4月12日の記事で触れた、ある学会のパネルディスカッションで、私以外のすべてのパネラーが、既婚者であることを、聞かれもしないのに語ったことに、同性愛を話題としたり研究したりしても、自分は同性愛者ではないことを示唆するという、姑息なホモフォビア言説の存在を私は指摘した。
そのパネラーは、自分たち夫婦のように、子どものいない夫婦は、資本主義社会では、再生産の手段とならないために、無意味な存在だと語ったのである。まあ、それはそうだが、子どものいない夫婦でも、資本主義に貢献することはじゅうぶんにあると思うのだが、それはさておき、子どものいない夫婦のもつimplicationというのはある。テネシー・ウィリアムズの『やけたトタン屋根の猫』のように――と指摘しようと思ったが、テネシー・ウィリアムズの作品としては『欲望という名の電車』にならぶ人気と評価を誇るものの、日本での知名度はないので、混乱を招くだけだろうから、やめた。
『やけたトタン屋根の猫』は映画化もされたのだから知名度は高いかもしれないものの、この映画からは同性愛のテーマは削りとられている。また『欲望という名の電車』のスターがヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランドのコンビなら、『熱いトタン屋根の猫』(←日本での映画タイトル)のスターは第二のヴィヴィアン・リーかもしれないエリザベス・テイラーと、第二のマーロン・ブランドであったポール・ニューマンのコンビで、「第二」感が否めないのも事実。そして同性愛問題の扱い。
では私が、『やけたトタン屋根の猫』を例にあげて、何を言わんとして言わなかったのかというと、そこに登場するブリックとマギーの夫婦は、子どもがいないだけではなく、性交渉もないことが周囲にも知られており、また妻のマギーも、そのことを気にしているのだが、子どもがいないだけならばまだしも、性交渉もないとなると、そして妻の方は夫の親密な関係をたえず模索していることなると、この場合、夫はゲイである可能性が高い。
現実の、そうした夫婦がすべてそうだということではなく、あくまでも文化的・文学的表象のレヴェルの話である。また現実においても、ゲイであることを隠蔽するために結婚することは多く、そうした偽装結婚夫婦は、異性との性交渉には関心がないばかりか嫌悪感をも抱いていることもある。そのため当然、子どももいない。子どものいない夫婦とは、文化的文学的表象レヴェルにおいて、夫はゲイである。
みずから子どもがいない夫婦であることを、聞かれもしないのに告白したパネラーの男は、実は、たとえヘテロでもゲイ男性と誤解されるかもしれない可能性に気づきもしなかったのである。
あるいは、ゲイ男性と誤解されて同性愛者と連帯する可能性をみずから排除した――「私たち夫婦には子どもはいません、そのため私などゲイ男性と誤解されることがなきにしもあらずです、この同性愛者とみられる可能性をもつことで、自分のなかに同性愛的欲望があるかのように思えてくることもあります、たとえ私は妻を愛しているとしても、同時に、同性愛者、あるいは両性愛者になったような気持ちにもなるのです……」というくらいのことは話してもいい。
だか、おそらくこの馬鹿男は、こうしたことだけは絶対に口にしたくなかったのだろう。こうしてゲイ男性を、この馬鹿男は二度殺したのである。一度目は、みずからが結婚していることを、聞かれもないことで話し、同性愛者への嫌悪感/恐怖感を暗示的ににおわせることで。そして二度目は、子どものいない夫婦であるがゆえにゲイ男性と誤解されるかもしれない可能性を考慮せず、その誤解から生ずるゲイ男性との連帯の可能性を排除したがゆえに。
『やけたトタン屋根の猫』は、映画版でもオリジナルの劇場版でも、ブリックとマギー夫妻の性交渉のなさが前半の関心事となる。だが、その原因が、映画版では、妻のマギーが夫を裏切り、夫の友人スキッパーと寝たと夫ブリックが思い込んでいて、不貞の妻を許せないからセックスもしないという設定になっている。だがオリジナルの劇場版では、夫が妻とセックスしないのは、妻の裏切り(と誤解していたもの)を許せなかった事もあるが、それ以上に、同性愛的欲望が強かったということになっている。
つまり劇場版でのホモセクシュアル関係を、映画版ではホモソーシャル関係に変えたのである。
映画版では、マギーは、ブリックとスキッパーの友情にひびを入れる悪女である。あるいはマギーという女性を求めてブリックとスキッパーという男性が争う三角関係が成立する。いっぽう劇場版では、ブリックの愛をもとめてマギーとスキッパーが争いあうという三角関係が成立する。前者がホモソーシャル関係、後者がホモセクシュアル関係。スキッパーの自殺は、ブリックがマギーと結婚したことに起因するのかもしれない。ほんとうの裏切り者は、スキッパーへの愛(同性愛)に気づくことなく、異性との結婚を選んだブリックなのである。
これは夏目漱石の『こころ』における、「先生」が東大生であった頃の惨劇と同じ構造をしている。東大生だった頃の「先生」とその友人は、下宿屋のお嬢さんをめぐってライバル関係にある(ホモソーシャルの三角関係)にみえるが、実は、その友人は同性愛者で、東大生だった「先生」への愛をめぐって下宿屋のお嬢さんとライバル関係にあったとも考えられる。ホモソーシャルの三角関係にぴったり重なり合いながら、その関係性を異性愛から同性愛へと変えてしまうホモセクシュアルの三角関係。その帰結を、『猫』は、当事者の同性愛パニックというかたちでさらに追求している。つまりブリックは、スキッパーとの関係をあくまでも友情ととらえ、同性愛とはみてない。同性愛の存在をかたくなに拒むのである。そしてスキッパーの自殺と、妻が不貞をはたらいていなかったことを知るに及んで、いよいよ自分の同性愛的性格に直面することになり、もはや立ち直れなくなる。
映画版にある印象的な場面は、ブリックの父親(ビッグダディと呼ばれている)が、メンダシティmendacity(虚偽とか偽りを意味するこのmendacityという単語は、この劇を見たり読んだりする者が確実時に覚えるようなり、また絶対に忘れることのない単語でもある)に耐えられないと語る息子ブリックに対して、お前はメンダシティに耐えられないのではない、お前自身がメンダシティそのものなのだと語るところである――とはいえ、この台詞は劇場版のほうにこそふさわしいのだが。
つまり劇場版ではブリックは自身の同性愛に気づいていないか、目を閉ざしているのであって、そんな人間は、よく「メンダシティ」に耐えられないとほざくかと観客は思う。おのれが歩く「メンダシティ」ではないか、と。
劇場版では、このビッグダディは、若い頃、下働きから努力の末に、大農場と大邸宅を受け継ぎ、いまの地位に上り詰めたのだが、大農場は、もとは二人の男性によって共同運営されており、この二人はゲイだったといわれているのだ。ふたりのうち一人が死んだとき、若き日のビッグダディはその後釜に座る。彼自身もまたゲイあるいはバイセクシュアルだった可能性もある。また、ビッグダディが、早々と結婚して子どもを五人ももうけている長男ではなく、子どものいないゲイの次男のほうを偏愛するのも、ビッグダディその人がゲイであったという可能性がある。ゲイの父親がゲイの次男を愛する(アン・リー監督の『ウェディング・バンケット』(1993)も同様な関係を扱っていた)。
映画版では、こうした要素はきれいさっぱりと拭いさられ、ビッグダディは、ゲイのカップルが運営してた大農場の後を継ぐのではなく、裸一貫でいまの企業帝国をこしらえたとされる。自らの人生を振り返って、虚飾と迷妄から醒めたかのようなビッグダディと、妻のことを誤解したいたことを悟ったブリックとが、強欲な長男夫妻の詐欺的な遺産相続手続きを退ける。しかし強欲ぶりを非難された長男も、また父親への愛に目覚めるというかたちで、この一家は絆をあらためて強めることになる。メグは自分の子どもができたと嘘をつくが、メグへの誤解がとけたブリックは、おそらく妻とベッドをともにし、遠からず、ほんとうに子どもをつくるだろう、そして末期がんで死にゆく父親を安心させるだろうと思わせて映画は終わる。
ビッグダディの誕生日を祝って集まった家族という、ある意味、カジュアルで明るく悩み事などない裕福な家族という設定が、つねにとんでもない緊張関係をはらみ、映画は最初から最後まで劇的緊張と衝突でつらぬかれているが、それでいて、芝居臭さを感じさせないところはみごとというほかはない。さらにいえば劇場版における同性愛と同時に大きなテーマである虚偽と真実の対立も、映画ではきちんと提示されて、演劇性や思想性ともに、高いレヴェルを維持している。だから劇場版に劣らず優れた作品である。
もちろん映画をみた感想としては、オリジナルの劇場版にあった同性愛問題は、どうなっとるんじゃ~と、おいでやす小田みたいに大声で毒づきたくもなることも事実。
だが『セルロイド・クローゼット』が示しているように、ハリウッド映画は、同性愛的要素を隠して消去してしまうのではなく、気づかせないようにしつつも、わかる人にはわかるように、温存している。カムフラージュしているといってもいい。この映画は、劇場版にあるような同性愛問題ではなく、家族問題にテーマを振り切ったかにみえて、同性愛性を随所ににおわせている――同性愛は抑圧されているのではなく、すぐにはわからないように表に堂々と出ている。
いいかたを変えると、さすがに劇場版におけるエクスプリシットなゲイ関係は映画では表象しにくい。そのため陽動作戦というか目眩ましというか安全弁というべきものを用意した。同性愛関係から、妻の不倫とか妻への嫉妬という異性愛関係への移行。さらにテーマも異性愛か同性愛かという緊迫した選択問題ではなく、失われた、あるいは危機的状態にある家族の絆の復活へと変わったのである。
たとえば、劇場版でも映画版でも同じだが、読んでいると印象に残らないのがブリックの足の悪さである。怪我をして松葉杖で移動している彼の姿が視覚的に強烈である。そのためブリックの存在感をいやが上にも高めているのだが、同時に、足が悪いことは、現実に足に障害をかかえている人がそうであるということではなく、文学・演劇表象においてはという保留がつくが、一般的に同性愛者を意味する。ゲイ作家であったサマセット・モームの自伝的小説『人間の絆』の主人公は足に先天的な障害を負っていた。足が悪いことは、この小説における隠れた同性愛的要素となっていた。
先に映画版ではブリックとスキッパーの関係は男性どうしの友情関係となっていると述べたが、これもまた、同性愛的関係の暗号であって、ホモソーシャル関係は、ホモセクシュアル関係を排除するのではく、ホモセクシュアル関係をまぎれこませることもできる。ホモソーシャルは、ホモセクシュアルのカムフラージュともなるのだ。
つづく
2021年04月14日
『やけたトタン屋根の猫』
posted by ohashi at 20:06| 映画・コメント
|
2021年03月13日
放射能入り牛乳 2 付記
まだ映画『復讐捜査線』のブルーレイをみつけていないので、確認のためにみていないので、違っていることもあるかもしれないが、ここで一応補足を。
この映画のなかで、原子力関連の企業の社長に放射能汚染された牛乳を飲ませるというのは、私は心の中で、拍手喝采したのだが、なんちゅう話だとあきれた人も多いかと思う。そのため、ここで補足を。
ただしネタバレなので注意。Warning: Spoiler
映画のなかでは、放射能汚染された牛乳を飲ませてはいない。メル・ギブソン扮する刑事は、ただ、だまって牛乳を飲ませるのである。またその牛乳は、ふつうの牛乳である。放射能で汚染された牛乳ではない。だいいち、そんなものどうやって手に入れるのだろうか。
ところが悪徳社長のほうは、メル・ギブソンが、娘の復讐のために、娘に死をもたらした放射能汚染された牛乳を自分にむりやり飲ませたのだと思い込み、いそいで放射能を緩和する薬を飲む。しかし、ふつうなら牛乳を飲まされても、放射能を緩和する薬は飲もうとは思わない。このあわてふためく姿をみて、この社長が、放射能汚染された牛乳で殺人をおこなった首謀者であることをメル・ギブソンは確信する。
そして逮捕するかというと、その場で、射殺する。いくら極悪非道な罪人とはいえ、無抵抗の犯人を射殺することによって、この刑事(メル・ギブソン)の運命は決まる。エンターテインメント映画は、ポエティック・ジャスティスを重視する。非合法な方法で犯人を殺したメル・ギブソンは映画の最後で生き残ることはない(たとえばハムレットが生き残れないのは、劇の途中で、あやまって人を殺してしまうからである。これによってハムレットは最後には死ぬだろうと観客には予想がつく)。
実際、メル・ギブソンは、粘り強い捜査によって犯人側に恐れられ憎まれ、放射能汚染された牛乳を知らずに飲まされてしまうため、健康がむしばまれ、もう余命いくばくもなくなっている。彼は最後の力をふりしぼって復讐を遂げるのである。
映画の最後で、メル・ギブソンの病室に、すでに死んだ娘が迎えにくる。ふたりは手に手をとって病室から抜け出してゆく。メル・ギブソンは死んで、殺された娘といっしょに天国に行くということになる。
この娘を『インスティンクト』のボヤノ・ノヴァコヴィッチが演じていたのだが、顔がどうしても思い出せない。
なお「復讐捜査線」という間抜けなタイトルは、映画会社が「捜査線」好きなことからきているのかもしれない。
『夜の大捜査線』という1968年にアカデミー作品賞や主演男優賞をとった有名な映画がある。黒人の名優シドニー・ポワチエ扮する敏腕刑事が、人種差別の激しい南部の田舎町に、事件の捜査のためやってくるのだが、地元警察の協力を得られず、単身捜査をするという映画のタイトル(原題は「夜の熱気のなかで」)が、あろうことか「夜の大捜査線」――これはけっこう有名な話(笑い話)になっている。まあ、この作品の影響で、日本のテレビドラマでも『踊る大捜査線』というのがあったのだが、その影響なのかもしれない、『復讐捜査線』というタイトルが。
この映画のなかで、原子力関連の企業の社長に放射能汚染された牛乳を飲ませるというのは、私は心の中で、拍手喝采したのだが、なんちゅう話だとあきれた人も多いかと思う。そのため、ここで補足を。
ただしネタバレなので注意。Warning: Spoiler
映画のなかでは、放射能汚染された牛乳を飲ませてはいない。メル・ギブソン扮する刑事は、ただ、だまって牛乳を飲ませるのである。またその牛乳は、ふつうの牛乳である。放射能で汚染された牛乳ではない。だいいち、そんなものどうやって手に入れるのだろうか。
ところが悪徳社長のほうは、メル・ギブソンが、娘の復讐のために、娘に死をもたらした放射能汚染された牛乳を自分にむりやり飲ませたのだと思い込み、いそいで放射能を緩和する薬を飲む。しかし、ふつうなら牛乳を飲まされても、放射能を緩和する薬は飲もうとは思わない。このあわてふためく姿をみて、この社長が、放射能汚染された牛乳で殺人をおこなった首謀者であることをメル・ギブソンは確信する。
そして逮捕するかというと、その場で、射殺する。いくら極悪非道な罪人とはいえ、無抵抗の犯人を射殺することによって、この刑事(メル・ギブソン)の運命は決まる。エンターテインメント映画は、ポエティック・ジャスティスを重視する。非合法な方法で犯人を殺したメル・ギブソンは映画の最後で生き残ることはない(たとえばハムレットが生き残れないのは、劇の途中で、あやまって人を殺してしまうからである。これによってハムレットは最後には死ぬだろうと観客には予想がつく)。
実際、メル・ギブソンは、粘り強い捜査によって犯人側に恐れられ憎まれ、放射能汚染された牛乳を知らずに飲まされてしまうため、健康がむしばまれ、もう余命いくばくもなくなっている。彼は最後の力をふりしぼって復讐を遂げるのである。
映画の最後で、メル・ギブソンの病室に、すでに死んだ娘が迎えにくる。ふたりは手に手をとって病室から抜け出してゆく。メル・ギブソンは死んで、殺された娘といっしょに天国に行くということになる。
この娘を『インスティンクト』のボヤノ・ノヴァコヴィッチが演じていたのだが、顔がどうしても思い出せない。
なお「復讐捜査線」という間抜けなタイトルは、映画会社が「捜査線」好きなことからきているのかもしれない。
『夜の大捜査線』という1968年にアカデミー作品賞や主演男優賞をとった有名な映画がある。黒人の名優シドニー・ポワチエ扮する敏腕刑事が、人種差別の激しい南部の田舎町に、事件の捜査のためやってくるのだが、地元警察の協力を得られず、単身捜査をするという映画のタイトル(原題は「夜の熱気のなかで」)が、あろうことか「夜の大捜査線」――これはけっこう有名な話(笑い話)になっている。まあ、この作品の影響で、日本のテレビドラマでも『踊る大捜査線』というのがあったのだが、その影響なのかもしれない、『復讐捜査線』というタイトルが。
posted by ohashi at 22:54| 映画・コメント
|
2021年03月12日
放射能入り牛乳
いまCSで『インスティンクト』を放送中だが、昨年の今頃、シーズン2のDVD/ブルーレイが発売/レンタル開始したので、日本でもWOWOWなどで放送されたものの再放送のようだが、今放送中のシーズン2(アメリカでは2019年に放送)で打ち切りというのは残念である。
アラン・カミング(『グッド・ワイフ』の頃よりもさらに老けた感じがする.-実年齢よりも10歳くらい上の感じがする)と、ボヤナ・ノヴァコビッチのペアは、こうしたバディ物の常套的設定で、仲がいいのだけれど性的関係はないという,つかず離れずの友情関係を成立させるために、ゲイの男性とストレートの女性捜査官という関係が実に面白かったのだが。
そのボヤナ・ノヴァコヴィッチなのだが、どこかで見たという年寄り独特のあてにならない既視感にとらわれていたが、『アイ、トーニャ-史上最大のスキャンダル-』に出演していた。トーニャのコーチを自分から買って出る役柄だったが、その間の詳しい事情は映画のなかでは語られなかったように記憶している。ボヤナ・ノヴァコヴィッチの存在が気になったのは、実際のトーニャ・ハーディングは、映画のなかでマーゴット・ロビーが演じているのだが、実際のトーニャ・ハーディングは、彼女よりも、ボヤナ・ノヴァコビッチのほうが似ているという感じがしたからである。
21世紀になって実在のトーニャ・ハーディングは、女子プロレスに参加したり、ボクシングの試合をしたりして、フィギュアスケートの選手だったとはとても思えない、たくましすぎる体型になっていたが、映画のなかでのマーゴット・ロビーもフィギュアの選手とは思えない、たくましい体つきになっていた。しかし、私はリアル・タイムでトーニャ・ハーディングをテレビで見ていたが、もちろん、当時の彼女は、いかにも、フィギュアスケートの選手のらしいスマートな体型で、女子プロレスラー/マーゴット・ロビー系統とはまったく違っていた。だからマーゴット・ロビー扮するトーニャ・ハーディングは違うぞと頭のなかで文句を言い続けていて、その分、映画に入り込めなかった記憶がある。
で、ボヤナ・ノヴァコビッチの出演映画だが地球侵略物『スカイラン』の続編『スカイラン-奪還』に出演していた。『スカイライン』は映画館でみたが、続編は公開されたのかどうか覚えてないが、映画館で上映されても出向かなかったと思う映画で、amazonプライムでみた。しかし彼女の出演作で評判がよいのは『デビル』とか『シークレット・パーティ』なのだが、それ以外の映画出演については心当たりはなかったので、調べてみたら『復讐走査線』(Edge of Darkness メル・ギブソン主演2010年、日本公開2011年)に出演していた。まったく記憶にないのだが、メル・ギブソンの娘役? それなら覚えている。どういう役回りだったのかもしっかりと。映画の最初のほうで殺されてしまうのだが、最後にも登場する。病室のメル・ギブソンのもとに訪れた娘は父親の手をとって病室から抜け出していくのである(これはメル・ギブソンが最後に死んだという暗示)。
ここまで印象的な役なのだから、顔を覚えていそうだが、どうしても思い浮かばない。もちろん映画を見直してみれば、そこにボヤナ・ノヴァコヴィッチがいるはずなのだが、しかし、いまの私の頭のなかでは、メル・ギブソンの娘役の女性の顔は、まったくの空白のままである。
今回、amazonで中古のDVDでも購入するか、どこかでレンタルして見直してみようかと思ったのだが、amazonからDVDを以前に購入していたことがわかった。結局、封を切らずに、未視聴状態になっている。捜すのに時間がかかりそうだ。
したがって見つかって見直さないとなんとも言えないところがあるのだが、この映画は、衝撃的な内容ではあった。とりわけ2011年には。
Amazonから映画の内容を引用したい――
軍需企業の犯罪的行為がなんであったのか覚えていないのだが、秘密を知られた企業側は、放射能汚染された牛乳を飲ませる(もちろん当人は、なにも知らないまま飲んでしまう)ことで命を奪うという卑劣な手段に訴える。
ちなみにamazonのレビューにつぎような記事があった。
何がやばかったのか、正確に思い出せないのが、今はつらいが、たしかにヤバイ内容だったのである。この映画のなかで圧巻なのは、メル・ギブソンが企業のトップの屋敷に単身殴り込み、社長を追い詰め、これを飲めと、牛乳瓶から白い牛乳をむりやし飲ませるシーンである。
牛乳の白さ、そして放射能汚染された牛乳のまがまがしさ。そして復讐の憤怒に身を委ねて社長に汚染された牛乳を飲ませる場面。私は、映画館で立ち上がって拍手しようと思ったくらいだ。ほんとうにいいぞ、と声が出そうになった。
映画を見直してみないとなんともいえないのだが、この映画では放射能汚染牛乳を飲まさる社長は、原発もつくっていた電力会社のトップではなかったのか。ちがっているかもしれないのだが、ただ、ちがっていても、放射能で汚染された作物や、放射能による汚染は、2011年の後半、大きな問題となり、福島産の食材が買われなくなったり、あるいは諸外国からも日本の国土の放射能汚染が問題視され、日本人の誰もが、放射能汚染に敏感になり、また、その元凶ともいえる原子力発電所や原子力産業、東京電力にたいしては、怒りをくすぶらせていたような気がする。
当時、学生向けの専修課程(英語英米文学専修課程)案内の冊子に、卒業生の就職先をリストアップする頁があったのだが、その頁から「東京電力」を研究室側で削除した記憶がある。実は、すくなくとも5年以上、ひょっとしたら21世紀になってから、東京電力に就職した専修課程卒業生はいなかったのではないかと思いいたったからである。調べてみたら、たしかに東電に就職した学生は10年以上いなかった。
ずいぶん昔にはいたので、就職先のひとつに「東京電力」というのを、どちらかというと誇らしげに掲載していたのだ。しかし、2011年度になってみると、この記載は、なにか不吉な、まがまがしさを帯びるようになった。反原発派の私としては、東京電力は悪徳企業以外の何物でもないのだが、それとは別に、2011年の後半には「東京電力」というのは恥ずかしい名前となった。そして繰り返すが、卒業生がここ何年も就職していないということで、実情に即していない記載は削除するということで、「東京電力」という名前は、専修課程案内の卒業生就職先リストから消えた。
映画のなかの悪徳企業が電力会社ではなかったとしても、放射能汚染した食物(ここでは牛乳)を、凶悪な悪人の社長の喉に流し込むことは、見ている側にとっては、電力会社の社長に、放射能汚染した食物を食べさせてて責任をとらせるという、溜飲が下がる、まさにカタルシス以外の何物でもなかった。
だから、この映画は2011年を思い出して、いまこそ見直してみるべき映画である。Amazonのレヴューアーが述べているように、Edge of Darknessを「復讐走査線」とふざけたタイトルをつけた映画会社こそ、この映画のやばさを、この映画の社会的告発の鋭さと強度を把握していたのかもしれない。
そう思い出してきた。これは電力会社というよりも、また軍需企業でもなく、原子力関連企業について、その闇を暴いた映画でもあったのだ。
アラン・カミング(『グッド・ワイフ』の頃よりもさらに老けた感じがする.-実年齢よりも10歳くらい上の感じがする)と、ボヤナ・ノヴァコビッチのペアは、こうしたバディ物の常套的設定で、仲がいいのだけれど性的関係はないという,つかず離れずの友情関係を成立させるために、ゲイの男性とストレートの女性捜査官という関係が実に面白かったのだが。
そのボヤナ・ノヴァコヴィッチなのだが、どこかで見たという年寄り独特のあてにならない既視感にとらわれていたが、『アイ、トーニャ-史上最大のスキャンダル-』に出演していた。トーニャのコーチを自分から買って出る役柄だったが、その間の詳しい事情は映画のなかでは語られなかったように記憶している。ボヤナ・ノヴァコヴィッチの存在が気になったのは、実際のトーニャ・ハーディングは、映画のなかでマーゴット・ロビーが演じているのだが、実際のトーニャ・ハーディングは、彼女よりも、ボヤナ・ノヴァコビッチのほうが似ているという感じがしたからである。
21世紀になって実在のトーニャ・ハーディングは、女子プロレスに参加したり、ボクシングの試合をしたりして、フィギュアスケートの選手だったとはとても思えない、たくましすぎる体型になっていたが、映画のなかでのマーゴット・ロビーもフィギュアの選手とは思えない、たくましい体つきになっていた。しかし、私はリアル・タイムでトーニャ・ハーディングをテレビで見ていたが、もちろん、当時の彼女は、いかにも、フィギュアスケートの選手のらしいスマートな体型で、女子プロレスラー/マーゴット・ロビー系統とはまったく違っていた。だからマーゴット・ロビー扮するトーニャ・ハーディングは違うぞと頭のなかで文句を言い続けていて、その分、映画に入り込めなかった記憶がある。
で、ボヤナ・ノヴァコビッチの出演映画だが地球侵略物『スカイラン』の続編『スカイラン-奪還』に出演していた。『スカイライン』は映画館でみたが、続編は公開されたのかどうか覚えてないが、映画館で上映されても出向かなかったと思う映画で、amazonプライムでみた。しかし彼女の出演作で評判がよいのは『デビル』とか『シークレット・パーティ』なのだが、それ以外の映画出演については心当たりはなかったので、調べてみたら『復讐走査線』(Edge of Darkness メル・ギブソン主演2010年、日本公開2011年)に出演していた。まったく記憶にないのだが、メル・ギブソンの娘役? それなら覚えている。どういう役回りだったのかもしっかりと。映画の最初のほうで殺されてしまうのだが、最後にも登場する。病室のメル・ギブソンのもとに訪れた娘は父親の手をとって病室から抜け出していくのである(これはメル・ギブソンが最後に死んだという暗示)。
ここまで印象的な役なのだから、顔を覚えていそうだが、どうしても思い浮かばない。もちろん映画を見直してみれば、そこにボヤナ・ノヴァコヴィッチがいるはずなのだが、しかし、いまの私の頭のなかでは、メル・ギブソンの娘役の女性の顔は、まったくの空白のままである。
今回、amazonで中古のDVDでも購入するか、どこかでレンタルして見直してみようかと思ったのだが、amazonからDVDを以前に購入していたことがわかった。結局、封を切らずに、未視聴状態になっている。捜すのに時間がかかりそうだ。
したがって見つかって見直さないとなんとも言えないところがあるのだが、この映画は、衝撃的な内容ではあった。とりわけ2011年には。
Amazonから映画の内容を引用したい――
【STORY】
娘を殺したのは誰だ! ?/今、父の怒りが巨大な陰謀を打ち砕く! !
ボストン警察殺人課のベテラン刑事トーマス・クレイブンは、最愛の娘を自宅の玄関で、それも目の前で射殺されてしまう。
事件は彼に恨みを持つものの犯行と思われた。
だが、彼は独自に捜査を開始し、事件の陰に、娘が勤務していた軍需企業の犯罪的行為と国家の安全保障にまで影響を及ぼす巨大な陰謀が潜んでおり、娘は真実を暴露しようとして謀殺されたことを知る。
復讐の鬼と化したクレイブンは、様々な罠や妨害をものともせず、事件の黒幕に迫っていく。
犯人の逮捕でも、事件の解決でもなく、ただ復讐のためだけに………。
軍需企業の犯罪的行為がなんであったのか覚えていないのだが、秘密を知られた企業側は、放射能汚染された牛乳を飲ませる(もちろん当人は、なにも知らないまま飲んでしまう)ことで命を奪うという卑劣な手段に訴える。
ちなみにamazonのレビューにつぎような記事があった。
モンテ・ヤマサキ
5つ星のうち5.0 これは相当良いですよ。
2017年11月29日に日本でレビュー済み
この邦題をつけたのは間違いなくアホで、映画をぼうとくしている非道残虐行為だと思います。こんなアホどもは、この映画内でメル・ギブソンに撃たれて死にますがね。
マッドマックス4なんざどうでもよい。あんなものはクソだよ。マックスが本当に帰ってきたぞよ。喜べ。
俺はここでメル・ギブソンに俳優の枠を超えたものを受け取ったよ。三船と同じようにな。
2019年、今日、今、この映画を見直していて、フッと気付いた。。。こんなフザけた邦題をつけてカモフラージュでもせんことには、この国でマスメディアにのせるのは不可能だということなのではないかと。。。それくらいヤバイ内容だったのだと。。。ありえるぞ
何がやばかったのか、正確に思い出せないのが、今はつらいが、たしかにヤバイ内容だったのである。この映画のなかで圧巻なのは、メル・ギブソンが企業のトップの屋敷に単身殴り込み、社長を追い詰め、これを飲めと、牛乳瓶から白い牛乳をむりやし飲ませるシーンである。
牛乳の白さ、そして放射能汚染された牛乳のまがまがしさ。そして復讐の憤怒に身を委ねて社長に汚染された牛乳を飲ませる場面。私は、映画館で立ち上がって拍手しようと思ったくらいだ。ほんとうにいいぞ、と声が出そうになった。
映画を見直してみないとなんともいえないのだが、この映画では放射能汚染牛乳を飲まさる社長は、原発もつくっていた電力会社のトップではなかったのか。ちがっているかもしれないのだが、ただ、ちがっていても、放射能で汚染された作物や、放射能による汚染は、2011年の後半、大きな問題となり、福島産の食材が買われなくなったり、あるいは諸外国からも日本の国土の放射能汚染が問題視され、日本人の誰もが、放射能汚染に敏感になり、また、その元凶ともいえる原子力発電所や原子力産業、東京電力にたいしては、怒りをくすぶらせていたような気がする。
当時、学生向けの専修課程(英語英米文学専修課程)案内の冊子に、卒業生の就職先をリストアップする頁があったのだが、その頁から「東京電力」を研究室側で削除した記憶がある。実は、すくなくとも5年以上、ひょっとしたら21世紀になってから、東京電力に就職した専修課程卒業生はいなかったのではないかと思いいたったからである。調べてみたら、たしかに東電に就職した学生は10年以上いなかった。
ずいぶん昔にはいたので、就職先のひとつに「東京電力」というのを、どちらかというと誇らしげに掲載していたのだ。しかし、2011年度になってみると、この記載は、なにか不吉な、まがまがしさを帯びるようになった。反原発派の私としては、東京電力は悪徳企業以外の何物でもないのだが、それとは別に、2011年の後半には「東京電力」というのは恥ずかしい名前となった。そして繰り返すが、卒業生がここ何年も就職していないということで、実情に即していない記載は削除するということで、「東京電力」という名前は、専修課程案内の卒業生就職先リストから消えた。
映画のなかの悪徳企業が電力会社ではなかったとしても、放射能汚染した食物(ここでは牛乳)を、凶悪な悪人の社長の喉に流し込むことは、見ている側にとっては、電力会社の社長に、放射能汚染した食物を食べさせてて責任をとらせるという、溜飲が下がる、まさにカタルシス以外の何物でもなかった。
だから、この映画は2011年を思い出して、いまこそ見直してみるべき映画である。Amazonのレヴューアーが述べているように、Edge of Darknessを「復讐走査線」とふざけたタイトルをつけた映画会社こそ、この映画のやばさを、この映画の社会的告発の鋭さと強度を把握していたのかもしれない。
そう思い出してきた。これは電力会社というよりも、また軍需企業でもなく、原子力関連企業について、その闇を暴いた映画でもあったのだ。
posted by ohashi at 00:46| 映画・コメント
|
2021年01月15日
『提督の艦隊』から
『提督の艦隊」Michiel de Ruyterからフェルメールへ
2015年のオランダ映画だが、日本未公開。Amazonのプライムビデオで視聴した。何の予備知識もなく。
事実いや史実は小説よりも奇なり。歴史上のいろいろな出来事も、なんの予備知識もなく、その経過をたどると、通常の小説ではありえない、予想外の展開をして、驚かされるのではないか。たとえば「関ヶ原の合戦」にしても、私たちは、勝敗あるいは実際の経過について知り尽くしているから(ただし詳細が正しいものかどうかは判定できないとしても)、はじめてその戦いの記述に触れた者の立場に身を置くことはできないのだが、たぶん、何も知らない読者なり観客が、関ヶ原の戦いを扱った小説なり映画やドラマに接したら、予想外の展開に驚くのではないだろうか。あるいはプロットなり展開が、一定のルールに則していないと文句すら出るのではないだろうか。
同じ事は、この映画『提督の艦隊』を何に予備知識もなく視た観客――私のことだが――についてもあてはまる。純然たる海洋冒険物の映画かと、ぼんやり視ていた私は、途中から、事態が予想だにしない方向へと進んでしまい、戸惑うばかりで、映画を理解しえなくなっていた。
そうではないか、オランダで王党派を抑え、最高指導者となった共和派のリーダー、しかも、引退していた海軍提督を艦隊司令官に抜擢して英仏艦隊に勝利したこのリーダーが、どういう失政ゆえにかわからないが、怒り狂った民衆(裏で王党派が糸をひいている)によって、なぶり殺しにされて、兄ともども、おちんちんを切り取られるなどと、この映画を見ている観客の誰が想像しえただろうか。なぜ、こんなセンセーショナルな展開を必要としたのだろうかと、怒りすら覚えたのである。
ここまで書くと、オランダ人のみならず、わかる人にはわかる。
その暴徒によって処刑された二人は、ヨハン・デ・ウィットと、その兄コルネリス・デ・ウィットでしょうと。それを知らなかったお前は、アホじゃと言われても仕方がない。そう、このデ・ウィット兄弟が処刑されるまで、名前を気にもしていなかった(フィクションだと、海洋冒険物で戦争物だと勝手に思い込んでいたので)。しかし、いくらぼんやり生きている私としても、この二人の処刑という展開に戸惑いつつも、一条の光が見えてきた。覚醒の瞬間があった。ヨハン・デ・ウィットとコルネリウス・デ・ウィット。そしてもうひとつの名前が思い浮かんだ。スピノザ、と。
スピノザが、あれほど怒り批判していた暴徒化したオランダ市民によるデ・ウィッテ兄弟虐殺(トランプ支持者の議事堂侵入とつながるような、あるいはシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』をほうふつとさせるような)、その歴史的瞬間に、たとえ映画とはいえ、いま立ち会ったのだという思いが沸いてきた、そして、あらためて知ったのだ、この映画は史実に基づいているのだと。
たしかに、純然たるフィクションというには、スケールが大きすぎる。海洋での会戦の再現と、その映像化には金がかかっている。しかも、こんなにお金をかけていそうで、上映時間105分という、あっというまに終わる小ぶりな映画にまとめているのは、おしつけがましくていいと思ったのだが、オランダでの公開時には、これは3時間越えの大作映画。英国でDVD化されたとき2時間の映画となり、それが今回、amazonプライム・ビデオで1時間45分くらいの映画に縮んだ。だから、3時間をかけてじっくりみせる映画が、その半分の長さになったので、説明不足のところがでてきて、展開も唐突になったのではと理解できる。また、そもそもミヒール・デ・ロイヤル提督は救国の英雄でもあって、オランダ人なら知らぬ人もいないのであろうから、細かな説明抜きでも映画は成立するということだろう。
映画はデ・ロイテル提督が主役なのだが、前半の影の主役がデ・ウィッテ兄弟だとすれば、後半は、オラーニュ公ウィレムが影の主役で、英国のチャールズ二世も登場する――チャールズ・ダンスがチャールズ二世を演じている。チャールズ二世の犬好きとか、娼婦の愛人――ネル・グウィンか、あるいはフランスのルイ十四世から送り込まれたルイーズ・ルネ・ケルアイユかどちから、あるいはふたりともか――が登場するし、ウィレム三世の同性愛も明確に示される。その辺は、通俗的な(つまり私でも知っている)歴史理解にそうかたちで物語がつくられている。
デ・ロイテル提督は、よき家庭人であるとともに、天才的な戦略家で、劣勢のオランダ海軍をたてなおし、すぐれた作戦で、英仏の艦隊を翻弄し、オランダに勝利をもたらす英雄なのだが、デ・ウィッテ兄弟との友情があだとなり、また国民的人気を提督にさらわれたウェイラム三世の嫉妬心も手伝って、最後には、勝てる見込みのない会戦に参加させられ戦死する悲劇の英雄でもある。おそらくそれゆにえオランダでは国民的英雄となっているのだろう。
その提督に比べると、ウィレム三世は、建国の英雄であったウィレム一世(オランダの国歌のなかでも歌われている英雄)とは異なる小物であり、母が英国のチャールズ二世の妹であったこともからも、英国との関係が深く、英国のチャールズ二世(チャールズ・ダンスのあくの強い演技が印象的だが)のいいなりなっている,ある意味、裏切り者である。しかもそのチャールズ二世も、フランスが起こす戦争に対しては、これを支援するという密約をルイ一四世と結んでいる裏切り者である。
チャールズ二世は、英国の王政復古の国王であり、フランスからの帰国に際しては、国民がこぞって、その復帰を盛大に祝ったというのが、いくら共和制時代が息詰まるものであったとしても、よくもまあ、こんなクソみたいな王を迎えたものだと、なさけなくなる。あるいは、国民が瞞されたのかもしれないが、国民のことを歯牙にもかけぬ無能な王のくせ……、いや、なにか八つ当たりをするようなことにもなるので、やめておこう。
結局、チャールズ二世の後継者となるのは、ジェイムズ二世ではなく、このウィレム三世であることも皮肉であり、ウィリアム三世はオランダと英国の国王となって、英仏の同盟を分断して、英仏の対立関係を構築することに成功したのだが、肝心なオランダは、かつては小国であっても、イングランドと覇を競う海洋国であったのが、ウィリアム三世が英国王に即位してからは英国に従属することになり、国力を失ってゆく。ウィレム三世は、ウィリアム三世となってバケの皮が剥がれたというべきか。ウィレム三世も、ある意味、オランダ国民を裏切っていたのである。また英国民も、また、よくもまあ、こんなクソみたいな男を国王にして名誉革命などと浮かれていたものだと、今の日本人と同じく、哀れですらある。
ただオランダのウィレム三世は、描かれ方によっては、大国を手玉にとって自国を守った英雄ともなるのだが、この映画では、そうした観点はまったくなく、ほんとうに裏切り者の卑劣な小心者である。たとえば侵略するフランス軍に対して、運河を壊し、国土を水浸しにして撃退するという戦略は、功を奏したこともあって、ウィレム三世の思い切った奇策として称賛されることもあるが、この映画では、エクセントリックな素人戦略として必ずしも称賛されていないようだ。まあ、オランダ人にとって、遠い過去の歴史であるから、ウィレム三世が悪く描かれようが、現在に影響はないのだろう。
それよりも、はじめにもどる。デ・ウィッテ兄弟が処刑され切り取られたペニスがお土産に売られるような展開において、影の主役はスピノザ(1632-1677)である。そしてもうひとり、スピノザの同時代人というか同年齢のフェルメール(1632-1675)も。二人が影で糸をひいているということではない。むしろ、その逆で、全く無関係なことが、この二人を負の主人公にしている。別次元、あるいはパラレルワールドに棲んでいるかのようなのだ。
時代と人物との関係をめぐるモデルにはいろいろとあるが、もっとも単純なメタファーとメトニミーもモデルで考えてみる。
たとえば新しい時代の幕開け時期に、刷新的な思想とか理論、あるいは新基盤となる実践が生まれたとしたら、それらは時代の産物ともいえ(時代とアナロジカルな関係にある)、時代とメタファー的関係にあるといえる。反映論と全く同じではないが、反映論の範疇に入るモデルかもしれない。もちろん単純なことではなく、逆もありうる。時代が過去と断絶し刷新的な運動を形成しているときに、ノスタルジックな過去の回顧的思想が生まれるかもしれない。戦乱の世に、ユートピア思想が出現することもある。またユートピア思想ともいえず、私が最悪と考えるのは、戦乱の世界に、それが終わったかのような未来に着地する、茶の湯の日々是好日の世界観である(終わってもいない戦乱の世を、終わったかのようにみせかける欺瞞戦略。コジェーヴがかつて歴史の終わりを体現していると考えた日本の茶の湯の世界)。
時代と人物、あるいは時代と現象との関係はストレートな場合と倒錯的な場合とにわけられる。作家が失恋したから、悲恋物語が生まれることもあるが、逆に、明るいハッピーエンディングの恋愛物語が生まれる可能性もある。明るい性格の作家が暗い物語を書いたり、暗い性格の作家が明るい物語を書くことは、ごくふつうにあることだ。そういう意味で、時代と人物との関係は、ストレートなものと想定すると足をすくわれることがある。
しかし、明るい時代に暗い小説というのは(たとえば昭和末期のバブル期のテレビドラマには、実に暗い内容のものが多かったことを、私はいまでも覚えている)、メタファーにならないとはいえ、関係性は強い。反動という関係性が。明るい時代だからこそ、それに警鐘をならすような暗い雰囲気の文化的産物が好まれたり、暗い時代だからこそ、それに反発して明るい文化的産物が好まれたりする。倒錯的あるいは反発的というのは裏メタファーということもいえる。
これに対してメトニミー的関係というのはどうなるのだろう。部分で全体を示す、あるいは全体で部分を示すメトニミーは、メタファーのように置き換えはおこなわれない。時代を象徴する人物というものがいるのは確かだが、それはその人物が時代のメタファーになっているからである。これに対して、すべての人物がメタファーになるのではない。ただ、その時代に属しているだけで、メタファーにはなっていない人物も多い。つまり新型コロナウィルス禍のこの時期に、何事もなかったように生活をし、感染もせず、感染も気にかけず、ただ日々是好日の世界を生きているのんきな人間(若者と書こうとしてやめた。感染して苦しんでいる、あるいはさらに後遺症に苦しんでいる若者たちも多いので)は、時代のメタファーにはなっていない。
いや、なっていると声もきこえる。
たしかに、コロナ禍で自宅療養中に死亡する気の毒な方はコロナ時代を象徴する人物である。あるいは倒産する飲食店もまたコロナ時代の象徴だし、命と金かを天秤にかけ金を選択して支持率を落としている首相もコロナ時代の象徴だろう。しかし、なにごともなかったかのように暮らす人びとも(マスクもせず、自粛生活もせず、感染を気にもかけず、外食産業を応援するつもりもまったくないまま外食しつづけるような人びと)も、また、いかにもコロナ時代ならではの愚か者であるように思われる。となると、典型的か否かに関係なく、いま、この社会で生きている人びとの思いつく限りの形態を考慮すれば、どれもがメタファーになりうるのである。となると、メトニミーはないのか。
メトニミーであって、それが同時にメタファーでもありうる例はいくつもある。アメリカでは大統領公邸をホワイトハウスという。これは建物の名称を、そのまま大統領公邸あるいは大統領、政府そのものを意味するメトニミーとして使っている。しかし、もしその建物に、ブラックハウスというような名称がついていたら、メトニミーとして使われたなかったのではないだろうか。となるとホワイトハウスは、メトニミーであると同時にメタファーでもある。ちなみに、これに対して、イギリスでは首相公邸、あるいは首相そのものをナンバー・テン(10)ということがある。首相だからナンバーワンではないかといいうなかれ。これは首相の公邸がある番地からきているメトニミーである。ここにはメトニミー/メタファーの二重性はないように思われるが、しかし、本来ナンバーワンであってもいい首相についてナンバーテンという落差なり不適説性がかえって面白がられているとすれば、これもまた負のメタファーかもしれない。
しかし、メトニミーそのものではなく、メトニミカルな関係を余儀なくされることもまた、メタファーであるといえるかもしれない。
たとえばフェルメールの絵画。フェルメールが活動していた時代は、また、激動の時代、戦争の時代でもあり、居住していたデルフトに、近いか遠いか判断のわかれるところだが、まったく遠いとはいえないハーグでは、デ・ウィット兄弟が処刑され、食肉処理された家畜のように裸で吊される事件が起きているのに、のんきに絵なんか描いている場合ではなかったかもしれない。あるいは、そうした狂乱こそ描くべきではなかったか。
ただ、その絵画は、誰もが認めるとおり、祖国が占領される危機にみまわれている戦乱の時代であることをまったく反映しない、日々是好日の室内画である。コロナ下で生きるのんきな、あるいは楽天的な日本人の室内のように、フェルメールの室内には外部は入り込まない。外部が暗示されるとしても、遠い異国の地(たとえば中国とか日本をはじめとする東洋)か、ごくありふれた日常の生活である。そこでは恋愛や不倫がいとなまれているかもしれないが、戦争の影だけは、絶対に忍び込むことがない。あるいはフェルメールが描く、手紙に関係する場面には、戦争の報告、生存者の安否の問い合わせや報告なのかもしれないが、その可能性を示唆しつつも真相あるいは真偽への拘泥は見出し得ないのである。
その絵画は、外部を閉め出す、その身振りこそが、ある意味、戦乱の時代におけるフェルメールの芸術の特徴かもしれない。つまり、戦乱、動乱については、ただ、なにもできないまま傍観することしかできないが、ただ、それがみずからの日常と芸術活動に浸食してくることだけは避けたい、なにしろ浸食されたら、どう対処してよいか見当もつかないなからである--という時代とのこの関係は、まさしくメトニミー的である。そして時代をまるごと背負う、まるごと表象する意欲も意図も、そして提起すべきヴィジョンもないまま、ただっみまるしかないという姿勢、まさにこのメトニミー的姿勢こそが、時代のメタファーになっているのではないだろうか。
そしてフェルメール芸術の、この身振り、この姿勢はまた、なにもできないまま、時代に流されてゆく人びと(それは他人事ではなく、私たち、いや私のことでもあるのだが)のメタファーともなりうる。フェルメールの時代との間で余儀なくされたメトニミー的関係は、それだけに収まらず、後世の時代の多くの人間が余儀なくされる身振りの、まさに、メタファーにもなっているのである。
そしてスピノザは? スピノザの専門家でもない私としては、フェルメールについて、専門家でもないのに好き勝手なことを述べた勢いで、さらにスピノザについて語ることは、恥の上塗りであろうから、今回は避けておくが、はたしてスピノザの思想は、この動乱の時代のメタファーなのか、あるいはメトノミ-的関係を維持しようとしているのだろうか。
2015年のオランダ映画だが、日本未公開。Amazonのプライムビデオで視聴した。何の予備知識もなく。
事実いや史実は小説よりも奇なり。歴史上のいろいろな出来事も、なんの予備知識もなく、その経過をたどると、通常の小説ではありえない、予想外の展開をして、驚かされるのではないか。たとえば「関ヶ原の合戦」にしても、私たちは、勝敗あるいは実際の経過について知り尽くしているから(ただし詳細が正しいものかどうかは判定できないとしても)、はじめてその戦いの記述に触れた者の立場に身を置くことはできないのだが、たぶん、何も知らない読者なり観客が、関ヶ原の戦いを扱った小説なり映画やドラマに接したら、予想外の展開に驚くのではないだろうか。あるいはプロットなり展開が、一定のルールに則していないと文句すら出るのではないだろうか。
同じ事は、この映画『提督の艦隊』を何に予備知識もなく視た観客――私のことだが――についてもあてはまる。純然たる海洋冒険物の映画かと、ぼんやり視ていた私は、途中から、事態が予想だにしない方向へと進んでしまい、戸惑うばかりで、映画を理解しえなくなっていた。
そうではないか、オランダで王党派を抑え、最高指導者となった共和派のリーダー、しかも、引退していた海軍提督を艦隊司令官に抜擢して英仏艦隊に勝利したこのリーダーが、どういう失政ゆえにかわからないが、怒り狂った民衆(裏で王党派が糸をひいている)によって、なぶり殺しにされて、兄ともども、おちんちんを切り取られるなどと、この映画を見ている観客の誰が想像しえただろうか。なぜ、こんなセンセーショナルな展開を必要としたのだろうかと、怒りすら覚えたのである。
ここまで書くと、オランダ人のみならず、わかる人にはわかる。
その暴徒によって処刑された二人は、ヨハン・デ・ウィットと、その兄コルネリス・デ・ウィットでしょうと。それを知らなかったお前は、アホじゃと言われても仕方がない。そう、このデ・ウィット兄弟が処刑されるまで、名前を気にもしていなかった(フィクションだと、海洋冒険物で戦争物だと勝手に思い込んでいたので)。しかし、いくらぼんやり生きている私としても、この二人の処刑という展開に戸惑いつつも、一条の光が見えてきた。覚醒の瞬間があった。ヨハン・デ・ウィットとコルネリウス・デ・ウィット。そしてもうひとつの名前が思い浮かんだ。スピノザ、と。
スピノザが、あれほど怒り批判していた暴徒化したオランダ市民によるデ・ウィッテ兄弟虐殺(トランプ支持者の議事堂侵入とつながるような、あるいはシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』をほうふつとさせるような)、その歴史的瞬間に、たとえ映画とはいえ、いま立ち会ったのだという思いが沸いてきた、そして、あらためて知ったのだ、この映画は史実に基づいているのだと。
たしかに、純然たるフィクションというには、スケールが大きすぎる。海洋での会戦の再現と、その映像化には金がかかっている。しかも、こんなにお金をかけていそうで、上映時間105分という、あっというまに終わる小ぶりな映画にまとめているのは、おしつけがましくていいと思ったのだが、オランダでの公開時には、これは3時間越えの大作映画。英国でDVD化されたとき2時間の映画となり、それが今回、amazonプライム・ビデオで1時間45分くらいの映画に縮んだ。だから、3時間をかけてじっくりみせる映画が、その半分の長さになったので、説明不足のところがでてきて、展開も唐突になったのではと理解できる。また、そもそもミヒール・デ・ロイヤル提督は救国の英雄でもあって、オランダ人なら知らぬ人もいないのであろうから、細かな説明抜きでも映画は成立するということだろう。
映画はデ・ロイテル提督が主役なのだが、前半の影の主役がデ・ウィッテ兄弟だとすれば、後半は、オラーニュ公ウィレムが影の主役で、英国のチャールズ二世も登場する――チャールズ・ダンスがチャールズ二世を演じている。チャールズ二世の犬好きとか、娼婦の愛人――ネル・グウィンか、あるいはフランスのルイ十四世から送り込まれたルイーズ・ルネ・ケルアイユかどちから、あるいはふたりともか――が登場するし、ウィレム三世の同性愛も明確に示される。その辺は、通俗的な(つまり私でも知っている)歴史理解にそうかたちで物語がつくられている。
デ・ロイテル提督は、よき家庭人であるとともに、天才的な戦略家で、劣勢のオランダ海軍をたてなおし、すぐれた作戦で、英仏の艦隊を翻弄し、オランダに勝利をもたらす英雄なのだが、デ・ウィッテ兄弟との友情があだとなり、また国民的人気を提督にさらわれたウェイラム三世の嫉妬心も手伝って、最後には、勝てる見込みのない会戦に参加させられ戦死する悲劇の英雄でもある。おそらくそれゆにえオランダでは国民的英雄となっているのだろう。
その提督に比べると、ウィレム三世は、建国の英雄であったウィレム一世(オランダの国歌のなかでも歌われている英雄)とは異なる小物であり、母が英国のチャールズ二世の妹であったこともからも、英国との関係が深く、英国のチャールズ二世(チャールズ・ダンスのあくの強い演技が印象的だが)のいいなりなっている,ある意味、裏切り者である。しかもそのチャールズ二世も、フランスが起こす戦争に対しては、これを支援するという密約をルイ一四世と結んでいる裏切り者である。
チャールズ二世は、英国の王政復古の国王であり、フランスからの帰国に際しては、国民がこぞって、その復帰を盛大に祝ったというのが、いくら共和制時代が息詰まるものであったとしても、よくもまあ、こんなクソみたいな王を迎えたものだと、なさけなくなる。あるいは、国民が瞞されたのかもしれないが、国民のことを歯牙にもかけぬ無能な王のくせ……、いや、なにか八つ当たりをするようなことにもなるので、やめておこう。
結局、チャールズ二世の後継者となるのは、ジェイムズ二世ではなく、このウィレム三世であることも皮肉であり、ウィリアム三世はオランダと英国の国王となって、英仏の同盟を分断して、英仏の対立関係を構築することに成功したのだが、肝心なオランダは、かつては小国であっても、イングランドと覇を競う海洋国であったのが、ウィリアム三世が英国王に即位してからは英国に従属することになり、国力を失ってゆく。ウィレム三世は、ウィリアム三世となってバケの皮が剥がれたというべきか。ウィレム三世も、ある意味、オランダ国民を裏切っていたのである。また英国民も、また、よくもまあ、こんなクソみたいな男を国王にして名誉革命などと浮かれていたものだと、今の日本人と同じく、哀れですらある。
ただオランダのウィレム三世は、描かれ方によっては、大国を手玉にとって自国を守った英雄ともなるのだが、この映画では、そうした観点はまったくなく、ほんとうに裏切り者の卑劣な小心者である。たとえば侵略するフランス軍に対して、運河を壊し、国土を水浸しにして撃退するという戦略は、功を奏したこともあって、ウィレム三世の思い切った奇策として称賛されることもあるが、この映画では、エクセントリックな素人戦略として必ずしも称賛されていないようだ。まあ、オランダ人にとって、遠い過去の歴史であるから、ウィレム三世が悪く描かれようが、現在に影響はないのだろう。
それよりも、はじめにもどる。デ・ウィッテ兄弟が処刑され切り取られたペニスがお土産に売られるような展開において、影の主役はスピノザ(1632-1677)である。そしてもうひとり、スピノザの同時代人というか同年齢のフェルメール(1632-1675)も。二人が影で糸をひいているということではない。むしろ、その逆で、全く無関係なことが、この二人を負の主人公にしている。別次元、あるいはパラレルワールドに棲んでいるかのようなのだ。
時代と人物との関係をめぐるモデルにはいろいろとあるが、もっとも単純なメタファーとメトニミーもモデルで考えてみる。
たとえば新しい時代の幕開け時期に、刷新的な思想とか理論、あるいは新基盤となる実践が生まれたとしたら、それらは時代の産物ともいえ(時代とアナロジカルな関係にある)、時代とメタファー的関係にあるといえる。反映論と全く同じではないが、反映論の範疇に入るモデルかもしれない。もちろん単純なことではなく、逆もありうる。時代が過去と断絶し刷新的な運動を形成しているときに、ノスタルジックな過去の回顧的思想が生まれるかもしれない。戦乱の世に、ユートピア思想が出現することもある。またユートピア思想ともいえず、私が最悪と考えるのは、戦乱の世界に、それが終わったかのような未来に着地する、茶の湯の日々是好日の世界観である(終わってもいない戦乱の世を、終わったかのようにみせかける欺瞞戦略。コジェーヴがかつて歴史の終わりを体現していると考えた日本の茶の湯の世界)。
時代と人物、あるいは時代と現象との関係はストレートな場合と倒錯的な場合とにわけられる。作家が失恋したから、悲恋物語が生まれることもあるが、逆に、明るいハッピーエンディングの恋愛物語が生まれる可能性もある。明るい性格の作家が暗い物語を書いたり、暗い性格の作家が明るい物語を書くことは、ごくふつうにあることだ。そういう意味で、時代と人物との関係は、ストレートなものと想定すると足をすくわれることがある。
しかし、明るい時代に暗い小説というのは(たとえば昭和末期のバブル期のテレビドラマには、実に暗い内容のものが多かったことを、私はいまでも覚えている)、メタファーにならないとはいえ、関係性は強い。反動という関係性が。明るい時代だからこそ、それに警鐘をならすような暗い雰囲気の文化的産物が好まれたり、暗い時代だからこそ、それに反発して明るい文化的産物が好まれたりする。倒錯的あるいは反発的というのは裏メタファーということもいえる。
これに対してメトニミー的関係というのはどうなるのだろう。部分で全体を示す、あるいは全体で部分を示すメトニミーは、メタファーのように置き換えはおこなわれない。時代を象徴する人物というものがいるのは確かだが、それはその人物が時代のメタファーになっているからである。これに対して、すべての人物がメタファーになるのではない。ただ、その時代に属しているだけで、メタファーにはなっていない人物も多い。つまり新型コロナウィルス禍のこの時期に、何事もなかったように生活をし、感染もせず、感染も気にかけず、ただ日々是好日の世界を生きているのんきな人間(若者と書こうとしてやめた。感染して苦しんでいる、あるいはさらに後遺症に苦しんでいる若者たちも多いので)は、時代のメタファーにはなっていない。
いや、なっていると声もきこえる。
たしかに、コロナ禍で自宅療養中に死亡する気の毒な方はコロナ時代を象徴する人物である。あるいは倒産する飲食店もまたコロナ時代の象徴だし、命と金かを天秤にかけ金を選択して支持率を落としている首相もコロナ時代の象徴だろう。しかし、なにごともなかったかのように暮らす人びとも(マスクもせず、自粛生活もせず、感染を気にもかけず、外食産業を応援するつもりもまったくないまま外食しつづけるような人びと)も、また、いかにもコロナ時代ならではの愚か者であるように思われる。となると、典型的か否かに関係なく、いま、この社会で生きている人びとの思いつく限りの形態を考慮すれば、どれもがメタファーになりうるのである。となると、メトニミーはないのか。
メトニミーであって、それが同時にメタファーでもありうる例はいくつもある。アメリカでは大統領公邸をホワイトハウスという。これは建物の名称を、そのまま大統領公邸あるいは大統領、政府そのものを意味するメトニミーとして使っている。しかし、もしその建物に、ブラックハウスというような名称がついていたら、メトニミーとして使われたなかったのではないだろうか。となるとホワイトハウスは、メトニミーであると同時にメタファーでもある。ちなみに、これに対して、イギリスでは首相公邸、あるいは首相そのものをナンバー・テン(10)ということがある。首相だからナンバーワンではないかといいうなかれ。これは首相の公邸がある番地からきているメトニミーである。ここにはメトニミー/メタファーの二重性はないように思われるが、しかし、本来ナンバーワンであってもいい首相についてナンバーテンという落差なり不適説性がかえって面白がられているとすれば、これもまた負のメタファーかもしれない。
しかし、メトニミーそのものではなく、メトニミカルな関係を余儀なくされることもまた、メタファーであるといえるかもしれない。
たとえばフェルメールの絵画。フェルメールが活動していた時代は、また、激動の時代、戦争の時代でもあり、居住していたデルフトに、近いか遠いか判断のわかれるところだが、まったく遠いとはいえないハーグでは、デ・ウィット兄弟が処刑され、食肉処理された家畜のように裸で吊される事件が起きているのに、のんきに絵なんか描いている場合ではなかったかもしれない。あるいは、そうした狂乱こそ描くべきではなかったか。
ただ、その絵画は、誰もが認めるとおり、祖国が占領される危機にみまわれている戦乱の時代であることをまったく反映しない、日々是好日の室内画である。コロナ下で生きるのんきな、あるいは楽天的な日本人の室内のように、フェルメールの室内には外部は入り込まない。外部が暗示されるとしても、遠い異国の地(たとえば中国とか日本をはじめとする東洋)か、ごくありふれた日常の生活である。そこでは恋愛や不倫がいとなまれているかもしれないが、戦争の影だけは、絶対に忍び込むことがない。あるいはフェルメールが描く、手紙に関係する場面には、戦争の報告、生存者の安否の問い合わせや報告なのかもしれないが、その可能性を示唆しつつも真相あるいは真偽への拘泥は見出し得ないのである。
その絵画は、外部を閉め出す、その身振りこそが、ある意味、戦乱の時代におけるフェルメールの芸術の特徴かもしれない。つまり、戦乱、動乱については、ただ、なにもできないまま傍観することしかできないが、ただ、それがみずからの日常と芸術活動に浸食してくることだけは避けたい、なにしろ浸食されたら、どう対処してよいか見当もつかないなからである--という時代とのこの関係は、まさしくメトニミー的である。そして時代をまるごと背負う、まるごと表象する意欲も意図も、そして提起すべきヴィジョンもないまま、ただっみまるしかないという姿勢、まさにこのメトニミー的姿勢こそが、時代のメタファーになっているのではないだろうか。
そしてフェルメール芸術の、この身振り、この姿勢はまた、なにもできないまま、時代に流されてゆく人びと(それは他人事ではなく、私たち、いや私のことでもあるのだが)のメタファーともなりうる。フェルメールの時代との間で余儀なくされたメトニミー的関係は、それだけに収まらず、後世の時代の多くの人間が余儀なくされる身振りの、まさに、メタファーにもなっているのである。
そしてスピノザは? スピノザの専門家でもない私としては、フェルメールについて、専門家でもないのに好き勝手なことを述べた勢いで、さらにスピノザについて語ることは、恥の上塗りであろうから、今回は避けておくが、はたしてスピノザの思想は、この動乱の時代のメタファーなのか、あるいはメトノミ-的関係を維持しようとしているのだろうか。
posted by ohashi at 22:01| 映画・コメント
|
2020年01月11日
『パラサイト』2
一般上映がはじまったばかりだが、先行上映でみてしまったとはいえ、まだネタバレはしないので、パラサイトについての一般論を。
トリクルダウン理論というのがある。トリクルダウン理論(trickle-down effect )とは、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)」とする経済理論であるが、立証されていないため「トリクルダウン仮説」とも呼ばるとWikipediaにある。
この理論では、富を蓄積するのは上層の富裕層である。そして富裕層が富めば富むほど、その富のおこぼれを貧困層は受け取ることになり、最終的に貧困層はなくなるということだが、現在、世界中で中間層が没落し、半地下生活を余儀なくされ、貧困層はふえることこそあれ、減ることのない格差社会ができあがっているときに、このトリクルダウン理論は、仮設どころか、ただのイデオロギーにすぎなくなっている。つまり大嘘だということである。
ただ留意すべきは、このトリクルダウン理論は、パラサイト理論でもあるということだ。富裕層に寄生していれば貧困層もなんとやっていける。富裕層の失敗は貧困層にもろにはねかえってくるのだが、ただ、富裕層が元気で潤っていれば、貧困層もそれに寄生して安泰であるという理論である。
パラサイトとは、自分で汗水たらし頭脳や身体を酷使して収益をあげ金銭を稼いだり資産を増やしたりせず、富をもっている者に寄生して、そこから富を吸い取る犯罪者的な卑怯者であるとすれば、ほんとうのパラサイトは誰かということになる。
お金を持っている人間から金をしぼりとればいいというのは古典的な社会システム論である。現代の社会では、富裕層が貧困層からお金を吸い取っている。かつて『マトリックス』という映画があって、未来の地球では人間は人間乾電池として体内の微弱電流を利用されるために、容器に入れら眠らされている。眠りのなかで地球上で通常の生活を送っているという夢をみせられる。未来の地球上の暮らしは幻で、ほんとうの現実は、人間乾電池として水槽に浮かんでいる人間たちの群れとなる。
確かに人間の体内には微弱電流があるのだが、それをいくらあつめたところで巨大コンピューターを動かせるほどの電気が生まれるわけはないという、映画に大差いる批判があったが、たぶんその批判は正しいのだろう。しかし、これはコンピュータを動かす話ではなくて、現代の経済システムの話である。現在は、世界中にたくさんいる貧困層から、さらにお金を搾り取るシステムである。貧民ひとりひとりから搾り取れるお金はたかがしれている。しかしそれでもたくさんの貧民から少額でもしぼりとれれば、巨万の富になる。貧しい者は骨の髄まで搾り取られる。なにもしない富裕層から、苦しむこともなく、必死で働くこともないひとにぎりの富裕層が、貧困層からしぼりとれるだけしぼりとる。貧困層がふえればふえるほど収益はあがる。富裕層は肥え太る。そう、富裕層こそ、唾棄すべきパラサイトなのだ。このパラサイトを社会が一掃しない限り、人類に未来はないだろう。
庶民(中間層、貧困層)が自分はパラサイトだと卑下しているうちには、搾取されるだけである。真のパラサイトは富裕層である。庶民は、自分たちがパラサイトではなく、パラサイトの犠牲者であることを自覚することが必要であろう。一歩踏み出すためにも。
トリクルダウン理論というのがある。トリクルダウン理論(trickle-down effect )とは、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)」とする経済理論であるが、立証されていないため「トリクルダウン仮説」とも呼ばるとWikipediaにある。
この理論では、富を蓄積するのは上層の富裕層である。そして富裕層が富めば富むほど、その富のおこぼれを貧困層は受け取ることになり、最終的に貧困層はなくなるということだが、現在、世界中で中間層が没落し、半地下生活を余儀なくされ、貧困層はふえることこそあれ、減ることのない格差社会ができあがっているときに、このトリクルダウン理論は、仮設どころか、ただのイデオロギーにすぎなくなっている。つまり大嘘だということである。
ただ留意すべきは、このトリクルダウン理論は、パラサイト理論でもあるということだ。富裕層に寄生していれば貧困層もなんとやっていける。富裕層の失敗は貧困層にもろにはねかえってくるのだが、ただ、富裕層が元気で潤っていれば、貧困層もそれに寄生して安泰であるという理論である。
パラサイトとは、自分で汗水たらし頭脳や身体を酷使して収益をあげ金銭を稼いだり資産を増やしたりせず、富をもっている者に寄生して、そこから富を吸い取る犯罪者的な卑怯者であるとすれば、ほんとうのパラサイトは誰かということになる。
お金を持っている人間から金をしぼりとればいいというのは古典的な社会システム論である。現代の社会では、富裕層が貧困層からお金を吸い取っている。かつて『マトリックス』という映画があって、未来の地球では人間は人間乾電池として体内の微弱電流を利用されるために、容器に入れら眠らされている。眠りのなかで地球上で通常の生活を送っているという夢をみせられる。未来の地球上の暮らしは幻で、ほんとうの現実は、人間乾電池として水槽に浮かんでいる人間たちの群れとなる。
確かに人間の体内には微弱電流があるのだが、それをいくらあつめたところで巨大コンピューターを動かせるほどの電気が生まれるわけはないという、映画に大差いる批判があったが、たぶんその批判は正しいのだろう。しかし、これはコンピュータを動かす話ではなくて、現代の経済システムの話である。現在は、世界中にたくさんいる貧困層から、さらにお金を搾り取るシステムである。貧民ひとりひとりから搾り取れるお金はたかがしれている。しかしそれでもたくさんの貧民から少額でもしぼりとれれば、巨万の富になる。貧しい者は骨の髄まで搾り取られる。なにもしない富裕層から、苦しむこともなく、必死で働くこともないひとにぎりの富裕層が、貧困層からしぼりとれるだけしぼりとる。貧困層がふえればふえるほど収益はあがる。富裕層は肥え太る。そう、富裕層こそ、唾棄すべきパラサイトなのだ。このパラサイトを社会が一掃しない限り、人類に未来はないだろう。
庶民(中間層、貧困層)が自分はパラサイトだと卑下しているうちには、搾取されるだけである。真のパラサイトは富裕層である。庶民は、自分たちがパラサイトではなく、パラサイトの犠牲者であることを自覚することが必要であろう。一歩踏み出すためにも。
posted by ohashi at 19:07| 映画・コメント
|