2021年10月09日

『ある学問の死』3

表記の問題

G.C.スピヴァク『ある学問の死――惑星思考の比較文学へ』上村忠男・鈴木聡訳、みすず書房、2004

スピヴァク『ある学問の死』のなかで扱われているポストコロニアル文学の古典ともいうべき作品のひとつにタイーブ・サーレフの『北へ遷りゆく時』(1966)がある。

これは1969年という早い時期に英語に翻訳され、その翻訳がよかったことと内容の興味深さによって英語圏でもよく読まれた。日本語訳もある。

『北へ遷りゆく時/ゼーンの結婚』黒田寿郎・高井清仁訳、現代アラブ小説全集8(河出書房新社1978, 新装版1989)

【絶版でアマゾンでは取り扱っていないということだった。ちなんみに、アマゾンでは1989年と出版年が記してあるが、掲載してある写真は、1989年の新装版ではなく、1978の旧版の写真である】


が、それで、この現代アラブ小説全集全10巻は、いまは絶版のようだが、私にとっては、サーレフのこの作品に加え、マフフーズの『バイナル・カスライン(上・下)』(4.5)、またモサドに殺された作家カナファーノー『太陽の男たち/ハイファにもどって』(7)は、私にとって、ほんとうに宝物のような翻訳小説で、なかなか時間がないのだが、いまも、読み返してみたいと思う傑作である。

実際、この現代アラブ小説全集の翻訳作品は、名人芸的翻訳というのではないが、どれも、きちんとした明晰な翻訳で、原著の内容と良さを的確に伝えてくれているという確信めいたものを読者に与えてくれ、模範ともいえる翻訳となっている(事実、このような翻訳ができればいいと常々思っている)。

スピヴァク『ある学問の死』では、タイェブ・サリの『北部への移住の季節』というように翻訳している。

ただし、人名をそう表記し、タイトルをそう訳したからといって、それが、まちがいということではない。まちがいではまったくないし、それゆえ、それによって、このスピヴァクの翻訳の価値はいささかたりとも下がるわけではないのだが、そのことがやっかいなのである。

タイェブ・サリ『北部への移住の季節』というのは私個人としてはやめてほしいと思うし、日本語の既訳にあわせてサーレフ『北へ遷ゆく時』と表記してほしいと思う。

スピヴァクの共訳者のおふたりが、サーレフのこの小説とその日本語訳について知っているのか、知らないのか、それはわからないが、『北部への移住の季節』というタイトルにおける「北部」とは、主人公がスーダンから留学する英国のことも指しているから、北部は、絶対にまちがいではないのだが、誤解を生じさせる表現であることはまちがいなく、共訳者のふたりはこの小説の日本語訳についても知らないし、読んだこともないのかもしれない。

ただし、日本語訳について知っているし、読んでもいても、あえてタイェブ・サリ『北部への移住の季節』とされたのなら、その選択について、まちがってはいない。またそれによってスピヴァクの翻訳の価値が下がるわけではない。これだけは述べておく。

表記の問題はむつかしい。もちろん、今回の問題は「シェークスピア」か「シェイクスピア」か、「ハイデッガー」か「ハイデガー」か、「スピヴァック」か「スピヴァク」か、どちらが正しいか、よいかの問題ではない(私はどちらでもいいと思っている)

あるいはマクベスを、クベスと「」に強勢を置くか、英語の発音を反映して「マクベース」と発音することのどちらがいいかという問題ではない。私は日本語のカタカナ表記でも「マクベース」と発音すべきだと思うが、実際の日本の舞台では「クベス」が圧倒的に多いので、まあ、どちらでもいいと思っている。

これに対してローマ字表記の発音の場合、固有名詞は、どうしても、それが入り込む言語の影響を受けることである。同じことは漢字表記の漢字読みか中国語読みにするかという問題にもあてはまる。

漢字の場合、北京は「ペキン」と発音し、上海は「シャンハイ」と発音しながら、「武漢」は「ウーハン」ではなく「ぶかん」の発音が日本では定着している。まあ武漢が話題にのぼることはないほうがよいと思うし、武漢の存在は忘れ去られるくらいに、コロナ禍が終息すればいいと思うのだが、「ぶかん」という発音は国際的にはまったく通用しない。ではなぜ武漢だけ「ウーハン」ではなく「ぶかん」なのか、決まりも原因も定かではないように思われる。

外国人の固有名の英語読みも同じである。入門書『ジュディス・バトラー』竹村和子訳」 (シリーズ現代思想ガイドブック、青土社2005) の著者は翻訳ではサラ・サリーと表記されているが、ローマ字表記ではSara Salihなので、この人の名前はアラブ系で、「サーリフ」「サーレフ」と表記すべきものかもしれない。

ただしこのサラ・サリーではなくサラ・サーリフに関し詳しいことはわからないが、アメリカで生まれアメリカ人として教育をうけ生きてきて、周囲にも自分の名字が、英語読みされ「サリー」と呼ばれることを容認したり、自分から「サリー」と呼んでほしいと周囲に伝えたりしているかもしれない。そのため 著者名は「サリー」でということを著者あるいは出版社あるいは関係者から翻訳者に伝えられ、そのために「サリー」としたのかもしれない。

同じことは、中国からの留学生にもいえて、自分の名前を漢字読みしてよいと漢字読みを奨励したり、逆に中国語読みされたりすることを拒む留学生もいる(もちろん留学生それぞれであって、全員そうだということはない)。

受け入れ先の国の言語読みに自分の名前をあわせることはよくおこなわれているし、そのほうが受け入れ国に受けがいいこともある。

『NCISネイビー犯罪捜査班』の第18シーズンのなかのあるエピソードでは(最近見たのだが)、Proustという人物の名前ができてき、これを「プルースト」と発音するか「プラウスト」と発音するかでちょっともめる場面があった。なんとなく「プラウスト」という発音が主流になるような気配だったが、英語化して発音するほうが、英米人にとってはなじみやすいのだろう。

私がいいたいのは、「ハイデッガー」か「ハイデガー」か、「スピヴァク」か「スピヴァック」か、どちらがいいかということではなく、「ウォルター・ベンジャミン」か「ヴァルター・ベンヤミン」のどちらがいいかという問題なのである。

以前、イギリスにいたころ、セアラ・バーントハートという女優がどうのこうのといわれて、それは私が知らない女優さんの名前ですと答えたところ、セアラ・バーントハートだがと、もう一度言われた。知らないものは知らないのだが、ただ、その後、話を聞いてみてると、思い当たることがあった、ああ、それはサラ・ベルナールのことですか(とフランス語風に発音しつつ)発言したら、嫌な顔をされた。相手が本当に嫌な思いをしたかどうかはわからないし、嫌な顔をしたかどうかも第三者の目がないのでわからないのだが、その時私は、相手が嫌な顔をしたように思った。

それと同じで、私のようなアラブ系の文化や歴史についてほとんど何も知らないに等しい人間でも、AhmadとかSalihというは「アーマッド」ではなく「アフマド」、「サリー」ではなく「サーレフ」であるというぐらいのことは知っているが、そのことを英米人に伝えたら、なにか嫌な顔をされるのではないかという不安はある。ましてやアフマドやサーリフの姓を名乗っている本人にとっては、自分の名前が英語読みされることに、いちいち目くじらを立てていたら、嫌われる、嫌がられるという思いは強いかもしれない。

したがって英語読みした名前がふつうに流通して「アーマッド」は紅茶の銘柄になり、「サリー」ちゃんがふえているのだが、ただ、私としては「ハイデッガー」か「ハイデガー」は、どちらでもいいのだが、「ウォルター・ベンジャミン」はやめてほしい。「ヴァルター・ベンヤミン」にしてほしいと思うのである。

タイーブ・サーレフ(厳密にはアッ=タイーブ・サーレフ)の場合、英国の大学に学び、BBCに入社したこともあるらしく、半分英国人かもしれないのだが、またそれゆえにが、スピヴァクの『ある学問の死』における表記タイェブ・サリは、本人も容認する英語読みかもしれないので、まちがいではないのだが、それでも日本語訳にあわせて、タイーブ・サーレフにして欲しかった。

実際、この小説『北へ遷ゆく時』は、スーダンから英国に留学するムスタファ・サイードが主人公で、英国で「やらかして」(ネタバレになるので詳しいことは書かない)スーダンに帰ってくるのであって、英国で仕事をしている話ではない。英国留学中は、民族衣装などをまとって、エスニシティを前面に押し出した生活姿勢を崩さないのだが、帰国後は、土着文化を嫌い、英国風の生活様式をとりいれるというような例からはじまり、西洋と非西洋との文化対立と相克と融合と離反のひりつくような濃厚なドラマが展開する。この小説はコンラッドの『闇の奥』のアフリカ版であって、主人公にとっての闇は、英国社会なのである。そしてこれはさまざまな解釈に開かれているので、簡単に説明できないのだが、小説の終わりは、川でおぼれそうになったサイードの「助けてくれ」という叫びである。

この「助けてくれ」という叫びのニュアンスについて教えてくれたのが、スピヴァクの『ある学問の死』における、この小説の優れた読解であって、この意味からも、『北部への移住の季節』という間の抜けた(失礼)表題をつけている『学問の死』は、この小説理解にとっても、かけがいのない貢献をしてくれている。スピヴァクの読みの深さに圧倒される。

ちなみにタイェブ・サリ『北部への移住の季節』ではなく、タイーブ・サーレフの『北へ遷りゆく時』は、コンラッドの『闇の奥』のアフリカ版(英国が闇の奥となる)であり、そこにはハムレットやオセローの影が濃厚でもあり、西洋文化にも突き刺ささることが多い、ポストコロニアル小説の古典ともいうべき作品であり、当然、エドワード・サイードもこの作品を扱っている――『文化と帝国主義』(大橋洋一訳、みすず書房)のなかで。

スピヴァクの『ある学問の死』の共訳者のお二人は、それぞれの専門分野で立派な業績をあげられている研究者でもあるので、私(大橋)の翻訳したものなど、バカにして見向きもしないかもしれないが、大橋訳のサイード『文化と帝国主義』をみていただければ、サイードが詳しくサーレフの『北へ遷りゆく時』を論じていること、私の翻訳が、きちんと日本語訳の情報を示していることがわかったはずで、「タイェブ・サリ『北部への移住の季節』」という思わず吹き出してしまいそうな(失礼)表記は『ある学問の死』では出現しなかっただろうと思われる。

なおこれは自己宣伝だが、サイードの『文化と帝国主義』は二巻本としてみすず書房から刊行されていたが、今年の年末か来年のはじめに、一巻本の新装版としてみすず書房から刊行予定である。スピヴァクの『北へ遷りゆく時』論と、サイードの『北へ遷りゆく時』論とを比べてみるのも面白いかもしれないので、興味をもたれた方は、読んでいただければと思う。


付記:セアラ・バーントハートと、サラ・ベルナールについてのエピソードは、嘘である。バーントハート、ベルナールの話はこのブログの別のところで、英国で米国のテレビドラマをみてのこととして伝えている(それはほんとうの話)。英語読みされたので誰のことかわからなかった名前が、誰の名前であったのかどうしても思い出せなかったので、サラ・ベルナールの例をアレンジして使わせもらった。
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2021年09月24日

『ある学問の死』2

フロイトの英訳者

たとえ、それがあっても、書物全体の価値をいささかとも下げることのない、変なところを指摘することに、はまっている。繰り返すが、それを指摘したからといって、その本の価値が下がるということはまったくなく、また本の内容を褒めることすらあれ批判するつもりなどまったくないことをお断りしておきたいのだが、そうした本のひとつに

和泉雅人『迷宮学入門』(講談社現代新書、2000)がある。

この本は入門書あるいは新書として、実によくまとまっていて、限られたスペースのなかで「迷宮」について多くのことを教えてもらったし、また豊富な図版も見ていて楽しだけない。いろいろな文献で頻繁に使われる迷宮図をすべて網羅しているといってもいいくらいで、以後、どんな迷宮図をみても、この本のここにあったと確認できるほどのもので、図版の豊かさにも圧倒される。もちろん本文の記述も、明晰かつ的確で、さらなる思索へと導いてくれるものであって、誰にでも自信をもって奨めることができる名著である。

そして、指摘したいのは、この本の価値を少しも下げることのない、次のようなことである。
最後のあとがきで著者は、感謝の言葉を述べている

本書の成立過程ではさまざまな方々にご援助をいただいた。慶應義塾大学図書館のレファレンス、ILLスタッフの榎沢(現、日本橋学館大学図書館司書)、藤田、内山、城戸、昆、岡本をはじめとする諸氏には心からお礼を申し上げたい。また原稿のモニターをしてくださった木藤、榎沢、中村の諸氏にはほんとうにご面倒をおかけした。……(pp.225-226)


と、感謝の言葉はつづくのだが、図書館のスタッフにも感謝を捧げる著者の義理堅い、あるいは感謝の念を忘れない良心的な称賛すべき姿勢には、ただただ頭が下がるのだが、しかし、どうして姓だけなの。姓だけだと呼び捨て感が強いのだけれども、せっかく感謝をささげるのだから、どうしてフルネームにしないのか。姓だけだと、同姓の人とまぎれるかもしれないし、ジェンダーもわからない。私だったら、名字だけで感謝されるのはいやである。いや、これには深い事情がといわれるかもしれないが、深い事情があるのなら、最初から書かなければいいのであって、図書館のスタッフその他に感謝の言葉を述べるのは義務ではないのだから。

こんなことにばかり気が向いてしまっているので、前回のように、スピヴァクの『ある学問の死』のエラーコインみたいなミスをとりあげることになった。

だからといって、この翻訳書の価値が下がるということは絶対にない。また、もうひとつ取り上げようと思っていたのは、ミスではなくて、表記についての考え方の違いについてであって、私なりの考えを披露したいと思っていたのだが、その前に、イーグルトンの原書の、変な索引をとりあげた勢いで、著者も翻訳者も編集者も責任はないだろう、変な訳注について気づいてしまった。とはいえそれはAIがするようなミスでもないのだが。

もう一度、前回とりあげたとんでもない訳注(割り注形式)を思い出すと:

ブルームズベリ―・グループ:父の死後、ヴァージニアの家に、弟のエイドリアンを中心にケンブリッジ出身の学者・作家・批評家が集まって形成されたヴィクトリア朝期イギリスを代表する知識人グループ。


「ヴィクトリア朝期イギリスを代表する知識人グループ」というとんでもない記述は忘れることにしても、この注を翻訳者であり英文学者である鈴木聡氏が書いていないこと、またおそらく全責任をとるという上村忠男氏も書いていないこと、さらには編集者や校閲者が書いていないことは、今引用した訳注からも歴然としている。

それはヴァージニア・ウルフのことをヴァージニアとファーストネームで呼んでいるのだ。おまえの友達か?おそらく、鈴木先生も、上村先生も、学生が論文などのなかでヴァージニア・ウルフのことをヴァージニアとファースネームで書いていたら、やめるように注意するだろう。編集者や校閲者も、同じような苦言を呈することだろう。この訳注を書いた人間は、頭がぶっとんでいる。誰なのか知らないが。

【「父の死後、ヴァージニアの家に……」とあるのだが、「父レズリー・スティーヴンの死後」とあれば、つづくヴァージニアもエイドリアンも、ともにスティーヴンの姓を共有しているために、ファーストネームだけでよい。おそらく参考にした記述をまとめるときの不手際だろうが、不手際であることにかわりはない】

以下は、ぶっとんでいる訳注ではないが、また同じ人物が書いたのかどうかももちろんわからないのだが、こんな本文がある。

この言葉は、わたしたちが慣れ親しんできた居住空間をuncannyなものにするであろうか。いうまでもなく、わたしがここで思い浮かべているのは、英語の日常語における“uncanny”ではなくて、アリクス・ストレイチーがフロイトの用語“unheimlich”をそう訳したもののことである。それは、わが家同然に居心地のよいものが、なにか“unheimlich”なもの――無気味なもの/疎遠なもの――に一変することを意味している。p.126(スピヴァク『ある学問の死』上村忠男・鈴木聡訳(みすず書房2004))


この本文の「アリクス・ストレイチー」なる人物に

英語版フロイト著作集の訳者。


という訳注が割り注で入っている。

おそらく私程度の、たいした教養もない読者は、「アリクス・ストレイチー」って誰と不思議に思うにちがいない。私程度の、たいした教養もない読者にとって、英語版フロイトの著作集の翻訳者というのは、全体の監修者でもあるジェイムズ・ストレイチーなのだから。

フロイトの著作の英語版はStandard Editionといって、ドイツ語の著作集よりもはるかに権威のある著作集でもあった(かつては、あるいはいまもという人もいよう)。またフロイトの用語の英語訳については、翻訳者のジェイムズ・ストレイチーの翻訳が、これまでずっと称賛されたり批判されたりしていて、ジェイムズ・ストレイチーの名前はフロイトの名前ともに多くの読者の頭にこびりついている(もちろんジェイムズ・ストレイチーが有名なのは、ブルームズベリー・グループの一員であった作家の兄リットン・ストレイチーの弟だからでもあるのだが)。

ところがここにきて急にアリクス・ストレイチーなる人物が登場してきた。誰のことか。男か女かもわからない。Alexは男子名でAlixは女子名だが、いきなり「アリクス」と言われても、間違いではないがぴんとこない。

彼女はジェイムズ・ストレイチーの妻アリクス・ストレイチーで、夫ともに精神分析家で、フロイトに要請されて夫ともにフロイトの著作の翻訳をした。スタンダード・エディションも彼女と夫との共訳ということになっている。

フロイトの英語訳者といえばジェイムズ・ストレイチーであるという固定観念に縛られいた私程度の教養しかない読者には、英語訳者はアリクス・ストレイチーだと言われると、驚くほかはなく。夫の影にかくれて、翻訳者としての偉業もかすんでしまっているのだが、むしろ彼女こそが、英語訳をすべてこなした真の英語翻訳者なのか。そのことを(おそらく近年の研究の成果もあってのことだろう)、スピヴァクは、私たちに、フロイトの英訳者はアリクス・ストレイチーであると宣言したのかもしれない。私はこのとき自分の不明を恥じて、スピヴァクの前にひれ伏したくなった。

ちなみに『ある学問の死』の原書には索引(内容索引、人名索引)がついていて、そこにはAlix StracheyどころかStracheyという名前すら載っていない。これにはちょっと驚いた。翻訳をたよりに原書の場所をさがした。

I am, of course, not thinking of the English word “uncanny,” but of the Stracheys’ translation of Freud’s word unheimlich. . . . (pp.73-74)


この『ある学問の死』の翻訳というか日本語訳文についてはなんら問題ないことは原文を参照すればわかるのだが、問題は、スピヴァクはthe Stracheys(p.73)と、つまり「ストレイチー夫妻」とだけしか書いていないことだ。

夫ジェイムズを押しのけて真の影の主役翻訳者アリクスを前面に出して読者を驚かせる――私など、ひれ伏しそうになったのだが――、そんなことをスピヴァクはしていない。ただフロイトの英語訳著作集の翻訳がストレイチー夫妻の共訳であるということを述べているだけである。だから日本語翻訳者がアリクスの名前だけを出すことについては問題があり、もしそれに正当な理由があるのなら、それこそを割り注で説明すべきである。

なおこうした処理は、共訳のお二人、上村氏と鈴木氏がなされたこととは夢にも思わない。謎の「ヴァージニア、ブルームズベリー・グループ=ヴィクトリア朝」の訳注を書いた、どこかのバカは、脇役に執着していて、ヴァージニア・ウルフの弟で精神分析家のエイドリアンを出してきたり、ジェイムズ・ストレイチーを差し置いて、これも精神分析家のアリクス・ストレイチーを出しきたりと、脇役の精神分析家大好きの変わり者であろう。

というか、そういうふうにみえるほど、基本的な知識も教養も欠如しているのだ。

問題は、この変わり者によって、お二人の共訳がそこなわれてはいないかということである。せっかくよい翻訳が泥を塗られている、そんな気がしてならないのだ。

なおthe Stracheysと本文にあるので、原書の索引も、その項目を出すべきであった。もしスピヴァクが作成していたら、必ず、入れているはずである。しかし原書の索引作成者はthe Stracheysが誰のことかわからず、索引から落としている。原書の索引が、あてにならないことは、ここからもわかるはずである。
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2021年09月07日

『ある学問の死』1

G.C.スピヴァク『ある学問の死――惑星思考の比較文学へ』上村忠男・鈴木聡訳、みすず書房、2004

中断していた翻訳セミナーを再開したい。とはいえ、今回扱う本は、原著も難物で、誰が訳しても、うまく訳せない代物なのだが、けなすためではない。むしろ推薦図書として語ってもいいくらいである。ただし難物。もちろん私がこれをしのぐ翻訳ができるということはまったくない。誰が訳しても、むつかしい原著との、ごく簡単な比較を通して、翻訳とはほんとうに難しいものだということを確認したい。AIには手が出せない領域である。

なお、手始めに翻訳そのものとは関係ない話題を2題。今回はそのうち1題。あまりにくだらないミスなので、この翻訳の価値を下げるものではないことは明言しておきたい。それに古い本でもあるし、このミスは、ひょっとしてネットなどで話題になったかもしれず、新しい版(があるかどうか確認していないが)では、そのミスは訂正されていると思うので、あくまでも昔こんなことがありましたという笑い話として、知らない人は読んでもらいたい。

このミスは、たとえていうならエラーコイン、エラー紙幣のようなものである。たとえば50円硬貨の真ん中に開いている穴がずれていたり、コインの両面に同じ模様が刻まれていたりするのがエラーコイン。あるいは印刷がずれている紙幣がエラー紙幣。ほんらい、こうしたコインや紙幣は、事前にチェックされて、市場に出回らないのだが、奇跡的にチェックを逃れ市場に出回り、珍しいため、高額で取引されたりするもの。それと同じと考えていいようなミスが、『ある学問の死』のなかにある。

p.54に割注のなかにこんな驚愕すべき訳注がある。

ブルームズベリ―・グループ:父の死後、ヴァージニアの家に、弟のエイドリアンを中心にケンブリッジ出身の学者・作家・批評家が集まって形成されたヴィクトリア朝期イギリスを代表する知識人グループ。


実は、これは小さい字の割注で、私は読んだときに気づかなかった。しかし、東京大学の英文研究室に所属する大学院生のひとりは、当時、教員だった私に、こんなひどり注がついているのですよと、このページを指摘してくれた。

たしかに、その割注を読んで、思わず「あっ」と声が出た。たしかにひどいと、私もその大学院生にもらした。

ブルームズベリ―・グループについては、たとえば、ランダムハウス英語大辞典の定義

((the Bloomsbury Group))ブルームズベリー・グループ:20世紀初頭(1907-1930)にBloomsburyに集まった文学者・知識人の集団。


とある。もちろん説明の仕方や盛り込む情報はいろいろあれど、20世紀初頭に活躍したグループであって、断じて、ヴィクトリア朝期イギリスの知識人グループではない。ヴィクトリア朝期というのはヴィクトリア女王の在位期間とすれば1837-1901年。ブルームズベリ―グループは、この時期には属していない。

東大の大学院生があきれかえるのは、よくわかる。むしろ笑ってしまうくらいに、ありえないミスである。

ただ、そのとき、この訳注を書いたのは、二人の訳者のうち、英文学が専門の鈴木聡氏の責任ということになるので、鈴木氏を個人的にも知っている私としては、全力で、鈴木氏を弁護した。鈴木先生は、几帳面な人で、人一倍、正確さと緻密さを重んずいる人で、どんなにうっかりしても、ブルームズベリ―グループを、ヴィクトリア朝期の知識人グループなどと書くわけがない。たとえ鈴木先生を拷問しても、あるいは鈴木先生にお金を積んでも、このような訳注を書かせることはできない。こんな訳注を書いたら、英文学者として、永久にアウトだからである。

これは本気で述べている。もし、誰かが、天地神明に誓って、これは鈴木さんが書いた訳注だと語っても、嘘をつくなら、もっと、もっともらしい嘘をつけと、私は絶対に信じない。鈴木氏の名誉のために言っておくが、絶対に鈴木氏が書いてはいない。

では、誰が書いたのか。訳者あとがきには「最終責任は上村にある」と書かれているが、「最終責任は」云々というのは、ほとんどの場合、リップサービスである。だから上村氏には責任はないだろう。

では、誰が、この訳注を書いたのか。英文学者にとって、ブルームズベリ―・グループは基本的常識の範囲内だが、英文学が専門ではない者にとっては、やはり未知の情報かもしれない。では、それは東京外国語大学の協力者(学生・院生?)かということになるが、東京外国語大学出身の優秀な学生を多く知っている私としては、彼らに責任があるとは思えない。

べつに犯人捜しをするつもりはないし、そもそもくわしい事情など知る由もないので、なにか確定的なことをいうつもりはないが、ただ、このあり得ないミスが印刷してある本は、珍しいという点でも価値がある。その後の版で、このミスがなおっていたとしら、なおのこと訂正前の版はもっていると価値があるだろう(値打ちではなく、価値。べつに本としての稀覯本みたいに価格があがるわけではないとしても)。


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2021年07月03日

翻訳セミナー 4

インタルード

3月26日を最後に中断していた翻訳セミナーを再開したい。

前回といっても3月26日までに扱った翻訳は、著者も、著者も、翻訳者も明記していない。もちろん、実在したかどうか疑われてもしかたがないのだが、ただ、虚構と思ってもらってもいい。誤訳を指摘して、特定の翻訳者とか特定の出版社を非難することは、私の目的ではないから、具体的なデータは示していない。

と同時に、原文と翻訳文にはニュアンスの差があること、誤訳とも言っていいほど、原文の理解が浅いところがあることは、確かだが、しかし全体としてみて、その翻訳書は悪い本ではなく、訳者自身の丁寧な解説もあって、有益な本であることはまちがいない。だから非難にはあたいしないと私は考えている。

しかし、誤訳は誤訳であり、たとえ小さなミス、あるいは誤訳ともいえないようなニュアンスの差が、大事故にむすびつくこと、弱いジャブでも連打がつづくとダメージを与えることになるという意見もあるだろう。

しかし、その一方で、ささいなミスは、全体のなかで見過ごされたり、全体の流れのなかに吸収されて、致命的な欠陥にはならないという意見もある。私はどちらかというと、こちらの意見に近い。

あるSF小説では、未来にタイムマシンが実用化され、過去の時代に赴いて、そこで冒険することが気晴らしとして人気を博するようになるが、そうしたアトラクションのひとつに恐竜ハンティングがあった。タイムマシンを使って恐竜時代に赴き、そこで恐竜を銃で狩るのである。タイムマシンが実用化できる未来だから、AIを使って自動照準し、レーザー破壊光線を照射するような新式の銃器が狩りに使われると想像できるのだが、それだと狩りの醍醐味がない。そのため銃弾を発射する旧式の猟銃が恐竜狩りに使われることになると考えよう。

未来からやってきた恐竜ハンターが、未来に帰還するときに、空薬莢をひとつ恐竜時代に忘れてくる。ハンターは絶対に未来の事物を過去に置き去りにしてはいけないという厳しいルールにもかかわらず、薬莢一箇を回収し忘れたハンターがいた。

空薬莢ひとつのことである。だが、それによって人類の歴史が大きく変わる、あるいは致命的な変化が訪れ、一気に地球に破滅が訪れる……。

確か、レイ・ブラッドベリーの作品だったような気がするが、それはともかく、こんなことはありえない。そもそも小さな薬莢一箇が恐竜時代に残ったとしても、それで地球の歴史が変わるわけがない。それを言い出したら、たとえばハンターは未来の世界から恐竜時代に、その時代にないウィルスを持ち込むかもしれない。むしろ、そのほうが地球の歴史を大きく変える可能性が高い。ささいなミス、些末的な事故、それが全体の流れに影響をあたえることはない。これが私の見解である。SF小説の題材としては面白いが、現実味を帯びていない。

翻訳もそれと同じで、たったひとつの誤訳が全体に大きな影響を与えると、翻訳論者は主張するかもしれないが、そんな些細なミスなど、翻訳全体が、ほぼ正しく原著の内容を伝えているのなら、気づかれることもなく、気づかれても、混乱を引き起こすことはない。

たったひとつの誤訳が、全体に大きな影響を及ぼすことはない。それはパラノイア思考だ。

たったひとつの印刷ミスが、作品全体の解釈を左右すると、シェイクスピア学者・文献学者は語るだろう。パラノイアもいい加減にせよ。そんなこと、あれば面白いのだが、現実にはありえない。ピアニストは一回のミスタッチで演奏を失敗と判断するのだろうか。そんなこと現実にはありえない。たとえ何度ミスタッチをしても、それで作品のイメージやメロディーが変わらないとしたら、演奏は、ミスタッチの多い下手な演奏だとしても、演奏として成立している。たとえどんなに誤訳が多くても、著書全体の主張を正しく把握し伝えているのなら、その翻訳は翻訳として成立する。だから誤訳の指摘には、具体的な書誌情報を出さないのである。

と、ここまで考えてきて、先のSFの例は、実はまずいということがわかってきた。たとえばR・A・ラファティ(ああ、なんと懐かしい名前だろう)の短編「われ、かくシャルルマーニュを悩ませり」(『九百人のお祖母さん』所収)では、未来の科学者たちがタイムマシンで過去の時代に赴き、その時代の事件に変更を加えることで、その後の歴史が変わるかどうか確かめようとする。

いわゆる歴史改変SFなのだが、この作品のひねりは、というかひねりではなく、当然の帰結を語っているにすぎないのだが、科学者たちは過去の歴史的事件に介入するのだが、未来は変わらないのである。何度実験をしても、以後の歴史は変わらない。ところが読者からみると、歴史改変後の、未来は、変わらないどころから、大きく変わったものとなる。実際のところ、科学者たちは過去の事件に介入を繰り返しすぎて、以後の地球の歴史がめちゃくちゃになり、科学者たちは科学技術を、さらには科学そのものさえ失って、呪術的世界に生きるしかなくなる。それでも彼らは嘆くのだ――歴史はちっとも変わらない、と。

考えてみれば、当然である。過去に介入して歴史が変わったとしても、改変前と改変後を比べることができなければ、変わったかどうか確かめられないのである。たとえば日本が真珠湾攻撃をせず、戦争にも参加しなかったため、戦禍を免れた国として戦後世界の覇者となったとしよう。私が、もしそうした世界に生きているとすれば、何が変わったかどうか、わかりようがない。ならば日本に真珠湾攻撃をさせ米国に宣戦布告をさせたとしよう。その結果出来上がった世界が、今の世界だが、別の世界の記憶がない限り、何が変わったのか、そもそも変化があったのかどうかも定かでなくなる。

だから未来からきた恐竜ハンターが恐竜時代に空薬莢を置き忘れたために、その後の地球の歴史が大きく変わったとしても、変わる前の地球の歴史がわからない以上、変わったかどうかすら、わからないのである。

付記 いわゆるバタフライ効果というのを書き忘れていた。なにが原因になるかわからないということだが、これはどんな些細なことでも原因になるために、原因が特定できないとも、すべてが原因であるとも、あるいはもう原因などどうでもいいとも、いろいろな事が言えるので、あまり役に立たない概念ではあるが。

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2021年03月26日

翻訳セミナー 3

前回は2021年3月20日
つぎに

6-簡単にいえば、わたしたちが愛したり欲望したりする重要な他者が、自分自身から隔てられ、「わたしたちの支配の及ばないところに」いるとわかることに自分自身の生が依存していること、このことを精神分析ははっきりさせる。だが、こうした理解こそが、かくも多くの暴力をひきおこすのではないか。


Psychoanalysis tells us, in short, that our lives depend on our recognition that other people --- those vital others that we love and desire --- are separate from us, “beyond our control ” as we say, despite the fact that this very acknowledgment is itself productive of so much violence.


やや説明的に訳してみる。意訳もふくまれるが。

精神分析は、私たちに、こう告げているようなものである。すなわち私たちの生は、他者――私たちが愛し欲望するかけがえのない他者――が、私たちと別人格であり、よくいうように「私たちにはどうしようもない」という認識に、私たち縛られている、と。しかも、こういう認識そのものが、これまで多くの暴力を生んできたという事実があるにもかかわらず、精神分析は、今述べたようなことを告げるのである。


Psychoanalysis tells us, in short, that~は、手短に言えばとか、要約すれば、という意味だが、多くの場合(とはいえ統計をとったわけではないが)、たんに長い文章で説明してきたことを短くまとめるとか、あるいは主張を簡潔に要約するということだけでなく、すこし視点を変えてまとめる(あるいは主張を飛躍して言い換える)ことがある。

ここでもそれで、親密性について、「私が私自身に対して抱く認識が親密性の基盤にある」「親密性とはプライヴェトな私的・個人的なものと関係がある」という前の文の主張をここで、私中心の視点から他者を含む視点に切り替えて、要するに私は自分に対して親密性を抱けるが、他者に対しては抱けないということだと、言い換えている。

「自分自身の生が依存している」と翻訳では訳しているが、べつに間違いではないが、depend onという表現は、「依存する、頼る」という意味から「自立していない、主体的ではない」、つまり脆弱な立場なり関係性かと、私だけかもしれないが、そんなふうに感じていたが、依存するというのは、依存しきっているために、その関係から簡単には逃れられないことを意味する。

Dependを英和辞典で調べると、depend on itという成句がたいて掲載されているが、これは「だいじょうぶと」か、「まちがいない」という意味になって、依存とか甘えというイメージとはほど遠い。「頼っていい、信頼していい」→「まちがいない」というきわめてポジティヴな意味になる。

だから「依存する」だけでは、やや意味が弱いので、私の試訳では「私たち縛られている」としたが、「私たちは決定される、規定される、決定づけられる」とか、「~という認識が根底にある」といった訳でもよいように思う。

「わたしたちが愛したり欲望したりする重要な他者が、自分自身から隔てられ、「わたしたちの支配の及ばないところに」いるとわかることに……」という訳は、まちがいではないと思う。ただare separate fromのseparateが「別々の」という意味と、「離れている」という意味に、あえて分けて考えれば(多くの辞書がこの二つの意味を区別している――区別できないとも考えられるとしても)、ここでは「別々」のという意味になる。もちろん「隔てられている」というのは空間的ではなく心理的な場合も含まれるので、「自分自身から隔てられている」という訳はまちがいではない。「別々」感を出すために、試訳では、意訳かもしれないが、「別人格である」としたが、ベストな訳しかたではないだろう。

問題は、つぎのdespite the factだが、そこのところすこし前から原文をみてみると、

…“beyond our control ” as we say, despite the fact that this very acknowledgment is itself productive of so much violence.


となっていて、as we satのあとにカンマがあって、despiteがすぐ前にas we sayにはかからないことを示している。despiteは全体にかかる。
Psychoanalysis tells us, in short, that… にかかるわけなので、これこれこういう事実もあるにもかかわらず、精神分析は私たちにこう告げる、こう信じ込ませようとしているという精神分析の知見への批判となる。

試訳では、「しかも、こういう認識そのものが、これまで多くの暴力を生んできたという事実があるにもかかわらず、精神分析は、今述べたようなことを告げるのである。」と実にくどい訳しかたをしているが、まあ意味はわかるだろう。

翻訳のほうでは、

だが、こうした理解こそが、かくも多くの暴力をひきおこすのではないか。


と疑問形に訳していて、実に、うまいというか、こういう訳しかたもできることを私たちは学ぶことができる。この部分は、脱帽である。

そして最後の二文。

Difference is the one thing we cannot bear. The dialogue of this book is a working out of a new story about intimacy, a story that prefers the possibilities of the future to the determinations of the past.


7 【だが、こうした理解こそが、かくも多くの暴力をひきおこすのではないか。】〔他者との〕差異とは、わたしたちが耐えることのできない唯一の事柄であるのだから。〔それに対して〕本書の対話は、親密性についてのあらたな物語を生みだそうとするものである。そうした物語にとって〔精神分析のおきまりの主題である〕すでに決定された過去よりも、可能性にあふれた未来こそがふさわしい。


この部分の翻訳だが、せっかく褒めたのだが、次のところで変な訳をしている。「〔他者との〕差異とは、わたしたちが耐えることのできない唯一の事柄であるのだから。」と。

「〔他者との〕」という説明の挿入は、わかりやすくてよいと思うのだが、とはいえ説明することで、意味の可能性を狭めることにもある。ここでは親密性との関係から、他者と私が同じではないことをdifferenceということで表現している。私の個性と、他者の個性が異なるというような意味ではない。しかし、この点は深く追究しない。

問題はつぎである。

差異とは、わたしたちが耐えることのできない唯一の事柄であるのだから。


嘘だろう。私たちには耐えがたいことがいっぱいあるはずで、差異だけが耐えられないくて、あとどんなことでも耐えられるというのか。嘘も、バカも休み休み言え。

これはDifference is the one thing we cannot bear.でwe cannot bearという関係詞節が修飾しているからone thingにtheを付けただけのこと。辞書にある例文にはこんなものがある。
“I drew my chair nearer the one on which Sophie was sitting”「自分の椅子をソフィーが座っている椅子に近づけた」ということで、椅子はすくなくともふたつあるようだし、ソフィーが部屋のなかの唯一の椅子あるいはソフィー用の唯一の椅子に座っているということではない。

〔それに対して〕本書の対話は、親密性についてのあらたな物語を生みだそうとするものである。そうした物語にとって〔精神分析のおきまりの主題である〕すでに決定された過去よりも、可能性にあふれた未来こそがふさわしい。


この最後のところで、〔それに対して〕と説明を補っているが、何に対してなのかはっきりしない。The dialogue of the bookは、すでに出てきたThe contention of the bookと同様に、本書の主張と同じ意味と考えてよい。また「対話」よりも「議論」「論争」のほうがいい。もちろん、対話でもいいのだが、その場合、対話の相手は精神分析ならびにその知見である。

差異は私たちが耐えられないものである。本書における議論は、親密性についての新たな物語から案出したものとなっている。その新たな物語は、過去によるさまざまな決定よりも未来のさまざまな可能性のほうを好むのである。

あるいはすこしまとめると

差異は私たちが耐えられないもののひとつである。本書における議論は、親密性をめぐる新たな物語――過去によって決められた物事よりも、未来に生まれる可能性のほうを好む物語――から練り上げられたものである。


まあ前者のほうがいいか。もちろん、翻訳の訳しかたでまちがっているということはないし、そのほうがわかりやすかもしれないが、原文を直訳するとこういうことになる。そしてこの直訳のほうが、原文のニュアンスを汲んでいるいることはまちないないようだ。

つづく
posted by ohashi at 01:27| 翻訳セミナー | 更新情報をチェックする

2021年03月20日

翻訳セミナー 2

前回は2021年3月19日

つぎの原文は、この一文。

It is the contention of this book --- part of a conversation that began nearly twenty years ago --- that psychoanalysis has misled us into believing, in its quest of for normative life stories, that knowledge of oneself is conductive to intimacy, that intimacy is by definition personal intimacy, and that narcissism is the enemy, the saboteur , of this personal intimacy considered to be the source and medium of personal development.


長い一文なので翻訳では区切って訳している。

まず

5 この書物は、ほぼ二〇年ほど前からはじめた対話の一部からなる。そこでは、精神分析は、規範的な人生の物語を求めていくうちに、自己についての知は定義上個人的でしかない親密性に導くものだとう、誤った理解を与えるのだろうかということが争点となった。


原文は、長い一文であって、翻訳は、これをいくつかに区切っている。それはそれでいいのだが、問題は、英語で読むとわかりやすいのに、翻訳文がわかりにくくなっていることだ。そこを考える。

最初の“It is the contention of this book --- part of a conversation that began nearly twenty years ago --- that psychoanalysis has. . . .”のところ、Itはthat以下を示す仮主語だから、「that以下が本書の主張である」という意味。
contentionには論争と議論のイメージが強いので、翻訳でも「争点」と訳している。そう訳すことがまちがいではないし、それどころか許容できるものだが、ただcontentionはthat節をとることで、「主張」「論旨」という意味になる。辞書で確認していただきたい。

もちろん、背後には論争や議論があり、そこからでてきた主張であるということを、あえて強調するために、原文ではダッシュに入れて、--- part of a conversation that began nearly twenty years ago ---と挿入句を入れている。

このconversationを翻訳では「対話」と訳している。そういう意味もあるので、まちがいではないが、ただ「対話」「対談」となると、誰と話しているのだということになる。conversationは仲間とか専門家のあいだで話されてきたこと、話題になってきたこと、議論されてきたことという意味だから、「対話」というのは、なにかわかりにくくなる。

一応、訳をつけておくと、「本書の主張――ほぼ二十年前から始まった議論の一部でもあるのだが――は、以下のとおり/次のとおり」となる。「以下のとおり/次のとおり」という訳し方がベストだとは思わないが、意味をとりやすくするために、一応、こうしておく。

さて、主張の内容だが、「精神分析は、……という、誤った理解を与えるのだろうかということが争点となった」と翻訳されている。くりかえすが、そう訳してまちがいではない。論争、議論、争点であることを強調するために、「~だろうかということが争点となった」と表現している。

ただし、ばか正直に原文に忠実であっても、充分に意味はとれる。The contention of the book . . .is のあとは、whether(かどうか)ではなくthatである。本の主張を、断定しているのである。

つまり、~かどうか、などとはいっていない。論争、告発、批判、判断を示すのであるから、きちんと断定している。裁判で検察側は「X氏は犯人である」と告発するのであって、「X氏は犯人だろうか」などいう疑問を呈していたら裁判にもならない。「X氏はほんというに犯人だろうか」と疑問を呈するのは弁護側である。

ああ、やはり誤訳だ。翻訳は「~だろうか」と訳しているので、〈精神分析は、これこれこういうかたちで批判されてきたが、その批判は正しいのだろうか〉と主張することになる。精神分析への弁護である。

しかし、原文は、きちんと主張している。「精神分析は私たちをミスリードして、つぎのことを信じ込ませてきた」と。該当分野における精神分析の考え方はまちがいであるといいうのが本書の主張であり、精神分析を擁護するものではない。

【なお語訳の原因は、conversationを重視して、「そこでは」つまり「論争では」と、that節の内容をつづけたので、「かどうかが争点になった」としないと日本語として収まりがつかなくなったからだろうか。くりかえすが、contentionは「主張、主旨、論旨」の意味。】

では、精神分析が私たちに信じ込ませてきた考え方は、つぎの原文につけた①と②と③の節である。しかも①, ②, and ③となっているから、この三つで完結することになる。

It is the contention of this book --- part of a conversation that began nearly twenty years ago --- that psychoanalysis has misled us into believing, in its quest of for normative life stories, ①that knowledge of oneself is conductive to intimacy, ②that intimacy is by definition personal intimacy, and ③ that narcissism is the enemy, the saboteur , of this personal intimacy considered to be the source and medium of personal development.


翻訳は、

精神分析は、規範的な人生の物語を求めていくうちに、自己についての知は定義上個人的でしかない親密性に導くものだとう、誤った理解を与えるのだろうかということが争点となった。


となっていて、①は「自己についての知は…親密性に導くものだ」であり、②は「定義上個人的でしかない親密性」となって、①と②を合体させていることになる。③は次の一文にまわされている。

こうした訳し方がまちがいだということはない。私は,こういう訳し方はしないが、実際にはよく行なわれているし、許容範囲といえるだろう。しかし原文の順番どおりに、「自己についての知は、親密性にみびちくものであること」、「親密性は定義上個人的にかかわる親密性であること」と訳してもいい。ここで最初の「親密性にみちびく」というのは正確かまちがっているのかよくわからない表現だが、“conductive to ~”というのは「~の一助になる、~を増す、強める」という意味。そのため「自己についての知は、親密性の一助になる」というくらいの訳となる。

この場合、ではその親密性とは何かということになって、つぎに「親密性は定義上私的な親密性」であるということになるが、by definitionは、「定義によれば、定義上」というニュートラルな意味のほかに、「当然とか、明らかに」という意味なり、まとめると「自己についての知は、親密性の一助になること/親密性を強める/高めること、親密性とは定義上は/いうまでもなく、私的な親密性であること」、となって、実際のところ、ここで切らずにさらにすすめたほうがいいように思う。

さて、翻訳の「精神分析は、規範的な人生の物語を求めていくうちに、自己についての知は定義上個人的でしかない親密性に導くものだとう、誤った理解を与えるのだろうかということが争点となった」を改良・修正すると、

「精神分析は、規範的な人生の物語を模索するなかで、次のようなまちがったことを私たちに信じ込ませたしまったのだ。すなわち自分自身について知ることは親密性を高めること、ここでいう親密性とは、いうまでもなく、私的な親密性のことであり、ナルシシズムは、この私的な親密性――個人の発達の源泉でもあり媒介でもあると考えられている親密性――に対する敵対物であり妨害物でもあること」

翻訳では、区切ってしまっているが、原文では一文であるところの第3の点は、「そうであればナルシシズムは、ある個人の親密性が、当の個人の発達の源泉でもあり、媒介でもあると考えられるかぎり、〔そうした発達の〕敵対物でも妨害物でもあってしまうことになる」と訳しているが、これは区切らずに、前に続けるほうがわかりやすいので、上記のようにした。

さて、全体をまとめると、

試訳
本書の主張――ほぼ二十年前から始まった議論の一部でもあるのだが――とは、精神分析が、規範的な人生の物語を模索するなかで、次のようなまちがったことを私たちに信じ込ませたしまったということだ、すなわち自分自身について知ることは親密性を高めること、ここでいう親密性とは、いうまでもなく、私的な親密性のことであり、ナルシシズムは、この私的な親密性――個人の発達の源泉でもあり媒介でもあると考えられている親密性――に対する敵対物であり妨害物でもあること。


となる。

この主張の内容について、この段階でわからなくても問題はない。序文なので、読者の関心をこれでつかめばそれでいいのである。

また、この試訳がベストの翻訳だとは、絶対に言えないが(原文にはないダッシュを追加しているし)、構文と論理構成は透けてみえるので、内容理解には役立つかと思おう。少なくとも、ここで考察している既訳に比べれば。

つづく
posted by ohashi at 18:15| 翻訳セミナー | 更新情報をチェックする

2021年03月19日

翻訳セミナー 1 

第1回

せっかく翻訳をしても、印刷してくれない出版社に対する憤懣やるかたない日々というか、見捨てられた日々を送っている。自宅療養をさせられているコロナウィルス感染者と同様、放置されあとは死を待つばかりという状態になっているので、まあ遺言みたいいに、翻訳セミナーを何回かにわたって、ここで開講することにした。翻訳者として完全に放置され死を待つばかりなので、死にゆく翻訳者である、そして死にゆく者の言葉は、必ず重く響くものである(シェイクスピア『リチャード二世』のジョン・オヴ・ゴーントの場面を参照せよ)。

とりあげる翻訳の翻訳者には一面識もなく、またその出版社も、私とはまったく無関係な出版社なので、個人的な恨みなどまったくないのだが、思想系の英語文献を、翻訳する、あるいは翻訳しなくとも読解することをめざす方に多少なりとも参考になればと思い、これを書くことにした。

出典ならびに原著者、翻訳者は、示さないので、架空の原著、架空の翻訳と考えていただいてもいいのだが、まあ、架空のものをつくるのはけっこう手間がかかるので実在していると思っていただいてさしつかえない。

誤訳をあげつらって罵詈雑言を並べるようなことはしない。むしろ、誤訳あるいは誤訳めいた訳がなぜ生まれるのか、過ちの原因を、それこそ精神分析的に探ってみたい。誰でも他人の翻訳には目が行き届くが、自分の翻訳の不備には気づかない。明日は我が身でもあるので、みつけたわずかばかりの誤訳で、相手を罵倒するようなまねはしない。そんなことをしたら、こちらが人格を疑われるので。

第一回の翻訳文は以下のとおり。そのすぐあとに、その原文を掲載する。

精神分析は現代の人間にとってとても大切なものにみえる。精神分析がかつてもっていた影響力など、もはやないのだと考える人にとってさえ、やはりそうなのである。幼年期の及ぶ範囲、葛藤の必然性、セクシュアリティの重要性、孤立と自己充足という恐怖と衝動、人間関係における暴力の誘惑、自分自身と他者とに隠れた秘密。これらすべてが、精神分析の理論と実践の核心にある。そして精神分析は、以前にもまして、ウィリアム・ジェームズがいう「前進しつづける」にものになっている。精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ。この書物は、ほぼ二〇年ほど前からはじめた対話の一部からなる。そこでは、精神分析は、規範的な人生の物語を求めていくうちに、自己についての知は定義上個人的でしかない親密性に導くものだという、誤った理解を与えるのだろうかということが争点となった。そうであればナルシシズムは、ある個人の親密性が、当の個人の発達の源泉でもあり、媒介でもあると考えられるかぎり、〔そうした発達の〕敵対物でも妨害物でもあってしまうことになる。簡単にいえば、わたしたちが愛したり欲望したりする重要な他者が、自分自身から隔てられ、「わたしたちの支配の及ばないところに」いるとわかることに自分自身の生が依存していること、このことを精神分析ははっきりさせる。だが、こうした理解こそが、かくも多くの暴力をひきおこすのではないか。〔他者との〕差異とは、わたしたちが耐えることのできない唯一の事柄であるのだから。〔それに対して〕本書の対話は、親密性についてのあらたな物語を生みだそうとするものである。そうした物語にとって〔精神分析のおきまりの主題である〕すでに決定された過去よりも、可能性にあふれた未来こそがふさわしい。


Psychoanalysis seems to be about the things that matter to modern people, even to those people who think that psychoanalysis should matter a lot less to us than it did in the past. The reach of childhood, the necessities of frustration, the significance of sexuality, the terrors and temptations of solitude and self-sufficiency, the lure of violence in human relations, the secrets kept from oneself and from others: all this is at the heart of psychoanalytic theory and practice. And yet, perhaps now more than ever before, psychoanalysis has also become something, in William James’s words, “to be going on from.” It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken. It is the contention of this book --- part of a conversation that began nearly twenty years ago --- that psychoanalysis has misled us into believing, in its quest of for normative life stories, that knowledge of oneself is conductive to intimacy, that intimacy is by definition personal intimacy, and that narcissism is the enemy, the saboteur , of this personal intimacy considered to be the source and medium of personal development. Psychoanalysis tells us, in short, that our lives depend on our recognition that other people --- those vital others that we love and desire --- are separate from us, “beyond our control ” as we say, despite the fact that this very acknowledgment is itself productive of so much violence. Difference is the one thing we cannot bear. The dialogue of this book is a working our of a new story about intimacy, a story that prefers the possibilities of the future to the determinations of the past.


これは短い序文の一部。序文全体はパラグラフ二つからなり。これはその最初のパラグラフである。

以下は、翻訳の授業というよりも英語の授業のようなもので、原文の内容(構文や論理)を考察し、翻訳を検討するが、代案あるいは模範的な翻訳はとくに示さない。解説から、どのような訳文を作り出すかは、読者ひとりひとりにまかせられている。

で、この翻訳なのだが、英語の原書が手に入らず、翻訳でさっと読んで短期間に内容を理解しようとした。一見、まともな翻訳のようにみえる。堅苦しい翻訳ではなく、違和感のある表現もない。しかし、どうも内容が頭に入ってこない。そんなにむつかしい本ではなさそうなのに、よくわからない。結局、原書を取り寄せて読んでみたら、違和感の正体が判明した。

順を追って、一文ずつみてみる。

1 精神分析は現代の人間にとってとても大切なものにみえる。精神分析がかつてもっていた影響力など、もはやないのだと考える人にとってさえ、やはりそうなのである。

ここはとくに問題のある翻訳ではないだろう。これはこれでいいと思うのだが、原文と比べると少しニュアンスが違う。

Psychoanalysis seems to be about the things that matter to modern people, even to those people who think that psychoanalysis should matter a lot less to us than it did in the past.


直訳すると「精神分析は現代人にとって 重要な事柄に関するもののように/重要な事柄を扱っているように 思われる」となるが翻訳文は、ここをさらっと訳している。そのほうがわかりやすいかもしれない。“matter”を「大切なもの」と訳すのが適切かどうかは、あえて問わない。ただ精神分析がたいせつなものではなく、精神分析が、現代人にとって重要な事柄を扱っているようにみえるということである。こうバカ丁寧に訳しておいたほうが、このあとの理解が容易になるとだけいっておこう。

次、これも直訳すると「精神分析は、過去においてそうであったようには重要であるべきではないと考える人びとにとっても」となる。“should”が入っているので、もっと丁寧に訳せば、「過去においては重要であった精神分析も、現代では、その重要度はかなり下がってしかるべきだ、あるいは重要度は下がっているはずだと考える人びと」となる。しかしまあ、このことは原文と比較対照しないとみえてこないし、翻訳のままでもいいかとも思う。

2 幼年期の及ぶ範囲、葛藤の必然性、セクシュアリティの重要性、孤立と自己充足という恐怖と衝動、人間関係における暴力の誘惑、自分自身と他者とに隠れた秘密。これらすべてが、精神分析の理論と実践の核心にある。


この部分の原文をもう一度示すと

The reach of childhood, the necessities of frustration, the significance of sexuality, the terrors and temptations of solitude and self-sufficiency, the lure of violence in human relations, the secrets kept from oneself and from others: all this is at the heart of psychoanalytic theory and practice.

どうして“the necessities of frustration”を「葛藤の必然性」なのだろうか。frustrationにはいろいろな訳語があるが、これを「葛藤」と訳している辞書は、私がみたかぎりない。なぜ「欲求不満の必要性」「挫折の必然性」と訳さないのだろうか。

つぎの「孤立と自己充足という恐怖と衝動」は“the terrors and temptations of solitude and self-sufficiency”なのだが、なぜ「~という」という同格表現なのだろうか。これはsolitudeとself-sufficiencyがもつterrors とtemptationsということ。同格ではなく所有関係。「孤独のもつ恐怖」と訳してもいいが、しかし、「孤独という恐怖」と訳したって、それはそれでいいのでは反論されるかもしれないが、“the terrors and temptations”でひとまとまりであるので(solitude and self-sufficiencyでひとまとまりなのだが説明の都合上、孤独だけにしておくと)、「孤独のもつ恐怖と衝動」と訳すべきところ「孤独という恐怖と衝動」では日本語としても違和感がある(「孤独の衝動」はOK。「孤独のもつ衝動」もOK。「孤独という衝動」は日本語として違和感があり、何を言っているのかよくわからない)。なおtemptationsと複数形になっているのは、この名詞を可算名詞として扱っているわけで、「誘惑するもの、誘惑的要素、誘惑的な性格」という意味になって「衝動」という意味にはならないことも付け加えておきたいのだが、可算/不可算の区別は曖昧な事が多いので、この点は、強くは主張しない)。

また、さらにつぎの“the lure of violence in human relations”は「人間関係における暴力の誘惑」は同格ではなく所有関係に(正しく)なっている。そして“the secrets kept from oneself and from others”は「自分自身と他者とに隠れた秘密」と訳しているが、これはこれでもいいのだが、原文を直訳したほうが、ずっとわかりやすい。つまり「自分自身からも、また他人からも隠されている秘密」と。ささいなことかもしれないが、こちらのほうがずっとわかりやすい。

それでも、まあ、ささいなことかもしれないと思う人もいるかもしれないが、問題は次である。これは意味をとりそこねている誤訳であり、ここにくると、この翻訳者は翻訳をする資格がないことが明らかになる。

*3 そして精神分析は、以前にもまして、ウィリアム・ジェームズがいう「前進しつづける」にものになっている。【*は見過ごせない過ちのある一文の付ける。】


And yet, perhaps now more than ever before, psychoanalysis has also become something, in William James’s words, “to be going on from.”

ウィリアム・ジェイムズの言葉の出典はどこか、恥ずかしながら、わからないのだが(わかればここでお伝えする)、ただ、わからなくても、意味はわかる。そして翻訳は、重大な過ちを犯している。“to be going on from”をgoing onとだけ理解して「前進しつづける」と訳しているけれども、fromを無視しているのはなぜか。つまり「~からfrom、going onするもの」という意味。この不定詞はsomethingにかかる形容詞句としての用法。

精神分析は、すべてがそこから発生し、そこから派生、流出、発展、進展する、起源とか源泉とか参照の基点になったということ。精神分析は、誰もが、「現代人にとって重要なことがら」を考えるうえで、参考にする基本的・基幹的・根源的・源泉的な知・出発点となる認識や知となったということ。

さて、ここまでのこの文章(原文)の流れを確認してみたい。

まず書き手は、精神分析に対しては一定の距離を置いているように思われる。

精神分析は、現代人にとって重要な事柄を扱っている「ように思われるseems」と述べているので、精神分析についての一般的イメージを述べていても、ほんとうはどうかなとアイロニックに距離を置いている。

つぎに現代人にとって重要な事柄の内容について触れている。現代人にとって重要な事柄は多岐にわたるからだ。株価の変動から感染症対策に至るまで。そこで次の文では精神分析の理論と実践の核心にあるものが列挙される。

そしてさらにつぎに精神分析が、こうした事柄を考えるうえで基点になっているということである。当然、ここにあるのは、精神分析は、みんなが参照する枢要な理論なりという、崇拝的姿勢ではなくて、むしろ、ほんとうにそれでいいのかという懐疑的あるいは精神分析を絶対視しない姿勢であるように思われる。

この流れに沿って、つぎの一文が出てくる。

*4 精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ。


It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken.

この翻訳から判断すると、精神分析は、誤りがいっぱいあり、失敗もいっぱいあり、受け入れがたい方法に依拠した学問分野だということになる。ここまでの文章の流れからすると、慣性の法則みたいに、こんな意味を予想してしまうのだが、はたしてそれでいいのか。

繰り返すと、過ちと失敗と受け入れがたい方法の塊でもある精神分析を、誰もが参照の基点に選ぶはずはない。おかしいではないか。もちろんこの翻訳ではすぐ前の一文で、精神分析は「前進する」ものと訳しているのだから、過ちと失敗と受け入れがたい方法の塊でありながら、なおも前進をやまないということらしいのだが、精神分析とは、なんともはや恐ろしい怪物、なにかハウルの動く城(ジブリのアニメ版)みたいなもので、その異様な姿をさらして前進し続ける……。まあインドのジャガーノートみたいなもので、この怪物じみた存在のまえにひれ伏して、身を投げ出しひき殺されてしまうと御利益があるかのように崇拝されているものということだろうか。

いや、たんなる過ちや失敗や受け入れがたい方法というのではない。翻訳は原文を正しく訳していると反論されるかもしれない。It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken.

ただの過ちではなく、有益な過ちのことである。過ちであっても、なにかそこからよい結果なり帰結がもたらされるとか、反省材料となってのちのち有益なものと判明するかもしれない、そんな過ちのことである。失敗もただの失敗ではなく。示唆的な・いろいろ教えてくれるような失敗である。実は無意識のうちに失敗したがっているということもある。成功してあたりまえなのに失敗するようなこと。あるいは成功するはずが失敗したことによって弱点とか欠陥のようなものがみえてくる、そういう失敗なのである。

翻訳では「失敗」と訳しているが、原文ではmistakeであり、mistakeを失敗と訳すのも失敗にちかいミスではないかと思うのだが、そこには触れずに、instructive (and destructive) mistakesにおいてinstructiveあるいはdestructiveではなく、instructiveで、なおかつdestructiveということに着目したい。これは、すでに述べたように、自分からすすんで破滅的・自虐的におかすミスということにもなる。

しかし、ここまでくると、ふっとわかりそうなものなのだが、「役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗」というのは、精神分析を構成する(欠陥的)要素ではなくて、精神分析がお得意の考察対象ではなかったか。

今は昔、私は小学生高学年から中学生の頃、フロイトの理論の何に驚いたかというと、錯誤行為(たとえば言い間違い)のなかに無意識の欲望(日常生活の精神病理)が潜んでいるということだった。この驚きは、現代の人間にはないのだろうか。過ちやミス(失敗もいれておこう)は、撲滅、排除すべきゴミではなく、そこに本質が透けて見える機会や契機を提供してくれる、貴重きわまりないものである。まさにこうしたエラーやミスから、物事の本質に迫るのは、精神分析の独壇場ではないだろか。

つまり、この翻訳というか、この誤訳からは、精神分析というのは、誤りと失敗とうけいれ難い方法からなる学問分野になったということになってしまうが、それでいいのか。「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ」ではなく、「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法を扱う学問分野になったのだ」とすべきである。

全体の流れとして、「そして精神分析は、以前にもまして、ウィリアム・ジェームズがいう「前進しつづける」ものになっている」。

このあとをうけて「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ」とつづく。構文も、主語が精神分析、そして動詞がhas becomeであって、構文は同じなのである。。

この2文は、この翻訳者がお得意の同格関係、同じことのくりかえしというべきものである。精神分析は、重要な基点/参照点になった。それは、~を扱う学問分野になった。この二つの文は、精神分析に対して一定の距離を置きつつも、現代における重要性を強調しているのである。

すでに精神分析はジャガーノートかと冗談めいたことを書いたが、冗談は冗談ではなくなるのかもしれない。なにしろこの翻訳者にとって精神分析は「前進しつづける」失敗の巨大な邪神(ジャガーノート――ヒンズー教にとっては邪神ではないが)というイメージなのかなと思うからだ。

さらにこの一文の誤訳は、disciplineが、「~は、an academic discipline.」というように、語のあとにofがこない構文になることがふつうなので、ofの用法について苦慮したのではないだろうか。

ネット上で調べた例文には、こんなものがあった。
a discipline of mechanical engineering of ships, called marine engineering
船舶工学という、船の工業技術に関する学問

あるいは a branch of instruction or learningという定義のもと、例文として:
[countable] the disciplines of history and economics. 
【可算名詞】歴史や経済を扱う学問分野/学科


ここで、原文にもどってみると、It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken.とof以下が三つもので構成されているが、A, B, Cという並べ方でA, B, and Cではないことに注意。後者は構成要素が3つしかないが、前者は、構成要素が3以上、つまりAやBやCなどという意味になる。

さて、そのCにあたる部分に“radical roads not taken”とあるのだが、これは知っている人は知っている、あるいはアメリカ人ならトランプ派でも知っている有名なフレーズから来ている。アメリカの詩人ロバート・フロストの詩“The Road Not Taken”から来ている。川本皓嗣編『対訳フロスト詩集 アメリカ詩人選(4)』(岩波文庫2018)を是非読んでいただきたい――見事な訳文と解説で、もともとレヴェルの高いこのシリーズのなかでもベスト版のひとつといえる。そこでは「選ばなかった道」と訳されている。

アメリカでは学校でならう有名な詩なのだが、しかし、これは岩波文庫で編者の川本氏が述べているように、けっこう曲者の詩である。有名な最後の第四連の翻訳を引用させていただくと

いつの日か、今からずっとずっと先になってから
私はため息をつきながら、この話をすることだろう。
森の中で道が二手に分かれていて、私は――
私は人通りが少ない方の道を選んだ、そして、I took the one less traveled by
それがあとあと大きな違いを生んだのだと。


この最後の一連だけ読むと、詩人は、むかし、道が二つに分かれているところにやってきて、人があまりとおらない、人が選びたがらない道を、おそらく苦難の道、困難な道を選んで、それで人生に成功した、あるいは、いまの自分があると言わんとしているように思われる。

ところが最初からこの詩を読んでみると、実は、詩人は、もっと平坦な道、歩きやすい、行きやすい道を選んでいる。さらにいえばどちらの道も、そんなにかわりはないとまで語っている。この第4連での比喩的にいえば困難な道を、実のところ詩人は歩んでいない。のちのち、こんな嘘をいって自慢話をするかもしれないというような、ひねくれたことを言っている。実に曲者の詩であって、詳しいことは、川本氏の解説を読んでいただければと思う。

そこで今回の原文にもどる。さらに、

「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ」。において“radical roads not taken”のroadを「方法」として意訳しているが、これは誤訳である。「からなる学問分野」と解釈したいので、roadは、道筋、プロセス、過程とみるのではなく、「方法」として解釈し、座りをよくしたにすぎない。

しかしそれでも、「ラディカルな方法」からなる学問分野なら意味が通るかも知れないが、この方法/roadsにやっかいなことに“not taken”がついている。なんだこれはということになる。「選ばれなかった方法からなる学問分野」というのは、何なのだ? これは幽霊がメンバーの集合ということになる。幽霊によって構成される学問分野ということになる。おそらく、これは、過ちや失敗よりももっとひどい、ありもしない妄想からなる学問分野なりというかたちで精神分析をこきおろそうとしたのかもしれない。

ただ、そこまではひどすぎると考えたのか「うけ入れがたいが根本的な方法」というふうに解釈した。そうして誹謗中傷のニュアンスを緩和した。「うけ入れがたい」と。しかし原文は「受け入れていない、選ばれていないNot taken」である。ここにきて、この受け入れがたい翻訳における解釈を根本的にみなおすべきであった。Not takenの方法からなるものとは何か?たちの悪い謎々か。しかしNot takenの道/道筋/過程について考える/扱う学問というのは充分に成立する。

そもそも、なぜ、もっとラディカルな(根本的/過激な)方向なり過程あるいは端的に道を選ばずに、安易な道あるいは妥協の方向を選んでしまったのか、あるいは選ばれていないが、根本的な/過激な道とは何であったのかを考えることは、学問分野の名にあたいするいとなみである。

精神分析に対する批判的な眼差しはこのパラグラフの最初からうかがえるのだが、しかし、そのために、一応、精神分析の位置づけ、あるいは功績、その特徴を、冷静に語るところもまた、品のない、ナンセンスな悪口が語られていると翻訳者は勘違いしたようだ。

これは英語力とか英語読解力の問題ではない。

とにかく、選ばれなかった解釈こそが、実は正しい根源的なものであった。それを確認したうえで、次回につづく。

posted by ohashi at 22:26| 翻訳セミナー | 更新情報をチェックする