2017年12月31日

ルージュの手紙

原題はフランス語でSage Femme-「女性の賢人」「賢い女性」かと英語からの発想で理解したが、おそらくそういう含意もありつつ「助産婦」(今では「助産師」というべきだが)を意味する。そして「助産婦」ということであれば、この映画をみて納得する。カトリーヌ・フロー演ずる助産婦の人生の転機に起こった、と同時に、転機を導くことになった、カトリーヌ・ドヌーヴ扮する義母との再会が映画のメインとなる。主役はカトリーヌ・フローで、ドヌーヴはゲストである。


助産婦の物語と最初から情報をあたえられていれば、出産シーンがあって、生まれたばかりの赤ん坊の姿を何度も目撃(たぶん5回)するのも納得がいくが、母と娘との葛藤の話かと思うと、肩透かしをくらう。


しかも母娘物といっても、義理の母と娘であって、血がつながった親子ではない。もちろん、血がつながっていないからこそ、そこに生まれる絆のようなものの貴重さが際立つといえば際立つのだが、それとは裏腹に、映画のなかで主人公の女性の実の親のことはよくわからない。映画のなかで助産婦のカトリーヌ・フローの実の母親は生きているのか死んでいるのかよくわからない。彼女の夫もどうなっているのかわからない。


ちなみに映画のなかで彼女の長男が、彼女の父親とそっくりになったことがわかる場面もあるのだが、このとき、一瞬、長男が、彼の父親とそっくりになったと勘違いしてしまう。実際には長男は、彼の祖父とそっくりになったのだった。何がいいたいかというと、この映画のなかで親子というような上下関係は実は希薄で、そのぶん血のつながらない横のつながりが強くなるように思われるということだ。そして上下(血がつながる)と水平(血がつながらない)という二つの人間関係の交点が、ドヌーヴとフローとの疑似親娘関係であることを指摘したいのだ。


この母と娘は、親子というよりも姉妹にちかい(カトリーヌ・フロは49歳という設定だが実年齢61歳で、ドヌーヴとは10歳くらいしか年齢差がなく、見た感じも姉妹である)。事実血のつながらない二人の女性でもあって、上下関係と水平関係の交点となっている。そして互いが互いのメタファーとなっている。水平的な友人とか恋人関係が、親子関係にもみえてくるし、親子関係が友人関係にもみえているというような。


カトリーヌ・ドヌーヴ扮する義理の母親は、まあ奔放な女性というか、破天荒な女性で、フランス人の庶民の出でありながら、ハンガリーの貴族とか王族と名乗っている。これだけで経歴詐称の立派な詐欺師なのだが、基本的に住む場所をもたない風来坊というかホームレスに近く、それでいてギャンブルには強くで、大金持ちではないが、金には困っていないようだ。彼女が義理の娘に、けっこうな大金を貸してくれるように迫るところがある。見ている側は、ああいういい加減な女性に絶対に金を貸すなと思うのだが、結局、娘のほうは母親に金を貸す。幸い、母親のほうはあとでギャンブルで稼いだ金で借金を返して、事なきを得るのだが、それにしても、金銭に関する、よく理解できない処理方法など、ドヌーヴ演ずる母は、あやしすぎる。


とりわけ、あの小切手の場面。私なりに理解すると、たとえば利息込みで90万円金を借りるとする。金を返す時には90万円の小切手を渡せばいいのだが、100万円の小切手を渡す。そして相手から差額10万円を現金でもらう。この場合、相手は、小切手を換金すれば100万円手にはいり、余分に10万円手に入ることになるが、その余分の10万円を、私に与えてほしいということのようだ。こうやって小切手と現金の関係、ならびに小切手を換金できるまでの時間差を利用して、現金を入手できるようにするというのは、違法ではなく、また信頼関係とリスクとが共存しつつ、なんだかあやしい、詐欺の一歩手前という感じもしないわけではない。一般的なことなのか全然わからない。だが、それにしてもドヌーヴが金を借りた相手の年配の女性、映画を見ているときにはわからなかったが、ミレーヌ・ドモンジョだった――なつかしすぎる。


結局、このドヌーヴ演ずる母親、すでに述べたように風来坊の詐欺師でばくち打ち、自己中心的でそれでいて憎めない人間的魅力をそなえた女性である。そう、彼女は、女性版・フランス版寅さんじゃないか。そしてどこからともなく現われ、そして去って行った寅さんとの交流によって人生の転機あるいは新しい人生の一歩を踏み出す助産師の女性というのが、この映画のテーマだろう。


山田洋次監督の世界といえば、まさにそのとおりではないかという気がする。映画には、たとえばダルデンヌ兄弟の映画にもよく出ているオリヴィエ・グルメも重要な役で登場するが(彼は黒沢清の『ダゲレオタイプの女』にも出演してるのだが)、淡々と日常を描くという点で、ダルデンヌ兄弟監督の映画と共通点があるものの、タルデンヌ兄弟監督にある社会悪や不正に対する冷徹な眼差しというものない点で、まあ寅さん映画的ではある――それだから悪いということではない。ただ、主題面でも寅さん映画であることを見る側も認めるべきであって、そうではないような映画会社の売り方や観客の反応はどうかと思う。


また、このような主題面における特徴は、前作『ヴィオレット』とも違っているのだが、これは基本的に無関係ながらエヴァ・イヨネスコ監督の『ヴィオレッタ』を思い出した。ちなみに今回の映画のタイトルを『ルージュの手紙』ではなくて『ルージュの伝言』と覚えていた人を知っていて、ユーミンの歌じゃないのだからと思いつつ、同時に、映画会社の戦略は、そうしたまちがいを誘発するものだったかもしれない。またマルタン・プロヴォ監督の前作『ヴィオレット』も『ヴィオレッタ』との混同をするのは、私だけかもしれないが、奇しくも『ヴィオレッタ』は『ルージュの手紙』に通ずる面がある。どちらも変な困った母親にふりまわされる娘が主題ともなっている。


『ルージュ』のほうは、最終的に寅さん的母親に惹かれ、また寅さんのごとく去っていく母親(実際には余命いくばくもない母親が自ら身を引いて、入水自殺したことが暗示されるのだが)との和解が生まれるのに対して後者は母親から逃げていく娘の姿で映画が終わる。最終段階での母と娘の関係は正反対かもしれないが、困った母親、強権的な母親に翻弄される子供、とりわけ娘という点で共通しているし、これはフランス文化における定番の主題という気もしないではない(『ヴィオレット』にはボーヴォワールが登場するが、彼女の娘が書いた、親のせいで『狂わされた娘時代』というような本も翻訳されていて、問題のある母親と子供とりわけ娘との関係は文化によって時代によって脚光を浴びることもある)。と同時にクリュタイメストラとエレクトラは永遠のテーマかもしれない。そんなことを血の繋がっていない母と娘との映画をみて考えた。





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2017年12月27日

『アテネのタイモン』1

松岡和子氏による訳『クラウド・ナイン』は、チケットを自分でも購入していたところ、招待状が来たので、購入済みのチケットは知人に譲ったのだが、今回の『タイモン』は最初から購入をあきらめていたものの、気にはなっていて、招待状が届いたときは、確かに、ありがたかった。たぶん松岡さんからの招待状だと思うのだが(ちがっていたらごめんなさない)、さっそく、夜は行きにくい彩の国さいたま芸術劇場に昼間、足を運んだ。


『アテネのタイモン』はシェイクスピア劇のなかで私がたまたま劇場でみたことがない作品のひとつで(シェイクスピア劇では、頻繁に上演される人気作品と、めったに上演されないマイナー作品との落差が大きいのだが、それでも、私はシェイクスピアのほとんどの作品を劇場でみることができた――『終わりよければすべてよし』と、この『アテネのタイモン』以外は)、また最近、たまたまかもしれないが院生が書く修論が、あろうことか『タイモン』を題材にすることがけっこうあって、べつにそんなに好きでもない『タイモン』についての論文を読んできたこともあり、舞台でその特徴を確認できるのは、ある意味、幸運であった。


吉田鋼太郎演出・主演の『アテネのタイモン』は、蜷川幸雄演出・松岡和子翻訳の彩の国シェイクスピア・シリーズを受け継ぐものだが、吉田演出の第一作として、蜷川幸雄演出だったら、どうだろうかとも考えたのだが、答えは出なかった。蜷川だったら別のかたちの演出をしたのか(この場合蜷川演出とは一線を画す吉田演出ということになるが)、蜷川でも同じような演出なのか(この場合は、吉田演出が蜷川演出を継承するということになるが)、それはわからなかった。またいくら優れた俳優でも、演出とか芸術監督になるというのは、別の才能であり、ふつうなら、かなりむつかしい仕事となるのだが、吉田鋼太郎は優れた俳優であるだけでなく、みずからも劇団AUNを主宰し(そこではシェイクスピア作品を上演することも多い)、演出家としての顔もある。その意味で、今回の『アテネのタイモン』は、戸惑いやぎこちなさなどない堂々した演出であり見る者を飽きさせない、いやそれどころか刺激的な舞台を構成していた。


また今回、舞台でみてあらためて感じたのだが、この作品、タイモンの独り舞台であって、もちろん前半と後半に同じ人物が二度登場してタイモンにからむのだが、みなタイモンの棲む空間へのゲストであって、タイモンのホスト役は固定しているといってもいい。その意味で、吉田鋼太郎のほかに、藤原竜也、柿澤勇人、横田栄司(執事役だが)といった主要人物も、重要だが、タイモンが迎えるゲストあるいは脇役というかたちになって、タイモンの独り芝居としての側面が際立つ。またほんとうの脇役を、すべてではないが、劇団AUNの俳優が固めているし、カクシンハンの二人(河内大和と真以美)もいるし、またカクシンハンの舞台にも出演しているAUNの劇団もいるということで、カクシンハンの舞台を観ている者にはなじみ深いともいえる雰囲気もあったのだが、それはともかく、内容と上演両方において、吉田鋼太郎は、ホストであった。その意味では芸術監督就任の第一作にふさわしい作品を選んだともいえる(もっとも就任以前から作品は決まっていたかもしれないが)。


この作品は、翻訳者である松岡和子氏がプログラムでも書かれているように、シェイクスピアとトマス・ミドルトンの共作とされている。そのためどこかシェイクスピアとは異なるような、またどこかミドルトン劇を思わせるような図式化めいた明確さがあるような、またその結果、どちらの作風にも通じながら、同時に、どちらの作風とも異なるような、不思議な芝居が出来上がった。そしてめったに舞台にかけられない、この作品が、みてみれば、たとえばどこまでがシェイクスピアで、どこまでがミドルトンかわからいことなど忘れてしまうほど、力強い芝居となっている。


この作品、『リア王』や『マクベス』以前に書かれたか、それ以後に書かれたか、よくわからないのだが、いわゆる四大悲劇以後に書かれた作品としてみることができるくらい、後期シェイクスピアにふさわしい、創造的破綻に満ちた作品ともなっている。いいかえれば現代性が横溢する作品となっている。現代性? それは弁証法を拒否しているからである。つづく

posted by ohashi at 11:15| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年12月24日

『ユダヤ人を救った動物園』1

以下、「映画に明け暮れる毎日。年間500本を越える鑑賞本数。我ながら半端ではないね。」をうたい文句にしているブログのなかにあった記事。ひどい記事なので、修正しておきたい。また年間500本映画を見る機会があるのなら、少しは勉強でもしろ、と、この*******に言ってやろう。


映画『ユダヤ人を救った動物園 〜アントニーナが愛した命〜』(Zookeeper's Wife(2017)に関する記事の途中に:


ヤンがゲリラに加わり街頭戦で首を討たれて重傷を負う。ドイツ軍に捕らえられたことは事実で、夫の行方を探るためにヘッツのアパートへ押しかける。情報を教える代わりに交換のものをとアントニーナはベッドに押し倒される。


映画はセックスがあったかどうか顛末を伝えず、次のシーンに移動するが、おそらく身体を許したに違いないと僕は疑う。


とある。まずヤンがゲリラ活動に加わり街頭戦での部分。これはただのゲリラ活動ではなくワルシャワ蜂起の一場面。アンジェイ・ワイダの『地下水道』の世界でしょう。そんなことも知らなくて、偉そうにブログの記事なんか書くな。偉くなければブログを書くなということではない。ただ無知な人間が、偉そうに映画紹介なんかするなということだ。


ナチス占領下のポーランド国内軍がラジオで市民に蜂起を呼びかけ、ヨーロッパ全土にむけて放送をしている。こういうのはゲリラ戦とはいわない。


ワルシャワ蜂起やワルシャワのゲットーを扱った映画は、『地下水道』のほかにも、有名なところでは、ポランスキー『戦場のピアニスト』があるが、映画『二つの名前を持つ少年』にも印象的な場面があった。数年にわたる物語は、節目節目に年月日が字幕として入り、やがて少年が向かうワルシャワ市とワルシャワ蜂起の年が重なってくることがわかり、彼が大きなトラブルに巻き込まれるのではと、けっこうはらはらする。ただし蜂起の時期、少年と、途中でいっしょになった少女はロシア軍に助けられ、移動することになるが、ロシア軍は、遠くに戦闘状態のワルシャワ市を臨む丘で進軍をやめる。少年が、ロシア兵に「おじさんたちは闘わないの」と聞くと、ロシア兵たちは、ただ黙って、微笑んでいるだけ……。


なお「映画はセックスがあったかどうか顛末を伝えず」とあるが、あの場面で、将校は、彼女にYou disgusted meと言われて、ひょっとしたら自分を愛しているのではないかという甘い幻想を打ち砕かれ、レイプするのを思いとどまる。ことは映画をみればわかるはず。


まあこの*********は、試写会かなにかで寝ていたか、あるいは映画を見ずに記事を書いているとしか思えない。ちなみに、主人公をレイプしそうになる将校というのは、最近のナチス物映画では、お約束のように出演しているダニエル・ブリュール。


で、つづきを読むと:


ナチの恐怖やユダヤ人の悲劇、アントニーナの貞操モラルなどを飛ばして動物園を描くので、気が付くと戦争は終わって1945年の秋になっている。ドイツ敗戦から5カ月が経っているのだ。


そんなことで、この「救出活動」がドイツ兵に見つかったら自分たちだけでなく息子、リスザルド(ヴァル・マロク)の命すら狙われてしまう。危険を冒しながら、アントニーナはいかにして300人のユダヤ人の命を救ったのか?と言う肝心な描写は曖昧のままだ。


ウソだろう。この********。どうやってかくまい、どうやって逃がしたか。地下室の構造はどうなっているか、地下室から外に行くトンネルは、どうなっているか、ダニエル・ブリュールが家宅捜索に来た時に、きちんと示されるのではないか。地下道から外に出て、そこでトラックに乗せられたユダヤ人がどのように逃亡を助けられたかはわからない。動物園は中継基地であり、そこから先は救援組織がめんどうをみるということだろう。そこまで描かなくてはいけないとしたら、映画や小説は成立しない。また、とにかく、この*****は映画を見ずに記事を書いているか、あるいはナチスの非道さを訴えたり、ヒトラーくたばれということを叫ぶと、かちんとくるネオナチなのだろう(彼らのナチスの暴虐を描く反戦映画に対する攻撃を絶対に許してはないらない)。


映画のテーマとして曖昧に描かれているのは、自らの命の危険を冒してでも、ナチス・ドイツに対して勇敢に立ち向かった夫婦の強い信念なのだがポイントを外れた描写ばかり。終戦の平和になった動物園の事務所の柱に「ダビデの星」を描くアントニーナとトムの姿はテーマを強調するための「蛇足」の感がある。


これを蛇足だというこの*******は、ユダヤ人を助けた「善き人」「義の人」「正しき人」を蛇足とでも言いたいネオナチなのだろう。


主人公・アントニーナを演じるのは、シールズのウサマ・ビン・ラディン暗殺を描く「ゼロ・ダーク・サーティ」に主演してアカデミー賞他多くの賞レースにノミネートされたジェシカ・チャステイン。強さと優しさを兼ね備えた美しい女性を熱演している。


まあこれは上記の記事は今年の9月に書かれているらしいので情報が古いが、東京では、いまも『女神の見えざる手』を上映中。ジェシカ・チャスティンはブスというつもりはないが、彼女は性格俳優でしょう。演技はうまい。また独身で自立して頑張る女性の役と、同時に、妻役も多く(『ツリー・オブ・ライフ』とか『アメリカン・ドリーマー』とか『ヘルプ』や『テイク・シェルター』)、ワイフ女優でもある(こういう言い方はないと思うが、しいて言えば)。今回も妻として母としての演技が光る。そしてジェシカという名前から、彼女はユダヤ系である。その彼女が、ユダヤ人を助ける動物園の妻役を演じ、戦後、犠牲になったユダヤ人の追悼の意味をこめてダビデの星を動物園のそこかしこに描くときの、彼女自身の心境はいかばかりのものかと想像してしまう。



監督はニュージーランド出身の41歳、ニキ・カーロ。長編2作目の「クジラ島の少女」(03)は世界の注目を集め数々の賞を授与されている。ハリウッドに招かれた女流監督は戸惑いながら演出をしている。


なにをもって戸惑っているのかわからない。むしろ『クジラ島の少女』の監督は思えない、歴史巨編ともいえる映画に仕上がっていて、その堂々たる演出に、ぶれなどないように思われえる。おそらく試写会で寝過ごしたか、あるいはヒトラーくたばれと叫ぶ子供がいて居心地の悪さ、戸惑いを感じたネオナチが、自分の戸惑いを、監督の戸惑いに投影したのだろう。この映画に戸惑いなど断じてない。つづく

posted by ohashi at 02:47| 映画 | 更新情報をチェックする