2023年08月21日

一分間タイムマシン

『一分間タイムマシン』One-Minute Time-Machine (2014)
監督:デヴォン・エイヴリーDevon Avery、脚本:ショーン・クラウチ Sean Crouch、
出演:ブライアン・ディーツェンBrian Dietzen(1977-)、エリン・ヘイズErinn Hayes(1976-)。

時間リープ物と時間ループ物が合体したような映画で、SFとラブコメの要素が入っていて、時間は6分の短編映画。

とはいえ、日本では全く無視されながらも海外で多くの賞を獲得した日本の映画『ドロステのはてで僕ら』(監督:山口淳太、原案・脚本:上田誠2020)のように、アイデアが面白く考えさせられ、それでいて深刻・深遠になりすぎないコメディタッチでエンターテインメント性にすぐれたこの『一分間タイムマシン』は、すでに多くの賞を受賞し(8受賞、6ノミネート)、上映時間6分という短さも、高評価につながり--短すぎて注文をつける余地がない--、ネットでもおおむね高評価で、いまや全世界で配信中の大ヒット人気短編映画となっている。これまで知らなかったことが恥ずかしい。

配信で簡単に観ることができるので、おすすめの映画。なにしろ上映時間6分。

私はアマゾン・プライム・ビデオで観たのだが、男女二人しか登場しない映画で、ジェイムズという名のちょっとドジな青年を演じているのが、ブライアン・ディーツェン。これにはちょっと驚いた。日本のアマゾンのレビューでこのことに触れたものはなかったのだが、ブライアン・ディーツェンって誰だ、と言われそうだが、『NCIS~ネイビー犯罪捜査班』を観たことがある人なら、2014年から現在にいたるまでレギュラーのジミー・パーマー博士のことである。『NCIS』を観たことがなければなんのこっちゃとなるとしても。

【『NCIS~ネイビー犯罪捜査班』は今なお続いているが、シーズン19でギブス/マーク・ハーモンが番組を去って以後、見る影もなくなったといってよく、スピンオフの『NCIS:ハワイ』のほうが、本家『NCIS』よりもはるかに面白いことは誰もが認めるところだろう。『NCIS』ではマーク・ハーモンより早く辞職してもおかしくなかったデヴィッド・マッカラム(マラード博士)は、いまも時々出演しているが、そうでもしないとレギュラー陣からオーラが完全に消えてしまうからだろう。そのマラード博士の、最初は助手、その後博士の後任となったのが、ジミー・パーマー博士/ブライアン・ディーツェンである。】

『一分間タイムマシン』の内容は
手持ち型の一分間タイムマシンを持つジェームズはその赤いボタンを押す度に、一分前に戻ってレジーナを口説こうとするが...思わぬ結果を招くことになる。【AMZONプライムの紹介文】

あるいは
ジェイムズが自慢げに携えているのはテクノロジーのささやかな驚異の産物である。なにしろそれは正確に一分前の過去へのタイムトラベルを可能にしてくれるからだ。公園のベンチに腰かけている美しいレジーナを誘惑しようとする彼にとってそれは完璧な道具だった。もし彼がドジをしたら、あるいは拒絶されたら、その機械の小さな赤いボタンを押してやり直せばいいだけである。ただジェイムズには不運なことに、その機械は彼が思っていたようには稼働していなかった。彼はいまや、自分の行為の暗い真実に直面することになる。【IMDbの紹介文を日本語訳・意訳した】

を参照していただければと思うのだが、確認すると、

ジェイムズがレジーナを口説く。そこでたとえば10分間楽しく会話ができ意気投合したとしよう、次の瞬間、ジェームズの心無い一言がレジーナの機嫌をそこねてしまう。自分の失言に気付いたジェイムズはタイムマシンの赤いボタンを押して1分前にもどる。つまり二人が出会ってから9分たった時点に戻る――という設定である。

映画ではジェイムズは言い間違いから不適切な発言まで、すぐに失言してしまい赤いボタンを押すので、二人が出会ってから一分もたたないうちに一分前に戻ってしまうので、初期設定の時間が、二人が出会う時よりも徐々に、それ以前へと後退していくように思われるのだが、そのことは問わないようにしよう(実際に1分前に遡行しているのではないことがわかるのだから)。

失言しても1分前にもどるだけだから、その失言だけを注意して再度トライすることで、ジェイムズは、レジーナとの親密な関係を築くことができる。これがもし、失言したら即、出会いの時にまで戻るとなると、すべて一からやり直すことになる。となると、これは時間ループ物になる。ところが1分前だとゼロからやりなおさなくていいぶん気が楽である。

映画『オール・ユー・ニード・イズ・キル』では地球に侵略し時間を操る異星人を倒すために多くの過程を経て異星人の基地に接近するのだが、途中で失敗し殺されると、ふりだし(つまり映画の発端時)にもどらなければならない。そして再び、多くの過程を経る長い道程を反復することになる。何度ども何度も殺されリセットされて振り出しにもどる。時間ループ物の特徴のひとつは、ループを繰り返すあるいはループにとらわれる主人公が、最初から、ゼロから同じことを繰り返さねばならないという、とんでもない忍耐を強いられることである。

ところが、もし『オール・ユー・ニード……』に1分間タイムマシンがあれば、異星人に攻撃され殺される直前に1分前にもどりさえすればよく、そうして対策を練るか、危機を回避することで死なずにすむ。すべての振り出しにまで戻る必要はない。これは失敗を修復するために過去に戻るという時間リープ物に近いことになる。

以下ネタバレ注意

『一分間タイムマシン』には従来のタイムトラベル物にないひねりが2つ加えられている。

1) レジーナが主役?
映画はベンチに腰かけている何も知らない女性レジーナに、見知らぬ男(1分間タイムマシンを持った)が声をかけてくる。彼はレジーナを口説こうとして何度も失敗するのだが、しかし、レジーナは、この男ジェイムズのことを知っているふしがある。

彼女は科学の教科書のような大きな本を持っていて、量子物理学者だと名乗るのだが、最初に科学書について指摘されたときは、少々うろたえうそをつく。しかし、実際には、彼女はタイムトラベルの原理を発見してその本のなかに書いたとのこと。彼が持っている1分間タイムマシンというのは、彼女の理論から生まれたマシンのようなのだ。彼女は直接仕組んだわけではないだろうが、この男に、自分を誘惑し口説くようにさせ、失敗しても、1分前に戻り、再挑戦させるようにした張本人である可能性が高い。しかも、彼女は、何度も再挑戦する彼に口説き方も指示する。もう少し激しくと要求したりもする。つまり彼女はジェイムズの出現を予期し、待っているのである。

またジェイムズがある事実を知り意気消沈して口説き続けられなくなったら、彼女のほうがタイムマシンの赤いボタンを押し、1分前の過去へとさかのぼるのである。

次のネタバレとも関係するのだが、この1分間タイムマシンはジェイムズの所有物で彼だけを過去へと送り出す装置のように思われるので、彼女が赤いボタンを押すのは意気消沈しているジェイムズを1分前に送りだすということかもしれない。

しかし彼女が赤いボタンを押すときの台詞は、彼女のほうが、やりなおすために1分前の過去へともどるかのように思われる。このタイムマシンは、それを手にしている者を過去へと送り出すようになっているようだ。

2) 自殺マシン
このタイムマシンの原理を考え、実用化させた彼女の説明によると、このタイムマシンは、時間旅行を可能にするタイムマシンではない。なんと!

そもそもタイムトラベルが可能かどうかについての議論がある。科学にうとい私レベルでも理解できるかもしれない話として、過去へはタイムトラベルできないという理論がある。もし私がタイムトラベルし10年前の私に会って忠告しようとして、それに成功したとしよう。だが私自身、10年前に未来からやってきた私に出会っていないとしたら(ほんとうは出会っていたが記憶を消されたということはないとする)、私が到達した10年前の世界と、私が10年前に生きていた世界とは異なることになる。

こうもいえる――私が10年前の私自身に出会ってしまったら、その時間軸の世界は、私がこれまで生きていた時間軸とは異なるパラレルワールドのものとなる。つまり私はパラレルワールドにタイムトラベルする。同じ時間軸をさかのぼった瞬間、違う時間軸が発生するので、結局、違う時間軸へと転移するのと同じことなる。これはタイムトラベルといえるのだろうか。タイムマシンは、パラレルワールドにしか移動できない。それはパラレルワールド転移装置である。


これと同じようなことを映画のなかでレジーナが語るのである。つまり1分間タイムマシンは、実は、パラレルワールドへの転移装置であるというようなことをいうのだ。つまりそれは現時点での時間軸のジェイムズを捨て去り、その複製、コピーを作る装置なのである。

ジェイムズはレジーナを口説くのに失敗して1分前に戻るというのではなく、レジーナを口説くのに失敗した時間軸というか世界を捨てて、別の世界へと移行する。これは言い方をかえると、ジェイムズは、レジーナを口説くのに失敗したジェイムズ自身を置き去りにして、新たなジェイムズを複製し、その複製したジェイムズをべつのパラレルワールドに生かすということでもある。それをこの装置(「一分間タイムマシン」と命名された)が行なうということである。この装置はレジーナがいうように「自殺マシンSuicide Machine」なのである。

ジェイムズはショックを受ける。これまで16回ほど赤いボタンを押して1分前の過去に戻っていたと思っていたが、実は、16回、自分を殺してきたのだとわかる。いまの自分は16回めの複製にすぎないのだと。そして彼がまるで魂を抜かれたかのようにベンチに横たわって死んでいるさまが16回映像で映し出される。

こうして茫然自失として生きる気力すら失ったかに見えるジェイムズを元気づけ、口説きつづけさせようとして、今度は、レジーナ自身が赤いボタンを押すことになる。それは今の自分を殺して、複製された自分をパラレルワールドにつくって事態を修復させようというわけである。

したがってレジーナ、この1分間タイムマシンが自殺マシンであることを最初から知っていた。また彼女を口説くには何度も自殺することが必要となる、ある意味、その口説き行為は命がけの行為で、なかなか実行する人間がいないことも知っていた。何も知らない、お人よしのジェイムズ君が、自殺マシンと知らずにタイムマシンと思い込んで何度も彼女を口説こうとしていたというわけである。

とはいえ失敗した自分を捨てて新たに生まれ変わるというのは、それほど陰惨な話でもない。人間誰でも、オリジナルな自分などとうの昔に抹消している。いまある私自身は、n回目の複製にすぎなといわれても、そんなにショックではない。むしろショックで口もきけなくなるほうが、大げさで滑稽である。この映画は終始コミカルなレベルを維持し続けている。

この設定からいえることがある。

たとえば失言(嚙んだりすること)して1分前にもどってやりなおすこと(実は、その試みを破棄して、新たに挑戦を再開すること)、あるいはジェイムズが16回、魂の抜け殻となり、それに驚く女性の反応が16回映像化されことは、映画撮影の実際のありようと見事にシンクロしている。

台詞を噛んでやりなおすとき、次の映画撮影において、次のテイクに入るという。この映画における1分前の過去へのタイムトラベルは、簡単に言えばやり直し行為であって、16回やりなおすということは16テイクまで撮るということである。女性を口説く行為を、芝居が下手な(人生において要領が悪いということである)ジェイムズ君は16テイクまで撮ったということにもなる。

また彼がベンチで死んだときのレジーナの驚きやうろたえるさまが、16回繰り返されるが、それら16回は、16のヴァリエーションを試したということである。撮影現場では、べつに失敗はしなくても、パターンをいくつか試して最良の結果を模索することはふつうに行われる。16テイクと16パターンを記録したアーカイブが、この6分の映画を構成するとみることもできる。あるいはこの映画は、映画成立までの過程の記録であり、試みられたテイクやパターンを保存するアーカイブになっているといってもいい。この映画『1分間タイムマシン』は、映画そのものの制作をテーマとしてメタ映画なのである。

これはまたいまの私は、数多くの失敗のうえに成立しているということである。となると、いまの私は、無数の失敗、無数の試行錯誤の結果であり、最良・最善を求めての長い道のりの果てに到達した最高点ということになる。とはいえそれは1分間タイムマシン=自殺マシンを使って得られた結果ではなく、頭の中での思考の成果なのではあるが。またこの1分間タイムマシン=自殺マシンは、試行錯誤のはてに最善を求める人間の思考過程のメタファーといってもよいだろう。いずれにしても、いまある私は、たとえ自己の欠陥を完璧に克服できてはないとしても、完成にいたる途上にあり、いまの私は、現時点での最善のありようなのである、とまあ、ライプニッツの最善説みたいな話となる。

しかし、こうした過程の裏で、無数の可能性の死体が累積している。SFなどの時間ループ物の不気味さもここにある。同じことを繰り返し、その試行錯誤のなかで現状を打破し、みずからの欠陥を克服して進化を達成するのなら、それと寄り添うようにして、どうあがいても失敗するしかないという進化の失敗、無意味な進化のイメージが存在している。試行錯誤が進化をもたらすとすれば、同時に、同じ試行錯誤は、永遠の反復可能性にも開かれている。失敗しても修復のために反復できるということは、終わりなき後悔、終わりなき悪あがきが待っているということでもある。そしてこのような状況は、ある一つの可能性を暗示する。つまり当事者が死んでいるということである。

映画『1分間タイムマシン』における1分前へのタイムトラベルという物語が暗示するのは、たとえば脳内における後悔と再試行(映画『ラン、ローラ、ラン』参照)――夢の中の出来事――、あるいはタイムマシンを使ったタイムリープと、それが繰り返されるタイムループなのだが、もうひとつ重要な可能性は、本人(ジェイムズ)が死んでいるということである。死んでいるからこそ、生きている間には起らなかった同じ瞬間の反復が起こる。生きている間には起らない人生のリセットが可能になる。死んでいるからこそ、ある意味、冷静な判断ができて、失敗とわかればすぐにリセットする……。

この死の世界を、何度でもやり直される人生というパラダイスなのか、永遠に失敗と未完成に苦しむしかない、賽の河原的な拷問の地獄とみるかは、人それぞれにまかされている。
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2023年06月26日

『リバー、流れないでよ』

ヨーロッパ企画の芝居を、KAATでたまたま観る機会があって、それ以後、公演の度に出かけていた。コロナ禍で私の観劇体験は途絶えるのだが(基礎疾患のある老人には感染は怖いので)、昨年『あんなに優しかったゴーレム』を、再演だが、私にとっては初めての作品でもあったので、劇場(池袋のアウルスポット)で観てから、またヨーロッパ企画の舞台を追いかけたい気持ちにとらわれた。今年は9月以降に全国を回るようなのだが、それまでは配信とか、集めたDVDを見直すしかないと思っていたら、映画『リバー、流れないで』が6月23日に公開された。ただし東京では下北沢トリウッドと、TOHOシネマズ池袋の2館のみ(その後 TOHOシネマズ日比谷も)。公開館をもっとふやしたらいいのにと思う。面白い映画なので、絶対に多くの観客に受けると思うので。

2分間のタイムループは、いかにもヨーロッパ企画の舞台にふさわしい設定といえよう。ドタバタもあればほろりとさせられたり、形而上的思索があったりと、いろいろな要素で私たちを楽しませたり刺激したりと、この設定からは予想できなかったほど、いろいろなことができる。

また2分間のタイムループというのはループ物のとしては最短のループ時間である。リチャード・R・スミスの短編「退屈の檻」(大森望編『revisions 時間SFアンソロジー』 (ハヤカワ文庫 2018)所収)は10分間のタイムループで、これがこれまで最短のループかと思っていたら、今回『リバー』では2分間という超最短ループを実現している。2分間で何ができると思っていたら、いろいろなことができる。デートも逃避行もできる。映画は2分間のループを2分間のワンカットで展開し、気づくと、リアルタイムの作品となっている。2時間をゆうにきる映画だが、ループがつづくあいだは、完全にリアルタイム展開となる。

となると通常の舞台をみているのと同じ感覚が味わえるといいたいところだが、映画をみればわかるのだが、これは舞台ではできない、まさに映画ならではの設定であり物語展開である。舞台では役者のカラダがもたないことは、この映画をみればわかることと思う。

またこの映画の特徴は、時間はループしても、登場人物全員が、ループしていることを認識していることである。2分たてば、リセットされてしまうのだが、しかし、登場人物は毎回のターン(と映画のなかでは呼んでいる)の記憶がある。つまり登場人物の頭のなかはリセットされないのである。

リアルタイムのタイムループ物。この点はどんなに強調しても強調しきれない。たとえばタイム・ループ物で、昨年公開されて、けっこう長くいろいろな映画館で上映されていた『Mondays/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』(2022竹林亮監督)ではループは一週間。事務所勤めの会社員の話で、月曜日になるとすべてリセットされてしまい、記憶もリセットされてしまう。そのためタイムループしていることにどうやって気づくか、またその記憶をどうやって保持するのか、一週間で学んだこと、得た知識もリセットされてなくなってしまうのをどうした止められるのか……。そこには、途方もない困難がたちはだかっていた。

一方、これも昨年公開された『カラダ探し』(2022羽住英一郎監督、なお原作小説、漫画、アニメは参照していない)では、1日のタイムループ(ただし殺された時点でリセットされるので正確に1日かどうかわからないが)で、高校生の男女は、前日以前の記憶をもっている。またバラバラになった死体の部位を集めて死体を復元することで、ループから抜け出せるという設定なのだが、集めた死体の部位は、時間のリセットによる効果から免れている。つまり部位を集めて完成しつつある死体そのものがリセットされることはない。この設定はタイムループ物にあってはならない設定かと思ったのだが、『リバー』も、リセットされるものと、されないものがあるので、まあOKか。

ただ、いずれにせよ、たとえば一日でループというよくある設定でも、その一日ははしょって示すほかはない。24時間の映画をつくるのならべつとしても。つまり一日のループの場合、観客に示されるのは一日のダイジェストである。しかも回がすすむにつれて、同じ一日の反復なので、次に何が起こるか暗記できてしまえるくらいになって、ダイジェストがどんどんおざなりに、あるいは短くなる。ところが2分間のループの場合は、ダイジェストではなくリアルタイムのループとなって、そこの省略がなくなり、貴重な短い時間を、一刻もおざなりにせずに、どう使うのかという緊迫感にみちたが2分間の連続となる。

そこが2分間ループによってはじめて実現できた細部の新鮮な際立ちとなる。そしてその2分間の牢獄からどうやって抜け出せるかという緊迫感と、同時に、その2分間のなかに逃避したいという人間の切実な願望とが映画のなかでせめぎ合う。タイムループ物の新たな傑作が登場したといえよう。

追記:地名としての「貴船」は「きふね」ではなく「きぶね」と発音することをはじめて知った。ただし「貴船神社」は、「きふねじんじゃ」と読むらしい。とはいえ以前、京都在住の知人(京都出身ではない)は、「夏の貴船の川床」がどうのこうのという話を聞いたことがある。そのとき「きふね」と発音していたようだが。
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2022年04月19日

セカンドチャンス2

『デジャヴ』(韓国テレビ映画)

セカンド・チャンス物の物語・映画の基本は、最初は悲劇、二番目は喜劇。喜劇というのはハッピーエンディングということだが、この原則に反する異色作があるので触れておきたい。

面白い、セカンド・チャンス物、あるいはタイム・ループ物というかタイム・リープ物ではあっても、2004年の65分の韓国テレビ映画(KBS)で、知る人は少ないと思う。韓国映画や韓国テレビに詳しくない私が、なぜ知っているのかというと、『韓流ロマンスドラマ名作選 デジャヴ』というDVDが販売されているからである(レンタル、購入可能、配信はされていないようだ)。

女優としてハン・ジミン(『虐待の証明』2018)が出演。彼女と結ばれるのがキム・フンス。今から見ると、どちらも若いという幼い感じがするし、二人のことを知らなくとも、演技者としてはまだ未熟な感じがしないでもない。だから、それほどお薦めの映画ではないのだが、セカンド・チャンス物としてみると予想を裏切るところがあって面白い。

AMAZONのDVDの通販ページによる紹介。購入者のレヴューはない。

トップ韓流スターに愛されてきた、ハン・ジミン主演の美しいメロドラマ。善良でおっちょこちょいなドング(キム・フンス)は友達との飲み会の後、野宿をすることに。目を覚ましたドングはいつものように出社し、同じ証券会社に勤める恋人スヨン(ハン・ジミン)と愛情を深めていく。ある日、彼はスヨンの交通事故を目撃して、助からないかもと聞かされ病院で気を失う。眠りから目を覚ましたドング。そこは飲み会の夜、野宿した場所だった…。


こうしてタイムリープして二番目の数日が始まる。ただしドング/キム・フンスは、自分がタイプリープして数日前に戻ったことを知らないため、最初、何が起こっているのかわらない。交通事故で瀕死の重傷を負った恋人が、奇跡的に生き延びて、すでに会社に出勤していると勘違いする。また、タイム・リープした数日前の世界は、もといた世界とはどこかちがっていて、ドング/キム・フンスとスヨン/ハン・ジミンは、会社の先輩・後輩であっても、恋人どうしではなく、ドングの片想いのようだ。

なるほど最初の数日間シークエンスは、恋人のスヨンが交通事故で瀕死の重傷を負い生死の境をさまよっているところで終わる。最初は確かに悲劇である。しかし、交通事故にあう前のカップルは、相思相愛で、軽薄なラブコメ・カップルであり、観ていて恥ずかしくなる、あるいはうんざりするほどの、いちゃいちゃぶりである。この部分で、もう観るのをやめる、気の短い視聴者がいてもおかしくないと思う。つまり演出がよくないと思うので(いまでこそ、スターのふたりも、この時期、新人に近い)。

しかしタイムリープして数日前にもどってからの物語では、男性社員ドングはただ片想いなだけで、相手の女性スヨンは、支店長に気にいられてプロポーズされ、それを受けるところまでいくので、三角関係にすらならない苦い恋の敗北が待っている。女性への片想いと、気付いてくれない相手への焦燥感、そして絶望と諦念という男性社員ドングの目線で描かれる物語は一挙に深刻さをまし、暗い色調を帯び始める。

そうタイム・リープ前の軽いラブコメ部分は、ある種のフリであり、その軽佻浮薄な陽気さは、意図的に仕組まれたものだったのだ。後半において映画の強度がマックスになる。映画とはメランコリーの風景というのは私の持論(正直言えば私だけのものではない)だが、まさに後半のこの映画はメランコリーの風景全開となる。韓国映画としても、ここでお得意のお涙頂戴的センチメンタル度全開となる。最初は喜劇、二番目は悲劇になる。どうやらこれではセカンドチャンス物になりえない。

そうセカンドチャンス物ではない。なるほど前半では、恋人の彼女が交通事故に巻き込まれる。【以下ネタバレWarning:Spoiler】タイム・リープしたあとは、彼女を交通事故から救おうとするとなれば、王道のタイム・リープ、タイム・ループ、セカンド・チャンス物だが、二番目の世界は、彼女は恋人ですらなく、支店長と婚約してしまうのであう。この男性社員ドングにとって、彼女スヨンを助けることなど、念頭にはない。ただし、最初の世界と似たような展開になっていることを自覚したドングは、スヨンを交通事故から救うべく、彼女を押しのけ、みずからがトラックに轢かれるのである――これぞ映画的転回。最初、彼は、彼女が轢かれるところを傍観するしかなかったのだから。

ドングは一命をとりとめ、その気持ちに気づいた彼女スヨンは、ドングと結ばれることになる。最初は悲劇で終わる喜劇、二番目は喜劇で終わる悲劇。ということになる。

ただし最後の結末は、曖昧にぼかす仕掛けが講じられている。実は最初の悲劇に終わる軽薄なラブコメの部分は、交通事故で重傷を負った男性社員の見た夢(あるいは、超越的存在によって見させられた夢)であって、現実は、二人は恋人ですらない会社の先輩・後輩であり、男性側の自己犠牲によって女性を助けることになり、それによって、二人が結ばれるであろうということかもしれない(あるいは暗い想像をすれば、男性は交通事故で死ぬが、その最後に女性と恋人になっている夢を見る/見させられる)。

タイムリープはしていない。ただ現実と夢物語のふたつの世界があるだけである。実際、男性は酔って路上で寝ていたのであって、全体がタイムリープというよりも夢落ちであるという可能性も匂わされている。

したがって実は、後半が最初の悲劇部分(男性は自身が交通事故に巻き込まれる)、そして前半のラブコメが、喜劇的セカンドチャンスの部分とみることもできる。そうなると大堂のパターンからははずれていないことになる。

興味があればご覧あれ。
posted by ohashi at 08:13| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2022年04月18日

セカンドチャンス

タイム・ループ物の小説、映画、漫画、アニメなどをずっと考えている。いろいろな角度からの考察に開かれているジャンルだが、今回は、セカンド・チャンスと反復の問題としてタイム・ループをみてみる。

フロイトは『快感原則の彼岸』のなかで孫が行なっていたフォルト・ダ・ゲームについて報告し分析している。生後18か月の孫は、糸巻を小児用ベッドから放り投げ、「オー、オー、オー」と声をだし、糸巻の糸をたぐりよせて糸巻の本体があらわれると、「アー、アー、アー」と声をだし、この一連の動作を何度も繰り返したとして、これを「Fort・Daゲーム」と名付けた(「オー」という声はFort(行ってしまった、なくなった)を、そして「アー」という声はDa(そこにあった)を意味する)。

フロイトの分析によれば、この遊びは、自分の世話をしてくれる母親がいなくなる寂しさや不安を、糸巻を投げ、たぐりよせることを通して、緩和させるものである。糸巻の本体が、いったん投げると見えなくなっても、糸をたぐりよせればふたたび出現するように、母親も、いなくなっても、かならずまた現われる……、こうして幼児は、みずからを納得させ、寂しさを紛らわせるのだという。

ただフロイトの分析では、糸巻は母親なのだが、しかし、母親がいないとまだなにもできない幼児が、糸巻を母親に見立てて、遠くに投げるという発想をするのだろうか。むしろ糸巻は幼児そのものであり、母親は、幼児=糸巻を遠くに投げ捨ててしまっても、かならず糸をたぐりよせて糸巻=幼児をひきあげてくれるというほうが、幼児の空想としては蓋然性が高い。

ただ、糸巻が母親なのか幼児なのか、決着はつかいかもしれないが、重要なのは、消失と回帰という現象を幼児が演出することである。失われたものが回帰する。なくなったものが出現する、その快感と興奮――いないないばあ遊びに子供は敏感に反応することを思い出してもい。次にくるのは、喪失と回帰を自らの演出することである――大人から面白い玩具を示されると、次に子供はその玩具を手に取っていじりまわす、ときには分解し、ときには壊してしまう。「Fort・Daゲーム」についてフロイトが述べた言葉を借りれば、子供は、場面の支配者になろうとするのである。糸巻が自分なのか母親なのかは関係ない。糸巻の消失と再帰を自分の手でコントロールすることで、不安は解消され、快感すら覚える。子供はもはや大人や状況の犠牲者ではない。状況を創造しコントロールできる以上、状況の支配者である。

フロイトの『快感原則の彼岸』は、戦争神経症とかトラウマについての話である。このとき問題となるのは、嫌なことがあって、それを思い出すたびに苦しい思いをするとき、最良の克服手段は、忘れることである。忘れれば、あるいは意識に昇らせなければ、私たちは、その嫌なことに苦しむことはない。

ところが私たちは、嫌なことを忘れることができないばかりか、みずからすすんで嫌なことを思い出してばかりいる。そして苦しんでいる。これはなぜか。反復と場面の支配者への願望が、これを解くカギとなる。

たとえば男女どちらでもいいのだが(あるいは異性愛・同性愛どちらでもいいのだが)、恋人の裏切られたとしよう(たんにフラれたというのではなく、ひどい裏切られ方をしたということである)。その場合、心の傷をいやすのは、この一件を忘れることである。また世の中には不実の男女だけでなく、誠実な男女も多い(数からすればこちらのほうが多いだろう)。そのため自分を絶対に裏切らない誠実な男女を恋人に選ぶことも重要である。

ところがプレイボーイやプレイガール的男女を恋人に選んだ者は、裏切られてもなお、次に同じようなプレイボーイやプレイガールを恋人にしがちである。どうせまた裏切られることはわかっているのに。裏切り者的な男女のほうが、危険な香りと緊張感をにじませていて、魅力的にみえるということはあるだろう。と同時に、一度、そうした男女に惚れて失敗した者は、セカンドチャンスにかけようとする。一度失敗したのだら、二度目は、失敗しない。経験から学ぶことをした。相手の裏切りも予想できるから、先回りして、それを防ぐもしくは先手をとって相手の試みを挫く。最初は悲劇。二度目は、ハッピーエンディング。これがセカンドチャンス願望だろう。

物語とか映画のループ物のなかで、一回のループで終わるものは、ループ物と言わないことが多いのだが、しかし一回のループの成否がループの反復(同語反復だが)を決定するので、やはり一回でもループ物といってもいいだろう。一回のループ物の別名はセカンドチャンス物。最初は悲劇、二番目は喜劇。これがセカンドチャンスもの最良の結末となる。

藤子・F・不二雄の『未来の想い出』(1991)は、作者を彷彿とさせるような漫画家が、人気漫画家として成功するも、さしたる感慨もないばかりか落胆と幻滅の日々を送らざるをえず、おまけにスランプになってしまう。そんななか出版社主催のゴルフコンペに参加した主人公は、ホールインワンを出した驚きのなか心臓発作に襲われ死んだかに思えたのだが、過去にタイムリープしていた。そしてそこで人生をもう一度やり直す。二度目の人生は、最初の人生の失敗の教訓を生かし、幸福な人生となる。

浮気者型の男女を恋人にした男女が、次も同じような浮気型男女を恋人にすることが多いのは、セカンドチャンスを狙っているのである。つまり一度は失敗したが、二度目は自分でコントロールして裏切られることがないようにできると自信をもつのである。だが、そんなにうまくいくはずがない。二度目も裏切られ苦汁をなめる。はたからみていると、浮気型の男女を恋人にしたら絶対に裏切られるに決まっているのだから、どうしてもっと誠実な男女を選ばないのかと思うのだが、それでは最初の失敗から逃げるだけで克服はできない。同じような男女を恋人に選んで二度目に相手を屈服させてこそ、勝利といえるのである。もちろん結果は眼に見えている。二度目だが三度目だろうが、裏切られるつづけるのである。最初は悲劇、二番目は喜劇どころか茶番に終わる。

賭けごとにも同じことがいえる。大損をしたなら、賭けごとから手を引くのが、最良の方法であり、それこそが賭け事を克服する唯一の方法ともいえるのだが、賭け事にはまる人間は、次こそはと、賭け事をやめる気配はなく、毎回、次は勝てると思いつつ、負けてゆくのである。

セカンドチャンスで浮気型の恋人探しとはちがい、賭け事の場合は、自分ではどうにもならない偶然的要素に翻弄されることが多いので、状況の支配者どころか、運任せの受け身の姿勢を余儀なくされるのだが、逆にそうであるがゆえに時には賭け事に勝つこともある。大金を手にすることある。それでやめればいいと思うのだが、そうした場合、往々にして賭け事を続けて、結局、すべてを失うというのが定番である。なぜか。

賭け事の場合、一度成功すると、それが忘れられなくなって、結局、もうけたお金を全部つぎ込んで負けてしまうということもあろう。しかし、成功体験が破滅を導くこともあるかもしれないが、また、成功することが物足らない、むしろ失敗し、悔しい思いをし、絶望しながらも、次のセカンドチャンスにかすかな希望をつなぐ、苦杯、苦渋、苦悩、苦難の反復がなければ、なにか物足らなく、たんなる成功は、たとえそれがどんなに大きなものでも、欲求不満をもたらすしかないもの、そう失敗にすぎなくなる。失敗しないと満足しなくなる。だから成功しても、それは無視するしかない。失敗するために生まれてきた。失敗のなかに人生最高の輝きある……。

賭け事の場合、セカンドチャンスの失敗の周期は短いので、失敗しないと物足らないことは実感できるが、浮気男や女に恋して最後には裏切られる場合、その周期は、賭け事よりは長い。下手をすると数十年後に裏切られるということになれば、一生の間に、一度の裏切りは数ではないとすれば、二度しか裏切られないとなると、裏切られ中毒になるかどうかはっきりしないこともあるが、理論的には、ギャンブル中毒と同じで、裏切られ中毒はありうる。誠実な人と結婚し、もはや相手が裏切らないとなると落胆するのである。そうしたとき思う、あの裏切られる日々、信頼しきっていて油断したために裏切られ、絶望のどん底に落とされ、目の前が真っ暗になったあの瞬間はもうないのだろうか……。

裏切られない人生なんて、裏切られ悲嘆に沈むことのない人生なんて、人生じゃない。もう頭がおかしくなるほど裏切られたい、絶望したい。だがこうなると「場面の支配者」になるというフロイト的な願望はどうなるのだろうか。

おそらく「Fort・Daゲーム」は、「場面の支配者」になって、状況に翻弄されるのではなく、状況をコントロールする側になって、不安を解消したい、厳しい現実から逃避したいという願望の所産だけではない。それはゲームである以上、何度も繰り返される、リセットされてすぐに次の動きが来る。その永久運動への心構えであり、現実逃避ではなく現実直視のゲームではないか。同じことを繰り返す。いなくなったと思ったみつかる。だが、それでおさまらずに、またいなくなる、またみつかる、またいなくなる……。

それは絶望と希望、希望と絶望のゲームであって、絶望があるがゆえに希望があると同時に、希望があるがゆえにはげしい絶望も味わえる。この絶望と希望の永久反復、それが絶望するために生まれてきた人間の運命なのである。

いいかえると何度でもつづくセカンドチャンス。それなくしては人生など無味乾燥な営みにすぎない。

これは倒錯的人生観なのだろうか。絶望が人生の喜びであり、次は成功すると失敗を繰り返し、いつのまにか失敗していないと満足しない、失敗中毒になることが、人間の運命だというのは、ただの虚無的な人生観とでもいうべきものなのか。

実はここに最後のどんでん返しがある。なぜなら、失敗中毒――成功を希求しながらも、失敗することに慣れっこになってしまい、失敗しないと満足しないような失敗中毒--、この心的傾向こそ、ほかでもない、信仰と名付けられているものだからだ。

それはたとえば救世主が絶対に到来しないがゆえに信仰が成立していることとも関係がある。世界は必ず救われる、救世主は必ず現れるという確信はまた同時に救世主などいない、地球は救世の星では決してないという懐疑と背中合わせとなっている。この懐疑なくして信仰はありえない。懐疑ゆえに信仰がある。救世主は希求される。だがほんとうに救世主があらわれても、信心深い人々は、それはまがいものとして排除することだろう。そして救世主待望の習慣に再び戻ることだろう。信仰と賭け事は似ている。負け続けることが明日への活力なのだから。
posted by ohashi at 20:07| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2022年03月16日

『デジャブ』

これはトニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演の映画『デジャヴ』ではなくて、2017年韓国映画『デジャブ』데자뷰/DEJA VUのこと。『今日も僕は殺される』(3月13日)をタイムループ物と勘違いしたのだが、これも同じく同じく勘違いした。ホラーとサスペンス物とを合体したような映画。タイムループ物ではないのだが、よくできた映画で87分間、けっこう緊張感をもって観ることができたのだが、ネット上の評判が悪すぎる。そのため、ここで長めにコメントしておくことにした。誰も観ないかもしれない映画についての、誰も読まないコメントを。

たとえば

演出が安っぽ過ぎて笑えた
カメラに向かって鹿の生血を飲むって何だよ!(笑)
全体的にスリラー演出迫力ないわぁ
音楽だけ盛り上げれば迫力でるわけじゃないことを再認識

キャラクターもチープで感情移入できない
復讐者を憐れめない…
加害者も憐れめない…
主人公も憐れめない…

韓国映画のてっぺんが非常にレベルが高いのは重々承知だが、しっかり裾野は荒れてますな


というようなコメントが多い。おまえの頭の裾野のほうが、よっぽど荒れていて、日本人にとって恥だと言ってやりたいところだが、ネット上にはバカばっかりではない。

幸い、こんなコメントもあった――

個人的には面白かった。

サスペンスかホラーかどっちつかずの方向性も、個人的には「両方の要素があっていいじゃん」と好意的に捉えられる。

同じ韓国だと「オフィス」なんかが似た雰囲気の映画だったが、パッケージがサスペンスっぽいので肩透かしを喰らう方が多いのだろう。

ところどころ安っぽい演出は気になるが、伏線を貼って回収していく韓国らしい緻密なサスペンス要素はお見事。緊張感もあって面白かった。ヒロインも美人。


私としては、このレヴューアーと同じ意見である。2015年の韓国映画『オフィス檻の中の群狼』について言及しているとこらかしても、私よりも明らかに韓国映画を良く見ているこのレヴューアーの判断基準からしても、この映画『デジャブ』は、悪い映画ではない。

ネット上には昨今の日韓関係からするという但し書きをつけてけなしているバカがけっこういるのだが、映画の内容は日韓関係とは全く無関係だし、日本の保守反動勢力が自分たちが韓国から批判されて憤っているだけで、多くの日本人は韓国、韓国文化、韓国映画は嫌いではないし、多くの日本人は、日本の保守反動勢力を嫌っているのだから、彼らに影響をうけた連中が、あるいは彼らそのものが、政治的に映画をけなすのは恥をさらすようなものである。

ただし、ひとつだけ挙げた(頭の裾野が荒れているバカレヴューアーの)否定的評価は、実は、それなりに映画の特徴をついているのだが、問題は、だからこの映画が素晴らしいとはならないことである。

たとえば「キャラクターもチープで感情移入できない/復讐者を憐れめない…/加害者も憐れめない…/主人公も憐れめない…」とあるのだが、これは正しい指摘なのである。あなたは頭がいい。頭の裾野が荒れているだけである。

なぜならこの映画の登場人物は全員悪人なのだから。たとえあやふやな記憶に苦しめられる可憐な乙女である主人公に対しても、最終的にわかるのは悪女であったということである。しかし、それは映画の欠点ではない。映画の古典的イメージについていえば、昭和の時代とともに失われた考え方かもしれないのだが、人物のアクドさ、クセの強さこそ、映画的人物であることのあかしなのである。だから全員悪人の映画は、映画的強度がマックスといえるかもしれない。いうまでもなくこの『デジャブ』はノワール系の映画であることからしても全員悪人なのは当たり前のことなのだ(ちなみに、これは『オフィス』の影響なのか、あるいは建設業者のステレオタイプのイメージの誇張かもしれないのだが、主人公の女性の婚約者は、建設業では現場監督というか現場責任者のような立場なのだが、部下を殴る。そして彼自身、会社役員の上司から殴られる。この企業は、ブラックを通り越してならず者企業である)。

逆に観る者の同情をひくような人物こそ、映画的にみれば観客におもねるチープな人物にすぎない。観客を苛立たせ、憤らせる、クセの強い人物が、映画の中心にいる。このことが頭の裾野が荒れている者にはわからないのは残念なことである。

映画のネタバレあらすじのまとめサイトhmhm(ふむふむ)から一部を引用すると

紹介:デジャブ(2017年韓国)ひき逃げ事故を起こしてから、恐ろしい幻覚を見るようになったジミン。警察や同乗していた婚約者からは、事故などなかったと言われるのだが…。


そしてネタバレなのだが、たぶん詳しい説明があってこそのまとめであるため、ネタバレにもならないかもしれないので、ここでさらに引用すると――

簡単なあらすじ ①婚約者・ウジンが女子高校生を撥ねた。その交通事故を隠匿したせいで繰り返し同じ夢を見るジミンは、警察にウジンの罪を話す。しかしウジンが撥ねたのはシカだった。ジミンの幻覚はエスカレートしていく。 ②遺体は別の場所に隠されていた。ジミンはウジンに薬を盛られ、そのせいで幻覚を見ていた。被害者はインテ刑事の妹、インテ刑事はウジンを殺し、自分もビルの崩落で死亡。


いずれ映画をみることがあれば、以下の記述を読めば納得してもらえると思うのだが、人物関係には二つの三角関係から成立する。ひとつは主人公の女性と、そのフィアンセの男性、そしてその男性の悪い友人(「ヤクザ」と字幕が出るのだが、「マフィア」と同じく、比喩的に語られているのか、ほんとうに「ヤクザ」なのか不明。反社会的勢力の一員ということなのだろうが)との三角関係。つまりこの悪い男が、自分の友人の婚約者の女性を奪おうとして緊張関係が生まれる。ただし、実は、主人公の女性のフィアンセの男も、その友人と同じく、かなり悪い男(部下を殴る、不正を金で解決しようとするのはそのほんの一端である)で、むしろ主人公の女性は、二人の仲を裂くというよりも、二人の仲を緊密にするような役割をになっている。

ちなみに「カメラに向かって鹿の生血を飲むって何だよ!(笑)」という頭の裾野が荒れている人物のコメントで触れられている場面は、ふたりのホモソーシャル男性が、実は、善人と悪人ではなく、ふたりとも悪人あるいは変態的狂人であることを示す驚愕的場面なのだが、二人は実は仲が良くて殺した野生の鹿を生き血をふたりで飲みあうような関係だと語る人物の言葉にかぶせて、口を鹿の血で赤く染めた二人の人物の映像が登場する。このとき二人ともカメラ目線なのである。ここを頭の裾野が荒れているレヴューアーは突いているのだが、指摘は正しい。ただしこれは映画的演出であって批判されることではない。ドゥルーズの用語でいえば、もしこれが「運動イメージ」なら、二人の男が殺した鹿の血をすするときに絶対にカメラ目線ではありえない。しかし「時間イメージ」なら、カメラ目線はありうる。つまりそれは二人の狂気を語る人物の意識のなかで加工されたイメージであり、客観的なものと主観的なものとがまじりあっているイメージなのだから。またいうまでもなく、二人の男が向かい合って黙々と鹿の生き血を吸っているよりも、誰に対してかわからないが、カメラにむかってこれみよがしに、彼らの狂暴な行為を誇示している、現実にはありえないクセの強い演出こそ、映画的なのである。

【なおドゥルーズの『映画論』における「運動イメージ」と「時間イメージ」の違いは、きわめて単純化していうと、文法用語でいう「直接法」と「接続法」の違いだと理解することができると思う。】

もうひとつの三角関係は、車にはねられて死亡した女子高校生、行方不明になったその女子高校生を探す兄の刑事。そしてこれは最後の最後でわかるのだが、その刑事の友人で、刑事の妹とも親しい精神科医。車にはねられ、まだ息のあるうちに埋められた女子高校生のために兄とその友人が、最初の三角形の三人に復讐する物語がこの映画ということになる。

そう、この最後の最後で明らかになる影の三角関係が、最初の三角関係に重なるというか復讐をとげることになる。よくできている物語構成ではないか。ちなみに最後に事件に深く関与していたことがあかされる精神科医は、映画のなかでは、さほど目立たないのだが、韓国映画では、良く知られた俳優が演じているため、私のように韓国映画にうとい人間ではない韓国映画ファンは、この俳優がこんな目立たない役で終わるはずがないと、その役割の重要性を最初から感知していたかもしれない――キャスティングの意味論と私が呼ぶ現象である。

表の三角関係に、影の三角関係が重なるというか襲い掛かり復讐をする。また表の三角関係のなかの主人公である女性は、影の三角関係のなかの車にはねられた女子校生のカウンターパート的存在であり、主人公と殺された女とが出会うときに物語は大団円を迎える。またそれは殺され埋められた女が掘り起こされることと、主人公の女性が埋葬された記憶を掘り起こすプロセスとパラレルになる。埋められた死体の露呈と、抑圧された記憶の意識内における回帰とが重なる。主題的にも計算されつくされた展開である。

また二つの三角関係については、偶然でもなければ私が勝手にそう決めつけているわけでもない。二重性、ぶれは、この映画の構成原理なのであって、このことはホラー的要素とサスペンス的要素との共存と、最終的にホラー的要素がサスペンスの枠組みのなかで暗示的に解決することからもいえるのである。二重性の刻印は映画のすみずみにまで押されている。

【なお主人公の女性と埋められた女子校生とがパラレルになることで(ここにもある二重性)、主人公の被害者性が高まり、かろうじて観客の共感を得ることになるが、最終的に、彼女は共犯者だったことがわかる。】

ただし、こうした重なり合い、パラレル化を、この映画は「デジャブ」と呼んでいるようなところがある(映画の中で、この言葉は一度も使われないのだが)。ある出来事が過去の出来事と類似しているようにみえたり、はじめての経験なのに、過去に経験したことのように感ずるのが「デジャブ」であって、おぼろげな過去の出来事を思い起こすとか、トラウマ的に過去の出来事が想起されることは「デジャブ」ではない。だが映画では、主人公の女性が、過去の出来事をぼんやり思い出すことを(ぼんやりとは、薬物によって記憶があいまいになり、さらには夢と現実との境目がわからなくなるからだが)、デジャブと考えているところがあり、この点、多くの観客が違和感を抱いたところかもしれない。

とはいえ主人公の女性に抑圧された記憶がよみがえってくるような時には、映像がぶれるという映画的な処理がなされている。物が二重にぶれてみえることで、表と裏、光と影、夢と現実、虚偽と真実とが重なる予兆を示すことになる――二重性のドラマが展開するのだ。

また主人公の女性は、死んだ女子校生のイメージに絶えずつきまとわれるのだが、そのはじまりは、鏡にうつった女子高校生の姿だった(ただし主人公の女性は気づいていない)。この鏡のイメージは強烈で、鏡から抜け出た女子高生が主人公の女性を襲うようなパターンが反復される。と同時に、主人公の女性にとって、この恐怖の女子校生は鏡の中の自分自身でもあって、結局、自分の真の姿に向き合うことで彼女は真相を知ることになるともいえる。このあたりも優れた演出である――鏡像との戯れと二重性。

この映画は、工事現場で、そこに居合わせた4人が下敷きになって死ぬことで終わりを告げる。その4人とは、
1)主人公の女性のフィアンセで女子高校生を車ではねて隠蔽工作を行った男(女子高生の兄で刑事の男に拷問を受けて殺される)
2)最終的に工事現場の地下に埋められていた女子校生の死体、
3)その女子校生を探していた兄の刑事。そして
4)主人公の女性をフィアンセから奪おうとした反社の男で、女性のフィアンセによって殺された。この4人である。

しかしほんとうにそうか。4)の男性は殺されたらしいのだが、誰が殺したのか、その死体はどこにあるのか、映画のなかで説明されていない。主人公の女性が、観客の眼からみれば第一容疑者なのだが、同時に、観客の眼から見ればたぶん彼女が犯人ではない。4)の人物の友人でり、彼女のフィアンセである男性が一番怪しいのだが、彼が殺したかどうか説明はない。むしろ工事現場で死んだのは4)の男性(あるいはこの男性の死体)ではなくて、主人公の女性ではないだろうか。

というのも過去の記憶が、薬物によって曖昧になってしまったという状態は、記憶喪失状態のひねりであって、記憶喪失物の常で、記憶を失う人物は、いくら過去において恐ろしい犯罪者とかプロの殺し屋であったとしても、善人に生まれ変わる。彼女も過去においては共犯者であったかもしれないが記憶を失ったあとは善人になる(だからフィアンセの交通事故を警察に告発することいなる)。そのため工事現場の崩落事故を生き延びたと考えたくなるが、また殺されて埋められた女子校生というカウンターパートと運命を伴にして、そこで工事現場で死亡したともとれる。

映画の最後で崩落事故を伝えるニュースの映像とコメント(字幕)からは、すくなくとも日本語字幕を信ずる限りでは、はっきりしないのだが、また私が見落とした可能性も大きいのだが、ただすくなくとも、このニュース映像は、たんに観客に向けての情報提供以上の意味をもっている。

つまりこのニュースをみている関係者がいるということである。もし主人公の女性が生き延びたのなら、彼女が見ているのかもしれないが、もうひとり、確実に観ている人物がいる。それがすでに述べた、影の三角関係を構成する、刑事の友人の精神科医である(正確にいうと、その精神科医の机のうえにある幼馴染三人組(のちの女子高校生・のちの刑事・のちの精神科医)の写真を通して、それがわかるのである)。

これで女子校生を殺した三人組をすべて破滅に導いた影の三角関係の存在があきらかになる。そしてひょっとして、この唯一の生き残りかもしれない精神科医が、友人の兄妹のために復讐をはたしたのではないかという可能性が示唆されるのである。

すくなくとももう一度見る価値の映画であることはまちがない。二重性とは反復と関係するのだから。

posted by ohashi at 20:55| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2022年03月13日

『今日も僕は殺される』

The Death of Ian Stones(2007)

87分の英国・米国合作映画。タイム・ループ物映画かと思い――日本語のタイトルそのものは、まさに『ハッピー・デス・デイ』の男性版としか思えなかったこともあり――、観てみたが、違った。

重厚かつスタイリッシュな映像をたたみかけてくる導入部、主人公の男性が殺され気づくと、パラレルワールドで生きている。パラレルワールドというのは、場所や環境や状況は変わっても同じ人物がまるで、あるエピソードのアダプテーションかのように反復される。その圧倒的な謎と神秘に期待は膨らむが、途中から、失速する。

人間の死に瀕したときの恐怖の感情を糧に生きているハーヴェスターという闇の一族(clan)に属する主人公は、一族を裏切ったために、彼らに付け狙われることになる。ハーヴェスター一族は現実改変能力をもっていて、彼らが主人公の青年を殺しては、べつの現実に蘇生させて、また殺すのは、どうやら裏切り者への懲罰らしい。青年を、この拷苦を救ってくれる鍵を握る一人の女性がいて……。

なんとう安っぽい設定なのだ。まあ『ダーク・シティ』のような映画と思えばいいのだが、それよりも設定がうすっぺらい。『アンダーワールド』のようにシリーズ化を狙っていたようなふしもあるが(最後に主人公は、逆に人間になりすましたハーヴェスター一族を狩りだすハンターとなっていくのだから)、これ一作で終わっている。

『華麗なるペテン師たち』にレギュラーで出ていたジェイミー・マーレイが魔女的な役で出ているが、それ以外に知っている俳優はいない。

ただ、それにしても劇場公開映画というよりも、テレビドラマあるいはテレビ映画的なところがあって、イギリスでは、こういうドラマがよく作られている。面白い設定とも思えないのに、繰り返しつくられるのはどうしたわけか(とはいえすぐに類似した作品のタイトルが出てこないのだが)、これはほんとうに謎である。

posted by ohashi at 21:01| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2022年02月23日

『パラレル・ライフ』

パラレルライフ 2
『パスト&フューチャー』よりも古い映画だが、呪われた場所、呪われた運命があり、そこからいかに逃れることができるのか、逃れられないのかが主題となるのは韓国映画『パラレル・ライフ』(2010)でも同じである。

こちらの映画は、過去の事件にみられる法則性から未来の事件も予見できるという設定のために数学者と、彼が発見するエセ法則が導入されたのだが、『パラレル・ライフ』では、リンカーンとケネディが似たような人生を送ったということを一例とするような、人間誰しも、過去の誰かの人生と同じ人生を辿っているというパラレル・ライフ理論をもってきて、過去の事件の反復が起きかけている現在のなかで、過去の事件を解明し、宿命から逃れようとする主人公の苦闘が描かれることになる。

映画.COMの映画紹介:

仕事一筋の敏腕判事ソクヒョンは、美しい妻ユンギョンと愛娘のイェジンと幸せに暮らしていた。だがある日、何者かにユンギョンが惨殺され、ソクヒョンは失意の底に落ちる。事件の調査を進めるうちに、ソクヒョンは30年前に自分と全く同じような境遇に陥った男の存在を知り、異なる時代を生きる2人の人物が、一定の時間をおいて同じ運命を繰り返すという運命の法則“平行理論”の可能性を疑い始める。新鋭クォン・ホヨン監督がメガホンをとり、人気韓流ドラマ「宮廷女官 チャングムの誓い」のチ・ジニが主演を務める。


この映画に登場する韓国の女優はみんな美形で見とれてしまうのだが、みんなあっさり死んでしまうのは残念。また子役(女の子)が、ほんとうに天使。またさらにリンカーンとケネディが同じ運命を繰り返していたことの驚き(これについては、どこかで聞いたようなかすかな記憶がないわけでないが)。そして最大の驚きは、ゲーデル(あの不確定性定理の)が餓死していたことである。餓死といっても貧困ゆえの餓死ではないのだが。

さてこの映画の肝となっているパラレル・ライフ理論だが、これは二人の人生が似ているということだが、その前提にあるのは、二人がまったく違うということである。差異が大きければ大きいほど、類似性が目立つ。最初から似たもの同士だと、少しの違いでも目立ってしまい、類似性が打ち消されてしまうこともあるが、最初から差異が大きいと、少しの類似性でも、差異を打消し類似性が強調されることになる。これが重要な第一点。

第二点は、反復性。ひとつのシナリオが、時と場所、そして登場人物を変えて反復されること。AとBとCの三人が殺し合って、みんな死ぬという出来事があると、それから時を隔てて、違った場所で、XとYとZの三人が殺し合って死ぬことがあれば、AとBとCの三人とXとYとZの三人はパラレル・ライフになる。

第一点の差異を前提としての類似というのは、アダプテーションである。最近はやりのアダプテーション。いくつも本あるいは論集が出ている。かくいう私もかつて、アダプテーションの論集に寄稿させていただいたのだが、それが今月、その第二版が出版された(このことについては別の機会に詳しくは報告する)。アダプテーション流行だが、アダプテーションの基本は、差異のうえに類似性を確立することである。翻訳の場合は、いかに類似させるかが問題になるのに対し、翻案(アダプテーション)はいかにして差異のあるところに類似性を打ち立てるかである。翻訳の場合、分身そのものを、できれば、分身以上の本体そのものをめざすのに対し、翻案の場合はパラレル・ライフである。戦国時代の物語を、現代の日本の物語として作り直すことが翻案である。

いっぽう反復性のほうは、シナリオという言葉を使ったことからもわかるように、演劇性とかかわる。同じ人物あるいは同じ人物の行動なり運命を、異なる俳優が演ずる。演ずる者が異なっても、劇行為そのものは同じである。またシナリオといっても、それは骨組みであって、細部はとくに指定がないから、最初の劇と次の劇で、様相が変わることもある。そうなると翻案と上演は同じようなものになる。まあ、第一点のアダプテーション性と、第二点のドラマ性は、同じひとつの現象の捉え方の差異ということになるだろう。

第一のアダプテーション性は表層構造を問題にしている。同じ構造をいかに変化をもたせたうえで多彩に有意義に時に斬新に飾り立てるかがアダプテーションの成否を決定するのに対し、第二の反復性は、構造あるいは深層構造そのものに着目する。多様な要素がいかにして同じ構造を共有し、また多様な血肉化のなかに、いかなる共通構造が潜んでいるかが焦点となる。

第一のアダプテーション性を軸に考えると、パラレル・ライフといえる事例は、さがせば見つかるのだが、その時、差異が大きい関係であればあるほど意味深いが、ただ、そのような事例は可能性として存在することはわかるがみつけるのに時間がかかる(困難をともない、みつからないかもしれない)。

では逆に身近な事例となるとどうか。一例としてあげられるのは親子関係である。子どもが親と同じ人生をたどることはよくあることだ。たとえば親の後を継ごうとか親を見習う生き方をすれば、当然、子供の人生が親と似てくることは当然である。また親に反発をして親と同じ人生だけは辿るまいとする子どもがいても、つねに親のようにならないと意識しているわけだから、子供の人生は親の人生を反転させたものになる可能性がある。反転というのは輪郭が同じということだ。写真のネガとポジ、あるいは絨毯の表と裏。同じ輪郭を共有しながらも、表層はがらりとかわる。反転というかたちにアダプテーションとなるが、これもパラレル・ライフといえる。

こんなことを考えているのは、パラレル・ライフ理論の成立可能性についてではなく、パラレル・ライフ理論の物語解釈への適応性についてである。またそれがどのようなジャンル(文学的、映画的)を発生させるかを考えたいのである――すでにアダプテーション、演劇、反復、反転イメージなどを提出した。

この韓国映画『パラレル・ライフ』においては、主人公の敏腕裁判官が、30年前に自分と同じ若手敏腕裁判官一家に起こった事件(裁判官夫妻と子どもが殺される)を、自分の家族が反復再現しはじめていることに気づき、「異なる時代を生きる2人の人物が、一定の時間をおいて同じ運命を繰り返すという運命の法則“平行理論”の可能性を疑い始める」ということになる。この場合、主人公が自分や自分の家族に起こりつつあることから、30年前の事件と同じ悲劇的結末をいかに避けるかが物語の要となるのだが、30年前と現在との交錯は、前回の『パスト&フューチャー』と同じである。

また30年前の同じ経過をたどる事件をいかに防ぎ、その悲劇的結末からいかに避けるかについては、再び同じ事件、同じ人生を辿るのだから、ループ物といえなくもない。というか疑似ループものである。ただ、ループ物とちがうのは(とはいえループ物と同じとも言える部分があるのだが)、主人公は、ただの生まれ変わり、あるいは生き代わりではないので、事件の結末は知っていても、細部がどうであったかはわからず、ループ物で記憶を保持する主人公ならわかるような事件の細部が、この場合、見えてこなくなる。過去の事件の全容はわからず、調査し推理して、過去の事件を探ることが、現在おこりつつある事件の惨劇化を未然にふせぐことになる。また現在の事件経過をとおして、過去の事件に光が当たる面もある。まさに『パスト&フューチャー』の世界。ただし『パスト&フューチャー』の場合は、基本構造はわかるが、同じ構造を共有する複数の事件が間歇的に発生するその周期あるいは間隔の法則性を探ることがメインとなり、さらに同じ構造が中途半端にしか反復されていないことの謎と、その謎をとくことが未来に起こる惨劇から犠牲者を救うことにもなる。

ループ物の場合、反復される惨劇を防ぎ、変えようとするセカンド・チャンス的行為と構造性の優位というか、どうあがいても運命は変えられないという悲劇的宿命性とに二分されると思うのだが、この作品は、みればわかるように答えははっきりしている。ネタバレになるので、これ以上は書かない。

たった一度の人生は、実つは二度目、三度目、いやN度目であると考えることになかに人生の意味があると私は思うし、ループ物は、それを意識させる。忘れてしまっているかもしれないのだが、私の人生は、これで2回目、あるいは1万回めだという意識が私の人生を変えることになろう。

これに今回のパラレル・ライフ理論を加えると、私の人生は、誰かの人生と同じであるということになる。私の人生は、すでに誰かが一度経験したものであり、いま私は、それを新たに経験しつつあるという反復性、あるいは決まった人生は、どうあがいても変えられないといいう反復する人生の運命悲劇。それがもつ意味をさらに追究してみたい。
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2022年02月22日

『パスト&フューチャー』

パラレルライフ1

あまり知名度はないが、よくできたスペイン映画で過去と現在とが交錯するサスペンス物として『パスト&フューチャー 未来への警告』(2018)がある。タイトルは安っぽいが、原題はEl Avisoで「警告」という意味で、安っぽいSF映画じみたところはない。監督ダニエル・カルパルソルの映画は残念ながらみたことはないが、この映画の映像から判断するかぎり、有能な監督ではないかと思う。物語も謎ありサスペンスありで観ていて飽きがこない。

ふたつの事件が並行して語られる。原作をのぞいてみると(とはいえスペイン語の原作の英語訳をのぞいてみただけだが)、どちらが過去で、どちらが現在かは、年代も入っていて歴然としているのだが、映画のほうは心を病んでいる数学者の物語と、いじめにあっている少年の物語の、どちらが古くてどちらが新しいか最初のほうはよくわからない(マドリード郊外が舞台になっていて、スペイン人観客なら映像からどちらが新しいか古いかはわかるかもしれないがとしても)。

とりあえずWOWOWの映画紹介:

銃撃事件に巻き込まれた数学者の主人公が、過去にも同じような事件が発生していることを知り、これから起きる惨劇を予測する。数字のミステリーが独創的なSFスリラー。

時代は違うが、同じ場所で、同じような状況で起きた惨劇。そこに隠された法則とは……。事件に巻き込まれたことをきっかけに、過去にも似たような事件が繰り返されていたと知った数学者の主人公が、法則を調べる中でこれから起きるであろう惨劇を予測して……。「マーシュランド」のR・アレバロが主演、監督は「バンクラッシュ」「ワイルド・ルーザー」のD・カルパルソロと注目の布陣で送る異色のSFスリラー。10年後に10歳の子どもが被害者になると予測した主人公が、未来を変えようと奔走する姿が見ものだ。

Wikipediaによる簡単なあらすじ紹介:

2008年4月12日、数学者のジョンはガソリンスタンドで銃撃戦に巻き込まれる。その後、ジョンは1913年、1955年、1976年にも同様の銃撃事件が会ったことを知り、2018年に同様の事件が起こると予測する。


ガソリンスタンドに併設されている売店での銃撃事件に友人が巻き込まれた、数学者(ただし心を病んでいるみたいで常に薬を飲んでいる)が事件について調べてゆくと、同じ場所で、過去にも同様の事件が起きていることがわかる。間歇的に起こる事件には周期性というか法則性のようなものがあり、事件の被害者や関係者にも類似性が認められ、そのため10年後に同じ事件が起こると予測する数学者は、未来の事件を防ぐか、その事件の被害者になるかもしれない少年に警告しようとする。

そのため次のようなネット上の感想には、こちらが頭を抱えてしまう。たとえば

〇最後何もしなければ死ななかった
〇……これは究極の馬鹿野郎か、自殺かのどちらかにしか見えない。

なにもしなくても、どうあがいても、事件は防げないのではないか。その宿命に圧倒され死んでいくしかないのか、あるいは最後まで悪あがきをするのかが映画の物語の焦点となる。主人公は、なにもしなくても死ぬ運命にあったし、またどうあがいても死ぬしかなかったので、主人公を馬鹿呼ばわりしているお前が馬鹿としかいいようがない。

少しまともな感想がこれ:

映画をよく観る方なら大体予想が読めると思います。主人公数学者のジョンと事件.少年との謎が。B級~C級の間みたいな感じの作品。ストーリーが個人的には好きな類いなので観ました。時間も93 分で丁度良い。

映画の結末が予想できたというのは、だいたい頭の悪い人間がマウントしようとしてよく語る言葉。呪われた場所、宿命として事件から、逃れるか、逃れられないかという結末なら、映画をよく観ない人でもすぐにわかること。一般に宿命から逃れられないのだが。

あるいは

繰り返す同じ場所の殺人事件、その法則を見つけ出そうと足掻く主人公。導き出された法則に従って、次の犠牲者を救おうと自ら現場に踏み込むが…
緻密な計算と行き当たりばったりの行動に、なんとも齟齬を感じる結末。


緻密な計算というのは、実は、どうでもよいことで、主人公の数学者が過去から未来に反復されていく殺人事件に法則性を見出すというのは、たんに、その場所が呪われていて、周期的に事件が起こるという変な神秘性を避けて、なにか自然法則のようなものがはたらいているかのようなみせかけをつくるために、数学者による計算をもちだしてきたにすぎない。それをしなくても、事件現場が呪われた場所であるという設定は簡単にできる。ただ、主人公が未来の事件を防ぐ、あるいは未来の事件から関係者を救うという設定には、エセ数学的法則性が必要だったということである(さもなければ、胡散臭い占い師に未来の事件を予言してもらうしかないのだから)。

あと未来の事件を防ごうとして起こす主人公の行動は、どれも計算されていて、行き当たりばったりのいい加減なものではないことは確かである。

あまりいうとネタバレになるのだが、実は、数学者が目撃し、友人が撃たれた事件は、これまでの法則と違っているところがある。これはどう考えたらいいのかということになるが、実は、法則どおりだったことが最後にわかる。帳尻が会うのだが、これは『ファイナル・デスティネーション』シリーズを思い起こさせる。つまり最後に帳尻合わせの死が待っていたのである。

また、主人公が未来にどう警告するのかも、ひとつの見どころである。その方法は、韓国ドラマで、日本でもリメイクをされた『シグナル』のような過去からの連絡という荒唐無稽なものではない。

これに関して、なぞの警告を受け取った10歳の少年ニコとその母親について、

ニコの母親はどうかしてる。
これはこの映画見た人は皆思うハズ。泣きそうになりながら拒否していることを「克服してこい」と言って無理やりやらせるとかありえない。それがないとストーリー進まないけどさ。あれは酷いよ。


酷いのはおまえだ。たしかに10歳の少年が誕生日にガソリンスタンドの売店に行ったら死ぬという謎の警告は、観客にとっては(映画の論理からして)実現するとしか思えない未来の惨劇を伝えるもので、真実の警告だと思うし、それを根も葉もない迷信扱いして、むしろ迷信を信ずる愚を思い知らせるために10歳の少年の誕生日当日、彼をガソリンスタンドの売店にむかわせる母親はバカといいたくなる気持ちはわかる。

しかし縁起を担いだり迷信を信じたりして何もできなくなる愚かな子どもにしないために、あえて謎の警告を無視させることは、現実においては正しい教育法である。物語の展開と論理からはこの母親は愚かで責められるべきだが、現実において、この母親のしつけは、まちがっていない。

そしてこの映画の最後は、観客を苛立たせるこの母親の行動によって、10歳の少年は最終的に恐怖を克服できたのである。過去からの警告と母親の正しい判断によって、少年は救われる。おそらく救われたのは少年だけではない。この少年も、学校の教室の黒板に数式を書いていた場面から、数学の天才であることが暗示されていて、いうなれば、数学者の主人公の生まれ変わりかもしれないからだ。そして、これがこの映画の主題であることは、映画をよく観ない人でもわかることである。

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2022年01月20日

『ハウンター』

自分の人生が何度も同じことの繰り返しというか、自分を人生をループしていると感じててしまう症候群があって、それに捕らわれた人間は虚無感にとらわれて最後には自殺してしまうという話を、米国のテレビドラマ『ブル』で知った。とはいえどのエピソードだったか忘れてしまい、どういう名前の症候群だったかもわからずじまい。いまCSで『ブル』の再放送をしているが、シーズン3かシーズン4のなかのエピソード(ただし、その症候群は余談のように語られたので、その回の主題ではない)だったと思うので、シーズン1が始まったばかりの再放送では、私が探すエピソードに辿りつける日までにはまだ時間がかかりそうだ。

タイムループ物はセカンドチャンス物の場合、最初の過ちなり失敗を正すことにもなって、うまくいけばハッピーエンドとなるのだが、うまくいかないと失敗の連続で地獄である。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』は最後の勝利までに何度失敗したかわからない。失敗しても記憶は残るのという設定の場合、見かけは年をとらなくても、記憶が残っていれば精神的年齢を重ねることになり、疲労する。たとえ1年周期のループでも100回ループしたら、たとえ当人は1年しか年をとらないにしても、精神的には100歳の老人である。ル-プすることの疲弊感は、吉村萬壱『回遊人』が実に見事に描いている(この作品についていずれ語りたい)。

セカンドチャンスがあることは、夢だが、同じ失敗の繰り返しは地獄に閉じ込められているようなものである。賽の河原の話は知っているだろうか。反復は時として救いにもなるが地獄にもなる。

『ハウンター』Haunter(2013)は、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督作品だが、この監督の『Cube』(1997)『カンパニーマン』(2002)『スプライス』(2009)までは見ていたのだが、『ハウンター』は最近まで見たことはなかった。怖がりの私は『ハウンター』はけっこうどきどきしながら見た。

主演はアビゲイル・ブレスリン。彼女の映画は『私の中のあたな』(2009)『ゾンビランド』(2009)『ザ・コール』(2013)『8月の家族たち』(2013)と見てきているので、さすがに健忘症の私でもすぐにわかったが、彼女が脚光を浴びたのは、言うまでもなく『リトル・ミス・サンシャイン』(2006)。この映画のなかで、アメリカ映画などではよくあるのだが、どこの家族にもいる独身の親戚(オジサンやオバサン)をスティーヴ・カレルが演じていた。彼はプルースト研究家の大学の教員で最近恋人にフラれたばかりのゲイ男性という役柄だった。その彼に私は自分を重ねた記憶がある。私も、また、どこの家族にもいる独身のオジサンだからだ。

『ハウンター』はアマゾン・プライムでも見ることができるのだが、そのなかのレヴューで最低だったものがこれ、

よくあるタイムループもの、これと言った捻りもなく驚くような展開はない。ハリウッド映画お得意の家族愛をホラーにぶち込むと言うスタイルも眠気を誘います。
ホラー系に必要なのは大きな裏切り、そしてなるほどなぁと納得させるだけの細かいディテールが必要。それを放り投げたら何でもありになる。この映画は典型的な何でもあり映画である。
個人的には、この手のストーリーや展開は散々こすり倒されたものであり斬新さは皆無。あの程度のラストで感動できるピュアさもない薄汚れたオジサンには、ただただ眠かった。
謎を謎のままにしていいラストは、よほど高尚なものではいといけない。この映画にそんなカタルシスはない。結論から言えば駄作である。

結論から言えば、こいつの頭が駄作である。確かに分かりにくいところはある。しかし同時に、他のレヴューでもわからないという意見のほかに、作品の構造というか構成を的確に読み解いているレヴューもあって、私も気づかなかったことを教えられた。そうしたレヴューを読めば自分の理解力のなさを痛感させられるだろうし、また作品への理解が深まるだろうが、この駄作男は、それもせず、自分の頭が駄作であることを棚にあげて、映画が駄作だとほざいている。

映画のせいにするな。自分のせいにせよ。もちろん、こういうと、最近の起こった刺傷事件の高校生について社会のせいにするなと語ったあほな政治家と同じ次元のことを話していると言われそうだが、いや社会のせいという私の立場はかわらない。駄作男が。自分の駄作ぶりを棚に上げて映画のせいにしたこと自体、そうした発想を許す社会のありかたに問題があると私は思っている。ふつうなら、自分の頭の悪さをさらけだして、映画のせいにするというのは、恥ずかしくてできないはずなのに、それを堂々とやるというのは、社会によって自分の行為は認可されていると、この駄作男は自信をもっているからだろう。いつから、こんなことになってしまったのか。

それはともかく、この映画を駄作だというバカがいるいっぽうで、高く評価するレヴューアーは多い。また内容については、ネット上の「映画ウォッチ」というサイトには、実に丁寧なあらすじが掲載されていて驚く。映画をみたら、ぜひこの映画ウォッチで確認されたい。こんなに丁寧に筋を追っている記述はみたことがない。そしてそこまで綿密に筋を確認するのなら、感想でもなんでもいいからコメントしろよといいたくなる。

以下ネタバレ注意。Warning:Spoiler

アレハンドロ・アメナーバル監督・脚本の映画で『アザーズ』(The Others)という映画があったが(2001年製作のアメリカ・スペイン・フランス合作のホラー映画。ニコール・キッドマン主演)、構成はそれと似ている。つまり今風にいうと事故物件に新たに住人が住み始める。『アザーズ』では、すでにいる住人が、なぞめいた新たな住人に悩まされるのだが、実は、すでにいる住人のほうが、幽霊で、新たな住人が現実に生きている人びとということだった。

幽霊(死者)と生者との交流がドラマを、あるいは恐怖を生むことになるが、『アザーズ』の場合、幽霊が自分が死んだことを知らず、生者たちを幽霊と思い込んでいる。『ハウンター』も、実は、四人家族で暮らしている少女が、幽霊からの呼びかけに悩まされているという設定だが、少女は自分ならびに自分の家族がすでに死んでいることを自覚するようになる――これはけっこう早い段階で少女は気づくので、観客のほうが置いて行かれそうになる。実際、この少女リサ(アビゲイル・ブレスリンが演じている)は頭の回転が速すぎるというか利発すぎる。結局、幽霊からの呼びかけは、この家に新たに住み始めた住人(同じく四人家族)のひとりオリヴィアからのものだったとわかる。

ちなみに、これは少女が活躍する話であって、まさに映画の王道を行く設定であるともいえる。少女こそ、映画における中心的存在であるのだから。

リサはウィジャボード(Ouija board)で死者と交信しようとするのだが(実際には自分が死者なのだが)、相手の生きているオリヴィアはiPadで交信してくる。そこが面白い。リサが閉じ込められている世界は1985年である。オリヴィアのほうは映画の公開時と同じ2013年である。だからリサが、知るはずもないiPadの操作がわかるのは、おかしいという意見と、リサの才気煥発な頭の良さが物語の原動力となっていると肯定的にみる立場と二つに分かれるようだが、私はウィジャボードというのがあることを知らなかったが、コックリさんのようなものかと容易に推測できた。iPadに初めて接する人は、よほど文明度の低い暮らしをしていないかぎり、その使いかはたわかると思う。だから、そんな変な設定ではない。

リサは1985年の自分の誕生日前日の一日に閉じ込められている。この屋敷では過去に子供が両親を殺害するという事件が起きる。やがてその息子が長じて、連続殺人犯となって、街で拉致した女性をこの家で殺して焼却する。また、自身も死んで、亡霊となってこの家に憑りつき、新たな住人となった家族を殺す。それは父親に憑りつき、発狂した父親が家族を殺すのである――映画『シャイニング』のような物語となる。リサの家族も父親に殺され父親も死んだようだ。そしてここにループがはじまる。

ただひとまずループを差し置くと、リサは、自分に交信してきた2013年のオリヴィアと接触するようになる。と同時に連続殺人の最初の被害者フランシスと接触できるようになる。フランシスは1954年の世界に閉じ込められている。1985年を起点として、1954年はから始まる呪われた家の物語。そして2013年の現在、いまそこに住む家族に危機が迫るということになる。

リサは16歳になる誕生日の一日前の時間を延々と繰り返し生活を送っている。しかし彼女は、両親や弟が無自覚ながら、自分は、ループしている現実に覚醒する。そして自分も家族もみんな死んでいることに気づく――おそらく父親に家族全員が殺される記憶がかすかに残っているのだろう。そこまではいいが、なぜ同じ日を繰り返すのか。日本風にいえば成仏できなかった少女とその家族の話なのだが、成仏できないまま憑りついているということか。

ここで日本のネット上のレヴューアーが無視していることがある。映画の冒頭、タイトルがでるシークエンスは、蝶々が暗い保管棚の周囲を飛びまわる象徴的場面である。保管棚にはおびただしい数の瓶が置いてある。アルコール漬けの標本のような感じがするが、その中身は暗くてよくわからない。叫び声をあげている人間のイメージが瓶のなかに浮かぶこともあるが、それも定かでない。最後の蝶々は、ある瓶の側面にとまるのだが、その瓶のなかに同じ蝶々の姿が浮かび上がる。ガラスの側面を境にして蝶々が対照的にみえる。その後蝶々は飛び去って、朝、目覚める少女の顔になる。

映画『コレクター』(The Collector,1965)は蝶のコレクターの男性が、女性を拉致監禁するが、彼女を死なせてしまう(『ハウンター』のフランシスの運命と似ている)。映画は彼が連続殺人犯になってゆく未来を暗示して終わるのだが、『ハウンター』において連続殺人犯は、犠牲者たちをコレクションして展示しているとみることができる。生きているときは直接手を下した。しかし死んでからは直接手を下せないので、父親の精神を操って、その家族に凶行におよぶよう誘導したとみることができる。

ではどう展示するのか。蝶のように防腐処理をした死体を針でケースに止めるのか。あるいは博物館のようにジオラマ仕立てにして飾るのか。しかし静止した状態では面白くない。そこで動画状態、少なくとも生きている姿をとどめておきたい。そのために同じ一日を繰り返すことになる。一日を無限にループするのは、ある種の防腐処理のようなものである。そして誕生日前の一日に少女は永遠に閉じ込められる。永遠の相でみれば、これは静止状態であるが、人間の時間尺度にすれば一日であって、動くジオラマのように犠牲者たちは死ぬ前もしくは生前の日常を永遠に繰り返すことになる。

蝶は、少女と少女の家族、そしてそれ以前の、またそれ以後の、犠牲者たちがコレクション状態で、この家に閉じ込められていることの象徴でもあろう。また、ただ一匹で、この保管庫あるいは保管棚の周囲を飛ぶ蝶は、自分の状態に目覚めて、外部に出ようとする、あるいは出ることのできた少女の欲望というか意志のようなものの暗喩だとみることもできる。

物語は、少女の家族も、この家の悪しき亡霊に操られていたこと、自分たちが死んでいることを少女と同様に思いだし、この家から抜け出ようとする。また少女は、過去の犠牲者たちや未来の犠牲者候補たちと接触することができて、犯人を捕まえ、彼が犠牲者を焼いた地下の火炉で、犯人自身を焼くのである。そして翌朝目が覚めると誕生日の日になっている。時間的には終わりのないループ、空間的にはこの屋敷の異空間に捕らわれ、コレクションの展示状態になっていた彼女は、そこから逃れ翌日に到達できたのである。彼女には家族から誕生日プレゼントが贈られる。家族の愛を取り戻した彼女は、こうしてハッピーエンディングを迎える。とはいえ最初から死んでいるので、日本風にいえば無事に成仏できた。あるいは家族ともども天国に召されたということか。

無事に死ねた、成仏できたのだから、まさにHappy Birth Dayではなく、Happy Death Dayである。この表現は、映画『ハッピー・デス・デイ』よりも、この『ハウンター』のほうに当てはまる。

ただし、もちろん最後までリサを呼ぶ声は消えない。天国にめでたく召されたか、また閉じ込めれるのか、一抹の不安をかきたてて映画は終わる。

ひねりがききすぎているかもしれないが、よくできた映画で、観る者をいろいろな意味で刺激してやまない。

ただし、それだけかというとそうではない。最初のほうに同じ日が繰り返される日常がある。少女は、反復に気づいているし、観客もそれに気づく。そこからなにが生まれるかといえば、現実が芝居がかってみえることだ。映画『時をかける少女』の原作の筒井康隆の『時をかける少女』(ジュヴナイル)では、同じ日の繰り返しに主人公の少女が、誰もが芝居を演じているように感ずるところがある(原文を引用すると――「まるで、おしばいをしているみたい!」)。日常の反復性に覚醒した者には、ありふれた日常を包み込むリアルの皮膜がはがれて偽りの嘘っぽい芝居がかった内実をさらすところがみえてくる。少女が感ずるこの苛立ちと恐怖と虚無感。それはまた十代の思春期の男女が抱くフラストレーションそのものだろう。

つまりこの映画の少女のいらいらは、なにも連続殺人犯の奸計で一家が殺されたのに自分以外の家族が誰も気づいていないという特異な物語をもちださなくても理解できる。そこには、ありふれた、そしてより恐怖の度合いが強い、あるいは嫌悪すべき日常が隠されている。十代の少女(あるいは少年)にとって、家族生活そのものが、抑圧的で、親は、自分たちを閉じ込める悪魔にみえるだろう。連続殺人犯が憑りつく悪霊の家という設定は、真の原因から注意をそらさせる安全弁でしかない。得体のしれない慣習が伝統が家族愛という重圧が、自由を求め外部に出たい若者たちを閉塞させる。家族愛は彼らを閉塞させるしらじらしい茶番劇なのだ。そのためこの映画があばく真相は、実は日常的な光景そのものである。この虚偽の日常、しらじらしい慣習実践、おしばいをしているみたいな家族愛は、十代の男女が感ずる日常への嫌悪をたっぷりしみこませた心象風景にほかならない。
posted by ohashi at 23:26| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする

2022年01月10日

『タイムクルセイド』

タイム・ループ物のB級映画をみすぎていて、いつのまにかタイム・リープあるいはタイム・トラベル物の映画もいっしょに見てしまうことになった。そこで、純然たるタイム・リープ物映画ではないが、気になった映画について感嘆にコメントしておきたい。

『タイムクルセイド』はいかにもB級映画というイメージなのだが、それは誤解で、オランダで高い興行成績を収めたメジャーな映画である。

オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・ドイツの合作映画。オランダでは大ヒットしたとのこと。なお映画は、2時間5分のヴァージョンと1時間40分のヴァージョンがある(私が観たのは100分ヴァージョンのほう)。また使用言語は英語。英語のタイトルとしてはA March Through Time。

監督のベン・ソムボハールトはオランダでは有名な監督らしく、過去にその作品がアカデミー賞の外国部門賞を受賞したこともあるらしい。原作はオランダの女性作家テア・ベックマンの有名なジュヴナイルもしくはヤング・アダルト作品(『ジーンズの少年十字軍』(上・下)西村由美訳、岩波少年文庫2007)。原作のほうは読んでいないのだが、12世紀にタイムトラベルをするのは同じだが、その他の設定などは、原作とは大きく異なっているらしい。

原作の愛読者からは、原作のもつひねりや深さを活かしていないことへの不満があるようだが、それは原作を読んでいなくても、この映画の、いかにもハリウッド映画的なフォーマットの物語から充分に推測できることだが、ただ全体的にハッピーエンディングなので、家族向きの映画なのかもしれない。初等・中等教育の場で教材としても使えそうだし。

主役のジョニー・フリンはNHKでも放送していたBBCだったかのテレビ版『レミゼラブル』に出演していたし、未見だが英国のテレビ版『エマ』にも出演しているらしい。彼の母親で科学者のエマ・ワトソンは有名な女優だが、一応、中世の歴史再現性とタイムマシン装置のSF的設定においえ、金のかかっている映画であることはまちがいない。

少年十字軍について、ネットではこの映画で初めて知ったというレヴューがけっこうあったが、今はそういう時代なのか。私は子供の頃、少年十字軍の話を知り、ひどい話だと思ったことがある(もちろん現在では研究がすすんで、いろいろな説があるようで、ほんとに何が起こったのかわからないとしても)。この映画でも、12世紀の少年十字軍がたどった過酷な運命を再現しつつも、タランティーノの『ワンス・アポン・タイム・イン・ハリウッド』と同様、最終的な悲劇は回避されるので、映画ならではのファンタジーを成立させている――タイムトラベル物としては同じ時間軸の過去へ行くのではなくパラレルワールドの過去へ行くというファンタジーになる。過去ではなくパラレルワールドへというのは最近のタイムトラベル物にごくふつうにある設定である。

あと、オランダ人がみんな英語を話し、12世紀の住民たちも何不自由なく英語を話すという設定に違和感を抱かなければ、家族向きの映画として推薦できる。

12世紀に21世紀の青年(原作とは設定がちがう)がタイムトラベルしたので、当時としては目立つはずで、絶対に古文書に記録が残っているはずだということで、古文書を精査して、科学者(主人公の母)が主人公の居場所を突き止めるという設定は面白かった。

というのもこれはタイムパラドクスとも関係するが、過去に行って何をしようとも、歴史は変えられないという考え方である。未来からやってきた青年が、風変わりなよそ者として、奇跡を起こす物語が作られ伝承されるだけであって、タイムパラドクス的要素は、どんどん吸収されて新たな時間軸あるいはパラレルワールドができるだけで、いまの世界が崩れるわけではない。

あと、中世の彩色写本の、素人が描く漫画みたいな絵のなかに証言と真実が記録されているということは、映画の物語が、そうした偉人伝なり秘跡物語に等しい現代の寓話的存在であることを示唆しているとみることができる。映画ならではの自己言及的なメッセージである。
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