2021年12月16日
『クマ王国の物語』
原作は翻訳で読んだことがある。ディーノ・ブッツァーティ『シチリアを征服したクマ王国の物語』天沢退二郎/横山暁子訳(福武文庫、2008)を、以前に読んだことがある。本ももっている。これがアニメ映画になったのかと感慨深いが、なぜ、そんな児童向け童話を読んでいるのかと問われそうだが、アニマル・スタディーズ関連で動物物語には興味がある。そしてアニマル・スタディーズ関連の研究では、個々の動物についても専門的探究をすることがふつうだが、私の場合、対象は「熊」である。そのため熊に関するものには何であれ興味がある(ただし日本の熊事情については私など足元にも及ばない専門家からマニアまで多くの人がいるので、そこに介入するつもりはない。私の関心は、西洋における熊表象である)。
きっかけはアーサー王伝説においてアーサー王が死ぬときに熊になったというエピソードである。そもそも熊は、西洋人が実物のライオンを目にする前は、百獣の王と考えられていたし、直立歩行できる熊は人間にもっとも近い動物と考えられていた。シェイクスピアの時代のイングランドには「熊いじめ」という娯楽があったのだが、しかし、鎖につながれた熊いじめの熊の図像は、当時のウォリック伯家の家紋でもあって、ただの見世物の熊以上の象徴性を担っていた。などと話しはじめるときりがないからやめるが。
ブッツァーティの『クマ王国の物語』は、それにしても不思議な物語である。そもそもシチリアに熊はいない。山の多いシチリアには熊がいてもおかしくないとしても、熊がいた頃の昔々の話という設定とはいえ、完全に文明化された(船舶、汽車、サーカス、カジノ、銀行強盗などの)19世紀か20世紀の世界での物語になっている。熊は擬人化されているともいえるのだが、同時に、この物語の熊は、アレゴリー性をともないつつも、同時に、熊そのものでもある。ちょうど、チャペックの『山椒魚戦争』の山椒魚がナチスのアレゴリーであることは確かだが、『白い病』の病は、ファシズム化のアレゴリーかもしれないが、それ以上に、感染症そのものでもあるのと同じように、この熊は、もし熊が言葉をしゃべることができたのならという熊たちそのものである。
しかし、それよりもずっと気になっていたのは、この物語の主人公の熊の王の名前であるレオンツィオ。シシリア王のレオンツィオ? 私が知っている似たような名前の王は、シェイクスピアの『冬物語』に登場するシチリアの王レオンティーズである。まったく偶然だろうか。ブッツァーティがシェイクスピアのこの劇から霊感をえたのだろうか(この芝居と小説の物語はまったく違うから、パクリとかいうことではない)。
さらに気になるのは熊である。『冬物語』にはボヘミアの海岸に熊が出てくる。ボヘミアには熊がいる。この熊がシェイクスピアの時代に熊いじめのために捕獲されイングランドに売られてきた。しかしボヘミアには海岸などない。どうしてこうなったのか。一般にはシェイクスピアが『冬物語』の典拠としたのが、当時の作家ロバート・グリーンの中編『パンドスト』であり、本来ならシチリアの海岸に熊が登場するところ、シェイクスピアはボヘミアとシチリアの設定を入れ替えたので、ボヘミアの海外に熊が出没することになった。
問題は熊である。ボヘミアか、シチリアかよくわからないが、そこには熊がいる。そしてボヘミアの王の名前はパンドストだが、シェイクスピアはこれをシチリア王のレオンティーズに変えた。ブッツァーティの物語ではシチリアにレオンツィオという熊の王がいる。この連関を説明できる情報資源がないものだろうか。ずっと不思議に思っている。アニメ映画の上映を機になにかわかるといいのだが。
なお『シチリアを征服したクマ王国の物語』は、物語の随所に詩が登場する、物語と詩が同居している作品である。同じように詩が織り込まれている小説・物語というと、たまたま思い浮かぶのが、たとえばノヴァーリスの『青い花』であり、またこれは詩が織り込まれてはいないのだが、短篇と詩が交互にでてくるブレヒトの『暦物語』がある。これら三作品の翻訳を較べてみると――
ノヴァーリスの『青い花』(『ノヴァーリス作品集 第2巻』今泉文子訳、ちくま文庫、2006)は、散文の部分の翻訳は、実にみごとな訳文で、散文の部分が詩想にあふれ、さながら散文詩ともいえる完成度の高さを誇っているのだが、随所に織り込まれている詩の翻訳が、私の勝手な感想だが、なにか散文的で、原文が韻文とはとても思えない無味乾燥な翻訳となっている――意図的なものかもしれないし、原文の韻文を翻訳する場合、定型詩の形で翻訳しないとすれば、散文を行替えするだけのものとなってしまい、散文性はどうしてもぬぐえないことは分かっているのだが。
ブレヒトの『暦物語』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、2016)は、短篇と試作品が交互に登場するのだが、試作品の翻訳は、たんに行替えしたのではない、口調の良さがあり、また詩的な想像力をかきたてるもので、短篇の散文とおのずとコントラストが生まれていて素晴らしい。
そしてブッツァーティの『クマ王国物語』に織り込まれた詩は、子供のための新聞に連載されたとき人気がでて子どもたちが口ずさんだということらしいから、耳に心地よい定型詩なのかもしれない。翻訳では、スピード感のある語り口が、地の部分とのコントラストを際立たせていて、違和感なく読める。
最後に、
ブッツァーティの『タタール人の砂漠』は、同種の作品、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』とかクッツェーの『夷荻を待ちながら』と較べて、一番肩すかしをくらったというか、え、その終わり方でいいのかとがっかりした記憶があるが、むしろ、その素朴さこそ評価すべきだったのかもしれないと、この『シチリアを征服したクマ王国の物語』をあらためて読んで思ったことを記しておきたい。

2017年03月27日
『あなたの人生の物語』
テッド・チャンのSF中編あるいは短篇「あなたの人生の物語」’Stories of Your Life’がドゥニ・ヴェルヌ―ヴ監督によって映画化された。原題 Arrival 。日本語タイトル『メッセージ』。
まあ私はSFの研究者でも、またファンといえるほどの者でもなくなっているが、テッド・チャンの短編集の翻訳『あなたの人生の物語』は、2003年書店でみつけて購入、最初のバベルの塔の話を読んだ。天上目指して上に登っていったら下に出たという話(ネタバレだったのかもしれないのでお詫び)。まあ、こんなもんかと思って、その後の作品を読まなかった。
今回映画化されたと知って、あわてて文庫本を引っ張り出したといいたいのだが、文庫本はどこにいったかわからなくなった、そのため新たに購入した。金持ちといわれてもこまる。960円の文庫本だから。しかし、いま、あらたに文庫本を買いなおすというのは、珍しいのかもしれない。それも変わり者の。一般読者、学生問わず、本などめったに買わないなだろうから。一度買った本をもう一度買うというのは大学の教員くらいだろうから。
「あなたの人生の物語」を読んでみたら、たしかにとんでもない傑作で、しかもSFのSの部分が、言語学とかコミュニケーション論であるので、私にもなんとか理解できる。最近のハードSFでは、どんなに想像力をはたらかせても、イメージすらわかないものがあって、自分の科学知識のなさに唖然としたことがあるが、これはハードなSFではないし、Sの部分が、どちらかというと人文知に近い。また謎の異星人との接触とコミュニケーションと同時に、あなたの人生の物語――女性の主人公とその娘の、こじらせ要素が強い物語――が未来完了形のようなかたちで語れるという二段構えの構成もよくできている。
実際、最近の私の関心は、アダプテーションと言語行為なのだが、アダプテーション関係の論文「未来への帰還」についても最新版を完成したばかりだし、また言語の遂行性とか言語ゲームといった問題を考え続けていたので、この作品から多くのヒントを得ることができた。もっと早く読んでおけば、論文「未来への帰還」にとりこめたはずだが。「バビロンの塔」だけで終わらずに、先を読むべきだった。またバビロンの塔については上に行ったら下にでたというのは、「あなたの人生の物語」にも適用できる現象だし、私のアダプテーション論というのも、未来にある到達点が出発点であり帰還であるという「未来への帰還」という同じ現象であって、アダプテーションを考えるとき、メビウスの輪のような構造を念頭に置くのだが、これは私自身、テッド・チャンの作品から影響を受けていたからかもしれない。
ただし「あなたの人生の物語」は面白い作品なのだが、これをSF映画にするというのは可能なのか。ドゥニ・ヴェルヌ―ヴの監督の映画は『灼熱の魂』は、もともと戯曲の映画化だが、もとの戯曲は日本でも翻訳上演されて評判になった作品である。『プリズナー』はローガン/ウルヴァリンでは満足できなかったヒュージャックマン・ファンに歓迎されたし、『複製された男』は結局何だったのかよくわからなかった映画だが、不条理な世界がなんとも不気味でよかった。ただ、残念ながら、この映画で、この監督は終わったなと思ったが、終わっていなかった。つづく『ボーダーライン』では、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』で、男っぽい役を得て魅力を増したエミリー・ブラントが女性捜査官として、その男っぽい魅了を継続するのかと思ったら、男に利用されるだけでの、バカ女の役で、これはひどい。ほかの点では不気味でグロくて、また不穏な世界ゆえに『ボーダーライン』は評価が高いのだが、エミリー・ブラントの魅力を殺したので、この監督には、これで終わってくれと思っていた。ところが今回の大作SF映画のようだ。
原作を読めばわかるのだが、この内容のSFをSF映画にすることは、ちょっと無理ではないだろうか。まあ勝手にいじくりまわして、盛りに盛って、スペクタクル巨編にするのだろう。よくできたSF作品を勝手に別物に変えてほしくない。ストロガツキー兄弟の『神様はつらい』から、『神々のたそがれ』(日本で勝手につけたタイトルだが)という、わけのわからないグロテスクなSF映画というよりもファンタジー映画をつくったアレクセイ・ゲルマンの作品みたいなことになるのではないか。ゲルマンの作品は、結局、不条理なまでのグロテスクさで評価が高いのだが、誰も原作を読んでいないから、暢気に褒めていられるのであって、いくら、私がアダプテーションを評価する立場にあるとはいえ、原作のもつ社会批判性をまったくそぎ落としたグロテスク映画には正直うんざりした。だいたい、あれほど唾を吐く映画というのは空前絶後だろう。たぶん、それと同じようなことがドゥニ・ヴェルヌ―ヴ監督の今度の映画にも言えると思う――また見ていないし、観るつもりもないが。

2013年07月19日
文庫雑感
1
『黄金の驢馬』が、一冊になって岩波文庫から今月出版。嬉しい。岩波文庫ではアプレイウスの『黄金の驢馬』の2巻本を持っていた。初版が1956年と57年だが、印字はきれいで読みやすかったので、再販本だったと思う。というのは手元にそれがみつからないからで、2巻本に限らず、複数巻になる文庫本は、片方が、あるいは数冊が行方不明になり、そろわなくなることが多い。今回アープレーイユス『黄金の驢馬』として一巻本になったので、読み返してみようかと思う。
アプレイウスというかアープレーイユスの『黄金の驢馬』は、その幻想シーンは、私の想像を絶する驚異的なもので、ローマ時代に、こんなすごい物語が書かれていたのかとほんとうに驚いたことがある。昔、ホフマンの幻想小説(『黄金の壺』だったか、『悪魔の美酒』だったか忘れたが)を生まれて初めて読んだ時に、その幻想シーンに衝撃を受けたのだが、その衝撃が『黄金の驢馬』を読んだときによみがえった記憶がある。
また昔イギリスにいた頃、オックスフォードだったと思うが、そこの古書店(専門書というよりは一般書のほうが多い)で、『黄金の驢馬』The Golden Assの英訳の古い版をいくつか陳列してて、目玉商品扱いしていたことを憶えている。そのなかにはビアズレーが挿絵を描いた版も含まれていた。だから人気があるのかとその時は思ったが、もっと端的な理由があることは、読んでみてはじめてわかった。これ以上は言わない。
2
集英社文庫が、「ナツイチ」キャンペーンを現在展開中。「文学はじめました」のコピーで、AKBのメンバーとコラボのようなかたちで作品をアピールしている。AKB48のメンバーが「ナツイチ作品を読んで読書感想文を書く」とのことで、メンバーそれぞれが課題図書を一冊選んでいる。文庫本の帯に、そのメンバーの顔写真がある。ただしAKB48だけではなく、NMBやSKEそしてHKTのメンバーも入っているし、研究生もいる。今回、私が駅前の書店で選んだのは2冊。そのうち一冊は、帯にある顔がわからない。調べてみないといけないのだが、AKB48のメンバーや研究生ではない。
そしてもう一冊。お目当てはこちらだったが、『ダダモ博士のNew血液型健康ダイエット』である。旧版は持っている。健康な食材でも血液型によって効果がでなかったり逆効果だったりするので血液型によって摂取すべき食材も変わってくる。そこを丁寧に解説しているのだが、アメリカの本である。日本とは事情も違う。また食習慣の違いから、健康被害が出る場合もあるので、外国のダイエット本は、有効かどうかむつかしいことがある。実際、ダダモ博士によれば、B型は、食材に制限があまりないので、他の血液型に比べれば自由に食材を選べると書いてあって安心したら、たとえB型はトマトを食べると血液が固まるとのこと。なにかこの本を読むと、一般に健康によいと考えられている食材が、B型にだけは悪いものばかりで、がっかりする。
トマトだけではない。トウモロコシもだめ。アボカドもだめ。また肉は鶏肉がだめ。鶏のささみとか胸肉は健康的なダイエットのときの定番取材だが、B型はそれもだめ。肉は豚肉もだめで、あとは牛肉だけを食べるべきなのだという。しかし、それでいいのだろうか。ダダモ博士に従うと、食生活は、どの血液型でも、制約が多い不健康なものになりかねないと思う。
と同時に、この『ダダモ博士のNew血液型健康ダイエット』を課題図書としてしているのは、誰かというとAKBのメンバーではなく、帯の写真をみてはじめて気づいたおだが、AKBグループのメンバーでもなく、あろうことか、戸賀崎智信である。といっても誰だということになりかねないので、ここで確認しておくが、戸賀崎智信は、AKBグループの総支配人である。なんで、その総支配人がナツイチ・キャンペーンに参加させられているのか。この本の帯にいわく――「文学、始めました。ナツイチ」とある。なんじゃこれは。そもそも『ダダモ博士New血液型健康ダイエット』は、文学じゃないし。戸賀崎総支配人、どういう感想文をかくつもりなのだろうか。
なお、キャンペーン中は、AKBメンバー課題図書になっている集英社文庫を購入すると、特製ブックカバーをもらえる。2冊買ったので、いくつかあるなかから2つ選べと書店のカウンターでカタログを示された。ほんとうは島崎遙香・横山由衣のペアのカバーが欲しかったのだが、ちょっとそれを選ぶと趣味かと思われるのが恥ずかしかったので、カタログの最初と2番目のカバーを選んだ。まゆゆのカバーのついた文庫本のカバーをとると、戸賀崎総支配人の顔の帯がでてきて、血液型別健康ダイエットの本となる。文学、始めていないし、ちょっと面白いと思っている。

2013年07月16日
『アンナ・カレーニナ』(文学編)
以下、松岡正剛の千夜千冊 意表編580夜 2002年7月15日の全文を引用する。優れた文章だからではない。その逆で、唾棄すべき文章だからだ。
〇東洋大学に奥井潔という英文学の先生がいた。そのシニカルで挑発的な知的刺激を受けたくて、駿台予備校四谷校にいっとき通ったことがある。受験英語にはほとんど役に立たなかったが、そのかわりグレアム・グリーンやサマセット・モームの短編が透き通るような瑞々しさで堪能できた。
しかし、それはまだ表面上のことで、実際にはなんといってもその美を弄ぶピンセットの先の妖しい毒舌が繰り出すペダンティックな言葉に酔わされた。その奥井センセーがどういう話の順序かは忘れたが、ある昼下がりに『アンナ・カレーニナ』の話をした。「君たちはアンナ・カレーニンという女を知らないだろうね。読んだ者はいるかね?」と、例の挑発的な口調で話し始めたのだ。誰も手をあげなかった。だいたい予備校で読書履歴を問われるなどとは誰も思ってはいやしない。
すると奥井センセーはニヤリと笑って、「あのねえ、大学へ行くのもいいが、アンナ・カレーニンと出会えるかどうか、そのほうがずっと君たちの人生には大きなことなんだよ。わかるかな、この感覚。歓喜がいっさいの後悔を消し去ると思えたとき、アンナ・カレーニンは決断をするんだね」と続けたのである。
〇ぼくはボーッとして聞いていた。「アンナはすべての社会と人間の辛辣を感じて、死ぬんだよ。爆走する列車にみずからの身を投じて、死ぬんだね。女が愛や恋で死ぬなんて、尋常じゃない。それにくらべたら男なんて弱いもんだよ。好きな女に振られたくらいで、すぐに苦しい、辛い、死ぬ死ぬと言い出すが、女はそういう心の深みを体で飲み込むもんだ。知ってるかな、そういう女の深さを。いや深さというより、これは女のね、美しくも苦い味というもんだ。そのアンナ・カレーニンが死を選ぶんだね」。
女も知らなければ、その深さも苦さも、そういうことをまったく知らないぼくは、もうひたすらボーッとして聞いていた。かまわず奥井センセーは続けている。
「アンナは人妻なんだな。北方の大都ペテルブルクの社交界の美貌のスターだよ。夫のカレーニンは政府高官でね、社会の形骸を体じゅう身につけて面子を気にする男だね。君たちもこうなったらおしまいという男だよ。そういう身にありながらアンナはヴロンスキーという貴公子のような青年将校に恋をするんだな。女は青年将校にこそ惚れる、その凛然というものにね、ハッハッハ」。
人妻。青年将校。凛然。女は男の凛然に惚れる‥‥?? ぼくのウブな頭はクラクラしはじめていた。
「まあ、君たちには女はわからんだろうね。青年将校こそが男の中の青い果実なんだよ。2・26事件の青年将校なんて、日本人の男の究極だよ。そうだろ。美しい女はそれを見逃さない。しかも人妻はね。しかしねえ、君たちにはキチイがせいぜい理想の娘というところだろうな。キチイは青年将校に惚れるんだが、アンナとヴロンスキーが昵懇になったので諦める。まあ、読んでみなさい。キチイの娘心よりもアンナの女心がわかるようになったら、たいしたもんだ」。
奥井センセーがあと何を言ったか、おぼえていない。まるで別世界の話を浴びせられたようなものだった。ただそのときのアンナの印象が忘れられなくて、白樺派が依拠したトルストイなんて読むものかと思っていたぼくは、数日後に夢中に『アンナ・カレーニナ』にとりくんでいた。
〇 読みはじめて驚いた。いつまでたってもアンナ・カレーニンが出てこない。さきほど手元の文庫本で調べてみたらやはり130ページまで登場しない。
おそらくこんな小説はほかにはあるまい。ヒロインの動きがふつうの長さの小説なら終わりに近いほどの場面になってやっと始まるわけだから、それだけでも前代未聞である。とくにぼくは奥井センセーの挑発に乗ったわけなので、それこそすぐにアンナ・カレーニンに出会えるものと思っていたのだが、開幕このかたオブロンスキー家の出来事やキチイの愛くるしい姿にばかり付き合わされる。たしかに奥井センセーが言うように、これではうっかりキチイに惑わされてしまう。焦(じ)らされたというのか、裏切られたというのか、ぼくは呆れてしまった。
ところが、いったんアンナが出現したとたん、物語の舞台はガラリと一変する。青年士官ヴロンスキーの焼きつくような気概と恋情とともに、われわれは漆黒のビロードの、真紅のドレスの、いつも身を反らすように立つ人妻の、知も愛も知り尽くしていながら夫カレーニンだけには厭きているにもかかわらず、男にも子供にも通りすがりの者にも愛される絶世の美女アンナ・カレーニンの魅力の囚人になっていく。
これだけでも、トルストイという魂胆のすさまじさを思い知らされたものである。
〇聞きしに勝る作品である。アンナ見たさに不純な動機で読んだぼくには、こんな作品とはまったく想像ができなかった。なんというのか、圧倒的なのだ。
かつてドストエフスキーは『アンナ・カレーニナ』について書いたものである。「文学作品として完璧なものである」。またそれにつづけて「現代ヨーロッパ文学のなかには比肩するものがない」とさえ言い切った。トーマス・マンすら唸ったようだ、「全体の構図も細部の仕上げも、一点の非の打ちどころがない」。こんな絶賛はめったにありえない。
これはよほどのことである。およそ文学作品が「完璧」であるとか「一点の非の打ちどころもない」などと評価されたことはない。しかも『アンナ・カレーニナ』は大長編なのだ。新潮文庫で上484ページ、中633ページ、下551ページ。全8部全1668ページの堂々たる大河小説である。それが「一点の非の打ちどころもない完璧な作品」と激賞される。
実際にもトルストイは書き出しだけで17回(これはよくあることだが、それにしても17回は多い)、全般にわたってはなんと12回の改稿をくりかえした。完成まで5年、その何十本もの細工刀で彫琢された芸術的完成度はトルストイにおいて最高傑作となったばかりか、ドストエフスキーやマンが言うように、近現代文学がめざしたあらゆる作品の至高点を示した。しかし、どうしてそんなことが可能になったのかということになると、われわれはお手上げになる。レオナルドやゲーテやベートーベンを漠然と思い浮かべるしかなくなっていく。
チェーホフがその点については、わずかにこんなヒントを書いている。「『アンナ・カレーニナ』にはすべての問題がそのなかに正確に述べられているために、読者を完全に満足させるのです」。すべての問題を正確に書くとは、すべての人間を正確に書いたということでもある。そんなありえないことがおこったのである。トルストイにはそれができたのだ。ぼくは白樺派が何に憧れたか、ちょっとだけだが見当がついたものだった。
〇しかし、ぼくはチェーホフの水準にはとうてい達しなかった。奥井センセーの挑発のままにひたすらアンナ・カレーニンの幻影を追って読んだにすぎなかった。
高校3年生が完璧に描かれた人妻の愛と死の境涯を追跡したところで、徒労に終わるだけである。ドストエフスキーならまだ哲学できる。ぼくはトルストイの前にはずっとドストエフスキーを読んでいたのだが、そこでは程度の差はあれ、ともかくいろいろなことを考えた。それがドストエフスキー文学というものだ。
ところがトルストイはすべてを書いている。アンナの崇高な嫉妬もキチイの可憐な失望も、ヴロンスキーの端正な冷淡も、オブロンスキーの裏側にひそむ良心も、カレーニンの面子を貫く社会的倫理観も、すべてをあますところなく書いた。書き残さなかったものがない。
ぼくは何も考えつけないままに、打ちのめされていた。
この、何もすることがなく感銘してしまうという感覚は、その後に何かに似ているように思えた。それが何なのか、ずいぶん掴めないままにいたのだが、スタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』を見終わったとき、ふと、「ひょっとすると、これなのかな」と思った。
丹念に描かれた映画こそが『アンナ・カレーニナ』の読後感に似ているのだ。映画館に入り、またたくまに2時間・3時間の人間と風景と街区のドラマに見入って、その映画が終わってしまったときの、あの何も発することができなくなってしまった感覚である。音楽を浴び、カメラのままに惑わされ、セリフとともに感情を掻きまわされ、部屋の一隅に入る光に誘われ、食器とフォークがたてる音が迫り、ただただ身を頑なにして映画館に座りつづけたあの感銘である。
だとすればトルストイは完璧な映画監督なのである。しかし、トルストイは音楽を使わなかった。眩しい光も使わなかった。トルストイはひたすら言葉と文章だけによって、全身没頭感覚をわれわれの「眼」に見えるようにした。
はっきり言って、この文章を読んで吐き気がした。松岡正剛のこのサイトは、それなりにすばらしいサイトだと、好き嫌いを通り越して、称賛していたのだが、これはひどい。松岡正剛も、最初のほうに出てくる奥井潔という予備校講師も、『アンナ・カレーニナ』を読んでいない。読んでいないから、こんなひどい文章が書けるのだ。もちろん私は超能力者ではないから、彼らがほんとうに絶対に読んでいないとまでは見抜けない。しかし、彼らは、まるで読んだことがないかのような書き方をしている。読んだことがあるなら、松岡も奥井も、別のことを書きそうなものである。『戦争と平和』で決闘に勝ってしまったピョートルの言葉を引用すれば「なんたる愚劣」。『ライ麦畑』のホールデンの口癖を使えば、松岡も奥井も、フォーニーである。似たものどうし、馬鹿ペアである。松岡の文章を読むと、ほんとうに吐き気がする。
もちろん私もずいぶん昔に読んだ本だから、その大半、いやほとんどは忘れているから、松岡=奥井ペアを、読まずに語るなと非難できないのだが、それでも一度でも読んだら、絶対に忘れないことがある。
通常、これはアンナ・カレーニナという子持ちの中年女性の不倫物語だと予想するだろう。しかし実際に読んでみると、アンナの物語のほかに、彼女の兄の妻の妹キティにプロポーズする男が、自分の領地で、理想的な共同体を作り上げるというレーヴィン物語が並行してすすむ。
本当に二つの物語が交互に進む。そして読んでいるのが中学生の頃の私である。中学生にとって、中年の子持ちのオバサンの不倫話が面白いわけがない。その部分は、筋の流れがわかる程度に読み飛ばしたといいたいところだが、中学生である。適当に読み飛ばすという技術をまだ身に付けていない。つまらないなと思いながらも一字一句、目は通した。ただ、つまらないと思いつつ。実際、中盤からは、このおばさん、絶対に捨てられる、もう捨てられているじゃないかと退屈しながら、はやく終わればいい、はやく死ねばいいと思いながら我慢して読んで、レーヴィンの章になるとほんとうに一生懸命読んだ。松岡・奥井の馬鹿コンビは、レーヴィンの章を読んでいないというか、作品を読んでいない。映画くらいをみてそれで話をしているのだ。ほんとうに吐き気がする。
このレーヴィンの部分は、確かに、何が書いてあったかは忘れたが、その社会思想、理想的な共同体のありようについての思索と実験は、中学生の心に滲みた。正直、詳細な議論は忘れたし、また中学生の私にはむつかしかったかもしれないが、ただ、学ばせてもらった。おそらく今の私の社会思想あるいはユートピア思想の原基になるものは、トルストイのこの『アンナ・カレーニナ』におけるレーヴィンの思想だと思う。もちろんレーヴィンは、中学生にも、トルストイの思想と重なっていることは、理解できた。そして松岡や奥井のようにではなく、トルストイを『アンナ・カレーニナ』を最初から最後まで読んだ人たちは、このレーヴィンの思想については感銘をうけたはずである。またレーヴィンをめぐる物語も興味深い。キティと結婚してからは、レーヴィンの領地経営も軌道にのり、またキティの驚くべき成長あるいは彼女の本来の人間性の発露によって、物語自体も未来志向の希望に満ちたハッピーエンドに向かう。一方、アンナ・カレーニナの物語は、未来がなく、破滅に向かってまっしぐらに進んでいくようになる。そう、松岡とか奥井のような詐欺師、うそつきとちがって、ほんとうに『アンナ・カレーニナ』を読んだ人たちは、主人公はレーヴィンであって、アンナ・カレーニナは端役であると断言することが多いのである。
中学生の私はレーヴィンの部分しか、興味をもって読めなかったのだが、もうすこし大人になると、アンナの不倫物語についても、その情念と愛欲と破滅のドラマのほうが面白くなるはずである。おそらく現在の若い世代には--彼らは理想を失った世代(失礼)かもしれないので--、レーヴィンの悪戦苦闘と揺るがぬ理想は、なんら興味をひかないかもしれない(それこそ奇跡のリンゴにおける無農薬リンゴの育成と同じくらいか、それ以上の苦闘と苦悩があるのだが、このリンゴ物語に感動する現在の若い世代も、それがリンゴではなく理想社会となるとにわかに興味を失うにちがいない)。また私が読み返す勇気がないのは(まあ、時間もないことは確かだが)、中学生ではなくなってから現在に至る私は、アンナ・カレーニナの不倫話についても強く惹かれることはまちがいので、そのぶんレーヴィン物語への関心が薄らぐのではないか、それはまたレーヴィン物語に感動した少年頃の私を裏切るような気がしてならず、読み直していない、勇気が出ないのである。
ただ、もっと大人になると、言い換えると文学研究者としての立場からすると(とはいえそれは一般読者と大きく変わるものではないが)、あるいは松岡とか奥井が、もしほんとうに読んでいたとすれば、絶対に考えずにはいられなかった問題としては、トルストイがアンナの物語とレーヴィンの物語を、交互に書いたその意図はどのへんにあるかということである。おそらく、それについて自分なりの解答をみつけないと、ほんとうに読んだとは言えないだろう。
対比というのはすぐに思い浮かぶ、凡庸な解答である。かたや不道徳な不倫物語で破滅しかなく未来なき物語、かたや人間的思いやりと理想をつらぬく道徳的な、そして未来のある物語。両者を並置することで、それぞれの不道徳性や道徳性が際立つことになる。単純だが力強い、凡庸だが安定した、二項対立が生ずるということなのか。トルストイのどっしりとした分厚い本の特質としては、これ以上、揺るがぬ構成はないということになる。
しかし脱構築的に、二つの物語は、正反対であるかにみえて実は同じなのだと考えることはできないか。アンナとレーヴィンは、正反対の生き方をする二人ではなく、ともに同じような生き方をする分身関係にある、と。レーヴィンの物語をトルストイが書きたかったことはまぎないないだろう。しかし、もしそうなら、その引き立て役として、わざわざアンナ・カレーニナのことを、あれほど詳しく力を入れて書いただろうか。たとえ最初は引き立て役だったとしても、アンナは最終的に独り立ちして登場人物に、あるいは主人公に成長したともいえるだろう。確かに不倫物語は19世紀ヨーロッパ小説のなかでは王道を行くものであったし、本格的な不倫小説を書くという意図がトルストイにわかなかったとしたら、そちらのほうが謎である。フローベールの『ボヴァリー夫人』がすぐに思い浮かぶが、それとともに「ボヴァリー夫人は私だ」と語った作者自身の言葉も思い浮かぶ。アン・カレーニナ自身も、レーヴィンの分身であり、レーヴィンがトルストイの分身だとしたら、アンナ・カレーニナはトルストイ自身でもあろう。
脱構築的に考えれば、つまりレーヴィン=アンナと考えれば、理想の共同体を構想することは、アンナと同様に、社会から冷遇され、社会から孤立して苦悩することである。理想をつらぬくことは、当時の社会にあっても、21世紀の現在においても、不道徳であり堕落であり、あってはならない腐敗なのである。もし理想を貫くことが奨励され、また多くの人が理想をつらぬき、理想の共同体をつくろうとしたら、日本人のほとんどが、ちょび髭をつければヒトラーに良く似ている宰相に日本を引き渡すことなどないだろう。理想的共同体を作ろうとすることは、不倫と同じく、スキャンダラスこの上もない、悪逆非道の行為なのである。
一方、アンナもまたレーヴィンだと考えれば、18歳から愛のない結婚を続けるアンナにとって、ヴロンスキーという青年将校が、どれほど中身のない人間であっても、それは関係なく、彼との不倫のなかに、結婚生活いや彼女の人生のなかで見出すことができなかった理想的な人間関係を見たのである。彼女もまた理想的な共同体をつくろうと努力するのであり、それが実現したかに見えた瞬間、社交界による冷酷なつまはじきに状態に陥ってしまう。彼女にとって、欲望を貫くこととは、理想的人間関係を実現することであり、それは不道徳どころか道徳的行為なのである。彼女は不道徳の不倫ゆえに死んだのではない。理想を求める道徳的行為によって死へと追いやられたのである。かくしてレーヴィンの道徳性は、社会から不道徳だとみられることであり、アンナ・カレーニナの道徳性もまた、社会から不道徳だとみなされることに起因する。あるいはこうも言える。理想をつらなくことは、不倫と同じように、自分の欲望に忠実であることであり、それは、なににもまして快楽である。理想の追求は禁欲的なことではなく、むしろ快楽そのものなのだ、と。
たとえばこのように二つの物語の関係を見極めるとき、トルストイの『アンナ・カレーニナ』は、転向右翼のドストエフスキーには書けない深淵を私たちに見せてくれるのだと言えないだろうか。
