2024年10月28日

『八犬伝』1

曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』ならびにその翻案(小説、映画、アニメなど)については、まったく無知で、子供向けのダイジェスト版を読んだ記憶もない。そのため今回の映画『八犬伝』(曽利文彦監督2024年)については、無知なるがゆえに新鮮な驚きに開かれている映画鑑賞者として接することになった。

おそらく私だけでなく、私と同様の予備知識のない観客は、馬琴が28年もかけて完成させた『南総里見八犬伝』というのは、こんなあっさりした単純な物語なのかと唖然とするかもしれない。ただし、プレス機でぺしゃんこにされスクラップ処理された自動車だったものの塊を前に、圧縮される前はどんな姿だったのだろうと推測する苦悩と楽しみはある。

今回の『南総里見八犬伝』パートは、ダイジェストの度合いを超えて、しかも翻案の域も超えているように思えるのだが、それは、滝沢馬琴と葛飾北斎とのからみのパートと平行して示される八犬士の物語が、あくまでも物語の一部、見所的なものの断片的紹介というかたち(つまり語られざる多くの部分があることを暗示する)ではなくて、独立し完結する一連の物語の流れを重視するかたちで提示される(つまりつなぎ合わせればダイジェスト版あるいは全体の要約となる)ために、八犬士のパートが薄っぺらくならざるをえなかったのではないか。ただし、その分、『南総里見八犬伝』というのは、ほんとうはどういう物語だったのか読んでみたいという知の欲望を掻き立てるのなら、それはそれで予期せぬ副次的効果が生まれたといえなくもない。

と同時に、今回思ったことは、曲亭馬琴は長い物語を書きすぎた。どのような要約でも、あるいはダイジェストでも、数多あるエピソードの妥当な再現はむつかしい。そのため翻案が常態化する。いや翻案というよりも改変が常態化する。そもそも、全編を読破した読者は少ないだろうから、どこがどう違うなどの指摘などできない。そうなると変えたい放題、翻案天国である。実際、今回の映画版に限らず、これまでの映画版すべてを、もし曲亭馬琴が見たら、原作とのあまりの乖離に抗議のために切腹してもおかしくないだろう。馬琴にとって翻案は地獄である。

『八犬伝』のなかで、鶴屋南北との奈落における対決は見せ場のひとつだが、その議論の内容は別にして、劇作家なら翻案に対する許容度は高い(そもそも『東海道四谷怪談』自体が、映画のなかで示されているように『忠臣蔵』の翻案であり、『忠臣蔵』を反転させた『裏忠臣蔵』でもある)。また翻案をいうのなら、戯曲の舞台化そのものが、まさにその戯曲の初演という起源そのものが、翻案、それも数多ある翻案の可能性のひとつにすぎないのだから。劇作家は、ひどい翻案に対しても抗議の切腹は絶対にしない。

芸術作品の評価は、受容の歴史と切り離せない。そのため翻案の百花繚乱(とはいいすぎかもしれないが)が『南総里見八犬伝』を今日至るまで永らえ続けさせてきた原因ともいえるのである。

ただし『南総里見八犬伝』の翻案は翻案でもないだろう。たとえば『ハムレット』を現代社会の出来事に置き換えた場合、オリジナルのどこをどう修正したのか補完したのかを通して翻案の意味が明確になるし、逆にオリジナルの特徴もまた明確になるのだが、『南総里見八犬伝』の場合、翻案が、オリジナルのどこをどう変えたのか専門家でないとわからないし、逆に翻案がオリジナルに光を当てることもない――オリジナルが何かわからないのだから。

たとえば『水滸伝』を基にして長編小説を書くとしよう(というか実際にたくさん書かれてきた)。その場合、べつに現代化をおこなわなくても、翻案となるし、そうみなされるのだが、同時に、その翻案を通して読者は名のみ有名なオリジナルの内容を想像する。そしてそれが、オリジナルを生きながらえさせる契機ともなる。

【ここでは議論を単純化している。『水滸伝』の場合、オリジナルは二種類ある。またさらに厳密に考えるとオリジナルが増える可能性もあろう。複数あるオリジナルというのは、本来、オリジナルではない。ただそもそもオリジナルという考え方自体が、複数多様性を一本化する抑圧的なものであることを忘れてはならないのだが】

だが古典とはそういうものだろう。古典は敬意を払われるが、同時に、古典はどんどん書き直される。『水滸伝』は原典として存在している、同時に、その数多くの書き直し(中には劣悪な書き直しさらには揶揄的な翻案もあろう)もまた『水滸伝』ユニヴァースを形成し、それ自体が、オリジナル『水滸伝』と切り離せない一部となる。

『南総里見八犬伝』も、オリジナルを無視したかたちで、あるいは改変・改悪したかたちで書き直され翻案される(コミック、アニメ、絵本にまでなる)のだが、それは『南総里見八犬伝』が、『水滸伝』と同じような古典の地位を獲得したからだといえないこともない。そうであるなら馬琴も腹を切らずに済むかもしれない--とはいえこの理屈を石頭の馬琴が理解できるとも思えないのだが。

翻案の百花繚乱なくして古典は存在しない。これはまた翻案という二次創作が独り立ちをして独創性を発揮してオリジナル化する可能性を包含している。

たとえば『南総里見八犬伝』における終盤、「関東大戦」(Wikipediaの表記)が起こる。
関東大戦
文明15年(1483年)冬、犬士たちを恨む扇谷定正は、山内顕定・足利成氏らと語らい、里見討伐の連合軍を起こした。里見家は犬士たちを行徳口・国府台・洲崎沖の三方面の防禦使として派遣し、水陸で合戦が行われた。京都から帰還した親兵衛や、行方不明になっていた政木大全も参陣し、里見軍は各地で大勝利を収め、諸将を捕虜とした。【Wikipedia】

という説明になる。映画『八犬伝』では、八犬士をひとつにまとめてはならないという「玉梓」の予言に逆らうかたちで八犬士が一丸となってラスボスのような化け猫(玉梓の化身)を倒すのだが、上記の「関東大戦」の説明からすると、オリジナルはそのような物語になっていない。

八犬士は三方面に別れて関八州の連合軍と相対する。里見側の陸戦部隊の陣容は、行徳方面では犬川荘助大将、犬田小文吾が副将となり、8500人を率い、敵側は2万人。いっぽう国府台方面では犬塚信乃が大将、犬飼現八が副将となり、9500人を率い、敵側は3万8千人。このほか水軍もあるのだが、この陣容をみると、映画『八犬伝』とは様子が異なる。

力を合わせて戦う八人の犬士物語は、秘密戦隊ゴレンジャーからはじまるスーパー戦隊シリーズの元祖だともいわれているのだが、馬琴が終盤の関東大戦で描こうとしているのは、八人の刺客のような八犬士ではなく、指揮官、武将としての八犬士である。関東大戦の直前に壮絶な仇討ちをおこなった犬坂毛野は、関東大戦では軍師である(「智」の球を持っている)。馬琴の念頭にあるのは、スーパー戦隊物ではなく、中国の水滸伝や三国志にあるような壮大な合戦とそこで活躍する将軍とか軍師の姿である。

となると馬琴の『八犬伝』に近いのは、スーパー戦隊物ではなく、コミック・アニメ・映画の『キングダム』である。中国の春秋戦国時代末期を舞台に展開するこの作品こそが、馬琴の『八犬伝』終盤の世界に通じているともいえる。

実際、信乃、現八、荘助、小文吾らは、『キングダム』風にいうのなら、先頭に立って戦う三千人将、五千人将いや将軍かもしれない。軍師毛野は、李牧や昌平君といった天才軍師の面影がある(彼らは知略の士だとしても、同時に有能な戦士でもある)。中国の大平原や山領の和風版である関東平野と周辺の山地で戦闘が行われる。里見家の領地に侵入する関八州の連合軍は、これはもう連合軍というよりも「合従軍」というべきものだろう。実際、馬琴に「合従軍」という名称を提案したら、おそらく喜んでその提案を受け入れたにちがいない。

だが中国の古典における戦記に似せて八犬士と合従軍との戦いを描くというのが、馬琴のオリジナルな意図だとしたら、次に考えるべきは、そこには無理があり、物語とか全体の設定からしても似つかわしくないということだろう。八犬士たちは、やがて里見家の八人の姫たちと結婚して城主となるとしても、それまではスーパー戦隊のメンバーとして活躍してくれたほうが、五千将であるよりもはるかに面白い。個人としての活躍から、一挙に、五千人将になるような馬琴の描き方には、違和感が拭い去れない。

八犬士が力をあわせて強大な敵を倒すというような、『八犬伝』ユニヴァースで定着している物語のほうが、オリジナルよりも面白いし説得力もある。まさに翻案がオリジナルを補完しつつ、あらたな可能性を広げ、しかも完成形を指示したといえるのである。つづく
posted by ohashi at 20:16| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年10月27日

最高裁裁判官国民審査

本日は衆院選と同時に再考裁判官国民審査の日。

以下のネット記事が目に留まった

小泉今日子「法が法になってないと感じることもいっぱい」 最高裁裁判官国民審査の重要性訴える
スポニチアネックス(スポーツニッポン新聞社 の意見)10月27日

女優の小泉今日子(58)が26日深夜放送のJ-WAVE「TOKYO M.A.A.D SPIN」(土曜深夜1・00)に出演。27日投開票の第50回衆院選と同時に行われる最高裁裁判官6人の国民審査についてコメントした。

「あれも意外と重要なんじゃないかと。法が法になってないっていうように感じることもいっぱいあるので」と裁判官の国民審査について切り出した小泉。「“見てますよ”っていう意志は必要かなと思って。きちんとした判断をしてる人もいっぱいいるかもしれないけど、でも私はそこにも不満は感じる」と続けた。【以下略】

小泉今日子氏の意見に賛成である。最高裁裁判官の国民審査はけっしておろそかにできない。「“見てますよ”っていう意志は必要かなと思って」というのは、きわめて重要な指摘である。国民が審査を放棄したら、司法の暴走あるいは無為を止めることはできない。

ただ「きちんとした判断をしてる人もいっぱいいるかもしれないけど、でも私はそこにも不満は感じる」という発言は、この文面だけでは、よくわからない。国民審査をおろそかにせず「きちんとした判断」をしている人は多くいるとは思うものの、まだ十分ではないということか。

私は、最高裁判所裁判官の審査において、毎回、全員に×をつけている。おいおいそれでは審査になっておらず、ただのおふざけかと思われるかもしれないが、私は信念をもってそうしている。もちろん最高裁裁判官の考え方には差異があるので、一律に×ということにはならないとはいえ、政権の司法無視をいつも放置し、政権の顔色をうかがっているような最高裁判所を代表する裁判官は、全員、一度にやめてもらいたいと本気で考えている。

もちろん私が全員に×をつけても、少数意見にとどまるだろうし、最高裁裁判官の地位は微動だにしないと思うし、全員に×をつければ審査ではなく、ただのおふざけ・冗談としてしか受け止められず、「見てますよ」という意志は伝わらないかもしれないが、それでも、私の怒りの表明として、今度も、おそらく私が死ぬまで全員に×をつけ続けるだろう。

本日? もちろん全員に×をつけたことを報告しておく。
posted by ohashi at 19:42| コメント | 更新情報をチェックする

2024年10月24日

投票入場券が送られてこない

実は昨日送られてきたのだが、それまで投票入場券が届かないのはどうしたことかと、やきもきした。

いや、投票入場券は届いているのに、それに気づかなかった私が捨ててしまったのではないか。老人になると、どんな粗相をしでかすか、わかったものではない。私ももうろくして重要な書類を気づかずに捨ててしまったのかと、かなり落ち込んだ。

もちろん居住している自治体のほうの手違いで私に送られてこないとか、郵便局の誤配送ではないだろうかと、あれこれ可能性は考えた。

まさか急な総選挙の決定に自治体のほうで準備が間に合わず郵送が遅れたなどとは思いもよらなかった。

というのも、投票入場券が届いていないことを、知人に話したのだが、居住している自治体にいる知人ではなく、私のところからは遠い神奈川県に住んでいる知人に尋ねてみた。そうすると投票入場券は、とっくに届いているという返事だった。そのためやはりアクシデントがあって私のところにだけ届いていないか、あるいは私が気づかずに捨ててしまったのではないか、この二つの可能性しかないと思い込んでしまった。

同じ自治体に住んでいる知人にたずねてみれば、届いていないという返事だったはずで、そうなると悪いのは私のほうではなく、送付する側かもしれないと考え、様子をみる、自治体の役所に問い合わせてみる、あるいはメディアで調べてみたりするかもしれなかったのだが――実際にネットでは投票入場券が届いていないという記事があったし、本日、テレビでも、その話題をとりあげていた。だから自分がもうろくして重要な書類を捨ててしまったと思い込まなくてもよかったのだが、神奈川県の知人に尋ねたのが運の尽きだった。

とはいえ、投票入場券がなくても、投票できることを知っていたので(メディアでも、このことは伝えていた)、投票日には、投票入場券をなくしたと申告して(昨日まで自分がなくしたものと思い込んでいた)投票すればいいと、そんなに心配はしていなかったのだが。

自虐的で心配性の私は、もし自分であやまって捨てていなくても、私の投票入場券が奪われて使われてしまうのではないかと、心配した。

映画『人数の町』(日本映画2020年9月に公開。荒木伸二監督。主演:中村倫也)は、こんな物語である。

借金取りに追われ暴行を受けていた蒼山は、黄色いツナギを着たヒゲ面の男に助けられる。その男は蒼山に「居場所」を用意してやるという。蒼山のことを“デュード”と呼ぶその男に誘われ辿り着いた先は、ある奇妙な「町」だった。
「町」の住人はツナギを着た“チューター”たちに管理され、簡単な労働と引き換えに衣食住が保証される。それどころか「町」の社交場であるプールで繋がった者同士でセックスの快楽を貪ることも出来る。
ネットへの書き込み、別人を装っての選挙投票……。何のために? 誰のために? 住民たちは何も知らされず、何も深く考えずにそれらの労働を受け入れ、奇妙な「町」での時間は過ぎていく。
ある日、蒼山は新しい住人・紅子と出会う。彼女は行方不明になった妹をこの町に探しに来たのだという。ほかの住人達とは異なり思い詰めた様子の彼女を蒼山は気にかけるが……。【映画の公式ホームページより】

この映画の物語紹介のところに、別人を装っての選挙投票とある。私の奪われた投票入場券を使って誰かが投票していたらと思うと、投票で自分の意志を反映することができなかった悔しさと同時に犯罪に巻き込まれた怖さも感じられて複雑な思いにとらわれた。しかし、投票入場券がなくても投票できるのだから、期日前投票で、偽造の身分証明書さえあれば簡単に投票できてしまうことにも思い至った。つまり投票入場券を奪わなくても、なりすまし投票ができる。

もちろん、そんなことが実際に行なわれているかどうか知らないが、今の日本社会、このような犯罪に使われる人数要員は、闇バイトなどもふくめて、無数にいると考えても、あながちまちがいではないだろう。心配性の私は、結局、投票入場券が送られてきても、心配は終わらない。
posted by ohashi at 23:55| コメント | 更新情報をチェックする

2024年10月13日

もうひとつのシャクルトン

ミュージカル『アーネストに恋して』(原題『アーネスト・シャクルトンが私を愛する』)は、シャクルトンという探検家のもつオーラに大きく依存していることは確かだ。

日本版Wikipediaは、英語版を下手に翻訳したもののように思われるのだが、そこには以下の記述がある

1959年にアルフレッド・ランシング著『Endurance: Shackleton's Incredible Voyage(邦題:エンデュアランス号漂流)』が出版された。これは肯定的な視点でシャクルトンを描いた最初の本である。同じくしてスコットへの態度は徐々に変わり、文学作品の中で批判的記述が増え、バルチェフスキーが「痛烈な一撃」と評した、1979年出版のローランド・ハントフォードによる伝記『Scott and Amundsen』におけるスコットの扱いで頂点に達した。このスコットの負の一面は世間に真実として受け入れられるようになり、彼を象徴していたヒロイズムは20世紀後半の意識変化の犠牲になった。数年のうちにスコットは【中略】人気が急上昇したシャクルトンに、世間の尊敬面で完全に逆転された。2002年、BBCは「100人の偉大なイギリス人」を決めるアンケートを行ったが、シャクルトンの11位に対しスコットは54位であった。

そして
2002年にはチャンネル4が、ケネス・ブラナーを主役に1914年の遠征を描いた連続番組『Shackleton』を制作した。アメリカではA&E Networkで放送され、2つのエミー賞を受賞した。


とだけあるが、このケネス・ブラナー主演の『シャクルトン』を私は日本のテレビで観た。

2003年5月NHKでテレビ放送され、その大反響を受け2005年1月1日、2日にNHK教育テレビで再放送された。私はどちらの放送をみたのか記憶が定かではないが、たぶん再放送のときだと思う。現在、配信はされていないがDVDで販売されている。観て損はないテレビドラマ(前後2回3時間のドラマ)である。

これで「シャクルトン」の名前をしっかり刷り込まれた私は、イギリスのメーカー、エアフィックス(AIRFIX)社がシャクルトンのプラモデルを発売したとき、いち早く購入した。もちろん「シャクルトン」が誰かを承知の上でというか、その飛行機が「シャクルトン」と命名されていたがゆえに購入した。

Wikipediaの説明によると
アブロ シャクルトン(Avro Shackleton)は、アブロ社がアブロ リンカーン爆撃機に新しい胴体を取り付けて開発し、イギリス空軍により使用された長距離洋上哨戒機である。元々は主に対潜戦(ASW)と洋上哨戒機(MPA)として、後に早期警戒管制機(AEW)、捜索救難(SAR)やその他の任務が追加されて1951年から1990年まで使用され、南アフリカ空軍でも1957年から1984年までの期間使用された。機体名称は極地探検家のアーネスト・シャクルトンに因んで命名された。

そして「合計で185機のシャクルトンが1951年から1958年に生産された」とある。

英国空軍が航空機のニックネームに「シャクルトン」を使ったことは、「スコットvsシャクルトン」のライヴァル対決のなかでシャクルトンに軍配を挙げたというよりも、「スコット」という名前がありふれていて印象に残らないからだろう。またどちらが人気があったのかという問題ではなく、探検家としてシャクルトンは生前も死後も高い知名度を誇っていたことの証左がその命名にあらわれているということだろう。

ちなみにAIRFIXのプラモデルは1/72のスケールモデルでよくできている。シャクルトンは同じアブロ社の、第二次世界大戦中の爆撃機「ランカスター」ほど、面妖な機体ではなく、むしろ大人しい設計の機体なのだが、ただ随所に英国機的なおかしなところがあって面白い。4発のプロペラ機だが、二重反転プロペラなのでプロペラを8つ作らねばならないというめんどくささはあるが、プロポーションはよく、細部もスケールにみあった再現がされていて、作りやすいキットである。

ただAIRFIXの組み立て説明書には、コックピットを、天井も壁も床も、そして椅子までも黒く塗るように指定しているのだが、いくらなんでもこの色指定は雑すぎるのではないかと、ネット上で画像や動画をさがしてみたら、シャクルトンのコックピット、椅子や椅子のクッションまでも真っ黒だった。おそるべし英国機。
posted by ohashi at 10:39| コメント | 更新情報をチェックする

2024年10月12日

『アーネストに恋して』

松竹ブロードウェイシネマと銘打ったミュージカルの舞台録画を映画館でみる。10月4日から全国順次限定公開。『アーネストに恋して』というのは、どこのアーネストだか知らないが勝手に恋してろという気持ちにしかならないのだが、原題は、Ernest Shackleton Loves Meえ、シャクルトンが私に恋した?! あの、シャクルトン? これにはがぜん興味がわいてきた。いったいどんなミュージカル・ドラマかと期待がたかまる。

そう、「シャクルトン」の名前がメインであって、アーネストはどうでもいい。ただ日本人にはシャクルトンといってもなじみのない名前かもしれないので、「アーネストに恋して」となったのだろう。しかたないことか。

ストーリー
『アーネストに恋して』(原題:Ernest Shackleton Loves Me)は、子育てとビデオゲーム音楽の作曲家としてのキャリアの両立に奮闘する睡眠不足のシングルマザーが繰り広げる奇想天外で独創的なミュージカル冒険劇。

ある夜更け、出会い系サイトに自己紹介動画を投稿した主人公のもとに、突然20世紀を代表するリーダーと称される南極探検家のサー・アーネスト・シャクルトン(1874-1922年)から返信が届く。南極で船が難破し流氷の上で身動きが取れなくなったシャクルトンは、時空を超えて主人公にアプローチし、壮大な冒険の旅へと誘う。思いがけないことに、二人は互いの中に自らを照らし導く光を見いだすのであった。

時空を超えて接触しあう、それもたんに通信を通して話し合うというのではなくて、実際に、身体的に接触する。シングルマザーが暮らす住居の冷蔵庫からシャクルトンがあらわれるのだ。だが彼女の雑然とした住居内と南極の雪景色はどうつながるのかと思ったのだが、プロジェクション・マッピングがそれを可能にしている。彼女の住処はそのままに、いつのまにか壁に南極の雪景色がひろがり、二人は南極を旅しているかっこうになる。

彼女の名前はキャサリン(キャット)。キャットとシャクルトンは、ともに、それぞれの世界で難題に直面しているのだが、互いに助け合って、苦境を脱することになる。シャクルトンにとって彼女は、くじけそうになる自分を力強く励ましてくれる心の中の女性である(ユング心理学でいうアニマ)。いっぽうキャットにとって、彼女を食い物にしているろくでなしの愛人とは異なり、誠実で真摯な男性で、彼に母性的な感情で助言を与え、また彼を力強く励ますことで、彼女自身、自分に自信をつけてゆくことになる。ある意味、シャクルトンは彼女の分身でもあり、彼女の心のなかにある男性的部分(アニムズ)でもある。二人は時空を超えて出会うことで、互いに相手を救い、また自身も救うことなる。

なお彼女とシャクルトンとの時空を超えた出会いは、もちろん不眠症に悩む彼女の一夜の夢と解釈もできる。ただ、夢ではなかったかもしれないという証拠も残っているのだが。

二人芝居だが、二人は当然のことながら、歌はうまい。オフ・ブロードウェイ・アライアンス最優秀ミュージカル賞(2017)を受賞したのもうなずける。で、それをスクリーンでみたが、主役の女性がぶさいくでつまらなかった。いくら、かわいらしさに正解はないとしても、ぶさかわいいともいうこともよくあるのだが、彼女はぶさいくすぎてかわいらしくない。1時間30分くらいの映画だが、それがまさに限界だった。

主役の女性がぶさいくでつまらなかった――なんという低俗で、しかも頭の悪い感想なのだ。しかも差別的だと非難の集中砲火を浴びるかもしれない。説明が必要だろう。

主役のヴァレリー・ヴィゴーダ(正確には二人芝居でW主演だが、原題にあるmeとは彼女のことで、どうしても主役と思えてしまう)は、劇中では眼鏡をかけている。そして眼鏡をかけた彼女はあまり魅力的ではない。

眼鏡をかけることの意味は、顔の魅力度を落とすか、上げるかのいずれかである。舞台上で眼鏡をかけているぶさいくな人物は、眼鏡はずして思いがけない美貌をみせるときに、それが人物としての生まれ変わりを象徴することがある。残念ながら、今回の舞台ではそのような演出はとられなかった。

となると別の可能性もみえてくる。眼鏡が顔の魅力度を上げている場合である。党首になってから眼鏡をかけはじめ好感度をあげようとしたどこかの国の首相のように、眼鏡が顔の不快さをやわらげることがある。舞台の彼女もそれなのだろうと思った。歌はうまいが顔がよくない、そこで眼鏡で顔立ちを変えたということだろう。しかしかわいげのない彼女は、劇の魅力を大きくそこなっている。ただ今回の彼女の脚本の舞台に、彼女以外のミュージカル俳優を用意するのがはばかられたのかもしれない。しかし、やはりほかの女優をわりあてるべきではなかったか。

だが、私のこの想定はまちがっていた。ネット上にはこのミュージカルの舞台写真もあるのだが、彼女が最初から眼鏡をはずしているヴァージョンもある。そして眼鏡をはずした彼女は美人なのである。だったら、どうして最初から眼鏡をはずすか、途中でも眼鏡をはずす演出にしなかったのだ。

おそらくそれは、うだつのあがらないゲーム音楽の作曲家で、男に食い物にされている子持ちのシングルマザーという主人公のイメージに、彼女の美貌がそぐわなかったので、眼鏡でぶさいくキャラにした。

となると、この作品を制作側は、男に搾取されつづけているシングルマザーが、シャクルトンとの出会いによって、男に依存しない自立した女性となり、たくましく生きはじめるという物語には、眼鏡をかけたぶさいくな女性というステレオタイプがふさわしいと考えたのだ。フェミニストにもなった彼女には、眼鏡をかけたぶさいくな女性像こそふさわしいということだろう。

なんという古臭い、しかも女性差別的な偏見なのだろうか。こんな偏見を容認・継承しているこのミュージカルはどこかゆがんでいる。たとえどんなに物語が舞台装置が演出が演者が魅力的でも、根底にある旧弊な前提は唾棄すべきものである。この作品は不快な愚劣さを垣間見せている。このミュージカルの基盤が不快でむかつくものだった。


だが、このミュージカルにはもう一つの基盤がある。水の物語と、その発展である。ただし、ミュージカル自体、このことを強調してはないように思われる。そもそも南極大陸圏で氷海に22名の隊員とともに閉じ込められたシャクルトン隊長の敵中突破ならぬ氷中突破物語は、女のいない海の男たち、男たちだけの冒険、その圧倒的な水量によって、水の物語(なんとかの一つ覚えと言われるのを覚悟のうえでいえば)、まさにゲイ的物語(現実のシャクルトンはどうであれ)である。正確にえいば、ゲイ的物語というサブテクストを強く喚起する。

シャクルトン役のウェイド・マッカラムWadeMcCollumは、南極で苦境に陥っているシャクルトンを印象づけるため、ひげ面のマッチョな男となって登場するが、その歌声とか過剰なまでの芝居がかった演技をみると、この俳優はゲイではないかと思えてくる。あるいはシャクルトンをゲイとして提示しようとしているのかと思えてきた。

実際、ウェイド・マッカラムは、伝説の、あるいは先駆的なトランスヴェスタイトでトランスジェンダーの作家・エンターテイナー、ケネス(のちにケイト)マーローを描くMake Me Gorgeous(2023)の主役舞台で高く評価されている。このミュージカルのネット上のページではWade McCollumのことを“queer cisgender”と紹介してる。え、どっちなのだ。

「クィア・シスジェンダー」というのは、一昔前というか前世紀の古い言い方をすれば、「ヘテロだけれども同性愛者を演ずる、同性愛者と仲が良い、同性愛者と相性がいい」という味か(クィア=同性愛ではないが、クィアは同性愛をふくむことは確か)。あるいは「ヘテロにみえる同性愛者」という意味にもとれるが、ウェイド・マッカラムを例にとれば、前者の意味だろう。

つまりウェイド・マッカラム(WM)は、同性愛者にみえるし(シャクルトンを演ずるときのみかけはそうでもないが)、同性愛者を演ずることもあるが、実際には結婚しているヘテロな男性であるということのようだ。

しかし、そうなると私がWM/シャクルトンのなかにみたクィアなものは、水の物語というサブテクストを意識したためにみえてしまったのか、あるいは、WMがたとえマッチョな男性を演じてもにじみでてしまった自身のクィア性なのか、あるいは最初からクィアなものをねらっているのか、どうとでもとれてしまう。

実際、私が映画館で観たときは、たまたまかもしれないが観客はまばらだった。いまでは上映館も大幅に減らしているかもしれないが、それは、私のように観客が、女性シンガーを魅力的ではないと感じた、あるいは主人公の女性をあえて魅力的ではないようにした演出に不満をもったというよりも、観客がシャクルトン役のWMのクィア性を、おそらく「気持ち悪い」とゲイ差別的にみたせいかもしれない。

ただシャクルトン(シスジェンダー)をクィア的俳優が演じ、シングルマザーをフェミニストのステレオタイプ的外貌をまとわせた女性俳優に演じさせたことで、クィアとフェミニズムの幸運な遭遇を出現させたというふうにみることができる。そうなると、時空を超えた男女(シスジェンダー)の出逢いという物語は、今そこに展開するかもしれない、いやすでに実現しているクィアとフェミニズムの出逢いという物語に反転するかもしれない。

そうなればこのミュージカルは面白くなるのかもしれない。

いや、主役の女性の魅力のなさは致命的で、私にとってこのミュージカルは、残念ながら永遠につまらないものでしかないのだが。
posted by ohashi at 11:01| 演劇 | 更新情報をチェックする