第1回
せっかく翻訳をしても、印刷してくれない出版社に対する憤懣やるかたない日々というか、見捨てられた日々を送っている。自宅療養をさせられているコロナウィルス感染者と同様、放置されあとは死を待つばかりという状態になっているので、まあ遺言みたいいに、翻訳セミナーを何回かにわたって、ここで開講することにした。翻訳者として完全に放置され死を待つばかりなので、死にゆく翻訳者である、そして死にゆく者の言葉は、必ず重く響くものである(シェイクスピア『リチャード二世』のジョン・オヴ・ゴーントの場面を参照せよ)。
とりあげる翻訳の翻訳者には一面識もなく、またその出版社も、私とはまったく無関係な出版社なので、個人的な恨みなどまったくないのだが、思想系の英語文献を、翻訳する、あるいは翻訳しなくとも読解することをめざす方に多少なりとも参考になればと思い、これを書くことにした。
出典ならびに原著者、翻訳者は、示さないので、架空の原著、架空の翻訳と考えていただいてもいいのだが、まあ、架空のものをつくるのはけっこう手間がかかるので実在していると思っていただいてさしつかえない。
誤訳をあげつらって罵詈雑言を並べるようなことはしない。むしろ、誤訳あるいは誤訳めいた訳がなぜ生まれるのか、過ちの原因を、それこそ精神分析的に探ってみたい。誰でも他人の翻訳には目が行き届くが、自分の翻訳の不備には気づかない。明日は我が身でもあるので、みつけたわずかばかりの誤訳で、相手を罵倒するようなまねはしない。そんなことをしたら、こちらが人格を疑われるので。
第一回の翻訳文は以下のとおり。そのすぐあとに、その原文を掲載する。
精神分析は現代の人間にとってとても大切なものにみえる。精神分析がかつてもっていた影響力など、もはやないのだと考える人にとってさえ、やはりそうなのである。幼年期の及ぶ範囲、葛藤の必然性、セクシュアリティの重要性、孤立と自己充足という恐怖と衝動、人間関係における暴力の誘惑、自分自身と他者とに隠れた秘密。これらすべてが、精神分析の理論と実践の核心にある。そして精神分析は、以前にもまして、ウィリアム・ジェームズがいう「前進しつづける」にものになっている。精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ。この書物は、ほぼ二〇年ほど前からはじめた対話の一部からなる。そこでは、精神分析は、規範的な人生の物語を求めていくうちに、自己についての知は定義上個人的でしかない親密性に導くものだという、誤った理解を与えるのだろうかということが争点となった。そうであればナルシシズムは、ある個人の親密性が、当の個人の発達の源泉でもあり、媒介でもあると考えられるかぎり、〔そうした発達の〕敵対物でも妨害物でもあってしまうことになる。簡単にいえば、わたしたちが愛したり欲望したりする重要な他者が、自分自身から隔てられ、「わたしたちの支配の及ばないところに」いるとわかることに自分自身の生が依存していること、このことを精神分析ははっきりさせる。だが、こうした理解こそが、かくも多くの暴力をひきおこすのではないか。〔他者との〕差異とは、わたしたちが耐えることのできない唯一の事柄であるのだから。〔それに対して〕本書の対話は、親密性についてのあらたな物語を生みだそうとするものである。そうした物語にとって〔精神分析のおきまりの主題である〕すでに決定された過去よりも、可能性にあふれた未来こそがふさわしい。
Psychoanalysis seems to be about the things that matter to modern people, even to those people who think that psychoanalysis should matter a lot less to us than it did in the past. The reach of childhood, the necessities of frustration, the significance of sexuality, the terrors and temptations of solitude and self-sufficiency, the lure of violence in human relations, the secrets kept from oneself and from others: all this is at the heart of psychoanalytic theory and practice. And yet, perhaps now more than ever before, psychoanalysis has also become something, in William James’s words, “to be going on from.” It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken. It is the contention of this book --- part of a conversation that began nearly twenty years ago --- that psychoanalysis has misled us into believing, in its quest of for normative life stories, that knowledge of oneself is conductive to intimacy, that intimacy is by definition personal intimacy, and that narcissism is the enemy, the saboteur , of this personal intimacy considered to be the source and medium of personal development. Psychoanalysis tells us, in short, that our lives depend on our recognition that other people --- those vital others that we love and desire --- are separate from us, “beyond our control ” as we say, despite the fact that this very acknowledgment is itself productive of so much violence. Difference is the one thing we cannot bear. The dialogue of this book is a working our of a new story about intimacy, a story that prefers the possibilities of the future to the determinations of the past.
これは短い序文の一部。序文全体はパラグラフ二つからなり。これはその最初のパラグラフである。
以下は、翻訳の授業というよりも英語の授業のようなもので、原文の内容(構文や論理)を考察し、翻訳を検討するが、代案あるいは模範的な翻訳はとくに示さない。解説から、どのような訳文を作り出すかは、読者ひとりひとりにまかせられている。
で、この翻訳なのだが、英語の原書が手に入らず、翻訳でさっと読んで短期間に内容を理解しようとした。一見、まともな翻訳のようにみえる。堅苦しい翻訳ではなく、違和感のある表現もない。しかし、どうも内容が頭に入ってこない。そんなにむつかしい本ではなさそうなのに、よくわからない。結局、原書を取り寄せて読んでみたら、違和感の正体が判明した。
順を追って、一文ずつみてみる。
1 精神分析は現代の人間にとってとても大切なものにみえる。精神分析がかつてもっていた影響力など、もはやないのだと考える人にとってさえ、やはりそうなのである。
ここはとくに問題のある翻訳ではないだろう。これはこれでいいと思うのだが、原文と比べると少しニュアンスが違う。
Psychoanalysis seems to be about the things that matter to modern people, even to those people who think that psychoanalysis should matter a lot less to us than it did in the past.
直訳すると「精神分析は現代人にとって 重要な事柄に関するもののように/重要な事柄を扱っているように 思われる」となるが翻訳文は、ここをさらっと訳している。そのほうがわかりやすいかもしれない。“matter”を「大切なもの」と訳すのが適切かどうかは、あえて問わない。ただ精神分析がたいせつなものではなく、精神分析が、現代人にとって重要な事柄を扱っているようにみえるということである。こうバカ丁寧に訳しておいたほうが、このあとの理解が容易になるとだけいっておこう。
次、これも直訳すると「精神分析は、過去においてそうであったようには重要であるべきではないと考える人びとにとっても」となる。“should”が入っているので、もっと丁寧に訳せば、「過去においては重要であった精神分析も、現代では、その重要度はかなり下がってしかるべきだ、あるいは重要度は下がっているはずだと考える人びと」となる。しかしまあ、このことは原文と比較対照しないとみえてこないし、翻訳のままでもいいかとも思う。
2 幼年期の及ぶ範囲、葛藤の必然性、セクシュアリティの重要性、孤立と自己充足という恐怖と衝動、人間関係における暴力の誘惑、自分自身と他者とに隠れた秘密。これらすべてが、精神分析の理論と実践の核心にある。
この部分の原文をもう一度示すと
The reach of childhood, the necessities of frustration, the significance of sexuality, the terrors and temptations of solitude and self-sufficiency, the lure of violence in human relations, the secrets kept from oneself and from others: all this is at the heart of psychoanalytic theory and practice.
どうして“the necessities of frustration”を「葛藤の必然性」なのだろうか。frustrationにはいろいろな訳語があるが、これを「葛藤」と訳している辞書は、私がみたかぎりない。なぜ「欲求不満の必要性」「挫折の必然性」と訳さないのだろうか。
つぎの「孤立と自己充足という恐怖と衝動」は“the terrors and temptations of solitude and self-sufficiency”なのだが、なぜ「~という」という同格表現なのだろうか。これはsolitudeとself-sufficiencyがもつterrors とtemptationsということ。同格ではなく所有関係。「孤独のもつ恐怖」と訳してもいいが、しかし、「孤独という恐怖」と訳したって、それはそれでいいのでは反論されるかもしれないが、“the terrors and temptations”でひとまとまりであるので(solitude and self-sufficiencyでひとまとまりなのだが説明の都合上、孤独だけにしておくと)、「孤独のもつ恐怖と衝動」と訳すべきところ「孤独という恐怖と衝動」では日本語としても違和感がある(「孤独の衝動」はOK。「孤独のもつ衝動」もOK。「孤独という衝動」は日本語として違和感があり、何を言っているのかよくわからない)。なおtemptationsと複数形になっているのは、この名詞を可算名詞として扱っているわけで、「誘惑するもの、誘惑的要素、誘惑的な性格」という意味になって「衝動」という意味にはならないことも付け加えておきたいのだが、可算/不可算の区別は曖昧な事が多いので、この点は、強くは主張しない)。
また、さらにつぎの“the lure of violence in human relations”は「人間関係における暴力の誘惑」は同格ではなく所有関係に(正しく)なっている。そして“the secrets kept from oneself and from others”は「自分自身と他者とに隠れた秘密」と訳しているが、これはこれでもいいのだが、原文を直訳したほうが、ずっとわかりやすい。つまり「自分自身からも、また他人からも隠されている秘密」と。ささいなことかもしれないが、こちらのほうがずっとわかりやすい。
それでも、まあ、ささいなことかもしれないと思う人もいるかもしれないが、問題は次である。これは意味をとりそこねている誤訳であり、ここにくると、この翻訳者は翻訳をする資格がないことが明らかになる。
*3 そして精神分析は、以前にもまして、ウィリアム・ジェームズがいう「前進しつづける」にものになっている。【*は見過ごせない過ちのある一文の付ける。】
And yet, perhaps now more than ever before, psychoanalysis has also become something, in William James’s words, “to be going on from.”
ウィリアム・ジェイムズの言葉の出典はどこか、恥ずかしながら、わからないのだが(わかればここでお伝えする)、ただ、わからなくても、意味はわかる。そして翻訳は、重大な過ちを犯している。“to be going on from”をgoing onとだけ理解して「前進しつづける」と訳しているけれども、fromを無視しているのはなぜか。つまり「~からfrom、going onするもの」という意味。この不定詞はsomethingにかかる形容詞句としての用法。
精神分析は、すべてがそこから発生し、そこから派生、流出、発展、進展する、起源とか源泉とか参照の基点になったということ。精神分析は、誰もが、「現代人にとって重要なことがら」を考えるうえで、参考にする基本的・基幹的・根源的・源泉的な知・出発点となる認識や知となったということ。
さて、ここまでのこの文章(原文)の流れを確認してみたい。
まず書き手は、精神分析に対しては一定の距離を置いているように思われる。
精神分析は、現代人にとって重要な事柄を扱っている「ように思われるseems」と述べているので、精神分析についての一般的イメージを述べていても、ほんとうはどうかなとアイロニックに距離を置いている。
つぎに現代人にとって重要な事柄の内容について触れている。現代人にとって重要な事柄は多岐にわたるからだ。株価の変動から感染症対策に至るまで。そこで次の文では精神分析の理論と実践の核心にあるものが列挙される。
そしてさらにつぎに精神分析が、こうした事柄を考えるうえで基点になっているということである。当然、ここにあるのは、精神分析は、みんなが参照する枢要な理論なりという、崇拝的姿勢ではなくて、むしろ、ほんとうにそれでいいのかという懐疑的あるいは精神分析を絶対視しない姿勢であるように思われる。
この流れに沿って、つぎの一文が出てくる。
*4 精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ。
It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken.
この翻訳から判断すると、精神分析は、誤りがいっぱいあり、失敗もいっぱいあり、受け入れがたい方法に依拠した学問分野だということになる。ここまでの文章の流れからすると、慣性の法則みたいに、こんな意味を予想してしまうのだが、はたしてそれでいいのか。
繰り返すと、過ちと失敗と受け入れがたい方法の塊でもある精神分析を、誰もが参照の基点に選ぶはずはない。おかしいではないか。もちろんこの翻訳ではすぐ前の一文で、精神分析は「前進する」ものと訳しているのだから、過ちと失敗と受け入れがたい方法の塊でありながら、なおも前進をやまないということらしいのだが、精神分析とは、なんともはや恐ろしい怪物、なにかハウルの動く城(ジブリのアニメ版)みたいなもので、その異様な姿をさらして前進し続ける……。まあインドのジャガーノートみたいなもので、この怪物じみた存在のまえにひれ伏して、身を投げ出しひき殺されてしまうと御利益があるかのように崇拝されているものということだろうか。
いや、たんなる過ちや失敗や受け入れがたい方法というのではない。翻訳は原文を正しく訳していると反論されるかもしれない。It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken.
ただの過ちではなく、有益な過ちのことである。過ちであっても、なにかそこからよい結果なり帰結がもたらされるとか、反省材料となってのちのち有益なものと判明するかもしれない、そんな過ちのことである。失敗もただの失敗ではなく。示唆的な・いろいろ教えてくれるような失敗である。実は無意識のうちに失敗したがっているということもある。成功してあたりまえなのに失敗するようなこと。あるいは成功するはずが失敗したことによって弱点とか欠陥のようなものがみえてくる、そういう失敗なのである。
翻訳では「失敗」と訳しているが、原文ではmistakeであり、mistakeを失敗と訳すのも失敗にちかいミスではないかと思うのだが、そこには触れずに、instructive (and destructive) mistakesにおいてinstructiveあるいはdestructiveではなく、instructiveで、なおかつdestructiveということに着目したい。これは、すでに述べたように、自分からすすんで破滅的・自虐的におかすミスということにもなる。
しかし、ここまでくると、ふっとわかりそうなものなのだが、「役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗」というのは、精神分析を構成する(欠陥的)要素ではなくて、精神分析がお得意の考察対象ではなかったか。
今は昔、私は小学生高学年から中学生の頃、フロイトの理論の何に驚いたかというと、錯誤行為(たとえば言い間違い)のなかに無意識の欲望(日常生活の精神病理)が潜んでいるということだった。この驚きは、現代の人間にはないのだろうか。過ちやミス(失敗もいれておこう)は、撲滅、排除すべきゴミではなく、そこに本質が透けて見える機会や契機を提供してくれる、貴重きわまりないものである。まさにこうしたエラーやミスから、物事の本質に迫るのは、精神分析の独壇場ではないだろか。
つまり、この翻訳というか、この誤訳からは、精神分析というのは、誤りと失敗とうけいれ難い方法からなる学問分野になったということになってしまうが、それでいいのか。「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ」ではなく、「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法を扱う学問分野になったのだ」とすべきである。
全体の流れとして、「そして精神分析は、以前にもまして、ウィリアム・ジェームズがいう「前進しつづける」ものになっている」。
このあとをうけて「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ」とつづく。構文も、主語が精神分析、そして動詞がhas becomeであって、構文は同じなのである。。
この2文は、この翻訳者がお得意の同格関係、同じことのくりかえしというべきものである。精神分析は、重要な基点/参照点になった。それは、~を扱う学問分野になった。この二つの文は、精神分析に対して一定の距離を置きつつも、現代における重要性を強調しているのである。
すでに精神分析はジャガーノートかと冗談めいたことを書いたが、冗談は冗談ではなくなるのかもしれない。なにしろこの翻訳者にとって精神分析は「前進しつづける」失敗の巨大な邪神(ジャガーノート――ヒンズー教にとっては邪神ではないが)というイメージなのかなと思うからだ。
さらにこの一文の誤訳は、disciplineが、「~は、an academic discipline.」というように、語のあとにofがこない構文になることがふつうなので、ofの用法について苦慮したのではないだろうか。
ネット上で調べた例文には、こんなものがあった。
a discipline of mechanical engineering of ships, called marine engineering
船舶工学という、船の工業技術に関する学問
あるいは a branch of instruction or learningという定義のもと、例文として:
[countable] the disciplines of history and economics.
【可算名詞】歴史や経済を扱う学問分野/学科
ここで、原文にもどってみると、It has become the discipline of useful errors, of instructive (and destructive) mistakes, of radical roads not taken.とof以下が三つもので構成されているが、A, B, Cという並べ方でA, B, and Cではないことに注意。後者は構成要素が3つしかないが、前者は、構成要素が3以上、つまりAやBやCなどという意味になる。
さて、そのCにあたる部分に“radical roads not taken”とあるのだが、これは知っている人は知っている、あるいはアメリカ人ならトランプ派でも知っている有名なフレーズから来ている。アメリカの詩人ロバート・フロストの詩“The Road Not Taken”から来ている。川本皓嗣編『対訳フロスト詩集 アメリカ詩人選(4)』(岩波文庫2018)を是非読んでいただきたい――見事な訳文と解説で、もともとレヴェルの高いこのシリーズのなかでもベスト版のひとつといえる。そこでは「選ばなかった道」と訳されている。
アメリカでは学校でならう有名な詩なのだが、しかし、これは岩波文庫で編者の川本氏が述べているように、けっこう曲者の詩である。有名な最後の第四連の翻訳を引用させていただくと
いつの日か、今からずっとずっと先になってから
私はため息をつきながら、この話をすることだろう。
森の中で道が二手に分かれていて、私は――
私は人通りが少ない方の道を選んだ、そして、I took the one less traveled by
それがあとあと大きな違いを生んだのだと。
この最後の一連だけ読むと、詩人は、むかし、道が二つに分かれているところにやってきて、人があまりとおらない、人が選びたがらない道を、おそらく苦難の道、困難な道を選んで、それで人生に成功した、あるいは、いまの自分があると言わんとしているように思われる。
ところが最初からこの詩を読んでみると、実は、詩人は、もっと平坦な道、歩きやすい、行きやすい道を選んでいる。さらにいえばどちらの道も、そんなにかわりはないとまで語っている。この第4連での比喩的にいえば困難な道を、実のところ詩人は歩んでいない。のちのち、こんな嘘をいって自慢話をするかもしれないというような、ひねくれたことを言っている。実に曲者の詩であって、詳しいことは、川本氏の解説を読んでいただければと思う。
そこで今回の原文にもどる。さらに、
「精神分析は、役にたつ誤りや有効な(そして破壊的な)失敗、うけいれ難いが根本的でもある方法からなる学問分野になったのだ」。において“radical roads not taken”のroadを「方法」として意訳しているが、これは誤訳である。「からなる学問分野」と解釈したいので、roadは、道筋、プロセス、過程とみるのではなく、「方法」として解釈し、座りをよくしたにすぎない。
しかしそれでも、「ラディカルな方法」からなる学問分野なら意味が通るかも知れないが、この方法/roadsにやっかいなことに“not taken”がついている。なんだこれはということになる。「選ばれなかった方法からなる学問分野」というのは、何なのだ? これは幽霊がメンバーの集合ということになる。幽霊によって構成される学問分野ということになる。おそらく、これは、過ちや失敗よりももっとひどい、ありもしない妄想からなる学問分野なりというかたちで精神分析をこきおろそうとしたのかもしれない。
ただ、そこまではひどすぎると考えたのか「うけ入れがたいが根本的な方法」というふうに解釈した。そうして誹謗中傷のニュアンスを緩和した。「うけ入れがたい」と。しかし原文は「受け入れていない、選ばれていないNot taken」である。ここにきて、この受け入れがたい翻訳における解釈を根本的にみなおすべきであった。Not takenの方法からなるものとは何か?たちの悪い謎々か。しかしNot takenの道/道筋/過程について考える/扱う学問というのは充分に成立する。
そもそも、なぜ、もっとラディカルな(根本的/過激な)方向なり過程あるいは端的に道を選ばずに、安易な道あるいは妥協の方向を選んでしまったのか、あるいは選ばれていないが、根本的な/過激な道とは何であったのかを考えることは、学問分野の名にあたいするいとなみである。
精神分析に対する批判的な眼差しはこのパラグラフの最初からうかがえるのだが、しかし、そのために、一応、精神分析の位置づけ、あるいは功績、その特徴を、冷静に語るところもまた、品のない、ナンセンスな悪口が語られていると翻訳者は勘違いしたようだ。
これは英語力とか英語読解力の問題ではない。
とにかく、選ばれなかった解釈こそが、実は正しい根源的なものであった。それを確認したうえで、次回につづく。