2026年02月15日

『またここか』

作:坂元裕二、演出:荒井遼、キャスト:奥野荘・馬場ふみか・永瀬莉子・浅利陽介、座・高円寺1、2月5日~15日。

少なくとも1週間前に観劇し、舞台の感想を述べる予定が、インフルエンザのため、ようやく14日に観劇することができた。本日は最終日、どんなに褒めても宣伝にはならないのが残念だが、しかし、宣伝するまでもなく、私の観た回は、満席だった。

劇場に入ると、そこには原作で読んだガソリンスタンドのサービスルームがリアルに出来上がっていて、思わず引き込まれた。と同時に、舞台の奥にも客席がみえる。舞台奥に鏡でも設置されているのかと思い、そこに着席する自分の姿が映っているかどうか確かめようとして、鏡でないことに気づいた。舞台奥にも、階段式の客席が設けられていて、二つの客席エリアで舞台を挟むことになった。

座・高円寺1は、劇場としてみると、中劇場か大劇場に匹敵する広い舞台と、小劇場規模の階段状の客席という配置となっており、広い舞台をどう使うかは、演ずる側にまかされているのだが、ただ小劇場規模の観客に対して舞台が広すぎると感ずることもある。今回は、広い舞台の半分を演技スペース、残り半分を客席として使い、通常の倍の客席を用意することになった。8年前の初演は観ていないのだが、おそらく今回が初めて試みだろう。再演とうたっているが、演出家も俳優も異なる、リブート版というべきものだろう。

原作(リトルモア、2018年)の帯には「父はなぜんだのか――ドロリとした状況と、反比例する小刻みな笑いの。滑稽なの物語。」とある。また後ろの帯には「ミステリアスな夏の一幕」というフレーズもみえる。確かにそのとおりで、最初はとまどいながら見始めると、目が離せなくなる。なぞがどんどん深まり、真相らしきものが見えてくると、そこに救いがないこともわかり、むなしさを感じつつ、最後は、なにかほっこりする。相反する要素がせめぎあいながら進行する不条理劇のようでもあって、観る者の解釈によって劇は様相を変える。

オールカラーのパンフレットはよくできていて情報量も多く読みごたえがあるのだが、そのなかで原作者の坂元裕二氏が、自身のこの作品を「バッドエンド」と考えていることだ。(今回の公演中、ご本人がアフタートークされていたようだが、それは観ていない)。むしろ、この作品は、救いのなない悲惨な状況を提示しながらも、同時に、救いとなるような結末を提示していないだろうか。観客の解釈にゆだねられているとはいえ、この作品を「バッドエンド」と思う人は、少ないのではないだろうか。

かつて戦前のアメリカの新批評では、「作者の意図を考慮する誤謬」(Intentional Fallacy)ということを主張した。作品の解釈や批評を行なうとき、作者の意図は無視してよい。そうしないと作品本来の意味を見失い、作者の勝手な意図にふりまわされることになる。そもそも作者の意図通りに作品が出来上がったかどうかは不明だし、作品には、作者の意図とは無関係に、内在的意味を宿している。作者とは作品の解釈や批評にとって障害でしかない。もちろん、人間が作ったものは、なんであれ、そこに意図というものがあるはずである。もし宇宙人が地球にやってきて、地球文明を理解しようとするのなら、自然物と人工物を区別し、人工物が何故何のために作られたのかを理解しないと混乱するしかないだろう。どんなものにも意図はある。しかし、芸術作品の場合、作者の意図は絶対ではない。むしろ受容者(読者や観客)が把握した意図の方が優位に立つべきである。私は個人的に作者というのは「歩くインテンショナル・ファラシー」だと日ごろから思っているので、今回、作者の坂元氏がどのように考えていようとも、この作品はバッドエンドではないと私は自信をもっていってのけられる。

劇中で小説家の根守真人/浅利陽介が語っているように、物語には「はじめ」と「終わり」、そしてそれをつなぐ「中」がある。この劇の最後の場面は、この劇のはじまりの場面とほぼ同じ(異なる部分もある)であって、「終わり」に「はじまり」が来てしまう。もちろん、物語それも終わりを見出せない物語を終えるときの一つの原則は、最初にもどることである。だから「最初」にもどる「終わり」方は、決して珍しいものではないのだが、この最初にもどった最後の場面は、唐突すぎて問題である。それは『またここか』というタイトルとも関係しているのかもしれないが……。

【この演劇作品の最大の疑問は、そのタイトル「またここか」である。パンフレットでもタイトルについて聞かれた坂元氏は、こう答えている。
タイトルはストーリーを書く前から決めていたんです。……僕の心の口癖なんですよ。いつも思うんです、「またこれか、またここか」って。結局新しいことってそんなに起きない。新しいいって十代の頃までの話で、そこから先は大体、「またここか」が続くから。仕事の面でも、生活の面でも、常に新しいことをやりたいけど、またここかってことが何回も起きて。でも、何かちょっとでも今までと違うことを見つけようと創意工夫して、少しでもまたここかって思わないうよおうにしているというか。ま、愚痴みないなタイトルですよね(笑)。

ああ神様、この悪魔みたいな坂本氏の首を絞めてもいいですか。】

最後の場面(第5場)をどうとらえるかで、この劇の意味がかわってくると思う。

すでに述べたが最後の場面は最初の場面と同じ、あるいは差異も含むから、焼き直しである。そうだとしても、なぜこの場面が最後に置かれているのか。基本的に最初の場面と同じ展開をするこの場面が、なぜ。

ひとつの解釈は、この場面は根森真人/浅利陽介が、弟の近杉祐太郎/奥野荘に書くようにすすめた小説の場面である。実際、前の場面の最後で根森/浅利は弟の書いた原稿の最初を朗読しながら退場する。その最初の部分が次の場面で劇として示されるのである。この最後の場面は劇中劇という面もあるのだろう。【もちろん、弟に小説を書かせるところ、そして最後の場面も、実は兄の夢という解釈も成り立とう。何しろこの兄は、よくしゃべるが、同時によく眠るのだから。】

ちなみにこの兄がなぜ弟に小説を書くようにすすめたかというと、弟の反社会的な暴力的な衝動を抑えるためである。根森はいう:「……全部文章にするの。やっちゃったら駄目なこと、人に迷惑をかけそうになった時【中略】、そういうのを書いて、全部そこに、そこに吐いて、小説みたいにするの。」(p.164)「小説に書くのは二つのこと。本当はやっちゃいけないこと。もうひとつは、もう起こってしまった、どうしようもなくやりきれないことをやり直すってこと。そういうことを書く。そこに夢と思い出を閉じ込める。それが、お話を作るっていうこと」(p.166)と。

したがって最後の場面は、弟の近杉が書いた小説の世界の舞台化である。そこでは店主の近杉とアルバイトの宝居鳴美/馬場ふみかが暇を持て余しつつ戯れているが、そこにとげとげしくぎすぎすした感じ、無理やり感のある笑いは存在しない。危険な欲望と法との弁証法的関係ではないが、法があり禁止がある限り、不穏で危険な欲望が生まれる。そのためそれを抑圧するため法が強化される。そこでますます危険な欲望が抑えがたくなる。むしろ禁止を緩和し自由な放任状態が実現すると逆に危険な欲望が消滅する。弟で店主の近杉が望んでいたアルバイトとのゆるやかな関係が実現する。

そこにメイド姿の女性/永野莉子が登場する。違和感のあるその姿も、近所の喫茶店の制服であり、ガソリンスタンドを探していた客を案内してきたのだとわかる。その客とは、兄の根森/浅利陽介であり、彼は自分が兄であると礼儀正しく自己紹介し、長年父の介護をしてきた近杉に礼の言葉を述べ、入院中の父親のもとにいっしょに見舞に行きたいと申し出る。近杉が望んだような、兄、その紳士的で礼儀正しい物腰と、弟の労をねぎらう謙虚で人間味のあふれる性格。すべて近杉が望んだことだった。最後の場面は、すでに犯した犯罪や危険な欲望の成就を、彼、近杉が、望ましいかたちに書き直した世界なのである。

これはけっこう容易に実現できる世界でもある。もしそれが気味の悪いほど実現不可能な世界、ユートピア的パラレルワールドであったらな、綺麗すぎて、幸福すぎてうそっぽく、まさにバッドエンドだといってもいいが、そうではなくそれは、バッドエンドを抑止するための防衛手段でもあって、その非現実性が現実的な効果を生むとわかるのである。近杉の夢想は、抑止効果がある。不穏な現実を、危険な欲望を腐葉土として、そこに花を咲かせることができたのだから。

これがバッドエンドなのか。今回の舞台では、最後の第5場には、原作にはないひまわりがガソリンスタンドの周囲に植えられている。黄色いひまわりで飾られた舞台。演出の荒井遼氏の舞台を知る者にとっては、これは、荒井氏の舞台のどこかで、あるいは荒井氏の舞台では必ずおめにかかる、まさに荒井遼・印といってもよい装飾と意匠である。荒井氏はこれをありえないユートピア的幕切れを暗示するためのわざとらしさを伝える仕掛けとしたのだろうか。それとも、おそろしい暴力と欲望の渦巻く世界を腐葉土して咲きほこる花という私たちの平穏な日常のありようと伝える仕掛けとしたのだろうか。

なお、結局は同じことかもしれないが第5場はガソリンスタンド店主のユートピア的夢想ではなく、むしろ現実そのもの、平穏だが、ありふれたドラマにもならない日常なのかもしれない。これが現実であり、第1場から第4場まで展開してきて事件は、すべて店主が夢見てきた悪夢、いや特定の個人の夢想を超えた、一般性を帯びる事態とみることができる。現実は平穏無事でありきたりで万事順調である。しかし、それはつねに悪夢の上に成立する砂上楼閣のようなものである。悪意と殺意、欲求不満と制御しきれない欲望、自暴自棄と殺人衝動が休みなくうごめく悪夢の世界が、いつ平穏な日常を突き破り噴出してきてもおかしくない……。

だから私たちの世界にヒマワリは咲く――絶望と希望に支えられながら。

付記
はじめて原作を読んだがとき、ガソリンスタンドのアルバイトの女性がもっているハンドスピナーというのが何かわからなかった。ガソリンスタンドで使う工具のようなものかと思っていたのだが、調べてみてそうではなかった。:Wikipediaによると
2016年末から米国で流行し始めた。【中略】2017年3月28日にYouTuberのセイキンが「アメリカで大人気」「ハンドスピナーとはなにか」と説明する動画を公開しており、この動画がきっかけとなり、日本でも爆発的なブームになった。【中略】日本では2017年秋頃にブームが終焉している。

とある。
原作ならびに初演時の2018年にはブームが終わっていたようだが、恥ずかしながら、私はハンドスピナーの存在も、ブームがあったことも全く知らなかった。ただ、今でも手に入るので(ブーム再来なのか、細々と売れているのかは不明)、どんなものか購入してみた。う~ん、これのどこが面白いのでしょう。

おそらく現在の若者たちも、ハンドスピナーについては知らない者が多いのでは。そのため今回の公演ではハンドスピナーをどう扱うのか興味を持ったのだが、原作どおりに、ハンドスピナーを回す、アルバイトの女性が登場した。となると逆に、それをみた若い観客層、あるいはその存在もブームも全く知らなかった私のような老人たちは、それをどう受け止めたのだろうか。興味がわいてきた。異世界感を抱いたのだろうか。
posted by ohashi at 15:29| 演劇 | 更新情報をチェックする

2026年02月10日

デュマ『アントニー』 アントニー劇1

1月26日の『役者になったスパイ』に関する記事のなかで、アントニオとセバスチャンのペアは中世以来、西洋ではペアになって描かれることが多いことを指摘した。西洋の初期近代におけるシェイクスピア作品ではアントニオとセバスチャンのペアがゲイ・カップルとして登場する。その際、セバスチャンはゲイのアイコン的存在だから、あえて指摘するまでもないのだが、アントニオは、ゲイであれ、そうでなくとも、特徴的な性格付けがなされている。この映画においてシェイクスピアの『十二夜』のアントニオと、そのアントニオの役を割り振られる警察のスパイの男性も、片やゲイ、片やヘテロではあっても、なにか共通の性格類型のようなものを認めることができる。今回は、その答え合わせをしてみたい。

アレクサンドル・デュマの戯曲『アントニー』である。私は、この戯曲の存在を知らなかったのだが、今回といっても、少し前のことだが、翻訳で読んでみて、主人公というかタイトル・ロールのアントニーが、いかにもアントニーしているので驚いた。

その前におことわりせねばならないのだが、Amazonでこの戯曲をみつけ、タイトルに惹かれて、電子書籍版を購入した。アレクサンドル・デュマ『アントニー 五幕散文ドラマ』中田平訳(デジタルエステイト2014)である。フランス文学の専門家ではなく、フランス文学の翻訳事情をよく知らない私にとって、この演劇作品の翻訳は、見知らぬ翻訳者と出版社、そしてださい表紙(失礼)によって、過去それも版権の切れた古い翻訳を電子書籍化したものと思った。失礼な話だが。

しかし読んでみると、わかりやすいりっぱな翻訳で、ゆきとどいた解説にも驚いた。つまり、これは過去の翻訳の電子書籍化ではなく、新しい翻訳であって、調べて観ると紙媒体でも販売されていた。また翻訳者の中田平氏は、愛知県安城市にあるデジタルエステイト株式会社から電子版と単行本の二種類の書籍を販売していることもわかった。デュマのこの『アントニー』は日本初の翻訳のようで、それだけでも価値のある本である。中田氏はデュマの戯曲を次々と翻訳されている。その仕事というか業績が広く知られるとよいと思う。実際、デュマの戯曲は面白い。

その戯曲の内容だが--アデル・デルヴェーのもとに三年前に姿を消したアントニーが手紙を送り、自身もやってくる。二人は相思相愛の仲だったが、アデルは両親が望むデルヴェー大佐との結婚に応じ、今は娘がいる。いっぽうアントニーは私生児だったこともありみずから身を引くのだが、アデルへの思いが絶ち切れず三年ぶりの訪問となる。しかしアントニーに会いたくないアデルは馬車で外出。そのとき馬が暴走、そこにとおりかかったアントニーが身を挺して馬車を止め、アデルを救うが自身は大怪我をして、アデルの家に運び込まれ、そこで再会となる。

結婚し娘もあるアデルは、かつての恋人アントニーを避けるのだが、アントニーへの恋心が再燃しアントニーに身をまかせるまでになる。そのことが社交界で噂になり、最後にはアデルの夫がストラスブールからパリにおけるアデルの居室へとかけつける。せっぱつまったアントニーとアデルは駆け落ちをしようとするが……。

なおロマン派演劇であって、三一致の法則は守られていない。場所も第一幕・第二幕はパリ、第三幕はストラスブールに近い宿、第四幕と第五幕はパリとなる。第一幕から第五幕の間に5か月経過する。なお幕と場面分割については、各幕は同じ場所というか同じ部屋で展開。登場人物の数に増減がある場合に場面がかわる。この点で古典主義演劇の作劇術を踏襲している。ちなみにシェイクスピアはこの方式をとっていないが、同時代の劇作家・詩人のベン・ジョンソンの演劇は劇作家が古典主義者を標榜しているだけにこの形式を遵守している。

読みやすくわかりやすい翻訳なので、作品を理解することは容易である。問題はアントニーがどこまでアントニーかである。

比較のためにシェイクスピアの『十二夜』のアントニーを例にあげる。

アントニーの出自は問題がある。デュマの『アントニー』では主人公は私生児ということで自身の家系を知らない。財政的援助を受けていて金に困らないようだが、誰から援助を受けているかはわからない。また母親も父親もわからず、孤児に近い。本人もそのことを嘆いている【『十二夜』のアントニーは船乗り・船長で、出自そのものは特に問題はない。】

その出自のせいもあって、アントニーは社会のなかで、自身の正体をカミングアウトできない秘密のアイデンティティを保持することになる。その私生児であることから、負い目を感じ、うしろめたい存在となる。【『十二夜』のアントニオは、イリリアとは敵対関係にある国の出身で、身分・出自を偽ってイリリアに上陸し、愛するセバスチャンを人目を忍びながら守ろうとうる。『役者になったスパイ』においても警察官であることを隠して劇団のエキストラになり、やがてアントニオ役をまかされる。アントニオは、その真の隠れた姿と合致する。】

アントニーは、自身が愛する者に対しては激しい情熱でもって接する。出自に問題があり、、身分などを偽っているために、そのぶん愛情と愛情表現がエスカレートしがちである。愛のためにはなんでもする男、それがアントニーである【『十二夜』におけるアントニオにとって愛の対象は男性だが、その男性のためには何でもすることを宣言する。】

アントニーは、愛する対象に翻弄される。あるいは愛する者に裏切られる。デュマの『アントニー』は、アデルを愛したことによって、身を亡ぼすことになる。アデルは悪意のある女性ではないし、決してファムファタールではないのだが、彼女との交流によって、アントニーは自身を破滅へと追いやることになる。【『十二夜』でアントニオは、窮地に陥ったセバスチャンの助太刀をするのだが、彼が愛するセバスチャンと思ったのは、実はセバスチャンの双子の妹で男装しているヴァイオラであり、彼女はアントニオのことは何も知らず、ただ戸惑うばかりだが、アントニオはそれを裏切りと受け止める。アントニオにとっては、愛する者に裏切られたかたちになる。シェイクスピアにおけるもうひとりのアントニオ/アントニーを思い出してもいい。『アントニーとクレオパトラ』のアントニー(アントニウス)。彼がクレオパトラに翻弄されることはいうまでもない。】

アントニーは情にもろい。アントニーは感情的というか感情にゆさぶられる。それも恋愛にかかわる感情に。片想い、競争心、嫉妬、怨嗟、怨念、未練など、報われぬ愛における感情の全レパートリーがアントニーの性格表現の全レパートリーとなる。アントニーは悪人ではない。だがアントニーにはどこか弱い。感情的にも、道徳的にも弱い。その弱さと不幸がつながっている。アントニーは哀れをさそう人物なのである。

決して悪人ではないが、かといって観客からの全面的同情と共感の対象となるかというと、そうでもない。かわいそうだが、全面的な同情と共感の対象にはならない、あわれだが、同時にうっとうしい、そうした人物なのである。そのような人物をどう形容したらいいのだろうか。いまのところいえるのは、それが「アントニー的」だということである。

デュマが主人公にアントニーという名前を選んだのは決して偶然ではない。偶然に翻弄され不幸になるのがアントニーという名前の人物の特徴だが、そうした人物にアントニーという名が冠せられたのは決して偶然ではないのである。

予告編:次回は、私がもっともアントニー的と思われる人物が登場する劇作品をとりあげたい。シェイクスピアの次の世代の劇作家(シェイクスピアとも共作したか、シェイクスピアを改作した劇作家)トマス・ミドルトンの『魔女』(The Witch)である(日本語訳はおそらくない)。こんなにアントニーしている人物はないと思われる人物が登場する。その名はもちろんアントニー。
posted by ohashi at 19:20| 演劇 | 更新情報をチェックする

2025年11月19日

『ヴォイツェック』ふたたび

昔々、『悲しき天使』というヒット曲があった。メリー・ホプキンスの歌唱をテレビで観たとき、そのいかにもイギリスらしい素朴な、そして親しみやすいフォークソングにいたく感動した私は、全世界的にヒットしていることにも納得した。その後、英語の歌詞を検討して、昔をなつかしむというこの曲が、なぜ「悲しき天使」なのか理解に苦しんだが、当時、日本でこの曲は自由に歌詞をつけられて歌われていたから、そうした日本語ヴァージョンのひとつとマッチしていたのだろうと考えたが、あとから、当時は、なんでも無差別に「悲しき~」とか、「~の天使」いうタイトルをつけるのが流行っていたと知り唖然とした。

日本でつけたいくつかの日本語の歌詞には、ひどいもの、吐き気がするものも多くて、このイギリスのフォークソングのしみじみとした味わいに及ぶものはなかった。最近では、この曲の歌詞、“Oh my friend we're older but no wiser.”というのは、私の座右の銘にまでなっている。

ちなみにこの「悲しき天使」の原題はThose were the daysで、このなかのリフレインには、シェイクスピアの時代に使われていたようだが、なんといってもシェイクスピアの『お気に召すまま』の台詞として有名になった(テオ・アンゲロプロス監督の映画のタイトルにもなった)「永遠と一日Forever and a day」というフレーズがある。【テオ・アンゲロプロス自身は『お気に召すままの』の台詞からとったのではないとことわっているので、『永遠と一日』の英語のタイトルはEternity and a Dayなのだが。】ネット上でこの曲の歌詞を日本語訳しているサイトがいくつもあるのだが、forever and a dayがシェイクスピアに端を発していることに気づけ、そして「永遠と一日」というフレーズのニュアンスを無視して、「いつまでも」と適当にごまかして訳すなといっていやりたい。

ただし、後年になって驚いたのだが、これはイギリスのフォークソングではなくて、「ロシアの民謡」であった。そういわれれば、ロシア風の音階ではないかと納得した。しかし、それはロシアの民謡ではなく、20世紀初期に創られたれっきとした歌曲であった。ロシア的であることは納得したが、民謡ではなかったことにも驚いた。しかも曲は、クレズマーというイディッシュの民謡にルーツに持つ音楽、あるいはロマ音楽の様式をとりいれたものということになり、ロシア的でもなかったことがわかった。もう、そういわれれば……と思うことはやめたい。自分自身の判断力のなさ、あるいはいい加減な情報の流されている自分の愚かさを痛感するだけだから。

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長い前振りだったが、9月に喘息じみた咳に悩まされ観劇をあきらめた『ヴォイツェク』が、地方公演から再び東京に戻って来たので、そしてチケットがあったので、観劇することができた。

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『ヴォイツェック』の原作そのものは短い芝居であって、ふつうに上演すれば、1時間30分もあれば確実に終わるのだが、今回は、それを2時間30分(休憩20分)の作品にしたものの上演だった。つまり原作のアダプテーションであった。主人公を北アイルランドのベルファストの孤児とし、長じて、ドイツのベルリンにNATO(ネイトー)軍の英国部隊の兵士として派遣され、ワルシャワ条約機構軍と対峙する日々を送る兵士に変えた。上官の髭を剃るとか、科学者の人体実験に参加することなどは原作と同じだが、しかし、それ以外に、原作を思い起こさせる設定なり人物なりはいない。ヴォイツェクの妻を誘惑する上官たちはいない。最終的に妻を殺すことは原作と同じだが、そこにいたる過程はずいぶんと違う。

だが、これは批判しているのではない。このアダプテーションは、原作以上にヴォイツックの内面を掘り下げるというか、そのトラウマを可視化し舞台化することで、原作にはない驚くべき深みと奥行を実現しえたのは特筆に値するのだから。

実際、原作を知らずに今回の上演に接した観客は、これを冷戦期の事件を扱った、それもいかにも英国的な演劇としてとらえるだろう。社会的・政治的に緊張の高まる北アイルランドのベルファストと、東西対決の最前線であるベルリンとは地政学的に同じ位相であることは誰もが気づくであろう。また東西緊張の真っただ中に派遣された英国兵士が、その緊張の中で心を病んでゆくというのも、ある意味、必然的かつ蓋然的な展開であるように思われる。主人公がヴォイツェックという英国系でもアイルランド系でもない名前をもつのは変だが、それはドイツでの事件であることとなにかつながりがあることをにおわせているくらいにしか観客は感じないだろう。

だが観客は驚くはずである。これはドイツの戯曲であって、ドイツ人のヴォイツェックを英国人の主人公にしたものだと知ることになったら。とはいえ、それで主人公の名前がドイツ系であることに納得することになるだろう。また医師(不思議なことにドイツ人ではなくイギリス人になっている)が人体実験をするのも、ナチスの医師が強制収容所でユダヤ人に人体実験をした忌まわしい過去の歴史を彷彿とさせる設定だったのかとも納得するかもしれない。しかし、観客はさらに驚くだろう。この芝居はナチスとは関係がなく、原作は19世紀(1835年頃)に書かれたと知れば。

逆にいうと、これは英国の芝居としては、実によくできているし、英国らしさ――それがどんなものかは定義できないが、なにかよくわからないが、これこそが英国風だと思わせるような迫力に満ちている。演劇的強度、人物の掘り下げ、悲劇へと向かう緊張感など、英国現代劇の要件をすべて満たしているような感がある。

また英国ではなく外国を舞台にした作品、ここでは冷戦下のドイツベルリンに駐留する英国軍人と、現地の人々との関係など、英国の芝居にありがちな設定である。またそもそも外国において、妻もしくは愛人を嫉妬ゆえに殺してしまうというのは、オセローの世界ではないか。まあヴォイツェックは、身分的にはオセローというよりもイアーゴーに近いのだが。またヴォイツェックの上官の妻が浮気をしているというか、夫の部下の兵士たちと次々と寝ているというのは、ほんとうに浮気するデズデモーナと老将軍オセローのようではないか(ちなみに、これは原作にはない設定である)。

したがって、今回のアダプテーションは、繰り返すが、いかにも英国演劇らしさがふんぷんとしていて、原作の舞台化というよりも、独立した演劇作品、それもきわめて興味深い英国的悲劇作品とみることができる。

おそらく今回の舞台は、同じ原作をもつアルバン・ベルクのオペラ『ヴォツエック』よりも原作ばなれした、独立した作品と思っていいのだが、しかし、同時に、原作にある未完成で未整理でなおかつ空白ですらある部分を丁寧に埋めたという点で、原作のあるべき姿、その完成形を、独自の追加創作によって示したという点で、アダプテーションの見本のような作品かもしれない。原作創作時には盛り込めなかった細部を、今回のアダプテーションは可能なかぎり盛り込んでいる。そのため、原作から離れているが、離れていることは、原作を変容させその完成形を見せてくれるプロセスの成果としてある。

そして、それがまた原作とは異なる演劇性を実現してしまったという皮肉な結果になる。

というのも今回の上演は、圧倒的にヴォイツェック中心である。主演の森田剛の全舞台をみているわけではないのだが、今回の役柄は珍しいのではないかと思ったが、その経歴を振り返ると、ヴォイツェック的な人物はけっこうこれまでにも演じていることがわかる。そのすべてを観ているわけではないのだが、今回のヴォイツェックは、まちがいなく経歴のなかでベストのひとつに入るだろう。

そして言えるのは今回のアダプテーションは、ヴォイツェクの人生を徹底的に掘り下げていることで、ベルファストで孤児になったことからはじまる苦難の人生とトラウマがねちっこく語られる。これに比して、他の人物は類型的な造型にとどまる。今回のキャストは、原作にある人物だけをあげると、大佐に冨家ノリマサ、医師マーティンに栗原英雄と豪華キャストなのだが、ヴォイツェックと同棲し、彼にからみ、また殺される役の伊原六花は、ヴォイツェックの掘り下げとともに、原作にはない重要性を帯びることになるが、栗原、冨家は、スター俳優の無駄遣いという気がしないでもない。その役柄が、ヴォイツェックの圧倒的な存在感の前にかすんでしまっているからである(また原作にはない上官の妻/ヴォイツェックの母(伊勢佳世)、同僚の兵士(浜田信也)らのほうが存在感があるのも面白いのだが)。

原作では上官や医師、その他の人物(アダプテーションでは消された)らが、ヴォイツェックと同等の存在感をにじませている。それはまたヴォイツェックだけが突出するのではなく、他の人物と同等の薄っぺらさしかないのである。そう、今回のアダプテーションにおけるヴォイツェックは、立体的(ラウンド)な人物である。しかし原作の彼は、二次元的というか薄っぺらい平面的(フラット)な人物である。他の戯画化された人物たちと同等の一人であって、傑出した一人ではない。ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』は、革命と政治をめぐるねちっこい芝居である。今回の芝居もヴォイツェックの内面を掘り下げ、その苦悩やトラウマや愛への渇望と狂気を惜しみなく舞台に現前させるねちっこい芝居である。しかし原作の『ヴォイツェック』は、ねちっこくない。

原作は、未完の複数の断章というかたちで残っているだけで、場面の順番も確定していない。そして短い場面の連続によって、ある特定の人物を掘り下げることなく、深さを拒否した平面的芝居に終始する。ベルクのオペラも、今回のアダプテーションも、ともにこの軽さには到達していない。凶器と嫉妬、社会的分断、不正と正義への要求というテーマは次々と登場するが、いずれも、ダイナミックな有機的関係を構成することなく、あるいはメタフォリックな関係性を構築することなく、メトニミックに流れてゆくだけである。

かつてアウエルバッハは『ミメーシス』の有名な序章「オデュッセウスの傷跡」のなかで、ホメロスの叙事詩は、「現在」しかない、たとえ語りのなかで過去の出来事が言及されても説明のための注釈としてしか機能しないのに対し、聖書の物語では、過去と現在がダイナミックにインターセクトする――過去は現在を変え、現在もまた過去を変える――と論じたことがある。この二つの潮流、ヘレニズム的潮流とヘブライイズム的潮流の緊張関係が、やがてヨーロッパ文学を形成するというのがアウエルバッハの議論だった。

それを思い出すなら、今回の『ヴォイツェック』のアダプテーションは、過去と現在とが交錯し、その交錯はまた西と東という二つの世界の対立(さらにイングランドとアイルランドあるいは北アイルランド)とも、交錯し、個人的な生と、政治と歴史そして社会との葛藤を私的かつ公的に展開していたといえよう。

それに比べて原作の『ヴォイツェック』は、そうしたダイナミズムを知ることはない。そこには現在しかない。過去はないし、過去との葛藤もないし、トラウマもない。いっぽうアダプテーションでは人間が動いている。過去を背負い、過去の重圧に押しつぶされている哀れなヴォイツェックがいる。これに対し原作では、輪郭だけのスケッチのような人物が動いている。そうスケッチ。天然色のアニメでもない、色のない粗削りな輪郭だけのスケッチの動画。それが『ヴォイツェック』であり、そしてだからこそ、『ヴォイツェック』は、モダニズムを超えて、ポストモダン的な演劇へと突出しているのである。

ベルクのオペラも、今回のアダプテーションも、原作をモダニズムにとどめようと、あるいはおしもどそうとしている。だが原作はモダニズムすら超えてその先をいっている。ポップなというと軽すぎるかもしれないが、戯画的で類型的で平面的な人物像が織りなす魅惑的な薄さを誇示する群像劇、それが『ヴォイツェック』の、なかなか見出してもらえない、現代性あるいはポストモダン性だと私は信じている。

今回のアダプテーションはすでに述べたように原作とは独立した演劇として観れば、とても優れた迫力のある舞台であることはまちがいない。実際、観客の誰もが息を殺して見入ってしまう力強さ、演劇的迫真性がそこにある。

けれども原作の舞台化としては、原作のもつ独自の良さ(おそらくは観る人を選ぶであろう良さ)は具現化されていない。おそらく亡き岩淵達治先生は、この舞台をみて、怒るにちがいないと思う。原作とは似ても似つかぬ劇として。とはいえ私の議論に対しても岩淵先生は同様に激怒するにちがいない。呼び出されてしっかり説教をくらうことはまちがいないだろう--お前は何もわかっていない、と。
posted by ohashi at 22:15| 演劇 | 更新情報をチェックする

2025年11月10日

明治大学シェイクスピアプロジェクト 2


明治大学シェイクスピアプロジェクト(以下MSPと表記する――これは正式な略号である)の舞台は、人物が登場して最初に台詞を発せする瞬間、なぜアマチュアがプロとしか思えない発声と台詞まわしをするのかと、いつも驚かさせるのだが、今回の『冬物語』でも、その驚きは、いつもと同様に、あるいはいちも以上に大きかった。

もちろん発声やデクラレーションだけではない、主要人物の存在感がはんぱないのであって、あとは観るの者の好みによって、レオンティーズが、ポリクシニーズが、ハーマイオニーが、ポーライナが、オートリカスが、それぞれの個性によって深い感銘をあたえることになろう。

また舞台装置や衣装というか美術については、これは上演の場(講堂でもあり劇場としても使える大ホール)の制約と、おさらく伝統を踏まえているのであろう、びっくりするような舞台美術ではなくて、どちらかというとアマチュア的な、学生演劇らしさが残る、まあ、ちょっとダサい舞台装置がMSPの特徴だったが、今回は、例年とは少しちがってプロの舞台美術に近いものとなった。

また衣装は、これは準備期間と予算の制約もあるのだろう(あるいはデザインがプロではなく学生によるもののせいか)、無国籍で、ややおとぎ話的で、アマチュアっぽい、少々ダサいという特徴は、今年も同じだったが、しかし、今年は、リアルであると同時にファンタジーでもあり、悲劇的でもあり喜劇的でもあり、深刻でもあり祝祭的でもあるという劇の特徴と見事にシンクロしていて、違和感を抱かなかったばかりか、劇中世界と見事な調和を達成していた。

台詞回しに戻ると、どうしてアマチュアがこんなに素晴らしい台詞を易々と口にできるのか、とにかく台詞回しのうまさに聞きほれていたし、それはまた、シェイクスピアが、当時の大劇場グローブ座の舞台ではなく、当時としては珍しい室内劇場であるブラックフライアーズ座での上演を考慮して人物の微妙で繊細な心理が観客に伝わる台詞を作ったことをあらためて実感させるものであった。

つまりシチリア王レオンティーズは、突然、后のハーマイオニーと、友人のボヘミア王ポリクシニーズと仲をというか不倫を疑い始めるのだが、そこにあるのは、不安と猜疑心からなる心理的苦悩であって、台詞がすべてである。オセローのようにイアーゴーに騙されて、口から泡をふいて卒倒するようなことはしない。レオンティーズにとって、イアーゴーは、レオンティーズ自身である。この自家中毒的葛藤をすべて台詞で表明しなければならないとき、台詞に説得力がなければ、すべてがだいなしになる。今回のMSPの舞台は、演者たちの見事な台詞回しによって、説得力のある見事な舞台が実現していた。

あと、これはいろいろな配慮ゆえの決定だろうが、熊が登場しなかった。『冬物語』では、「ボヘミアの海岸」というこの世に存在しない場所が登場する。そのボヘミアの海岸で、レオンティーズの家臣アンティゴノスは、「熊に追われて退場する」――シェイクスピア劇のなかで最もばかばかしいと言われているト書き(Stage Direction)である。

この熊は、本物の熊なのか、着ぐるみの熊なのか、熊の毛皮をかぶったのか、あるいは熊のはく製みたいなものなのか、昔から議論されてきた。この点については別の記事で語ることにするが、昨今の熊被害もあって、『冬物語』といえば熊なのだが、最終的には熊は登場しなかった。私が国内外で観た『冬物語』の舞台では、熊を登場させない演出もある。今回もMSPの舞台も、熊の存在を音響効果で暗示させるだけで終わっていた。私は残念に思うのだが、熊被害のことを考えると、たとえぬいぐるみのようなものであっても熊を登場させないのは英断だったかもしれない。とはいえ、熊被害に関係なく最初から熊は出さないことになっていたのかもしれない。そのへんはなんともいえないのだが。

あと劇は前半と後半で16年経過する。その後半の始まりに、「時Time」というコーラス役が登場して、30行余りの台詞を話す。その時、15行目の台詞あたりで、もっていた砂時計を逆転させる。あらたな時間がはじまることを暗示する。前半は悲劇。後半は、笑劇ではなく喜劇となる。そしてこの喜劇的後半が最後には奇跡へと至る。

ただ今回の舞台に登場した「時」は白いドレスの美しい女性で、女神というよりも妖精のような感じもしたのだが、あれが「時」をつかさどる超越的存在であると、この劇作品ついて何も知らない観客に思わせるには無理がある。『冬物語』はシェイクスピア作品のなかで知名度の高いものではない。知らない観客がいて当然である。だから、女性の「時」は美しすぎ洗練されすぎていて、なにかよくわからない。もっとどんくさく、いかにも時をつかさどる、たとえば「時の老人」のような人物にしてほしかった。せめて時計(砂時計でも、機械時計でも、デジタル時計でもいい)をもっていてほしかった。

とはいえ、演出としては、突然、若くきれいな女性が登場して、観客が不思議に思うことを狙っていたのかもしれない。それはちょうど、突然、熊があらわれて、観客が戸惑うのと似ている。熊という、いまや日本人すべてを敵に回している動物にかわって、妖精のような女性を出したということかもしれない。

ちなみに前半の最後に登場する、熊と、熊に食い殺されるアンティゴノス(ただしナレーションでのこと、実際に舞台で食い殺されるわけではない)のエピソードは、そのすぐあとの羊飼いの親子が赤子(パーディタ)を発見することから、死にゆく者と生まれたばかりの者との対照性が仕組まれていることはまちがない。そして熊に追われて退場するアンティゴノスの場面は、それまでの暗い悲劇的場面を喜劇的世界に転換させるピヴォットのような働きをしている。

私は学生の頃、今は亡き笹山隆氏(誰もが認めるすぐれたシェイクスピア学者だった)の、この熊を扱った論文を読んで衝撃を受けた。熊の登場が、観客操作と劇中世界の変換と連動していることの指摘は、当時は、誰もしていないかったように思われる。その考察の刺激性に私は圧倒された。ちなみに笹山ご夫妻は、北海道旅行中に、ほんとうに熊(子熊をつれた母熊)に遭遇されたとのこと。その時、笹山氏はやってはいけないことをしたらしい。つまり熊に背をむけ一目散に逃げだしたのである。取り残された奥様は冷静に熊に対峙しつつ、声を出して熊を威嚇し、ゆっくりと後ずさりして、その場を離れ難を逃れたとのこと。この話も、別の記事で。

熊の登場(今回の舞台では不在)が導く後半の祝祭世界は、そこにオートリカスという詐欺師・泥棒を登場させることによって、とりわけ彼が売り物にするのは、奇想天外な、あるいは下世話なバラード物語であることもあって、劇中世界の認識異化的視点への開かれや、虚構と現実との反転可能性の示唆など、通常の詐欺師的人物が帯びることのない役割をともなっていて、興味が尽きない。オートリカスは、たんなるトリックスターではない、というかそれこそがトリックスターの可能性の中心を体現しているのではないかと思う。

ちなみにこのオートリカス役の学生、とてもうまく存在感も抜群にあるし、劇がこの役に課した機能を真正面から受け止め、またその意義をみごとに発信していた。ちなみに彼が2年前の『ハムレット』公演で墓堀人を演じたときに気づいたのだが、左手の指がない。ある意味、ハンディを負っているのだが、そのハンディをまったく感じさせない力のある演技で、オートリカスという、けっこう面倒な役を演ずるのはこの人しかないと思わせ、アマチュア臭さは全く感じさせなかったことはすごい。なお指の件に関しては、私の親戚にも指のない者がいる。だから全く気にならないのだが、同時に、同じようなハンディのある人たちに、彼の頑張りと活躍が希望を与えることになることを確信している。

このオートリカスもそうだが、シェイクスピアは、ファンタジー的要素とたわむれている。「冬物語」というタイトルは、冬の物語りではなく(前半の世界の季節は冬だが、後半のそれは秋である)、かんたんにいえば「おとぎ話」「夢物語」という意味である。現実にはありえないおとぎ話ですが、まあ信じてくださいというタイトルの芝居のなかで、うそぽっい物語を売り物にする詐欺師を登場させるシェイクスピアは、虚構と現実との緊張関係を積極的に構築している--「ボヘミアの海岸」など、その最たるものだろう。「信じる者に、奇跡は起こる」とMSPのパンフレットには書いてある。もちろんそれに異議はないのだが、ただ、そういうあなた方はオートリカスとどう違うのですかという、けっこうやっかいな問題も生まれてくる。ただし、MSPに関しては、オートリカスと違うと自信をもって断言できる。オートリカスは、おとぎ話にうっとり聞きほれる人間から財布を盗むのだが、MSPはお金を一銭もとらないので、詐欺師ではない。

シェイクスピアの攻めたつくりは、劇の最後にあらわれる。本来なら、16年ぶりの友人との再会、死んだと思われていた娘との再会がクライマックスであるはずのところ、その場面は目撃者の語りですましている。いわばナレーションだけで終わっていて、観客の期待をおおきく裏切っている。

1989年『一杯ののかけそば』という童話が実話にもとづき誰もが泣ける童話として日本でブームをおこしたことを年配の人なら覚えておいでだろう。大みそか、そば屋に、若い母親とこども二人がやってきて、一杯のかけそばを親子三人でわけて食べたという話だが、それだけでは可哀そうな話だがそこだけでは泣けはしない。そこではなく、そば屋の夫婦が、この親子のことを覚えていて毎年大みそかになると現れるのではと心待ちしていたものの、いつしかあらわれなくなる。しかし、それでも夫婦は待ち続けて、やがて成人した二人の子供とともに母親がやってくる。待ち望んでいた親子が奇跡のように帰ってくる。しかも子供たちは立派な大人になり、そば屋夫婦に感謝の言葉をのべるのだ。長い時間のあとでの再会、待ってはいても再会できるとは思われなかった人物との再会は、時間的経過の介在によって、泣けるものとなっている。恥ずかしながら私は泣いた。

ただし作者の栗良平は、自作をテレビで朗読(口演)して有名になった(作品は毎日といってよいほどタレントや俳優が朗読していた時期がある)が、学歴詐称や詐欺行為によって、オートリカスさながらの詐欺師であることがわかり、お涙頂戴の作品への反発と作者が詐欺師であったことから、ブームは終わったのだが。【なおこの作品は映画化もされた。永井愛が脚本を書いていたことには驚いた。】

とにかく長い年月のあとの再会ほど、感動的なものはない。それも絶対に会うことがないと思っていた者どうしの再会となればなおのこと感動的である。シェイクスピアはそれを知っていたはずである。『ペリクリーズ』という、これもおとぎ話的なシェイクスピア劇では、死んでいた母親と娘が、またその夫ペリクリーズが、最後に再会するのだから。

しかし『冬物語』でシェイクスピアは感動的であることがまちがいない再会シーンをカットして、次の彫像場面を最後のクライマックスとした。このあたりの作劇術は、超絶技巧的で、けれんみたっぷりで驚異的なのだが、MSPも、実に見事な彫像の場面を用意してくれた。人間が彫像のふりをするのは、シェイクスピアの時代、現存ずる演劇作品としては作者不詳の『トラキアの悲劇』という作品があるのみである(私はそれを読んだが、なぜそんな誰も読まない作品を読んだかのかといぶかるなかれ、私は、『冬物語』を含む、シェイクスピアの晩年の劇で卒論を書いたからである)。シェイクスピアは『トラキアの悲劇』を知っていたかどうかわかないが、人間が彫像になる趣向は、神話や伝説(ピグマリオン伝説)、さらにはおとぎ話や民話にあっておかしくない。また演劇的な趣向としても、ふつうに存在するのではないかと思う。

今回ハ―マイオニーの彫像ぶり、ギリシア・ローマの彫刻のようではなく、人形やフィギュアのような形態で、けっこう真に迫っていた。その格好は、私のような筋力のない者には長時間していられない無理な格好なのだが、MSPの舞台では、その目覚め動き始める前まで、見事に微動だにせず静止し続けた。それを観るだけでも今回の舞台は価値がある。

また今回の舞台では、彫像の姿が実に美しく、人間に戻ってしまうとがっかりするかもしれない――私のような観客にとっては。そう、人形愛、あるいはフィギュア愛を刺激することもシェイクスピアは狙っていたふしがある。

そしてこのことをふくめ、今回のMSPの舞台は、シェイクスピアが狙っていたかもしれない、さまざまな挑戦的・挑発的効果を、可能な限り受け止め発信した点で、まさに語り継がれる舞台になったのではないかと思う。
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2025年11月09日

明治大学シェイクスピアプロジェクト 1

私は、東京大学の文学部で、シェイクスピアに関する講義を担当していたときに、毎回、課題として、レポート以外に、シェイクスピア劇一作品についての観劇記を課題としていた。

学期中にシェイクスピア劇(授業で扱わなかった作品も可)をひとつ観て、感想を書く(400字程度でよい、それ以上書きたければたくさん書いていいが、それを書くエネルギーがあれば、もっとべつの有意義なこと、あるいは楽しいことに使ったほうがいいともコメントした――一応、ここは笑いどころ)。

ただし課題レポートは評価の対象となるのだが、観劇記は、評価の対象とはならない。観劇記を出さなくても評価に影響しない。ただし、観劇記を出さない理由は簡単に書いて欲しいと要求した。先祖代々、演劇を観てはいけないという教えがあり、演劇を観たら親から破門されるというような理由を書いて欲しいと――ここは笑いどころなのだが、毎回まったく受けなかった。観劇記を出さなくても評価に影響しない。優れた観劇記でも評価に影響しない。ひどい観劇記でも評価に影響しない。なら、なぜ、それを要求するのか。

この観劇記の目的は、ふだんから劇場に足を運んでいる演劇ファンには関係がない。むしろこれまで一度も劇場に行ったことがない学生こそが、はじめて劇場体験をすることになり、これからの人生にとってなにか有意義なものを得ることになるかもしれない。

たとえば文学部の講義では、そのなかでさまざまな文学作品を紹介したり解説したりするものが多い。熱心な学生なら、授業で触れられたり論じられたりした作品を全部読むかもしれない。実際は、それは不可能に近いのだが。たいていは興味のある作品をのぞいてみる、あるいは読破する。演劇の場合も、戯曲を読めばいいのだが、上演されてこその戯曲なので、実際に劇場に足を運んで上演を観ることに意義がある。そこでシェイクスピアの講義ではシェイクスピア劇を劇場で観てはどうかということで観劇記を課題とした。

ただし授業ではいくつかのシェイクスピア作品を選んで講ずるので、扱われた作品が学期中にどこかで上演されるかどうかはわからない。そこでシェイクスピア作品なら授業で扱わなかった作品でもよいことにした。さらに翻訳劇でも英語劇でも英語や日本語以外の言語で上演されたシェイクスピア劇ならなんでもよいことにした(海外で観てきたシェイクスピア劇でもOK)。

とはいえふつうシェイクスピア劇はチケットが高額である。高額なチケット代を払って観劇記を作成する余裕のない学生が観劇記を出さなかったら、それで単位がないということになれば、不適切な授業として訴えられ裁判にでもなれば負けるので――ここは笑いどころなのだが、ここでも毎回、受けなかった――、観劇記は出さなくてもOKなのだと語った。

また無料で観ることのできる演劇はある。アマチュア劇団の演劇とか、学生演劇などは、無料で公開していることが多い。というか無料だからアマチュア演劇なのである。そうした演劇形態でシェイクスピア作品を観てもよいことにした。

そのなかで私がレベルの高い、プロの劇団にも引けを取らない学生演劇として、明治大学シェイクスピア・プロジェクトを毎年授業で紹介した。そのせいもあってか観劇記では、明治大学シェイクスピア・プロジェクトでシェイクスピア劇を観た学生がけっこういた。学生たちは高い評価を与えていた。いや、それはレポートといっしょに提出する観劇記なので、なにかぼろくそに書いたら教員の心証を悪くするから、高い評価しか書かないと思うかもしれないが、観劇記は成績評価の対象外であるから、好きなように書いてよいとも伝えてあるので、明治大学シェイクスピア・プロジェクトに対する高い評価は真実の声である可能性大である。

実は第22回明治大学シェイクスピアプロジェクト『冬物語』を観た翌日、二兎社公演『狩場の悲劇』(原作:チェーホフ、脚色・演出:永井愛)を観た。明治大学シェイクスピアプロジェクトの舞台は、二兎社公演と比べてもまったく遜色ない、むしろ肩を並べるような舞台だった。もちろん、これはけなしているのではない。どちらも優れた、完成度の高い舞台であることは申し添えておく。

【なお、シェイクスピア作品の映画作品は観劇記の対象外とした。映画館ではなく劇場に足を運び、舞台を観ることを要求したのだが、当時はまだ配信がさかんではなかった。現在明治大学シェイクスピアプロジェクトは、上演した舞台を配信している。詳しく確認していないが、ライブ配信とアーカイブ配信があるようだが。また一般に舞台を配信することはけっこう多い。私もそれらを視聴することが多い。またナショナル・シアター・ライブのように劇場中継録画を映画館で上映することもいまでは多くなっている。劇場へ足を運ばなくても劇場の雰囲気は充分に味わえる。そんなときもし私が授業していたらどうしただろうと、ふと思ったりした。】
明治大学シェイクスピアプロジェクト 2 へ続く。
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2025年10月24日

『西に黄色のラプソディー』

フライングシアター自由劇場 第六回公演『西に黄色のラプソディ』(原作 シングThe Playboy of the Western World、脚色・演出・美術 串田和美、10月20日~27日)を吉祥寺シアターに観に行く(本日ではない)。

串田和美氏によれば、
この作品は今回で6度目の上演になるけれど、今までで一番、ぶっ飛んだ作り方をします。これまでは酒場のセットをポンと置いたんだけど、最初は何もない更地から始めようと。そしてだんだんノスタルジーというのが少しずつ具体的に浮かんできて〔中略〕。本当は全てが不確かなノスタルジーに包まれてるようにしたいんです(公演プログラムp.22より)

ということだが、なぜノスタルジーにしたのか、最初は、よくわからない。更地といっても、舞台には鶏(生きている本物)が動き回っているし(鶏のいつもながらの力強い歩行に開演前に見入ってしまった)。嘘と祝祭的狂騒を基軸として、振り返れば結局夢か現実か定かでなく、終わってみればむしろ物悲しくなるといった出来事を扱う戯曲は、なるほど、ノスタルジーと同じ構造をしているのであって、串田氏の炯眼には感銘を受けた。

そのためか、ぶっ飛んだ演出でも、劇の基本構造は損なわれるどころか、むしろくっきりと際立つことになり、これはまぎれもなくシングのThe Playboy of the Western Worldの、おそらく誰にでも勧められる舞台である。

The Playboy of the Western World。シングの有名な代表作だが、タイトルの定訳がない。『西の人気者』とか『西の国の伊達男』と訳されている。私が持っているのは大場健治訳の『西の国の伊達男』を収録したシング選集(戯曲編)である。

Western Worldというのは、アイルランドで大西洋側を向いている地域。イングランド側を向いている地域に比べて田舎で辺鄙なところなのだろう。Playboyがうまく訳せない。いわゆる「プレイボーイ」なのだが、たしかに主人公の若者にはそう呼ばれて当然の要素があるが、同時に、その語が示唆するような都会的で洗練された(そして堕落した)要素というのがあまりない。また主人公は運動競技にも優れていて、このプレイボーイはいろいろな競技をプレイするスポーツマンでもある。さらにはほら話や嘘を語り、真実とプレイ(戯れ)をし、その真実とも虚偽ともつかぬ話で周囲の者を手玉にとる(プレイする)、詐欺師でもあるいたずら者でもある――この場合、プレイボーイの同義語はトリックスターである。と、こうなると適当な一語の訳語というのがみつからないのである。

あと、アイルランド文学や文化の専門家ではない私でも気づくこととして記しておきたいことがある。シングとアイルランドというと、ローカル性や文化的後進性だけが強調されて、アイルランドの持つ文化的先進性なり先端性、そして脱ローカル的な文化が見落とされることである。

たとえばシングの最初の劇、一幕物の『谷の陰』は、どうみてもアイルランド版『人形の家』なのだが、たとえば上記『シング選集【戯曲編】』では、どこにもそのことが触れられていない。地方の老人から聞いた話が元ネタとのことばかりが強調されて、この文化的後進国のアイルランドの田舎作家シングには、ヨーロッパを席巻したイプセン劇も、またヨーロッパにおけるフェミニズムも無縁と思われたのだろうか。ちなみに『谷の陰』の主人公の名前は、『人形の家』の主人公の名前と同じノーラである(『人形の家』のノラは、ノーラとするほうが正しいらしい)。

つまりシングは、アイルランドの土着文化なりローカル色を強く出した作品を残したのだが、同時に、文化の最新の潮流について無関心どころか目配りをしていて、れっきとしたモダニズム作家なのである。そうであるがゆえに、その戯曲のいくつかは、アイルランドのローカルな生活を描いていながらも、アイルランドの田舎者たちに気に入られなかった。そのようなシングの先進性とモダニズム性を無視していいのだろうか。

もうひとつ、アイルランド文化はギリシア・ローマ文化と直結していた。そのため、時々ショートする。アイルランドのことを何も知らないT・S・エリオットという評論家・詩人が、あるアイルランド出身の作家の手になるダブリンの一日を描く小説について、現代社会のカオスを、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』の物語になぞらえて秩序付けた快作と作者をほめたたえ、これこそがモダニズムの手法だと語って私たちをだましたのだが(しかもモダニズムの手法であるという勝手な断定が、その後、ほんとうにモダニズムの手法となった)、それはジョイスの特徴というよりもギリシア文化とショートしているアイルランド文化の特徴ではなかったのか。

ジョイスの『ユリシーズ』、オケイシーの『ジューノーと孔雀』というタイトル。そういえば、ブライアン・フリールの『トランスレーションズ』には、頭のおかしな男が、よりにもよってアテナ女神と結婚するという妄想を抱いていたのではなかった。

そしてシングのこの『プレイボーイ』。父親を殺したという若者の登場と、それにつづく狂騒は、まさにソポクレスの『オイディプス王』の世界――ただし近親相姦なし――ではないか。先に触れた『谷の陰』がローカルな伝承物語を『人形の家』とショートさせ、『人形の家』を基盤にして古い物語を読み解いた作品ともいえるのだが、もちろんそれはまた『人形の家』をアイルランドのローカルな伝承物語を鏡として読み解く試みでもあった。同じことは、『プレイボーイ』にも言えて、父親殺しの若者が英雄としてもてはやされるアイルランドの田舎の奇妙な出来事を『オイディプス王』という原型をもとに秩序付けたともいえるのだが、同時に、『プレイボーイ』は、『オイディプス王』に対する優れた注解(コメンタリー)ともなっている。

『オイディプス王』の場合、たしかに、ぶらっとテーバイにやってきたよそ者の青年が、どうして、後家の女性と結婚し、国王にまでなったのか、その間に何があったのかを考えると、オイディプス、やはりウーマナイザーというかプレイボーイではなかったか。それだけではなく、体力・知力にすぐれていなければ、国王になれない。彼はスポーツ万能のスポーツマンではないか。結局、ギリシア悲劇のオイディプスは、多義的な意味でいうプレイボーイではなかったのか。

しかもオイディプス、国王でありながら、最後には、父親を殺したことで罪人となり乞食の身となって追放されるのである。とはいえ、それはオイディプスが神に召される第一歩でもある。いっぽう『プレイボーイ』のほうでは、息子は民衆に殺されそうになるが、父親が生きていたことがわかり、父親とともに村を去るが、そのとき息子のほうは、象徴的に父を殺し、独り立ちをするのである。こうみてくると、『プレイボーイ』は、『オイディプス王』の、大胆かつ狡猾なアダプテーションとみえてくる。父親が死んだか死んでないか定かでないところは『オイディプス王』そっくりだし、後家のクイーンは、『オイディプス王』のイヨカステだし【それにしても後家のクイーンを演ずる銀粉蝶氏、歳をとられても、これ以上はないという美しさを示されて、今回の上演では、主役といってもよい圧的存在感を発散されていて、大いに感銘を受けた。ちなみに銀粉蝶氏とは、かつてブリキの自発団を立ち上げられた頃、一度だけお会いしたことがある――とはいえ、一言二言言葉を交わしただけで、会ったともいえないような出会いだったが――、以後、その活動は今日にいたるまで断続的だが追わせていただいている】、なんといっても、きわめつけは、この青年、劇の最後のほうでは足を焼かれそうになる――オイディプス同様に腫れた足首のなりそうなる。

幕切れは、老人(父親)と息子の出発だが、このとき三度殺されそうになる老人は、なにかオイディプスそのものとなり、その手をとって勇躍歩み出る息子は、オイディプスというよりも、目が見えなくなった父親(オイディプス)を導く娘のアンティゴネーのようにもみえる。さらにいえば、この親子は、旅芸人であり、行く先々で今回の出来事を語って観衆を楽しませることになるだろうから、この出来事は、エンターテインメント(演劇)の神話的起源ともなる。父親殺しの青年は、そのほら吹きといい、その身体的魅力あるいはカリスマ性によって民衆を魅了することといい、演技者、役者のメタファーである。
【嘘かほんとかわからないことをべらべらとしゃべり、その身体能力でみんなを魅了したあと、よその村や町へと父親とともに旅立っていったクリスティーを、一時はクリスティーとの結婚を考えていた居酒屋の娘ペギーン/那須凛はなつかしむところで原作は終わる。彼女はクリスティーのあとを追いかけてはいかない。だが、このクリスティーとその父親のプレイ(演技・詐欺・いたずら・遊戯)は、旅役者あるいは役者のメタファーそのもの、いやこの作品では、役者(プレイボーイ)そのものである。そしてペギーンのようにただなつかしむだけではなく、実際に、田舎町から、旅役者たちを追いかけていき、やがて自身も役者に、そして劇作家になった人物がいる。ウィリアム・シェイクスピアである。】

また出来事のカオスを『オイディプス王』によって秩序化したこの戯曲は、演技や演劇についての自意識性をにじませ、最終的に演劇の神話的起源ともなることで、ポストモダン的地平へと乗り出すのである――歴史的に回顧すると、当時のアイルランドの観客からの囂々たる非難をものともせず。

脚色・演出・美術の串田和美氏の舞台をすべてみているわけではないが、今回も含め、串田氏の舞台は(演出のことではなく、ご自身で出演されていること)、やはり違和感がある。
演技の質が違うのである。これをどう考えてよいかわからない。

もし独り芝居をされれば、癖のある独特の演技かもしれないが、違和感があるとか、演技の質が違うなどという感想をもつ観客はいないだろう。ところが他の演者にまじると、なにか違うのである。もし共演者たちが経験の少ないプロとはいいがたい俳優たちばかりだったら、串田氏の演技は、ずぬけて優れたものと言えるかもしれないが、今回のように、あるいはほかの場合もそうだが、共演者は、だれもが力のある、経験豊かな俳優たちであって、そのなかで、串田氏の演技だけが、下手とは思わないが、なにか異世界なのである。これをどう考えてよいかわからないのだ。

失礼を承知の上でいうと、串田氏は、こんなに優れた舞台を演出できたのだから――役者にどのようなかたちであれ演技指導され、役者もそれに応えて演出家の求める世界像にそった迫力あるドラマを生成できるのだから――、そして舞台美術もセンスのよさで際立っているともいるのだから、ご自身は舞台に立たなくてもよいのではないか。

しかし、むしろそこが面白いとことかもしれない。つまりこの劇『西に黄色のラプソディ』におけるように、よそ者は、なにか得体の知れない魅力のようなものを漂わせる――たとえその代償が周囲からの妬みや排斥願望だとしても。それと同じで、芸達者な演者のなかで、上手いとか下手というのを超越した異邦人的な串田氏は、その存在自体が、その違和感によって魅力となっている。なにか惹きつけるものをもっているような気がする。

今回、『西に黄色のラプソディ』では、主役は父殺し(と嘘をついた)クリスティーであり、串田十二夜という串田和美氏のご子息が演じられているのだが、作品上の主役・よそ者は、彼であっても、演技者のあいだでの、舞台での主役・よそ者は、串田和美氏であるように思われる。劇の内容のレヴェルでは、クリスティー/串田十二夜が主役だが、舞台レヴェル・演技レヴェルの主役は、クリスティーの父を演ずる串田和美氏ということである。そして、この劇作品『西に黄色のラプソディ』の内容は、串田和美氏(とその演技)を前景化する理論的根拠となっているという、ある意味、稀有な関係性を示している。劇の内容は父親殺しだが、演技レヴェルでは、息子が父親の存在意義を保証し補強しているのである。

であればこそ、今後も、串田和美氏の舞台をみてみたい――つまり演出家としての串田氏の舞台と、串田氏自身が劇中人物として登場する舞台を。

付記:
ここで宣伝をひとつ。このシングの『プレイボーイ…』について、短いながらもすぐれた議論を含むのがテリー・イーグルトン『悲劇とは何か』大橋洋一訳(平凡社1925)である。シングのこの作品は悲劇ではないので、どうせソポクレスの『オイディプス』の話がメインではないかと思われるかもしれないが、たしかに『悲劇とは何か』には、すぐれた刺激的な『オイディプス』についての議論があるが、シングのこの作品が論じられているのは「有益な嘘」と題された章である。今私が語ったこととは異なる観点から、シングのこの作品を鋭角的に論じているので、読まれて損はない、有益な本である。本の価格が5キロの米の値段とあまりかわらないのがこの本の唯一の欠点だが。
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2025年10月23日

『プンティラ旦那と下男のマッティ』

この記事は、上映が終わる26日以降にアップしようと思ったが(その理由は、記事を読んでいただければわかる)、しかし、ブレヒトのこの劇は、パブリックなパフォーマンスとしては、おそらく日本では2度目くらいであり、さらにはブレヒトについて、また主従をめぐる劇について、いろいろ考えさせてくれる貴重な機会を提供してくれるということもあり、宣伝もかねて、ここにアップする次第。とはいえ誰も読まないだろうとは予測しているのだが。
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『プンティラ旦那と下男のマッティ』17日から26日まで、座・高円寺1で上映中のブレヒト作『プンティラ旦那と下男のマッティ』(構成/演出:松本修)を観てきた。

ブレヒトのこの作品の上演をこれまで観たことはないし、そもそも読んだこともなかったので、今回、上演にあわせて岩淵達治先生の翻訳を予習のために読んでみた。

タイトルからして、一幕物のみじかい喜劇あるいは笑劇かと思っていたが、読んでみると全12場の本格的な長編作品である【岩淵達治個人訳の『ブレヒト戯曲集』(未來社)の第5巻には「肝っ玉…」と「ゼチュアン…」とこの「プンティラ…」の三作品が収録されているが、「プンティラ…」は他の二作品に質量ともに匹敵する】。しかもフィンランド亡命中にフィンランドの女性作家ヘラ・ウォリヨキとの共作というかたちで書かれたこともあって、フィンランドを舞台にして地方色が濃い。

はたせるかなフィンランドの豊かな自然の風景が喚起されるのだが、それと同時にしっかりフィンランドの黒歴史も語られる。第二次大戦中にはソ連とドイツの侵攻を受け苦境に立たされたフィンランドの苦難の歴史は、全世界的に憐憫の情を喚起したのだが、しかし、そのようなセンチメンタリズムなど踏みにじる――そして作品の随所で語られる――国内の反体制勢力弾圧の歴史が、資本家と庶民の分断の歴史がフィンランドには紛れもないかたちで存在していることを、ブレヒトは容赦なく暴露する。愛されるフィンランド。だがフィンランドよ、おまえもかという嫌悪されるフィンランドがそこにあった。

今回の上演では、「構成/演出:松本修」とあったので、この長い芝居を適当にアレンジして2時間以内に収めるのだろうと思っていたが、上演前に示された配役表をみて驚きまた期待がたかまった。全12場すべてを上演するのである。細かな省略やアレンジはあるにせよ、作品全体を観られるのはすばらしい。上演時間も休憩をはさんで2時間半近くに及んだ。

このところ、誰のせいでもないのだが、最近観る演劇の私の座席がすべてが見切り席みたいになってしまい、視界が前に座った観客のせいで遮られていたのだが、座・高円寺1は客席が傾斜が急な階段状でどこに座っても、またすぐ前にどんな巨漢が座っても、視界が遮られることのない、よい劇場である。小劇場の客席だが、舞台は、中劇場並み、いや大劇場といってもいいくらいに大きい。

そして上演が始まると、舞台の両脇には椅子が並べられ、そこに演者が座っている。演技する者と演技しない者とを同時に見ることのできるこの上演法は、演劇性を意識させる仕掛けであって、この作品のもつ、演劇性をしっかり照射するものであった。【ブレヒトにとっては、貧乏人もひとつ演技であり、どの芝居か忘れたが、私は、貧乏人のスプーンの持ち方というのをブレヒト劇から学んだ。】

先に述べた配役表にはエヴァ(プンティラの娘のこと)とあったが、岩淵達治訳では「エーファ」となっている。そこは変えたのだろうと思ったし、訳文自体も、「構成/演出」の松本修氏がつくったのだろうと考えた(翻訳者の名前は明記されていないので)。しかし、どうも岩淵達治訳を、ほぼすべてにわたって使っているような気がした。

それは「焼酎」というセリフからもうかがえる。あたりまえのことだがフィンランド人は「焼酎」を飲まない。ブレヒトは「美食家」とか「美食的演劇」を嫌っていたのだが、美食的もしくはそこまでいかなくても飲食物にこだわる人物やセリフはけっこう多い。ブレヒトの『男は男』だったか定かでないが、岩淵訳のなかに「生のビフテキ」というセリフがあって、なんだその不気味なものはと驚いたことがあるが、英訳で、それが「タルタルステーキ」であったことがわかった――「おまえなんぞタルタルステーキにして食ってしまうぞ」というようなセリフ。当時は「タルタルステーキ」と訳しても観客は誰もわからなかったのだろうからやむをえない処置(「生のビフテキ」)なのだろうが、「焼酎」もなんとかしてほしかった。

とはいえ、その他、舞台装置も工夫がこらされていて、この大きな舞台を立体的に活用していて、演出家の力の入れようも理解できたのだが……。

全体として、最後まで、はじけることのない舞台だったのが残念だった。

そもそも、これはいうまでもないことだが、〈主人と召使〉物は、ボケとツッコミの漫才パタンのひとつであって、面白くないはずがない。

この作品、大地主のプンティラとそのお雇い運転手マッティの話は、一応、漫才のボケとツッコミの拡大版として予想できるパタンがある。英国演劇でいえば、また日本でも人気のある、ロナルド・ハーウッド『ドレッサー』(The Dresser, 1980.映画化は1983)がある(『ドレッサー』のほうが、『プンティラ…』から影響を受けたかもしれないのだが、ただ、『プンティラ…』の場合、その原型はディドロの『運命論者ジャックとその主人』が指摘されている)。第二次世界大戦中、横暴でわがままな老シェイクスピア俳優と、彼をコントロールするその付き人が、『リア王』を上演中の楽屋でくりひろげるやりとりは、暴君的な老俳優と狡猾な付き人との笑いあり涙ありの活力ある舞台を出現させた。このパタンは基本的に舞台をはじけさせる。

そうしたダイナミズムは、最近の例としては映画『ベートーヴェン捏造』におけるベートーヴェンとその秘書アントン・シンドラーの関係にもみることができる。ベートーヴェンにパパゲーノとバカにされ解雇されるシンドラーだが、最終的に楽聖ベートーヴェン像を捏造する――それはベートーヴェンへの復讐かもしれないが、同時に愛でもあった。つまり、主人と召使のパタンは、劇的要素が詰まっていて、喜劇にも、時には主従逆転でスリラーにもなりうる(たとえば映画『召使』(The Servant、1963、ロビン・モームの小説をもとにピンターが脚本を書いた)。そうしたものを期待した観客には、あるいはとくに期待しなかった観客にも、今回の上演は、やや物足らなかった。

俳優の方々は、みんな、それなりにベテランでもあって、実際、みばえもいいのだが、こうした演劇(喜劇、ブレヒト劇、主従劇)をはじめて演ずるようにみえる(そうではないとしても)。数年前に近畿大学舞台芸術専攻の卒業公演で、この劇を上演したとのことだが、学生演劇一般の質の高さを私は充分承知しているし、その卒業公演をみたわけではないので、あくまでも学生演劇を観たことのない一般観客の偏見に満ちた物言いを想定しただけのことだが――今回の上演は、下手な学生演劇の舞台のようにみえなくもない。

プンティラ/孫高宏とマッティ/小谷真一のふたりは、最初は違和感があったのだが、慣れてくると、それもなくなって、実際とくに不満はなかったのだが、いかにも暴君的な主人と狡猾な運転手というこの二人は、役柄をかえて、プンティラ小谷、マッティ孫としても、芸達者なふたりは、それなりに別様の主従関係を見せてくれるのではないかとふと思った。役割を変えるというこのブレヒト的「処置」は、他の俳優たちにも適用すれば、でくの坊的男性俳優たちは、活気のある女性俳優たちと交代しては面白いのではないかと思った。ジェンダーの逆転が、この作品を活性化してくれるかもしれない。作品中の「外交官」は、物語のなかでは浮いているが、かといって舞台で浮いていいとは限らない。デルソ・ユリスは見栄えもよく力演なのだが、いくら物語レベルで浮いている道化的人物だからといって、舞台で「異人化」する演出はいかがなものかと思った。

ただし、このブレヒト劇のむつかしさが舞台から活気を奪ったということもあるだろう。いかにもありそうな主従関係物語なのだが、こうした劇の例にもれず、悪辣な主人の方が魅力的で人間的にみえてしまうのは避けられない――たとえ酩酊するときに限り人間的になるとしても。そして召使の側の活躍が、この劇ではいまひとつ地味である。ただし、あまり活躍しすぎると、トリックスターとしての魅力はますが、同時に、召使の側が、犯罪者にみえてしまい、作品がスリラー化あるいはホラー化する。主人を聖人化しないために、また召使を悪魔化しないために、どうすべきかは、舞台にこの作品を載せる俳優たちや演出家にとっての難題である。

幸か不幸か、現在では、プンティラ的気前の良さと横暴さと冷酷さ、まさに暴君的大地主・資本家の自己中心的暴走は、トランプの予測不能な(だか同時にいかにもという)言動を思い起こさせ、同情の余地なき不快なものである(少なくともトランプ支持者以外の人間にとっては)。したがってマッティが最後にプンティラに背を向けることは必然的成り行きのように思われる。プンティラがどうなろうが知ったことではない。

プンティラのもとを去るマッティの最後の台詞、召使がよき主人をみつけるのは、みずからがよき主人になったときであるという趣旨の発言は、階級闘争の真実をみごとに要約している。それはけっしてブレヒト流の解釈ではないと思う。つまり召使がよき主人を探そうしても、けっしてみつからない。みずからがよき主人となるしかない。階級闘争には和解も融和もそして休戦もない。あるのは勝つか負けるかである。勝つしかない。勝ってみずからが主人となるほかはない。そのときは、苦しみぬいた召使たち、庶民や労働者や農民たちは、愚劣で残忍な主人ではなく、よい主人となっているだろう。召使の学びとは、主人のようになるのではなく、主人のようにならないことなのである。脱・模倣、脱・まなびが求められる。あらゆる主人、あらゆる教師は、反面教師なのである。

はたしてこのブレヒト的学びを、この難題を、いいかえるとブレヒト的叙事演劇の要諦を、俳優や演出家はうまく伝えるような試みは何度もなされるべきだろうか。ペシミストは、イエスというだろう。オプティミストはノーというだろう【ミスプリントではなく、パラドックス--原作を参照のこと】。


これは今回の上演とはまったく関係のない話だが、以前、ブレヒト劇をみたとき、上演前の劇場の床、それも席と席のあいだ(たとえば横に広がるA列とB列の間の空間のようなところに)にうつぶせに横たわっている観客がいたのを私は発見した(すぐ後ろの列の席に座ろうして)。驚いて、どうしたものかと一瞬戸惑ったが、すでにこの異変に気付いた観客が係員に通報したらしく、係員がとんできた。係員に声をかけられたそのうつ伏せの観客は、腰が痛くて、こうしていと楽なのでと話して周囲を驚かせた。かなり大柄な客だったが、立っていても座っていても腰が痛い、床にうつぶせになっていたら痛くなくなる? そんな病人なら、芝居なんかみにくるか。早く家に帰って安静にしておけと心の中で思ったのだが、その後、その男は移動して自分の席にもどったようだ。自分の席の近くの床のにうつぶせになっていたわけではなかった。なんだこの男は、とあきれたが。

今回、私は座・高円寺1の劇場で、遮ることのない視界を大いに満喫したが、隣に座ったクソジジイが、大きな咳をするは(マスクは着用していない)、自分の禿げ頭や足をさすったりする。勝手にそうすればいいのだが、ただその都度、揺れが私の座席にも伝わってきて、舞台に集中できないことが多かった。さすがに我慢できなくなって、横にいるそのクソジジイをにらみつけ、「こんな奴は死んでしまえと言えばいい」と思った瞬間、その足元が目に入った。地下足袋のように指先が二股に別れている革靴なのである(いわゆる仕事用の地下足袋とは異なる)。え、こいつ、二股の蹄、悪魔あるいはバフォメットかと思わず息をのんだ。と同時に、まさか悪魔であるはすがないので、なにか足に障害をかかえている人かもしれないと思い、「こんな奴は死んでしまえと言えばいい」とは思わないことにした。障害者をせめるのは絶対によくない。しかし、帰宅してから調べてみると、おしゃれで地下足袋型のブーツをはくこともあるとのこと。やはりあのクソジジイは、足に障害を抱えているのではなく、たんにおしゃれでそのようなブーツをはいていたのだ。一瞬、悪魔かとひるんだ私は大バカだったが、それにしても、そんなに体調が不良なら劇場に来るな。しかもどうしてもブレヒト劇を観たいから劇場に来たというのではまったくないようなのだが。ブレヒト劇は体調不良者を呼び寄せるのか、神様いや悪魔が、私に意地悪をしているのか。
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2025年10月18日

『埋められた子供』

Pit昴/サイスタジオ大山第一での劇団昴公演(10月3日から19日)、サム・シェパード作『埋められた子供』広田敦郎訳、桐山知也演出を観る。

実は最近というか観劇の直前まで、ひどい咳に悩まされ(実際、9月にはそのために『ヴォエツェク』を観ることができなかった)、しかも、この芝居、ドッジ/金尾哲夫という70歳代の家父長が最初から激しく咳き込み、薬代わりにウィスキーを飲み、煙草も吸うため、最後あるいは最期まで咳が治ることはないために、なおのこと、つられて私も咳き込むのではないかとかなり心配はした。幸い、咳の発作もおさまって快方にむかっているようなので、上演中、私は一度も咳をすることはなかった。ほんとうによかったとしかいいようがない。

なんとか咳もおさまったようなので、あきらめかけていた、ブレヒトの『プンティラ旦那と下男のマッティ』を来週、観劇することにした。

サム・シェパードの芝居は、いくつか読んだり、舞台(翻訳劇)で観たこともあるのだが、『埋められた子供』は、読んだことがあるような気がするのだが、内容はすっかり忘れていたので、今回は予習のつもりで読んでみた。Revised editionだったので、初演とどこがどうちがっているのかは気になったが、確かめてはいない。そもそも、今回の演出は改訂版をもとにしたということでもあるので。

劇中に「ヒットラーだってヴェジタリアンだった」というセリフがある。今でこそ、有名な事実だが、私がはじめてこの作品を読んだときには、その事実を知らなかった。というかそういうセリフがあることを覚えていなかった。最初はどうしたのだろう? 変なセリフだと思いつつ読み飛ばしたのだろうか。そもそも決して難しい英語ではないのだが、ひっかかると先にすすめなくなるので、忘れて先にすすんだのだろうか。

ヒットラーはヴェジタリアンで、ナチスは環境にも配慮していたことは、アニマルスタディーズやエコロジー界隈では衝撃とともに受け入れられたのだが、ヴェジタリアンやエコロジストがファシストということではないだろう。私などは、むしろあっけらかんと、ヒットラーの個人的好みあるいは利用できるものはなんでも利用するナチスの策略(そもそもナチスは、共産主義者を弾圧するいっぽうで社会主義を標榜していたのではなかったか)と気にしてはいないのだが。

そのようなことがあったにせよ、今回の上演は、私が原作を読んで想像した舞台と、そんなに変わっていなかったので、充分満足した。もちろん私の想像と合致していた舞台ということが、優れた上演ということにはならないだろうが、それにしても、丁寧に原作を英語で読んだ一観客である私が、原作との相違に驚いたり、苛立ったりしなかったのは、翻訳者の正確で丁寧な訳文と、演出家の原作へのリスペクトにあふれた上演ゆえであるとまちがいなく言えるだろう。

またこの作品は、リアリズムであるとともにマジック・リアリズムで、堅固な現実に裏打ちされているようで、不安定な幻覚的要素もあり、複数の世界線が共存する、ある意味、とらえどころのない作品ながら、同時に、劇的な衝突は、劇場的なリアルとなって、けっこう私たち観客を揺さぶるところがある――端的にいうとよくわからないながら、迫力に圧倒されるのである。

それを確信させてくれるのが舞台での俳優たち(家父長ドッジ/金尾哲夫、妻のハリー/一柳みる、長男ティルデン/佐藤洋杜、次男ブラッドリー/中西陽介、三男のヴィンス/赤江隼平、ヴィンスのガールフレンド・シェリー/高橋慧、牧師デュイス/宮島岳史)のすばらしい演技で、正直言って、劇が終わったらスタンディング・オベイションをしてもよかった、あるいは私以外の誰かがそうしてもよかったと思うのだが、幕切れが、そうした熱狂をやや場違いなものにするものであったので、千秋楽でもないので、誰も立ち上がることはしなかったのだろう。【金尾哲夫のドッジは、咳をしていても、あるいは咳をしているからこそ、そして破綻者であっても、あるいはそうであるがゆえに、強烈な存在感で舞台を引き締めていて、すぐれた人選というか当然の配役だと思うのだが、金尾氏は、映画やドラマでエド・ハリスの吹き替えをしていたとのことで、それでドッジ役に選ばれたのかもしれない2016年の上演ではドッジをエド・ハリスが演じていたのだから】

今回予想しなかった舞台構築として、原作では二階につづく階段がある。小劇場とかスタジオでの上演が一番しっくりくるような作品だが、その舞台装置は、けっこう多彩で、たとえ二階というか階上のようすは示されることがなくても、舞台に階段をもうけることは、それなりに大きく広い舞台を必要とすることがわかった。今回、サイスタジオ大山第一の舞台では、階段を舞台に設けることはできなくて、階段状の客席の中央通路を階段にみたてる演出だった。

それはいいとしても、不気味だったのは、部屋があり、アメリカンなスクリーン・ドアがあり、そして玄関ポーチがあるのは、原作どおりなのだろうが、部屋の背後に壁はないために、家の外であるはずの空間が、見えてしまう。というか本来ならそこに雨空あるいは翌朝の青空がみえるところ、あるのは劇場の壁でしかない。しかもその壁の、あくまでも劇場の壁の、窓とかドアがあるらしきところに板張り枠が貼り付けてあり、外部の光景を遮断している(本当は窓などないのだろうが、板張り枠をつけることで、そこに窓があるかのような錯覚をあたえる)。ここには演出上の工夫があるのだろう。たとえばこの舞台での家族たちは、実は、この廃屋というか納屋あるいは物置小屋に住み着いている幽霊ではないかという。もちろんほかにも解釈はあろうが、そこは原作にはないかなりエキサイティングな解釈となっているとはいえるだろう。

ちなみに、『埋められた子供』とほぼ同時期(10月11日から18日)に、水道橋のIMMシアターで、清水邦夫原作『狂人なおもて往生をとぐ』を上演していた。もちろん両作品は異なる作品で、『狂人』のほうは原作を読んだかぎりでは、メタドラマ的二重構造というか、一周回ってもとにもどるという構造で、『埋められた子供』とは趣向が異なるのだが、ただ、両作品とも家族物語である。ともに家父長が破綻者であり、そしてどちらも二階に通ずる階段がある(IMMシアターでの公演には行かなかったし、行く予定もなかったので、確かめることはできないが、階上へと続く階段を使ったのかどうかわからないが)。そしてあえていえば、どちらの作品にも近親相姦がある(『埋められた子供』もどこに近親相姦がと思われるかもしれないが、それは解釈上の問題)。ふたつを比較しながら論ずることは面白いのではないかと思うが、それはいずれ、チャンスがあれば。


posted by ohashi at 22:11| 演劇 | 更新情報をチェックする

2025年09月15日

『ヘヴンアイズ』

現在、上演中の演劇作品なので、ネタバレ的なことあるいはネタバレそのものは書いてはいけないので、まずは観劇記を。作品そのものについては、いずれ上演終了後に書いてみたい。

9月12日より「すみだパークシアター倉」で、デイヴィッド・アーモンド作、高田曜子翻訳、荒井遼演出の『ヘヴンアイズ』を上演中(9月17日まで)。

デイヴィッド・アーモンドは日本でも人気のある小説家・児童文学者で、『ヘヴンアイズ』ももとはジュヴナイルあるいはヤングアダルト小説。日本語訳も存在している。『へヴンアイズ』金原瑞人訳(河出書房新社2003)――もう絶版か品切れと思われる。ちなみに『ヘヴン・アイズ』という表記もみられるが、正式の書名としては『ヘヴンアイズ』。

私は原書で読んでいたが、基本的にジュヴナイルなので、英語は難しくない。ほんとうにas easy as easyでas lovely as lovely【←こういう英語のフレーズはありません。良い子はマネしないで】。小説としては、孤児院の子供たち3人が脱出する話で、けっこうスペクタクル。これをどう舞台化するのだろうかといぶかった――もちろん脚本家、劇作家に、できないことはないので、やってしまえるとは承知のうえで。今回は、原作者アーモンド自身が舞台化しているので、もちろん省略や変更はあるのだが、原作の小説の流れをうまく組み込み、原作の特質を失うことなく見事な劇化をしていた。

けっこう予想外の展開をする原作の小説の構成を演劇版でもなぞっているので、観客としてもその展開を楽しむことができる。また原作小説のスペクタクル性は、さすがに舞台では再現できないのだが、しかし、それでもむりのないかたちで、また観客が誤解したり戸惑ったりすることないかたちで、スペクタクル性も温存していたのは特筆に値する。

作品についての議論はここではしないが、小説版の時間と空間を、省略と変更を加えたうえでひとつの舞台に設定することで、小説版にはない圧縮性と重層性が生まれ、それが小説版では潜在していたかぼんやりと示唆されていた主題を浮上させた。これは演劇版をつくった原作者の技巧の妙か、演出家の荒井遼氏の手腕か、おそらくその両方だろうが、リアルでありまた不思議な世界がそこに生まれていた。

原作の小説版の読者なら、小説のあらすじを語ることができる――事件は一応リアルなかたちで展開し、謎やサスペンスも最後には回収される。と同時に、そうしたあら筋ではすくいきれない不思議なこともいっしょに起る。この小説の二重構造は、舞台ではひとつになる。リアルな出来事が展開しつつ、不思議なこともいっしょに起る。観客は、限られた舞台装置のなかで、認知力と想像力の両方を働かせて劇行為を受け止めるのだから。

「すみだパークシアター倉」は、劇場のウェブサイトによれば、JR総武線/錦糸町駅(北口)より徒歩15分、都営浅草線/本所吾妻橋駅(A2出口)より徒歩13分、都営浅草線・京成線/押上駅(A2出口)より徒歩14分、半蔵門線・東武線/押上駅(B2出口)より徒歩15分、とうきょうスカイツリー駅より徒歩12分という実に不便なところにある。私はとうきょうスカイツリー駅から南下したのだが、劇場までの道筋は簡単でわかりやすい。

「すみだパークシアター倉」の「すみだパーク」というのは存在しなくて、「(墨田)区立大横川親水公園」のこと。スカツリーから南下する場合、この大横川親水公園に沿って歩くと面白い。春日通の下(上を車が通っているのに、橋の下は、どういうわけか一瞬、無音の静寂の世界となる)をくぐるとそこに小広場がある。この小広場、あるいは横川に向かって「すみだパークシアター倉」が建っている。翻訳者の高田曜子氏がパンフレットに書かれているように、「この作品にぴったりな劇場」である。

【数日前に東京を襲った豪雨による水害が、この横川周辺には及んでいなかったのは幸いであった。もし水害になったら、これはこの演劇作品の世界そのものともなって、冗談ではすまないところだった。】

「すみだパークシアター倉」の内部の観客席については、ネット上のサイトに写真があり、それをみていただければわかるのだが、客席の傾斜も急で、これならどこに座っても舞台がよく見えるよい劇場である【唯一の欠点は、トイレが少ないこと。男子トイレも女子トイレも開演前には長蛇の列ができる】。

ただし例外もある。私が観劇したときは、劇場はほぼ満席で、これはたんに演者の人気だけでなく、演出家の荒井遼氏の仕事が高く評価されていることのあらわれかと思った【荒井氏が23年に演出した『これだけはわかっている』の舞台では、若い観客層が目立ったのだが、それは南果歩、栗原英雄といった有名人のせいではなく、山下リオが出演していたからだろうと思った。今回も、ハロープロジェクトを卒業した石田亜佑美のファンらしき観客もいたが、そうではないだろうという観客も多く、荒井氏の舞台の人気のほどが知れた。】

ただ、それにしても、私の前の列の2つの座席がずっと空席になっている。満席状態を考えると、その席だけが売れ残っているということは考えられないので、なにか事情があってこれなくなったのかなと思っていたら、開演直前に娘と父親の二人連れがやってきた。そして私の前の席に座った。父親、でかい。まるでヘヴンアイズとグランパだ【何を言っているのかについては原作か舞台を参照のこと】。グランパではなくパパのようだが、それにしてもでかい。そして私の視界の多くが遮られた。

舞台の奥とか中ほどは見えるのだが、フロントステージが見えない。背伸びしても見えない。体をくねらせて横からのぞき込むようにしないとフロントステージがみえない。この傾斜が急な客席で考えられないことである。

この「グランパ」は悪意があるとか意地悪をしているわけではない。ただ天がよい体格をあたえてくれただけだ(隣の「ヘヴンアイズ」は小さな女の子なのに)。そして私が天から意地悪をされているだけなので、誰も責めるわけにはいかない。

体をくねらせてみるのは疲れるので、また舞台の内容はわかっているので、一定期間、試しに、その場で目をつぶって声だけを聴くことにした【これは危険な行為で、下手をすると眠ってしまう可能性がある。ひょっとして私も気づかぬうちに意識を失ってしまったかもしれないが】。すると主役の石田亜佑美の台詞(彼女は劇中人物だが、その台詞はナレーションもかねている)が実にうまい。美しくまた鮮明である。ちなにみ、この作品では、彼女の演ずるエリンは――実は彼女だけが大人だといいたいが、まあそれはほめ言葉にはならないかもしれないのでやめておくとして――他の人物や大人たちを超越している「永遠の少女」である(このブログで映画における少女物のジャンルを指摘したが、これは演劇における少女物である)。

そして他の俳優たち――渡辺碧斗、湯川ひな、野口詩央(原作では男子だが、幼さをだすために女性の俳優を使ったのだろうが、彼女が演ずる男の子に違和感はなかった)、里内伽奈、岡島洸心、そしてグランパの大谷亮介(グランパが聖人に回収されるという展開は、小説版にはない劇場版独自の設定なのかもしれないが、なるほどと腑に落ちた。ちなみに私の前に座った男は、このグランパよりも大きい)――誰も芝居がうまくて、良質な演劇空間がまぎれもなくそこに誕生していた。

今回は、終演後、舞台装置を撮影してもよいということだったが、荒井遼氏の演出の舞台は、毎回、洗練された舞台美術が魅力のひとつを形成している。今回、原作小説を読む限り、派手なスペクタクルシーン以外に舞台美術の見せ場はないのではないかと思われたのだが、レトロでノスタルジックな空間が、古道具屋の片隅に眠っている魅力的な廃物たちの輝きを際立たせていた。

パンフレットによると演出の荒井遼氏は、他のアーモンド作品も上演したいとのこと。実現されることを心から願う。アーモンド作品は、舞台に載せることで、そのリアルで不思議な世界の可能性を広げることになると思うので。またそこに荒井氏の手腕が発揮できると思うので。
posted by ohashi at 11:51| 演劇 | 更新情報をチェックする

2025年05月19日

『更地』2

前回の短いコメントですべてを言い尽くされているともいえるのだが、原作と今回の『更地』どちらも興味深い作品なので、すこし考察めいたものをつづけたい。とはいえなにか正解とか真相とか究極の読解を披露するつもりはない、というかそんなことはできない。荒井氏も「すべての事柄を因果律で考察しようとすると、きっと戸惑います」と述べている。私も、この言葉にのっからせてもらう。

私が18歳になるまで住んでいた家は、21世紀の初めころまで、まだ残っていったが、10年くらい前だったか、一人で訪れたときには、そこはすでに更地になっていて、住んでいた家は跡形もなかった。また周囲にはロープがはりめぐらされ、中に入れないようになっていた。そうした更地を前にすると、誰もが、そこで暮らしていた過去の生活、家族の行く末、自分の人生にいろいろ思いをはせることになろう。

太田省吾作『更地』は、かつての住居で、いまは更地になった場所を訪れた、おそらく中年の男女(夫婦)が、そこでの暮らしていたころの家族の生活を断片的に回顧するという芝居というようにみえる。それだけではないとしても(たとえばこの夫婦はほんとうは死んでいるのかもしれないとか)、それが舞台のいまとここで起こっていることだとは誰にもわかる。

更地は廃墟とちがって、物理的に残存物はない。何もない。痕跡もない。ただまっさらな土地だけが露呈している。かつてのその土地での、その土地に建っていた家屋での生活は、記憶のなかに、それも部分的・断片的に存在するだけである。

そのため過去の家族の生活を思い出すといっても、まるごと全体的に復元することなどできず、まとまりのない記憶の断片をランダムに拾いあげることしかできない。そのような状況での過去の想起は、教科書に載っているような過去の事件の確認とはならず、また過去の復元をめざしたり可能にするようなものではなく、かえって過去の喪失感を増大させる。

しかし、まさにそのことによって、過去の何気ない記憶の断片が、相互連関を欠いて、ただ捨てられたゴミのような、壊れた何かの破片として、光り輝きはじめる。更地になったからこそ、すべて失われたからこそ、それでも残存する微細な断片がノスタルジアを光源とする光のなかできらめきはじめる。暗闇を貫く光線が、無数の塵を輝かせるように。失われたもの、用途をなくしたもの、完全消滅寸前ながらそれでもかすかに残った破片が、かすかに輝きはじめる。そのひとつひとつが「黄金の時」を今一度出現させる……。

と、こう考えると、これはいかにも太田省吾ワールドではないだろうか(私は太田省吾の専門家でもファンでもないのだが)。太田省吾作『更地』は、『太田省吾 劇テクスト集(全)』(早月堂書房2007)で読むことができるのだが、すでに絶版のこの本は高額の古書となっていて簡単に入手して読めるものではない。ただ今回の上演直前になって、「戯曲デジタルアーカイブ」(日本劇作家協会)で簡単に読めることを発見した。気づくのが遅すぎたので、とくに長い作品ではないのだが、今回の上演前に読むことはできなかったが、上演後、あわてて読んだ。

なにが起こっているのかわからなかった舞台を、少しでも理解できるためにとは思わなかった。太田省吾作の『更地』のテクストを読んだら、すべてが解決するとは夢にも思わなかったし、むしろさらに謎が深まるのではないかと予想されたので、太田省吾のテクストと、荒井遼氏の台本と演出を比較するつもりで『更地』を読んでみた。

太田省吾作『更地』は、すでに述べたように、何が起こっているのかは、なんとなくわかる--たとえそれだけではないとしても。ところが荒井遼台本・演出の『更地』はいろいろなものが盛り込まれていて、よくわからない。「今日ご覧頂く演劇は一本の糸ではなく、沢山の挿話が混じるより糸です」とある。世界線が複雑にからまりあう。しかも、どれがどれかもよくわからない。

こうなると太田版「更地」と荒井版「更地」は、同じでありながら、同時に、異なる様相を呈しているのではないかと思えてくる。

というのも太田版「更地」は、人為的な形跡を、装飾物を、夾雑物を、すべてそぎ落とし、ただむき出しの地面がそこにあるだけの、消滅したものたちの平面であるのに対して、荒井版「更地」は、夾雑物や対立物を飲み込み、また吐き出す、矛盾にみちた、名状しがたい、それでいてなにかリアルな平面あるいは空間であり、さながらブラックホールのようにすべてを飲み込み統一体をつくることなくただ溶解するだけにみえて、ホワイトホールのようにあらゆる可能性を放出する豊穣の源泉でもあるような、終末と消滅の場でありながら、同時に始原と創発の場でもあるという二重性を帯びた場となっている。

それは「0(ゼロ、サイファー)」そのもののありようと似ている。「ゼロ」はすべての終わり、消滅・壊滅・消失・空虚・無・死でありながら、またそれは1へと向かう起点にして始原、生成と生誕の契機でもある。「0」には、消滅・崩壊と無限・増殖が、死と再生が共存している。そのような場として荒井版「更地」は設定されているように思われる。またこれは太田版「更地」にも可能性の中心として内包されていたことでもある――なにもない場所が布で覆われそのなかで男女二人がうごめくという太田版『更地』では、「更地」は廃墟でも死滅の場ではなく、たとえ記憶による媒介であっても、生成の場でもある。荒井版「更地」は太田版「更地」を、もちろん継承しながら(舞台を覆う布は荒井版でも健在である)、さらに実現していない可能性をつかみとり、それを全面開花させただけでなく、さらなる変容と新たなる可能性を露呈させた。

簡単にいえば、荒井版『更地』は、太田版『更地』のよいところをうけつぎながら、それをさらに発展させたということである。

しかしだからといって、舞台が了解可能になったということはなく、さらに謎めいたものになったのだが、とにかく矛盾したものを共存させる稀有な場として「更地」が露出したということだけはわかる。

実際、この二人の男女は、生きているのか死んでいるのかわからない。彼らは空間を旅して、かつて住んでいた場所/更地にたどり着いたのか、それとも時間旅行して空想と幻想のなかで過去の生活をなつかしんでいるのか。ここはほんとうに彼らが暮らしていた場所の更地なのか、過去への時間旅行の基点となる、どこでもよい場所/更地なのか。彼らは過去の生活から決別して遠くへと旅してきたのか、それとももどってきたのか。人工衛星のヴォイジャーは永遠に宇宙を旅するのか、あるいはいつか戻ってくるのか。地球も太陽も、ものすごい速さで宇宙を旅しているが、同時にそれは回転・回帰運動でもある。線的運動と周回運動の共存。教科書に載っている戦争という話がでてきたが(それは太田版から継承されたものでもあるが)、戦争が起こったあとのすべてが廃墟となりすべてが更地となったポストカタストロフの世界に二人の男女は生きているのか。なにか血なまぐさいことが起こっているかにみえるところがある。それとも彼らは失われた世界にもどってきた亡霊たちなのか。ここは天国なのか地獄なのか。あるいはその両方なのか。

そもそも太田版にはなかった子供たち(パンフレットには10名の子供たちの名前が記載されている)は劇のはじまりから、劇のおわりまで、随所に登場するが、彼らが何者なのかは、最後までわからない。最初の内は、舞台で遊んだり飛び回ったりしているだけだが、やがて台詞を発しはじめる。設定として彼らがどのような存在なのか。彼らは生きているのか死んでいるのか。彼らは二人の男女とどのような関係があるのか。わからないまま、あるいはさまざまな解釈を生成しながら、舞台に宿る精霊たちのように思えてきた(たぶんこの解釈は荒井氏の意図したものではないと思うのだが、自由な解釈として許してもらえるかもしれない)。

なにもない場でありながら、無限の豊かさを共存させる平面あるいは空間としての更地は、おそらく太田版でも意識されていたように思うが、荒井版ではさらに、その実験をとおして、ますます強固に立ち上げられたと思うのだが、まさに舞台のイメージそのものである。舞台上に立ち上げられた更地/舞台。演出家ピーター・ブルックのエッセイ集のタイトルから借りれば、「なにもない空間Empty Space」。まさに更地こそ、なにもないが無限の可能性を秘めた神秘と魔法の舞台空間のことである。

【『更地』の英語版タイトルはVacant Lotである。これは不動産的というか平面的・土地的なものを強く意味している。ただし「なにもない空間」も、ステージ・板そのものを意味している。】

しかも、それだけではない。太田省吾作『更地』を演出する荒井遼氏は、演出すると同時に、新たな構成を行い、発展的追加・修正を行ない、復元的演出ではなく、創造的な新たな『更地』演出を実現した。太田省吾『更地』をいったん更地にして、その記憶によって過去作品をよみがえらせながら、その更地のうえに、荒井氏は自身の『更地』を構築あるいは再構築された――もしかしたら「脱構築」されたというべきかもしれないが。

実際、太田省吾『更地』の最後には附言として以下の記載がある。
旅についての言葉は、池澤夏樹氏のエッセイ「衝動の深い起源」を、蝉についての言動は、
森繁哉氏の「踊る日記」を、そしてプロローグの物語は、エスキモー族の民話「家がいきていたころ」を、それぞれ勝手な書きかえをしながら使用させていただきました。

いっぽう荒井遼氏もパンフレットの付記で次のように記している:
今回の台本作成にあたり、デイヴィッド・アーモンド氏、佐治晴夫氏、藤原新也氏の著作よりインスパイアされ、それぞれ自由な書き換えをしながら使用させいただきました。

と。今回の『更地』が太田版『更地』を、たんに復元的再現するのではなく、「勝手な/自由な書き換えをしながら使用した」成果なのである。

そう、今回の『更地』は『更地』を更地にして、あらたな『更地』を作り上げた。ある意味で、メタ演劇的試みでもある。

そしてこうした重層性のなかをさまよわせてくれた荒井遼氏の刺激的演出には、どんなに感謝しても感謝しきれない。また子供たちを演技指導してよくここまで動かすことができたのかと、子供たちの才能とともに、優れた演劇指導者としての演出家の技量を賞賛したい。また荒井氏の演出による舞台は、若い魅力的な美男美女の俳優たちにつねに恵まれていることを、今回の上演でも痛感した。

だから最初の記事の最後の言葉をここでも繰り返させていただこう。3日間5公演で終わるのは惜しい、またいつか再演のあることを。

posted by ohashi at 01:51| 演劇 | 更新情報をチェックする