2025年05月13日

『ローカル路線バス乗り継ぎの旅W』

2025年5月10日に放送された『ローカル路線バス乗り継ぎの旅W 第5弾』(テレビ東京系)が話題になっている。以下の記事を参照:
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雛形あきこ“不機嫌表情”の真相とは?アスリート旅で …
雛形あきこはなぜ“話題”になった? 番組出演はどんな内容だったのか?

2025-05-11
雛形あきこ“不機嫌表情”の真相とは?アスリート旅で見せた限界
【略】
番組出演はどんな内容だったのか?
5月10日に放送された『ローカル路線バス乗り継ぎの旅W 第5弾』(テレビ東京系)は、和歌山県・那智の滝から愛知県・犬山城を目指す“3泊4日”のガチンコ旅企画。今回の出演者は、スピードスケート五輪金メダリストの髙木菜那さん、スポーツクライミング界の女王・野口啓代さん、そして芸能歴33年のベテラン女優・雛形あきこさんの3名だった。

放送序盤では、旅のリーダーを決めたり、互いのあだ名をつけ合うなど、和やかな雰囲気が漂っていた。雛形も笑顔を見せ、積極的に会話に参加していた姿が印象的だった。だが、視聴者の目には「何かが変わった」と映った瞬間が、やがて訪れる。

いつから“違和感”が話題になったのか?
番組が2日目に突入するあたりから、雛形の様子に異変が生じる。カメラは彼女の“無言”の瞬間を切り取り、虚ろな目で遠くを見つめるカットが増えていった。X(旧Twitter)では「雛形あきこ、どうした?」「明らかに疲れてる」といった投稿が続々と拡散され、一部では“やる気がない”との批判も出た。

だが、それに反論するように「体力差が明らかすぎる」「あの2人相手に同じように旅させるのは酷」といった“同情派”の意見が急増した。雛形の“表情の変化”は、彼女の個人的事情というより、番組構成や演出上の問題を示唆する“警告灯”だったのかもしれない。【以下略】
この番組は私も視ていた。とくに後半、三重県から愛知県に入り、名古屋市、小牧市、犬山市へと辿る路線は、知っている場所も多く、興味をもって視た。

ローカル路線バス乗り継ぎの旅の一行は、三重県から愛知県に入るときに、三重県桑名郡木曽岬町から愛知県弥富市に向かう。このあたりはあまりよく知られていない場所だが、私は、そこに住んで暮らしたことはないので、詳しくは知らないが、私の先祖がいたところである。大橋家の墓もそこにある。また墓参りには、愛知県弥富市の近鉄弥冨駅から、三重県の桑名郡木曽岬町へと向かう。

だから今回の『ローカル路線バス乗り継ぎの旅W』が、弥富市あたりにやってきたときには、知っている場所がないか、とても注意して視ていた。

一行は、三重県から愛知県へと行くときに、揖斐長良大橋と木曽川大橋のふたつの橋を徒歩で渡っている。ふたつの橋をあわせるとおよそ2キロくらいの距離である。もちろん歩けない距離ではないが、一行の健脚ぶりには驚いた。雛形あきこ氏には疲労の色がみえる。

そして木曽川を渡り切ったところで、コミュニティーバスに乗って近鉄弥富駅に。実は4月の終わりに法要のため木曽岬町の寺に赴いたこともあって近鉄弥富駅の姿は記憶に新しい。『ローカル路線バス乗り継ぎの旅W』の一行はここからさらにすぐ北にあるJR弥富駅に赴き、そこで情報収集すると、さらに北の津島駅のほうが路線バスの便が多いと聞いて、一行は津島駅まで歩くことにする。

揖斐川・長良川・木曽川の三川の橋を徒歩で歩いて渡ることは、ふつうにできないことはない。しかし、私の感覚だと弥富駅から津島駅まで歩くのは尋常なことではない。8キロくらいの距離ということなので、これも頑張れば歩けない距離ではないが、ふつうは歩こうとは思わない距離である。私には、弥富駅から津島駅まで歩くという選択肢はない。ところが一行は歩くことにして、実際に歩く。雛形あきこ氏はべつに文句をいうわけではないが、疲労の色がさらに濃くなるようにみえる。

結局、津島駅まで歩いた一行は、そこから名鉄バスセンター(名古屋駅にある)へと向かう路線バスをみつけるが、ただ犬山城へは名古屋市からだと小刻みに路線バスを乗り継ぐことになりたいへんだから岐阜方面からアプローチするという作戦にこだわり、岐阜羽島方面に行こうと試みる。私は岐阜羽島方面については何も知らないらが、ただ、そのあたりは泊まるところもなく、不便なので、名古屋駅に行ったほうが絶対によいと、テレビを視ながらヤキモキしていた。

結局、名鉄バスセンターに向かうことになって、私も安心した。また名鉄バスセンターは、夜なのでしまっていたが、私が4月末に法要に出席するために泊まった名古屋駅周辺の宿泊場所にも近く、2週間もたっていないのに、なつかしい感じがした。

翌日(最後の日)、一行は犬山城をめざすのだが、はたして無事に到着したかどうかは、ご覧になっていない方は、見逃し配信で視ていただくとして、私にとってこの番組は、雛形あきこ氏の不機嫌な顔以上に衝撃的だったことがある。

一行は木曽川大橋を渡って、コミュニティー・バスに乗るのだが、そのバスの車体に、大きく、ひらがなで「きそさき」と印字してある。「きそさき」? え、そうなのかと私はちょっとパニックになった。番組終了後、Wikipediaで調べてみた。
木曽岬町(きそさきちょう)は、三重県の北東端、木曽三川の河口部に位置する町。東は愛知県と接し、西は木曽川を挟んで桑名市長島町と接する。また、南は伊勢湾の最北部に面している。トマトが名産。

また木曽岬町のホームページをみても、英語名が「Kisosaki town」とあって、私がテレビで視たマイクロバスの車体に描かれていた「きそさき」の文字は、みまちがいではなかった。

なぜ、そんなに驚きあわてているのかというと、私は、木曽岬をずっと「きそざき」と読んでいたのである。いつからか? 物心ついたときから、子供のころから。なぜなら親が「きそざき」と言っていたから、そう読むのだろうと思っていた。ただ、「木曽崎」ではなく「木曽岬」になっていること、特殊な読み方なのだろうと思っていた。

70歳過ぎてようやく、私は、先祖の墓がある場所の地名の正しい読み方がわかった。死ぬまでにそれがわかってよかったと、私は妹にメールで伝えた。妹も「きそざき」と言っていたから。妹も驚いていたのだが、親がまちがって覚えていたのか、今となっては親が死んでいるのでわからない。ひょっとしたら昔は「きそざき」と言っていたか、もしくは両方の読み方があったのかもしれないが、そこはわからない。とにかく、死ぬ前にわかってよかった。テレビ東京の番組にはどんなに感謝しても感謝しきれない。

とメールしたら、なにをおおげさに騒いでいるのかと妹からメールの返信が来た。冷たい女じゃい。
posted by ohashi at 00:22| コメント | 更新情報をチェックする

2025年05月12日

『教皇選挙』

エドワード・ベルガー監督 2025年

「コンクラーヴェ」Conclaveは、「根比べ」だと日本で言われ始めたのはいつ頃のことだったのだろうか。前回の「コンクラーヴェ」の時は、あまり意識しなかったので、前回と今回の間くらいなのか、それとももっと前からあったのか、わからない。ちなみに映画『教皇選挙』では、英語で「コンクレイヴ」と発音されることが多かったように思う。

ジェンダー関係の映画会をしたいから、なにかいい映画はないかと言われ、それだったら『教皇選挙』でしょうと伝えたが、ジェンダー関係というのはクィアな映画という意味でもあって、『教皇選挙』を観る映画会では、この映画のどこがジェンダー/クィアなのだとメンバーがいぶかりまくり、とうとう、大橋はついにボケたかとみんな思ったらしい――あるいはカトリックにおけるジェンダー差別というテーマを大橋は指摘しようとしたのかと好意的にとらえてた意見があったようだが、最後には、誰もがジェンダー映画であること、大橋はまだボケていない(ほとんどボケているのに)というところに落ち着いたようだ。

カトリックの女性差別については2008年の映画『ダウト―あるカトリック学校で』での一場面を思い出す。カトリック教会と、それに隣接しているカトリックの小学校があり、小学校はシスターが教員となり、となりの教会からも神父が非常勤で教えにくる。あるとき校長室で会議を行うが、メリル・ストリープ扮する校長は大きな校長専用の机を前にした校長用の椅子に座っている。他の教員/シスターたちは校長室のなかにある椅子とかソファに座っている。そこへ神父のシーモア・ホフマンが、遅れてごめんといいながら入ってくる。すると校長/メリル・ストリープはさっと立ち上がって席(校長用机に付属する上席である)を神父にゆずる。

それは年老いた神父に敬意を表して席を譲るのでもなければ(神父は校長よりも若いように思う)、あるいは授業で疲れている神父の労をねぎらって、よい席を譲るというのでもない。たとえ校長であっても、女性である以上、男性の聖職者に上席をゆずるのは当然の義務であるらしく、席を譲られた神父は礼も言わず、当然の権利として校長の椅子にすわり、ふんぞりかえり煙草を吸うのである。

これは映画におけるカトリックの女性差別を強調する一コマであって、ほかにも、たとえばシスターたちの質素な夕食と、神父たちの陽気なおしゃべりとともに食される豪勢なディナーとの対比があり、男女差は歴然としている。そしてこの格差と差別が映画の物語・事件へと連動してゆく。

『教皇選挙』でも、修道女たちは下働きで、不可視の存在とされていることは、シスター・アグネス/イザベラ・ロッセリーニが語っているとおりである。だがそれもいずれかわってゆくかもしれないという暗示が映画の最後の場面――トマス・ローレンス枢機卿/レイフ・ファインズが見習い修道女たちの姿をサンタ・マルタ館の窓から見下ろす場面――から暗示されているように思う。

あと、これは少し内容とずれるかもしれないが(まあずれたほうがネタバレにならなくていいのかもしれないが)、『教皇選挙』での出来事は、なにか日本風の成り行きにみえることが多かった。いや、日本風ではなく、普遍的なものかもしれず、普遍教会だからこそ、日本的でもあるということかもしれないが。

たとえば激論というか喧嘩になる場合――私が所属していたある大学の教授会で二人の教授が激しい応酬をし始めた。その場にいた教授会メンバーは、誰もが、困ったものだと思いつつも、どう収拾すべきかわからなかった(なお対立はイデオロギー的なものではなかった)。するとある一人の教授が立ち上がって、喧嘩状態にある二人の教授を諫め、冷静に話し合うことを懇々と諭したので、その場は、それでおさまった。映画とは異なるのだが、喧嘩を仲裁したことになったこの教授は、その後、文学部長に選ばれた。

喧嘩を仲裁するものではない。仲裁した者は、その後、責任ある立場、要職に就かされることになる。いや、喧嘩の仲裁ではなく、なんであれ、意見を言うと、その後、役職につかされるがゆえに、逆に、誰も意見を言いたがらないという、なんとも日本的な風潮があるのは確かだろう。

もちろん積極的に意見を述べる者たちは、責任ある立場に就くことになり、それはそれで適材適所ではないかと思われがちだが、しかし、野心丸出しとまでいかなくても、野心家にみえる人間、ぎらぎらした人間は、要職に就けない、もしくは嫌われるという原則がある。

「~になりたい」と口にするような人間は、なりたければ、ならせればいいのにと私などは思うのだが、日本的な風潮では、そうした人間は野心家であり用心しなければならい。そうした人間が権力を握ったら何をしでかすかわからない。

もしあなたが「~になりたい」と思っているのなら、「~には絶対になりたくない」と本心から思い、またこの場合、「~には絶対になりたくない」と口にすることも重要である。そうすると、あなたはたぶん絶対に~になってしまう。野心なき人、権力を掌中に収めても絶対に悪用しない人と判断されるからである。

だがこの日本的システムでは、なりたい人、なるために準備をしてきた人が、なれなくて、何も準備していない人が、その地位についてしまうという懸念が生ずるかもしれない。だが、適材適所を決めるのは、当人ではなく、他人である。しかもその他人とは、その地位にいやいやついた人間か、さもなくばその地位には絶対につくことがない人間である。これは不条理なシステムに思われるかもしれないが、意外と合理的な判断に基づく選抜が行なわれるかにみえる。そしてこのシステムは、『教皇選挙』における教皇選定のプロセスにおいても踏襲されているように思われのが面白いところである。あるいは普遍教会の普遍たるゆえんか。

たとえば『教皇選挙』のなかで、ある枢機卿は、教皇になりたくないと公言していたにもかかわらず、状況と周囲による圧力によって、野心を抱くようになったかにみえる。そしてさんざん迷ったあげく、投票用紙に自分の名前を書くのだが、その投票用紙を投入した、その瞬間……。まるで天罰が下ったかのような出来事が起こるのである。

最後に、冒頭ならびにエンドクレジットにおいて、俳優名を記すローマ字のなかの一文字だけが色が違っているのである。たとえばShakespeareという表記の際に、Shakespeareと太字で示した文字の色が違うのである(どの文字が色が違いになるかについて規則性はないようだ)。基本的にはライトブラウンの文字なのだが、そのなかでひとつの文字だけがライト・イェローになっている。これが気になった。

名前のなかで、一文字だけ色が違うというのは、ある意味、欠陥である。他の文字の色とそろわなかったというアクシデント。欠損ではない。なにもなくなっていないのだから。その文字の色だけがほかの文字と異なっている。色指定ミス。なんらかのミスであるように思われる。文字のなかに異物がまじっているのである。

しかし映画を観終わった観客なら、この色ミス・欠陥・事故、あるいは異物は、あってはならないこと、早急に対処すべきこと、すなわちほかの文字の色にあわせてそれでよしとするのではない、なにかポジティヴな意味を感ずるのではないか。このささやかなミスあるいは異物は、ミスではなく有益な異物である。ランダムに現れるので、統一的な原理とか原則にのっとったものでもない異物。ランダムにあわれる不統一。これはポジティヴに捉えると、何かがかわってゆくささやかな予兆のようにもみえる。あるいはこの不統一、この異物は、抑圧された何かが顕在化したともとれる。色違いの遺物としての文字は、何かの存在、あるいは登場をしめす、断裂、亀裂であり、そして開かれた窓でもある。統一的な色ではない色の文字--まさに異物。それは嘆かわしい欠陥や訂正すべきミスではなく、変化の予兆であり、はじまりの象徴であり、背後にあるなにかの象徴ともなっている。おそらくこの異物は、この映画のテーマを暗示するささやかだが、効果の大きな特異点なのである。そしてそこにかすかな希望が宿るように思われる。
posted by ohashi at 20:30| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年05月11日

『サンダーボルツ*』


ジェイク・シュライアー監督 2025年アメリカ映画

日本語のタイトルは『サンダーボルツ』となっているが、正確には『サンダーボルツ*』でしょう。★では意味がない。

正直言って面白くなかった。まあ私はマーヴェルのスーパーヒーロー物映画をほとんどまったく観ないこともあって、その物語の宇宙にまったく思い入れがないというからでもあて、ファンでなければ、その薄っぺらで安っぽい物語には退屈こそすれ、感動などするはずがない。誰が感動するのだ*。

ならばなぜ観ようと思ったのかと問われるかもしれないが、それは、男前のフローレンス・ピューが中心にいる映画のポスターを見たからである。私はフローレンス・ピューのファンで彼女の出演作なら全部観たい。

まあマーベル物でヴィランたちが、ヒーローとなって戦うというのは、逆転の意外性があって面白いのだろうが、しかし、この映画で見る限り、彼らがヴィランであるとは思えない。ヴィランではなく、B級あるいは二線級のヒーローたちであって、ある意味でヒーローたちのバッタもんである。しかも、度し難いことに、B級ヒーロー、二線級のヒーローであることを自虐的に宣伝する始末なのだ。

アヴェンジャーズなきあと、アヴェンジャーズの後を継ぐニュー・アヴェンジャーズになっておかしくないヒーローたちとはとても思えない。彼らにアヴェンジャーズの後任はむりであり、全員ボブにしてやられているのではないか。

負け犬群団である。サンダーボルツというネーミングも、負け犬のなかでも最たる負け犬であるレッド・ガーディンが勝手につけた名前で他のメンバーは誰もそれを気に入っていないばかりか、無視しているではないか*。つまりメンバーからこんなに嫌われているチーム名というのは、めったにお目にかかることはない。

*コミックスとは設定が違うようだ。

テーマはトラウマである*。え、トラウマ。「サンダーボルツ」のメンバー全員がトラウマをかかえている。そして戦う相手もトラウマである。そう、宇宙からのエイリアンとか、世界征服をたくらむプーチンとかトランプのようなスーパーヴィランとか、自然界の根源的悪と戦うのではなくて、トラウマと、つまり自分自身と戦うのである。その映像化は面白いが、しかし勝手に戦ってろ、としかいいようがない。

*トラウマTaumaは英語だと「トローマ」と発音するのが一般的だが、「トラウマ」とも発音する。DramaとTraumaを語呂あわせ的につかったタイトルの本を読んだことがある。それは「ドラマ・トラウマ」と韻を踏ませていて、「ドラマ、トローマ」では意味をなさなかった。

トラウマなど誰もが抱えている。自分のトラウマによって深く心を病み、再起不能な病的状態に苦しんでいる人は別として、誰もが大なり小なりトラウマとともに生きている。私のような70歳を超えるクソ老人となると、トラウマを消し去ることができないまま、それとつきあうしかない。ほとんどの人がそうであろう。

死に至るトラウマではないかぎり、トラウマで大騒ぎをするというのは愚かさの極みであろう。あるいは幼さの極みであろう。そう、この巨悪と戦うことなく、自己のトラウマと戦うというマスターベーションに感動するのは幼い人間にすぎない。トラウマ偏愛は、ジュヴナイルだと思っている。もともとコミックはジュヴナイルかなどといったら、その認識の古さに笑われるだろうが、この映画は、このコミックの世界の実写化映画は、誰がどう見てもジュヴナイルである。いい大人が観るような映画ではない。

ちなみにネットでは、フローレンス・ピューがかっこいいという評価とともに、バッキー・バーンズ / ウィンター・ソルジャーを演ずるセバスチャン・スタンがかっこいい、とくにバイクに乗って登場するシーンがと判で押したようにコメントしているが、なるほど、映画館では主演映画『顔を捨てた男』(A Different Man)の予告編を観たくらいだから(あんまり観たい映画ではないが)、現在、人気のある俳優なのだろう。しかも彼はまた『アプレンティス――ドナルド・トランプの創り方』(The Apprentice)で、若き日のトランプを演じている。そして『サンダーボルツ*』におけるバッキー・バーンズは、ヴァンス副大統領によく似ている。ふたりは年齢も一歳ちがいにすぎない(ヴァンス1984年8月2日生まれ、スタン1983年8月13日生まれ)。

つまりセバスチャン・スタンはトランプ大統領とヴァンス副大統領というアメリカ史上いや世界史上最悪のファシスト・カップル、いやスーパーヴィラン二人を一人で演じきった稀有な俳優ということになるし、せっかくだからファシスト・カップルを彷彿とさせるスーパーヴィランを一人二役で演じさせればよかったのだが、ジュヴナイルをつくるしか能のない制作陣にそれを望むのはむりだろうが。

私は映画『ブラック・ウィドウ』(2021)を観ていたので(内容は忘れていたが)、今作でタスクマスターがあらわれても驚かなかったが、中の人の顔がわかったとき、誰だかすぐに認識できず、記憶を探っているうちに、あっというまに殺されてしまった。え!? 驚いたが、中の人がオルガ・キュリレンコだったことを思い出して、さらに驚いた。しかも、ほんとうにあっというまに殺されてしまう。なんだこの脚本は。というか高いギャラを払うのをしぶって早々と退場してもらったのだろう。貧乏映画が。

ボブの顔をみているうちに、誰かを思い出した。そうビル・プルマンに似ていると思ったら、ビル・プルマンのほうとうに息子だった。しかし、ほんとうの息子とわかる前も、わかってからも、ビル・プルマンによく似たそっくりさん程度にしかみえなかったのは、この映画の特質ともシンクロする。メンバーのヒーローたちはみな、そっくりさんで、本物とは一線を画す、まがいものなのである。まがいものの彼らの売りはトラウマ。なさけなさすぎる。

いや、マーヴェル映画らしからぬというのがほめ言葉としてネットでは流通しているようだが、しかし、たとえばCIAの長官ヴァレンティーナ・アレグラ・デ・フォンテーヌ*。彼女は元は、あるいは今もか、O.X.E.グループを率いる実業家で、いまや絶大な権力を誇り、スーパーヒーローたちを操り、また彼らに敵対するというのは、たとえばスーパーマンにおけるレックス・ルーサーのような存在ではないか。というかおなじみのキャラではないか……。

*彼女は映画のなかではMs「ミズ」と呼ばれているのだが、字幕は「ミス」としている。間違ってそうしたなら映画会社と字幕翻訳家は地獄に落ちろ、意図的にそうしたのなら、映画会社と字幕翻訳家は地獄に落ちろ。

というかレックス・ルーサーはDCコミックスのキャラクタだった。マーヴェルとは関係がない。マーヴェル・コミックスの映画らしくないのはいいとしても、それがDCコミックスでおなじみのキャラクター・タイプに依存しているというのは、なさけなさすぎる。

観る前から――そして観た後も、あらためてわかったことは――この映画にはなんの期待もしていなかったことである。期待を裏切られることはなかった*。

*だったらなぜ観たのかといわれるがフローレンス・ピューのファンだからである。イギリスの俳優で、娼婦、夫殺しの若妻、女子プロレスラー、修道尼、貴族の娘、皇女、『リア王』のコーディリアまでを演じられる俳優はそんなにいない、いやほかにいないと思われるので。
posted by ohashi at 01:27| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年05月07日

メディアの二次加害性 4

『セクシー田中さん』事件

もうすでに1年以上の前の事件だが、『セクシー田中さん』の原作者の自殺に終わったというか、むしろそれで始まった一連の騒動というか問題提起について思うのところがあるので、またニュースとしては沈静化しつつある今、私自身の関心にひきつけて書かせていただきたい。

もちろん詳しい事情など知ることなどできないので、真実を語ることはできない。あくまでも第三者の感想にすぎないのだが、かといって全く自分自身に無関係なこととも思えないことを語ることになろう。

この事件の特徴は、原作者と脚本家の双方が憤慨していたことである。どちらも自分を被害者として認識している。そしてどちらも我慢というか忍耐を強いられたことが痛ましい。

最初に憤慨していたのは脚本を書いた相沢友子である。2023年12月24日に自身のInstagramに以下の投稿を行なった(コピー&ペイストではなく書き写しているので転写ミス、誤記、その他タイポがあるかもしれないことを前もってお詫びし、そのためにここからコピー&ペーストのなきようお願いする次第):

『セクシー田中さん』今夜最終話放送です。

最後は脚本も書きたいという原作者のたっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました。【以下略】


つづく12月28日の投稿:

『セクシー田中さん』最終回についてのコメントやDMをたくさんいただきました。まず繰り返しになりますが、私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。

ひとりひとりにお返事できず恐縮ですが、今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へと生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせます。どうか今後同じことが二度と繰り返されませんように。


この投稿では、第9話と第10話(最終回)の脚本に関われなかったことへ悔しい思いがにじみ出ている。もし最後の2話が書けなかったのなら、自分のふがいなさでいたたまれなくなるのだろが、どうも、事情があって、自分の脚本がボツにされた口ぶりである。

脚本家として途中降板(あえて野球の比喩を使わせてもらう――なぜなら適切だから)は、屈辱的である。本人はまだいける、あるいは大きなミスはしていないのに、なぜ脚本家/ピッチャーを交替しなければいけないのか。マウント上で、監督に説得されてしぶしぶ降板した。だが、それは根に持たず、ベンチに下がって、後退したピッチャーの応援をした、とまあ、そんなところだろう。

ただし屈辱的なのはそれだけではない。抑えのピッチャーとして最後の2イニングに登板したのが、なんとあろうことか原作者なのである。脚本家としての実績はない、脚本家としてはド素人の原作者が脚本家としてエース級の自分と交代したのは、どちらかというと許せないことではないだろうか。局の上層部にコネでもあるのか、この原作者は、脚本家である自分を押しのけて、自分の脚本をドラマの制作現場に押し付けた。このことはむしろ許しがたいことである。私は被害者である。これが脚本家としての言い分だろう。

「この苦い経験……。どうか今後同じことが二度と繰り返されませんように」という言葉は、このことを充分に物語っている。

しかし脚本家の相沢友子が触れていないのは、原作者が、原作と脚本とが違いすぎることに対してクレームをつけ、急遽、原作者が脚本を書くことになったということのようだ。なぜ、このことを相沢友子は触れなかったのだろう。Instagramの短いコメントでは意を尽くせないから触れなかったのかもしれない。また触れれば触れる問題が大きくなり各方面に波及することを恐れたのかもしれない。

しかしあくまでも推測だが、相沢友子のスタンスは、あくまでも自分は被害者であるということだ。原作者がクレームをつけてきたこと知っていたのか、知らなかったのか、わからないが、原作者から直接クレームがあったとしても、そんなものは無視するのが当然で、それが脚本家の誇りだと考えていたに違いない。

逆の立場で考えてもいい。原作者の芦原妃名子は優れた漫画家で人気もある。そこに漫画家ではない脚本家が割って入って、芦原妃名子を追い出して自分で漫画を描いたら、あるいは芦原妃名子がすでに描いていたところを描き直したら、芦原自身はどう思うかということである。芦原は憤慨するに違ない。

相原友子にしてみれば、最後の2話の脚本を書くという芦原妃名子の行為は、今述べたような暴挙に他ならない。原作者からの怒りの結果ということは、この暴挙に比べたら、とるにたらないことである――「どうか今後同じことが二度と繰り返されませんように」。

またここからは原作と脚本/脚色との関係になるが――脚本家にしてみれば、脚本家は原作者の奴隷ではない。

脚本家は脚本家として持てる力を最大限駆使して、今回の場合でいえば、テレビでの実写化ドラマのための脚本をつくる。そのとき試されるのは脚本家としての技量であり、出来上がった脚本は、原作と並び立つひとつの作品である。またそのためには原作を改変するのもやむを得ない。そもそも媒体が違うから、改変をしないと作品が成立しない。【この考え方は原作者からしてみると噴飯ものであって、脚本が原作と並び立つひとつの作品だと!、奴隷がなにをいうか!とったところだろう。】

原作者はその改変が気に入らないかもしれない【奴隷が書き換えた】。しかし原作者は、優れた漫画家であっても、すぐれたテレビドラマの脚本家ではないから、改変には我慢してもらうしかない。これは原作者をバカにしているのではない。むしろそうすることで原作の良さを最大限引き出すことになるのであって、原作者からは感謝の言葉こそあってしかるべきで、クレームをつけるなどもってのほかである。原作者は脚本家を原作者の奴隷と考えているのか。

とまあ、これが相原友子が考えていたことというよりも脚本家全般が考えていることだろう。

日本シナリオ作家協会が収録した脚本家たちの深夜密談という音声コンテンツ内で「私は原作者の方には会いたくない派なんですよ。私が対峙するのは原作であって、原作者の方は関係ないかなって」と述べた脚本家がいたらしい。そのコンテンツはいま削除されているので、あくまでも伝聞情報にすぎないのだが、ただそのようなコメントは、『セクシー田中さん』問題で、原作者と脚本家との関係が世間を騒がせていることを意識して、脚本家側からの意思表明をしたのだろうと推測できる。ただ、そのコンテンツが示された2024年1月29日は、芦原妃名子が亡くなった当日であって、これが物議を醸しだした。

原作者ではなく原作に向き合うというのは、文学批評の専門家にとって、常識というか、陳腐な常識であって、いわずもがなのことである。

たとえば今では誰も覚えていないのだが、20世紀に中ごろに、アメリカの新批評という新しい批評研究の流れが生まれ、それは1960年代くらいまで、アメリカの文学教育にも大きな影響をあたえることになったのだが、その理論的支柱のひとつに、Intentional Fallacyという考え方があった。これは決まった訳語がないのだが、説明的に訳せば「作者の意図を考えるという誤ち」である。文学作品は、独立した作品で、一度創造されたら、作者や時代や社会から離れて独り歩きする。作者の意図などいうものは文学作品の読解を束縛する悪しき要因であって、作者ではなく作品に向き合うべきである(これはそれまでの文学研究が、作者の伝記を調べるだけで、作品の意味とか構成とか評価を考えないことへの批判でもあった)。そもそも作者だって、その意図が作品に反映しているかどうか疑わしい。作者が思ってもみなかった効果をもたらさない作品など凡庸な作品にすぎない。こうなると作者は敬して遠ざけたほうがいい。作者などというものは「歩くインテンショナル・ファラシーIntentional Fallacy」【これは私の用語だが】である、要は邪魔者である。

向き合うべきは作者ではなく作品である。優れた作品は、作者が想定もコントロールもできない無限の読解可能性を秘めている。すぐれた作者は、自分の意図で作品を縛ったりしない【私はこの一文を書いたとき、「意図」が「糸」と語呂合わせになっていることに気づいていなかった。まさに意図していなかったのだが、私は無意識のうちに意図していたのかもしれない。そのような作者の無意識の意図は意図なのか否かはけっこうやっかいな問題である】。すぐれた作者は、自分の作品の読み方を限定しない。今回のケースでいえば、優れた原作者は脚本家の改変に文句をつけない。

【この点、誤解なきように付言すれば、私は自分の書いた文章が誤読されたり歪曲されたらクレームをつける。作者の主張が無視されたり歪曲されたりしたらたまったものではない。また多様な解釈を許す事務的文書は事務的文書として用をなさない。世の中には一元的理解を必要とする文章表現は多々ある。しかし文学作品は、多元的に理解できるからこそ、文学作品なのである。
 このような主張をおこなったアメリカ新批評家たちは多様性や多元性を重んずるクソ・リベラルと最近のクソ・ネット民やクソ・トランプ派は思うかもしれないが、新批評家たちは基本的に反共右翼で、いまのクソ・トランプ派の先祖である。一元的理解しか許容しないのは政治的・イデオロギー的文書で、そんなものは全体主義的共産主義者がありがたがっているだけである。多様性・多義性を許容する文学こそが民主的社会にふさわしい、反共的な実践であると新批評家たちは考えたのだ。
 繰り返すが、多義的事務連絡文書(つまり意味が曖昧でよくわからない事務連絡文書)は紙くずである。多義的文章表現はすぐれた文学である。】

作者は作品の創造主であって、それは尊敬に値する。しかし、一度、創造された作品は、作者とは異なる命をもちはじめる。多様なかたちで消費される。また作者の意図など無視して自由に消費されるからこそ、人気がでて、後世にまで作品が伝わるのである。

私たち一人一人は、脚本家ではないが、しかし作品を読むとき、自分の頭の中で作品の脚本を構想している。つまり自分なりに作品を改変しているのである。そんなとき、作者の指定した読み方に厳密に従わなければいけない、作者の意図を完全に把握できなくとも、可能な限り正確に把握したうえで読まなければいけないというのなら、そんな本(小説でも、随筆でも、戯曲でも、詩でも)は読むだけしんどい、いや読むに値しない。

私はシェイクスピアを研究しているが、毎年、毎月、日本のどこかでシェイクスピア劇が上演されているが、そのどれひとつとして原作に――語のあらゆる意味において――忠実なものはない。シェイクスピアが生きていれば憤慨して席を立つような演出ばかりである。しかしだからこそシェイクスピアは人気があり、古典としていまもなお生き続けている。またおそらくシェイクスピア自身、現代日本の舞台のシェイクスピア上演をみても、面白いと拍手喝采してくれるのではないか。

そう思うのは、シェイクスピア劇そのものが、既存の原作をもとに脚本を作ったものであって、シェイクスピア自身が原作者を無視している。だからこそ自身も無視される、まさに因果応報などというつもりはない。むしろ自身も無視されて作品の多様な解釈が生まれることこそ、最終的に不滅性の証になることをわかっていたのである(まあ、シェイクスピアの時代、作者には版権がなく、劇団が版権を持っていたのであるが)。

また私自身、アダプテーション(翻案)について、これまであれこれ考えてきたこともあって、脚本家による改変を高く評価したい。脚本家あるいは翻案者は、原作者の召使でも奴隷でもない。独自のアーティストであり、原作者ではなく、原作との関係で評価されるべきである。原作者と対等なのである。

しかし、それでも最初に原案を思いついた作者がいなかったら批評家も脚本家も存在できなかったし仕事もできなかった。脚本家は原作者の奴隷ではないかもしれないが、作者は創造主、神であるといったネット上の意見も多かった。

ロラン・バルトの「作者の死」をめぐる議論と、ミシェル・フーコーの「作者とは何か」をめぐる議論との両方に配慮する議論がいまは必要かもしれない。バルトの「作者の死」論は、いまここで述べたようなことを含んでいる(新批評の主張と共通性があり)。作者とは何かをつきつめて考えてゆくと、神のような無から何かを想像する創造主であるどころか、媒介者、中継地点であり、その超越性は減少するか失わされることすらあっても、確保されることはなくなるだろう。しかしたとえそうであっても「作者」は、法的には厳然たる権限をもち権威を帯び権力を行使するようになった歴史的存在であって、そのことを忘れてはならない。法的・社会的・政治的・歴史的にみて「作者」とは揺るがぬ権威をもつがゆえに、そのことを問うことが重要である。これがフーコーの議論であった。

作者は、たとえ文学批評や文学理論において、いくらその死が叫ばれようとも、現実には強い力とゆるがぬ権威をもつ存在であって、作者は尊重され守られなければならない。作者がいなければ、脚本家は不要になり、テレビドラマも創られることがない。原作者の意図なり意向なりをないがしろにする日本テレビや小学館は無神経もはなはだしく、見方によっては法令違反に問われかねない。というのが伝統的作者崇拝の考え方であり、**なネット民はこれに同調して脚本家やテレビ局そして出版社を攻撃した。

たしかに、脚本家もテレビ局も出版社も、原作者をないがしろにして、なんの罪の意識も違法性も感じてないように思われる。なぜか。

問題は、いくら原作者がエライとはいえ、だったら、なんでも好き放題にやっていいというわけでない。このことを脚本家もテレビ局も出版社も共有している、あるいは共通の認識としてもっているように思われる。

ここでべつのメタファーをもちだしたい。原作者と原作・作品との関係は、親子関係――産みの親とその子供――と考えることができる。親は、その子を、学校に預けるというか学校教育を受けさせることにする。学校側としては優秀な教員に、その子の適性をみきわめさせ、その子のもつ人より優れた才能を引き出させることにする。その結果、その子が理系の科目に興味があり理系的発想に優れた才能をみせたので、その方面の勉強を奨励し、その子も将来科学者になることを夢見るようになる。このことを知った親が学校に乗り込んでくる。なんということをしてくれたのだ。うちの子は将来、文系に進学させ、文系の人間が力を発揮できる職業に就けさせたいと考えている。それなのに学校と教員は、うちの子を好き勝手に洗脳して理系人間に仕立て上げようとしている。もう学校にはまかせられな(い。親が自宅で子供の教育を行なうことにする……。【要は、親の希望と、その子の希望(また学校側の希望)とが齟齬をきたすと考えていただければいい】

原作者を親、原作を子供、脚本家・テレビ局・出版社を学校に見立てると、学校側が親側に冷淡だった理由がみえてくる。子供は親の持ち物ではない。親が、いくら親権をもつとはいえ、子供の意志や願望を無視して子供の将来を決めていいわけがない。そのため学校側は親からの理不尽な、そして子供の人権を踏みにじるような要求に対しては断固戦うかあるいは事を荒立てないために無視するかのいずれかである。学校側は、親よりも、子供の幸福を真剣に考えている。また学校側からすれば、親と緊密な接触はどちらかというととりたくはない。その理由はわからないでもない。親は自分の子供を自分の持ち物として考えておらず、教育者のいうことなど聞こうともしないからである。

こう考えると、芦原妃名子の言動は、自分の子=作品を100%自分でコントロールしたいという願望に発したものであり、学校教育の意義とか正当性をいっさい認めず、自分の子どもにいっさい手をださせない、モンスター・ペアレントのそれのように見えてくる。こんなわがままで横暴な親、子供の幸福ではなく、子供を自分の支配下に置くことしか考えていない大馬鹿者は、批判されることすらあっても、その無理難題(今回の場合、原作者が自分で脚本を書くということ)が通るはずがないのに、通ってしまったということにある。脚本家(学校でのその子の担任)にしてみれば、怒鳴り込んできたモンスター・ペアレントに学校側が怖気づいて屈してしまったという、なんともなさけない事態になったのだ。

こう考える私は、脚本家を擁護する立場なのかと思われるかもしれないが、たしかにアダプテーションを研究する者としては、脚本家を全面的に擁護したいのだが、同時に、私の最近の経験からすると、私は書き直された原作者の立場でもあって、原作者の怒りというものもよくわかる。だからこそ、この『セクシー田中さん』問題をとりあげたのである。

次回は、原作者の側からの見解を述べてみたいが、ただ、それにしても、芦原妃名子は、私の知る限り、4作品がテレビドラマ化されている。

『砂時計』(2003年 - 2006年、全10巻)
『蝶々雲』(2002年)
『月と湖』(2007年)
『Piece』(2008~2013全10巻)

これまで脚本家が、原作の改変を脚本家の当然の権利であるかのようにして行ったことはなかったのだろうか。なかったということはありえない。あるいはこれまで我慢に我慢を重ねてきたのに今回はもう我慢ができなくなって爆発したのだろうか。

しかし原作の改変がそんなに嫌なら、最初からドラマ化を認めなければいい。まだ若い頃は、
ドラマ化のオファーを断り切れなかったかもしれないが、しかし、2020年代に入ったのだから、嫌なら嫌と断ればよかったのではないか。

この点、疑問を残しつつ、次回へ。
posted by ohashi at 19:09| コメント | 更新情報をチェックする

2025年05月04日

『新幹線大爆破』

1975年の『新幹線大爆破』(監督:佐藤純弥、出演:高倉健、千葉真一、宇津井健ほか)の「リブート版」と言われているNetflix配信の『新幹線大爆破』(監督:樋口真嗣)は、リブート版ではない。リブート版というのなら、前作『新幹線大爆破』(1975)は、なかったことにして、同じか同じような設定で新幹線に爆弾が仕掛けられた映画を作ることだが、今作では新幹線は一度爆破されていることになっている。それだけではない今作は、1975年版の世界線にあることが徐々に明らかとなる。リブート版ではなく続編である。ただし続編と最初から銘打ってしまうと内容を予測されてしまうので、あえてリブート版と嘘をついたのだろうか。

繰り返すと、リブート版というのなら、前作は抹消され、あらたな物語が立ち上げられねばならない。もし前作が抹消されることがないのなら、それは続編というべきものである。

あともうひとつ1975年版の『新幹線大爆破』は、映画『スピード』(1994年、ヤン・デ・ボン監督作)に影響をあたえたというが、今からみると、1975年版を知らない観客は、今回の『新幹線大爆破』を、『スピード』に影響を受けているとみなしかねない。バスと新幹線の違いはあれ、ともに並走したり、乗客を乗り移らせたり、最後は車両を暴走させ爆発させるなど、今回の映画は『スピード』の新幹線版である。今回、統括司令長の斎藤工が双眼鏡で電子掲示板をみるところは、1975年版の同様な場面を連想させる、前作へのオマージュとのことだが、犯人らしき人物が自宅で、爆弾を仕掛けられた新幹線のニュースを視る場面など、『スピード』の同様な場面を思い出し、『スピード』へのオマージュかと一瞬思ってしまったほどだ。

1975年版は爆弾を仕掛けたテロリストの側の視点から描かれたのだが(それゆえにJR、当時は国鉄の協力は得られなかった)、2025年版は乗務員とJR職員の側の視点から描かれ、JR職員の賢明な判断と、果敢な挑戦と、なによりその乗客を守る犠牲的精神が前面に出ていてJR側としても協力を惜しまずにはいられなかったのかもしれないが、私はこの映画を、爆弾を仕掛けられた新幹線の乗客になったかたちで受け止めた。

終点にむかって高速で突き進む列車に乗り合わせた夢というのは、フロイト的な夢解釈をすれば、運命的なものを強く感じさせる夢である。逃れられない運命にむかってひたすら突き進む列車。その行路は、明るい未来とか新たな段階へと向かうポジティヴなものではなくて、むしろ死へと行路である。もしこれが夢でのお告げなら、この夢は、もうすく死ぬあるいはあなたが死にたがっていることを暗示する。高速で突き進む列車に乗っている夢とは、だから爆弾を仕掛けられていなくても不吉な夢である。

死へとむかってひた走る列車から、首尾よく降りる、あるいは途中下車できるのなら、あなたはまだ死にたくない、あるいは死から逃れられる、もしくは死から逃れたいと望んでいることになる。夢は願望充足であるのなら、高速列車に乗る夢が伝えているのは、宿命に囚われる不安と恐怖、そこから逃れたいという願望(とその成就)である。

逆に考えると、私たちが機械的移動手段に身を任せるとき、それを運転したりコントロールするのではなく、ただ受動的に運ばれてゆくにすぎないとき、ついつい死への宿命への旅としてとらえてしまう。運ばれてゆく移動は、つねに、死への旅路であり、つねに不安と恐怖のなかにある。バスから降りるとき、電車から降りるとき、船から降りるとき、飛行機から降りるとき、私たちはつねに今日も生き延びたと無意識のうちに思う。あるいは旅路とは私たちが死と相対する時間でもある。旅路とは悪夢なのである。

だから爆弾を仕掛けられた列車というのは、特別な事例あるいは異常事態ではなく、列車がもつ無意識の部分、列車の暗黒の部分、死と隣り合わせになっている部分を、忘れないように顕在化させるものに他ならない。

広く考えれば、死へと向かう列車とは、私たちの人生である(終点は例外なく死である)。しかし私たちはこの宿命をついつい忘れてしまう。そのために時折、この列車が死と隣りあわせになっていることを意識させる爆弾を仕掛けておかねばならない。あるいはそれは腐敗した政権によって自滅へとひた走る今の日本の状況かもしれないし、狂気の国王、教皇になりたがっている国王とその狂気集団によって蹂躙されるいまのアメリカ、いや世界の状況かもしれない。

そう考えれば、『新幹線大爆破』がどのようなエンターテイメントか理解できる。それは途中下車の喜び、終点まで行かないことの、大いなる生の享受である。

映画の快楽は、メランコリックな光景のなかを移動することであるとすれば、死と破滅にむかって疾走する列車ほど、映画のメランコリーの強度を増す装置はないだろう。そしてそうした列車のなかにとらわれていることの恐怖、あるいはそのタナトスの呪縛を、最終的に下車することはわかっているものの、つかのま、味わうこと。これこそ、映画が提供する至高の戦慄と喜びにちがいない。

posted by ohashi at 08:14| 映画 | 更新情報をチェックする