2021年08月07日

『カンタベリ物語』

ジェフリー・チョーサー『カンタベリ物語』池上忠弘監訳、共同新訳版(悠書館2021.7.15)

この7月に上梓されたチョーサーの『カンタベリ物語』の新訳である。久しぶりの新訳であり、全挿話に、解説と訳注がつき、まさに二一世紀のスタンダード版ともいえる翻訳で、装丁も美しい。図書館に一冊はあるべき本であり、個人で蔵書として購入してもよい本であって、自信をもって推薦できる。

個人で蔵書? 『カンタベリ物語』の全訳だから、そんな薄い本ではないはずでしょう? そう全体で1000頁を超える。ならば、そんな分厚い本(聖書とか辞書を連想させる厚さである)、個人で簡単に買えるような値段ではなないはずで、ましてや、お金を持たない、あるいは本にお金を使いたくない若い人たちは、この本を買う/買えるはずがないと思われるのだが……。

だが驚くなかれ、1000頁を超えるこの本は、定価6800円なのである。つまり、この手の本は、1頁10円というの相場なので、1000頁を超えれば1万円を超えてもおかしくないのだが、それが1万円をきっている。りっぱな装丁の本で、安っぽいところはない。これだけでも推薦するに値する。

私は、チョーサーの専門家ではないが、『カンタベリ物語』は、大学院生時代から、原文でゆっくり読んでいて(個人で、あるいは読書会などで)、シェイクスピア研究者なら誰でも読む最初の「騎士の話」以外にも、前半から中盤にかけての物語は丁寧に読んだが、恥ずかしながら、最後の「教区主任司祭の話」は、全体が長く、散文で、しかも段落が超長く、つまらなそうなので、怖じ気づいたこともあって、まだ読んでいないのだが、今回、すくなくとも翻訳で、読むことができそうなので、このチャンスを喜んでいる。訳文は、どの話も、とても読みやすい。

池上忠弘監訳とあるが、正確にいうと監訳ではない。『カンタベリ物語』の全訳を企画された池上忠弘氏の亡き後、その遺志を汲んで、複数の専門家の方々が訳稿を完成されたものである。訳文を完成された編集委員の方のなかには、私が個人的に知っている方もいる。どなたも優秀な研究者であることは誰もが認めることだろう。

そして最後に、この本の価値をいささかたりとも、減ずることのない、あら探し。繰り返すが、これによってこの本の価値が下がるようなものでは決してない。

帯に「〈人間喜劇〉の一大絵巻」とあって、それはそれで、あらありきたりな惹句とはいえ、『カンタベリ物語』の世界を的確に表現しているのだが、「〈人間喜劇〉」には「コメディア・フマナ」とルビがふってある。それはそれ問題ないのだが、「一大絵巻」に「ページェント」とルビがふってあるのだが、このルビは「大絵巻」もしくは「一大絵巻」全体にかかっているように思われるのだが、本来なら「絵巻」だけのルビではないか。

ただ、問題はそこではなく、「ページェント」というのは何語なのだろうか。英和辞典ではpageantの訳語のひとつに「ページェント」が掲げてあるが、発音記号をみると「パジェント」である。おそらくほとんどの英和辞典でpageantの発音は「パジェント」となっている。これは昔、学生時代に英語の時間にpageantを「ページェント」と読んで、先生に「パジェント」と直された経験がある私としては、それ以来、「ページェント」が何語なのか、つねに疑問に思ってきた。なお日本では、中世(英)文学とかシェイクスピアの時代の文学文化を論ずるときには、口頭でも絶対に「パジェント」としか言わない。「ページェント」などと言おうものならド素人かと馬鹿にされる。

ただし、以上のことは、そんなに問題ではない。すごく違和感があったのは、「共同新訳版」という表記。日本語聖書の「共同訳」とか「新共同訳」を思わせる表記で、実際、本そのものも聖書のように分厚い。

ただし日本の聖書翻訳が、これまで珍奇な表現を考案してきたのは事実。たとえば「明治訳」とか「昭和訳」という表記を平気で使ってきた。しかし、平成の時代、あるいは令和の時代の翻訳を、平成訳とか令和訳というふうに表記することはまずないだろう。聖書翻訳だけが、珍奇な表現を勝手に使っている。そのため「共同訳」というのも、事情を知らないと理解できない変な表現である。

その聖書翻訳の、とんでもない表記の伝統を引き継いだのかどうかわからないが、「共同新訳版」というのは、違和感マックスである。複数の訳者の共訳であることと、新訳であることを伝えたかったのだろうが、「~監訳」という表記で、共訳であることはわかるし、新訳とか新訳版と、タイトルのなかで銘打っておけば、すむのではないか。それが「共同新訳版」とは? いっそのこと聖書みたいに「新共同訳新版」とでもしておいたらよかったのに。

とはいえ、だからといってもこの『カンタベリ物語』の新訳の価値が下がることは絶対にないのだが。


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2021年08月04日

モレッティ『ブルジョワ』

フランコ・モレッティ『ブルジョワ――歴史と文学のあいだ』田中裕介訳(みすず書房、2018)を読む必要に迫られて手に取った。もちろん、あえてここで言及するのだから、きわめてよくできた翻訳であり、誰にも自信をもって奨めることができる本である。

内容も、モレッティの他の本と同様に、きわめて興味深く、また私としては教えられることばかりだが、この『ブルジョワ』の読者としては、やや異端的な読者といわざるをえない私としては、最後のイプセンの章が、とりわけ興味深かった。

イプセンについては、これは読んだり見たりすれば、誰にでもわかることだが、必ずしも、充分に論じられていないこととして、資本主義時代のブルジョワの精神を扱っていることである。ノルウェーは、おそらく他のヨーロッパ諸国に比べて資本主義の到来が遅かったと推測できる。他のヨーロッパで、あらかた毒を振りまき、地獄を出現させ、腐敗し衰退しつつあった資本主義も、周辺国のノルウェーでは、新たな社会と経済体制の到来をもたらす、新鮮このうえない革新性の波となって押し寄せる。そこに生きたLarger-than-lifeといえる傑物たちの栄光と没落の悲劇世界を現出させたのがイプセンの現代劇だと思っている私としては(いや、誰もがそう思っているのだが)、モレッティの議論は、とりわけ参考になった。イプセンの数多の研究者たちには失礼ながら、それは、イプセンの世界をはじめて真正面から捉えた議論であった。

あとは、私の得意なあら探し。とはいえ翻訳とか本文についてではない。だから、残念ながら、このあら探しによっても、この本の高い価値は、いささかなりとも減ることはない。このことは断言しておきたい。

巻末に文献一覧があり、そこには日本語訳も併記され情報価値が高いものとなっている。

The Arabian Nights: Tales of 1001 Nights, Harmondsworth 2010.とあって、
〔大場正史訳『千夜一夜物語:バートン版』全11巻、ちくま文庫、2003-2004年〕


とある。ペンギン版の新訳の『1001夜物語』が書目としてあげてあるのだが、そこに、わざわざ「バートン版」と断っている日本語訳を出すのはいかがなものか。ペンギン版の新訳が依拠している写本と、バートン版が依拠する写本とは違っているはずだが、たとえ同じでも(この点は、まだ確認していない)、新訳の英語とバートン版の英語は異なることはいうまでもない。つまり、この新英語訳を日本語訳にしたものは出ていないのである。

あと、書目一覧には、複数の日本語訳がある原書も、一つしか示していないようなのだが、それはそれとしても、やはり、アラビアン・ナイトの日本語訳は、完訳版もふくめて、多数存在するので、ひとつだけというのはどうか。

まあ、大場訳『千夜一夜物語』を、あくまでも参考作品、参考翻訳として出しておけば、それはそれで問題ない。

私は昔、バートン版を完訳した大場訳を全部読んだのだが、たとえば、なぜ『千一夜物語』ではなく『千夜一夜物語』でなくてはいけないのかをめぐるバートンの議論など興味深く読んだ記憶がある(「千夜一夜」は「永遠と一日」みたいなものである)。それを思うと、新英語訳とバートン訳とは別物だという気がする。

ヘーゲルの本が書目一覧にあって、そのなかに『精神現象学』が掲げてある。この書目一覧では、日本語訳として、岩波のヘーゲル全集のなかの『精神の現象学』というタイトルの日本語訳が示されている。

ところが本文では『精神現象学』と表記している。『精神の現象学』ではなく、『精神現象学』である。一般には『精神現象学』という表記で通っているから、本文における『精神現象学』という表記は妥当なものと思うのだが、ではなぜ書目一覧で、わざわざ『精神の現象学』というタイトルの日本語訳を選んだのか? それしか日本語訳がなければ、それでいいのだが、『精神現象学』というタイトルの翻訳は、文庫本(たとえばちくま学芸文庫や平凡社ライブラリー)もふくめていろいろ出ている。なぜそれを記さないのか。そもそも、複数の日本語訳があっても、そのうち一つしか示さないという、選択は誰が決めたのか。

もちろん複数の日本語訳があるものの場合、すべてを網羅することは、不可能な事が多いので、どうしても選択的になるのだが、網羅的でなくても、一、二冊、あるいは数冊提示することは、そんなに変なことではない。

さもないと、一冊しか提示しない場合、それを最高の権威ある翻訳として示しているような誤解をあたえはしないか。『精神現象学』の翻訳の文庫版が、岩波の全集の翻訳に比べて劣っているとは思えない。もしそのような印象をあたえるなら、それは虚偽の情報操作である。

ちなみにニーチェの『道徳の系譜』には、複数の日本語訳が掲載されていて、一作品、一翻訳という原則はないことがわかる。あるいはヘーゲルの翻訳は最高のものがひとつしかないが、ニーチェのものは甲乙決めがたいというのか。そんなバカな。

要するに、いい加減なのだろう。

ただそれにしても、訳者あとがきと、また巻末の索引の直前の頁に、
編集 勝 康裕 (フリーエディター)

とだけ、堂々と記してある。

恥ずかしながら、どんな方は存じ上げないが、ここまで明記するというのは、みすず書房が編集をこの方に丸投げしたということなのだろうか。出版事情については、なにも知らないのだが、出版社が編集を外注することはあるのだろうが、外注先を明記するのは、礼儀なのだろうか、あるいはこの勝氏が有名な方で、その名前が明記されることは、本の価値を高めるのだろうか。

それにしても「フリーエディター」って、何? これはそもそも何語なのか。日本語?英語ではないでしょう。将来、日本語になるかもしれないし、英語になるかもしれないのだが。これは、フリーランスという意味なのだろうか。これから英語でも日本語でも、フリーランスという意味でフリーという語が使われるのだろうか? そうなって欲しくはないないのだが。

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2021年03月10日

『現代批評理論のすべて』

『現代批評理論のすべて』(大橋洋一編 新書館)の増刷(7刷)が3月15日に発売される。店頭にはすでに並んでいるかもしれない(とはいえこれを店頭に置いてくれる書店は、そんなにないと思うものの)。またネットでの注文も可能になっていると思う。

今回、あらためてその7刷を手に取ってみて、編者である私がいうのも、へんだが、よくできた本だと思う。2006年の初版以来、細々とではあるが版を重ねてきたのは、読者によって支持されてきたからであるが、実際、この本は、またも編者である私がいうのもなんだが、実によくできた本であることを今回、実感した。この種の入門書としては、誰にでも自信をもって薦められる。

テーマ篇、人名篇、用語篇、そしてコラムから索引に至るまで、緻密な編集作業が光っているし、この種のハンドブック的な本としては、相当、装備品が充実している。新書館のこのシリーズはどれもが有用性の高い入門書・ハンドブックとなっているが、『現代批評利理論のすべて』は、シリーズ中トップとまでは言わないが、このシリーズのベスト何位というところには入るのではないかと自負している。その証拠に――どうか現物を手に取っていただきたい。

2006年初版以来、内容はいじっていないが、扱われている人物の没年は追加している。つまり刊行当初から現在に至るまでに亡くなった思想家・批評家は多い。これは当然のこととはいえ、私個人としても、いまなお読んでいる思想家・批評家や、かつて刺激を受けた思想家・批評家たちが亡くなっていくのは、時代が終わってゆくような、あるいはジジェクの本のタイトルではないが、「終焉の時を生きる」感じが否めないのだが、しかし、この『現代批評理論のすべて』で扱われている人物が、すべて亡くなったとしても、この本は、読む価値があるという自負はある。それほど、各執筆者の書かれた内容は素晴らしいのである。

実は執筆者情報は、2006年時のままである。だから本書を初めて手にとられる読者は、若手の研究者が書いているという印象をうけると思う。これがよい印象をあたえるのか(清新気鋭の若手による鋭い論考と解説とみるか)、悪い印象をあたえるのか(大御所的な権威ある執筆者が誰もいないとみるか)、私としては判断できないが、悪い印象をもってしまった読者には、どうかこれが2006年時点の本であることに留意していただければと思う。初版から15年たっている。執筆者は当時は若手でも、今は中堅かそれ以上の、名の知れた、一目置かれる、また権威ある研究者や教育者になっている。正直いって、現時点で、同じ執筆者を集めて、このようなハンドブックはつくれない。執筆者たちが、大物すぎるのである。

繰り返すが、初版刊行当時、若手であった執筆者は、いまは、誰もが有名な研究者・教育者になった。いや一人だけ例外がいる。それは編者の私である。実際、執筆陣が、初版刊行時から、どんどん優れた仕事なり研究をして著名になっていくの比べて、私の声望だけは、どんどん下がっていることは否めない。

おそらく事情に詳しい読者は、本書を手に取って、あの有名な人が、若いころにこういうことを書いていたのかと驚いたり感慨を深めたりするかもしれないし、このことによって、本書の価値が高まることはまちがいないと思うが、一方、編者が、いまやあまりに無名であることに驚かれることだろう。どうして、こいつが編者なのか、と。どうか、誰も知らない編者の本なんか読むかと思わないでいただければと思う。執筆者は、みな優れているので、読む価値は絶対にある。

最後に、本書の装丁は新書館のほうでされたのだが、表紙に使われているのは植物の種子の大きな写真で、刊行当初、その意味なり暗示性を聞かされたような気がするが失念してしまった。ところが昨年から、この表紙についての人から言われることが多くなった。この表紙のイラストというか写真は、コロナウィルスに似ている、と。

これも何かの縁ではないかと思う。もちろん、コロナウィルスに感染されて重症化されたご本人、亡くなられた方の関係者にとって、コロナウィルスに似た変な種子の写真を表紙に使っている本など、ディスガスティングなものかもしれないが、またその気持ちはよくわかるが、そうではない私も含む多くの人たちにとって、コロナウィルスとの図像的類似は肯定的にとらられるものである。なにしろ、この表紙の図像は、コロナとともに生きる私たちの今後の生活様式を考えさせてくれる契機となるかもしれないのだから。

本書(正確にはその表紙)には、死を忘れるな、コロナを忘れるなという暗黙のメッセージが昨年に生まれたのである。

posted by ohashi at 23:30| 推薦図書 | 更新情報をチェックする

2020年04月02日

『文学理論』(フィルムアート社)

三原芳秋・渡邊英理・鵜戸聡(編)『[クリティカル・ワード]文学理論――読み方を学び文学と出会いなおす』(フィルムアート社2020年3月25日)が刊行された。

比較的コンパクトな本だが、それは外見だけで、中身は、250ページあまりの本の後半は2段組となっていて、分量的にも思いのほか多いし、もちろん内容は、コンパクトな入門書ということだが、これも思いのほか重厚で、なおかつ入門書として必要な文献を多く紹介しているし、資料的価値も高い。読みやすさと情報量の多さをねらった入門書として21世紀における現時点で最高の本といっても過言ではない。べつに不必要なお世辞でもなければ、褒め殺しでもなんでもない。手に取って数ページ読んだだけでも誰もが思い抱く評価だと思う。

本書でも紹介されている『現代批評理論のすべて』大橋洋一編(新書館2006)は、この種の入門書としてはいまなお有効な本だと自負しているが、本書『文学理論』は、これを凌駕している、まさに21世紀版ともいえるだろう。ただし、『現代批評理論のすべて』が、いまなお有効であることについては、このあとすぐに述べるが、たとえば『文学理論』における後半トピック編では

第6章ネーション/帝国/グローバル化と文学
第7章ポストヒューマン/ニズム
第8章環境と文学
第9章精神分析と文学
第10章ジェンダー・セクシュアリティと文学


において、第7章と第8章は、まさに今ならではの内容で、これは『現代批評理論のすべて』を編集していた頃には、なかった主題というかアプローチでもあり、この二つの章だけでも、読むに値する。

では第6章と第9章と第10章は、これまでのトピックと同じかというと、題目は同じだが、これらもまさに現在の視点から書かれていて、入門者を過去の時点に置き去りにするのではなく、しっかり現在へと導いてくれる。そういう意味で、後半のトピック編も、前半の基礎講義編も、どれも入門したあとの出門も考えられていて、そこはただ教科書的な記述で終わっているものではない。

また資料編として「Book Guide――文学理論の入門書ガイド」は、まさにこれまでの入門書を、的確なコメント付きで網羅的に紹介しており、さらなる読書案内と同時に、これまでこんなに文学理論関係の入門書が書かれたのかと(私も、それにささやかながら貢献しているのだが)一望でき、記録的価値も高い。すくなくとも、興味がある読者は、これまで、こんなに出ているのだということで感銘を受けてほしいと思う。またそれぞれの入門書については、どれも、特徴とその良さを指摘していて、執筆者の個人的評価を押さえているのは、きわめて好感がもてる。

そしてこの入門書ガイド編の前に「世界の文学(裏)道案内」が欧米系の翻訳文学のみならず、というかそれ以上にいわゆる「第三世界」(こういう表記はもう消滅しているのかもしれないが)の翻訳文学が読めるシリーズなどを紹介してくれて、資料的価値はきわめて高い。

さらに、この二つの資料編(「文学入門書案内」「世界の文学(裏)道案内」)は、『現代批評理論のすべて』にはない、望めないもので価値が高いのだが、それは『現代批評理論』の時代には、まだ紹介できる入門書がほんとうに限れられていたし、また世界文学の意識がなかったこともあげられる。むしろ批評理論において、たとえばポストコロニアル理論などが活発に論じされていたにもかかわらず、世界文学との遭遇が十分ではなかなかったことが悔やまれる。また世界文学と文学批評理論の有意義な遭遇として、東京大学文学部に「現代文芸論」専修課程・専門分野が誕生したことは、まさに時代の趨勢を反映しつつ、時代を先導するものであったと感銘深いのであるが。

ただし『現代批評理論のすべて』が時代遅れになったとは思わない。『現代批評理論のすべて』は、語られていない話題や問題はあるとしても、語られていることのなかに不要になったものはひとつもない。そしてまた執筆者が、当時は、まだ無名の若い執筆者であったのだが、いまや誰もが有名人になってしまって、いまなら、これだけのメンバーを集めて、本をつくることは不可能である。実際、再版の際に、執筆者の今現在の肩書きを入れようとして、完全を期するのがむつかしいこと、過ちがあったら大きな問題になることから、初版のときのままである。はじめて『現代批評理論』を手にとる人は、若い講師や助教授が多いと思うかもしれないが、彼らは現在は著名人となって、編者の私をしのぐ業績をものしている人たちは多い――ほとんどすべてがそうかもしれない、そういう意味で、あの人が、ここにいる、そしてこんなにシャープなことを書いているという驚きも詰まった本であるので、年を経るにしたがって、むしろ価値が高まっている本ではないかと思う。

『文学理論』にもどると、現在、多様に展開している文学研究や批評について、それをまとめるのは至難の業である。どのようなまとめ方も、とりこぼしがでる。だから、批判するのはたやすいのだが、

第1章テクスト
第2章読む
第3章言葉
第4章欲望
第5章世界


という基礎講義編は、これ以外にもまとめかたはあるだろし、まさに編者の苦渋の選択かもしれないのだが、また個々の章が、鋭い洞察、圧倒される知見があるために、そのぶん、もう終わりかという物足りなさが残ることも事実だが、しかし、編集の妙は、この第一部と、トピック編の第二部もそうなのだが、個々の章が短くて、もう少し書いてくれたらという物足りなさがあるのだが、相対としてみると、現在の文学理論が確かな手応えとなってみえてくる。

これはすばらしいことで、どの章から読んでもいいのだが、全体を読むと、全くの初心者であっても、これから先に進めるような自信がわいてくるのではないかと思う。また、初心者でない場合でも、ここには驚くような洞察がちりばめられていて、読んでいて飽きない、いや、圧倒されるところも多い。

また、さらにいえば自分の勉強不足が恥ずかしくなるところもある。そういう意味で初心者から専門家にまで、本書は開かれている。いや、初心者や専門家にも、手ぶらで帰さない刺激に満ちている。



あとは個人的な感想を。

編者の三原芳秋氏が「はじめに」に書かれていることだが、

1990年代なかば、(中略)わたしが通う大学に新たに赴任なさった先生が、「現代批評/文学理論」の講義を開講なさいました(当時、「文学理論」の名を冠する講義は、日本ではまだめずらしかったと思います)。なにかを期待するでもなく講堂のうしろの方で聴講していた生意気な学生だったわたしでしたが、講義の冒頭でその若い先生がおっしゃったあることばに強い知的興奮を覚えたのを、いまだもありありと思い出すことができますーー「文学理論を学べば、さまざまな境界をどんどん越えていくことできる」。P.4

以下、この若い講師の言葉について、三原氏の注解、敷衍、解説とともに、鋭い洞察が述べられるのだが、それは本書を読んでいただくことにして、「その若い先生」というのは、たぶん私である。たぶんというのは、もし私なら、その頃の私は「若くない」。そのころ東京大学の英文研究室で四〇代の先生方は平石、高橋、今西という、いまは名誉教授の先生方だったが、その最年長の平石先生と私は五,六歳の差しかない。私は四三歳で赴任している。これは三原氏が、思い出話を語るときに演出して私を若くしたということではなくて、当時、私は、年寄りともいえないが、若いともいえず、中年だったが、当時の文学部英文研究室では最年少だったという、なんとも微妙な年齢で、三原氏としても、年寄りとか中年というよりも若いとしたほうが、印象がなくよいと判断されたのだろう(最年少という意味で「若い」だったかもしれないが――いずれにせよ、もし私が三原氏だったら、同じことをする。

問題は、私がそんなことを言ったのかどうか覚えていないことだ。たとえば毎年同じことを言っているのだったら覚えているだろうが、その場でとっさに思いついて言ったことだろう。ただ、おもしろいことを、なるほどと思えることを言っていると思った。もし私が学生として、その言葉を聞いたらな、そういうものかと感銘を覚えたかもしれない。あいにく、いまの私は老人ぼけで覚えてないどころか、そういう発想もできなくて、なさけないばかりだが、三原氏のねつ造とも思えないので(というか三原氏のすぐれた洞察からねつ造されていてもおかしくないのだが)、昔の私は頭がさえていたと思うしかない。

文学理論の授業は私が先鞭をきったのではない。三原氏の世代は、文学理論を教える、何世代かわからないが、ある意味、第五世代か第七世代くらいだと思う。その第七世代の誕生にもし私が一役買っているのなら、これは名誉なことで、勲章として墓場までもっていってもいい功績なのだが、文学理論は、これまでも、いくつか山があった。ただそれは長くなるのでここでは語らないが、九〇年代の半ばから世紀末にかけて、あらたな文学理論の世代が生まれ、それが大学などで文学理論の講座として定着したという三原氏の語りは、実際、多くの入門書が出ていることからも正しいのだが、同時にまた、私の感想では、また私が身を置いていた場(べつに大学だけにかぎらないのだが)では保守派がいまのなお主流で、文学理論などバカがするものという偏見が根強いことも確かである。

これは『現代批評理論のすべて』のそれこそまえがきで書いているのだが、文学理論というのは、頭が良すぎるか、頭が悪すぎる人間がやるものであって、まともな人間が、あるいはするものではない。文学などこれっぽっちもわからない者がやるのだという偏見が根強いのである。

いっぽうで文学理論の人気が右肩上がりに上昇しているといえるのだが、同時に、文学理論の人気が下落傾向にもあるとみることもできる。理論の時代は終わった、ポスト理論がいまの趨勢だということもできる。その意味で、今回の『文学理論』がヘーゲルのいうミネルヴァのフクロウとならなければいいのにと思うのだが、あとは文学理論を考察しまた実践する私たちの試みひとつにかかっているといえようか。

とはいえ、この不吉な予感は、現実化しそうなところがある。新型コロナ・ウィルスの感染によって、文化的事業は大打撃を受けるだろうし、アカデミズムでの活動もどうなるかわからない。私自身も感染するかもしれなくて、まさに本書が終焉の時に飛ぶミネルヴァのフクロウとなることが冗談ではなくなりつつある。そのようなことがないことを祈るばかりだが。
posted by ohashi at 08:52| 推薦図書 | 更新情報をチェックする

2020年03月25日

『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―』

ALL REVIEWSのほうから、以前、書いた書評を再録させてほしいという連絡がはいったので、許可。

ALL REVIEWSは、インターネット書評無料閲覧サイトで、活字メディア(新聞、週刊誌、月刊誌)に発表された書評を再録するサイト。

『論座』2001年5月号に掲載された書評で、対象となった書籍は、

『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―』
著者:イヴ・K・セジウィック  翻訳:上原 早苗,亀澤 美由紀
出版社:名古屋大学出版会  単行本(394ページ)
発売日:2001-02-20
ISBN-10:4815804001  ISBN-13:978-4815804008


私の書評は、以下のサイトで2020年3月16日から読むことができる。

https://allreviews.jp/review/4320

古い書評なので、何を書いたのか忘れていたが、今からおよそ20年前の私は、けっこう発想がさえているというか、発想がちょっといやらしくて、最初のつかみの部分で、こんなことを書いていた。

版権の問題もあって、ここに転載できないのだが、書評の冒頭の内容を伝えると、

大学院入試の用語解説問題で、「ホモソーシャル」を選択肢のひとつに加えた。もっとも多くの受験生が選んだ設問は「モダニズム」。「ホモソーシャル」を選んだ受験生はゼロだった、と

これは私が協力教員として関わっていた現代文芸論研究室の大学院の入試問題である。いまもこの形式の問題を出題しているかどうは不明。また、その書評には書いていないが、モダニズムを選択した受験生が、多く合格したわけではないと思う。

「モダニズム」というのはけっこう難問だが、紋切り型の文学史的記述が定着しているのかもしれず、予想可能な問題だったようだ。これに対して「ホモソーシャル」というのは、そんなにむつかしい問題ではない。同性愛を描く作品ではなくても、多くの文学作品では、異性のみならず、同性どうしの関係を描いているので、それをとりあげて、主題など簡単にコメントしつつ、あらすじを書くだけでも、まとまった論述になる。だから、ある意味、楽勝問題なのだが、いかんせん、当時は、「ホモソーシャル」という言葉を知らない受験生が多かった。それにしても、この設問を選択した受験生がゼロだったとは。

まあ、このセジウィックの翻訳書も2001年に出版されたことだし、いま、同じ問題を出せば、様相は異なるかもしれない。

そして、その書評のつかみの部分の癖の強さは、いまとなっては、それが自分自身から失われてしまったことを痛感している。Imagination Dead, Imagineというのはサミュエル・ベケットのフレーズなのだが、私のフレーズは、Imagination Dead, Alas!である。
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2020年01月28日

『西洋演劇論アンソロジー』訂正とお詫び

『西洋演劇論アンソロジー』
山下純照・西洋比較演劇研究会編
月曜社2019

訂正
先に、このアンソロジーを紹介した際(2020年1月17日の記事)、類書がなく、すぐれた編集をおこなわれたりっぱなアンソロジーであることを称賛した。推薦図書であることに訂正はない。

その際に私がかつて翻訳(共訳)した著作からも一部抜粋が引用されていたことについて、収録されるのはありがたいし名誉なことだが、掲載許可をとったと書いてあることについては解せない。私に対して掲載許可の伺いは来ていなかったと述べた。私としてはもし許可願いがきていたら、すんなり許可していたと思うので、結果についてはなんら問題はないのだが、残念ながら、翻訳者のひとりである私が蚊帳の外に置かれたようなかたちになったのは不快であると述べた。

この内容をお詫びとともに訂正する。

というのも最近、編者の山下純照先生よりメールがあり、この件について説明していただいたのだが、2017年に私のところに掲載許可は来ていた。私はそのとき掲載許可書に署名捺印して返送していたことがわかった。

私の完全に記憶喪失である。いまでも記憶はもどらないのだが、とにかく今も以前も掲載許可はだしていたと思うので、私の記憶喪失であることはまちがいないだろう。

また、このことで、山下先生からは、このぼけ老人のドアホウがと罵られても、ほんとうにおかしくない。それほど弁解の余地なきミスをしてしまった。お詫びの言葉もない。山下先生には丁寧な説明をしていただき、私の記憶喪失を気づかせていただいたこと、恐縮しつつ感謝していると同時に、御迷惑をおかけしたことに対して深くお詫びする次第である。

先の記事で私は、掲載許可をとるのなら、これこれうしたことをすべきだということを述べたが、編者の山下先生は、私が指摘したこと以上に慎重な手続きで、出版社、高橋康也先生のご遺族、そして私に連絡をとり、掲載許可をとられていた。その時は、余計な手間とならないよう私としても迅速に許可したのに、それがいまとなって、ぼけ老人となって、記憶を失い、そのうえ自分が蚊帳の外に置かれているという被害妄想に襲われ、結果として、山下先生に、丁寧に説明していただくという、お手を煩わせることになった。ほんとうに申しわけなく深くお詫びしたい。

くりかえすが、このぼけ老人の大ばか者とののしられてもおかしくないミスをしたこと、にもかかわらず、丁寧な説明をいただいたこと、山下先生にはお詫びと感謝をしたい。

山下純照先生、そして月曜社にも、私の記憶違いによって、御迷惑をおかけしたこと心より陳謝する。また該当記事も書き換えることをお約束する。

追記

以下は、1月28日に山下純照先生にお送りしたメールである。

山下純照 先生

メールありがとうございます。丁寧がご説明をいただき、ほんとうにありがとうございます。
と同時に、すでに掲載許可書を返送していたことを知り、自分の記憶喪失に愕然としました。
このぼけ老人のド阿呆がと罵られても文句の言えない過ちをしたこと、心よりお詫び申し上げます。

さらに私は、自分が蚊帳の外に置かれているなどと、完全に事実とは違う、愚かな被害妄想に陥っていて、
むしろ山下先生のほうが、はるかに不快な思いをされたちがいなく、このことも深くお詫び申し上げます。

掲載許可のために慎重にまた遺漏がないよう尽力されたことについては、深く感銘を受けました。

この件はブログの記事で報告し、先の記事を訂正いたします。
また山下純照先生、西洋比較演劇研究会の皆様、月曜社にご迷惑をおかけしたこと心よりお詫び申し上げます。

大橋洋一


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2020年01月17日

『西洋演劇論アンソロジー』

山下純照・西洋比較演劇研究会編
月曜社2019

昨年の9月に刊行された本だが、推薦すべき本だが、ある意味地味な本かもしれないので、2020年になっても推薦することにした。現時点(2020年1月16日)で、たまたまみたAMAZONのサイトでもレヴューがないのは、なんとも残念なので(なお、私は個人的にはAMAZONにレヴューを載せる趣味はないので)。

ギリシア演劇から20世紀のパフォーマンス・スタディーズまで、西洋演劇の歴史をかたちづくる70人の思想家、劇作家、演出家たちの演劇論のエッセンスを、解説と原典訳でコレクション!


と帯にあるが、まさに、この通りで、日本語で類書がないこともあって、貴重なことこのうえのない演劇関連書として長く使われるべき基本的参考図書であろう。

原典から翻訳された演劇論の抜粋が貴重なのだが、抜粋の前に解説文(抜粋よりも分量があることも多い)がつけられ、これが思想家、哲学者、劇作家ならびに抜粋文の解説が、要を得ていて、どれを読んでも教えられることが多い――内容のレベルは、まちがいなく高い。また各抜粋に多くの参考文献リストも付され、それがまた貴重な情報源として、ある意味、索引などを除いて560ページの本の価値を高めている。ほぼ600頁の本が3600円(税抜)というのも、お値打ちといえばいえる。

英文学研究者として、私が最も影響をうけた演劇論は、ジョージ・スタイナーの『悲劇の死』とヤン・コットの『シェイクスピアはわれらの同時代人』だが、この二冊からの抜粋は収録されていない。1980年代半ばまでの演劇論と断ってあるが、その範囲に入るものの、版権などの問題もあったかもしれないが、しかし、本文中に明示されていない編集方針があるのかもしれない。たとえばスタイナーは著名な批評家あるいは思想家といってもいいのだが、演劇製作とは無縁の場にいたかとか(スタイナーには『アンティゴネー』に関する著作もあるのだが)、あるいはヤン・コットの本はシェイクスピア論に特化されていると思われたのかもしれない(抜粋なら、演劇一般論として読めるところが数多くあるし、またスタニスラフスキー・システムがいかにくだらないかを説得力あるかたちで教えてくれたのもヤン・コットで、スタニラフスキー・システムをありがたがっている人たちをみると、私の顔にはジョーカーのように笑みが浮かぶ)。

あるいは私の専門のシェイクスピア時代に特化するなら、ガリーニの悲喜劇論は、演劇史上においても、演劇論史においても重要なのだが、西洋ルネサンス演劇論アンソロジーではないので、選択されなくてもしかたがないかもしれない。というわけで誰だって、これがない、あれがないと偉そうなことは言えるのだが、むしろ、限られたスペースにこれだけのことを選択した、あるいは削る決断をしたことを無条件に讃えるべきだと思う。偉業といってもいい。

実は、この本は月曜社から私のもとに送られきた。献本である。とはいえ、月曜社と私との関係は最悪なので、まずふうつに月曜社から本が送られてくることはぜったいにない。関係悪化の原因は、ひとえに私にあり、責められるべきは私であるため、出版社には全く問題はない。

【以下の記述は私の記憶違いによるものであり、全面的に訂正するが、こういう愚か者がいたという記録として残してい置く。詳しいことは202年1月28日の記事を参照 2020年1月29日記す。】

ならば執筆者に知り合いがいて、その人からの献本かもしれないと思ったが、残念ながら執筆者方々のお名前は知っているが、個人的な付き合いのある方はひとりもいないので、特定の誰から贈られたわけではない。

となると、理由は? たぶん、それはライオネル・エイベルの『メタシアター』の翻訳(高橋康也・大橋洋一訳)の抜粋が、このアンソロジーに収録されているからだろうと思う。エイベルのこの本からの抜粋を載せるのは、私、大橋が、自分でいうのもなんだが、優れた選択だと思うし、収録されたのは名誉なことだと思う。

そして抜粋の最後に「……より許可を得て抜粋・転載」とある。

誰が許可したのだ? 誤解のないように言っておけば、もし私に許可を求められたら、絶対に許可するので、ここに掲載されていることは問題ないのだが、「より許可を得て」と明記してある以上、誰が許可したのかと気になるのだ。

じつは「……より許可を」という「……」の部分には書名や出版社、出版年があるので、「より許可を得て抜粋・転載」というのは、「【記載されていないが許可する人名あるいは団体】より許可を得て、【書名情報】より抜粋・転載」という意味だととれる。

では、どこから許可を得たのかというと、この本は、私と高橋康也先生との共訳であり、もし筆頭共訳者の高橋先生に許可願いがあり、高橋先生が私に相談なく、あるいは事後承諾というかたちで許可された、またそのとき私に連絡する必要はないと考えたか、連絡し忘れたということが考えられるが、その場合、どんな場合でも(高橋先生が私を無視して許可されたとしても)私としては問題はない――そもそも私としても喜んで許可するのだから。

問題は、高橋康也先生は、もう亡くなられていて、残る共訳者は私しかいないということである。亡くなられた高橋先生が許可されることはない。となると誰が許可したのか。

常識的に考えると許可するのは、共訳者のふたりのうち、生存している人間、つまり私である。高橋先生の著作権をもっているかもしれない遺族の方が許可したとも考えられるが、その時は、私にも連絡があるはずである(もし遺族の方に許可願いがあり、その遺族の方が私に連絡しなかったら、これは許し難いことであるが、まずまちがいなく遺族の方にも連絡はいっていないと思う)。もし私に許可願いがきていたら、私から高橋先生のご遺族に連絡をして掲載を許可していいかを確認する。だが私に許可願いはきてない。

こうしたときの業界の常識あるいは慣習、あるいは法的手続きについて全くなにも知らないのだが、この翻訳は、出版社が版権をもっていて、翻訳は出版社が許可すれば、それでいいのかもしれない。とはいえその場合にも、出版社から連絡くらいあってもしかるべきではないか。とはいえ、これはもとの出版社の責任であって、そこが責任あるいは責めを負うものかもしれないので、略式、あるいは形式的・儀礼的でもいいので、手続きをせよと、言いたい。もし出版社が許可したとすればの場合だが。また、繰り返すが、私としては許可するので、掲載されたことについて文句をいうつもりはまったくない。

あるいはこのアンソロジーの責任者(編者かどうかはわからないし、それはアンソロジーの出版社かもしれない)が、たぶん作業の多さから許可願いをするときに見落としなどがあったのかということだろうか。

アンソロジーの編者、アンソロジーの出版社が許可願いをしたか、しなかったか。また『メタシアター』翻訳の出版社が許可したことを翻訳者(私)に報告しなかったのか。いずれにしても、私は、無名の人間だか、連絡がとれないほど無名な人間でもない。Wikipediaに載ってもいるのだし。大学のメールアドレスはいまも維持しているので。

くりかえすが、このアンソロジーに抜粋が掲載されたことは、名誉なことであり、喜ばしいことだが、許可に関してなんら申請あるいは報告がなかったことは、不愉快なことであり、きわめて残念である。
ここでは、たとえ正当な手続きを踏まれたとはいえ、翻訳者である私が蚊帳の外に置かれているのは、不愉快で残念だと書いてあるが、実際には、私にも掲載許可の問い合わせがあり、掲載許可を出していた。蚊帳の外などに置かれていなかったということであり、すべては私の愚かな被害妄想であり、こういう愚か者であることの記録として、また反省の材料として、この記事を残すことにした。不愉快な思い、残念な思いをされたのは、ほんとうは私ではなくこのアンソロジーの編者である山下純照先生であり、また西洋比較演劇研究会編の皆様、そして月曜社であり、ご迷惑をおかけしたことお詫び申し上げます。2020年1月29日 記す。

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2019年12月01日

『分かれ道』1

自分で翻訳(共訳)した本を推薦するのは気が引けるのだが、また大学の専任であった頃は、自分の本や翻訳を宣伝するのはなんとなく気が引けて避けてきたのだが、今回、苦労して翻訳したこともあり、10月に出版した翻訳の宣伝をしたい。

ジュディス・バトラー『分かれ道――ユダヤ性とシオニズム批判』大橋洋一・岸まどか訳(青土社2019)
Judith Butler, Parting Way: Jewishness and the Critique of Zionism (New York: Columbia University Press, 2012)

である。翻訳出版してみると、これまで翻訳されたジュディス・バトラーのどの本よりも厚い。これには翻訳している私自身が驚いたが、たしかにバトラーのこれまでの翻訳は、こんなに分厚くない。むしろ分量は少ないが鋭利な議論をしている本というのがバトラーの翻訳のイメージだったかもしれないが、それを今回の翻訳は覆した。

とはいえ分厚い本は高価というイメージがあるかもしれないが、これはどれほど強調しても強調し足りないのだが、翻訳書でほぼ500頁ある本が、なんと38000円(税別)である。こうしたある意味堅い専門的本(専門書ではなく一般読者むけだが)は1ページ1円というのが平均的な値段で、これ以上だと高い、これ以下だと安いという判定になる。

500頁の本なので定価5000円(税別)でもいいのだが、それが38000円(税別)というのは、かなり安いと思う。これだけでもお買い得である。

ちなみに原書は250頁。手に取った感じ、そんなに厚い本ではない。バトラーのこれまでの本のなかでも特に分量が多いとは思われなかったのだが、本文の活字というか文字のフォントが小さい。原注にいたっては拡大鏡がなければ読めないほど文字が小さい。したがって、原書だけを見て翻訳するのは印字の小ささからすると至難のわざだった。今回、初めてのことだが、私は全ページ拡大コピーをとって、それを見ながら翻訳した。ほんとうに字が小さかったので、それを翻訳して、通常の印字のサイズで印刷すると500ページになったということである。つづく、

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2013年10月13日

書物紹介はじめます

書物紹介、いよいよはじめる

映画の話が多いので、最初に約束していたとおり書評というか、すぐれた本の紹介をしたい。上から目線は避けたいが、学生諸君、専門家に推薦する図書というのが最初の大前提である。

またこれも最初に宣言したように(2013年5月26月)、批判されるべき本は、ここでは紹介しない。もちろん、それによってこのブログの価値は下がらないかもしれないが、魅力は大幅に減少するだろう。なにしろ、特定の本の悪口を読んでいるほうが、褒め言葉を読んでいるよりも、ずっと面白いからだ。また逆に特定の本が褒められていると、貴重な情報としてありがたがられることもあるが、同時に、たとえ興味のない分野の本でも、読まねばならないという強迫観念に駆られる。威圧的である。そのぶん悪口の対象となっている本は、読まなくてもいい。まあ、以前の私のように、否定的な評価の映画や本があると、むしろその判断をくつがえす可能性を夢見て、積極的に見たり読んだりするような天邪鬼な人間にとっては、褒め言葉も悪口も大差ないかもしれないが、さすがに私のように、人生に残された時間も限られてくると、わざわざけなされている映画や本を受容したくはないということになる。

しかしけなされているものの、悪口の対象となる本なり作品が、あとで評価が変わるということはよくある。私の学生者・研究者人生は、すべてではないにしても、その連続だった。ひょっとしたら人間関係もそうだったかもしれないが、それは判断できないが。ともかくサリンジャーからシェイクスピア、はては最近のZoologyに至るまで、最初は大嫌いだったものが、いまでは好きになっている。専門的研究対象にもなっている。だから悪口や非難が称讃に変化する可能性は常にある。そしてそうなると悪口を書いた自分が嫌になる。責任問題も出てこよう。実際には、ひどい本にいくつもお目にかかっているのだから、それについて書いてやりたいと思うのだが、この場では、決して書くことはない。

それでは逆は。以前、あんなに好きだったのに、熱が醒めると、嫌いになるケースというのもあることには、ある。過去に何かが好きであればあるほど、何かに熱中すればするほど、熱が醒めた時の幻滅から、その何かに対する嫌悪感は並大抵のものでしかない。そんな台詞がシェイクスピアの『夏の夜の夢』だったかに、あったような気がした(別のシェイクスピア作品だったかもしれないが)。これは言いえて妙だろう(ちなみに、この台詞の説明の時に、私がなんとかの一つ覚えで例にあげるのは、ある先輩のことである。学生の頃、寿司が大好きで、ほとんど毎日、寿司を食べ続けていたその先輩は、ある日突然、寿司を食べたくなくなった、そればかりか、その日を境に、寿司を見るのも嫌になって、以後、寿司が全く食べられなくなったという――実際こういうことはよくあるのである)。

とはいえ私個人の経験からいえば、以前熱中して読んだ本、感動した本を、あとになって読み返してみると、嫌悪感しかもよおさないということは、ない。確かに後年、読み返してみると、読み方がかわって、以前と同じ感動はないことが多い。しかしそれでも、別の良さとか、面白さを発見するのであって、かつてのような激しい感動はないとしても、評価が低くなることはない。ましてや嫌悪感などない。――もちろん、それは私が心の底から感動したり全身全霊で熱中していないからだと、言われるかもしれないが、たとえそうであったとしても、私は過去に愛しすぎたものを、今になって嫌悪することそのものに対して嫌悪感を覚えるのであって、見方をかえれば、それは最初から無理して熱中していたのではないといいうことにもなる。寿司が好きなら、死ぬまで好きでもかまわないではないか。サルトルをこれほどまでに嫌悪する日本人を私は恐怖する。

ということで明日から不定期ではあるが、優れた本――ただし、私の目に付いた範囲、また私の専門の範囲でとういことだが――を、不定期で断続的だが、積極的に紹介したいと思う。
posted by ohashi at 19:59| 推薦図書 | 更新情報をチェックする