2022年04月08日

『希望とは何か』7bis

前回の記事『希望とは何か』7の内容と重複するというか屋上屋を架すような記事なので、むりに読まれなくてもかまわない。むしろ、こんな記事は書かないほうがよかったと思われるにちがいなのだが。

ノースロップ・フライ(カナダ出身)は英米圏の文学批評分野において、アメリカの新批評が、その歴史的使命を終えたあと、そしてフランス現代思想の構造主義が英米圏を席捲する前の一時期、唯一本格的で英米文学に留まらないスケールの大きな文学理論を構築した聖職者であり文学研究者であって、その主著『批評の解剖』の見事な翻訳がまだ出版され前から、翻訳紹介されて日本でもよく読まれた。

個人的なことだが、大学院の入試面接のとき、大学院では、どのような研究をするつもりかと聞かれ、いくつか手短に話したなかで(これは想定される質問ではあったので、答えは用意していたのだが)、ノースロップ・フライが行なっているような批評研究をしたいと答えた記憶がある。のちに指導教官となる小津次郎教授は、ああ、フライねと言ったきりで、フライのことを知っているのか知らないのかもよくわかない、曖昧な顔というか、あまり嬉しそうな顔をしなかった(と私は感じたのだが)。そのためまずいことを言ってしまったのかと悔やんだが、幸い入学できた。

やがて大学院で、小津次郎先生のシェイクスピア・エリザベス朝演劇の授業を受けることになったのだが、ある時、先生は、授業の最後に、突然、いまノースロップ・フライが日本に来ていて、これから学士会館(今はなき学士会館分館)でセミナーと歓迎会をするので、みんな残って出席するようにと言われた(もちろん都合が悪ければ院生は帰ってもよかったのだろうが、私も含め全員が、そのまま学士会館の会議室に移動した)。フライ教授夫妻は、日本英文学会が全国大会時に招かれて来日したのだとあとでわかった。

ノースロップ・フライ夫妻を囲んで、学士会館の小さな会議室でのセミナーが行なわれた。出席者は駒場と学外からの名の知れた先生方数名と、私たち院生だけだったが、冒頭で簡単な歓迎スピーチをした小津先生が、英語で、フライ教授にはわが英文科も恩恵を被っていて、これまで何度も教授の文章を大学院入試問題に使わせてもらった(とそのあと版権上の問題がどうのと面白いことを話されたのだが、今は覚えていなかった。またその部分がとくに受けたわけでもなかったのだが)と語って、私は驚いた。フライのこと知ってんじゃんと内心思いつつ。

セミナー後、場所を食堂にうつして、そこで歓迎の夕食会をもよおしたのだが、私の記憶にあるのは、私と同期の正岡和恵さん(まだ成蹊大学英語英米文学科教授なのかどうかわからないが)が、フライ夫人と熱心に話し込んでいたことだけで、私自身も、フライ教授に、なにか簡単な質問めいたものを個別にしたように思うのだが、何を話したのか記憶にはない。【なお正岡和恵さんには「シェイクスピアと犬」という優れた論文(2021)がある。明らかに私よりも高い生産性を誇る研究を今もされている。】

ただ、大学院ではフライ的な批評研究をしようと意気込んでいた私が、フライ本人と出逢うチャンスを手にしたくせに、案外、あまり感激していない点、違和感を抱かれるかもしれないのだが、その時点で、私にもわかっていたのだが、フライ自身は高齢の大御所的存在(実際にはその後、カナダを代表する知識人にまでなるのだが)であって、仰ぎ見るような存在ではあっても、熱狂的に教えを請いたいような存在ではなくなっていた。本人をまぢかで観ることができたのは、よかったとしても、握手した手を洗わないでおこうというような気持ちが起こることはなかった。

そのフライだが、どこかで、シェイクスピアの『リア王』に触れ、劇作家自身、この救いのない芝居を書いたものの、それでなにか世をはかんで自殺するということはなくて、おそらく「やったね」とみずらかの作品の芸術的出来栄えに満足し、絶望などしていなかったに違いないというようなことを書いていた(「やったね」とは書いていなかったのだが)。

身もふたもないことをいえば、たしかに、『リア王』がいかに絶望的な悲劇を語る作品だとはいえ、作者も、役者も、その戯曲にかかわったらからといって自殺などしないし、廃人になったり自暴自棄になったりして生きる気力を失ったりするわけではないから、いかに救いがない作品とはいえ、ほんとうに救いがないわけではない。暗い絶望的世界観が披露されても、それはビジネス絶望でしかない、ということになる。

しかし、これはまがいものの絶望ということなのか。そうではあるまい。シェイクスピアは『リア王』を通して甘い期待を抱くことの愚を伝え、幻想を打ち破るリアルなるものに観客の注意を喚起しようとしたということはできる。

絶望について語る、絶望的状況を提示する、絶望を体験する、絶望をパフォーマンスする――すべて、絶望を関われば関わるほど、絶望を提示する技術が洗練されるように思われる。絶望技術のエラボレーション。それはもう絶望とは無縁の、希望の領域の出来事である。絶望をつきつめればつきつめるほど、逆説的に希望が湧いてくるのである。カミュがいうように(『希望とは何か』で引かれている)、絶望の文学は、ありえない。それは言葉の矛盾なのである。

シェイクスピアは空前絶後の絶望的悲劇芸術を完成させた。その悲劇芸術が高い完成度を誇れば誇るほど、絶望は遠のく、あるいは絶望を遠ざけることになる。フライの言明の趣旨はこういうことだろう。唯一の問題は、それはなにもフライ自身でなくても誰もが言いうるこということだが。

ちなみにこんな文章を書いてしまったらイーグルトン自身は、気にいらないに違いない。というのもフライは、テリー・イーグルトンのことが嫌いだからである。個人的にどうのこうのということではない。聖職者であり保守的な文学研究者であるフライが、マルクス主義批評家のイーグルトンを好きなはずはない。批判的文章を残している。

これに対し、イーグルトンが引用するフライの文章がすごい。フライは、自分と他の批評家たちとを比べて見てた場合、とくに自分が優れているとは思わない、ただ、自分には天才が備わっていたと述べているのだ。このバカがとは書いていないが、それに類するインプリケーションをもってイーグルトンは引用している(『批評とは何か』青土社)。参考までに。
posted by ohashi at 09:10| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする

2022年04月07日

『希望とは何か』7

『リア王』と希望

シェイクスピアの『リア王』を翻訳で読んだの中学生の時である。中学生の頃の私は学校から帰ると文学全集(当時、ブームだった)を読みふけっていて、それこそトルストイの『戦争と平和』とかドストエフスキーの『罪と罰』とか『カラマーゾフの兄弟』、あるいはショーロホフの『静かなドン』、そして『千夜一夜物語』(最後の夜まで読んだ)と、毎日、活字(当時は活版印刷だった)の海に溺れそうになっていた、というよりの勉強もせずに読んでいたので、完全に溺れていた(親は、本を読んでいれば学校の勉強しているものと思い込んでいたので、とくに勉強をせよとは言われなかった)。そのためシェイクスピアの戯曲の翻訳を読んだとき、戯曲だから長編小説よりも活字の数が少ないので、一作品をあっというまに読めた。いわゆる四大悲劇は全部、一日で読んだ。ものすごいハイスピードで読んだと思うが、まとまった作品を短時間で読める快感にひたった。

しかし大学の授業で、『リア王』を英語で読んだときには、全体の筋立をまったく覚えていなかった。そのため初めて読む作品とかわらなかった。なぜそんなことになったのか。記憶力なさすぎると我ながら反省したが、『リア王』は、シェイクスピアの他の悲劇に比べると、完全ダブルプロットで、筋が入り組んでいる。したがって翻訳で読みとばしたときには、複雑な構成を理解できないまま、結末までたどり着き、そしてすぐに次の『マクベス』を読み始めたので、読んだと言っても、字面を追っただけで、感動もしなかったのだと思う。そして内容はすぐに忘れた。それに比べて大学生で授業で一年間かけて読んだ時には、新鮮な驚きと深い感動をもって『リア王』を読むことができた(英語は難しいところがいっぱいあったというより、理解できなかったところが多くあったが、それでも琴線に触れる障害にはならなかった)。

『リア王』には問題点(とはいえ作品の欠陥とは言い切れない、むしろ作品の卓越性の根拠にもなっているのだが)は多くあって、そのひとつに、最後の締めの台詞が、この大悲劇のまとめの言葉としては、あまりにテンションの低い、ありふれた教訓となっていることがあげられる――「思っていることを素直に言おう」というのが締めくくりの台詞、なんだ、これは?と思う人がたくさんいても不思議ではない。イーグルトンは、その『シェイクスピア』(平凡社ライブラリー)で、この何の変哲もないありふれた台詞を、身体と言語記号との関係――相克と調和――という観点から読み解いて、私をほんとうに驚かせてくれた。

そして今回『希望とは何か』では……

しかし「希望」について語るのに、なぜわざわざシェイクスピアの『リア王』なのか。それが問題である。なぜなら『リア王』はシェイクスピアの悲劇のなかでも、もっとも絶望的な作品、救いのまったくない作品に思えるからだ。いったい、それの、どこに希望があるのか。

『リア王』が絶望的な悲劇となっていることと、その構造が昔話的であることとは関係がある。シェイクスピア劇の根底には、おとぎ話的構造があるという指摘は昔からあるが(たとえばCatherine Belsey, Why Shakespeare? 2007【著者は昨年2021年亡くなられた】)、とりわけ『リア王』は、老いた国王が、三人の娘を愛情テストをし、もっとも父親思いの末娘を忘恩の娘と誤解し追放することで、その後、艱難辛苦を舐める……という物語は、まさにおとぎ話。そしておとぎ話であるからには、ある種の理想的な世界が前提とされり、いかに悪が栄えようとも、いかに苦難の人生であろうとも、いかに大きな災厄に襲われようとも、最後には幸福が訪れるという希望の物語であることが、おとぎ話の前提である。

おとぎ話というイメージから醸成される期待の地平を、ひとつひとつ裏切り、壊してゆくのが『リア王』である。それゆえ受容者(観客、読者)にとっては、たんに悲劇的物語を傍観するのではなく、自身が、衝撃を受ける側になる。受苦は登場人物だけでなく観客もまた体験する。

あるいはラカン的想像界、現実界の考え方を使えば、おとぎ話的世界は、ある意味、すべてが都合よく望むままにすすむ想像界である(芸術作品としての戯曲であることを考慮すれば象徴界か)。しかし想像界に私たちが安住することを、この戯曲は許してくれない。予想を裏切る衝撃的な出来事は生まれ、私たちは言葉を失いかねない。まさに現実界の衝撃、あるいは抑圧された現実界の回帰が生まれる。

したがって『リア王』は、期待を裏切り、希望をひとつひとつ潰しにかかる以上、反希望の芝居、救いがまったくない芝居ということができる。

救いがまったくない芝居。だが、ほんとうに救いがまったくないのか。希望のかけらはひとつもないのか。

これは『リア王』のなかの有名な場面のひとつだが、ある人物(エドガー)が、自身の落ちるところまで落ちた境遇をかえりみて、もうどん底にきたのだから、あとは這い上がるしかないと、なにか晴れやかな気持ちで述懐すると、そこに、両目をえぐり取られ、眼が見えなくなって召使の手をひかれてやってくる父親がやってくる。エドガーは、これをみて「これが最悪だと言っていられるうちは、まだ最悪ではない」と嘆く。

どん底まできたのだから、あとは上昇するしかないというのは、ヨーロッパ中世の運命の車輪のイメージからくるものであり、またおとぎ話的な世界観でもある。どん底まで落ちればあとは這い上がるしかない。実際、観客もそう期待する。そしてさらなるどん底へと突き落とされる。期待は裏切られ、おとぎ話的世界はこなごなになる。だから甘い期待を抱いて生きるのは愚かである。オプティミズムは罰せられるのである。

ただし「これが最悪だと言っていられるうちは、まだ最悪ではない」という台詞には、言葉で「これが最悪だ」と言っていられる限り、まだほんとうの最悪ではないという意味にもなる。イーグルトンが『希望とは何か』で着目するのもこのことである。

もしほんとうにこれが最悪であるなら、言葉も出てこないし、生きる意欲は失われ、嘆く気力さえ消え失せるだろう。ほんとうの最悪は、言語表現の極北どころか、言語表現を彼方にある。逆に、これが最悪だと言っていられるうちは、まだ最悪ではないのであり、そこにかすかな希望がある。

前回の記事で、「想像力は死んだ、想像せよ」というフレーズについて考えたように、「想像力が死んだ」とい言える限り、想像力は完全に死んでいない、まだかすかに息がある。想像することは、まだ、ほんのかろうじてであれ、可能なのである。「これが最悪だと言っていられる限り、それは最悪ではない」は、たんに落ちるところまで落ちたのだから、あとは這い上がるしかないという、根拠のない甘い考え、オプティミズムだけを意味するのではない。「これが最悪だと言っていられる限り」、人間にはまだ言語能力がある。言語能力があるかぎり、最悪は回避される、最悪は消滅できる。最悪を見据えて生き続けることができる。希望はあるのである。この土壇場の、ぎりぎりの希望、それがイーグルトンが『希望とは何か』で私たちに伝える希望なのである。

「想像力は死んだ、想像せよ」というのは、「想像力は死んだ、【想像力は死んだと言える限り、あるいは、想像力は死んだと、想像力にもとづくメタファー表現ができる限り】想像力はまだ生きている」と読み換えることができる。そして『リア王』をふりかえれば、まさにこのことがあてはまる場面がある。

リア王は、冒頭で追放した末娘のコーディーリアに、最後には助けられる。娘にみずからの過ちを詫びる――和解する老王と娘。だが、このおとぎ話的結末に観客が安住することを戯曲は許さない。戦いに敗れ捕虜となった老王と娘に、暗殺命令が下る。通常なら、これはクライマックスとなるハッピーエンディングを盛り上げるためのサスペンスでしかないだろう。はらはらドキドキさせながら、結局うまくいくだろうという観客の甘い期待を裏切って、リアにとって残された唯一の救いであったコーディリアは殺される。彼女の遺体を抱きかかえてリアが登場する。コーディーリアとの再会で正気をとりもどしていたリアは、絶望のあまり再び狂気にとりつかれたかのようにみえる。

しかし最後の瞬間、リアは、コーディーリアがまだ息をしているという幻覚にとらわれる。彼女はまだ生きているという思い込んだままリアは息絶える。

「コーディーリアは死んだ、コーディーリアはまだ生きている」

かくして老王と娘は、天国で結ばれるとか、あまりに悲惨な運命に対してシェイクスピアは、たとえ事実とは反することであれ、リアに救いとなるような幻覚を抱かせたのだとか、狂気のリアは、コーディーリアが生きているという幻想なくしても死にきれなかったのではないかとか、いろいろ解釈はできる。

しかし、そうしたメロドラマティクな観点に一理あることは否定できないが、同時に、むき出しの真実が、ここにあるのではないだろうか。「コーディーリアは死んだ、コーディーリアは生きている」という台詞はないのだが、この言明どおりの展開を戯曲は形成する。それは「コーディーリアは死んだ」と言葉で表現でき認識できる限り、その言表行為の瞬間と、その余韻のなかで、コーディーリアはまだ息をしているのである。「死んだ」といえる限り、「まだ死んでいない」あるいは「かろうじて、息をしているのである」。コーディーリアの死を嘆くことができる限り、コーディーリアは死んでいないのである。

戯曲はいっぽうで言葉にならない悲劇に直面しながらも、それを言語表現によって伝えることができる限り、悲劇はまたかろうじて克服できるのである。だとすれば言語芸術としての悲劇が伝えているのは、言語表現を不可能にするブラックホールのような悲劇ではなく、悲劇が土壇場でかろうじて、ほんとうにかろうじて克服できることである、つまり言語芸術としての悲劇が使えるのは希望なのである。
posted by ohashi at 23:02| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする

2022年04月06日

『希望とは何か』6

脱構築と希望

ずいぶん前のような気がするが、文学理論の入門講義のなかで、脱構築について説明する際に、私は、こんなことを話していた。昔配ったプリントは電子化しているので、今、記憶を確かめることができる。

「メタファーは殺される」という文なりフレーズがあるとする。
これはつまり、メタファーは、否定、否認、却下、抹消されるということ。

しかし、生き物ではなく、無生物や概念に対して「殺される」という語句を適用するとき、その「殺される」は、メタファーとなり、全体がメタファー表現となります。ということはメタファーは「殺されていません」。残念な表現・文です。

これはメタファーを否定し抹消するその瞬間に、メタファーを登場させるメタファー表現を使うという矛盾です。

メタファーは不要とされながら、メタファーを使うことによって必要であると証明されてしまう言行不一致の実例でもあるのです。

メタファーは不要といいながら、自分でメタファー表現を使っている矛盾

「殺される」というメタファーは、あるいはメタファー表現は死角に入っている。

メタファーは「殺される」というメタファー表現で、結局、メタファーは、否定されているのか肯定されているのか、死んでいるのか生きているのかわからない幽霊となる。

メタファーは殺されるのか殺されないのか決定不可能undecidableである。


脱構築について説明するとき、その基本は矛盾の指摘であると話す。「メタファーは殺される」という一文で、メタファーは殺されているのか活かされているのか決定不可能である。もちろんこうした矛盾を指摘することで、あなたが相手の怒りを買い、どんなに悲惨な人生をあゆむことになっても私は責任はとりませんからと、断るのだが。

あるいは「イズムは嫌いだ」「イズムにはコミットしない」というようなフレーズなり一文があるとする。

これを世界で初めて口にした人に対しては問題ないが、こうした言い方は誰もが一度ならず聞いたことがあるはず(もしそうでなかったら、ぼっーと生きてんじゃないぞと言われてもしかたがないだろう)。つまり「イズム化」してもおかしくない常套的な意見である。そしてまた「~イズム」がどんな場合にも悪であるとも言えないとすれば、「イズムは嫌いだ」というのは、「反イズム」の表明であり、みずからが「反イズム」といいう「イズム」に陥っていることになる。このことは重要で、みずからの「イズム」(ここでは「反イズム」的姿勢に無自覚なまま、あるいは自らの「反イズム」を死角として、他人のイズムだけを批判することほど、愚かで、また有害なものはないということになる。

しかし、同時に「反イズム」というのは、それ自体、「イズム」ではあっても、一理あるというか重要な姿勢であることはまちがいない。したがってみずからの「反イズム」というイズムに気づかずに「イズム」批判をするのは、愚かかもしれないが、同時に、誰もが犯す過ちかもしれない。先ほどの「メタファー」は殺されるも同じことで、否定されるメタファー表現を、みずから実践してしまうことは、愚かさの証拠というよりも、誰もが日常的に行なっていることであって、寛容になれとか大目に見よということではなく、言述行為に生ずる矛盾は、コミュニケーションにとって有害でもあり、また有益な働きをするのではないか。矛盾の指摘だけではなく、矛盾の効能みたいなものを考えてもいいのではないか……。

と、ここまでが脱構築の授業で話してきたイントロである。

しかし、今回、さらなる別角度から、こうした矛盾現象について語れるのではないかという気がしてきた。希望という観点である。

メタファーは重要なもので、私はメタファーが駆逐されたり亡くなったりするのはよくないことかと思うのだが、ただ一般には、なぜメタファーが殺されるのかピンとこない人も多いと思うので、前回の「想像力は死んだ」にもどそう。おそらく「想像力」というのはメタファーよりも明確に善いものとされているように思うので。

そうなると「想像力は死んだ」というのは、「死んだ」というメタファー表現が想像力なくしてありえないものなので、想像力は死んでない、つまり矛盾することになる。しかし、矛盾を指摘して終わりではない。

想像力というのが、もし言語道断の悪辣なものであるのなら、「死んだ」といいながら想像力の働きを維持しているという矛盾なり裏切りは許し難いものであり、この矛盾は強く指摘しなければならない。

しかし想像力は、よいものである。となると「死んだ」という表現のなかに、想像力の痕跡が残っていることは、よいことではないか。想像力消滅という暗いニュースの映像のなかで、消滅した想像力が、それでもぴくぴくとかろうじて体を動かしているのをみるようなものである。

矛盾というのは、一般に、虚偽、ごまかし、隠蔽、欺瞞の温床だが、同時に、生と死の共存、対立するものの共存であり、決して滅びることのない、その片鱗の残存をも意味することがあり、希望の温床ともなる。

イーグルトンが『希望とは何か』の最終章で語る、Hope against Hopeとは、まさにこのように脱構築的観点か指摘されるうる消去できぬ矛盾の存在のなかに、希望の光をみることとつながっている。そしてこのような希望の在り方は、脱構築によってのみ浮上するだけではない。文学作品そのものが、これまでずっと語ってきたことでもある。つづく

posted by ohashi at 19:56| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする

2022年04月05日

『希望とは何か』5

イマジネーション・デッド、イマジン
イーグルトン自身が考える希望観については、その最終章に披瀝されるのだが、それはたとえば、Imagination Dead Imagineとでも言えるような絶望のなかのかすかな希望あるいは絶望にのみこまれつつも最後の一手のようなものと考える。

Imagination Dead Imagineはサミュエル・ベケットの散文作品(1965)であり、それ自体、興味深いテクストなのだが、ここではタイトルのみにこだわることにしたい。

ちなみに私がイギリスで生活していた頃、いまもそうかどうかわからないが、庶民の日常生活を構成するあらゆる事物が、がたがきていて、よく壊れた。ただし、よく壊れるのだが、すぐに直してくれるという点で制度そのものはまだ健在だった。

そんなとき電話が通じなくなった。電話は日本からもよくかかってくるので、この状態が続くと日本の家族とか知人に余計な心配をかけることになりかねない。そこで電話局に通報して一刻も早く直してもらうことにした。自宅の電話は使えないから、町の公衆電話を使った(ちなみに携帯とかスマホがまだない時代の話である)。

電話が通じなくなったと言おうとして‘My telephone is’と言いかけたが、さて次に何とつづけたらいいか言葉が出てこない。今、冷静に思い返せば、いろいろな言葉、フレーズを思い浮かべることができるが、その時はあせって、思わず‘My telephone is dead.’と言ってしまった。

しまった!なんて稚拙な表現を使ったのだと後悔したが、それで完璧に通じて、その日のうちに復旧してくれた(フラットのある建物の電話設備の点検時に切られたスイッチをもとにもどし忘れたというそれだけのことのようだった)。だから、それでいいようなものだが、その時は、私としては「僕の電話がね、死んじゃったの」という、まともな大人なら言いそうにない表現を使ったと思い恥ずかしくなった。まあ相手は外国人だからと大目にみてくれるかもしれないとしても。

しかしその時はわからなかったのだが、 ‘My telephone is dead’というのは立派な英語である。私自身、それが思わず口をついて出たというのは、どこかで耳にした、どこかで読んだかして、記憶されていたからだろう。別に子供じみた表現ではないし、それでスムーズに相手に伝わったのだから常套的表現であった。実際、その時は知らなかったのだが、これは英和辞典などに例文としても掲載されている。

Imagination dead imagineのdeadというのも機能しなくなったということでMy telephone is deadのdeadと同じである。そのことを言わんとしてどうでもいい思い出話をと怒らないで欲しい。それは想像力が死んだ、枯渇した、働かなくなったのに、どうして想像できるのかという問いとも関係する。

もし「想像力は死んだ、想像せよ」が『希望とは何か』で最終的に語られる希望のイメージなら(と、私は考えるのだが)、なぜ、すべてが失われ可能性がなくなったときに、なぜ想像できるのかが問題になるはずである。まあ、やけくそで、だめでもともとで、とにかく「想像する」のだという根性論に通ずるものがあるかもしれない。あるいは旧約聖書の『ヨブ記』にあるいように、「たとえ神が私を殺すとしても、私は神を信仰する」という無根拠・無償の信仰・信念とどこかでつながるものがあるのかもしれない。どちらもイーグルトンは首肯するかもしれないが、また、希望とは、なんとかなるさというオプティミズムとは異なり、根拠のあるものだという説もイーグルトンは紹介している。そうImagination dead imagineのimagineを可能にする根拠は、このフレーズのなかにある。

Imagination deadのdeadは、機能不全、不可能になったということを「死んだ」と表現するメタファーである。生きているものは死ぬ。しかし生物以外のものについて、「死んだ」というのはメタファーである。My telephone is deadも、ある意味、幼児が使うような稚拙なメタファー表現かもしれないが、一般には、メタファーとして意識されることのないありきたりなフレーズと化しているとしても。

想像力が枯渇する、働かないという思いに嘘偽りはないとしよう。しかし、そのことを「死んだ」というメタファーを使うことで、かろうじて想像力は、その土壇場のぎりぎりのところで消滅間近の瀬戸際で生きていた。この最後の想像力の一片、このなけなしの想像力、日常的なフレーズのなかに埋没しつつもかろうじて息づいていた想像力のひとかけら、これがあるかぎりに、想像力は絶滅していない。そしてこのミニマムな想像力を賭けることはできるだろう。ほんとうにゼロになることはない。なにかが残る。その微小な可能性にすがることができる。

だからこそ「想像力は死んだ」⇒「死んだ」といえるかぎり想像力はまだかろうじて生きている⇒この最少の想像力があるかぎり、想像はできる。

あるいはこうも言える。何かが死んだといえる限り、それは死んでいないとも。希望はないと言える限り、希望はあるのだ、と。 つづく

posted by ohashi at 23:17| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする

2022年04月02日

『希望とは何か』4

2022年3月10日に岩波書店よりテリー・イーグルトン『希望とは何か』を翻訳出版した(単独訳)。この翻訳について、裏話といってもたいした話ではないのだが、まあ裏話めいたエピソードを断続的に記しておきたい。

メニッポス的諷刺について

すでにイーグルトンの『希望とは何か』が、「希望」という異例のテーマであることに戸惑いを感じている読者も多いかもしれない。このことはすでに『希望とは何か』2(2022年3月)で述べた。

べつにむつかしく考えなくていい。イーグルトンは希望についての哲学的・神学的・思想的そして文学的な観点について列挙しながら、「希望とは何か」(本書のなかで最長の第2章のタイトルがこれである)について語っている。そこはむつかしくない。私の翻訳がうまく訳し切れているとしての話だが。

むしろむつかしいのは、議論があっちへ行ったりこっちへ来たりと、議論が、なにかとりとめもなく放浪している感じがするというところだろう。キルケゴールの『死に至る病』(つまり絶望)についても、まとまったページが割かれている。もちろん、話題にそってその都度発揮されるイーグルトンの記述の瞬発力ははんぱではなく、キルケゴールの『死に至る病』についての記述は、凡百の啓蒙書を凌ぐ。嘘だと思うなら、ほんとうに『死に至る病』についてのなんらかの解説書・解説文と、本書の記述を読み比べていただきたい。

ただし、絶望の話までして、どうなるのかとか、第3章の終わりは、希望もなければ絶望もしない、ただ享楽的に破滅と戯れる「バカップル」アントニーとクレオパトラの話で締めくくられるのも、その話は本当に面白いのだけれども、なぜ、ここでという疑問は残る。

私は訳者あとがきのなかで、本書が「メニッポス的諷刺」の体裁をとる記述であることをくどいほど指摘した。最初は、あとがきで書くことがなくて、無い知恵を絞って苦し紛れでメニッポス的諷刺の話をしたというところもないわけではないが、今となっては、実に的確な指摘ではないかと、我ながら、自分の慧眼に驚いている。

私は近代のメニッポス的諷刺の典型としてヴォルテールの『カンディード』やサミュエル・ジョンソンの『ラセラス』を考えているのだが、それは主人公が、なんらかの叡智を求めて旅をし、いろいろな哲人・賢者の話を聞くことにある。彼ら賢人たちが説く思想はどれも一理あるものだが、同時に、どれも限界を抱えていることがわかる。結局、絶対的な真理などないことを納得した主人公は自分なりにゼロから物を考えることを決意する。

このメニッポス的諷刺の、物語ではなく、論説面でのヴァリエーションというのは、百科全書形式とかアナトミー形式と呼ばれるもので、これは諷刺性というよりも網羅性を重視する。なんらかの主題について、多様な観点を、網羅的に過不足なく、可能な限り、その全体像を俯瞰できるように語ることが重要になる。多様な観点について優劣はつけない。超越的な絶対的な観点というものは示さない。俯瞰図が提供できればいい。百科全書形式というのは言い得て妙である。

だから『希望とは何か』の読者は、イーグルトンという観光案内人のあとをついて、希望についてのさまざまな観点について、みてまわるというように考えてもらえればいい。そのため、重複とか似たような例がつづいたり、議論が反復的になったり、超越的な観点がなくても、読者は気にしないでいただきたい。観光地をめぐると考えていただければよい。

また、この観光案内人、皮肉な笑いや諷刺的笑い、さらにナンセンスな笑いおよぶユーモア感覚に優れているのだが、いつものようなユーモアは、ないわけではないが、今回は控えめになっている。

しかし個々の事例についての、つっこみはいつも優れていて、なるほどと納得させられるのだが、同時に、この観光案内人、いろいろな希望観について紹介してくれるのだけで、どの希望観が優れているとか、どの希望観にコミットすべきかについては、語ってくれない。

もちろん、これがメニッポス的諷刺あるいは百科全書形式の特徴なのである。最終的解答が示されることはない。あるいは最終的結果は読者が選ぶしかない。そしてそのことの最悪の結果は予想できる。メニッポス的諷刺の対象となるのは、どちらかというと先端的で流行をいく現象なり事物なり思想である。そして諷刺の対象になるのだから、そこで語られ展示されたものは、どれもがクズであるという暗示がある。だから、全部廃棄しても問題ない。どれも知らなくても支障はきたさない。かくして従来通りの保守的な観点が守られることになる。先端的知であれ叡智であれ、新奇な流行現象であれ、そんなものはすべてゴミ芥、あぶくのようなもので、コミットするにおよばない。コミットしないほうがいい。従来の保守的観点なり姿勢こそが素晴らしいという暗示されるのである。

あるいは百科全書的に展示された網羅的知は、学ぶべき対象などではなく、廃棄すべきゴミなのである。そしてゴミを片づけることのできる語り手は、読者であるあなたは、賢人や哲人の所説にまどわされることのない最高の叡智を身に着けた超越的な人間ということになる(実際には、こうした所説を提供できるような知恵も力もありませんと、読者であるあなたは謙虚な姿勢をとることになるが、もちろん、内心では、このクズがと最高度の傲慢さで、メニッポス的諷刺の対象を嘲笑することになる)。

しかし、『希望とは何か』の案内人は読者をこうしたところに導こうとしているのではない。読者は心配するには及ばない。観光地案内が終わったあと、この案内人は、自分の希望観を最後に披露してくれるからだ。つづく
posted by ohashi at 19:15| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする

2022年04月01日

『希望とは何か』3

2022年3月10日に岩波書店よりテリー・イーグルトン『希望とは何か』を翻訳出版した(単独訳)。この翻訳について、裏話といってもたいした話ではないのだが、まあ裏話めいたエピソードを断続的に記しておきたい。今回は第三回目

既訳の使用について

今回、個人としての初の試みとして、原書中に引用されている語句や文について、既訳のあるものは、すべてそのまま使用することにした(既訳があることを知らずに見落としたものもあったかもしれないが、既訳があることを知っていながら、その訳文を採用しないということはしなかった)。

これまでも私自身、既訳のあるものは、一部、それをそのまま使ったりしたこともあったが、既訳はすべて使ったということはなかった。その意味で初めての試みだったが、それなりに苦労はあった。

いや、自分で訳すのではあく、他人が訳したものをそのまま使ったのだから、苦労などないはずと思われるかもしれないが、けっこう苦労した。

最初は、そのつもりはなく、既訳のあるものも、すべて自分で訳しなおすつもりだったが、途中で、既訳をそのまま使ったら(もちろん出典は明記する)、訳文にも変化がでて、多様性を実現できるのではないかと思えてきた。

【注記:もちろん私の翻訳の場合、引用文あるいは言及のある文献で既訳のあるものは、たとえ自分で訳しなおす場合でも、そのページ数を記載することを原則としているので、該当箇所の既訳を探したあと、その既訳をただ参考にするか、そのまま使用するかは、労力の点で大差はない(もちろん、使用した場合はその旨を明記する)。

もうひとつ、既訳の該当箇所は、これまで該当ページだけを記載していたが、その本を持っているか閲覧できるなら意味があるが、そうでなければ、あまり意味もないことがわかった――ただし既訳をそのまま使うなら、使用箇所を明記するためにページ情報は必要となる。また最近では電子書籍も増えているので、該当ページ情報は意味がなくなる。そのため、今回は、可能な限り、該当ページが、その著作のどういうところにあるのかも、該当ページとともに記載することにした。たとえば、二三六頁(第4章)というように。

なお、既訳情報までも丁寧に記載する、私の翻訳方法は、翻訳出版の敷居を必要以上に高くするのではないかと危惧する向きもあろう。それはそのとおりで、どの翻訳も、既訳のあるものは、私がしたようなこと(最低限でも既訳の出版状況と該当ページの記載)をすべきだと要求するつもりはない。どの翻訳もそのようなことをしたなら、私の翻訳の読者サービスや情報提供が他の翻訳に比べて格段に優れていることが見えにくくなる。敷居の向こうにある格違いの翻訳は私の翻訳だけでいい。】

最初は、すべて既訳のあるものないものの、すべて自分で翻訳するつもりで、全体の半分くらいまで翻訳作業をしていた。そこですでに自分で翻訳したところと既訳とを比較してみた。正直言って原文の解釈について既訳から教えられたところもあったが、ただ全体として既訳のほうが完成度が高かった。これは私の翻訳能力が劣っているということもあるが、まだ下書き段階の私の翻訳文と、推敲と校閲を経て何度もチェックが入ったうえで出版された既訳とでは、気合と費やされた労力が違う。既約の完成度が高いのは当然といえば当然である。このこともあって、最初から引用文で既訳のあるものは、それを使うことにした。

そこまではいいとしても、既訳を使うことにもリスクはあった。原書では、一部を切り取って引用するわけだが、その際、前後関係から隔離された引用文は、独特のオーラのようなものを帯び始めることになる。そのため元の文脈においては、目立たなかった意味なりニュアンスが、浮上し強調されることになる。そうなると、既訳の訳文では、新たに生ずるオーラなりニュアンスなりを伝えきれないという事態にもなる。しかし、こういう場合、そこは無視して既訳を使うことにした。ひとつは解釈がまちがっているわけではないこと。またすべての引用文の既訳がそうであるわけではないこと。またニュアンスをかぎとる読者の読解能力の高さを信頼してよいと判断したからである。

なお『希望とは何か』は、コンパクトな希望学大全といった趣があって、希望に関する数多くの引用に彩られているのだが、その引用で既訳のあるものすべてを使うといっても、けっこうな量の引用なので、具体的にどのようにして調べ確認したのかと苦労話を期待されるかもしれない。

調べることはけっこう苦労した。ひとつの引用の出典を調べ、日本語訳を突き止めるのに一日がつぶれたということはよくあった。しかしそれ以外に苦労はしなかった。日本語訳は図書館で調べればよいのだが、ただ、このコロナ過で大学図書館が開いていないことも多かったというか、実際どうなのか部外者にはよくわからなかった。またどこの図書館であれ、そこへの移動というのは、自粛生活中の身にとっては、けっこう抵抗があった。そこで入手できる既訳はすべて購入した。

唯一の例外は、キケロ―からの引用(第2章、原注96)。これは大学の図書館にいけばあるだろうが、タイミングと自粛生活から遠くまで足を運びたくない。古書でばら売りにもされているのだが、一冊でもバカ高い値段がついていて、とても貧乏人の私には手を出せない。『キケロ―選集12』(岩波書店)が欲しかったのだが、しかたなく、編集者の方に、岩波書店で保管されているであろうこの本を閲覧させてもらえないかとお願いした。早くて15分、長くても1時間で該当箇所は見つけるからとも伝えた。するとありがたいことに、コロナ過で、わざわざ出向いてもらう必要はない。本を送るから、×月×日までに返してもらえばよいといことだった。

本が届いた。思ったより分量のある著述だったが、20分くらいで引用されている箇所をみつけた。日本語訳は、英語訳よりもニュアンスをくんだ丁寧な翻訳だった。該当箇所とページも分かったので、その日のうちに返送した。

日本語訳を使わせていただいた本は、キケロ―の選集以外、すべて私が所持している。そう、使った既訳の本は、すべて手元にある。もちろんもともと持っていた本があるので、新たに購入したといっても多額の書籍費を費やしたわけではない。とはいえ、この経費と翻訳を献本した経費をあわせれば、完全に赤字になることはまちがいない。昨年末のイーグルトンの『文化と神の死』(青土社)と、今回の『希望とは何か』は、ともに赤字である。翻訳を出せば出すほど貧乏になっていることはまちがいない。

まあ、それはともかくとして、一つの著述に対して複数の既訳があった場合どうするかは迷った。たとえば原書ではシェイクスピアからの引用が多いのだが、シェイクスピアの既訳は複数ある。私は個人的にどれも名訳だと思っているので、特定の既訳だけを集中的に使用するという理由はない。そしてどの既訳を使っても、なんとなく角がたつようなところもある。

ただし、岩波書店から出版される本である。岩波文庫のなかには、シェイクスピア作品も、絶版のものも含めていくつか入っている。そのためシェイクスピアに限らず、岩波文庫にあるものは、優先的に既訳として使うことにした。実際、著者イーグルトンが引用する文章のほとんどが、岩波文庫に入っていたということにもなった。シェイクスピアに限ると、『マクベス』は木下順一訳、『リア王』は野島秀勝訳、『アントニーとクレオパトラ』は本多顕彰訳を使うことになった。どれも訳文として問題はないというかすぐれている。本多顕彰訳(絶版)は、固有名詞の表記が、やや古臭いのだが、そのままとした。

そして岩波文庫にないシェイクスピアの『冬物語』は、一番新しい日本語訳として、松岡和子氏のちくま文庫版を使うことになった。岩波文庫版と一番新しい松岡和子訳というのであれば、まあ、誰からも文句は出ない――いや、文句を言う人などいないと思うのだが、自分なりにバランスのとれた選択だったと自負している。
posted by ohashi at 18:00| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする

2022年03月21日

『希望とは何か』2

2022年3月10日に岩波書店よりテリー・イーグルトン『希望とは何か』を翻訳出版した(単独訳)。この翻訳について、思うところをいくつか断続的に記しておきたい。

今回は第2回目、題して「希望?」

2021年12月にはテリー・イーグルトンの『文化と神の死』(青土社)を翻訳出版した。これはけっこう大部な本で、しかも哲学的神学的で地味に難解な本かもしれず、その時点で読者が期待をもって手にするような本ではなかったかもしれないが、今回の『希望とは何か』の出版によって、興味をもたれる読者もいるのではないかと考える。

と同時に『文化と神の死』は、宗教的転回をし、また文化ならびに文化研究について考察しつづけているイーグルトンの、いかにもイーグルトンらしい本で、イーグルトンを知っている読者なら、たとえ手に取らないとしても、さして違和感をもたないに違いない。

ところが、この『希望とは何か』については、え、何? イーグルトン、希望?といぶかる読者もいるようだ。イーグルトンを知っている読者なら、なおさらそうかもしれない。

たとえばイーグルトンの『唯物論とは何か』――もし翻訳出版されるなら『マテリアリズムとは何か』となるかもしれないが――、『倫理とは何か』、『悲劇とは何か』、『犠牲とは何か』、『文化とは何か』、『ユーモアとは何か』という本なら*、読者も安心するかもしれないが、『希望とは何か』というのは、あまりにイーグルトンらしからぬ、またこのご時世におもねるような、あるいは自己啓発本めいたもののようで、多くの読者にとって違和感マックスかもしれない。

しかも原著は2015年。なぜあの時点で、「希望」なのかという違和感は私も抱いていた。そうしたこともあって、あのような、訳者あとがきの冒頭となった。

また私自身、最初はこの本をとくに翻訳したいとは思わなかった。岩波書店から依頼されなかったら、私としては、この本を翻訳しなかったと思うのだが、いまは、この翻訳をしてよかったと思う。岩波書店にも感謝したい。比較的薄い本だが、「希望学大全」とでもいうべき本であり、「希望」について改めて考えることができた。

*ここに列挙した本は、未訳のイーグルトンの著作のタイトルを、少しアレンジして示している。『文化とは何か』は、すでに松柏社より翻訳出版されているのだが、原著のタイトルはThe Idea of Culture。その後、イーグルトンはCultureという本も出していて、そちらの本を指している。

posted by ohashi at 21:46| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする

2022年03月20日

『希望とは何か』1

2022年3月10日に岩波書店よりテリー・イーグルトン『希望とは何か』を翻訳出版した(単独訳)。この翻訳について、裏話といってもたいした話ではないのだが、まあ裏話めいたエピソードを断続的に記しておきたい。

今回は第1回目。

著者イーグルトンは本書でスペインの作家エンリーケ・ビラ=マタスの小説Dublinesque(英語訳のタイトル)から引用している(翻訳p.207)。このDublinesqueは日本語訳がなく、どう訳してよいか最後まで迷った。『ダブリン風』というのは芸のない訳し方だと思われるかもしれないが(もし日本語訳が今後出版されるとすれば、「タブリン風」というタイトルだけは選択されないだろう)、この訳題にも、一応、正当的な理由はある。

というのも小説のなかで、Dublinesqueは、フィリップ。ラーキンの詩のタイトルでもあると書かれている。そこでラーキンの詩の翻訳では、‘Dublinesque’をどう訳しているのか、本を取り寄せて調べてみた。

『フィリップ・ラーキン詩集』児玉実用・村田辰夫・薬師川虹一・坂元完春・杉野徹訳(国文社1988)

この本がラーキンの詩集の唯一の翻訳かどうか、また新たな翻訳が出版されたかどうか、なにも知らないのだが、この詩集にかぎっていうと、‘Dublinesque’という詩のタイトルは「ダブリン風」と訳されていた。まあ誰にとっても、これは無難な訳題なのだろう。

ところでエンリーケ・ビラ=マタスについて、私は日本で翻訳が出始めた頃はなにも知らなかった。ただ大学院の授業で、現代文芸論に所属する院生が、『バートルビーと仲間たち』(木村榮一訳、新潮社、2008)について熱く語る研究発表をしたときに、いくらアメリカ文学やメルヴィルは専門外とはいえ、「バートルビー」をタイトルにした外国文学について知らなかったことについて、自分の不明を恥じたし、また、その研究発表から作家と作品に興味をもった。

その後、日本語訳と英語訳を入手し、以後、私にとって、愛読書のひとつとなった。昨年はビラ=マタスの短篇集『永遠の家』が翻訳出版された。この『ダブリン風』もいつか翻訳されることを期待している。

ちなみに訳者あとがきを書いているとき、そこで触れられている「メニッポス的諷刺」には、『バートルビーと仲間たち』も含まれることに気づいて、本文中の引用で、既訳のあるものは、それを使うという、今回の翻訳の方針について、訳者あとがきのなかで、気の利いたことを書こうとして、以下のような、たいして気の利いたわけではないことを書いてしまった――

本文中にも引用があるエンリーケ・ビラ=マタスの本文では触れられていない『バートルビーと仲間たち』――書けなくなった詩人・作家に関するまさにメニッポス的諷刺的総覧――に影響を受けた訳者は、既訳をただ書き写すことに、無上の喜びと、先達への業績への畏敬と感謝の念をいだいていた。p.241

恥ずかしながら、この引用での「先達への業績への畏敬……」は、意味が通らないわけではないが、「先達の業績への畏敬……」とすべきだったと今になって気付いた。

それはさておき、実は、上記の引用では、以下の下線部を削除していた。

本文中にも引用があるエンリーケ・ビラ=マタスの本文では触れられていない『バートルビーと仲間たち』――書けなくなった詩人・作家に関するまさにメニッポス的諷刺的総覧――に影響を受けた、あるいはすでにバートルビー化しているかもしれない訳者は、既訳をただ書き写すことに、無上の喜びと、先達への業績への畏敬と感謝の念をいだいていた。
p.241


別に校閲者や編集者から指摘されたわけではなく、自分の意志で、削除した。もともと自虐的なコメントは嫌いではないというか大好きなのだが、読者にとっては、どうでもいい事柄で、訳者だけが面白がっていても読者には不快かもしれないと思って。
posted by ohashi at 16:27| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする