2017年08月10日

教科書と入試問題

これはもう20世紀での出来事なのだが、ある大学の先生と話をしていたとき、その先生が、この歳になると自分の書いた文章のひとつかふたつが大学の入試問題に使われるものだと話したので、実は、私も入試問題で使われているのだと話して意気投合したことがある。自慢でもなんでもない。ある時は、別の大学の先生で、私よりもずいぶん年下で、作家でもあって長編小説を上梓している人でもあるのだが、その先生も、自分の文章が入試で使われたことがあると言っていたので、まあ大学の先生と出会えば、100人中、かなりの人数の人が入試問題提供者となっている。


だから、これは自慢話ではない。


入試問題に選ばれる文章というのは、基本的に、あたりさわりのない文章である。政治的ではないこと。また専門的でないこと。


毎ページ、シェイクスピアとか夏目漱石という固有名詞がある場合、これはまあ許容範囲かもしれないが、ヘイドン・ホワイトとか、アントニオ・グラムシとか、ジョルジョ・アガンベンなどという名前が出ていたら、まず使われることはない。


英語で、これにぴったりの単語がある。blandであること。まあblandというのはほめ言葉かもしれないが、ほめ言葉でないことのほうが多い。ちなみに日本語で言う商標とか銘柄でいうブランドはbrandなので誤解のないように。


しかし同時に、あまり口当たりがよくてわかりやすかったら入試問題にならない。そのため小骨がいっぱいあって、しかも頭がぐるぐるするような文章でなくてはならない。以前、文学部の先生方と話をしていたとき、入試問題に使われる日本語の文章の話しになって、実は私も入試問題に使われているのですと言おうとしたところ、話題は、悪文が入試問題に使われるのだという方向に進んでしまい、口をさしはさめなくなった。というのも悪文であるというのは真理だからである。


実際、入試問題に使われた自分の文章を読んでみると、悪文である。受験生諸君を一度ならず、過去問題集でも苦しめることになり、もっとわかりやすい文章を書こうと反省した次第である。これはほんと。


なお以上のようなことは過去にも、このブログで書いたことがあるので、今回はそのつづきを。


問題作成するほうも、進化洗練されてきて、良い問題をつくるようになった。近年。私の文章が行政書士の資格試験問題に使われているのだが、空欄を埋める問題で、ちょっとむつかしいが、論理的に考えればできる問題で、なにより驚いたのは、私はけっこう論理的な文章を書いているということだった。


自分では、論理をはずしたり、ひねったりするような文章を書いていたつもりでも、まさに言語構造、あるいは論理構造の力というか、文法の力とでもいうべきもので、書き手の意志を超越したかたちでというか、書き手が書いているのではなく、論理が書いているという状態が出来していた。だから私の文章(とくに悪文ではなかった)の論理をつかめばが解答できる問題で、良い問題だと思った。


余談だが、行政書士の過去問題集に掲載されるとお金が入る。といってもわずかな金額だし、それに対して出版社側がいちいち源泉徴収の書類を用意するというのはめんどうだろうし、そうした書類を税金申告のときにそろえておくというのもめんどうなので、版権料不要という選択肢がある書類の場合、迷わず不要にして返送していた。行政書士の過去問題集を出版する書店は二社か三社くらいだろうと思って。ところが、次々といろいろな出版社が過去問題集への掲載許可を求めてくる。こんなにたくさんの出版社が行政書士の過去問題集を出しているとは夢にも思わなかった。お金をもらっておけば、けっこうな額になっていたはずなのにと後悔した。実際、掲載料はほんとど不要としたのだから。


閑話休題。入試問題というと、私の場合、翻訳文も使われていて、これは複雑な思いをしている。翻訳の文章というのは、どうしても原文にひっぱられるため、日本語として不自然なものが多いというか、どうしても不自然になる。私の翻訳文も例外ではない。だから国語の問題の文章としては、そもそも翻訳文はふさわしくないと思うのだが、それでも使われるというのは、私の翻訳文が日本語として優れているということの証ではないか。だとしたら、これは誇らしく、また嬉しい限りである。


しかし先の例ではないが、不自然な日本語の翻訳文は悪文と同じだから使われているとも考えられる。こうなると、あまりうれしくはないのだが、そうであっても、設問をみていると、内容が優れているから、問題として選ばれているということもわかる。悪文だけれども興味深いということか。いや、悪文でもいい。翻訳文が選ばれるということは、うれしいことではある。


最近、これまで選ばれたことのない私の文章から論説問題が出題された。事後承諾で、あとから使わせてもらいましたという報告がくる。それはそれでいいのだが、昨年度だったが、私の文章を使った入試問題のサンプルが事後承諾で送られてきて、そのとき出題ミスがありましたというコメント入ってて、目の前が真っ暗になった。


というのも論述問題の出題ミスとなると、解答できないということではないか。つまり私の文章があまりに非論理的で稚拙で受験生はどんなに頑張っても、解答が書けないということになる。つまりは私の文章がひどすぎる。こんな問題を出す大学も責任を問われるだろう。そうなると受験生、出題側の大学に大変な迷惑をかけたことになる。私の文章が。


しかし、おそるおそる書類をみてみたら、出題ミスといっても、出題文での漢字の使い方が私の原文とは異なっていたというだけのことで、ミスかもしれないが、ささいなミス、とるにたらないミス、ミスともいえないものである。受験生に迷惑をかけてはないので、ほっとした。それにそんなに悪文でもなかったし。


ところで、この記事のタイトルは「教科書と入試問題」とある。「教科書」はどうなったのか。それは次回につづく。

posted by ohashi at 12:14| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年07月16日

監視社会と共謀罪

共謀罪の成立によって、いよいよ日本も世界に冠たる監視社会になったといえるのだが、監視社会は、個人のプライヴァシ―が侵害されると批判すると、やましいところがなければ監視されてもいいのではないかと反論される。また、そもそも監視社会といっても、自分には関係ない(自分にやましいところはないから)という能天気な人間(能天気な若者と書こうとして、愚かさに年齢の壁はないと悟ったのでやめた)は多い。


本日の報道番組で、スノーデンも日本の共謀罪では国民のプライヴァシ―は守られないこと、そして潔白な人なら関係ないということはナチスもプロパガンダで広めていたとインタヴューに答え、そして警鐘を鳴らしていた。


関係ない(潔白だから)というのは、国民のプライヴァシーがすべて開示されたとしても、犯罪者は困るだろうが、そうでない国民にとっては、なんら損失はないとしいう考え方であって、この場合、国民のプライヴァシーがすべて公になることは、よいことで、また悪い人でなければ、何ら問題ないということが前提となっている。このとき忘れられているのは、まさに盲点となっているのは、監視者は誰が監視するのかということである。


監視社会では監視者は、その立ち位置から、たんに透明で中立的存在であるだけでなく、超越的な存在とみなされ、そこからなんの根拠もなく善であるとみなされるのである。犯罪を取り締まる警察は、自然と、公正中立で不可侵な正義の体現者と想定されてしまう。これはポジションの問題であって、実際のところ、警察のなかにも不正はあるだろう。そしてそれが警察や司法組織だけでなく、政権全体となると、たとえば現在の日本の政権のようになること(腐敗と悪の巣窟みたいになることは)は、権力は腐敗する原則からすれば、当然のこととなる。そしてもしこの監視者を監視するシステムが完備しない限り、監視者側になれば、あとはやりたいほうだいである。監視者のポジションは、誰もみることができない完全な盲点となる。


もし監視社会が、すべてをすみずみまでまんべんなく監視する体制であるなら、その分、監視者だけが、この監視ネットワークの埒外に置かれることになる。完璧な盲点である。つまり監視システムは、誰にも邪魔されない、つまりやましさマックスの独裁権力を誕生させることになる。


共謀罪も同じである。改憲勢力というのは、日本の政体を根底から覆そうと、まさに共謀している勢力で、自民党と、その協力政党、さらには極右団体など、どうみても共謀罪で逮捕されても当然の、ならず者集団、国家転覆をはかるテロリストといてもいいだろう。だが、共謀罪は、彼らに適用されない。彼らを共謀罪で裁くことができない。とりわけ既存の政党関係者は完全に共謀罪の埒外にある。そしてまた共謀罪は、権力者の独裁(と腐敗)に対しては適用されないのである。共謀罪をつくった共謀者たちは、この共謀罪から免れているのである。


そして監視社会は、絶対にプライヴァシーを開かされることのない犯罪者、監視者という犯罪者を野放しにするだけでなく、このやましさマックスの犯罪者に絶対的権力を与えるのである。


おそらくこれがファシズムというのものだろう。

posted by ohashi at 17:12| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年06月12日

年齢確認

以前、上野の美術館のどれだったか忘れたが展覧会の入場券を購入するために窓口前に並んだが、私とは別の窓口の列に並んでいた男性が、入場券を購入するとき、年齢のわかるものをみせるようにと言われ、腹を立て、吐き捨てるように「見ればわかるだろう」と窓口の女性に言って、なにもみせずに入場券を手に展覧会会場に向かったのをみたことがある。


その受付の女性は、おびえたような、バツの悪そうな表情をしていた。


だが彼女が悪いことをしたわけではない。そのクソジジイが横柄きわまりないのであって、もし私がすぐ後ろに並んでいたら、つべこべいわずに見せればいいんだよ、このクソジジイとまでは、まあ怖くて言わなかったと思うが、窓口の女性に、あれはみせるべきですよね、規則だから、なんだあの威張りくさったクソジジイ、あんなやつ死ねばいいの。もう何を言われても気にすることはないですよと、そのクソジジイの姿が見えなくなってから、こそこそと受付の女性につぶやいていたかもしれない。あいにく窓口がちがったので、それはできなかったのだが。


その窓口の女性を責めないでほしい。美術館なので、65歳以上が割引になり、年齢確認が必要になる。65歳より上か下かは、けっこう線引きがむつかしい。自己申告だけでは信用できない。年齢確認が必要となる。実際、その男性は、その時も今もまだ65歳ではない私とくらべても、けっこう若く見えた。私よりも若くみえたことは確か。だから年齢確認は、必要だったのだ。みればわかるという問題ではなかった。65歳以上かどうか、そのときは見てもわからなかったのだ。


それに、その時の受付の女性は、若くて聡明そうな誰が見ても美人だった。そんな彼女を叱るなんて、地獄におちるぞ、その自称65歳以上男め。


と、こんなことを思い出したのも、610日の夜、コンビニ(住所は正確にはわからないが、その地区の最寄りの駅はJRの新検見川)でアルコール飲料を購入したら、セブンイレブンの店員から、年齢確認をお願いしますと言われたからだ。


え、


年齢確認をお願いします。


え、


年齢確認をお願いします。


あのどうやれば年齢確認ができるのか、身分証でも見せるのかと、どうだったかわからなくなって混乱しそうになったそのときに、レジの下部にあって客側に向いている画面にタッチすればいいことを、まさにその画面をみて思い出した。一瞬ドキドキしてしまった。


だがそれにしても、おいおい、見ればわかるだろう。私をみて60歳か65歳かは、見てもわからないとだろうが、未成年ではないことぐらい、見ればわかるだろう。あとで周囲に、なんで私が年齢確認なんだと、さんざん愚痴ったら、まあ、そういう規則なのだから、店員も規則通りに年齢確認の声をかけただけれだから、かっかしないでと言われた。だが、これこそ、見ればわかるだろう。私は地獄に行くべきクソジジイなのか。


まあ気持ちは若い。気持ちはいまでも10代の少年の頃と変わってはいない。歳はとったが、精神は15.16歳の少年と同じだと思う。私は精神年齢的には、いまも未成年だ。それが見抜かれたか。そんなことはないだろう。

posted by ohashi at 15:25| エッセイ | 更新情報をチェックする