2025年11月17日

『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』

原題:Springsteen: Deliver Me from Nowhere
2025年製作/120分/G/アメリカ 劇場公開日:2025年11月14日

映画の邦題について、映画を観ているときにはとくに意識していなかったので、「孤独のハイウェイ」というサブタイトルがどこからとられたのは、スプリングスティーンの歌詞にあるものなのか、有名な引用句なのか、映画会社が勝手につけたのか、わからない。

まず、映画.COMでの紹介
ドラマ「一流シェフのファミリーレストラン」のジェレミー・アレン・ホワイトが主演を務め、ギター、ハーモニカ、歌唱トレーニングを経て若き日のスプリングスティーンを体現。「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」のジェレミー・ストロングがマネージャーのジョン・ランダウ役、「帰らない日曜日」のオデッサ・ヤングがガールフレンドのフェイ・ロマーノ役、「ボイリング・ポイント 沸騰」のスティーブン・グレアムが父親ダグ役、ドラマ「ブラック・バード」のポール・ウォルター・ハウザーがサウンドエンジニアのマイク・バトラン役で共演。

この出演者紹介、本当にわかって書いているのか。AIだってもっとましな紹介をするぞ。というのも、出演者の最近作・代表作が、ジェレミー・ストロングの「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」以外に、どれも、代表作といえなかったり、日本人が観たこともない作品ばかりなのだ。

映画の時間での紹介
https://movie.jorudan.co.jp/film/101709/
「スプリングスティーン 孤独のハイ ウェイ」の解説
米ロック界の重鎮、ブルース・スプリングスティーンの若き日の父との確執、苦悩と創造の情熱を活写する音楽伝記ドラマ。大ブレイクする前の1980年代のニュージャージーを舞台に、わずか4トラックでレコーディングされたアルバム『ネブラスカ』制作の裏側を描く。出演は「アイアンクロー」のジェレミー・アレン・ホワイト、「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」のジェレミー・ストロング、「リチャード・ジュエル」のポール・ウォルター・ハウザー。監督は「クレイジー・ハート」のスコット・クーパー。

まあこれなら問題ない。主役のジェレミー・アレン・ホワイトの最新作は『アイアンクロ―』(足を切断する四男の役)、ジェレミー・ストロングは『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』で悪名高い弁護士ロイ・コーンを演じていた。ポール・ウォルター・ハウザーが主役の代表作は、なんといってもクリント・イーストウッド監督の『リチャード・ジュウェル』でしょう。あと父親役のスティーヴン・グレアムといえば、今年Netflixで配信された四話のミニシリーズ『アドルセンス』しか今のところ考えられない(彼は経歴の長い俳優で、その出演映画の多くを私は観ているのだが、どこに出ていたのかは覚えていない)。

監督のスコット・クーパーは『クレイジー・ハート』以外にも、いろいろ優れた映画を創作しているが、ただ『クレイジー・ハート』は素晴らしい映画でクーパー監督の映画の中では一番印象に残っている。

なお、CINEMA FACTORYでは、今年の8月の記事だが、予告編が解禁された時点で、こんな記事を載せている。
『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』スプリングスティーン役のジェレミー・アレン・ホワイトが熱唱する場面写真初解禁2025.08.072025.10.21
https://www.cinema-factory.jp/2025/08/07/86158/
【前略】
♪予告編に大反響!早くもアカデミー賞®最有力の呼び声が!

 6月18日に世界に向けて解禁された『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』の予告編が大反響を巻き起こしている。
 2000年に設立されたアカデミー賞®、エミー賞、ゴールデングローブ賞など、世界最大規模の賞レースを予想、分析するサイト“GOLD DERBY”が、“COLLIDER”、“Variety”など全米の権威あるサイト16名の担当記者によるアカデミー賞®ノミネート予想作品リストを発表。16人中11名が『スプリングスティーン:孤独のハイウェイ』を最有力候補作品に挙げている。
 また、米のエンタメ&ポップカルチャーサイト“Decider”は、「この予告編は、すでに『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』オスカー受賞の可能性を示唆している。はたして、この作品でジェレミー・アレン・ホワイトは初のアカデミー賞®受賞を果たすことになるのだろうか」と指摘。「一流シェフのファミリーレストラン」 でゴールデン・グローブ賞3年連続受賞、先に発表されたエミー賞では4年連続ノミネートの快挙となったジェレミー・アレン・ホワイトの主演男優賞受賞の可能性に言及している。“Variety”のオスカー®予想では、作品賞とマネージャー役のジェレミー・ストロングを助演男優賞にリストアップ。また“AWARD WATCH”は作品賞、主演男優賞、助演男優賞(ジェレミー・ストロングと父親役のスティーヴン・グレアム)、スコット・クーパーを監督賞候補に挙げている。

「ノミネート予想作品リストを発表。16人中11名が『スプリングスティーン:孤独のハイウェイ』を最有力候補作品に挙げている」というのは、8月の時点で、狂気の沙汰である。まだこれからいろいろな作品が公開されるだろうから。と同時に、この映画「最有力候補作」というのは、どういう賞を指しているのだろうか。

まあスプリングスティーン役のジェレミー・アレン・ホワイトとマネージャー役のジェレミー・ストロングの両ジェレミーは、それぞれ主演男優賞と助演男優賞を獲るかもしれないが、最優秀賞ではないだろう。他の賞はちょっとむつかしいと思う。

映画の出来に問題があるということではない。地味な映画、しぶい映画だからである。アメリカのサイトでは、この映画を、ヒット曲のディスクのB面を聞いているようだとコメントしている評者がいて、言いえて妙だと感心した(もっともB面という比喩がアメリカや日本の若い世代に通用すると思えないのだが)。B面なのでそれなりによくできているのだが、A面の派手さ華やかさスケール感や深さはないというか、トーンダウンしていて地味なのである。【もっとわかりにくい例を挙げると、ギリシアの頌歌における、ストロペ―に応答するアンティストロペ―との関係か。とはいえアンティストロペ―は常に暗い短調のネガティヴな歌というわけではないので(歌の陰陽はストロペ―との関係で決まる)、メタファーとしては適切ではないかもしれないが】

映画のポスターとか宣材写真ではスプリングスティーンの力強いパフォーマンスを前面に押し出しているが、それは映画の冒頭だけのことであって、ライブハウスの歌唱でもゲストに呼んだロッカーとのデュオでしかなく、有名なBorn in the U.S.A.でもスタジオ録音で盛り上がるだけで、ステージ上の盛り上がりは映像化されていない。あとはスプリングスティーンが一人で悩んでいるだけである。トラウマから逃れることができず、ロックバンド「スーサイド」のレコードを繰り返し聞いているだけである。

作る楽曲の歌詞も、社会からの不適合者、犯罪者、疎外者たちの閉塞感を表現するものであり、また他人の感情をうたいながらもどこか、それが自伝的な色彩を帯びてしまうのである。あるいは、他人に憑依して歌っているのだが、いつしか、それが憑依ではなく自分語りにみえてしまうとでもいえようか。

たとえばテレビで映画『バッドランズ』を観て、モデルとなった犯罪者の心情の吐露というかたちの歌詞を書くというのは、どこまで暗いのかと誰もがあきれることだろう――それはアルバム『ネブラスカ』のなかのタイトル曲となった。【テレンス・マリックの映画『バッドランズ』(1973)は、イギリスにいるときにテレビで観た。今回の映画で映像の一部を観て、もしや『バッドランズ』ではと思ったら、まさにそうであって、変にうれしくなった――ちなみに「バッドランズ」が、普通名詞ではなく固有名詞(地名)であることはあとで知った。】

アルバム『ネブラスカ』の曲の大部分は、1982年スプリングスティーンの自宅の寝室で4トラックのマルチトラック・レコーダーで録音され、アコースティック・ギターの弾き語りの、しかもカセットのデモテープをそのまま音源としている。文字による著述なら、未完の下書きのような作品である。それを完成体として発表するというのは、本来なら日の目をみない作業中の使い捨ての文書に、日を当てようとする行為であって、それはまたこのアルバムで歌われている内容(未完の、使い捨ての、日の当たらない人びとの不満と不安と怒りと悲しみ)とシンクロしている。

もちろん、これは深層と立体性を拒否するポストモダン的な平面的なステレオタイプの美学からすると、地味な暗い音の響きと、その古臭く雑で荒削りの録音音源の存在感を活かすために、あえて社会性や政治性を帯びた、しかし陰鬱な内容の歌詞を作り上げたということになる。つまり売らんがために、アメリカンドリームの暗部をさらすような曲を並べた、しかし、それはビジネス・メランコリーであって、捏造でありフェイクであるという見方もできないわけではない。

しかし、そうした見方を拒絶する要因がひとつはあった。つまりスプリングスティーンがほんとうに、いわゆる鬱病であったということである(いまも鬱病と戦っているらしい)。ここにある苦悩せるスプリングスティーンの姿はフェイクでもビジネスでもなく、本物なのである。

本当は元気で陽気なのに、鬱々とした曲を作っていたら、たんなる詐欺師である。この鬱々とした曲を大々的に売り出し記者会見をし、ツアーもすることは、曲に対する裏切りである。そのため宣伝をしない、スプリングスティーンの顔写真も名前もアルバムのジャケットに使わないという、まさに日の当たらない販売方式をとった。これを挑戦的と評するのはポストモダン美学に毒された見方である。むしろその販売方式は、アルバムに収録された曲に責任をとったというべきであろう。

またそうなると今回の映画そのものもどうなるのかということになる。地味で暗い、とてもアカデミー賞をもらえそうもないという私の評言は、けなしているのではない。この映画がその内容を裏切ることを拒否している点を評価しているのである。ドラマティックな盛り上がりも少なく地味で暗くて鬱々としている映画は、実に、内容とシンクロしているのだ。

残念ながら映画会社はこの映画をアカデミー賞確定の傑作映画として派手なヒステリックな販売戦略に走っているが、まあ、やむをえないというべきか。それがスプリングスティーンも映画の内容も裏切っているといってもしかたがないかもしれないが、ただそれによって醸成された観客の期待を裏切ることになると、あとにはこの映画に対する反感しか残らないのではないかという心配になる。

たとえば過去とりわけ子供時代にトラウマに悩まされ、恋人(とはいえ実際にそうした恋人がいたわけではなく、複数の人物を合体させたものらしいが)とも別れ、ひとりカリフォルニアに行きそこで自分自身に向き合おうとする――逃げるのではなく――主人公が、そこで涙を流す。この涙は何であったのか。鬱状態から回復したのか、あるいは鬱状態からの回復の最初の一歩なのか。ただ、映画はそこからすぐに10か月後にとび、大成功をおさめたコンサート(コンサートそのものの映像化はない)のあと、会いに来た両親、とりわけ父親と和解するという展開になるのだが、肝心の鬱状態からの回復のプロセスは可視化されないままである。可視化されるのは鬱状態の主人公であって、鬱状態の克服あるいは回復の映像はない。映像は、意図的に地味すぎる、あるいは禁欲的なのである。ブルースス・プリングスティーンのアルバム『ネブラスカ』のように。

スコット・クーパー監督としては、だからこそ、マサノブ・タカヤナギ(高柳雅暢)とコラボしたかいがあったというものだろう――コラボとしては5作目。同じく、スランプに陥ったアーティストの復活物語である『クレイジー・ハート』(2009)では、美しい映像にいたく感動したのだが、それと同じような映像は今回はなかった。クーパー監督の最近作というか前作は『ほの蒼き瞳』(Netflix)だが、このエドガー・アラン・ポーが登場する映画で印象に残っているのは雪景色と曇天の空である。撮影監督のマサノブ・タカヤナギの映像には晴天の日は似合わない。曇り空こそがタカヤナギの映像である。今回の映画は、もちろん曇り空ばかりではないのだが、ただ、主人公の人生の曇天の日々がメインとなって描かれているのはまちがいない。晴天ではなく曇天の映像作家となった監督。

まさにグレート・スコット。
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2025年11月14日

じゃじゃ馬とトガリネズミ

どちらも英語でいうとshrew。

シェイクスピアの喜劇The Taming of the Shrewを、坪内逍遥あたりが「じゃじゃ馬ならし」と訳して以来、shrewは馬のことと思っている日本人は多いのだが、shrewは馬でなく、ネズミ、モグラのことである。

shrewの意味を英和辞典(Weblio)で調べると
口やかましい女、がみがみ女、トガリネズミ

とある。一つの単語のなかに異なる二つの語が同居している。「口やかましい女」と「ネズミ」はどうむすびつくのか(むすびつきそうもないものが語義のなかに共存しているので)。

ネットで語源を調べてみると以下のような説明をみつけた:
shrewの語源
古英語screawaトガリネズミ
→中英語shreue悪党・非行児
→近現代英語shrew トガリネズミ、意地悪な女性

とあって別々の語が一体化したのではないかと思われる。

たとえばschoolには「学校」関連の意味のほかに、「名詞可算名詞 (魚・クジラなどの)群れ 〔of〕。動詞 自動詞〈魚が〉群れをなす,群れをなして泳ぐ.」という意味もあるが、英和辞典などの見出しではschoolとかschoolとして区別している。つまり現代英語では、同じ綴りなのだが、もともとは別語源の単語という意味で。

「めだかの学校」という童謡を聞いたとき、水のなかのメダカの群れを「学校」という比喩で語るのは、なんと卓越した、あるいは変なセンスの表現なのだろうと感心したが、おそらく「めだかの群れ」という英語を「めだかの学校」と誤訳したにちがいないと、あとでわかった。

それはともかく、shrewの語源について、もう少し学術的な記述はないかと、ネットを探したら、以下の記事があった。
エティモラインetymonline
「shrew」の意味: 小さな哺乳類; 悪意のある女性; 口やかましい女性
「shrew 」の語源:
[小さな昆虫食の哺乳類; 悪意のある女性] 中英語の shreue は、「悪党、悪人; しかりつける女性; しつけの悪い子供」といった意味でのみ記録されており、これは古英語の screawa「シューリーマウス」、語源が不明な言葉から来ていると考えられています。

おそらく、原始ゲルマン語の *skraw-、インド・ヨーロッパ語族の *skreu-「切る; 切断工具」(shred (n.) を参照)に由来し、シューリーマウスの尖った鼻を指しているのかもしれません。古英語では scirfemus(sceorfan「かじる」から)という別の呼び方もありました。しかし、オックスフォード英語辞典(1989年版)は、古英語から16世紀まで「動物」としての意味が欠けているのは「注目に値する」と述べています。この辞典は二つの言葉を別々に扱い、「悪意のある人」という意味が元々のものかもしれないと推測しています。中英語辞典は、中高ドイツ語の shröuwel、schrowel、schrewel「悪魔」にも言及しています。

「気難しく、悪意があり、騒がしく、意地悪で、厄介で、騒々しい女性」という特定の意味は、約1300年頃から証明されており、初期の「意地悪な人」(男性または女性)という意味から発展したものです。これは伝統的に、シューリーマウスが持つとされる悪意のある影響に起因すると考えられており、かつては毒のある噛みつきを持つと信じられ、迷信的な恐れを抱かれていました(beshrew を比較)。Shrewsは、1560年代から17世紀にかけて、sheep(羊)と対照的な妻のタイプとして結びつけられていました。【この記事の「シューリーマウス」というのはネットで探しても出てこなかった。】

ただ、言えることは、先ほどの「school」と同様に、語源の異なる別の単語としてみてもよいように思われるのだが、多くの辞書には、同一単語内のふたつの異なる語義としている。そしてその場合、「がみがみ女」と「トガリネズミ」を結びつけるものが欠けている。そのミッシングリンクはなにか?

上記エティモラインetymolineにおける「シューリーマウス」--これはトガリネズミのことだろうが--、それが「毒のある噛みつきを持つ〔ママ〕と信じられ、迷信的な恐れを抱かれていました」と書かれている。「毒のある噛みつきを持つ」というのは日本語としておかしい、まあ、もしかしたら専門用語ジャーゴンなのかもしれないが。

そのため恐ろしい毒ネズミ(トガリネズミ)という語が、悪人、悪党、性悪女という比喩的な意味を帯びるようになったのか、悪人、悪党、性悪女という意味の語のほうが比喩として使われ、毒のある怖いネズミの名称となったか、まあ、そのいずれかだろうということになる。

ただしエティモラインの「かつては毒のある噛みつきを持つと信じられ、迷信的な恐れを抱かれていました」という記述は、日本語だけでなく、内容もおかしい。

ネットでは「毒という問い」という記事があった。
名古屋大学学術研究・産学官連携推進本部2025年7月22日12:35
https://note.com/nagoya_ura/n/n9e5425fa7f4f
「毒を持つ動物」といえば、何を思い浮かべますか?
毒ヘビ、毒グモ、スズメバチにアシナガバチ、フグに毒クラゲ…
危険生物好きの方なら、きっとまだまだ出てくるはず。
でも、その中に哺乳類はいるでしょうか?
あまり知られていませんが、哺乳類にも、毒をもつものがいます。その一つが「トガリネズミ」です。
【写真画像あり】
トガリネズミの中でも特に凶暴な「ブラリナトガリネズミ」。トガリネズミの仲間は、世界で300種以上が知られています。
ネズミといっても"モグラ"の仲間で、名前の通り"尖トガった"鼻先を持ちます。
「哺乳類で毒をもつ動物は、トガリネズミの仲間とカモノハシくらいしか知られていないんですよ。」
そう話すのは、この珍しい動物の毒を20年以上研究する北将樹きたまさきさん(生命農学研究科 教授)。【以下略】

この名古屋大学の北教授のグループによってトガリネズミの毒がつい最近、解明されたとのことだが、教授は20年以上も前からトガリネズミの毒を研究していたし、それ以前から、トガリネズミの毒については知られていて。けっして伝説ではないのである。

ただし300種以上もある、かわいらしい小さなトガリネズミすべてが「毒のある噛みつき」を持っているわけではなく、そのごく一部が強い毒のある噛みつきを持っているのである。だからトガリネズミについて、その毒性を記述していない辞書があってもおかしくはない。

そしてその「トガリネズミ」は英語ではただ、shrewという。

ちなみに日本テレビ系「金曜ロードショー」では、ディズニー最新作『ズートピア2』の12月5日全国公開を記念し、12月5日に、アカデミー賞長編アニメーション賞に輝いた『ズートピア』(2016)をノーカットで放送予定とのこと。そこにshrewが登場するから興味があれば観てほしい。小動物地区に暮らしているshrewが吹き替えでは何と呼ばれているかしらないが、まあ「トガリネズミ」だろう。
posted by ohashi at 15:50| コメント | 更新情報をチェックする

2025年11月10日

明治大学シェイクスピアプロジェクト 2


明治大学シェイクスピアプロジェクト(以下MSPと表記する――これは正式な略号である)の舞台は、人物が登場して最初に台詞を発せする瞬間、なぜアマチュアがプロとしか思えない発声と台詞まわしをするのかと、いつも驚かさせるのだが、今回の『冬物語』でも、その驚きは、いつもと同様に、あるいはいちも以上に大きかった。

もちろん発声やデクラレーションだけではない、主要人物の存在感がはんぱないのであって、あとは観るの者の好みによって、レオンティーズが、ポリクシニーズが、ハーマイオニーが、ポーライナが、オートリカスが、それぞれの個性によって深い感銘をあたえることになろう。

また舞台装置や衣装というか美術については、これは上演の場(講堂でもあり劇場としても使える大ホール)の制約と、おさらく伝統を踏まえているのであろう、びっくりするような舞台美術ではなくて、どちらかというとアマチュア的な、学生演劇らしさが残る、まあ、ちょっとダサい舞台装置がMSPの特徴だったが、今回は、例年とは少しちがってプロの舞台美術に近いものとなった。

また衣装は、これは準備期間と予算の制約もあるのだろう(あるいはデザインがプロではなく学生によるもののせいか)、無国籍で、ややおとぎ話的で、アマチュアっぽい、少々ダサいという特徴は、今年も同じだったが、しかし、今年は、リアルであると同時にファンタジーでもあり、悲劇的でもあり喜劇的でもあり、深刻でもあり祝祭的でもあるという劇の特徴と見事にシンクロしていて、違和感を抱かなかったばかりか、劇中世界と見事な調和を達成していた。

台詞回しに戻ると、どうしてアマチュアがこんなに素晴らしい台詞を易々と口にできるのか、とにかく台詞回しのうまさに聞きほれていたし、それはまた、シェイクスピアが、当時の大劇場グローブ座の舞台ではなく、当時としては珍しい室内劇場であるブラックフライアーズ座での上演を考慮して人物の微妙で繊細な心理が観客に伝わる台詞を作ったことをあらためて実感させるものであった。

つまりシチリア王レオンティーズは、突然、后のハーマイオニーと、友人のボヘミア王ポリクシニーズと仲をというか不倫を疑い始めるのだが、そこにあるのは、不安と猜疑心からなる心理的苦悩であって、台詞がすべてである。オセローのようにイアーゴーに騙されて、口から泡をふいて卒倒するようなことはしない。レオンティーズにとって、イアーゴーは、レオンティーズ自身である。この自家中毒的葛藤をすべて台詞で表明しなければならないとき、台詞に説得力がなければ、すべてがだいなしになる。今回のMSPの舞台は、演者たちの見事な台詞回しによって、説得力のある見事な舞台が実現していた。

あと、これはいろいろな配慮ゆえの決定だろうが、熊が登場しなかった。『冬物語』では、「ボヘミアの海岸」というこの世に存在しない場所が登場する。そのボヘミアの海岸で、レオンティーズの家臣アンティゴノスは、「熊に追われて退場する」――シェイクスピア劇のなかで最もばかばかしいと言われているト書き(Stage Direction)である。

この熊は、本物の熊なのか、着ぐるみの熊なのか、熊の毛皮をかぶったのか、あるいは熊のはく製みたいなものなのか、昔から議論されてきた。この点については別の記事で語ることにするが、昨今の熊被害もあって、『冬物語』といえば熊なのだが、最終的には熊は登場しなかった。私が国内外で観た『冬物語』の舞台では、熊を登場させない演出もある。今回もMSPの舞台も、熊の存在を音響効果で暗示させるだけで終わっていた。私は残念に思うのだが、熊被害のことを考えると、たとえぬいぐるみのようなものであっても熊を登場させないのは英断だったかもしれない。とはいえ、熊被害に関係なく最初から熊は出さないことになっていたのかもしれない。そのへんはなんともいえないのだが。

あと劇は前半と後半で16年経過する。その後半の始まりに、「時Time」というコーラス役が登場して、30行余りの台詞を話す。その時、15行目の台詞あたりで、もっていた砂時計を逆転させる。あらたな時間がはじまることを暗示する。前半は悲劇。後半は、笑劇ではなく喜劇となる。そしてこの喜劇的後半が最後には奇跡へと至る。

ただ今回の舞台に登場した「時」は白いドレスの美しい女性で、女神というよりも妖精のような感じもしたのだが、あれが「時」をつかさどる超越的存在であると、この劇作品ついて何も知らない観客に思わせるには無理がある。『冬物語』はシェイクスピア作品のなかで知名度の高いものではない。知らない観客がいて当然である。だから、女性の「時」は美しすぎ洗練されすぎていて、なにかよくわからない。もっとどんくさく、いかにも時をつかさどる、たとえば「時の老人」のような人物にしてほしかった。せめて時計(砂時計でも、機械時計でも、デジタル時計でもいい)をもっていてほしかった。

とはいえ、演出としては、突然、若くきれいな女性が登場して、観客が不思議に思うことを狙っていたのかもしれない。それはちょうど、突然、熊があらわれて、観客が戸惑うのと似ている。熊という、いまや日本人すべてを敵に回している動物にかわって、妖精のような女性を出したということかもしれない。

ちなみに前半の最後に登場する、熊と、熊に食い殺されるアンティゴノス(ただしナレーションでのこと、実際に舞台で食い殺されるわけではない)のエピソードは、そのすぐあとの羊飼いの親子が赤子(パーディタ)を発見することから、死にゆく者と生まれたばかりの者との対照性が仕組まれていることはまちがない。そして熊に追われて退場するアンティゴノスの場面は、それまでの暗い悲劇的場面を喜劇的世界に転換させるピヴォットのような働きをしている。

私は学生の頃、今は亡き笹山隆氏(誰もが認めるすぐれたシェイクスピア学者だった)の、この熊を扱った論文を読んで衝撃を受けた。熊の登場が、観客操作と劇中世界の変換と連動していることの指摘は、当時は、誰もしていないかったように思われる。その考察の刺激性に私は圧倒された。ちなみに笹山ご夫妻は、北海道旅行中に、ほんとうに熊(子熊をつれた母熊)に遭遇されたとのこと。その時、笹山氏はやってはいけないことをしたらしい。つまり熊に背をむけ一目散に逃げだしたのである。取り残された奥様は冷静に熊に対峙しつつ、声を出して熊を威嚇し、ゆっくりと後ずさりして、その場を離れ難を逃れたとのこと。この話も、別の記事で。

熊の登場(今回の舞台では不在)が導く後半の祝祭世界は、そこにオートリカスという詐欺師・泥棒を登場させることによって、とりわけ彼が売り物にするのは、奇想天外な、あるいは下世話なバラード物語であることもあって、劇中世界の認識異化的視点への開かれや、虚構と現実との反転可能性の示唆など、通常の詐欺師的人物が帯びることのない役割をともなっていて、興味が尽きない。オートリカスは、たんなるトリックスターではない、というかそれこそがトリックスターの可能性の中心を体現しているのではないかと思う。

ちなみにこのオートリカス役の学生、とてもうまく存在感も抜群にあるし、劇がこの役に課した機能を真正面から受け止め、またその意義をみごとに発信していた。ちなみに彼が2年前の『ハムレット』公演で墓堀人を演じたときに気づいたのだが、左手の指がない。ある意味、ハンディを負っているのだが、そのハンディをまったく感じさせない力のある演技で、オートリカスという、けっこう面倒な役を演ずるのはこの人しかないと思わせ、アマチュア臭さは全く感じさせなかったことはすごい。なお指の件に関しては、私の親戚にも指のない者がいる。だから全く気にならないのだが、同時に、同じようなハンディのある人たちに、彼の頑張りと活躍が希望を与えることになることを確信している。

このオートリカスもそうだが、シェイクスピアは、ファンタジー的要素とたわむれている。「冬物語」というタイトルは、冬の物語りではなく(前半の世界の季節は冬だが、後半のそれは秋である)、かんたんにいえば「おとぎ話」「夢物語」という意味である。現実にはありえないおとぎ話ですが、まあ信じてくださいというタイトルの芝居のなかで、うそぽっい物語を売り物にする詐欺師を登場させるシェイクスピアは、虚構と現実との緊張関係を積極的に構築している--「ボヘミアの海岸」など、その最たるものだろう。「信じる者に、奇跡は起こる」とMSPのパンフレットには書いてある。もちろんそれに異議はないのだが、ただ、そういうあなた方はオートリカスとどう違うのですかという、けっこうやっかいな問題も生まれてくる。ただし、MSPに関しては、オートリカスと違うと自信をもって断言できる。オートリカスは、おとぎ話にうっとり聞きほれる人間から財布を盗むのだが、MSPはお金を一銭もとらないので、詐欺師ではない。

シェイクスピアの攻めたつくりは、劇の最後にあらわれる。本来なら、16年ぶりの友人との再会、死んだと思われていた娘との再会がクライマックスであるはずのところ、その場面は目撃者の語りですましている。いわばナレーションだけで終わっていて、観客の期待をおおきく裏切っている。

1989年『一杯ののかけそば』という童話が実話にもとづき誰もが泣ける童話として日本でブームをおこしたことを年配の人なら覚えておいでだろう。大みそか、そば屋に、若い母親とこども二人がやってきて、一杯のかけそばを親子三人でわけて食べたという話だが、それだけでは可哀そうな話だがそこだけでは泣けはしない。そこではなく、そば屋の夫婦が、この親子のことを覚えていて毎年大みそかになると現れるのではと心待ちしていたものの、いつしかあらわれなくなる。しかし、それでも夫婦は待ち続けて、やがて成人した二人の子供とともに母親がやってくる。待ち望んでいた親子が奇跡のように帰ってくる。しかも子供たちは立派な大人になり、そば屋夫婦に感謝の言葉をのべるのだ。長い時間のあとでの再会、待ってはいても再会できるとは思われなかった人物との再会は、時間的経過の介在によって、泣けるものとなっている。恥ずかしながら私は泣いた。

ただし作者の栗良平は、自作をテレビで朗読(口演)して有名になった(作品は毎日といってよいほどタレントや俳優が朗読していた時期がある)が、学歴詐称や詐欺行為によって、オートリカスさながらの詐欺師であることがわかり、お涙頂戴の作品への反発と作者が詐欺師であったことから、ブームは終わったのだが。【なおこの作品は映画化もされた。永井愛が脚本を書いていたことには驚いた。】

とにかく長い年月のあとの再会ほど、感動的なものはない。それも絶対に会うことがないと思っていた者どうしの再会となればなおのこと感動的である。シェイクスピアはそれを知っていたはずである。『ペリクリーズ』という、これもおとぎ話的なシェイクスピア劇では、死んでいた母親と娘が、またその夫ペリクリーズが、最後に再会するのだから。

しかし『冬物語』でシェイクスピアは感動的であることがまちがいない再会シーンをカットして、次の彫像場面を最後のクライマックスとした。このあたりの作劇術は、超絶技巧的で、けれんみたっぷりで驚異的なのだが、MSPも、実に見事な彫像の場面を用意してくれた。人間が彫像のふりをするのは、シェイクスピアの時代、現存ずる演劇作品としては作者不詳の『トラキアの悲劇』という作品があるのみである(私はそれを読んだが、なぜそんな誰も読まない作品を読んだかのかといぶかるなかれ、私は、『冬物語』を含む、シェイクスピアの晩年の劇で卒論を書いたからである)。シェイクスピアは『トラキアの悲劇』を知っていたかどうかわかないが、人間が彫像になる趣向は、神話や伝説(ピグマリオン伝説)、さらにはおとぎ話や民話にあっておかしくない。また演劇的な趣向としても、ふつうに存在するのではないかと思う。

今回ハ―マイオニーの彫像ぶり、ギリシア・ローマの彫刻のようではなく、人形やフィギュアのような形態で、けっこう真に迫っていた。その格好は、私のような筋力のない者には長時間していられない無理な格好なのだが、MSPの舞台では、その目覚め動き始める前まで、見事に微動だにせず静止し続けた。それを観るだけでも今回の舞台は価値がある。

また今回の舞台では、彫像の姿が実に美しく、人間に戻ってしまうとがっかりするかもしれない――私のような観客にとっては。そう、人形愛、あるいはフィギュア愛を刺激することもシェイクスピアは狙っていたふしがある。

そしてこのことをふくめ、今回のMSPの舞台は、シェイクスピアが狙っていたかもしれない、さまざまな挑戦的・挑発的効果を、可能な限り受け止め発信した点で、まさに語り継がれる舞台になったのではないかと思う。
posted by ohashi at 22:08| 演劇 | 更新情報をチェックする

2025年11月09日

明治大学シェイクスピアプロジェクト 1

私は、東京大学の文学部で、シェイクスピアに関する講義を担当していたときに、毎回、課題として、レポート以外に、シェイクスピア劇一作品についての観劇記を課題としていた。

学期中にシェイクスピア劇(授業で扱わなかった作品も可)をひとつ観て、感想を書く(400字程度でよい、それ以上書きたければたくさん書いていいが、それを書くエネルギーがあれば、もっとべつの有意義なこと、あるいは楽しいことに使ったほうがいいともコメントした――一応、ここは笑いどころ)。

ただし課題レポートは評価の対象となるのだが、観劇記は、評価の対象とはならない。観劇記を出さなくても評価に影響しない。ただし、観劇記を出さない理由は簡単に書いて欲しいと要求した。先祖代々、演劇を観てはいけないという教えがあり、演劇を観たら親から破門されるというような理由を書いて欲しいと――ここは笑いどころなのだが、毎回まったく受けなかった。観劇記を出さなくても評価に影響しない。優れた観劇記でも評価に影響しない。ひどい観劇記でも評価に影響しない。なら、なぜ、それを要求するのか。

この観劇記の目的は、ふだんから劇場に足を運んでいる演劇ファンには関係がない。むしろこれまで一度も劇場に行ったことがない学生こそが、はじめて劇場体験をすることになり、これからの人生にとってなにか有意義なものを得ることになるかもしれない。

たとえば文学部の講義では、そのなかでさまざまな文学作品を紹介したり解説したりするものが多い。熱心な学生なら、授業で触れられたり論じられたりした作品を全部読むかもしれない。実際は、それは不可能に近いのだが。たいていは興味のある作品をのぞいてみる、あるいは読破する。演劇の場合も、戯曲を読めばいいのだが、上演されてこその戯曲なので、実際に劇場に足を運んで上演を観ることに意義がある。そこでシェイクスピアの講義ではシェイクスピア劇を劇場で観てはどうかということで観劇記を課題とした。

ただし授業ではいくつかのシェイクスピア作品を選んで講ずるので、扱われた作品が学期中にどこかで上演されるかどうかはわからない。そこでシェイクスピア作品なら授業で扱わなかった作品でもよいことにした。さらに翻訳劇でも英語劇でも英語や日本語以外の言語で上演されたシェイクスピア劇ならなんでもよいことにした(海外で観てきたシェイクスピア劇でもOK)。

とはいえふつうシェイクスピア劇はチケットが高額である。高額なチケット代を払って観劇記を作成する余裕のない学生が観劇記を出さなかったら、それで単位がないということになれば、不適切な授業として訴えられ裁判にでもなれば負けるので――ここは笑いどころなのだが、ここでも毎回、受けなかった――、観劇記は出さなくてもOKなのだと語った。

また無料で観ることのできる演劇はある。アマチュア劇団の演劇とか、学生演劇などは、無料で公開していることが多い。というか無料だからアマチュア演劇なのである。そうした演劇形態でシェイクスピア作品を観てもよいことにした。

そのなかで私がレベルの高い、プロの劇団にも引けを取らない学生演劇として、明治大学シェイクスピア・プロジェクトを毎年授業で紹介した。そのせいもあってか観劇記では、明治大学シェイクスピア・プロジェクトでシェイクスピア劇を観た学生がけっこういた。学生たちは高い評価を与えていた。いや、それはレポートといっしょに提出する観劇記なので、なにかぼろくそに書いたら教員の心証を悪くするから、高い評価しか書かないと思うかもしれないが、観劇記は成績評価の対象外であるから、好きなように書いてよいとも伝えてあるので、明治大学シェイクスピア・プロジェクトに対する高い評価は真実の声である可能性大である。

実は第22回明治大学シェイクスピアプロジェクト『冬物語』を観た翌日、二兎社公演『狩場の悲劇』(原作:チェーホフ、脚色・演出:永井愛)を観た。明治大学シェイクスピアプロジェクトの舞台は、二兎社公演と比べてもまったく遜色ない、むしろ肩を並べるような舞台だった。もちろん、これはけなしているのではない。どちらも優れた、完成度の高い舞台であることは申し添えておく。

【なお、シェイクスピア作品の映画作品は観劇記の対象外とした。映画館ではなく劇場に足を運び、舞台を観ることを要求したのだが、当時はまだ配信がさかんではなかった。現在明治大学シェイクスピアプロジェクトは、上演した舞台を配信している。詳しく確認していないが、ライブ配信とアーカイブ配信があるようだが。また一般に舞台を配信することはけっこう多い。私もそれらを視聴することが多い。またナショナル・シアター・ライブのように劇場中継録画を映画館で上映することもいまでは多くなっている。劇場へ足を運ばなくても劇場の雰囲気は充分に味わえる。そんなときもし私が授業していたらどうしただろうと、ふと思ったりした。】
明治大学シェイクスピアプロジェクト 2 へ続く。
posted by ohashi at 22:01| 演劇 | 更新情報をチェックする

2025年11月03日

街頭インタヴュー

以下の記事がめについた:
日刊ゲンダイDIGITAL
街頭インタビュー改ざんは「月曜から夜ふかし」だけか? 欲しいコメント取れず現場は四苦八苦
日刊ゲンダイDIGITAL によるストーリー 公開日:2025/11/02 06:00 更新日:2025/11/02 09:49
日本テレビ系バラエティー番組「月曜から夜ふかし」は、街頭インタビューでのやりとりを捏造したとして、放送倫理・番組向上機構(BPO)から放送倫理違反を指摘されたが、街頭取材のデッチ上げは「夜ふかし」だけなのか。

自炊で食べることの多い料理を聞かれた中国出身の女性が、鍋料理と答えたのを、「夜ふかし」のチーフディレクターは「これではオチが弱い」と、中国ではカラスをつかまえて煮込んで食べると改ざんしていた。しかし、テレビ業界ではこんなことは日常茶飯事だという。
【中略】
いや、日本人相手の街頭インタビューだって怪しいものだ。そもそも、街で突然カメラを向けられて、的確なコメントを数分で話せる素人なんていない。拒否されることも多く、TBSアナの安住紳一郎の若いころの経験では、20~50人に声をかけて、答えてくれるのは1人だったという。

ようやく何人か収録できても、さらに編集・加工して、使えるのは10人に1人いるかどうかだろう。歩留まりをよくするため、スタッフは話してほしいエピソードを誘導質問したり、テイク2を撮り直したりと仕込む。最近多いのはイラストで顔を隠した映像で、はたしてその人がしゃべっているのかどうかもわからなくなっている。
【以下略】
(コラムニスト・海原かみな)
全文は https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/379786

しかし、この記事では、街頭インタヴューは、街で突然カメラを向けて録音・録画すると信じているようだが、実際のインタヴューに立ち会っていないことがバレバレである。

「そもそも、街で突然カメラを向けられて、的確なコメントを数分で話せる素人なんていない。」とこの記事も認めている。ほとんどの人が街頭インタヴューを断るだろうから(私も断ったことがある)、答えてくれる人がみつかるまで、あちこち歩きまわり、追いかけ続け、カメラを延々と回し続けるなんてことはしない。ADが駆けずり回って、答えてくれそうな人を捜す。いっぽう答えるほうも、何か言ってやろう、テレビに出てやろうという気構えでくるから、正直いって、まともな人間ではない。

あといきなり街頭でカメラとマイクをむけることはしない。通行の邪魔になったりしたら、オールドメディアは横暴だとか非難されたりして、インタヴューどころではない。そのため通行の邪魔にならない、人通りも比較的少ない、落ち着いた場所にインタヴュアーとカメラが陣取り、ADが捜して連れてくる人を待っているというのが、普通のインタヴューの段取りだろう。

あとインタヴューに答えるために、連れてこられる人間も、まともな人間ではない。ごくつぶしの暇人か、よほどの目立ちたがり屋か、精神異常者か、酔っ払いといったところだろう。そんな連中の意見などまともにとりあうべきではない。むしろ、インタヴューに答える人間たちは、むしろお飾りだろう。中味なんかはどうでもよく、ただ一般人の意見を聞いているという、やってる感だけを出そうとしているにすぎない。

まともなニュース報道とは、街頭インタヴューをしない報道のことだろう。

posted by ohashi at 01:00| コメント | 更新情報をチェックする