2018年01月02日

辞める時が

Nothing in his lifeBecame him like the leaving it.


シェイクスピアの『マクベス』のなかにある台詞で(1.4)で、国王に反旗を翻して破れ処刑されるコーダー(耳で英語の台詞を聞くと「コード―」と聞こえるのだが)の領主について、「彼の人生のなかで、人生を捨て去るときほど、彼に似つかわしいものはなかった」と言われるのだが、不思議な台詞だと思っている。


人生を去る、つまり死ぬときほど、彼に相応しいものはなかったというのは、どういう意味だろうか。この台詞は、報告として語られるので、その時のコーダーの領主がどのような言動に及んだのかは、舞台上で示されることはない。ただポランスキー監督の映画『マクベス』(1971)では、コーダーの領主の処刑場面が映像化され、そのとき首に縄をかけられた領主は、高いところからみずから勢いをつけて飛び降りて死ぬ。命乞いをしたり、暴れて無理や突き落とされるということはない。つまり潔く死ぬ、あるいはあっぱれな死にざまなのである。


まあ、たぶんそういうことだろうと思う。だから、この台詞で言わんとしたのは、見事な死にっぷりでしたということだろう。


ただ、それでも気になるのは、だったら、そういえばいいのであって、似合っている、似つかわしいという表現は、やはりなにかひっかかる。つまり行為ではなく性格について語っているように思われる。つまり彼は、王様になるときには、なにかぎこちなく、その地位にふさわしい威厳とか権威を欠いていて、王様には、似合っていないように思えるのだが、王様をやめるとき、戦いに敗れたとか、暗殺されるとか、没落とか、退位させられるとか、処刑されるとか、そういう時には、実によく似合っていた、いかにも没落する王者、退位する王者に似合っていたという意味になる。


これはこじつけめいた説明ではない。『マクベス』には体に合わない衣服のイメージがある。新しい地位の服が似合っていないということから、体に似合わない衣服を身に着けて芸をしたり笑いをとったりする道化にそっくりという暗示がある。また人生は歩く影法師というように人間は役者、人生は演劇、世界は舞台という世界劇場のイメージもある。だから、王様もふくめ、なんらかの地位なり役割と、それをうまく演じられるか演じられないかという役割演技のテーマは通奏低音のように作品の底流にある。


そのため、こうなるのだろう。コーダーの領主は、領主の演技はあまりうまくなかったけれども、領主をやめるとき、没落するとき、処刑されるときは、実にうまく演じた、てらいも気負いも迷いもなく、敗北し処刑される人間を堂々と演じきった。あるいは領主という立場とは相性がよくなかったけれども、だめ領主、領主失格というときの演技は、たぶん本人の性格と相性がよく、違和感がなかったということになる。


もちろんこれは悲劇一般についてもいえて、主人公は、その役割をやめるとき、人生から降りる時が一番似合っているのである。また相手を非難するときにも使える。その役割、あなたには荷が重かった、いまこうして辞任するとか退職するときこそ、あなたに一番似合っている、つまりあなたはその器じゃなかったというような。まあ、学生には、私は責任をもたないけれども、誰か嫌な人がいたら、こう言ってやるといいよ、と(なお、これはいさぎよく辞めたという意味にもなるので、必ずしも一元的に非難の言葉にならないかもしれないが)。


とはいえ、こういう冗談も冗談でなくなってきた。私自身が2018年をもって、この職を辞めることになったからだ。あいつは、この職の器じゃなかった。だから、こうして辞めるときが、あいつに一番似つかわしい。辞める時が一番似合っていた……。まあ、そう思っていても、また自分でもそう思っているのだが、どうか情けをかけて、言わないでね。なさけなくなり、悲しくもなるので。

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2018年01月01日

年頭の所感

手帳は4月はじまりにしているので、年末に手帳を買い替え、元旦に一年の目標を書くというような習慣はなくなった。とはいえ持ちあるくのではない、机上用の少し大きめの手帳、それも1月はじまりの手帳を、ちょっとした記録用として購入していて、その最初のページに一年の目標を書くこともある。


サミュエル・ベケットの『クラップ最後のテープ』は、主人公の老人クラップが、若い頃から毎年誕生日にテープレコーダーに録音していた所感を、誕生日に聞き直すというだけの芝居だが、これがけっこう人気があって、よく上演される。この芝居のポイントは、老人となったクラップにとって若い頃に録音した内容が、まったく意味不明のものとなってしまうということである。若き日、失恋によって絶望の淵に立たされながらも、芸術家として畢生の大作を完成させるという決意を述べる録音も、老人のクラップには、何一つ訴えかけないのである。最後に呆然として虚空をみつめるクラップ。なんという悲劇。おそらくこれは誰の人生にも起こりうることだろう。まさに不条理としての人生。


だが、ベケットの芝居を見て、これが不条理としての人生だと言っていられるうちは、まだ不条理を生きていないともいえる。というのも、机上の手帳の最初のページに昨年の正月、私は一年の目標を箇条書きにして書いていることを発見したからである。たんに気まぐれで書いているわけではない。けっこう考え抜かれていて、計画のひとつ、ひとつに完了する月まで設定している。ある計画など、3月末を最初の計画完了日として、もし、その日までに完了できなければ、5月末日までには完了することと、計画の変更や延長までも視野に入れたメモを残している。


驚くのは、昨年の正月に書いた計画について、どれひとつとして実現あるいは完了しなかったことだ。それどころか、昨年の正月に計画を練って、大判の手帳に書き込んだことすら、忘れていたのだ。ああ、クラップの最後の手帳。これこそ不条理……


posted by ohashi at 01:02| コメント | 更新情報をチェックする

2017年12月31日

『アテネのタイモン』2

この作品の現代性というのは、弁証法を拒んでいるところである。またそれゆえに、すごく面白い芝居だが釈然としないものが残るし、そしてその違和感が、現代性へと私たちを導くカギとなるのである。


彩の国さいたま芸術劇場の見事な公演をご覧なった方なら、シェイクスピア作品の特異性をつぶさに見て取られたと思うのだが、その一番の要因は、前半と後半に分かれるプロットにおいて、本来なら、またそうなってしかるべきなのだが、前半の世界とは、まったく対照的な後半の世界が、それほど対照的でもなければ、また本来大きな差異があって当然のところ、差異がないことによる。


たとえば前半でタイモンは、たかるだけたかって、困った時には援助してくれないハイエナのような友人たちに、復讐すべく、石を食わせる宴会をもよおしたのち、森で隠者のような生活をはじめる。本来なら、都市(アテネ)から森の世界に移行し、そこで贅沢三昧とも無縁な、またハイエナのような友人たちもいないなかで、時には呪いつつも、穏やかな日々を送ることになろうという展開を期待するのだが、そうはいかない。


正・反・合という弁証法の三段階のうち、都市での富豪としての大盤振る舞いの生活から、無一文だが心穏やかな牧歌的生活への移行は、「正」から「反」への移行であり、その先、富豪生活でもなければ、乞食生活でもない、贅沢すぎることもなければ貧窮生活でもない、ちょうどいい質素で豊かな生き様というのが立ちあがれば、「合」が実現して、弁証法的進化が完了する。シェイクスピアは『タイモン』でこれを拒む。というのも無一文になって森で隠遁生活を始めるタイモンは、森のなかの埋蔵金貨を発見する。そしてこの金貨をもらうべく、タイモンのもとへ人が集まってくる。何も変わっていない。前半の問題のある世界から縁を切ったはずの、後半の世界もまた前半と同じ、前半の反復にすぎなくなり、「反」へと移行はできないのである。


写真のネガとポジという比喩は、若い人にはわからなくなっているのではと思い、良い比喩なのだが最近は使うのをあきらめ、そのかわりに、もっと古いところの、絨毯の裏表という比喩を最近は多用している。その比喩でいえば、『タイモン』の前半と後半は、絨毯の裏と表みたいなもので、物語の輪郭は同じなのである。ただ見え方が違うのだが、しかし、同じ物語の反復であって、発展性はない。同じ物語を趣向を変えてもう一度見せられているだけで、その先がない。絨毯の模様をひっくり返して裏から見ているだけというのが、この芝居なの


たとえばタイモンは、前半では、財力にまかせて贅沢三昧の大盤振る舞いをする。それはタイモンのゲストにありがたがられるというよりも、ゲストからは利己的な欲望しか引き出さない。見境のない大盤振る舞いは、最終的に贈与者も授与者も、ともに堕落させてしまう。タイモンの友人と目されていた人は、タイモンが金に困るようになると助けるどこから見向きもしなくなるが、タイモンの財力が回復したと知ると(実はフェイク・ニュースなのだが)、またおこぼれにあずかろうと集まってくる。ハイエナである。だが、同時に、タイモン自身にも問題があり、そうした大盤振る舞いは善意によって恩恵を施そうとするよりも、自己満足であり自己尊大化が垣間見え、ひそかにゲストのなかに悪意をはぐくんでいるのではないかと思われる。ゲストたちは、生まれながらのハイエナなのか(そうだととれるのだが)、同時に、ハイエナにさせられているようにもみえる。


そして財産が尽きる。破産したタイモンは、森での隠遁生活をはじめる。だが、このときもタイモンは見境のない大盤振る舞いをするのだ。忘恩の徒にむかって悪罵を投げつけるだけではない。人間そのもののあさましさを、呪い続けるのだが。それは見境のない善意の大盤振る舞いのネガ、いや絨毯の裏にすぎない。どちらも限界のある極端から極端へと移行するだけで中間がない行為、あるいは前半の反復に過ぎない後半でしかない。


このことは作中で、みんなから犬と呼ばれているアペマンティスが指摘しているところである。「犬呼ばわり」については最初読んだときには気づかなかったが、いまようやくにして、蔑称だが、同時にギリシアの「犬儒派」哲学者たちのことでもあると気づいた――気づくの遅くなりすぎたのだが。極端から極端へ、そして中間がないというのは「正・反・合」の弁証法の過程において「正・正」とつづくだけで、「反・合」への転換が立たれていることを意味する。


こうしたタイモンの絨毯の裏でしかない反復行為は、先がなく、救いもないのだが、それと対照的にアテネを追放された武将アルシバイアディーズは、アテネの支配層の悪辣さにうんざりして追放処分を受け入れるのだが、タイモンのようにアテネを呪い、アテネを攻撃するのだが、タイモンとは異なり、最終的にアテネの人びとと和解する。そこにはタイモンと同じくアテネの人びとを呪う立場にあるのだが、タイモンと異なり、アテネと交渉し、最後には寛容な態度を示して赦しを与え、アテネ市民に英雄として迎い入れられることから、タイモンを問題のある、救いのない存在とすれば、同じ境遇にあってもアルシバイアディーズは、一歩先に行き、和解を求め、止揚(アウフヘーベン)を達成する。


と、そう考えていたのだが、今回、舞台でアルシバイアディーズをみると、あながちそうではないのではと思えてきた――これは決して演出のせいではなく、私の偽らざる感想なである。つまりアルシバイアディーズも、タイモンという絨毯の表模様に対する絨毯の裏だとしかみえなくなった。彼が英雄としてアテネに凱旋することをタイモンとは一線を画す賢明な行為とみるのは、間違いで、その賢明かつ寛容な姿勢も、全世界を呪うタイモンの呪いの対立物というよりも裏面、同様の反復にすぎないのではと思えてきた。むしろいっさいの和解を拒み排除しつづけるタイモンのほうが潔く、和解し赦すアルシバイアディーズのほうこそ狡猾な二枚舌的政治家のようにもみえてしまう。


そう、もしそう考えれば、弁証法の拒否は、弁証法の安易さ、そこにひそむ問題の隠蔽などを見抜いた作者が、あえて和解をせず、消えていくタイモンのほうに、救いはない、その人生に、ある種の可能性をみたといえなくもないのだ。


そしてまさにそれが『アテネのタイモン』を現代に開かせる原動力となったのではないかと思う。今回の上演をみて、あらためて、この劇の特異性と現代性に思いをはせないではいられなかった。


今回の吉田鋼太郎演出・主演の『アテネのタイモン』は彩の国さいたま芸術劇場では29日に上演が終わったが、他の場所でも成功を収めることを確信している。

posted by ohashi at 06:42| 演劇 | 更新情報をチェックする