2017年12月01日

『永遠のジャンゴ』

ある映画関連のサイトから引用


   このあたりの話は、ジャンゴの熱心なファンなら知っていると思われる。だが、この映画には驚かされるだろう。なんとジャンゴが、ナチスドイツに迫害され、怒りを燃やし、抵抗していたというのだ。日本版ウィキペディアのジャンゴのくだりを見ても、そんな記載はない。まさに「知られざる物語」なのだ。


   1943年、ジャンゴはナチスドイツ支配下のパリにとどまり、演奏活動を続けていた。自分はフランス人ではなくロマだし、人気ミュージシャンだから戦争には無関係と思いこんでいた。ところが、ナチスには優生思想があった。ロマを劣性民族とみなし、すでにドイツ本国などで着々と「粛清」を進めていたのだ。


   ある日、パリのジャンゴもナチスに呼び出される。下着姿にされ身体測定。写真も撮られた。耳のサイズ、頭の大きさ、歯並びなどが綿密に測定される。そのデータから間違いなくロマだと認定され、ナチのファイルにしっかり登録されてしまった。


   ジャンゴは身の危険が迫ったことを知り、レジスタンスの手引きでパリから逃げ出す。スイス国境に近いフランス南部のロマ居住地に潜むが、そこでナチスに見つかり、反ナチの活動もばれて・・・。


べつに変なことが書いてあるわけではないと思うかもしれないが、上記の「ある日」以下の記述。頭の大きさや耳のサイズを測られてロマ(いわゆるジプシー)と認定されたわけではないだろう。ロマだとわかっているから容貌の特徴を記録したのである。頭のサイズや歯並びでロマだと認定できるわけがない(たぶんそれを調べられたら、顔の造作が不釣り合いな私など一発でロマと認定されてしまうだろう)。つまりロマだから、その特徴を記述し、架空の劣等民族性を証明しようとしたのだ。最初にロマありき。そしてロマ=劣等民族理論にすべてを収斂させる。実際、映画のなかでジャンゴの2本の指が動かないのをみて、近親婚の繰り返しによる劣等化などと医師が記録するのだが、ジャンゴは、これが火事のやけどの結果だと説明しても(実際そうなのだが)とりあわない。結局上記の引用文の執筆者は、あたかもこのナチスに協力した医者と同じことをしているのだ。どうかクズ医者と同じようにならないように。


また上記の引用にあるいようにウィキペディアではナチスのロマ迫害については何も触れられていない。以前読んだロマ関連の本ではナチスによるロマ迫害について触れられていたが、不明な部分も多いのは、収容所に入れられたロマだけでなく、キャラバンで移動中のロマも迫害の対象となったため、犠牲者の数もよくわからないままになったということだった。


どこまで事実・史実に忠実か、史実を伝えるために史実以上に真実を伝える虚構化がどこまでおこなわれたかわからないが、スイスに亡命するときに延々と待たされたあげく、いよいよ状況が切迫してくると案内人がきるという、やや劇的展開がある(当時スイス亡命のために山越えには案内人が不可欠だったことは、『少女ファニーと運命の旅』をみてもそうだったと思い出すが)。また過酷な山越えで、母親と妻を置き去りにしなければならず、一人で山越えをすることになるが(結局、案内人もいなくなり、だったら案内人は必要なかったのか)、母親は生き残っていたり、すくなくとも身内や仲間には犠牲者が多くなかったことなど、事実に忠実な部分は、やや拍子抜けなのだが、レジスタンスに協力するなかで、レジスタンスにとってもロマは使い捨ての協力者か、一段下に見られていたかもしれもしないという黒歴史が浮かび上がる。そこは虚構が入っているだろうが、現実を直視している感じがする。


ジプシージャズの創始者だったジャンゴ・ラインハルトがパイプオルガンを使ったレクイエム曲を作るというのは、パイプオルガンは登場するが、そこは説明不足か、あるいは先入観が強すぎたのかわからないが、違和感をもった。ただし、その曲が、戦時中に迫害をうけたロマの犠牲者たちへのレクイエムであったということ最後にわかり、この曲こそが、この映画の重要なテーマといえるだろう。


迫害する側は、ナチスだけではない。ナチス占領下あるいはヴィシー政権下のフランス人の多くもまた迫害者であった。レジスタンスにおいてもロマは格下だったようだ。そしてまたレクイエムが一度だけパリの盲学校で演奏され、楽譜も一部しか残っていないというのも、ロマ差別の証しだろう。


破天荒で華やかな演奏生活をおこなったジャンゴ・ライハルトの抑圧されてきた被差別の歴史発掘そのものが、犠牲となったロマへのレクイエムとなっている。そしてこれはロマ差別がいまではなくなったから可能になったということではなく、今現在、これまで以上に差別の波が襲い掛かろうとしているがゆえにナチスとナチス協力者への告発が必要とされ、犠牲者へのレクイエムが必要とされたということだろう。


追記:

この映画で、セシール・ドゥ・フランスの役割は、曖昧さを残している。結局、彼女が生き延びたのか死んだのかもわからない。『少女ファニーと運命の旅』にも出演していた彼女は、この映画ではジャンゴにからむ重要な役でよかったのだが、ただ彼女の主演・出演映画の紹介に『ある秘密』と『ヒアアフター』などはいいとしても、『シスタースマイル ドミニクの歌』 Soeur Sourire (2009)が強調されていないのは惜しい。あの若い女性二人が、最後に笑いながら死んでいくレズビアン映画は悲しくも幸せな感動的な映画だと私は信じているのだが。

posted by ohashi at 19:32| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年11月29日

『ゲットアウト』

人種差別にからむ心理的なサスペンス映画かと思いきや、え、こんな映画だったのかという裏切られ感、がっかり感がある。最後まで見ると、これは人種差別がテーマどころか、人種差別がなさすぎるという映画ではないかという疑問すらわいてくる。


つまり途中までは、じわじわと恐怖をつみあげていく心理サスペンスかと思っていたら、いつのまにか安っぽいホラー映画になっていた。もちろん、映画はそれを最初から狙っていたと思うのだが、同時に、観客の側は、それを望んでいないというところに違和感がある。


あとウェブ上のアホ記事があって、そこにはこんなことが書いてあった


本作に登場する白人リベラルたちは、表面的には黒人差別に否定的な姿勢を見せています。しかし、その深層には根強い黒人差別を抱えています。

現在のアメリカ社会でも同じような問題を抱えています。白人リベラルや白人エリート層は、差別に否定的です。しかし、その心理には実は強い差別主義を抱えていたりします。

 トランプ氏の大統領選挙で明らかになったのは、まさにそんな白人リベラル層の潜在的差別意識だったのかもしれません。表面的には、人種差別に否定的で、ヒラリーを支持する姿勢を見せながら、実際には、トランプに投票していたみたいな層が大きかったわけです。

 こんなアメリカ社会への痛烈な風刺が本作には込められていたのではないかと感じました。


このコメントをみると、日本はアフリカの独裁者以上の独裁者を支持するファシストどもにほんとうに牛耳られてしまって、日本人はバカになったのか、いやもともとバカだったから**ヒトラーの独裁を許したのかとあらためて思うのだが、黒人を奴隷化する人間を。このコメントではなんとリベラルと呼んでいるのである。


またさらにいうとトランプの支持者をリベラルと呼んでいるのである。


こうなるとKKK団やネオナチや白人優位主義者の出番がなくなってしまう。なにしろこうした連中こそ、トランプ陣営を支えているのであって、リベラルがトランプ支持? くそばかは、死ねといいたくなる。まあ、この***は、たぶんリベラルと、ネオリベラルとをごっちゃにしている。そしてこの***はリベラルと聞くと、これを排除するという小池都知事と全く同じ感性と思想を共有しているクソ・ファシストなのだろう。悪いことは全部リベラルに押し付けていればいいと思っている、こんなくだらない***こそ、黒人をひとしく差別する人種差別主義者と同じではないか。


この映画をみて、白人の娘が黒人の恋人を実家の両親に紹介するというのは、古い映画だがスタンリー・クレイマー監督の『招かれざる客』と同じ状況であること思い出す。白人の両親が娘の恋人である黒人の青年を、うわべは暖かく迎え入れるが、100%歓迎しているわけではないことは、この映画の端々から伝わってきて、状況は『招かれざる客』と結局同じである。


そもそも映画の冒頭で黒人が襲われるという場面からして、主人公の黒人青年が危険な状況であることは分かり切った話なのである。また『招かれざる客』では娘の父親(スペンサー・トレイシー)は、リベラルな新聞社社長ということになっているようだが、口ではリベラルであることを表明していても実際に娘のこととなると躊躇があるというのは、よくある話である。なかなか偏見から脱することができず、リベラルを標榜しても、娘が黒人と結婚する可能性に嫌悪感を示さずにはいられないという現実に直面することは、ある意味、リベラルな現実把握であり、また、そうした偏見を最後には乗り越える未来をみせるということもまたリベラルであって、こうしたことは白人優位主義者には絶対に見出せない姿勢だし、ファシストは夢見ることもないだろう。


あともう少し、この***な***のコメントを引き合いにだすと、映画の途中で主人公の友人が「性奴隷」のことを口にする。主人公をとりまく状況、彼が白人の恋人の実家の近隣で出会った数少ない黒人の状況を考えると、いかにも性奴隷を暗示させるものがあるのだが、同時に、それは真相ではないだろう観客は考えるにちがいない。ところがこの評者は、性奴隷が重要なヒントだというのである。アホか。通常の推理ドラマで、たとえば主人公の友人が犯人であるかのように展開しながら、最後には、意外な人物が犯人であったことが判明する。まあ通常のパタンだが。その時、この友人が犯人が疑われるということのなかに、犯人のヒントが隠されているといえば、もう何でもヒントじゃん。いい加減にしてくれ、この***********。


閑話休題。映画は、人種差別を潜在させる共同体にまぎれこんだアフリカ系アメリカ人青年を襲う心理的な恐怖かと思いきや、もっとむきだしのというか安っぽいホラーであることが残念である。つまりトリックというか犯罪の方法が非現実的あるいはファンタジー的だと、そこにリアリティが感じられなくなるからだ。


松本清張の『砂の器』という小説を知っているだろうか。最初の映画化版を先にみた私はずいぶん感動したものだが、原作の小説を読んで唖然とした。原作では電磁波を使って人を殺するのである。映画版とかその後のテレビドラマ版でこの作品を知っている人は驚くにちがいない。古今東西、電磁波で死んだり殺されたりした人はいない。小説の語り手(ほぼ松本清張と同じ)は、前例がなくても電磁波殺人は可能であることを力説するのだが、そもそも殺人者に前歴がないのだから、証拠を残しても警察は犯人を特定できないのであって、わざわざ電磁波という非現実的な殺人手段を考えなくてもいいのである。そして殺人手段が非現実的であることは、なにか作品そのものを安っぽくしてしまうため、その後の映画やテレビドラマ化では、この設定は完全に無視されている。無視してよかったと思うのだが、映画『ゲットアウト』の場合、3流ホラー映画にしか存在しない、荒唐無稽な設定が作品の安っぽくしてしまう。まさのこのSFもどきホラー設定よ、ゲットアウトと言いたいののだが、そうなると作品全体が成立しなくなる。こまったものである。


そのためこの映画を評価しようと思ったら、この荒唐無稽な設定を寓意化するしかない。


またも『砂の器』の例にもどるが、殺人手段として電磁波を使うという原作は、無意味に荒唐無稽なわけではない。反近代主義者、モダニズム・アヴァンギャルド嫌いの松本清張にしてみれば、殺人者の作曲家が、電子音楽の作曲家であるというそのことだけで、すでに犯罪者なのである。なぜなら、そんな前衛芸術派は、土地の血のつながりから遊離した軽薄で浮ついた存在でしかなく、伝統なり継承なりとは無縁で、過去とも断絶し、根無し草的存在として薄っぺらい現在を浮遊するしかない、まさに人間性を欠いた人間、犯罪者と同様に秩序と調和の破壊者にすぎないからだ。そんな軽佻浮薄な人間に、消し去った過去の出来事、そして血のつながりがつきつけられるとき、犯罪が生まれる。消し去ったはずのみずからの過去をつきつけられたとき、その相手を殺す手段として、電磁波が選ばれたのもむべなるかな。血と肉体とは全く無縁な不可視の殺人手段として、これほど似つかわしいものはない。反近代主義者、反モダニズム、反アヴァンギャルドの松本清張にとって、電磁波殺人は、殺人を犯す人間の電波のような電子音のような、反自然、反人間性にもっともふさわしい殺人行為だったのである。


このように考えれば『ゲットアウト』の荒唐無稽な設定も、自己の肉体でありながら、白人に肉体を収奪されてきた苦難の、いまなお続く歴史の寓意というふうにみることができる。寓意といっても、肉体の収奪という比喩表現が現実化することによって生ずる寓意性なのだが。過去から現在においてもなおアフリカ系アメリカ人の肉体は、白人の所有物だったのである――なおこれはこの映画においては、性奴隷という意味ではない。


と同時に、ここには、黒人を肉体に還元することによる差別意識ということもみえてくる。しかも、これはアメリカ合衆国における特異な現象なのかもしれない。それはrace changeが下から上へ向かうのではなく、逆に上から下へと向かうことなのだが、


たとえば日本人が白人になろう、白人の青い目が欲しいと考えるのは、わからないわけではない。だが逆に韓国人とか中国人をディスることしかしないヘイト集団が、もし韓国人や中国人になろうと(理由は、あこがれをはじめとして、いろいろある)としたらちょっと驚くのではないか。Race changeあるいは民族チェンジは、、他者との合意あるいは同一化をめざすものだから、一見、差別とはもっとも隔たっているように思われる。ところが、それもまた、あるいはそれこそ差別であるというような状況はアメリカでは今もなお続いているということだろう。

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posted by ohashi at 17:14| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年11月28日

『女神のみえざる手』

『女神のみえざる手』というタイトルはどういうつもりでつけたのか推し量るのが不可能だが、原題のMiss Sloanもまた、あまりにそっけなさすぎて、映画のタイトルとして座りが悪いということなのかもしれない。


ただ原題のそっけなさは、しかし、物語の緊迫した展開、テンションの高いドラマ性と好対照で、その落差を狙ったのかもしれない。とにかく一瞬たりとも目が離せない。そして窮地に立たされた主人公に最後の逆転が期待通りにおこる。すべては周到に用意された作戦だったとわかるのだ。


ロビー活動の実際について、なにも知らないのだが、投票率30%(日本の話ではない、合衆国もそうだと知って驚くのだが)の時代に、国会議員は、熱狂的な支持者・支援者を除けば、世論の動向によって議席の確保を考慮する時代において、民主的な議論なり手続きはすでに失効し、メディア操作やロビー活動が政策決定に関与するということだろう。映画では銃規制を強化する法律を阻止しようとする勢力と、規制強化を実現しようとする団体のためにはロビー活動することを選んだ主人公の、一線を越えた、なりふりかまわぬ行動が中盤いや後半にかけての中心で、そこから生まれる激しい反発と抵抗によって、それまで有利に進んでいた銃規制強化運動が頓挫し関心をもたれなくなるまでを描いている。そして最後に起死回生の逆転が起こる。


実は、この映画を見ている時点で、日本では、横綱・日馬富士による貴ノ岩への暴行事件が連日テレビで報道されている。しかし、いつのまにか暴行した側の日馬富士でなく、被害者の貴ノ岩とその師匠である貴乃花親方へを非難する報道がめにつくようになった。貴乃花親方は沈黙を守っていて、声高に聞こえてくるのは相撲協会の意向を代弁するメディアの報道だけで、あとは相撲協会擁護・被害者バッシングの醜い構図だけが残っている。ただ貴ノ岩側からの証言もぼつぼつ出始めていて、それによればほんとうにリンチ事件そのもので身体的なダメージもひどく、とても貴ノ岩の仮病とか重症の疑いなどですまされるような問題でもなくなってきて、ここにきてにわかに相撲協会とそれに結託したメディアの論調がトーンダウンした。


ここまで沈黙を守っている貴乃花親方側からの起死回生の、相撲協会の幹部が総辞職するような大胆証言と証拠という大逆転劇がないものかと、期待してしまうのだが、映画のようにはいかないのかもしれない。そして映画のように、大激震(映画のなかではearthquakeと呼んでいたが)が走るような出来事が起こるとすっきりするのだが、そこまでのことはないまま、うやむやに終わりそうだという予感はする(予感がはずれることを祈りつつ)。


こんなふうに考えると、この映画も、『ノクターナル・アニマル』と同様、妙にリアリティがある。


あとジェシカ・チャスティン、最高。彼女の主演作のなかでは、その魅力がもっとも出ているような気がする。彼女が主演した『ゼロ・ダーク・サーティ』はその力演も特筆すべきなのだが(キャスリン・ビグローのいつもながら力強い演出も忘れてはならないが)、彼女の魅力が十分に出ているとはいいがたいし、それにもしオサマ・ビン・ラディン殺害が映画の通りだとすれば、世界中のテロリストたちに命令できる最高指導者の殺害というよりも、潜伏しているローカルなギャングのアジトあるいは地元民に交じって生きている元ギャングをむりやり殺害したような話で、もしそれが意図的なものだったら痛烈なアメリカ批判にもなるのだが、おそらくそうではないのだから、失敗作ではないとしても、それに近いもののような気がする。


ジェシカ・チャスティンの魅力は、ジェフ・ニコルズ監督の異色作『テイク・シェルター』(2011)で頭のおかしくなる主役の、そして『ノクターナル・アニマルズ』(2016)にも出ていた、マイケル・シャノンの妻役の時に発見した(ちなみに『テイク・シェルター』から5年後のマイケル・シャノンだが、『ノクターナル・アニマルズ』では老けすぎ)。あの映画の彼女には、なにかオーラのようなものが漂っていた。妻役というとオスカー・アイザック(いまや『スターウォーズ』のヒーローだが)と共演した『アメリカの災難』(2014)があるが、彼女の魅力をそれほど出しているとも思えなかった(メイキング・フィルムでは、ジュリアード学院でいっしょに学んだオスカー・アイザックと対談していて、この世代を代表する演技派の二人の話はけっこうおもしろかったが)。


今回の『女神のみえざる手』は、彼女の魅力と演技力に圧倒されるものの、しかし、それは彼女が演ずる人物の個性とかパーソナリティに感銘を受けるのではない。むしろ彼女が演ずるミス・スローンは、やり手のロビイストなのだが、裏や深みがない。彼女がこれほど銃規制強化のうちこむのは、ないか過去の経験とかトラウマがあるように思われるのだが、それは最後まで明らかにされない。つまりいくら不眠症に悩んでいても(つまり彼女にとって眠るのは怖い、たぶん悪夢をみるだろうから)、その真相はあかされることはなく、むしろ彼女は裏も深みもわからない、あるいは、そもそも裏も表もないフラットな人物であり、その仕事ぶりもチャレンジ精神によって引き受けているだけである。くりかえせば、彼女が演ずるところの辣腕ロビイストには、裏がない。書き割りのような人物である。そのため書き割りを立体的に見せる彼女の演技力(実際の演技力と、映画のなかでの演技性のふたつをふくむ)に限りない魅力を感じてしまうのである。


ロビイストの戦略とは、先を読み、先手をうつことである。それが最後に起死回生の逆転劇を生むのだが、どこまで先手をうっているのか、わからないところに、キャラクターや物語の面白さがある。彼女の弱点と思われるもの、彼女の敗北と思われるものも、戦略の一部しかもしれないとしたら、彼女の行動と性格は、底なしである。得体が知れない。その不気味さが魅力になっているのかもしれない。


あるいは彼女は万能の女神ではなく、弱点もあれば失敗もある。すべて用意周到に準備をしているわけでも、あるいは先を読んでいるわけではないだろう(もっとも映画を見終わったあとでは、先を読みすぎているともいえるのだが)。その場、その場で、即興的に作戦を立案し実行する、逆境や敗北を味方につけてさらなる攻撃へと転ずる、その機転、叡智、いさぎよさ、まさに卓越せる演技者としての魅力が、彼女本来の演技者としての能力と相乗効果をあげるとでもいえようか。だが、そこがどこまでかわからない。一線を越えるというのがこの映画のキーワードでもあって、どこまでか計画で、どこまでが臨機応変の策略か、区別がつかなくなっている。


ただ、それにしても、彼女に対して、最終的には好ましい印象を観客がもってしまうというのはどうしてだろう。それは映画術というかシナリオ術における大きな原則を、この映画作品もふまえているからだろう。つまり誤解される人物。この作品の中で彼女には裏がみえない。しかし、フラットな、薄っぺらな人物にも思えないのは、彼女の造型において、誤解される人物という点が観客の共感を呼ぶ。もちろん彼女の正体は最後までわからないのだが、しかし、わかったこともある。周囲は、私たちは、彼女を誤解していたということである。それも私たちの洞察力のなさではなく、彼女が周囲をまきこまないために、あえて真意を示さなかったのだということである。新たなヒロインの誕生である。続篇は作られないだろうが、シリーズ化してもいいような作品である。

posted by ohashi at 19:18| 映画 | 更新情報をチェックする