やや異色の例かもしれないが、はじまりにもどることで終わるという法則を、これみよがしに掲げて、終わることになった(はっきりいって人を食っている)映画について。
ルイ・ブニュエルの『皆殺しの天使』である。
オペラ鑑賞後、20名におよぶブルジョワの男女が、あるブルジョワジーの豪邸で晩餐を楽しむことになった。ただし屋敷の使用人たちは、理由はあって(ただしどんな理由かは明示されない)、次々と屋敷を離れてしまう(沈みかかった船からネズミが逃げ出すように)。屋敷の主人夫婦は、ただ一人残った執事とともに、晩餐を用意する。食事の後、音楽室に移った客たちはピアノや歓談を楽しむが、遅くなっても(翌朝に近い時間になっても)帰ろうとせず、床や椅子で眠りについてしまう。次の朝になってみると、なぜか誰も部屋から出られなくなってしまう。
そして部屋から出られないまま数日が過ぎるという、ある意味、シュールな、また不条理なドラマが展開する。食べ物もなく、疲労困憊した彼らだが、最後に、屋敷から出ることになる。どうやってか。
屋敷では死んだり殺されたり正気をうしなったりする人々が出て、主人夫婦の責任を問うまでになり、みんな殺気立ってしまうのだが、そんななか、ある女性が、いまこのとき、みんながいる場所というのは、晩餐会後、ピアノの演奏を聴いて、これから帰ろうかというときにいた場所と同じであることに気づく。その時の状況を思い出すと、いまされがここで再現されている。このことを確認することで、全員が次の瞬間、これまで出ることができなかった部屋を後にして、屋敷から出ることに成功する。
最初と同じ状況になったから、外部に出ることができるのか、その理由はなにも説明されてはいない。ただ、最初の状況というか客の立ち位置に戻ったということが、なにか終わりを納得のゆくものに見せる口実としては、都合がよかったということだろう。
実際のところ、終わり方としては、このまま屋敷から誰も出られなくなって、生き残りのために互いに殺し合うって自滅するか、殺しあわなくても食べるものもなくなり、みんな朽ち果てるか、とにかく出られなくなってみんな死ぬというかたちで終わってもよかった。もちろん解放されて出ることができたと言う終わり方もある。これに対して、閉じ込められる端緒となった状況にもどったのだから、解放も近いあるいは可能だというのは、段取りとしては弱く、むしろ謎を深めるようなところがある。だから一旦は解放された客たちも、また別の場所(教会)で、再び閉じ込められることになって映画は終わる。つかのまの解放は真の解放ではなく、なんら解決をもたらすものではなかったのである。
だからこの弱い理由づけは、合理的なものではなく約束に基づくものであり、もしそこにリアリティがあるとすれば、それは物語構造の根幹に触れるものがあるということだろう。
この『皆殺しの天使』において、屋敷から出られなくなった、あるいは帰れなくなった時点における客人の立ち位置が復活したということは、その立ち位置が運命の分かれ道であったということであろう。三つの線分が交わる図形としてのY字図形があるが、このYの字で、三つの線分が交わるところ、つまり運命の分岐点が再び出現したと映画のなかでは語られるのである。もちろんそこから同じ運命が展開することも考えられるのだが、一度、その可能性は試され出口なし状態が出現したので、今度は、別の可能性が生まれ、脱出できるかもしれないという考え方である。ピアノ演奏そのものが、実は運命の分岐点であった。分岐点にもどった、あるいは分岐点が出現した、次には異なる運命がまっているだろうという理屈である。
もちろん、そのような分岐点をむりやりつくれば、線路の方向を変えるようにして、別の運命が紡がれることになって、物語を終わらせる口実となる。
また、物語を旅にたとえるのなら、物語は二種類の旅から成り立っている。ひとつはX地点からY地点への旅。もうひとつはX地点からX地点への旅、すなわち帰還の旅。
ただしこのメタファーは、旅というのが、すくなくともこの映画にとっては違和感がある。というのも閉じ込められて外に出られない運命というのは、旅ではなくて、出口なき迷宮あるいは迷路における彷徨こそ、ふさわしくないだろうか。そして迷路も、同様に二種類ある。X⇒Yへと抜けるものと、X⇒Xのように出口がなく入り口にもどるしかないもの。
遊園地とかテーマパークにある迷路ではなく、由緒ある歴史的な迷路のひとつ、イギリスのハンプトンコート宮殿の迷路に実際に入った私の個人的経験からすると、X⇒Y型の迷路と思い込んでいて、迷いに迷ったが、実際にはX⇒Xの迷路であった(というか伝統的な迷路はこのかたちである)。まあ迷っている間、何度も、この道を辿れば、入口に行けるという地点に何度も到ったのだが、入口から出るというのは、ルール違反で、追い返されると思って、別の道を探って出られなくなった。最後は、入口にいたる道にまたも辿りついたとき、もうギブアップというかたちで、そのまま入口を目指した。そしてそれが正解だった。X⇒Xだから、入口が出口なのである。入口近くに辿りついたら、あとは出口で解放されるだけである。『皆殺しの天使』は、時間的な回帰、つまり始まりの状況(立ち位置)に戻るというかたちで語られるが、空間的には、実は迷路のメタファーで語られている。入口近くにきたら、もう出口はそこなのである。
物語の約束事――最初に戻って終わり。運命の分岐点――一つの可能性の成就のあと分岐的においてオルターナティヴを探る。迷路のメタファー――入口に近くにもどってきたら解放はすぐそこにある。しかし迷路脱出法には、隠れた最強の方法がある。それは迷路は自分で創り出したものであれ、そこから脱け出せないのは、みずから閉じ込められること望んだからである。自分の精神を覗きこむ。そしてそこに、迷路をつくりあげ、そこに閉じこもろうとする自分の深い欲望をみることができたら、迷路は自然に消滅することだろう。もはや迷路を脱出する必要はない。迷路は消滅したのだから。だが、そこに至るまで、あるいはそこに至らないかぎり、永遠に迷路からは脱出できないだろう。何度も、閉じ込められる。それはみずから望んだ呪われた運命なのである。『皆殺しの天使』の不条理劇が伝えるのは、まさに階級の心の牢獄なのである。
2022年06月24日
終わり・と/の・はじまり2
posted by ohashi at 18:51| 迷宮・迷路コメント
|
2022年02月25日
天国の扉・地獄の扉
本日、CSで再放送している『シカゴ・ファイア』をぼんやりみていたら、こんな、なぞなぞ問答があって思わず耳を疑った。
吹き替え版をみていたのだが、これが正確な言葉だったかどうか定かではないが、内容はまちがいない。このエピソードのなかでは、答えは示されなかったが、私は答えを知っている。このなぞなぞに出会うのは、これで2回めである。最初に出逢ったとき、これは、私が知らないだけで、けっこう名の知れたなぞなぞなのかもしれず、論理学とか数学などで説明がつくものではないかと予感した。その予感は、これであたっていたことがわった。
最初の出逢い、それはタブッキの『夢のなかの夢』の最初の夢のなかである。この夢は迷宮の創造者ダイダロスが見る夢で、迷宮から脱出するとき、牡牛の頭の男に出逢い、かれとともに、迷宮をさまよう。以下、関連個所を引用
下線部のところがわかりにくい。私も岩波文庫の余白に、あれこれ表を書き込んでいた。悪戦苦闘していることがわかる。最初、翻訳に問題があるのかと考え、英訳と較べたら、英訳とまったく同じで、丁寧な逐語訳であることが想像できた。そうなるとあとは自分で考えるほかないのだが、それほどむつかしい話ではなかった。
天国に通ずるドアをXとして、その番人をAXとする。地獄に通ずるドアをYとしてその番人をBYとする。番人のうちどちらかは嘘つきである。
どちらでもいいのだが、たとえばAXに、こう質問する。あなたの同僚であるBYは、どちらが天国へのドアだと言いますか。こう訊けばいい。そのときAXがXのドアを示したら、それは地獄へのドアなので、ドアYから出ればいいのである。下線部の引用文中「かれは扉を変えた」というのはこのことを意味する。
AXは真実を言う人か、嘘つきなのか、二つの可能性しかないのだが、AXが真実しか言わないとする。そうすると、あなたの同僚BYはどちらが天国へのドアだといいますかと聞くと、BYは嘘つきだから、地獄に通ずるドアであるXを指示することになる。そうなると天国へのドアはYである。
では私が質問した相手AXが嘘つきだとしよう。あなたの同僚BYはどちらのドアを示しますかと質問すれば、BYは正直者なのでドアYを示すはずだが、AXは嘘つきなので、BYはドアXを示すと嘘をいう。したがって天国のドアはYとわかる。
つまり相手が正直者だろうと嘘つきだろうと、この質問をして、示される答え(ここでは示されたドア)は同じ。それは不正解なので、もう一つのドアが正解となる。
狐につままれたような話と思うかもしれないが、いまの例を使ってもう一度説明したい。Xが地獄ドア、Yが天国ドアという設定は同じにしよう。そこで番人BYに同じ質問をぶつける。もしBYが正直者なら、BYは、AXがXを指示すると答える。Xは地獄ドアなので、Yが正解となる。もしBYが嘘つきなら、BYは、AXがXを指示すると答える。Xは地獄ドアなので、Yが正解となる。どちらの番人に質問しても、またその番人が正直者だろう嘘つきだろうと、この質問では出てくる答えは同じ。その答えの反対が正解となる。
まあ説明すればするほど、単純な原理がややこしくなるので、タブッキの記述(波線部)がいかに簡潔で要を得ているのかがわかる。
これはタブッキが、自分で考えたのではなく、すでにある有名な話なのかもしれないと推測した。たとえばダイダロスといっしょ動く牛の頭の男は、ミノタウロスの変異体だろう。あるいは『夢のなかの夢』の最後にあるフロイトの夢には、肉屋がでてくるが、これはフロイトの『夢解釈』にある「肉屋の女房がスモークサーモンを欲しがった」夢を踏まえていることがわかって笑えるのだが、どの夢にも、踏まえているものがある。
だから、この天国の扉と地獄の扉にも元ネタがあるのだろうと思った。ただし、まだ探求の途で、迷宮論になにか利用できるはずと思うのだが……。『シカゴファイア』にも登場したので、少なくともアメリカ人でこのことを知っている者がいるということはわかった。
天国に通ずるドアと、地獄に行くドアがあって、それぞれのドアに番人が一人立っている。あわせてふたりの番人のうちひとりは嘘つきである。さて、あなたは番人に1回だけ質問できる。では、どちらの番人にどんな質問をするか。
吹き替え版をみていたのだが、これが正確な言葉だったかどうか定かではないが、内容はまちがいない。このエピソードのなかでは、答えは示されなかったが、私は答えを知っている。このなぞなぞに出会うのは、これで2回めである。最初に出逢ったとき、これは、私が知らないだけで、けっこう名の知れたなぞなぞなのかもしれず、論理学とか数学などで説明がつくものではないかと予感した。その予感は、これであたっていたことがわった。
最初の出逢い、それはタブッキの『夢のなかの夢』の最初の夢のなかである。この夢は迷宮の創造者ダイダロスが見る夢で、迷宮から脱出するとき、牡牛の頭の男に出逢い、かれとともに、迷宮をさまよう。以下、関連個所を引用
けもの男がふたたび顔を上げ、胡乱(うろん)な眼でかれをみつめた。この部屋には扉がふたつあって、と男は言った。それぞれ扉の警備にあたる番兵が二人います。ひとつの扉は自由に、そしてもうひとつは死につながっているのです。番兵の一方は真実だけを言い、もう一人は嘘しか言わないのです。ですがぼくにはどちらが真実を告げる番兵で、どちらが嘘つきの番兵なのか、それにどちらが自由の扉で、どちらが死の扉なのかがわからないのです。
わたしに付いてきなさい、とダイダロスは言った。わたしといっしょに来るがいい。
かれは一方の番兵のそばに行くと訊ねた。きみの同僚の意見では、どちらが自由につながる扉かね? そこでかれは扉を変えた。事実、もしかれが質問したのが嘘つきの番兵だったら、こちらの番兵は、同僚のほんとうの指示を変えて、処刑台への扉を教えるだろう。ところがかれが質問したのが正直な番兵だったとしたら、こちらの番兵は同僚の嘘の指示を変えずにそのまま死への扉を指示するだろう。
タブッキ『夢のなかの夢』和田忠彦訳(岩波文庫2013)18-19.
下線部のところがわかりにくい。私も岩波文庫の余白に、あれこれ表を書き込んでいた。悪戦苦闘していることがわかる。最初、翻訳に問題があるのかと考え、英訳と較べたら、英訳とまったく同じで、丁寧な逐語訳であることが想像できた。そうなるとあとは自分で考えるほかないのだが、それほどむつかしい話ではなかった。
天国に通ずるドアをXとして、その番人をAXとする。地獄に通ずるドアをYとしてその番人をBYとする。番人のうちどちらかは嘘つきである。
どちらでもいいのだが、たとえばAXに、こう質問する。あなたの同僚であるBYは、どちらが天国へのドアだと言いますか。こう訊けばいい。そのときAXがXのドアを示したら、それは地獄へのドアなので、ドアYから出ればいいのである。下線部の引用文中「かれは扉を変えた」というのはこのことを意味する。
AXは真実を言う人か、嘘つきなのか、二つの可能性しかないのだが、AXが真実しか言わないとする。そうすると、あなたの同僚BYはどちらが天国へのドアだといいますかと聞くと、BYは嘘つきだから、地獄に通ずるドアであるXを指示することになる。そうなると天国へのドアはYである。
では私が質問した相手AXが嘘つきだとしよう。あなたの同僚BYはどちらのドアを示しますかと質問すれば、BYは正直者なのでドアYを示すはずだが、AXは嘘つきなので、BYはドアXを示すと嘘をいう。したがって天国のドアはYとわかる。
つまり相手が正直者だろうと嘘つきだろうと、この質問をして、示される答え(ここでは示されたドア)は同じ。それは不正解なので、もう一つのドアが正解となる。
狐につままれたような話と思うかもしれないが、いまの例を使ってもう一度説明したい。Xが地獄ドア、Yが天国ドアという設定は同じにしよう。そこで番人BYに同じ質問をぶつける。もしBYが正直者なら、BYは、AXがXを指示すると答える。Xは地獄ドアなので、Yが正解となる。もしBYが嘘つきなら、BYは、AXがXを指示すると答える。Xは地獄ドアなので、Yが正解となる。どちらの番人に質問しても、またその番人が正直者だろう嘘つきだろうと、この質問では出てくる答えは同じ。その答えの反対が正解となる。
まあ説明すればするほど、単純な原理がややこしくなるので、タブッキの記述(波線部)がいかに簡潔で要を得ているのかがわかる。
これはタブッキが、自分で考えたのではなく、すでにある有名な話なのかもしれないと推測した。たとえばダイダロスといっしょ動く牛の頭の男は、ミノタウロスの変異体だろう。あるいは『夢のなかの夢』の最後にあるフロイトの夢には、肉屋がでてくるが、これはフロイトの『夢解釈』にある「肉屋の女房がスモークサーモンを欲しがった」夢を踏まえていることがわかって笑えるのだが、どの夢にも、踏まえているものがある。
だから、この天国の扉と地獄の扉にも元ネタがあるのだろうと思った。ただし、まだ探求の途で、迷宮論になにか利用できるはずと思うのだが……。『シカゴファイア』にも登場したので、少なくともアメリカ人でこのことを知っている者がいるということはわかった。
posted by ohashi at 21:22| 迷宮・迷路コメント
|
2021年08月10日
『タイム・ルーパー』
原題はTime Again。2011年アメリカ映画。88分。B級というよりもC級。本来ならZ級といいたいところだが、Zはゾンビあるいはゾンビ映画のことなので、まぎらわしいのでBかC級としておく。
私はネット上での感想は、あまり信用していなくて、褒めている作品については、これのどこが褒められるのだと文句をつけたくなるし、けなしているコメントがあると、映画を見たり理解するときのリテラシーがまったくないド素人めと思ったりするのだが、今回のこの映画に限っては、ネット上での映画評に基本的に同意。
hmhm[ふむふむ]というサイトは、映画のあらすじ結末のまとめサイトで、丁寧にあらすじを語っているので、内容を忘れたときにはほんとうに助かるし、おそらくは映画をみていなくても、見た気になる――たぶんこれが、このサイトの正統的な活用法なのかもしれないのだが。で、今回の映画の内容については詳しく知りたければ、このサイトにアクセスすることをお薦めする。
なおこのhmhm,では、詳しいあらすじ紹介の後に、コメントが追加されるのだが、これがひどい。この映画にはこんなコメントがついている。
銃撃戦がメインの映画じゃないし、内容からしてそんなものなくてもいい。しかも銃撃戦決してリアルじゃない。いったい、この刑事の拳銃には何発銃弾が装填できるのかというくらい、一度に20発くらいを打ち合っている。これが最後だと弾倉を交換したあとも、緊迫がない無駄弾を20発くらい撃っている。まあ銃撃戦をみせる映画ではないから、リアルじゃないところも許せるのだが、まさか、それを褒める者がいるとは。
そもそも「ライターの感想」と銘打つぐらいだからプロの執筆者なのでしょう。その割には中学生レベルの作文でしかない(中学生の皆様、ごめんなさい。「もっとまともな文章は、小学生でもかけるぞ」と書くべきでした)。
このライターの感想は無視して、
TSUTAYAのサイトに、こんなコメントがあったが、まあ妥当な感想という他はない。もう少し辛辣なコメントもあるのだが、残念ながら、日本語の文章力がなくて、「しかし」という接続詞の用法がおかしいのだが、それは我慢するとして、
サークルの出品物というのが、言い得て妙で、まさに、下手な学生映画レベル。まあシナリオは出来上がったのだけれども、これを水準以上の映画にする機材もなく、ロケ地もあてがなく、俳優を使って撮影するなど夢のまた夢。したがって、映画として完成すれば、こんな感じであると、近所のダイナーと倉庫を借りて撮影、知り合いに演じてもらってつくったデモテープみたいなものと考えれば一番いいのかもしれない。もし私たちが、本物のプロデューサーであり、送られてきたこのデモ映像をみて、本格的な映画として完成させたらどうなるのか、どの俳優に演じてもらったら迫力があり感動的な映画になるのかと想像をたくましくするのなら、それはそれで楽しいかもしれないが、別にプロデューサーでもない私たちにとって、この映画はイライラが募るばかりである。
主役は若い姉妹二人なのだが、ポスターなどでは、男性二人の顔しか出ていない。刑事と犯人の二人なのだが、この二人が、ある程度名の知れた俳優らしく、主役の二人の女性はまったく無名。また無名で、主役にふさわしい女優のオーラというものがまったく感じられない。たとえ演技が下手でもオーラがあれば、それで見ることができるのだが、まったくそれがない。
ただしタイム・ループ物というのは、たとえどんなに俳優がひどくても、撮影が雑でも、物語というかプロットの不思議さ、面白さで、思わず見入ってしまうことも事実。その意味で、この映画は、プロットによって助けられている。
ループ物の常で、実際、どこからループが始まったのかわからない。というか、それはわかるのだが、映画の作りとして、冒頭で観客は、ループが始まっているまっただなかに投げ込まれる。ループ物の常で、何時始まったのかわからないループと、はじまりがわかるループ、いずれであっても、映画の作りとしては、in medias res すなわち途中から始まっている。
たとえ私たちの自身も、一回しかない人生を生きているつもりでも、実際には、何度目かのループかもしれないという、面白さ、あるいは恐怖を、ループ物の映画は常に喚起することは、どんなに強調しても強調したりないだろう。
とはいえ、この映画は、過去のループ物の約束事を、なんの説明もなく使っているところがあって、そのあたりにシナリオの詰めが甘い。まさに学生映画のなかでも下手な部類にはいる作品である。
たとえば、冒頭、銃撃戦に巻き込まれた姉妹は、建物屋上から二人で飛び降りる。飛び降りて死ねば、現在の世界にもどることを知っているからである。しかし、なぜそんなことを知っているかの説明はない。説明はないが、タイム・ループ物の映画は、死ぬことで振り出しにもどるのが常である。
たとえば次に語ろうと思う『ハッピー・デス・デイ』では、主人公は、殺されると、その日の朝にもどる。死ねば、もとの世界にもどることがわかると、続編『ハッピー・デス・デイ2U』で主人公は、自暴自棄ににあってありとあらゆる死に方を試して、その日の朝にもどる。まさにブラックすぎる笑いを、この死んで後戻りの展開は提供してくれる。
あるいは同じくタイム・ループ物のSF『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でトム・クルーズは、とことん死にまくる。何度死ぬか、数え切れない。
ただ、この二つの映画では、なぜ死ぬと元に戻るかの説明はある。また死なないことで、ループから解放されるということの説明もあるのだが、この『タイム・ルーパー』では、その説明はない。むしろ、こうしたタイム・ルーパー物映画のお約束と、無批判に戯れているだけである。
主役二人の女優にオーラがないし、妹のほうが姉にみえ、姉のほうが妹にみえるなど、他に女優がいなかったのかと思えてくる。やはりこれは、本当に女優に演技してもらう前の参考資料、デモ映画としか思えなくなる。見ている者たちのイライラはつのる。
二人の姉妹は、マーローとサムという、なんとなく男性の名前になっている。サムはサマンサの略だから必ずしも男性名ではないのだが、ではマーローは何の略なのだろうか。いや、そもそも、サムとマーローというのは心当たりがある。そう、サム・スペイドとフィリップ・マーローのことだ。古典的ハードボイルド探偵で、どちらもハンフリー・ボガートが演じたことがある。で、この二つの名前には、この映画のなかで、どんな含意があるのだろうかと、考えてみた。考えに、考えたが、答えがみつからない。まあ、ただのお遊びなのだろう。サムとマーロー――それがどうしたというレベルでの話でしかない。
この姉妹の姉が過去にタイムトラベルできるようになるのは、古代ローマの魔法のコインのおかげである。このコイン一枚で過去と現在を行き来できるという。まあSF仕立てではなく、魔法ファンタジー仕立て。彼女はタイムトラベルを何度もするので、魔法のコインもいよいよなくなることになる。またこの魔法のコインを、ギャングも狙っているという設定。
そもそもの始まりは、魔法使いのような年配の女性が、姉のほうをコインを使っていきなり過去に送り込むことである。タイム・ループ物語が立ち上がるといってもいい。
ただ、それにしても、多くの観客や視聴者が気づくことなのだが、この数枚ある魔法のコイン、日本人なら、眼に入るだけで、そのまま忘れないコインなのである。つまりこの魔法のコイン、日本の100円硬貨なのだ。な、なんと。
しかも、100の浮き彫りがある面を、堂々とみせている。ほんとうに一瞬、自分の目を疑ったくらいだ。
それにしても古代ローマ時代の魔法のコインに、なぜローマ数字ではなく、アラビア数字が見出せるのだ。古代ローマ人は、アラビア数字を知っているわけがない。なんという無知な映画。安すぎる映画。100円ショップで売っているような映画である。
私はネット上での感想は、あまり信用していなくて、褒めている作品については、これのどこが褒められるのだと文句をつけたくなるし、けなしているコメントがあると、映画を見たり理解するときのリテラシーがまったくないド素人めと思ったりするのだが、今回のこの映画に限っては、ネット上での映画評に基本的に同意。
hmhm[ふむふむ]というサイトは、映画のあらすじ結末のまとめサイトで、丁寧にあらすじを語っているので、内容を忘れたときにはほんとうに助かるし、おそらくは映画をみていなくても、見た気になる――たぶんこれが、このサイトの正統的な活用法なのかもしれないのだが。で、今回の映画の内容については詳しく知りたければ、このサイトにアクセスすることをお薦めする。
なおこのhmhm,では、詳しいあらすじ紹介の後に、コメントが追加されるのだが、これがひどい。この映画にはこんなコメントがついている。
ライターの感想
この映画は、リム刑事やウェイ、ニューたちとの銃撃戦に迫力があります。発砲音が本物のように聞こえて、やられた時の人の飛び方などこだわりが見えます。本格的すぎない演出で、現実的な印象を与えてきます。マーロは結果的に過去に3度戻ります。それぞれ違った展開など、ストーリーが念入りに作られている印象です。展開は早すぎないので、見やすくなっています。 マーロとサムがレストランで働く様子は、元気で明るいです。ジャックも温かくて、人と人とが優しく接することの大切さを教えてくれます。 長すぎない上映時間が丁度良く、ごろごろしながら観るのにも最適な映画です。
銃撃戦がメインの映画じゃないし、内容からしてそんなものなくてもいい。しかも銃撃戦決してリアルじゃない。いったい、この刑事の拳銃には何発銃弾が装填できるのかというくらい、一度に20発くらいを打ち合っている。これが最後だと弾倉を交換したあとも、緊迫がない無駄弾を20発くらい撃っている。まあ銃撃戦をみせる映画ではないから、リアルじゃないところも許せるのだが、まさか、それを褒める者がいるとは。
そもそも「ライターの感想」と銘打つぐらいだからプロの執筆者なのでしょう。その割には中学生レベルの作文でしかない(中学生の皆様、ごめんなさい。「もっとまともな文章は、小学生でもかけるぞ」と書くべきでした)。
このライターの感想は無視して、
過去に妹を殺された姉は、不思議な力を持つ老婆によって妹が死ぬ前の過去へタイムスリップする。妹を救い現在に戻れるのか!?って話
場所が1つのビルの中でのみっていう、小規模な過去改変系タイムスリップ映画。この人いる必要あった?てかこの人何者?みたいな人が多い。あと時間系は綿密な脚本が求められるのに、タイムパラドックスとかとかあんま考えられてなくて微妙。んーそこそこ楽しめはするけども、かなり微妙な映画でした。
TSUTAYAのサイトに、こんなコメントがあったが、まあ妥当な感想という他はない。もう少し辛辣なコメントもあるのだが、残念ながら、日本語の文章力がなくて、「しかし」という接続詞の用法がおかしいのだが、それは我慢するとして、
ひどい映画
この映画はかなりの低予算で作られています。
しかし高額な予算をつぎ込んだ映画=素晴らしい映画ではありません。
低予算でも良作はいくらでもあります。
しかしこの映画は最悪です。
カメラワーク、ストーリー、演技どれをとってもひどい出来です。
タイトルの通り、タイムループするのでせめてラストは、と期待していましたが駄目でしたね。
映画というよりサークルの出品物です。
サークルの出品物というのが、言い得て妙で、まさに、下手な学生映画レベル。まあシナリオは出来上がったのだけれども、これを水準以上の映画にする機材もなく、ロケ地もあてがなく、俳優を使って撮影するなど夢のまた夢。したがって、映画として完成すれば、こんな感じであると、近所のダイナーと倉庫を借りて撮影、知り合いに演じてもらってつくったデモテープみたいなものと考えれば一番いいのかもしれない。もし私たちが、本物のプロデューサーであり、送られてきたこのデモ映像をみて、本格的な映画として完成させたらどうなるのか、どの俳優に演じてもらったら迫力があり感動的な映画になるのかと想像をたくましくするのなら、それはそれで楽しいかもしれないが、別にプロデューサーでもない私たちにとって、この映画はイライラが募るばかりである。
主役は若い姉妹二人なのだが、ポスターなどでは、男性二人の顔しか出ていない。刑事と犯人の二人なのだが、この二人が、ある程度名の知れた俳優らしく、主役の二人の女性はまったく無名。また無名で、主役にふさわしい女優のオーラというものがまったく感じられない。たとえ演技が下手でもオーラがあれば、それで見ることができるのだが、まったくそれがない。
ただしタイム・ループ物というのは、たとえどんなに俳優がひどくても、撮影が雑でも、物語というかプロットの不思議さ、面白さで、思わず見入ってしまうことも事実。その意味で、この映画は、プロットによって助けられている。
ループ物の常で、実際、どこからループが始まったのかわからない。というか、それはわかるのだが、映画の作りとして、冒頭で観客は、ループが始まっているまっただなかに投げ込まれる。ループ物の常で、何時始まったのかわからないループと、はじまりがわかるループ、いずれであっても、映画の作りとしては、in medias res すなわち途中から始まっている。
たとえ私たちの自身も、一回しかない人生を生きているつもりでも、実際には、何度目かのループかもしれないという、面白さ、あるいは恐怖を、ループ物の映画は常に喚起することは、どんなに強調しても強調したりないだろう。
とはいえ、この映画は、過去のループ物の約束事を、なんの説明もなく使っているところがあって、そのあたりにシナリオの詰めが甘い。まさに学生映画のなかでも下手な部類にはいる作品である。
たとえば、冒頭、銃撃戦に巻き込まれた姉妹は、建物屋上から二人で飛び降りる。飛び降りて死ねば、現在の世界にもどることを知っているからである。しかし、なぜそんなことを知っているかの説明はない。説明はないが、タイム・ループ物の映画は、死ぬことで振り出しにもどるのが常である。
たとえば次に語ろうと思う『ハッピー・デス・デイ』では、主人公は、殺されると、その日の朝にもどる。死ねば、もとの世界にもどることがわかると、続編『ハッピー・デス・デイ2U』で主人公は、自暴自棄ににあってありとあらゆる死に方を試して、その日の朝にもどる。まさにブラックすぎる笑いを、この死んで後戻りの展開は提供してくれる。
あるいは同じくタイム・ループ物のSF『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でトム・クルーズは、とことん死にまくる。何度死ぬか、数え切れない。
ただ、この二つの映画では、なぜ死ぬと元に戻るかの説明はある。また死なないことで、ループから解放されるということの説明もあるのだが、この『タイム・ルーパー』では、その説明はない。むしろ、こうしたタイム・ルーパー物映画のお約束と、無批判に戯れているだけである。
主役二人の女優にオーラがないし、妹のほうが姉にみえ、姉のほうが妹にみえるなど、他に女優がいなかったのかと思えてくる。やはりこれは、本当に女優に演技してもらう前の参考資料、デモ映画としか思えなくなる。見ている者たちのイライラはつのる。
二人の姉妹は、マーローとサムという、なんとなく男性の名前になっている。サムはサマンサの略だから必ずしも男性名ではないのだが、ではマーローは何の略なのだろうか。いや、そもそも、サムとマーローというのは心当たりがある。そう、サム・スペイドとフィリップ・マーローのことだ。古典的ハードボイルド探偵で、どちらもハンフリー・ボガートが演じたことがある。で、この二つの名前には、この映画のなかで、どんな含意があるのだろうかと、考えてみた。考えに、考えたが、答えがみつからない。まあ、ただのお遊びなのだろう。サムとマーロー――それがどうしたというレベルでの話でしかない。
この姉妹の姉が過去にタイムトラベルできるようになるのは、古代ローマの魔法のコインのおかげである。このコイン一枚で過去と現在を行き来できるという。まあSF仕立てではなく、魔法ファンタジー仕立て。彼女はタイムトラベルを何度もするので、魔法のコインもいよいよなくなることになる。またこの魔法のコインを、ギャングも狙っているという設定。
そもそもの始まりは、魔法使いのような年配の女性が、姉のほうをコインを使っていきなり過去に送り込むことである。タイム・ループ物語が立ち上がるといってもいい。
ただ、それにしても、多くの観客や視聴者が気づくことなのだが、この数枚ある魔法のコイン、日本人なら、眼に入るだけで、そのまま忘れないコインなのである。つまりこの魔法のコイン、日本の100円硬貨なのだ。な、なんと。
しかも、100の浮き彫りがある面を、堂々とみせている。ほんとうに一瞬、自分の目を疑ったくらいだ。
それにしても古代ローマ時代の魔法のコインに、なぜローマ数字ではなく、アラビア数字が見出せるのだ。古代ローマ人は、アラビア数字を知っているわけがない。なんという無知な映画。安すぎる映画。100円ショップで売っているような映画である。
posted by ohashi at 03:35| 迷宮・迷路コメント
|
2021年07月30日
私の迷宮体験 つづき
前回の記事のまとめ
なお前回、書き忘れたこととして、小山太一『ボートの三人男』から、引用させてもらったが、そのとき、小山氏の訳文の優れていることに、あらためて感銘を受けたことである。
和泉雅人『迷宮学入門』(講談社現代新書2000)は、「迷宮」についての概念と歴史について教えてもらえる貴重な本である。「迷宮」と「迷路」の違いも明確に説明されていて、眼を開かれる。この本を知っていれば、私は実際のハンプトン・コートの庭園迷路で迷うことはなかったのだが、ただ、そのときは、まだこの本は出版されていなかった。
和泉氏の説明によると「迷宮」Labyrinthとは一本道で構成され、「迷路」Mazeは多数の枝道や袋小路によって構成される。したがって和泉氏の本は、『迷宮学』とあるのように「迷宮」の歴史を記述するものだが、ただ、迷宮と迷路は、混同されたり、どちらも同じものと思われたりしてきたのも事実である。
「迷宮」の場合には、中心があり、中心に行って、そこから入口へともどることになり、それが「迷宮体験」となる。迷宮には、とにかく中心がある。そして中心への一本道が迷路となる。
出てくるときも、中心から入口へと戻るだけである――やってきた道を逆にたどるだけである。この構造を知らなかった私は庭園迷宮で迷ったのだが、ただ、庭園迷宮には脇道や枝道が設けられていて、だれもが道に迷う。それは迷宮というより迷路である。
和泉氏はこう述べている
これは世間一般に知られていることではないだろう。私たちが、ふうつ「迷宮」といっているのは、「迷路」のことなのである。だが和泉氏も認めているように、迷路と迷宮は、混同され、どちらも同じ意味で使われているのも事実であり、ハンプトン・コートの庭園迷路で、中心に行き着いたことと、しかも中心区画に出入りするところは一カ所しかないことから、これは迷宮構造をももっているのであって、あとはやってきた道をたどって入口にもどればいいのだとは、当時、全くわからなかった。つまりこの変形「迷宮」を「迷路」として見続けていたのである。
和泉氏の本では、私が迷ったハンプトン・コートの迷宮/迷路については触れられていないが、ただ、その本からわかることは、ハンプトン・コートの迷宮/迷路は、
のひとつであるということだ。しかも、和泉氏は貴重な付言をしている――その「ほとんどが迷路形式をもっていた」と(p.183)。
まさにハンプトン・コート宮殿の庭園迷宮あるいは庭園迷路は、中心のある迷宮構造を基本としているというか、していた。中心までは一本道で、強制的に中心に、迷うことなく連れて行かれるのである。そのため中心まで行ったら、あとは、今来た道を辿って、入口にもどって、そこから出るのが、迷宮の基本である。しかし、迷路とは迷いながらも、出口に向かうものであって、入口にもどるものものではないという考えしか思い浮かばなかったために(実際の迷路の理解としては、それは正しいのだが)、そして、脇道や枝道がもうけてあるために、あとは迷うに迷うしかなかった。
中心まできたら、また入口までもどるという迷宮構造に違和感を抱いたのは、迷宮には出口はないことになるからだ。出口を答えと考えれば、迷宮には答えはない。それから、もしそれが純然たる迷宮だったなら、中心までは一本道で、行きも帰りも迷うことなどないのだが、それだと面白くない。逆にいうと、迷宮は、答えがないかもしれないが、同時に、答えは最初からあるのである。そのため、一本道の迷宮構造に、脇道や枝道、袋小路を設けることによって、迷宮を迷路化することになる。それが庭園迷宮あるいは庭園迷路なのである。
実際、迷路化することによって、迷宮は迷い道の連続となり冒険性や娯楽性が増す。それはまた迷宮が、それに付随する神話的意味やコスモロジー、形而上的意味を失って、たんなる娯楽設備たる迷路に変貌を遂げた(世俗化した)といえるかもしれない。
ならば迷宮のコスモロジーとは何か。その形而上的意味とは何かということになるが、そのひとつが死と再生をめぐる通過儀礼に関係するものといえる(和泉氏の本には、通過儀礼を初めとして、さまざまな迷宮の機能や意味が語られている)。
神話伝説上のクレタ島の迷宮を例にあげてもいい。ギリシア神話では、英雄テーセウスは、クレタ島の迷宮に入り、その中心部に閉じ込められている半牛半人であるミノタウロスを倒して英雄となり、迷宮からの帰還をはたす。もうこれだけでさまざまな意味の増殖を感得できる。たとえば迷宮の中心でテーセウスは敵と生死を賭けた闘いに身を投ずる。そしてそれに打ち勝つことによって、死から再生と復活の儀式が完了することになる。この敵とは、邪悪な存在であり、また人間の動物性(半牛半人)であり、男性にとっての女性であり、さらには自分自身でもある。他者との闘い、ジェンダーの闘い、動物との闘い、自己との闘い。また迷宮自体が、子宮あるいは女性の身体であり、テーセウスは女体の深部、子宮まで侵入するスペルマであり、中心部での闘いに勝利したあかつきには、あるいは受精に成功すれば、みずからを赤子として産み落とすことになる。それが迷宮から外に出ることである。そしてこれはまた、死と再生の儀礼の完了でもある。などなど。
これに対し、迷路は、中心なき空間であることが多く、また中心があっても、それにたどり着けないか、たどり着くのがものすごく困難になっている。脇道や枝道や袋小路によって、一本道を行くのではなく、ひたすら迷うのが迷路体験であるのなら、それはまぎれもなく娯楽性を高める仕掛けであるとともに、古代のコスモロジーとは異なる、近代的世界観とも連動しているのではないかと思われる。つまり、迷うこと、まちがえることこそが、重要であるという近代的価値観。誤謬の価値あるいは誤謬そのものの形而上的意義が、文化的等価体として迷路を要請したのではないかと、私は考えている。もちろん、この点についての考察は、いまはしないとしてもただ、近代的世界観は、中心なき迷宮、いや中心も入口も出口もない答えなき世界における、誤謬の連続とダイナミズムに賭けていることは述べておきたい。
私のハンプトン・コート宮殿の庭園迷路体験。この迷路は、一本道の迷宮と基本的に同じ構造をしていて、入口から中心部へ、そして中心部から出口へと至るには、入口にもどるしかない。だが入口にもどるという選択肢は、ハンプトン・コートの庭園迷路では思いつくことすらできなかったが、最後には根負けして、入口に戻ることにした。実は、それが正解だったのだが。
なお前回、書き忘れたこととして、小山太一『ボートの三人男』から、引用させてもらったが、そのとき、小山氏の訳文の優れていることに、あらためて感銘を受けたことである。
和泉雅人『迷宮学入門』(講談社現代新書2000)は、「迷宮」についての概念と歴史について教えてもらえる貴重な本である。「迷宮」と「迷路」の違いも明確に説明されていて、眼を開かれる。この本を知っていれば、私は実際のハンプトン・コートの庭園迷路で迷うことはなかったのだが、ただ、そのときは、まだこの本は出版されていなかった。
和泉氏の説明によると「迷宮」Labyrinthとは一本道で構成され、「迷路」Mazeは多数の枝道や袋小路によって構成される。したがって和泉氏の本は、『迷宮学』とあるのように「迷宮」の歴史を記述するものだが、ただ、迷宮と迷路は、混同されたり、どちらも同じものと思われたりしてきたのも事実である。
「迷宮」の場合には、中心があり、中心に行って、そこから入口へともどることになり、それが「迷宮体験」となる。迷宮には、とにかく中心がある。そして中心への一本道が迷路となる。
中心へは一本道の周回路を通ってだれもが強制的に到達させられる。迷宮のなかで道に迷う可能性はないのである(p.45)
出てくるときも、中心から入口へと戻るだけである――やってきた道を逆にたどるだけである。この構造を知らなかった私は庭園迷宮で迷ったのだが、ただ、庭園迷宮には脇道や枝道が設けられていて、だれもが道に迷う。それは迷宮というより迷路である。
和泉氏はこう述べている
迷路はだれもが中心にたどり着けるとはかぎらない。むしろ中心にたどり着くことを可能なかぎり困難にし、中心を隠蔽する役割を果たしているといっていいだろう。したがって、迷路の中心にたとえ到着することができたとしても、そこから再び出口にたどり着くことは、入ってきたときと同じくらい困難な作業となる。さらに迷路の場合、中心のような存在が必ずしも必要とはされていない。(p.44)
これは世間一般に知られていることではないだろう。私たちが、ふうつ「迷宮」といっているのは、「迷路」のことなのである。だが和泉氏も認めているように、迷路と迷宮は、混同され、どちらも同じ意味で使われているのも事実であり、ハンプトン・コートの庭園迷路で、中心に行き着いたことと、しかも中心区画に出入りするところは一カ所しかないことから、これは迷宮構造をももっているのであって、あとはやってきた道をたどって入口にもどればいいのだとは、当時、全くわからなかった。つまりこの変形「迷宮」を「迷路」として見続けていたのである。
和泉氏の本では、私が迷ったハンプトン・コートの迷宮/迷路については触れられていないが、ただ、その本からわかることは、ハンプトン・コートの迷宮/迷路は、
一六世紀と一八世紀の間にヨーロッパにおいて何百と設置された庭園迷宮(p.183)
のひとつであるということだ。しかも、和泉氏は貴重な付言をしている――その「ほとんどが迷路形式をもっていた」と(p.183)。
まさにハンプトン・コート宮殿の庭園迷宮あるいは庭園迷路は、中心のある迷宮構造を基本としているというか、していた。中心までは一本道で、強制的に中心に、迷うことなく連れて行かれるのである。そのため中心まで行ったら、あとは、今来た道を辿って、入口にもどって、そこから出るのが、迷宮の基本である。しかし、迷路とは迷いながらも、出口に向かうものであって、入口にもどるものものではないという考えしか思い浮かばなかったために(実際の迷路の理解としては、それは正しいのだが)、そして、脇道や枝道がもうけてあるために、あとは迷うに迷うしかなかった。
中心まできたら、また入口までもどるという迷宮構造に違和感を抱いたのは、迷宮には出口はないことになるからだ。出口を答えと考えれば、迷宮には答えはない。それから、もしそれが純然たる迷宮だったなら、中心までは一本道で、行きも帰りも迷うことなどないのだが、それだと面白くない。逆にいうと、迷宮は、答えがないかもしれないが、同時に、答えは最初からあるのである。そのため、一本道の迷宮構造に、脇道や枝道、袋小路を設けることによって、迷宮を迷路化することになる。それが庭園迷宮あるいは庭園迷路なのである。
実際、迷路化することによって、迷宮は迷い道の連続となり冒険性や娯楽性が増す。それはまた迷宮が、それに付随する神話的意味やコスモロジー、形而上的意味を失って、たんなる娯楽設備たる迷路に変貌を遂げた(世俗化した)といえるかもしれない。
ならば迷宮のコスモロジーとは何か。その形而上的意味とは何かということになるが、そのひとつが死と再生をめぐる通過儀礼に関係するものといえる(和泉氏の本には、通過儀礼を初めとして、さまざまな迷宮の機能や意味が語られている)。
神話伝説上のクレタ島の迷宮を例にあげてもいい。ギリシア神話では、英雄テーセウスは、クレタ島の迷宮に入り、その中心部に閉じ込められている半牛半人であるミノタウロスを倒して英雄となり、迷宮からの帰還をはたす。もうこれだけでさまざまな意味の増殖を感得できる。たとえば迷宮の中心でテーセウスは敵と生死を賭けた闘いに身を投ずる。そしてそれに打ち勝つことによって、死から再生と復活の儀式が完了することになる。この敵とは、邪悪な存在であり、また人間の動物性(半牛半人)であり、男性にとっての女性であり、さらには自分自身でもある。他者との闘い、ジェンダーの闘い、動物との闘い、自己との闘い。また迷宮自体が、子宮あるいは女性の身体であり、テーセウスは女体の深部、子宮まで侵入するスペルマであり、中心部での闘いに勝利したあかつきには、あるいは受精に成功すれば、みずからを赤子として産み落とすことになる。それが迷宮から外に出ることである。そしてこれはまた、死と再生の儀礼の完了でもある。などなど。
これに対し、迷路は、中心なき空間であることが多く、また中心があっても、それにたどり着けないか、たどり着くのがものすごく困難になっている。脇道や枝道や袋小路によって、一本道を行くのではなく、ひたすら迷うのが迷路体験であるのなら、それはまぎれもなく娯楽性を高める仕掛けであるとともに、古代のコスモロジーとは異なる、近代的世界観とも連動しているのではないかと思われる。つまり、迷うこと、まちがえることこそが、重要であるという近代的価値観。誤謬の価値あるいは誤謬そのものの形而上的意義が、文化的等価体として迷路を要請したのではないかと、私は考えている。もちろん、この点についての考察は、いまはしないとしてもただ、近代的世界観は、中心なき迷宮、いや中心も入口も出口もない答えなき世界における、誤謬の連続とダイナミズムに賭けていることは述べておきたい。
posted by ohashi at 03:02| 迷宮・迷路コメント
|
2021年07月27日
私の迷宮体験
といっても、これは比喩ではなく、ほんとうの迷宮のこと。いやもっと正確にいうと、庭園迷路を体験したこと。
もうずいぶん前のことになるが、イギリスのハンプトン・コート宮殿(Hampton Court Palace)の庭園迷路(garden maze)を訪れたことがある。観光名所だから、日本人で訪れた人も多いと思うし、たぶん私と同じような感想を多くの人がもたれたと思う。当時は、いまちょっとふれたように、迷路とか迷宮について、その区別もなんらついてなくて(どちらも同じという説もある)、遊園地のアトラクション程度のものと軽い気持ちで考えて――迷うのは嫌だと思いながら――、中に入った。生垣迷路である。
この迷路には、中心がある。だから迷宮としての要素をもっている。あるいは迷宮をもとにして、そこにわき道をつけて、迷路にしたのかもしれない(この点はあとで考える)。
迷路をどんどん歩いていくと、中心の空き地のようなところに出る。それが中心だとどうしてわかったのかというと、たぶん、ここが中心であるという表示のようなもの(看板とか)があったのではないかと思う。
ここが中心なら、迷路の半分を踏破した。あとは、出口に通ずる道を探すだけである。中心部の空き地が、中心地にはなく、出口により近いところとか、出口から遠いところにあって、中心地が中心にないという可能性もなくもないのだが、まあ全体の中心にこの空き地があるにちがいなく、これで全行路の半分まで来た。あとは、残り半分。と当時はそう考えた。
この空き地には出入口が一つしかなく、入口をとおって空き地から出た。このままいくと、やってきた道を後戻りすることになるから、出口に通ずる道を探さなければいけない。まあ、当然、そう考える。そこであれこれ道を試してみる。
すると中心の空き地に戻ってしまう。また気づくと、やってきた道にもどっている。これではいけないと、道を探す。どんどん時間がたっていく。完全に迷いはじめた。中心の空き地に来るまでは、けっこうスムーズに来たのに、そこから出口を目指すとなると、道がわからなくなる。なにか迷路が地獄にみえてきた。
ジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』という有名なユーモア小説がある。私はハンプトン・コート宮殿の庭園迷路を訪れる前、それも相当前に、読んだことがあって、迷路に迷いながら『ボートの三人男』を思い出したと語ることができればいいのだが、それだと嘘を語ることになる。読んでいたことは事実だが、初めて読んだとき、ハンプトン・コート宮殿がどこにあるのかも知らず(テムズ川沿いにあるのだろうとは思ったが)、おそらく、そのエピソードも、小説全体の内容ともども、とっくに忘れ去っていた。だから庭園迷宮の施設内に無料で配布されているチラシか、あるいは掲示板などで、『ボートの三人男』について触れてあって、それで、あの三人がここに来たのかと急に思い出し、なつかしくなり、旅から帰ったあと、本を取り出して、読んでみた。
いまジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』は、丸谷才一と小山太一という、新旧の翻訳の達人の名訳で読むことができるのだが、小山氏の新訳のほうを引かせてもらうと(ちなみに名訳があるのに、なぜ新訳かということについての、小山氏の訳者あとがきのアポロギアが面白い)――
出られなくて困っている人が、ハリスについてくる。その数、二十人にもおよぶ。ハリスの腕を握って離さない女性もでてくる。
困ったハリスは、
結局
こうしたドタバタがつづいたあと、
もしこの件を鮮明に覚えていたら、私は、ハンプトン・コートの庭園迷路を訪れてみようという気にはならなかっただろう(ちなみに小山氏は「ハムトン・コート」と表記している。この表記は、Hamptonのpは弱く発音されるか発音されないことが多いためだろうと思われれる)。
小説の人物たちのように歩かされ道に迷うのはごめんだからだ。ああ、覚えていれば、迷路にはいかなかった。まあ、ニーチェのいうように、忘却こそが、私たちの行動の原動力なのかもしれない。
ただし、ネタバレを避けるためかどうか、わからないが、ジェロームの描写は、少し盛りすぎの感がある。迷路を簡単に出れると豪語する男が、周りから頼られ、迷える者たちがいっぱい集まってくるのだが、この男は、詐欺師ではないにしても、まったく役立たずで、付き従う者たちをふりまわして、最後には憎まれ、ついに管理人の助けを求めると、その管理人が新米で……というダメ押しのネタまで用意されているが、実は、書き手自体が、ハリスと同様に読者を振り回すところがある。まあ、そのメタ性はここでは脇に置くことにして――
実はこの迷路、小説で語られているほどむつかしい迷路ではない。ただし迷う人が続出したので、19世紀か20世紀になって、改良を加えたのかもしれず、この小説の迷路と、いま現在のハンプトン・コートの迷路は同じではないかもしれないのだが、Wikipediaの英語版には上からみた迷路図がある――もちろんヨーロッパ最大ではない。この迷路図をみてもらえば気づくこともあるのだが、当時、そんなことを知らない私は、迷いに迷った。
とはいえ、どうすれば出ることができるのかは、わかっていた。つまり最後の手段がなんであるかは、わかっていた。
それはやってきた道をもとにもどって入口に戻り、そこから出ることである。実は、この小説のように、迷っていると、何度も、ここは前にきたところだという場所に行き当たった。それは入口に通ずる一本道である。しかし、ここで入口に戻るのは、ルール違反としか思えない。仮に入口にもどってしまうと、管理人が待ち構えて、出口を探しなさいと追い返されてしまうような気がしたし、そもそも出口がわからずに、入口にもどってそこから出ようとするのは恥ずべきルール違反でしない、そう思ったのだ。
また、それに管理人に頼み込んで、なんとか入口の近づけても、もっと怖そうな威厳のある管理人が現れ、ダメだと睨みつけられ、あざけられて、こちらはいたたまれなくなっても、それでもその管理人の横を通り抜けて、管理人からは、私をかわしても、つぎにはもっとこわもての管理人があらわれるから覚悟せよといわれ、いよいよ入口(という出口)にたどり着いたかと思うと、ラスボスのような巨体の管理人が現れ、怖気づいた私は、結局、最初の管理人のところに戻り、その前で、無駄な説得を試みつづけ、人生を終えるのかもしれないという妄想まで抱くはめになった。20世紀に生きていた私は、ジェロームのこの小説はすっかり忘れていたが、カフカの小説はおぼえていたのだ。
私は当時、イングランドの田舎で暮らしていたのだが、今ではなくなっているだろうが、イギリスのローカル線には、古い形式の車両が時々走っていて、それは各車両に、ずらりと並んでいる窓のところが、ドアにもなっているという形式の車両である。対面で座る座席があると、通路側の反対の窓側に、対面座席一組に対してドアがひとつついている。したがって乗降は、とりわけ降りるときは、自分の座席のすぐ横にある窓付きドアをあけてホームに降り立つことができる。ドアは外からも開けることができる。出発時には駅の係員が、各車両のドアが全部、きちんとしまっているかどうか、走りながらドアノブに手をあてて確認する。ただし、新しい車両はこういう形式ではない。あくまでも古い形式の車両のことだ。
で、そうした形式の車両に乗っていると、駅に着くと各車両の前後にもついているドアまで、自分の席からわざわざ歩いて行って降りる人たちがいることに気づく。それをみて、何も知らない、アメリカ人の観光客だ、お上りさんだと心の中で優越感にひたりながら、私は自分の座席のすぐ脇のドアを手であけてホームに降り立ったものだ。もちろんホームでは、自分が下りた車両のドアは手でしっかり閉めた。
実は、ハンプトン・コートの庭園迷宮も出方があって、それを私が知らなかっただけなのだ。小説のなかでは「右へ右へと曲がりつづければいいのさ」と語られていて、これは、右側の壁に手を付いて、ひたすら壁沿いに進むという方法で「右手法」と呼ばれるものである。実は、私も、ハンプトン・コートの迷路のなかで、この「右手法」を提案した(一人で迷路にやってきたわけではない。ほかに日本人が二人いた。迷路の三日本人である)。これはこの小説を読んで知ったというよりも、実は、昔読んだ、白戸三平の忍者漫画に出てきて覚えていたのだ。ただ、この方法はうまくいかなった。いや、正確にいうと、うまくいったのだが、成功とは認識しなかったのである。
では、どうやってこの迷路から出ることができたのか。結局、時間がたって、これ以上、さまよい歩くのは疲れたので、最後の手段に出ることにした。やってきた道をもとに戻ったのである。つまりルール違反、横紙破りの、入口から出るという暴挙、まさに、最後の手段にうったえたのである。しかし、実は、まさにそれが正解だったのである。
Wikipedia英語版にあるハンプトン・コートの迷宮図をみてほしい。中心部にやってきたら、その道をもとに戻る、つまり入口にもどるしか、外に出る方法はないのである。中心部に行って、また戻る。この構造がわからなかったので、幻の出口と、出口に至る通路をもとめたさまよい、同じところに出た(たぶんジェロームの小説でははっきり書いていないが、中心の空き地に出た)。しかし入口にもどるしか出ることはできなかったのだ。右手法を試みた時、入口に戻る通路に出てしまったので、失敗だと思ったのだが、実は、右手法は成功して正しい出口つまり入口に導いていたのだが、こちらがそれに気づかず、失敗と思い込んだのだ。
え、そんなことがあるのか。ハンプトン・コートの迷路は、それは詐欺ではないのか。いや、詐欺ではない。これが実は迷宮の基本構造だったことを、私は、あとで知ることになる。つづく。
もうずいぶん前のことになるが、イギリスのハンプトン・コート宮殿(Hampton Court Palace)の庭園迷路(garden maze)を訪れたことがある。観光名所だから、日本人で訪れた人も多いと思うし、たぶん私と同じような感想を多くの人がもたれたと思う。当時は、いまちょっとふれたように、迷路とか迷宮について、その区別もなんらついてなくて(どちらも同じという説もある)、遊園地のアトラクション程度のものと軽い気持ちで考えて――迷うのは嫌だと思いながら――、中に入った。生垣迷路である。
この迷路には、中心がある。だから迷宮としての要素をもっている。あるいは迷宮をもとにして、そこにわき道をつけて、迷路にしたのかもしれない(この点はあとで考える)。
迷路をどんどん歩いていくと、中心の空き地のようなところに出る。それが中心だとどうしてわかったのかというと、たぶん、ここが中心であるという表示のようなもの(看板とか)があったのではないかと思う。
ここが中心なら、迷路の半分を踏破した。あとは、出口に通ずる道を探すだけである。中心部の空き地が、中心地にはなく、出口により近いところとか、出口から遠いところにあって、中心地が中心にないという可能性もなくもないのだが、まあ全体の中心にこの空き地があるにちがいなく、これで全行路の半分まで来た。あとは、残り半分。と当時はそう考えた。
この空き地には出入口が一つしかなく、入口をとおって空き地から出た。このままいくと、やってきた道を後戻りすることになるから、出口に通ずる道を探さなければいけない。まあ、当然、そう考える。そこであれこれ道を試してみる。
すると中心の空き地に戻ってしまう。また気づくと、やってきた道にもどっている。これではいけないと、道を探す。どんどん時間がたっていく。完全に迷いはじめた。中心の空き地に来るまでは、けっこうスムーズに来たのに、そこから出口を目指すとなると、道がわからなくなる。なにか迷路が地獄にみえてきた。
ジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』という有名なユーモア小説がある。私はハンプトン・コート宮殿の庭園迷路を訪れる前、それも相当前に、読んだことがあって、迷路に迷いながら『ボートの三人男』を思い出したと語ることができればいいのだが、それだと嘘を語ることになる。読んでいたことは事実だが、初めて読んだとき、ハンプトン・コート宮殿がどこにあるのかも知らず(テムズ川沿いにあるのだろうとは思ったが)、おそらく、そのエピソードも、小説全体の内容ともども、とっくに忘れ去っていた。だから庭園迷宮の施設内に無料で配布されているチラシか、あるいは掲示板などで、『ボートの三人男』について触れてあって、それで、あの三人がここに来たのかと急に思い出し、なつかしくなり、旅から帰ったあと、本を取り出して、読んでみた。
いまジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』は、丸谷才一と小山太一という、新旧の翻訳の達人の名訳で読むことができるのだが、小山氏の新訳のほうを引かせてもらうと(ちなみに名訳があるのに、なぜ新訳かということについての、小山氏の訳者あとがきのアポロギアが面白い)――
「まあ、せっかくだから記念のつもりでちょっと入ってみよう。大したものじゃないけれどね。迷路と呼ぶのがおかしいくらいなんだ。右へ右へと曲がりつづければいいのさ。十分もあれば出られるから、それでランチにしよう」
ふたりが入っていくと、他の人たちが声をかけてきた。(『ボートの三人男――もちろん犬も』小山太一訳(光文社古典新訳文庫2018)以下同じ。第6章p.106)
出られなくて困っている人が、ハリスについてくる。その数、二十人にもおよぶ。ハリスの腕を握って離さない女性もでてくる。
ハリスは右へ右へと曲がりつづけたが、すいぶん長い道のりのようだった。すごく大きな迷路なんだね、と従弟が言った。
「ヨーロッパ最大だからな」とハリス。
「うん、そうだろうね」と従弟が答える。「もう、たっぷり二マイルは歩いたよ」
ハリス自身も何だか勝手が違う気がしはじめていたが、そんな様子は見せずに進みつづけた。ところがしばらくすると、そこに落ちている菓子パンはたしかに七分前に見たぞ、と従弟が言い出した。そんなわけがあるもんか、とハリスは言ったが、赤ん坊連れの女が「ありますとも」と逆ねじを食わせた。(p.107)
困ったハリスは、
いったん入り口に戻ってやり直すのが一番だと述べた。やり直すという部分に関しては賛成の声が少なかったが、入り口に戻るのがいいという点で全員が一致したので、一同は向きを変え、またハリスの後について、これまでとは反対に進んでいった、ところが十分ばかりすると、またさっきの場所に戻ってしまった。(p.108)
結局
……どう頑張っても他の場所に出られなくなった。どこで曲がっても、必ずあの場所に戻ってしまうのだ。しまいにはそれがお決まりになったので、何人かの連中はその場から動かず、一行がぐるぐる回ったあげく戻ってくるのを待つ作戦に切り替えた。
(略)
ついに全員が恐慌をきたし、声を揃えて管理人を呼んだ。(略)ところが、不運なときはとことん不運なもので、管理人はこの仕事を始めたばかりの新人だった。入ってきたはいいが、ハリスたちのいるところにたどり着くことができず、管理人自身が迷ってしまったのである。(p.109)
こうしたドタバタがつづいたあと、
一同がやっと外に出られたのは、年かさの管理人が昼食を終えて戻ってきてからだった。
自分が見たところあれは実に巧妙な迷路だ、とハリスは言った。p.110
もしこの件を鮮明に覚えていたら、私は、ハンプトン・コートの庭園迷路を訪れてみようという気にはならなかっただろう(ちなみに小山氏は「ハムトン・コート」と表記している。この表記は、Hamptonのpは弱く発音されるか発音されないことが多いためだろうと思われれる)。
小説の人物たちのように歩かされ道に迷うのはごめんだからだ。ああ、覚えていれば、迷路にはいかなかった。まあ、ニーチェのいうように、忘却こそが、私たちの行動の原動力なのかもしれない。
ただし、ネタバレを避けるためかどうか、わからないが、ジェロームの描写は、少し盛りすぎの感がある。迷路を簡単に出れると豪語する男が、周りから頼られ、迷える者たちがいっぱい集まってくるのだが、この男は、詐欺師ではないにしても、まったく役立たずで、付き従う者たちをふりまわして、最後には憎まれ、ついに管理人の助けを求めると、その管理人が新米で……というダメ押しのネタまで用意されているが、実は、書き手自体が、ハリスと同様に読者を振り回すところがある。まあ、そのメタ性はここでは脇に置くことにして――
実はこの迷路、小説で語られているほどむつかしい迷路ではない。ただし迷う人が続出したので、19世紀か20世紀になって、改良を加えたのかもしれず、この小説の迷路と、いま現在のハンプトン・コートの迷路は同じではないかもしれないのだが、Wikipediaの英語版には上からみた迷路図がある――もちろんヨーロッパ最大ではない。この迷路図をみてもらえば気づくこともあるのだが、当時、そんなことを知らない私は、迷いに迷った。
とはいえ、どうすれば出ることができるのかは、わかっていた。つまり最後の手段がなんであるかは、わかっていた。
それはやってきた道をもとにもどって入口に戻り、そこから出ることである。実は、この小説のように、迷っていると、何度も、ここは前にきたところだという場所に行き当たった。それは入口に通ずる一本道である。しかし、ここで入口に戻るのは、ルール違反としか思えない。仮に入口にもどってしまうと、管理人が待ち構えて、出口を探しなさいと追い返されてしまうような気がしたし、そもそも出口がわからずに、入口にもどってそこから出ようとするのは恥ずべきルール違反でしない、そう思ったのだ。
また、それに管理人に頼み込んで、なんとか入口の近づけても、もっと怖そうな威厳のある管理人が現れ、ダメだと睨みつけられ、あざけられて、こちらはいたたまれなくなっても、それでもその管理人の横を通り抜けて、管理人からは、私をかわしても、つぎにはもっとこわもての管理人があらわれるから覚悟せよといわれ、いよいよ入口(という出口)にたどり着いたかと思うと、ラスボスのような巨体の管理人が現れ、怖気づいた私は、結局、最初の管理人のところに戻り、その前で、無駄な説得を試みつづけ、人生を終えるのかもしれないという妄想まで抱くはめになった。20世紀に生きていた私は、ジェロームのこの小説はすっかり忘れていたが、カフカの小説はおぼえていたのだ。
私は当時、イングランドの田舎で暮らしていたのだが、今ではなくなっているだろうが、イギリスのローカル線には、古い形式の車両が時々走っていて、それは各車両に、ずらりと並んでいる窓のところが、ドアにもなっているという形式の車両である。対面で座る座席があると、通路側の反対の窓側に、対面座席一組に対してドアがひとつついている。したがって乗降は、とりわけ降りるときは、自分の座席のすぐ横にある窓付きドアをあけてホームに降り立つことができる。ドアは外からも開けることができる。出発時には駅の係員が、各車両のドアが全部、きちんとしまっているかどうか、走りながらドアノブに手をあてて確認する。ただし、新しい車両はこういう形式ではない。あくまでも古い形式の車両のことだ。
で、そうした形式の車両に乗っていると、駅に着くと各車両の前後にもついているドアまで、自分の席からわざわざ歩いて行って降りる人たちがいることに気づく。それをみて、何も知らない、アメリカ人の観光客だ、お上りさんだと心の中で優越感にひたりながら、私は自分の座席のすぐ脇のドアを手であけてホームに降り立ったものだ。もちろんホームでは、自分が下りた車両のドアは手でしっかり閉めた。
実は、ハンプトン・コートの庭園迷宮も出方があって、それを私が知らなかっただけなのだ。小説のなかでは「右へ右へと曲がりつづければいいのさ」と語られていて、これは、右側の壁に手を付いて、ひたすら壁沿いに進むという方法で「右手法」と呼ばれるものである。実は、私も、ハンプトン・コートの迷路のなかで、この「右手法」を提案した(一人で迷路にやってきたわけではない。ほかに日本人が二人いた。迷路の三日本人である)。これはこの小説を読んで知ったというよりも、実は、昔読んだ、白戸三平の忍者漫画に出てきて覚えていたのだ。ただ、この方法はうまくいかなった。いや、正確にいうと、うまくいったのだが、成功とは認識しなかったのである。
では、どうやってこの迷路から出ることができたのか。結局、時間がたって、これ以上、さまよい歩くのは疲れたので、最後の手段に出ることにした。やってきた道をもとに戻ったのである。つまりルール違反、横紙破りの、入口から出るという暴挙、まさに、最後の手段にうったえたのである。しかし、実は、まさにそれが正解だったのである。
Wikipedia英語版にあるハンプトン・コートの迷宮図をみてほしい。中心部にやってきたら、その道をもとに戻る、つまり入口にもどるしか、外に出る方法はないのである。中心部に行って、また戻る。この構造がわからなかったので、幻の出口と、出口に至る通路をもとめたさまよい、同じところに出た(たぶんジェロームの小説でははっきり書いていないが、中心の空き地に出た)。しかし入口にもどるしか出ることはできなかったのだ。右手法を試みた時、入口に戻る通路に出てしまったので、失敗だと思ったのだが、実は、右手法は成功して正しい出口つまり入口に導いていたのだが、こちらがそれに気づかず、失敗と思い込んだのだ。
え、そんなことがあるのか。ハンプトン・コートの迷路は、それは詐欺ではないのか。いや、詐欺ではない。これが実は迷宮の基本構造だったことを、私は、あとで知ることになる。つづく。
posted by ohashi at 23:39| 迷宮・迷路コメント
|