少なくとも1週間前に観劇し、舞台の感想を述べる予定が、インフルエンザのため、ようやく14日に観劇することができた。本日は最終日、どんなに褒めても宣伝にはならないのが残念だが、しかし、宣伝するまでもなく、私の観た回は、満席だった。
劇場に入ると、そこには原作で読んだガソリンスタンドのサービスルームがリアルに出来上がっていて、思わず引き込まれた。と同時に、舞台の奥にも客席がみえる。舞台奥に鏡でも設置されているのかと思い、そこに着席する自分の姿が映っているかどうか確かめようとして、鏡でないことに気づいた。舞台奥にも、階段式の客席が設けられていて、二つの客席エリアで舞台を挟むことになった。
座・高円寺1は、劇場としてみると、中劇場か大劇場に匹敵する広い舞台と、小劇場規模の階段状の客席という配置となっており、広い舞台をどう使うかは、演ずる側にまかされているのだが、ただ小劇場規模の観客に対して舞台が広すぎると感ずることもある。今回は、広い舞台の半分を演技スペース、残り半分を客席として使い、通常の倍の客席を用意することになった。8年前の初演は観ていないのだが、おそらく今回が初めて試みだろう。再演とうたっているが、演出家も俳優も異なる、リブート版というべきものだろう。
原作(リトルモア、2018年)の帯には「父はなぜ死んだのか――ドロリとした状況と、反比例する小刻みな笑いの波。滑稽な愛の物語。」とある。また後ろの帯には「ミステリアスな夏の一幕」というフレーズもみえる。確かにそのとおりで、最初はとまどいながら見始めると、目が離せなくなる。なぞがどんどん深まり、真相らしきものが見えてくると、そこに救いがないこともわかり、むなしさを感じつつ、最後は、なにかほっこりする。相反する要素がせめぎあいながら進行する不条理劇のようでもあって、観る者の解釈によって劇は様相を変える。
オールカラーのパンフレットはよくできていて情報量も多く読みごたえがあるのだが、そのなかで原作者の坂元裕二氏が、自身のこの作品を「バッドエンド」と考えていることだ。(今回の公演中、ご本人がアフタートークされていたようだが、それは観ていない)。むしろ、この作品は、救いのなない悲惨な状況を提示しながらも、同時に、救いとなるような結末を提示していないだろうか。観客の解釈にゆだねられているとはいえ、この作品を「バッドエンド」と思う人は、少ないのではないだろうか。
かつて戦前のアメリカの新批評では、「作者の意図を考慮する誤謬」(Intentional Fallacy)ということを主張した。作品の解釈や批評を行なうとき、作者の意図は無視してよい。そうしないと作品本来の意味を見失い、作者の勝手な意図にふりまわされることになる。そもそも作者の意図通りに作品が出来上がったかどうかは不明だし、作品には、作者の意図とは無関係に、内在的意味を宿している。作者とは作品の解釈や批評にとって障害でしかない。もちろん、人間が作ったものは、なんであれ、そこに意図というものがあるはずである。もし宇宙人が地球にやってきて、地球文明を理解しようとするのなら、自然物と人工物を区別し、人工物が何故何のために作られたのかを理解しないと混乱するしかないだろう。どんなものにも意図はある。しかし、芸術作品の場合、作者の意図は絶対ではない。むしろ受容者(読者や観客)が把握した意図の方が優位に立つべきである。私は個人的に作者というのは「歩くインテンショナル・ファラシー」だと日ごろから思っているので、今回、作者の坂元氏がどのように考えていようとも、この作品はバッドエンドではないと私は自信をもっていってのけられる。
劇中で小説家の根守真人/浅利陽介が語っているように、物語には「はじめ」と「終わり」、そしてそれをつなぐ「中」がある。この劇の最後の場面は、この劇のはじまりの場面とほぼ同じ(異なる部分もある)であって、「終わり」に「はじまり」が来てしまう。もちろん、物語それも終わりを見出せない物語を終えるときの一つの原則は、最初にもどることである。だから「最初」にもどる「終わり」方は、決して珍しいものではないのだが、この最初にもどった最後の場面は、唐突すぎて問題である。それは『またここか』というタイトルとも関係しているのかもしれないが……。
【この演劇作品の最大の疑問は、そのタイトル「またここか」である。パンフレットでもタイトルについて聞かれた坂元氏は、こう答えている。
タイトルはストーリーを書く前から決めていたんです。……僕の心の口癖なんですよ。いつも思うんです、「またこれか、またここか」って。結局新しいことってそんなに起きない。新しいいって十代の頃までの話で、そこから先は大体、「またここか」が続くから。仕事の面でも、生活の面でも、常に新しいことをやりたいけど、またここかってことが何回も起きて。でも、何かちょっとでも今までと違うことを見つけようと創意工夫して、少しでもまたここかって思わないうよおうにしているというか。ま、愚痴みないなタイトルですよね(笑)。
ああ神様、この悪魔みたいな坂本氏の首を絞めてもいいですか。】
最後の場面(第5場)をどうとらえるかで、この劇の意味がかわってくると思う。
すでに述べたが最後の場面は最初の場面と同じ、あるいは差異も含むから、焼き直しである。そうだとしても、なぜこの場面が最後に置かれているのか。基本的に最初の場面と同じ展開をするこの場面が、なぜ。
ひとつの解釈は、この場面は根森真人/浅利陽介が、弟の近杉祐太郎/奥野荘に書くようにすすめた小説の場面である。実際、前の場面の最後で根森/浅利は弟の書いた原稿の最初を朗読しながら退場する。その最初の部分が次の場面で劇として示されるのである。この最後の場面は劇中劇という面もあるのだろう。【もちろん、弟に小説を書かせるところ、そして最後の場面も、実は兄の夢という解釈も成り立とう。何しろこの兄は、よくしゃべるが、同時によく眠るのだから。】
ちなみにこの兄がなぜ弟に小説を書くようにすすめたかというと、弟の反社会的な暴力的な衝動を抑えるためである。根森はいう:「……全部文章にするの。やっちゃったら駄目なこと、人に迷惑をかけそうになった時【中略】、そういうのを書いて、全部そこに、そこに吐いて、小説みたいにするの。」(p.164)「小説に書くのは二つのこと。本当はやっちゃいけないこと。もうひとつは、もう起こってしまった、どうしようもなくやりきれないことをやり直すってこと。そういうことを書く。そこに夢と思い出を閉じ込める。それが、お話を作るっていうこと」(p.166)と。
したがって最後の場面は、弟の近杉が書いた小説の世界の舞台化である。そこでは店主の近杉とアルバイトの宝居鳴美/馬場ふみかが暇を持て余しつつ戯れているが、そこにとげとげしくぎすぎすした感じ、無理やり感のある笑いは存在しない。危険な欲望と法との弁証法的関係ではないが、法があり禁止がある限り、不穏で危険な欲望が生まれる。そのためそれを抑圧するため法が強化される。そこでますます危険な欲望が抑えがたくなる。むしろ禁止を緩和し自由な放任状態が実現すると逆に危険な欲望が消滅する。弟で店主の近杉が望んでいたアルバイトとのゆるやかな関係が実現する。
そこにメイド姿の女性/永野莉子が登場する。違和感のあるその姿も、近所の喫茶店の制服であり、ガソリンスタンドを探していた客を案内してきたのだとわかる。その客とは、兄の根森/浅利陽介であり、彼は自分が兄であると礼儀正しく自己紹介し、長年父の介護をしてきた近杉に礼の言葉を述べ、入院中の父親のもとにいっしょに見舞に行きたいと申し出る。近杉が望んだような、兄、その紳士的で礼儀正しい物腰と、弟の労をねぎらう謙虚で人間味のあふれる性格。すべて近杉が望んだことだった。最後の場面は、すでに犯した犯罪や危険な欲望の成就を、彼、近杉が、望ましいかたちに書き直した世界なのである。
これはけっこう容易に実現できる世界でもある。もしそれが気味の悪いほど実現不可能な世界、ユートピア的パラレルワールドであったらな、綺麗すぎて、幸福すぎてうそっぽく、まさにバッドエンドだといってもいいが、そうではなくそれは、バッドエンドを抑止するための防衛手段でもあって、その非現実性が現実的な効果を生むとわかるのである。近杉の夢想は、抑止効果がある。不穏な現実を、危険な欲望を腐葉土として、そこに花を咲かせることができたのだから。
これがバッドエンドなのか。今回の舞台では、最後の第5場には、原作にはないひまわりがガソリンスタンドの周囲に植えられている。黄色いひまわりで飾られた舞台。演出の荒井遼氏の舞台を知る者にとっては、これは、荒井氏の舞台のどこかで、あるいは荒井氏の舞台では必ずおめにかかる、まさに荒井遼・印といってもよい装飾と意匠である。荒井氏はこれをありえないユートピア的幕切れを暗示するためのわざとらしさを伝える仕掛けとしたのだろうか。それとも、おそろしい暴力と欲望の渦巻く世界を腐葉土して咲きほこる花という私たちの平穏な日常のありようと伝える仕掛けとしたのだろうか。
なお、結局は同じことかもしれないが第5場はガソリンスタンド店主のユートピア的夢想ではなく、むしろ現実そのもの、平穏だが、ありふれたドラマにもならない日常なのかもしれない。これが現実であり、第1場から第4場まで展開してきて事件は、すべて店主が夢見てきた悪夢、いや特定の個人の夢想を超えた、一般性を帯びる事態とみることができる。現実は平穏無事でありきたりで万事順調である。しかし、それはつねに悪夢の上に成立する砂上楼閣のようなものである。悪意と殺意、欲求不満と制御しきれない欲望、自暴自棄と殺人衝動が休みなくうごめく悪夢の世界が、いつ平穏な日常を突き破り噴出してきてもおかしくない……。
だから私たちの世界にヒマワリは咲く――絶望と希望に支えられながら。
付記
はじめて原作を読んだがとき、ガソリンスタンドのアルバイトの女性がもっているハンドスピナーというのが何かわからなかった。ガソリンスタンドで使う工具のようなものかと思っていたのだが、調べてみてそうではなかった。:Wikipediaによると
2016年末から米国で流行し始めた。【中略】2017年3月28日にYouTuberのセイキンが「アメリカで大人気」「ハンドスピナーとはなにか」と説明する動画を公開しており、この動画がきっかけとなり、日本でも爆発的なブームになった。【中略】日本では2017年秋頃にブームが終焉している。
とある。
原作ならびに初演時の2018年にはブームが終わっていたようだが、恥ずかしながら、私はハンドスピナーの存在も、ブームがあったことも全く知らなかった。ただ、今でも手に入るので(ブーム再来なのか、細々と売れているのかは不明)、どんなものか購入してみた。う~ん、これのどこが面白いのでしょう。
おそらく現在の若者たちも、ハンドスピナーについては知らない者が多いのでは。そのため今回の公演ではハンドスピナーをどう扱うのか興味を持ったのだが、原作どおりに、ハンドスピナーを回す、アルバイトの女性が登場した。となると逆に、それをみた若い観客層、あるいはその存在もブームも全く知らなかった私のような老人たちは、それをどう受け止めたのだろうか。興味がわいてきた。異世界感を抱いたのだろうか。
