がんで余命いくばくもないマーサ・ハント/ティルダ・スウィントンには娘がいることになっているし(実際、彼女の死後、その娘が登場する)、彼女の世話をする友達のイングリッド・パーカー/ジュリアン・ムーアにはボーイ・フレンド(ダミアン・カニンガム/ジョン・タトゥーロ)がいる。もっともジュリアン・ムーアにとって、ダミアン/タトゥーロは、マーサ/ティルダ・スウィントンからのおさがりなのだが。まあマーサとイングリッドは友達だが、同時に姉妹のような関係でもある。そして仲の良い、姉妹のような関係のふたりをレズビアンと呼ぶことには抵抗があるかもしれない――レズビアンがよくないということでは決してない。
だが、ふたりの女性のなかに、レズビアン的感情があることは、におわされているのではないだろうか。直接的ではなく、状況的に。マーサが購入するガラス張りの別荘は、湖を臨むところにある。物語は湖を背景にしている、水物語である。
そしてさらにマーサが自殺を遂げた後、刑事が、自殺ほう助ではないかとイングリッド/ジュリアン・ムーアを問い詰める。合衆国では自殺は刑事罰に問われないが、自殺ほう助は、そのかたちでの安楽死を認めている州でないかぎり、刑事罰に問われるようだ。そのためマーサ/ティルダ・スウィントンはイングリッド/ジュリアン・ムーアらに迷惑がかからないように、自分の判断で薬物を手に入れて一人で死ぬことにしたと遺書を残すのだが、警察は、イングリッドによる自殺ほう助を厳しく問い詰める。
それは当然といえば当然のことだが、だがその追及の異端審問的な厳しさに対しては、同性愛者に対する偏見と迫害を想起させるのに十分なものがある。そしてここからわかるのは、女性同士の友情、あるいは姉妹の家族愛の物語に、同性愛物語が影のように寄り添っていることである。
私がつねに指摘しているのは、水の物語ではなく、絨毯の裏表の関係である。同性愛物語と異性愛物語は、絨毯の裏表のように、表裏一体化している、つまり同じ図柄を共有している。
問題はなぜそんなことをするかである。もちろん同性愛物語に対する抵抗を緩和するあるいはなくすために異性愛物語をカムフラージュに使うということがあろう。異性愛物語は、同性愛物語を流通させるための通行手形、賄賂みたいなものとみることができる。
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』にも、すでに述べたように異性愛者の女性ふたりの姉妹的友情という設定が異性愛物語を支持しているようにみえる。だが、ほんとうに異性愛物語として解釈されてしまわないような工夫もほどこされていて、マーサがかつてジャーナリストとして中東で取材したとき、カトリック教会の信者で明らかに同愛者であるアラブ人を登場させている。マーサとイングリッドは姉妹ようだと述べたが、実際には、二人の俳優は同年齢で、おそらく映画の中でも同年齢という設定だろう(姉妹ではない、姉妹愛ではない)。
そしてきわめつけは、マーサの娘である。マーサの死後、娘のミシェルがマーサが最期を迎えた家を訪れる。彼女は母親そっくりである。当然のことながらティルダ・スウィントンの一人二役なのだから。しかし、この一人二役には違和感がある。むしろティルダ・スウィントンに似た誰が別の俳優を使えばよかったのにとも思うのだが、ただ母親が死んでも、娘のなかに/として母親は生きているという「死と再生」あるいは「断絶と連続」のイメージを出したかったのかもしれない。またさらにいうと、母親とそっくりな娘は、まるでクローン人間のようである。そう、娘である彼女は、父親を必要とせず、母親から直接生まれてきた単性生殖の娘であるようにみえる。あるいはクローンのような娘であって、男を必要としない存在なのだ―ボーイズ・オン・ザ・サイド。
だが同性愛的要素をこっそり忍ばせる、あるいは批判や差別をかわし、わかる人にはわかるという、やや消極的な理由だけが、この二重の光学の存在理由ではない。
同性愛は異性愛とは別物の異物的存在ではない。同性愛あるいは同性愛的感情は異性愛と区別がつかない、あるいは異性愛とからまりあっている。誰もが、あるいは異性愛者もまた、同性愛者あるいは同性愛的感情を明確に宿している。
同性愛者は、たんなる変態でもなければモンスターでもない。異性愛者と同じ人間であり、さらにいえば異性愛者と同じ精神や感情を共有している同胞である。異性に対して抱く同じ感情を同性に対して抱いてもなにもおかしくない。それは当然の感情であり、モンストラスなもの、変態的・倒錯的なものではない。だからこそ異性愛と同性愛は双子の兄弟姉妹のように見分けがつかないし、また分けて考える必要もないのである。
同性愛者は隣の家に、あるいは隣の部屋に住んでいる異物あるいは他者ではない。異性愛と同性愛とのあいだに境界などない。映画のタイトルになっている「隣の部屋」は、同性愛者に割り振られている差別的特別区画のイメージがある。だが、実際には、同性愛者はそこにいない。映画のなかでジュリアン・ムーアがいるのは、真下の部屋である――メタフォリカルな存在。それは隣の部屋ではない――メトニミーではない。同性愛者は異性愛者と重なり合っている――幽体離脱のように異性愛者とうりふたつで、異性愛者から生まれ出るのだ。
一見、同性愛差別を緩和するための措置とみえたもの、異性愛者に通告手形、あるいは賄賂のように手渡される異性愛的要素は、実のところ、同性愛のありかを示す真実の開示であった。
異性愛と同性愛、それは「あれか/これか」Either Orの関係ではない。「どちらもBoth」の関係なのである。
付記
ペドロ・アルモドバルの2023年の短編映画『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』Strange Way of Lifeは、カウボーイのエクスプリシットな同性愛を描いた、まさにゲイ映画の典型なのだが、そのなかで、何年振りかで再会したジェイク/イーサン・ホークを看病することになったシルヴァ/ペドロ・パスカルはこう語る。それが映画の最後の締めくくりのセリフともなっている。字幕はとてもうまく訳していた記憶にあり、それを超える訳はできそうもないので、原語のまま引用する:
Silva: [to Jake] Years ago, you asked me what two men could do living together on a ranch.
I'll answer you now.
They can look after one another, protect each other. They can keep each other company.
たがいに、いたわり、まもり、なかむつまじくいる。同性愛も異性愛もない。
いや、昨年翻訳出版されたジェーン・ウォード『異性愛という悲劇』安達眞弓訳(太田出版2024)にあるように、むしろ異性愛のほうが冷酷で差別的で愚劣で愛と思いやりの要件を満たしていないかもしれないのだ。