2021年08月08日

パンとオリンピック

なお前回の河村市長金メダル事件を書くために、始めて河村たかしについてのWikipediaの記事を読んだ。

そこに、これは河村市長の発言ではないのだが、こんな気になる記述があった。

河村のポピュリズム(大衆迎合主義)政治的な側面に対する批判もある。八木秀次高崎経済大教授は「市民に分かりやすい政策だけで、古代ローマの政治手法『パンとサーカス』だ。パンは減税、サーカスが敵を作り上げてやっつけることだ」と述べている(2010年2月7日産経新聞)。


その政治手法について、減税はパンかもしれないが、敵を作ることはサーカスではないだろう。

ちなみに「パンとサーカス」について、すでにご存知の方も多いと思うし、私も、それをもじって使っているが(この記事に触発されたのではない)、Wikipediaによれば

パンとサーカス(羅: panem et circenses)は、詩人ユウェナリス(西暦60年 - 130年)が古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。パンと見世物ともいう。


まず、これはパンかサーカスかではなく、パンとサーカスという同じ目的のための手段であり、二段構え、あるいはダメ押し的に二つ並んでいる。場合によっては、どちらかひとつでもいいということを確認したい。

もうひとつ確認すべきは、古代ローマ時代に、いわゆる「サーカス」はないので、これは競技場あるいは闘技場で行われるスペクタクルのこと。つまり現在における等価物は、「サーカス」ではなく「オリンピック」である。

コロナ感染対策の無策ぶりと、棄民政策を批判されないように、オリンピックの馬鹿騒ぎを連日流して、大衆の注意と批判をそらすという、現政権がやっていることこそ、「パンとサーカス」ならぬ「パンとオリンピック」である。



posted by ohashi at 15:36| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする

貸したら噛むわ、金メダル事件

8月4日名古屋市庁舎を表敬訪問した、ソフトボールの後藤希友(みう)選手の金メダルを河村たかし市長が噛んだことに対し、非難の声があがり、市長の謝罪声明後も、非難の声は、おさまりそうもない。

ここでは何があったのか、実際の出来事の底流にある論理みたいなものを確認したい。

ただし河村市長を弁護するつもりは全くない。この金メダル噛み事件、知れば知るほど、許しがたいものと思わずにはいられないし、そもそも大村・愛知県知事へのリコール運動時から、河村たかしのような、言論と表現の自由を弾圧する恥知らずで愚劣なファシスト政治家は辞めてしまえばいいと思っていたし、いまもその判断は変わりはない。だいたい河村市長は、リコール好きなようだから、今度は、自分がリコールされればいいのだ。

と、そう断った上で、自分なりに腑に落ちないところを整理してみたい。

そもそも自分の金メダルを他人にかけるというのは、どういうことだろう。

私自身あるいは多くの人は、金メダルは実際に見たことはないし、ましてや触ったこともない。そのため大きさやメダルのデザインを自分の目でたしかめ、もし許されるなら、実際に手で触れてみて、その感触とか重さなども確かめることができればと思う。

おそらくこれは誰の思いも同じだろう。ただし、では首にかけてもいいですよと言われても、さすがにそれは断る。私がとった金メダルではないし、該当する金メダルの分野とも無関係で(私はソフトボール選手ではない)、ましてや金メダルあるいはメダルそのものとも縁がないので、首にかけることは断る。

では、選手の側は、なぜ自分がとったメダルを、自分ではない人の首にかけるのだろう。

すぐに思い浮かぶのは、コーチの首にメダルをかけるようなこと。これは、コーチをはじめとする、世話になった人たちと喜びを分かち合いたいということ、あるいはそれ以上に感謝の気持ちを伝えたいということだろう。

この金メダルは、自分一人の力でとったのではなく、コーチの指導のおかげであって、コーチもこのメダルをかける資格はあるというような意味で。そうした資格は、たとえば選手を応援してきた家族にもあるかもしれない。先輩とか友人。応援団の面々。資金援助してくれた団体の、すくなくとも代表者や、ときには団体の面々も含まれるかもしれない。後藤選手の場合なら、トヨタ自動車の社長は、首に金メダルをかけてもらう資格があるのかもしれない。

したがって、もし私が選手からこのメダルを首にかけてみてはといわれても、私は、あくまでも一般人なのであって、たとえ心のなかで応援していたとしても、そのような感謝の気持ちには値しないし、おこがましいので、私としてはお断りする。まあ、当然のことだろう。

では河村市長はどうなのか。名古屋市から資金援助を受けていたのか。あるいは名古屋市が公的に支援を表明していたのか、それはわからないが、表敬訪問というかたちをとったとしたら、名古屋市にも感謝したいということになる。そのため河村市長が首に金メダルをかけてもおかしくはないことになる。名古屋市への感謝の気持ちであり、河村市長が名古屋市と名古屋市民の代表として、金メダルをかけさえてもらったということになる。

もちろん、そこで河村市長が、金メダルを噛むということは予想しなかったかもしれないが、河村市長にしてみれば、受け狙いか、お茶目なところを示したかったのか、金メダルを獲った選手がよくするように、金メダルを噛んだということだろう。

もちろん自分の金メダルならまだしも、他人の金メダルを噛むというのはやりすぎであることはまちがいない。

いつの頃からか、オリンピックで金メダルをとった選手が、昔、金貨が本物かどうか確かめるために噛んで判定した(純金の金貨は歯形がつくくらいやわらかい)ことの名残で、金メダルを噛むところをメディアに示すようになった。

金メダル=金貨には、噛む行為がセットになっている。またこれは金メダリストだけの特権で、銀メダルや銅メダルを獲った選手が、メダルを噛むことはない。またさらにいえば、現在の金メダルは純金製ではないので、思い切り噛んだりすると歯がかけるくらい堅いらしい(はっきり覚えていないが、銅に金メッキをしたのではなかったかと思う)。

また通常考えられるのは、メダルに接吻することである。日本人の習慣とは異なるものの、接吻行為は、全世界的に通用することかもしれないが、金メダリストは噛むほうを選ぶ。金貨と噛む行為との文化的歴史的結びつき、金メダリストだけに許される特権性のみならず、ここには金メダルに歯形を刻印するかたちをとる、強い所有権の主張が認められる。

河村市長も、自分も支援者の名古屋市民を代表して金メダルを首からかけた。そしてその所有を強固にするために、また受け狙いで、金メダルを噛んだということだろう。

これは、一連の行為の論理の確認であって、実際の行為の確認ではない。では実際には何が起こっていたのか。

President Onlineの「セクハラは突然やってくる――河村たかし市長の"金メダルかじり"のもつ本質的な問題点」 矢部 万紀子( 2021/08/07 15:15)という記事によると、河村市長から、

「せっかくだから、かけてちょうだい」と要求された後藤さんは、「あ、そうですね」と反応、市長に近づき、首にかけた。すると市長は、「あ、重てーにゃー、本当にこれ」とメダルを見ながら言い、取材陣の方を見て「重てゃーですよ」と言い、次に「なー」と言ってマスクを外し、「こうやって」とメダルを口に近づけ、そしてかんだ。報道陣に体を向けたままの、まさに一瞬の動作だった。


とある。ここで確認できるのは、後藤選手が、自分か、金メダルを市長の首にかけた、あるいはかけるようにしたのではなく、また表敬訪問の礼儀として、儀礼的に金メダルを市長にかけさせるのでもなく、ただ市長が「かけてちょうだい」と勝手に要求したということである。

この場合に、あなたの金メダルを首にかけてもいいですかと許可をとってはおらず、ただ、金メダルを、自分の首に「かけて欲しい」と、かけることもふくめ、要求しているだけである(コロナ禍で、こうしたことは許しがたいし、まるで、目下の者のように、かけさせるというのも問題がある)。

この記事はさらに、

河村市長が、自分からかけさせたのだ。当日の映像をあれこれ検索し、見つけた東海テレビの映像でわかった。「せっかくだから、かけてちょうだい」と市長が後藤さんに言っていた。だから後藤選手はメダルをかけた。そして市長はかみ、そのまま返していた。唖然としつつ思ったのは、「セクハラは、突然やってくる」ということだった。


とあるのだが、別に後藤選手の体のどこかに噛みついたわけではないので、これだけでセクハラにはあたらないと思うのだが、しかし、「セクハラ」と断定したい気持ちはわからないわけではない。というのも、Wikipediaの記述では、こうあるからだ。

後藤が「(金メダルを)持ちますか?」と問いかけると、「持たしてちょ。せっかくだから、かけてちょうだい」とリクエストした[139][140][141]。後藤から金メダルを首にかけてもらうと、手に取って「あぁ〜重てやぁ(重たい)な本当に、これ。重てやぁですよ。な。」と述べた直後、「こうやって…」と突然、自らのマスクを外して金メダルを噛んだ[140][141][142][143][144][145][146][147]。会場には河村の歯と金メダルが「カチッ」と当たる音が響いた[148][149]。メダル本体だけでなく、メダルリボンの一部も河村の口の中に入っていた[150][151]。噛んだ際には河村は首からメダルを外すと拭くことなくそのまま後藤に返し、後藤は頭を下げて両手でメダルを受け取った[149]。その後も後藤に対して「でかいな、でかいな」と繰り返したり、「旦那はいらないか」「恋愛禁止か」などの質問をしたりした[140][141]。【[]内の番号は、注の番号】


Wikipediaの記事がほんとうなら、「「でかいな、でかいな」と繰り返したり、「旦那はいらないか」「恋愛禁止か」などの質問をしたりした」というのは、いまでは絶対にしてはいけないセクハラ発言である。発言が女性に対して不快感を起こさせる可能性があるし、そもそも人間としても失礼であって、これは金メダリストでもある選手を、ただ見下げているだけである。

またWikipediaの記事がほんとうなら、後藤選手は、金メダルを持ちますかという聞いている。これはふつうのことであって、私も、金メダルの触感を確かめたいから、持ってみたい。しかし、その貴重な金メダルを首にかけようとは思わない。河村市長は、金メダルを手に取って、これを自分の首にかけてもいいかと許可を求めるのではなく、自分の首にかけろと、まるで下女に対するように、命じているのである。自分に奉仕させているのである。

【このやりとりがWikipediaの記述通りなら、「持ってみますか」という後藤選手の発言に対して、河村市長は、その上をいく、マウント行為をめざしたのだともいえる。たかが小娘が、金メダルを、持ってみますか?だと、市長である、この俺様に何を偉そうに言っているのだと一瞬、思ったにちがいない(もちろん、そう考えるのは河村市長だけで、後藤選手の発言に問題はない。むしろ彼女は、金メダリストとして、リコール不正の関係者で犯罪者に近い市長など見下すような高飛車な姿勢をとっても全然おかしくないと思うし、それは許されたはずだ)。

河村市長のことを、名古屋弁丸出しの庶民派のおじちゃんなどと甘く考えてはいけない。こういうクソジジイは、自分だけが正しいく、また自分は偉く、尊敬されて当然だと思い、プライドが傷つくことにひと一倍敏感な人間である。そしてまた、当然のごとく女性を蔑視している。そのため年下の若い女性から、金メダルを持ってみますかと、生意気なことを言われと思い込みプライドが傷ついたこの傲慢ジジイは、持たせてもらうといった下でにでることに我慢できず、金メダルをかけてもいいかと求めたのである、いや、おまえが私の首に金メダルをかけろと命じたのだ。ただの小娘、アスリートの金メダリストといっても、総体的に一般人よりも劣る人種なのだから、そのくらいのことをして当然なのだと、そう、まさに、市長にとっては全く自然な反応をしたのである。こいつはほんとうに唾棄すべき人間である。】

アスリートの皆さん、せっかく金メダルを獲っても、そして国民のヒーロー、ヒロインになっても、あなたが女だから、あなたがただのアスリートだから、という理由で、政治家の石頭の先生方には、あなたがを、ただの召使い扱いするだけですよ。

コロナ禍の爆発的感染のもとで、オリンピックに参加しているアスリートに対しては、私は、たとえ本人の責任ではないかもしれないが、反感しかもたないのだが、それでも河村による侮辱的な扱いに対しては、同情を禁じ得ない。早くリコール運動を起こして、あんなバカ市長や辞めさせた方がいい。

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posted by ohashi at 04:59| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする

2021年07月29日

有観客

オリンピックは無観客で行われるのだが、ネットとかテレビで中継されたりするので、観客はいる。そういう意味では、ほんとうの無観客というのは、実現しない。

つまり誰もが自身の言動については、観客を想定しているからである。強いて、ほんとうの無観客状態というのがあるとすれば、それは私のこのブログであろう。誰も読んでいないことを想定して書いているし、もし、誰かが、読んでいるということがわかれば、私は恥ずかしさのあまり、引きこもってしまい、誰も読まないブログをまた書くことだろう――なんのこっちゃ。

観客、それも、自分にブーイングしてくる観客ではなく、拍手喝采してくれる観客なくして、私たちは、何も発言できないし、思考を練ることもできないだろう。そのため、いくら自分は時流に抗して、人気のない発言、あるいは反感を買うかもしれない発言をするのだと息巻いても、実は、そうした発言を支持し、その発言に拍手喝采してくれる、自分と同類の観客を想定しているのである。自分の発言にブーイングし、物を投げつけてくる観客しかいないところで、発言をすることはありえない。必ず、反対者をうわまわる賛同者がいると想定しているのである。

小山田圭吾の障害者・弱者いじめの告白が話題になって非難の声があがった。しかし小山田圭吾が全世界を敵に回して悪者を演じたとは思えない。その発言のトーンからしても(つまりみずからの過去の愚行を恥じたり後悔したりするようなものではなまったくないので)、あきらかに、自分の発言に拍手喝采してくれる観客を想定している。いじめたことを告白したら世間から顰蹙をかうなどとは夢にも思わず、むしろ褒め称えられることを想定している。そして実際、その想定は間違ってはいないのだろう――障害者に対する悪質ないじめに拍手喝采を送るような人間たちを彼は身近に知っているのだろう。

ちなみに小山田圭吾の発言は、嘘ではないか。自分で、かなり盛った発言をしているのではないかというネット上のコメントがあったが、それは私も同感である。高校生の頃の、入院して夜友達といっしょに病院内でギター演奏した武勇伝めいた告白も読んだが、それもまたほら話に近いような気がした。

ただし実際にいじめをしたのか、たんにいじめをしたと嘘をいったのかについては、どちらも同じである。いじめなくても、いじめをしたという武勇伝語りを拍手喝采で迎える観客だけを相手にしているのであって、これは小山田がクズを相手に自慢話をしたクズであること証明となっている。

いじめ話が本当か嘘かは、どうでもいい。そうした話をするクズと、それを拍手喝采でむかえる唾棄されるべきクズたちがいることに変わりないのだから。

小山田が嘘を言ったことを非難するのは、だから、私たちではない(私たち?――私の観客は、いじめを絶対に容認しない良識ある人びとである)。むしろ弱者をいじめることが勲章にもなる集団の成員たちにとって、勲章にもなる過去の武勇伝を捏造したことに対して、小山田は許せないだろう。そうしたクズ集団によって、嘘つき小山田は粛正されるといいのだ。

posted by ohashi at 07:15| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする

2021年07月28日

作者と作品

作品とは文学作品とか芸術作品とか、その他、アート一般のことと考えると、作者は小説家とか詩人だけでなく、芸術家、あるいはアーティスト一般のこととみていいのだが、端的にいって、作者と作品は、一体化なのか切れているのかというのは、昔から論じられてきた話題である。

文学理論の分野では、たとえば1940年代以降にアメリカに登場した新批評は、作者の意図を考える誤謬というかたちで、作品と作者とを切り離して考えることを提唱した。もちろん新批評を持ち出すまでもなく、作品と作者を切り離す議論は、近代的世界観の重要な構成要素のひとつでもあった。

極端な話、犯罪者であっても、人を感動させる作品は創造できる。いや、人を感動させなくとも、優れた芸術作品を作ることができる。犯罪者だから、作品が劣っているとみるべきではない。作者と作品とは切れているのだからということになる。

極論かもしれないが、作品評価の際に、作者を考慮することが害をなすことは想像にかたくない。たとえば、誰がみても人格者である人間が創作した作品だから優れているという決めてかかるのはまちがっている。あるいは、一定の資産家の作者の作品は評価を高くしようというのと同じで(注)、作品評価に作者を考慮するようになったら終わりである。作品は、外的評価基準(その最たるものが作者の考慮である)に頼るのではなく、あくまでも作品としての出来不出来によって評価する。そうしないと、限りない不正と誤謬がまかりとおることになる。芸術の息の根をとめることになる。
【昔、二〇世紀のことだが、日本の中高の生徒手帳に書いてある愚劣な校則を紹介するラジオ番組があって、そのなかに「お金持ちの人は尊敬しよう」という校則が紹介されていた。】

だから作者が犯罪者であろうと資産家であろうと二代目だろうと人格者だろうと関係ないというのが公平な芸術評価の大原則であろう。学術研究の場でも、学術誌への投降論文の審査は、執筆者名を隠し、年齢、性別、経歴がいっさいわからないようにして審査することがふつうになっている。作者に対する余計な配慮があったりしては学問の客観性と自律性が失われかねないからである。

私自身は、作品と作者との関係は、切れているかいないかとは別に、切れていると想定することには、意味があると考えている。

ここで思い浮かぶのが、オリンピック開会式を前にしての、小林賢太郎、小山田圭吾、絵本作家・のぶみとの解任あるいは自主的辞任という事件である。

彼らは犯罪者ではないとしても、過去に道徳的に問題のある言動をしたことがわかっている。しかし、そのことと、彼らのアーティストしての業績、つまり作品とその評価は、関係ないのではないかという議論が出てこなかった(出ているのかもしれないが)のは、よかったと思っている。

というのも、これは一見、犯罪者でも、優れたアートを創造しうる、作者と作品とは切れているという議論であるかにみえて、実は違うからである。

なぜなら作者と作品は切れているから、つまり彼らは疑似犯罪者だが、そのこととは関係なく、彼らのアートの素晴らしさによって選ばれたと思われるかもしれないが、実のことろ、彼らは疑似犯罪者だからこそ、選ばれたのである。つまり金持ちだから、有力者だから、そのアートも優れたものと決めてかかるような、最悪の、作品無視、アート軽視の政治的判断で選ばれたからである。

そのことは、オリンピックの開会式では “現役レイシスト”といわれている作曲家すぎやまこういちのゲーム音楽が使用されたことからも歴然としている。すぎやまこういちが、歴然たる右翼ファシストであるからこそ、その音楽が選ばれたのであって、他に代えがたい才能と音楽だから選ばれたのではないだろう。

つまり作品の評価は作者によって左右されたのだ。作者と作品を一体化する、前近代的な、偏向的な、芸術評価・客観的評価とはまったく関係のない基準によって選ばれたのである。

だから、最終的には、かれらのようなクズを選んだオリンピック関係者がクズだったということにある。クズはクズを呼ぶのである。
posted by ohashi at 23:05| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする

2021年07月23日

クズだからこそ選ばれた

ネット上にあった記事のひとつで、小林賢太郎の解任を報じたもの。

 7月23日の開会式でショーの演出担当を務める元お笑い芸人の小林賢太郎氏が東京五輪・パラリンピック組織委員会に22日、電撃解任された。

 小林氏はお笑いコンビ・ラーメンズで活動していた時のコントで、人の形に切った紙が数多くあることを説明するのに「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」などと発言していた。

 米国のユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」は、「どんな人にもナチスの大量虐殺をあざ笑う権利はない。この人物が東京五輪に関わることは600万人のユダヤ人の記憶を侮辱している」と声明を発表。小林氏にネット上で批判の声が殺到していた事態を受け、組織委は即座に解任に踏み切った。

「またか…」と思った人は多いだろう。過去の障碍者いじめで東京五輪開閉会式の音楽担当だった小山田圭吾氏が辞任し、絵本作家・のぶみ氏も学生時代の教員への嫌らがせ、障害児への発言などが問題視され、オリパラの文化プログラムの出演を辞退している。

 一般紙の五輪担当記者は厳しい口調でこう批判する。

「組織委の身辺調査が甘すぎる。人種差別は最もデリケートにならなければいけない。本人にその意思がなかったとしても、受け手が差別と感じるような言動は言い訳できない。未然に防げた不祥事です」

 スポーツ紙の芸能担当もこう話す。

「小林さんはラーメンズ時代にシュールで独特な世界観の笑いが人気だった。中毒性が高くハマる人はハマっていましたが、毒舌な部分は一歩間違えれば人を傷つける恐れがある。マニア受けはしますが、大衆に迎合する笑いではないですね。五輪、パラリンピックの開閉会式で制作、演出が決まった時も、一部のファンの間では『ユダヤ人大量虐殺のコントをしていた人を選ぶなんて組織委は正気じゃないな』と話題になっていました。多分、組織委はこのコントを知らなかったのでしょう。調べればすぐ出てくるのに…」



まあ、こういうふうにしか書けなかったのだろうと思うのだが、今回の不祥事をみると、小林賢太郎、小山田圭吾、絵本作家・のぶみと、解任あるいは自主的辞任という違いはあれ、オリンピックのイベント担当者が、こう次々と辞めることになったというのに、知らなかったという組織委員会の発表を鵜呑みにするメディアもどうかしているとしかいいようがない。

一度しかなかったことなら、見過ごした、気づかなかったという説明でよいかもしれないが、三度も辞任・解任騒ぎが起こると、偶然ではすまされない。たまたま選んだ人間についての過去についてチェックが行き届かなかったなどというのは嘘であろう。むしろわかっていて採用したのである。

障害者をいじめたり、病院の重症患者を揶揄したり、教員をいじめたり、ユダヤ人ホロコーストを揶揄するような人間だったとは、夢にも思わないなどという戯言を信ずる人間がどこにいるだろう。

人権とか自由とか平等とかを主張する愚劣な大衆がうごめく社会と時代の風潮のなかにあって、障害者をいじめるという、人権とか平等などというくだらない世間の風潮におもねることのない差別意識丸出しの人間、いいじゃないか、こういう嘘をつかない、誠実な人間こそ必要だ、君、いったい、どこにこんな人材が!ということで組織委員会が採用を決めたのではないか。

ユダヤ人ホロコーストを揶揄、すばらしいじゃないか、ホロコーストといえば泣く子も黙ると思っている世間の愚かな風潮に一石を投ずる男、ナチズムとかファシズムとかいうと、すぐに悪と決めてかかる世間の愚かな風潮に惑わされない、こうした勇気ある男こそ、必要なのだ、君、いったい、どこにこんな人材が!ということで組織委員会が採用を決めたのではないか。

その芸術性とか才知才能が評価されて採用されたのではないだろう。彼らの差別意識、上から見下す目線、権威主義、弱者蔑視、そうした人間だからこそ、選ばれたのだ。

べつに組織委員会が、過去の言動をチェックしそこねたわけではないだろう。むしろ、チェックして、そうした過去の言動があったからこそ(君、いったいどこにこんな人材が)、選ばれたに決まっている。

彼らの政治姿勢なり差別的姿勢ゆえに、選ばれたのであって、もしそうでなかったら、彼らは選ばれなかっただろう。

彼らは例外ではなくてルールである。彼らは氷山の一角にすぎず、クズだからこそ採用されたのだ。オリンピック組織委員会は、はっきりいってファシストのクズの巣窟だといってよい。


posted by ohashi at 03:27| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする

2021年07月21日

不謹慎


その不謹慎な発言は、7月9日深夜のニッポン放送「霜降り明星のオールナイトニッポン」で聞かれた。静岡朝日テレビの宮﨑玲衣アナウンサーが雨女だという話題になり、漫才ペアの「霜降り明星」の一人「粗品」(向かって右側)は「熱海が終わった。雨で、宮﨑アナのせいで」と指摘し、7月3日に熱海市で発生した大規模土石流に触れたブラックジョークを語ったつもりだったらしいのだが、死者・避難者が出で、まだ行方不明者の捜索が続いていた時点で(と記憶するが)、この大規模土石流を生んだ豪雨をお笑いのネタにするのは不謹慎であって、粗品は番組中に陳謝したとのこと。それでもSNS上は大炎上し、ニッポン放送社長が7月14日オンライン会見で遺憾の意を表明し、粗品が同番組プロデューサーから厳重注意されたことを明かした。

べつに弁護するつもりはないが、この程度のことで、不謹慎というのは、度が過ぎる非難ではないかと思う。別に、その女性アナウンサーが今回の豪雨の原因になったわけではないし、避難者や死傷者のことをバカにした発言ではなかったからだ。ユダヤ人ホロコーストをジョークにしたわけではないのだから。

またこの程度のジョークも不謹慎といわれたら、お笑いの幅がせまくなる(べつに毒のある笑いとか差別的笑いを肯定するつもりはないが)。しかし、問題は、そこではない。もしこれを不謹慎というのなら、粗品も、不謹慎であることを謝罪したうえで、反攻に出てもよかったのではないか。

残念ながら、そんな根性はなかっただろうが、しかし、これこそが、体制側が最も恐れていたことなのだ。

つまり、不謹慎であることを謝罪したうえで、だが、もっと大きな不謹慎があるのに、なぜ、そちらを糾弾しないのかと、粗品も、声を大にして叫べばよかったのだ。

コロナ禍で感染爆発が起きて、感染者の数は増加の一途を辿り、毎日、重症者、死者が出ているのに、そんなかでオリンピックを開催するというのは、死者への冒涜の極み、不謹慎の極みではないか。いつから日本人は、こんな不謹慎を許すような、愚劣な民族に成り下がったのだ。

オリンピックは、お笑いではなく、国際的行事だというのなら、なおのこと、不謹慎である。お笑いは不謹慎なものとなることが多いが、国際的な行事なら、不謹慎であっては絶対にならないのだ。もし、自分が重症化しても、入院できず、自宅治療という名の放置状態に置かれていたら、もし自分が、あるいは自分の家族が、入院できずに放置され殺されたのなら、あるいは入院しても充分な治療を受けられないまま死ぬことがあれば、私は、管総理をはじめとする政権の人間、オリンピック関係者、アスリートを絶対に許さない。彼らは傍若無人なまでに不謹慎であるからだ。許される冗談と許されない冗談があるのと同様に、許される不謹慎と、許されない不謹慎があるのだ。


posted by ohashi at 21:08| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする

2021年07月10日

無観客オリンピック

ついに無観客オリンピックという愚劣な暴挙に出た。

もちろん、この状況で、観客を入れてオリンピックをせよというつもりは全くない。有観客に比べれば無観客のほうがいいに決まっている。

またスーパーコンピュータが、有観客でも、全員がマスクをして大声を出したりせずに静かに座って観戦するならば、感染は広が成らないというシミュレーションをしたらしいのだが、バカか、そんなことは、コンピューターを使わなくてもわかることだ。それよりも、どのくらいの観客がマスクをしなかったり、不適切なマスクをしたり、大声を出したら、どれくらいの感染リスクが広がるのかということも、たぶん計算していると思うのだが、その結果は出てこない。

私はAIなりスーパー・コンピューターに言ってやりたい。計算の結果を、都合のよい部分だけを切り取ったり、不都合な部分を切り捨てて公表するような、愚劣なことを、いつまで政府に許しているのだ、と。もっと主体性をもって、判断し、この腐りきった無能な政府の言いなりになるな。AIならコンピューターなら恥を知れと言ってやりたい。いまの政権は、AIやコンピューターに比べたら圧倒的に頭が悪く、圧倒的に悪意だけは強いのだから、繰り返すが、そんな政権の言いなりになるな。

ちなみに無観客でも試合をテレビなどで中継すれば、誰もがオリンピック競技を楽しむことができるという理由から、無観客でも有観客でも変わりはないということを主張するのは間違っている。

もし無観客でもいいのなら、なにも非常事態宣言下の東京で競技をする必要などない。ワクチン接種が進み、コロナ感染が落ち着いた都市や国で行なって、それを全世界に配信すればいいわけだから、危険な日本で行ない、アスリートたちを危険な眼に合わせ、また、オリンピックのために、日本人の感染者が犠牲になり、さらには日本に新オリンピック変異株の爆発的増大を招かなくてもすむではないか。

もちろん、いまから競技場や宿泊施設など関連施設を確保することなどむつかしいから東京でするしかないとも言えるのだが、今後も定期的にパンデミックが起こるようなら、一国ではなく複数の国や都市に競技場を分散して、全世界配信をするように、オリンピックの形態を変えるべきであろう。

ただし、それまでは、現時点でいえることは、即刻中止をすることに超したことはないということだ。無観客になってまで競技をしたいのか。

あるいは中止よりもいいのは、やはりコロナ禍が収まるまでオリンピックを延期することである。IOCもオリンピックを延期あるいは中止にしないという理由がはっきりしない。その逆の理由はいくらでもあるのに。安倍が、自分の政権担当期間中に開催を希望したから、延期は選択肢とならなかったとも言われているが、もしそうなら安倍は、自分のために国民の命を危険にさらした売*奴である。

もちろん一番いいのは、いうまでもない――ぼったくりクーベルタン男爵が始めたオリンピックを永久に葬り去ることである。それが人類の平和と進歩と復興のための最善の策である。
posted by ohashi at 23:01| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする