2017年07月31日

常時点灯

私の住んでいる団地では一階にある郵便物用のボックス・ロッカーのあるスペースの照明の節電化がおこなわれていた。3.11の震災以降。つまり電力が足りないので、節電のため、こまめに照明を点けたり消したりしましょうということになった。そのため昼も夜も、郵便ボックスのコーナーを利用するときには、自分で照明スイッチを点灯し、それ以外のときにはこまめに消灯するということになった。そうなってから56年たったので、それ以前つまり3.11以前はどうだったのか、記憶になくなっている。


基本的に昼間、とりわけ冬とか夏は、電力消費が多いので、郵便物コーナーは消灯する。利用するときはそのつど点灯する。夜も原則として消灯しておき、利用するときはそのつど点灯することになった。しかし夜、消灯するのは防犯上好ましくないと私は考えてきた。


3.11直後、節電が叫ばれていた頃、ニュース番組で、バカなコメンテイターが、夜、これまでのように街路灯などの照明をつけておくこと節電のためなくなったことに触れて。街全体が薄暗くなったものの、ヨーロッパの街のように、雰囲気のある街にかわったということでもあって、良いじゃないですかと語っていた。バカと言ってやりたかった。なぜならヨーロッパの街は、夜は薄暗い、だから犯罪も多い。それに対して、夜、ヨーロッパよりもはるかに明るいに日本の都会は、そのぶん犯罪も少なく安全性で世界の他の都市を上回っている。


夜、煌々と照明が輝いているのは、電気の無駄遣いのイメージが強い。しかし電力は貯蓄できない。もし貯蓄できるのなら深夜、電気を使わないようにして、たまった電気を昼間使ってもいいだろう。それはむりなのだ。そのため深夜電力は、使う人が少ないので、無駄につくって消えていくだけです。だからつねに深夜電力の利用が叫ばれてきた。深夜には、防犯のためにも照明のために電気を使ったほうがいいのである。それに深夜料金は安い。


ところが団地には、昼間、郵便物コーナーの照明をつけたままにし、夜になると消すという本末転倒なことを平気でする輩がいた。私は帰宅するときが遅くなって、郵便コーナーの照明が消えていると、明かりを点けておいた。誰かにその行為を非難されることはなかったが、もし見とがめられて何か言われたら、防犯のためにも夜、照明をつけておくべきっだというのが自分の考えなのであり、信念に従って電気を点けている。ただし深夜電力が安いからといっても夜も節電しておいたほうがいいという考え方もある。だから、わたしが点灯した照明を、あなたが消しても、それについては見解の相違なので文句は言わないし、またあえてもう一度点灯はしない。しかし、私には信念があるので、気づいたら夜の照明は点灯すると答えるつもりだった。


で、どうなったのか。最近、照明がLED照明に変わった。そして常時点灯となった。点灯スイッチは押してはいけないことになった。こうして昼も夜も、郵便ボックス・コーナーは明るく輝き続けている。そのほうが防犯にいいしということで、文明の進歩(とはいえ LED のおかげだが)によって、問題はあっけなく解決したのであった。


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2017年07月28日

『ウィッチ』

『ウィッチ』原題The VVitch(2015)、正直いって、やや地味なのだけれども、あるいはシブいというべきか、しかし、次のようなネットにあった感想とは程遠い映画である。


あ~怖かった・・・

「貴方はまだ、本当に恐ろしい魔女映画を知らない!!」のキャッチコピーの映画ウィッチ。/M・ナイト・シャラマン監督の「スプリット」(5月公開)の主役だったアニヤ・テイラー=ジョイの主演(実際はこっちが先でそれが好評だったので、「スプリット」の主役に抜擢されたのだが・・・)で、しかも、サンダンス映画祭で監督賞も受賞しているのに、地味な公開です【地味な公開というのは関東では新宿武蔵野館一館のみの上映だから】。/ で、感想ですが、とにかく怖かったです。確かに、魔女狩りとかでなく、今作のように魔女伝説のみに特化した作品は、数ある魔女映画で初めてではないでしょうか?【「魔女伝説のみに特化した作品」というのは意味不明。】ということになるのですが、/しかも、すっかりワンパターン化しているこの手のホラーを冴える演出で低予算ながら、一級のホラー映画になっていました。/一応、「ダーク・ファンタジー・ホラー」と謳って言いますが、「ファンタジー」が付くかは、観た人次第だと思います。(私にはダーク・ホラーでした!)【ファンタジーの要素もある。現実に起こっていることなのか、妄想なのかわからない部分もあるので】/やはり、主演のアニヤは今後、注目したい女優の一人です。また、監督、脚本のロバート・エガース(次回作は吸血鬼ノスフェラトゥのリメイクに抜擢らしい)にも注目したいです!/これから今夏のハリウッド大作が目白押しで公開されますが、もしかすると、一番の掘出し物かもしれません!【ステマか?】


「あ~怖かった」とか「とにかく怖い」というのは、まったくあてはまらない。不気味な、ある意味、陰惨な部分もある映画だけれども、「とにかく怖い」などという映画ではないので、どうか、こういうステマもどきの愚劣な評言には惑わされないように。


ただ上記のコメントにあるようにナイトシャマラン監督の『スプリット』に重要な役で出演していて印象深かったアニヤ・テイラー=ジョイ。彼女が主演の『ウィッチ』が日本で公開されるということで、新宿武蔵野館まで足を運んだのだが、しかし、アニヤ・テイラー=ジョイは、すでにけっこう活躍していて、それはSF映画で、『エクスマキナ』の対抗馬でもあった(日本未公開、DVD化されている)『モーガン』に出演していることからも明らかである。『スプリット』は、影のある、めんどくさい少女の役だったが、魔女役は似合っていると思ったが、『ウィッチ』のほうが先に制作され、また、こちらのほうが彼女の美しさが目立つ。


原題はThe VVitch: A New-England FolktaleWではなくVをつなげているのは、当時、Wの文字がなく、二連のVWを表していたから。ついでにいえば、シェイクスピアの時代、アルファベットはJWUがなかった(それぞれiとVVVで代用していた)。そのためアルファベットは23文字である。もっと正確にいうと、シェイクスピア時代は過渡期で、たとえばWVVとが並行して使われていた)。


ということはこの映画は、歴史的再現性にこだわっているということだ。それは時代考証に基づく、風俗、ファッション、生活習慣などの徹底した再現だけでなく、当時の人間の心理や思考、その情動や恐怖までもヴィジュアル化し示そうとしているのである。そこがなんともすばらしい。


言語的にも1630年の英語を、そうまさにシェイクスピア時代の英語を使っている。だから最初、なにを言っているのかよくわからなかったところもある。方言なのかなとも思ったのだが、まさに当時の英語を使っているのである。たとえばこんなふうに(シェイクスピアの英語じゃい)


Thomasin: Black Phillip, I conjure thee to speak to me. Speak as thou dost speak to Jonas and Mercy. Dost thou understand my English tongue? Answer me.

Black Phillip: What dost thou want?

Thomasin: What canst thou give?

Black Phillip: Wouldst thou like the taste of butter? A pretty dress? Wouldst thou like to live deliciously?

Thomasin: Yes.

Black Phillip: Wouldst thou like to see the world?

Thomasin: What will you from me?

Black Phillip: Dost thou see a book before thee?... Remove thy shift.

Thomasin: I cannot write my name.

Black Phillip: I will guide thy hand


もちろん、こだわりすぎて意味がなくなっているところもある。映画のなかで魔女がサバトで唱える呪文は、なんと「エノク語」なのだ。とはいえ、エノク語を実際に観たり聞いたりしたことはないので、本物とか贋物とかは何も言えないのだが、ただ、いままで聞いたこともない言語なので、新鮮味というよりも不気味さMAXでもあるのだが。


ちなみにエノク語については、Wikipediaから定義の一部を引用するので参考までに。


エノク語(エノクご)あるいはエノキアン(英: Enochian)は、16世紀後半ジョン・ディーと霊視者エドワード・ケリーの日誌に記録されている天使の言語とされるものである。彼らはそれは天使により啓示されたものだと主張していたが、現代の一部の魔術研究者は人工言語と見なしている。


この言語を「エノク語」というのは現代の慣例によるもので、ディー自身の著述には見えない。彼はこの言語を「天使語」、「天上の言葉」、「天使の言語」、「神-キリストの最初の言語」、「神聖言語」と呼んでいた。彼はこの言語に使われるアルファベットを「アダムの」(Adamical) と呼ぶときもあったが、それは(ディーの天使によれば)エデンの園でアダムが全ての物に名前をつけるときに用いられたからである。ディーはなおかつ(彼とケリー以前は)父祖エノクがこの言語を知っていた最後の人間だったとした。そのため、後世の研究者たちはこの言語およびディーの魔術理論全体を「エノク的」(Enochian) と呼称するようになった。


あと、山羊のことをブラック・フィリップといって双子がからかっているところがあるのだが、この「フィリップ」というのは、どこから来ているのか謎であるが、まあ時代錯誤なのだが、「フィリップ王戦争」と関係があるのかもしれない。


Wikipediaによると


フィリップ王戦争(King Philip's War)とは、16756月から翌年8月まで、ニューイングランドで白人入植者とインディアン諸部族との間で起きたインディアン戦争(民族浄化)。フィリップ王とはワンパノアグ族の酋長メタコメット(メタコム)の事で、白人入植者は彼をそう呼んでいた。


なにか歴史的共鳴といったものを映画は追及しているように思われる。


では映画の物語の中身は次のようになる。


1630年、ニューイングランド。敬虔なキリスト教徒のウィリアムとキャサリンの夫婦と5人の子供たちは敬虔なキリスト教にのっとった生活を送るため、村はずれにある森の近くの荒地に引っ越してきた。

しかしある日、5人の子供の1人赤ん坊のサムが何者かに連れ去られ、行方不明となってしまう。家族が悲しみに沈む中、ウィリアムは美しく成長した娘のトマシンが魔女ではないかとの疑いを抱く。それをきっかけにやがて一家全員が疑心暗鬼になり、次第に狂気の淵に沈んでいく。


「敬虔なキリスト教にのっとった生活を送るため、村はずれにある森の近くの荒地に引っ越してきた。」というのは映画の内容をゆがめている。自発的に一家がここにやってきたようにとれるからだ。実際には共同体から追放されて、村はずれどころか、村の姿もみえない荒野、それも森林地帯の入り口にあたる荒野で細々と暮らす、まさにエグザイル生活なのだから。


また現実なのか妄想なのかと述べたが、それに関しては、この映画は、知的な示唆をおこなっている。麦角菌の存在である。この映画のなかの一家は、不毛の地で農作物を栽培しても、作物が枯れてしまって育たなくて、窮地に陥るのだが、そのときトウモロコシだか麦だかわからないが、黒く枯れている。枯れて、その一部が黒くなっているのだ。そう、これって麦角菌じゃないのか。


以前、荒木正純氏にもらった翻訳(共訳)があって、それがメアリー・ギルバーン・マトシアン『食物中毒と集団幻想』(パピルス2004)という驚異的な本。AMAZONにおける記述をそのまま引用すると、


中世ヨーロッパに猛威をふるった黒死病と魔女裁判。フランス革命時に地方で多発した恐慌。一八世紀後半以降の人口の急増。一六八九年、マサチューセッツ州セイラムで起こったアメリカ史上最悪の魔女裁判―こうした無関係にみえる歴史上の現象の背後には、知られざる麦角中毒症という原因があった。穀物、とくにライ麦に付着するカビの毒素(マイコトキシン)が、人間の免疫機能を損ない、中枢神経に作用してLSDと同様の効果を及ぼし、広範な集団幻覚を引き起こした。


Wikipediaによると、

麦角菌(バッカクキン)とは、バッカクキン科バッカクキン属 (Claviceps) に属する子嚢菌の総称である。いくつかのイネ科植物(重要な穀物や牧草を含む)およびカヤツリグサ科植物の穂に寄生する【日本の稲には麦角菌は寄生しない――引用者】。

特によく知られる種がC. purpureaで、ライ麦をはじめ小麦、大麦、エンバクなど多くの穀物に寄生する。本種が作る菌核は黒い角状(あるいは爪状で、悪魔の爪などとも形容される)なので、麦角(ばっかく)と呼ばれるようになった。

麦角の中に含まれる麦角アルカロイドと総称される物質は様々な毒性を示し、麦角中毒と呼ばれる食中毒症状をヨーロッパなどで歴史上しばしば引き起こしてきた。麦角菌には約50種が知られ、世界的に分布するが特に熱帯・亜熱帯に種類が多い。現在では技術の進歩により製粉段階で麦角菌の除去が行われている。


映画における枯れた穀物が示す禍々しくも黒く変色した部分。あれ、あれこそが麦角菌のありかを強烈に示唆しているのだ。もちろん魔女狩り、魔女裁判、魔女幻想、すべてが麦角菌のせいではないだろう。しかし映画は、よく指摘されるこの可能性についても、おそろかせにせず、人物たちをとりまく環境の重要な要素それも妄想の引き金になる要素として使っている。となると外的環境にある麦角菌。それによって生ずる魔女幻想、妄想。そのふたつを境界をもうけずに映像化しているため、映画は、外的環境と内的妄想の融合体となる。ドゥルーズの言葉を使えば、運動イメージではなく、時間イメージ。客観でもあるし主観でもあるという分離できない二重性。まさにこの映画は、映画の王道をいくといってもいい。


もちろん1630年のニューイングランドにおける精神風土も映画は精緻に再現している。罪にまみれた人間の救済と断罪を中軸とする清教徒主義がもたらす、強烈な自己否定、自己抑圧と禁欲的生活。しかも過剰なまでの清浄を求めるがゆえに、寛容さを失い、ささいなことでも重罪となるがゆえにかえって罪を認めることができなくなって、そこに自己欺瞞と隠蔽体質が生まれ、敬虔な善良な人間も一皮むけばただの偽善者となる。懺悔と自己処罰の日常。みずからも他人からも断罪されことにおびえる日々。まさにこのような潤いも喜びもない暗鬱で陰惨な日々においては、悪あるいは悪魔に誘惑されること、それはまた押さえつけていた欲望を解放することでもあるのだが、これこそが真の解放となる。救いは、もはや神ではなく悪魔がもたらすのであり、人間性の解放と堕落とが融合する。女性たちは、魔女となることで、初めて幸福になる。あるいは春のめざめを経験する若い男女が、みずからの欲望に忠実であるとき、その精神状態を、悪魔の誘惑、魔女の誘惑というかたちで自己表象することになる。


理屈はわかる。問題は、それを映像としてどう伝えるかである。歴史的再現性を重視する際、外的な現実のみならず、精神史あるいは心性の歴史的再現性をも重視するこの映画は、現代の生活や文化のアレゴリカルな暗示へと向かう可能性を残しつつも、ここでは、力点を、歴史的に再現された最終的には心的現実といえるものへと観客を導いていくことに置いている。魔女幻想や悪魔妄想におびえつつ、同時にそれらを再生産しつづけた当時の人間の精神構造の表象を通して、最終的に私たちの前に示されるのは、自然と人間との関係である。


この映画のなかでは、森のなかに悪魔や魔女が住んでいるかのようにみえる。しかし、彼らが先住民族のように、あるいは飛来した宇宙人のように、森のなかで隔絶され独自の生活をいとなみ、ときおり周辺住民を誘惑したり、子供を誘惑して、殺しているとはにわかに信じがたい。森に棲む宇宙人のような悪魔は、この一家が、ひいては村人たちが、みずからの恐怖を森に投影したものにすぎないだろう。


ホーソンの有名な短編‘Young Goodman Brown’では平穏で善良な生活を送っている市民あるいは村人たちが、夜になると、本来の姿、悪魔や魔女となって、森のなかでサバトを繰り広げていたという設定になっている。悪魔や魔女は、森の住人ではないのである。だが、この映画では、また当時の人間の想像の風景のなかでは、森になにか魔物がいるのである。そしてこの魔物は、いっぽうで、人間の心の闇にひそむ無意識の欲望であるとともに、人間を武装解除し無防備にして、人間に、その本来の姿をさらすように促す恐怖の存在、自然が人間に、自然に戻るように差し向ける恐怖の存在でもある。この時代、まだ人間は、自然と対峙していた。自然にむきあうことによって、また自然と向き合うことの恐怖のなかで、人間性のありようを模索していた。そんなふうにこの映画の映像美は観客に訴えているように思われる。


この一家は、自然と文明とのインターフェイスでもある。ウサギの姿を借りた悪魔、山羊の姿の悪魔あるいはブラック・フィリップ。だが、こうした動物たちは、恐怖の存在ではなく、自然と人間とのインターッフェイスとして、両者の深い交流の可能性の中心でもある。だが、人間は、その対話の誘惑を、恐怖としか受け入れることができなかったともとれる。


そのほか、いろいろな可能性が、脳裏に去来しているのだが、それはまあ別の機会に語ることができるのかもしれない。


ひとつだけ、ささいな感想を。この映画を単館上映している新宿武蔵野館。臭い。以前、入口近くの座席でみることがあったのだが、なにか臭いがするので、入口から離れた座席でみることようになったのだが、臭い。最初はトイレに近いので、臭うのかと思ったが、トイレの臭いではない。なにか魚系、それも焼き魚のような変な臭いが漂っているのだ。今日もそれを強く感じた。下の階の居酒屋かなにかが出す煙が映画館のなかに入ってきているのではないだろうか。ロビーも何となく臭うのである。しかし、これは私の体臭とか加齢臭ではない(その種の臭いではないのだ)。またエレベーター・ホールとか階段は、全く何の臭いもない。どうかこれが悪魔の臭いではないことを。また換気などして臭い対策が講じられることを祈るばかりである。

posted by ohashi at 04:04| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年07月23日

『ボン・ボヤージュ』


『ボン・ボヤージュ 家族旅行は大暴走』。原題は、A fond、フランス語はよくわからないが英語ではto the bottom。ただし関与九九としてほかに意味があるのだろう。


ネットではこんな紹介記事が


「世界の果てまでヒャッハー!」のニコラ・ブナム監督が、ハプニングに見舞われた家族旅行を取り上げたコメディー。コックス一家は自慢の新車でバカンスに出かけるが、ブレーキが故障して車は高速道路を暴走。絶体絶命の危機の中、家族の秘密も明かされ……。個性豊かな家族たちが、次々に起こる思わぬ事態にパニックに陥る。


あるいは「ハートフルコメディ」と紹介しているものもあるが、基本的にハートフルではない。


そもそも登場人物、とりわけこの家族は、バカばっかりで、それだけなら愛されキャラからもしれないが、バカで、嫌なやつばっかりで、実は、最初の方は、このバカの癖が強くて、ちょっと引いてしまうところもある。


いや、そもそもこの喜劇、かなり毒があって、痛い笑いも多い。やはり笑いには毒がないと面白くない。ただこの映画の場合、毒と言っても特定の対象に対する風刺ではないのだが。


また突き放してみるしかない、この家族を、最後には観客は愛するようになるのかというと、それも微妙で、極限状態にある家族を、最終的にどう助けるのかということで緊張するために、この家族の癖の強さというか、あくどさを忘れてしまうのだが、しかし、しょうもない家族であるように思われる。


夫婦と子供たちは、この事件をきっかけに絆を強めたようだが、諸悪の根源たる、おじいちゃんは、いったいどうなのか。そもそも、このパパはおじいちゃんの息子なのかどうか、それは解決していないぞ。


あとボットクス注射ネタは、ヨーロッパでは好まれているようで(イギリスではよくある)、ここでもかなりきついかたちで、差別的かどうかぎりぎりのところというよりも、差別的に使われているのは問題だろう。


またフランスのヘリコプター、遠くからの撮影で、機体ははっきりわからなかったが東京消防庁でもつかっているASなんとかという大型の機種でしょう。フランスの大型ヘリコプター、かっこいいですよね。ああいう使い方で救助できるのは、危険だけれども、コロンブスの卵だった。

posted by ohashi at 12:37| 映画 | 更新情報をチェックする