監督:デヴォン・エイヴリーDevon Avery、脚本:ショーン・クラウチ Sean Crouch、
出演:ブライアン・ディーツェンBrian Dietzen(1977-)、エリン・ヘイズErinn Hayes(1976-)。
時間リープ物と時間ループ物が合体したような映画で、SFとラブコメの要素が入っていて、時間は6分の短編映画。
とはいえ、日本では全く無視されながらも海外で多くの賞を獲得した日本の映画『ドロステのはてで僕ら』(監督:山口淳太、原案・脚本:上田誠2020)のように、アイデアが面白く考えさせられ、それでいて深刻・深遠になりすぎないコメディタッチでエンターテインメント性にすぐれたこの『一分間タイムマシン』は、すでに多くの賞を受賞し(8受賞、6ノミネート)、上映時間6分という短さも、高評価につながり--短すぎて注文をつける余地がない--、ネットでもおおむね高評価で、いまや全世界で配信中の大ヒット人気短編映画となっている。これまで知らなかったことが恥ずかしい。
配信で簡単に観ることができるので、おすすめの映画。なにしろ上映時間6分。
私はアマゾン・プライム・ビデオで観たのだが、男女二人しか登場しない映画で、ジェイムズという名のちょっとドジな青年を演じているのが、ブライアン・ディーツェン。これにはちょっと驚いた。日本のアマゾンのレビューでこのことに触れたものはなかったのだが、ブライアン・ディーツェンって誰だ、と言われそうだが、『NCIS~ネイビー犯罪捜査班』を観たことがある人なら、2014年から現在にいたるまでレギュラーのジミー・パーマー博士のことである。『NCIS』を観たことがなければなんのこっちゃとなるとしても。
【『NCIS~ネイビー犯罪捜査班』は今なお続いているが、シーズン19でギブス/マーク・ハーモンが番組を去って以後、見る影もなくなったといってよく、スピンオフの『NCIS:ハワイ』のほうが、本家『NCIS』よりもはるかに面白いことは誰もが認めるところだろう。『NCIS』ではマーク・ハーモンより早く辞職してもおかしくなかったデヴィッド・マッカラム(マラード博士)は、いまも時々出演しているが、そうでもしないとレギュラー陣からオーラが完全に消えてしまうからだろう。そのマラード博士の、最初は助手、その後博士の後任となったのが、ジミー・パーマー博士/ブライアン・ディーツェンである。】
『一分間タイムマシン』の内容は
手持ち型の一分間タイムマシンを持つジェームズはその赤いボタンを押す度に、一分前に戻ってレジーナを口説こうとするが...思わぬ結果を招くことになる。【AMZONプライムの紹介文】
あるいは
ジェイムズが自慢げに携えているのはテクノロジーのささやかな驚異の産物である。なにしろそれは正確に一分前の過去へのタイムトラベルを可能にしてくれるからだ。公園のベンチに腰かけている美しいレジーナを誘惑しようとする彼にとってそれは完璧な道具だった。もし彼がドジをしたら、あるいは拒絶されたら、その機械の小さな赤いボタンを押してやり直せばいいだけである。ただジェイムズには不運なことに、その機械は彼が思っていたようには稼働していなかった。彼はいまや、自分の行為の暗い真実に直面することになる。【IMDbの紹介文を日本語訳・意訳した】
を参照していただければと思うのだが、確認すると、
ジェイムズがレジーナを口説く。そこでたとえば10分間楽しく会話ができ意気投合したとしよう、次の瞬間、ジェームズの心無い一言がレジーナの機嫌をそこねてしまう。自分の失言に気付いたジェイムズはタイムマシンの赤いボタンを押して1分前にもどる。つまり二人が出会ってから9分たった時点に戻る――という設定である。
映画ではジェイムズは言い間違いから不適切な発言まで、すぐに失言してしまい赤いボタンを押すので、二人が出会ってから一分もたたないうちに一分前に戻ってしまうので、初期設定の時間が、二人が出会う時よりも徐々に、それ以前へと後退していくように思われるのだが、そのことは問わないようにしよう(実際に1分前に遡行しているのではないことがわかるのだから)。
失言しても1分前にもどるだけだから、その失言だけを注意して再度トライすることで、ジェイムズは、レジーナとの親密な関係を築くことができる。これがもし、失言したら即、出会いの時にまで戻るとなると、すべて一からやり直すことになる。となると、これは時間ループ物になる。ところが1分前だとゼロからやりなおさなくていいぶん気が楽である。
映画『オール・ユー・ニード・イズ・キル』では地球に侵略し時間を操る異星人を倒すために多くの過程を経て異星人の基地に接近するのだが、途中で失敗し殺されると、ふりだし(つまり映画の発端時)にもどらなければならない。そして再び、多くの過程を経る長い道程を反復することになる。何度ども何度も殺されリセットされて振り出しにもどる。時間ループ物の特徴のひとつは、ループを繰り返すあるいはループにとらわれる主人公が、最初から、ゼロから同じことを繰り返さねばならないという、とんでもない忍耐を強いられることである。
ところが、もし『オール・ユー・ニード……』に1分間タイムマシンがあれば、異星人に攻撃され殺される直前に1分前にもどりさえすればよく、そうして対策を練るか、危機を回避することで死なずにすむ。すべての振り出しにまで戻る必要はない。これは失敗を修復するために過去に戻るという時間リープ物に近いことになる。
以下ネタバレ注意
『一分間タイムマシン』には従来のタイムトラベル物にないひねりが2つ加えられている。
1) レジーナが主役?
映画はベンチに腰かけている何も知らない女性レジーナに、見知らぬ男(1分間タイムマシンを持った)が声をかけてくる。彼はレジーナを口説こうとして何度も失敗するのだが、しかし、レジーナは、この男ジェイムズのことを知っているふしがある。
彼女は科学の教科書のような大きな本を持っていて、量子物理学者だと名乗るのだが、最初に科学書について指摘されたときは、少々うろたえうそをつく。しかし、実際には、彼女はタイムトラベルの原理を発見してその本のなかに書いたとのこと。彼が持っている1分間タイムマシンというのは、彼女の理論から生まれたマシンのようなのだ。彼女は直接仕組んだわけではないだろうが、この男に、自分を誘惑し口説くようにさせ、失敗しても、1分前に戻り、再挑戦させるようにした張本人である可能性が高い。しかも、彼女は、何度も再挑戦する彼に口説き方も指示する。もう少し激しくと要求したりもする。つまり彼女はジェイムズの出現を予期し、待っているのである。
またジェイムズがある事実を知り意気消沈して口説き続けられなくなったら、彼女のほうがタイムマシンの赤いボタンを押し、1分前の過去へとさかのぼるのである。
次のネタバレとも関係するのだが、この1分間タイムマシンはジェイムズの所有物で彼だけを過去へと送り出す装置のように思われるので、彼女が赤いボタンを押すのは意気消沈しているジェイムズを1分前に送りだすということかもしれない。
しかし彼女が赤いボタンを押すときの台詞は、彼女のほうが、やりなおすために1分前の過去へともどるかのように思われる。このタイムマシンは、それを手にしている者を過去へと送り出すようになっているようだ。
2) 自殺マシン
このタイムマシンの原理を考え、実用化させた彼女の説明によると、このタイムマシンは、時間旅行を可能にするタイムマシンではない。なんと!
そもそもタイムトラベルが可能かどうかについての議論がある。科学にうとい私レベルでも理解できるかもしれない話として、過去へはタイムトラベルできないという理論がある。もし私がタイムトラベルし10年前の私に会って忠告しようとして、それに成功したとしよう。だが私自身、10年前に未来からやってきた私に出会っていないとしたら(ほんとうは出会っていたが記憶を消されたということはないとする)、私が到達した10年前の世界と、私が10年前に生きていた世界とは異なることになる。
こうもいえる――私が10年前の私自身に出会ってしまったら、その時間軸の世界は、私がこれまで生きていた時間軸とは異なるパラレルワールドのものとなる。つまり私はパラレルワールドにタイムトラベルする。同じ時間軸をさかのぼった瞬間、違う時間軸が発生するので、結局、違う時間軸へと転移するのと同じことなる。これはタイムトラベルといえるのだろうか。タイムマシンは、パラレルワールドにしか移動できない。それはパラレルワールド転移装置である。
これと同じようなことを映画のなかでレジーナが語るのである。つまり1分間タイムマシンは、実は、パラレルワールドへの転移装置であるというようなことをいうのだ。つまりそれは現時点での時間軸のジェイムズを捨て去り、その複製、コピーを作る装置なのである。
ジェイムズはレジーナを口説くのに失敗して1分前に戻るというのではなく、レジーナを口説くのに失敗した時間軸というか世界を捨てて、別の世界へと移行する。これは言い方をかえると、ジェイムズは、レジーナを口説くのに失敗したジェイムズ自身を置き去りにして、新たなジェイムズを複製し、その複製したジェイムズをべつのパラレルワールドに生かすということでもある。それをこの装置(「一分間タイムマシン」と命名された)が行なうということである。この装置はレジーナがいうように「自殺マシンSuicide Machine」なのである。
ジェイムズはショックを受ける。これまで16回ほど赤いボタンを押して1分前の過去に戻っていたと思っていたが、実は、16回、自分を殺してきたのだとわかる。いまの自分は16回めの複製にすぎないのだと。そして彼がまるで魂を抜かれたかのようにベンチに横たわって死んでいるさまが16回映像で映し出される。
こうして茫然自失として生きる気力すら失ったかに見えるジェイムズを元気づけ、口説きつづけさせようとして、今度は、レジーナ自身が赤いボタンを押すことになる。それは今の自分を殺して、複製された自分をパラレルワールドにつくって事態を修復させようというわけである。
したがってレジーナ、この1分間タイムマシンが自殺マシンであることを最初から知っていた。また彼女を口説くには何度も自殺することが必要となる、ある意味、その口説き行為は命がけの行為で、なかなか実行する人間がいないことも知っていた。何も知らない、お人よしのジェイムズ君が、自殺マシンと知らずにタイムマシンと思い込んで何度も彼女を口説こうとしていたというわけである。
とはいえ失敗した自分を捨てて新たに生まれ変わるというのは、それほど陰惨な話でもない。人間誰でも、オリジナルな自分などとうの昔に抹消している。いまある私自身は、n回目の複製にすぎなといわれても、そんなにショックではない。むしろショックで口もきけなくなるほうが、大げさで滑稽である。この映画は終始コミカルなレベルを維持し続けている。
この設定からいえることがある。
たとえば失言(嚙んだりすること)して1分前にもどってやりなおすこと(実は、その試みを破棄して、新たに挑戦を再開すること)、あるいはジェイムズが16回、魂の抜け殻となり、それに驚く女性の反応が16回映像化されことは、映画撮影の実際のありようと見事にシンクロしている。
台詞を噛んでやりなおすとき、次の映画撮影において、次のテイクに入るという。この映画における1分前の過去へのタイムトラベルは、簡単に言えばやり直し行為であって、16回やりなおすということは16テイクまで撮るということである。女性を口説く行為を、芝居が下手な(人生において要領が悪いということである)ジェイムズ君は16テイクまで撮ったということにもなる。
また彼がベンチで死んだときのレジーナの驚きやうろたえるさまが、16回繰り返されるが、それら16回は、16のヴァリエーションを試したということである。撮影現場では、べつに失敗はしなくても、パターンをいくつか試して最良の結果を模索することはふつうに行われる。16テイクと16パターンを記録したアーカイブが、この6分の映画を構成するとみることもできる。あるいはこの映画は、映画成立までの過程の記録であり、試みられたテイクやパターンを保存するアーカイブになっているといってもいい。この映画『1分間タイムマシン』は、映画そのものの制作をテーマとしてメタ映画なのである。
これはまたいまの私は、数多くの失敗のうえに成立しているということである。となると、いまの私は、無数の失敗、無数の試行錯誤の結果であり、最良・最善を求めての長い道のりの果てに到達した最高点ということになる。とはいえそれは1分間タイムマシン=自殺マシンを使って得られた結果ではなく、頭の中での思考の成果なのではあるが。またこの1分間タイムマシン=自殺マシンは、試行錯誤のはてに最善を求める人間の思考過程のメタファーといってもよいだろう。いずれにしても、いまある私は、たとえ自己の欠陥を完璧に克服できてはないとしても、完成にいたる途上にあり、いまの私は、現時点での最善のありようなのである、とまあ、ライプニッツの最善説みたいな話となる。
しかし、こうした過程の裏で、無数の可能性の死体が累積している。SFなどの時間ループ物の不気味さもここにある。同じことを繰り返し、その試行錯誤のなかで現状を打破し、みずからの欠陥を克服して進化を達成するのなら、それと寄り添うようにして、どうあがいても失敗するしかないという進化の失敗、無意味な進化のイメージが存在している。試行錯誤が進化をもたらすとすれば、同時に、同じ試行錯誤は、永遠の反復可能性にも開かれている。失敗しても修復のために反復できるということは、終わりなき後悔、終わりなき悪あがきが待っているということでもある。そしてこのような状況は、ある一つの可能性を暗示する。つまり当事者が死んでいるということである。
映画『1分間タイムマシン』における1分前へのタイムトラベルという物語が暗示するのは、たとえば脳内における後悔と再試行(映画『ラン、ローラ、ラン』参照)――夢の中の出来事――、あるいはタイムマシンを使ったタイムリープと、それが繰り返されるタイムループなのだが、もうひとつ重要な可能性は、本人(ジェイムズ)が死んでいるということである。死んでいるからこそ、生きている間には起らなかった同じ瞬間の反復が起こる。生きている間には起らない人生のリセットが可能になる。死んでいるからこそ、ある意味、冷静な判断ができて、失敗とわかればすぐにリセットする……。
この死の世界を、何度でもやり直される人生というパラダイスなのか、永遠に失敗と未完成に苦しむしかない、賽の河原的な拷問の地獄とみるかは、人それぞれにまかされている。