2021年10月12日

『パラドクス』

原題 El Incidente 英語題目 The Incident
メキシコ映画 2015年メキシコ公開 2016年日本公開 101分
イサーク・エスバン監督

Amazonにあった以下のレヴューアーのコメントが、この映画のありようを、それなりに伝えている。とはいえ最初の3行は完全にオバカ・コメントなのだが。

5つ星のうち5.0  気の滅入る悪夢と伏線回収の秀逸さ。
2016年11月22日に日本でレビュー済み

人間ってさ。ずっと同じ場所にとどまり続けるっては、精神的にしんどいよね。
まして35年も同じ空間から出ることもできず、
たとえ食料と水は確保されてても、精神的にしんどいよね。

0幕)冒頭の老いたウェディング姿の老婆 →???
1幕)非常階段に閉じ込められた3人 →35年経過
2幕)ハイウェイに閉じ込められた4人 →35年経過

0幕で始まり、その後、交互に展開する1幕2幕の出来事が、
最期の0幕とむずびつくとき、なんとも言えない脳内での割符合い感が、非常に快感でたまらないです。
とにかく完成度に関しては近年稀に見る傑作ですが、後半は注意力を怠ると、何が何だかわからなくなってしまいます。
ポップコーンとコーラを片手に見る映画ではないですね。二度見おすすめです。色々伏線が散りばめられていますので。

CUBE、インターステラ、バタフライエフェクト、シャッターアイランド、SAWなど、
色々な作品からのインスパイアを受けた感じはします。ジャンルではSFコーナーにありましたから、ホラーではないです。

100分足らずの映画ですが、まる一日見続けたような脱力感が残りました。


「人間ってさ。ずっと同じ場所にとどまり続けるっては、精神的にしんどいよね。まして35年も同じ空間から出ることもできず、たとえ食料と水は確保されてても、精神的にしんどいよね。」――このコロナ禍でも自粛できない人間が多いなか、35年も閉じ込められて生きられるわけがない。そもそも水と食べ者が自動的に出てくる閉じられた空間などがほんとうにあると思っているのがおかしい。当然、それは、メタフォリカルな、あるいはアレゴリカルな空間であることは、バカでもわかるわい。たとえばこれは35年懲役刑に服する囚人の心的風景かもしれない。あるいはさらに……。

もどかしいので、ここで一挙にネタバレをして、この作品についてコメントしておく。この映画をみたあとで、以下のネタバレ・コメントを読んでほしい。なお、この映画については、考えられるかぎりの、その内容を記述することにするが、伏線を全部回収しきれてないことはわかっている。また、メタフォリカル・アレゴリカルな意味については、あくまでも個人的な一解釈にすぎない。

0幕)冒頭の老いたウェディング姿の老婆 →???
1幕)非常階段に閉じ込められた3人 →35年経過
2幕)ハイウェイに閉じ込められた4人 →35年経過

これを借りよう。

0.
映画の冒頭、動いているエスカレーターが映し出される。そのエスカレーターは、ウェディング・ドレス姿で横たわっている老いた女性を運んでいる。女性の手には赤い手帳が握られている。赤い手帳は重要。

次に結婚式の衣裳の若い男女が抱き合いながらホテルのエレベーターの前のところにくる。このエレベーターに乗るのかどうかわからないまま、つぎの場面へ。

1-1.
カルロスが赤いリュックを背負って自分の住居(コントミニアムの一室)に帰ってくる。帰宅すると弟のオリバーがうろたえている。弟は薬物の売買を刑事に自白して困っている。そこに待ち伏せしていたマルコ刑事が登場し、銃を向けて、二人を逮捕しようとするが、二人はマルコを倒して、階段室に逃げ、9階から1階へと駆け降りる。

後を追うマルコ刑事は、逃げる兄弟に発砲し、銃弾は兄のカルロスに命中する。ここまで超現実的なことは起こらない。すると爆発音が聞こえる。音だけ。あとでわかるが、この爆発音が出来事のはじまりの合図となる。兄弟とマルコ刑事は、出口のない階段室に閉じ込められていることを知る。9階から1階へ降りても、また9階になる。マルコ刑事が鍵を階段から下へと落とすと、鍵が階段の上から落ちてくる【これは当初、シナリオにはないアドリブ的な展開だったようだが、実に印象的な場面となった】。これで完全な出口のないループ空間に閉じ込められたことがわかる。【なおマルコ刑事は、ポケットのなかに小さなトランプカードが1枚入っていることを発見し、それを階段に捨てるのだが、この小さなトランプカードは、マルコ刑事の真のアイデンティティを暗示している。】

またさらに不思議なことに、階段室にあるベンダーは、そこに入っているポットボトルの水とサンドイッチなどが常に補充されて出てくることがあとでわかる。兄カルロスは死ぬが、兄の持ち物だった赤いリュックにあった物、フィリップ・K・ディックのSF『時は乱れた』などを含む小物も、定期的に同じものが出てくることがあとでわかる。

2-1.
場面はバカンスに出かける家族の出発光景へとかわる。ダニエル10歳とカミラの兄妹は、母サンドラと、母の新しい夫ロベルトの赤い車で、バカンスに出かける(バカンス先にはサンドラの別れた夫がいるか、別れた夫が経営するホテルらしい)。ダニエルはぐずぐずしているが、せかされて車に乗る。なおダニエルはこのとき、小さなトランプのセットから数枚引き抜いてポケットに入れる【小さなトランプカード】。またハムスターの籠もいっしょにもってゆく。

ダニエラの妹カミラはぜんそくもちのアレルギー体質だが、無神経な義父ロベルトは彼女に果物ジュースを飲ませ、それがもとで彼女が重度のアレルギー反応を起こす。さらにロベルトはうっかりしてカミラの吸引器を壊し【これはほんとうにうっかりなのか疑問。なにか意図的に壊したようにも見える。この無自覚な悪意は、すでに階段室でカルロスを射殺したマルコ刑事からもうかがえた。】、予備の吸引器を兄のダニエルはもってくるの忘れたために、母サンドラは自分の家に引き返すようロベルトに命ずる。苦しむカミラを乗せた車は、もときた道を自宅へともどる。

ここから異世界に入る。車はどこまでいっても同じところにもどってくる。目的地のホテルにも、また自宅にも帰ることができないまま、荒野の一本道から抜け出ることができない。途中で立ち寄ったガソリンスタンドか、車の運転中だったが忘れてしまったが、謎の爆発音がする。出来事が始まったのである。

カミラは死に。兄のダニエルと、発狂したかのような母サンドラ、そしてサンドラの新しい夫ロベルトが荒野の一本道に取り残される。

なおこの一家が目的地にむかうとき、車のなかに竹の断片がころがっている。この竹はなんだとロベルトかサンドラが、車外にそれを捨てる。捨てられた竹の断片が道路に転がるところをカメラは大写しにする。

1-2
マルコ刑事と、オリバーとが抜け出せなくなった階段室に映画はもどる。すると殺風景でなにもなかった階段室の壁には所狭しと落書きが描かれ、階段や踊り場はごみであふれている。あれから35年経過したことがわかる。

昼も夜もなく、ずっと電灯がついている階段室は、上にも下にも無限に続いている。こんなところが現実にあるわけがない。

またこの映画のなかでループは35年周期なのであって、35年を経たいま、新たなフェーズに入ろうとしている。なおこの階段室に閉じ込められた二人が生きていられるのは、ペットボトルの水とサンドイッチが無限に供給されるからである。糞尿はペットボトルのなかにいれて階段や踊り場に放置。上下に無限につづいているから糞尿入りのペットボトルやゴミで足の踏み場もなくなることはない。とはいえ階段室は、ほぼごみ屋敷化してはいるが(正確にいうと上層階(無限につづくというかループしているので、上も下もないのだが)はオリバーの居住区で、いろいろな物品が整理されすべてが清潔にたもたれているが、下層階は高齢化したマルコ刑事の居住区で、ほぼごみ屋敷である)。

さらにマルコ刑事は足腰もたたぬほどよぼよぼになっているが、オリバー(弟)のほうは、階段を上下する運動を怠らず、シャワー(ペットボトルに小さな穴をあける)も欠かさず体調を管理していて元気な青年のままである。なおふたりは、死んだカルロスの骨を壁に飾り、それを聖なるものとして崇拝している。

【階段室がなにか地獄のイメージになってしまっているのは、へたをすると映画『ドント・ゴーダウン』(2000)(原題は逆にThe AscentあるいはThe Stairs)の影響かもしれないのだが。】

2-2
荒野の一本道に閉じ込められた家族にも35年経過する。ここでは時間がたっても天候に変化はなく、昼夜の別なく太陽が輝いている。彼らが生きていられるのは、途中にあったガソリンスタンドの売店(コンビニのようなもの)がつねにスナック菓子や飲み物、そして作業着や生活必需品などを提供するからである。永遠の昼間。夜のない世界。抜け出せない荒野。35年たった今、ここでも別のフェーズへの移行がはじまろうとしている。

2-3
ロベルトの告白:昼間の荒野の世界で、老いたロベルトが、死の間際に、義理の息子ダニエルに自分の正体を告げ、忠告を与えることになる。実は自分の名はロベルトではなくルーベンといい、1949年、10歳の頃、ボーイスカウトの活動のようなもので、竹のいかだに乗って、教官と仲間のフアンと自分の三人で川を移動していたところ、教官の不注意で、仲間のフアンが死んでしまった。そしてそれ以後35年間、教官と二人でいかだの上でさまようことになった、と【車のなかに竹の断片があったのも、ルーベン/ロベルトがすでに35年間、いかだ生活をしていたことから来ていたのである】。

35年目、いかだから解放されたルーベンは、ロベルトという新しいアイデンティティを身につけ、赤い車で、サンドラ母、ダニエル(10歳)とカミラの兄妹を拾い、家族を形成することになった。ところが自分の不注意(あらかじめ仕組まれた悪意?)でカミラを死においやったので、出来事がはじまり、ふたたび35年間、この荒野の一本道に閉じ込められることになった。だがいますべてを思い出したロベルトは、義理の息子ダニエルに、こうアドヴァイスする。パトロール・カーには乗るな、と。パトロール・カーに乗ってしまうと自分の名前すら忘れ、別人格になってしまうから、と。

ロベルトの死後、ダニエルの前に、忽然とパトロール・カーがあらわれる。最初は忠告通り、乗ることはしないが、荒野での孤独な生活に耐えかね、パトロール・カーに乗り込んでしまう。車内のシートには警察官のバッジと装備品。そして赤い手帳がある。この赤い手帳は、ダニエルの新しいアイデンティティを記し、行動の方針なり、行動の展開などを記した台本のようなものとなる(死んだロベルトも同じデザインの赤い手帳をもっていた)。

パトロール・カーにのって、いよいよ荒野から抜け出ることができたダニエルだが、警察車両に乗った瞬間から彼は自分の名前を忘れ、新しいマルコ刑事というアイデンティティをみにつけることになる。

1-3
マルコ刑事の告白 荒野の一本道と、階段室での出来事は同時進行しているのだが、時間系列を整理すると

1)1949年ルーベン10歳、仲間が死んだため以後、35年間、ルーベンはいかだで過ごす。
2)1984年 ルーベンいかだから解放。ロベルトとなり、サンドラ母子(ダニエルとカミラ)を拾う。このときダニエル10歳。
3)1984年から2019年まで、ロベルト、サンドラ、ダニエル、荒野で過ごす。
4)2019年ロベルト死亡(サンドラはすでに死亡)。ダニエル、マルコ刑事となる。
5)2019年から2044年まで、マルコ刑事、オリバーと階段室ですごす。
6)2044年~ マルコ刑事/ダニエル死亡。オリバー、ベルボーイのカールとなる。


こうなるのだが、それにしても、3)の35年間と5)の35年間が映画のなかで同時進行なのは気になる。そのため2019年にダニエル/マルコは、1984年にタイムスリップしたようにもみえる。ただし、上記のように5)を2019年から2044年と設定しても、不具合はないのだが。

【なお(3)と(5)のそれぞれにおいて他を暗示するイメージがある。ダニエルが自宅で弾いているピアノの横の壁には、エッシャーの複雑にからみあう階段の絵が掲げてある。最初はピラネージの階段の絵かとも思ったが、二度目にみたらエッシャーだった。しかしピラネージの階段牢獄のイメージのほうがぴったりくるかもしれない。
 また階段室の壁の落書きには、一本道の落書きも存在していた。】

階段室での35年の終わりには老いたマルコ刑事(実はダニエル)は、オリバーに向かって、自分の正体をあかす。自分には妻と娘が3人いると話してきたが、そんなものはいない、と。これは乗り込んだパトロール・カーのなかにあった刑事の財布に妻と娘の写真があり、おそらく赤い手帳にも家族に関する情報があって、ダニエル/マルコは、そのように自分のアイデンティティを捏造したのである。あるいは完全にそう思い込むことになったが、35年たって真実にめざめたともいえる。

ダニエル/マルコ刑事は、最後に、オリバーに、自分には妻も娘もおらず、自分の名前はマルコではなくダニエルであると告げる。そうしてエレベーターには乗るなとオリバーに忠告して死ぬ。

忽然とドアが開いたエレベーターに、オリバーは忠告どおり乗ろうとしないのだが、階段室での孤独な生活に耐えかねてエレベーターに乗ってしまう。

エレベーター内にはベルボーイの制服と帽子、そして赤い手帳(!)が置いてある。ベルボーイとなったオリバーはカールと名乗ることになる。また赤い手帳には今後の行動指針や行動の内容が書かれているようで、まさに台本に近い。

0-2
と、そこへ結婚式をあげたばかりらしい若い新郎新婦がいちゃいちゃしながら入ってくる。カール/オリバーはベルボーイらしくふるまうのだが、また、蜂が一匹入ったアクリルの小箱をひそかに用意している(おそらく赤い手帳に書かれてある指示に従って)。また新婚夫婦とともに荷物をもってホテルの廊下に降り立ったカール/オリバーは、意味もなく荷物を下に落とす【とはいえほんとうに無意識の無償の行為かといもいえなくて、悪意がこもっているようにも思われる】。荷物を落とすなと叱りつつ荷物に手を伸ばした新郎は蜂に刺される【カール/オリバーが仕込んでおいた蜂】。アレルギーで蜂に刺されると死ぬかもしれないという新郎は、荷物の鞄にあった薬瓶が割れてしまったために重篤な状態に陥る……

と、ここで映画が終わる。


出来事というのは、3人か4人のグループにおいて、一人の不注意あるいは一人の悪意によって、仲間のひとりが死んでしまうと、死に追いやった者と、残りの者たちは、特定の空間(無限に広がる川、終わりになき階段、無限につづく一本道、動きつづけるエスカレーター、いうなれば一直線の迷宮【線路のイメージも出てくる】)にとらわれて35年すごすことになる。35年目に死をもたらした者(いいかえれば赤い手帳ももっている者)は、若い者に忠告を残して死ぬ。だがその忠告は守れるようなものではなく、むしろ、逆に、若い世代を罠に導くような忠告である。忠告を守らなかった若い者は、赤い手帳を与えられ、みずから人に死をもたらすものとなって35年間、閉じこめられ生活を送ることになる。

この35年周期の閉鎖空間への収監は、悪意があってもなくても、人を殺したときに発動する事態である。そのはじまりは謎の爆発音によって知らされる。

【チェーホフの戯曲『桜の園』では、途中で謎の崩壊音が何度も聞こえる。この謎の音が、この戯曲に現代演劇の評価を与えることになったのだが、それと同じくらい、この映画における爆発音(ただしそんなに大きな音ではない)の謎めいたところ無気味さは特筆に値する。】

0-3
なおここで、映画冒頭のエスカレーターで運ばれていく老いた花嫁衣装の女は、ふつうに考えると、カール/オリバーに夫を殺された花嫁のなれのはての姿であるといえる。しかし、彼女は赤い手帳をもっている。赤い手帳をもっているのは悪意ある加害者であり、この加害者は35年の閉鎖生活を経ることになる。となると、夫を殺したカール/オリバーとともに35年過ごした彼女は、今度は、カール/オリバーによって、忠告をあたえられ、その忠告を守らなかったがゆえに、赤い手帳を手に入れ、今度は加害者となる。そのため加害者となった彼女は35年の閉鎖生活をすごすことになり、20歳で結婚してから、カール/オリバーとともに35年、そして今度が加害者となって35年、合計で20年+70年で、彼女は90歳代である。それなら彼女の異様な年の取り方にも納得がいく。

ただし、彼女の老衰した姿は、単純計算すると22世紀における姿なのだが、しかし、この年老いた女性は、ひょっとしたらダニエルの祖母かもしれないという可能性が残る(祖母への言及は映画のなかにある)。階段室と荒野の一本道の世界が同時進行であったように、この映画の世界では、時はその関節がはずれている。一本道、無限軌道の無間地獄のイメージが強いのだが、時系列は整合性を失い乱れているのかもしれない。

【ああ、それにしてもフィリップ・K・ディックのSF小説『時は乱れて』は、サンリオSF文庫の初期の刊行物であり、なつかしくて、涙が出てきそうなのだが、Time Out of Jointがシェイクスピアの『ハムレット』にあるフレーズであることを知るようになってからは、小説の内容を忘れてしまった。いかにも初期ディック風のSFだったという記憶はあるのだが。】


映画のほんとうの最後、エンドクレジットの最後の映像は、籠から出てゆくハムスターの姿である。踊り車のなかにはいってひたすら駈けるしかなかった、ある意味、閉じ込められているこの存在(ハムスター)は、最後には、運命から逃れることができた。だが、映画の登場人物は、あるいは人間は逃れることができるのだろうか。

つづく
posted by ohashi at 11:14| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年10月11日

『タイム・ループ七回殺された男』

タイム・ループ物の映画について、無名の映画ばかりで恐縮だが、面白かったので紹介したい。ネタバレを含む。

原題:Inkarnacija ; 英語タイトル Incarnation
2016年製作/86分/セルビア映画。セルビア語

映画.comの解説

解説
記憶喪失の青年が謎の集団に殺害される場面を何度も繰り返しながら真相に迫っていく姿を描いたセルビア製サスペンススリラー。ある日突然、街角のベンチで目を覚ました青年。記憶を失い自分の名前さえわからない彼は、突如として現われた白いマスク姿の男たちに射殺されてしまう。次の瞬間、全く同じ状況で目を覚ました彼は、再び白マスクの男たちに追われて殺害される。さらに同じ場面を繰り返す内に、青年の脳裏に家族を殺された少年のイメージが浮かびはじめ……。WOWOWでは「タイム・ループ」のタイトルで放映。


一見すると謎が謎を呼ぶ展開で引き込まれつつ、最後まで見るとなんじゃこれはと思う視聴者が多いようで、評価は高くない。しかし評価する人も多い。

AMAZONのレヴューアーは、

5つ星のうち5.0  消化不良系ですが良い出来です
2018年6月24日に日本でレビュー済み
謎の部分が残るのでどうしてもモヤモヤが残ります。そこを少し考察するのもおつなものではないですか。
何よりラストまでがよく出来ていて面白いです。引き込まれるタイプの作風。
消化不良系は駄作ばかりですがこの映画は珍しいです。
多分ロケーションがいいんだと思います。もちろん演出も。
特に良いと思ったのは主人公のモノローグでした。何とも言えない案配の絶妙さでなかなかないです。
どこか文学的でありながら抑制が利いていて機械的といいますか。
厭世的でありながら希望も持ってるような、聞いていて気持ちが良かったです。
吹き替えで見たので声優さんの口調もぴったりハマってました。
モノローグがよくなければ★3ですね。


ちょっとずれているようなコメントだが、しかし、もやもやしたものが残っても、映画そのものよさから充分に鑑賞にたえる作品であることがわかる。

と同時に、ネット上には、明確に解釈したうえで評価しているサイトもある。私も自分なりにこうだと思ってみていたので、もやもやは残っていない。むしろ、セルビアの街並みの良さと、現地の空気感に酔いつつも、ループ物の設定をうまく活かした佳作であると思う。

ただ、その前に、おばかサイトを引用して、逆にこの映画の理解を深めたい。

感想
予告はよかったんだよなぁ。でも、本編は退屈でした。何だったのかよくわからない作品だ。映画作品には確実にメッセージがあるべきとか、訴えたい何かがあるべきとは思わない。

何の意味も感じないけど、映像美に惹かれるとか、役者に惚れ惚れしちゃうとか、音楽の使い方がいいとか。観方は人それぞれなんで、その人にとって楽しければいいのだ。

で、俺は個人的に時間移動系の映画が好きなので、今作を借りて鑑賞したのだが、その結果として得た感想が冒頭のものである。残念。


残念なのは、あんたの頭。その知性と感性の欠如はなんとかしたほうがいい。だいじょうぶ、訓練すればよくなるから。

同じレヴューアーは次のようなつっこみどころを指摘してる。

死にたいのに何でヒント残すんだよ

オチを知ったとき、主人公自身が自分を殺そうとしてたってことを知ったとき、
オイオイオイオイ
と思うどころか、軽く怒りを感じてしまった。だって、自分の記憶を消して、仮面たちに自分殺しを頼むのはいいとしよう。でも、じゃあ、あのループは何なんだよ。何でそんなことが、どういう原理で起きてるんだよ。

主人公は記憶を消すとあのループが起こるのを知ってたのか? 知ってなくても別にいい。そんなこと事前に知れるわけないんだから。でもおかしいのは、死にたいのに何で、記憶を消した後の自分が生き残りを促すようなヒントを残すんだよ。意味不明。

どうやって主人公を特定してたんだ?
あと、何度目かのループ後、主人公はまだ試していない、最後の一本の道を行く決意をする。そこは、4人の仮面たちが向かってくる方向だ。主人公は意を決して、そちらに向かっていく。いろいろ隠れたりするのもあってのなのか、仮面たちは主人公に気付かない。で、主人公は「そうか、奴らは俺の顔を知らない」ということに気付くのである。
オイオイオイオイ
そうだとしたら、一番最初の殺しとか、奴らはどうやってお前を特定したんだよ。アホか。顔を知らないんなら、殺せないじゃねーか。そのくせにお前、今まで何回射殺されてんだよ。ボケ、カス、イモ。


オイオイオイオイ、ボケ、カス、イモ――こういう連中は、頭悪いのに、人をののしるときの威勢の良さはけっこう天下一品で、正直、私にはうらやましいと思うところもあるのだが、それはともかく。

同じことは、このレヴューアーにもはねかえってくる。

以下ネタバレ。

主人公の青年は、六辻の真ん中にあるベンチで目覚めると、自分の名前すら思い出せない記憶喪失に陥っていることがわかる。と、そのとき白い仮面をつけた謎の殺し屋集団に銃撃されあえなく命を落とす。5,6分のシークエンス。と次の瞬間、ベンチでまた目覚めている。

主人公は白い仮面集団に襲撃におびえつつ、自分が誰なのかを必死で探るのだが、つねに白仮面集団に銃殺されて探求は一向に前進しないまま、何度もベンチで目覚めることになる。

ここから物語の展開をばらすことになるが、青年は、自分探しをしつつ、また少しずつ記憶ももどってきて、真相にたどりつく

実は、青年自身、白い仮面の殺し屋集団のひとり(もしかするとボスかそれに近い存在)だが、幼い子供までも射殺することになり、殺人に嫌気がさし、殺し屋集団から身を引くことになる。

そのために、まず白い仮面を苦労してはずす(なかなかはずれないようになっている)。そして医師に頼んで自分の記憶を消してもらうことにする。また、このとき白仮面集団に自分を殺すように殺人依頼をする。

先の引用で、どうして殺人集団に主人公がターゲットであることがわかったのかと疑問が呈されていたが、殺人集団は常時仮面をつけていて素顔は知らないらしい。またまさかメンバーの一人が自分を殺すよう依頼するとは考えないので、困惑すること必至なのだが、ベンチにいる男を殺す、そのベンチから逃げ出した男を殺すということなのだろう。

ただ、これはささいな問題で、大きな問題は、なぜ殺されると再びベンチで目覚めるのか。またなぜ自分の記憶を消しながら、自分が誰であるかの手がかりを残したのかということである。

いずれも説明されていないので、先の引用のレヴューアーが疑問にもつ(バカだから腹を立てる)のはもっともなことかもしれない。

しかし、ふつうに考えてみてもいい。それまで多くの人を殺してきた殺し屋が、自分のやっていることに嫌気がさして、それまでの記憶を消し、プロの殺し屋に自分を確実に殺させる。オイオイオイオイ、ボケ、カス、イモ――レヴューアーの品の悪さに感染してしまった。そんな虫のいい話があるか。いやなことはきれいさっぱり忘れて、あとは天国に召されましょう。そんな虫のいい話はあるか。日本じゃないんだぞ。

ちなみに日本では、池袋の路上で、後期高齢者でありなおかつ脚が悪いのに通常の自家用車を運転して、ブレーキとアクセルを踏み間違えて、人をはねて殺し(そのなかには若い母親と幼い娘もいた)、懲役の実刑判決が出たのに、自分の非を認めて謝罪することはなく、悔い改めもせず、老後の世話と面倒を家族にかけることなく、懲役刑に服することで、税金で老後の世話をしてもらう(高齢者だからさすがに労働の義務はないだろう)という、こんな虫のいいことがまかりとおっているのだ。もちろん、上級国民である被告の姿勢にいきどおっている日本人は多いのだが。

この映画にもどれば、もし神様がいるのなら、あるいは単に道義的に言っても、主人公に簡単に死なれては困るのだ。

何度も何度も殺され、殺される者の恐怖と苦しみをとくと味わい、さらに自分のやってきたことをしっかり思いだし、それと向き合うことで、悔い改めてもらうしかない。だからループが起こるのである。あるいはループは、神と私たち双方の意志の帰結である。

日本風というか仏教風にいうと、主人公は成仏できない。最初、主人公は、自分にむけてはりめぐらされた陰謀によって、自分自身が成仏できないのではと思っているかもしれないが、実は、成仏させてもらえないのである。

映画の最初のほうに成仏できなさのヒントはある。主人公がベンチでめざめたあと、そもそもここはどこか、道行く人に尋ねようとするが、主人公がまるで透明人間であるかのように、感知されない。そのくせ街で遊んでいる子どもたちには主人公の姿が見え、主人公と言葉を交わすことができる。いうまでもなく、大人にはみえない幽霊を、子供はみることができるのである(私の姪は、まだ幼い頃、家のなかで、そこにいる人は誰と彼女の両親に尋ねて、両親を震え上がらせたことがある――親子三人以外に誰もいなかったので)。

そう、この映画の主人公の青年は、成仏できないような、さまよえる亡霊という暗示がある。映画の最初にベンチで目覚めるとき、それは数えきれないほど殺さてきた後の目覚めではなかったのか。「七回殺された男」は、日本で勝手につけたタイトルである(七回とか七回殺されるというタイトルの本があることからの連想だろう)。七回どころではなく、無限回数、この男は殺されているのである。

と同時にただ殺されるだけでは済まない。自分のしてきたことを記憶喪失として闇に葬って成仏し天国に召されようとした男の虫のいい試みは徹底して打ち砕かれねばならない。

だから記憶を消し去った男が、もとの自分にも辿れるようなヒントを残して置いたというのは、矛盾した無意味な行為と、ボケ・カス・イモは指摘するのだが、これも、もし記憶消去に失敗したり、記憶消去が不完全になったときに、調整できるように、もとの自分にもどる手がかりを残しておいたのか、あるいは記憶消去のもつ不道徳さに疑問をもつ良心を残していた主人公が記憶回復の手がかりを用意していたのかもしれない。意識的か無意識的か、わかないにしても。

あるいはさらに、探偵が真犯人をみつけてみたら自分だったという、オイディプス王以来の推理物語の伝統にのっとって、自分探しと真相追及にむかうには、もとの真の自分への手がかりが物語上必要だったと身もふたもない理由があるのかもしれない。ともかく能動態・中動態・受動態にまたがる理由があれこれ考えられる。

ただ、いずれにせよ、主人公には、勝手に失くした記憶を、もう一度取り戻してもらうしかなく、その過程がスリルとサスペンスを招き入れるミステリーの醍醐味となる。

主人公にとって、このセルビアのベオグラードの街並みは、贖罪の街並み、あるいは天国に召されるまで罪人が身を清める煉獄だったのである。【煉獄的贖罪の街だが、ベオグラード、いい街である。】

もちろんこのこと(贖罪テーマ)は、ループ物においては、けっこうなじみのテーマとパタンでもある。

なおこの映画における主人公のループは早くて5,6分で終わる。長くても30分くらいか。都市における逃げ回りの短期間ループと反復は、『ラン・ローラ・ラン』を髣髴とさせるが、次に考えるのはループが35年周期の映画である。

posted by ohashi at 23:50| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年09月03日

『ラン・ローラ・ラン』

タイム・ループ映画の傑作というのは、いくつもあって、たとえば『時をかける少女』は、そうした映画のひとつだが、時間旅行あるいは時間反復には、「駆ける」イメージが強い、さらにいえば身体の移動・運動のイメージがあって、これに女性あるいは少女の身体とくれば、映画の王道ともいうべきモチーフとなる。

タイム・ループ映画の傑作として『時をかける少女』を思い出したので、もうひとつの少女がかける映画を思い出した。『ラン・ローラ・ラン』(1998)である。

ドイツ語の原題はLola renntだが英語のタイトルRun Lora Runのほうが有名で、トム・ティクヴァ監督の出世作にして代表作である。

この映画で、ローラは20分間、3回走る。同じ道すじを(寄り道もするが)、同じ目的をもって、3回走る。一回目、ローラは、予定された時間に間に合わず、ボーイフレンドを救えない。こんなはずではなかったという、ローラの悔しい思いのなか、映画は、ローラ疾走のはじまりに戻る。ローラは再び階段を駆け下りて、父のところへ行く……。

なぜ物語がループするかについての説明はない。多くのタイム・ループ映画が、SF的な設定のなかでタイム・ループの起こる理由を説明しようとする(『時をかける少女』もSFである)。しかし『ラン・ローラ・ラン』は、何の理由も説明もなく、ローラは最初にもどり走りはじめるのだが、しかし説明がないほうが、リアリティがある。

なぜなら、私たちは、あるいは私たちの時代は、タイムマシンをもっていなくても、つねに頭のなかでタイム・ループしているからである。まさにローラのように、取り返しのつかない失敗に直面して、後悔のなか、ああすればよかった、あるいはもしこうなっていたら、失敗は回避できたと、頭のなかで繰り返す――過去の始まりの時点にもどって、もう一度、出来事を検証することは、誰もが、また私のように失敗と不幸しか伴わない人生を送る者にとってはとりわけ、頭のなかで常に行っていることだ。

おそらく成功したときは、もう一度出来事を振り返って、別ヴァージョンの進行と結果を想像することはないだろう。とはいえ、フロイト的に考えれば、成功した者も、無意識のうちには失敗していた可能性を想起して冷や汗をかいている。落第したり受験に失敗したりする悪夢をみるのは、合格した者か、一度も落第したことのない者だけらしい(ほんとうに落第した者は、落第する悪夢をみないということだ)。

となると結局、成功した者も、失敗したかもしれない可能性を悪夢として夢にみる。早く抜けだしたいと思いながら、失敗を繰り返す悪夢にうなされつづける。人間、誰しもループを夢にみるということか。

これはフロイトのいう反復強迫とも関係する。私たちは嫌なことを経験したとき、それを早く忘れたほうがいいのに、嫌なことを何度も思い出す。それも物語のように、はじめと中と終わりがあるかたちで思い起だす。すんでしまったことをあれこれ思い起こしても、何も始まらないのに、何度も思い出して、その都度、嫌な思いをする。何度も思い出せば、嫌なことに免疫ができそうなものだが、トラウマとして残るこの嫌なことは、歴史を知らない。それは、いつまでも新鮮で、それは、たったいま起こったかのように、新鮮なまま、その強度をいささかなりとも減ずることなく、私たちに嫌な思いをさせる。私たちは、いつでもタイム・ループしているのである。

ともあれ、この映画のなかで、ローラが3回も走ることは、失敗し、もはや死にゆく、あるいは死をみとる者がみる、いまひとつ可能性の夢であり、二回目の夢も実は満足のゆくものではなかったので、ハッピーエンドを求めて三回までも夢にみるということになる。

ネタバレだが、三回目は、奇跡的にすべてがうまくいく。ローラも、ふつうならどうやっても捻出できない大金を、奇跡的な幸運に恵まれて作ることができる。恋人とも生きたまま結ばれる。だが、これは映画の撮影上の理由から、人も車もまだ姿をみせない早朝のロケしかできなかったためらしいのだが、二人が生きて再会するは、なんとも寒々とした、人っ子一人いない死の街角という風情なのだ。おそらく再会のハッピーエンドでは、二人はもう死んでいるのだろう。再会は生者の喧噪の街角ではなく、死者の、あるいは真空の街角で起こる――あたかも、それが死ぬ直前に夢に見た再会の幻であるかのように。それがこの映画のひとつの解釈でもある――実際問題として、この映画の恋人二人には、たとえいくらハッピーエンディングが用意されていても、どうみても明日はないように思われるのだから。

『ラン・ローラ・ラン』をみてアメリカのホラー・タイムループ映画『ハッピー・デス・デイ』Happy Death Day(2017)を思い出すのは、すこし異様に思われるかもしれない。なにしろ続編(『ハッピー・デス・デイ2u』Happy Death Day 2U(2019))もつくられたこの映画では、主人公の女子大生は、月曜日に殺されるたびに、同じ月曜日をやりなおすことになる(典型的なタイム・ループ物)。その女子大生は、自分を殺す犯人をつきとめて、犯人を出し抜くこと(正確には犯人を死に追いやること)で、次の火曜日を迎えることになる。それだけでじゅうぶんに面白い映画だったが、続編がつくられたときには、なぜタイム・ループが起きたのか、SF的な説明が加わることになった。

そのため、どこが、非SF映画である『ラン・ローラ・ラン』と同じなのかと批判されそうだし、この映画のなかで言及されるのが、もう一つの傑作タイム・ループ映画『恋はデジャブ』であって、『ラン・ローラ・ラン』は影も形もないといわればその通りである。

だが、『ラン・ローラ・ラン』は、この映画に影響を残している。それは主人公の女子大生が見知らぬ男子学生の部屋で目覚め(酔い潰れて、この男子学生に介抱されて、彼女が、彼のベッドを使わせてもらうことになったということなのだが――ちなみに彼女の初期設定はビッチである)、唖然として驚き、不可解な思いを抱きながら、彼女が自分の女子寮の部屋へと帰るとき、彼女のキャンパス内の歩み(その途中で彼女はいくつかのイヴェントや学たちに出会う)、そのビッチ・ウオーキング、それを正面から捉える映像は、この映画のトークンといっていい。そのウォーキングが、何度も繰り返される(このウォーキングには全裸ヴァージョンもある)。続編でも、彼女がふたたびループにとらわれると、このウォーキング・シーンが登場する。まさに映画のトークン。『時をかけるビッチ』。

実のところ『ラン・ローラ・ラン』は、『時をかけるビッチ』と言っていいのだが。その内容からして。

『ラン・ローラ・ラン』の影響は明らかである。ローラの動きは、右から左への(全部がそうではないが)横移動であり、その見事な走りっぷりは、まさに時をかける少女(いや、時をかけるビッチ)ともいうべき身体的な存在感・運動感をみなぎらせている。いっぽう『ハッピー・デス・デイ』では、基本的に左から右への移動で、走るのではなく、闊歩するウォーキングで、それも横移動というよりも縦移動、人物を正面からとらえるか、一人称的にカメラが人物になりきるかのいずれかであるのだが、それでも、この映画における身体的な存在感・運動感を引き受けることは否めない。そして、こうした少女的女性の身体運度の強度は、『恋はデジャブ』には見出せないのである。

なお『ハッピー・デス・デイ』とその続編については、日をあらためて簡単に論ずることになろう。

posted by ohashi at 23:01| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年08月31日

『黒い箱のアリス』

前回の『タイムトラベラー』のタイム・トラベル物であるという点を考慮して、タイム・トラベルとかタイム・リープと呼ばれる設定のいくつかの特徴をまとめておくと、過去に戻って歴史を改変するというのは、タイムマシンをつかったSFによくある設定である。その場合、未来からやってきた者が、未来のことを知らない現時点を生きる者に情報を与える。多くの場合、未来からやってきた者は、過去の自分自身にいろいろ指示をあたえる。ところが『タイムトラベラー』では、36時間先の未来からやってきた自分は、記憶喪失になってしまっているので、現時点での自分が、あれこれ指示を出さねばならなかった。この設定は珍しいが、一般論として、タイムトラベル物では、同じ世界に、同じ人物が、少なくとも二人いる。そして片方が片方に指示を出している。未来からの自分が現在の自分に指示を出す。そして現時点での自分の運命を変えようとする。

もしそんなことが可能なら、しかし、本当に自分で自分の運命を変えてしまったら、自分はもとの自分に戻れないし、そもそも変わる前の自分と変わってからの自分を比較できないわけだから、運命が変わったかどうかもわからないのことにある。

ただ、それを厳密に(あるいは荒唐無稽に)考えなければ、一般論として、私たちは、未来から来た自分あるいは過去から来た自分に指示をあおいだり、指示を受けたりしている。これは私たちの内省的思考において、ごく当たり前のことであって、私たちは宇宙に一人いるわけではない。見えない分身がもう一人いて、その分身から絶えず情報と洞察をもらっている。私たちは自分の意識のなかでタイムトラベルができるし、私たちは自己の分身なくして行動も思考もできないのである。

こう考えればタイムトラベル物の設定は、私たちの意識における、もう一人の自分との交渉をわかりやすく示したものといえなくもない。

今回扱う『黒い箱のアリス』原題Black Hollow Cage(2017)は、無気味で静かな展開を特徴とする映画かと思うと、その静けさは、映画=メランコリック・スケープにふさわしく、交通事故で、妻を亡くし、また別の夫婦を犠牲にし、生き残った自分の娘も、片腕を失い、犬を自分の母とみている異常者になってしまっている男(娘の父親)の心象風景が映画だというふうにわかってくる。

日本での評判は、わかれている。

基本的に知名度の低い監督だし、登場する俳優たちについても、知らない者たちばかりで、しかも、あれこれ疑似科学的な説明をするSF映画でもなく、むしろファンタジーに近いので、予想した映画と異なるので腹をたてている者も多い。さらにいうなら幻想か現実かが曖昧になっている世界観なので、ついていけない、不快に思う者もいるようだ。

しかし、そのいっぽうで、この映画の静謐な世界とその無気味さを評価する者たちもいて、評価は分かれるのだが、私は、端的にいって、面白い映画だと思う。ネット上でいろいろなところで配信されているようだが、私はDVDで持っている。購入して損のない映画であると確信している。

映画.COMの紹介文

事故で母親と右腕を失った少女の身に起きる奇妙な出来事を鮮烈な映像で描き、ジャンル系映画を多数上映するシッチェスやプチョンなどの国際ファンタスティック映画祭で評価されたスペイン製SFスリラー。父親が起こした事故で母親を亡くし、自らも右腕を失った少女アリス。それ以来、彼女は周囲に対して心を閉ざし、人間の言葉を話す装置をつけた愛犬をママと呼ぶように。ある日、森で巨大な黒い立方体に遭遇した彼女は、その中から1通の手紙を発見する。手紙にはなぜか彼女自身の筆跡で「彼らを信じないで」と書かれていた。ほどなくして、森で倒れていたという姉弟を父親が家に連れて来るが……。ヒューマントラストシネマ渋谷、シネ・リーブル梅田で開催の「未体験ゾーンの映画たち2018」上映作品。
2017年製作/106分/スペイン  原題:Black Hollow Cage


あるレヴュー 高評価がだが、おバカレヴュー(一部省略)

森の中に父親&犬と住む義手少女の行動を観ているうちに、不思議な物体を通して彼女の現在&過去&未来が透視されてゆく―寡黙な語り口が特色の不思議譚で、出来れば事前情報を全く持たないで鑑賞した方が良い映画であります。【ここまではOK。引用者】

冒頭の“シムラ~後ろ、後ろ”シーンから、緊迫感と疑問符が鑑賞者に浮かぶ作劇となっていますが、ジグソーパズルの様に次第に全容が判ってくる映画ですので、セリフではなく映像で提示される情報を自力で組み合わせてゆきましょう。【ジグソーパズルが最後まで完成しない謎めいた映画。おまえに全容などわかってたまるか】

真面目な鑑賞が苦手な方は、ツッコミどころ満載のトンデモ作品として観ることもできる映画で、
良く観ると木製らしい立方体【それが何か?】
全ての犬飼いが絶対欲しい犬語翻訳機【犬語翻訳機はいんちきであることがわかるようになっている。】
バックを取りながらなかなか襲撃しない犯人【このバカ、この場面の意味がわかっていない】
警察を呼んじゃいけない理由は…
少女はともかく、ワンちゃん自身が母親と自覚しているのは何故?【だから犬語翻訳機なんかないの】
など次々と疑問が湧いてきますので、いろいろ考えながら終盤までなかなか走り出さない物語を見つめましょう。


映画の冒頭、顔を隠した謎の男が、建物に侵入し、屋敷の主である男(少女の父親)を撲殺する。交通事故で両親を失ったデイヴィッドが、事件を起こしたこの男に復讐に来るのだが、冒頭の侵入者は、デイヴィッドと勘違いしているレヴューアーがいるが、ちがう。セキュリティ厳重なこのガラス張りの屋敷に、なぜ簡単に入ってこれたのか。中から手引きする者もいないのに。この男の正体は映画の終わり近くになってわかるのだが、わかることでさらに謎が深まるのだが、この男が殺すのに躊躇するのは、サスペンスを盛り上げるためであろうが、ただ、それ以外にも理由がないわけではないところが、この映画の無気味なところ。

また別のレヴューアーは低い評価をこんなふうに書いている――

間が長すぎる…!奇妙で不穏な空気感を生み出すのに重要なんだろうけど退屈すぎてながら視聴になってしまいました。。雰囲気は素敵でした。あと犬が可愛い。
説明なしで観客の想像力に任せますっていう作品なので想像力豊かではない私にとってはちんぷんかんぷんでした。てことで考察をググりました我。これが分かればなるほどねってなる点をメモしておきます笑 以下参考までに!

●父親は交通事故を起こし妻とアリスの片腕を失った。
●その交通事故の相手がデイヴィッド家族
●姉弟の目的はデイヴィッドによる父親への復讐。
●未来から来たアリスが殺されることで父親は箱の存在を信じて行動。
●過去に戻った父親は姉弟を監禁し未来から来たアリスがデイヴィッドを殺害。

なお、このまとめも、完璧ではない。別のレヴューアーはこんなふうにまとめている。

ちょっと説明不足なこの映画は順を追って整理してみると、
①腕を失くしたアリスがSF的な義手をはめる所から物語が始まる。
②彼女が腕を上手く操れずに苛立ちを募らせていると森に黒い箱が現れる。
③森で怪我を負った姉弟が父親に助けられるが、彼らの目的は姉エリカの彼氏デイビッドによる父親への復讐。(デイヴィッドの親は自動車事故の被害者)
④黒い箱からのメッセージによりアリスはその警告を受けるが、父親は結局デイビッドによって殺される。
⑤途方に暮れたアリスは黒い箱に救いを求め、タイムリープ。
⑥過去に戻ったアリスは父親を殺される前のアリスと入れ替わり弟ポールまでは殺すが、やはり自分はエリカに殺されてしまう。
⑦それを見た現在のアリスは、父を黒い箱に連れてゆき彼を過去に戻す。
⑧過去に戻った父はエリカ達を監禁し、過去からきたアリスがデイヴィッドを殺害。


基本的流れは、確かにこの通りなのだが、しかし、何が起こっているのかよくわからないところもある。前回の映画『タイムトラベラー』について語ったとき、そうしたように、たとえばアリス1、アリス2と人物に番号をふって、その言動を順に追うことで、映画の内容を、私もまとめようとしてみたが、これはアリス1なのかアリス2なのか、わからいところが出てくる。父親1と父親2も、どちらかわかないところがある。ひょっとしてアリス3と父親3がいるのかもしれないと思うと、無気味感がいや増しに増す。

ただ、ここまで時間をとりすぎたような気がする。さっさと疑問点を列挙しながら、作品の特徴を考えることにしよう。

交通事故のことは、映画の終盤に明かされ、それによってなぜ少女が片腕をなくしているのか、母親が死んで犬になっているのか、父親がメランコリックなのかがわかるようになっている。事故は七ヶ月と一二日前に起こったこという設定である。

アリスが片腕をなくしていることも事故のせいだったとわかる。そのアリスが義手をつけ、木の棒を立てる(棒は大中小の三種類)練習をするのは、三本の棒と、三人家族が照応していて、タイムマシンで過去にもどり、事件を未然に防いで、失われた家族を取りもどすことを暗示しているかのようである。

ただし、これはあまり着目されていないのだが、アリスの義手は、自分の腕と神経接続しているわけではないので、彼女のサイキックパワーで動かされることになっている。となると義手を動かす訓練は、彼女がサイキックパワーを身につける訓練でもあるといえる。そしてそのサイキックパワーが、タイムトラベルを可能にするタイムマシンを作り上げる超能力ともなったと考えるレヴューアーもいた。うがった考えだと思うのだが、三本の棒をたてるのがやっとのサイキックパワーで、タイムマシンをつくったりあやつれるとも思えない。まあメタフォリカルな、あるいはシンボリックな意味があるとみるのは正しいとしても。

アリスの義手は、交通事故で失った片腕のかわりになるものであって、近未来の夢のテクノロジーである。現時点で、念動力で操作できる義手など存在しない。しかもアリスは、この義手(ならびに義手を使って者をつかむ訓練)を嫌がっている。そもそも、この鋼鉄とガラスでできたモダン建築の家そのものも、人間的温かみを欠いた抽象的・技術的存在であり、アリスの義手と同じように失ったもの(妻、家族の幸せ)を埋め合わせようとしてもできない、ある意味、ぶざまな物資的代用品である。

最終的にタイムマシンの存在を知った父親は、タイムマシンと親和性をもつアリスを過去の交通事故の直前に戻し、父親が車を運転できないように、車の鍵をアリスに捨てさせる。アリスに車の鍵のありかを教える父親は、彼女に義手の訓練をさせて、鍵の放棄をスムーズに行えるように訓練したともいえるのだが(実際、彼女は食パンの袋すら片腕で開けられない――とはいえ包丁で人を刺すことはできるが)、しかし鍵を棄てることぐらい、彼女は残っている左手できるだろう。彼女がタイムマシンで過去に旅立つというところで映画は終わる。過去の歴史改変ジャンルということになる。

もしアリスが過去の自動車事故を未然に防ぐことができたのなら、片腕を失った彼女は存在しなくなる。父親も娘二人で、鋼鉄とガラスの家に住むこともなくなる。他の家族(デイヴィッドの家族)をまきぞえにすることもなく、デイヴィッドに復讐されることもなくなる。すべてがリセットされる。この不幸な時間線は消える。幸福な家族生活がもどってくる?

しかし、交通事故前の夫婦生活は円満なものであったのか。疑問である。むしろ父親は妻と娘を事故を装って殺そうとしたのではないか。たまたま生き残ったアリスは、そのことを知っているのではないか。父親が母を殺したことと疑っているのではないか。

そしてこの映画でずっと気になっている、アリスのアドンロイド性。アリスの義手は、彼女のメトニミーではなくてメタファーではないのか。彼女そのものがテクノロジーの産物、義手と同じように失われた娘の代用物ではないか。実際、彼女の言葉からも、生身の人間というよりは、アンドロイド的なところがある。科学とテクノロジーは、『フランケンシュタイン』から『鉄腕アトム』にいたるまで、失ったかけがえのないものを取りもどすためのものではなかったか。もしアリスがアンドロイドなら、彼女はテクノロジーの側であり、タイムマシンとの親和性もなんとなく説明できる。また彼女のなかには、もとのアリスの記憶がのこっているとすれば、彼女の意識の中に、自分を殺した父親への憎しみが宿っていてもおかしくない。

父親にとって、過去の改変は、よろこばしいものではない。妻が彼にとってかけがえのない人であっても、あるいは憎しみの対象であっても(妻は憎くても、娘を愛していてもおかしくない)憎い妻を葬り去っても、愛する娘は片腕を失って失意の人生を歩み始めている。娘は犬を自分の母親だといいはって父親を苦しませる。、いずれにせよ、交通事故後の生活は、陰鬱なものでしかない。このような生活を、父親は終わらせたがっている。そこで未来から、あるいは過去から、どちらかはわかないが、やってきた自分に自分を殺させる。

そう、映画の冒頭でこの鋼鉄とガラスの館に侵入して父親を撲殺する不審な人物は、父親その人なのだが(だから厳重なセキュリティーにもかかわらず、簡単に入ってこれた)、その人物が自分を殺したとすれば、過去の自分を殺したら、未来の自分も自動的にいなくなるのではないかと、そこがおかしいと本気で怒っていたレヴューアーがいたが、未来から来た自分だとはどこにも示されていないので、自分の頭の悪さを本気で怒ったほうがいい。過去の自分が、未来の自分を殺したともいえるし、あるいはこれは一つの共通の時間軸ではなく、パラレルワールドの話かもしれなければ、別のパラレルワールドからきた父親が、この時間軸の父親を殺したともいえる。あるいは、未来の自分が過去の自分を殺したら未来の自分も消滅するということになるのだが、ただ、すでに存在した未来の自分は、過去の自分が殺されたからといって消滅しない。というか過去の自分が死ななかったからこそ、未来の自分がいるとすれば、過去の自分をいくら殺そうとしても、過去の自分は死ぬことはない。なぜなら未来の自分がいるのだからということになる。

これは卵と鶏の話であって、要は、どちらが先かわからない。そしてどちらが先かわからない以上、現状はかわらないのである。どちらを卵を殺しても、鶏を殺しても、結果は同じになるのである。

歴史改変物における、一つのルールは、どうあがいても歴史は変わらないということである。ひとつには、ラファティの「われシャルルマーニュをかく悩ませり」のように、歴史改変が起こっても、同じ時間軸であるなら、すべてが変わるために、ビフォアーとアフターが特定できないため、何がかわったかわからない、つまり何も変わらないということになるが、それよりも多いのは、どんなに悪戦苦闘しても、歴史はかわらなかったという結末である。

運命のようなもので、すでに起こってしまったことは、たとえタイムトラベルで過去にもどって歴史を変えようとしても変わらないということである。これはタイムトラベルという設定なき時代、あるいはそういう設定を使わなくても、予言というかたちで達成できる。

もし自分が、自分の息子に殺されそうになったとき、タイムマシンをつかって自分もしくは自分の使者が過去にもどり、生まれたばかりのその息子を、山中に棄ててくるように召し使いに頼む。これで、自分の息子がいなくなったのだから、自分は殺されずにすむと思ったら、自分の息子が襲いかかってきた。やっぱりだめだった。これがタイムマシン・ヴァージョン(過去はかわらないヴァージョン)。予言ヴァージョン(未来はかわらないヴァージョン【付記参照】)は、いま生まれた息子が将来、父親を殺すという予言が語られる。父親は、召使いに頼んで、この息子を山中に棄てさせる。だが父親はやがて息子に殺される。なぜなら赤ん坊を棄てるようにいわれた召使いは、それができず、異国の旅人にその赤ん坊を預け、その赤ん坊が長ずるにおよんで……。

『黒い箱のアリス』では、父親は知っている。たとえアリスが過去にもどって交通事故を防ごうとしても、防ぎきれなかった。たとえば自動車の鍵を棄てるつもりが、彼女はその義手では上手く指が動かず、鍵をつかめなかった、というような出来事が起こるのだ。

結局、アリスが過去にもどっても、交通事故は防げず、現在の事故後の陰鬱な日々、改悛と贖罪の日々があり、やがて自分は、この現実のなかで復讐者によって殺される、あるいは殺されるのを待つ日々(最悪の陰鬱な日々)を過ごすしかない。自分は復讐者もしくは自分自身に殺される。だがタイムマシンを発見したらしいアリスによって再びリセットされて、今度は復讐者のデイヴィッドを殺すことになるかもしれない。しかし、それでアリスを過去に送ることになるが、それによって事故は防げず……。

この映画のポイントは、この父親が、交通事故後のメランコリックな日々から、娘の力を借りて抜け出すことができるかもしれないという夢物語ではなく、この父親が何をしても死ねない不死の人になってしまったこと、いいかえれば、なんど殺されても死なないという拷苦の日々を余儀なくされているということである。

その理由は定かではないが、7か月と12日まえの交通事故にあることはいうまでもないとしても。そして、この映画のなかの100分足らずの出来事でわかるのは、父親の死ねなさ、死ねないまま死んだも同然の状態であること。まさに、べつの映画のタイトルを借りれば、父親の不死を記念する「ハッピーデスデイHappy Death Day」なのである。

ということは、これはタイムトラベル物(過去にもどったり、未来の自分が過去の自分に情報を伝える)のみならず、タイムループ物でもある。最初に侵入して父親を撲殺するのが実は同じ父親であったり、アリスが、夜みる謎の人がけは、実は未来からきた自分である。しゃべる犬は、実は、未来からきたアリスがスマホと犬の首のマイクを接続していて、犬がアリスの母親であるかのように、アリスに思わせていることがわかる。そしてこの家には父親とアリスだけでなく、未来からきたもうひとりのアリスも存在していることがわかる。そこに未来からきたかもしれないもう一人の父親もくる。

なにか自閉的世界がここに展開している感なきにしもあらずであり、さらにいえば、これが何度も繰り返されているという暗示がある――父親の不死性の暗示も、流血劇の終わりなき反復を暗示している。

そしてここに復讐者デイヴィッドと、彼に侵入の手引きをする謎の姉弟がいる。彼らがこの鋼鉄とガラスの屋敷のなで、グランギニョールのような殺人劇を繰り広げるのだが、これはその都度リセットされ、あらたな殺人劇を展開するかのようにみえる。

まるで、劇中劇のようなというレヴューアーがいた。なるほどと思ったのだが、

戯曲の様に全5幕に分かれて構成されているこの作品は、ちょっと油断すると直ぐに睡魔に襲われてしまうが、逆に言えばそれ程心地良く感じるカットが数多い。

森を写し出すカットは緑を存分に映えさせる見事な描写で、まるでシェイクスピアの演劇を観ているかの様に叙情的。

その森の中に立つ彼らの家の造りは映画『ショートウェーブ』に出てきた様な前衛的でハイセンスなデザイナーズハウスだが、中庭から屋内の人物の位置関係が一目でわかる構造には、監督であるサドラック・ゴンザレス=ペレジョンが観客にこの映画の劇中劇を示唆していたのではないだろうか?


正確にいうと、五幕構成ではなく、5章構成。ちゃんとChapterと字幕が出る。ただし、それを五幕と読み間違えたとしたら、それは創造的誤読で、五幕構成的な演劇構造との類似を見る、優れた洞察だと思う(もっとも現在の演劇で五幕構成の演劇は、長すぎてめったにおめにかかれないが)。実際、鋼鉄とガラスの建造物の正面は、横に長く、ガラス張りで、向こう側までみえる。この建物が、ある種の舞台のようになって、夜ごと、そこで起こる惨劇を観客は傍観することになる。このレヴューアーは、「緑を存分に映えさせる見事な描写で、まるでシェイクスピアの演劇を観ているかの様に叙情的」と、ほとんど意味不明のコメントをしている。シェイクスピア劇にこういう感想をもった人は前代未聞・空前絶後で、たぶん、ただの知ったかぶりのバカだと思うし、「劇中劇」についても、たぶん、その意味を知らないと思うのだが、ただし、舞台をみているような枠組み構造の指摘はなるほどと思った。

実際、この映画の出来事には、観客がいる。それは未来からやってきた自分が、過去の自分の動勢を観察するからである。しかし、コミュニケーションを取ろうとしても、なかなかうまくいかない。未来からの自分は、基本的に観客として、この舞台上の出来事/惨劇をただ見ているだけで、介入して惨劇を止めることはできない。またこれが舞台なら、舞台上演が夜ごと繰り返されるのと同様、惨劇も夜ごと繰り返される。これは出口なき、終わりなきループであることの暗示性を強めることになる。

こう考えると、原題のBlack Hollow Cage(黒い空ろな檻)が何を指しているかがみえてくる。アリスが森で出会う黒い箱は、中が空ろで、中に入ることが出来る(時には父親とアリスの二人も入ることできるらしい)。しかし、これは黒い箱であっても、檻という感じはしない。やはり黒い檻は、鋼鉄とガラスの建造物だろう(あるいは黒い箱と、鋼鉄の建造物とは照応しているということもできる)。四面のうち二面がガラスになっているこの建造物は、閉じ込められ感と、建造物の内部の空気、すなわし空虚感、空ろ感とを強くにじませることによって、まさに黒い空ろな檻は、この鋼鉄とガラスの建造物であることがわかる。

もちろん、タイムマシンも含め、すべてが交通事故で妻を、家族の団らんをなくした父親のトラウマから生まれた心象風景であるという説もある。それは、たとえば映画『スターフィッシュ』のようなものだと(『ショートウェーブ』より、はるかに素晴らしい映画だ)。すべてを心象風景とすると、タイムトラベルやタイムループ、あるいはタイムトラベルのパラドックスなど、すべてどうでもよくなるのだが、ただ、すべて心象風景という可能性はもちろん無視できないすぐれた指摘である。

そして、なんとなくわかる、あるいは予想できるタイムループ、あるいは終わりなき反復の暗示は、物語そのものが監獄であるという印象をあたえることになる。夜ごとの惨劇は、なぜ父親と娘が、この黒い空ろな檻に閉じ込められているのか、その原因を示すものでもある。

ならば、この映画は、ひとつの共有される主題の多様な展開であるとすれば、何度も語ってきているように、映画がめざすところのもののひとつは、メランコリック・スケープの提示である。

またひとつミステリアスなメランコリック・スケープの創造に成功した作品があらわれた。

付記
予言に反発しても、結局、予言通りになるという物語は、たくさんあるのだが、またそれがジャンルのルールのようになっているだが、ひとつ思い出されるのは、レオ・ペルッツの「アンチクリストの誕生」である(ペルッツ『アンチクリストの誕生』ちくま文庫、所収)。実質的に神のお告げといってよい夢のお告げで、生まれてくる自分の息子がアンチキリストになることを知った靴職人が、予言が実現することを必死で止めようと奮闘努力するのだが、結局、力及ばず、息子が生まれてくる。あきらかに将来アンチ・キリストになることが予感される人物として。

このジャンルのルールは、予言は変えることはできない、必ず実現するというものである。しかし、この作品で舞台となる18世紀から、作品が発表された20世紀初頭までの間にアンチキリストといわれる人物は存在しなかった(独裁者は数多くいたし、世紀の凶悪犯ともいえる人物はいたのだが、アンチキリストと言えるほどの人物はいなかった)。となると、アンチキリストは生まれなかったのではないか、ひょっとしたら父親である靴職人の奮闘努力が実を結んだのではないか、たとえ苦い物であってもハッピーエンディングを迎えられるのではないかと読者は期待し、そのぶん、父親の靴職人の冒険を応援したくもなる。

結局、息子は生まれる。最後の最後で、息子の名前があきらかになる。ジョゼッペ・カリオストロである、と。ずっこけると、比喩ではいっても、ほんとうにずっこける人はいないと思うのだが、もし、そのとき私が座って本を読んでいるのではなく、立って読んでいたら、ほんとうにずっこけていたかもしれない。え、カリオストロ。まあ種村季弘にとってカリオストロはアンチキリスト以上の存在だったかもしれないが、一般には、ただのケチな詐欺師でしょう。どこがアンチキリストなのか。あるいはこれをどう考えたらいいのか。

ひとつには、これは18世紀とか19世紀のヨーロッパ人の、ささいなことを重大事とみなす浅薄な幼児的精神に対するややパロディ的な揶揄かもしれない。若きヘーゲルは、1806年のプロイセン軍の敗北に続くイエナの戦いにおけるナポレオンの勝利を見て「歴史の終わり」と語っていた。これには、ヘーゲルは世界が終わった考えたいたわけではないと注釈がつくことが多いのだが、いやいや、本気で歴史の終焉とみていたのでしょう。世界が終わり、ワンダーランドが始まる、と。そして、いくらヘーゲルの若気のいたりとはいえ、とにかくイエナの戦いをもって、歴史の終わりというのなら、カリオストロは、キリストをしのぐ悪魔の化身、アンチキリストであっても全くおかしくない。視野狭窄のなかでの誇大認識。いかにも18・19世紀ヨーロッパの思考習慣との戯れが、ここにある。

歴史改変ものの傑作映画のひとつに『12モンキーズ』がある。パンデミックを起こして地球文明を破壊した学者の犯行を阻止するために送り込まれたエージェント/ブルース・ウィリスは、空港で、あと一歩のところで犯人をとり逃がし、警備員に射殺されてしまう。結局、過去を変えることはできなかったというジャンルの法則に縛られると、私のように、失敗を確信する。多くの観客がそうであろう。ところがメイキング映像をみると、監督のテリー・ギリアムは、希望を抱かせるしるしをいくつも最後の場面に埋め込んだと語っている――私も含め多くの観客は希望のしるしをみることはないとしても。監督の意図通りに観客がこの作品をみていたら、その結末は、エージェントの努力のかいあってか、犯行が、このあとすぐに、あるいは次回には必ず阻止されることを約束するものとわかる。

そう考えると、「アンチクリストの誕生」も、なるほど予言は成就し、父親である靴職人の努力はむなしかったといえるのだが、それだけが結末の意味ではないとわかる。アンチキリストは誕生したが、それはカリオストロであり、悪魔的人物としては矮小化された人物であることは否めない。となると靴職人の努力ゆえに、アンチキリストが、ここまで小者になったとはいえないか。アンチキリストから、ただの詐欺へ。靴職人の努力は無駄ではなかった。むしろ彼の勝利であった。アンチクリストがカリオストロであったことは。
posted by ohashi at 21:06| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年08月30日

『タイムトラベラー』

原題Curvature 2017 USA

タイム・トラヴェルとかタイム・ループ物の映画を集中的にみているのだが、名前の知られていない監督の作品だと、ただ、それだけで評価が下がるみたいで、ネット上で高評価が得られていない作品のひとつ。しかしそれは、うまく評価できない、評価のポイントがわからない、さらには真剣に見てないがゆえに評価しようがない、愚かなレヴューアーの、要は、自分の評価能力を棚に上げた勝手な評価に起因する。また評価を下げると、自分が偉くなるように思うみたいで、上から目線での偉そうなコメントが多くなる。

私ははこれをダンシアッドと呼ぶのがだが、それはともかく、この映画についての数少ないコメントがこれ。すべて映画.COMら。

結局タイムトラベルして、試作機を壊したかった未来の自分は過去に戻って??よくわからないまま終わり、ストーリー自体盛り上がりにも欠けた。主役リンジー・フォンセカは魅力的だが服装ずっと一緒で、その辺りも抑揚なし。


このタイムトラヴェルとタイムループのからくりは、なんとなくわかるのだが、同時に、わかりにくい。なぜ過去に戻るのか、このバカにはわからいみたいだ。あと「服装がずっと一緒」というのも、バカ丸出し。出来事は基本的に1日(正確には36時間 2017年6月2日と3日ということまでわかっている)に起こるので、着せ替え人形じゃないんだから、一日、服装は同じ。抑揚がないのは、てめえの頭のなかだろう。

もっとも気になるのは、大切な人の不慮の死があり、タイムマシーンの存在があるのであれば、普通は死を防ぐことに奔走しないかな?主人のタイムマシーンに対する見解があったとはいえ、タイムマシーンを壊すのにほぼ躊躇がないことに違和感を感じます。


映画をしっかりみろよ。夫が殺された(最初は自殺と思われた)のは2017年4月14日という設定。いまは2017年6月2日か3日。このタイムマシーン、36時間前の過去にしかいけないのに、どうして36時間以上前に起こった夫の死を防げる。映画がどんなに周到に舞台背景を構築しても、理解しようとしない観客の前では、もうお手上げである。この映画関係者に同情する。

またこれは主題にかかわることなのだけれども、このレヴューアーのように理解力ゼロではない観客ではない私たちは、タイムマシーンを壊すことは、映画のなかで意義のあることと理解できる。

タイム・マシンを考案した科学者(主人公の夫)が、その危険性を悟り、悪用されないために実験を中止、マシンを破棄しようとして、研究所の所長によって殺害されるというのが事件のはじまりである(事件の真相は映画の中盤まで隠されている)。たとえ36時間前にしか行けないタイムマシンですら、悪用されれば危険である。研究所の所長は、可能性をとことん追求するのが科学者であって、結果を考えるのは科学者の責務ではないと語る。

しかし、この所長の、科学研究の何物にも左右されない厳密・厳正なありようを主張する、ある意味、倫理的な立場も、実は、武器としての使用可能性が立証されれば、巨額の補助金が得られる、そのためには人殺しも辞さない、いかなる犠牲が出ようと問題ないという、利益優先の恥ずべき悪辣な非倫理的欲望を隠し持っている。一か月前に死んだ夫すら救えない限定的なタイムマシンでも、政治的暗殺には使うことができるし、歴史を変えてしまうことを簡単にできてしまう(『ターミネイター』フランチャイズの考えたである)。タイムマシンは子供じみた空想の産物である限り問題ないし、時間の克服は人類全体の夢かもしれないが、もし実現したら人類は破滅する。

まあタイムマシーンはドリームマシンであるとしても、この映画では科学者の暴走と科学研究の危険性という、ある意味、昔ながらのテーマを持っていることは確かである(ここであつかった『タイムチェイサー』の主題と同じ)。こんなことも理解できないのかと、このバカ、あほのレヴューアーにはうんざりする。映画.COMには、理解力・鑑賞力・洞察力のすぐれたレヴューアーがたくさんいるという印象だったが……。

あと余談だが、この映画のなかで主人公を助ける同僚の科学者アレックスを、ザック・エイヴェリーという俳優が演じているのだけれども、アメリカのサイトなどで、演技がどうの、この映画に登場する癌だと、ぼろくそに言われている。べつに演技が下手だと思わないし、ユダヤ系みたいで、ユダヤ人差別かと嫌な気分になったのだが、Wikipediaで調べたら、この俳優、今年2021年、ねずみ講の詐欺(a Ponzi scheme)でアメリカで逮捕されていた。かなり高額の詐欺で、世間の怒りを買っているようなので、この映画、そのとばっちりを食っている可能性がある。

映画の設定をネタバレ覚悟で、私なりに整理してみると、とはつまり、このバカ、ほんとうはこうだとつっこまれるのを覚悟の上でということだが、たくさんの人が見てない映画なので、つっこみもないだろう、ネタバレしても影響はないだろうと、自分勝手に予想しつつ。

主人公ヘレンを演ずるのはリンジー・フォンセカ。彼女が出ている映画はいくつかみているのだが、思い出せない。この映画で私にもわかる有名な俳優はリンダ・ハミルトン(『ターミネーター』フランチャイズの)。ヘレンは2017年6月2日めざめる。このヘレンをH1とする(番号は便宜的なもの)。H1に電話が買ってきて逃げろと言われる。電話をかけてきたのはもう一人のヘレンだった。このヘレンをH2とする。

以後直接出会うことのない二人がいるこの世界での36時間の出来事。それが、この映画である。なおH1には、この一週間の記憶がない。困ったH1は、同僚に頼り、夫の死の真相を突き止め、もう一人の自分H2が何をしようとしているのかも理解し、諸悪の根源たる研究所所長と直接対決するために、単身、研究所に乗り込む。いっぽう、もうひとりのヘレンH2は、H1に携帯で行動を指示。H1が山小屋に行ったことを見届けた後、翌日、ホームセンターで爆弾の材料を買いそろえ、自分の研究室にこもって爆弾を製造、H1に指示をあたえながら、H1が研究所にはいって所長と話している間、自分もこっそり研究所に入り込み、タイムマシンを破壊する。ただし、タイムマシンを破壊するまえに、自分を過去におくりこみ、タイムマシンを爆弾で破壊する。

え、ということはH1は、みずからを36時間前に送り込んだH2と同一人物であったということになる(ちょっと何を言っているんだがよくわからないという場合には、この映画をみていただきたい。見て損はない映画だと思う。たぶんネットでは無料配信されていると思う)。

ひとつ語り忘れていたのだが、このタイムマシンを使うと36時間のことを忘れてしまうという、限定的記憶喪失になるという設定になっていることである。H1が、みずからを36時間後の世界からやってきたとわからないのは記憶喪失になっているからである(だからH2は、H1にあれこれ指示を与える必要があった)。H1は映画の中で、あるいは36時間のなかで、夫の死の真相にたどりつくのだが、実は、H2は、すでに真相にたどり着いていたからこそ、タイムマシンを破壊し、自らを36時間前に送り込み、みずからH1になったということになる。

ではH2は、どのようにして真相にたどりついたのか。それは2017年5月27日から一週間、研究所を無断欠勤し、夫の使っていた山小屋に行き、その優れた洞察力と推理力によって、夫の遺物から夫殺害の証拠をみつけたのである。で次に、彼女は夫が望んでいたようにタイムマシンを壊すことを考える。ただ、そうなるとタイムマシンを壊したあと、逮捕されれば、たとえマシンを壊す正当性が認められても処罰はまぬがれないし、あるいは犯罪者として逃亡生活を余儀なくされる。そのため36時間前の過去に逃亡することになる。

過去への逃亡者となり、36時間前に逃れ、H1となった彼女は、記憶喪失にもなっているため、H2は、携帯でH1に指示を与え誘導して、彼女H1が自分H2と同じ理解に到達するようにする。またはっきりとは示されていないが、H2はH1を、囮として使ってタイムマシン破壊を成功させたところがある。実際、H2にとってH1が出現したことは、自分がタイムマシン破壊に成功したことの証拠でもあるのだから。またH1は所長の部屋に閉じ込められていてので、タイムマシン破壊に関与していないことは歴然としているため、H1はタイムマシンのなくなった世界で研究員として新たな人生を送ることになる(とはいえ、研究所が新しくなったのは気のせいかもしれないとしても、彼女のコンピュータ画面には開発中らしいタイムマシンの画像があるのだが)。自分が自分を利用して自分になるために自分を過去に逃亡させるという無限のタイムループが生じている過去の一時期からは、彼女は逃れることができた。そしておそらくねずみ講の同僚と、あらたな人生をおくるであろう。

何言っているのだかよくわからないといわれることは覚悟している。私も無い知恵を絞って、映画の内容を整理して考えてみた。たとえ整理して考えれば、そんなに面倒な話ではないとわかっても。ただ、映画はそうしたパズルで魅惑するものではない。

映画のはじまりは、実は36時間事件が発生する前の2017年5月27日である。

目覚めた彼女が、キッチンで朝食のためにコーヒーを入れる。彼女の住む家は、清潔なモダンな住宅だが、なにか冷たい感じがしないではない。彼女の目線が寝室のドアに行くことから予想されるように、この家では、なにか悲劇的なことが起こっていたのである。はたせるかな、この家の冷たさはモダン建築の冷たさではなく、夫が死んだあとの、彼女の孤独と寂寥感からきていることがわかる。

映画はメランコリック・スケープだという、私だけではない多くの人が抱いている考え方からすれば、夫亡き後の妻の荒涼たる心象風景が展開していたのだ。しかも、もう少しあとになってわかるのは、夫は、彼女に相談することなく、ひとりで悩みをかかえて自殺したということになっている。‘He rejected me.’と彼女は言う。夫に捨てられたかもしれないという怒りと悲しみのなか、夫の死の真相に近づいていき、夫が殺されていたという真相にたどり着くことによって、彼女はトラウマから解放される。

ある意味、夫の死の真相を追究し、その死を克服するというミステリー仕立てになっている。そこにタイムトラベルとかタイムループの要素を絡ませる必要があったのかどうか。絡ませなければありきたりなミステリーに終わってしまって顧みられないか、いや、絡ませたことによって、変な錯綜感が生まれ、映画の印象を拡散させてしまったのか、それは見るものによって意見が分かれるところだろうが。

皮肉なことに、彼女の夫は、タイムマシンができたら、過去と未来のどちらに行きたいかと尋ねられ、現在と答える。現在のこの幸せを手放したくない。過去にも未来にも、魅力はないと。これはまた、彼女にとって、夫との幸せだった時間が、永遠の現在として、心の中の引き出しの奥底にしまわれていることも意味している――映画の最後の映像からもわかるように。

付記 ちなみにこの映画の宣伝用のポスターは最低である。映画のなかに一度も出てこないコスチュームに身を固め銃をもっている主人公の姿は、この映画が派手なアクション映画であるような印象をあたえているのだが、中身は、まったくそんなことはない。ねずみ講に続く、これはもうひとつの詐欺である
posted by ohashi at 18:07| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年08月15日

『ドント・ゴー・ダウン』

原題The Ascent    別題:The Stairs  トム・パットン監督 2019年UK映画

びっくりするようなスケールの大きさを予感させるポスターと、期待をいやがうえにも高める予告編とは、裏腹に、低予算のB級映画だが、タイムループのアイデアが面白ければそれでいいと思ってみてみた。

以前、ここで触れたC級映画『タイム・ルーパー』は、ニューヨークが舞台のはずだが、どうみても地方都市のダイナーとその隣の4,5階建てのビルとその屋上だけで完結してしまうチープ感漂う映画だったのだが、この『ドント・ゴー・ダウン』は、戦争物で、CGによる航空機やミサイルやヘリなどがあり、また本物の軍用車両(さすがに戦車はないのだが)が多数配されていて、チープ感はない(とはいえ英国本土ではない敵地での敵軍の軍用車両がみな英国製であるのは、まあしかたがないか)。

特殊部隊は全員がタイムループに巻き込まれるという設定は、なにやら日本の戦国自衛隊のタイムループ版かと思って期待したが(ポスターのせいでもある)、それとはまったく違う、こじんまりとした映画だった。


次のような映画の内容があった:

戦場で無限のタイムループに陥ったイギリス特殊部隊の運命を描いたSF戦争アクション。味方を助けるため東ヨーロッパの戦地へ送り込まれた6人のイギリス特殊部隊。民間人の犠牲を出しながらもミッションを遂行した6人は、脱出のためヘリコプターを目指し階段を上り始めるが、一向に出口にたどり着けない。やっと見つけたドアを開けると、そこは先程まで彼らがいた戦場で、目の前には戦っている彼ら自身の姿があった。ヒューマントラストシネマ渋谷&シネ・リーブル梅田で開催の「未体験ゾーンの映画たち2020」上映作品。


まあ、コロナ禍のせいで、この映画を映画館というかヒューマントラスト渋谷で見ることはなかったのだが、見なくてもいい映画だった。

この内容紹介もいいかげんで、場所は、東欧らしいところなのだろうが、任務は、味方を助けるためではない。敵の資料(なんと文書形式の書類)を奪ってくるのが任務。またその際、敵方にいる人間は、捕虜だろうが、民間人だろうが皆殺しにするという命令を受けている。はっきりとは述べられていないが、民間人は足手まといになるからということか。とにかく民間人を救出するのではなく、殺して放置するという、驚愕の命令を実行する部隊。

そもそもNATO軍(?)に有益な秘密情報を、戦地の周辺部の荒野で休息している分隊程度の部隊が持っているというのも解せないのだが、とにかく、任務遂行中に地元の民間人の、しかも魔女的な女性を殺したために、特殊部隊は呪いをうけ一人また一人と命を落としてゆくことになる。

また「脱出のためヘリコプターを目指し階段を上り始める」というのもいい加減なあらすじで、敵地からヘリコプターで脱出するのだが、ヘリは地上に着陸して特殊部隊を救出する。問題は本部(たぶん英国内ある)に到着した部隊が、建物のエレベーターに乗って上層階に行こうとすると、途中でエレベーターが故障で止まる。やむなく階段を上ることになるのだが、いつまでたっても階段の終わりがない――というミステリアスな展開となるのだが、なぜ上層階あるいは屋上に行こうとしているのか、明確な説明はない。特殊部隊の面々はトラックで本部に入っていくのであって、その敷地には高層ビルなどなく、また、なぜ屋上なのかも理由がない。ヘリは、広大な敷地のどこかに下りれば問題ないはずなので。

なおこの不思議な階段は、どこのビルにもありそうな階段で神秘感はないのだが、下へ降りてゆくと、死んだ魔女のような女性が待ち構えていて隊員を殺してゆく。上に行くしないのだが、出口はない。ようやくみつけた出口から外にでると……とういことになる。

荒野で休息している小部隊を攻撃し、そのとき捕虜の女性を殺してしまったので、呪いの無限ループがはじまったらしいと察する隊員たちは、小部隊の攻撃という原場面に何度も立ちもどりながら、その都度、無限ループから脱出する作戦を実行する。

ネット上にある、この映画評:

2020年2月16日投稿
戦地らしきところから指令部らしきところに戻った兵士達が階段を登った先の扉を開けたら戦地にいた先程までの自分達に遭遇するというのを繰り返す話。

あらすじには味方を助ける為にとか東ヨーロッパとかイギリス特殊部隊とか書かれているけど、どんな立場でどんな状況で何をしているのか良くわからない状態で話が始まる。
一応、敵陣の人間を皆殺しにして資料を回収とか言ってるけど、そんな様子ないし。

宗教的なことを口にし勝手にルールというか、どうすれば戻れるとか決めて実行しようとしていく面々。

全員でとか何とか言ってるけど、回り口説く同じ様なことをひたすら繰り返すけど、少なくとも今いる自分達と考えたら、既に死んだ奴か、スタントン狙いだと思うけどね。

しまいにはなんで理解しているのか、受け荒れているのか???

20分そこそこの作品ならまだ少しは評価出来るけど、長々やってこれはいただけない。


こういう否定的な映画評は、ふつうなら、映画を読めないただのバカがと決めつけてしまうところだが、今回は、さすがに、この評者に同意せざるを得ない。

予算のないB級映画でもかまわない。登場する俳優たち、だれひとりとして知らなくてもかまわない。アイデアが面白ければ、それでいいのだし、タイムループ物について考えようとする私にとっては格好の材料だったはずだが、アイデアがよくない。

任務を遂行して帰還しながら、またも同じ任務に立ち会わされる部隊の、これは戦争映画のお約束の敵中突破形式物語なのだが、ループするので、予想外の敵に遭遇して窮地に陥るとういことはない。また呪いを解くための方法も、みていたなんとなくわかるのだが、おそらく観客の誰もが想像する解決法にだけには、いたらないように、あの手この手の、無用な、そしてまったく無意味な方法をためしてみて、そのつど失敗するというのは、みていて、誰もがいらいらしてくる。

まあ、兵士たちは、敵であれ、味方であれ、たとえどんなに理不尽な命令でも上官の命令は絶対命令だと洗脳されているため、命令に従うのではなく正しい行動をするほうが重要であるという認識に到達するまでには、時間がかかったということのようんだが、そうした認識は観客全員が共有するものだろう。

逆にそうした認識に至らないのは、よほどの耄碌老人か小学生以下の子供か、知性が衰えたか、まだ未熟なのではという印象をもってしまうのである。また、どうでもいいアクションシーン、格闘シーンで、時間稼ぎをしているところがあって(たぶんそれは観客へのサービスと思っているのかもしれないが、もっと整合性のある脚本をつくるほうがサービスであることを監督は気づくべきだ)、とにかく、はっきりいって、いらいらさせる類の頭が悪さが際立つ物語となっている。

あまり思い出したくない映画で、ここまで書くのさえつらかった。

posted by ohashi at 20:05| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年08月14日

『タイム・チェイサー』

原題I’ll Follow You Down (2013年、カナダ映画)

タイムループ映画ではないが、タイムトラヴェル物は、少なくとも過去の反復という点で、タイムループの要素をもっているので、とりあげる。

『タイム・チェイサー』などという珍奇なタイトルをつけたものだから、本格的SF映画かと思って見て、予想が外れて落胆する視聴者が多くて、ネット上での評判は芳しくない。

しかし、原題はSF臭を消している。たしかに、この映画は、失踪した父親によって運命を狂わされた、息子と母親の話であって、忽然と消えた父親をめぐる省察と、父親との再会を夢見る息子の幻想というふうにとれなくもない。

逆に、SF映画としてみると、説明不足のところが多く、理系の人間ではない私にとっては、よくわからないところが多い。理系の視聴者なら、たとえ省略されていても、なんとなくわかるところでも、文系の人間にはお手上げである。ただ、だからといって筋が追えないわけではないとしても。

たとえばAmazonのレヴューにこんなのがあった:

5つ星のうち3.0 会話が説明的
 
数学や物理学が苦手で、相対性理論やタイムパラドックスが全く理解できなくても大方のストーリーは理解できるタイムトラベル作品だった。

好きなジャンルの作品だったが少し期待はずれだった部分は、ストーリーを映像で進行させるというより、会話シーンをわざと長尺にした上にやたら説明的でグダグダ感が否めなかった点だ。視聴者への配慮かもしれないがそんな親切は逆に要らない。

主役のエロル役は他レビュアーでも紹介している通り『シックスセンス』や『A.I.』の子役だったハーレイ・ジョエル・オスメントで現在32歳とのことだ。この作品当時は22~3歳だろうか、いきなり大人になってしまったが”オイタ”もしてある程度の活動自粛期間もあったのだから仕方ない。胸毛がモジャモジャであの子役のときからは考えられないような男性ホルモンが出まくっている。

時は戻せない。何かを捨てて何かを得る。取捨選択が人生だ。研究か家族か。
そして父親だけが全てを記憶している。


こんな愚か者(ジェンダーは不明)でも、いやだからこそ、しっかりとした大人としてこの世界を闊歩しているのだろう。パラレルワールドへ飛んでいってくれといいたくなるのだが、傑作なのが、「ストーリーを映像で進行させるというより、会話シーンをわざと長尺にした上にやたら説明的でグダグダ感が否めなかった点だ」というコメント。

知らない人間が読んだら、そういう映画かと勘違いするだろうが、演劇的映画みたいに、議論や説明が長々と続くということはない。「ストーリーを映像で進行させるというより、会話シーンをわざと長尺にした上にやたら説明的でグダグダ感が否めなかった点だ」と、まあステレオタイプのコメントを恥ずかしげもなくよく書いたものだ。こういうマウントしようとするバカを相手していたら、貴重な人生を無駄にする。映画を見失う。

実際、この映画では、説明は多いどころか、省略のほうがが多いのだ。当然である。タイムマシンを発明して、過去へ行ったということが、物語としてわかればいいのであって、タイムマシンの詳しい原理の説明などしなくていい。説明してもらっても、私を含む視聴者にはわからないのだから。事実、タイムマシンの設計図めいたものはあるのだが、出来上がったタイムマシンがどんなかっこうをしているのか、映画は見せようとしない。

したがって映像の力点は、父親が行方不明となり、残された家族の決して癒えることのない悲しみの日々の映像化に置かれる。映画とは、メランコリーの風景であると信じて疑わない私にとって、この映画がみせるメランコリー・スケープは、その美しさと憂愁で胸をうつ。その映像美こそが、この映画を感銘深い作品にしている。ネット上では、この映画の評価は低いが、ダンシアッドなど無視すれば、この映画、美しさと痛さとが共存する優れた映画だということはわかる――くたばれダンシアッド。

予備知識ゼロでみたので、主役の若者が、往年の子役スターであった、ハーレイ・ジョエル・オスメントであることに気づかなかった。どこかでみた顔ではあったが、最後まで思い出せず。とはいえ母親役のジリアン・アンダーソン(『Xファイル』の)、消えた父親役のルーファス・シーウェルはともに馴染みの俳優たちだったので、なにか安心してしまって、主役が誰か思い出せなくてもさして気にならなかった。

父親が出張から帰ってくるはずなのに、帰ってこない。なぞの失踪。それから12年。残された者たちのうち息子は、新たな人生に踏み出そうとしているが、母親のほうは、夫の帰りをいまも待ち続けながら、デプレッション状態から抜け出せず、ついには自殺をする。主人公は、幼なじみの聡明な女性と結ばれ、子どもできるが、突発的な流産によって子どもを失う。なにかがおかしい。この自分の人生は、父親の失踪以後、まちがった道を辿りはじめたという思いをつのらせる主人公は、父親が発明し設計図を残していたタイムマシンを完成させ、それを使って、父親がむかった過去の世界へ、具体的にいうと1946年のプリンストン大学へと時間旅行する――父親をどこまでも追って(このどこまでも追ってゆくというモチーフが原題のタイトルとなる)。

基本は家族の物語である。それも父親の失踪によって運命を狂わされた家族の。夫の帰還を待ち続けながら、かくも長き夫の不在に耐えきれないまま、自殺する妻と、その息子が乗り出す新しい人生。数学と科学の天才という設定の息子は、同じく科学者である祖父の援助もあって、父親がタイムマシンを作り、過去へ行って帰ってこれなくなった(どうも過去の世界で殺されたらしい)ということまでつきとめている。しかし自分に子どもができたことを知り、仕事や研究よりも、家族の愛を選び、父親失踪事件のわだかまりを超えて新たな人生を選ぶとき、謎の流産が妻を襲う。

父親の失踪あるいは死を忘れ、過去のわだかまりにけりをつけて、新たな未来に自分の人生を投ずることこそ重要で、過去にひっぱられていては何もできない。うじうじしすぎだという意見がネット上にもあるのだが、そうした批判に答えるべく、映画は主人公に、いま現在の世界は、どこかおかしい、まちがった世界であり、それを正すには、過去へもどるしかないという考え方を視聴者に求めている。

この、なにか狂った世界を正すために過去へともどるという考え方。おそらくここにあるのは、タイムトラベル物にある過去改変・歴史改変という、お約束の設定であり、それが暗示的に示されている。実際、過去へのタイムトラベルは、狂った現在を是正するためにあったのではなかったか――たとえば『ターミネイター』の世界では、人間と機械がともに現在において勝利するために過去を変えようとする。

またこの映画では、さらに、設定状の約束事の暗示のみならず、現在の狂いを、突発的な死とか流産が証左であるかのように暗示する。また過去に行った父親も、暴漢によって殺されるらしいのだが、原因は不明。監督はカナダ人だが、インド系の人である。そのため理系的・数学的能力に優れていて科学者や科学の天才が登場するSF映画にぴったりと、ステレオタイプで想像しがちだが、映画が示している世界観は、むしろ科学的というよりも、神秘的な要素を強く漂わせている。

過去に行って行方不明となった父親を捜す息子という、家族愛テーマのSF映画だが、それ以上の何かを示唆しているところがある。謎は、家族愛を超える、あるいは家族愛に寄り添う、いまひとのテーマを暗示する装置でもある。

というのもレヴューアーにも気づいてほしいのだが、タイムマシンを使って1946年という過去に戻った父親が、なぜアインシュタインに会いに行ったのか。観光旅行気分で過去にタイムトラベルし、有名人のアインシュタインを一目みたい会って話をしたいというミーハー気分で、いやあこがれの人物に対して抱く夢を科学者として実現させようとしたのか。父親がアインシュタインに会うというので息子は、いまさらアインシュタインに会って、何を教えてもらうのかと問うている――それは、この映画を21世紀で見ている私たちすべてが抱く疑問だろう。

断片的あるいは暗示的にしか映画のなかでは語られていないが、父親は、アインシュタインに、原子爆弾関連の理論上の発見を伝えようとしているふしがある。それは、原子爆弾関連のテクノロジーを飛躍的に高め、それを世界各国が手に入れたら原子力兵器の使用可能性が高まる、そんな情報らしいのだ。アインシュタインと原子爆弾とかアメリカのマンハッタン計画との関係は、わかっていないことが多いのだが、ただ戦後、アインシュタインが原爆に強く反対したことは確かである。アインシュタインにとって原爆が変えてしまった世界は、できることならもとにもどしたい世界でもあった。

これに対し父親は科学者の知的関心の赴くまま、原爆を改良する何らかの情報をつかみ、それがもたらす変化あるいは惨禍など気にもとめず、ただ無邪気に、あるいは科学者の性癖として、それをアインシュタインに伝えようとしている。倫理とか社会文化的・歴史的影響などは無視。科学のエキスパートとして、知の無制限の探究を続けるだけである。

このことに息子は驚く(あるいはそのあとの行動からして予期していなのかもしれない)。すぐにも2004年に戻るべきと語る息子に対して、暴漢に襲われないよう用心して、とにかくアインシュタインに会うと、言うことをきかない。そのため息子は予想外の行動に出る。

自分の科学上の発見に夢中になり、それを、三歳の幼児のように無邪気に、アインシュタインに伝えることしか眼中にない、つまりその科学上の発見が、以後、地球に惨状をもたらす可能性など、三歳の幼児のように無頓着で考えることもない、この父親は、ある意味、科学者の典型である(ただし、この映画では、ただの科学者ではなく、マッドサイエンティストであることを臭わせているのだが)。

しかし、これは科学者が悪魔の使徒だからということではない。科学者が考えるのは、あるいはどうしても考えがちなのは、すべてをロジックと数式上の問題に還元することであって、それ以外のことは科学的思考にとっての夾雑物にすぎない。また数式上の問題として解決することが最優先され、解決に到達すれば、他の一切は無関係なこととして消滅する。

数字上の問題にすぎないのなら、人は何百万の人間すら殺すことができる――アイヒマンについてアーレントが考えたように(役所仕事の一環ならばともアーレントは考えたのだが)。科学的ロジックの問題にすぎないのなら、人は地球を壊すこともできる。したがって、行為の帰結を多角的に検討するためには、論理以外の思考方法を導入すれことになる。

【なおこれは、さらに現代の問題として、規制とルールだけの問題だけなら、動物園は、飼育していたキリンですら公開処刑してライオンの餌にすることができる(2021年7月9日の記事参照)――見学者を募ったし、その映像はいまもネット上でみることができる。規制とルールの問題だけなら、名古屋出入国在留管理局は病気になった外国人女性を、動物のように殺すこともできる(コロナ感染者を自宅放置する管政権を凌ぐ非人道ぶりである。)】

もちろん専門家としての思考が破滅的な帰結をもたらすというのは科学者だけではない。政治家あるいは権力者の場合もそうである――すべてを敵と味方の区分、覇権、支持率に還元して思考するのだから。それゆえ、

ある専門家は、核ミサイルを発射させるボタンは大統領の親友の胸に埋め込むべきだと提言した。そうすれば、彼が核兵器を放つと決めた場合、自分の有人に身体的暴力を加えて、彼の胸を引き裂かなくてはならない。そのことを考えると決断に感情ネットワークが動員される。デイヴィッド・イーグルマン『あなたの脳のはなし』太田直子訳(ハヤカワ/ノンフィクション文庫2019)p.156.


ここでは核ミサイルがもたらす惨禍を、広島・長崎の記録映像とか、ヴァーチャルなシミュレーション映像を見せて、戦争回避を促してもよいようなものだが、そんなことには動じないような人間に、最後の手段として、親しい者、愛する者の死をつきつけるということである。

大統領の親友のかわりに、大統領の息子でもいいだろう。要は、決断と行動が、人命にかかわる問題であること、そして死は、ただのイメージではなく、自分にとって親しい者たちが、自分にとって愛する者たちが死んだとき、あるいは彼らを自分が殺してしまったとき、自分がどう反応するかという情動問題として受け止められたとき、はじめて、真剣な多角的検討課題がはじまることだろう。それはまた平和への希求を必然的にもたらすはずである。

この映画の暗示の、さらにまた暗示のレベルだが、アインシュタインは、広島・長崎の惨状をなんらかのかたちで見聞して、核兵器廃絶と平和実現へと邁進することになったが、そのアインシュタインに、彼自身が見切りをつけた原爆関連理論を補完する情報をもってくるという、空気を読めない、殺されてもおかしくない愚行に無邪気に走る父親も、その行為の重さを、息子の死をもって知ることになったのだ(息子に会うことなくアインシュタインに会った父親のほうは、会った当日の夜に謎の死をとげる――その意味は、諜報機関による謀殺から、天罰までさまさまであろう)。

最後はハッピーエンドである。父帰る。

本来なら父親は空港で出迎えられるはずなのだが、出迎えのないまま自宅に帰る(出迎えのないのは、放蕩息子の帰還のイメージがある、あるいは日本風にいうと菊池寛の『父帰る』のイメージ)。妻と息子、そして息子の長馴染みの女の子が、いつもとかわらぬ日常を送っている――彼らのその後の人生は望まし方向へとすすむことが予感される。父親は何事もなかったかのように帰宅を迎えられるのだが、その顔には憂愁が漂っている。死んだ息子が、幼い息子として生きていることの戸惑い。あるいは息子の死の衝撃が残っているのか。もはや、そこには無邪気な天才科学者の面影はない。幼年期が終わったのである。



posted by ohashi at 19:03| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年07月18日

『トライアングル』

Triangle(2009)
Dir. Christopher Smith; Cast: Melissa George/Jessジェス、自閉症の子を持つ若い母親; Michael Dorman/Gregグレッグ、クルーザーヨットのオーナー、ジェスと恋仲;Henry Nixon/Downyダウニー、グレッグの友人;Rachel Carpani/Sally サリー、ダウニーのガールフレンド;Emma Lang/Heatherヘザー、サリーの女友達;Liam Hemsworth(へムズワース一族の三男)/Victorヴィクター(ヴィックと呼ばれる)、グレッグの若い友人;以下略。

主役メリッサ・ジョージは、スター俳優のようだが、どのくらいの知名度・人気度があるのか不明。あとリアム・へムズワースは兄たちルーク、クリスが有名。この映画では、さほど重要な役ではない。

タイム・ループ映画の第二弾。

シーシュポスの神話

タイム・ループ物(映画や小説)において、その原型ともいえる神話上の等価物は、シーシュポスが苦しむことになった罰である。

神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。(『シーシュポスの神話』清水徹訳、『新潮世界文学 49 カミュII』(1969)所収、p.386。訳文はそのまま使用。)



無意味な繰り返し、反復する運命あるいは罰、これこそがタイム・ループ物の意味である。同じ事の繰り返しは、罰であり、繰り返しから逃れることのできない世界とは地獄のことである。

カミュの『シーシュポスの神話』は、自殺の問題を取り上げるエッセイで始まり、最後に、自殺してもおかしくない最優先候補たるシーシュポスを取り上げる短いエッセイで締めくくられる。無意味の極みの労苦は、しかし、シーシュポスをして、おのが運命の無意味さ、くだらなさを笑わせるだけではない、むしろ、それ以上の、なんとも言えない幸福感を彼にもたらすことになる。「不条理」という言葉を有名にした著作だが、虚無的な内容とか思想は、そこにない。最後に語られるのは、幸福感であり、生の全面的肯定である。

無間地獄という歴史の牢獄、神なき世界の悲惨と虚無、宇宙の不条理の極み、この無意味さ、でたらめさ、それこそが、生の身体的喜び、このコントロールできない生のめくるめく歓喜と連動する。ああすばらしきこの出鱈目な世界。出鱈目だからこそ、生の純粋なそして無償の歓喜がわき上がる。この著書は、最後に、「すべてよし」という無償の全面肯定を宣言する(この肯定は、ロカンタンのシャンソンに対するそれよりも不条理であるがゆえに力強い)。

この短いエッセイの冒頭でカミュは、シーシュポスについて、主にホメーロスに依拠して、紹介しているが、この人物、いろいろなことをし、いろいろなことがふりかかるが、首尾一貫性がなく、矛盾し、実にいい加減で、平気で人間や神を裏切り、実に出鱈目な人物なのだ。そこが面白いし、カミュ自身、その出鱈目ぶりを肯定している。

ホメーロスの伝えるところを信じれば、シーシュポスは人間たちのうちでもっとも聡明で、、もっとも慎重な人間であった。しかしまた別の伝説によれば、かれは山賊をはたらこうという気になっていた。ぼくはここに矛盾をみとめない。(清水徹訳、p.386)


ただし、なぜ、矛盾を認めないのかカミュは何も説明を加えていないが、シーシュポスのこの相反する性格の共存、それこそが、シーシュポスの本質ならざる本質、本質を欠くシーシュポスの本質であって、そこをカミュは肯定する。肯定には、それ以上の説明は不要なのである。

実のところ、世界の不条理、世界の出鱈目ぶりと連動しているのは、シーシュポスという神話的人物である。彼こそが、世界の不条理を体現している。

そもそもシーシュポスが罰を受けることになったのは、黄泉の国から一時的に地上に戻る許可を得ても、地上で生の素晴らしさを味わうや(「この世の姿をふたたび眺め、水と太陽、灼けた石と海とを味わうや」p.386)、死の国に帰りたくなくなって神との約束を破ったからである。約束破り、契約の反古、裏切り、それがシーシュポスの本質なき本質、魂なき魂、人格なき人格なのだ。カミュが、シーシュポスを選んだのは、その悲惨な不条理の運命のためではない、その人物のなんともうれしいこの出鱈目ぶりだったのだ(カミュの短いエッセイ「シーシュポスの神話」の冒頭、シーシュポスを紹介する部分は、ほとんど読まれていない。というかこのエッセイ自体、有名ではあってもほとんど読まれていないのではないかと勝手に推測する)。

まあ、それにしても、このエッセイ集は最初占領下のフランスで出版されたものだが、いくら占領下で戦争の現実は希薄になっていただろうとはいえ、戦争の現実などなかったかのように、悲惨のきわみ(とはいえそれは戦争の悲惨ではなく、人間の死すべき普遍的運命のことでもあるのだが)における生の謳歌を書くというのは、カミュが、いつも、空気を読めていない、うわの空状態ではなかったかと思う(『ペスト』は戦後の作品である)。植民地下・戦時下のアルジェリアでアラブ人を殺害しておきながら太陽のせいだと主人公にいわせる『異邦人』にしろ、どこかカミュは現状認識が苦手で、うわの空である、強いて言えばカミュ自身がエトランジェである、あるいはシーシュポスのように出鱈目である。

しかし、さらなるいい加減さがある。カミュとは関係がない。カミュは、このエッセイのなかで紹介していないが、シーシュポスの父親はテッサリア王アイオロスである。アイオロス? アイオロスといえば風の神、風神のことか?と思うかもしれないが、テッサリア王アイオロスと風神アイオロスとは違う。だからシーシュポスも風神アイオロスの息子ではないが、往々にしてこれは混同される。ああ、なんという出鱈目ぶり。

バミューダ・トライアングル

『トライアングル』は、メリッサ・ジョージを主役にした(とはえいよく知らない女優であって、私がもっているブルーレイのメイキングでのインタヴューでは魅力的な女優なのだが、映画のなかでは必死感と背中合わせの狂気が相まって彼女の容貌の癖の強さが印象的でスター女優的なオーラはないようなところがあるというか、それがオーラなのかもしれないが――勝手な感想)とはいえ、作品の面白さは、ループ物の常だが、世界の不思議に支えられ、さらには美しさと迫力のある映像表現によっても支えられている。

とりあえず最初から内容を語ってみると、自閉症の男の子の世話で疲れている若い母親の日常が描かれつつ、気づくと、その彼女が、大型ヨットでのクルージングへと招待されている。進行には、いくつか穴というか欠落あるいは省略があり、なかには最後になって、ようやく埋まる欠落箇所もある。実際、彼女は一人でヨットに乗り込むのだが、子供はどうしたのかと思う。学校に預けたということらしいが、土曜日に学校は開いていない。子供を預けるシーンなどない。ヨットのオーナーの友人からも、子供のことは不思議がられている。だが疑惑を残したまま出港。のんびりとしたクルージングが、にわかに大きな嵐に巻き込まれ(無気味な黒雲の映像には圧倒される)、大型のクルーザー・ヨットは転覆する。全員、海に投げ出されるが、一人を除いた、残り五人は、かろうじて転覆した船の船体のとりつき、救助を待つことに。と、そこに大型客船が突如現れる。彼らは近づいてきた客船に大声で呼びかけ、なんとか乗船することに成功する。

だが乗船した大型客船には乗客も乗組員もいない。五人は、船内を探索して、客船の関係者を捜すことになるが、彼らには不思議な出来事が次々と起こるようになる。また船内の客室区間は迷路のようになっていて全体像がつかめない。主人公の女性は、突如、オーナーの友人の男(リアム・ヘムズワース)に襲われる。だが彼はすでに大けがをしており、からくも逃げ出した彼女は、船内の劇場で残り三人と会うことになるが、ヨットのオーナーの男性は銃で撃たれ瀕死の重傷を負っている。しかも、彼女にはまったく身に覚えがないのだが、彼女が、そのヨットのオーナーを銃で撃ったという。根も葉もない濡れ衣であると彼女が弁解しようとする矢先、劇場の桟敷席にいた謎の人物から銃撃される。残り二人は銃弾に倒れ、からくも逃げ延びた彼女だったが、甲板でライフル銃をもった人物に追いつめられる。必死に逃げ、抵抗する彼女は、その謎の人物の攻撃をかわし、その人物を海に押し出すことに成功する。

と、そのとき、海から声をかける者たちがあらわれる。身を隠しながら彼女が観察すると、それは、転覆したヨットの船体に乗って、この大型客船に救助を求めている、さきほどまでの自分たちであった。驚き、彼女は身を隠す……。

ループのはじまり

こうしてこの映画の物語が、タイム・ループ物であることがわかる。彼女のあとに、もう一人の自分が、それとは知らずに追いかけてきていることになる。彼女が、あとから来るのは偽物だと信じ、なんとしても偽物を抹消せねばという思いから、船内を捜して銃器の置いてある場所にたどりつく。と、わかるのは、先ほど、自分を襲ってきた謎の人物は、自分ではなかったか、と。実際そうなのだ、自分を襲ってきた人物は、自分よりも先に乗船していた自分だった。そして乗船した五人を抹殺しようとした。実際、四人まで殺害したが、残り一人、つまり自分によって、海へと押し出されて落ちた。そして今度は、自分が、あとから来た、まだ何も知らない五人を殺そうとしている……。

嵐で転覆するヨットの名前は、「トライアングル」である。それが映画のタイトルにもなっている。トライアングルは、嵐によって船舶や航空機が行方不明になるバミューダ・トライアングルを連想させるものとなっている。ちなみに作品のなかで船室からレコードプレーヤーにセットされたままで、曲の最後まできても、そこから先に進めないので、最後の部分をプレーヤーが無限に反復するという、昭和の時代によくあった演出がある――実はこれこそが、ループ物が終盤戦・エンドゲームであることを示す的確なメタファーでもあるのだが。

で、かかっている曲はグレン・ミラー・オーケストラが演奏する『錨を上げて』(Anchors Aweigh)という誰もが一度は聞いたことのある曲である。問題は、この曲ではなく、グレン・ミラーのこと。彼は1944年イギリス近海で乗っていた輸送機が姿を消して、以後、行方不明となった。グレン・ミラーは、海上で忽然と姿を消した人物であり、この映画の登場人物たちの運命を暗示する。

しかし、それだけではない、さまざまな三角あるいは〈三〉という数が生起する。いま述べたように、主人公の女性は、自分を襲ってくる謎の人物とたたくが、その人物もまた自分であり、そしていまもう一人の自分が乗船しようとしているところを発見する。主人公は三人いる。未来と現在と過去の三人の自分。その三人が三角関係のごとく、殺し合う。また彼女は途中で意識を失うが、やがて違う場所で目ざめることになる。それが三度起こる。

人間関係においても三角関係が生じている。主人公とヨットのオーナーは不倫関係に発展しそうなところがある(ヘテロの三角関係)。さらにヨットのオーナーと、その男友だちと、女友達の彼女とのヘテロ・ゲイの三角関係もある。あるいは、ネタバレになるかもしれないので(たとえ、すでに充分にネタバレをしているとしても)、語らないが、三角関係、愛と憎しみの三角関係は他にもあり、絡まり合っている。

船名で興味深いのは、もう一つの船、忽然と現れた、まるで幽霊船のごとき大型客船の名前である。アイオロス号。そう、風の神、風神の名前であり(とはいえ、風にまつわる名前を船につけるのは珍しい。英国で「タイフーン」という名前は軍用航空機の名前だった)、乗船した五人が、他の乗客や乗組員を捜すために、船室区画を歩き回るときに、通路の壁に飾ってあるのが、額に入った、この客船の写真。まさに幽霊船のようなこの船の船内に入ってきた五人は、この額の写真を見て、そこにある説明文を声に出して読む。船名はアイオロス号。名称は、ギリシア神話の風神からとった。そしてアイオロスの息子はシーシュポス。シーシュポスは約束を破ったために罰を受ける、と。

アイオロスは、バミューダ・トライアングルを連想させる名前なのだが、その息子、シーシュポスについても言及される(たとえシーシュポスは風神のアイオロスではなく、テッサリア王アイオロスの息子なのだが)のは、この船が未来永劫にわって業苦を繰り返す、地獄船であることの暗示であろう。つまり無限のループを暗示し、そのなかで、とりわけ主人公の女性は自分が殺し殺される恐怖にさいなまれていくという無間地獄の暗示がある。シーシュポスと同様に永遠に罰せられる主人公の女性。タイム・ループ物は、地獄の劫罰、逃れられない永遠の苦しみの物語、無間地獄の、Infernal Affairsである。

『シャイニング』

先の『グラビティ 繰り返される宇宙』が、20世紀のSF映画『エイリアン』へのオマージュ的な要素(とりわけそのCGが構築した雰囲気と女性一人だけが生き残るという結末)をもっていたとすれば、この『トライアングル』にも、それがオマージュを捧げている映画がある。キューブリックの『シャイニング』である。これは私の勝手な思い込みではない。この映画のなかで、惨劇が起こり、そのバスルームに血のメッセージが描かれる船室こそ、なんと、237号室。そして船室区画には誰も乗客がいないことも、『シャイニング』のホテルを彷彿とさせる――もちろん『シャイニング』のほうはシーズン・オフだから宿泊客はいないのだが。

また客船の船室区画は、通路が複雑に交錯して、まるで迷路である。このことはまた、『シャイニング』におけるホテル内の迷路のような部屋と廊下、そしてもちろん、ホテルの外の庭園迷路(やがてジャックがそこにとらわれて凍死する場)を思い起こさせる。『シャイニング』のホテルが、死の迷宮であったとすれば、この『トライアングル』の客船アイオロス号、この乗客も乗組員も誰もいない幽霊船こそ、主人公がとらわれ抜け出せないループの迷宮、シーシュポスの運命そのものなのである。

なお、主人公の女性が銃撃されて逃げるときに、船内の消防消火設備に備え付けてあった大きな斧を手に取ることも『シャイニング』を彷彿とさせるという説もある(ジャックが手にして斧)。さらに映画内での説明はないが、客船に乗り込んだとき、船内の時計は、四人のもっている時計の時刻とずれているのだが、主人公の彼女の腕時計だけは、船内の時計の時刻とシンクロしている。おそらくそれは彼女がこの船の住人・乗客であることの暗示であり、『シャイニング』で死んだあとのジャックが、ホテルの壁に掛けられている古い集合写真の中心に写っていたように(つまりホテルが彼をその超常空間に取り込んだ)、彼女もまた、この古い客船にとらわれている、Resident Evilであり、このアイオロス号は、彼女のためだけの監獄船なのかもしれない。

アルファにしてオメガ

しかもこの船の船名「アイオロスAeolos」は、この船内ではAとOを組み合わせたロゴによっても表現されている。実際、船内のレストランにあるバンドの楽器にはAとOとを組み合わせたロゴが目立つ。このAとOは、ギリシア語ではアルファとオメガのAとO、そしてアルファにしてオメガは、最初と最後を意味して全体を意味するのだが、おそらくはウロボロスの蛇のように、自分の尻尾を飲み込む蛇のごとく、永遠のループの象徴なのかもしれない。

そして、ここでネタバレなのだが、映画をみてないと、なんのことかわからないと思うのであえて書くことにする。新解釈である。客船のレストランにあったバンドの楽器につけられた、このAとOを組み合わせたロゴは、実は、映画の終わりのほうで、彼女が車を走らせていた道路の脇の公園で行進しているブラスバンドのロゴでもある。楽器とかバンドのユニフォームに、このロゴが見える。バンドの行進演奏を見た直後に彼女は車で事故を起こす。そして朦朧とした意識のなかで、そのロゴを見た彼女が、命の消える直前にみた死の幻想(海での難破から幽霊船での殺戮など)、それがこの映画の全体であるというふうに解釈できないわけでもないのだ。つまりAとOのロゴによって、彼女は「アイオロス」号という船名を想起/創案し、アイオロスの息子シーシュポスの受難と同じ永遠に続くループの刑を予感したのかもしれない。映画全体が、この死にゆく彼女の脳裏に一瞬浮かんだ幻想の一大パノラマというような大げさものではないにしても、死ぬ間際で、彼女の脳内劇場で展開した恐怖の物語なのである。この恐怖の物語は、最初は、脱出の夢をかなえる願望充足夢だったのが、その幸福感もやがてついえ去り無間地獄にとらわれ悪夢へと変貌を遂げるのだ。ここまで考えるのは、考えすぎがかもしれないのだが、これが唯一の解答とは夢にも思わないが、ひとつの可能性としてはありえるだろう。

交通事故の直後、彼女にはタクシーが迎えに来る――呼んだわけではないのに。この無気味なタクシー・ドライヴァーは、死者を黄泉の国導く地獄の渡し守カロンのような存在だろう。彼女に残されているのは、死者の国へと旅立つことだけだった――交通事故で死んだのだから。しかし、港で彼女は、必ずもどってくるといってヨットハーバーのほうに出かける。そして死者の国に赴くべきところ、約束を破って、生者たちに混じって、クルージングにでかけてしまう。そして帰ってくるという約束を守らない――まさにシーシュポスである。

そしてこの約束を破って逃亡しても、それが許されることなく、地獄の監獄船にとらわれて、永遠に殺し殺されるループを体験することになる。この映画が提出するイメージでいえば、ループのゴミために投げ込まれる。

あるいは彼女は死すべき運命から免れたのかもしれないが、しかし、嵐の海で、結局、監獄船に捉えられ、海に放り出されたときにはじめて、死者の国へと赴くことになる。

そう、もしループの内側にいたら、それがループであることに気づく可能性はない。『ミステリー・ゾーン』の「幻の船」エピソード(またも船だ)では、ループに気づくのはナレーターと視聴者である。しかし『トライアングル』では、主人公はループに気づく。その衝撃性は、『グラビティ』の衝撃と、スケールこそ違うが同じ性質のものである。そして気づくということは、ループの外側にいるということである。あるいはループの裏側に出たことでもある。

そう主人公の女性は、メビウスの輪のように裏返る。自分が殺されるかかる犠牲者かと思いきや、殺す側、殺人鬼になっている。被害者から加害者への転身。あるいは死すべき運命を逃れたと思ったが気づくと死の世界から抜け出せなくなっている。メビウスの輪のような反転。だが、それがどこで反転したのかわからない。解放から捕縛へ、被害者から加害者への変換はまた、ループの外がにいる、あるいはループの外側からループを見ていることの条件であろう。

だがなぜ彼女には、ここまでの苦難と罰が降りかかるのだろうか。それは彼女が罪を犯したからである。それがどんな罪だったのかは、映画の最後のほうで明らかになる。それは語らないことにする。

なお、まとめのコメントは、すこし先に追加する予定。
posted by ohashi at 14:35| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2021年07月04日

『グラビティ』

これから、一定期間、ループ物の映画(多くはSF映画だが、怪奇ホラー物もあるし、多くはB級映画だが)について、個々の作品に即して考えてみたい。作品は、B級作品がほとんどで、知らなくても、また見なくてもいいような映画だが、しかし、ループ物がなぜはやるのか(最近の最新作が公開された)、そしてそもそもループ物とは何かについて考えてみたい。

第一回は2018年アメリカ映画Atropa。日本公開時タイトルは『グラビティ――繰り返される宇宙』(ひどいタイトルだが、原題も、そっけなさすぎる、そして意味不明のタイトル)。

Atropa(2018) USA. Dir. Eli Sasich; Cast: Anthony Bonaventura/Cole Freeman元刑事・探査員; Jeannie Bolet/Moira Williams主人公の元妻、Atropaの乗組員;Michael Ironside/ Captain Schreiberほか。


詳しい情報がないのだが、まずこの映画は、どうもドイツのSF短編映画のアメリカでのリメイクらしい。2013年の30分のドイツ映画Atropaがそれ(監督Peter Conrad Beye)。残念ながら、このドイツ映画は見ていないのだが、それをアメリカで70分の劇場公開映画にしたのかもしれない――ただし、タイトルはまったく偶然に同じとなった可能性も棄てきれないし、そのときはリメイク説は消える。

日本におけるネットでのこの評判からすると、やや話が薄味になっていて、物足らないところもあるが、70分という短い尺なので、見ていて苦痛になることはなく、淡々としているものの、あっけなく終わるので、不快感や苦痛を感ずることはないというのが大方の意見である。

最初、こうした感想はわからないでもないと思った。というのも、この映画は、アメリカのテレビのミニシリーズの総集編だと思ったからである。2018年3月3日よりアメリカで公開されたテレビ(そして/あるいは、ネット配信)のミニシリーズ(全7話完結)を70分の映画にまとめたものと思っていた。しかし、それは違っていた。総集編ではなく、合体編である。つまりミニシリーズの一話は10分程度。正確には10分を少し超えていて7話全部をあわせると90分越えになるのだが、各話、毎回、タイトル、前回の紹介、エンドクレジットなどが入るのだろうから、正味平均10分と考えれば7話で70分の映画。総集編ではない。

だから7話のミニシリーズ(IMDbには各話の内容紹介もある)を70分に圧縮したのではない。ただ合体させただけである。だから、この映画は、あらすじをなぞるだけの、薄味の映画ではない。題材の面白さ(ループ物)と、過去と現在を交錯させるプロットが常に緊張感を強い、またCGを中心とした特撮がけっこうよくできていて飽きさせることのない良質な映画であるが、ただ、登場人物の心の動きが詳しく示されないので、人物が実にあっけなく重大な決断をするようみえてしまうというのが薄味という印象を残すのかもしれない。

実際、私も、最初、これを長いテレビドラマの総集編かと思ったので、薄味という印象は多くの人と共有していたことになる。

なおタイトルは、辺境で行方不明になる宇宙探査船の名前。毒のある植物の名前(ベラドンナな一種)なのだが、その意味あるいは含意は、もしかして本編では何か語られているかもしれないと思ったものの、本編などない、この映画が本編そのものだから、説明は最初からされていない。

ネット上での解説をつぎはぎで紹介すると

元刑事のコールは、元妻を乗せたままデッドゾーンで消息を絶った宇宙探査船アトロパ号を追跡していた。予定より早く船を発見し乗船するが、アトロパ号は不明船と衝突し航行不能に陥ってしまう。その衝突船はなんと過去のアトロパ号で、しかも船中には自分たちの死体があった。
未来のアトロパ号が自分たちに衝突する時間が迫る中、このループから抜け出して恋人を救うべく、究極の選択を己に課すコールだったが……。
出演は「スキャナーズ」のマイケル・アイアンサイドほか【という紹介だが、唯一の有名俳優アイアンサイドは、ほんの少ししか登場しない。】ヒューマントラストシネマ渋谷&シネ・リーブル梅田で開催の「未体験ゾーンの映画たち2019」上映作品。


あるいは、こんな紹介も

「アントマン」「アベンジャーズ インフィニティ・ウォー」のCGディレクターとして知られるエリ・サジックがメガホンをとったSFループスリラー「グラビティ繰り返される宇宙」


そしてネット上には、CGは素晴らしいが、話の内容、ドラマが薄味、あっさりしすぎているという感想が多い。

しかしドラマとしてもよく作られていて、たとえば元刑事の主人公は、基本、一人乗りの宇宙艇のなかで、「Mo/モー」という名づけたコンピューター相手にチェスゲームをして、いつも負かされているようだ。のちに探査船のクルーから、自分の船のコンピューターに「モー」という、なんとかわいらしい名前をつけたのかと主人公はからかわれるが、そんなつもりで名前をつけたのではないと主人公は戸惑いながら軽く抗弁する。これは、これで終わるのだが、モーというのは、別れた妻/恋人である女性の名前Moira/モイラからきているのだろうと想像できる。彼は、モイラとチェスゲームで常に負けていた。そして別れた妻/恋人のことを忘れられないのであり、コンピューター相手に勝ち目のないゲームをすることが妻/恋人を現前させる手段となっている。

またチェスゲーム、それもいよいよ大詰めというか、すでにチェックメイト状態のチェスゲームにおいて、どうこの難局を乗り越えるかは、この作品の根幹にかかわるテーマともつながっている。実際、この映画は「エンドゲーム」と名付けてもおかしくない内容なのだ。

もちろん「モー」の由来も、チェスゲームのテーマも一言も説明され語られることはなく、ただ示されるだけである。観客が視聴者がそれを認知するしかないのだが、あいにくネット上には、この映画をB級と決めつけて、そこから先を考えようとしないB級観客しかいないようだ。

もちろんタイムループ物の常で、どこか説明不足のところがあって、この点で、私自身、B級観客の域を脱していないのだが、どうも探査船が宇宙区間の時空の歪みによって時間を逆行しはじめたらしい。そして、このままだと、未来の同じ探査船とぶつかってしまうらしい。探査船に調査艇で乗り込んできた元刑事の調査員が、探査船の冷凍睡眠中のクルーを起こし、事情を聞いていると、すぐ側に同じ探査船が現れて、しかもその探査船は、同じ探査船と正面衝突を起こし完全に破壊される。それを探査船のクルーと調査員が見ているのだが、同じ運命が、この船にも訪れるだろう。では、そのループからどうやって抜け出すのかが、課題となる。抜け出せなければ死ぬしかない――これがB級観客の私のまとめである。

このブログのどこかで書いているのだが、私が小学生の頃にみたアメリカのテレビドラマ・シリーズ『ミステリー・ゾーン』(当時日本では、このタイトルで『トワイライト・ゾーン』を放送していた)の1時間物で、惑星探査に降り立った地球からの宇宙船が、そこで破壊された宇宙船の残骸を見るというエピソードがあった。

その宇宙船の残骸のなかには、いま降り立った宇宙船のクルーの屍体がころがっている。彼らは自分の屍体と対面するのである。何があったのか。それを探っていくうちにクルーの身に次々と不思議なことがふりかかる。そして彼らは悟るのである。自分たちは、この惑星への着陸に失敗して死んだのだが、死んだということがわからないまま、亡霊になってさまよっているのだ、と。と、この瞬間、場面は、この惑星に着陸しようとしている宇宙船の内部に変わる。彼らは、これから着陸しようとしている惑星の表面に、宇宙船の残骸を発見する……。

当時私は風邪で高熱を出して寝ていて、このエピソードを枕元に親が置いてくれたポータブルテレビで見た。そしてこのエピソードのあまりの奇怪さに、さらに高熱が出てしまったのだが、今にして思えば、それが私とタイム・ループ物との出会いであった。
【なお、このエピソードは、『ミステリー・ゾーン/トワイライト・ゾーン』の第四シーズン(このシーズンのみ1時間物となった)の、「幻の船」‘Death Ship’ と題するエピソード(通算第108話)。その面白さ、不思議さは、原作がリチャード・マシスンであるからだろう】

このエピソード(「幻の船」)と『アトロパ』との相違点も重要だろう。このエピソードでは乗組員たちは自分の死体を見るのだが、死をもたらした事態は目撃でしていない。だからなぜ自分たちの死体があるのかわからないのだが、アトロパの乗組員と探査艇の調査員(元刑事)たちは、自分たちが乗っている船が衝突して破壊されたところを目撃する。突如として、鏡にでも向かったかのように、自分たちの船の未来の姿、その破壊の様子を目撃するのである。そして自分たちが、そのカタストロフへと着実に向かっていることがわかる。この運命からどうやって逃れるのか。こう考える点で、ただ困惑するよりも、すこし超越的な視点を手に入れている。

もうひとつの超越的な視点というは、彼らにとってこの運命が、どうやら無限に繰り返されているということである――ネタバレになるので詳しく語らないが、彼らが無限のループに気づく瞬間の衝撃は、他の映画の追随を許さない、この映画ならではのものといっても過言ではない*注。

本来なら、わけがわからないまま、べつの宇宙船に追突するか追突されるかして、全員死亡。と、その瞬間、また同じシークエンスが始まるという展開にすることもできる(『ミステリー・ゾーン/トワイライト・ゾーン』のときと同じように)。しかし、そうせずに未来の破滅の運命を見せることで、超越への、脱出への契機が準備される。彼らは自分の姿と、その未来をみるのである――鏡にむかったように。

鏡のイメージは、この映画に頻出する。と同時に、鏡が、いかにも映画的なイメージであることに思い至る。映画における鏡のイメージとは、鏡本来ではなく透明なガラスによって成立する。ガラスは、光の状態によって、それが「鏡」となる場合と、そのガラスの向こうの世界を示す「窓」となる場合がある。まさに反射と透過の共存。反射は外の世界をみせることがないが、透過は外の世界をみせる。外に世界に対する可視と不可視の二重性をガラスが帯びることがある。あるいは反射するもの、鏡があれば、それは窓にもなる。

主人公が見ているのは鏡としての現実である。つまり自分たちの姿と、その行方――つまり自分たちの未来。この鏡を前にして、私たちはどうするのか。鏡像をみる時点で、すでに一度反復していることになる。私たちは自分の未来あるいは未来を予示するものをみて、そこから抜けだそうとするのではなく、魅せられたかのように、暗示にかかったかのように、それを反復してしまう。

成功体験というのがある。過去における成功体験にとらわれると、どんな場合にも、その成功体験を反復する行動に私たちは出ることがある。たとえば重要な仕事を任されたとき、赤い物を身につけたら上手くいったとき、重要な場面で、赤い物を身につけようとすることがある。ただ、たとえば試験前に猛勉強してよい成績を収めることは、成功体験に入るとも入らないともどちらともいえないのは、試験の前に猛勉強すればよい成績は当たり前であって、縁起などとは全く関係ないからである。成功体験の醍醐味というのは、試験前に全く勉強しなくても、ただ赤いハンカチをポケットに入れていたら、よい成績を収めたというようなことだ。これは原因が、赤いハンカチでないことは確かだ。成功は、本人がコントロールできない要因(たまたま得意分野が出題されたとか)によるものであって、もし、次の試験で、あるいは人生の重大事に、赤いハンカチをポケットに入れたら(縁起をかつぐとか、ジンクスのようなものだが)成功すると考えたら、待っているのは失敗か破滅である。いや、そこまでいかなくとも、痛い教訓を得ることにはなるだろう。

トラウマは、いろいろな型があって一概にこうだとは言えないのだが、過去の嫌な経験を常に想起してなにもできなくなったとき、行動ではなくても頭のなかのシミュレーションによって過去の失敗や恐怖を再現することで、過去を生きるということになる。失敗したり、嫌なことは忘れたほうがいいのに、それをたとえ実生活で行動に移さなくても、回想のなかで頭のなかで想像のなかで繰り返す。そして過去の亡霊に取り憑かれてしまう。失敗する人生に魅せられている。トラウマに苦しめられ、魅せられている私の人生は破滅の人生である。また成功体験に取り憑かれて、失敗しつづける私の人生も破滅の人生である。

人間は、反復する動物である。だとすれば私たちの先人(先輩であり、また親であり、先祖でもある人々)も同じことを繰り返してきた。私たちの人生、あるいは私たちの歴史は、ループの繰り返し(同語反復か?)であり、破滅の集積である。私たちがいま見ているのは、前の世代、親の世代の破滅の人生であり、それを反復する私たちの破滅の人生である。この世界は、破滅する者たちの墓場、あるいはゴミ捨て場である(ネタバレできないので、これは次に扱う『トライアングル』の予告編ともいえるコメントだが)。

ただし、これは作品から離れたスペキュレーションではない。この作品の主人公が、このどんづまり状況――鏡と同時にチェスゲームのイメージを頻出させるこの映画からして、まさにエンドゲーム状況――で、無限のループの現実が示しているのは、私たちの繰り返しの人生(反射――反映であるとともに無限反復)であるが、同時に、繰り返すなというメッセージでもある(透過、鏡が壊れたあとあらわれる新たな現実)。この洞察に到達するとき、主人公は、たまたま閉じ込められた医務室のガラスの扉を壊して脱出していた。

さらに主人公がなぜ妻と別れたのかについて、過去のトラウマ的事件も提示される。ところがB級観客には、フラッシュバックすらお気に召さないようだ。こんなコメントがあった。

多分、チャイナマネーが入っているのだろうけど、ヒロインの元?妻及びその弟(地上での主人公の元バディ)の押しの強さに少々の“ウザさ”を感じてしまうのは自分だけだろうか。【お前だけだよ――引用者】色々な要素を入れてみたらこんなお子様ランチに仕上がりましたと紹介しているような中身なのである。【そんなにいろいろな要素は入っていない。たぶん「お子様ランチ」というのが、このレヴューアーが、どんなときにも、どんな作品についても、気に入らないときに使う、お気に入りの、なんともまあ昭和を思い起こさせるけなし言葉だろうが、まあ私がいいたいのは*****ということにつぎる――引用者】
ストーリーパートの地上での主人公と妻の不仲の理由を物語る振り返りシーンが完全に野暮ったい。【このあとすぐに解説する――引用者】あの件は別の表現方法があったのではと思う。いかにも西海岸的刑事ドラマの作りで、それと一気に宇宙へのシーンに繫げるのは無理がありすぎて素直に没頭できない


【なおここで理由もなく中国を差別的にコメントしている部分があるが(中国資本が入っているから気に入らないというのは、単純な民族差別・人種差別に他ならない)、中国の独裁政権の暴虐は絶対に許されるべきではないのだが、中国を差別的にみている、この「お子様ランチ」レヴューアーが、たとえば香港における民主派弾圧の件で中国を批判したり、ウィグル族の弾圧搾取に加担するユニクロを批判するとも思えない、むしろ、抑圧的な中国政権と同じ姿勢を保持していることは間違いなく、こういうレヴヴューアーはとっと退場してもらいたいものだ。】

ちなみに、この作品について、別のレヴューアーは、「B級だし仕方がない?」というコメントで、結んでいたが、いま引用したレヴューアー(「お子様ランチ」レヴューアー)についても同じことがいえる。つまりこのレヴューアー、「B級だし仕方がない」。

フラッシュバックが入ることは、実は、この宇宙船が時間を逆行して過去に遡行しているのと同じく主人公の元刑事も、刑事時代の妻と別れることになった出来事へむけて、時間を逆行し過去に遡行していることの示唆である。宇宙船と主人公の時間逆行が同時に平行して起こることは、この作品の重要な仕掛けであって、精神内の内的宇宙の時間遡行と、物理的外宇宙の時間遡行とが等価で提示されているのである。つまり宇宙の時空間のなかでのループは、精神的な意味ももっている。この物語のリアルは、こんなループ現象が宇宙のどこかで起こっているかもしれないというエクストラポレーションではなく、ループ現象は私たちの精神内で、つねにすでに、起こっているということの暗示なのである。

探査船のクルーの一人が、自分の死体をみる。その死体は銃で撃たれていた。元刑事の主人公が疑われるが、彼は発砲していなかった。やがて誰が発砲したのかがわかる時がくる。

ちなみに主人公が刑事時代に体験した妻と別れることになった事件とは、相棒として組んでいた若い刑事(妻の弟)が、犯人の銃撃によって殺されたとき、怒りにかられた主人公が、すでに傷つき投降している犯人を射殺するのだが、これを監視飛行体に目撃されていて、違法行為を問われ刑事の職を失い妻とも別れることになる。怒りにまかせた報復の一撃が彼から職も妻も人生をも奪ったことになる。そして、探査船のなかで再会した主人公の元妻が、今度は、再婚した男性を殺された怒りにまかせて、乗組員の一人を殺そうとするとき、主人公は必死でこれを止めるのである。おそらく、元妻は再婚相手を殺された怒りで乗組員の一人を殺していたのだ。殺していたのだというのは、この殺人が、無限回数起こっているということだ――まさに報復の連鎖、いや報復の無限反復、報復のループ。そしてその一点だけでも変えることができたのなら、連動して、未来そのもの無限ループから解放されるかもしれない。

もちろん、そんな簡単にループから抜け出せるのだったら、とっくの昔に、みんな助かっているという言えるかもしれない。超越のお手軽さを批判されかねいないので、バランスをとっている。みんなが助かるわけではない、と。むしろ、その逆で、ほとんど助からない。

いま、たまたま『スタートレック:エンタープライズ』シリーズ(これは『宇宙大作戦』よりも前の世界、紀元22世紀を舞台にしたスタートレックのテレビシリーズで2001年から放送された)を調べる必要があって、見ているのだが、21世紀初頭のこのシリーズのCGと比べると、この『アトロパ』のCGには一日の長がある。と同時に『アトロパ』の世界は、20世紀のSF映画の世界へのノスタルジア、あるいはオマージュも見て取れる。おそらくそれはリドリー・スコット監督の『エイリアン』である。あの『エイリアン』の世界の暗さ、無気味さ、そしてノスタルジックな雰囲気だけではない。物語の最終展開においても、『エイリアン』と『アトロパ』には共通点がある。見てもらうしかないのだが。


この重要な仕掛けが、『レッド・ドワーフ』のなかのエピソードからの借用であるというコメントがネット上にあったが、『レッド・ドワーフ』のその回あるいは全体を見ていないので、不明。ちなみに、日本でも放送されていた『レッド・ドワーフ』は、シリアスなSFというよりもお笑い・ギャグSFであり、たまたま私がイギリスでみた回では、艦長が、異星人の美女とセックスをしたあと、どうだったかと、異星人の女に聞くところがあった。異星人の女いわく、「まるで日本料理のようだ」と。つまり、「お皿は小さいが、コースがたくさんあった」と。これについては何もコメントしないが、これをBBC2で放送していたのである。
posted by ohashi at 20:01| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする