フランスを舞台にしたフランス語の映画(2013)なのに、どうしてBack in Crimeと英語のタイトルがついているのか不思議に思ったが、国際的市場で流通するときの英語タイトルのほかに、フランス語の原題があった。L’autre vie de Richard Kemp「リチャール・ケンプのもうひとつの人生」――これぞフランス映画のタイトルだと、ネット上でコメントしているアメリカ人がいたが、私もそう思う。
過去の未解決の連続殺人犯が時を経て新たな連続殺人を開始したかに思われる事件が発生する。捜査をすすめる捜査官リシャール・ケンプは夜、何者かに(おそらく真犯人)に橋から川に突き落とされ、水から川岸にあがってみると、そこは連続殺人が始まった10数年前の過去の世界だった。これまで犯人を捕まえられなかった彼は、事件を記憶している立場から、犯人に先んじて犯行を阻止したり、さらには犯人逮捕のために奔走する。そして……。
監督ジェルミナール・アルヴァレスについては不明。主役はジャン=ユーグ・アングラートといっても誰のことかと思うかもしれないし、比較的近年でも『シンク・オア・スイム』(2018)という、中年のおっさんたちのシンクロスイミングの映画にも出演していたのだが、そのときも気づかなかったのだが、今回調べて、『ベティー・ブルー』のゾルグだとわかった。え、あのゾルグ。『ベティ・ブルー』は、ゲイの映画で、あの男女のカップルは実はゲイ・カップルだと私は今も強く信じているのだが、あのゾルグだったとは。
しかし私のうっかりというか不覚はこれだけではない。ヒロイン役のメラニ・ティエリは、はじめて見る女優と思ったのだが、調べてみると、ヴィン・ディーゼル主演の『バビロンAD』(2008)のヒロインではないか。この映画は結構好きでDVDでもっている。そのケースを実際に手に取ってみてみると、ヴィン・ディーゼルの横にいるヒロインが彼女ではないか。なんたる不覚というか、いつものぼんやりというしかないのだが。
主人公の刑事は、10年前の世界では、競馬で資金をかせいで、ホテル住まいし、10年前の自分自身を観察しながら、連続殺人事件を防ぎながら、あるいは防ぐことに失敗しつつも、真犯人を追いつめてゆく。この展開にはけっこうサスペンスがあって、メランコリックな映像とともに、この映画の世界に観る者を引き込んでゆく。【この競馬で稼ぐというのは、タイムループ小説の傑作として評判の高い、ケン・グリムウッドの『リプレイ』を彷彿とさせるのだが】
あとこの映画では未来の世界で知り合いになった女性と10年前の過去の世界で再会し、そこで相思相愛のなかになって、やがて10年後に結ばれるという、かつてSF作家の梶尾真治氏がエッセイのなかで使った言葉を借りれば「タイムトラベル・ロマンス」(梶尾真治『タイムトラベル・ロマンス――時空をかける恋-物語への招待』(平凡社、2003)でもある。
最後に結ばれる男女は、女性のほうは10年前に彼とであって、人生が変わった女性の10年後の姿であろうが、男性のほうは未来からきた男性なのか、10年前の男性の10年後の姿なのかは観客に想像させるようになっていて、そこの余韻を観客は楽しめばいいのかもしれない。
ただ、問題はそこではない。セカンドチャンスを与えられた主人公が、一度目は失敗と挫折で終わった事件捜査を、解決に導き、さらに新たな女性とも結ばれるというハッピーエンディングは、まるで夢のようである。
気になるのは、未来の世界で、たぶん犯人に川へと突き落とされる、その後川岸に自力で這い上がるのは、水(羊水)から生まれる、つまり再生のイメージでもあるのだが、10年前に再生した彼が、最後には、犯人といっしょに川のなかに落ちる。ここには暗合というか符号があって、タイムリープとも関係するつながりがあるのかもしれないが、この点を掘り下げるよりも、むしろ、夢物語の要素をみたほうがいいだろう。
そう夢なのだ。彼がやってきた未来の世界では連続殺人犯は逮捕されず、また殺人犯の挑発にのった担当捜査官(主人公)は橋から川に落とされて、おそらくは死亡したのであり、死ぬ間際に、あるいは死んでから、夢見た、失敗のない人生のファンタジー、それがこの映画の物語内容であるともいえる。このことは、おそらく、多くの人が感じることであろう。無念の死を迎える主人公が最後に夢見た別の人生のハッピーエンディング――それがこの映画の幸福な結末をむかえつつもメランコリックなせつなさをたたえた映像となって観る者に感銘をあたえるのではないだろうか。
2022年01月09日
『バック・イン・クライム 時空を超えた事件』
posted by ohashi at 09:48| 映画 タイムループ
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2022年01月08日
『エンド・オブ・ザ・フューチャー』
Narcopolis 2015 UK
監督のジャスティン・トレフガルネについては不明。ジョナサン・プライスが出演しているので、メジャー映画かと一瞬思うのだが、ジョナサン・プライスはメジャー映画にも出演するし(最後にみたのはローマ教皇の役(主演)だった)、マイナーというかインディ系というかB級映画にも出演する--そう、これはB級映画によく出演するジョナサン・プライス、つまりB級映画(プライスは仕事を選ばない主義かもしれない)。
刑事役で主演のエリオット・コーワンは、テレビドラマ『スパニッシュ・プリンセス』(2019、ちなみにこのプリンセスとは、キャサリン・オヴ・アラゴンのこと)でヘンリー七世を演じていたが、主にテレビで活躍している俳優のようだ。あとジェームズ・キャリスが悪役(黒幕のボス)で登場する――いったい誰だと思われるかもしれないが、『バトルスター・ギャラクテカ』で、いま名前が出てこないのだが、レギュラーの裏切り者で、つねに内面世界が描かれる科学者というとわかるだろうか。ここでもけれんみたっぷりの演技で見ているものを苛立たせる。
父親と息子の話で、幼い天才的な息子が、長じてから、過去へのタイムトラベルで父親を救おうとし、父親のほうは未来に行って息子を救おうとするという、ウロボロス的構造になっているのだが、またその意味はわかるのだが、からくりというか、細部の整合性が、いまひとつ私にはわからなかった。これは私の問題で、映画の問題ではないのだが、しかし、ネット上のレヴューでは、わかっている人間はいないように思われた。
ただ息子と父親のウロボロス的探求物語は、未来において安全な薬物を提供する企業の世界支配を阻止できるか否かの物語ともなる。映画の冒頭、安全な麻薬を提供する企業のトップがテレビのインタヴューを受ける。なぜそうした安全を保証された合法的麻薬を販売することになったのかという問いに、自分が幼い頃、両親が薬物依存症で死んだ。そうした悲劇を繰り返さないためにも、安全な薬物を製造販売することに決めたのだ、と。そして物語は、この企業が安全な薬物を製造販売しはじめる過去へと飛ぶ(いまからすれば、過去とはいえ近未来なのだが)。
原題Narcopolisは「麻薬都市」と訳せるのだが、polisはpoliceと似ていて、NarcopolisはNarcopolice「麻薬警察」とも読めるというか、そこにつながっている。実際、映画自体、警察権力と未着した企業が世界を制覇をたくらむのである――合法的な薬物を通して、住民を薬物依存にすぐことで。
薬物をめぐるこの無気味さは、なにか既視感があった。薬物依存を嫌う人間あるいは勢力が、国民を薬物依存に陥れる……。そうこれはナチスドイツのペルビチンと同じ話だ、と。
第一次世界大戦後のドイツのワイマール時代には危険な薬物はとくに取締り対象とならなかったのだが、ナチス・ドイツ時代になって薬物撲滅運動が起こる。ナチスドイツの負の遺産のひとつが、環境保護運動とか動物保護運動(菜食主義など)を推進したことであり、これは現在の環境保護運動に批判的な反対勢力がつとに持ち出す例としても名高い。つまり菜食主義の主張あるいは強制は、ナチスのような全体主義的施策と同じではないかと言いがかりをつける時のよい口実、実例となってしまっているのだ(もちろん、この問題をどう考えるかは、エコクリティシズムとかアニマル・スタディーズにおいても検討されているのだが、ここでは触れない)。
ナチスの薬物撲滅運動は自然浄化・現実浄化運動の一環だが、問題は、ナチスが薬物を厳しく取り締まりながら、同時に、国民に安全なもの、合法的なものとして薬物を与え、さらに自国の軍隊にもこれを投与することで、薬物兵士をつくりあげたことだ。そして総統自身、薬物依存症であった。
有名なのがペルビチンと呼ばれる覚せい剤で、これは一般市民も処方箋なしに購入できる薬であったため、安全で、合法的な薬物として一般に浸透していった。主婦もこれを服用すると元気になって、家事を元気にこなすことができるようになった。当然、ペルビチンを服用した兵士たちは、超人的な働きで、電撃戦を戦い抜くことができた。ヒトラーも、敗北の報告などで意気消沈していても、主治医テオドール・モレルが処方する薬物で元気を取り戻した……。一般市民から兵士、総統にいたるまで薬物漬けであった。薬物を取り締まる側が、結局のところ、安全な薬物と称して薬物を蔓延させた(ちなみにネット上では、ペルビチンを服用して元気になったあと、もとに戻るというようなことを書いている記事があったが、何日も一睡もせずに活動し続けたあと、薬が切れると、もとにもどるどころか、数日、死んだように眠りつづけることが報告されているようで、覚せい剤はあきらかに身体を害することになった)。
この話の元ネタは、ノーマン・オーラ―『ヒトラーとドラッグ――第三帝国における薬物依存』須藤正美訳(白水社2018)であり、CSのディスカバリーチャンネルだったかどうかうろ覚えだがナチスドイツの敗北を扱った番組で、ナチスの薬物依存を取り上げていたのも、この本の影響であろう。英語訳が2016年。ドイツ語原書が2015年刊行。そして2015年というと、この映画の製作年。この本が、映画に影響を与えたのかもしれない。たとえ影響を与えなかったとしても、2015年頃に同じ問題が意識が、映画関係者のなかで共有されていた可能性はある。くりかえすが、薬物撲滅運動を推進する側が、合法的薬物で薬物依存を蔓延させ世界を支配するという物語は、これまで聞いたことがない新機軸であるからだ。
ペルビチンという名の覚せい剤はメタンフェタミンという有機化合物から作られたものだが、このメタンフェタミンを合成したのは日本人であり、日本ではヒロポンという名で販売されていた。この覚せい剤ヒロポンは戦時下の日本でも使われ、戦後も多くの犠牲者を出した。ただ、それにしても、日本で『天皇とドラッグ――大日本帝国における薬物依存』といったような本が、たとえ確かな資料に基付いていたとしても、今の日本で、刊行できるかどうかは怪しいだろう。その意味で『ヒトラーとドラッグ――第三帝国における薬物依存』(なおこのタイトルは日本語訳で付けたもの)は刊行されたこと自体、大きな意義があったものといえよう。
監督のジャスティン・トレフガルネについては不明。ジョナサン・プライスが出演しているので、メジャー映画かと一瞬思うのだが、ジョナサン・プライスはメジャー映画にも出演するし(最後にみたのはローマ教皇の役(主演)だった)、マイナーというかインディ系というかB級映画にも出演する--そう、これはB級映画によく出演するジョナサン・プライス、つまりB級映画(プライスは仕事を選ばない主義かもしれない)。
刑事役で主演のエリオット・コーワンは、テレビドラマ『スパニッシュ・プリンセス』(2019、ちなみにこのプリンセスとは、キャサリン・オヴ・アラゴンのこと)でヘンリー七世を演じていたが、主にテレビで活躍している俳優のようだ。あとジェームズ・キャリスが悪役(黒幕のボス)で登場する――いったい誰だと思われるかもしれないが、『バトルスター・ギャラクテカ』で、いま名前が出てこないのだが、レギュラーの裏切り者で、つねに内面世界が描かれる科学者というとわかるだろうか。ここでもけれんみたっぷりの演技で見ているものを苛立たせる。
父親と息子の話で、幼い天才的な息子が、長じてから、過去へのタイムトラベルで父親を救おうとし、父親のほうは未来に行って息子を救おうとするという、ウロボロス的構造になっているのだが、またその意味はわかるのだが、からくりというか、細部の整合性が、いまひとつ私にはわからなかった。これは私の問題で、映画の問題ではないのだが、しかし、ネット上のレヴューでは、わかっている人間はいないように思われた。
ただ息子と父親のウロボロス的探求物語は、未来において安全な薬物を提供する企業の世界支配を阻止できるか否かの物語ともなる。映画の冒頭、安全な麻薬を提供する企業のトップがテレビのインタヴューを受ける。なぜそうした安全を保証された合法的麻薬を販売することになったのかという問いに、自分が幼い頃、両親が薬物依存症で死んだ。そうした悲劇を繰り返さないためにも、安全な薬物を製造販売することに決めたのだ、と。そして物語は、この企業が安全な薬物を製造販売しはじめる過去へと飛ぶ(いまからすれば、過去とはいえ近未来なのだが)。
原題Narcopolisは「麻薬都市」と訳せるのだが、polisはpoliceと似ていて、NarcopolisはNarcopolice「麻薬警察」とも読めるというか、そこにつながっている。実際、映画自体、警察権力と未着した企業が世界を制覇をたくらむのである――合法的な薬物を通して、住民を薬物依存にすぐことで。
薬物をめぐるこの無気味さは、なにか既視感があった。薬物依存を嫌う人間あるいは勢力が、国民を薬物依存に陥れる……。そうこれはナチスドイツのペルビチンと同じ話だ、と。
第一次世界大戦後のドイツのワイマール時代には危険な薬物はとくに取締り対象とならなかったのだが、ナチス・ドイツ時代になって薬物撲滅運動が起こる。ナチスドイツの負の遺産のひとつが、環境保護運動とか動物保護運動(菜食主義など)を推進したことであり、これは現在の環境保護運動に批判的な反対勢力がつとに持ち出す例としても名高い。つまり菜食主義の主張あるいは強制は、ナチスのような全体主義的施策と同じではないかと言いがかりをつける時のよい口実、実例となってしまっているのだ(もちろん、この問題をどう考えるかは、エコクリティシズムとかアニマル・スタディーズにおいても検討されているのだが、ここでは触れない)。
ナチスの薬物撲滅運動は自然浄化・現実浄化運動の一環だが、問題は、ナチスが薬物を厳しく取り締まりながら、同時に、国民に安全なもの、合法的なものとして薬物を与え、さらに自国の軍隊にもこれを投与することで、薬物兵士をつくりあげたことだ。そして総統自身、薬物依存症であった。
有名なのがペルビチンと呼ばれる覚せい剤で、これは一般市民も処方箋なしに購入できる薬であったため、安全で、合法的な薬物として一般に浸透していった。主婦もこれを服用すると元気になって、家事を元気にこなすことができるようになった。当然、ペルビチンを服用した兵士たちは、超人的な働きで、電撃戦を戦い抜くことができた。ヒトラーも、敗北の報告などで意気消沈していても、主治医テオドール・モレルが処方する薬物で元気を取り戻した……。一般市民から兵士、総統にいたるまで薬物漬けであった。薬物を取り締まる側が、結局のところ、安全な薬物と称して薬物を蔓延させた(ちなみにネット上では、ペルビチンを服用して元気になったあと、もとに戻るというようなことを書いている記事があったが、何日も一睡もせずに活動し続けたあと、薬が切れると、もとにもどるどころか、数日、死んだように眠りつづけることが報告されているようで、覚せい剤はあきらかに身体を害することになった)。
この話の元ネタは、ノーマン・オーラ―『ヒトラーとドラッグ――第三帝国における薬物依存』須藤正美訳(白水社2018)であり、CSのディスカバリーチャンネルだったかどうかうろ覚えだがナチスドイツの敗北を扱った番組で、ナチスの薬物依存を取り上げていたのも、この本の影響であろう。英語訳が2016年。ドイツ語原書が2015年刊行。そして2015年というと、この映画の製作年。この本が、映画に影響を与えたのかもしれない。たとえ影響を与えなかったとしても、2015年頃に同じ問題が意識が、映画関係者のなかで共有されていた可能性はある。くりかえすが、薬物撲滅運動を推進する側が、合法的薬物で薬物依存を蔓延させ世界を支配するという物語は、これまで聞いたことがない新機軸であるからだ。
ペルビチンという名の覚せい剤はメタンフェタミンという有機化合物から作られたものだが、このメタンフェタミンを合成したのは日本人であり、日本ではヒロポンという名で販売されていた。この覚せい剤ヒロポンは戦時下の日本でも使われ、戦後も多くの犠牲者を出した。ただ、それにしても、日本で『天皇とドラッグ――大日本帝国における薬物依存』といったような本が、たとえ確かな資料に基付いていたとしても、今の日本で、刊行できるかどうかは怪しいだろう。その意味で『ヒトラーとドラッグ――第三帝国における薬物依存』(なおこのタイトルは日本語訳で付けたもの)は刊行されたこと自体、大きな意義があったものといえよう。
posted by ohashi at 22:08| 映画 タイムループ
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2021年11月07日
『ランダム 存在の確率』
原題: Coherence 2013年アメリカ映画。88分。監督ジェームズ・ウォード・バーキット。
これはとくにタイム・ループ物の映画ではないのだが、パラレルワールドに行き、まったく同じ世界、まったく同じ自分に出会うという趣向は、タイム・ループ物に近いので、やや無理があるが、タイム・ループ映画にしてしまう。
なおアマゾン・プライムをはじめとして、いろいろなところで配信されているようなので今は簡単に視聴可能。私はDVDでみたのだが、DVDで購入する価値のある映画だと思っている。日本での、ネット上の評判はよくないのだが(海外では評判はよい)。
アメリカのSFスリラー映画と言っても、彗星が地球に接近すると不思議なことがおこる。そのなかを通ると、パラレルワールドに行ってしまう不思議な空間が地上に生まれるという設定。とくにそれ以上の科学的説明はない。
ウィキペディアによる内容紹介は以下のとおり。
あらすじの常だが、これだけで、この映画の魅力は伝えられない。まずこの映画は、同じような設定の『The Loop永遠の夏休み』も、この映画のような工夫をすればもっと面白くなったというくらい洗練されている。というのも『The Loop』と同様に、閉じ込められた8人が、自分と出逢う話である。『The Loop』のほうは、自分の死体と出逢うという衝撃的展開になるが、この映画では停電で閉じ込められた8人の男女が、自分たちのドッペルゲンガーと出逢う話である(ウィキペディアの紹介のように)。ただし、そこまでわかるのに緊迫の展開があり、状況がわかっても、さらなる展開が待っている。
ホームパーティに招かれた8人が、近くの家に、まったく同じ8人がいるらしいとわかる。彗星接近による超常現象によってパラレルワールドにいる人間が共存することになったということのようだ。しかし彗星が去ったときに、生き残るのはどちらのパラレルワールドになるかという問題が生まれる。相手の8人を出し抜き、彼らを消滅させるよう計画をねる。しかし、実はあちらの彼らのほうが先手をうっていて、あちらの人間がすでにこちらにまぎれこんでいた。ドッペルゲンガーなので区別がつかなくなる。しかし、それだけではない。さらに驚愕の事実が……。つまりいまいる8人も、実は、もとからいる8人ではなく、複数のパラレルワールドからやってきているということがわかる。
こうなると元いた世界にもどる、あるいは8人が本来の世界で、あるいは8人のいる世界が生き残れるのかという問題が、心理的な陰影を帯びることになる。そもそも、たとえもとの世界に戻れたとしても、そのもとの世界の8人も、いろいろなパラレルワールドの寄せ集めではないという保証などどこにもない。これはパラレルワールドをもちださなくても、人間社会は、エグザイルの群れであり、みんなパラレルワールドに住んでいるといえなくもない。コミュニティなど存在しない。あるのは孤独な個別的な個の寄せ集めにすぎない。あるいはエグザイルとしての私は、どうしても周囲になじめない――まるで私がパラレルワールドに紛れ込んでしまったかのように……。
彗星とパラレルワールドという設定は、私たちの社会と個人のありようの暗黒面のメタファーとなっているとすれば、そのなかで生存のための妄想的な欲望の成就もまた見出せるのである。
たとえば、主人公といえる女性(エミリー・バルドーニが演じている――とはいえ彼女については時々アメリカのテレビドラマにゲスト出演しているのをみるくらで、私個人は、よく知らない女優なのだが)は、嫉妬と疑心暗鬼、生存の不安に引き裂かれたいまいるグループに嫌気がさして家の外にでると、そこには複数のパラレルワールドから来たとおぼしき8人が暮らす家が点在している――これはタイムループ的設定を空間化したといってもいい。彼女は集団の様子をひそかにさぐり、そのなかでもっとも良好な人間関係にあると思われる集団のなかにまぎれこむ(そこにいるもうひとりの自分を殺して)。
この最後の展開は衝撃的なのだが、彼女が演劇関係者として、演出家であり女優であり、しかも有名女優のアンダースタディを要求されてプライドからそれを断り、最終的に演劇関係の職を失ったこともわかっているので、彼女のなりすまし行為は、ある意味、演出家で演技者である彼女の願望充足という面もある――事実、なりすましたあと緊張のあまり失神し、翌朝をむかえるとき、すべてが夢であったかもしれないという暗示が生まれるのである。とはいえ夢ではなかったという証拠(指輪)もでてきて、おそらくなりすました彼女に罰が下るであろうという結末が暗示されて終わる。
しかし、この映画のへんな魅力は、ミステリアスな面だけではない。8人の男女がホームパーティの場で、それぞれの過去があばかれてたり、現在のどろどろの人間関係が浮き彫りになるという展開は、彗星さえ出てこなかったら、良質の舞台劇的なビター・コメディになってもおかしくなかった。
私が思い出すのは映画館でみたイタリア映画『おとなの事情』(Perfetti sconosciuti 2016)である。「7人の男女が集まった食事会で、スマートフォンの通話やメールの履歴をさらけ出すゲームをきっかけに、夫婦や友人間にさまざまな疑惑が巻き起こっていく様を描いたワンシチュエーションコメディ」(ウィキペディア)。もちろんこの映画はヒットして、世界各国でリメイクされた。日本でも2021年テレビドラマでリメイク。実際、彗星さえ出てこなかったら、この映画は、『おとなの事情』のプロトタイプともいえる良質のコメディとなっていたかもしれないのだ。
もちろん『おとなの事情』のような複雑な人間関係がからみあう面白さは、この『ランダム』の狙いではないだろうが、それにしても男女8人のディナーでの会話、また異変が起こってからの対応などが、なにか自然で、あくどさ、わざとらしさがない(いい意味で)。こうしたミステリー・サスペンスの常で、物語の展開に沿って、ヒステリックになったり、パニックになったりを、へんに誘導的であったり、ミスリードしたり、教訓をたれたり、突然深淵な哲学を開示したりと、わざとらしさが満開となり、観ている側が辟易することはよくある。しかしこの映画では、それがない(いい意味で)。各人物の対応が、パニックになっていても冷静で、感情がたかぶっても、頑固さをつらぬいたりしないなど、とにかくわざとらしさがない。
しかも、このわざとらしさのなさは、伏線を回収する計算し尽くされた設定ならびに物語との対比から、ますます際立つのであって、演出そして演技には大いに感銘をうけた。
ただ、それもそのはずで、この映画では監督は俳優たちに台本を渡さず、その日の撮影の到達目標のようなものを書いたメモだけを渡して、あとはアドリブでの演技を要求したとのこと。なかには彗星が接近して超常現象が起こるという映画の設定すら知らなかった演者もいたという。たしかにこの映画には、計算したシナリオでは出せない、こまかな意外性と蓋然性とがにじみ出ている。それもアドリブ演技のゆえだろう(この映画のなかでエミールと呼ばれている男は、実は、共同脚本のライターでもあって、彼がまじることで、出来事や演技が脱線しすぎないように調整したとのこと)。
とにかくこの映画は、謎の状況とその解決という知的な面と、俳優たちのアドリブ演技の自然らしさと緊張感、そこにかもしだされるオーセンティックな日常性といった面で、充実した映画体験を観る者に与えてくれるのでる。
しかもメタ的要素も忘れられていない。この映画の設定では、家の周囲にある漆黒の闇の部分を通りぬけると、もといた世界から、パラレルワールドにとばされてしまうのだが、その闇の部分は、夜の戸外の場面は全体に暗いから、よくわからない。しかし観客は漆黒の闇には最初から遭遇している。
映画は、小刻みに暗転を繰り返す。とりわけ最初の方は。これはフェードアウトとはちがい、一定の時間場面が展開したあと、暗転となり、次の場面へとつづく。暗転すると、その間、時間が経過し、なにかが変化したという印象をうけるが、暗転前と暗転後で、ほとんど時間差がないような場面も多い。そう、この種の暗転は、その前と後で時間が経過する、あるいは何かが変化するように思えてならないのだ。たとえば舞台なら、長い暗転は、舞台の模様替えである。そしてこれが一般的なので、短い、一瞬暗くなるだけでも、なにか変化が起こったのではないかと錯覚する。そして、なにも変化が起こっていないと……。
――実は、これがこの映画の深いたくらみである。つまり連続したシークエンスを、何度も暗転で区切ると、実際には何の変化がないのに、何か変化が起こったように思えてしまう。そしてこの映画の設定では、確かに起こるのだ。
男女八人が、気が付くと、ほぼ全員、別のパラレルワールドからやってきた人間に入れ替わっている。どこでそんなことが思うのだが、それは、この小刻みな暗転とともに起こっていたのだ。断片と断片のあいだに連続性はないのだが、それが連続しているかに思えてしまう(映画は、連続を断片化することによって、連続ではないようにみせてしまう)。そしてその変化は、暗転の前後でおこる。暗転――漆黒の闇。映画のなかで語られるパラレルワールドへはじきとばし、またパラレルワールドを招きよせる闇は、映画の暗転それ自体のメタファーにもなっている。デジタル撮影の現在では想像もつかないかもしれないが、フィルム映画というのは、黒い境界帯で区切られた静止画を、映像の断片を、高速でつなぎ合わせることで、動画にするものだった。暗黒帯が、断片をつなぐ。
私たちの世界は映画のように出来ている。断片の寄せ集めなのに、それが連続している時空体であるかのように錯覚している。私たちの人生もまたしかり。私たちの共同体もまたししかり。
IMDbでは、映画のなかで、こめかみのあたりを切ったヒューは、傷口に絆創膏をあてられ手当てされるのだが、その絆創膏が、それ以後の場面で、あったりなかったりすることをGoof(失策)として指摘している。たぶん、そうだろう。細切れに撮影するために、絆創膏の存在をうっかり忘れてしまうということか。
しかし、この映画の設定では、絆創膏があったりなかったりすることで、それが別人であることを暗示している。実際、映画のなかでも、絆創膏の種類が違うと指摘されてもいるのだ。だから、貼った絆創膏があったり、なかったりすることは、失策であると同時に、映画のなかでは、なりすまし、すりかわり、パラレルワールドの交錯の証左となるのである。映画の傷口は治療されたり放置されたりしながら断片性と全体性(お望みなら映画の原タイトルをつかってCoherence首尾一貫性)の点滅を、どこまでも光と闇の交替と点滅をやめることはないのである。
これはとくにタイム・ループ物の映画ではないのだが、パラレルワールドに行き、まったく同じ世界、まったく同じ自分に出会うという趣向は、タイム・ループ物に近いので、やや無理があるが、タイム・ループ映画にしてしまう。
なおアマゾン・プライムをはじめとして、いろいろなところで配信されているようなので今は簡単に視聴可能。私はDVDでみたのだが、DVDで購入する価値のある映画だと思っている。日本での、ネット上の評判はよくないのだが(海外では評判はよい)。
アメリカのSFスリラー映画と言っても、彗星が地球に接近すると不思議なことがおこる。そのなかを通ると、パラレルワールドに行ってしまう不思議な空間が地上に生まれるという設定。とくにそれ以上の科学的説明はない。
ウィキペディアによる内容紹介は以下のとおり。
あらすじ
ミラー彗星が地球に最も接近する日、エムは恋人のケヴィンと伴に、友人リーとマイクのホームパーティーに訪れる。ワインと料理を囲み、久々に集まった男女8人は、彗星にまつわる奇妙な出来事の話題で盛り上がる。すると突然、停電で部屋が真っ暗になり、パニックになる8人。不安に思ったエムたちは、隣家の様子を見に行くことに。しかし、エムたちが目撃したのは、まったく同じ家に住む、まったく同じ自分たち。さらには、家の前に置かれた謎のアイテムと、自分たちの写真。次々に起こる不可解な現象に戸惑う8人。彼らは徐々に互いに疑心暗鬼になり始め、やがて別世界の自分たちが、同じ空間に同時に存在するという驚愕の事実を目の当たりにする。
あらすじの常だが、これだけで、この映画の魅力は伝えられない。まずこの映画は、同じような設定の『The Loop永遠の夏休み』も、この映画のような工夫をすればもっと面白くなったというくらい洗練されている。というのも『The Loop』と同様に、閉じ込められた8人が、自分と出逢う話である。『The Loop』のほうは、自分の死体と出逢うという衝撃的展開になるが、この映画では停電で閉じ込められた8人の男女が、自分たちのドッペルゲンガーと出逢う話である(ウィキペディアの紹介のように)。ただし、そこまでわかるのに緊迫の展開があり、状況がわかっても、さらなる展開が待っている。
ホームパーティに招かれた8人が、近くの家に、まったく同じ8人がいるらしいとわかる。彗星接近による超常現象によってパラレルワールドにいる人間が共存することになったということのようだ。しかし彗星が去ったときに、生き残るのはどちらのパラレルワールドになるかという問題が生まれる。相手の8人を出し抜き、彼らを消滅させるよう計画をねる。しかし、実はあちらの彼らのほうが先手をうっていて、あちらの人間がすでにこちらにまぎれこんでいた。ドッペルゲンガーなので区別がつかなくなる。しかし、それだけではない。さらに驚愕の事実が……。つまりいまいる8人も、実は、もとからいる8人ではなく、複数のパラレルワールドからやってきているということがわかる。
こうなると元いた世界にもどる、あるいは8人が本来の世界で、あるいは8人のいる世界が生き残れるのかという問題が、心理的な陰影を帯びることになる。そもそも、たとえもとの世界に戻れたとしても、そのもとの世界の8人も、いろいろなパラレルワールドの寄せ集めではないという保証などどこにもない。これはパラレルワールドをもちださなくても、人間社会は、エグザイルの群れであり、みんなパラレルワールドに住んでいるといえなくもない。コミュニティなど存在しない。あるのは孤独な個別的な個の寄せ集めにすぎない。あるいはエグザイルとしての私は、どうしても周囲になじめない――まるで私がパラレルワールドに紛れ込んでしまったかのように……。
彗星とパラレルワールドという設定は、私たちの社会と個人のありようの暗黒面のメタファーとなっているとすれば、そのなかで生存のための妄想的な欲望の成就もまた見出せるのである。
たとえば、主人公といえる女性(エミリー・バルドーニが演じている――とはいえ彼女については時々アメリカのテレビドラマにゲスト出演しているのをみるくらで、私個人は、よく知らない女優なのだが)は、嫉妬と疑心暗鬼、生存の不安に引き裂かれたいまいるグループに嫌気がさして家の外にでると、そこには複数のパラレルワールドから来たとおぼしき8人が暮らす家が点在している――これはタイムループ的設定を空間化したといってもいい。彼女は集団の様子をひそかにさぐり、そのなかでもっとも良好な人間関係にあると思われる集団のなかにまぎれこむ(そこにいるもうひとりの自分を殺して)。
この最後の展開は衝撃的なのだが、彼女が演劇関係者として、演出家であり女優であり、しかも有名女優のアンダースタディを要求されてプライドからそれを断り、最終的に演劇関係の職を失ったこともわかっているので、彼女のなりすまし行為は、ある意味、演出家で演技者である彼女の願望充足という面もある――事実、なりすましたあと緊張のあまり失神し、翌朝をむかえるとき、すべてが夢であったかもしれないという暗示が生まれるのである。とはいえ夢ではなかったという証拠(指輪)もでてきて、おそらくなりすました彼女に罰が下るであろうという結末が暗示されて終わる。
しかし、この映画のへんな魅力は、ミステリアスな面だけではない。8人の男女がホームパーティの場で、それぞれの過去があばかれてたり、現在のどろどろの人間関係が浮き彫りになるという展開は、彗星さえ出てこなかったら、良質の舞台劇的なビター・コメディになってもおかしくなかった。
私が思い出すのは映画館でみたイタリア映画『おとなの事情』(Perfetti sconosciuti 2016)である。「7人の男女が集まった食事会で、スマートフォンの通話やメールの履歴をさらけ出すゲームをきっかけに、夫婦や友人間にさまざまな疑惑が巻き起こっていく様を描いたワンシチュエーションコメディ」(ウィキペディア)。もちろんこの映画はヒットして、世界各国でリメイクされた。日本でも2021年テレビドラマでリメイク。実際、彗星さえ出てこなかったら、この映画は、『おとなの事情』のプロトタイプともいえる良質のコメディとなっていたかもしれないのだ。
もちろん『おとなの事情』のような複雑な人間関係がからみあう面白さは、この『ランダム』の狙いではないだろうが、それにしても男女8人のディナーでの会話、また異変が起こってからの対応などが、なにか自然で、あくどさ、わざとらしさがない(いい意味で)。こうしたミステリー・サスペンスの常で、物語の展開に沿って、ヒステリックになったり、パニックになったりを、へんに誘導的であったり、ミスリードしたり、教訓をたれたり、突然深淵な哲学を開示したりと、わざとらしさが満開となり、観ている側が辟易することはよくある。しかしこの映画では、それがない(いい意味で)。各人物の対応が、パニックになっていても冷静で、感情がたかぶっても、頑固さをつらぬいたりしないなど、とにかくわざとらしさがない。
しかも、このわざとらしさのなさは、伏線を回収する計算し尽くされた設定ならびに物語との対比から、ますます際立つのであって、演出そして演技には大いに感銘をうけた。
ただ、それもそのはずで、この映画では監督は俳優たちに台本を渡さず、その日の撮影の到達目標のようなものを書いたメモだけを渡して、あとはアドリブでの演技を要求したとのこと。なかには彗星が接近して超常現象が起こるという映画の設定すら知らなかった演者もいたという。たしかにこの映画には、計算したシナリオでは出せない、こまかな意外性と蓋然性とがにじみ出ている。それもアドリブ演技のゆえだろう(この映画のなかでエミールと呼ばれている男は、実は、共同脚本のライターでもあって、彼がまじることで、出来事や演技が脱線しすぎないように調整したとのこと)。
とにかくこの映画は、謎の状況とその解決という知的な面と、俳優たちのアドリブ演技の自然らしさと緊張感、そこにかもしだされるオーセンティックな日常性といった面で、充実した映画体験を観る者に与えてくれるのでる。
しかもメタ的要素も忘れられていない。この映画の設定では、家の周囲にある漆黒の闇の部分を通りぬけると、もといた世界から、パラレルワールドにとばされてしまうのだが、その闇の部分は、夜の戸外の場面は全体に暗いから、よくわからない。しかし観客は漆黒の闇には最初から遭遇している。
映画は、小刻みに暗転を繰り返す。とりわけ最初の方は。これはフェードアウトとはちがい、一定の時間場面が展開したあと、暗転となり、次の場面へとつづく。暗転すると、その間、時間が経過し、なにかが変化したという印象をうけるが、暗転前と暗転後で、ほとんど時間差がないような場面も多い。そう、この種の暗転は、その前と後で時間が経過する、あるいは何かが変化するように思えてならないのだ。たとえば舞台なら、長い暗転は、舞台の模様替えである。そしてこれが一般的なので、短い、一瞬暗くなるだけでも、なにか変化が起こったのではないかと錯覚する。そして、なにも変化が起こっていないと……。
――実は、これがこの映画の深いたくらみである。つまり連続したシークエンスを、何度も暗転で区切ると、実際には何の変化がないのに、何か変化が起こったように思えてしまう。そしてこの映画の設定では、確かに起こるのだ。
男女八人が、気が付くと、ほぼ全員、別のパラレルワールドからやってきた人間に入れ替わっている。どこでそんなことが思うのだが、それは、この小刻みな暗転とともに起こっていたのだ。断片と断片のあいだに連続性はないのだが、それが連続しているかに思えてしまう(映画は、連続を断片化することによって、連続ではないようにみせてしまう)。そしてその変化は、暗転の前後でおこる。暗転――漆黒の闇。映画のなかで語られるパラレルワールドへはじきとばし、またパラレルワールドを招きよせる闇は、映画の暗転それ自体のメタファーにもなっている。デジタル撮影の現在では想像もつかないかもしれないが、フィルム映画というのは、黒い境界帯で区切られた静止画を、映像の断片を、高速でつなぎ合わせることで、動画にするものだった。暗黒帯が、断片をつなぐ。
私たちの世界は映画のように出来ている。断片の寄せ集めなのに、それが連続している時空体であるかのように錯覚している。私たちの人生もまたしかり。私たちの共同体もまたししかり。
IMDbでは、映画のなかで、こめかみのあたりを切ったヒューは、傷口に絆創膏をあてられ手当てされるのだが、その絆創膏が、それ以後の場面で、あったりなかったりすることをGoof(失策)として指摘している。たぶん、そうだろう。細切れに撮影するために、絆創膏の存在をうっかり忘れてしまうということか。
しかし、この映画の設定では、絆創膏があったりなかったりすることで、それが別人であることを暗示している。実際、映画のなかでも、絆創膏の種類が違うと指摘されてもいるのだ。だから、貼った絆創膏があったり、なかったりすることは、失策であると同時に、映画のなかでは、なりすまし、すりかわり、パラレルワールドの交錯の証左となるのである。映画の傷口は治療されたり放置されたりしながら断片性と全体性(お望みなら映画の原タイトルをつかってCoherence首尾一貫性)の点滅を、どこまでも光と闇の交替と点滅をやめることはないのである。
posted by ohashi at 02:52| 映画 タイムループ
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2021年11月03日
『The Loop 永遠の夏休み』
原題 Mine Games 監督リチャード・グレイ。1時間32分。2012年アメリカ映画。
おそらくこの映画も、誰もがみたくてたまらない映画ではないと思うので、ネタバレを気にせずに書いてもいいようなものだが、まあ、それはしない。
タイム・ループ映画である。『永遠の夏休み』などという日本語のタイトルがついているので、これはタイム・ループ映画の古典的傑作アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督1984)が、そうであるような、楽しい時間(たとえば夏休み)がリピートされる、どちらかというと明るい映画かと思ったら、まったく違うので、観る人(そんなにいないと思うが)は要注意。
原題はMine Games。訳せば鉱山ゲームあるいは坑道ゲーム(ただし、それ以外の意味もある)。7人の若者が避暑にやってくる森と湖に囲まれたロッジ(キャビン?)の近くに廃坑になった鉱山の入口をみつけ、その坑道を探険していくうちに恐怖の事件に巻き込まれていくというもの。
最初、この映画は、怖がらせるものの、惨劇にいたる寸前で終わるか、惨劇を回避して終わる。まあ、寸止めの映画かと思った。そう思ったのは、けっこう寸止めはつづくこともあるが、登場する7人の若者たちの、精神年齢がまるで小学生のような言動に対するイライラ感ともつながっている。この小学生のような若者たちだからこそホラーになるともいえるのだが、同時に、この小学生たちにはホラーは似合わないともいえるので。とまれ、最終的には、約束の惨劇になりホラー映画となる。
ただし同じ2012年にアメリカで公開された『キャビン』(The Cabin in the Woods――ちなみにこのタイトルはまた、この映画『永遠の夏休み』のほうにもあてはまる)にみられたような、最初ホラー映画のパロディ/パスティーシュかと観客を誘導しながら、気付くとジャンルがSF化していて、最後に人類滅亡にいたるというようなとんでもない展開は、この映画にはない。
この映画がタイム・ループ映画といえるのは、彼ら七人が巻き込まれる惨劇が、すでに起こっているからである。彼らのうち三人は坑道のなかに自分の死体を発見する。また最後に登場人物の二人は、このロッジにやってくる自分たちの車をみる。すでに起こった事件を、自分たちが反復することになり、さらに次の自分たちも到着する……。
これはループ物の映画『トライアングル』(英・オーストラリア映画2009)と同じような設定である。つまり殺されてリセットされてもう一度同じ日とか同じ事件を繰り返すのではなく、同じ事件が不条理なまでに反復されていくのであり、そこで人は、前の事件で殺された自分と、これから殺されに来る未来の自分とに出会うことになる。
ただ『トライアングル』風のタイム・リープでは、これまで殺された人びとというか、同じ人物の死体がやまのように放置されるのだが(『トライアングル』の見どころのひとつ)、この映画では、放置される死体は、それぞれ一体なので、事件は二度目であることが暗示される。延々と起こっているわけではない。一見、n番目の事件であるように思われるのだが、だったら死体が山のように積み重なっているはずで、また監禁されて出られなくなった同一人物も山のようにいるはずなのだが、それはない。しかも映画の最後になくてもいい場面をひとつ付け加えたために、この事件は次回で終わるという暗示もある――というか次回は起こらないという暗示もある。
SF映画『グラビディ 繰り返される宇宙』(2018)では、宇宙に時空間が変調をきたしている領域があり、そこに紛れ込むと永遠に同じ惨劇を繰り返すという設定なのだが(遠い未来のSFなので、そんなものかと納得してしまうのが不思議なところ)、ワシントン州南部のギフォード・ピンチョット国立森林公園でのロケで、廃坑が貧弱すぎて、超自然現象が発生するとか異世界に通じているという雰囲気が希薄なような気もして、なぜ同じ事件が反復されるのか、なっとくできないまま終わる。細部は丁寧に作り込まれ、伏線も回収されるので惜しい気がする。
なお、この映画は、昼間の光景は明るく緑が目に染みるくらいの大自然感が横溢しているのだが、夜の戸外とか、坑道の中の場面は、暗すぎて、ほんとうに暗すぎて、よく見えない。予告編では、もう少し明るくして暗くて見えに部分をなくしているのだが。これは多くのレヴューアーが指摘する映画の欠点である。
ただ、こんなふうに書いてしまうと誰もこの映画を観なくなる可能性があるのだが、しかし、今見ると見どころはある。イーサン・ペックが出演しているのである。その低い声は2012年も健在だった。イーサン・ペックって誰かと思うかもしれないが、『スタートレック:ディスカバリー』シーズン2で若きスポックを演じたといえば、わかるだろうか。たぶん彼の深く低い声でスポック役に選ばれたのではないかと思う。また、さらにいえば、イーサン・ペックは、グレゴリー・ペックの孫としても有名である
おそらくこの映画も、誰もがみたくてたまらない映画ではないと思うので、ネタバレを気にせずに書いてもいいようなものだが、まあ、それはしない。
タイム・ループ映画である。『永遠の夏休み』などという日本語のタイトルがついているので、これはタイム・ループ映画の古典的傑作アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督1984)が、そうであるような、楽しい時間(たとえば夏休み)がリピートされる、どちらかというと明るい映画かと思ったら、まったく違うので、観る人(そんなにいないと思うが)は要注意。
原題はMine Games。訳せば鉱山ゲームあるいは坑道ゲーム(ただし、それ以外の意味もある)。7人の若者が避暑にやってくる森と湖に囲まれたロッジ(キャビン?)の近くに廃坑になった鉱山の入口をみつけ、その坑道を探険していくうちに恐怖の事件に巻き込まれていくというもの。
最初、この映画は、怖がらせるものの、惨劇にいたる寸前で終わるか、惨劇を回避して終わる。まあ、寸止めの映画かと思った。そう思ったのは、けっこう寸止めはつづくこともあるが、登場する7人の若者たちの、精神年齢がまるで小学生のような言動に対するイライラ感ともつながっている。この小学生のような若者たちだからこそホラーになるともいえるのだが、同時に、この小学生たちにはホラーは似合わないともいえるので。とまれ、最終的には、約束の惨劇になりホラー映画となる。
ただし同じ2012年にアメリカで公開された『キャビン』(The Cabin in the Woods――ちなみにこのタイトルはまた、この映画『永遠の夏休み』のほうにもあてはまる)にみられたような、最初ホラー映画のパロディ/パスティーシュかと観客を誘導しながら、気付くとジャンルがSF化していて、最後に人類滅亡にいたるというようなとんでもない展開は、この映画にはない。
この映画がタイム・ループ映画といえるのは、彼ら七人が巻き込まれる惨劇が、すでに起こっているからである。彼らのうち三人は坑道のなかに自分の死体を発見する。また最後に登場人物の二人は、このロッジにやってくる自分たちの車をみる。すでに起こった事件を、自分たちが反復することになり、さらに次の自分たちも到着する……。
これはループ物の映画『トライアングル』(英・オーストラリア映画2009)と同じような設定である。つまり殺されてリセットされてもう一度同じ日とか同じ事件を繰り返すのではなく、同じ事件が不条理なまでに反復されていくのであり、そこで人は、前の事件で殺された自分と、これから殺されに来る未来の自分とに出会うことになる。
ただ『トライアングル』風のタイム・リープでは、これまで殺された人びとというか、同じ人物の死体がやまのように放置されるのだが(『トライアングル』の見どころのひとつ)、この映画では、放置される死体は、それぞれ一体なので、事件は二度目であることが暗示される。延々と起こっているわけではない。一見、n番目の事件であるように思われるのだが、だったら死体が山のように積み重なっているはずで、また監禁されて出られなくなった同一人物も山のようにいるはずなのだが、それはない。しかも映画の最後になくてもいい場面をひとつ付け加えたために、この事件は次回で終わるという暗示もある――というか次回は起こらないという暗示もある。
SF映画『グラビディ 繰り返される宇宙』(2018)では、宇宙に時空間が変調をきたしている領域があり、そこに紛れ込むと永遠に同じ惨劇を繰り返すという設定なのだが(遠い未来のSFなので、そんなものかと納得してしまうのが不思議なところ)、ワシントン州南部のギフォード・ピンチョット国立森林公園でのロケで、廃坑が貧弱すぎて、超自然現象が発生するとか異世界に通じているという雰囲気が希薄なような気もして、なぜ同じ事件が反復されるのか、なっとくできないまま終わる。細部は丁寧に作り込まれ、伏線も回収されるので惜しい気がする。
なお、この映画は、昼間の光景は明るく緑が目に染みるくらいの大自然感が横溢しているのだが、夜の戸外とか、坑道の中の場面は、暗すぎて、ほんとうに暗すぎて、よく見えない。予告編では、もう少し明るくして暗くて見えに部分をなくしているのだが。これは多くのレヴューアーが指摘する映画の欠点である。
ただ、こんなふうに書いてしまうと誰もこの映画を観なくなる可能性があるのだが、しかし、今見ると見どころはある。イーサン・ペックが出演しているのである。その低い声は2012年も健在だった。イーサン・ペックって誰かと思うかもしれないが、『スタートレック:ディスカバリー』シーズン2で若きスポックを演じたといえば、わかるだろうか。たぶん彼の深く低い声でスポック役に選ばれたのではないかと思う。また、さらにいえば、イーサン・ペックは、グレゴリー・ペックの孫としても有名である
posted by ohashi at 18:32| 映画 タイムループ
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2021年11月02日
『リピーターズ』
原題Repeaters 2010年カナダ映画。1時間。
映画『ハッピー・デス・デイ2U』のなかで、もっとも印象的なシーンといえるのは、殺されても死んでも同じ日の朝に目覚めることを知った主人公の女性が、死と戯れるなかで、スカイダイビングするところである。グループでのスカイダイビングで、つぎつぎと飛行機から飛び出すメンバーのなかで最後に彼女はパラシュートなどの装備品を付けず、インストラクターが驚くなかドレス姿で優雅に空中に飛び出す。地上では彼女のボーイフレンドが女性とデート中で、ふたりが座るベンチの前に、彼女がまるで嫌がらせをするかのように落下してきてきて、ぺしゃんこになる。彼女が肉の塊と化す瞬間にほとばしる血がベンチのふたりにかかる(彼女の死体は映されることはない)。と、次の瞬間、彼女は同じ日の朝に目覚めている(夢ではなく無限にループしているのである)。
なにをしても死ぬことはないなら、死と戯れるしかない。いや、自分の死と戯れるのなら、まだ罪はない。さらに……。
ループ物の映画なり物語のもつ、背徳的な可能性は2010年のカナダ映画『リピーターズ』で追究される。
薬物依存症の厚生施設でくらす者たちが、外出許可をもらい、それぞれ家族のもとに会いにいく。施設長が、薬物依存で迷惑をかけた家族に謝罪してくるようにという課題を彼らに課したからである。主人公のカイルは、母校でもあり妹も通う高校の外で妹に話かけるが、すげなくあしらわれる。見回りの教員(Wikipediaのあらすじでは校長となっている)には追い払われる。カイルと仲のよいソニアは、病気療養中の父親の病院を訪れるが、父親との過去の因縁があって面会を躊躇して会わないまま帰ってくる。二人の友人マイケルは収監中の父親に面会にいくが、おまえのせいで刑務所に入ったのだと父親に罵倒され帰ってくる。その日のグループセラピーで近親者への謝罪の経験を話すように言われた三人は、最悪の結果を話すのを拒否する。その夜、嵐が到来。停電になるが、そのとき三人は感電して一時的に意識を失う。意識をとりもどすと翌朝になっているが、その日は、前と同じ日だった。こうして三人だけが、毎日、同じ水曜日を経験するというループに入る。
彼ら三人(カイル、ソニア、マイケル)は、同じ水曜日を繰り返していること、しかも死んでもまたすべてリセットされ同じ水曜日を生きることを発見する。
通常のループ物なら、このループから脱け出すようにあがく。とはいえなぜ三人だけがループするのか理由がわからない。韓国映画『エンドレス』では、娘の交通事故死を防ぐという必死の思いの行動が繰り返されるが、このカナダ映画の三人は、この水曜日をどう生きるのかヴィジョンはない。最初の最悪の外出日を繰り返すか、そうしないかのいずれかでしかなく。そうしない場合、何をするのかわからない。ミッションがない。場所がミッション・シティ(Mission City)なのに。
【ちなみに「ミッション・シティ」という地名は、ちょっとあざといくらいに寓意的な意味をこめようとした結果つくられた地名にちがいないと映画の最後まで信じていたが、カナダに実在する市であることを知った。ロケもそこでおこなわれた。ただし、寓意的に意味がこめられていることはまちがいないだろう。】
そのため、同じ水曜日をどうすごすのか、これまでのループ物にない可能性があらわれる。マイケルが提案するように、何をしても許される、そしてたとえ殺されても、また同じ日の朝に目覚めるのなら、好き放題のことができる。強盗、窃盗、レイプ、殺人と、悪の限りをつくしても、すべて一日が終わればリセットされる。こう提案し、実行するマイケルに同調してカイルとソニアも無軌道な犯罪行為に参加する(それはまた彼らが施設に来る前の違法行為や犯罪的行動を暗示もしている)。
しかし、カイルもソニアも、これをやめる。ひとつは犯罪行為を続けても同じ水曜日がリセットされるならいいが、もしループが終わり木曜日になったら、彼らは木曜日には重犯罪者となって警察に追われ処罰されるだろう。またもちろんふたりは、このループが終わり、このループから脱け出せることを願っている。マイケルのようにループが永遠に続き、毎日犯罪をつづけられることを願っているわけではない。ちなみにマイケルの暴走ぶりというかその違法行為のエスカレートぶりは実は面白い。また彼の暴走がないと出口のみえないループに対して観客は退屈しかねいない。
最終的にループから解放される鍵は、彼ら自身にあった。ちなみに彼らは映画のなかで全部で9回ループする。鍵は、どこか外部にあって、それをみつけだせばいいということにはならず、彼らの内部にあった。彼らが、みずからの目的を成就したことで、ミッションが完了したことになり、木曜日が、明日がやってくる――ミッションがなんであったかも、それでわかる。
だが、それまでのあいだ、ループを繰り返す彼らは、まさに出口なき、そして文字通り明日なき日常を生きることになる。ここがこの映画のオリジナリティであろう。つまりループするなら(すべてリセットされるなら)、何をしても許される(つまり悪も許される)という可能性である。ループ物にあるリセット可能性が悪事を可能にしてしまうとうことである。そしてまたループから脱け出せないことの閉塞感が、厚生施設に収容されている元犯罪者たちの明日なき日常と重ね合わせられる。『ハッピー・デス・デイ』が回避しているこうした可能性を、この映画は最大限生かし、前科者、元受刑者、犯罪者の家族らが直面する苦しい出口なき世界をみごとに表象している。
映画のひとつの使命は、メランコリックな心象風景の創出であるとするなら(私の個人的な意見だが、しかし、同様な意見は珍しくはないので、個人的ということすらほんとうは恥ずかしい)、この映画はみごとにそのミッションを果たしているといえる。
【ネタバレ Warning:Spoiler とはいえこの映画(私は監督も俳優も誰も知らない――唯一知っていてもおかしくないのはカイルの妹役の女優だが、この映画では端役にすぎない)をどんなことをしても観てみたいという人はそんなに多くない、ひょっとしたら一人もいないかもしれないので、ネタバレは関係ないかもしれないが--最後にループから脱け出せるのはカイルとソニアの二人だけある。悪の限りを尽くしたマイケルは、この最後のループのなかで死んでしまうので、再び同じ水曜日に目覚めることになる(これが映画の最後の場面)。悪の限りをつくしたマイケルは、父親に謝罪し和解する機会はなかった。彼がそのミッションを完遂できるまで、マイケルにとってのループは続くのある。】
映画『ハッピー・デス・デイ2U』のなかで、もっとも印象的なシーンといえるのは、殺されても死んでも同じ日の朝に目覚めることを知った主人公の女性が、死と戯れるなかで、スカイダイビングするところである。グループでのスカイダイビングで、つぎつぎと飛行機から飛び出すメンバーのなかで最後に彼女はパラシュートなどの装備品を付けず、インストラクターが驚くなかドレス姿で優雅に空中に飛び出す。地上では彼女のボーイフレンドが女性とデート中で、ふたりが座るベンチの前に、彼女がまるで嫌がらせをするかのように落下してきてきて、ぺしゃんこになる。彼女が肉の塊と化す瞬間にほとばしる血がベンチのふたりにかかる(彼女の死体は映されることはない)。と、次の瞬間、彼女は同じ日の朝に目覚めている(夢ではなく無限にループしているのである)。
なにをしても死ぬことはないなら、死と戯れるしかない。いや、自分の死と戯れるのなら、まだ罪はない。さらに……。
ループ物の映画なり物語のもつ、背徳的な可能性は2010年のカナダ映画『リピーターズ』で追究される。
薬物依存症の厚生施設でくらす者たちが、外出許可をもらい、それぞれ家族のもとに会いにいく。施設長が、薬物依存で迷惑をかけた家族に謝罪してくるようにという課題を彼らに課したからである。主人公のカイルは、母校でもあり妹も通う高校の外で妹に話かけるが、すげなくあしらわれる。見回りの教員(Wikipediaのあらすじでは校長となっている)には追い払われる。カイルと仲のよいソニアは、病気療養中の父親の病院を訪れるが、父親との過去の因縁があって面会を躊躇して会わないまま帰ってくる。二人の友人マイケルは収監中の父親に面会にいくが、おまえのせいで刑務所に入ったのだと父親に罵倒され帰ってくる。その日のグループセラピーで近親者への謝罪の経験を話すように言われた三人は、最悪の結果を話すのを拒否する。その夜、嵐が到来。停電になるが、そのとき三人は感電して一時的に意識を失う。意識をとりもどすと翌朝になっているが、その日は、前と同じ日だった。こうして三人だけが、毎日、同じ水曜日を経験するというループに入る。
彼ら三人(カイル、ソニア、マイケル)は、同じ水曜日を繰り返していること、しかも死んでもまたすべてリセットされ同じ水曜日を生きることを発見する。
通常のループ物なら、このループから脱け出すようにあがく。とはいえなぜ三人だけがループするのか理由がわからない。韓国映画『エンドレス』では、娘の交通事故死を防ぐという必死の思いの行動が繰り返されるが、このカナダ映画の三人は、この水曜日をどう生きるのかヴィジョンはない。最初の最悪の外出日を繰り返すか、そうしないかのいずれかでしかなく。そうしない場合、何をするのかわからない。ミッションがない。場所がミッション・シティ(Mission City)なのに。
【ちなみに「ミッション・シティ」という地名は、ちょっとあざといくらいに寓意的な意味をこめようとした結果つくられた地名にちがいないと映画の最後まで信じていたが、カナダに実在する市であることを知った。ロケもそこでおこなわれた。ただし、寓意的に意味がこめられていることはまちがいないだろう。】
そのため、同じ水曜日をどうすごすのか、これまでのループ物にない可能性があらわれる。マイケルが提案するように、何をしても許される、そしてたとえ殺されても、また同じ日の朝に目覚めるのなら、好き放題のことができる。強盗、窃盗、レイプ、殺人と、悪の限りをつくしても、すべて一日が終わればリセットされる。こう提案し、実行するマイケルに同調してカイルとソニアも無軌道な犯罪行為に参加する(それはまた彼らが施設に来る前の違法行為や犯罪的行動を暗示もしている)。
しかし、カイルもソニアも、これをやめる。ひとつは犯罪行為を続けても同じ水曜日がリセットされるならいいが、もしループが終わり木曜日になったら、彼らは木曜日には重犯罪者となって警察に追われ処罰されるだろう。またもちろんふたりは、このループが終わり、このループから脱け出せることを願っている。マイケルのようにループが永遠に続き、毎日犯罪をつづけられることを願っているわけではない。ちなみにマイケルの暴走ぶりというかその違法行為のエスカレートぶりは実は面白い。また彼の暴走がないと出口のみえないループに対して観客は退屈しかねいない。
最終的にループから解放される鍵は、彼ら自身にあった。ちなみに彼らは映画のなかで全部で9回ループする。鍵は、どこか外部にあって、それをみつけだせばいいということにはならず、彼らの内部にあった。彼らが、みずからの目的を成就したことで、ミッションが完了したことになり、木曜日が、明日がやってくる――ミッションがなんであったかも、それでわかる。
だが、それまでのあいだ、ループを繰り返す彼らは、まさに出口なき、そして文字通り明日なき日常を生きることになる。ここがこの映画のオリジナリティであろう。つまりループするなら(すべてリセットされるなら)、何をしても許される(つまり悪も許される)という可能性である。ループ物にあるリセット可能性が悪事を可能にしてしまうとうことである。そしてまたループから脱け出せないことの閉塞感が、厚生施設に収容されている元犯罪者たちの明日なき日常と重ね合わせられる。『ハッピー・デス・デイ』が回避しているこうした可能性を、この映画は最大限生かし、前科者、元受刑者、犯罪者の家族らが直面する苦しい出口なき世界をみごとに表象している。
映画のひとつの使命は、メランコリックな心象風景の創出であるとするなら(私の個人的な意見だが、しかし、同様な意見は珍しくはないので、個人的ということすらほんとうは恥ずかしい)、この映画はみごとにそのミッションを果たしているといえる。
【ネタバレ Warning:Spoiler とはいえこの映画(私は監督も俳優も誰も知らない――唯一知っていてもおかしくないのはカイルの妹役の女優だが、この映画では端役にすぎない)をどんなことをしても観てみたいという人はそんなに多くない、ひょっとしたら一人もいないかもしれないので、ネタバレは関係ないかもしれないが--最後にループから脱け出せるのはカイルとソニアの二人だけある。悪の限りを尽くしたマイケルは、この最後のループのなかで死んでしまうので、再び同じ水曜日に目覚めることになる(これが映画の最後の場面)。悪の限りをつくしたマイケルは、父親に謝罪し和解する機会はなかった。彼がそのミッションを完遂できるまで、マイケルにとってのループは続くのある。】
posted by ohashi at 19:06| 映画 タイムループ
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2021年10月31日
『リセット 決死のカウントダウン』
原題 Reset 2017年中国映画。中国語の原題は読めず。
監督チャン(チャンChangは別名、本名Yoo Hong-seung) 105分
タイム・リープが、タイム・ループにもなっている中国のSF映画。
詳しい内容は英語版Wikipediaに丁寧に書かれている。こうしたタイム・リープ物を考え語る際に、未来と過去の人物、あるいはパラレルワールドの人物が登場することが多いので、私自身、番号をつけて、X1とX2と区別して語るのだが、同じことは、このWikipediaの内容記述にもあてはまる。まあ、考えることは誰でも同じというべきか。
映画.COMの内容紹介――
なおこの映画を語る前に、映画.COMにあった否定的コメントを否定しておく。
はっきりいって洗練されたエンターテインメント映画だと思う。子どもが殺されるから、子どもを救うために母親が必死になるのであって(最終的に子どもは救われる)、子どもの死がなければ物語が始まらない。そもそも現実において平時において他国よりも子供を平気で殺している日本人がこんなことを書くことはおかしい。
また中国映画といっているが、たしかに言語はマンダリンだが、プロデュースはジャッキー・チェン(香港出身)で、主役のヤン・ミーの元夫は香港のスターで、ヤン・ミー自身いまも香港とのつながりがあるようだし、さらにいえば映画監督のチャンは韓国の映画監督――ミュージックビデオ出身の監督の映像は、きわめて洗練されたカメラアングルを誇るものとなっている。この映画、中国、香港、韓国のテイストがまざりあっていて、これをなにか中国映画の典型とみるのもどうかと思う。
またSF小説『三体』なんて、読んでないだろう。そもそも『三体』の日本語の翻訳、登場人物が漢字表記で、最初に、中国語読みのルビがふっていあるのだが、以後、ルビはほとんどない。できれば人物名は中国語読みしたいので、そのつど読み方を確認していたのだが、ある時点で、読み方がわからなくなった。そのため最初から、読み直し、全ページの人名に読み方を示すルビを手書きで書きまくってなんとかなったのだが、ルビなしの人物名表記はつらい。もっとも、こいつはどうせ漢字読みして平気なのだろうから、ひょっとしたら『三体』読んでいるかもしれないのだが。
ただ中国嫌いなのだろう。資本がどうのこうのと日本の凋落を棚にあげて金持ちの中国に文句をいっているクズである。資本力にものをいわせる人権無視の独裁国家である中国を嫌い批判する日本人の多くが、ほんとうに独裁政治を嫌うリベラルかというとそうではなくて、むしろネトウヨ・ファシストであることが多い。彼らが権力を握ったら、おそらくやることは中国の独裁政権と同じことをするだろう(ナチスがユダヤ人を迫害したように、彼らは韓国人、中国人を迫害するだろうから)。だからこういう中国嫌いの大半はネトウヨだから、早めに害虫駆除しておいたほうがいい――そもそも中国人差別の彼らは、香港の民主化運動を支援する意見を表明したのだろうか、むしろ民主化運動は危険だからという立場なので、考えていることは中国の独裁政権とかわりない(あと、この映画の子どもの死をとやかくいうコメントがけっこうあったが、これはネトウヨ軍団が、仲間の特定の意見にリードされて、その真偽とか適切性を確認することなく、ただ反復増幅させるという、あいもかわらぬバカげた戦術を駆使しているからかもしれない)
ところでこれを書いているときにCS(10月末)では『マッドマックス怒りのデス・ロード』(ジョージ・ミラー監督2015)を放送していた。この映画について、「未だにこんな子供を殺し女を殴る蹴るの描写がエンターテイメントだと思ってるような感覚では到底しばらくの間は洗練されたSF映画などは出来そうも無い! SFXは資本力でカヴァー出来るがセンスだけは資本で賄う事が出来ない。SF映画のジャンルで中国アメリカとオーストラリアが傑作を作るにはまだ時間が掛かりそうである」とコメントしたら、ただのバカである。
なおCSでは『マッドマックス怒りのデス・ロード』のあとに、『ハッピー・デス・デイ』つづいて『ハッピー・デス・デイ・2U』を放送する。なにかの因縁なのだろうか。
映画『リセット』では、ヤン・ミーは、あいかわらず綺麗。テレビ・ドラマ『永遠の桃花』(2017)でヤン・ミーのファンとなった日本人が、この映画をみるようだ(『リセット』で、主人公の息子ドウドウ(豆砲)を演じた少年が、『永遠の桃花』でもヤン・ミーの息子役らしい)。私はテレビドラマのほうが見ていないのだが、日本でもリメイクされた『見えない目撃者』(森淳一監督、吉岡里帆主演)の中国版に主演、そこで知ることになった(ちなみに時間軸をさかのぼると、最初は韓国映画『ブラインド』(2011)、同監督が中国版をリメイク『見えない目撃者』(2016)、そして日本版リメイクとなる)。
次に掲げるのはAMAZONにあったレヴューなのだが、鋭いところを突いてる
ただし、このレヴューで語られるほど、いい加減な設定ではない。一つは同じ時間軸において110分前にさかのぼるのではなく、パラレルワールドの110分前という設定になる(こういう設定が可能かどうかは問題ではなく、この設定のなかで整合性がとれているかどうか、つまりゲームの規則に従っているかどうかが映画の出来不出来に関係する)。
まず最初に悲劇が起こる。そしてそれを防ぐために主人公の女性科学者(S1)は110分前の過去にさかのぼる。しかし同じ時間軸(T1)ではない。彼女(S1)がいた時間軸(T1)は、もう崩壊している。そのため別の時間軸(T2)の110分前に移動となる。いずれにせよ、最初に悲劇が起こる。二番目はアクションである(茶番といいうなかれ)。
別の時間軸(T2)でも同じ事件は起こっている。しかしT1から来た彼女(S1)は、このT2における自分自身(S2)に出会い、自分とすりかわる(ただこのT2におけるS2は、まだ悲劇を知らない無垢な存在なので、ほんとうはS1とすべきかもしれないが、また別のややこしさを生むかもしれないので、このままにしておく)。このT2におけるS2は、何も知らないのだが、T1からやってきた彼女S1は、二度目であり、敵の裏をかけるように立ち回ることができる。彼女S1が、T2では、科学者でありながら、拳銃を自由に操れるのはご都合主義的とはいえ、一度、タイム・リープすると戦闘力がますという設定になっている。正確に言うと狂暴化するという設定(ゲームの規則)。そのため、彼女は二度タイム・リープするとかなり狂暴になって、狂戦士化する(ヤン・ミーの三つの顔をみることできてファンは嬉しい)。そして三人の彼女の生き残りをかけた戦いになるが、その結末は、一応、設定を逸脱することのないというか設定から論理的に引き出せる説得力のあるものである(ゲームの規則に従っている)。ネタバレになるので、これ以上は書かないとしても。
あとバタフライエフェクトというのは、どんな些細なことでも、大きな出来事の引き金になるという理論だが、些細なことは大きなことに影響を及ぼさない。まあ私が風邪をひいたら日本における株価が暴落すると考えるのは楽しいことだが、およそありえないくだらないファンタジーともいえる。私が風邪をひいても私の暮らしている市の市長(特に顔見知りではない)は体調を悪くすることすらないだろう。バタフライエフェクトというのはご都合主義の極致だと思っている(とはいえバタフライエフェクト理論からすると、私の風邪と株価の変動が、私の健康状態と市長の健康状態が結びつかない理由は、無数に考えられる――無数の、ほんのささいなことが理由となり、それこそバタフライエフェクトの世界観である)。
もう一度確認すると、彼女が110分前の過去にもどったのだが、それは110分前のパラレルワールドである。そのパラレルワールドでも、彼女が後にした時間軸と同じことが起こっている。同じことが起こっている世界をパラレルワールドと呼ぶのか。ただ、このパラレルワールドは彼女がやってくることで変化しはじめる。これは鶏か卵かの問題となる――彼女が、もといた世界とは違うパラレルワールドにやってきたのか、あるいは彼女がやってきたので、その世界が元いた世界のパラレルワールドとなってゆくのか。ひょっとしたら、ここに映画のふかいたくらみがあるのかもしれないが、それが何であるのかはわからない。
とまれ110分前のパラレルワールドに行くことになって同じ110分を繰り返すことになると、これはループ物となる。そしてこの映画で興味深いのは110分前の世界に行くことで、狂暴化するという設定というかゲームの規則である。これをメタフォリカルに考えれば、私たちが自分の人生に何度耐えられるかの問題となる。
女性が強くなるのは母になるときである(伝統的なジェンダー観)。この映画でも息子を救うために、タイムリープ後の女性科学者の戦闘力は強化されている。母の必死の思いと狂暴化という二つの要因が彼女の戦闘力をあげた。そして二度タイム・リープした彼女が登場するとき、彼女の戦闘力はマックスに達する。こうした設定は、たんに物語を終わらせる仕掛けというにとどまらない反復的営為に関係する真実を伝えている。
たとえば私たちが、もう一度自分の人生を生きるとすればという設定は、荒唐無稽すぎてリアリティがないため(あるいはリアルすぎて)、話を単純化するために、たとえば一度読んだ本を二度読むと考えてみてはどうか。
最初は、なにもわからず、ただ最後まで読むしかない。しかし再読の場合、それがフィクションなら、結末がわかっているので、伏線の張り方とか、ミスリードする展開など全体の構成や作者の狙いみたいなものがみえてくるし、また最初に読んだときには気づかなかった細部にも配慮できるようになる。再読するあなたは洞察力が高まっている。しかしこれはあなたの内部の成長とか成熟ではない(子供の頃に読んだ本を大人になって読み返すという場合には、あなたの洞察力には成長の成果が関係するかもしれないが)。再読する行為そのものが自然と洞察力を高めるのであって、あなたの知力が高まったわけではない。
では、三度目はどうか。理論的には洞察力がさらに高まるはずである。もし読んでいるのがノンフィクションであるのなら、最初、ちんぷんかんぷんであっても、読む返すたびにだんだんわかってくる(典型的なのが教科書を読む場合である)。読書百遍というのは、この理論に基づくものだろう。しかし百回も読んだら飽きがきて、うんざりして、ほんとうに読んでいるのかどうかもわからないかもしれない。つまり3回めには飽きるという要素が入ってくる、あるいは強くなる。作品に敵意すらいだくかもしれない。2回目、あなたは優れた評論家・研究者である。3回目、あなたはパロディ作家あるいはパスティーシュ作家になっているかもしれない。これは再読することによって、逆に洞察力が弱まり、飽きが来て遊びの要素(パロディ、パスティーシュ、アダプテイション)が入り込む、あるいは作品を丁寧に読み解くのではなく、作品を攻撃する要素が加わる。
つまり2回目は洞察、3回目は攻撃。脱構築的に考えれば、これは、たんに洞察性が弱まったり劣化して攻撃性が生まれたというだけでなく、実は洞察(解釈、評論、研究)も、攻撃であって、洞察は、まだ未成熟の攻撃といえるかもしれないし、また逆に、洞察が攻撃と入れ替わるのではなく、攻撃もまた洞察の延長あるいは一部であると考えることもできる。
この映画が教えてくれるのは、攻撃性が高まるという設定は、なぜかは説明されないのだが、なにかリアリティがあり、それは、いまのべたことのように読み換えられることからもわかる。もちろんその読み換えだけがすべてではない。たとえばこれはタイムループ物の特徴のひとつを言い当てている――例えば、『ザ・ドア』ではタイムリープした主人公のあとにつづいてくる者たちは、あるいは主人公の前にタイムリープした者たちは悪人というか犯罪者であるというのも実に示唆的である。(タイム・リープと犯罪性は、つぎの映画『リピーターズ』とも関係する。2021年11月2日の記事参照)。
と同時に、タイムリープするたびに狂暴になるという映画の設定は、映画を終結させるために伏線ともなっているので、この映画では、タイムリープは人間を壊すというゲームのルールを設けたことになる。
この世界観は、読書体験におきかえると、読み返すたびに作品の鮮度が落ち、読者はあきがきて、作品を嫌うようになる。予備知識なしで、はじめて作品と向き合う時の読書が、もっともすばらしく、作品の魅力もマックスであるという考え方である。
ある意味で、これは伝統的な、また多くの観客なり読者が共有する観点でもあり、私は認めないが、ただ、映画そのものは、それにのっとって、最後に、時間の支配者となって、時間をいじくるのではなく(反ノーラン的世界観)、今をつかむことが重要であるというヴィジョンで閉じられる――それはそれで感動的な幕切れでもあるのだが。
この「この日をつかめ」ヴィジョンが語られるのは主人公と息子が、山のなかというか山の高台にとめたキャンピングカーの前で食事をするところである。ちなみにこの大自然の場面は、映画の最初のほうで、主人公が息子と急峻な山をロッククライミングする場面と通ずるものがある。こんな幼い子ドウドウ(豆砲)を、危険なロッククライミングにと驚くのだが、つぎの瞬間、息子が落下する。しかし、実は、これはヴァーチャルなロッククライミング装置でほんとうの岩山ではない。最後のキャンピングカーの場面も、ヴァーチャルという可能性もないわけではないが、それは示されない。ただ、ヴァーチャルな山登りのあと、主人公は会議に呼び出されて、研究所に向かう。このコロナ禍で、一般的となったリモート会議を、この未来ではしないのかと疑問に思ったが、私のこの疑問は映画の世界観とも関係していた。ヴァーチャルな山登りと事故による落下は、一回だけ示される。これに対して過去へとさかのぼるタイムリープは3回しめされ、大惨事を引き起こす(ヴァーチャルな落下の場面が主題的につながっている)。
時間の支配は惨劇をもたらし、これに対して空間は支配もされないし加工もされない――リモート会議による距離の無効化はない。時間は死だが空間は救いとなる。あるいは時間支配のアンチテーゼとして空間の温存がある。おそらくそれがこの映画の隠れた映画的ヴィジョンであろう。
監督チャン(チャンChangは別名、本名Yoo Hong-seung) 105分
タイム・リープが、タイム・ループにもなっている中国のSF映画。
詳しい内容は英語版Wikipediaに丁寧に書かれている。こうしたタイム・リープ物を考え語る際に、未来と過去の人物、あるいはパラレルワールドの人物が登場することが多いので、私自身、番号をつけて、X1とX2と区別して語るのだが、同じことは、このWikipediaの内容記述にもあてはまる。まあ、考えることは誰でも同じというべきか。
映画.COMの内容紹介――
ジャッキー・チェンがプロデュースを手がけ、息子の命を救うため過去へタイムリープしたシングルマザーの戦いを描いたSFアクションスリラー。タイムリープ装置の研究に長年にわたって取り組んできた女性物理学者シアティエンは、ついに生体組織を110分だけ過去にさかのぼらせることに成功する。さらなる研究のための追加資金も確保するが、そのニュースが世間に知れわたったために愛する息子ドウドウが誘拐され、命と引き換えに研究データを要求される。指示に従ったにも関わらずドウドウの命を奪われてしまったシアティエンは、息子を助けたい一心で未完成の装置を使い、命懸けで110分前の過去に向かうが……。
なおこの映画を語る前に、映画.COMにあった否定的コメントを否定しておく。
中国SFの貧困
中国では「三体」と言う立派なSF小説を生むに至ったものの、未だにこんな子供を殺し女を殴る蹴るの描写がエンターテイメントだと思ってるような感覚では到底しばらくの間は洗練されたSF映画などは出来そうも無い!SFXは資本力でカヴァー出来るがセンスだけは資本で賄う事が出来ない。SF映画のジャンルで中国が傑作を作るにはまだ時間が掛かりそうである。
はっきりいって洗練されたエンターテインメント映画だと思う。子どもが殺されるから、子どもを救うために母親が必死になるのであって(最終的に子どもは救われる)、子どもの死がなければ物語が始まらない。そもそも現実において平時において他国よりも子供を平気で殺している日本人がこんなことを書くことはおかしい。
また中国映画といっているが、たしかに言語はマンダリンだが、プロデュースはジャッキー・チェン(香港出身)で、主役のヤン・ミーの元夫は香港のスターで、ヤン・ミー自身いまも香港とのつながりがあるようだし、さらにいえば映画監督のチャンは韓国の映画監督――ミュージックビデオ出身の監督の映像は、きわめて洗練されたカメラアングルを誇るものとなっている。この映画、中国、香港、韓国のテイストがまざりあっていて、これをなにか中国映画の典型とみるのもどうかと思う。
またSF小説『三体』なんて、読んでないだろう。そもそも『三体』の日本語の翻訳、登場人物が漢字表記で、最初に、中国語読みのルビがふっていあるのだが、以後、ルビはほとんどない。できれば人物名は中国語読みしたいので、そのつど読み方を確認していたのだが、ある時点で、読み方がわからなくなった。そのため最初から、読み直し、全ページの人名に読み方を示すルビを手書きで書きまくってなんとかなったのだが、ルビなしの人物名表記はつらい。もっとも、こいつはどうせ漢字読みして平気なのだろうから、ひょっとしたら『三体』読んでいるかもしれないのだが。
ただ中国嫌いなのだろう。資本がどうのこうのと日本の凋落を棚にあげて金持ちの中国に文句をいっているクズである。資本力にものをいわせる人権無視の独裁国家である中国を嫌い批判する日本人の多くが、ほんとうに独裁政治を嫌うリベラルかというとそうではなくて、むしろネトウヨ・ファシストであることが多い。彼らが権力を握ったら、おそらくやることは中国の独裁政権と同じことをするだろう(ナチスがユダヤ人を迫害したように、彼らは韓国人、中国人を迫害するだろうから)。だからこういう中国嫌いの大半はネトウヨだから、早めに害虫駆除しておいたほうがいい――そもそも中国人差別の彼らは、香港の民主化運動を支援する意見を表明したのだろうか、むしろ民主化運動は危険だからという立場なので、考えていることは中国の独裁政権とかわりない(あと、この映画の子どもの死をとやかくいうコメントがけっこうあったが、これはネトウヨ軍団が、仲間の特定の意見にリードされて、その真偽とか適切性を確認することなく、ただ反復増幅させるという、あいもかわらぬバカげた戦術を駆使しているからかもしれない)
ところでこれを書いているときにCS(10月末)では『マッドマックス怒りのデス・ロード』(ジョージ・ミラー監督2015)を放送していた。この映画について、「未だにこんな子供を殺し女を殴る蹴るの描写がエンターテイメントだと思ってるような感覚では到底しばらくの間は洗練されたSF映画などは出来そうも無い! SFXは資本力でカヴァー出来るがセンスだけは資本で賄う事が出来ない。SF映画のジャンルで
なおCSでは『マッドマックス怒りのデス・ロード』のあとに、『ハッピー・デス・デイ』つづいて『ハッピー・デス・デイ・2U』を放送する。なにかの因縁なのだろうか。
映画『リセット』では、ヤン・ミーは、あいかわらず綺麗。テレビ・ドラマ『永遠の桃花』(2017)でヤン・ミーのファンとなった日本人が、この映画をみるようだ(『リセット』で、主人公の息子ドウドウ(豆砲)を演じた少年が、『永遠の桃花』でもヤン・ミーの息子役らしい)。私はテレビドラマのほうが見ていないのだが、日本でもリメイクされた『見えない目撃者』(森淳一監督、吉岡里帆主演)の中国版に主演、そこで知ることになった(ちなみに時間軸をさかのぼると、最初は韓国映画『ブラインド』(2011)、同監督が中国版をリメイク『見えない目撃者』(2016)、そして日本版リメイクとなる)。
次に掲げるのはAMAZONにあったレヴューなのだが、鋭いところを突いてる
並行世界に設定したのがわからん。内容は単なる過去へのタイムトラベルなんだけど。同じ人間が3人いる状態になるから、並行世界ということにしたのか?タイムトラベルでもその状態はありえる。
110分すると自動的に戻ってくるという設定だったと思うのだけど、映画の内容では、110分以上その世界に留まっていないとできないことばっかり。110分という設定は、多分、子供の生存時間からなのだと思うけど。
物理学者が並行世界に移動したら、急にプロ並みに拳銃の使い方が上手くなってるのもわからん。
転移した時は同じ状態だったとしても、その後はずれが生じ、いわゆるバタフライ効果によりずれは大きくなる。本作は主人公が行った行為時のみ変化するような設定なので、そこが変。他人の行動も環境も変化するのだから。この現象を上手く表さないと、SFファンには通用しない。
最近、ループものが多いのだけど、上記の点を上手につくっている(上手くごまかしてる)のはオール・ユー・ニード・イズ・キルくらい。
米国が失敗して中国の研究盗もうとするところは、今の米中対立の影響かなと思った。
ただし、このレヴューで語られるほど、いい加減な設定ではない。一つは同じ時間軸において110分前にさかのぼるのではなく、パラレルワールドの110分前という設定になる(こういう設定が可能かどうかは問題ではなく、この設定のなかで整合性がとれているかどうか、つまりゲームの規則に従っているかどうかが映画の出来不出来に関係する)。
まず最初に悲劇が起こる。そしてそれを防ぐために主人公の女性科学者(S1)は110分前の過去にさかのぼる。しかし同じ時間軸(T1)ではない。彼女(S1)がいた時間軸(T1)は、もう崩壊している。そのため別の時間軸(T2)の110分前に移動となる。いずれにせよ、最初に悲劇が起こる。二番目はアクションである(茶番といいうなかれ)。
別の時間軸(T2)でも同じ事件は起こっている。しかしT1から来た彼女(S1)は、このT2における自分自身(S2)に出会い、自分とすりかわる(ただこのT2におけるS2は、まだ悲劇を知らない無垢な存在なので、ほんとうはS1とすべきかもしれないが、また別のややこしさを生むかもしれないので、このままにしておく)。このT2におけるS2は、何も知らないのだが、T1からやってきた彼女S1は、二度目であり、敵の裏をかけるように立ち回ることができる。彼女S1が、T2では、科学者でありながら、拳銃を自由に操れるのはご都合主義的とはいえ、一度、タイム・リープすると戦闘力がますという設定になっている。正確に言うと狂暴化するという設定(ゲームの規則)。そのため、彼女は二度タイム・リープするとかなり狂暴になって、狂戦士化する(ヤン・ミーの三つの顔をみることできてファンは嬉しい)。そして三人の彼女の生き残りをかけた戦いになるが、その結末は、一応、設定を逸脱することのないというか設定から論理的に引き出せる説得力のあるものである(ゲームの規則に従っている)。ネタバレになるので、これ以上は書かないとしても。
あとバタフライエフェクトというのは、どんな些細なことでも、大きな出来事の引き金になるという理論だが、些細なことは大きなことに影響を及ぼさない。まあ私が風邪をひいたら日本における株価が暴落すると考えるのは楽しいことだが、およそありえないくだらないファンタジーともいえる。私が風邪をひいても私の暮らしている市の市長(特に顔見知りではない)は体調を悪くすることすらないだろう。バタフライエフェクトというのはご都合主義の極致だと思っている(とはいえバタフライエフェクト理論からすると、私の風邪と株価の変動が、私の健康状態と市長の健康状態が結びつかない理由は、無数に考えられる――無数の、ほんのささいなことが理由となり、それこそバタフライエフェクトの世界観である)。
もう一度確認すると、彼女が110分前の過去にもどったのだが、それは110分前のパラレルワールドである。そのパラレルワールドでも、彼女が後にした時間軸と同じことが起こっている。同じことが起こっている世界をパラレルワールドと呼ぶのか。ただ、このパラレルワールドは彼女がやってくることで変化しはじめる。これは鶏か卵かの問題となる――彼女が、もといた世界とは違うパラレルワールドにやってきたのか、あるいは彼女がやってきたので、その世界が元いた世界のパラレルワールドとなってゆくのか。ひょっとしたら、ここに映画のふかいたくらみがあるのかもしれないが、それが何であるのかはわからない。
とまれ110分前のパラレルワールドに行くことになって同じ110分を繰り返すことになると、これはループ物となる。そしてこの映画で興味深いのは110分前の世界に行くことで、狂暴化するという設定というかゲームの規則である。これをメタフォリカルに考えれば、私たちが自分の人生に何度耐えられるかの問題となる。
女性が強くなるのは母になるときである(伝統的なジェンダー観)。この映画でも息子を救うために、タイムリープ後の女性科学者の戦闘力は強化されている。母の必死の思いと狂暴化という二つの要因が彼女の戦闘力をあげた。そして二度タイム・リープした彼女が登場するとき、彼女の戦闘力はマックスに達する。こうした設定は、たんに物語を終わらせる仕掛けというにとどまらない反復的営為に関係する真実を伝えている。
たとえば私たちが、もう一度自分の人生を生きるとすればという設定は、荒唐無稽すぎてリアリティがないため(あるいはリアルすぎて)、話を単純化するために、たとえば一度読んだ本を二度読むと考えてみてはどうか。
最初は、なにもわからず、ただ最後まで読むしかない。しかし再読の場合、それがフィクションなら、結末がわかっているので、伏線の張り方とか、ミスリードする展開など全体の構成や作者の狙いみたいなものがみえてくるし、また最初に読んだときには気づかなかった細部にも配慮できるようになる。再読するあなたは洞察力が高まっている。しかしこれはあなたの内部の成長とか成熟ではない(子供の頃に読んだ本を大人になって読み返すという場合には、あなたの洞察力には成長の成果が関係するかもしれないが)。再読する行為そのものが自然と洞察力を高めるのであって、あなたの知力が高まったわけではない。
では、三度目はどうか。理論的には洞察力がさらに高まるはずである。もし読んでいるのがノンフィクションであるのなら、最初、ちんぷんかんぷんであっても、読む返すたびにだんだんわかってくる(典型的なのが教科書を読む場合である)。読書百遍というのは、この理論に基づくものだろう。しかし百回も読んだら飽きがきて、うんざりして、ほんとうに読んでいるのかどうかもわからないかもしれない。つまり3回めには飽きるという要素が入ってくる、あるいは強くなる。作品に敵意すらいだくかもしれない。2回目、あなたは優れた評論家・研究者である。3回目、あなたはパロディ作家あるいはパスティーシュ作家になっているかもしれない。これは再読することによって、逆に洞察力が弱まり、飽きが来て遊びの要素(パロディ、パスティーシュ、アダプテイション)が入り込む、あるいは作品を丁寧に読み解くのではなく、作品を攻撃する要素が加わる。
つまり2回目は洞察、3回目は攻撃。脱構築的に考えれば、これは、たんに洞察性が弱まったり劣化して攻撃性が生まれたというだけでなく、実は洞察(解釈、評論、研究)も、攻撃であって、洞察は、まだ未成熟の攻撃といえるかもしれないし、また逆に、洞察が攻撃と入れ替わるのではなく、攻撃もまた洞察の延長あるいは一部であると考えることもできる。
この映画が教えてくれるのは、攻撃性が高まるという設定は、なぜかは説明されないのだが、なにかリアリティがあり、それは、いまのべたことのように読み換えられることからもわかる。もちろんその読み換えだけがすべてではない。たとえばこれはタイムループ物の特徴のひとつを言い当てている――例えば、『ザ・ドア』ではタイムリープした主人公のあとにつづいてくる者たちは、あるいは主人公の前にタイムリープした者たちは悪人というか犯罪者であるというのも実に示唆的である。(タイム・リープと犯罪性は、つぎの映画『リピーターズ』とも関係する。2021年11月2日の記事参照)。
と同時に、タイムリープするたびに狂暴になるという映画の設定は、映画を終結させるために伏線ともなっているので、この映画では、タイムリープは人間を壊すというゲームのルールを設けたことになる。
この世界観は、読書体験におきかえると、読み返すたびに作品の鮮度が落ち、読者はあきがきて、作品を嫌うようになる。予備知識なしで、はじめて作品と向き合う時の読書が、もっともすばらしく、作品の魅力もマックスであるという考え方である。
ある意味で、これは伝統的な、また多くの観客なり読者が共有する観点でもあり、私は認めないが、ただ、映画そのものは、それにのっとって、最後に、時間の支配者となって、時間をいじくるのではなく(反ノーラン的世界観)、今をつかむことが重要であるというヴィジョンで閉じられる――それはそれで感動的な幕切れでもあるのだが。
この「この日をつかめ」ヴィジョンが語られるのは主人公と息子が、山のなかというか山の高台にとめたキャンピングカーの前で食事をするところである。ちなみにこの大自然の場面は、映画の最初のほうで、主人公が息子と急峻な山をロッククライミングする場面と通ずるものがある。こんな幼い子ドウドウ(豆砲)を、危険なロッククライミングにと驚くのだが、つぎの瞬間、息子が落下する。しかし、実は、これはヴァーチャルなロッククライミング装置でほんとうの岩山ではない。最後のキャンピングカーの場面も、ヴァーチャルという可能性もないわけではないが、それは示されない。ただ、ヴァーチャルな山登りのあと、主人公は会議に呼び出されて、研究所に向かう。このコロナ禍で、一般的となったリモート会議を、この未来ではしないのかと疑問に思ったが、私のこの疑問は映画の世界観とも関係していた。ヴァーチャルな山登りと事故による落下は、一回だけ示される。これに対して過去へとさかのぼるタイムリープは3回しめされ、大惨事を引き起こす(ヴァーチャルな落下の場面が主題的につながっている)。
時間の支配は惨劇をもたらし、これに対して空間は支配もされないし加工もされない――リモート会議による距離の無効化はない。時間は死だが空間は救いとなる。あるいは時間支配のアンチテーゼとして空間の温存がある。おそらくそれがこの映画の隠れた映画的ヴィジョンであろう。
posted by ohashi at 20:05| 映画 タイムループ
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2021年10月30日
『エンドレス 繰り返される悪夢』
英語代題目 A Day (たぶん韓国語のタイトルも同じ意味だと思われる)。2017年の韓国映画(日本公開2017年)。
韓国映画には、というか近年の映画の多くの例にもれずというべきか、時空をさまよう映画は多いが、これはタイム・ループ物の古典(というほど古い映画ではないが)的設定のなかで展開する映画。古典的設定というのは、たとえば『恋はデジャヴ』とか『ハッピー・デス・デイ』といったタイム・ループ物と同じように、同じ日を何度も繰り返し生きることになる。
映画.COMは、こんなふうに映画を紹介している。
この映画ではループの始まりが設定されている。旅客機が着陸体勢をとりはじめるときに目覚める主人公は、娘の交通事故死を目撃した瞬間、ふたたび旅客機のなかにもどって目覚めている。ただし目覚めたときには、娘の事故死に出逢った記憶がある。そのため娘を交通事故死から救おうと何度も必死で試みるのだが、なんど試みても事故の瞬間にはまにあわない。運命は変えられないという思いが、主人公のみならず見ている側からも湧いてくる。それはそうで、空港から事件の現場にどんなに急いでも、先回りできないのである。
しかし映画は意外な展開をみせる。映画.COMは、こう紹介をつづける
もうひとりループしている人間が現れる。この男は、交通事故で妻を亡くす。一つの交通事故で、かけがえのない家族を失った二人が出会い、ともにループしていることがわかる。
主人公ひとりの力では運命は変えられないことがわかるので、これを打開するどういう展開が待っているのかと考えつつみていたら、まさか二人目のルーパーがいたとは。それも、タイム・リープできるような超能力者とか霊能者ではなく、またSF仕立ての未来人というのではなく、主人公と同じような境遇で、しかも交通事故で身内を亡くすという同一体験で結ばれた二人が登場するとは。ここから映画は俄然面白くなる。
一部ネタバレをすれば、実はタイム・リーパーは、それも同じような境遇の男はもう一人登場する。三人のタイム・リーパーの、三すくみとも三つ巴ともいえる関係性があかされることによって、なぜこの三人がタイム・リープを繰り返すのか、身内を失うという地獄を味わいつづけるのかが見えてくる。SF的説明はないが、心理的説明はある。
そしてこの映画、三人のループする男たちの物語が、実は彼らの子どもたちの意志の物語であることが最後にわかる仕掛けになっている。
そこが新機軸として面白い。もちろんタイム・リープ物としては、罪ある人間の贖罪が、繰り返す悪夢、繰り返す一日と関係する。地獄を経験することと、この地獄から最終的にどう脱出するかというタイム・リープ物の定番的展開が、三人のタイム・リーパーによって動かされる。これが新機軸であり、観る者を飽きさせない。
指摘すべきは二点。三人の男性は、三人三様の地獄を体験するのだが、同時に、このタイム・リープの間に、それぞれ他の二人の男性の悲しみや怒りを体験する。贖罪は、他者の心情の追体験によって構成される。そしてその学習を通して、望ましい解決がみえてくる。
反復、追体験、役割転換、心情の共有。タイム・リープ物の特徴を、私はブレヒトの有名な学習劇『処置』と重ね合わせて考える。ブレヒトの『処置』こそ、タイム・リープが考察と学びの場であることを示した最初の演劇ではなかったかと私は考えている。同じ悲劇的事件を、当事者たちが互いに他の役割を演ずることによって見えてくるものがある。それをこの映画は痛感させてくれる。
もうひとつ。映画はインチョン(仁川)でロケをしている。インチョン空港(仁川空港)から仁川大橋を経て、インチョンのビジネス街や繁華街への、何度も繰り返される移行は、インチョンという大都市の風景を観る者の刷り込む働きがある(最終的には、インチョンのさまざまな場所を観る者はめぐることになる)。インチョンの自由公園も登場する。インチョンという都市が、韓国においてどういうイメージをもっているか、なにもわからないが、ただ歴史的なことは脇に置くと、全般的に近代的かつ近未来的な明るい港湾・国際ビジネス都市である(ソウルの近郊住宅地という意味付けもあるようだが)。交通事故は正午に起こる。インチョンという都市そのものが、昼間の世界、正午の世界である。その正午の世界にある闇の部分が近代都市を侵食しはじめるものの、やがて和解が訪れる。あるいは正午の都市インチョンが、あるいはどのようなものであれ昼間が、抱える闇、恐ろしいというよりも悲しい闇、それと昼の世界との和解が映画を興味深いものにしている。
韓国映画には、というか近年の映画の多くの例にもれずというべきか、時空をさまよう映画は多いが、これはタイム・ループ物の古典(というほど古い映画ではないが)的設定のなかで展開する映画。古典的設定というのは、たとえば『恋はデジャヴ』とか『ハッピー・デス・デイ』といったタイム・ループ物と同じように、同じ日を何度も繰り返し生きることになる。
映画.COMは、こんなふうに映画を紹介している。
目覚めるたびに悪夢の1日が繰り返されるタイムループに囚われた男の死闘を描いたサスペンススリラー。娘の誕生日で約束の場所へ向かっていた著名な胸部外科医ジュニョンは、その途上で娘のウンジョンが交通事故で亡くなっている現場に遭遇。激しい衝撃を受けた瞬間、ジュニョンは事故の2時間前に戻っていた。時間のループは延々と繰り返され、ジュニョンは娘を事故で死なせないよう策を講じるが、何度やっても娘の死という結果が変わることはなかった。
この映画ではループの始まりが設定されている。旅客機が着陸体勢をとりはじめるときに目覚める主人公は、娘の交通事故死を目撃した瞬間、ふたたび旅客機のなかにもどって目覚めている。ただし目覚めたときには、娘の事故死に出逢った記憶がある。そのため娘を交通事故死から救おうと何度も必死で試みるのだが、なんど試みても事故の瞬間にはまにあわない。運命は変えられないという思いが、主人公のみならず見ている側からも湧いてくる。それはそうで、空港から事件の現場にどんなに急いでも、先回りできないのである。
しかし映画は意外な展開をみせる。映画.COMは、こう紹介をつづける
そんな中、ジュニョンの前に、事故で妻を失い、同じように時間を繰り返しているミンチョルが現れる。愛する家族を亡くし、理由もわからずに時間に囚われてしまった2人は、悪夢の1日を変え、家族を救うために力を合わせこととなるが……。
もうひとりループしている人間が現れる。この男は、交通事故で妻を亡くす。一つの交通事故で、かけがえのない家族を失った二人が出会い、ともにループしていることがわかる。
主人公ひとりの力では運命は変えられないことがわかるので、これを打開するどういう展開が待っているのかと考えつつみていたら、まさか二人目のルーパーがいたとは。それも、タイム・リープできるような超能力者とか霊能者ではなく、またSF仕立ての未来人というのではなく、主人公と同じような境遇で、しかも交通事故で身内を亡くすという同一体験で結ばれた二人が登場するとは。ここから映画は俄然面白くなる。
一部ネタバレをすれば、実はタイム・リーパーは、それも同じような境遇の男はもう一人登場する。三人のタイム・リーパーの、三すくみとも三つ巴ともいえる関係性があかされることによって、なぜこの三人がタイム・リープを繰り返すのか、身内を失うという地獄を味わいつづけるのかが見えてくる。SF的説明はないが、心理的説明はある。
そしてこの映画、三人のループする男たちの物語が、実は彼らの子どもたちの意志の物語であることが最後にわかる仕掛けになっている。
そこが新機軸として面白い。もちろんタイム・リープ物としては、罪ある人間の贖罪が、繰り返す悪夢、繰り返す一日と関係する。地獄を経験することと、この地獄から最終的にどう脱出するかというタイム・リープ物の定番的展開が、三人のタイム・リーパーによって動かされる。これが新機軸であり、観る者を飽きさせない。
指摘すべきは二点。三人の男性は、三人三様の地獄を体験するのだが、同時に、このタイム・リープの間に、それぞれ他の二人の男性の悲しみや怒りを体験する。贖罪は、他者の心情の追体験によって構成される。そしてその学習を通して、望ましい解決がみえてくる。
反復、追体験、役割転換、心情の共有。タイム・リープ物の特徴を、私はブレヒトの有名な学習劇『処置』と重ね合わせて考える。ブレヒトの『処置』こそ、タイム・リープが考察と学びの場であることを示した最初の演劇ではなかったかと私は考えている。同じ悲劇的事件を、当事者たちが互いに他の役割を演ずることによって見えてくるものがある。それをこの映画は痛感させてくれる。
もうひとつ。映画はインチョン(仁川)でロケをしている。インチョン空港(仁川空港)から仁川大橋を経て、インチョンのビジネス街や繁華街への、何度も繰り返される移行は、インチョンという大都市の風景を観る者の刷り込む働きがある(最終的には、インチョンのさまざまな場所を観る者はめぐることになる)。インチョンの自由公園も登場する。インチョンという都市が、韓国においてどういうイメージをもっているか、なにもわからないが、ただ歴史的なことは脇に置くと、全般的に近代的かつ近未来的な明るい港湾・国際ビジネス都市である(ソウルの近郊住宅地という意味付けもあるようだが)。交通事故は正午に起こる。インチョンという都市そのものが、昼間の世界、正午の世界である。その正午の世界にある闇の部分が近代都市を侵食しはじめるものの、やがて和解が訪れる。あるいは正午の都市インチョンが、あるいはどのようなものであれ昼間が、抱える闇、恐ろしいというよりも悲しい闇、それと昼の世界との和解が映画を興味深いものにしている。
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2021年10月25日
『ザ・ドア』2
後半から終盤にかけて、にわかに面白くなって、さすが原作がアキフ・ピリンチだけはあると感動すらする。『猫たちの聖夜』の猫ミステリ作家アキフ・ピリンチ。映画の原作は、猫ミステリー・シリーズとは異なり、また翻訳もされていないし、私自身、読んでもいないので、映画がどのようにアダプテーションしているのかわからないものの、映画から原作の面白さは伝わっているような気がする。
おそらく緊迫した展開のなかで、一方にあるのは、失敗した現在から失敗をまだ知らない過去への逃走という身勝手な犯罪的な行為、もう一方には、過去の失敗をなんとしても防ぎたいセカンド・チャンスを求める人間の切つない願望と苦悩、この両者の間でテーマ的な緊張関係が認められ、観る者の意識がはげしくゆさぶられるのである。
結末は、ある意味、予想どおりである。何処でもドアならぬ、5年を隔てる二つの世界をむすぶタイムマシン的な洞窟と扉を主人公はあえて破壊し、ふたつの世界の行き来はできなくなる。5年前の母と娘は5年後の世界に逃れ、5年後の世界からやってきた妻とダニエルは、この世界に取り残されるが、失った夫婦愛を取りもどすかにみえる。
Amazonのレヴューに次のようなものがある――
私は親ガチャということを認めたくはないのだが、こういう意見があると、親ガチャが正しいののではないかと思えてくる。やはり馬鹿な親から生まれるから、こういう馬鹿な意見しか言えないのだろうし、やはり日本人に生まれたから、この程度のことしか言えないのかという批判に、このレヴューアーは理屈からして反論できない。お前がバカなのはお前の責任じゃない、お前の親がバカだから、親の顔が見たいといわれても、このレヴューアーは平気でいられるのだろう。まあ日本人だからバカなのはしかたがない。バカに生まれついたのだから、へたに意見など言おうとしないほうがいいと言われても、バカな日本人らしくへらへらとい笑っているのだろう。まあ、このバカが自説に従うのなら反論などできないのだから。
「こういった現実を直視すれば、無理に人生を変えようとしない方が利口です」というのなら、あなたは周囲にいる者たちの愚かな生き方や人生を無理に変えようとしてはいないか。そもそもバカなのは親と国籍のなせるわざで、運命みたいなもの、運命を変えようとしてもしかたがないのでは。つまり無理に人生を変えようとするのは利口ではないということは、無理に人生を変えようとして、あえいできた人たちの人生もまた変えてはならいなのでは。決まったことを変えてもしょうがないのなら、決まったことを変え続けようとする行為もまた決まったこととして変えない方が利口です。
このレヴューアーはこの映画に即して説教をしているので、この映画に話をもどすと、映画とか物語とは、どんなにあがいても運命は変えられないというのが定番の結末であるのだが、同時に、運命は変えられないかみにて、実は変わっていたというのも定番の結末であって、両者は往々にして共存する(以前映画『11モンキーズ』や短編「アンチクリストの誕生」について、このことを触れた)。
この映画ではファンタジー仕立てで、変えられない運命が変えられる。もちろんファンタジーだから、変えられた運命にはまたつけがまわってきて予期せぬ負の部分が立ち上がる。時分の人生を変え、死んだ娘を取りもどしたいという、悔悟の人生を送る父親の切なる願いが、逮捕をまぬがれて逃亡したいという犯罪者の身勝手な願望と重なってくる。もし自分の人生を変えられるのなら、犯罪者もまた罰を免れることになる。得るものがあれば失うものがある。いいかえると得るものには良性面と悪性面とがある。この危険と表裏一体化した願望を実現する装置を、この映画では最後に壊すことになる。
5年の時差のある両世界をつなぐドアは、悪魔も招き入れる危険なドアであり、最後にそれを破壊することで、世界は安定を取りもどす。
ただし、たんに危険な装置を壊したというたけではなく、そこにはさまざまな主題がからんでいる。
このドアを主人公が壊したのは、5年後の世界に逃れていった5年前の妻/母と娘がつかまらないようにしたためである。これを忘れてはならない。つまり娘を失ってから悔恨の日々と送る主人公は、娘の死をとおして、娘と妻への愛を5年後の世界において回復していた。だからこそ5年前の世界によき父親でありよき夫して帰還しえた。彼の人生は変わっていたのである--タイム・ループする以前に。そのご褒美であるかのように、あるいは奇跡が起こったかのように、5年前の世界にもどった彼は、家族から愛されるようになる。そして彼はその愛に応えるべく、危機の迫った5年前の妻と娘を、5年後の世界に逃がしてやる――主人公自身が犠牲となることで。こうして彼は一度は破綻していた人生をもとにもどしリセットしただけではない。修復された家族愛を、自己犠牲を通して最後まで全うしたのである。
こうしてドアの破壊は、ドアが悪用されないためにドアそのものを破壊するという社会的倫理にもとづく行動であると同時に、妻と娘との永遠の別れを覚悟しつつ、二人を守るための家族愛に基づく行為であるともいえる。いずれにせよ主人公の人生は、結局娘を失うことになって運命はかわらない、あるいは運命はかえてはならないかみえて、同時に、愛の奇跡というほどのものではないとしても、確実に変わっていたのである。
繰り返すと、主人公は、直接的ではないとしても、半ば自分の責任で娘を溺死させる。またそのことで妻とも離婚して5年たつ。しかし主人公にとって、娘への愛は冷めていて、娘は溺死する前にすでに死んでいたようなものだし、妻とは離婚する前にすでに家庭内離婚状態だった(近所の同じ画家仲間の女性と浮気をしていた)。しかし娘の死を契機に、娘への愛を取り戻し、妻と離婚することによって妻への愛も回復した主人公は、しかし、悔やんでも悔やみきれない、すでにとりかえしのつかない自分の人生をはかなみ自死を選ぶのだが、奇跡的に5年前の過去のもどり娘を助け家族の愛をとりもどす。失敗した人生をやりなおすことができた。
もちろん、そう簡単に過去の過失をなくし、人生をリセットできるのなら、人生の意味がなくなる。人生はやりなおしがきかないところに意味がある。いやそれどころか、簡単に人生がリセットできるのなら、それを悪用して、犯罪者が過去にもどって処罰を逃れることができる。犯罪者がべつの人生を選択して、そこで悪事のかぎりをつくすこともできる――処罰されることなく。タイムマシンができて過去へ移動できるなら世界は終わり、人間は破滅することは目に見えている。
しかしタイム・ループ物の設定の根底にあるセカンド・チャンスを求める狂おしい願いは、簡単に実現してはならないどころか、そもそも現実において、実現するはずもないのだが、実現しないがゆえに、手段と方法をかえて実現させずにはいられない――それが人間だから。たとえばファンタジーにおいて人間はタイム・ループを実現する。セカンド・チャンスの夢をみる。
映画におけるタイム・ループ物の流行(はたしてほんとうに人気があるのかどうかは別として)は、現在の格差社会において、格差が固定され、社会がますまる流動性を失い、親ガチャの時代なるがゆえに(「こういった現実を直視すれば、無理に人生を変えようとしない方が利口です」と説教をするネトウヨ的偽善者が出てくるがゆえに)、逆に、いつでもリセットがきくゲームと同様に、頻繁に出現することになったともいえる。タイム・ループ物の出現と流行は、タイム・ループできない現実と社会への絶望に由来する(それを絶望は無意味だ、現実は変えられない、格差はなくならない、あがいてもだめだ、あきらめるのが利口だと説教する者には、説教することによって何かを変えようとすること自体、おまえの言っていることと語っていることとの言行不一致だと嘲笑を投げかけてやれ)。
しかし格差社会の出現以前から、人間はタイム・ループを実現する領域をこしらえてきた。文学、それも小説ということで。タイム・トラベル、タイム・リープ、タイム・ループといったSFジャンルのことではない。そうしたジャンルの出現以前の小説というジャンルそのものが最初からタイム・ループ物として設定されていた。
たとえば
とプルースト『失われた時を求めて①第一篇「スワン家のほうへⅠ」』(光文社古典新訳文庫2010)の「訳者前口上」で訳者の高遠弘美氏は述べる(p.13)。読者を作品世界へと誘うこの魅力的な文章を批判するつもりなどない。作品への導入のためのレトリカルな文章に対し、「ちなみに何も知らない無垢な読者というものは存在しませんよ」と批判するのはたやすいが野暮というものだろう。ただ、何も知らない読者がわくわくしながら作品の世界を読み進むというイメージが、よりにもよってプルーストの『失われた時を求め』を材料にして語られるのは何とも滑稽だといいたいのである。
通常の小説がなぜ過去形で語られるのかについていろいろな議論がある。読者にとっては、事件は読者のいまとここ、読者の現在で起こっているのであって、上記の引用のとおりである。読者は先がわからぬまますすむ。ところが小説の語りは過去形なのであって、事件はすでに終わっているらしい。ところが読者は事件が終わったことも、どう終わったことも、まったく知らされていない。では、いま読者というのはどういう立ち位置にいるのだろうか。それは二度目の(ことによるのn度目の)人生を送ったり目撃したりしているのだが、あいにく記憶喪失でいる――ただ、これが二度目(n度目)であることは意識しているということである。読者はタイム・ループしている。一度起こったことを再体験している。タイム・ループは小説の誕生とともに始まった。
ただし、こうしたことは通常の小説では、むしろ隠されている。読者は、事件の当事者あるいは原因であれ目撃者であれ、未知の展開を、ただ初めて体験するにすぎない。しかし、時々、これが二度目の出来事、回想色に強く彩られる作品が登場する。
プルーストの『失われた時を求めて』では、語られることは最初の人生ではなく第二の人生である。読者は、すでに終わったこと、とりかえしのつかないこと、変えられぬ運命のようなものをひしひしと感じながら、同時に、未知なるがゆえの多様な可能性を想起しながら先に進む。読者は、出来事についての記憶を喪失していながら、第二の出来事・人生を歩むタイム・ルーパーなのである――『失われた時を求めて』は、このことを記憶喪失の読者に片時も忘れさせない(なおこの洞察を私はアドルノ『プリズメン』(ちくま学芸文庫)から得ているのだが、詳しいことはいずれ)。なお、この長大な小説そのものがループ作品であることはいわずもがなのことではあるが、指摘しておく。
私たちは、自分の人生をどう生きているのだろうか。予言者でもない私たちは自分の人生の先行きや終わりはまったくわからない。そのため一度の人生を無我夢中でがむしゃらに、あるいは一度しかないのだから有意義に生きるか、運命は変えられない、なるようにしかならない、親ガチャだとして、なにもしないか、ひたすら与えられた責務だけをこなす受動的な人生かの、いずれかとなりそうなものだが、いくら運命は決まっているといっても、何もしない人生を西洋人(とりわけドイツ人)は許容するわけがない。
一度しかない人生だから有意義に生きるという考え方は、しかし、どうせなにをしても運命は決まっているという悲観論と矛盾対立することになる。もうひとつの考え方は、先に述べたEinmal ist Keinmal (アインマル・イスト・カインマル)。ドイツのことわざ。一度はものの数に入らない。反復ではないと意味がない。私たちはいま少なくとも二度目の人生を送っていると考えることで、たとえ結末は決まっていても、なにをしても同じかもしれないが、少なくとも二度目であるという意識は私たちの生き方に変化と意味をもたらすだろう。なにもしないで生きた一度きりの人生、無我夢中で生きた一度きりの人生、一度しかないかけがえなのない人生を有意義に生きようと頑張った人生、いずれも一度きりの人生は、生きたことにはならない。アインマル・イスト・カインマル。
そもそも、一度きりの人生だから有意義に生きようと思うとき、あるいは何をやっても運命は変えられないという思うとき、あなはたは、すでに二度目の人生を生きていたのではないのか。あなたは、タイム・ループしているのである。
あるいはこうも言える、恋はデジャヴ、人生もデジャヴ、と。
映画は、5年後の主人公が、5年後のからこの世界にやってきた元妻とともにプールの脇にたたずむところで終わる。SFというよりも、あるいは『ボディ・スナッチャー』というよりもファンタジーともいえるこの映画は、ここでその特徴を十全に発揮する。つまり、この映画の最後は、べつに説明はないし、そうでなければならないということもないのだが、夢オチの可能性を臭わせている。5年前の世界にタイム・スリップをして娘を助け、家族愛をとりもどす物語は、死んだ娘への断ちきれぬ思いが抱かせた夢あるいは幻想にすぎなかった。そして最後に夢から覚めた。
妻も同じである。娘を死なせた夫を許すことができず離婚したが、5年前の世界で娘が生きていることを知った元妻は、みずから5年前の世界で死んだ娘と再会をはたすのだが、その5年前の世界にいる過去の自分と葛藤状態になり、最後には、娘のためを思って娘を手放すことで、娘への利己的愛から真の家族愛に目覚め、また娘のためにみずから犠牲になろうとした元の夫を許す気持ちにもなったのではないか。たとえそれが夢のなかの出来事だったとしても。
娘を失って夫婦関係も解消した夫婦が、そのようなファンタジーを共有することで、再び夫婦愛を取りもどすことになった。前と同じように娘はいなくなったままだが、冷え切っていた夫婦愛が穏やかに復活した。それがこの映画の結末ではないだろうか。たとえ夢だったとしても、よい夢だった、と。また夢落ちでないなら、この夫婦がこれから暮らす郊外の住宅街は殺人鬼に乗っ取られている恐怖の住宅街ということになり、そんなところに誰が住めるというのだろうか。
失ったものは取りもどせない。もし簡単に取りもどせるようになったら私たちの倫理観はおかしくなるだろうし、私たちはみんな過去の自分を殺害する犯罪者になりさがる。しかしファンタジーのなかでなら夢のなかでなら(小説のなかで、映画のなかでなら)、失ったものは取りもどせる。もちろん夢から覚めたあとでは、喪失感がさらに強く私たちを襲うとしても、同時に、失ったものと出会えた夢やファンタジーや小説や映画は、私たちの精神を変えるのである。おそらく良き方向に。愛と許しの方向に。それがファンタジーの、そして死者の力である。映画とはまさにそのような治癒的なファンタジーという側面ももっているのである。そしてこの治癒的なファンタジーは、人生がデジャヴであることを実感させるのである。
おそらく緊迫した展開のなかで、一方にあるのは、失敗した現在から失敗をまだ知らない過去への逃走という身勝手な犯罪的な行為、もう一方には、過去の失敗をなんとしても防ぎたいセカンド・チャンスを求める人間の切つない願望と苦悩、この両者の間でテーマ的な緊張関係が認められ、観る者の意識がはげしくゆさぶられるのである。
結末は、ある意味、予想どおりである。何処でもドアならぬ、5年を隔てる二つの世界をむすぶタイムマシン的な洞窟と扉を主人公はあえて破壊し、ふたつの世界の行き来はできなくなる。5年前の母と娘は5年後の世界に逃れ、5年後の世界からやってきた妻とダニエルは、この世界に取り残されるが、失った夫婦愛を取りもどすかにみえる。
Amazonのレヴューに次のようなものがある――
5つ星のうち4.0 因果の鎖は遡れない。もし遡れたら…こうなる!
2020年3月20日に日本でレビュー済み
前半は退屈ですが中盤から面白くなります。もし5年前に戻って人生をやり直せたら、果たして幸せになれるのか?というテーマ。この作品を通して、結果的にはそうとは限らないということを納得させられますし、そもそもタイムスリップ自体があり得ないということがよく理解できます。中々ショッキングな展開で、反面教師的な意味で見て損はないという感じでしょうか。
略
現実問題として、上を見てもキリがありませんし、下を見てもキリがありません。もっと幸せになれたかもしれないし、もっと不幸せだったかもしれません。どこの国の、いつの時代で、どの両親の元に誕生するかで人生の枠組みはほぼ決まってしまうようです。しかもこの選択のルールは神秘に満ち溢れ個人の手に余るものです。こういった現実を直視すれば、無理に人生を変えようとしない方が利口です。この作品の核心は大体こういうことだと思います。
私は親ガチャということを認めたくはないのだが、こういう意見があると、親ガチャが正しいののではないかと思えてくる。やはり馬鹿な親から生まれるから、こういう馬鹿な意見しか言えないのだろうし、やはり日本人に生まれたから、この程度のことしか言えないのかという批判に、このレヴューアーは理屈からして反論できない。お前がバカなのはお前の責任じゃない、お前の親がバカだから、親の顔が見たいといわれても、このレヴューアーは平気でいられるのだろう。まあ日本人だからバカなのはしかたがない。バカに生まれついたのだから、へたに意見など言おうとしないほうがいいと言われても、バカな日本人らしくへらへらとい笑っているのだろう。まあ、このバカが自説に従うのなら反論などできないのだから。
「こういった現実を直視すれば、無理に人生を変えようとしない方が利口です」というのなら、あなたは周囲にいる者たちの愚かな生き方や人生を無理に変えようとしてはいないか。そもそもバカなのは親と国籍のなせるわざで、運命みたいなもの、運命を変えようとしてもしかたがないのでは。つまり無理に人生を変えようとするのは利口ではないということは、無理に人生を変えようとして、あえいできた人たちの人生もまた変えてはならいなのでは。決まったことを変えてもしょうがないのなら、決まったことを変え続けようとする行為もまた決まったこととして変えない方が利口です。
このレヴューアーはこの映画に即して説教をしているので、この映画に話をもどすと、映画とか物語とは、どんなにあがいても運命は変えられないというのが定番の結末であるのだが、同時に、運命は変えられないかみにて、実は変わっていたというのも定番の結末であって、両者は往々にして共存する(以前映画『11モンキーズ』や短編「アンチクリストの誕生」について、このことを触れた)。
この映画ではファンタジー仕立てで、変えられない運命が変えられる。もちろんファンタジーだから、変えられた運命にはまたつけがまわってきて予期せぬ負の部分が立ち上がる。時分の人生を変え、死んだ娘を取りもどしたいという、悔悟の人生を送る父親の切なる願いが、逮捕をまぬがれて逃亡したいという犯罪者の身勝手な願望と重なってくる。もし自分の人生を変えられるのなら、犯罪者もまた罰を免れることになる。得るものがあれば失うものがある。いいかえると得るものには良性面と悪性面とがある。この危険と表裏一体化した願望を実現する装置を、この映画では最後に壊すことになる。
5年の時差のある両世界をつなぐドアは、悪魔も招き入れる危険なドアであり、最後にそれを破壊することで、世界は安定を取りもどす。
ただし、たんに危険な装置を壊したというたけではなく、そこにはさまざまな主題がからんでいる。
このドアを主人公が壊したのは、5年後の世界に逃れていった5年前の妻/母と娘がつかまらないようにしたためである。これを忘れてはならない。つまり娘を失ってから悔恨の日々と送る主人公は、娘の死をとおして、娘と妻への愛を5年後の世界において回復していた。だからこそ5年前の世界によき父親でありよき夫して帰還しえた。彼の人生は変わっていたのである--タイム・ループする以前に。そのご褒美であるかのように、あるいは奇跡が起こったかのように、5年前の世界にもどった彼は、家族から愛されるようになる。そして彼はその愛に応えるべく、危機の迫った5年前の妻と娘を、5年後の世界に逃がしてやる――主人公自身が犠牲となることで。こうして彼は一度は破綻していた人生をもとにもどしリセットしただけではない。修復された家族愛を、自己犠牲を通して最後まで全うしたのである。
こうしてドアの破壊は、ドアが悪用されないためにドアそのものを破壊するという社会的倫理にもとづく行動であると同時に、妻と娘との永遠の別れを覚悟しつつ、二人を守るための家族愛に基づく行為であるともいえる。いずれにせよ主人公の人生は、結局娘を失うことになって運命はかわらない、あるいは運命はかえてはならないかみえて、同時に、愛の奇跡というほどのものではないとしても、確実に変わっていたのである。
繰り返すと、主人公は、直接的ではないとしても、半ば自分の責任で娘を溺死させる。またそのことで妻とも離婚して5年たつ。しかし主人公にとって、娘への愛は冷めていて、娘は溺死する前にすでに死んでいたようなものだし、妻とは離婚する前にすでに家庭内離婚状態だった(近所の同じ画家仲間の女性と浮気をしていた)。しかし娘の死を契機に、娘への愛を取り戻し、妻と離婚することによって妻への愛も回復した主人公は、しかし、悔やんでも悔やみきれない、すでにとりかえしのつかない自分の人生をはかなみ自死を選ぶのだが、奇跡的に5年前の過去のもどり娘を助け家族の愛をとりもどす。失敗した人生をやりなおすことができた。
もちろん、そう簡単に過去の過失をなくし、人生をリセットできるのなら、人生の意味がなくなる。人生はやりなおしがきかないところに意味がある。いやそれどころか、簡単に人生がリセットできるのなら、それを悪用して、犯罪者が過去にもどって処罰を逃れることができる。犯罪者がべつの人生を選択して、そこで悪事のかぎりをつくすこともできる――処罰されることなく。タイムマシンができて過去へ移動できるなら世界は終わり、人間は破滅することは目に見えている。
しかしタイム・ループ物の設定の根底にあるセカンド・チャンスを求める狂おしい願いは、簡単に実現してはならないどころか、そもそも現実において、実現するはずもないのだが、実現しないがゆえに、手段と方法をかえて実現させずにはいられない――それが人間だから。たとえばファンタジーにおいて人間はタイム・ループを実現する。セカンド・チャンスの夢をみる。
映画におけるタイム・ループ物の流行(はたしてほんとうに人気があるのかどうかは別として)は、現在の格差社会において、格差が固定され、社会がますまる流動性を失い、親ガチャの時代なるがゆえに(「こういった現実を直視すれば、無理に人生を変えようとしない方が利口です」と説教をするネトウヨ的偽善者が出てくるがゆえに)、逆に、いつでもリセットがきくゲームと同様に、頻繁に出現することになったともいえる。タイム・ループ物の出現と流行は、タイム・ループできない現実と社会への絶望に由来する(それを絶望は無意味だ、現実は変えられない、格差はなくならない、あがいてもだめだ、あきらめるのが利口だと説教する者には、説教することによって何かを変えようとすること自体、おまえの言っていることと語っていることとの言行不一致だと嘲笑を投げかけてやれ)。
しかし格差社会の出現以前から、人間はタイム・ループを実現する領域をこしらえてきた。文学、それも小説ということで。タイム・トラベル、タイム・リープ、タイム・ループといったSFジャンルのことではない。そうしたジャンルの出現以前の小説というジャンルそのものが最初からタイム・ループ物として設定されていた。
たとえば
あなたは一語一語を追いながら、いつしかプルーストの世界に入り込んでゆく。目的地を知らされていない長期にわたる航海。しかしそれが、読書というものではなかっただろうか。二重人格の話とは知らずに『ジーキル博士とハイド氏』を読んだ一八八六年の読者。犯人を知らずに『アクロイド殺し』を読んだ一九二六年の読者。彼らと同じように、まったく新鮮な感動とともに、プルーストを読む愉しみ――それが読者を最後まで導いてゆくのではあるまいか。というより、それがなくて、どうして最後まで読み続けることができるのか。
とプルースト『失われた時を求めて①第一篇「スワン家のほうへⅠ」』(光文社古典新訳文庫2010)の「訳者前口上」で訳者の高遠弘美氏は述べる(p.13)。読者を作品世界へと誘うこの魅力的な文章を批判するつもりなどない。作品への導入のためのレトリカルな文章に対し、「ちなみに何も知らない無垢な読者というものは存在しませんよ」と批判するのはたやすいが野暮というものだろう。ただ、何も知らない読者がわくわくしながら作品の世界を読み進むというイメージが、よりにもよってプルーストの『失われた時を求め』を材料にして語られるのは何とも滑稽だといいたいのである。
通常の小説がなぜ過去形で語られるのかについていろいろな議論がある。読者にとっては、事件は読者のいまとここ、読者の現在で起こっているのであって、上記の引用のとおりである。読者は先がわからぬまますすむ。ところが小説の語りは過去形なのであって、事件はすでに終わっているらしい。ところが読者は事件が終わったことも、どう終わったことも、まったく知らされていない。では、いま読者というのはどういう立ち位置にいるのだろうか。それは二度目の(ことによるのn度目の)人生を送ったり目撃したりしているのだが、あいにく記憶喪失でいる――ただ、これが二度目(n度目)であることは意識しているということである。読者はタイム・ループしている。一度起こったことを再体験している。タイム・ループは小説の誕生とともに始まった。
ただし、こうしたことは通常の小説では、むしろ隠されている。読者は、事件の当事者あるいは原因であれ目撃者であれ、未知の展開を、ただ初めて体験するにすぎない。しかし、時々、これが二度目の出来事、回想色に強く彩られる作品が登場する。
プルーストの『失われた時を求めて』では、語られることは最初の人生ではなく第二の人生である。読者は、すでに終わったこと、とりかえしのつかないこと、変えられぬ運命のようなものをひしひしと感じながら、同時に、未知なるがゆえの多様な可能性を想起しながら先に進む。読者は、出来事についての記憶を喪失していながら、第二の出来事・人生を歩むタイム・ルーパーなのである――『失われた時を求めて』は、このことを記憶喪失の読者に片時も忘れさせない(なおこの洞察を私はアドルノ『プリズメン』(ちくま学芸文庫)から得ているのだが、詳しいことはいずれ)。なお、この長大な小説そのものがループ作品であることはいわずもがなのことではあるが、指摘しておく。
私たちは、自分の人生をどう生きているのだろうか。予言者でもない私たちは自分の人生の先行きや終わりはまったくわからない。そのため一度の人生を無我夢中でがむしゃらに、あるいは一度しかないのだから有意義に生きるか、運命は変えられない、なるようにしかならない、親ガチャだとして、なにもしないか、ひたすら与えられた責務だけをこなす受動的な人生かの、いずれかとなりそうなものだが、いくら運命は決まっているといっても、何もしない人生を西洋人(とりわけドイツ人)は許容するわけがない。
一度しかない人生だから有意義に生きるという考え方は、しかし、どうせなにをしても運命は決まっているという悲観論と矛盾対立することになる。もうひとつの考え方は、先に述べたEinmal ist Keinmal (アインマル・イスト・カインマル)。ドイツのことわざ。一度はものの数に入らない。反復ではないと意味がない。私たちはいま少なくとも二度目の人生を送っていると考えることで、たとえ結末は決まっていても、なにをしても同じかもしれないが、少なくとも二度目であるという意識は私たちの生き方に変化と意味をもたらすだろう。なにもしないで生きた一度きりの人生、無我夢中で生きた一度きりの人生、一度しかないかけがえなのない人生を有意義に生きようと頑張った人生、いずれも一度きりの人生は、生きたことにはならない。アインマル・イスト・カインマル。
そもそも、一度きりの人生だから有意義に生きようと思うとき、あるいは何をやっても運命は変えられないという思うとき、あなはたは、すでに二度目の人生を生きていたのではないのか。あなたは、タイム・ループしているのである。
あるいはこうも言える、恋はデジャヴ、人生もデジャヴ、と。
映画は、5年後の主人公が、5年後のからこの世界にやってきた元妻とともにプールの脇にたたずむところで終わる。SFというよりも、あるいは『ボディ・スナッチャー』というよりもファンタジーともいえるこの映画は、ここでその特徴を十全に発揮する。つまり、この映画の最後は、べつに説明はないし、そうでなければならないということもないのだが、夢オチの可能性を臭わせている。5年前の世界にタイム・スリップをして娘を助け、家族愛をとりもどす物語は、死んだ娘への断ちきれぬ思いが抱かせた夢あるいは幻想にすぎなかった。そして最後に夢から覚めた。
妻も同じである。娘を死なせた夫を許すことができず離婚したが、5年前の世界で娘が生きていることを知った元妻は、みずから5年前の世界で死んだ娘と再会をはたすのだが、その5年前の世界にいる過去の自分と葛藤状態になり、最後には、娘のためを思って娘を手放すことで、娘への利己的愛から真の家族愛に目覚め、また娘のためにみずから犠牲になろうとした元の夫を許す気持ちにもなったのではないか。たとえそれが夢のなかの出来事だったとしても。
娘を失って夫婦関係も解消した夫婦が、そのようなファンタジーを共有することで、再び夫婦愛を取りもどすことになった。前と同じように娘はいなくなったままだが、冷え切っていた夫婦愛が穏やかに復活した。それがこの映画の結末ではないだろうか。たとえ夢だったとしても、よい夢だった、と。また夢落ちでないなら、この夫婦がこれから暮らす郊外の住宅街は殺人鬼に乗っ取られている恐怖の住宅街ということになり、そんなところに誰が住めるというのだろうか。
失ったものは取りもどせない。もし簡単に取りもどせるようになったら私たちの倫理観はおかしくなるだろうし、私たちはみんな過去の自分を殺害する犯罪者になりさがる。しかしファンタジーのなかでなら夢のなかでなら(小説のなかで、映画のなかでなら)、失ったものは取りもどせる。もちろん夢から覚めたあとでは、喪失感がさらに強く私たちを襲うとしても、同時に、失ったものと出会えた夢やファンタジーや小説や映画は、私たちの精神を変えるのである。おそらく良き方向に。愛と許しの方向に。それがファンタジーの、そして死者の力である。映画とはまさにそのような治癒的なファンタジーという側面ももっているのである。そしてこの治癒的なファンタジーは、人生がデジャヴであることを実感させるのである。
posted by ohashi at 00:34| 映画 タイムループ
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2021年10月23日
『ザ・ドア 交差する世界』
原題Die Tür 英語題 The Door
マッツ・ミケルセン主演のタイム・ループ映画。SFというよりはファンタジー・ミステリーで、途中までくると先が見えてあとは惰性で最後までと思うと意外な展開がまっている。そのため最後まで飽きさせない。101分のドイツ映画。
マッツ・ミケルセン主演なので、ドイツ映画なのに、終始、北欧のどこか、ノルウェーかスウェーデンの映画(ミケルセン出身のデンマークとも思わず)と終盤まで思い込んでいて、聞こえているドイツ語もすべて北欧の言語にしか聞こえないというボケ具合に自分で自分が恥ずかしくなったが、ただ、とくにどこの国とは設定されておらず(ドイツで撮影されたのだがドイツらしさは希薄になっている)、北ヨーロッパのどこかの国という基本設定らしく、私の混乱も理由がないわけではないとあとでわかった。
マッツ・ミケルセンがアリシア・ヴィキャンデルと共演した映画『ロイヤル・アフェア』で私は、かつてデンマークの公用語がドイツ語だったということを知った。その過去の歴史があってか、デンマークはドイツ語がけっこう通用するらしく、ミケルセンもドイツ語が話せるし、映画のなかでミケルセンはドイツ語で話しているのに、デンマーク語ではない北欧語とまちがえていた私はやはりバカだった。とはいえミケルセンのドイツ語を収録したヴァージョンと、ドイツ語の吹き替えヴァージョンのふたつがあるらしく、私がみたヴァージョンがどちらかは不明。
日本版Wikipediaには映画の内容が詳しく紹介してあるので、その一部を紹介すると
娘が自宅のプールで溺死とその救出。ならびに死んだ娘が死の世界へと誘いというのは、ニコラス・ローグ監督の『赤い影』(Don’t Look Now 1973)を彷彿とさせるし、実際、その影響あるいはオマージュ的なシーンもある。ただし、死んだ娘からの死への誘いをふりきるかたちで主人公はタイム・ループする。
ただ、娘を救出したのだが、
5年前の旧ダヴィッドは情事に行く前に自宅の電話が鳴るのだが放っておく。5年後の新ダヴィッドが電話を止めるのだが、情事の間中電話が鳴り続けていたのか、一端、やんだ電話が再びなり始めたのか、そのへん気になると気になり始めるのだが、ただ映画そのものは、そこをとくに掘り下げてはいないようだ。
5年前と5年後の世界を隔てる洞窟というか、洞窟の扉がどういうものか、なぜそこにあるのか一切説明はないので、そういうものとしてしか受け入れるほかはない。したがってこれは、ファンタジージャンルということになる。つまりSFではないしSF的でもない。ドラえもんの「どこでもドア」も科学的説明はないのだが、未来のテクノロジーという理由付けがあって、それでSFに分類されているとすれば、ここではそうした疑似説明もないので、ファンタジーというほかはない。
また、すりかわりが問題となるのだが、5年前の自分に5年後の自分がすりかわるので、偽物が本物にすりかわったわけではない。本物が本物になりすましたのである。さらにいえば過去の自分を殺しても、未来の自分が存在しうるのかというタイム・トラベルSFによるタイム・パラドクスは完全にスルー。ターミネイターは歴史をかえるために、サラ・コナーやジョン・コナーを殺しにこなくてもよいということになる(映画『ターミネイター』フランチャイズ参照)。
ともかく事故とはいえ、旧ダヴィッドを殺してなりすますことになった新ダヴィッド(歳上のダヴィッド)が、その後、たとえ自分の家族とはいえ、どう妻と娘と暮らしてゆくかが物語の焦点となってゆく。
興味深いのは、娘は父親に強い違和感を抱き、父親が入れ替わったと悟るのだが、同時に入れ替わった後の父親のほうを、自分を心底愛してくれるために、好きになる。妻も同じく違和感のある夫であっても、妻を愛する夫にこれまでにない愛を感ずるようになる。
こうなると、これはマルタン・ゲール物である。16世紀フランスのバスク地方北部の農民マルタン・ゲール(Martin Guerre 1524- 1560以降不明)は、失踪してから8年後帰還するが、帰還後から偽物ではないかという噂がたちはじめ裁判沙汰になるものの、本物と認定される。と、その直後、本物のマルタン・ゲールがあらわれ、偽のマルタン・ゲールは処刑されたというフランス史上有名な詐欺事件。
1982年にジェラール・ドパルデュー、ナタリー・バイ出演で映画化(『マルタン・ゲールの帰還』)されたが、私はこれを観ていない。むしろ1993年にはこれを翻案したアメリカ映画『ジャック・サマーズビー』(リチャード・ギア、ジョディ・フォスター出演)のほうが有名かもしれない。
ナタリー・ゼモン・デーヴィスが、その『マルタン・ゲールの帰還』(平凡社、平凡社ライブラリーに再録されたときは『帰ってきたマルタン・ゲール』とタイトルが変更)で指摘するように、本物か偽物かは、他人にはわからなくても、妻にはわかるはずである。おそらく妻は帰ってきたマルタン・ゲールが偽物とわかったのだろう。だが、夫が失踪中で未亡人にもなれず再婚もできず苦しい社会的立場であった妻にとって、失踪した夫よりも人格者である偽物の夫を受け入れることを選んだというのはありうることである。映画『ジャック・サマーズビー』では南北戦争で死んだマルタン・ゲールの戦友がなりすますのだが、戦争未亡人となった女性にとって再婚できないのは死活問題であり、偽亭主を受け入れることは、もし、いなくなった夫よりも偽者が善人であるなら、選択の余地はなかったのではないかとも考えられる。
この映画『ザ・ドア』において、なりすました新たな夫は、しかし、前の夫――この、妻や娘への愛がないどころか憎悪すら抱いていた夫――に比べると、はるかによい夫でありよい父親である。そのため妻や娘にも受け入れられるし、夫のための盛大な誕生日パーティはまた、この親と娘の家族との再出発・新生パーティでもあるのだろう。こうなると、このままよほどのことが起こらないかぎり、あとは問題を残しつつハッピーエンディングかと思うと、まだ残り40分くらいあり、まだ一波乱起こることが予想される。誕生パーティのその場で、ダヴィッドが入れ替わったのではないかと疑った友人マックスが、ダヴィッドの庭に埋められているダヴィッド本人をみつけ、真相を暴露しようとするのだ……。
後半の驚愕の展開というのは、いまと5年後をつなぐトンネルとかドアの存在が実は広くあるいは非合法なかたちで知られていて、多くの人間が5年後の未来からこの世界にやってきているということである。主人公にとって洞窟トンネルとかドアは偶然みつけたものである。そして5年前の自分に、泥棒とまちがわれて襲われて、5年前の自分を事故のようなかたちで殺したのも、すべて偶然のなせるわざであり、意図的なものではない。ところがこの5年前の世界の近隣住民たちは、5年後の未来からやってきて、住民とすりかわったらしいのだ--主人公と同じように〈元の住民=過去の自分〉を、主人公とはちがって意図的に殺して。
となるとこの郊外住宅地の住民たちは、全員がすり替わった住民、それも元住民を殺した殺人鬼たちであるという恐怖。ただし主人公のダヴィッドも、このことは途中から気づいているようで、とくに説明されないのだが、まだ殺されていない住民であるスーザンに対して愛おしげに分かれを告げたりしている。なぜそうするのか理由もなしに。また不穏な動きをみせるカップルなどもいる(彼らはこれから住民を殺して、すりかわる相談をしているのかもしれない)。
後半は『ボディー・スナッチャー』だと騒ぎ立ているレヴューアーたちがいるのには辟易する。なるほど前半は〈マルタン・ゲールの帰還〉だが、後半はにわかに一気に〈ボディ・スナッチャー〉に変わるように思われる。しかし、あなたは過去の自分を殺して、すりかわってはいないか。あるいは過去の自分を殺したいと思わないか(失敗した過去を抹消するために、あるいは失敗を知らない過去の自分とすりかわるために)。あなたは、他人の体を奪っている宇宙人ではないはずだ。あなたの体はあなた自身の体ではないか。あなたは本物になりすました本物である。あるいは本物になりすました本物ではなければ、あなたは偽物である。
『ボディ・スナッチャー』は、宇宙人が、つまりは共産主義者が、善良な市民の精神をうばって、その肉体に宿ってコントロールするという冷戦期パラノイア的幻想の産物であることはまちがいない。それに対して、過去の自分を未来の自分が殺す設定は、パラノイアとは無縁の形而上性を帯びている。私の人生は、ほんとうは二度目、あるいは二度目以上の人生、未来の自分に奪われたというよりも未来の自分が過去の自分に憑依している、おそらく複数回憑依している人生だと、あなた感じたことはないのだろうか。
Einmal ist Keinmal (アインマル・イスト・カインマル)――ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』のなかで主人公のトマーシュが紹介しているドイツのことわざである。一度は、ものの数に入らない。それがどのような意味であろうともいい。私たちは、一度以上の人生を生きている。当然、私たちは、自分自身と少なくとも一度以上はすりかわっている。自分自身を何度も殺している。
映画の物語ではコミュニティー全体が未来からきたもうひとりの自分に乗っ取られているという可能性。この世界では、破綻し失敗した人生のなかで過去の過失を修復したいという切なる願いのなかで過去への扉が開かれるというだけではないようなのだ。失敗なり破滅あるいは犯行から、過去へと逃亡しようとする犯罪者もまた扉を開けてこの世界に逃れてきた。彼らは犯罪者なので、この世界の住民を殺すことなどいとも簡単にやってのけられる(たとえ、それは自分を殺すことなのだが――とはいえ自分以外の人間も必要に応じて殺しているようなのだ)。こうなると、悪に染まらず幸福なまま生きている自分が、犯罪者となった未来の自分に殺されるという理不尽な状況が生まれてくる。
ダヴィッドの妻は、隣人の夫妻が殺されるのを目撃し、その夫妻の娘と自分の娘を自宅にかくまって、警察に訴えるが、警察は隣人夫妻の娘を拉致監禁したとしてとりあってくれない。このあたりから実は警察もぐるになって、住民のすり替わりを監視・統御しているらしいとわかってくる。ダヴィッドのもとにも妻が電話をかけてくる。妻といっても、5年後の世界からこの世界にやってきた元妻であり、自分の娘が生きているこの世界に娘を引き取りにやってきたのである。だがそのためにはこの5年前にいるダニエルの妻は殺されねばならない。そこでダニエルは、五年前の世界の妻(せっかく夫婦愛を回復できた妻)を殺さねばならなくなる。郊外の住宅街を住民が拳銃を隠すことなく手にして歩いたら、どこの国の警官も注意するはずだが、この世界では警官も、すりかわりのための住民殺しを黙認しているようで、恐怖の住宅街である。
つづく
マッツ・ミケルセン主演のタイム・ループ映画。SFというよりはファンタジー・ミステリーで、途中までくると先が見えてあとは惰性で最後までと思うと意外な展開がまっている。そのため最後まで飽きさせない。101分のドイツ映画。
マッツ・ミケルセン主演なので、ドイツ映画なのに、終始、北欧のどこか、ノルウェーかスウェーデンの映画(ミケルセン出身のデンマークとも思わず)と終盤まで思い込んでいて、聞こえているドイツ語もすべて北欧の言語にしか聞こえないというボケ具合に自分で自分が恥ずかしくなったが、ただ、とくにどこの国とは設定されておらず(ドイツで撮影されたのだがドイツらしさは希薄になっている)、北ヨーロッパのどこかの国という基本設定らしく、私の混乱も理由がないわけではないとあとでわかった。
マッツ・ミケルセンがアリシア・ヴィキャンデルと共演した映画『ロイヤル・アフェア』で私は、かつてデンマークの公用語がドイツ語だったということを知った。その過去の歴史があってか、デンマークはドイツ語がけっこう通用するらしく、ミケルセンもドイツ語が話せるし、映画のなかでミケルセンはドイツ語で話しているのに、デンマーク語ではない北欧語とまちがえていた私はやはりバカだった。とはいえミケルセンのドイツ語を収録したヴァージョンと、ドイツ語の吹き替えヴァージョンのふたつがあるらしく、私がみたヴァージョンがどちらかは不明。
日本版Wikipediaには映画の内容が詳しく紹介してあるので、その一部を紹介すると
有名画家のダヴィッドは、妻マヤの留守中に隣人で愛人のジアとの情事を楽しんでいた。ところがその間に、1人娘のレオニーが自宅の庭のプールに落ち、後になって気付いたダヴィッドはレオニーを救出しようとするが既に事切れていた。5年後、娘が亡くなった要因の一つが愛人との情事であったことからも、幻滅した妻マヤから別れを告げられており、全てを失ったダヴィッドは娘と同死に方をしようと入水したが、友人のマックスに救助され死ぬことができず、とりあえずはマックスと酒を飲んでひとまず落ち着く。気晴らしに外に出たダヴィットは不思議な蝶に導かれるままに怪しいトンネルに入って行く。そして奥のドアをあけると、そこは5年前のレオニーが事故に遭う日であった。ダヴィッドはすぐに自宅の庭に駆けつけ、プールに落ちたレオニーを救い出す。……
娘が自宅のプールで溺死とその救出。ならびに死んだ娘が死の世界へと誘いというのは、ニコラス・ローグ監督の『赤い影』(Don’t Look Now 1973)を彷彿とさせるし、実際、その影響あるいはオマージュ的なシーンもある。ただし、死んだ娘からの死への誘いをふりきるかたちで主人公はタイム・ループする。
ただ、娘を救出したのだが、
ジアとの情事を終えて帰って来た「5年前のダヴィッド」がダヴィッドを泥棒と勘違いして襲いかかってくる。2人はもみ合いになり、ダヴィッドは誤って「5年前のダヴィッド」を偶然あった鉛筆で首を刺して殺してしまう。ダヴィッドは「5年前のダヴィッド」の死体を庭に埋め、この世界のダヴィッドとして生きて行くことにする。……
5年前の旧ダヴィッドは情事に行く前に自宅の電話が鳴るのだが放っておく。5年後の新ダヴィッドが電話を止めるのだが、情事の間中電話が鳴り続けていたのか、一端、やんだ電話が再びなり始めたのか、そのへん気になると気になり始めるのだが、ただ映画そのものは、そこをとくに掘り下げてはいないようだ。
5年前と5年後の世界を隔てる洞窟というか、洞窟の扉がどういうものか、なぜそこにあるのか一切説明はないので、そういうものとしてしか受け入れるほかはない。したがってこれは、ファンタジージャンルということになる。つまりSFではないしSF的でもない。ドラえもんの「どこでもドア」も科学的説明はないのだが、未来のテクノロジーという理由付けがあって、それでSFに分類されているとすれば、ここではそうした疑似説明もないので、ファンタジーというほかはない。
また、すりかわりが問題となるのだが、5年前の自分に5年後の自分がすりかわるので、偽物が本物にすりかわったわけではない。本物が本物になりすましたのである。さらにいえば過去の自分を殺しても、未来の自分が存在しうるのかというタイム・トラベルSFによるタイム・パラドクスは完全にスルー。ターミネイターは歴史をかえるために、サラ・コナーやジョン・コナーを殺しにこなくてもよいということになる(映画『ターミネイター』フランチャイズ参照)。
ともかく事故とはいえ、旧ダヴィッドを殺してなりすますことになった新ダヴィッド(歳上のダヴィッド)が、その後、たとえ自分の家族とはいえ、どう妻と娘と暮らしてゆくかが物語の焦点となってゆく。
興味深いのは、娘は父親に強い違和感を抱き、父親が入れ替わったと悟るのだが、同時に入れ替わった後の父親のほうを、自分を心底愛してくれるために、好きになる。妻も同じく違和感のある夫であっても、妻を愛する夫にこれまでにない愛を感ずるようになる。
こうなると、これはマルタン・ゲール物である。16世紀フランスのバスク地方北部の農民マルタン・ゲール(Martin Guerre 1524- 1560以降不明)は、失踪してから8年後帰還するが、帰還後から偽物ではないかという噂がたちはじめ裁判沙汰になるものの、本物と認定される。と、その直後、本物のマルタン・ゲールがあらわれ、偽のマルタン・ゲールは処刑されたというフランス史上有名な詐欺事件。
1982年にジェラール・ドパルデュー、ナタリー・バイ出演で映画化(『マルタン・ゲールの帰還』)されたが、私はこれを観ていない。むしろ1993年にはこれを翻案したアメリカ映画『ジャック・サマーズビー』(リチャード・ギア、ジョディ・フォスター出演)のほうが有名かもしれない。
ナタリー・ゼモン・デーヴィスが、その『マルタン・ゲールの帰還』(平凡社、平凡社ライブラリーに再録されたときは『帰ってきたマルタン・ゲール』とタイトルが変更)で指摘するように、本物か偽物かは、他人にはわからなくても、妻にはわかるはずである。おそらく妻は帰ってきたマルタン・ゲールが偽物とわかったのだろう。だが、夫が失踪中で未亡人にもなれず再婚もできず苦しい社会的立場であった妻にとって、失踪した夫よりも人格者である偽物の夫を受け入れることを選んだというのはありうることである。映画『ジャック・サマーズビー』では南北戦争で死んだマルタン・ゲールの戦友がなりすますのだが、戦争未亡人となった女性にとって再婚できないのは死活問題であり、偽亭主を受け入れることは、もし、いなくなった夫よりも偽者が善人であるなら、選択の余地はなかったのではないかとも考えられる。
この映画『ザ・ドア』において、なりすました新たな夫は、しかし、前の夫――この、妻や娘への愛がないどころか憎悪すら抱いていた夫――に比べると、はるかによい夫でありよい父親である。そのため妻や娘にも受け入れられるし、夫のための盛大な誕生日パーティはまた、この親と娘の家族との再出発・新生パーティでもあるのだろう。こうなると、このままよほどのことが起こらないかぎり、あとは問題を残しつつハッピーエンディングかと思うと、まだ残り40分くらいあり、まだ一波乱起こることが予想される。誕生パーティのその場で、ダヴィッドが入れ替わったのではないかと疑った友人マックスが、ダヴィッドの庭に埋められているダヴィッド本人をみつけ、真相を暴露しようとするのだ……。
後半の驚愕の展開というのは、いまと5年後をつなぐトンネルとかドアの存在が実は広くあるいは非合法なかたちで知られていて、多くの人間が5年後の未来からこの世界にやってきているということである。主人公にとって洞窟トンネルとかドアは偶然みつけたものである。そして5年前の自分に、泥棒とまちがわれて襲われて、5年前の自分を事故のようなかたちで殺したのも、すべて偶然のなせるわざであり、意図的なものではない。ところがこの5年前の世界の近隣住民たちは、5年後の未来からやってきて、住民とすりかわったらしいのだ--主人公と同じように〈元の住民=過去の自分〉を、主人公とはちがって意図的に殺して。
となるとこの郊外住宅地の住民たちは、全員がすり替わった住民、それも元住民を殺した殺人鬼たちであるという恐怖。ただし主人公のダヴィッドも、このことは途中から気づいているようで、とくに説明されないのだが、まだ殺されていない住民であるスーザンに対して愛おしげに分かれを告げたりしている。なぜそうするのか理由もなしに。また不穏な動きをみせるカップルなどもいる(彼らはこれから住民を殺して、すりかわる相談をしているのかもしれない)。
後半は『ボディー・スナッチャー』だと騒ぎ立ているレヴューアーたちがいるのには辟易する。なるほど前半は〈マルタン・ゲールの帰還〉だが、後半はにわかに一気に〈ボディ・スナッチャー〉に変わるように思われる。しかし、あなたは過去の自分を殺して、すりかわってはいないか。あるいは過去の自分を殺したいと思わないか(失敗した過去を抹消するために、あるいは失敗を知らない過去の自分とすりかわるために)。あなたは、他人の体を奪っている宇宙人ではないはずだ。あなたの体はあなた自身の体ではないか。あなたは本物になりすました本物である。あるいは本物になりすました本物ではなければ、あなたは偽物である。
『ボディ・スナッチャー』は、宇宙人が、つまりは共産主義者が、善良な市民の精神をうばって、その肉体に宿ってコントロールするという冷戦期パラノイア的幻想の産物であることはまちがいない。それに対して、過去の自分を未来の自分が殺す設定は、パラノイアとは無縁の形而上性を帯びている。私の人生は、ほんとうは二度目、あるいは二度目以上の人生、未来の自分に奪われたというよりも未来の自分が過去の自分に憑依している、おそらく複数回憑依している人生だと、あなた感じたことはないのだろうか。
Einmal ist Keinmal (アインマル・イスト・カインマル)――ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』のなかで主人公のトマーシュが紹介しているドイツのことわざである。一度は、ものの数に入らない。それがどのような意味であろうともいい。私たちは、一度以上の人生を生きている。当然、私たちは、自分自身と少なくとも一度以上はすりかわっている。自分自身を何度も殺している。
映画の物語ではコミュニティー全体が未来からきたもうひとりの自分に乗っ取られているという可能性。この世界では、破綻し失敗した人生のなかで過去の過失を修復したいという切なる願いのなかで過去への扉が開かれるというだけではないようなのだ。失敗なり破滅あるいは犯行から、過去へと逃亡しようとする犯罪者もまた扉を開けてこの世界に逃れてきた。彼らは犯罪者なので、この世界の住民を殺すことなどいとも簡単にやってのけられる(たとえ、それは自分を殺すことなのだが――とはいえ自分以外の人間も必要に応じて殺しているようなのだ)。こうなると、悪に染まらず幸福なまま生きている自分が、犯罪者となった未来の自分に殺されるという理不尽な状況が生まれてくる。
ダヴィッドの妻は、隣人の夫妻が殺されるのを目撃し、その夫妻の娘と自分の娘を自宅にかくまって、警察に訴えるが、警察は隣人夫妻の娘を拉致監禁したとしてとりあってくれない。このあたりから実は警察もぐるになって、住民のすり替わりを監視・統御しているらしいとわかってくる。ダヴィッドのもとにも妻が電話をかけてくる。妻といっても、5年後の世界からこの世界にやってきた元妻であり、自分の娘が生きているこの世界に娘を引き取りにやってきたのである。だがそのためにはこの5年前にいるダニエルの妻は殺されねばならない。そこでダニエルは、五年前の世界の妻(せっかく夫婦愛を回復できた妻)を殺さねばならなくなる。郊外の住宅街を住民が拳銃を隠すことなく手にして歩いたら、どこの国の警官も注意するはずだが、この世界では警官も、すりかわりのための住民殺しを黙認しているようで、恐怖の住宅街である。
つづく
posted by ohashi at 16:10| 映画 タイムループ
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2021年10月18日
『パラドクス』2
前回のネタバレのあらすじのなかでは紹介していなかったが、エンドクレジットの前に、登場人物たちの、ありえたかもしれないその後の人生の断片が、フラッシュフォーワード的に映し出されるのだが、最初にみたとき、誰が誰だかわからず、いい加減に映画をみていたことを痛感し、あらためて最初から見直すことになった。
まあ外国人の顔がみんな同じにみえてしまって困るというのは昭和の老人みたいで自分で自分を恥じたが、しかし同じ監督の次回作『ダークレイン』をみると、顔がなんとなく区別しにくいのは、案外意図的だったのかもしれないと、自分を恥じるのをやめた。
それはともかく、ありえたかもしれない人生は、映画『パラドクス』の本編において登場人物たちを襲う出来事に比べたら、異様なところがなく平凡な人生かもしれないが、幸せな人生である。ただロベルトだけは、本編でも悲惨な人生だったが、もうひとつの人生でも破滅しているというのは哀れすぎる。
なおロベルトは本編では10歳のとき出来事に襲われて35年間すごしたあと、再び出来事に襲われて35年経過するので、80歳で息をひきとることになるのだが、もう一つの人生では出来事が起こらなかったらという設定となる。
ただしもう一つの人生、ありえたかもしれない人生というのは、この映画の設定では、あるはスペイン語が分からないので、字幕が本当に正しいのかどうか判定できないのだが、正しいとしたら、もう一つの人生のほうが現実であって、無限につづく階段に閉じ込められたり、無限にループする道路に閉じ込められたりする世界は、嘘の世界ということになる。
ということは基本的にハッピーなもうひとつの人生が現実の人生であるというのなら、思い出されるのは、ライプニッツの最善説である。つまり神のつくったこの世界は、さまざまな他の可能な世界のなかで、最善・最高のものであるという考え方。もちろん私たちが生きているこの世界も最善の世界である。何を狂ったことをと、批判されても当然である。この世界のどこか最善なのだ、と。
ただしライプニッツは、もうひとつ弁神論というのを展開していて、この世に悪があっても、それは神の配慮によるもので、私たちが悪を克服したり駆逐したりして更なる高次の存在へと進化をとげる契機となるように神が仕組まれたということになる。
ただしこの最善説は、もうひとつのことを考えていない。つまりこの世を最善なものとするとき、最善ではない世界はどうなったのかという問題。もちろん却下されたり廃棄されたりした世界というのはどうなったのかという問題なのだが、最善ではない世界というのは、もちろん思弁的なもの、あくまでも実現しなかった可能性であって、それを実在したかのように扱うことはできないのだが、またライプニッツの時代には、それでもよかったのだが、SFによる異世界の創造あるいはパラレルワールド的な発想によって、いまの世界が最善であるとするなら、それは最善はではない無限のパラレルワールドの廃墟の上の成立しているというイメージが生まれてくる。
これは最善説の裏面というか暗示面だが、ここで発想を変えて、私たちがいま閉じ込められている世界が、可能なパラレルワールドのなかで最悪の世界であるという最悪説というものを措定する(実際、最善説よりも、この最悪説のほうが説得力がある――私たちの世界の腐敗の現実をみるにつけても)。そしてこの最悪説の裏面という暗示面は何かと考えてみると、おそらくそれは明るい希望である。つまり、いまのこの世界が最悪なら、これ以上は悪くならない、だからこの世界は、よくなるしかなく、今は最低でも明るい未来が待っているわけだから。もちろん、『リア王』のエドガーが語ったように、本当の最悪をみるまでは、これが最悪というなともいえる――最悪の最悪があるかもしれないという不安は払拭できないのだが。
ならば最善説の裏面とは、最善が実現するために棄てられた無数の可能性である。無限につづく二位以下の世界。採用されなかった世界の無限の廃墟のうえに最善世界が構築されているという、否定性の闇のなかに囲繞された最善世界。最善説の世界に生きる私たちは、たとえいうなら周囲に広がる飢えに苦しむ貧民層をみながら暮らしている一握りの富裕層みたいなものである。まともな人間なら神経がおかしくなる。
しかも最善説の世界とは、問題があって実現しなかった否定的世界は、問題があるものとしてそのまま放置され維持されなければならない。富裕層が貧民層を助け幸せにすることは、たとえ富裕層の側がそれを望んでもできない。なぜなら貧民層がなくなれば富裕層もなくなるからである。格差社会の怖いところは、弁別的差異を形成する一項として貧民層が存在し、弁別的差異の成立のためには貧民層は維持されることである。
個人的心理的レベルで考えると、いまの私たちが生きているこの世界は最善の世界かもしれない――たとえ個人的にみてさまざまな問題があるにしても。そしていまのこのささやかな成功と幸福の人生を実現したのは、私の努力ではなくて、破滅して私の負の人生の集積なのである。心象風景としては、私のささやかな幸福の周囲に、ありえたかもしれない私の成功の人生ではなく、ありえたかもしれない私の失敗の人生の瓦礫が無限のかなたにまで広がっているのである。そして恐ろしいのは、この広がりは私自身が求めこしらえたものでもある。私がこしらえたのは私の人生は、私がこしらえ、しかもつねに維持している無限の廃墟によってはじめて完成あるいは最善のものとなる。
あるいは別の心象風景では、いまの私とは別人の私が、無限にループする階段室に閉じ込められ、無限につづく荒野の一本道で生かされつづけている――私が死ぬまでは。あるいはまた別人の私が、永遠の晴天の午後がつづく荒野の一本道から出られなくなっている。おそらく別人の私は、私と人生をともにしている。私が死ぬまで、彼らは私の心象風景のなかに閉じ込められているのである。
こう考えると、いくらでも、いろいろなかたちで解釈できる映画『パラドクス』の空間的にループした迷宮世界とそこに閉じ込められた人物たちの世界に対してひとつの(決定的ではないが)有力な解釈を提供できる。
ただし、35年周期の世界から解放されても、ふたたび35周年の周期の世界に閉じ込められてしまう人物たちの生き様をみていると、そしてすでに前回でも触れた、閉じ込められても食料は無限に供給されて生かされるという監獄での囚人状態を思うに付けても、出所しても、すぐにまた収監される犯罪者のイメージあるいは辞めてもすぐに手をだしてしまうドラッグのイメージが、人物たちの運命と強く結びつく。
しかし、彼らの運命を常習的犯罪者とか薬物依存症患者のメタファーとだけ決めつけるのはやや軽薄すぎて、むしろ常習的犯罪者あるいは薬物依存症患者そのものがメタファーとなっている格差社会における貧困層を連想すべきかもしれない。そうなるとこの映画における閉じ込められる人々の運命は格差社会における貧困層のありようそのものといえるかもしれない。
ただし閉じ込められる前の彼らは、貧困層ではない。富裕層と貧困層の中間層ともいえる人びとであるが、そうであるがゆえにワンランク下への転落/追放が、ありえない可能性どころか身近な可能性そのものとなる。そして……
そしてグローバル化した世界において、先進国と途上国との格差がなくなるどころか格差がひろがる、あるいは途上国は、途上国状態あるいは低開発状態にとどめおかれ、永遠の現在に収監されるのと同様に、格差社会において貧困層は、貧困層として生かされることで富裕層の永遠の引き立て役となって生かされるのである。しかもこの格差社会における貧困層は、成り上がることはできないまま破滅してゆくのだが、生かさず殺さず状態の彼らが死滅することはない。彼らが消滅しても、中間層という予備軍がある。
結局、ワクチンによる遺伝子操作による人工調整という陰謀説(のひとつ)、あるいは親ガチャという、どの親に生まれるかで社会的ステータスが決まるという考え方も、不幸を維持することで成立する格差社会を照らす内部の鏡のような機能をはたしているというほかはない(親ガチャは、親が悪いわけではない――そういう仕組みをつくった社会が悪いのであって、親は変えられないが社会は変えられる。世界に冠たる劣等民族である日本人に生まれたことを嘆いてもしょうがない。日本人を変えることはできる)。
映画『パラドクス』の場面のひとつ、ループして終わりのない階段室の場面は、実際の建物の階段室を使って撮影されたとのこと。幸い、撮影期間中、住民あるいは従業員が、その階段を使うことはなかったようだ。建物には空き部屋が多く(それゆえ撮影も許可された)、居住者が少なく彼らが階段を利用しなかったということらしい。
この階段室は、ある意味、そこにあることはわかっていても誰も利用しない影の世界である。個人的レベルでいえば、あまり思い出したくない負の領域である。足を踏み入れたくない、踏み入れる必要もない無意識的領域である。社会的にいえば、ここは必要性があって維持されているものであっても、利用されたり顧みられたりすることがないゆえに、そこで何が行われているか時々不安になる闇の領域である――ひょっとして利用されない階段室にホームレスが住み着いてもおかしくないのだから。ロケ現場そのものが、この映画にとっては社会的意味をおびているのである。
まあ外国人の顔がみんな同じにみえてしまって困るというのは昭和の老人みたいで自分で自分を恥じたが、しかし同じ監督の次回作『ダークレイン』をみると、顔がなんとなく区別しにくいのは、案外意図的だったのかもしれないと、自分を恥じるのをやめた。
それはともかく、ありえたかもしれない人生は、映画『パラドクス』の本編において登場人物たちを襲う出来事に比べたら、異様なところがなく平凡な人生かもしれないが、幸せな人生である。ただロベルトだけは、本編でも悲惨な人生だったが、もうひとつの人生でも破滅しているというのは哀れすぎる。
なおロベルトは本編では10歳のとき出来事に襲われて35年間すごしたあと、再び出来事に襲われて35年経過するので、80歳で息をひきとることになるのだが、もう一つの人生では出来事が起こらなかったらという設定となる。
ただしもう一つの人生、ありえたかもしれない人生というのは、この映画の設定では、あるはスペイン語が分からないので、字幕が本当に正しいのかどうか判定できないのだが、正しいとしたら、もう一つの人生のほうが現実であって、無限につづく階段に閉じ込められたり、無限にループする道路に閉じ込められたりする世界は、嘘の世界ということになる。
ということは基本的にハッピーなもうひとつの人生が現実の人生であるというのなら、思い出されるのは、ライプニッツの最善説である。つまり神のつくったこの世界は、さまざまな他の可能な世界のなかで、最善・最高のものであるという考え方。もちろん私たちが生きているこの世界も最善の世界である。何を狂ったことをと、批判されても当然である。この世界のどこか最善なのだ、と。
ただしライプニッツは、もうひとつ弁神論というのを展開していて、この世に悪があっても、それは神の配慮によるもので、私たちが悪を克服したり駆逐したりして更なる高次の存在へと進化をとげる契機となるように神が仕組まれたということになる。
ただしこの最善説は、もうひとつのことを考えていない。つまりこの世を最善なものとするとき、最善ではない世界はどうなったのかという問題。もちろん却下されたり廃棄されたりした世界というのはどうなったのかという問題なのだが、最善ではない世界というのは、もちろん思弁的なもの、あくまでも実現しなかった可能性であって、それを実在したかのように扱うことはできないのだが、またライプニッツの時代には、それでもよかったのだが、SFによる異世界の創造あるいはパラレルワールド的な発想によって、いまの世界が最善であるとするなら、それは最善はではない無限のパラレルワールドの廃墟の上の成立しているというイメージが生まれてくる。
これは最善説の裏面というか暗示面だが、ここで発想を変えて、私たちがいま閉じ込められている世界が、可能なパラレルワールドのなかで最悪の世界であるという最悪説というものを措定する(実際、最善説よりも、この最悪説のほうが説得力がある――私たちの世界の腐敗の現実をみるにつけても)。そしてこの最悪説の裏面という暗示面は何かと考えてみると、おそらくそれは明るい希望である。つまり、いまのこの世界が最悪なら、これ以上は悪くならない、だからこの世界は、よくなるしかなく、今は最低でも明るい未来が待っているわけだから。もちろん、『リア王』のエドガーが語ったように、本当の最悪をみるまでは、これが最悪というなともいえる――最悪の最悪があるかもしれないという不安は払拭できないのだが。
ならば最善説の裏面とは、最善が実現するために棄てられた無数の可能性である。無限につづく二位以下の世界。採用されなかった世界の無限の廃墟のうえに最善世界が構築されているという、否定性の闇のなかに囲繞された最善世界。最善説の世界に生きる私たちは、たとえいうなら周囲に広がる飢えに苦しむ貧民層をみながら暮らしている一握りの富裕層みたいなものである。まともな人間なら神経がおかしくなる。
しかも最善説の世界とは、問題があって実現しなかった否定的世界は、問題があるものとしてそのまま放置され維持されなければならない。富裕層が貧民層を助け幸せにすることは、たとえ富裕層の側がそれを望んでもできない。なぜなら貧民層がなくなれば富裕層もなくなるからである。格差社会の怖いところは、弁別的差異を形成する一項として貧民層が存在し、弁別的差異の成立のためには貧民層は維持されることである。
個人的心理的レベルで考えると、いまの私たちが生きているこの世界は最善の世界かもしれない――たとえ個人的にみてさまざまな問題があるにしても。そしていまのこのささやかな成功と幸福の人生を実現したのは、私の努力ではなくて、破滅して私の負の人生の集積なのである。心象風景としては、私のささやかな幸福の周囲に、ありえたかもしれない私の成功の人生ではなく、ありえたかもしれない私の失敗の人生の瓦礫が無限のかなたにまで広がっているのである。そして恐ろしいのは、この広がりは私自身が求めこしらえたものでもある。私がこしらえたのは私の人生は、私がこしらえ、しかもつねに維持している無限の廃墟によってはじめて完成あるいは最善のものとなる。
あるいは別の心象風景では、いまの私とは別人の私が、無限にループする階段室に閉じ込められ、無限につづく荒野の一本道で生かされつづけている――私が死ぬまでは。あるいはまた別人の私が、永遠の晴天の午後がつづく荒野の一本道から出られなくなっている。おそらく別人の私は、私と人生をともにしている。私が死ぬまで、彼らは私の心象風景のなかに閉じ込められているのである。
こう考えると、いくらでも、いろいろなかたちで解釈できる映画『パラドクス』の空間的にループした迷宮世界とそこに閉じ込められた人物たちの世界に対してひとつの(決定的ではないが)有力な解釈を提供できる。
ただし、35年周期の世界から解放されても、ふたたび35周年の周期の世界に閉じ込められてしまう人物たちの生き様をみていると、そしてすでに前回でも触れた、閉じ込められても食料は無限に供給されて生かされるという監獄での囚人状態を思うに付けても、出所しても、すぐにまた収監される犯罪者のイメージあるいは辞めてもすぐに手をだしてしまうドラッグのイメージが、人物たちの運命と強く結びつく。
しかし、彼らの運命を常習的犯罪者とか薬物依存症患者のメタファーとだけ決めつけるのはやや軽薄すぎて、むしろ常習的犯罪者あるいは薬物依存症患者そのものがメタファーとなっている格差社会における貧困層を連想すべきかもしれない。そうなるとこの映画における閉じ込められる人々の運命は格差社会における貧困層のありようそのものといえるかもしれない。
ただし閉じ込められる前の彼らは、貧困層ではない。富裕層と貧困層の中間層ともいえる人びとであるが、そうであるがゆえにワンランク下への転落/追放が、ありえない可能性どころか身近な可能性そのものとなる。そして……
そしてグローバル化した世界において、先進国と途上国との格差がなくなるどころか格差がひろがる、あるいは途上国は、途上国状態あるいは低開発状態にとどめおかれ、永遠の現在に収監されるのと同様に、格差社会において貧困層は、貧困層として生かされることで富裕層の永遠の引き立て役となって生かされるのである。しかもこの格差社会における貧困層は、成り上がることはできないまま破滅してゆくのだが、生かさず殺さず状態の彼らが死滅することはない。彼らが消滅しても、中間層という予備軍がある。
結局、ワクチンによる遺伝子操作による人工調整という陰謀説(のひとつ)、あるいは親ガチャという、どの親に生まれるかで社会的ステータスが決まるという考え方も、不幸を維持することで成立する格差社会を照らす内部の鏡のような機能をはたしているというほかはない(親ガチャは、親が悪いわけではない――そういう仕組みをつくった社会が悪いのであって、親は変えられないが社会は変えられる。世界に冠たる劣等民族である日本人に生まれたことを嘆いてもしょうがない。日本人を変えることはできる)。
映画『パラドクス』の場面のひとつ、ループして終わりのない階段室の場面は、実際の建物の階段室を使って撮影されたとのこと。幸い、撮影期間中、住民あるいは従業員が、その階段を使うことはなかったようだ。建物には空き部屋が多く(それゆえ撮影も許可された)、居住者が少なく彼らが階段を利用しなかったということらしい。
この階段室は、ある意味、そこにあることはわかっていても誰も利用しない影の世界である。個人的レベルでいえば、あまり思い出したくない負の領域である。足を踏み入れたくない、踏み入れる必要もない無意識的領域である。社会的にいえば、ここは必要性があって維持されているものであっても、利用されたり顧みられたりすることがないゆえに、そこで何が行われているか時々不安になる闇の領域である――ひょっとして利用されない階段室にホームレスが住み着いてもおかしくないのだから。ロケ現場そのものが、この映画にとっては社会的意味をおびているのである。
posted by ohashi at 21:08| 映画 タイムループ
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