『セクシー田中さん』事件
もうすでに1年以上の前の事件だが、『セクシー田中さん』の原作者の自殺に終わったというか、むしろそれで始まった一連の騒動というか問題提起について思うのところがあるので、またニュースとしては沈静化しつつある今、私自身の関心にひきつけて書かせていただきたい。
もちろん詳しい事情など知ることなどできないので、真実を語ることはできない。あくまでも第三者の感想にすぎないのだが、かといって全く自分自身に無関係なこととも思えないことを語ることになろう。
この事件の特徴は、原作者と脚本家の双方が憤慨していたことである。どちらも自分を被害者として認識している。そしてどちらも我慢というか忍耐を強いられたことが痛ましい。
最初に憤慨していたのは脚本を書いた相沢友子である。2023年12月24日に自身のInstagramに以下の投稿を行なった(コピー&ペイストではなく書き写しているので転写ミス、誤記、その他タイポがあるかもしれないことを前もってお詫びし、そのためにここからコピー&ペーストのなきようお願いする次第):
『セクシー田中さん』今夜最終話放送です。
最後は脚本も書きたいという原作者のたっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました。【以下略】
つづく12月28日の投稿:
『セクシー田中さん』最終回についてのコメントやDMをたくさんいただきました。まず繰り返しになりますが、私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。
ひとりひとりにお返事できず恐縮ですが、今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へと生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせます。どうか今後同じことが二度と繰り返されませんように。
この投稿では、第9話と第10話(最終回)の脚本に関われなかったことへ悔しい思いがにじみ出ている。もし最後の2話が書けなかったのなら、自分のふがいなさでいたたまれなくなるのだろが、どうも、事情があって、自分の脚本がボツにされた口ぶりである。
脚本家として途中降板(あえて野球の比喩を使わせてもらう――なぜなら適切だから)は、屈辱的である。本人はまだいける、あるいは大きなミスはしていないのに、なぜ脚本家/ピッチャーを交替しなければいけないのか。マウント上で、監督に説得されてしぶしぶ降板した。だが、それは根に持たず、ベンチに下がって、後退したピッチャーの応援をした、とまあ、そんなところだろう。
ただし屈辱的なのはそれだけではない。抑えのピッチャーとして最後の2イニングに登板したのが、なんとあろうことか原作者なのである。脚本家としての実績はない、脚本家としてはド素人の原作者が脚本家としてエース級の自分と交代したのは、どちらかというと許せないことではないだろうか。局の上層部にコネでもあるのか、この原作者は、脚本家である自分を押しのけて、自分の脚本をドラマの制作現場に押し付けた。このことはむしろ許しがたいことである。私は被害者である。これが脚本家としての言い分だろう。
「この苦い経験……。どうか今後同じことが二度と繰り返されませんように」という言葉は、このことを充分に物語っている。
しかし脚本家の相沢友子が触れていないのは、原作者が、原作と脚本とが違いすぎることに対してクレームをつけ、急遽、原作者が脚本を書くことになったということのようだ。なぜ、このことを相沢友子は触れなかったのだろう。Instagramの短いコメントでは意を尽くせないから触れなかったのかもしれない。また触れれば触れる問題が大きくなり各方面に波及することを恐れたのかもしれない。
しかしあくまでも推測だが、相沢友子のスタンスは、あくまでも自分は被害者であるということだ。原作者がクレームをつけてきたこと知っていたのか、知らなかったのか、わからないが、原作者から直接クレームがあったとしても、そんなものは無視するのが当然で、それが脚本家の誇りだと考えていたに違いない。
逆の立場で考えてもいい。原作者の芦原妃名子は優れた漫画家で人気もある。そこに漫画家ではない脚本家が割って入って、芦原妃名子を追い出して自分で漫画を描いたら、あるいは芦原妃名子がすでに描いていたところを描き直したら、芦原自身はどう思うかということである。芦原は憤慨するに違ない。
相原友子にしてみれば、最後の2話の脚本を書くという芦原妃名子の行為は、今述べたような暴挙に他ならない。原作者からの怒りの結果ということは、この暴挙に比べたら、とるにたらないことである――「どうか今後同じことが二度と繰り返されませんように」。
またここからは原作と脚本/脚色との関係になるが――脚本家にしてみれば、脚本家は原作者の奴隷ではない。
脚本家は脚本家として持てる力を最大限駆使して、今回の場合でいえば、テレビでの実写化ドラマのための脚本をつくる。そのとき試されるのは脚本家としての技量であり、出来上がった脚本は、原作と並び立つひとつの作品である。またそのためには原作を改変するのもやむを得ない。そもそも媒体が違うから、改変をしないと作品が成立しない。【この考え方は原作者からしてみると噴飯ものであって、脚本が原作と並び立つひとつの作品だと!、奴隷がなにをいうか!とったところだろう。】
原作者はその改変が気に入らないかもしれない【奴隷が書き換えた】。しかし原作者は、優れた漫画家であっても、すぐれたテレビドラマの脚本家ではないから、改変には我慢してもらうしかない。これは原作者をバカにしているのではない。むしろそうすることで原作の良さを最大限引き出すことになるのであって、原作者からは感謝の言葉こそあってしかるべきで、クレームをつけるなどもってのほかである。原作者は脚本家を原作者の奴隷と考えているのか。
とまあ、これが相原友子が考えていたことというよりも脚本家全般が考えていることだろう。
日本シナリオ作家協会が収録した脚本家たちの深夜密談という音声コンテンツ内で「私は原作者の方には会いたくない派なんですよ。私が対峙するのは原作であって、原作者の方は関係ないかなって」と述べた脚本家がいたらしい。そのコンテンツはいま削除されているので、あくまでも伝聞情報にすぎないのだが、ただそのようなコメントは、『セクシー田中さん』問題で、原作者と脚本家との関係が世間を騒がせていることを意識して、脚本家側からの意思表明をしたのだろうと推測できる。ただ、そのコンテンツが示された2024年1月29日は、芦原妃名子が亡くなった当日であって、これが物議を醸しだした。
原作者ではなく原作に向き合うというのは、文学批評の専門家にとって、常識というか、陳腐な常識であって、いわずもがなのことである。
たとえば今では誰も覚えていないのだが、20世紀に中ごろに、アメリカの新批評という新しい批評研究の流れが生まれ、それは1960年代くらいまで、アメリカの文学教育にも大きな影響をあたえることになったのだが、その理論的支柱のひとつに、Intentional Fallacyという考え方があった。これは決まった訳語がないのだが、説明的に訳せば「作者の意図を考えるという誤ち」である。文学作品は、独立した作品で、一度創造されたら、作者や時代や社会から離れて独り歩きする。作者の意図などいうものは文学作品の読解を束縛する悪しき要因であって、作者ではなく作品に向き合うべきである(これはそれまでの文学研究が、作者の伝記を調べるだけで、作品の意味とか構成とか評価を考えないことへの批判でもあった)。そもそも作者だって、その意図が作品に反映しているかどうか疑わしい。作者が思ってもみなかった効果をもたらさない作品など凡庸な作品にすぎない。こうなると作者は敬して遠ざけたほうがいい。作者などというものは「歩くインテンショナル・ファラシーIntentional Fallacy」【これは私の用語だが】である、要は邪魔者である。
向き合うべきは作者ではなく作品である。優れた作品は、作者が想定もコントロールもできない無限の読解可能性を秘めている。すぐれた作者は、自分の意図で作品を縛ったりしない【私はこの一文を書いたとき、「意図」が「糸」と語呂合わせになっていることに気づいていなかった。まさに意図していなかったのだが、私は無意識のうちに意図していたのかもしれない。そのような作者の無意識の意図は意図なのか否かはけっこうやっかいな問題である】。すぐれた作者は、自分の作品の読み方を限定しない。今回のケースでいえば、優れた原作者は脚本家の改変に文句をつけない。
【この点、誤解なきように付言すれば、私は自分の書いた文章が誤読されたり歪曲されたらクレームをつける。作者の主張が無視されたり歪曲されたりしたらたまったものではない。また多様な解釈を許す事務的文書は事務的文書として用をなさない。世の中には一元的理解を必要とする文章表現は多々ある。しかし文学作品は、多元的に理解できるからこそ、文学作品なのである。
このような主張をおこなったアメリカ新批評家たちは多様性や多元性を重んずるクソ・リベラルと最近のクソ・ネット民やクソ・トランプ派は思うかもしれないが、新批評家たちは基本的に反共右翼で、いまのクソ・トランプ派の先祖である。一元的理解しか許容しないのは政治的・イデオロギー的文書で、そんなものは全体主義的共産主義者がありがたがっているだけである。多様性・多義性を許容する文学こそが民主的社会にふさわしい、反共的な実践であると新批評家たちは考えたのだ。
繰り返すが、多義的事務連絡文書(つまり意味が曖昧でよくわからない事務連絡文書)は紙くずである。多義的文章表現はすぐれた文学である。】
作者は作品の創造主であって、それは尊敬に値する。しかし、一度、創造された作品は、作者とは異なる命をもちはじめる。多様なかたちで消費される。また作者の意図など無視して自由に消費されるからこそ、人気がでて、後世にまで作品が伝わるのである。
私たち一人一人は、脚本家ではないが、しかし作品を読むとき、自分の頭の中で作品の脚本を構想している。つまり自分なりに作品を改変しているのである。そんなとき、作者の指定した読み方に厳密に従わなければいけない、作者の意図を完全に把握できなくとも、可能な限り正確に把握したうえで読まなければいけないというのなら、そんな本(小説でも、随筆でも、戯曲でも、詩でも)は読むだけしんどい、いや読むに値しない。
私はシェイクスピアを研究しているが、毎年、毎月、日本のどこかでシェイクスピア劇が上演されているが、そのどれひとつとして原作に――語のあらゆる意味において――忠実なものはない。シェイクスピアが生きていれば憤慨して席を立つような演出ばかりである。しかしだからこそシェイクスピアは人気があり、古典としていまもなお生き続けている。またおそらくシェイクスピア自身、現代日本の舞台のシェイクスピア上演をみても、面白いと拍手喝采してくれるのではないか。
そう思うのは、シェイクスピア劇そのものが、既存の原作をもとに脚本を作ったものであって、シェイクスピア自身が原作者を無視している。だからこそ自身も無視される、まさに因果応報などというつもりはない。むしろ自身も無視されて作品の多様な解釈が生まれることこそ、最終的に不滅性の証になることをわかっていたのである(まあ、シェイクスピアの時代、作者には版権がなく、劇団が版権を持っていたのであるが)。
また私自身、アダプテーション(翻案)について、これまであれこれ考えてきたこともあって、脚本家による改変を高く評価したい。脚本家あるいは翻案者は、原作者の召使でも奴隷でもない。独自のアーティストであり、原作者ではなく、原作との関係で評価されるべきである。原作者と対等なのである。
しかし、それでも最初に原案を思いついた作者がいなかったら批評家も脚本家も存在できなかったし仕事もできなかった。脚本家は原作者の奴隷ではないかもしれないが、作者は創造主、神であるといったネット上の意見も多かった。
ロラン・バルトの「作者の死」をめぐる議論と、ミシェル・フーコーの「作者とは何か」をめぐる議論との両方に配慮する議論がいまは必要かもしれない。バルトの「作者の死」論は、いまここで述べたようなことを含んでいる(新批評の主張と共通性があり)。作者とは何かをつきつめて考えてゆくと、神のような無から何かを想像する創造主であるどころか、媒介者、中継地点であり、その超越性は減少するか失わされることすらあっても、確保されることはなくなるだろう。しかしたとえそうであっても「作者」は、法的には厳然たる権限をもち権威を帯び権力を行使するようになった歴史的存在であって、そのことを忘れてはならない。法的・社会的・政治的・歴史的にみて「作者」とは揺るがぬ権威をもつがゆえに、そのことを問うことが重要である。これがフーコーの議論であった。
作者は、たとえ文学批評や文学理論において、いくらその死が叫ばれようとも、現実には強い力とゆるがぬ権威をもつ存在であって、作者は尊重され守られなければならない。作者がいなければ、脚本家は不要になり、テレビドラマも創られることがない。原作者の意図なり意向なりをないがしろにする日本テレビや小学館は無神経もはなはだしく、見方によっては法令違反に問われかねない。というのが伝統的作者崇拝の考え方であり、**なネット民はこれに同調して脚本家やテレビ局そして出版社を攻撃した。
たしかに、脚本家もテレビ局も出版社も、原作者をないがしろにして、なんの罪の意識も違法性も感じてないように思われる。なぜか。
問題は、いくら原作者がエライとはいえ、だったら、なんでも好き放題にやっていいというわけでない。このことを脚本家もテレビ局も出版社も共有している、あるいは共通の認識としてもっているように思われる。
ここでべつのメタファーをもちだしたい。原作者と原作・作品との関係は、親子関係――産みの親とその子供――と考えることができる。親は、その子を、学校に預けるというか学校教育を受けさせることにする。学校側としては優秀な教員に、その子の適性をみきわめさせ、その子のもつ人より優れた才能を引き出させることにする。その結果、その子が理系の科目に興味があり理系的発想に優れた才能をみせたので、その方面の勉強を奨励し、その子も将来科学者になることを夢見るようになる。このことを知った親が学校に乗り込んでくる。なんということをしてくれたのだ。うちの子は将来、文系に進学させ、文系の人間が力を発揮できる職業に就けさせたいと考えている。それなのに学校と教員は、うちの子を好き勝手に洗脳して理系人間に仕立て上げようとしている。もう学校にはまかせられな(い。親が自宅で子供の教育を行なうことにする……。【要は、親の希望と、その子の希望(また学校側の希望)とが齟齬をきたすと考えていただければいい】
原作者を親、原作を子供、脚本家・テレビ局・出版社を学校に見立てると、学校側が親側に冷淡だった理由がみえてくる。子供は親の持ち物ではない。親が、いくら親権をもつとはいえ、子供の意志や願望を無視して子供の将来を決めていいわけがない。そのため学校側は親からの理不尽な、そして子供の人権を踏みにじるような要求に対しては断固戦うかあるいは事を荒立てないために無視するかのいずれかである。学校側は、親よりも、子供の幸福を真剣に考えている。また学校側からすれば、親と緊密な接触はどちらかというととりたくはない。その理由はわからないでもない。親は自分の子供を自分の持ち物として考えておらず、教育者のいうことなど聞こうともしないからである。
こう考えると、芦原妃名子の言動は、自分の子=作品を100%自分でコントロールしたいという願望に発したものであり、学校教育の意義とか正当性をいっさい認めず、自分の子どもにいっさい手をださせない、モンスター・ペアレントのそれのように見えてくる。こんなわがままで横暴な親、子供の幸福ではなく、子供を自分の支配下に置くことしか考えていない大馬鹿者は、批判されることすらあっても、その無理難題(今回の場合、原作者が自分で脚本を書くということ)が通るはずがないのに、通ってしまったということにある。脚本家(学校でのその子の担任)にしてみれば、怒鳴り込んできたモンスター・ペアレントに学校側が怖気づいて屈してしまったという、なんともなさけない事態になったのだ。
こう考える私は、脚本家を擁護する立場なのかと思われるかもしれないが、たしかにアダプテーションを研究する者としては、脚本家を全面的に擁護したいのだが、同時に、私の最近の経験からすると、私は書き直された原作者の立場でもあって、原作者の怒りというものもよくわかる。だからこそ、この『セクシー田中さん』問題をとりあげたのである。
次回は、原作者の側からの見解を述べてみたいが、ただ、それにしても、芦原妃名子は、私の知る限り、4作品がテレビドラマ化されている。
『砂時計』(2003年 - 2006年、全10巻)
『蝶々雲』(2002年)
『月と湖』(2007年)
『Piece』(2008~2013全10巻)
これまで脚本家が、原作の改変を脚本家の当然の権利であるかのようにして行ったことはなかったのだろうか。なかったということはありえない。あるいはこれまで我慢に我慢を重ねてきたのに今回はもう我慢ができなくなって爆発したのだろうか。
しかし原作の改変がそんなに嫌なら、最初からドラマ化を認めなければいい。まだ若い頃は、
ドラマ化のオファーを断り切れなかったかもしれないが、しかし、2020年代に入ったのだから、嫌なら嫌と断ればよかったのではないか。
この点、疑問を残しつつ、次回へ。