はじめに
2013年度夏学期の英語学英米文学演習はシェイクスピアの『ハムレット』を扱う。この長くまた難解な作品を半期で扱うのは、無謀な試みに近いのだが、ざっと内容を把握することだけでも意味があると考えた。確かに『ハムレット』の場合、一字一句考えることにこそ読むことの醍醐味があると思うのだが、それでは数年かかるだろうし、この人気のある作品を、そのあらましでも摑みたいという学生の要望を無視することはできないので、とにかく、ざっとでもいいから、最後まで読むことにした。
そして、授業では最後の5分から10分くらいの間に、参加者にコメントを書いてもらい、それについて次の授業でコメントについて、教員の側からもコメントしたプリントを配っている。
コメントの内容は、授業で扱った範囲に関係したものであれば、何でもよく、質問でも、感想でも、その他、要望なども可としている。
ここに公開するのは、作品の内容に関する学生からのコメント(コメントの内容は私が要約したり、時にはそのまま引用している)と、それに対する私のコメント(ただし、コメントを返していないものもある)であり、個人的な質問とは要望は省略している。また学生からのコメントには誰のものかわかるようイニシャルをつけているが、ここではイニシャルは省いた。
なおこれは私の授業(演習)における学生からのコメントなので、当然、学生として教員の考え方とか参照枠に合わせることが多いので(もし私が学生だったら、教員の思考傾向にあわせるだろう)、そのためコメントは、私の考え方に寄り添うものが多いことは否めないが、だからといって彼らを私の共犯者とは、どうかみなさないで欲しい。
今後、夏学期の演習で配布したプリント(そっくりそのままではないが)を、不定期だが、すべてブログにアップする。最大の目的は、『ハムレット』を読むときの思考の契機あるいは糧となることだが、授業の文字による実況中継ではないが、授業内容に対する反応の実況中であることはまちがいない。
第1回コメント
授業は、シェイクスピア全体のイントロダクションと、冒頭部分を読んでいる。
質問
〇1 冒頭のHeという答え、なぜIではないのか。どのような解釈がなりたつのか。【良い質問ですが、同時に、答えるのがむつかしい質問です。絶対的な答えはないと思いますが、私(大橋)の個人的見解を言えば、ひねった言い方であることは確かです。自然な言い方ではない。これは自分のことを三人称で語っている。そしてそれはこの劇全体において、個人的なことを一般的なこととして語る癖のようなものにつながっていきます。たとえば有名な、To be or not to beは、「私は生きるべきか、死ぬべきか」と個人的な決意を一人称で語っているのではなく、一般論として、三人称あるいは非人称で語っているのであり、この傾向は劇の最後まで維持されます。】
〇2 シェイクスピア時代の表記の違いはわかりますが、発音はどうでしょうか。またイントネーションは、現代とは違うのでしょうか。【違います。これはどの言語でも同じで、たとえば日本語でも、平安時代の日本語あるいは江戸時代の日本語は、現代の日本語と発音は違っています。テレビや映画の時代劇では言葉遣いを古めかしくしても発音は現代語と同じですが、もしタイムマシンで過去の日本に行けば、人びとは、現代人が聞いてもわからない発音で話していたと思います。英語も同じです。音が記録に残っていないので、推測するしかないのですが、異なることがわかっています。機会があれば、シェイクスピアの時代の発音を再現した音声資料もあるので聞いてみたいと思います。】
〇3 シェイクスピアの作品では登場人物の名前に意味や意図をこめたりすることがあるか。【シェイクスピアの作品は、中世の文学や演劇に見られる寓意性全盛時代と、近現代におけるリアリズム文学時代の中間にあります。そのため、登場人物の名前に意味がこめられたりすることがけっこう多いのですが、同時に、そのように人工的に固有名詞に意味を込めるのは、リアリティを妨害するという考え方もあり、露骨に意味を盛ったりもしていません。ハムレットの場合は、登場人物たちの名前に明白な寓意性はないようです。】
〇4 略
感想
〇5 冒頭の異様さの理解にQ1との比較が役立ったようだ。
〇6 一行目から異様さがあり、ぜひ、読解したいと思った。
〇7 Hamletには複数の版があることがわかり、また版によって、消えたりしている台詞があり、興味深いと思った。Q1の翻訳しか手に入れていなかったので、別の版も手に入れようと思う。TIB【Q1の翻訳は、貴重なので、いろいろ活用して欲しいと思いますが、ただ、Q1は、全体の三分の一程度の海賊版に近いものなので、ぜひ通常版(Q2とF1あるいは両者のミックス)を入手してください。そうしないと大修館版の原文を理解できないことになりますよ。】
〇8 海賊版が出たのは当時としては必然であるというのも興味深かった。【もちろん正確なところはわからないし、正確には必然といえるかどうかというところもあるのですが、この作品に限って、Q1が存在することは、確かに興味深いと思います。】
〇9 昨年度も授業に出たので、第一回目では多くの部分がかぶっていたので新しい情報はなかったが、海賊版の存在は興味深かった。海賊版になるとシェイクスピアが意図的に作ったであろう、違和感が失われているというのは興味深く、詳しく調べてみたいと思った。【Q1については謎も多く、どういう方法で作ったのか、わかっていません。すべて推測ですが、シェイクスピアのオリジナルであったであろう違和感が、無くなっているというのは、まさに興味深いところなので、授業では詳しく触れることはできないと思いますが、翻訳も文庫本であるので、比較対照してみるのは面白いと思います。】
〇10 Horatioの台詞が、他の二人と比べると多いことに驚いた(3人で会話しているというイメージがあったので)。また海賊版のほうの英語は、すんなりと理解できる言い回しになっていることが興味深かった。
〇11 思ったより深読みが必要であることがわかった。深読みは訓練というよりも個人の直感に頼るもののように感じた。
【喧嘩売ってのか。喧嘩を売ってはいないと思いますが、コメントは、二つの意味にとれます。
たとえば陸上競技で100メートルを世界記録に近いような記録で走ることができる選手がいるとします。最近、高校生がそういう記録を出して、誰もが驚いたのですが、その時に、こんなコメントがあったとします。「スポーツは練習の積み重ねだというし、練習すればするだけ、よい記録が出せたり、能力を最大限発揮できたりと、いいことのように思うが、しかし、世界記録並みの記録となると、いくら練習しても、資質がないと不可能ではないか。私のような、生まれつき、筋力などに恵まれていない人間は、どんなに練習してもだめで、やはり個人の持って生まれた才能が大きくものをいうと思う」と。このようなコメントは、謙遜かあきらめかわかりませんが、喧嘩を売っているものではありません。「訓練よりは個人の直感による」というのは、「どんなに訓練しても、優れた直感をもち、才能のある人にはかなわない」という意味になるからです。
しかしそんなに謙遜してるのか?! むしろ、深読みと言ったって、好き勝手に自分の感想を言っているだけではないか。個人的な直感とは、無根拠な、思いつきだけを羅列する単なる空想なり妄想と変わらないものではないか。深読みなんて、くだらないことはやめて、もっと実証的・客観的な研究に終始すべきだ、あるいは深読みなんて、個人的見解の表明にすぎないので、むしろ作品を率直に読んでいればいいのでは。という文学研究あるいは批評研究に対する無知と偏見の表明かもしれません。とすればこれは立派な喧嘩のはじまりです。
文庫本の解説などでは(シェイクスピアの翻訳のことではないです)、作品についての解釈などは余計なことで、ただ読んでいればいいという、馬鹿なド素人が妄言を吐いています。そんなものに騙されて、脳細胞を減らしたり、腐らせたりしているのは愚かです。次から次へと解釈ができればできるほど、深読みができればできるほど、その作品は素晴らしい作品で後世に残る作品です。ただ、読んでいれば、それで満足できるような作品は、クズです。糞です。屁みないたいなものです。言葉が不潔でお詫びします。無限の解釈を許容するのが優れた作品であり、そんなとき個人的直感はじゃまになるどころか、新たな解釈可能性を示す重要な情報ともなります。個人的な直感、上等じゃん。それがなければ研究や批評や解釈などできない。個人的直感は磨ける。
なお文学批評や文学研究者の夢というのは、なんだか知っていますか。作品の一行だけを取り上げて、それをめぐって本を一冊書くことです。たった一行から無限に近い解釈可能性を提示するのです。見果てぬ夢ですが、とにかく世の中に蔓延している、鳥インフルエンザよりも怖い、ど素人の解釈嫌い、深読み嫌いに、感染して脳細胞を腐らせないでください。心からのお願いです。】
〇12 Hamletの難解な部分の理解の手助けをお願いしたい。TNU【出来る限り尽力したいのですが、Hamletはよくわからないことが多く、難解さが魅力にもなっています。】
〇13 文学作品に求めるものは、人間の本質(?)やその一部を見出すこと、もしくは作者の考えていることに触れることと感じていたので、台詞の行を数えたり、韻律を分析したりという一見内容の核心に無関係(だと勝手に思っていた)ことからのアプローチが新鮮でした。
【人文系の研究で、専門家であるというのは、どういう能力なり技能なり知識がある人だと思いますか。専門家の条件は2つです。
①ひとつには、その分野の歴史(伝統とか系統とか)を知っていること。もしあなたが「歌謡曲」の専門家だ(あるいは専門家になりたい)とすれば、過去から現在までの、できる限り多くの歌謡曲を知っている必要があります。
②形式を説明したり分析できること。あなたが歌謡曲の専門家だ(専門家になりたい)とすれば、楽曲の構成、リズムとかメロディーなどについて分析でき、さらには歌詞の構成なり構造、ジャンルなりを説明できなければなりません。つまり形式について分析でき、説明できなければ専門家ではありません。歌謡曲の内容について褒めたりけなしたり、感動を語ったり、そこに人間の真実をみたりするのは、素人です(素人だからまちがっているとか悪いという意味ではありません)。専門家の条件とは、印象批評なり、哲学や心理を語れることではなく、形式について語ることができるということです。
したがって文学研究の基本は、形式の分析です。それが説明できないと話になりません。専門教育の基本は、形式について、また形式を研究することを教えることです。そのつぎに形式と内容との関係を考えるということになります。内容について語るのは、よいことですし、まちがっていませんが、形式については、素人は語れないということになります。】
〇14 今まではアメリカやカナダの学校に通っていて、シェイクスピアが英語で軽く解説するだけだったのですが、日本語で意味を考えたり日本語で説明するのが難しいそうだと思った。【それはあなたがアメリカ人あるいはカナダ人、つまりは北米人だからでは。とはいえHamletは特に面倒で難しい作品であることも事実です。】
〇15 『ハムレット』はだいたい知っているのですが、原文を読むと、知らなかったことが見えてきて興味深い。IとなるところがHeだったり、夜の場面の強調や劇場環境などもすけてみることなど。
〇16 教科書(大修館版)の冒頭の解説を読んだのですが、ハムレットの三人の友人が感情・理性・バランスを象徴しているという点が面白いと思いました。そこまで深く読みこんでいなかったので。【先ほど、深読み上等じゃん、どんどん深読みすべきみたいなコメントをしたあとで、こういうのは何ですが、すみません。すべての深読みが正しいかどうかはわかりません。ここで言及されている大修館版の解説、ほんとうにそう思いますか。シェイクスピアの時代は、リアリズム文学の時代ではないので、いろいろなものに寓意的意味が付与されていたわけですから、かといって過剰に寓意的意味を読み込むのも、作品をリアルなものにしようとしていたにちがいないシェイクスピアの意図を裏切ることになります。ほんとうに大修館の解説のとおりだと思いますか。むしろ自分の「個人的直感」に頼り、「個人的直感」を信じて、ちがうのではないか、そんなことがあるわけがない、根拠のない妄想ではと、つっこみを入れることも重要です。すべての深読みが正しい、あるいは説得力があるかどうかわかりません。】
〇17 喜劇は好きで悲劇はスルーしてきたが悲劇にも挑戦して読破したい。【Hamletはけっこう不純な悲劇で、喜劇的要素が多くて、そこが面白いし、困ってしまうところです。】
〇18 「シェークスピアのハムレットをよむということで、ようやく英文学科らしいなと感じました。発表の準備が大変そうです。」【原文のまま。ちょっと嬉しいコメントですが、問題もあって、「シェークスピア」というのは英文科的ではありません。「シェイクスピア」にしないと、以後減点します。準備は大変ではありません。準備やその他で楽しんでください。】
〇19 昨年もこの授業を履修したので、今回は、シェイクスピア一般に関することとして、重なる部分が多いと思ったが、そうでもなく、未知の話題も多かった。
〇20 古英語の知識はもちろんのこと、強弱や場の展開などについての前提知識を得て、ようやく読解の第一歩を踏み出せるように感じた。
【コメントに関して、なにか問題があるわけではないのですが、
「古英語」というのは、たんにシェイクスピア時代の古い英語という意味で、それ以外の意味で使っていないと思いますが、まだ文学史の授業などで話を聞いていないので不注意でもないと思いますが、「古英語」というと専門用語ではOld English、略してOEで、これはアングロ・サクソン人がイングランドに移住してきから11世紀終わりのノルマン・コンクェストまでの中世前期の英語を意味します。ノルマン・コンクェスト以後の英語はフランス語の影響がつよく、これを中英語Middle English、略してMEで、これも中世後期の英語です。シェイクスピアの英語は初期近代英語で、Early Modern Englishで、略式表現はありませんが、これは現代の英語とほぼ同じです。
まとめますと
Old English 古英語は中世前期の英語です。中世の英語ですから「古代英語」と訳さず「古英語」としま す。アングロサクソン語で、ドイツ語に近いものです。いまの英語の面影は少ない。語形変化も多く、面倒な言語です。
Middle Englis中英語は中世後期の英語です。古英語も中世の英語ですので、これは「中英語」とします。フランス語の影響が顕著で、OEがドイツ語に近いなら、MEはフランス語に近いものです。
そしてシェイクスピアの英語は初期近代の英語です。】
〇21 人物や台詞に意味が込められすぎて面白かったです。来週『ヘンリー四世』を観に行くが、学生2000円の席で舞台が見えるかどうか心配です。【そんなに意味が込められているわけではないと思います。この程度なら。また『ヘンリー四世』の2000円席についての感想もください。ほかの人にも参考になると思うので。】
〇22 『ヘンリー四世』の席はほとんど残っていない。かろうじて世田谷パブリックシアターの『オテロ』は抑えたがシェイクススピアの上演は人気が高いようである。【確かに蜷川演出のシェイクスピア劇は人気があるので、チケットをとるのがむつかしいかもしれません。幸運を祈るしかありません。ただ、埼玉県の劇場は、埼玉県に住んでいる私としては、東京に住んでいる人にくらべて行き方が変で、ちょっと不便なので、実はほとんど行っていません。三軒茶屋の世田谷パブリックシアターは、良い劇場です。シェイクスピア以外の演劇でも行かれるとよいと思います。また観劇の情報やコメントいただけるとありがたいのですが。】
〇23 各台詞へのこだわりが強すぎると、全体像をつかみそこねないかと思う。【もちろん部分を理解するには全体の理解が不可欠であり、全体を理解するには部分の理解の積み重ねが不可欠です。木を見て森を見ずということがあるので部分的理解と全体的理解のバランスをとることは重要でしょう。と、こういうことは、あたりまえ体操で、あまり意味がありません。補足すれば、私は理論派でもあるので、常に地を這うようなローカルな解釈とか議論には反対なので、辞書的意味を確認すればそれで終わりというような授業にしないので、ご心配なく。と同時に、文学・演劇研究は、具体的なこと、細部にこだわります。一粒の砂の中に全宇宙をみるのが文学研究です。あるいは個別的なもの、具体的なものを重視して、そこから視野を広げていきます。哲学とか歴史研究は、宇宙から見て、やがて一粒の砂にいたることがあります(まあ宇宙から地球をみるような視点なので一粒の砂まで行くかどうかわかりません)。文学研究は一粒の砂から出発して、全宇宙をみようとします(とはいえ宇宙に飛び出す前に力尽きて、地を這って終わりということもあるのですが)。全体から部分に至るのが、哲学や歴史の研究だとすれば、部分から全体に至るのが文学研究といえるでしょう。そしてその両者が協力すると、よい研究ができます。】
〇24 また論文を書く際の引用方法にプリントがのっとっているか疑問であった。【ケンカ売るつもりなのか。どこがちがうか言ってみろ。どうやったら、論文を書く際の引用方法と違うものを授業のハンドアウトに書けるというのか、示してみろ。みてみたいものだ。あと、文献の出し方には、いろいろ規則があって、アメリカの学会はうるさいのだけれど、それでも複数のスタイルがある。またイギリスなどは、常識的な線をまもっていれば自由度が高い。また文献について略式で示す場合には、略式であることは明記している。】
〇25 特にコメントがないが、「教官の用意したレジュメの詳細な分析はすごいと思い」、自分でもできるのかとやや不安になりました。【だいじょうぶです。安心してください。また褒めてもらって、ケチをつけるのは失礼かと思いますが、私は「教官」ではありません。国立大学の頃は、教師はみんな「文部教官」でしたから、「教官」と呼んでよかったのですが(また私立大学の教師を「教員」と呼んでいました)、しかし、国立大学法人になってから、「教官」という身分がなくなって「教員」となりました。ただ、慣習的に「教官」といういい方が残っていることもあって(「卒論の指導教官」)、絶対に間違いとも言えないのですが、まあ軽く「先生」くらいでいいですよ。】
〇26 To be or not to be――that is the question. の一行は終わりがfeminine endingになっていて、字余りでもあり、そこにハムレットの不安が喚起されているという説を聞いたことがある。【確かにその通りです。That is のthatに強勢がきて、字余りのエンディングとなれば、弱強・弱強・強弱・弱強弱となって、一行の前半の力強さに対して、後半は弱弱しくなります。したがって弱弱しく不安げだという印象になります。そう説明している文献なり注釈がほとんどです。だが、しか~し、後半、例外的に強弱になるのはおかしいという私の説は無視しても、不安だから弱弱しく言うというのはおかしい。もし強く不安を感じていたら、力強く「不安だ」というべきであって、それを弱弱しく不安げに行ったら、それこそ、不安であることに対しても疑問をもっている、不安に対して不安だということになり、いかにもハムレット的ではあるものの、不安の大きさ、強さ、救いようのなさは、伝わらないのでは。その点で、不安な気持ちを不安げに語るというのは、基本的に矛盾していると考えます。まあ、決着のつかない問題だとしても。】
● コメントについては、書いてくれた人のコメントはすべて取り上げます。もし自分のコメントがなかったら、それは私の側の見落としであって、悪意はありません。再提出してもらってかまいません。
ただ各自のコメントは、すべてとりあげるかどうかわかりません。一人のコメントが多くて省略するとか、同様のコメントがあって省略するかもしれません。また、コメントの言葉は、私の言葉で要約しますから、主旨を取り違えていたら、そのことを遠慮なくコメントしてください。
追記:したがって一人が複数のコメントしたり質問したりしていることも多く、それらを反映しているので授業参加者が26名ということではない。また今後コメント数が増えていくが、参加者が増えたわけではない。年のために。
以上
2013年06月08日
演習『ハムレット』1
posted by ohashi at 12:37| 授業(演習)
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