2023年06月22日

理学療法と人道的殺戮 2

理学療法が人道的殺戮だという意味ではないので誤解のないように。

人道的というのを英語にするとhumaneを思い浮かべる。これ以外にもhumanitarianという語も「人道的」に該当する。

では「人道的」とはどういうことか。人道的:「人として同義にかなったさま。人間愛をもって人に接するさま」(広辞苑)とか「人として守り行うべき道にかなうさま」(明鏡国語辞典)というのが、一般的な定義だろう。

ただ英語のhumaneというと、日本語の「人道的」ではカバーしきれない意味もある。そのためhumaneを機械的に「人道的」と訳すとおかしなことになる場合がある。

動物愛護の思想が広く浸透するに及んで、食肉用に動物を殺すことに非難の声があがるようになると、食肉を正当化するためにどのような理屈がひねり出されたかというと、動物に苦痛を与えないように殺しているからというものだった。

たとえば”a humane way of killing animals”が推奨されたが、これを「人道的な動物の殺し方」と訳したら、なんのことがわからない。そもそも「人道的な殺害とか殺戮」というのはどういう意味なのか。想像力をはたらかせないとわからないし、はたらかせてもわからないとも言える。

Humaneには「人道的」という意味のほかに、「(他人や動物に対して)人間[人情]味のある、慈悲深い、思いやりのある」(ランダムはウス英和大辞典)という意味がある。実際、ランダムハウス英和大辞典は、これ以外に「人文学の」という語義しか示しておらず、「人道的」という表記を避けている。つまり日本語の「人道的」が「慈悲深い」と結びつかないからかもしれない。「人道的な殺害」といっても、ふつは、なんのことかわからない【なお「人道的」というのはhumanitarianというほうが一般的であろう】。

私が監訳した『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』(平凡社、2023)では、動物をhumane、あるいはhumanelyに殺すという原文を、苦痛を与えないようにして殺すというように訳している。ところが、とこかのアホ【こいつについて、これから大々的に毎日批判してやる】が、これは「人道的に」と訳すべきだと批判してきた。なにか動物学とか動物研究の分野(以下、ここではアニマル・スタディーズとする)では「人道的」と訳すのが決まりだと、そんなことも知らないないのかと、軽蔑的に批判してきた。

しかし軽蔑されるのはお前のほうだ。そもそもhumaneに「人道的」という訳語を示さない英和辞典もあることすら、知らないのか。

またもしアニマル・スタディーズの分野で、humaneとかhumanelyを機械的に「人道的」「人道的に」と訳していたら、一般読者にはわけがわからなくなる。もし日本のアニマル・スタディーズにおいて、これが慣行になっているのなら、一刻も早くやめたほうがいい。それはphysical treatmentを「身体療法」ではなく「理学療法」と訳してしまい、ひっこみがつかなくなった医療分野の愚を繰り返さないためである。

とはいえ、日本のアニマル・スタディーズの関係者は、バカではないから、まさかHumaneを機械的に「人道的」と訳してはいないと思う。そもそもそれは誤訳に近い。まあ、この愚かな批判者とその周辺にたむろしている一部の無教養な者たちだけが、ひとりよがりで勝手なことを垂れ流しているだけだと思いたい。

【注記:
Humane killerは「人道的殺し屋」と訳したら恥ずかしい。「動物の無痛屠殺機」という訳語が辞書ではあたえられている。【なお私は屠殺という言葉は、差別用語だと思っているので、ここではやむを得ず使っている】
Humane killingは「人道的殺害」でははなく、「安楽死」のこと。ただし「安楽死」には、これ以外にも英語表現はある。
Humane societyは「人道協会」ではなく「愛護協会」のこと。何を愛護するのかというと動物のことなので、これは「動物愛護協会」と訳してもいい。
以上参考までに。】
posted by ohashi at 01:19| 『アニマル・スタディーズ』 | 更新情報をチェックする

2023年05月08日

有敵関係

友敵関係とは、ドイツ語表記だとFreund-Feind Verhältnisと語呂合わせめいた音になって面白いのだが、日本語では意味はわかるが音の面白さは消える。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』 「友敵関係」の説明によると、

友敵関係
C.シュミットが『政治的なものの概念』 (1927) において提起した概念。政治の本質は友-敵の対立状況において根源的に表われると彼は考える。……彼はワイマール時代のドイツの政治的混乱を解決するためには国家にとっての真の敵,つまり共産主義勢力の一掃が必要であると説いた。彼にとって政治の本質は例外状況である戦争に現れるのである。この概念はナチズムの思想に受継がれ,やがてはヒトラーの独裁を正当化する根拠にもなった。


まあ敵か味方/友かに分けて考える思考なり政治である。もし自分が友とされたら悪い気はしないが敵とされたら怒りを感ずるだろう。

もちろん友とされても怒りを感ずることはある。少し前にあったオフレコ問題。オフレコで物を言うとは、相手を自分の仲間・同類と考えて問題発言を語ってしまうこと(問題発言でなければオフレコと釘をさす必要もない)。オフレコと言われた相手は、発言者の仲間・同類と思われているということである。これを嬉しいと思うこともあろうが、おまえと同類ではないと怒りを感ずる者もいよう。同性愛者に対する差別発言をオフレコとして言われた場合、そういう差別意識を共有していない私は憤慨し、また同類と思われたくて、その問題発言を公けにすることになろう。

いっぽう自分自身を敵とみなされた場合はどうか。最初から敵対関係にあればとくに怒りもわかないが、友と思っていたら敵視されたとなるとかなり衝撃を覚えることになる。

L・グルーエン編/大橋洋一監訳『アニマルスタディーズ――29の基本概念』(平凡社、2023)を上梓したが、そのなかで、「人新世Anthropocene」をどう表記するかで迷った。日本語では、「じんしんせい」と「ひとしんせい」のふたつの読み方がある。両方の読み方がこれから併存するのか、あるいは、いずれどちらかひとつに統一されるとしても、どちらなのか。私個人としては特に情報もなく、予測もできないし、どちらかひとつにすることで党派争いに巻き込まれることも嫌だと思っている。

本文中は「人新世」とだけ表記し、読み方は読者にまかせることにした。しかし索引をつくるとなると「じんしんせい」としてサ行におくか、「ひとしんせい」としてハ行におくか決断を迫れられた。私の決断は、決断しないことだった。「人新世」を「じんしんせい」として読む項目と「ひとしんせい」と読む項目のふたつの項目を用意した。索引としては異例のことだと思うが、現時点で、表記がひとつではない場合、大胆にして最善の策であると思っている。

いまや中堅の研究者である知人が、昨年上梓した翻訳のなかで「人新世」を「じんしんせい」と表記していた。私が尊敬しているその知人に「じんしんせい」という表記が一般的なのかと質問した。もし、そのとき、そうだという答えが返ってきたら私は躊躇なく「じんしんせい」の表記に統一するつもりだった。ところが回答は、「じんしんせい」が絶対に良い読み方とも思わないが、次善の策として「じんしんせい」を採用したというか、「ひとしんせい」という読み方が嫌だからというような、煮え切らない答えだった。そこで私は両方の読み方を索引でとることにした。

話はここで終わらない。

その知人には『アニマル・スタディーズ』の翻訳を出版されてからすぐに贈呈した。すると彼は、索引を調べて「人新世」が「ひとしんせい」と読まれていることを知り、私に、あなたは敵だったのですねとメールをよこしてきた。

これは彼自身が私のことを最初から敵扱いしていた証拠ではないか。

なぜなら、もし私のことを友/味方と思っていたら、「人新世(じんしんせい)」という項目を確認して、あらためて私のことを友/味方だとみなして、それで終わりであったはずだ。ところが、最初から「人新世(ひとしんせい)」という項目を探して、それがみつかると、やはりこいつは敵だったのかと確認したのである。繰り返すが、それは彼が私のことを最初から敵と思って証左である。私としてはかなりショックを受けた。友と思っていた相手から、敵と思われているのはつらいことである。

ちなみに、「じんしんせい」と「ひとしんせい」の両方の読み方を索引では採用し、「人新世」の項目がサ行にもハ行にもあるとその知人に伝えたら驚いていた。まあ、慧眼な彼にしてみれば、両方を表記するというのは、実は中立的であるかにみえて、隠れたかたちでどちらか一方を支持することであると指摘したかもしれない。両論併記ほどたちが悪いものはない。しかし彼からはそこまでの指摘はなかった。

最後に、友敵関係は、カール・シュミットによれば政治的操作である。その知人は、私を敵とみなしていたようだが、そうすることでどういう政治を目指していたのか、考えると、恐ろしくなる。
【その知人は、このブログは絶対に見ないので、この記事は、内密に】
posted by ohashi at 17:57| 『アニマル・スタディーズ』 | 更新情報をチェックする

2023年05月06日

『自然という書物』展

町田市立国際版画美術館における企画展『自然という書物――15~19世紀のナチュラルヒストリー&アート』(2023年3月18日~5月21日)に行ってきた。4月の終わりに。ちなみに65歳以上無料になるシルバーデーをねらったが、あいにくその日は天気がわるくて、行けなかった。

西洋近代における人間と動植物(鉱物も)との関係を博物誌の発展を通して探るという展示だった。人間と動植物の関係史というのは、ある意味、壮大なテーマで、一美術館の企画展示でそれをカバーすることなどできなのだが、今回の展示は、博物学・自然史の発展を、その書物を通してみることで、人間と動植物との関係に間接的に光をあてるという試みだった。そしてその試みは成功しているといえるのではないだろうか。

というのも展示物のほとんどは書物である。15世紀から19世紀にいたる書物における動植物画や自然描写を、書物の本体を通して観ることは実に貴重な体験であり、どの展示も、いつまでみていても見飽きない感動があった。

したがって今回の展示は、博物学や自然史の変遷を、その媒体である書物を通して示してくれるところに特徴がある。博物学の本は、本の精華である。大判の本に緻密に描かれた動植物の図像は、学術的であるとともに美術的であり視覚芸術の独立した一分野を形成している。それをガラスケースの中に入っているとはいえ、当時の本を通してみることの素晴らしさはたとえようがない。

総じて博物学の本は大判である(今回、フォリオ版よりも大きいというか、その倍もある本を私は初めて見た)。展示してあった小説の挿絵とか絵本のような本と比べるとその大きさには圧倒される。そして驚異的なことは、この大判の本に印刷された緻密な動植物画だけではない。その活字もまた、実に綺麗で整っていて、当時の最高の印刷技術を駆使してた印刷されていることがわかる(私が写真版を通して親しんでいるシェイクピア時代の演劇本や物語本は、印刷が実に安っぽいものであることを、今回の展示を通して痛感した)。

とにかく博物学の書物は、その活字とその図版とともに書物の最高峰である。こうした図入りの博物学本に魅了される人がいるのは当然のことと納得した。

今回の展示には、アニマル・スタディーズに関心があるから訪れたのかと思われるかもしれないが、それも確かにあるのだが、同時に、私は博物学関係の本の翻訳者でもあり、博物学は昔から興味があった。

展示の図録の最後にはゆきとどいた参考文献のページがあって、今回の展示に関係した美術史や博物史について日本で手に入る翻訳文献は網羅してあり有益性の高いものとなっているのだが、その中には、「リン・L・メリル(著)、大橋洋一(他訳)『博物学のロマンス』、国文社、2004年」が載っている。

やむをえず「(他訳)」となってしまっているが、共訳者は、原田祐貨さんと照屋由佳さんである。共訳だが、おふたりに訳してもらい、私は名前を貸しただけということのではなく、私も翻訳し、全体の翻訳をチェックしている。

19世紀英国の博物学人気を扱った本には、他にもリン・ハーバー『博物学の黄金時代』(異貌の19世紀)高山宏訳、国書刊行会1995があり(もちろん図録にも掲載されている)、学術的に権威があるのは、高山宏先生のこの翻訳のほうである。

では私たちの翻訳『博物学のロマンス』は、だめなのかというとそんなことはない。ただ著者が在野の研究者というかアマチュアで、その論述も通常の専門家のそれとは違ってややナイーヴなところがある。しかし、実は、そこが面白いところで、『博物学のロマンス』を手に取られた読者は、楽しい読み物として充足感を得ることはまちがないと思う。

私にとってアマチュア性は悪い言葉ではない。私は永遠にアマチュアでありつづけることを願っている。

追記
展示されている大判の古書は、版画博物館が所蔵しているもの以外にも日本各地の大学や美術館から借り出されたものがある。いかにもそうした本をもっていそうな大学や美術館や施設が載っているリストの中で、明星大学を見出して違和感を感ずる人もいるかもしれないが、明星大学には、西洋の古書のりっぱなコレクションがあって、こうした博物学の豪華本を所蔵していてもおかしくない。私が驚いたのは、放送大学図書館が、豪華本をけっこうたくさんもっていたことだ。べつに高価な古書をもっていてかまわないのだが。
posted by ohashi at 21:16| 『アニマル・スタディーズ』 | 更新情報をチェックする

2023年02月26日

献本

『アニマル・スタディーズ――29の基本概念』大橋洋一監訳、平凡社、2023年2月24日が刊行され、本日の朝刊の一面の下部に広告が出た。まあ出てあたりまえなのだが、献本はまだしていない。

比較的最近、私自身、献本されたのだが、そのとき献本者から、発売前にお送りすることができず申し訳ありませんといったメモのようなものが入っていた。

そういうものかと思った。まあ刊行されたから1ヶ月か2ヶ月たってから献本するというのは遅すぎる気がするし、そのときは詫び状のようなものを添付すべきかもしれないのだが、刊行前に献本が届かなくても問題ないのではないか。あるいはそういう習慣なのかとそのときは思ったのだが……。

その影響もあってか、今回の翻訳については、完全に校了してから急いで献本リストを作り、刊行前に献本してもらおうと出版社に送ったら、刊行前なので、著者とか翻訳者には見本刷りを渡すが、献本は刊行後になると言われた。

それもそうだと思い、ならばあのお詫びメモは何だったのかと不思議に思った。とはいえ、そのメモのようなものはなくしてしまったので、私が内容を読み間違えた可能性もある。最近ボケが激しいので。

そうボケといいうのは、確かで、ここで書こうとしたのは、そんなことではなくて、今回の翻訳については私からの献本は、これまで刊行した翻訳よりも少ないものとなることの通知とお詫びである。アポロギアというほどりっぱなものではないが、事情についての理解を乞いたいと思う。献本を期待している方がいたら、残念ながら、たぶんあなたのもとには献本は届きません。すみません。

今回の翻訳は1万円を超える本なので個人で購入する人は少ないと思う。図書館などで購入してもらうことを狙っていて、初刷りの部数は多くない。私を含む20人くらいの共訳なので、ひとりひとりの原稿料も少ない。800ページを超える本なので、分厚くて重い。送料も高くなる(書籍代と送料は献本者の負担である)。そうなるとたくさん献本はできない。

私は自分で翻訳した本を、多くの人に献本することにしている。翻訳書は、私が書いた本ではなく、他人が書いた本であって、私は、著者の代理であり、また広報担当者でもある。だからできるだけ多くの人に原著者の発言なり議論なりを知って欲しいと思うので、献本はついつい多くなる。いっぽう私が本を書いたとしたら、献本はしない。それなら書けなければいいと言われるかもしれないのだが、まさにその通り、おそらく書くことはないかもしれない。

まあ監訳者である私と、20人の翻訳者が所属しているか所属していた東京大学文学部・大学院人文社会系研究科の英語英米文学研究室と現代文芸論研究室の先生方ならびに研究室には訳者全員から献本予定。それ以外に、もしもらえると思っている方々がいれば、たぶん献本は届きません。お詫びします。

いきなり不景気な話で申し訳ないが、以後、この翻訳について毎日なにかコメントをしておこうと思う。

posted by ohashi at 16:13| 『アニマル・スタディーズ』 | 更新情報をチェックする