー好きのジジェイクに触発されたもので、映画『パララックス・ビュー』(The Parallax View 1974)とは無関係。とはいえ『バンテージ・ポイント』はタイム・ループ物として分類されることもあるので、今回の『ハウス・オブ・ダイナマイト』もそれと同等とみなしたい。というかそもそも、物語はループするのだ。ただし理由なく。
タイム・ループ物、あるいは無限タイム・ループ物の小説とか映画たるものの、第一条件は、主人公が、周囲が、世界が、反復・ループしているのを知っていること。これまでの世界についての記憶があることである。そうなると同一の出来事を視点をかえて描く今回の映画の表象法では、主人公ないし登場人物が、これは前回の反復だとは思わないから、ループ物の要件を満たしていないことになる。しかし、その中間的存在がある。出来事は反復される。そして主人公ないし登場人物は前回の出来事の記憶を保持しているように思われる。ただしループの原因についてSF的説明はない。というか原因は心的なものである。失敗した前例に対してセカンドチャンスを求めずにはいられない人間の願望がそこにある。
たとえば有名な例として『ラン・ローラ・ラン』(Lola rennt/Run Lola Run1998 監督:トム・ティクヴァ)がある。これはタイム・ループ物の映画として数えられていないかもしれないが、しかし、まぎれもなく物語が最初にもどり、最初からやりなおされる。ローラは、恋人のために高額な金を用立てることに失敗、強盗に入るが、発砲した警官の流れ弾に当たって死亡。と物語は、最初に戻る。今度は、ローラは、お金を強奪することに成功するが、恋人が死んでしまう。そして三回目に、偶然と幸運が重なりローラは恋人のためにお金をつくり、恋人も失った金を取り戻し、再開した二人には明るい未来が開けている……。この場合、なぜ出来事が3回も反復するのかについては、最初とその次の出来事は失敗に終わるがゆえに、前2回の失敗を教訓に3回目には成功するという、失敗をなんとか挽回したい、リセットしたい、あるいは失敗に対する悔恨ゆえに別の可能性を模索せずにはいられない人間のリセット願望の具現化ととることもできる。
『ハウス・オブ・ダイナマイト』は、同じ出来事を異なる視点から描くので、それぞれの視点は、補いあうことはあっても、矛盾したり、異なるものになったりすることはない。2回目も3回目も、それまで描かれていない細部が露呈しても出来事の展開は全く同じである。しかし、最初の出来事のあと、同じ出来事をもう一度描くということのなかに、『ラン・ローラ・ラン』におけるような、失敗を克服したい願望を感じ取れるのではないか。米国が宣戦布告鳴きICBM攻撃を受けて壊滅するという出来事は、あってはならない惨事であり、それを未然に防ぎたい、あるいは防衛方法のオルターナティヴを探りたいという、ある意味素朴な人間の願望が、出来事の振出しにもどるような物語を希求したともとれる。
『ハウス・オブ・ダイナマイト』のループ構造は、出来事をリセットしたい、オルターナティヴを探りたいという人間の願望の影をにじませている。とはいえ、通常のループ物と異なり、繰り返される出来事には、異変はなく、まったく同じ出来事であって、どうあがいても、出来事のオルターナティヴや、変更点や、マルチユニヴァースはみあたらない。破局へむかう必然的放物線(まさにICBMのコースそのもの)から誰も逃れられないというかたちで映画は終わる。
とはいえ、三つの視点からの物語は、どれもオープン・エンディングであって、結末はわからない。これは視聴者が想像せよということかもしれないが、同時に、核攻撃(さらには核の報復の連鎖)はすべの消滅をもたらすのであって、終わりそのものをも消し去るともいえる。
この映画の真の恐怖がそこで暗示される。三つの物語、三つの視点の物語は終わりを失っている、つまり物語は終わりがない、いわゆる成仏できないまま宙刷りになっている。そして成仏するまで、終わりがみつかるまで、さらに別の人物の視点からの物語が紡がれてゆくだろう。しかもそれらは同じ一つの出来事を、異変も差異もないかたちでただ再構築するだけであり、破局は回避されず、破局の核心は明示されず、別の視点からの物語は永遠に終わることがない。核という最終兵器による最終戦争によって瞬時にして消滅する人類が消滅のまぎわに夢にみた、何度も繰り返される終末の最後の瞬間、まさに悔恨と絶望の無限ループがここに生起するのだ。そう、同じ一つの出来事を語るこの映画は、ループ物の映画ではないかもしれないが、もし核戦争が起こったら生ずるであろう、隠れた戦慄的無限ループの誕生を暗示しているのである。
付記:1 とはいえ映画は、核攻撃後の世界も映画いている。ICBMの着弾後、ペンシルヴェニアのレイヴンロック・マウンテン・コンプレックスの核シェルターに入る人々が描かれているし、フォート・グリーリー基地の外にたたずむ指揮官の姿もみえる。ポストアポカリプスの世界が始まろうとしている。続編でもつくるつもりなのだろうか。あるいは絶望で終わらせたくなかったのだろうか。
付記:2 『トワイライト・ゾーン』の第4シーズン(このシーズンだけ1時間物となった)のなかで「幻の宇宙船」(Death Ship)は、すでに墜落して全員死亡したのに、それを知らない宇宙船の乗組員たちが遭遇する異変を描くものだが、彼らクルーは、自分たちの死を発見するや、ふたたび出来事の発端へと引き戻され、無限のループに囚われる。そして、囚われているかぎり、成仏できずにいる。死ぬことができない。『ハウズ・オブ・ダイナマイト』における最終的に露呈する無限ループと似た構造を、このエピソードは持っているのではないか。詳しい考察はいまは行なわないが。
posted by ohashi at 14:08| 映画
|