2020年08月28日

「悲劇の未来について」

翻訳の闇

アルベール・カミュのこのエッセイは、英米圏では、よく参照されることが多くて、それを読んでみたいというというか、それを参照する必要にせまられて、昨年から、その日本語訳を探していた。

とはいえ、かつて出版されていた翻訳全集はいまでは絶版だし、図書館で閲覧するしかないのかもしれないが、この時期、図書館に行くのは恐いというか、そもそも館内閲覧できなくなっている公共の図書館は多い。

ところが実は、そのエッセイが未訳であることを知ったのは、昨年、二〇一九年一一月号の『悲劇喜劇』にその翻訳が日本初訳として掲載されたからである。

アルベール・カミュ「悲劇の未来について(一九五五年四月二九日、ギリシャ・アテネでカミュが行なった講演)」東浦弘樹訳、『悲劇喜劇』No.801(二〇一九年十一月号)pp.42-51.


翻訳そのものはりっぱな、そしてわかりやすい翻訳で、問題ではなく、またはじめてエッセイではなく講演であることを知ったのだが、問題は翻訳ではなく、原典の講演記録そのものにあった。

カミュは、後半、いろいろな作品から引用して、その箇所を朗読するのだが、日本語訳では、ただ、「(朗読)」と印刷していあるだけで、どこが引用されたのか、まったくわからない。最後もカミュはクローデルの作品からの引用で締めくくるのだが、

……ここでは我々は二つの言語が互いを変容しあい、風変わりで威厳のある唯一の言葉を作り上げています。
(朗読)


これで終わり。え、朗読で終わり。どうしたのか、最初、なにかのミスかと思ったが、他の朗読の部分も、中身が示されていない。

これはなんなのだと、いらいらがつのり、とりあえず、英語圏でよく読まれているカミュのエッセイ集の英語訳を購入することにした。Kindleで880円くらいで購入。

Albert Camus, Lyrical and Critical Essays, Edited Philip Thody, Translated by Ellen Conroy Kennedy, (New York: Vintage Book, 1968).


このなかに‘On the Future of Tragedy’が収録されている。

ちなみにこの英語訳エッセイ集、いわゆる『表と裏』とか『結婚』とか『夏』といったエッセイ集(私が『異邦人』めあてで購入した新潮世界文学の第一回配本のなかに入っていたエッセイ集でもあって、高校生の私にはよくわからなかったが、ただ、なんとなく気色悪いエッセイ集だという個人的感想をもった。『異邦人』は、もっとわからない本だったが、ものすごく面白かったことは記憶にある。『異邦人』は、のちにフランス語でも読んだ――まあ短い本だし)のほかに、メルヴィルとかフォークナーについての批評文もあって、英米文学研究者や愛好家には、けっこううれしい本でもある。

さて、この英語訳エッセイ集で確認したが、英語訳でも最後は [reads]で終わっている。ただし、英語訳では編者が注をつけていて、最初の朗読がはじまるところで、「残念ながら、フランス語の原典は、カミュが講演中にどの部分を朗読したのか示していない」と書いてある。

そういうことか、もともとのカミュの講演録にも、朗読した箇所は記載されていないのか。まあ、しかなたいかという思いと、だったらそう注記しておけよ、この日本語のバカ翻訳者がと心の中で思った――あくまでも心の中での思い、瞬間的な理不尽な怒りであって、公の発言ではないし、公の場で、私はそういう発現は絶対にしないので誤解のないように。

まあ、しかし**は英語の翻訳者もそうであって、カミュは、シェイクスピアから出典を明示することなく引用しているのだが、日本語翻訳者は、それを『アントニーとクレオパトラ』の第五幕第二場冒頭のクレオパトラの台詞であり、カミュは原文とは少し違った表現にしていると注をつけている。もとの原典となったものに、そのような注があったのか、あるいは翻訳者自身が発見したのかわからないが、りっぱな訳注である。

英語訳と比べると。英語訳者は、これをシェイクスピアからの引用とは気づかなかったようだ(正直、私も、これが『アントニーとクレオパトラ』からの引用とは気づかなかった)、そのため英語訳はこうなっている。

A higher fife is born of my despair.

fife? たぶんこれは電子化するときのミスでlifeなのだろう。それにしてもfifeとは、なんちゅうまちがいだ。『マクベス』かと,突っ込みも入れたくなるのだが、シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』の原文はこうである――

My desolation does begin to make
A better life.

なるほど、この原文をカミュはまちがって記憶してフランス語にした、あるいはカミュが参照したフランス語訳がまちがっていたか、そのフランス語訳をカミュはまちがって記憶したか、そのカミュのフランス語を、英語訳者は、シェイクスピアからの引用とは気づかずに、カミュの原文に忠実に翻訳したということなのだろう。伝言ゲームみたいなのだが、シェイクスピアの原文をフランス語にし、そのフランス語をさらに英語訳しても、もとにはもどらないということがわかる。

ただ、英語訳は、この部分、日本語の翻訳のように訳注をつけておくべきで、シェイクスピアの引用であることも気づかなかったのは失態で、日本語訳のほうが優れている。

あとは、聞くに堪えない読むに堪えない悪口を。

この『悲劇喜劇』のアルベール・カミュの特集号、白井健三郎先生の『正義の人びと』をまるまる再録しているのだが、それは初訳ではなく、実際、新潮世界文学のカミュIIに収録されたものであって、私は、そちらのほうですでに読んだ。「悲劇の未来について」という初訳作品を掲載してもらうのは、とてもありがたいが、この再録は、けっこうなページをとっていて、ページ稼ぎだろう。まあ、カミュ特集に書いてくれるひとがいなかったということだろうが。なさけない。

「悲劇の未来について」には、人名、劇作家に訳注がついていて、それはそれで読者にはありがたいものだと思うが、ありがためいわくのところもある。

エウリピデスの説明で、「代表作に『メディア』、『アンドロマケ』などがある。」となっているが、こまかいことだが、『メデイア』だろうし、この二作が代表作というのは、好みの問題もあろうが、すこし変。せめて『バッコスの信女(バッカイ)』か『トロイアの女たち』のどちからひとつくらいは入れておくべきだろう。

ローペ・デ・ベガは、フランス語読み、英語読みすれば「ヴェガ」となるものの、スペイン語読みでは「ベガ」もしくは「ベーガ」。「セルバンテス」を「セルヴァンテス」とは表記しない。

クライストについて、「代表作に『シュロッフェンシュタイン家』、『こわれ甕』などがある」とあるが、『こわれ甕』は有名だから代表作といっていいが、『シュロフェンシュタイン家』?恥ずかしながら、私は、この悲劇を聞いたこともなければ、読んだこともなかった。私に恥をかかせやがってといいたいところだが、恥ずかしいのはお前だ。よくもまあ、『シュロッフェンシュタイン家』を選んだものだ。クライストといえば、この『シュロッフェンシュタイン家』ではなくて、私の好きな『ペンテジレーア』とか、あるいは『ホンブルク公子』だろう。クライストの『シュロッフェンシュタイン家』は、若書きの作品で、のちにクライストは『シュロッフェンシュタイン家』だけは駄作なので読んでくれるなといっていたらしい。それをまあ、代表作に『シュロッフェンシュタイン家』とは、クライストが生前あるいは死後、受けたいろいろな屈辱のなかで、これは最たるものだろう。また、好きだから選んだといういいわけは通用しない。『シュロッフェンシュタイン家』が代表作というのは、一般読者にとっては誤情報そのものであるから。

かくして私と、この翻訳者と『悲劇喜劇』との社会的文化的距離はマックスになると思うが(憎まれるだろうから)、まあ、たがいに、それでなんの損失もないので平気である。

(おわり)

posted by ohashi at 05:47| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年08月03日

米語訳

ジャック・デリダの本は、難解だが、同時に、英文学研究者あるいは英文学ファンにとっても貴重な霊感源にいまもなっているのは、脱構築という批評方法のためばかりではなく、有名な英文学作品を丁寧に読解してくれるからである。晩年の『動物と主権者』における『ロビンソン・クルーソー』の議論がそうだし、『マルクスの亡霊たち』では、『ハムレット』の亡霊についての議論がある。

残念ながら、デリダの『ハムレット』読解を、自分の研究に活かしてはいないのだが、できれば将来活かしたいとも思っている。そのデリダの日本語訳『マルクスの亡霊たち』をぱらぱらとめくっていたら、変なことに気づいた。

最初に誤解のないよう述べておけば、べつに翻訳に問題があるというようなことではまったくない。この難物を単独訳として上梓したことの意義は大きいし、まちがいなく、これからも読み継がれるりっぱな翻訳だと思う。この点に、なんら問題はない。

ただ訳者解説で関連図書を紹介する際、
Jacques Derrida, Specters of Marx, tr. Peggy Kamuf, Introduction by Bernd Magnus&Stephen Cullengberg, New York, London, Routledge, 1994.【訳者解説での表記のまま】について、デリダの原書のあとに出版された本として

翌年、本書の米語訳が刊行されている。


とある。「米語訳」? 米語? 訳?

私はこの「米語訳」をもっているのだが、どこにあるのか見出せていないので、なぜ英訳あるいは英語訳ではなくて米語訳なのか、確かめることはできないのだが、たとえ、それを手にしても、どこが米語訳なのかの確証を、私は得られないと思うので、あってもなくても、かまわない。

また「米語訳」というのが、日本語翻訳者本人の強い主張であっても、翻訳者本人を含むサークルや学閥における慣用表現であっても、出版元の藤原書店の正式な慣用であっても、それはおかしい、エキセントリックすぎる、やめたほうがいいと、私は強く主張したい。
【ちなみに2007年出版の翻訳書なので、いまではすたれた慣習であることは当然予想できる。】

たしかにアメリカ英語、アメリカン・イングリッシュという表現もあるし、ブリティシュ・イングリシュという言い方はある。

またデリダの本の「米語訳」は、タイトルが Specters of Marxとなっている。Specterは、ブリティシュ英語ではSpectreとなるので(これはTheaterとTheatreの違いと同じ)、アメリカ式の綴りがタイトルにも取り入れられていること、訳者のPeggy Kamufが(詳しい出自は知らないが)、アメリカの大学の教員でもあるから、それで米語訳としたのだろうか。

しかし、たとえば関西方言で何かを翻訳したという場合でも(そういう試みは現実にあるが)、それは日本語訳と呼ばれる。あるいは東京近辺で生まれ育ったり暮らしている人たちには理解できないような特定の地方の方言で翻訳された本があっても、それは日本語訳と呼ばれる。

また日本の英語教育では、基本が、アメリカ英語である。その証拠に、SpecterやTheaterは、SpectreとかTheatreと書くようには教えられていない。だとすれば、日本の英語教育という表記はまちがっていることになる。正しくは米語教育とすべきである。さらにパラドキシカルな言い方をすれば世界中で使われている英語は、たぶん、過半数が米語である。ではもう英語という表記はやめて米語にしたらどうか。

まあ、そんなアホなということになるのだが。

日本での英語教育は米語が基本だが、しかし、こてこてのアメリカ英語を教えているわけではない。実際、テレビやラジオの英会話関連の番組では、そんな英語、アメリカ人にしか通用しないぞと思われるような表現を教えたりすることもあるが、基本は英語の会話でよくて、米会話としなくてもいいだろう。

またもし日常的に関西弁しか話さない人が、外国語の本、それも哲学思想書のようなノンフィクションを翻訳するときに、その翻訳の日本語がコテコテの関西方言になることはない。

同じく、いくらデリダの翻訳者がコテコテのアメリカ英語しか話さないとしても、その「米語訳」の翻訳が、イギリス人が読んだら頭を抱え吐き気を催すくらいのコテコテの米語だということはないだろう。【現実問題としてアメリカの大学の教員が書く英語はアメリカ臭のないニュートラルな英語であるのがふつうであって、「米語で訳している」といわれたら、たぶん本人は憤慨するだろう。】

さらにいえば、もし翻訳者がオーストラリア出身のオーストラリア人で、出版社もオーストラリアの出版社だったら、どうせオーストラリア英語で書かれているのだろうからということで、「豪語訳」というのだろうか(まあ、いわないで欲しいのだが)。

さらにさらにいえば、もし翻訳者がカナダ人で出版社もカナダの出版社だったら、どうせカナダ人のなまった英語で書かれているのだろうから「加語訳」とでもいうのだろうか。絶対にそんなことはない。加語あるいはカナダ語というのは存在しない。なぜならいうまでもなくカナダでは公用語が英語とフランス語だから、「加語」では、どちらかわからない。

一つの国でふたつの公用語があったり、ひとつの言語を、複数の国が公用語としているという現実は、一国一言語ということしか念頭にない日本人にはわかりづらいのかもしれない。

私は「米語訳」とは絶対に言わないし、その関連で言えば「和訳」とか「邦訳」とも基本的にいわない。

まあ「和訳」というのは嫌いな表現で、受験勉強における「英文和訳」という使い方のみにとどめておいて、どうかその枠からはみ出してほしくないと思うし、「邦訳」というのは、慣習的に使っているで消滅させることはむつかしいが、私は「日本語に翻訳」しているのであって、そこに「日本国」という意識はない。日本人でなくとも、日本語を理解し、話す人びとは多いのであって(たとえ英語ほどではないにしても)、言語と国との一体感と癒着ほど気味の悪いものはないと思っている。

posted by ohashi at 22:54| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年07月28日

パラレルワールドか

翻訳の闇

今、進行中の翻訳にヴェルギリウスの『アエネーイス』からの引用があった。

One salvation remains to the defeated – to hope for none.
【試訳 敗者たちにも救いがひとつ残っている――希望がないという救いが】


該当箇所を『アエネーイス』の英語訳からみつけた(ペンギン版である)

One hope saves the defeated: they know they can’t be saved.
【試訳 ひとつの希望が敗者たちを救う。彼らは自分たちが救われないことを知っているのだ】


私の訳している本の著者は、このペンギン版を使っているのではないし、どの版を使ったのかわからない、あるいは自分で英語に訳したのかもしらないが、意味は同じで、私が正しい出典箇所にたどりついてる(なお引用の意味については、このあと考える)。

念のために日本語訳にもあたってみた。岩波文庫版である。すると、こうある、

これに対し王宮の、/救護にむかいわが軍の、加勢に走つけ敗色の、/味方につよく力づけ、したい心地にわれわれは、/はやりにはやっておりました。


え? これは英語訳と全然違う。出典箇所をまちがえたのかと前後を探したが、それらしい箇所はない。これが英語訳と同じ箇所の日本語訳なのか?

そこで手元にあった古いペンギン版の英語訳にあたってみた。

We felt a new surge of courage and determined to aid the palace, bring relief to the defenders and lend fresh vigour to the vanquished.


これは岩波文庫版と同じである。となると同じラテン語の詩行の訳が、古いペンギン版と新しいペンギン版で違うのか。

まるでパラレルワールドである。同じ箇所の解釈が二つにわかれている。両者に共通性があるようなないような。本来なら出会うことのないパラレルワールドが互いに遭遇したかのようだ。

もし同じラテン語の詩行の解釈が、このように分かれるのなら、私のラテン語理解力ではとうてい歯が立たない事態であって、ラテン語原文にあたってみても意味がないのだが、しかし、このままにしておくわけにもいかないので、何か起こっているのか、いま調べているところである。

なお上記の新しいペンギン版の英語訳の意味。気になるかもしれないので一言。

なぜ希望がないのが救いなのか。なぜ救われないことがわかっているのが救いなのか。

それは希望があると、助かるかもしれないと苦しむからである。希望がない、助からないとわかったら、あきらめもつくし、心の安らぎにもなる。希望があるから、悲しむ、苦しむ、あがく、もだえる、泣き叫ぶ。希望が消えたら、あとは平安のみである。それが救いということだ。

しがって、この希望のなさは、絶望とはちがう。絶望すると、人間、自暴自棄になって、あばれたり、なきわめいたり、いかりまくったりする。この場合、絶望と希望は紙一重である。いや、同じものかもしれない。

希望がないとき、人間は、あきらめおちつくしかない。穏やかな気持ち、笑いさえもれるかもしれない。そこに救いがあるということである。

このことは、さらに考えてみるにあたいする。
posted by ohashi at 22:03| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年07月12日

ドストエフスキーの翻訳

現在している翻訳の関係から、ドストエフスキーの『悪霊』に目を通しておかねばならなくなり、せっかくだから、部分的につまみ食い的に読むのではなく、あらためて全部読み直そうと思った。

いまなら亀山郁夫訳『悪霊』(全三冊+1)が、読みやすことはまちがいなく、私自身、光文社古典新訳文庫版をもっている(まちがえて重複して購入したので、2セットも)。ただし、内容のほとんどを忘れてしまったのだが、一度読んだことがあり、その翻訳でもう一度、読み直そうと思った。

私が初めて読んだドストエフスキーの作品(『罪と罰』だったが)は、米川正夫訳だった。以後私は米川正夫訳でドストエフスキーを読んだ。

米川正夫個人訳の全集は、Wikipediaで調べてみると、第3次河出書房版全集が、私が生まれる前に完結していたらしいのだが、その後、私が中学生か高校生の頃に、Wikipediaでは触れられていないのだが、通算、第4次のドストエフスキー全集が刊行された。

その第4次全集は、箱に入った豪華本の全集で、私は個人的に全部購入したかったのだが、中学生か高校生の私は、親から金を出してもらうこともできずに、時々、小遣いのなかでバラで重要な作品を買っていた。だから、その全集で『悪霊』を読んだのだが、問題は、その本が、どこにあるのかわからなくなったことだ。

なんとなく心当たりはあるのだが、それを発掘するには、とんでもない時間がかかりそうなので、あきらめて、Kindle版に米川訳のドストエフスキーが入っていることを知ったので、それで読むことにした。

そして驚くことになるのだが……。

米川正夫訳のドストエフスキーはどうだったかというと、中学生の私にはむつかしすぎた。そのため漢和辞典片手にドストエフスキーの小説を読んだ。なぜ漢和辞典なのか。そもそも、翻訳で使われている漢字の読み方すらわからなくて、漢字の読み方がわからないと、国語辞典もひけないからである。

もちろん中学生の国語力、漢字能力には限界があって、いまからみれば、難読漢字のみならず、基本的漢字もわからなかったことも多く、恥ずかしくなるのだが、とにかく漢和辞典片手にドストエフスキーを読んだ。それは、まるで外国語の辞書を片手に原書を読むようなもので、私にとって、米川正夫訳のドストエフスキーを読むことは、外国文学を読むのとかわらぬ緊張感と労力を強いるものであった。ところが、それがのちに外国語の本を読むときに役立った。辞書で言葉の意味を調べることが苦にならなかったからである。

ただ中学生でなくとも、米川正夫訳のドストエフスキーは、言葉遣いが難しかった。それでも漢和辞典で漢字の読みと意味を調べつつ、読み続けることができたのは、作品のもつ迫力のせいであった。

そんなこともあり、米川訳はなつかしく、私の研究者人生の原点でもあったので、もう一度米川訳でドストエフスキーを読もうとして、驚いた。Kindle版は、むつかしい表現や難読漢字などをやさしく書き換えてたものだった。固有名詞の表記なども変えてある。固有名詞の変更の理由は、まあ納得できるものだったが、難しい言葉や表現をやさしくしたというのは、いかがなものかと、ほんとうに絶句した。

実際のところ、もとの翻訳がみつからないので、どういうふうに書き換えたのかわからないので、その成果がどうなのかは、なにも言えないのだが、それにしても、難読漢字とか難語などについて注釈をつけるだけでいけなかったのだろうか。

版権上問題ないのかもしれないが、しかし、これが許されるのかどうかわからないし、それをするくらいなら、自分で、わかりやすい、新しい訳をつくればいいのではと思ってしまう。

私も少しは漢字が読めるようになったのではという思いは、みたされぬまま、宙に浮いたままである。もちろん、米川訳『悪霊』をみつけられない私が悪いのだが(なお米川版『悪霊』は岩波文庫版もあったようだが、私が購入して読んだのはハードカバー、箱入りの、全集版であった)。

posted by ohashi at 22:06| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年05月29日

翻訳の闇 5 

ビューヒナー『ヴォイツェク』

岩淵達治訳の岩波文庫版の翻訳に問題があるわけではない。

岩淵先生は、もうご存命ではないのだが、もしご存命中であれば、まぎがらわしいことをするなと本気で怒られそうで、冷や汗をかきながら書いている。

ビューヒナーの作品が全部、日本語で読めるのも、また岩波文庫版で代表作の戯曲『ダントンの死』と未完の断片『ヴォイツェク』を読むことができるのも、岩淵達治氏の功績であり、私たちはどんなに感謝してもしきれない。河出書房版の『ビューヒナー全集』と、岩淵達治個人訳の『ブレヒト戯曲集』(未来社)は、演劇に関心がある者ならいつも手元においておくべき文献であろう。私の場合もそうである(といいながら、河出書房の全集は、研究室から本を引き取るときに、どこかにまぎれてしまい、いまだ発見していないのだが)。

最近『ヴォイツェク』を岩波文庫で読み直す機会があって、一カ所だけ気になるところがあった。

第14場。兵営の一室で、幻聴と幻覚に苦しめられているヴォイツェクに同僚のアンドレースにこう助言する。

ヴォイツェク まだ言っているぞ、殺せ殺せって。そしてナイフが目の前にちらつくんだ。
アンドレース 焼酎に粉薬を入れたのを飲むといい、熱がたちまち下がるぞ。(p.103)


妻(正式に結婚をしていないが)の不貞に悩むヴォイツェクは、オセローとマクベスを合体したかのような人格崩壊におちいっていく。幻聴に悩まされ、幻覚におびえているのである。そのとき同僚のアンドレースが「焼酎に粉薬を入れて飲むといい」と助言している。たぶん薬の鎮痛効果で悩みが消えるということだろう。

ちなみに、この部分に翻訳者の岩淵達治先生は訳注をつけていて

驚いたことに、この部分はベントリー(ブレヒトの訳者として有名)の訳したロバート・ウィルソンの台本では、粉薬(ドイツ語Pulver、英語Powder)が、火薬(gunpowder)と訳されている。心臓病ならニトログリセリンということもあるだろうが、ウィルソンの『ヴォイツェク』がいか|に出鱈目(でたらめとルビ)であるかの例証としてここに付言しておく。(pp.305-306)

とある。

岩淵先生、ロバート・ウィルソンの翻案にはほんとうに怒っていて、文庫版の随所で、本気の批判が展開する。

しかし、こんなことを書くと岩淵先生の怒りを倍増させるかもしれないが、ロバート・ウィルソンは演出家というよりもアーティストであって、そのパフォーマンスは原作の味わいなり良さを再現するというよりも、独自の世界を造型するものであって、だからこそ、ウィルソン版の『ヴォイツェク』は上演というよりも翻案なのであり、ロバート・ウィルソンにとってビューヒナーの作品は独自の芸術創造の契機にすぎない。原作に対する忠実度が少ないからと目くじらをたててもしょうがないのではないか。

またロバート・ウィルソンがドイツ語を理解していないのにビューヒナー作品の演出に手を染めることはけしからんと岩淵先生は考えているようだが、そういう見解はあっていいとしても、英語訳はベントレーの翻訳であって、ロバート・ウィルソンが翻訳しているわけではない。ベントレーの不適切な翻訳あるいは誤訳に気づかず、そのまま使っているウィルソンはけしからんということなのだろうが、その場合も、問題はベントレーの英訳であって、ウィルソンは関係ないのではないか――などと書くと、おまえの考えはまちがっていると、二倍、三倍返し、いや十倍返しとなって岩淵先生から叱られそうなので、この件は、これ以上深入りしないが、ひとつだけ。ベントレーの英訳は、そんなにへんなのだろうか。

ドイツ語のPulverも英語のPowderも、特殊な意味として火薬の意味がある。Pulverをそのままpowderと訳したら、わかりにくいか、違和感があると英訳者は考えた。そこで火薬gunpowderと訳した。

私には、なんとも言えないのだが、火薬が薬代わりに用いられたことがあるようだ。たとえば以下のサイト(Early Modern Medicine「初期近代医療/医薬」と題された英語のサイト)には、火薬が薬として使われた、あるいは火薬に薬効があると考えられていたことが関連資料とともに示されている。https://earlymodernmedicine.com/gunpowder/参照。

私にはこの史実について判定できる能力も資料ももちあわせていないが、考えられないことはない。

そもそもpowderを薬剤として考えるのは、違和感がある。というのもヴォイツェクは一兵卒で貧乏人である。妻と子どもを養うために隊長の髭を剃ったり、いかがわしい医者の人体実験に志願している。そんなヴォイツェクに同僚が、酒に粉薬をいれて飲めば、ふさぎの虫あるいは幻覚や幻聴など直ると助言するのはおかしい。つまり、そんなちょっとした気のふさぎに効くような薬を、貧乏な一兵卒が常時もっているのだろうか(人体実験をおこなっている医者から処方してもらったという可能性がないわけではないが、今風にいうと糖質ダイエットみたいな人体実験をしている医者が、被験者のヴォイツェクに実験の効果を打ち消すかもしれないような薬剤を処方するだろうか)。

粉末の薬など貧乏な一兵卒がもつことはないのに対し、軍隊で火薬は手に入りやすい。「焼酎」と訳されているものが、ドイツ語原文がわからないので、なんであるかはわからないが、火薬を酒に入れて飲めば、いろいろな効果があるという、まあ、一種の迷信みたいなことが軍隊で拡がっていたことは想像にかたくない。

英訳者は、確信があったのか、カンめいたもの、推測でそうしたのか、あるいは、強引に、実在しない迷信じみた慣習をでっちあげたのか、私にはわからないが、酒に火薬をまぜて飲めば体調不良が直せるという、軍隊のみで通用するような迷信じみた慣習という細部は、原作に対する裏切りでも無視でも、またドイツ語に対する理解力のなさでもないように思われる。

だからgunpowderという訳語は、むしろ適切ではなかっただろうか。まあ、言いたいのは、岩淵先生、そんなに怒らないでくださいということだが、このことを天国で知った岩淵先生は、絶対に私を糾弾しにやってくるだろうから、本日はここまで。

posted by ohashi at 02:10| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年04月15日

翻訳の闇 始動篇

私が大学の英文科に入学したとき、一学年25名の英文科生に担任の教員が二人つくことになった。一年生の頃から専門の授業が、数は少ないがあって、英文科の一般英語の授業と担任によるクラスの授業がありと、それなりに1年生から充実した授業内容であった。実際、一年生のときに『セールスマンの死』と『ダブリナーズ』を英語でよみ、さらに担任の授業で、英国現代小説を英語で読み、生成文法を学んだ。

一年生のとき、担任からクラス全員に課せられた宿題のようなものがあった。当時に、英文学とか英語・英語教育の関連の雑誌にはたいてい毎号、読者に対して、英文和訳と和文英訳の問題を出すコーナーがあって、出題とあわせて前号の問題に対して読者から寄せられた解答を講評することもおこなわれた。投稿者全員にはAからDまでの評価がつく。

担任から、毎月、毎号、そこに投稿せよという指示がでた。本名で投稿してもいいが、投稿者のほとんどがペンネームで投稿しているので、これからクラス全員に、ランダムに投稿するときのペンネームをあたえると言われた。一応、シェイクスピアの芝居に登場する善男善女の名前ということだった。

とはいえロミオとかジュリエットというような名前ならいいのだが、マクベスというペンネームをもらっても、マクベスは悪人ではないのかとか、あるいはクレオパトラというペンネームをもらっても、彼女は悪女ではなかったかと、まあ問題はあった。

ちなみに私がもらったペンネームは、ハムレットかオセローとかいう有名どころの名前ではなく聞いたことのない名前だった。私は、この人物が誰だか知っているかと、まわりのクラスメイトに聞いたところ、誰も知らなかった。最終的に調べて、どの作品に登場する人物であるかをつきとめたのだが、ここでそれを書いても、シェイクスピアのファンとか研究者でないかぎり、聞いたことのない名前だと思う――だからというわけではないが、秘密にしておく。

閑話休題。で、雑誌そのものは自分で購入しなくても、図書館などにおいてあるし、課題の英文と日本文のところだけコピーすればよいので、とくにお金がかかるということもなかったが、課題でもあるので、とにかく、おそるおそる投稿してみた。

最初の投稿の結果、英文和訳も和文英訳も、ともにBの評価だったと思う。まあ、平均の評価である。投稿者全員の名前と評価が毎号発表されるのだが、それをみるとB評価がいちばん数が多い。だから平均値。そしてそれに満足した。

考えてみてもいい。その雑誌に投稿するのは、英語に自信がある研究者・専門家とか、学校で教えている教員といった人たちであろうと予想できた。そんななかに、つい数ヶ月前にはまだ高校生だった若造が、投稿して、良い成績がもらえるはずはない。また、それは受験英語の英文和訳や和文英訳とは異なり、正確さのみならず、うまさも求められる。毎号、講評を読んでみると、高い評価をもらうのはかなりむつかしいということがわかる。だからBならば、問題ないだろうと安心した。

ところが安心して油断したのがいけなかった。あるとき投稿した英文和訳が、一つの単語についての誤解が全体に波及して、文意というか英文解釈が正解とは逆の内容になってしまったのである。それは講評においても、この投稿者は、この単語を誤訳したため全体の文意がおかしくなっているとコメントされていた。そして評価D。

要するに落第点である。これにはあせった。担任は、毎回、クラスの学生の投稿とその評価をチェックしていると言っていた。評価Bなら問題なく、また大学での成績に悪い影響がでるとも思えなかったが、Dは落第点である。これはまずい。私に英文解釈力がないと担任から評価されたらこれは大問題である。いくら私の早とちりの勘違いのせいだとはいえ。英文科の学生が英文和訳で落第点をとるなどというのはスキャンダル以外のなにものでもない。

そこで気をひきしめて次号から、細心の注意をはらって英文和訳をすることにした。英語を知っている単語もふくめて徹底して辞書で調べ、解釈に誤りながないか、何度も読み返し、そして当時はワープロもパソコンもなく、手書きの原稿による投稿だったのだが、下書きと清書を何度も繰り返した。そして、どうころんでも、Dではないだろうという解答を作成して投稿した。

ちなみに和文英訳は、ずっとBだったが、とくにDになることもなかったので、一念発起することもなく、最後まで(ほぼ一年後まで)Bどまりだった。

一念発起して投稿した英文和訳の課題のほうは、Aの評価をもらったので驚いた。これでDの評価は帳消しになると思い安心した。その後も、大きなミスもないように注意を払いながら、投稿をつづけ、コンスタントにA評価をもらうことになった。

とはいえAもA+、A-と、三段階に分かれていて、およそ一年間の投稿期間中、最後まで最高ランクのA+にはならなかった。ただ、高校生にちょっと毛の生えた程度の大学一年生である。また翻訳の天才ではない私としては、A+をねらっていたが、そこに到達できなくても、それほど悔いはなかった。

この投稿は、クラス全員に求められた課題ではあったのだが、毎月の投稿は、けっこうめんどうで、一人また一人と脱落してゆき、担任も脱落者を責めたりはしなかったので、1年をまたずに全員が、このめんどうな投稿をやめたのだが、英語教員とか英語英文学の専門家にまじって大学一年生がAランクの英文和訳ができたことは誇りに思っているが、ただ、同時に、私のその後の人生において、いまもなおおこなっている翻訳は、やはり自分の翻訳はAどまりでA+ではないという思いは強い。

とはいえAどまりでも、読者には迷惑をかけることはないし、読者にへんな負担をかけないような翻訳を心がけているので、問題はないと思うが、それでも、いまもなおA+の翻訳者になれなかった、いまもなっていないことに対しては忸怩たる思いがある。


posted by ohashi at 23:04| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年03月28日

翻訳の闇 4

今回も翻訳の予期せぬむつかしさについて、他山の石というか、自戒もこめて、考えたい。

以下は、ハンナ・アレントの『暗い時代の人々』のなかの、第一章ローザ・ルクセンブルクの冒頭から。この『暗い時代の人々』は、森まゆみ著『暗い時代の人々』のインスピレーション源になったくらいに、よく読まれている本だが、暗い時代になったいままた、新たに読者を獲得してゆくのではないかと思われる。

以下、ちくま学芸文庫版から引用

イギリス式の決定的な伝記は、史料編修にとって最も賞賛に値するジャンルに属している。相当な長さと完璧な典拠を持ち、十分な注釈がくわえられ、さらに引用文でゆたかに飾られており、通常二巻の大著として刊行され、最も傑出した歴史書を別とすれば、問題となっている歴史上の時代について何ものにもまして多くを、より生き生きと語ってくれる。他の伝記類とは異なり、ここで歴史はある著名な人物の生涯にとって不可避な背景として論じられるのではなく、歴史上の時代という無色の光線が偉大な人格というプリズムを通過し、それによって屈折させられ、その結果生じたスペクトルの中に人生と世界との完全な結合が達成されるからであろう。おそらくこうしたことが、イギリス式の伝記が偉大な政治家を扱う古典的ジャンルとなりながら、その生活史に主要な関心がもたれる人々、あるいは世界と一定の距離を保たせるような資質を備え、しかも世界の中で演じた役割ではなくそこに付与した芸術作品のようなその作品に主要な意味がある芸術家、作家、そして一般男女には不適当である理由であろう。


私は最初これを読んだとき、「イギリス式の決定的な伝記」によってつまずいた。なにが「決定的」なのか、わからなかったのである。

またアレンとの文章は、翻訳のせいかどうかわからないが、深い洞察にあふれつつも、やや読みにくいことは事実なのだが、その洞察の部分は注目に値する。なお翻訳問題のみに関心があれば、以下の7つの数段落は読み飛ばしてもらってかまわない。

アレント(アーレントという表記も一般的だが、ここはちくま学芸文庫版の表記に従う)は、時代と人物(偉人など)との関係を従来とは異なる観点から捉えている。

たとえば芸術家の場合、時代と当人との関係を語る場合、時代をただの背景あるいは飾りのようなもの(舞台の書き割りのようなもの)として考え、芸術家の活動には本質的に関与しないという考え方がけっこう支配的である。しかし、歴史的、政治的、社会的批評や研究が盛り返してからは、時代はただの背景ではなく、芸術家の深いところに影響を及ぼしていると、両者の関係を再考するようになった。アドルノのようにたとえ芸術家が社会に背を向けているとしても、そ」のこと自体が社会との深い関係を表象しているとみることもある。

芸術家は社会から超越した存在ではなく、芸術家といえども社会や歴史の申し子であり、また芸術家こそ、社会や歴史の真実を伝えていることに比重が置かれるようにもなった。

私たち一般人は時代の影響をもろうけるだけだが、芸術家は、時代の影響をうけつつ、時代に超越しているという二面性があるということもできるが、それよりも、時代の影響を常人よりも深く受けるが故に、時代の真実を見抜いたり、それとは知らなくともみずから体現してしまうというふうに考える。芸術家が時代に超越しているようにみえるのは、時代を排除するのではなく、時代の影響をとことん受けた結果なのである。

そんな面倒なことを考えなくともアレントのように芸術家は時代の影響を受けないことが多いと考えてはどうか、「世界と一定の距離を保たせるような資質を備え、しかも世界の中で演じた役割ではなくそこに付与した芸術作品のようなその作品に主要な意味がある芸術家、作家」とみればよいのでは。さらにいうとアレンとは、芸術家や作家のみならず、一般の男女も世界(時代といっても同じだろうが)と一定の距離を保っているという。「そして一般男女」と付け加えているのだから。

そうなると芸術家vs一般男女という区分はなくなる。となると、アレンとは何と対比しているのかというと、浩瀚な伝記が書かれるような偉人である(政治家とか君主という必要はなく、そこには一世を風靡した、あるいは新たな時代を切り開いた芸術家もふくまれる)。この偉人というのは、時代に影響を受けるとか受けないとう次元を超越している。つまり、その偉人が時代を作ったのであり、その偉人そのものが時代なのである。時代と一体化している以上、時代と偉人の関係など考えることはできない。時代こそが、偉人であるとき、両者の関係は問えない。いっぽう芸術家であれ一般男女であれ、時代を作っているわけではないから時代との関係が問える。時代と芸術家や一般男女の間には距離がある。一般男女にとってはその距離は歴史をつくったり変えたりできない無力感の淵源ともなるが、芸術家にとってはその距離は、批判的距離あるいは美的距離となって、時代を対象化した言説や芸術創造を可能にするのである。

しかし偉人と時代との一体感というのは、ほんとうにそうなのか。むしろ偉人の生涯を細大漏らさず語った包括的伝記がつくりあげる虚像ではないか。偉人もまた時代の申し子であって、それは包括的伝記なり本格的伝記ではなくとも、むしろ通常の伝記のほうが正確かつ鋭く提示しているというのが、アレントの論点である。

そこで最初に戻る

「イギリス式の決定的な伝記」のいう「決定的な」というのは何か。

これを考えているときに「決定版」とか「決定稿」という言葉浮かんだ。「決定稿」といういのは、たとえば修正や推敲を重ね、あとはこれで印刷に回してもよいというような最終稿と同じようなものである。最終的にこれでOKというのが決定稿である。もしこれを「決定的な原稿」とか「決定的な版」という「的な」を入れると、何が、どういう理由で「決定的な」のかが問題となる。「決定的な原稿」と「決定稿」とは違う。前者は、なんらかの理由で決定的なもの――たとえば作者が複数の原稿を書いて、そのうちこれが良いと作者あるいは他者が選定した原稿とか、なんらかの大きな影響を後世にあたえることになった原稿とか、いろいろな意味になる。後者は、最終稿と同じ意味となる。

決定的な伝記と、決定版伝記というのはだから、2文字のあるなしで意味に違いがでる。決定版伝記あるいは伝記の決定版というのは、アレントが説明しているとおり、網羅的な史料調査によって、あますところなく事実を精査して、もはや、これ以上に事実的になにも付け加える必要のない、最後の伝記という意味である。いっぽう「決定的な」というと、すぐに「決定版」伝記を思い浮かべる人はいるだろうが、多くの場合、「決定版」とは異なる、複数のニュアンスを生み出すことになる。ごくわずかの違いである。それが意味把握を困難にさせたり、読者に過大な負担をかけることになる。そういう意味で翻訳は(あるいは文字表現全般の話かもしれないが)は恐い。
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2020年03月22日

翻訳の闇 3

トロッコ問題とかトロッコのジレンマという問題がある。

第一の場面
線路上を誰も乗っていないトロッコが暴走というか走ってくる。その線路の先では作業員が複数(たとえば5人から10人くらい)、線路工事をしている。このままいくと何も気づいていない作業員のところにトロッコが突っこんでくる。大惨事になる。ちなみに、あなたは転轍機のそばにいる。転轍機のレバーを動かして線路を切り替え、トロッコが作業員たちのところにいかず、支線に入るようにする。ところが、その支線にも、作業員が一人作業している。さてあなたはどうするか。

作業員1人を犠牲にして作業員10名を救うのか。この場合、1人を犠牲にするか、10人を犠牲にするかという数の問題になる。数の問題なら、おそらく10人を救うという選択を多くの人がするだろう。

第2の場面
しかし本線上の10人か、支線上の1人かという問題を別の設定で考えてみる。トロッコの方向を変える転轍機はない。トロッコを止める可能性というは、あなたの前に立っている1人の男である。彼を走ってくるトロッコの前に突き飛ばせば、トロッコは止まるだろう。ただし、このとき、私が突き飛ばし男は、死ぬだろうが、線路の先で作業している10人は助かるだろう。

同じ問題を二つの状況によって提起している。後者は、前者の問題でははっきりみえなくなっている倫理性あるいは情動問題を浮き彫りにする。10人を救うか1人を救うかという問題は、数の問題に還元されると、誰もが10人を救う方を選ぶ。そのときでも1人は犠牲になる。この1人の犠牲を、強調するために、第2の場面では、あなたが殺人を犯すことになる。あなたは人を殺せるのか。数の問題ではなく倫理の問題である。あるいは情動の問題となる。

私はこのジレンマこそ、文学の枢要な特徴のひとつだと考えている。問題を数字の問題に還元するのではなく、具体的な場面、それも情動とか倫理とかが問われる状況をこしらえることによって、問題を提起する。もはや算術や論理ではなく、感情の問題となる。そして感情であれ情動であれ、それこそが、問題の装飾ではなく、問題の本質を浮かび上がらせる仕掛けとなる。

文学とは第2の場面である。あるいは第1の場面を、第2の場面へと変換するのが文学の機能だといっていい。またそこに情動と文学とを考える重要なヒントがあるように思われる。

と、ここでそのヒントを深掘りするまえに、トロッコ問題の名称を考えたい。そこに翻訳の闇があるからだ。

デイヴィッド・イーグルマン『あなたの脳のはなし――神経科学が解き明かす意識の謎』太田直子訳(ハヤカワ・ノンフィクション文庫2019)は、面白い本で、この分野で素人の私にもよくわかる、おすすめの本である【最近は私の専門と直接関係ない本(間接的にいうならば、実は、どんな本でも関係はあるが)ばかり言及しているのだが、これは重要な本であることはまちがいない】。

この本の中で「トロッコのジレンマ」に触れている箇所がある。p.151からp.156までなのだが、とりわけp.152とp.153は見開きのページになっていて、そこに二つのイラストがある。右側には本線と支線と転轍機、ならびに本線には4人の作業員、支線には1人の作業員がいて、転轍機のレバーを握っている人物が描かれているイラスト。左側には、支線はなく線路はひとつだけ、転轍機はなく、給水塔の上にいる人物と、その人物を線路の上に突き落とそうとしている人物が描かれている。給水塔の上から突き落とすというのは、トロッコを止めるためである……

トロッコ? この翻訳のイラスト(たぶん原書のイラストそのままなのだろうが――原書の図版はすべて収録したと、この本のあとがきにある)には、トロッコは描かれていない。デフォルメされているが路面電車のようなものが描かれている。これがトロッコ。あきらかにトロッコではない。路面電車である。翻訳の本文にはトロッコとあるのだが。

トロッコ問題(トロッコもんだい、英: trolley problem)あるいはトロリー問題とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題。
フィリッパ・フットが1967年に提起し、ジュディス・ジャーヴィス・トムソン(英語版) 、フランセス・キャム(英語版)、ピーター・アンガー(英語版)などが考察を行った。人間は一体どのように倫理・道徳的なジレンマを解決するかについて知りたい場合は、この問題は有用な手がかりとなると考えられており、道徳心理学、神経倫理学では重要な論題として扱われている。また(人工知能による自動運転が実現しつつある現在)自動運転車(公共交通の自動運転車両も含む)のAIは衝突が避けられない状況にも遭遇するであろうし、そうなれば何らかの判断もしなければなくなるわけだが、このトロッコ問題は、そうした自動運転車のAIを設計する際に、どのような判断基準を持つように我々は設計すべきなのか、ということの(かなり現実的、実際的な)議論も提起している、と公共政策の研究者は言う。
なお、以下で登場する「トロッコ」は路面電車を指しており、人力によって走らせる手押し車と混同しないように注意されたい。


そう、このトロッコ問題というのは英語ではTrolley Problem、つまりトロリー問題、つまり路面電車問題である。Trolleyには「トロッコ」という意味もあるが、基本は、路面電車。日本では聞き慣れない言葉かもしれないが、私が子供の頃には、路面電車以外にトロリー・バスというのが市街地を走っていた。Wikipediaによれば、

トロリーバス (英: trolleybus、米: trolley bus)とは、道路上空に張られた架線(架空電車線)から取った電気を動力として走るバスを指す。


私の育った名古屋市にはトロリーバスが走っていて私は目撃している(路面電車はよく利用したが、トロリーバスに乗ったかどうかは記憶にない)。だから「トロリー」と聞けば、路面電車、トロリーバスをイメージし、トロッコはイメージしない。

真相はわからないが、このトロリー問題を日本に紹介したり翻訳したりするとき、どこかのバカが、「トロッコ問題」と訳した。だから、その後、「トロッコ問題」とするしかなくて、先の翻訳『あなたの脳のはなし』では、イラストは、トロッコではなく、あきらかに路面電車なのに、本文では「トロッコ」と表記するしかなくて、多くの読者を混乱させたのではないかと思う。

実際、出版社には質問が来なかったのだろうか。本文で「トロッコ」とありますが、イラストはどうみても路面電車か電車です。同説明するのですかというような質問が。もっとも多くの読者はイラストが変だ(デフォルメされているので)とくらいにしか思わなかったかもしれないが。

また、これはけっこうやっかいな問題と化していて、Wikipediaでも「なお、以下で登場する「トロッコ」は路面電車を指しており、人力によって走らせる手押し車と混同しないように注意されたい」と、へんな但し書きをつけずにはいられない事情があるのは、なんとも面倒くさい。

トロッコか路面電車か?これもまたTomato, Tomato問題の一変種かと思われるかもしれないが、実は、Trolley Problemは、本来「トロッコ問題」ではなかったか、あるいは「トロッコ問題」のほうがよいのではないかと思う。たとえば先の翻訳『あなたの脳のはなし』では原書のイラストがTrolleyを路面電車と誤解した可能性もなくはない。またTrolleyは路面電車ではなく「トロッコ」のほうがいいと意図的に誤訳した可能性もある。トロッコのほうがなじみやすいということではない。この問題というか、倫理的ジレンマを考えるときに、路面電車では考慮する要因が多すぎて、思考実験にはならないからだ。

つまり路面電車なら、運転手がいる。運転手が線路の先の作業員を見つけて、事故になる前に、警笛を鳴らすか、電車を停止させることもできる。運転手の行動によって事故はかんたんに防げるし、給水塔から人を突き落とす必要もない、つまり問題にもならないと思う。となると多数を救うか1人を救うか、1人を犠牲にして多数を救うかという問題を考える前に、路面電車の運転手がぼんやりして上の空状態とか、突然、心臓発作に襲われて意識を失うとか、考えなくてもいいことを考え想定することになり、問題の焦点がぼやけてしまう。それなら無人のトロッコが事故で急加速してつっこんできたという設定のほうが、問題をすっきり整理できる。

だから路面電車問題ではなくトロッコ問題。走ってくるのは、あくまでもトロッコだとしたほうが、すっきりする、また設定としてもすぐれている。だから、あえてトロッコ問題としたのかもしれない。とはいえ、それはそんなに昔ではないだろうが。

さて、あなたはトロッコ問題にしますか、路面電車問題にしますか。
posted by ohashi at 17:02| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年03月20日

翻訳の闇 2

翻訳について考えているのだが、その前に、私の立場を述べておけば、私は素人が嫌いである。しかし、素人以上に専門家というのは大嫌いである。もちろん素人と専門家との境など曖昧なものであって、両者を峻別はできないということは確かである。にもかかわらず、この曖昧さを無視して、明確な境界があるかのように考えたり発言したりするのは、愚の骨頂であることを忘れないようにすること。そしてどちらに権威があるかという発想にとらわれないことが肝要であると考える――往々にして専門家が偉いという幻想が大手をふってまかりとおるのは、ほんとうに嘆かわしいと考えている。

で、翻訳の話に。

Amazonのレヴューに面白いコメントをみつけた。

グレアム・ハーマン『四方対象――オブジェクト指向存在論入門』岡嶋隆佑・山下智弘・鈴木優花・石井 雅巳訳(人文書院2017)のレヴュー


☆☆☆☆☆2019年8月21日に日本でレビュー済み Amazonで購入
4回読み直すことで、なんとなく哲学の領域とはどういう意味を持つのかが、まだ判りませんがこの本の訳者に感謝です。
本書を読破するためには下記の項目をお薦めします。
①睡眠を充分に取ってから読むこと。
②空腹時に読むこと
③眠気を感じたら直ちに読書を中止し、深呼吸及び軽い体操をすること。
④意味が多少判らなくても、そのまま読み続けること。
⑤眠たくなったら、音読すること。
⑥人生はチャレンジ精神だと思うこと
以上です。 (3人のお客様がこれが役に立ったと考えています)


ハーモンのこの本がどういう本なのかについては、ここでは触れない。思弁的リアリズム(Speculative Realism)の本だが、カンタン・メイヤスー(私が読んだのは『限定性のあとで』の一冊しかないのだが)の研究書。ハーモンは思弁的リアリズムの入門書も書いていて英米圏でこの分野の第一人者である。

で、レヴューアーのこのコメント。AMAZONではたくさんの本をレヴューしているようで、ずぶの素人とはいえないだろうし、なにかの専門家なのかもしれないが、このおバカコメントはどうだろう。意図的に道化を演じているのだろうか。そうだとすれば相当な曲者かもしれないのだが、話を簡単にするために、このコメントを額面通りとることにする。

短い本は別として、本を読むのには時間がかかるから、だれでも、ほとんどの本は1回読めばじゅうぶんである。まあ推理小説などは読了したあとすぐにもう一度読むと、いろいろなことがみえてきて面白いのだが、哲学書とか思想書とか、あるいは専門的なむつかしい本は、一度読んでもわからないことが多いが、すぐに読み返しても、基本的にわからないものはわからない。4回読もうが、100回読もうが、すぐに読み返したら、絶対にわからない。怖いのは、4回くらい読みかえすと、内容の展開とか文言を記憶してしまう。そこで何か親しみがわいて理解した気持ちになってしまうことである――ほんとうは何も理解していないのに。

だから難解な本を読了後すぐに読み返すのは時間と人生の無駄使いである。ある一定期間をおいて読むと理解できるようになるし、得るところも大きい。子供のころ、若いころ、読んで、難解すぎてよくわからない本も、歳とってから読み返すと、わかりすぎるくらいわかる。これは読み手に知識とか洞察が蓄積されて思考方法が変化したからであり、その変化あるいは成長が実現していない時点で、何度読み返しても、わからないものはわからない。

しかし、この人(男性か女性かもわからないが)のコメント。おかしすぎる。はっきりいってハーモンのこの本、ここまでしなくとも私には理解できると思う(読んでいないのだが)――哲学が専門ではないけれども、長年、大学で教えてきたらから、この程度の本は読みこなせる。べつに自慢でもなんでもない。これが読めなかったら、私はとっくの昔に廃業している。

ただし、このアドヴァイス、①睡眠を充分に取れ、②空腹時に読め、③眠気を感じたら直ちに読書を中止し、④意味が多少判らなくても、そのまま読み続ける、⑤眠たくなったら、音読する、⑥人生はチャレンジ精神だと思うことというのは、外国語の本を読むときには、あてはまる。

外国語の本を読むときに脳にかかる負担は大きい。脳が披露して眠たくなることも多い。そんなとき音読すると注意力がもどったり、脳の疲労がとれたりする。また空腹によって眠たくならないようにして注意を集中することも、重要である。

また裏をかえすと、このレヴューアーにとって、この本は、外国語の本なのである。なにか外国語の本を読んで外国語の勉強をしているような、そんなところがある。

またここでのアドヴァイスは読書過程と身体状態とのシンクロに注意を喚起してくれる点でも、ありきたりだが同時に興味深い。

通常、読書過程と身体状態のシンクロは表にあらわれない。しかし外国語の翻訳作業の場合には、シンクロが明確に表にでる。簡単にいえば、疲れて眠たくなると、翻訳ができなくなる。あたりまえといわれれば、そうだが、たんに意識がもうろうとするのではない。原文の意味がとれなくなるのである。これにはいろいろなケースがあるのだが、構文がどうしてもわからないとか、話の流れ、論理的つながりがみえなくなると、いろいろな理解不能状態が生ずる。こうなったら休憩するか、あるいは時間が時間なら眠るしかない。

実際、翻訳をしていると、訳している直前の原文は、なにも見なくても復唱できる。残念ながらすぐに忘れてしまうのだが。わからない原文があると、それが頭にこびりついて離れない。何度も頭のなかで復唱しても、わからない。そして就寝前、あれほど何度考えてもわからなかった原文が、翌朝になるとすんなりとわかって驚くことがある。

原文の理解、そして翻訳の出来不出来は、身体的条件に左右される。

このレヴューアーのコメントは、ばかばかしいと思ったのだが、翻訳作業にはあてはまる。あてはまりすぎる。翻訳はチャレンジだ。

注記:個人的なことだが、翻訳作業に際して、私は、論理を見失ったり、ニュアンスをとりちがえたり、適切な日本語を思いつかなかったり、ミスリードするような表現にしてしまったりと、過ちや不適切なことを、もちろん自覚のないうちにやまのようにしているが、原文の構文はすべて理解している。すくなくとも20世紀以降の通常の英語なら(方言とか俗語などはむりだが)。ところが疲れてくると、構文が理解できなくなる。構文をとりちがえることはあっても、理解できない場合は深刻である。そしてどうあがいても理解できないことがある。翌朝あるいは睡眠後を待つしかない。

posted by ohashi at 04:39| 翻訳論 | 更新情報をチェックする

2020年03月18日

翻訳の闇

エリク・H. エリクソン『洞察と責任――精神分析の臨床と倫理[改訳版]』鑪幹八郎訳(誠信書房2016)について調べる必要があり、アマゾンで確認してみた。レヴューが2件あり、そのうち一件は、この翻訳がよくないと批判している。

翻訳書に関するアマゾンの読者からのレヴューは、手厳しいものもあって、自分が批判されているわけではないのに、我が身のことのように思えてきて、深く反省したりすることもあるし、心をひきしめて翻訳をせねばならないと決意をあらたにすることもある。

もうひとつは、怖いものみたさであるが、そんなにひどいのなら、どれくらいひどいのか、のぞいてみたい、笑ってみたいというあさましい願望を刺激されることもある。

この本の場合、以下のレヴューが気になった。

5つ星のうち星1つ
この訳では,「エリクソンの真髄」は判らな(2017年6月27日に日本でレビュー済み)

 旧訳書も,同じ訳者が,同じタイトルで,同じ出版社から出しています。45年ぶりの改訳になるとのことです。
 訳語が,再検討されて,改善しているところも確かにあります。
 しかし,残念ながら,この翻訳では,エリクソンの真髄は,翻訳者のあとがきに書いてあることとは異なり,伝わらないと,私は考えます。
 この翻訳は,初歩的な文法上の間違いが多いうえに,単語を別の言葉に読み違えている箇所さえ散見されます。わたくしの翻訳評価の分類(最悪,悪い,まあまあ,良い,最高)で申し上げれば,自閉症のドナ・ウィリアムズさんの本を「翻訳」した本と同レベルの「最悪」のレベルです。
 このエリクソンの本で,一番訳しづらいのは,第5章一節 原文では,Ego and actuality です。なぜならば,一見同じような言葉が,全く異なる意味でつかわれているからです。それは,reality と actualityです。とても日常的な言葉です。
 旧訳では,realityが「現実性」,actualityが「事実性」となっていましたから,これは非常にひどい訳でした。中身がほとんど分かっていないことを物語っていました。改訳版では,realityは「現実」に「リアリティ」のルビを振り,actualityは「かかわり関与」に「アクチュアリティ」のルビがついて,前よりも良くなってはいます。しかし,残念ながら,この訳語変更を含めて,この翻訳では,エリクソンの真髄は,ついぞ,この翻訳者は,掴みきれずにいることがハッキリとわかりました。
 少しだけ付け加えるとすれば,このactualityは,「やり取りのある関係を始めること」であり,「陽気で楽しい,やり取りのある関係性を自ら始めること」のだということです。エリクソンは,すべての著作を通して,この「陽気で楽しい,やり取りのある関係を始めること」を推奨し,いかにしたらこの関係が可能になるのかを,臨床をしながら,明らかしてくれたのです。この「陽気で楽しい,やり取りのある関係性をはじめること」にハッキリとした形を与えたものが「日常生活を礼拝にすること(ritualization)」(「儀式化」と訳すのも誤訳です むしろ,大江健三郎さん(あるいは,フラナリー・オコーナー)がいう,「人生のハビット」に極めて近い,あるいは,同じことに別の表見を与えている)なんです。
 エリクソンのライフサイクルの心理学は,『新約聖書』に示されたパウロ神学をベースにしているのですが,この翻訳者は,その「エリクソン心理学の真髄」が皆目お分かりでないのです。
 関心のある方は,当方のブログ「エリクソンの小部屋」をご参照ください。
 September 02, 2017 書き換える


まず、「この翻訳は,初歩的な文法上の間違いが多いうえに,単語を別の言葉に読み違えている箇所さえ散見されます。わたくしの翻訳評価の分類(最悪,悪い,まあまあ,良い,最高)で申し上げれば,自閉症のドナ・ウィリアムズさんの本を「翻訳」した本と同レベルの「最悪」のレベルです。」とあるのだが具体例が示されていないので、これだけで翻訳の質を判断することはできない。実は、この実例が一番面白いところだったのだが、しかし実例はない。と同時に、誰でも、初歩的なミスや読み違えはする。その数はけっこう多いこともある。私の場合においても。

またrealityとactualityの訳語は、誰もうまく訳せないと思うのだが、改訳版では、改善がみられ、さらにいうと、この評者が考えているactualityの意味に、改訳版も近づいているか、あるいは、評者と同じ考えであるように思われる。また、この評者が説明しているactualityの意味について、私には判断は下せないが、それが正しいとしても(ただしうまい説明表現ではない)、それは読者がつかみとればいいだけで、翻訳者は、その手助けとなるような訳語を提供しているように思う。

またこのあたりから評者のいっていることがわからなくなり、さらに言葉の厳密な使用を提唱しているかにみえる評者が、パウロ神学などとわけのわからないことを言っている。パウロは神学者によって論じられることはあっても、本人は神学者ではない。そして詳しくは自分のブログを見よとある。結局、評者は専門家か、エリクソンのファン(信者か使徒)かどちらかわからないが(あるいは、そのどちらでもないのかもしれないが)、いずれにせよ、自分の気に入らないものにいちゃもんをつけているだけの問題児なのかもしれない。

もちろん、この翻訳書を読んでいないので、なんともいえないのだが、アマゾンに注文した。入手して読んでから、私の考えが変わったときに限り、また記事にさせてもらう。

ちなみに、この評者のコメントに、私はカチンときたのだが、それは私だけではなかったことは、次のレヴューからもわかる。

5つ星のうち星5つ
解釈の違い (2018年8月7日に日本でレビュー済み)

さきの方が「真髄を分かっていない」と仰るならば、むしろ、その前提でもって読んでみてください。
当然ながら、読むとすれば、それはエリクソンの著作(まずは『幼児期と社会』)を原文で読んだことがある方に限ります。
様々な解釈の有り得る古典思想研究においては、原文を読み、その上で訳本に対する違和感を述べること、れは【←ママ、おそらく「それは」か「これは」のミスであろう】なにを差し置いても必須であります。
先の方と逆にぜひオススメしたいのです。
読んでみてください。


要するに、この翻訳は、先のレヴューアーがいういようにわけのわからない本ではなく、よい本だと推薦しているのである。ただ、いかんせん、もう少し、きちんと説明してほしい。趣旨はべつにして、説明文が舌足らずで、なんとかしてほしい。

では私は何がいいたいのか。ひとりよがりで、自分の考え方とは違う相手にいちゃもんをつけている人間と、その姿勢にカチンときて反論しているのだが、反論の内実が舌足らずでよくわからないというだけのことを、ただ面白がっているのかと思われるかもしれないが、面白がっている。

しかし、なにか変なところ、面白ところ、ばかばかしいところ、不条理がないものに、なにか発見するという希望はもてないのである。アインシュタインが述べているように、一見して馬鹿げていないアイデアは、見込みがない。それをもじって、一見馬鹿げてているとしか思えないこの事態から、これまでにない何かを見いだせるかもしれないのだ。
posted by ohashi at 19:06| 翻訳論 | 更新情報をチェックする