2025年01月04日

『白衛軍』2

敵こそわが友

昨年12月新国立劇場でブルガーコフ原作の戯曲『白衛軍』(演出:上田聡史、翻訳:小田島創志)を自腹で観た。そして自腹でプログラムを購入したのだが、そのプログラムは充実した内容で、いろいろなことを教えてもらったが、同時に、疑問も多くわいてきた。

旧ロシア帝国軍人からなる白衛軍をウクライナ人民共和国軍で率いる将軍パウロー・スコロパードシクィイは、「ウクライナのヘーチマン」に選出されたので、白衛軍は「ヘーチマン軍」でもある。この「ヘーチマン」というのはウクライナ語をもとにしたカタカナ表記なのだが、今回『白衛軍』のシナリオを翻訳した小田島創志氏は「ゲトマン」と表記されている。私は、英語訳(The White Guard, translated by Michael Glenny)でこの作品を読んだから、頭のなかには「ヘトマンHetman」という表記がしみついていたのだが、ロシア語では「ゲトマン」となるのだろうと想像はついた。

岩波文庫で出始めたゲルツィンの回想録だが、私の手元にある英訳本では「ヘルツィン」である。英語読みするとそうなるがロシア語読みすれば「ゲルツィン」となるのだろう。それと同じで英語読みすると「ヘトマン」がロシア語読みでは「ゲトマン」そしてウクライナ語読みでは「ヘーチマン」ということだろうか。

しかしプログラムに「ウクライナの革命とキエフのロシア人」を寄稿されている村田優樹氏は、本文において初出時には「ヘトマン(ゲトマン)」と表記されているが、以後は「ヘトマン」とだけ表記している。いったいどういう表記が原音に近づくのだろうか。あるいはどういう表記でよしとすべきなのだろうか。

あと本題に入る前にもうひとつ。劇の第4幕ではクリスマス・ツリーがトゥルビン家の居間に置かれている。私が読んだ英語訳(今回の上演の英語訳とは異なる訳者によるもの)では、クリスマス・イヴにクリスマス・ツリーの飾りつけをしているとト書きにある。しかし、今回の舞台では、クリスマス・ツリーを片付けている。これも不思議で、どちらが原作に近いのだろうか。飾りつけか後片付けか。

私が読んだ英語訳では、ロシア圏での旧暦のクリスマス・イヴは、新歴では十二夜の前日であると注記してあった。十二夜というのはクリスマス・シーズンの終わりの日である。トゥルビン家の人々はクリスマス・イヴにツリーの飾りつけをしているのだが、新歴では、それはクリスマス休暇の終わりの前の晩なのである。クリスマス休暇の始まりの前夜とクリスマス休暇の終わりの前夜の共存。これは飾りつけと後片付けの2つのヴァージョンが生まれたことと関係しているのかもしれない。そしてトゥルビン家の人々にはクリスマスの始まりだが、新しい時代、新暦の時代にはクリスマスの終わりであって、まさに終わりの始まりという点で、この劇のテーマともひびきあう。そしてもう一度、問いたい。クリスマス・ツリーは飾り付けるの、飾りをとりはらうのか――原作では?

【なお私が読んだ英訳での第4幕のツリーの飾りつけに関する訳注の大意を記しておくと。
「1918年2月までロシアはユリウス暦を使用していた。20世紀において、ユリウス暦は、グレゴリオ暦(ロシア以外の国々で使われていた)よりも13日遅れる。グレゴリオ暦への転換以後もロシア人(ならびにロシア正教会)はユリウス暦で祭日を祝いつづけた。したがって第4幕は、グレゴリオ暦(新暦)では1月5日(十二夜の前夜)であるが、トゥルビン家の人々は、ほかのロシア人と同様に、その日がユリウス暦(旧暦)のクリスマス・イヴ(つまり12月24日)であるかのようにお祝いをしているのである。」】

ただもっと重要な問題というか情報は、スターリンがこの芝居を好み、リピーターであったということである。このことは「アプトン版『白衛軍』の原典としての『トゥルビン家の日々』」という文章のなかで大森雅子氏によって詳しく述べられている。『トゥルビン家の日々』は最初は大成功で作者の華々しいデビュー作品となったのだが、話題になるにつれて、白衛軍に身を投じた軍人と家族を描くことに対する批判が生まれてくる。窮地に陥った作者に救いの手を差し伸べたのは、スターリンだった。

私たちはスターリンのことを誤解しているのかもしれないが、本来だったら、こんな芝居を書いて大当たりした作者は粛清されてもおかしくない。そう私たちは考える。しかしスターリンはこの芝居が好きで少なくとも15回は観ていたとのこと。大森氏の説明を引用させていただく。
スターリンは『トゥルビン家の日々』を観て、「トゥルビン家のような人々までもが、武器を捨てて、民衆の意思に従わざるを得なくなり、自身の戦いが完全な敗北に終わったことを認めるならば、ボリシェヴィキは無敵ということだ。『トゥルビン家の日々』は、すべてを打ち砕くボリシェヴィズムの力を示している」と述べている。実は、『トゥルビン家の日々』では(またアプトン版の『白衛軍』でも)、ボリシェヴィキは戯曲の登場人物のなかにはいない。それでもスターリンは、白衛軍がキーウにおいて敗北する運命にあることを率直に描き出したブルガーコフの筆致の中に、「無敵」のボリシェヴィキの存在を嗅ぎ取り、『トゥルビン家の日々』をボリシェヴィキにとって都合の良い作品と見なしていた。

基本的にここに説明されているようなことだろうと思うのだが、ただスターリンが実は文学好き、芝居通であったとか、革命直後の時期へのノスタルジーに囚われていたというような方向に話題をすすめることなく、もう少し掘り下げてもいいのではないかと思う。

実際、なぜこのような作品が泣く子も黙るスターリン時代に許されたのかと不思議に思ったもうひとつの作品がある。ミハイル・ショーロホフの『静かなドン』という長編小説である(「静かな」というのはドン川にかかる枕詞のようなもの)。ソ連の社会主義リアリズムの代表的作家のひとりによる大河小説であり、ロシア革命前後の事件を扱う革命の叙事詩でもあるような作品が、なぜ、白軍(白衛軍)に身を投じ、ロシア各地を転戦する主人公の物語なのか。革命の叙事詩であるのなら、なぜ革命側、赤軍の視点から、歴史的大変動を描かないのか。革命軍側の物語が読めると思っていたら、白軍(白衛軍)しか出てこない。【なお小説の後半では、主人公は赤軍にも身を投ずる。とはいえ再び白衛軍に戻り、彼は完全に信用を失うののだが】

プロパガンダ作品に対しては嫌悪感しか持たない私だが、しかし、このようにプロパガンダ性が皆無のような作品に対しては、作者の意図がどのへんにあるのかみえなくて戸惑った。

いまとなっては、この大長編の内容はほぼ忘れてしまったのだが、しかし、中学生だったか高校生だったかも忘れたが、私は学校から帰ると、勉強もせずにこの作品を読みふけっていた記憶があるので、最後まで飽きることなく読み通せたくらいに十分に面白かったのだと思う。

【主人公はウクライナのドン・コサックの青年で、第一次大戦中、ドイツ軍と戦う。その戦いのさなかロシアで革命が起こり、ドイツと停戦してロシア軍は引き上げるのだが、ロシア領内で内戦が勃発する。主人公は白衛軍に身を投ずるという物語。最初、主人公は、馬に乗り槍をもってドイツ軍と戦うので、なんという戦法なのか、日本の戦国時代じゃあるまいしと違和感マックスだった。その違和感がなくなったのは、読んでからずっと後のこと、サム・ペキンパー監督の西部劇『ダンディー大佐』を観たときである。映画の終盤、アメリカの北軍の騎兵たちが、メキシコに進駐してきたフランス軍の騎兵と川のなかで激突する。乱戦になると銃器が使えず槍が実に有効な武器となることがわかった。と、まあそれほどまでに『静かなドン』は記憶には残っていた。】

プロパガンダ性も感じられないことがよかったのかもしれないが、しかし、ふと我に返ると、これは白衛軍に身を投じたドン・コサックの青年の話で、反革命勢力側の物語であって、ほんとうに大丈夫か。大丈夫だったようだが、では、これが許されたのはどうしてなのかと疑問がわいてきた。

あとになって知ったのだが、『静かなドン』はスターリンが大好きな本だったようだ。なぜ、好きだったのか。

『静かなドン』は、第一次大戦からロシア革命、そして内戦という激動の時代における社会の変化を白衛軍の側からみている。革命後の政権がどのようなかたちで改革を行い、国造りを行ったのか、またどのようにして大胆な、ときには過酷な改革を断行したのかについては、白衛軍の中から外をみるにすぎないために、よくわからない。よくわからないまま、白衛軍は赤軍に押され敗退を余儀なくされてゆく。時代の趨勢は革命政権のほうにあり、反革命運動は下火になるか失敗するしかなくなる。かくして年を経るにしたがい革命後の新たな社会主義体制は盤石なものとなり、もう後戻りはできないほど改革はすすんでゆく。

それに抵抗することはもうできない。ロシア革命によってもたらされた新たな生活と社会体制は、太古よりゆうぜんと流れるドン川、静かなドン川の流れをせき止めることができないと同じように、もう押しとどめることはできない段階に入っている。新しい生活は、革命による改革の痕跡を消し去り、いまや自然なものとなる。昔からあったもののように感じられる。ちょうど、悠久のドン川の流れのように。

おそらく社会主義の理念とか唯物史観における段階的変化とかを説くよりも、革命を「自然化」することのほうが、革命を定着するためには効果的なのであろう。そのためにも最初、革命に敵対していた人々が、あきらめて敗北を抱きしめること、みずからすすんで抱きしめることがなんとしても必要なのだ。赤色革命は変えようがない運命であり、唯一の選択肢なのだと、感覚的に納得することが重要なのである。最高最大のプロパガンダとは、プロパガンダなきプロパガンダなのである。このことを『静かなドン』はやってのけた。同じことはブルガーコフの『白衛軍』にもあてはまりはしないか。

まとめると、
1) 敵の側にたって、味方を外からみるようにすること。白軍にいる者の目線で、赤軍の動向を探る。その際、赤軍の詳しい動向はわからない。赤軍は、白軍にとって、遠くにいる不気味な他者として描かれる。これが次の重要な一手につながる。

2) 歴史的事実に即して、負ける側と勝利する側を区別する。白軍は敗退する側であり、赤軍は勝利する側である。赤軍は遠くにいる不気味な他者であるため動向はぼんやりとしかわからない。これは戦いの勝敗の原因が明確につかめないことにもなる。白軍の敗退は、白軍内の内紛とか腐敗によるものと想像できるのだが、赤軍側のどのような動きが勝利につながったのかわからない。ここで赤軍側のイデオロギーなり思想や倫理性が勝利につながったという露骨なプロパガンダは逆効果になるために、それは強調しない。また優位な軍事力による勝利であると、敗北する側を英雄視して利するために、勝敗は人間の意志ではなく思想でもなう善悪でもなくあくまでも運命によって決まるという印象をあたえる。このために勝利者側の赤軍については詳しく語られることはない。

3) 長い時の流れの果てにでもいいし、短いが重要な転機ともいえる事件の結果としてでもいいが、勝者側は運命によって勝者になり、この流れは抑えることのできない自然なものという印象が生まれる。勝利するのは隠れたプロパガンダである。反革命は、英雄的自己犠牲とか旧体制と国体の護持などの思想や美学を大義名分として掲げようとも、流れに取り残されて未来を失っている。そしてそれに反して、革命政権は、まさに革命的な登場、暴力的刷新や流血的改革をともなうものであったにもかかわらず、その斬新さの外貌は消え去り、新たな生活様式を、自然なもの、昔からあったもののようにして人々に受容させるのである。革命はいいも悪いもないう。ただ受け入れるべき民族の宿命となったのである。

ブルガーコフの『白衛軍』の最後に、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の最後のセリフが引かれるのは偶然ではないだろう。最後のソーニャのセリフをここで引用するのはやめようと思う。いつも、あのせりふを聞いたり読むたびに泣けてくるので。問題は、革命前の苦しい状況のなかで耐えてゆくことしかできない、耐えに耐えて、シェイクスピアのリア王のいう「あらゆる忍耐の雛型」the pattern of all patienceになるようなチェーホフの人物たちにとって、その苦しみ、その呻吟の原因は革命前のロシアであったとしたら、革命後のロシアでは、単純に考えれば、その苦しみも消えるはずである。『白衛軍』の最後で『ワーニャ伯父さん』の最後のセリフが引かれるのは、革命後あるいは赤軍の勝利の後も事態は好転するどころか、悪化の一途をたどるのではないかという作者の暗い予感と革命批判が原因だとするならば、あろうことか、スターリンは、そこに革命後の人々の望ましい心情をみたのである。

つまりたとえ革命に抵抗があったとしても、我慢して耐えてそれを受け入れるしかないのではないか。そうすればこれまでの苦しみも忘れ、いずれ一息つけるのだろう。こうロシアの人々、それも白衛軍に身を投じた軍人とかその親戚家族が思ってくれれば、革命は成功したも同じである。スターリンがこの芝居を好んだのは理由がないわけではなかった。革命はドン川の流れになろうとしているからである。

これはグラムシのいうヘゲモニーということかと言われればその通りである。ただしブルガーコフの『白衛軍』またそのあとに登場するもうひとつの白衛軍物語『静かなドン』の時代においても、革命を自然なもの抵抗できない運命とみるようなヘゲモニーはまだ十分に確立したわけではなかったと思われる。革命はいつなんどき転覆されるかわからなかった。そのためスターリンは、『白衛軍』のなかに、ヘゲモニーそのものではなく、ヘゲモニー確立の夢をヴィジョンを観たというべきだろう。

私はスターリン時代の粛清の実態について無知なので、とんちんかんなことを述べることになるのかもしれないが、あるいはすでに述べているのかもしれないが――あえて白衛軍物語(ブルガーコフの、また時代をくだってはショーロホフの)を許可したことに対しては、受容者の側に緊張が生まれたことは想像にかたくない。

反革命側の物語を受容することは、受容者が――その政治的立場はなんであれ――反革命側とみなされる危険性もある。だがこれが許されているということは、作品がゲリラ的な反体制的営為ではなく、それどころか革命側の意向に沿ったものだ思うしかない。では、どういう点で意向に沿っているのか。単純に考えれば白軍は負けるということである。白衛軍の歴史的使命は終わったということである。だが滅んでゆくものへの哀惜の念あるいはノスタルジアを作者が抱いていたとしても、なんらかのかたちで監視され粛清の対象となるかもしれない受容者には、それが求められていたとは思えない。

では受容者には何が求められるのか。それは、スターリンのヘゲモニーの成立の夢を、みずからの夢として引き受けることであろう。理屈でもない思想でもない哲学でもない、ただ受け入れること――革命を、ゆるぎない自然現象として受け入れるような心的傾向をもつこと。ヘゲモニーの夢を共有することである。

もし民主的な国家で言論や思想や信教の自由が保障されている場合は、これは反政府的・反体制的なゲリラ的あるいはテロ的な作品上演であろう。しかし統制国家・監視国家においては、一見ゲリラ的公演であっても、それが許可されている以上、政府とのなんらかの共謀が疑われる。そのため観客は舞台のなかにポジティヴなメッセージを読み取ろうとする。それが革命の受け入れである。あるいは革命が受け入れるであろうという想定であり予測である。観客が劇から、みずからが批判されないようなメッセージを見出すとき、観客はスターリンの姿勢と同調したことになる。おそらくこれはブルガーコフが関知しないどころか、夢にも思わなかったかもしれない。しかしスターリンにとっては観客のなかに望ましい心情を形成したことになる。

スターリンにとって、革命の英雄たちは、自身の地位を脅かしかねないために、次々と粛清されたようだが、白衛軍物語をこしらえ革命以前の時代へのノスタルジアにひたるような反革命勢力は敵でありながら同時に敵ではなかったということである。彼ら反革命勢力によって革命のヘゲモニー確立への道が開かれたのだから。

敵こそわが友であった。

エピローグ

『静かなドン』の作者ショーロホフも、スターリンと同じようなことを考えて、白衛軍物語である大河小説を書いたのだろうと私は考えていた。しかし『静かなドン』の分厚い英語訳版のイントロには驚くべきことが書かれていた。

『静かなドン』は1926年(『白衛軍』初演の年)から1940年にかけての雑誌連載を本にしたものである。白衛軍に身を投じた主人公という設定には危険なものがあったが、さらに革命政権の強圧的な改革が赤裸々に描かれている部分があって、これが連載時には検閲にひっかり、連載中止の可能性が出てきた。このときショーロホフ(当時20代前半)はゴーリキーの紹介でスターリンと直談判することになった。ショーロホフとスターリンとの短い会合で何が話し合われたのかわからないが、ただ、その結果、連載再開が認められたのである。

ブルガーコフに寛容な態度を示したスターリンには、同じ白衛軍物語を書きつつあったショーロホフにも寛容な態度を示した。いったいスターリンはどういう人間なのだと言いたくなるが、それは的確な政治的判断だったのかもしれない。

『白衛軍』の上演プログラムには「ブルガーコフの生涯と作品」という短い記事があり(ヴァレリー・グレチュコ/増本浩子訳)、そのなかで若き天才詩人マヤコフスキーが自殺した直後のことで、世間を騒がせるような自殺者がもうひとり出ることをスターリンが嫌ったからではないかと書かれている。

【ちなみに1930年「4月17日の葬儀には15万人の人々が参列し、レーニン、スターリンの葬儀に次ぐ規模となった」とWikipediaは書いているが、このときスターリンはまだ死んでいない】

ショーロホフの場合はどうか。彼は20代になったばかりの頃に『静かなドン』の連載をはじめた天才的作家だったが、その作風は、伝統的なあるいは保守的なリアリズムである。革命政権に批判的なことを書いているようだが、赤軍としても戦ったショーロホフは政権にとっても利用価値の高い作家と判断したようだ。おそらくこの判断には、当時、ロシア・フォルマリズムの流行が影を落としていた。フォルマリズムというわけのわからない、エリート的、前衛的、文学理論は、ショーロホフのリアリズム小説に比べたら大衆受けもしない、大学人がもてあそぶブルジョワ理論としかみなされなかった。事実、ショーロホフに温情が示されたのとは対照的に、この時期、フォルマリズムは弾圧され、やがてフランス構造主義に見出されるまで歴史から消えることになる。

とはいえショーロホフがいくらソヴィエト政権にとって気に入られた作家だったとしても、『静かなドン』を書いたのは、敵を描くことで味方を強化するという文化的ヘゲモニー形成に加担する意図はおそらくなく、たんに社会主義政権が気に入らなかったからだ。それが今にしてみればわかる。『静かなドン』は、端的にいって、反革命の小説である。滅びゆく旧勢力とドン・コサックに捧げられたレクイエムである。前衛的(とまではいえないかもしれないが、また『白衛軍』はチェーホフ的なのだが)・モダニズム的ブルガーコフと、保守的なショーロホフがともに、ロシア革命によって失われた世界のレクイエムを作っていたのである。
posted by ohashi at 22:52| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年12月15日

『夏の夜の夢』1

彩の国さいたま芸術劇場で、シェイクスピア『夏の夜の夢』(吉田鋼太郎演出、小田島雄志訳)を観る。今回の公演は、実は数日前に観た新国立劇場中劇場のブルガーコフ『白衛軍』(上村聡史演出、小田島創志訳)と同様に、小田島家の翻訳ということではなく(いやそれも共通点だが)、ともに「文化庁劇場・音楽堂等における子供舞台芸術鑑賞体験支援事業」である。そうした支援事業の意義は大きいと思うし、それによって公演が可能になるのはよいことだが、そのぶん今回のさいたま芸術劇場の公演のように、一般観客の観劇日が減るのはしかたないとあきらめるべきか、どうか。

というのも今回の吉田鋼太郎氏演出の『夏の夜の夢』は、前作の『ハムレット』ともども、これからの日本におけるシェイクスピア演劇のスタンダードを確立したという思いを強くしたからである。この公演は、日本各地を回ったら素晴らしい結果を残すと思うし、たとえすぐにでもなくてもよいが、いつか再演してほしいと願ってやまない公演である。

スタンダードというと、標準版ということで、平均的な出来と思われては困る。むしろこれは規範みたいなもので、これからのシェイクスピア劇上演の真価が、この吉田版を超えているか、あるいはそのレベルに到達しているかによって判断されるということである。けっして平均的ということではない。それだと独創性があまりないと思われがちだが、今回の公演は独創性を事欠くことはけっしてない。そうではなくて、独創性の立ち上げ方の標準あるいはモデルとしても今回の公演が重要な役割をはたすということである。

今回の公演は、高校生を中心とした若い観客に向けてもつくられているので、そこのところがどうかという不安もないわけではなかったが、実際の舞台は、これぞ『夏の世の夢』の、新たなる可能性と、過去の演出・翻案の集大成とでもいうべきものとが合体していて、高校生向けだからということではない、つまり手を抜かないし手を緩めない、見事な演出となっていた。

その最たる例が水を使う演出で、舞台の最初から最後まで、大きな水槽が置かれ、それが最初から最後まで重要な役割を担っていた。ただ水につかっていたり、水槽に投げ込まれたり、水槽の水をかけあったり、水槽のなかでころげまわったりと、これは水が主役の舞台というのは、いいすぎと思うのだが、水が、もう一人の出演者・登場人物である。水が、まちがいなく舞台に豊かな表情をあたえていた。

そしてもうひとつが階段(それに梯子)。まあ、水の使用も、昭和を感じさせる演出でもあるのだが、階段と梯子も、舞台空間を立体的に使うというか、舞台を三次元的に拡張するものである。と同時に、それらは演技を超絶技巧化する重要な装置ともなっていた。超絶技巧? そう、階段を登ったり下りたりしながら台詞を発することは、一度に二つのことをする(階段の上り下りと発声)ため、常人では簡単にできないことであり、演ずる者たちのすぐれた能力なしではなしえない。

そしてそうした技巧性や技術性を前面に出しながら、また舞台空間を余すところ活用しながら、最前列付近の観客に水がかかってもかまわない壮絶な水しぶきをまき散らし、そして水のしたたる裸体を何度も見せる俳優たちによって構成される舞台。演出家の、ある意味、わがままなというか盛りだくさんの要求に見事にこたえている俳優たちの努力に誰もが深い感銘を受けるにちがいない。

これは高校生にぜひ見てほしい舞台だし、高校生だけに見みせるのは惜しい、誰にも見てほしい舞台だった。
posted by ohashi at 23:14| 演劇 | 更新情報をチェックする

『白衛軍』1

新国立劇場中劇場でブルガーコフ原作の戯曲『白衛軍』(演出:上田聡史、翻訳:小田島創志)を観劇(本日ではない)。

演劇研究者ならブルガーコフの演劇作品を持っていたり読んでいたりして当然で、私も次の英訳をもっている。Mikhail Bulgakov, Six Plays (Methuen Drama,1991)。私がもっているのは1998年版なのだが、いつ購入したのか不明。たぶん21世紀に入ってからだろうが、けっこうきれいな状態というか、新刊と変わりない状態なので、読んでいないことがばればれなのだが、しかしThe Last Playsは読んでいる。問題は、なぜそれを読もうとしたのか、あるいはなぜこの英訳選集を購入したのか。

とはいえ今回の上演で、『白衛軍』の英訳を読むことができたのはよかった(The White Guard, translated by Michael Glenny)。これを機に、ブルガーコフの他の残りの作品も読んでみたくなった。

今回の上演は、英訳で読んで抱いていた作品のイメージを、ふくらまし、また精緻にすることはあっても、決して裏切らない演出で、すぐれた舞台であることはまちがいない。

ブルガーコフの演劇的強度に満ちた展開と、俳優たちの演技の多様性と統一性の共存によっても、芝居をみる喜びをあたえてくれた。

ポスターやチラシなどには雪原を進軍する白衛軍の騎兵が描かれているのだが、雪原での戦闘シーンはなく、白衛軍が兵舎として使っている学校の一室での戦闘はある。また場所が白衛軍の駐留地とか、ゲトマン軍、ペトリューラ軍それぞれの司令部とか、あちこちと飛ぶ。しかしまた第一幕と第四幕(終幕)はトゥルビン家の居間が舞台となる。この居間でのやりとりをみると、この『白衛軍』はチェーホフの芝居を髣髴とさせる。遠くの砲声によって戦闘が暗示されるが、あとは、暴力とか死が入り込まない居間での出来事となる。実際そうなのだ。劇の幕切れ近くにチェーホフが引用される。英訳で読んでいたときには、チェーホフの引用がどこからきたのかわからなかったのだが、小田島創志氏の翻訳のセリフを聞いていたら、あああれかとすぐにわかった。『ワーニャ伯父さん』の最後のソーニャのセリフ。新しい時代の到来に対する喜びはなく、ただ不安と忍耐しかない。それが『白衛軍』の幕切れとなる。

【ただし、今回の演出あるい英語台本では、チェーホフ的なところは出さないようにしているようにも思われたのだが。】

今回はアンドリュー・アプトンの英訳の台本にもとづくとある。アプトン版をもっていないし、ブルガーコフのこの作品には日本語訳もあるのだが、それももっていない。私のもっている英語訳でなんとかなるだろうと思っていた。たしかに、何とかなったのだが、同時に、いろいろなことに気づくことになった。

なお小田島創志氏の翻訳は、実に見事で、耳で聞いていても、違和感とかわかりにくいとことはなく、完成度の高いというか、完成された翻訳であり舞台台本としても優れていることは確認しておきたい。氏の最近の目覚ましい仕事ぶり(その若さでの)には感服するしかなく、バーナード・ショーの翻訳(初めて知った作品だったので、手持ちのほこりにまみれたショーの全集を引っ張り出して読んでみた――ショーの作品の常で、序文が作品よりも長くて疲れたのだが)は驚いたけれども、ブルガーコフを翻訳するとも思わなかった。氏が今度、どんな作品の翻訳をするのか(たとえそれが頼まれた仕事ではあったとしても)目が離せない。

【ちなみに、劇場で、小田島創志氏からは挨拶されてしまった。私はマスクをして一般観客にまぎれていると自分では思っていたのだが、それでも私の独特の体型とか姿勢とか歩き方とか、顔がでかいとかいった身体的特徴のせいで結局は目立ってしまったのか、あるいは小田島氏のすぐれた観察眼のせいか、先に見つけられて声をかけられた。まさか劇場のホワイエで出会うとは全く予想していなかったので驚いた。とっさに、たまには招待券ちょうだいとおねだりしようと思ったのだが、あまりにいやらしいので、それは語らずじまいだったのだが……。なお万が一、このコメントが小田島創志氏の眼にとまったり、あるいは耳に入ったりしても、絶対に、招待券を送ることはしないように。私が軽蔑するどこかの県知事みたいなおねだり体質と思われるのは、ほんとうに嫌なので)】
つづく
posted by ohashi at 00:18| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年11月11日

『お気に召すまま』

明治大学シェイクスピア・プロジェクト(MSJ)の公演(明治大学駿河台キャンパスアカデミーコモン3Fアカデミーホール)を観ることができた。演目は、シェイクスピアの『お気に召すまま』。昨年の『ハムレット』公演、観劇予定はあったのだけれども残念ながら急用で行けなかった。ただYouTubeでの無料配信でみることはできたのだが、今回、いつものアカデミーホールで観ることができてよかった。

やはり演劇は配信ではなく劇場でみるべきということは一面の真理をついているのだが、おそらくそれだけではない。今回のMSJの公演をみて、演劇がフェスティヴァルであることをあらためて痛感した。

もちろんMSJのシェイクスピア劇公演は質の高いものであって、開幕、人物の第一声を聞くだけでも、これはアマチュアの学生演劇のレヴェルを超えたものであることは誰もが納得することだろう。実際、上演は、まぎれもなくシェイクスピア劇、まぎれもなく『お気に召すまま』であって、無料の配信を通して、シェイクスピア劇のよさを日本中が知ることになるのはすばらしいことである。

私がMJSの公演について知ったのは、明治大学で非常勤講師をされていた某先生からで、毎年、ホールで観劇するということをお聞きし、いっしょに観劇させてもらった。演ずる学生たちの演技の質の高さや公演のために一丸となって行われる周到な準備にも感銘をうけた。大学からも後援をうけてというか明治大学主催なのだが、りっぱなパンフレットも無料で提供され、いまでは公演のみならずその配信も無料でみることができる。

私は大学教員時代にシェイクスピアの講義担当していたとき、extraの課題として、シェイクスピア劇を劇場で体験することも課題に加えた。チケットの半券そのものもしくはコピーと、簡単な感想をレポートに添付することを要求した。もちろんこれは正規の課題ではない。この課題を提出しなくても、通常のレポートで評価するので成績に影響はないし、ましてや単位が出ないこともない。ただ、せっかく演劇に関する講義に出席しているのだから、劇場に足をはこんでみてはどうか。毎日、毎週、毎月、劇場に行っている学生は、むしろこの課題は提出しなくてもいい。これまで一度も劇場に行ったことがない学生、シェイクスピアに限らず演劇舞台を観たことがない学生、そして大学卒業してから死ぬまで劇場に行くことはないかもしれない学生向けの課題である。これは提出しなくてもいい課題だから、教員とか大学のための課題ではなく自分自身のための課題だと説明した(なおシェイクスピア劇の映画あるはビデオの鑑賞はだめと伝えていた)。

ただし授業のために余分な出費をともなうものだから金銭的に切迫している学生には負担が重いかもしれないという反論も予想して、素人劇団のようなところが、安くあるいは無料で上演することもある。あるいは学園祭で学生によるシェイクスピア劇上演など一般に公開されていて無料で観劇できるものもあると伝えて、そのような例として明治大学シェイクスピア・プロジェクト(MSJ)によるシェイクスピア劇上演を推薦しておいた。

その結果、MSJの上演をみて観劇記を提出した学生がけっこういた。無料だからということもあったのだろうが、同じ学生による上演ということに対して好奇心なり親近感を抱いた学生たちも多かったように思う。そしていずれの観劇記もMJS公演に高い評価を与えていた。

なぜ劇場体験にこだわるのかについては理由はいろいろとあろうが、劇場体験の短所もある。劇場中継とか録画では俳優の表情など細部がはっきりとわかる。劇場に足を運ばなくても配信でみれば十分に満足できるし、劇場で観た場合と配信で観た場合で評価が大きく異なるとは思えないし、配信のほうが解釈にも深みが出るようにも思う。もちろん劇場中継録画とか配信ではカメラによって視界が固定されカメラの解釈に左右されてしまうという欠陥もあるが、それをいうなら劇場では前の観客の肩や頭で舞台がよく見えなかったということはしょっちゅうある。舞台映像というか動画おいて、見えにくい、一部が切り取られてしまったということはない。ではなぜ劇場での観劇にこだわるのか。

今回(私にとっては何度目かの)明治大学シェイクスピア・プロジェクトを観させていただいて、その答えがなんとなくわかったような気がした。先に学生たちの演技のレベルがプロ並みであるようなことを述べた。それについて変更はないのだが、同時にそのパーフォーマンスには、プロの俳優たちの洗練されたあるいは先鋭的な舞台にはならないようにリミッターが働いているような気がする。MSJの舞台が守っている伝統とは、学生演劇的要素を失わないこと、(たとえプロからの助言や援助があるとしても)プロとは違うアマチュアの手作り感を失わないことであるように思われる。

そしてこれはいまや教育の場から学芸会がなくなり、学生演劇も以前に比べれば少なくなっている昨今において貴重なことではないかと思われる。

小中学校などで学芸会を行うようになったのは、生徒が将来俳優になるための準備としての「学習発表会」ではない。演劇を教育の場に取り入れることに意義があることが前提とされていたのではないだろか。その前提が見失われたとき、そしてまた教員が指導できなくなったとき、自然と学芸会が消えていったのでは。
【『おいしい給食 Road toイカメシ』(2024)におけるように、中学校の学芸会のために脚本を書き自分で演出・演技指導できる甘利田幸男先生(市原隼人)のような先生は稀だろう。そもそも学芸会がなくなっている】

演劇を教育の場にとりいえることの意義は、作り手の側からすると、生徒や学生が一丸となって上演をめざして共同作業を行うことで、うまくいけばそこになんともいえない一体感や達成感が生まれること、その体験は生徒や学生の将来によい影響をあたえるということだろう。それが作り手側からみた意義ならば、受け手の側からすれば、芝居の上手い下手は関係なく、演劇を観ることの祝祭感は他の何物にもかえがたい得難いものとなる。実際に、学園祭の一環として演劇上演が行なわれてきたし、また小学校や中学校の学芸会は、学芸会だけでひとつのお祭りであった。

さらにいおう。学校というのは、厳めしい(イカメシではない)教育の場としてのみ存在しているのではなく、その隠れた本質が、共同体の祝祭の場であることを私たちは忘れている。その本質を、ハレの場、ハレの舞台としての年に一回の学芸会あるいは体育祭が垣間見せてくれる。フェスティヴァルを学校は排除しているようにみえて、フェスティヴァルほど学校に似つかわしいものはない。生徒・学生や先生は、みんな役者。教室は舞台。授業は戯曲もしくは戯曲のためのリハーサル、教育活動は、日々くりひろげられる演劇活動であり、学校生活はドラマ、学校はひとつの世界、大宇宙のミクロコスモスなのである。

今回の明治大学シェイクスピア・プロジェクトの公演は、これまでのように、上演に関わる学生諸君の家族や知人・友人だけなく、明治大学の学生や卒業生にも開かれていること――祝祭的であること――そして同時に、私たちのような一般観客にも開かれていること――祝祭的雰囲気のおすそ分けをもらっていると同時にまぎれもないシェイクスピア劇を鑑賞できること――、その二重性が、プロ並みの演技とアマチュア感の横溢した舞台の二重性と響きあっているように思われる。

『お気に召すまま』そのものについて語るのを忘れてしまった。次回は作品について。
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2024年10月12日

『アーネストに恋して』

松竹ブロードウェイシネマと銘打ったミュージカルの舞台録画を映画館でみる。10月4日から全国順次限定公開。『アーネストに恋して』というのは、どこのアーネストだか知らないが勝手に恋してろという気持ちにしかならないのだが、原題は、Ernest Shackleton Loves Meえ、シャクルトンが私に恋した?! あの、シャクルトン? これにはがぜん興味がわいてきた。いったいどんなミュージカル・ドラマかと期待がたかまる。

そう、「シャクルトン」の名前がメインであって、アーネストはどうでもいい。ただ日本人にはシャクルトンといってもなじみのない名前かもしれないので、「アーネストに恋して」となったのだろう。しかたないことか。

ストーリー
『アーネストに恋して』(原題:Ernest Shackleton Loves Me)は、子育てとビデオゲーム音楽の作曲家としてのキャリアの両立に奮闘する睡眠不足のシングルマザーが繰り広げる奇想天外で独創的なミュージカル冒険劇。

ある夜更け、出会い系サイトに自己紹介動画を投稿した主人公のもとに、突然20世紀を代表するリーダーと称される南極探検家のサー・アーネスト・シャクルトン(1874-1922年)から返信が届く。南極で船が難破し流氷の上で身動きが取れなくなったシャクルトンは、時空を超えて主人公にアプローチし、壮大な冒険の旅へと誘う。思いがけないことに、二人は互いの中に自らを照らし導く光を見いだすのであった。

時空を超えて接触しあう、それもたんに通信を通して話し合うというのではなくて、実際に、身体的に接触する。シングルマザーが暮らす住居の冷蔵庫からシャクルトンがあらわれるのだ。だが彼女の雑然とした住居内と南極の雪景色はどうつながるのかと思ったのだが、プロジェクション・マッピングがそれを可能にしている。彼女の住処はそのままに、いつのまにか壁に南極の雪景色がひろがり、二人は南極を旅しているかっこうになる。

彼女の名前はキャサリン(キャット)。キャットとシャクルトンは、ともに、それぞれの世界で難題に直面しているのだが、互いに助け合って、苦境を脱することになる。シャクルトンにとって彼女は、くじけそうになる自分を力強く励ましてくれる心の中の女性である(ユング心理学でいうアニマ)。いっぽうキャットにとって、彼女を食い物にしているろくでなしの愛人とは異なり、誠実で真摯な男性で、彼に母性的な感情で助言を与え、また彼を力強く励ますことで、彼女自身、自分に自信をつけてゆくことになる。ある意味、シャクルトンは彼女の分身でもあり、彼女の心のなかにある男性的部分(アニムズ)でもある。二人は時空を超えて出会うことで、互いに相手を救い、また自身も救うことなる。

なお彼女とシャクルトンとの時空を超えた出会いは、もちろん不眠症に悩む彼女の一夜の夢と解釈もできる。ただ、夢ではなかったかもしれないという証拠も残っているのだが。

二人芝居だが、二人は当然のことながら、歌はうまい。オフ・ブロードウェイ・アライアンス最優秀ミュージカル賞(2017)を受賞したのもうなずける。で、それをスクリーンでみたが、主役の女性がぶさいくでつまらなかった。いくら、かわいらしさに正解はないとしても、ぶさかわいいともいうこともよくあるのだが、彼女はぶさいくすぎてかわいらしくない。1時間30分くらいの映画だが、それがまさに限界だった。

主役の女性がぶさいくでつまらなかった――なんという低俗で、しかも頭の悪い感想なのだ。しかも差別的だと非難の集中砲火を浴びるかもしれない。説明が必要だろう。

主役のヴァレリー・ヴィゴーダ(正確には二人芝居でW主演だが、原題にあるmeとは彼女のことで、どうしても主役と思えてしまう)は、劇中では眼鏡をかけている。そして眼鏡をかけた彼女はあまり魅力的ではない。

眼鏡をかけることの意味は、顔の魅力度を落とすか、上げるかのいずれかである。舞台上で眼鏡をかけているぶさいくな人物は、眼鏡はずして思いがけない美貌をみせるときに、それが人物としての生まれ変わりを象徴することがある。残念ながら、今回の舞台ではそのような演出はとられなかった。

となると別の可能性もみえてくる。眼鏡が顔の魅力度を上げている場合である。党首になってから眼鏡をかけはじめ好感度をあげようとしたどこかの国の首相のように、眼鏡が顔の不快さをやわらげることがある。舞台の彼女もそれなのだろうと思った。歌はうまいが顔がよくない、そこで眼鏡で顔立ちを変えたということだろう。しかしかわいげのない彼女は、劇の魅力を大きくそこなっている。ただ今回の彼女の脚本の舞台に、彼女以外のミュージカル俳優を用意するのがはばかられたのかもしれない。しかし、やはりほかの女優をわりあてるべきではなかったか。

だが、私のこの想定はまちがっていた。ネット上にはこのミュージカルの舞台写真もあるのだが、彼女が最初から眼鏡をはずしているヴァージョンもある。そして眼鏡をはずした彼女は美人なのである。だったら、どうして最初から眼鏡をはずすか、途中でも眼鏡をはずす演出にしなかったのだ。

おそらくそれは、うだつのあがらないゲーム音楽の作曲家で、男に食い物にされている子持ちのシングルマザーという主人公のイメージに、彼女の美貌がそぐわなかったので、眼鏡でぶさいくキャラにした。

となると、この作品を制作側は、男に搾取されつづけているシングルマザーが、シャクルトンとの出会いによって、男に依存しない自立した女性となり、たくましく生きはじめるという物語には、眼鏡をかけたぶさいくな女性というステレオタイプがふさわしいと考えたのだ。フェミニストにもなった彼女には、眼鏡をかけたぶさいくな女性像こそふさわしいということだろう。

なんという古臭い、しかも女性差別的な偏見なのだろうか。こんな偏見を容認・継承しているこのミュージカルはどこかゆがんでいる。たとえどんなに物語が舞台装置が演出が演者が魅力的でも、根底にある旧弊な前提は唾棄すべきものである。この作品は不快な愚劣さを垣間見せている。このミュージカルの基盤が不快でむかつくものだった。


だが、このミュージカルにはもう一つの基盤がある。水の物語と、その発展である。ただし、ミュージカル自体、このことを強調してはないように思われる。そもそも南極大陸圏で氷海に22名の隊員とともに閉じ込められたシャクルトン隊長の敵中突破ならぬ氷中突破物語は、女のいない海の男たち、男たちだけの冒険、その圧倒的な水量によって、水の物語(なんとかの一つ覚えと言われるのを覚悟のうえでいえば)、まさにゲイ的物語(現実のシャクルトンはどうであれ)である。正確にえいば、ゲイ的物語というサブテクストを強く喚起する。

シャクルトン役のウェイド・マッカラムWadeMcCollumは、南極で苦境に陥っているシャクルトンを印象づけるため、ひげ面のマッチョな男となって登場するが、その歌声とか過剰なまでの芝居がかった演技をみると、この俳優はゲイではないかと思えてくる。あるいはシャクルトンをゲイとして提示しようとしているのかと思えてきた。

実際、ウェイド・マッカラムは、伝説の、あるいは先駆的なトランスヴェスタイトでトランスジェンダーの作家・エンターテイナー、ケネス(のちにケイト)マーローを描くMake Me Gorgeous(2023)の主役舞台で高く評価されている。このミュージカルのネット上のページではWade McCollumのことを“queer cisgender”と紹介してる。え、どっちなのだ。

「クィア・シスジェンダー」というのは、一昔前というか前世紀の古い言い方をすれば、「ヘテロだけれども同性愛者を演ずる、同性愛者と仲が良い、同性愛者と相性がいい」という味か(クィア=同性愛ではないが、クィアは同性愛をふくむことは確か)。あるいは「ヘテロにみえる同性愛者」という意味にもとれるが、ウェイド・マッカラムを例にとれば、前者の意味だろう。

つまりウェイド・マッカラム(WM)は、同性愛者にみえるし(シャクルトンを演ずるときのみかけはそうでもないが)、同性愛者を演ずることもあるが、実際には結婚しているヘテロな男性であるということのようだ。

しかし、そうなると私がWM/シャクルトンのなかにみたクィアなものは、水の物語というサブテクストを意識したためにみえてしまったのか、あるいは、WMがたとえマッチョな男性を演じてもにじみでてしまった自身のクィア性なのか、あるいは最初からクィアなものをねらっているのか、どうとでもとれてしまう。

実際、私が映画館で観たときは、たまたまかもしれないが観客はまばらだった。いまでは上映館も大幅に減らしているかもしれないが、それは、私のように観客が、女性シンガーを魅力的ではないと感じた、あるいは主人公の女性をあえて魅力的ではないようにした演出に不満をもったというよりも、観客がシャクルトン役のWMのクィア性を、おそらく「気持ち悪い」とゲイ差別的にみたせいかもしれない。

ただシャクルトン(シスジェンダー)をクィア的俳優が演じ、シングルマザーをフェミニストのステレオタイプ的外貌をまとわせた女性俳優に演じさせたことで、クィアとフェミニズムの幸運な遭遇を出現させたというふうにみることができる。そうなると、時空を超えた男女(シスジェンダー)の出逢いという物語は、今そこに展開するかもしれない、いやすでに実現しているクィアとフェミニズムの出逢いという物語に反転するかもしれない。

そうなればこのミュージカルは面白くなるのかもしれない。

いや、主役の女性の魅力のなさは致命的で、私にとってこのミュージカルは、残念ながら永遠につまらないものでしかないのだが。
posted by ohashi at 11:01| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年10月01日

『来てけつかるべき新世界』

ヨーロッパ企画の第43回公演(本公演)を下北沢の本多劇場でみる。2016年の公演の再演なのだが、残念ながら初演は観ていない。ただDVDでは観た。また2022年に東京のアウルスポットで観た『あんなにやさしかったゴーレム』も再演だったが、これは初演とくらべて舞台装置も変更がくわえられ、かなりパワーアップしたものだったが、今回のそれは、同じ舞台装置で、パワーアップ版ではない。ただ、それでも随所に時代の変化にあわせた変更がくわえられ、面白しさは倍増していると思った。

もっともいっしょに観劇した人に、2016年版のDVDを貸したところ、公演後、帰宅してすぐに見たら、これも面白かったということだったので、まあ、どちらも面白いということだろう。

実際、最初から最後までしっかり笑わせてもらったし、劇場全体が間断なく笑いに包まれていた。評判を聞きつけて急遽観に来た観客もいたと思うのだが、劇場は満席だった。

だから信じられないのが、私の隣に座った巨漢のことである。巨漢と言っても、『キングダム』に登場する大将軍のような大男ではないし、私がその巨体に圧迫されたというような迷惑をこうむったというのではないだが、その男、ともかく始まるとすぐに寝始めたのだ。

まだどんな話かわからないうちに寝るとは。芝居を観てつまらないと思い寝始めることはある。しかし芝居がはじまった瞬間寝ていたということはどういうことなのか。しかも、周りでは舞台に対する笑い声が絶えないというのに、その笑い声に誘われて舞台を観てみようとは思わないのだろうか。とにかく爆笑に包まれた劇場のなかで眠りこけているこの男は、いったい何者なのだ。

病気かもしれないのだが、午後1時から公演なので、ランチを食べすぎて眠たくなったということか。こんなに面白い芝居を前にして寝ているというのは、どういう愚か者なのかと笑うことすらできなかった。

公演にあたって作者・主催者の上田誠は、こんなことを書いている。

「来てけつかるべき新世界」は、大阪・新世界を舞台にしたSF人情喜劇です。くすんだ歓楽街にたむろするオッサンおばはんらの元へ、文字通りの「新世界」がやってきます。ドローン、ロボット、AI、メタバース、シンギュラリティ…。
2016年に初演し、ただならぬ手ごたえとともに、劇団を大きく躍進させてくれたこの作品を、8年ごしに再演します。もう8年か、と思うほどに最近の気分でもありますが、この8年でテクノロジーはまたうんと進化し、SFだなんて呑気に言ってられない状況になりました。ファミレスでハンバーグをロボットが運んでくるに至り、劇が現実に追い抜かれないうちにと再演を決意しました。
着々と新世界は来てけつかりますが、僕らも8年歳をとり、オッサンたちはよりふてぶてしくなりました。加えてえげつない客演陣と、いらちなマナっちゃんが串カツ屋で迎え撃ちます。人類はどこへいくのでしょう。阪神のサイボーグ枠は打つでしょうか。 (上田誠)

この言葉に触発されて、公演前のランチは「ガスト」ですることにした。下北沢の駅前すぐにあるし、並ばなくても入れるのだが、とくにファンというわけでもないのに、入ってみたかったのは料理をもってくるロボットをみてみたかったからである。

上記の文章で上田誠は、「ファミレスでハンバーグをロボットが運んでくるに至り、劇が現実に追い抜かれないうちにと再演を決意しました」と書いてある。実は、「ガスト」だけではないだろうが、ロボットが配膳するファミレスのひとつ、駅前の「ガスト」で、料理を運んでくるロボットをどうしてもみておきたかった(私はこれまで眼前でみたことはない)。

実際、ガストでのランチがよい予告編となった。実際に動くロボットは、今回の『来てけつかるべき新世界』の物語とテーマとに連動して、テクノロジーと文化について、ほんとうにいろいろ考えさせられた。

配膳ロボットをみていると愛おしくなった。これは動物が、あるいは幼い子供が、精いっぱいの努力をして仕事を全うするけなげな姿に対して、愛おしさを感ずるようなもの。とはいえ、これは優越感にひたりながら、上から目線で見下しているという、裏を返せば差別的姿勢そのものである、そう言われればそうである。

しかし、では、親が自分のまだ未熟な子供の行動を温かい目で見守っていることも、優越感に裏打ちされた差別的姿勢なのだろうか。そこには差別的目線を支える憎悪はない。愛がある。いや、そのような愛こそが憎悪と表裏一体化しているのだと批判されるかもしれない。親の愛も、子供が自立したとき、あるいは子供が自立を求めているときには、むしろ抑圧的・暴力的にはたらくことがあろう。だから、その愛はいつ暴力に反転するかわからないことを承知のうえで、それでも、人間が自然に抱いてしまうエンパシーは、ゆるがせにできぬ重大な機能を秘めていると主張したい。

そのような愛とかエンパシーは、抑圧とか暴力とか同調圧力などにいつでも反転しかねないし、未知なるものとの遭遇において、それらは、もっとも危険な対処法であることも十分に承知したうえで、それでもなお、未知なるもの、未知なる世界に相対するとき、敵対的・支配的な姿勢では、たとえ解決につながるかにみえて、それは根本的な解決にはならならず、やはり友愛とか愛情といったものが、未知なるもの他者なるものとの遭遇において基盤となるべきだと主張したい。そうならなければ、私たちはサヴァイヴァルできないのではないだろうか。敵対的・支配的なものはサヴァイヴァルにとってマイナス効果しかないだろう。また愛が敵対的・支配的なものに裏返らないことがサヴァイヴァルの条件である。

ガストにおける配膳ロボットをみて感じた愛おしさは、ロボットを擬人化しているともいえるのだが、おそらく擬人化は人類の歴史の始まりとともにあった。アニミズムである。結局、人間は自然を擬人化することで自然を意識化し、自然と対決したのだが、そうしなければ生き残ることはできなかった。もちろんアニミズムは妄想であり、恵みぶかい自然という擬人化は、近代科学の台頭とともに消え去ったともいえるのだが、人間の事情など意にかえさない冷酷な自然というのも、もうひとつの擬人化である。擬人化からは逃れられないとすれば、擬人化による生存戦略こそ見直すべきであろう。

と、まあ、そんなことをガストの配膳ロボットをみながら考えた。いや『来てけつかるべき新世界』の舞台を観ながら考えた。ここでいう「新世界」とはふたつの意味がある。「ドローン、ロボット、AI、メタバース、シンギュラリティ……」によって変化する新しい世界と、大阪市浪速区恵美須東に位置し、通天閣がみえる庶民的な繁華街、できた当初は新世界だったのだろうが、いまは昭和の名残のある庶民の繁華街、新世界とは似ても似つかぬ旧世界である。この古き新世界ではドローン、ロボットその他はおよそ似つかわしくないのだが、にもかかわらず新しいテクノロジーの波は古い新世界の日常を侵食してゆく。そこにストレスや悲劇も生ずるだろうが、お笑いも生ずる、それが『来てけつかるべき新世界』の世界である。

AIと人情喜劇の合体といってもよい。AIが人間の日常なり人間性を支配する近未来だが、同時に、人間がAIと仲良くなるというよりも人間がAIと情愛の絆で結ばれるような近未来もある。まさにAIと人間との「人情喜劇」であって、そこにAIとの接し方についての、好ましいありようが垣間みえる。そこがなんとも面白くて、そして愛おしい。

お笑い満載で、しかも知的刺激にことかかない、それがヨーロッパ企画の舞台であり、それが作者の上田誠の天才的なところでもある。

できれば配膳ロボットがいるファミレスで食事をしたあと、舞台を観ていただければ感慨もひとしおではないか。ファミレスから舞台へ。おなか一杯になって眠たくならなければ、これが私のお薦めするベストなコースである。
posted by ohashi at 04:44| 演劇 | 更新情報をチェックする

2024年07月14日

オセローとイアーゴーの結婚 『オセロー』雑感 5

イアーゴーによって妻デズデモーナの不倫疑惑を吹き込まれ、やがて不倫を確信するにいたったオセローだが、なぜ結婚したばかりの最愛の妻を、いくらイアーゴーのられたからといって、疑うことになったのか。そしてその結果、人間関係にどんな変化がおこったのだろうか。

オセローがイアーゴーに騙された原因となるものはいくつか考えられる。そのひとつに、オセローが戦いの日々に長く明け暮れていたことがあげられる。戦場こそオセローのホーム(故郷・家庭)であり、彼の生きる場はそこでしかなかった。オセローにとって戦場こそ家庭。オセローにとって結婚生活は、異郷の地での不慣れな暮らしでしかない。当然、妻とどう向き合うか、夫たるものどうあるべきか、円満な夫婦生活の秘訣、どれもがオセローにとって未知の体験であり未知の領域であった。そこにイアーゴーのつけ入る隙ができたといえようか。

オセローは、信頼するイアーゴーの、歳は若いが(28歳)既婚者のイアーゴーの、その言葉の端々から円満な家庭生活のこつを、妻という女性の生理や心理をつかみとるしかない。イアーゴーに主導権を握られるのは必然である。

事実、平時において妻をもつことになった不器用な老将軍の悲劇というのは『オセロー』についてよく聞かれる解釈のひとつだった。

敵軍とわたりあうことにかけては歴戦の戦士であったオセローも、女性との対処法については無知をさらけ出すしかない、若い美人妻に翻弄される男でしかなかった。

もうひとつの要因は、オセローが異邦人であるということだ。ヴェニス公国に奉仕する傭兵の将軍たるオセローとって、つまりよそ者のオセローにとって、ヴェニスは未知の社会である。イアーゴーはいう、ヴェニスでは女性はみんな夫を騙して浮気していると。
イアーゴー ……
 私は同国人の気質がよくわかっております、
 ヴェニス女は、ふらちな行為を神様には平気で見せても、
 亭主にはかくします。その良心といってもせいぜい
 悪事を犯さないことではなく、犯しても内密にすることです。
オセロー ほんとうにそうか?(3.3.232-36)

そういわれるとヴェニス人ではないオセローは信ずるほかない。かくしてよそ者のオセローは、信頼するイアーゴーの知恵に助言に暗示に依存するしかなく、最終的にオセローはイアーゴーの言説におのが内面を書き替えられてしまう。

ある意味ではオセローにコンプレックスがあった、あるいはオセローはコンプレックスの塊であった。くりかえしになるが、軍隊生活が長く家庭生活にはまったくうといこと。女性の扱いに慣れていない無粋な男であること。妻の父親と同じ世代であって、高齢であること。そしてよそ者であること。間接的に示唆されることはごくわずかだ、おそらく大前提となっているであろう肌の色の違いがあること。こうしたコンプレックスゆえに弱みをかかえることになる。たとえ本人がヴェニス公国にとって救国の戦士・英雄であるとしても。

逆に言えば、こうしたコンプレックスは無意識の恐怖を育成することになる。家庭にも女性にもうとい自分が女性から飽きられ浮気されるのではないかという不安なりおびえ。父親のような自分に妻は夫を男としてみることができず、同世代の若い男との浮気に走るのではないか。異邦人である自分はヴェニス貴族の洗練された娘である妻に見下されるのではないか。こうした無意識の不安が育成されていたがゆえに、簡単にイアーゴーの軍門に下るのである。イアーゴーにほんの一押しされるだけで、オセローは嫉妬の泥沼にはまってしまう。

イアーゴーによれば、妻のデズデモーナに頭が上がらないオセローについて、オセロー将軍の将軍はデズデモーナであるという。だが、オセロー将軍には、デズデモーナ以外にも将軍がいる。いうまでもなくイアーゴーである。旗持ちという低い位にもかかわらず、イアーゴーはオセローの将軍、オセローの支配者となる。

この二人の将軍のうち、妻に裏切られたオセローはもうひとりの将軍イアーゴーにすがるしかない。もちろん軍人としてのプライドゆえにオセローはデズデモーナにせよイアーゴーにせよ誰かを自身の将軍として認めることはないだろう。するとオセローは妻デズデモーナを捨て、イアーゴーを新たな妻として迎えることになる。

ジェンダー論的にいえば、男性が(女性であってもいいのだが)、異性とのつきあいに苦慮し苦悶したあげく、同性とのつきあいのなかに安らぎを見出すということであり、このときホモソーシャル関係(ホモセクシュアル関係ではない)が救いとなる。イアーゴーはオセローを支配するために、このホモソーシャル関係の強化をはかるのである。

デズデモーナがキャシオと浮気をしている思い込ませるために、イアーゴーは、オセローに、こんなことを話す。最近、同じベッドで寝ていたキャシオは、寝ぼけて、私(イアーゴー)のことをデズデモーナと勘違いして、脚をからませてきて強烈なキスをしたのだと。

イアーゴー 
 ……最近のことです。私はキャシオーと
 寝ていまして、歯の痛みのためにどうしても
 眠ることができませんでした。
 世の中には、心にしまりがあないのでしょう、
 眠りながら自分がしたことをしゃべるやつがおります。
 キャシオーもそれなのです。
 眠りながらこう言いました、「かわいいデズデモーナ、
 気をつけよう、ぼくたちの愛が人目にたたぬように」
 それから私の手をとり、握りしめ、「ああ、かわいい人!」
 と叫んだかと思うと、私にはげしくキスしたのです、
 まるで私の唇に生えているキスを、根こそぎ
 引き抜こうとでもするかのように。そしてその脚を
 私の太腿にのせ、溜息をつき、キスし、叫びました、
 「あなたをムーアに与えたとはなんと呪わしい運命だ!」
オセロー ああ、犬め! 犬畜生め! (3.3.470-483)

【この見事な小田島雄志訳からもわかるように、イアーゴーの語りは、実にポルノチックで、官能的イメージの強度は尋常ではない。なおシェイクスピアは、聖書とかフロイトと同様に犬が嫌いであることは事実で、「ああ、犬め! 犬畜生め!」と訳されたのは、ある意味、天才的な直観のなせるわざと、別にお世辞でもなんでもなく付言しておきたい。原文は‘O monstrous! Monstrous!’なのだから】

なおここで留意すべきことは、すでに第1回「キャシオの美人妻」のところで述べておいたのだが、イアーゴーの話すことはほとんどでたらめで嘘である。キャシオが寝台で足をからませきたというのは、オセローを騙すための作り話だろうと観客は思う。そしてここにあるのは、イアーゴーの作為である。それが際立つ。

つまり、キャシオが隣に寝ていたイアーゴーをデズデモーナと勘違いして脚をからませ接吻してきたという話は、オセローを嫉妬で狂わせるに充分なものがあるのだが、同時に、キャシオとイアーゴーが抱き合っているという同性愛的イメージも喚起する。

事実、そうなのだ。このあとイアーゴーはオセローに言い寄り、イアーゴーはキャシオを殺し、オセローはデズデモーナを殺すという復讐の誓いをさせるのだが、誓いのために二人は跪く。だが、それは男女がおこなう結婚の誓いの仕草でもある。男女二人が跪いて結婚の誓いを話す。
オセロー ……
 ……おれの復讐の血は
 はげしい勢いで突き進むのみだ、うしろをふり返ったり、
 おだやかな愛におさまり返ったりはせぬぞ、
 あくことを知らぬ底なしの復讐がいっさいを
 飲みほす日まではない。あの大理石のような天にかけて
                         (ひざまずく)
 神聖な誓約にふわしい敬虔な心をもって、
 このことば誓うぞ。
イアーゴー     そのままお立ちにならないでください。
                         (ひざまずく)
 永遠に輝く天上の日月星辰を証人として、
 われらをとりまく地上の神羅万象を証人として、
 イアーゴーはその知恵と手と心の働きのすべてを、
 辱められたオセローのために捧げることを
 ここに誓います! 将軍の命令とあらば、
 いかに残虐な行為であろうとためらうことなく、
 従います。
                        (二人はたちあがる)
オセロー おれを思うおまえの愛〔thy love〕には感謝するぞ、
 口先だけの礼ではない、心からのことばだ。
 早速だがおまえの愛の証をみせてもらおう、
 三日以内にこの耳に報告をもってこい、
 キャシオ―は死んだと。3.3.518-538

と、このように。

ゼッフィレリ監督の映画『ロミオとジュリエット』では、恋人たちふたりは跪いて結婚の誓いを述べる(原作では結婚式の様子は舞台上に提示はされない)。ただ、それを思い出さなくても、『オセロー』においてはオセローとイアーゴーは、ト書き書いてあることもあって、ふたりして跪いて復讐の誓いを立てるのであり、それは結婚の誓いを思わせる。妻に裏切られ、女性に見放されたはオセローは、イアーゴーという男性と同性婚することで癒されるのである。

となると私たちは、いったい何をみてきたのだろうか。あるいは、ここにいたって、これまで間歇的に姿をみせてきたが明示的ではなかったテーマが、いよいよその全貌を現したということになりはしないか。ここにあるのはホモソーシャル関係を超えた関係ではないか。

イアーゴーはオセローを愛していた。そしてここにいたってイアーゴーはオセローと晴れて結婚できたのである。
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2024年07月13日

ふたりは初夜を迎えたのか? 『オセロー』雑感 4

ふたりとはオセローとデズデモーナのことで、この問題は前回のダブルタイムと大いに関係する問題なのだが、オセローとデズデモーナは初夜をむかえていない、つまりふたりは婚礼後の初夜のセックスをしていないのではないかということが、昔から取りざたされてきた。

ダブル・タイムで長い時間枠を考えれば、ふたりは破局にいたるまで、初夜のセックスとか、その後の夫婦のセックスはしているであろうから、これは問題にすらならないだろう。

しかし『オセロー』には短い時間枠があり、これに沿うと、キプロス到着後の翌日、オセローはデズデモーナを殺害する。この夫婦は初夜を迎える前、夫が妻を殺し、夫も自殺する、つまり夫婦はふたりとも死んだのではないか。結ばれる前に。黒人/ムーア人と白人の異人種結婚は成就していないのではないか。

出来事の展開を追ってみよう。まずオセローとデズデモーナは、結婚後、ヴェニスのサジタリー亭に移動し、そこで新婚の初夜を迎えようとする。だがイアーゴーの奸計によって、娘デズデモーナが父親に内緒で家を出てオセローと結婚したことを知った父親ブラバンショーは一族郎党を率いてサジタリー亭に押し掛ける。そのためオセローとデズデモーナは初夜を迎えられなかった。

この時、イアーゴーは、ブラバンショーにこんなことを言っていた:
あたしはね、閣下、あんたのお嬢さんとムーアが、おなかは一つで背中は二つの怪獣になっているって知らせにきた男ですよ。(1.1)

また二人の秘密裏の結婚は親に祝福されたものではないため、父親に報告し許しをもらえるまでは正式の夫婦ではないと二人は考えたとしたら、サジタリー亭での密会で性行為に及ぶこと(「おなかは一つで背中は二つの怪獣」)はなかったといえる。

次に、オセローとデズデモーナは、ヴェニスの元老院で公爵から夫婦として認められる。だがオセローは、すぐさまキプロス島へ出発せねばならない。出発までの短い時間に二人がセックスをしたとは考えにくい。
オセロー 【略】 忠実なイアーゴー、
 デズデモーナをおまえにあずけねばならぬ。
 頼む、おまえの奥さんに面倒を見てもらいたい、
 都合がつき次第二人を連れてきてくれ。
 さあ、デズデモーナ、わずか一時間しか
 残っていはいないのだ、愛の語らいにも、
 俗事の始末にも。これだけは動かせないのだ。(1.3)

この一時間に二人は大急ぎで初夜をむかえたとは考えにくい。ふたりは初夜をキプロス島で迎えることになる。

夫婦の初夜は船上ではない。オセローとデズデモーナは同じ船ではなく別々の船でキプロス島へと向かうからである。事実、デズデモーナ一行はオセローよりも先に到着し、港でオセローを出迎えている。

そうなると初夜はキプロス到着後の夜ということになる。だが、この夜に、ふたたびイアーゴーの奸計によって、酒に弱いキャシオが酒乱状態で暴れまくりキプロス島総督にけがを負わせる事件が起こる。新婚初夜を邪魔されたオセローはキャシオを副官の職から解く。もちろん、その後、オセローはデズデモーナとの初夜を迎えたと考えることができるのだが、どうもそうでもないことがわかる。

『オセロー』のなかでよく省略される場面のひとつが、第3幕第1場の冒頭の場面だが、翌朝キャシオが楽隊あるいは楽師たちを連れて登場し、オセロー夫妻が宿泊している家の前で音楽を奏でさせる。ところが家からはオセローの召使(台本には道化と書いてある)が登場し、音楽を奏でるのをやめさせる。この短い出来事は何を意味しているのか?

その場面を確認しておく。
    キャシオーと数人の楽師たち登場。
キャシオー ここで音楽をやってくれ、礼はするぞ。
 短いのでいい、そのあと、「おめでとう、将軍」と言うんだ。
 音楽。道化登場。
道化【中略】ところで楽師諸君、金だ。将軍は諸君の音楽がたいそうお気に召されてね。どうかもう一曲、たりともやらないでほしいとおっしゃる。【以下略】(3.1)

婚礼後初夜を迎えた夫婦に対して翌朝、音楽を奏でて、祝福するというのが習わしだった。前夜、騒乱の張本人として副官職を解任されたキャシオは、復職するためオセローのご機嫌をとるために、楽師数人を雇い、めでたく初夜を迎えた夫妻を祝福するために音楽を演奏させたとみることができる。しかし、音楽を演奏するなと召使に言われる。これは前夜の騒乱のために結局、夫妻が初夜を迎えられなかったということを暗示する。いや、暗示どころか明確な指標となる。

短い時間枠のなかで考えている。この劇作品は、翌日の夜に、オセローは、デズデモーナを殺害し、そのあと自害することになる。夫婦の初夜が夫婦の最後の夜となり、しかもこのときオセローはデズデモーナを絞め殺すだけでセックスをしていないので、結局、ふたりは最後までむすばれなかったということになる。

ちなみに第4幕第2場で、デズデモーナは、エミリアにこう頼んでいる:
デズデモーナ お願い、今夜のベッドに
 婚礼のときのシーツを敷いていちょうだい――忘れないで
            Prithee, tonight
 Lay on my bed my wedding sheets. Remember. 4.2.121-2

と。今回、小田島雄志訳を一貫して使わせていただいているが、「婚礼のときのシーツ」というのは、べつにまちがいではないが、これは初夜を迎えたことが前提として訳語が選択されている。つまり「婚礼のときに使ったのと同じシーツ」という意味である。しかし原文‘my wedding sheet’は、初夜のときに使うシーツという意味にもなる。この夫妻が初夜をむかえていないことが暗示されているのである。いや、ここではっきりとわかるというべきか。

結局、結ばれなかった二人は天国で結ばれるということしかいえないのだが、なぜ、こうなったかについては、すでに述べたようにイアーゴーによる奸計が原因なのである。オセローとデズデモーナが、まさに結ばれようとするとき、イアーゴーは大きな騒ぎを仕組む。男たちが剣を鞘から抜いて夜の街を走る。阿鼻叫喚の騒乱が起こる。これに邪魔されてオセローとデズデモーナは性交できない。

もう一度確認すると第一の場面は、ヴェニスの夜。オセローとデズデモーナの宿泊場所サジタリー亭の前でブランバンショー一族とオセロー将軍側近たちとの間で暴力沙汰が起こる、正確には起りそうになるが、オセローがそれを未然に防ぐ。

第二の場面は、キプロス島にオセローが到着したその夜。キャシオが酒乱状態で暴力事件を起こす。キプロス島の夜の街に男たちの叫び声が響き渡る。

そして最後の場面、イアーゴーにそそのかされたロダリーゴーは夜、キャシオを襲うが、反撃され負傷する。そしてそのロダリーゴーを口封じのためにイアーゴーは殺害する。この出来事をきっかけに、キプロス島の夜の街は騒乱状態となる。これに、初夜を迎えようとしているオセローは煩わされることはない。オセローはすでに、デズデモーナを殺すことを決断していたからである。

イアーゴーは、ハムレットと同様に、不適切な結婚に反対していた。ハムレットの場合、母ガートルードと叔父クローディアスとの結婚は近親婚としていまわしいものであり、亡き先王の記憶を汚すものであった。イアーゴーの場合、オセローとデズデモーナの結婚は、メイ・ディセンバー婚(歳の差婚)としていまわしいものであるだけでなく、黒人男性と白人女性との忌まわしい異人種婚ということであった。

すでにイアーゴーは(ハムレットと同様に)ひとりシャリヴァリをしているのではないかと述べた。シャリヴァリとはそもそも何か。以下の記述で、概要をつかんでいだければと思う。
〈シャリバリ〉charivariというフランス語の語源は明らかでないが、共同体の伝統的規範を侵犯した者に対し、儀礼化したやり方で罰を加える行為であって、中世から19世紀に至るまで,広くヨーロッパ各地に見られた。英語では〈ラフ・ミュージックrough music〉、ドイツ語では〈カッツェンムジークKatzenmusik〉、イタリア語では〈スカンパナーテscampanate〉などと呼ばれている。シャリバリの対象として最も多く見られるのは、再婚をめぐっての事例であり、男やもめと若い娘とか、若者と年齢がかけ離れた寡婦といった組合せで、しかも一方がよそ者の場合など、あつらえむきのシャリバリの対象であった。村内婚が支配的であったこの時代にあって、村の若い男女の間の結婚の機会を奪うものであったからである。再婚の事例のほか,不義を犯した妻,間男された亭主,亭主をなぐったじゃじゃ馬女房なども,シャリバリに狙われるところとなった。共同体の規範を守る役目は若者の手にゆだねられることが多かったから、シャリバリにおいても若者組が中心的な役割を果たす。その方法としては,相手の家の窓下に押しかけ、一晩中角笛を吹き鍋釜を打ち鳴らすとか、ロバの背に乗せ、大騒ぎをしながら村中ひきまわすといった形がとられた。懲罰はこうして共同体内に公示されるのである。シャリバリの対象となった者は、結局のところ,若者組に罰金を支払うほかはなく、この懲罰を受けることによって初めて、村や町の共同体のメンバーとして受け入れられるのである。 執筆者:二宮 宏之、『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)

また繰り返すがデズデモーナとオセローの結婚は、1)歳の差婚であること、2)異人種婚であること、このふたつによって不適切な結婚であり、非難と妨害のためのシャリヴァリが要請されておかしくないのである。

ただし逆にいえばイアーゴーは、常套的・伝統的な結婚のみを容認し、そこから逸脱した結婚を取りしまる「結婚警察」的役割を共同体になりかわって自ら引き受けているのだ。しかも、この「結婚警察」は異人種婚を取り締まるという人種差別的な側面をもっている。イアーゴーは人種差別的機構のエージェントといってもいいだろう。

とはいえ『オセロー』におけるシャリヴァリは、共同体全体を沸騰させ暴動へと走らせるものではなく、イアーゴーのひとりシャリヴァリでしかない。『オセロー』においては、ご都合主義あるいは政治的配慮か、オセローとデズデモーナの結婚は公的に容認されているのであって、ひとりイアーゴーが不満を募らせて、自身が妨害者となるにすぎない。つまり『オセロー』世界では、歳の差婚も異人種婚も正式に容認されている。

この点に、人種差別主義者はおぞけ立つかもしれない。保守勢力――それはまた人種差別主義者と同じことだが――は、この結婚には全面的に反対する、あるいは嫌悪をもよおすかもしれない。まさにここにオセローとデズデモーナが初夜を迎えていないという可能性を存在させた劇作家の配慮がある。それは、不満をかかえる保守派を満足させるために、あるいは保守派からの攻撃を退けるために、保守派に与えられる賄賂のようなものと考えることができるのである。
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2024年07月12日

ダブル・タイム 『オセロー』雑感 3

シェイクスピアの『オセロー』には、二つの時間枠があると、昔から指摘されてきた。つまり短い時間枠と長い時間枠。これをダブル・タイムDouble Time問題と言っているのだが、どちらか一つが正しいとか基盤であり、いまひとつはイリュージョンあるいは派生的なものというのではなく、ふたつの時間枠は共存しているとみることができる。

『オセロー』の物語を時系列に沿って整理してみよう。

第1幕はヴェニスが舞台。オセローがデズデモーナと密会をしているところに、ヴェニスの公爵から呼び出しがかかる。オスマントルコの艦隊がヴェニス領キプロス島に攻撃をしかけてきたので、これを撃退すべく、オセローを総指揮官とする艦隊を派遣することが、その夜のうちに決まる。

なおこの夜にはオセローとデズデモーナとの結婚を許さないデズデモーナの父親ブラバンショーが結婚無効を公爵に訴えるが、訴えは退けられ二人は晴れて正式に結婚をする(もちろんオスマントルコの艦隊を撃破するために傭兵のオセロー将軍の力を借りねばならないヴェニス公国としては元老院議員のブラバンショーよりもオセローの希望を優先させるという政治的判断をしたともとれるのだが)。

つづく第2幕で、舞台はキプロス島になる。オセローよりも先に到着したキャシオ、イアーゴー、デズデモーナがオセローを出迎える。再会を祝するオセロー一行。その夜は、オスマントルコ艦隊が嵐によって撤退したこともあり、危機が去ったことを祝福する宴を開くことになる。だがその宴の席で刺傷事件が起こり、酒乱となった副官キャシオ―が職を解任される。ここまでが第二幕。

そしてその翌朝が第3幕第1場。この日を境にしてイアーゴーは、オセローに対し、デズデモーナの不義密通の疑惑を吹き込むことになる。

問題は、第3幕第1場以降の時間経過が漠然としていることである。第3幕から終幕までにどのくらい時間がたったのか定かでない。

前回話題となったキャシオだが、彼に妻はいないが、ビアンカという恋人がいる。そのビアンカはヴェニスから彼のあとを追ってキプロス島にやってくる。彼女は、キプロス島の安全が確保されたあと、ヴェニスからキプロス島へと移動したと思われるから、そしてヴェニスとキプロスとはかなり距離があることから、彼女がキャシオと再会するまでにはかなりの日数が経過していたとみることができる。

またヴェニスからの使者ロドヴィーゴが、キプロスに到着し、キャシオをキプロス島の総督に任命する旨を伝えるのだが、ヴェニスからの使者が到着するまでには、一定の時間がかかっているとみることができる。

まあ常識的に考えても、オセローが妻のデズデモーナを殺害するまでには、数週間、あるいは数か月かかっているとみることができる(ひょっとしたら数年かかっているかもしれない)。

これがロング・タイムLong Time。長い時間枠である。この何が問題なのかと思うかもしれないのだが、実は『オセロー』という作品、キプロス島へ到着してから次の夜に悲劇が起こるような印象も受けるのである。

もちろんこれはおかしいといえばいえる。オセローの艦隊がすべてキプロス島に到着したその翌日、ヴェニスからロドヴィーゴがやってきてオセローに帰還命令を伝えるというのは、可能性としてないことではないが、蓋然性にとぼしいだろう。

しかし第3幕1場以降、つまり朝になってから、ずっと昼間の場面が続き、第5幕つまり終幕になって夜の場面になるにために、第3幕から第5幕までが長い一日であるかのような印象を受ける。オセローがデズデモーナを殺害するのは長ければ結婚してから数年後(数週間後というのが妥当なところだろうが)、短かければキプロスに到着した翌日ということになる。

これはシェイクスピアの混乱のせいではないだろう。むしろ意図的に慎重に仕組まれたダブルスキームなのではないか。そして長い時間枠、短い時間枠、どちらにも意味をもたせているとみることができる。

長い時間:最側近のイアーゴーに、毎日毎日、デズデモーナの疑惑を吹き込まれたオセロー将軍は、真実と虚偽の見境がつかなくなり、デズデモーナへの信頼を失いはじめ、妻の不貞を確信して殺害に至るというのは、一方で十分にありえることである。

他方では、たとえ最初はイアーゴーに騙されて妻の裏切りを確信しても、長い時間がたつうちに、反省と熟慮を重ね、イアーゴーの言葉自体にも疑念が生じ、やがて妻に対する信頼を取り戻す。またその間、イアーゴーの戦術にもほころびが生まれ、墓穴を掘ることになるかもしれない--つまり最初は妻の裏切りの可能性に激高し絶望しても、時がたつにつれて冷静になり、真実を見抜くことにができるようになるかもしれない。

こう考えれば、長い時間枠というのは、悲劇を展開させる装置としては適切ではないかもしれない。長い時間がたてば、どんな悲劇も喜劇にかわる。もちろん当時の古典劇の理論としては、悲劇も喜劇も24時間以内に完結するというが基本ではあるのだが、同時に、喜劇には長い時間枠というのが想定されていた【詳しいことは別の機会に】。古典劇の理論では、喜劇の場合、舞台は、長いドラマの最後の一日なのである。

また長い時間枠で『オセロー』をみる場合、最後が惨劇で終わること自体、予想外のことで、ふつうなら喜劇的結末が期待される。まさにそうなのだ。そもそも騙されて、妻に嫉妬する愚かな夫というのは、喜劇の題材ではないか。

たまたまこの5月に、18世紀のイタリアの劇作家カルロ・ゴルドーニの『二人の主人を一度に持つと』(加藤健一事務所公演)を下北沢の本多劇場で観た――ちなみに、演出は奇しくも、文学座・横田英司主演の『オセロー』と同じく鵜山仁だったが。もちろんゴルドーニのこのコメディは『オセロー』とは似ても似つかないのだが、しかし、召使に騙されて嫉妬に狂う夫というテーマは、そこに変装した人物の陰謀と策略などが加われば、もう典型的なコメディア・デ・ラルテの世界、あるいはコメディア・デ・ラルテを刷新して人間味を加えた、いかにもゴルドーニの喜劇世界の中心的要素となるだろう。たしかに『二人の主人を一度に持つと』の主人公、口から出まかせ、デタラメ言いまくりのトゥルッファルディーノ(加藤健一が演じる)のなかに、イアーゴーの末裔をみることは容易である。

そもそもシェイクスピアの悲劇は、喜劇のパタンを踏襲したものが多い。このことは、喜劇というマトリックスをもとに作られた悲劇というかたちで論じられたり、悲喜劇(Tragicomedy)という言葉があるが――悲喜劇は究極的には喜劇的結末を迎える――、シェイクスピアの悲劇は喜悲劇(Comitragedy)だと言われたこともある。

たとえば『ロミオとジュリエット』は、親が争う家の子供が恋に落ちるというは基本的に喜劇のパタンであり、ハッピーエンドが予想されるがゆえに、悲劇的結末が痛ましいものとなる。父親を裏切る二人の娘と、父親から嫌われても最後は助ける末娘の物語(『リア王』)は喜劇を通り越しておとぎ話の世界であり、本来なら約束されたハッピーエンディングで終わるはずだった。とまあ、喜劇的世界あるいは喜劇的結末を予期させてそれを覆すのが、シェイクスピアの劇作術だとすれば、『オセロー』の喜劇的要素が横溢していることは驚くべきことではない。むしろ喜劇的結末を予想させて、それを裏切るところにシェイクスピア劇の真骨頂がある。

短い時間:悲劇は短い時間で展開することで、その良さが発揮される。破局にむかって一直線に進んでゆく、いかなる回避手段も、別の可能性も、否定され、破滅こそが唯一の必然的結末であるように作られるのが悲劇である。

そのため悲劇は必然的な破滅までの時間が短ければ短いほどいい。またすべてが破滅、死へと、収束することをめざすのであり、夾雑物は徹底して排除されることが望ましい。

特殊な終わりある時間(フランク・カーモードが『終わりの意識』のなかで紹介してくれた神学的時間の議論を参照すれば、「カイロスの時間」)こそ悲劇であり、夾雑物、必然性ではなく偶然性、そして日常性は、悲劇的純一性を損なうことになる(ちなみに、この対極にあるのが、終わりなき循環の時間、生と死を繰り返し、偶然性に支配され、多様性と不純性にみちた、日常的時間、「クロノスの時間」である)。時間が解決してくれるというのは、長い時間をかけた和解と再生作用を前提とする喜劇的世界観である。それはまた夾雑物が排除されず、多様性が確保され、偶然性が認知され、日常性の価値が評価される俯瞰的・全体的な世界観である。

その対極にあるのが悲劇であり、『オセロー』のなかにある短い時間と思われるものは、悲劇的要素を際立たせるものとして最初から仕組まれているとみるべきだろう。

今年の2月、マイウェン監督の映画『ジャンヌ・デュ・ベリー――国王最期の愛人』(2023)を観たのだが、監督兼主役のマイウェンが出演していた映画『フィフス・エレメント』(1997)を思い出した。彼女がリュック・ベッソンと結婚していたときに、ベッソン監督の映画に出演したのだが、それは異星人のオペラ歌手ディーヴァ・プラヴァラグナの役で、彼女がアリアを歌うのだが、その場面が映画の中の代表的場面のひとつとして今も記憶されている。またこのとき異星人という役なの元の容貌がわからない特殊メイクでのマイウェンの登場だったのだが、今回の『ジャンヌ・デュ・ベリー』に主演している彼女をみると、『フィフス・エレメント』のときの異星人の容貌ととさほど変わらなかったということで驚いたが、それはさておき、『フィフス・エレメント』で彼女(歌は吹き替え)が歌っていたのは、ドニゼッティのオペラ『ランメルモールのルチア』(Lucia di Lammermoor)のなかのアリア「甘いささやき」Il dolce suonoであった。

私はオペラ通ではないし、オペラについてはまったく無知といっていいのだが、ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』はウォルター・スコット原作のスコットランド物であって、英文学と関係するからたまたま知っていたにすぎない。

ルチアは婚礼の夜、夫となる男を刺殺する。そして続く狂乱の場で、本来の結婚相手であった男への愛をうたうのだが、それがアリア「甘いささやき」であり、『フィフス・エレメント』で異星人のオペラ歌手(マイウェン演ずるところの)が歌っていたアリアである。ただ、それにしても婚礼の晩に夫を殺す妻。ああ、なんという絵に描いたようなオペラなのだろうか。そしてこれは、遅れた婚礼の晩(かもしれない)に妻を絞殺する嫉妬に狂う夫の物語と響きあう。『オセロー』はヴェルディによってオペラ化される以前に、すでに、絵に描いたようなオペラであった。

ダブル・タイム:『オセロー』には、喜劇的要素と悲劇的要素が混在・共存している。それは長い時間枠と短い時間枠に対応している。短い時間枠は、破滅と終末へと突き進む終わりある時間、カイロスの時間である。長い時間枠は、日常性の時間、死と再生を繰り返し終わりの来ない継続的時間、すなわちクロノスの時間である。

カイロスの時間は、悲劇に相当する。しかも『オセロー』の場合、この悲劇は、いかにもオペラにふさわしいものだった。たまたま類例というよりもただ乏しい知識のなかで思い出したにすぎないオペラの典型としてドゥニゼッティの『ランメルモールのルチア』をあげたが、このオペラはオペラ・セリア(正歌劇:ノーブルでシリアスなオペラという意味)のある意味典型であった。その対極にあるのがオペラ・ブッファ(コメディア・デ・ラルテに範をとる喜劇的オペラ)であり、この要素も『オセロー』にはある。ある意味、オセローがオペラ・セリア的要素を担い、イアーゴーがオペラ・ブッファ的要素を担うということもできるのだが、これは、オセロー自身のなかにも喜劇的要素と悲劇的要素が共存する以上、やや図式的か。

ただどうであれ、『オセロー』は、長い時間と短い時間、喜劇と悲劇、クロノスとカイロス、オペラ・ブッフェとオペラ・セリア、その他を、この対極にある要素の数々を、コインの両面のごとく、同居・共存させているのである。

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2024年07月11日

キャシオの美人妻  『オセロー』雑感 2

『オセロー』においてイアーゴーが語ることは、ほぼ嘘である。そんなことは言われなくてもわかっていると反論されそうだが、わかっていない人種がいる。

それはともかく、劇の冒頭、イアーゴーはロダリーゴー相手に、オセローの悪口を言っている。悪口はオセローその人だけではなく、オセローの副官となったキャシオにまで及ぶ。
イアーゴー マイクル・キャシオーというフローレンス生まれの野郎だ
 美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ。

 One Michael Cassio, a Florentine,
 A fellow almost damned in a fair wife, 1.1.21-22

【小田島雄志訳を使わせていただいた。以下、同じ。なお引用でない場合はキャシオとする】

キャシオは美しい妻のために身の破滅という憂き目をみている。具体的にいえば、「美人の女房をもらって浮気をされて泣きを見」ているということである。英語の原文からはここでいいうキャシオはすでに結婚している、美人の女房をもっているという情報を受け取ることができる。

ところが『オセロー』という芝居を読んだり観たりした者にとって、はっきりわかるのはキャシオが結婚していないということだ。彼にはビアンカというガールフレンドがいる。しかし本人は独身である。ところがイアーゴーのセリフではキャシオは結婚している――このことで昔からもめていた。

シェイクスピアの最初のプランではキャシオは結婚していた。しかし途中でプラン変更となり、キャシオは独身ということになったのだが、最初のプランの痕跡が残ってしまった。あるいはシェイクスピアはこの劇を書き始めたころはキャシオを既婚者と想定していたが、途中からキャシオを独身者にした。ただ最初のほうの、つじつまのあわないセリフを消し忘れた……。

要はシェイクスピアはうっかり者だった――ということをバカなシェイクスピア学者がいいつのってきたのだが、シェイクスピアがそれを知ったらどう思うのだろうか。憤死するのではないかと心配である。もう死んでいるのだが。

この美しい妻云々のセリフは、やや深遠な意味を読み取れないこともないのだが、しかし、単純に考えれば、そしてそれが正解だと思うのだが、イアーゴーは、何も知らないロダリーゴーに、キャシオは美人妻に苦しめられている愚か者だと嘘をついているのである。

小田島雄志訳では「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ」とニュアンスを着けて訳している(仮定法的に意味をとらえている)。キャシオというのは、結婚したら美人妻に苦しめられそうなやつだというように。それは独身のキャシオと整合性をとるための措置であることはわかるが、単純に考えたほうが正解である場合もある。

劇の冒頭におけるイアーゴーとロダリーゴーのやりとりをみてみよう。長いけれども、とくに面倒な議論をするつもりはないので、ただ漫然と読んでいただければいい。
ロダリーゴー おまえ、言ってたじゃないか、あいつを憎んでいるって。
イアーゴー おれに唾をひっかけるがいいさ、それが嘘ならば。
 この町のお偉がたが三人もやつのところに出むいて、
 おれを副官にと頭をさげて頼んでくれたんだ。おれだって
 自分の値うちはわかるさ、その地位はちーとも重荷じゃない。
 ところがやつは、おのれを大事にして我を通す男だ、
 長ったらしいホラ話に軍隊用語をやたら詰めこみ、
 それでもって三人のお偉がたを煙に巻いちまった。
 あげくのはては、
 歎願却下さ。「実は」とやつは言いやがったね、
 「副官の選考はすでに終えておりますので」
 で、そいつがだれだと思う?
 おどろいたね、人もあろうに算盤(そろばん)はじきの大先生、
 マイクル・キャシオーというフローレンス生まれの野郎だ、
 美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいとこだ。
 だいたい戦場に出て軍隊を指揮したことなどないし、
 小娘ほどの知識もない。ご存じなのは机上の空論ばかり、
 それにしたって軍服には無縁の宮廷人でも
 わかっているようなものさ。口先ばっかり実行さっぱり、
 というのがやつの戦陣訓だ。そのやつがだよ、おまえ、
 副官に選ばれてだな、このおれは、将軍の目の前で
 ロードス島やキプロス島、キリスト教国や異郷の国、
 いたるところで手柄をあげたこのおれは、あの算盤はじきの
 帳簿の出し入れ野郎の風下におとなしく引っこまされるんだ。
 やつはまんまと副官様だ、ところがこのおれは
 なんたることか、将軍閣下の旗持ちだぜ。1.1.8-35

ノン・キャリア組のたたき上げの軍人たるイアーゴーが、キャリア組のエリート軍人キャシオに対して階級的怨嗟をぶつけていると理解できるこのやりとりだが、そのセリフのファクト・チェックをすれば、おそらくほとんどが嘘であろう。誹謗中傷以外の何物でもないセリフが発せられている。考えてみてもいい。ヴェニスのお偉がたが3人そろって、オセローに対し一介の旗持にすぎないイアーゴーを副官に推薦するなどということがあろうか。イアーゴーは、何も知らない信じやすい愚かなロダリーゴーに対して、自身を大きくみせようとしているにすぎない。典型的な詐欺師の戦略である。

イアーゴーの手にかかれば、オセローは情実人事あるいはエリート優遇の人事を平然としておこなう愚かな将軍であり、キャシオは実戦経験のないキャリア組の軍人で美人妻の尻に敷かれている愚か者であり、いっぽうイアーゴー自身は、のちに28歳とわかるのだが、歴戦の勇士で若くして副官になるにふさわしい優れた軍人だが愚かな将軍ゆえに冷遇されているということになる。

だがこのイアーゴーによる誹謗中傷と自己尊大化――要するにイアーゴーによる演出と自己演出――は、このあと登場するオセローやキャシオと大いに齟齬をきたすことだろう。どんなひどい将軍が、どんなひどい算盤野郎が登場するかと思うと、予想外に威厳がある人格者の将軍と将軍に忠誠を誓う有能な副官が登場するのだから。

そしてキャシオは、美人妻に振り回されるどころか、結婚すらしていないことが観客にわかった段階で、イアーゴーの嘘が、詐欺師の戦略が、誹謗中傷と自己劇化が、露見するということになろう。

「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ」と訳するよりも、もっと単純に「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見ている男だ」とニュアンスなしに訳しても全然かまわないのである。またそのほうが、イアーゴーの誹謗中傷行為がよくわかる。それをバカなシェイクスピア学者によって作者の不注意などと指摘されては、シェイクスピアにとってはほんとうにいい迷惑である。シェイクスピアは死んでも死にきれないぞ。

追記:
「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ」は、嘘を述べていないとい考えることもできる。キャシオにはwifeがいた。ビアンカというwifeが。

いやしかし、キャシオと仲良くしているビアンカはキプロス島の娼婦であって妻ではないと言われるかもしれない。だが商売女と堅気の妻とを区別することは、近代的な区分であって、もともとは、父権制において、娼婦と妻との区分はないといってもよい。

なぜなら妻とは家庭に入り込んだ娼婦だからである。この妻という名の娼婦は、基本的に安価もしくは無償の商売女である。つまり無償で男の世話をし男の性的欲望を満たす存在となった娼婦を、父権制では、妻という名をつけ、制度化したのである。

だから〈娼婦と暮らすキャシオ〉と〈妻と暮らすキャシオ〉との間に根本的な断絶はなかったのであり、したがってイアーゴーは嘘を言っていないと考えることができる?
posted by ohashi at 01:23| 演劇 | 更新情報をチェックする