2017年09月09日

『海辺の生と死』


映画そのものと関係がないのだが、こんな記事があった。


本末転倒? 日本の女優が映画で「脱げない」理由  T-SITE NEWS エンタメ

●『ヘルタースケルター』のような映画はまれ?

『作品のためなら脱ぐのは平気です』

これはある女優がテレビのインタビューで答えた言葉だ。だが、日本の人気女優が映画の中で脱ぐことは…ほぼない。

なぜなのか? 実はコレ、日本の女優たちの稼ぎどころに関係している。

●とびぬけて高い出演料は…

彼女たちは「ドラマ」「映画」「舞台」「CM」「バラエティー番組」などに出演することでギャランティを得ている。

出演料と拘束時間は以下のようだと言われている。(主演クラスで出た場合)【略】


出演料や拘束時間を考慮すると、「CM」が一番お得な仕事だと分かる。しかし、なぜCMはこれほどまでに高い出演料が受け取れるのだろうか?

 CMに出る場合、契約期間中(ほとんどが3ヵ月以上の長期)、クライアントから様々な条件が設けられるのは周知の事実だ。

例えば、化粧品会社と契約した女優は、美のイメージを保つため専属トレーナーを雇ったりエステに通ったりするなど外見のメンテナンスを保つための多額の費用が必要となる。そういったケアの費用を含めた契約金となるため、多額の出演料が出るのだ。

つまり出演者が商品や企業のイメージを背負うことを義務付けられるため、高い出演料を受けられるのだ。特に化粧品や生活用品のCM契約を結んだ場合、クリーンなイメージが求められることが多く、そのイメージを保つため、本業である役者業に制限が設けられることも。

CMのクライアントからヌードシーンの削除要請

ある映画関係者は「演技派で知られるある女優は映画で脱いだのだが、契約中の医薬品CMクライアントが『商品イメージにそぐわない』というクレームが入り、撮影したシーンがお蔵入りしてしまいました」と明かしてくれた。またある有名監督は「出演しているCMのことを気にして、このシーンはNGと言われることもある」と証言。

CMにより本業である女優業に制限が設けられることは奇妙なことだ。

一方、アメリカやヨーロッパ、オーストラリアの女優たちは脱ぐことを厭わない人が多い。これらの国ではCMの出演料は日本ほど高くなく、特にアメリカではCMに出る役者は地位が低いと捉えられるため、有名女優ほど出たがらない(出演料の高いCMや話題性の高いCMにあえて出る場合もある)。また作品出演料が高いため、わざわざCMに出演する必要もない。

別に「脱ぐ=女優魂の証」ではないが、どんなシーンにも対応できることはプロの女優として大切なことだ。

なによりもCMのために脚本にあるシーンを削除することは、作品にとってはマイナス。前述の監督は「(映画やドラマの)ギャラよりCMの方が高いので仕方ないと思う部分もある」と語っており、女優たちが演技に集中するためにも映画やドラマの出演料アップは業界全体の課題だ。(文:さしすせそ)

女優たちがちゃんと脱いでいる邦画5

『ヘルタースケルター』(2012年)  沢尻エリカ

『ベロニカは死ぬことにした』(2005年) 真木よう子

『海を感じる時』(2014年)  市川由衣 

『蛇にピアス』(2008年) 吉高由里子

『幻の光』(1995年)  江角マキコ


とはいえ、ここに掲げてある映画作品は、沢尻と市川を除けば、知名度がまだない頃の女優活動での映画出演でしょう。ただ、この記事がなんとなく不愉快なのは、今現在、有名女優で映画のなかで脱いでいる女性がいるからである。満島ひかりである。


セックスシーンではないが、全裸になっている。ヘアこそみえないが、あのままだったらヘアをみせても違和感はなかった。この記事を書いた**は、当然、その映画を観ていないだろう。ちなみに『海辺の生と死』は、東京でも単館上演みたいなものなのでみんなが知っている映画ではない。ただ、こういう芸能記事を書く者は、映画評論家とか演劇評論家とは異なり、映画や芝居だけは観ていない。映画や芝居を観てないのに、芸能ゴシップみたいなものだけは喜んで書く。ダイアナ妃没後お20周年ということでパパラッチのことがあらためて批判されてもいたが、私は、こういう記事を書いて金をもらっている連中はパパラッチ以下だと思う――少なくともパパラッチは体を張っているからだ。


次は、先のクズ記事とは全く異なる、格調高い文章で、ネット上からとったもの。

「海辺の愛と死~ミホとトシオの物語~」と題された記。author: みたけ きみこ(更新日:2015910日)。その冒頭である。


1945(昭和20)年8月13日、26歳のミホは、奄美・加計呂麻島の闇夜の浜辺をトシオに会うために特攻基地へと向かっていました。この島に基地をもつ海上特攻・震洋隊の隊長であるトシオ(28歳)が、その夜、出撃予定であると教えてくれる人があり、「とにかくひとめあわせてください」「隊長様、死なないでください」と祈りながら、ミホは走りました。井戸で身を清め、真新しい白の肌衣と襦袢(じゅばん)、白足袋、白羽二重の下着、母の形見の喪服をまとい、トシオから贈られた短剣を手に握り締めながら。ガジュマルの地根に足をとられ、闇夜の磯浜は一寸先も見えず、牡蠣(かき)貝、やわらかい砂浜、野いばらの茂みを感覚で探りつつ、ときには海に落ち、泳ぎ、妖怪ケンムンを恐れながらも、ティファ崎の岬、ウシロティファ崎を通り越し、タンハマの鼻を廻ったところで、ようやく基地に辿り着きます。ミホ来訪の知らせを受けたトシオは、「演習をしているんだからね、心配することはないんだよ」と優しくミホを諭し、口づけして、慌しく任務に戻ります。


この8月13日のことを、戦後30年たってから、ミホは「その夜」という作品に詳しく書きました。この作品のなかで、ミホは震洋艇の出撃を見届けてから、「海へ突き出ている岩の一番端に立って足首をしっかり結び、短剣で喉を突いて海中に身を投げる覚悟を決めていたのです」と告げています。しかし、トシオは特攻出撃することなく、ミホも自決することなく、その二日後に終戦を迎えます。

【この文章に文句をつければ、トシオとミホと名前をカタカナにして、メルヘンのような世界を出現させているが、また島尾ミホは、夫のことをトシオと書いているようだが、「島尾ミホ」は、昔なつかしい、そして現代では稀になったカタカナの名前なので、そこを大事にしてほしいと思う。実は私の死んだ母もカタカナの名前だった。本人は、カタカナの名前を嫌がって、若い頃は、ひらがな漢字まじりの表記をしていたのだが、最終的にはカタカナの名前をつらぬいた。またそのため書類とか宛名で誤記されることが多かった。カタカナ名には地域差はあるのかもしれないが、階級差はない。いまでもカタカナの名前を女性がいると、なにかとてもなつかしい感じがする。そのため敏夫とミホにして欲しい。勝手にかえるな。】


映画は、まさにこの813日の出来事をクライマックスにもってくる。このとき海辺での、これを最後という逢瀬での満島ひかりの渾身の演技に圧倒されるといいたいのだが、やや遠くに置かれた固定カメラで、夜の海と波をバックに二人のやりとりをじっくりみせるのだが、舞台を観ているような、というか実際に、波の打ち寄せる砂浜という舞台での演技を観ているわけで、そこにはやや距離感がある。つまり劇場で観客として舞台をみる場合、映画のような顔のアップはないわけで、どうしても、熱狂のなかに冷静さが、共感のなかにも醒めた眼差しが、憐憫のなかに恐怖がまざりこむ。満島の発狂寸前という追い詰められた心理の女性の演技を、カメラそのものがやや突き放している。


また実際そうなのだ。やがて夫婦となる島尾敏夫とミホのふたりは、とりわけミホのほうは、死を覚悟したかもしれないのだが、終戦間際で、玉音放送があることを住民も知っていて、またトシオのほうも、ほんとうに演習であって、まちがっても、沖合に出て特攻することなど、この段階では夢にも考えていなかっただろう。たぶん機材の関係からしても、そもそも特攻は不可能になっていた。ふりかえればミホのひとりよがりでもあったが、ここで死を覚悟した時に、この楽園のような離島に忍びよる死の影の大きさに思いを新たにするとともに、そこに戦争を始めた側への痛切な批判性が認めることが重要なのだろう。また強いて言えば、たとえ戦争行為に従事していなくとも、戦争が国民全体に強いるストレスを感じ取るべきだろうか。


映画は、この島に落ち着いた平和な日常が回帰したことを、静かに言祝ぐようなかたちで終わる。おそらくそこにこの映画のもつ批判性があるのだろう。その後の敏夫とミホの関係を念頭に置くと、狂気とか死のイメージがついてまわり、そのバイアスによって二人の関係をみてしまい、戦時下においても、二人が戦争を忌避し、死に抵抗することを重視せず、むしろ死へ吸引されてしまうような、タナトスの欲望をみてしまうのだが、それこそが大日本帝国の、ここでは海軍だが、思うつぼでもあって、多くの犠牲者を出した悲惨な戦争を無批判に受け入れてしまうような愚行に染まることでもある。


戦争とは関係ないかもしれないがソクーロフのドキュメンタリ『ドルチェ-優しく』(2000)が示すところの、結局は戦争と通底してしまうような、陰鬱な水墨画のような島の情景に対しても、この映画は抵抗する。あるいは死への傾斜から身を引き離す身振りを最初からしめすのである(ソクーロフのドキュメンタリは島での島尾夫妻を扱う異色のドキュメンタリー。夫妻と子どもたちが登場する)。


それは冒頭、小学校の教員である満島ひかりと、彼女を慕う小学児童たちが、山道も歩いてくる様子を正面からとらえるときの、ディープフォーカス(とはいわないかもしれないが)の、つまり画面のすみずみまで焦点があっていて、木々の葉一枚一枚まで数えられるような映像からもうかがうことができる。舞台となる、奄美群島の加計呂麻島(かけろまじま)の自然は、ソクーロフの映画とはちがって(とはいえ実際には曇り空も多いらしいのだが)、まさにこのように南国の自然であるにちがいないだろうし、そこで暮らす人びとは、まさに自然を背景とするのではなく自然に溶け込んでいる、あるいは自然と一体化している。そしてこのような楽園に、戦争がやってくるのである。戦争が島民にとっては異物であり、例外状態であって、通り過ぎるのを耐え忍ぶしかないのだが、同時に、戦争によってもたらされた死の影は、島民の牧歌的生活を侵食するようになる。


また映画の物語そのものも、満島ひかり、永山絢斗、津嘉山正種などを除けば、明らかに素人というか島民の人に演技をさせている。ただ、聞いていて下手な台詞としか思えない場合でも、方言なので(実際、字幕が多い)、むしろそれが自然に聞こえてしまう。また自然との一体化は、土俗的信仰のなかでの死者の世界との連続性というか一体化とも通底している。墓場から彷徨いでた死霊を追い返すような呪文をとなえるようなシャーマン的存在の老人もいる。ジャンル的にいえば、この映画、それこそ昨年暮れに東京で特集上映されていたタイのアピチャッポン監督の映画のなかでも、土俗性の強い映画作品に通ずるものがある。そして繰り返すが、このような映画であってみれば、そこでの生への穏やかな執着が、また死霊の跳梁を呪術的に抑制してきた共同体の平和が、それを妨害する偶発事故のような戦争との関係で、よけいに際立つのである。


戦後のふたりの運命から遡及的に考えれば、たしかにそこに狂気と死への傾斜はある。最後の逢瀬と思われた者から帰宅する満島のなかに、洞窟で島民とともに自決する父親の映像がよぎる。それは、下世話な言葉でいえば、取り越し苦労に過ぎなったのだが、同時に、それは沖縄での悲劇が、この島にも訪れていたかもしれない恐怖でもあった。そして特攻艇の脇にたたずむ隊長(永山絢斗)のところにかすかに聞こえてくる玉音放送にって暗示される終戦、それによってもたらさせるもとどおりの、いや、未来がまた萌し始めた生活。それもまだみぬ未来、そこに悲劇が横たわっていることなど知る由もない、あるいは知らん顔をするこの映画の観客は、ここであらためて知るのである。ふたりの愛が、ある意味、狂気と死への抵抗であったことを。この抵抗は島の共同体の抵抗でもあったこを。そしてこの映画の抵抗でもあったことを。


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2017年09月06日

『ザ・ウォール』

後味の悪い映画というジャンル(?)についてネット上で調べてみらたら『ミスト』というのが、たいていベスト10に入っていて、ちょっと驚いている。あれは、そんなに後味が悪いのか。もしそうなら、バッドエンディングの映画は全部、後味の悪い映画ということになるのだが、どうなのだろう。まあ、これで助かったと思ったら、実は助かっていなかったという結末は、よくあるし、それはジャンルとして確立している。そういう映画を嫌うというのはかまわないが、嫌いな映画=後味悪い鬱映画というのとは違うと思うのだが。また、もしこういうことを認めてしまうと、『ロミオとジュリエット』など、後味悪い演劇に分類されかねない。実際のところ、喜劇的なハッピーエンディングを予想させる結末にもかかわらず悲劇で終わるだから。


で、この『ザ・ウォール』、後味悪い映画かもしれない。助かったと思ったら、助からなかったというパタンなのだから。しかし、途中から、どうもそうなりそうだという予感させるのは、あまり好ましくない。


イラクの砂漠の廃墟。崩れかかった小学校の校舎の壁が舞台装置。この地で敵を待ち伏せていた米国の狙撃兵のペアが、待ちくたびれて姿をあらわすと、姿なき狙撃兵から銃撃を受ける。一人は重傷で倒れて動かない。もう一人は負傷しながらも壁の後ろ隠れる。しかもイラクの狙撃兵は無線で話しかけてくる。となると、ここから二人芝居、正確にいえば、敵は姿見せないので独り芝居となる。私の好きな演劇的設定の映画となる。しかも砂漠で、見えない敵と対峙するというのは、不条理感マックス。まるで不条理演劇を眺めてみるような興奮を味わうことになる。


しかも、ひりひりするような緊張感のなかで見えない敵との対話がすすむかと思うと、一刻も目を離せない、一瞬たりとも聞き漏らしてはいけないとわかっていても、眠気に誘われてしまうのは、いったいどうしてか。


それはアーロン・テイラー=ジョンソン扮する三等軍曹は、ジョン・セナ扮する二等軍曹が負傷したあと、一人で敵と対峙するのだが、狙撃兵としての腕前や、頭の良さ、狡猾さという点に関して、どうみても敵のほうが上であって、勝ち目はないように思われるからだ。


基本的に不条理演劇的であると同時に、戦争物としては王道の敵中突破物でもある。圧倒的に優位にある敵の手からいかにして逃れるか。アーロン・テイラー=ジョンソンは、この映画のなかでは、どうみてもあんまり頭がよさそうではなく、すでに負傷していて、動きも鈍いし、頭の血のめぐりも悪くなっている。彼が無い知恵を絞って、最後に敵の裏をかいて窮地を脱することを期待したいが、その望みは薄いのだ。だから敵との無線でのやりとりも、緊張感というよりも動きを欠いた展開が停滞した物語、要は、退屈になってくるのだ。


決定的瞬間と思われるときが2回くる。敵との距離は1500メートル。重傷を負って倒れている味方の狙撃兵(ジョン・セナ)との距離は数メートル。遠くの敵とは無線で交信しているが、1500m離れているので数メートル先に倒れている味方に大声で話しかけても、敵には聞こえない。この設定は、面白い。だが、これもお約束かもしれないのだが、無線のスイッチを切り忘れため、ジョン・セナに大声で指示を与えていることを敵に聞かれてしまう。あとひとつは、救出のヘリが近づいてくるので、アーロン・テイラー=ジョンソンは、最後に、見えない敵に対して全身をさらす。撃てるものなら撃ってみろと。そうして敵の位置を救出にくる味方に知らせようとする。だが敵は撃ってこなかった。


映画が終わった後、あんな敵がいるだろうか。だいたい昼も夜も補給もなしに、一人で身を潜めている狙撃兵というのはいるわけがない。おかしいだろうと、つっこみをいれようと思うと、そのとき、いくら映画の三等軍曹よりも頭の回転の悪い私にも、ふと、ひらめくものがある。ああ、そうだったのか、と。なにがそうだったのかは、映画で確かめてほしい。


後味の悪い終わり方なので、アメリカでの一般的評価では、反米的だというようなものが多い。だが、それはある意味あたっていると思う。つまり、結局、敵の手の中で踊らされていたという絶望的状況は、戦場での敵ではなく、アメリカ人によって、絶望的な戦いへと追いやられていくアメリカ人庶民の苦悩とシンクロしているように思われる。敵は、敵ではなく、兵士を死へと追いやる味方なのである。その意味で反米映画である。そしてまたこの戦争装置は、ひとつのメカニズムあるいはシステム化して、アリジゴクのようにつぎつぎと犠牲者を呑み込んでいく。もはやこうなると、敵は無敵である。この場合、敵というのは戦争システムである。この意味がこれは戦争の恐怖とむなしさを描く反戦映画である。

posted by ohashi at 22:20| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月05日

『エルElle』

昨年11月に放送され、最近も再放送されたNHKスペシャル『終わらない人 宮崎駿』のハイライトは、なんといっても、宮崎駿監督が、ドワンゴの川上量生会長が持ち込んだCGを「生命に対する侮辱」と一喝する場面である。


「スタジオ・ジブリ」のチームがCGで短編映画を制作するのだが、宮崎監督が思うような映像を作ることができず苦悩しているとき、ドワンゴ会長の川上量生が、自社のCG技術のプレゼンに訪れる。それはAIが作り出す、人体が頭を足のように使って移動するといったグロテスクな画像などからなっていた。これをみせられた宮崎監督が、「生命に対する侮辱」であると言ってのける。


これをみていて、よくぞ言ってのけたと宮崎監督を尊敬すらした。この場合、自分だったら、たとえ不快に思っても、「面白い画像だけれども、私の趣味じゃない」くらいにぼかして言うしかなくて、ここまではっきり言ってのける勇気はない。だが、そうした勇気を持つべきだとあらためて思い知った。


もちろん、いくつか考慮すべき側面はある。ドワンゴの川上会長は、もともとジブリ・スタジオにいた人間で監督とは旧知の仲だろう。だからこそ厳しく叱責できたとも言える。最近のはやりでいうと、そこには宮崎監督の「愛」があったのかもしれない。また川上会長としては、宮崎監督のこれまでのアニメには、それこそ道徳的一線を越えても、なんらかの対象の、面白い、異様な、ときにはグロテスクな動きを探求する姿勢があった。そのことを知っているからこそ、あえてAIによる不快な印象をあたえかねない映像も、監督なら理解してくれるかもしれないという思いがあったかもしれない。ただ宮崎監督は歳をとっている。昔のような、道徳的一線を越えてまでなにかを追及する情熱は失せているし、そうすることの無意味さも痛感しているはずだ。一線超えることを美徳とするような姿勢が、無意味なもの不愉快なものにみえてくる。


そしてもうひとつの要因としてカメラが回っていることだろう。カメラにとられていると、どうしても誰もが演技が入る。そしてそのときかっこいい自分というのが意識下にはぐくまれる。そのため、こういう密着取材の場合、指導したり教えたりする立場にいる人間は、たとえば映画監督とか演出家、教員とか、経営者などは、たぶん、ふだんとはちがって、必要以上にスタッフとか同僚に、そして学生などに厳しくあたる。


以前、テレビなどで評論家として活躍していて大学教授でもある元官僚でもある人物の大学院で授業風景が映し出されたことがあるが、有名大学の大学院の授業である。いくらできの悪い院生とはいえ、その大学の大学院生が、そんなにひどい発表をするわけはない。ところがびっくりするくらい厳しく叱責しているのである。あんなことをしたらパワハラ、アカハラで訴えられてもしかたないと思われるほどに。ふだんからそうではないと思う。カメラの前でついつい厳しい、自分を演出したということだろう。私はそう信じているが。


宮崎監督の場合、スタッフに厳しくあたるということはないし、むしろ厳しく当たっているのは自分自身に対してなのだが、このドワンゴ会長に対しても自己演出かもしれないが、それがうまくいっている。つまり、過度な嘘っぽい厳しさではなく、よくぞ言ったと共感を呼ぶ厳しさでもあるからだ。


このことをあらためて思い出したのは、最近の再放送ということもあるが、なんであれゲーム会社の社長やスタッフは、結局、変態だということを、あらめて思い知ったからである。ポール・ヴァーホーヴェン監督の新作『エルElle』をみて。


イザベル・ユベール主演のヴァーホーヴェン監督の新作だが、『ブラックブック』でイスラエル擁護の映画を撮って、それまでのアクの強い女性の生き方を描く流れからやや後退した、もしくは回帰の途上にあった(もちろんその前の『インヴィジブル』では、女性映画ですらなかった)、これでまた本流に復帰した観がある。あらゆる映画に顔を出しているイザベラ・ユベールも、この映画でははまり役というか、こういう役がとても似合っている。


昔、ドゥルーズのマゾヒズム論を熱心に読んだことがある。ザッヘル・マゾッホの『毛皮のヴィーナス』の読解なのだが、ドゥルーズによれば、マゾヒストは、自分が犠牲になる状況なり物語を、自己演出する。自分で自分を卑しめる儀礼を仕切るのである。そのためサディズムとマゾヒズムの境界があいまいになるというより、マゾヒズムは、そのままサディズムでもあるということになる。


ここでもレイプされる主人公が警察に訴えたりしないのも、レイプ願望を抱いているからではなく、レイプをみずから演出しているからである。しかもこのレイプ犯の正体がわかっても、実は謎であって、犯人は、たしかに戸締りをしたはずで、彼女のほうが先に帰宅しているにもかかわらず、すでに待ち伏せしている。敵は戸口の外ではなく中にいる。そしてそれは彼女自身のなかに潜んでいるかもしれない。つまりレイプ犯は、彼女の無意識の願望かもしれないし、すべて妄想かもしれないという暗示は最後まで残る。


あるいは彼女がゲーム会社の社長であるということも関係する。どうみても気色が悪いというかグロテスクなゲーム作成作業に若い社員やプログラマーがあたっていて、彼女は、彼らをある時は叱咤激励し、あるときは徹底的に非難し憎悪の標的となりながらも、ゲームのプログラムの完成をめざすのだが、そのグロテスクなゲームの世界は、彼女が生きる現実の世界とシンクロする。そしてロール・プレイのゲーム・プレーヤーさながら、彼女は、プレイヤーとして、集団幻想が要求する人物になりきることを楽しんでいるようにみえる。人生というグロテスクなゲームのなかで、彼女は、マゾヒストたる自分を演出するサディストなのである。


と、まあこういう映画だと考えた。逆にいうと、謎とサスペンスによって(たとえばレイプ犯は誰かというような)、映画を緊迫感にみちたものにする、そうした努力とか工夫がみられると思ったのだが、それはなかった。むしろ女性の一代記。あるいは女性の自立の物語であり、イザベル・ユベールの実年齢は、というか私と同い歳なのだが、映画の設定はそこまで高齢であるという設定ではないようだが、しかし、彼女は、彼女の人生を支配してきた父親と母親が死んで、とはいえ自身もすでに母親なのだが、はじめて自立できたようなところがある。


遅咲きの自立? だが、そうなのだが。女性がひそかにいだくレイプ願望というところに着目して、フェミニストよ、ざまみろというような反フェミニズム言説に嬉々としてふけるような愚か者は、つごうのよいところ、自分のみたいところしかみていない。この映画での彼女の自立とは、女性どおしの実生活と性生活を獲得することにある。おそらくそれはレズビアンの讃歌といよりも、男を必要としない、まさに女性どおしの共同体あるいは連帯をとおしての女性の自立ということであろう。そう思ってみると、とても面白い映画なのだが、スタイリッシュなサスペンス映画と思ってみると落胆するかもしれない。とはいえヴァーホーヴェンの悪趣味映画と思ってみると、期待は裏切らないだろう。

posted by ohashi at 09:14| 映画 | 更新情報をチェックする