イギリスに滞在していた頃、知人のイギリス人夫妻と話をしていたとき(ちなみに夫妻は私が日本の大学の教員であることを知っている)、夫のほうが、うちの家内は方向音痴で、彼女は、さしずめProfessor of no geographyだと冗談めかして語ったことを覚えている。そんな風にprofessorという語を使うのかと感心したが、本の装丁をはじめとして、なんであれデザイン関係については私は全く美的センスがないので、いうなれば「プロフェッサー・オヴ・ノーセンス」というは英語として意味が通じないだろうから、Professor of no aestheticsである。
そのため本の装丁には私は自分から口出したことはないし、すべて編集者あるいは出版社に任せている。またこれまでの経験で、任せて全く問題なかったというか、私が下手に口出しをしたらとんでもないことになっていただろうとは予測がつく。また翻訳に関しても、私がかかわった翻訳書の装丁は、どれも素晴らしいもので、私としては残念に思った装丁はひとつもない。
今回『文化と神の死』の装丁は、黒いカバーに黒い太い帯、そこに白地の文字という、ある意味、単色だがインパクトの大きなものとなっている。私は本書の訳者あとがきを書いている時点で、装丁がどうなるかは知らされていなかった、というかそのときはまだ何も決まっていなかったと思う。だから、これから書くことは、訳者あとがき執筆の時点で、知っていれば、書いたであろうこととなる。
イーグルトンの宗教論である『宗教とは何か』(大橋洋一・小林久美子訳、青土社、2010)は、実は、白いカバーに太い白い帯の装丁である。カバーの文字は黒だが、太い帯のほうの黒文字のほかに、赤字あるいは赤褐色の文字で、真っ白な本という印象はないのだが、しかしカバーも帯も白地であり白い本であることは変わりない。
今回の本は、この『宗教とは何か』の続編ではない。あるいはイーグルトンの宗教論二篇のうちの一篇というわけでもない。『宗教とは何か』の原題はReason, Faith and Rvolution: Reflections on the God Debate(2009)で、当時盛り上がっていた「神論争」への介入でもあることを示している。
そして今回の『文化と神の死』の原題はCulture and the Death of Godで、特に前後編とか正編続編というわけでもない。しいて言えば、イーグルトンの著作のなかで、神(God)という言葉をタイトルに含めている2冊ということになる。また内容からすると、『文化と神の死』のほうは、『宗教とは何か』についての、長い、歴史的・思想史的・文化史的な脚注という側面がある。そういう意味ではペアになる本かもしれないが、実際のところは『宗教とは何か』は神論争(ドーキンスらによる宗教批判)の時代の産物であり、『文化と神の死』は、宗教の社会的文化的機能を積極的に評価するポストモダンの宗教擁護の思潮を背景とした本である。もちろんイーグルトンは、そうした宗教擁護に対して、神を殺し、聖書の革命性を骨抜きにするものとして批判しているのだが。
たとえそうでも、緊密な関係のある正編と続編でもないが、また、本編と長い注釈編でもないが、なんとなくペアとして考えてもおかしくない二著作なのだが、今回の『文化と神の死』の黒ずくめの装丁によって、強く結び合わされ、運命の二著となった観がある。
『宗教とは何か』は、科学者・合理主義者による神殺しが、いかに浅薄なものか、神は、あるいは宗教は、姿かたちを変えても生き延びている――「神は死なない」――がテーマであった。それが白い本となった。これに対し『文化と神の死』は、訳者あとがきにも書いたように「神は死なない」テーゼが皮肉な展開をたどることになる。それはポストモダニストによる神あるいは宗教の復権である。だが、これこそが、いよいよ神を殺すことになったと著者は考える。それが黒い本の主張で、あたかも「神の墓」か「神の棺」のような黒い箱は、内容をパフォーマンスしている。
実際のところ、『宗教とは何か』を翻訳出版したときは、『文化と神の死』の原著は出版されていなかったので、ペアになるかもしれない本が、それも黒い装丁として世に出ることなど、誰一人として予想していなかった。それがいまこうしてペアになる本を私が翻訳(共訳)でき、そのことを歴史的に画するかのように、対照的ペアとしての黒い装丁の本となったことには深い感慨を禁じ得ない。
ただし急いで付け加えなければいけないのは、今回の黒い本は、カバーの色こそ黒でも、文字のレイアウトなどは、白い前作とは全く異なる。帯も前作は全体の6割になる白い帯だったのが、今回の帯は、7割、あるいは8割に迫ろうかという幅広になって、第二のカバーに迫る大きさとなっている。白い本の帯には赤い文字が入っていたが、今回の黒い本のカバーや帯に赤い文字はない。また本体において、章の扉が黒地に白文字というデザインは、前作も今回も同じである。この差異と同一性のバランスはまた、本そのものの内容とも連携していて、今回の翻訳がたんなる続編ではないことを示している。
訳者あとがきでは、前作を読んでいなくとも本作を読むことに問題はないことを力説したが、これは続編ではないことを強調し、また前作を読まねばわからないという誤解を払拭しつつ、敷居を低くする狙いがあったのだが、正直いえば、この機会に前作も読んでほしい。いやすぐに読まなくても、前作を購入して、今作と並べて、装丁面における、白と黒のペアならぬペア、差異と同一性の戯れを楽しんでほしいし、それが内容とも連携していることを読んで確かめていただければと願っている。
2021年12月06日
『文化と神の死』2
最近上梓した翻訳、テリー・イーグルトンの『文化と神の死』(大橋洋一・畑江里美訳、青土社、2021.12.10)を購入された方、あるいはこれから購入されるかもしれない方にむけて書いている。訳者あとがきには、書かれていないことが中心となる。
タイトルについて
私が訳者あとがきを書いているときには、まだ本書の翻訳タイトルは決まっていなかったように思う。翻訳書のタイトルをどうするかについては、やや紆余曲折をたどった。というのも原題Culture and the Death of Godは、〈Culture:文化〉と、〈the Death of God:神の死〉という二つの話題を組み合わせたタイトルだと、疑問の余地なくわかるのだが、これを日本語にそのまま翻訳すると〈文化と神の死〉となるものの、このとき、「と」が何と何を結びつけている、あるいは区分しているか、曖昧になる。つまり「〈文化〉と〈神の死〉」か、「〈文化と神〉の〈死〉」か、ふたつの可能性がでくる。原題では死ぬのは神であるが、日本語に訳すと、文化も神といっしょに死ぬという意味も生ずる。
いや、そんなふうに受けとめるのはバカだと思われるかもしれないが、しかし、昨今の社会情勢をみるにつけても、「文化」も死ぬ/死んだとみなす読者は決してバカではない。むしろ優れた洞察力・知力を備えた読者ともいえる。
またさらに、「文化の死」という意味に実際に受けとめる読者はいないとしても、「文化の死」ともとれる可能性が見えてしまうのは、読者にとって、不快とはいかなくても、気がかりではないだろうか。
編集者も、私と同意見で、「文化と神の死」とした場合の、日本語のやや両義的なところは問題視していた。そして出版社で検討の結果、『文化と神の死』となった。なんだというなかれ。こうなったのは、私のほうによい代案がなかったことも原因のひとつだが、ただ、編集者の躊躇が無視されたということではないと思う。社内では発言力のある地位につかれている編集者なので、その躊躇を押し切ったのは、おそらくご自身であったのだと思う。
私としては、よい代案がなかったこともあり、これはこれで原著のタイトルの直訳であり、翻訳書の原著がわかりやすいこと、また、「文化の死」と受け止める読者は別にして、ほとんどの読者がタイトルから内容を推測できるという点で、結果として、これでよかったのではないかと思っている。
訳者あとがき執筆時に、タイトル以外に決まっていなかったもうひとつのことがある。それは本の装丁である。 つづく
タイトルについて
私が訳者あとがきを書いているときには、まだ本書の翻訳タイトルは決まっていなかったように思う。翻訳書のタイトルをどうするかについては、やや紆余曲折をたどった。というのも原題Culture and the Death of Godは、〈Culture:文化〉と、〈the Death of God:神の死〉という二つの話題を組み合わせたタイトルだと、疑問の余地なくわかるのだが、これを日本語にそのまま翻訳すると〈文化と神の死〉となるものの、このとき、「と」が何と何を結びつけている、あるいは区分しているか、曖昧になる。つまり「〈文化〉と〈神の死〉」か、「〈文化と神〉の〈死〉」か、ふたつの可能性がでくる。原題では死ぬのは神であるが、日本語に訳すと、文化も神といっしょに死ぬという意味も生ずる。
いや、そんなふうに受けとめるのはバカだと思われるかもしれないが、しかし、昨今の社会情勢をみるにつけても、「文化」も死ぬ/死んだとみなす読者は決してバカではない。むしろ優れた洞察力・知力を備えた読者ともいえる。
またさらに、「文化の死」という意味に実際に受けとめる読者はいないとしても、「文化の死」ともとれる可能性が見えてしまうのは、読者にとって、不快とはいかなくても、気がかりではないだろうか。
編集者も、私と同意見で、「文化と神の死」とした場合の、日本語のやや両義的なところは問題視していた。そして出版社で検討の結果、『文化と神の死』となった。なんだというなかれ。こうなったのは、私のほうによい代案がなかったことも原因のひとつだが、ただ、編集者の躊躇が無視されたということではないと思う。社内では発言力のある地位につかれている編集者なので、その躊躇を押し切ったのは、おそらくご自身であったのだと思う。
私としては、よい代案がなかったこともあり、これはこれで原著のタイトルの直訳であり、翻訳書の原著がわかりやすいこと、また、「文化の死」と受け止める読者は別にして、ほとんどの読者がタイトルから内容を推測できるという点で、結果として、これでよかったのではないかと思っている。
訳者あとがき執筆時に、タイトル以外に決まっていなかったもうひとつのことがある。それは本の装丁である。 つづく
posted by ohashi at 15:19| 『文化と神の死』
|
2021年12月05日
『文化と神の死』1
久しぶりに翻訳を出すことができた。
テリー・イーグルトン『文化と神の死』大橋洋一・畑江里美訳、青土社、2021。
奥付には11月25日印刷、12月10日刊行とあるが、すでに書店には並んでいることと思う。これは購入された方のための記事(数回連載予定)であり、またこの記事を読んで購入意欲をかき立てられればとも思うが、それは期待薄とも思っている。
なお今回は、献本の数量を限った。ただでさえ人付き合いが悪いうえに、大学も定年退職したし、年賀状もまったく出さなくなったので(たとえいただいても返事の年賀状も出していない)、当然、献本の数も少なくなった。ところが献本数を限っても、結局、献本金額が原稿料を上回ったので、今回は、いや今回も赤字である。この翻訳を刊行して私に入る収入はない。まあいつものことなので驚くことではないのだが。
あと特記すべきは、今回は編集者と最初に翻訳を刊行の打ち合わせを大学の研究室で行なってからは、以後、一度も会うことなく作業を進めた。共訳者の畑江さんとも、翻訳作業が始まってからは、今に至るも一度も会ってない。同じ青土社から翻訳を刊行した、ジュディス・バトラーの『分かれ道』は、共訳者の岸まどかさんがアメリカ在住だったので直接会うことなく作業をすすめたが、編集者とは直接何度も会っていた。今回は完全にリモート状態での作業で、初めての体験なのだが、とくに不便を感ずることもなかった。これからも、たとえコロナ禍が収まったとしても、リモート状態での本作りは続くかもしれない。
原著はTerry Eagleton, Culture and the Death of God(2014)で、そう2014年の本である。翻訳刊行までにずいぶん時間がかかっているが、翻訳原稿は正確には覚えていないのだが、共訳者の原稿ともども、2年くらい前にできていた。ただ、コロナ禍その他のせいで、出版まで待たされた。その間、私は、いろいろな方から献本として単著、論文集、翻訳などをいただいたのだが、普段なら、ただありがたくいただくだけなのだが、今回は、どうしてこの人たちの本が、このコロナ過の大変な時期に、何事もなかったように出版され、私の原稿は、どうしてずっと待たされているのだと、焦燥感に駆られていた。実のところ、まだ待たされている原稿があるのだが、それらに先立って、年内に今回の翻訳を刊行できたことに対して青土社にはほんとうに感謝している。
なお在職中は、翻訳を引き受けてもなかなか翻訳がはかどらず、編集者の方、出版社に迷惑をかけっぱなしだったのだが、そのぶん、翻訳が完成すると、あっというまに本になった。スピード感をもってというのは政治家のいうお決まりのフレーズだが、私にとっても、翻訳原稿の完成から刊行までのスピード感は身をもって体験していたといっていい。ただ、これは私の翻訳が尋常でないほど遅れたせいであって、通常は、そんなに早く本にはならない。私の異例の遅れが、異例に早い刊行を可能にしたにすぎない。
ところが退職後、時間が出来て、翻訳がはかどり、早く翻訳が完成するようになったのだが、そのぶん刊行までに待たされることになり、そのうえコロナ禍によって、さらに待たされることになった。本来なら早くしてほしいと要求、督促してもいいのだが、過去の悪業ゆえに、さすがにそれができなくなった。これまで出版社をさんざん待たせておきながら、ちょっと時間的余裕ができて早く翻訳が終わったくらいで、偉そうに何をせかしているのだと言われかねない。そして待たされることのつらさを実感したので、過去に私が、翻訳の遅れでどれほど迷惑をかけることになったのかを痛感することになった。
つづく――ただし、なさけない話はこのくらいにして、次回はタイトルと装丁について。
テリー・イーグルトン『文化と神の死』大橋洋一・畑江里美訳、青土社、2021。
奥付には11月25日印刷、12月10日刊行とあるが、すでに書店には並んでいることと思う。これは購入された方のための記事(数回連載予定)であり、またこの記事を読んで購入意欲をかき立てられればとも思うが、それは期待薄とも思っている。
なお今回は、献本の数量を限った。ただでさえ人付き合いが悪いうえに、大学も定年退職したし、年賀状もまったく出さなくなったので(たとえいただいても返事の年賀状も出していない)、当然、献本の数も少なくなった。ところが献本数を限っても、結局、献本金額が原稿料を上回ったので、今回は、いや今回も赤字である。この翻訳を刊行して私に入る収入はない。まあいつものことなので驚くことではないのだが。
あと特記すべきは、今回は編集者と最初に翻訳を刊行の打ち合わせを大学の研究室で行なってからは、以後、一度も会うことなく作業を進めた。共訳者の畑江さんとも、翻訳作業が始まってからは、今に至るも一度も会ってない。同じ青土社から翻訳を刊行した、ジュディス・バトラーの『分かれ道』は、共訳者の岸まどかさんがアメリカ在住だったので直接会うことなく作業をすすめたが、編集者とは直接何度も会っていた。今回は完全にリモート状態での作業で、初めての体験なのだが、とくに不便を感ずることもなかった。これからも、たとえコロナ禍が収まったとしても、リモート状態での本作りは続くかもしれない。
原著はTerry Eagleton, Culture and the Death of God(2014)で、そう2014年の本である。翻訳刊行までにずいぶん時間がかかっているが、翻訳原稿は正確には覚えていないのだが、共訳者の原稿ともども、2年くらい前にできていた。ただ、コロナ禍その他のせいで、出版まで待たされた。その間、私は、いろいろな方から献本として単著、論文集、翻訳などをいただいたのだが、普段なら、ただありがたくいただくだけなのだが、今回は、どうしてこの人たちの本が、このコロナ過の大変な時期に、何事もなかったように出版され、私の原稿は、どうしてずっと待たされているのだと、焦燥感に駆られていた。実のところ、まだ待たされている原稿があるのだが、それらに先立って、年内に今回の翻訳を刊行できたことに対して青土社にはほんとうに感謝している。
なお在職中は、翻訳を引き受けてもなかなか翻訳がはかどらず、編集者の方、出版社に迷惑をかけっぱなしだったのだが、そのぶん、翻訳が完成すると、あっというまに本になった。スピード感をもってというのは政治家のいうお決まりのフレーズだが、私にとっても、翻訳原稿の完成から刊行までのスピード感は身をもって体験していたといっていい。ただ、これは私の翻訳が尋常でないほど遅れたせいであって、通常は、そんなに早く本にはならない。私の異例の遅れが、異例に早い刊行を可能にしたにすぎない。
ところが退職後、時間が出来て、翻訳がはかどり、早く翻訳が完成するようになったのだが、そのぶん刊行までに待たされることになり、そのうえコロナ禍によって、さらに待たされることになった。本来なら早くしてほしいと要求、督促してもいいのだが、過去の悪業ゆえに、さすがにそれができなくなった。これまで出版社をさんざん待たせておきながら、ちょっと時間的余裕ができて早く翻訳が終わったくらいで、偉そうに何をせかしているのだと言われかねない。そして待たされることのつらさを実感したので、過去に私が、翻訳の遅れでどれほど迷惑をかけることになったのかを痛感することになった。
つづく――ただし、なさけない話はこのくらいにして、次回はタイトルと装丁について。
posted by ohashi at 20:56| 『文化と神の死』
|