もともとこの本は並製本のはずであった。並製本、ペーパーバックといったほうがわかりやすいかもしれないが、私も内容からして並製本がいいのではないかと思っていた。価格も上製本よりは安くなる。上製本、ハードカバーといったほうがわかりやすいか。
並製本と上製本、それぞれ独自のイメージがあり、一概にこうとは言えないのだが、並製本の場合、軽い、持ち運びやすい、親しみやすいといったイメージがある。とはいえ、たとえばエンターテインメントの文庫本というイメージとは別に勉強のために汚したり壊してもよいというイメージもある。楽しみと学び。両イメージが並製本にある。
とはいえ上製本にも同じようなイメージの同居があるわけだから、やはり並製本と上製本の違いは、物としてみた場合の本として、価格の違いに落ち着くだろう。
エンターテインメントでもありまた勉強のための教科書でもあるという二重性をもった原著には並製がふさわしいと翻訳者である私もまた編集者もそう思っていた。ところが出版する際には上製本となった。それは最初から高額な定価を設定したからであり、5000円の本が並製本であるというのは体裁がつかないから、上製本にしたのである。
最初から5000円という定価ありきの話である。それに見合ったものにするために上製本にした。だが、そんなことをしていると、本はますます売れなくなるだろう。
私は正直いって、この翻訳は、翻訳の質あるいは読者への情報提供という点で、5000円でも安い位だと思っている。ちなみに私には原稿料はない。
と同時に、正直いって、この翻訳は、この薄さと内容からみて5000円は高すぎると思っている。ちなみに私には原稿料はない。
私が忸怩たる思いでいるのは、原稿料を要求すればよかったということではなく、本離れを加速させることに加担したということである。
なおここまでは前回と同じ話をしている。
装丁そのものは、動物の頭の骨を使った図柄で、地味で落ち着いていながら、けっこうインパクトもあるデザインで、本の表紙としては、これを一冊持っていても、悪くない(ちなみに私には原稿料はない)。
ではこれは何の骨なのか。ヤギ(Goat)の頭蓋骨とその大きな角である。ではななぜヤギの頭と角なのか。
Wikipediaの「ギリシア悲劇」の項には次のような語源と起源をめぐる説明がある:
ギリシア悲劇を意味する「トラゴー(イ)ディア」(古希: τραγῳδία、古代ギリシア語ラテン翻字: tragōͅdía)は、「山羊」(ディオニューソスの象徴の1つ)を意味する「トラゴス」(古希: τράγος、古代ギリシア語ラテン翻字: trágos)と、「歌(頌歌)」を意味する「オー(イ)デー」(古希: ᾠδή、古代ギリシア語ラテン翻字: ōͅdḗ)の合成語であり、「山羊の歌」の意味。英語の「tragedy」等も、この語に由来する。
つまり悲劇(tragedy)の別名は「ヤギの歌」(goat songもしくはgoat’s song)である。ただし本文に、ギリシア悲劇の起源あるいは語源についての考察はない。本書は悲劇の起源というよりも、その死後の生に関心があるからである。
装丁の図からみて、「山羊」の頭蓋骨と角であると読み取ることができた読者にとって→「山羊の歌」→「悲劇」というふうに連想がはたらいたとしてもおかしくない。この聡明な読者(まだ装丁を観ただけでは読者とはいえないが)に対しても、とくに働かなかった読者に対しても(これが何の図なのかわからなかった場合もあると私は思うし、その場合には、「山羊」についての話がはじまらないだろう)、とにかく、お詫びしなければいけないのは、本文に「山羊の歌」の考察は出てこないということである。お詫びします。
【ちなみにアイルランドの小説家ダーモット・ヒーリーDermot Healeyの小説にA Goat’s Song(1974)がある。著者イーグルトンもこの小説を高く評価していたので、「山羊の歌」について知らないはずはない。とはいえ古代ギリシアではなく、現代のアイルランドを舞台にして劇作家を扱ったこの小説は、誰もが褒める作品なので、イーグルトンによる高評価は珍しいことではない】
悲劇論の方向性について
従来の悲劇論は、古代ギリシアにおける起源の問題を扱うような研究は別として、視野が狭くなる傾向にあった。
本書でイーグルトンが触れているオルダス・ハクスリーの有名なエッセイ「悲劇と全体的真実」のなかで考察されている悲劇の特徴とは、まさに悲劇的結末にむかってわきめもふらず一直線に進行するひたむきさ一途さであり、その過程で、夾雑物は捨てさられ、純化と昇華が徹底される。しかし私たちの人生や社会にあるのは、純粋さだけでなく不純なものであり、夾雑物であり、カオスでもある。いや社会がカオスだけなら、それは悲劇的だが、どのような社会もカオスと秩序との混合体であって、そうなると一途で純粋な悲劇よりも喜劇のほうが「全体的真実」に近づいている――というのがハクスリーの議論だった。
【このブログでも、このエッセイについても触れた。かつては名エッセイとして知られ、昔の英文科ではよく読まれた。また翻訳もあったのだが、「全体的真理」と訳していた。Truthは「真実」と「真理」どちらにも訳せるのだが、このエッセイにかぎっては「真理」じゃないので今回の翻訳でもこの既訳については、古いこともあって、言及していない。】
悲劇論の多くは、まさにこの純粋志向の悲劇的特徴が憑依したかのごとく、純粋な悲劇をひたすら希求する。なるほどソポクレスの『オイディプス王』をギリシア悲劇のみならず悲劇全体のなかで最高峰の悲劇とみることには異論はない。だが、それゆえに『オイディプス王』でなければ悲劇にあらずという発想法になって、悲劇の定義を狭め、悲劇作品を限定してしまうことが、これまで行われてきた。
時代的にみても、ギリシア悲劇はそれが造られた時代と社会との間に親和関係があったのだが、それ以降は悲劇は形骸化する。古代ギリシアのギリシア悲劇こそが悲劇であって、あとはまがいもの、堕落した退廃的な作品にすぎないというのがこれまでの悲劇論の大勢でもあった。
著者は、これまでの悲劇論が、悲劇の最高峰・典型を言い募るあまり、悲劇作品の範囲を狭めてきたことを批判する。そのため本書では多くの時代の多様な悲劇作品が言及され考察される。それはまた悲劇という枠を超えた刺激的な演劇論にもなっている、いや、悲劇の多様性を考慮しつつ悲劇の可能性の拡大の試みともなっている。
それはジャンルとしての可能性の問題だけではない。歴史的な問題もそうで、近代の悲劇あるいは現代の悲劇に、古代ギリシア悲劇の栄光を求めてもむりだ、空しいというふうに考える読者がいれば、それはジョージ・スタイナーの『悲劇の死』に洗脳されているからである。
近現代の悲劇は、古代ギリシア悲劇の足元にも及ばないという悲劇の死の議論は、スタイナーの発案ではなく、それまでにも言われていたことがだが、スタイナーがそれを政治的にも(つまり近代の民主主義が悲劇の息の根をとめたというクソ保守の反リベラリズム思想に裏打ちされた)、また文学史的・演劇史的にも充実した議論へと完成させたのだが――実際、悲劇が死んだあとの時代の作品についてもスタイナーは鋭利な洞察をもとにすぐれた議論を展開している。
【ジョージ・スタイナーは私が学生時代にKO大学の招きで日本で講演や対談をしたことは記憶に新しい。ある雑誌に由良君美と安藤伸介(大御所・有名人であったので呼び捨てとなる)が、スタイナーの日本での講演を題材に対談していたのだが、そのなかでスタイナーの講演を聞いたKO大生の、あんなにわかりやすく美しい英語を話す学者・批評家はいないという賛嘆の言葉を、ふたりのどちらかが紹介していた。二人ともKO大生のその評価には対し異論はないように思われた。私も、その講演を聞かなかったことがほんとうに悔やまれたのだが……。
しかし、イギリスに行ってスタイナーがテレビで話しているのを聞いて私は愕然とした。ものすごい巻き舌の、ドイツ人が下手な英語をしゃべっているような、そんな英語で、こんなにわかりにくい汚い英語を話す学者・評論家はいないと思った(イギリスの大学の教員は、スタイナーに比べるとびっくりするくらい美しい英語を話していたので)。まあ最近、ミシェル・フーコーの講演・講義のフランス語の発音がひどすぎて聞き取れないということ語っていた研究者がいて、フーコーの肉声を聞いたことのない私はそんなものかと思ったのだが、話し方の上手い・下手とエクリチュールとの間に有意な関係性はないと思うものの、スタイナーもフーコーも日本で講演しているのに、内容ではなく、その話し方がひどいということが伝承として残っていないのは、よほどひどい話し方だったにちがいない。】
だが近代の民主主義とは相容れないために、近代以降のどんな悲劇も出来損ないたることを余儀なくされるというのは、おそらく暴論であろう。疾風怒濤時代のドイツの悲劇とか、イプセンとかアーサー・ミラーの悲劇は、どれも出来損ないなのか。またそれらを考慮にいれない悲劇論は、たとえどれほど鋭利な議論を展開しようとも、かなり一面的なものにならざるをえないだろう。
本書『悲劇とは何か』は、まさに悲劇の死以降の悲劇の死後の生を扱うことのよって、これまでの悲劇論の視野狭窄を回避する試みとなっている。またそのいっぽうで、悲劇の精華とも目される作品に対しても、そこに曖昧さや決定不可能性をみることによって、すでに語られているほど、純粋な作品でもないことを剔抉する。
決して大部な本ではない、むしろ短いと思える本なのだが(ああそれでいて翻訳が5000円とは)、議論そのものは、熱い。そしてその熱さが、この猛暑のなかで読者を熱中症にさせるのではなく、清涼剤にも等しいもの、塩分補給に等しいものになってくれることを祈るばかりである。
次回からは、ここで述べたことを内容に即して、解説したい。
