2023年01月03日

スターの誕生日 1月3日

「1月3日、有名人の誕生日:メル・ギブソンからフローレンス・ピューまで」
のタイトルで以下のような記事があった。

コレクトミーCollectme編集部 – 1月3日

1月3日は、映画にとって特別な日です。この日、多くの映画スターが誕生日を迎える。

まずは、本日2023年1月3日に67歳を迎えるメル・ギブソンから。リーサル・ウェポン・シリーズ、ホワット・ウーマン・ウォント、サインなど多くのヒット作に出演し、ブレイブハートやアポカリプトなどの優れた監督でもある彼は、今でもハリウッドで最も高く評価されているスターの一人である。

『ブラック・ウィドウ』のイェレナ・ベローヴァ役やミニシリーズ『ホワイエ』の出演で一般にも知られている美しいフローレンス・ピューが、27歳の誕生日を迎えた。


この記事、まずメル・ギブソンのところで『ホワット・ウーマン・ウォント』という作品が例に上がっている。一瞬、そんな作品があったのかと考えたが、これは日本では『ハート・オブ・ウーマン』という日本独自のタイトルでよく知られている作品だろうと思った。原題はWhat Women Want。カタカナにするのなら、『ホワット・ウィメン・ウォント』でしょう。

しかし、それよりもむしろフローレンス・ピューで伝えられているミニシリーズの『ホワイエ』というのは何だ?

そもそも「『ブラック・ウィドウ』のイェレナ・ベローヴァ」というのは誰のことだ。

Yelena Belovaは日本では「ヤレナ・ベラーヴァ」、「イリーナ・ベロワ」、「エレーナ・ベロワ」(映画版)など、表記に揺れがあるが、「イェレナ・ベローヴァ」はない。しかし、もともと揺れのある表記なので、これ以上は問題にしないが、ただ、12月の暮れに、映画『ドント・ウォリー・ダーリン』(フローレンス・ピュー主演)を観たばかりの私にとって、主役でもない映画を紹介するだけのこの記事は、その薄っぺらさに唖然とする。

フローレンス・ピューのシネマとグラフィー:

『フォーリング 少女たちのめざめ』The Falling(2014)
『レディ・マクベス 17歳の欲望』Lady Macbeth (2016)
『トレイン・ミッション』The Commuter(2018)
『アンソニー・ホプキンスのリア王』King Lear(2018)
『アウトロー・キング スコットランドの英雄』Outlaw King(2018)
『呪われた死霊館』Malevolent(2018)
『ファイティング・ファミリー』Fighting with My Family(2019)
『ミッドサマー』Midsommar(2019)
『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』Little Women(2019)
『ブラック・ウィドウ』Black Widow(2021)
『ドント・ウォーリー・ダーリング』Don't Worry Darling(2022)
『聖なる証』The Wonder(2022)

テレビ:ミニシリーズ
『リトル・ドラマー・ガール 愛を演じるスパイThe Little Drummer Girl』(2018)
『ホークアイ』Hawkeye(2021)


テレビのミニシリーズを除くと、『呪われた死霊館』はつい最近まで〈死霊館シリーズ〉と勘違いしていたため、まだ見てない。『トレイン・ミッション』は(おそらく映画館で)観たのだが、その当時、フローレンス・ピューのことを知らなかったので、どこで出ていたのか記憶にない。あとは観ているのだが、シェイクスピアの『リア王』のコーディリアから、殺し屋や殺人鬼、さらには女子プロレスラーまで演ずることのできる女優は、めったにいない。その意味で才能のある若手俳優である。本年度公開の『ドント・ウォーリー・ダーリン』は彼女の最高の演技と称賛されたかと思うと、次の『聖なる証』でも、これまでで最高の演技と称賛されるという具合に評価は右肩上がり。グレタ・ガーウィク監督の『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』では若草物語の四人姉妹のうち末娘のエミリー役なのだが助演女優賞にノミネートされた。

そのため主役でもない『ブラック・ウィドウ』だけを紹介し、あとはテレビのミニシリーズひとつを紹介するという記事は、頭がおかしいか、書いた人間がまったく映画や映画スターについてまったく無知なのか、あるいは完璧に無能なのかわからないがひどすぎる。

フローレンス・ピューが出演している『ホワイエ』というミニシリーズは、今現在、私は見つけられなかった。まさかとは思う、ほんとうにまさかとは思うのだが、彼女が出演しているミニシリーズ『ホークアイ』を、『ホワイエ』と間違えたのかもしれない。まさか、そんなミスはしないと思うのだが……。

フローレンス・ピュー主演の英国のミニシリーズには、『リトル・ドラマー・ガール 愛を演じるスパイ』(2018)がある。もしテレビのミニシリーズに言及するのなら、あるかどうかわからない、そして主役でもない『ホワイエ』ではなく、この『リトル・ドラマー・ガール』だろう。

この記事を書いた人間、ほんとうに無能すぎる。即刻、交替させたほうがいい。
posted by ohashi at 23:07| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2022年10月27日

グッド・ナース

2022年製作 121分 アメリカ
原題:The Good Nurse

この映画のなかで、ジェシカ・チャスティン扮するICU担当の看護師のエイミーが、心臓病の検査をうけたあと、医院で支払うお金が、健康保険に入っていないため980ドルといわれて驚いた。円安で1ドル150円で換算すると14万7000円。一回の検査だけで14万円というのは高い。日本で保険に入っていない場合でも、検査と診断で高くて1万を超える程度だろう。アメリカで病気になったら金持ち以外は破産する。

しかしこれはアメリカでの事情だとしても、医療の怖さはこの映画はしっかり堪能させてくれる。

チャールズ・カレンCharles Cullen(1960-)という、400人は殺したであろうというシリアル・キラーがアメリカにいたとは、恥ずかしながら知らなかった。看護師であるカレンは、インスリンの過剰投与あるいはジゴキシンのような心臓病薬を投与して患者を殺している。動機なき無差別殺人である可能性もある。

問題は、カレンの連続殺人がカムフラージュのように病院環境のなかでみえなくなってしまったことだろう。それは病院は病気を治す場であると同時に患者が死ぬ場でもある。そういう意味で病院において患者の死は日常茶飯事とまでは言えないが、ありふれた光景であり、出来事性はない。ふつうなら不審死である場合も、病院のなかでは自然死となる。

カレンが怪しまれて病院を辞めさせられてもすぐに別の病院に雇われていたのは、慢性的な看護師不足が原因である。そのうえさらに病院側でもいくら不審死をだし、また看護師が怪しいとにらんでも、病院の不祥事隠蔽体質により、そのことが表沙汰になることはない。結局、多くの病院を転々としても、その理由が隠されている以上、病院側も何もわからないまま雇い、問題が起きたら追放することを繰り返すだけである。病院は、ある意味閉鎖病棟であり、そのなかで400人も殺したシリアル・キラーが活動する屍人荘である。

映画の物語そのものは、ひねりはない。チャールズ・カレンという実在したシリアル・キラーを扱っている実録物映画なので、カレンについて知っている観客にとって、ひねりなど必要はない。私のように、カレンについて何も知らなかった無知な観客にとって、エディ・レドメイン扮するナースは、誤解され中傷を受けているが、ほんとうは善良なナースで、真犯人は別にいるのではないかと思ったりしたし、それほど、エディ・レドメインとジェシカ・チャスティンが扮する二人のナース間に生ずる化学反応に違和感はなかった。また犯人が家庭に善人面して入り込むというのも、お約束の展開だが、ミステリーではないので、ある意味、淡々として描かれ、そこを掘り下げたり広げたりすることがなかったのも、良い点にふくめられる。

このこともふくめこの映画は、ジェシカ・チャスティンとエディ・レドメインの超絶演技と、事件に向き合い真実をあぶり出そうとする緊張感、そして静謐な場面にこそふさわしいじわじわと迫りくる恐怖(ただし映画はミステリーでもホラーでもないが)によって観客を最後まで魅了する。静謐な場面が淡々とつづいたり、暗くてよく見えない場面が多かったりするが、それでもまったく退屈することはなく、かえって緊張感がたかまった。

最後まで動機をあかさない犯人を演ずるのは大変だという声もナット上にあったが、映画館で予告編をみたとき、エディ・レドメインとは気づかなかったくらい、レドメインは変貌していた。カレンの写真は多く残っているが、カレンの容貌や話し方などをできるかぎり再現しようとしたことがうかがわれる。あとカレンは、キラー・ナースと呼ばれていたらしい。映画はジェシカ・チャスティン扮するグッド・ナースと、エディ・レドメイン扮するキラー・ナースとの戦いであり、また友情の物語でもあった。


posted by ohashi at 00:25| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2022年06月24日

三姉妹

現在公開中の韓国映画『三姉妹』について、監督へのインタヴュー記事が、文春オンラインに、「弟がいるのだから、この映画は『三姉妹』ではない」という声も…男性映画監督があえて“弟”の存在を切り離したわけ」という見出しでアップされた(執筆 月永理絵2022年6月24日)

韓国では近年、『はちどり』をはじめ社会における女性の生き方や苦しみに光をあてた「女性映画」の名作が次々に生まれている。イ・スンウォン監督の『三姉妹』(公開中)もそのひとつ。
〔中略〕
劇作家・演出家としても活躍し、これが長編映画3作目となるイ・スンウォン監督に、この映画がどのようにして生まれたのか、お話をうかがった。【記事の最後に、次のような説明がある。Lee Seung-Won/1977年生まれ。初長編『コミュニケーションと嘘』(15)が釜山国際映画祭を始め多くの映画祭で話題を集める。『三姉妹』は長編三作目。演出家・劇作家としても活躍する。】
〔中略〕
――三人姉妹をテーマにした映画では、イングマール・ベルイマン監督『叫びとささやき』(1972年)や、ウディ・アレン監督『ハンナとその姉妹』(1986年)などがあります。この物語を三人の話にしたのには、どんな理由があったのでしょうか。

 最初は、ムン・ソリさんが演じる次女を中心に脚本を書き進め、それならキム・ソニョンさんにその姉を演じてもらおうと考えました。そうするうち、ここにもう一人素晴らしい女優が加わってくれたらさらに深みが増すのではと思いついたんです。三人の女性が登場することによってそれぞれの性格が際立ち、姉妹の生き方をよりしっかり見せられるはずだと。それと、韓国では三人姉妹というのはわりと普遍的な家族の姿だから、という理由もありました。

――一方で、三人の姉妹と末の弟のジンソプとでは、その描き方に大きな隔たりがありますね。

 周りの人たちからも「弟がいるのだから、この映画は『三姉妹』ではなく『四姉弟』というタイトルが正しいんじゃないか」という意見を何度かもらいました。ですが、三姉妹と弟との間に大きな隔たりがあることこそが、重要だったんです。

 ジンソプは、三人の姉たちとは違い、今では幽霊のような存在になっています。そういう存在だからこそ父親の誕生日の席であのような振る舞いができたわけですが、いずれにしても、三姉妹と彼の存在は切り離して考えたかった。三姉妹が一生懸命トラウマから逃れようとしてもその記憶から離れられないのは、まさにジンソプという存在があるからです。彼女たちは傷を癒し、未来に向けて生きていかなければいけない。その使命の象徴として、ジンソプという存在を描いたつもりです。
〔以下略〕


この映画は見ていないので、インタヴューの内容について、映画を観る時には参考になるだろうという程度のことしかいえないのだが、気になったのは、「周りの人たちからも「弟がいるのだから、この映画は『三姉妹』ではなく『四姉弟』というタイトルが正しいんじゃないか」という意見を何度かもらいました」というところ。なるほど3人の姉妹に末の弟だから「四姉弟」という表記は、正しいのかもしれないが、しかし、姉妹が4人以上いたら問題だが、3人の姉妹がいたら、たとえほかに男性の兄弟が10人いようが、「三姉妹」と呼ぶのは、なんら問題ない。三人姉妹じゃないという文句をつける方がおかしいし、それをまた、重要なトピックとして記事の見出しに掲げるのもおかしい。男性の末っ子のことを隠した、別格にしたということもおかしい。

ちなみにインタヴューでも話題になっていたチェーホフの『三姉妹』(『三人姉妹』とも表記)でも、長女と次女の間にひとり男の兄弟がいる。そのためチェーホフに正しくは「三姉妹」ではなく「四姉・兄/弟・妹・妹」にすべきと文句をいうバカはいないだろう。というか男の兄弟がいても、三人の女の姉妹がいたら、三姉妹である(ただし女の姉妹が4人以上いたら、絶対に三姉妹とはいえない)。

ちなみにちなみに、NHKの大河ドラマの初期の作品に『三姉妹』というのがあった。1967年1月1日から12月24日に放送された5作目の大河ドラマ。ずいぶん昔のドラマだが、私は子どもの頃、リアルタイムで見ていた記憶がある。

三人姉妹は、むら/岡田茉莉子、るい/藤村志保、雪/栗原小巻。当時はあまり知られていなかった栗原小巻が、このドラマを通して人気女優へと変貌を遂げたが、この三姉妹にも兄がいた。芦田伸介演ずる永井采女(ながい うねめ)は、長男で三姉妹の兄にあたる。このことは私の母が渋い役どころの芦田伸介の大ファンであったこと(ちなみに私の父も、また私も男の渋さとは全く縁のない男性であったし、いまもそうなのだが)、そして役名が「采女(うねめ)」と、女性のような名前であったことから、よく覚えている。これも『三姉妹』の表記をやめて「正しい」『四兄姉妹』の表記としたら、なんと滑稽なことか。

なお三姉妹といって思い出すのは、ドキュメンタリー映画『三姉妹 雲南の子』(原題:三姊妹)。王兵(ワン・ビン)監督による2012年の香港・フランス合作のドキュメンタリー映画。三人の幼い姉妹のほかに男の兄弟がいるということはない。「一人っ子政策」の中国で、三人以外にさらに子供がいたら、もっとたいへんなことになる。映画のなかでは明示的に、あるいは特に問題視されていなかったが、三人の姉妹の存在というのは、同時代の中国においては許されざる事態であったはずだ。だが、そうであるがゆえに人里離れた寒村の幼い三人姉妹の姿が、繁栄する一人っ子政策の中国に対する物言わぬオルターナティヴとして屹立することにもなった。

posted by ohashi at 15:51| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2022年06月16日

前途有望な若者


1 前途有能な若い男性


『リゾーリ&アイルズ』を話題にしたので、その第7シーズン(ファイナルシーズン)で気になることがあったことに触れてみたい。とはいえ本編そのものではなく、レヴューアーの反応のほうである。

そのレヴューアーの語り口は、穏やかで冷静で一見知的であるようにみえるのだが、基本的にサイコである、というか女性への差別意識がにじみ出る、薄気味悪いレヴューである--気色悪いので、そのほんの一部だけを引用する。

で、そのレヴューは、最終回を迎えたこのシリーズを、褒めちぎった後、一転して、主人公ジェーン・アイルズの人格攻撃に移行する。たとえば

反面、敵対するものには容赦ない。ホイトはともかく、モーラ誘拐犯の実行犯然り、アリス然り。アリスが彼女を憎悪した原因もここら辺にあるのかもしれない。
今シーズン7話のあるFBI候補生も然り。正直このエピは後味悪かった。


ホイトというのは、シリーズはじめから登場するサイコ。ジェーンが襲われても射殺しなかったことから、その後、何度も直接的・間接的にジェーンを襲う。彼女が容赦なく殺さなかったゆえにホイトが暗躍する。「敵対するものには容赦」ないというのは、このレヴューアーの悪意ある事実誤認である。そもそも敵対する者には容赦しないという言い方そのものが、ジェーンが私怨で犯人を殺しているように示唆する点で悪意丸出しなのだが、兇悪な殺人犯でありパブリックエネミーでもある犯人だからこそジェーンに射殺されるというふうにドラマを作らないと後味が悪くなる。私怨性は、共感を引き起こすために必要とされるが、正義がそれにふりまわされてはならないというのがドラマ作りの鉄則であって、このドラマシリーズは、レヴューアーが指摘しているような型破りなことをしているわけではない。

そもそもこのレヴューアー、最初にシリーズ全体を褒めていながら、実際には、大嫌いなのだ。おそらくリゾーリのほうに嫌悪すら抱いている。ならば、頼まれてもいないのだから、見るのをやめればいいのだが、悪口をいわないとどうしても気が済まないらしい。そして批判的言辞を吐くことで、自分が優位に立っているような妄想にひたりたいのだろう。

このレヴューアーが馬脚を現すのは、「今シーズン7話のあるFBI候補生も然り。正直このエピは後味悪かった」というコメントである。このレヴューアーは、最後にも念を押している「ともあれ、結末には満足している。/前述7話で出会ったFBI捜査官との展開は余計に思えるが」と。

このシーズンはファイナルシーズンであり、リゾーリ&アイルズは、それぞれボストン署を離れて別々の道を歩みはじめ、刑事と検視官というコンビが解消することになる。そしてそれがシリーズ全体の終わりとなる。転機となるのがリゾーリがFBI捜査官養成学校のゲスト講師として呼ばれ、捜査官候補生たちに授業をするというエピソードである(リゾーリは最後には刑事を辞め、FBI捜査官養成学校の講師となる)。このときボストン署では事件の捜査が進行中だが、リゾーリは間接的にしかそれにかかわれない。そのかわり授業を通して、捜査官候補生のなかに、公然と女性蔑視発言をする男子候補生を発見する。この男は、当然、リゾーリに対しても侮蔑的敵対的姿勢をとる。

たとえば廊下でリゾーリと立ち話をしているとき、この候補生は、自分の持っていたペンをわざと床に落とす。そのとき近くを通りかかった女性候補生が床からペンを取り上げて、落ちましたよとそのペンを渡すので事なきを得るのだが、私は知らなかった、男が落としたものは、女性が拾って男に渡すというのが正しい男女の在り方だと女性差別主義者は考えているらしいことを。この候補生はリゾーリにペンを拾わせて男女の優劣を思い知らせてやろうとしたのである――女子候補生がいたことで、この試みは失敗するのだが、リゾーリ自身は、拾ってやることを最初から断固拒否していたようにみえる。

胸糞が悪くなるような話だが、レヴューアーが後味が悪いと言っているのは、このことではない。リゾーリは、この候補生の過去を調べてみて、彼の同期だったか、すぐ下だったか忘れたが、優秀な女性候補生がいたのだが、彼女の優秀さをねたんで、この候補生は、嫌がらせをして自殺に追い込んだらしい。そのため、この候補生は、実は、悪辣な女性差別主義者ではないかという疑いが浮上する。女性差別主義者は社会に存在する、しかし、女性差別主義者がFBIの捜査官になるのは好ましいことではないというか、あってはならないことである。授業の最終日、授業後、リゾーリは、この候補生と話をする。経験でつちかった巧みな尋問術で、相手から女性への侮蔑発言や過去における女性候補生への嫌がらせの証言を引き出す。それを聞いていたFBI養成学校の教官は、警備員に彼を拘束させ、学校から追放することになる。

これがレヴューアーにとって後味の悪いものだったのだ。ここにいたのだ、女性差別主義者が。彼は、優秀な女性や強い女性に対して必要以上に威圧性を感じ、そうした女性を嫌悪するのだ--いやそうした女性たちを死に至らしめてもかまわないと考えている。このレヴューアーにとって驚きだったのは、自分と同じ嫌悪感を抱いた人間が、後進国の日本ではまわりにいっぱいいるのだが、ドラマのなかでは弁護の余地なき悪人として扱われていたことである。自分が疑いもせず、罪悪感も抱いていなかった、ひょっとしたら後進国日本では褒められることすらあれ、よもやけなされることのない女性憎悪が、ドラマのなかで問題視され、そうした女性憎悪の信奉者が、犯罪者扱いされたのだから、それはさぞや、胸糞が悪く、後味が悪かっただろうことは想像にかたくない。

さらにいえばこのファイナルシーズン第7話で、リゾーリがFBI捜査官候補生たちに授業をするのは、彼女がボストン署の有能な刑事であることもさりながら、彼女に向けられるかもしれない憎悪感を手掛かりに、女性捜査官ひいては女性全般に対し嫌悪感を抱く男性候補生を摘発するためだったのかもしれず、リゾーリの授業は、みごとにその目標を達成したといえるのかもしれない。

そしてこのドラマそのものが、このエピソードを通して、このレヴューアーのような女性差別主義者・ミソジニストを摘発する機能をはたしたのかもしれない。ドラマシリーズ全体をべた褒めしながら、リゾーリに対する人格批判を、鬼の首を採ったように繰り返す、このレヴューアーは、このドラマに出てくるサイコパス、あるいはこのFBI捜査官候補生である傲慢で差別的な若者と実によく似ている。自分の同類が犯罪者扱いされたのだから、後味が悪くなるのは当然だろう。

【ちなみに、リゾーリは、授業のなかで、自分が大学に入学を許可されていたのだが、大学に行かなかったのは、早く捜査官になって現場で経験を積みたかったからだと候補生たちに説明している。ところがレヴューアーは、実家が裕福ではなく、大学の授業料が払えなかったからだと説明し、リゾーリが、イタリア系の家族のマフィア的しがらみの犠牲者でありまた加害者であるというような差別的コメントを書いているのだが、大学に行かなかった理由は、長いドラマシリーズのなかで明確に説明されていなかったように思う。ただし記憶は定かではないので、授業料面での困難のために入学しなかったという説明があったのかもしれない。とするなら、シリーズのなかで矛盾した説明が示されたことになる(まあ、よくあることだが)。しかし、アメリカの場合、優秀な学生には大学が金を出す(奨学金その他の方法で)。優秀なリゾーリだったら大学からお金がもらえたのではないかと思われる。優秀な学生なら貧乏だから学業が続けられないというのは理由にならない。後進国の日本とは違うのである。】

結局、この『リゾーリ&アイルズ』のファイナルシーズンのレヴューアーの、主人公のキャラクターに対する、したり顔、どや顔による攻撃が、ゆくりなくもあぶりだすのは、レヴューアー自身の女性差別・女性嫌悪のありようだろう。それは優秀な女性、有能な女性を快く思わない男性のねたみによる攻撃にほかならない。その攻撃が犯罪へとエスカレートするのを、主人公リゾーリは防ぐことができたのだが、現在の社会は、アメリカであれ、後進国の日本であれ、それを防ぐことができていないばかりか、犯罪を放置する場合も多いのである。

2 プロミシング・ヤング・ウーマン

『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)は、エメラルド・フェネル初監督の映画だが、彼女自身、俳優として映画やテレビドラマに出演している。私の見た映画でも、『アルバート氏の人生』(2011)、『アンナ・カレーニナ』(2012)『リリーのすべて』(2015)に出演しているのだが、どこにいたのかは残念ながら今となっては記憶にはない。テレビドラマへの出演のほかに、『キリング・イヴ』セカンド・シーズンでは「ショーランナー」という現場統括責任者のようなこともしているようだ。『プロミシング・ヤング・ウーマン』は多くの賞を受賞した優れた映画で、主役はキャリー・マリガン【ちなみに今回初めて気になったのだが、Carey Mulliganがなぜ「ケアリー」ではなく「キャリー」なのか。そういう発音があるのだろうか。マライア・キャリーのMariah Careyからの連想してCareyの日本語表記がキャリーになったのだろうか。ちなみにマライア・キャリーの場合も、ただしくは「ケアリー」だという説もあるのだが。またこの監督の名前も「フェネル」ではなく「フィネ~ル」だろう】。

キャリー・マリガンが演ずるのは、元医学部生だった女性。彼女が医学部在籍中、同期の友人だった女性が、男子学生にレイプされるが、訴えが聞き届けられず、最後には友人は自殺する。レイプされた友人をケアすることになった彼女は、友人の自殺を止めることはできず、自身も大学を中退する。その彼女が、復讐の天使となって、世間の女性差別主義者に鉄槌を下すだけでなく、過去に、彼女の友人を死に追いやった当事者たちひとりひとりに復讐をすることになる。

物語の軸となるのレイプ事件は、2015年にスタンフォード大学で起こったブロック・ターナーによる女子学生レイプ事件を基にしていると言われている。スタンフォード大学といえば、超有名大学だが、ブロック・ターナーは「スチューダント・アスリート」として在籍していた。スポーツ選手枠の学生(水泳選手)だからといってバカにしてはいけない。大学では、彼のほうが、一般学生よりはるかに優遇されているのだから。その彼が、性的暴行で訴えら、2016年6月2日有罪判決を受ける。性犯罪者として登録され、6か月の禁固刑/3年の保護観察期間(執行猶予のようなもの)となる。禁固6か月というのは刑罰としては軽すぎるとい批判があったのだが、実際には3か月とさらに短い期間で釈放されている。これに対して批判が起こり、判事がリコールされるまでになる。

刑罰が軽くなったのは、被告に、犯罪歴がない(麻薬所持歴はあった)、また若い、そして悔悛の情を示しているというような理由だった。実際に、「前途有望な若い男性」という言葉が判決文のなかにあったのかどうか知らないが、そのような含意は間違いなくあったと思う。

前途有望な若い男性だからという理由で、レイプ犯でも罪が軽くなる(実質的に禁固3か月ののち釈放)。これに対して被害者である女性が、「前途有望な若い女性」でもあっても、その訴えは聞き入れられず、加害者が優遇される一方で、被害者である彼女は冷遇され無視され、人生の輝かしい将来だけでなく自分の命まで失うしかなくなる。「前途有望な若い男性」を、禁固3か月で許してしまう一方で、「前途有望な若い女性」から前途を奪い去っても平然としていられる社会とは、いったい何であるのか。この不合理とジェンダー格差を、この映画は告発しているように思われる。

ただし映画は、この2015年のレイプ事件の再現ではない。この映画における事件は、むしろ、一般論としては、優秀な女子学生あるいは女性一般に対する男性側の妬みによる犯行であり、個別的には医学部における女性排除問題にもつながるものとなっている。そのため高度な一般性と日本でも問題となった医学部における女性排除という重要な個別性を付与されている。酒に酔った勢いによる性的欲望を抑えきれずに暴行に及んだといいう事件に見えながら、その実、学年でトップの女性を辱め退学に追い込むことによって、結果として男子学生がトップとなることを意図したホモソーシャル社会(ならびに個別的には医学部)の悪辣な意図が垣間見えるのである。女性は前途有望でなくてもよい。男性だけが前途有望であればいいのであって、大学当局も、男子学生を守り、女子学生の訴えは却下するしかない。

そしてこのような権力関係、ジェンダー関係は、特殊なものであると同時に、現代の社会のさまざまな分野に蔓延しているともいえる。アメリカですらこうなのだから、後進国日本ではなおさらひどいものとなっているだろう。こうした状況の闇を切り裂き、風穴をあけるような、女性による復讐物語がこの映画なのである。

この映画そのものではなく、映画のレヴューをめぐってひと騒動があったことは記憶に新しい。この映画にはプロデューサーにマーゴット・ロビーが名を連ねている。この痛快だがやや荒唐無稽な復讐物語の主人公には、キャリー・マリガンよりもマーゴット・ロビーのほうが適役ではなかったかという意見が出て、物議を醸しだした。

これは批判されたのだが、ただ、一理はある。深刻な問題を扱いながらも、復讐物語というエンターテインメント性を失わない、この映画の造型世界には、けばけばしいアメコミのヒロインを演じてきたマーゴット・ロビーのほうが、キャリー・マリガンよりもふさわしいかもしれない。それにまた、この映画は、エンターテインメント映画としての復讐物語のフォーミュラにはのっとっている。そのため、深刻すぎない、ある程度、コミカルな雰囲気を維持しようとするなら、かつてのアイドル的な若々しさとは異なる成熟した女性の魅力をたたえはじめたキャリー・マリガンよりも、マーゴット・ロビーだということになる。

しかし当初、この映画は、最後の結婚式シーンはなかったという【このことに触れると、ネタバレまであと一歩になるので、ここで警告:ネタバレ注意・Warning: Spoiler】 。そうなるとたんにアメコミ的な荒唐無稽な復讐物語という特質は、ほんとうにそれが映画のめざすものだったのかという反省せざるをえなくなる。むしろこの映画は、その悲劇性を前景化しようとしていたのではないか。そしてその悲劇性は、復讐物語のフォーミュラともなじむものだったのだ。

復讐するは我にあり、我、これを報いん、というときの「我」とは神のことである。復讐は神がなすべきもので、人間は復讐をしてはいけない。復讐は神にまかせるものであり、人間が神のかわりに罰を下すのは、それは犯罪と変わりない。そもそも人間による復讐は、私怨とか個人的事情によるものが多く、それは犯罪である。したがって復讐者は、たとえ復讐に成功をし続けても、犯罪者性が強まるだけで、そのため精神を病んでくる。そして最後に復讐者は、復讐を成就しても、みずから死ぬしかないのである。

この復讐物語のフォーミュラが、女性の復讐者という設定と絡み合う時、どうなるのか。エンターテイメント映画のお約束として、行動的で勇気があり大胆不敵で果敢な性格の女性は、最初は、男性のみならず、誰をも圧倒する超人的強さを見せつけるのだが、徐々に弱くなっていく。どんなに男勝りの女性でも、最終的に男にかなわなくなるというのが、エンターテインメント映画における強い女性の定番コースである。

たとえば『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(Edge of Tomorrow 2014)では主役のトム・クルーズ以上の活躍をみせ英雄視される女性軍人を演ずるエミリー・ブラントは、最後まで、その強靭さを失わないのだが、『ボーダーライン』(Sicario 2015)のエミリー・ブラントは辣腕のFBI捜査官でありながら、最後には、女の弱さをみせはじめ、男たちの世界に呑み込まれて影が薄くなる――これがお約束の展開なのだが。

この『プロミシング・ヤング・ウーマン』でも、最初のほうは、あれほど強く大胆であった復讐の天使キャシーは、最後の復讐においては、強さがミニマムとなり、逆に弱さがマックスとなる。つまり復讐を成就する前に、殺されるのである。

しかし、これはいっぽうで復讐物語と、またもういっぽうでは強い女性の活躍物語という、エンターテインメント映画の二つのフォーミュラ――ひとつは、復讐者は最後には死こと、もうひとつは物語進行とともに女性の強さが減衰すること――に律儀に従っているかにみえて、その実、最強の帰結を到来させるのだ。なぜなら復讐をする相手に返り討ちにあって殺されることは復讐のぶざまな失敗であるかにみて、その実、相手の有罪性の動かぬ証拠(死体)を提供することになる。また殺されること、存在を消去されることは、弱さの極限であるかにみえて、その実、その死を最高度の告発行為に変換させことになる。死によって、不可視のものを可視化する。土壇場の、窮状における最後の最高度の劣勢の転換。これを主人公はなしとげるのである。

『プロミシング・ヤング・ウーマン』の結末は、復讐すべき相手と差し違えるというよりも、黙殺された告発と犯罪を可視化する最後の手段として、相手に致命傷を負わせることになる。それが事件の最終決着なのである。

思えば、マーゴット・ロビーとの関わりは、案外、有意義なものだったのかもしれない。彼女の近年のぶっとんだ役どころは、DCコミックスのスーパーヴィラン、ハーレイ・クインだが、このハーレイ・クインが登場する映画は、いまのところ三作『スーサイド・スクワッド』 (2016)、『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』(2020)、そして『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』(2021)であるが、そこに共通する「スーサイド・スクワッド」という組織と名称。これは帰還・生還が望めない「自殺部隊」、日本風にいうと「玉砕部隊」である。思えば、『プロミシング・ヤング・ウーマン』における復讐は、自爆テロのような自殺テロ、自殺攻撃であった。そしてそれしか復讐の方法がない、あるいは復讐を通して自殺をするしかないほど、深い傷と悲しみを負った主人公の苦悩に、おそらく誰もが胸打たれるはずである。

なお主人公キャシーは、本名がカサンドラであると、行方不明後に警察から知らされ、驚くのだが、カサンドラの象徴性もまた、女性が置かれている悲劇的立場ともからまりあう。ただ、このことについて語るのは、またの機会に。
posted by ohashi at 01:07| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2022年06月06日

『Best Guy』再び

【6月2日の記事の続編】

次のようなネット記事が

「トップガン」続編の超ヒットで…思い出される織田裕二主演 32年前の “黒歴史” 映画
  東スポWeb 2022/06/06 05:32
先月27日に日米で同時公開された、トム・クルーズ(59)の代表作の続編「トップガン マーヴェリック」の興行収入の勢いがすさまじい。

中略

「トムと同世代に近い映画ファンが客層の中心になっています。青春時代に夢中になった作品が、36年ぶりによみがえるわけですから、見たくもなりますよね。前作の続きのようなシーンに涙するファンも多く、大ヒットするのも当然でしょう」(映画ライター)

そんな傑作映画となった「トップガンシリーズ」とは打って変わって、過去〝爆死〟したのが〝日本版トップガン〟として製作された織田裕二主演の「BEST GUY」(1990年公開)だ。航空自衛隊の全面協力の下、航空自衛隊千歳基地を舞台に、パイロットに与えられる最高の栄誉「BEST GUY」の座を賭けて、特別強化訓練に臨むパイロットたちの姿を描いているのだが…。

「アクションシーンはかなりリアリティーがあり、『トップガン』をオマージュするようなシーンもいくつかありましたが、興行収入は振るいませんでした。自衛隊の実機は迫力があっても、ソ連の戦闘機が特撮だったので、観客はガッカリ。それ以来、織田にとってすっかり〝黒歴史〟になってしまいましたね」(芸能関係者)

2022年のナンバーワンヒット作の呼び声も高い「トップガン マーヴェリック」だが、織田の胸中はいかに――。


と、要するに織田裕二をからかうというかディスるだけの品性下劣な記者の欠いた下品なバカ記事。「自衛隊の実機は迫力があっても、ソ連の戦闘機が特撮だったので、観客はガッカリ」ということは、Wikipediaにも書いてあることで、そこからネタをもらってきただけの、お手軽な、そして下劣な品性だけが目立つ、低級な記事。自分の意見を「芸能関係者」のものとする卑劣ぶりも際立っている。書き手には恥を知れといってやりたい。とはいえ、こういう書き方は、ごく普通に行われているので、少しはちがったことをやれ、この恥知らずがいうべきか。

『Best Guy』の興行成績がふるわなかったとしたら、その原因は、いろいろあるだろう。ソ連機が特撮だったからというのは、理由のひとつかもしれないが、そんなことだけで観客はがっかりするものか。

36年前の『トップガン』は、どうだったのか。最後の敵国の戦闘機との空中戦は、ソ連のミグにみたてたアメリカ製のF-5。黒っぽい色で塗られているのだが、F-5は細身のスマートな戦闘機で、とてもソ連のごついミグ機にはみえない(映画のなかではミグ28という架空の名前がついていた)。

【ちなみにF-5フリーダム・ファイターは、アメリカ軍で正式採用されず、海外供与機として生産された。また実際のトップガンでミグ役のアグレッサー機として使われた。その発展型F-20タイガーシャークは、コミック/アニメの『エリア88』で主人公のシンの乗機としても有名。】

つまり実際のトップガンでは敵国の戦闘機をシミュレーションするために、A-4スカイホークとF-5フリーダムファイターという、ともに運動性のよい攻撃機・戦闘機が使われている。仮想敵国の戦闘機に扮するそれらはアグレッサーと呼ばれる。映画ではA-4だけが、アグレッサーとして登場し、最後の実戦シーンでは、どうみてもミグにみえない、実際にはトップガンでアグレッサー役のF-5がミグ28という架空の戦闘機として登場した【もとになった実際の交戦ではミグ機ではなくスホーイ機。6月9日の記事を参照】。

結局、実戦シーンだって、トップガンのアグレッサー機が使われていて、訓練シーンと実戦シーンとの差が基本的にない。こんなことなら、ミグ(実際の事件ではスホーイ)は特撮で登場させてほしかったともいえる――実際、私は初めて『トップガン』をみたときに、そう思った。

したがって日本版『BEST GUY』でソ連機が特撮であることが観客を落胆させる主要因であるとは思えない。

そもそも『BEST GUY』がヒットしなかった理由にはいろいろなものがあろうが、同時に、『BEST GUY』が優れた映画であるという理由もたくさんある。そしてヒットしなかったからといって悪い映画ということにならないし、それが黒歴史になろうはずもない(黒歴史というのは、いずれ日本のジャーナリズム史において「黒歴史」として葬り去られるであろう、歩く「黒歴史」のひとつ「東スポ」にこそふさわしい名称である。もちろん東スポよりも最低のメディアは多いことも付け加えておく)。

『トップガン』と『BEST GUY』との違いは、アメリカ海軍の戦闘機搭乗員養成機関(正確には、高度な技術を身に着け、それを配属部隊にもどって他のパイロットに伝授するリーダー的パイロットを養成する機関)としての「トップガン」は実在するが、「BEST GUY」は架空の制度であると理解している。ただし航空自衛隊には「飛行教導隊」という、「トップガン」と似た組織は実在する。練習機とかF-15をアグレッサー機として使用する。

また『トップガン』では、敵国のミグと交戦するのだが(実際の事件ではスホーイ)、これは実際にリビア北岸のシドラ湾でF-14がミグを撃墜した事件(1981年)から想を得ているのに対し、『BEST GUY』ではソ連機にスクランブルをかけるのだが、これまで実際に交戦した記録はないので、実戦シーンの不在が映画から魅力の一部を奪ったともいえる。

しかし圧倒的な違いは、『トップガン』が偏差値の低い映画ということである。偏差値の低さがヒットにつながったといえなくもない。グラマンF-14トムキャット戦闘機は、私自身、航空史で最も魅力的な航空機だと思っているが、同じ思いは、多くの航空ファンが抱いているはずである。

いまとちがって1986年には、軍用機が空を舞う映像というか動画を簡単に見ることはききなかったので、『トップガン』においてF-14が飛んでいるだけで、その映像に魅了されたのだが、F-14トムキャットという、優雅な美しさと、威圧的なまでの力強さが共存する、軽快な大型機の姿を、映画は十分に魅力的にとらえているとはいいがたい。乗り物の魅力を伝える映画としては、同じトム・クルーズ主演の同じ監督の『デイズ・オブ・サンダー』(1990)のほうが、『トップガン』の二番煎じだと批判されながらも、レーシングカーの魅力を存分にとらえていた。まあ航空機それも戦闘機の飛行を映像に収めることの困難は予想できるとしても、『トップガン』が、F-14トムキャットの映画としては偏差値が低いことは否定しようがない。ただし、映画としては、真っ赤な空を背景にとぶトムキャットのメランコリックな映像は映画芸術のひとつの極点に到達している。

また『トップガン』のパイロットたちは、パイロットとしての高い技量を誇るものとしても、人間的には偏差値が低い、精神年齢が低すぎる。まるで高校生とはいわなくとも、ほぼ中学生である。こんな奴らがアメリカを守り、自由主義世界を守っているのかと唖然とするしかない。というか、こんな精神年齢の低い連中だからこそ、アメリカを、自由主義世界を守れるのだとも言えるのだが……。そしてきわめつけは、女性教員に恋をする中学生男子の物語。トップガンという学校は中学校なのである(現実の中学生を低く見ているわけではない。中学生が中学生としてふるまうことに何の問題もなし。中学生ではない大人が中学生みたいにふるまうことが問題だということだ)。

これに対して『BEST GUY』は、航空自衛隊のプロのパイロットたちの物語であり、映画の主題そのもの(「空間識失調」)は偏差値の高さを誇るものといえよう。

あとはF-14とF-15のどちらが好きか、また織田裕二が好きかどうか、好き嫌い問題になってしまうのだが、いまも配信などでみることができる『BEST GUY』に対しては、『東スポ』といった偏差値の低いかもしれない新聞(失礼)のあきらかに偏差値の低い記者(失礼)の書いた偏差値の低いとしか思えない記事にまどわされず、虚心に接すれば、けっこうおもしろい映画であることを納得できるのではないかと思う。
posted by ohashi at 23:12| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2022年06月02日

空間識失調と

空間識失調と『トップガン』/『BEST GUY』

ネットのニュースに次のようなものがあった。

空自F15墜落「空間識失調」か 機体に問題なし(共同通信社 2022/06/02 11:34)

その一部を引用すると、

航空自衛隊のF15戦闘機が1月、石川県の小松基地から離陸直後に墜落し乗員2人が死亡した事故で、空自が事故原因について、パイロットが機体の姿勢を錯覚する「空間識失調」に陥ったと推定していることが2日、政府関係者への取材で分かった。空自は機体に不具合はなく、人為的な原因で墜落したと判断したとみられる。

 政府関係者によると、操縦士は離陸直後に空間識失調となった影響で、正常に飛行していると錯覚し、海面に突っ込んだとみられる。以下略。


もちろん推測の域を出ないので、これが事故原因かどうかわかならいので、亡くなった搭乗員二人のためにも断定は避けるべきだが、この記事に登場した「空間識失調」という言葉で思い出した。

私がこの言葉を初めて聞いたのは日本の映画のなかである。1990年の日本映画『BEST GUY(ベストガイ)』(監督 - 村川透、脚本 - 高田純、村川透、主演 織田裕二)。公開時には日本にいなかったので、映画館では見ていないのだが、これは「航空自衛隊の撮影協力で日本版『トップガン』を目指して作られたスカイアクション」(Wikipedia)。そう、これはいま続編が公開されている『トップガン2』の前篇『トップガン』の日本版・航空自衛隊版なのである。

実際に空自のF15Jが飛ぶ姿は迫力があったし、特撮の部分もあるが、実物の航空機の迫力ある飛行を堪能できるという点で、この映画は航空映画として満足できるものだった。

問題は「空間識失調」。Wikipediaから引用すると、

英: spatial disorientation、vertigo、独: Vertigo)は、平衡感覚を喪失した状態。バーティゴ、Spatial-Dともいう。(略)

主に航空機のパイロットなどが飛行中、一時的に平衡感覚を失う状態のことをいう。健康体であるかどうかにかかわりなく発生する。

機体の姿勢(傾き)や進行方向(昇降)の状態を把握できなくなる、つまり自身に対して地面が上なのか下なのか、機体が上昇しているのか下降しているのかわからなくなる、非常に危険な状態。しばしば航空事故の原因にもなる。(以下略)


とある。

『BEST GUY』 のなかでは、主人公の兄と主人公の上官が、それぞれ空間識失調に陥るのだが、兄はそれが原因で死亡。兄の死という過去が主人公に重くのしかかるが、主人公もまた訓練中に空間識失調になる――からくも墜落を免れるが。

ちなみに『トップガン』においては、それに巻き込まれると機体が失速して墜落するというジェット後流の恐怖が最後のクライマックスまで尾を引く。詳しいことは何も知らないが、通常、ジェット戦闘機がジェット後流に巻き込まれるほど接近して飛ぶことはないだろう。『トップガン』の空中戦は、第一次世界大戦の複葉機の空中戦・ともえ戦みたいないもので、高速で飛んでいるジェット戦闘機どうしの戦闘ではない。ジェット後流にまきこまれるほど接近する前に、撃墜できるはずである。

これに対して空間識失調というのは、上昇しているか下降しているのかさえわからなくなる、その非現実的認識ゆえに、誰もが陥るブラックホールのように映画のなかで恐怖の存在としてある。

いやそれだけではない。上昇しているのか下降しているのか、通常飛行なのか背面飛行なのか、上か下か、左か右か、敵か味方か、なにもかも混沌とするカオスのメタファーとしても映画のなかで機能している。

『トップガン』においてジェット後流は、メトニミーに過ぎないが、『BEST GUY』において空間識失調は、メタファーでありテーマなのである。

『BEST GUY』のなかでパイロットたちはみんなあだ名をもっている。『トップガン』における「マーヴェリック」「アイスマン」「ハリウッド」「グース」みたいなものだが、織田裕二扮する主人公のあだ名は「ゴクウ」。孫悟空のゴクウだが、言い得て妙。まあ「マーヴェリック」と同じようなもので、有能だが組織のはみだし者で、規則や規定に従わず、仲間とも問題ばかり起こしている。彼自身が歩く「空間識失調」である。上も下も(階級も)、右か左か(仲間か敵か)も関係ない一匹狼の彼が、やがて自身も空間識失調に陥り、からくも生還するという恐怖体験をへて、本来優秀なパイロットでもあることも手伝って、優れた航空自衛官へと成長を遂げる。闇を、空間識失調をかかえながらも……。

実によくできた脚本だと思った。またこの「空間識失調」というのは、航空機操縦にともなう現象だけでなく、映画や文学そのものを説明する、あるいは機能させる重要な装置ではないかとすら、この映画をみて思えてきたのである。文学も映画も「空間識失調」を演出する。その用途はさまざまだが、「空間識失調」を活かすことなく、物語は成立しない。そして「空間識失調」が可能にする物語効果、それはブラックホールのごとく、すべてを無に帰すか、別次元の宇宙へと連れ去るかのいずれかである。Not to be or to be.

まさに「空間識失調」こそが「デンジャー・ゾーン」。ジェット後流は、「デンジャー・ゾーン」ではなかった。
posted by ohashi at 15:43| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2022年05月29日

『砂の器』アズ・ナンバー・ワン

ネット上に、「没後30年“松本清張”作品で好きなドラマ・映画ランキング、1位は「中居正広を俳優として初めて認識」」という記事があった(『週刊女性PRIME [シュージョプライム] 』2022/05/28 06:00)

松本清張作品についてのアンケートによるベストテン作品を発表したもの。

1位が『砂の器』(280票)となったが、ポイントは、原作の小説ではなく、ドラマ化されたり映画化されたりした作品のランキングであること。(ちなみに2位は『点と線』)

『砂の器』は、1960年・読売新聞夕刊に連載。
1972年に松竹映画化・丹波哲郎、丹波哲郎、加藤剛、森田健作。
2004年にTBS系テレビドラマ・中居正広、松雪泰子

映画、テレビドラマを考慮すれば、『砂の器』がベスト・ワンであることに違和感はない。監督:野村芳太郎、脚本:橋本忍、山田洋次、音楽監督:芥川也寸志という映画版『砂の器』が傑作であることは誰もが認めることだろう。

映画、ドラマ化のベストテンなので、原作は無視してもいいのだが、記事では原作についても触れていて、原作を映画やドラマ化と同等の傑作扱いにしているが、記事を書いた人間は、ほんとうに原作を読んだことがあるのか。

松本清張の『砂の器』は、映画版とは比べ物にならないくらいの駄作である。映画版で感動してから、原作を読む読者ならわかるだろうが、感動をもたらす部分は、すべて映画版で付加したところであって、原作には感動を呼ぶ要素など存在しない。

そもそも犯人の和賀英良は、映画にあるようなピアニスト兼作曲家ではない。電子音楽の作曲家兼パフォーマーであって、重厚なクラシック音楽のピアニストではない。映画版では和賀英良は、別れた父親と、みずから作曲した音楽(タイトル『宿命』)のなかで出逢っているのだと語られるが、原作では、前衛的な電子音楽などを作っているような人間は、肉親愛を欠き、血も涙もないない反自然的・人工的アンドロイドのようなもので、だからこそ、父親を捨て、平気で殺人を犯すことができるという設定となっている。父親との永遠の別れの代償としての音楽における再会などという戯言を松本清張は信じてないというか、構想すらしていない。

しかも電子音楽の作曲だからといって、電磁波とか超音波を使って殺人を行なうというのは、どういう飛躍なのだろうか。超音波によって人が殺された例は、この『砂の器』が、最初で最後、空前絶後である。小説のなかで語り手は、超音波で人は殺せるのだと力説しているのだが(説得力はない)、そうまでして、前衛芸術家が、電子音楽家が憎いのか、彼らをアンドロイド化しないと気が済まないのかという、松本清張の妄執めいたものすら感じられるのだ。

もちろんモダンの社会の、あるいは高尚かつ権威ある共同体の、しらじらしい自己充足状態が、過去の封建的怨霊の闇の侵食を前にして、もろくも崩れ去るときに、まさにそのインターフェイス上に事件(多くの場合、殺人事件)が発生する。

【ここから先は本来なら、たとえメタファーとしてであれ、語ってはいけないことなのだが、松本清張にとって、近現代の日本の社会的身体は、健康的で美しい、その外見の下に、あるいはその外見そのものが、病に冒されているのである。『砂の器』における病の選択と、松本清張の社会観はつながっているとみることができる。】

ともあれ、松本清張の世界のダイナミズム、ただし図式的すぎるダイナミズムのなかで、悪辣な犯人が血も涙もないアンドロイドになるのは当然の結果であり、しかも殺人手段も、素手によるものでも凶器を使うものでもない、超音波というこれまた実体を欠いた不可視の抽象的現象であり、悪を観念性・抽象性・脱身体性へと収斂させてゆくその徹底ぶりは空恐ろしくなる――超音波殺人というSFすらびっくりの蓋然性無視の姿勢を貫かずにはいられないほど、あるいは蓋然性を犠牲にせずにはいられないほど、モダニズムを松本清張は憎くてしかたがないのである。

反モダニズム姿勢の幼稚なまでの暴走が原作の欠陥であることを見抜いていたのは、映画版『砂の器』の製作者たちである。犯罪小説としての対立構造は、なにもモダニズムをアヴァンギャルドを敵に回さなくとも、充分に成立しうるのであり、これがわかっている映画版製作者たちは、原作のなかで抑圧されていた可能性を十全に開花させたと言ってよいだろう。

長編小説の映画化は、ほとんどの場合、単純化さらには劣化なのだが、『砂の器』に限っては、映画化のほうが原作を凌駕しているといってもいい。原作は駄作だが、映画化は傑作である。あるいは原作のひどさを前にして、原作のもつ可能性をうずもれさせたくはなかったというのがアダプテーションの動機だったのかもしれない。

【付記:ベストテンには入っていないのだが松本清張作品のうち、もっとも映画・テレビドラマ化が多いのは、「地方紙を買う女」である。映画化1回、テレビドラマ化は9回を数える。おそらく今後も続くだろう。理由はよくわからないが。

比較的最近、CSで、そのいくつかを放送していた。原作は短篇なので、2時間ドラマにするには、原作をふくらませることになるが、その過程で、ドラマ化はやりたい放題である。つまりほとんどのドラマ化が、原作のドラマ化とはいえないほど加工変形されていて、なぜ地方紙を買うのか、その理由すら定かでないものもあるのだから】
posted by ohashi at 20:10| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2022年04月04日

『敵こそ我が友』

前に「敵こそわが友」というタイトルで記事を書いた。この「敵こそわが友」というフレーズで思い浮かべていたのは、

『敵こそ、我が友 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~』
MON MEILLEUR ENNEMI(仏)/MY ENEMY'S ENEMY(英) 2007年/フランス映画/1時間30分監督:ケヴィン・マクドナルド


である。2008年に銀座テアトルシネマ(今は亡き)で観た。フランス語のタイトルは「我が最良の敵」、英語のタイトルは「わが敵の敵(⇒敵の敵は味方ということか)」。日本語のタイトル「敵こそ我が友」とは微妙に違うような気がするが、私はこの日本語の表現が面白いと思って記事のタイトルと主題を示すフレーズとして使った。

とはいえこのドキュメンタリー映画も面白いものだった。

映画.comの紹介

ナチス・ドイツ親衛隊に所属して"リヨンの虐殺者"の異名で恐れられたクラウス・バルビー。しかし彼はその後も戦犯として裁かれることなく、アメリカ陸軍情報部のために対ソ連のスパイ活動を行ったエージェント・バルビーとして、続いて南米ボリビアで軍事独裁政権の誕生に関わったクラウス・アルトマンとして、歴史の影で暗躍を続けた。3つの人生を生きた男の数奇な運命を検証することで戦後史の裏側を照らし出したドキュメンタリー。


ネット上にあった、ある映画評

映画は、かなりシンプルに、記録映像、写真、関係者のインタビューを中心に、時代順に進んでいきます。


ドキュメンタリー映画だから、これはあたりまえのこと。映画の特徴でもなんでもない。この映画評は、クラウス・バルビーについての紹介(適切なもの)が続き、そして

ナレーションもなく、音声は記録映像部分以外はインタビューでつなぎますので、統一感がなく、テーマミュージック(フランス映画らしく、ちょっと哀愁の漂う洒落た感じのシャンソンです)も最初だけで本編の間ほとんど音楽なしです。インタビューには英語もありますがフランス語も多く、字幕をジッと見つめていないとすぐ置いて行かれます。それでいて映像もドラマティックに作った部分がないので、内容に強い興味がないと、見続けるのがちょっと辛い。フッと居眠りして目を開けたら話が見えなくなっていたりします。


てめーが興味がないだけだろう。映画の内容は興味深いものだったし、進行も緊迫感に満ちていた。そして

記録映像の残り具合やインタビューの取りやすさからでしょうけど、南米に行ってから、それもフランスの引き渡し要求以後の部分が長くなっています。3つの人生というサブタイトルから見ても、3つめが長くなってバランスを崩している感じがしますし、後半をもう少しまとめた方がよかったかも。


三つの人生というは日本で勝手につけたサブタイトルで、もとの映画に責任はない。そしてエラそうに上から目線で「後半をもう少しまとめた方がよかったかも」だと。途中で居眠りしていたくせに、なにを偉そうに。あるいは後半だけ起きていて、時間がたつのが遅かったのか。映画評の的確な内容のまとめも、どうせ何かの資料を読んでまとめただけだろう。上映中、居眠りをしていただけだろうから(ただし、このレヴューアーには、映画を観る前から、内容は想定済みで、目新しい情報がなかったからかもしれない。とはいえ、よくわかっている馴染の内容のとき人は居眠りはしないものだ)。

最後に、このレヴューアーは、こんな感想を述べている。


率直に言って、もう少し見せる工夫をして欲しい映画ですが【またまた上から目線ですか?手慣れた構成で、予備知識ゼロの観客もついてけるような工夫は凝らされていたと思うのだが】、こういう堅いドキュメンタリーをいまどき8週間上映する(今日から7週目。9月19日まで)銀座テアトルも立派かなとも思います。


私はこの映画を銀座テアトルで観た。こいつの、上から目線の鼻もちならない皮肉にはうんざりする。私が観たとき、客席はほぼ満席だった。人がたくさん入ったから長い期間上映しただけの話なのだが、気にいらない「堅いドキュメンタリー」長く上映すること自体が悪であるようなこいつの口ぶりは、ファシストのものである。今風の言い方をすればプーチン風である。

なお、このHGレヴューアーには関心がなかったのかもしれないが、クラウス・バルビーを主題とする映画は、20世紀末から進んでいる第二次世界大戦のナチス占領下における、ナチス戦争犯罪への協力者と協力状況の洗い直しの一環であるともいえる。この洗い直しのなかで、ヴィシー政権下のフランスの状況が浮かび上がり、そして中立国であったスイスのナチス協力問題も露呈されることになる。多くのフランス人はユダヤ人を差別していたから、ナチスに協力した。また戦後はバルビーはアメリカに利用された。黒歴史は続く。この映画は、まさにこうした漆黒の闇の歴史に光をあてているのである。面白くないはずがない。

あとこのドキュメンタリー映画がフランス映画だというレヴューアーはいても、監督がケヴィン・マクドナルドであることに言及しているものは私が読んだかぎりネット上にはなかった。

ケヴィン・マクドナルドは英国の(正確にいえばスコットランド出身の)映画監督で、ドキュメンタリー映画と劇映画の両方を撮る、ある意味、特異な監督である。ドキュメンタリー映画としては『ミュンヘン・テロ事件の真実 』One Day in September (1999)、『運命を分けたザイル』Touching the Void (2003)、『ボブ・マーリー/ルーツ・オブ・レジェンド』Marley (2012)、『ホイットニー 〜オールウェイズ・ラヴ・ユー〜』Whitney (2018)などがある(私の観た映画に限っているが)。

劇映画には『ラストキング・オブ・スコットランド』The Last King of Scotland (2006)(衝撃的な映画だった)。『消されたヘッドライン』State of Play (2009)(メディア、ジャーナリズム物)。『第九軍団のワシ』The Eagle (2011)(宮崎駿が東北を舞台にアニメ化しようとしたローズマリー・サトクリフの同名の小説の実写化)。『わたしは生きていける』How I Live Now (2013)(主役のシアーシャ・ローナンが英国にやってきたアメリカ人少女(この設定には違和感があった)を演じた映画。あまり評判にならなかったが、シアーシャ・ローナンのファンである私はけっこうおもしろかった)。『ブラック・シー』Black Sea (2014)(ジュード・ロウ主演の映画だが残念ながら未見)。『モーリタニアン 黒塗りの記録』The Mauritanian (2021)(監督の特異なドキュメンタリーと劇映画が合体したかのような劇映画)。
 
ケヴィン・マクドナルド監督は英国アカデミー賞を受賞したドキュメンタリー(再現映像を使う)で一躍有名になったと思うのだが、私というよりも日本人観客とっては『ラストキンブ・オブ・スコットランド』で知られるようになった。ジェイムズ・マカヴォイが狂言回し的役割なのだが、なんといっても独裁者イディ・アミンを演じた フォレスト・ウィテカーの不気味さが秀逸で、ウィテカーがそのレパートリーに変質者的人物を加えるようになったはじまりの映画かもしれない。また『ブラック・シー』以後、作品がなかったような気がするが、『モーリタニアン 黒塗りの記録』(2021)で復活した観があるのは、ファンとしては、嬉しい限りである。

『敵こそ我が友』も、ケヴィン・マクドナルド監督のドキュメンタリー映画として、ファシストを告発すると批判的になる日本のファシズム勢力の雑音に邪魔されることなく見直していい時期だと思う。

【追記:『ラスト・キング・オブ・スコットランド』の原作ジャイルズ・フォーデン『スコットランドの黒い王様』(新潮社1999)は、いまは駒場の武田将明先生が、大学院生時代に翻訳したものである。博士課程に入ったばかりか、入る前に出版した翻訳だと思うが、このこと自体驚異的である。いまでも博士前期課程の大学院生が長編小説の翻訳を名だたる出版社(新潮社)から出版するということはまずない。武田先生の早熟ぶりに圧倒されるのだが、もうひとつAmazonのこの本のサイトには、映画化に際して、武田先生が自分の翻訳を2か所訂正するコメントを掲載している。ご覧いただきたい。Amazonにそういうシステムがあったのか。Amazonにどう頼めば、翻訳者からの訂正を掲載してもらえるのか。武田先生の手腕には圧倒される。】
posted by ohashi at 01:50| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2021年10月20日

『ダークレイン』

原題Los ParecidosThe Similar
2015年メキシコ映画 日本公開2015年 1時間25分

『パラドクス』の監督イサーク・エスバンの次回作は『ダークレイン』である。これはタイム・ループものでもループ物でもないのだが、興味深い映画なので触れておきたい。

興味深いけれども、ものすごく面白い映画ではないと思うのだが、ネット上の評判は、けっこう良い。しかし、この興味深い設定には腹をたてる人がいてもおかしくないと思うのだが、逆に若いレヴューアーには新鮮にうつるのかもしれない。

豪雨というか嵐で足止めされる長距離バスの待合所が舞台。最初から最後までこの待合所とトイレと発券事務室というほぼ同一空間で事件が展開するので、舞台劇に近いといってもいい。よくこういう演劇的映画に腹をたてたり嫌ったりすれる映画ファンがいるのだが、ネット上では、これも予想外に少ない。私は演劇的映画は大好きで、この映画も完璧に舞台化かできると思う。舞台化したら絶対に面白いと思うのだが、ただ、一部の設定には、腹をたてる演劇ファンはいるかもしれない。

もうひとつの特徴は、カラーだがモノクロに使い色調で待合所の内部が描かれ、雰囲気としては60年代のサスペンス・ミステリー・ドラマを強く連想させるものとなっている。おそらく60年代感、古きミステリー/サスペンス感は、タイトルの出し方とかエンドクレジットの形式、音楽の使用法にまで意図的に仕組まれているものと思う。

実際1968年10月2日の夜という設定であり、物語はほぼリアルタイムで進行する。過去の時代感覚を、過去の映画様式で再現しようとしているのである。

と同時に全体に安っぽいさが漂っている。これは低予算のB級映画臭がただよっているということではなく、意図的なものである。それは人間が個性をなくしてしまうことを表現する手段がそうである。これは一歩間違えばというより、間違わなくとも、茶番的喜劇的な仕掛けで、シリアスなミステリーとは全然相容れない(ちなみにこの映画のポスターとかDVDのジャケットには、顔に包帯をまいた家族の見るも恐ろしげな絵を使っていて、恐怖感をあおっているのだが、そうした場面は映画には一回も登場しない)。

そしてこの仕掛けの、よくいえば不条理な異化的な笑い、悪く言えば、意図はわかるが安易すぎるこの設定は、日本では『ミステリー・ゾーン』のタイトルで放送された、『トワイライト・ゾーン』のテレビドラマの世界を彷彿とさせる。この『ミステリー・ゾーン』/『トワイライト・ゾーン』の一挿話であったら納得できる。しかしノスタルジックな意図があるのかないのかわからないが、映画でそれをみせられると苦笑するか腹をたてるしかない。

たとえば、はっきりと覚えていないのだが『ミステリー・ゾーン』の初期の回で、面妖な顔(安っぽいかぶり物をしている)の宇宙人たちが、ある生物(最初、その姿はあかされない)をみて、その醜さに目を背け苦言を呈しつつ、互いに議論している場面があった。どんなにおぞましい生物かと思うと、最後にその正体があかされる。人間のかわいらしい赤ん坊なのである。結局、美醜の判断は生物によって異なるということなのだが、それを伝えるために「醜い」安っぽいかぶり物の宇宙人像が使われても、テレビのコント的形式のエピソードとしては、いかにも『ミステリー・ゾーン』的な風刺で違和感がないのだが、これに類することを映画のなかでやられても困る。つまりテレビのコント的な仕掛けを映画のなかで大々的に、そしてエンドクレジットまでやられてはたまらない。誰も、いらだたないのかと、私自身がいらだってしまった。

『パラドクス』ではフィリップ・K・ディックのSF小説『時は乱れて』が使われたが、今回はディックの小説のタイトルは言及もされないのものの、今回のほうがディック的SF世界へのオマージュというか、その世界そのものが使われているように思った。たとえば狂える少年の妄想の世界が現実化して、人間がそこから逃れられなくなってしまうような世界が、それである。

ただし、なるほどディックのSFには個人の妄想ファンタジーが実体化する、あるいは『火星のタイム・スリップ』のような自閉症の少年がいだくファンタジーが実体化し、そこから抜け出せなくなる恐怖が描かれているが、ディックの場合、むしろ、そこからいかに抜け出すかをめぐって組織される物語が重要になり、また私たちのディックへの関心もそこになる。

この世界が偽物であること、ヴァーチャルであり、シミュラクラであること、それをいかにみやぶるのかをめぐる議論(たとえば『高い城の男』における偽物と本物を見分ける議論)、偽物の世界からいかに脱出するかという行動こそが、ディックSFの醍醐味というか見所であり、そこにポストモダン的思想性も宿るのだが、この映画には、そうしたディックには関心がないようなのだ。

ディックの作品すべてに『シミュラクラ』というタイトルをつけてもいいといえるのだが、この映画の原題は類似のタイトルながら、しかし『シミュラクラ』というタイトルはこの映画には似つかわしくない。そのためディックにみられるような文化的社会的歴史的(晩期における宗教的)な広がりはなく、気味の悪いファンタジー止まりとなっている、

そう、そこが問題かもしれない。この映画の特徴は、ネタバレを極力避けたかたちで語れば上記のようになるのだが、しかし、重要な歴史的次元についてはまだ触れていない。

1968年10月2日のことである。

Wikipediaには、「メキシコにおける大量虐殺リスト」‘List of massacres in Mexico’という恐ろしい項目があって、そのなかで1968年10月2日は、メキシコシティにおける「トラテロルコ事件」と呼ばれる市民殺害が起こる日である。

次の項目――1971年6月10日「コーパス・クリスティの虐殺」――では、犠牲者は推計120人とされている。いっぽう「トラテロルコ事件」の犠牲者は推計40人から400人(300人から400人ともいわれる)で、メキシコ史における当局による最大の市民虐殺事件である。

ちなみに1971年の「コーパス・クリスティ虐殺事件」は、アルフォンソ・キュアロン監督の映画『ローマ』のなかで、学生運動家たちが当局と連携している自警団に殺されたエピソードで触れられていた。映画『ローマ』の冒頭は、床に水が流される映像で、これは水で掃除をしているところだとすぐにわかるのだが、やがてこれが、過去のおぞましい事件を洗い流そうとする黒歴史抹消という歴史修正主義の風潮あるいは政策を暗示しつつ、最後のクライマックスにおける海水浴場での高波にさらわれそうになる一家の場面へとつながっていく。過去の虐殺事件、その記憶を洗い流そうとする風潮、にもかかわらず消されずに留まる事件の記憶、そしてまた過去の激流に流され溺れそうになる庶民、にもかかわらず生き延びる庶民の力強さ、こうしたことが重層的に観る者に突き刺さったことは記憶に新しい。

いま衆院選挙戦のさなかだが、歴史修正主義者のクズどもが、過去の日本の歴史のみならず、自民党の安倍政権の腐敗の歴史をも洗い流そうとしている今、キュアロン監督の映画『ローマ』は、人ごとではないのだが、もうひとつオリンピックの年、オリンピックがらみの事件でもあった暗黒の歴史を扱ったのが『ダークレイン』なのである。

『ダークレイン』は、冒頭から1968年10月2日の出来事と明示される。そして映画のなかでも、「トラテロルコ」という名が何度も言及される。「トラテロルコの虐殺」(La masacre de Tlatelolco)と呼ばれる1968年10月2日にメキシコシティのトラテロルコ地区におけるラス・トレス・クルトゥラレス広場(三文化広場)で起こった軍と警察による学生と民間人の大虐殺事件の、まさにその夜にこの映画の事件は起こる。

このことに敏感に反応した日本のレヴューアーもいるが、こうしたレヴューアーは、たいていネトウヨで、政治的言及はこの映画にそぐわないと否定的なコメントしか残していないのだが、メキシコ人なら知らぬものがないこの日(実際メキシコにおいて10月2日は、いまでは「国民哀悼の日」となっている)を映画における出来事の日に設定したことについては、制作者の並ならぬ決意とメッセージ性がうかがえる。

といえ、個性の喪失という映画のテーマと付き合わせてみると、この映画を製作した側には、過去の事件に対する反省はあるかもしれないが(とはいえ上から目線の反省なのだが)、憤りや悲しみにもとづく政治的な批判性は希薄だといわねばらないない。むしろ、その逆かもしれない。

学生運動や反政府・反体制運動における抗議行動を、集団行動の優先ならびに個の喪失として批判する体制側の意見があったこと(それはいまもある)から、個性喪失への批判的眼差しは容易に想像はつく。実際、抗議運動に参加する人間は悪辣な指導者に騙されているか、もしくは脅されて参加しているにすぎず、また彼らひとりひとりは、個性を欠いた、あるいは放棄した無責任な存在であり、顔を隠して乱暴狼藉を働く無法者にすぎないという意見は、日本でも学生運動はなやかなりし頃には多かった。ヘルメットをかぶり手ぬぐいで顔の半分をマスクのように覆った抗議運動参加者たちに、顔を見せろと体制側の応援団は罵声を浴びせかけた。

しかし顔をみせたら最後、個人情報が徹底的にさらされ弾圧の標的にさらされるのであって、悪辣な体制側の抗議運動潰しには集団としてぶつかるほかないだろう。映画『Vフォーヴェンデッタ』(ジェームズ・マクティーグ監督、2005)では、全体主義化した近未来社会においてガイ・フォークスの仮面と装束がロンドン市民に大量に配られ、ガイ・フォークス化した市民たちが、顔と個性のない集団というか、全員がガイ・フォークスとなった集団としてが抗議運動に参加し、それが暴動へと発展し全体主義政権を倒すことになった(ロンドンの議事堂が爆破されて崩壊する映像は、ついにガイ・フォークスの夢がかなったと私は感動すら覚えた)。

全体主義政権が最も恐れることは国民が個性をなくして全体化することで政権を打倒することである。全体主義政権ほど国民の個性化を愛する政権はない。国民を個性化すること、つまり弱体化することで政権は安定するのだから。

こう考えれば『ダークレイン』に登場する少年は、たとえばディックの『火星のタイム・スリップ』に登場する自閉症の少年のように、恐怖の未来におびえ真実を見抜く超能力にめぐまれた、どこか聖なる輝きを帯びた不幸な天使的な存在ではなく、圧倒的に政権よりの保守的右翼少年なのだ(ネトウヨ予備軍みたいなものである)。ディックの小説に登場する少年には、どこか天使的な輝きがあるのだが、この映画の少年には悪魔的なものしかない。あるいは無邪気なるがゆえに悪を恐れぬ悪魔性とでもいうべきか。

そしてまた無個性という大きなテーマが最終的にみえてくると、この映画において、無個性はたんに容貌の問題ではなく、精神とか認識の問題とも関係するようになる。

映画に登場する医学生でトラテロルコに行かねばならないとあせっている男は、結局、会う者たちすべてを政府の回し者としてしかみない一面的なパラノイア的な認識能力しかなく、知的部分においても画一的な認識から飛び出てみることができない愚かさを示している、あるいは個性喪失をこうむっている。どうやらこの学生運動家の医学生が、最初に顔を失うらしいことと、あるいは同じ顔のモデルになっていること(ガイ・フォークスの仮面のように)と、彼の認識能力の画一性とは無関係ではないだろう。

いっぽう恐怖の一夜がすぎて、事件の現場検証をする警察官たちは、事件を、学生運動家のテロリスト的暴挙として片付けようとする。これも学生運動家と同一のパラノイア的画一的個別性無視の認識でしかない。この警察官たちに真相を語っても、彼らは聞く耳をもたないだろう。

こうしたことを考慮すれば、トラテロルコ虐殺事件は、すべて政府の陰謀としかみない学生や反体制的市民たちの画一的パラノイア的世界観と、すべてテロリストの政府転覆の陰謀としかみない全体主義政権の画一的パラノイア的世界観のぶつかり合いの結果生じたのであり、これは無個性的認識と無個性的認識のぶつかり合いでしかない。真実は、むしろオタクの幻想世界にある。無個性を見抜く個性的な眼差しによって、政治的衝突(無個性と無個性の衝突)を超越できる。

この監督は、10月2日の犠牲者を哀悼する気持ちはまったくないらしい。両論併記(中立性の主張)あるいは喧嘩両成敗的な超越的姿勢が、両論超越というかたちの体制擁護であることはこの映画監督には思いもおよばぬことらしい。あるいは、最初からそのつもりか。

そもそも喧嘩両成敗的な中立姿勢は、トラテロルコ虐殺事件当時からあった。政府は自己正当化に走り、メディアも過激な学生運動家の暴挙を非難、まさに犠牲者を責めるという卑劣な言論を展開し、自分たちも誤ったが、学生や市民も悪いという恥さらしな両論併記へと走っていた。オリンピックへの投資が政府の腐敗の大きな要因のひとつであるにもかかわらず、メキシコのメディアも、オリンピックを非難しないという政府よりの姿勢を示して、日本のメディアと同様の偏向ぶりに徹したのだが、こうした問題に対する解答が両論併記的喧嘩両成敗というのでは、犠牲者は二度も三度も殺されたようなののである。この映画監督が、ただの中立を気取る文学オタクあるいは映画オタクを隠れ蓑にして、反政府勢力をいまなお非難する右翼・政府応援団でないのなら、その証拠をほんとにみせてもらいたい。また応援団なら、できればオタクの宇宙のなかで、外に出られないまま、朽ち果ててもらいたい。そう願うのみである。

posted by ohashi at 20:52| 映画・コメント | 更新情報をチェックする

2021年08月13日

『サボタージュ』

Sabotage 2014年アメリカ映画。
始めて見る映画で、テレビで視聴。日本公開時には見なかったのだが、映画館で見ておけば良かったと後悔。CSで見たのだが、翌日か翌々日、地上波のテレビ(テレビ東京)でも放送していて、結局、二回も見てしまった。CSが字幕で。地上波が吹き替えということになる。

予備知識なしで見たのだが、素晴らしい映画で、驚いた。それも監督・脚本がデイヴィド・エアーだということで納得。

ただし、癖が強い映画でもあって、好みは分かれるかもしれない。グロいところは、きっちりグロい。どのくらいグロいかというと、最後の方に出てくる、冷蔵庫に入れられた裸の血まみれの死体は、テレビ東京版では、首から上しか映さなかった。まあ、午後3時に居間で見るような映像ではないし、またその惨殺死体をみての女性刑事の極度に動揺したリアクションも、ほとんどカットされていた。茶の間に出せないくらいグロいのである。

このグロさとともに、映画そのものも基本的にノワールで、暗く残酷な話なので、評価は分かれる、あるいは好き嫌いは分かれるかもしれない。ネットでの評価も、かんばしくない。

たとえば、先は見えている、筋は読めるから、ただグロいだけの映画だいうコメント多い。しかし、私は先を読めなかったので、私よりも頭がいい人が多いのだとうらやましく、またねたましく感じたのだが、しかし、それにつづくコメントはおよそ頭のいい人間の記すようなコメントではものばかりで、先が読めるとういのは、バカのまぐれ当たりか、たんなる見栄か、もしかしたら内容が理解できなかったからかもしれない。

そもそもデヴィッド・エアーの脚本は、どれもひねりがきいていて、先が読めない。『U-571』(脚本のみ 2000)だって、まさあんな風にうまくいくとは誰も予想できなかったにちがないし、『トレーニング・デイ』(脚本のみ 2001)にいたっては、デンゼル・ワシントン扮する悪徳警官をめぐって、ワルだけれども実は事情があってという、どんでん返しを期待したら、最後まで、どんでん返しがなく、ただのワルだったでおわるという、このひねりのなさは強烈で、まったく先が読めなかった。

この映画と同年の戦争映画『フューリー』(監督/脚本2014)も、まさか最後に、ああした玉砕戦法になるとは誰が予想しえただろう。もっともこの映画『サボタージュ』も最後は玉砕なのだが。

そして比較的最近作『スーサイド・スクワッド』(2016)のぶっとびぶりの源流は、おそらくこの『サボタージュ』である。実際、この麻薬取締局の特捜班も、収監された犯罪者たちを取締チームのメンバーにしたところがあるし、まさにそれはスーサイド・スクワッドそのものともいえるだろ。そして、ハーレイ・クインの原型は、この映画のリジーだとは、映画をみた者、誰もが思うところだろう。

アーノルド・シュワルツェネッガーの映画復帰後の作品としては、たとえば『エクスペンダブルズ』シリーズとか、『ターミネイター』シリーズなど、どれもフラットなキャラクターのアクション・ヒーローとしてのシュワルツェネッガーしか登場させていない。唯一、歳をとっても元気なところをみせつけた『ラストスタンド』の田舎の保安官役は、シュワルツェネッガーらしさがうかがえるのだが、こうした作品のなかでこの『サボタージュ』だけが、生身の人間としてのシュワルツェネッガーを現前させている――生身のというは、傷つきやすく、トラウマも抱えながらも、強欲で冷酷で、復讐の鬼でもあるという多面性である。それはまた法の執行者でありながら無法者でもあるという、麻薬取締チームのリーダーでありながら、麻薬組織のリーダーにもみえるという二重性といってもいい。

この映画をみてシュワルツェネッガーの部下のひとりにサム・ワージントンがいて我が眼を疑った。部下といっても、麻薬取締の潜入捜査員なので、見た目は、完全にワル、無法者、ギャングそのものである。そしてそうした柄の悪い部下のひとりをサム・ワージントンが演じている。最初、ワージントンがまだ無名の若い頃の映画なのかとかないと思った。しかし、そうではない。彼が『アバター』の主人公を演じたのは2009年。『タイタンの戦い』が2010年、『タイタンの逆襲』が2012年。いずれも主役であり、私としてはクロエ・モリッツを目当てに見に行った(忘れもしない、いまはなき銀座にあった映画館――上映開始時間が、理由は不明ながら、30分遅れた)『キリング・フィールズ 失踪地区』(2011)でも主役だった。比較的最近ではテレビシリーズ『マンハント』でもユナボマーを追いつめる捜査官役という主役だった。その彼が、こんなひどい役をやっているとは。

気の強い女性刑事役のオリヴィア・ウィリアムズは、似たような役を連続テレビドラマで演じていた(『ケース・センシティヴ』――アマゾン・プライム・ビデオでみた)ので、とくに意外性はないのだが、この映画でレジー役の、ミレーユ・イーノス。まさに『スーサイド・スクワッド』のハーレイ・クインの原型のような、この下品で残忍でよこしまなぶっとび女を、ミレーユ・イーノスが演じていることが最大の驚きである。彼女の出演している映画やテレビドラマを全部見ているわけではないので、誤認があるのかもしれないがが、こうした役は、彼女には実に珍しい。こういう役柄の彼女をみるのは初めてである。

映画のなかでは、サム・ワージントンとミレーユ・イーノスは、夫婦という設定だが、ふたりとも、これまでにない汚れ役をシュワルツェネッガーのもとで、嬉々として演じているというところがある。

そして実際、これはキャスティングの意味論あるいは緩衝効果ともいうべきものがあって、この見た目も、精神も、言動もすべて薄汚い麻薬取締特別版――まさに収監中の犯罪者を動員して作ったような特別版――は、ふだん、こういう役をしない俳優たちが演じているという意識がもてないと、ただ薄汚いだけであり、嫌悪感しかもたらさないだろう。

この映画において麻薬捜査班のリーダーは、レジェンドだけれどもまた悪徳捜査官というアンチヒーローでもあり、その利己的性格、執念深さ、腐敗ぶりは、シュワルツェネッガーが演じているとわからないと、ただ、不快なだけである。その意味で、シュワルツェネッガーと、彼の部下となっている名だたる俳優たちのもつ意味は大きいといわざるをえないし、彼らの顔認証ができないと、この映画は、不快な嫌悪すべき映画かもしれない。だから、ネット上での低い評価もわからないわけではない。

とはいえ私は、この映画のグロさにひきつつも、先の見えない物語と、切れのいいアクションシーンなどに感銘をうけた――CSと地上波で同じ映画をつづけてみたくらいなので。

内容について:最初は3時間ほどの大長編映画だったところ、100分ほどの映画に編集して縮めたとのこと。およそ半分くらいに縮めたことになるが、縮めたことによって、弊害が出ているかどうか、わからならいが、ただ、短縮ヴァージョンだけでも、それほど違和感はない。やや変わった展開と思えないところもないのだが、もしそれが短縮したことによる結果だとしたら、むしろ短縮して良かったのではということもできる。

資料によるとアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』が原作とのこと。しかし、これはまともに受け取ることはできない。孤島とか、それに類する閉じられた場所に、人びとが集められ、一人また一人と、人が殺されていくということはない。なるほど、麻薬取締班のメンバーが次々と殺されていくのだが、だからといって、それが『そして誰もいなくなった』を原作とした作品という理由にはならない。

閉じ込められて、ひとりひとり殺され、最後に全員死んでしまい、誰が殺したこのかわからないという作品と、麻薬組織の資金源をネコババしたために、組織から報復され、取締班のメンバーがひとりひとり殺されるという作品との間には、翻案であるともいえない、ゆるすぎる類似性しかないように思われる。

だからクリスティーの作品原作説は、無視していいようなのだが、真犯人は誰かということになると、そこだけはちょっと似ているような気がする。『そして誰もいなくなった』の真犯人の予想のできなさは、『サボタージュ』の真犯人の予想のできなさと通ずるところがある。犯人はすぐにわかるとういネット上のコメントは、バカのまぐれ当たりか、バカの見栄っ張りにすぎない。(なおアガサ・クリスティーつながりでいうと、クリスティーの謎の失踪事件を扱ったテレビ映画でクリスティを演じたのはオリヴィア・ウィリアムズである)

なお、これは私は見ていないのだが、ブルーレイ版には、別エンディングが納められてて、それを紹介しているネット上の記事を読むと、確かに、驚きの、また救いのないエンディングだが、それによって作品の内容が変わってしまうと、ネット上の記事にあるが、そんなことはない。

つまり真犯人は誰かについては、現行のエンディングでも、別エンディングでも同じである。そのネット上の記事は、109分の映画では真犯人はリジーだが、別エンディングからすると……と書いてあるのだが、109分の映画版でも、リジーは真犯人ではない。それはふつうに見ていればわかるし、109分の映画版でも、最後には、真犯人がわかり私たちは愕然とする。とにかく、別エンディングであれ、現行のエンディングであれ、真犯人は変わらない。そのことだけは、ここではっきりと述べておく。

この映画、冒頭で、麻薬取締班が組織の本拠地でその巨額の資金源を確保するのだが、次の瞬間、その資金の一部をネコババする。いっそのこと全部もらってもいいようなものだが、量が多すぎることもあるのだが、その、見方によってはほんの一部だけをネコババする。ただ、それでも急いで札束をばらしてビニール袋に小分けしてそれをトイレの配水管に流す。排泄物がつまっているトイレに。汚いことこの上もない。彼らがやっている汚い横領と、排泄物の汚さが響き合う。ここからはじまる、薄汚いを通り越した不潔で下品で腐りきった所業、言動の数々は、たんなる誇張なのだろうか。

潜入捜査をする以上、捜査官といえでも、ならずもののような姿格好と言動で存在をアピールするほかはない。だから捜査官なのか売人なのかわからないような設定というのはリアリティはある。日本でも暴力団を取り締まる刑事が、暴力団員に似てくるようなものである。これは日本の刑事ドラマでもおなじみのことである。

またDEA(麻薬取締局)の活動の実態については、何も知らないのだが、日本の麻薬捜査などもそうかもしれないが、闇があると言われている。たとえば麻薬の使用者とか売人や組織をあぶり出すために、捜査局そのものが麻薬を流通させることがあると言われている。餌を撒いて、よってきたカモを一網打尽にするようなものだが、これは、通常の犯罪捜査における犯罪誘発みたいなもので、麻薬中毒者を撲滅するのではなくて作り出しているのではないか。また警察組織内部に、押収した麻薬を売買して金儲けをする集団ができているというのも、アメリカなどの刑事ドラマではよくある設定である。そして芸能人などが摘発される日本の麻薬捜査の闇。冤罪まがいの摘発の犠牲になった芸能人も多いと思う。もっとも、こんなことを書いていると、ある日、突然、麻薬捜査官が私の家に現れ、私の家の片隅に麻薬を仕込み、それを自作自演で発見して、私を摘発することになるかもしれない。

公務員だから、ならず者ではないというのもおかしい。公務員のなかには、唾棄すべきならず者がいる。メキシコの麻薬組織のメンバーよりももっと残酷な人間以下の獣ののような連中が名古屋にいる。市長のことではない――市長は、ただのバカだ。

2021年3月6日、名古屋出入国在留管理局の施設に収容されていたスリランカ人の女性ウィシュマ・サンダマリさんが死亡した。出入国在留管理庁が調査報告書を公表したが、1人の命が失われたのに責任の所在も不透明なまま。処分が出され、名古屋入管の佐野豪俊局長と当時の次長への訓告、警備監理官ら2人への厳重注意で終わっている。

彼ら出入国在留管理庁の職員は、ならずものの殺人者といってもさしつかえない。実際、遺族に公開された、当時の録画映像では、管理官たちは、この女性を、まともな人間として扱わず、死ぬにまかせている。人一人殺しておきながら、厳重注意ですむのは、日本という人権無視の野蛮国だけだろう。もうこれで日本は、中国やミャンマーの人権無視を非難することもできなくなった。日本はほんとうにすごい。世界に冠たる人権無視の国だから。

日本にいて良かった。日本人の生まれてほんとうによかった。日本人は外国人を平気で殺し、さらにコロナ感染で苦しむ同胞の日本人をも見殺しにしている。日本、本当にすごい国である。

映画『サボタージュ』では、法の執行者たちがならず者であった。日本でも法の執行者たちのなかには、ならず者は多い。出入国在留管理庁とかその施設は、ならず者たちの巣窟である。そこの職員は、本来、収監者であったのだが、管理者として雇われていて、収容者を虐待し殺している。彼らはならず者班、もと収監者班、囚人班である。と、そう言われないような仕事をぶりを彼らはしているのだろうか。そこでの人権無視の実態は、絶対に暴かれ、断罪されねばならならない。

posted by ohashi at 03:48| 映画・コメント | 更新情報をチェックする