「最高裁判所裁判官国民審査制度」にもとづく「国民審査」が、衆議院議員総選挙の投票日つまり明日おこなわれる。
「最高裁判所の裁判官は任命された後に初めて行われる衆議院議員総選挙の投票日に国民審査を受け、この審査の日から10年を経過した後に初めて行われる衆議院議員総選挙の投票日に更に審査を受けます(その後も同様)」と総務省のホームページにある。
このブログでも何度も述べているように、私は、国民審査の対象となる最高裁判所裁判官全員に✖をつけている。いたずらか、お遊びでそうしていえるのかとあきれられるかもしれないが、行政の暴走を止めることができない司法の責任者たちへの怒りの表明として、毎回、審査対象全員に✖をつけている。
もちろん裁判には特徴や個性、そして実績がある。その違いを無視して全員に✖をつけるのは愚策であると思われるかもしれないが、連帯責任ということで✖をつけている。
もし行政の暴走を司法が止めた、あるいは行政が暴走しないということがあれば、もちろん✖はつけない。残念ながら、そうした時期はこれまで一度もなかった。最高裁裁判官たちに反省してもらうためにも、私は死ぬまで、✖をつけ続ける。
とはいえインフルエンザにかかってしまったために、明日の投票に出かけることができるか定かではない。いや、そもそも出かけるべきではないと思うので、残念でしかたがない。
2026年02月02日
関節リウマチ
関節リウマチを患っている私から一言。
関節リウマチだと診断され前は、歳だから関節が痛くなったり手足は腕や脚が動きづらくなっているものだと思っていた。それはかなりひどくて、夜も痛みで眠れぬことが多く、眠れた時は、睡魔が痛みに勝った時だけでしかなかった。ひどいときには自分の顔を手で触ることができないほど、腕が硬直していた。結局、手がぱんぱんに脹れたので、これは何か悪い病気ではないかと内科で相談したら整形外科を受診するように言われ、整形外科で検査の結果の関節リウマチと診断された。
そして薬を処方されたら、その日のうちに痛みはひいて、関節もかなり動くようになった。薬はステロイド。ステロイドは強い薬で副作用も多いのだが、関節リウマチに対して処方されるステロイドは一番弱いもの。それで炎症が収まり、痛みから解放された。
しかも担当医のすすめで徐々に薬を飲む回数を減らしていき、いまではほとんど飲まなくてもすむようになっている。ただ、それでも関節が痛かったり腕がこわばったりすることがあるものの、薬を飲むとすぐに痛みやこわばりはなくなる。
まあ私が患っているのは、軽い関節リウマチで、薬で簡単に抑えられるものなのかもしれない。しかし、症状が進んで、薬を飲んで痛みが治まらなくなるようは日が来るのではないかという不安がある。
高市首相は、関節リウマチで、NHK「日曜討論」を欠席。関節リウマチは薬で炎症を抑えることができる。だからテレビ番組出席を休むほどのことはない。もし関節リウマチの痛みを薬で抑えることができず、テレビ番組に出席できないというのなら、それは重篤な関節リウマチ患者であって、首相なんかやっている場合ではない、というかそうした病人に首相をさせてはいけない。関節が動かなくなってからだがねじ曲がってしまう。まずは治療に専念すべきである。
高市首相の「日曜討論」欠席は、週刊文春が報じた高市首相の政党支部の政治資金パーティーと旧統一教会が絡むパー券疑惑について、討論会で追求されるのを恐れたせいだろう。関節リウマチを欠席の理由にした。卑劣な嘘つき女である。
関節リウマチだと診断され前は、歳だから関節が痛くなったり手足は腕や脚が動きづらくなっているものだと思っていた。それはかなりひどくて、夜も痛みで眠れぬことが多く、眠れた時は、睡魔が痛みに勝った時だけでしかなかった。ひどいときには自分の顔を手で触ることができないほど、腕が硬直していた。結局、手がぱんぱんに脹れたので、これは何か悪い病気ではないかと内科で相談したら整形外科を受診するように言われ、整形外科で検査の結果の関節リウマチと診断された。
そして薬を処方されたら、その日のうちに痛みはひいて、関節もかなり動くようになった。薬はステロイド。ステロイドは強い薬で副作用も多いのだが、関節リウマチに対して処方されるステロイドは一番弱いもの。それで炎症が収まり、痛みから解放された。
しかも担当医のすすめで徐々に薬を飲む回数を減らしていき、いまではほとんど飲まなくてもすむようになっている。ただ、それでも関節が痛かったり腕がこわばったりすることがあるものの、薬を飲むとすぐに痛みやこわばりはなくなる。
まあ私が患っているのは、軽い関節リウマチで、薬で簡単に抑えられるものなのかもしれない。しかし、症状が進んで、薬を飲んで痛みが治まらなくなるようは日が来るのではないかという不安がある。
高市首相は、関節リウマチで、NHK「日曜討論」を欠席。関節リウマチは薬で炎症を抑えることができる。だからテレビ番組出席を休むほどのことはない。もし関節リウマチの痛みを薬で抑えることができず、テレビ番組に出席できないというのなら、それは重篤な関節リウマチ患者であって、首相なんかやっている場合ではない、というかそうした病人に首相をさせてはいけない。関節が動かなくなってからだがねじ曲がってしまう。まずは治療に専念すべきである。
高市首相の「日曜討論」欠席は、週刊文春が報じた高市首相の政党支部の政治資金パーティーと旧統一教会が絡むパー券疑惑について、討論会で追求されるのを恐れたせいだろう。関節リウマチを欠席の理由にした。卑劣な嘘つき女である。
posted by ohashi at 23:31| コメント
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2026年01月05日
太陽系の中心
お恥ずかしい話だが、この歳になってはじめてというか、この歳になるまで、太陽系の中心は太陽だと思っていた。太陽系のなかでは太陽が不動の中心で、その周囲を惑星が回っていると思っていた。そうではなかった。太陽もまた太陽系のなかで動いている、公転していることを初めて知った。
太陽系の惑星は、目に見えない一点である「共通重心」を中心に回っている。その共通重心が太陽のなかにあれば、つまり太陽の中心と重なれば、太陽が太陽系の中心だが、そうではないので、太陽も、その共通重心の周りを公転しているという。
太陽系のなかでは太陽がその全質量の99%以上を占めているのだが、ただ0.何%かは木星とか土星といった巨大惑星がその質量を占める。そしてその巨大惑星(主に木星)の質量に太陽が引っ張られて複雑ならせん運動をするとのこと。
同じことは惑星と衛星との間にもいえて、地球と月は互いにその質量でひっぱりあっているものの、その共通重心は地球のなかにあるので、今は、月が地球のまわりをまわっているの。ただ月は徐々に地球から遠ざかっている。もし遠い将来、月が地球からかなり離れ、共通重心が地球の外に存在することになれば、月と地球は二連星のように互いが互いの周りを回るということになるのかもしれない。
実際、惑星から準惑星へと格落ちした冥王星は、その衛星と質量の差が大きくなく、共通重心は冥王星の外にあるため、冥王星と衛星とは二連星となって互いに互いの周りを回っているとのこと。いずれ地球と月もそうなるだろう――もちろん、その時までには人類は滅んでいるか、地球も月も人類によって壊されているだろうが。
太陽が太陽系の中心ではなく、自らも太陽系のなかを公転していることはわかった。太陽王は、中央集権あるいは王権の要ではなくて、諸関係の力学に左右され迷走しているに過ぎなかった。ここには独裁者あるいは専制君主あるいはプーチン/ネタニヤフ/トランプを考えるうえでの有益な示唆があるといわねばならない。独裁者といえども関係性の力学から自由ではない。自由でないどころか、多様な諸力にひっぱられて迷走する。太陽王は、不動の中心ではなく、公転する偽りの中心なのだ。そう考えることができるし、それを立証する事象なり証拠を見つけることはできそうだ。
ただし、太陽が迷走するからといって、太陽系に中心がないわけではない。中央なり中心が好きなモダニズム派にとって、太陽系に太陽ではない「共通重心」があること、それを中心に、太陽と惑星たちが回っていることは、安堵することになろう。太陽は中心ではない。しかし太陽王は中心近くにいる。そしてすべての中心は厳然として存在する。
だが、そんなものは偽りの幻想の中心にすぎないと、脱中心好きのポストモダニズム派はいうだろう。太陽系の中心は、太陽ではなく、太陽と惑星との関係性の力学によって措定される目に見えない共通重心だとしても、その共通重心そのものは太陽系のなかからみると不動の中心だが、外からみれば決してひとつところにとどまらない動く中心であり、さらにいえばこの共通重心=太陽系は銀河系のなかでも移動しているのであり、そして銀河系そのものが、この膨張する宇宙のなかで移動している。中心など無数に存在する。それゆえに中心はどこにもないともいえる。あるのは無数に存在する中心のまぼろしにすぎない。
正月早々、自分の無知を恥じることになったが、同時に、さまざま洞察を生み出してくれる鉱脈にゆきついたという感慨を禁じ得ない。
太陽系の惑星は、目に見えない一点である「共通重心」を中心に回っている。その共通重心が太陽のなかにあれば、つまり太陽の中心と重なれば、太陽が太陽系の中心だが、そうではないので、太陽も、その共通重心の周りを公転しているという。
太陽系のなかでは太陽がその全質量の99%以上を占めているのだが、ただ0.何%かは木星とか土星といった巨大惑星がその質量を占める。そしてその巨大惑星(主に木星)の質量に太陽が引っ張られて複雑ならせん運動をするとのこと。
同じことは惑星と衛星との間にもいえて、地球と月は互いにその質量でひっぱりあっているものの、その共通重心は地球のなかにあるので、今は、月が地球のまわりをまわっているの。ただ月は徐々に地球から遠ざかっている。もし遠い将来、月が地球からかなり離れ、共通重心が地球の外に存在することになれば、月と地球は二連星のように互いが互いの周りを回るということになるのかもしれない。
実際、惑星から準惑星へと格落ちした冥王星は、その衛星と質量の差が大きくなく、共通重心は冥王星の外にあるため、冥王星と衛星とは二連星となって互いに互いの周りを回っているとのこと。いずれ地球と月もそうなるだろう――もちろん、その時までには人類は滅んでいるか、地球も月も人類によって壊されているだろうが。
太陽が太陽系の中心ではなく、自らも太陽系のなかを公転していることはわかった。太陽王は、中央集権あるいは王権の要ではなくて、諸関係の力学に左右され迷走しているに過ぎなかった。ここには独裁者あるいは専制君主あるいはプーチン/ネタニヤフ/トランプを考えるうえでの有益な示唆があるといわねばならない。独裁者といえども関係性の力学から自由ではない。自由でないどころか、多様な諸力にひっぱられて迷走する。太陽王は、不動の中心ではなく、公転する偽りの中心なのだ。そう考えることができるし、それを立証する事象なり証拠を見つけることはできそうだ。
ただし、太陽が迷走するからといって、太陽系に中心がないわけではない。中央なり中心が好きなモダニズム派にとって、太陽系に太陽ではない「共通重心」があること、それを中心に、太陽と惑星たちが回っていることは、安堵することになろう。太陽は中心ではない。しかし太陽王は中心近くにいる。そしてすべての中心は厳然として存在する。
だが、そんなものは偽りの幻想の中心にすぎないと、脱中心好きのポストモダニズム派はいうだろう。太陽系の中心は、太陽ではなく、太陽と惑星との関係性の力学によって措定される目に見えない共通重心だとしても、その共通重心そのものは太陽系のなかからみると不動の中心だが、外からみれば決してひとつところにとどまらない動く中心であり、さらにいえばこの共通重心=太陽系は銀河系のなかでも移動しているのであり、そして銀河系そのものが、この膨張する宇宙のなかで移動している。中心など無数に存在する。それゆえに中心はどこにもないともいえる。あるのは無数に存在する中心のまぼろしにすぎない。
正月早々、自分の無知を恥じることになったが、同時に、さまざま洞察を生み出してくれる鉱脈にゆきついたという感慨を禁じ得ない。
posted by ohashi at 21:19| コメント
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2026年01月04日
遺作とは何か
英国の劇作家トム・ストッパードが亡くなり、小田島恒志氏の追悼記事が朝日新聞に掲載された。その記事そのものは優れたもので称賛に値するのだが、そのなかで小田島氏は、ストッパードの最後の作品を「遺作」と呼んでいた。
私が考えているというか知っている「遺作」とは、最後の作品ではない。しかし、新聞に掲載された記事であり、新聞社によるチェックが入っているのだろうから、問題はないのだろう。とはいえ、なにか解せないものがある。
そこで調べてみた。読売テレビの報道局専門部長、「現代用語の基礎知識」執筆委員、日本新聞協会用語懇談会委員である道浦俊彦(みちうら としひこ)氏のブログ「道浦俊彦Time」のなかに「遺作」についての意味をめぐる記事があった。
さすがにことば事情の専門家。これ以上、辞書的意味をリサーチしたものはないと思われる。「遺作」の意味についてのこれをしのぐ調査・考察はないだろう。
私が「遺作」の意味として理解していたのは、上記の引用のなかの(1)つまり「死後に残された「未発表」の作品」である。実際、国語辞書類には、この(1)の意味を掲載しているものが圧倒的に多い。だが、私が多数派だと満足している場合ではない。
たとえば柳原孝敦先生は、バルガス・リョサの最後の作品Le dedico mi silencio(2023)の翻訳『沈黙をあなたに』(集英社 2025)を「遺作」と呼んでいる。
柴田元幸氏によるポール・オースターの最後の作品『バウムガートナー』(Baumgartner 2023)の翻訳(新潮社 2025)は、いま現物がないのだが、出版社の広告で「遺作」として宣伝されている。
小田島恒志氏、柳原孝敦氏、柴田元幸氏、そして道浦俊彦氏、どなたも「最後の作品」を「遺作」と呼んでいる。どうもこうなると、私のほうが分が悪い。「死後に残された「未発表」の作品」を遺作と考えている私のほうが、時代に取り残された「遺物」となってしまったのか。
シェイクスピアの最後の作品『テンペスト』はシェイクスピアの遺作なのか? 実際のところシェイクスピアの最後の作品は、どれだか実はわかっていない。ジョン・フレッチャーと共作した『ヘンリー八世』が最後の作品らしいのだが、これを遺作と呼ぶのは、たとえ私だけかもしれないが違和感がある。ひょっとしたらシェイクスピの未発表あるいは未発見の作品がこれから現れるかもしれないが、「遺作」というのは、そうした作品のために用意されているように思う。
これは〈遺作=死後に残された「未発表」の作品〉と考えている、いまや少数派のたわごとかもしれない。しかし、同時に、これだけは言える。「遺作」には、道浦氏の記事にあるように、三つないし二つの意味が共存していて、まだ完全にひとつに絞られていない。だから私は「遺物」のような〈遺作=死後に残された「未発表」の作品〉という意味にしがみついていようと思う。
【なおこの件を、2025年年末に、ある人に話をしたら、その人は、すぐにChatGPTに相談した。その結果、ChatGPTは(1)と(2)の二つの意味を示してきた。AIが調べても、「遺作」の意味は一本化されていないようだ。】
私が考えているというか知っている「遺作」とは、最後の作品ではない。しかし、新聞に掲載された記事であり、新聞社によるチェックが入っているのだろうから、問題はないのだろう。とはいえ、なにか解せないものがある。
そこで調べてみた。読売テレビの報道局専門部長、「現代用語の基礎知識」執筆委員、日本新聞協会用語懇談会委員である道浦俊彦(みちうら としひこ)氏のブログ「道浦俊彦Time」のなかに「遺作」についての意味をめぐる記事があった。
新・ことば事情 7257「遺作」
(https://www.ytv.co.jp/michiura/time/2019/11/post-4931.html)
「ミヤネ屋」のADのO君から質問を受けました。
「『遺作』というのは、どの作品を指すのでしょうか?」
「そりゃあ、『死ぬ前の最後の作品』なんじゃないの?その意味では最新作でしょ。」
と答えて、辞書を引きました。まずは『広辞苑』。
「死後に残された作品。かたみの作品」
そうか、「最後の作品」に限らず、残された作品は「遺作」になるのか。そう言われたら、そんな気も。『明鏡国語辞典』は、
「死後に残された未発表の作品。また、生前の最後の作品。」
え?「未発表の作品」なの?もう一つの意味では「生前最後の作品」とあり、私が思っていた「遺作」ですね。『新明解国語辞典』は、
「故人の、未発表作品及び著作物(で、死後に公表された物)」
あら、これも「未発表の作品」ですね。『精選版日本国語大辞典』は、
「死後に残された作品」
そして『デジタル大辞泉』は、
「死後に残された未発表の作品」
以下、列挙します。
『大辞林』=死んだ人が残した未発表の作品。
『新選国語辞典』=死後にのこった未発表の作品。
『岩波国語辞典』=未発表のまま死後に残された作品。
『現代国語例解辞典』=死後に残された未発表の作品。
『三省堂現代新国語辞典』=死んだ人が残した、未発表の作品。
ここまでが「死後に残された『未発表』の作品」ですね。以下、
『新潮現代国語辞典』=死後に残された作品。
『三省堂国語辞典』=(1)死後に残された未発表の作品。(2)生前最後の作品。
どうやら、「遺作」には「3つ」意味があるようです。整理してみましょう。
(1)死後に残された「未発表」の作品
(2)生前「最後」の作品
(3)死後に残された作品
これに従って辞書を分類すると、
『大辞林』=(1)
『デジタル大辞泉』(1)
『新選国語辞典』=(1)
『岩波国語辞典』=(1)
『新明解国語辞典』=(1)
『現代国語例解辞典』=(1)
『三省堂現代新国語辞典』=(1)
『明鏡国語辞典』=(1)(2)
『三省堂国語辞典』=(1)(2)
『広辞苑』=(3)
『新潮現代国語辞典』=(3)
『精選版日本国語大辞典』=(3)
ということで、(1)の、「死後に残された未発表の作品」が一番多い。次に
「(3)死後に残された作品」と広義で捉えたもの。そして、私が考えていた、
「(2)生前最後の作品」という意味は、比較的新しいのではないか?と思われます。
さすがにことば事情の専門家。これ以上、辞書的意味をリサーチしたものはないと思われる。「遺作」の意味についてのこれをしのぐ調査・考察はないだろう。
私が「遺作」の意味として理解していたのは、上記の引用のなかの(1)つまり「死後に残された「未発表」の作品」である。実際、国語辞書類には、この(1)の意味を掲載しているものが圧倒的に多い。だが、私が多数派だと満足している場合ではない。
たとえば柳原孝敦先生は、バルガス・リョサの最後の作品Le dedico mi silencio(2023)の翻訳『沈黙をあなたに』(集英社 2025)を「遺作」と呼んでいる。
柴田元幸氏によるポール・オースターの最後の作品『バウムガートナー』(Baumgartner 2023)の翻訳(新潮社 2025)は、いま現物がないのだが、出版社の広告で「遺作」として宣伝されている。
小田島恒志氏、柳原孝敦氏、柴田元幸氏、そして道浦俊彦氏、どなたも「最後の作品」を「遺作」と呼んでいる。どうもこうなると、私のほうが分が悪い。「死後に残された「未発表」の作品」を遺作と考えている私のほうが、時代に取り残された「遺物」となってしまったのか。
シェイクスピアの最後の作品『テンペスト』はシェイクスピアの遺作なのか? 実際のところシェイクスピアの最後の作品は、どれだか実はわかっていない。ジョン・フレッチャーと共作した『ヘンリー八世』が最後の作品らしいのだが、これを遺作と呼ぶのは、たとえ私だけかもしれないが違和感がある。ひょっとしたらシェイクスピの未発表あるいは未発見の作品がこれから現れるかもしれないが、「遺作」というのは、そうした作品のために用意されているように思う。
これは〈遺作=死後に残された「未発表」の作品〉と考えている、いまや少数派のたわごとかもしれない。しかし、同時に、これだけは言える。「遺作」には、道浦氏の記事にあるように、三つないし二つの意味が共存していて、まだ完全にひとつに絞られていない。だから私は「遺物」のような〈遺作=死後に残された「未発表」の作品〉という意味にしがみついていようと思う。
【なおこの件を、2025年年末に、ある人に話をしたら、その人は、すぐにChatGPTに相談した。その結果、ChatGPTは(1)と(2)の二つの意味を示してきた。AIが調べても、「遺作」の意味は一本化されていないようだ。】
posted by ohashi at 17:30| コメント
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2026年01月03日
愚かさに国境はない ‘26 迷惑行為
ネットに、迷惑行為によってひどいめにあった、あるいは迷惑行為を機転をきかせたり、勇気をもって止めたという記事を最近よくみかけるようになった。もう一ジャンルとして確立されているといってよい。ただし真実かどうかは疑わしいし、そのほとんどが作り話だと私は思っているが、それはともかく、こんな記事(正確には25年にアップされた記事を採録するもの)があった。
この記事が真実かどうかは疑問。筆者が目撃したのならそう書けばいいのだが、仮名の人物を登場させ、小説仕立てにする(内面の語りや同僚との会話―直接話法―まである)のは、どうみても嘘くさい。ただ、それは今回問わないことにして、ここで語られているような迷惑行為は、なにも外国人観光客(中国人観光客)に限ったことではない。日本人での、こうした事態になったときに、駅員をはじめとして、交通機関の関係者にくってかかる人間がいるものだ。愚かさに国境はない。
実際のところ、この記事の最後にあるように「天候による遅延や運休は誰のせいでもない。駅員を責めるのはお門違い、たんなる迷惑行為である」というのは、まったくそのとおりである。よしんば、その運航会社のミスによる遅延や運休だとしても、原因をつくったわけではない駅員を責めるのは間違っている。まさに迷惑行為そのものである。
とはいえ、この記事は嘘としか思えないのだが、同じようなことは常に起こっているということはたしかであって、虚構だが、アリストテレスのいうような蓋然性はまちがいなくある。また外国人観光客による迷惑行為は確かに多いのだが、日本人だって同じことをしているので、外国人差別の意図があったら、この記事は許されないことである。
というのも、そうした迷惑行為をする人を私は個人的にでも知っているからである。
私が、名古屋の高校生だったときのこと。私の通う高校は私の父が務めている会社と方向が同じだったので、朝は、父と同じバスと地下鉄に乗った。ある時、地下鉄がなにか事故で止まって動かなくなった。ホームに停車したままの満員の地下鉄車両のなかで私と父は待つことになったが、数両先の車両の出入り口付近のホームで、駅員を囲んで待ちくたびれた乗客が説明を求めているのを、父はめざとくみつけ、おもむろに、今いる車両から降りて、その駅員のいるところまで歩いて行った。何をするのか、詳しい説明を聞きに行ったのかと思っていたら、やがて父が駅員を一喝した。大声で怒鳴って、叱っているのである。そうしたら、気が済んだのか父は意気揚々と引き上げて私のいる車両にもどってきた。
私は父に、「あの駅員が地下鉄を止めたわけではないので、あんなふうに怒鳴るのは、駅員がかわいそすぎる」と言おうと思ったが、もしこのことを私がほんとうに口に出して言ったら、父は周囲に乗客がいてもかまうことなく私を罵倒して、私は、その駅員以上に気の毒な、かわいそすぎる高校生になっていたにちがいなかった。私にできることといったら、いま気の毒な駅員を一喝してきたこの人(父)と私は何の関係もありませんという顔をして、ただ下を向くか、そっぽを向くことのどちらかであった。
それ以後、私はなんだかんだと理由をつけて、父と同じ時間帯に通学するのをやめた。クズは日本人のなかにもいる。私としては、この場を借りて、父に怒鳴られた交通関係者の方々に、お詫びするしかない。
新幹線で「動画を大音量で再生する」外国人観光客に、年配の男性が放った迫力のある一言――年末年始ベスト 日刊SPA! の意見 •1月3日
大事件ばかりがニュースではない、身近な小さな事件の方が人生を左右することも。注目のテーマを取り上げ大反響を呼んだ2025年の仰天ニュースを特別セレクション!(初公開2025年8月22日 記事は取材時の状況)【なお記事で触れられている迷惑行為は2件。タイトルになっている「「動画を大音量で再生する」外国人観光客に、年配の男性が放った迫力のある一言」というのは後半の内容で、方言でやめろとどなったら、その迫力に外国人観光客が気圧されて迷惑行為をやめたということ。ここでは前半の迷惑行為をとりあげる。】
* * *
ここ数年、外国人観光客が非常に増えた。その影響は電車やバスなどの公共交通機関にも及んでいる。利用に関するマナーや常識は日本と海外で異なる場合が多く、その行動が目に余ることも……。
◆大雨で混乱する駅に響いた異様な声「もうただの悪口ですよ」
前日からの大雨で熊本市内の交通網は混乱していた。豊肥本線や鹿児島本線は運休。駅の案内表示は赤や黄色の文字で埋まり、改札口前は人であふれていた。
バス乗り場にも長蛇の列ができ、待ち時間は2時間以上というアナウンスが流れた。
山田智之(仮名)さんと同僚は「新幹線も今日は動かないかもしれない」と半ば諦め、構内のベンチで状況が落ち着くのを待つことにした。そんな中、改札前で異様な声が響いた。
「ガーッ!ガーッ!」
振り返ると、40代くらいの外国人男性が両手を腰に当て、顔を真っ赤にして怒鳴る姿が目に入った。
駅員に向かってまくし立てているようだ。
対応していたのは20代半ばくらいの若い男性駅員。姿勢を崩さず、繰り返し「申し訳ございません」と頭を下げている。山田さんには何を言っているのか分からなかったが、同僚が小声で解説してくれた。
「あれ、中国語でめちゃくちゃ文句言ってますね。迂回ルートとか聞いてるんじゃなくて、もうただの悪口ですよ」
◆ひたすら耐える駅員、警察官の登場で収束
怒鳴る男性の身振り手振りからは、状況の説明を聞く姿勢など全くなく、「自分が困っているのはお前のせいだ」と責めているようにしか見えなかった。駅員も反論はせず、ただ耐えるばかり。
このやりとりは10分、20分と続き、周囲の人も遠巻きに眺め、ため息をつく人やスマホで撮影する人も現れ始めた。山田さんも「さすがにそろそろ限界じゃないか」と思った矢先、男性はさらに声を張り上げた。周囲の空気が一瞬ぴんと張り詰めた。
しばらく時間が経った頃、駅の奥から制服姿の警察官が2人、小走りで現れた。事情を確認した警察官が、男性の肩に軽く手を置き、静かに話しかける。最初は抵抗していた男性も、周りの視線を意識したのか、急に声を落とし、渋々とそこから離れていった。
駅員は深く頭を下げたまま、その背中を見送っていた。雨で濡れた床に反射する駅員の姿が、妙に物悲しく見えたという。
山田さんは同僚と顔を見合わせ、「あれじゃ駅員さんが気の毒すぎる」と呟いた。
天候による遅延や運休は誰のせいでもない。駅員を責めるのはお門違い、たんなる迷惑行為である。
◆「まるで自宅」車内で自由すぎる外国人観光客【以下略】<文/藤山ムツキ>
この記事が真実かどうかは疑問。筆者が目撃したのならそう書けばいいのだが、仮名の人物を登場させ、小説仕立てにする(内面の語りや同僚との会話―直接話法―まである)のは、どうみても嘘くさい。ただ、それは今回問わないことにして、ここで語られているような迷惑行為は、なにも外国人観光客(中国人観光客)に限ったことではない。日本人での、こうした事態になったときに、駅員をはじめとして、交通機関の関係者にくってかかる人間がいるものだ。愚かさに国境はない。
実際のところ、この記事の最後にあるように「天候による遅延や運休は誰のせいでもない。駅員を責めるのはお門違い、たんなる迷惑行為である」というのは、まったくそのとおりである。よしんば、その運航会社のミスによる遅延や運休だとしても、原因をつくったわけではない駅員を責めるのは間違っている。まさに迷惑行為そのものである。
とはいえ、この記事は嘘としか思えないのだが、同じようなことは常に起こっているということはたしかであって、虚構だが、アリストテレスのいうような蓋然性はまちがいなくある。また外国人観光客による迷惑行為は確かに多いのだが、日本人だって同じことをしているので、外国人差別の意図があったら、この記事は許されないことである。
というのも、そうした迷惑行為をする人を私は個人的にでも知っているからである。
私が、名古屋の高校生だったときのこと。私の通う高校は私の父が務めている会社と方向が同じだったので、朝は、父と同じバスと地下鉄に乗った。ある時、地下鉄がなにか事故で止まって動かなくなった。ホームに停車したままの満員の地下鉄車両のなかで私と父は待つことになったが、数両先の車両の出入り口付近のホームで、駅員を囲んで待ちくたびれた乗客が説明を求めているのを、父はめざとくみつけ、おもむろに、今いる車両から降りて、その駅員のいるところまで歩いて行った。何をするのか、詳しい説明を聞きに行ったのかと思っていたら、やがて父が駅員を一喝した。大声で怒鳴って、叱っているのである。そうしたら、気が済んだのか父は意気揚々と引き上げて私のいる車両にもどってきた。
私は父に、「あの駅員が地下鉄を止めたわけではないので、あんなふうに怒鳴るのは、駅員がかわいそすぎる」と言おうと思ったが、もしこのことを私がほんとうに口に出して言ったら、父は周囲に乗客がいてもかまうことなく私を罵倒して、私は、その駅員以上に気の毒な、かわいそすぎる高校生になっていたにちがいなかった。私にできることといったら、いま気の毒な駅員を一喝してきたこの人(父)と私は何の関係もありませんという顔をして、ただ下を向くか、そっぽを向くことのどちらかであった。
それ以後、私はなんだかんだと理由をつけて、父と同じ時間帯に通学するのをやめた。クズは日本人のなかにもいる。私としては、この場を借りて、父に怒鳴られた交通関係者の方々に、お詫びするしかない。
posted by ohashi at 17:14| コメント
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2026年01月02日
愚かさに国境はない '26
とはいえこのタイトルの項目ではl今年も、日本の些細な愚かさしか扱わないだろうが。
以下の記事があった。内容に問題はないのだが、問題は「正しい」「間違っている」という勝手な判定が愚劣すぎることである。
要は、いまでは「ぞくがら」と読む「続柄」は、もともとは「つづきがら」と読んでいて、それは「続き柄」が「続柄」と表記されるようになったため「ぞくがら」と読まれるようになった――ということである。
それはそれでわかる(ただし言語学者あるいは語源の専門家としてではなく、あくまでも素人の感想なのだが)。
しかし、この記事を書いたAIもしくはAI以下の愚かな執筆者は、これを正しい読み方、まちがった読み方というパラダイムでくくってしまい、「続柄」のもともとの読み方は「つづきがら」でしたという情報提供ですむものを、「正しい日本語を覚えておきたいものですね」という鼻持ちならない上から目線の偉そうな忠告をあたえている。
そもそも言葉は生き物であって、日々変化する(進化・進歩とばかりはいえないので変化とするしかないが)。言葉の意味は、ヴィトゲンシュタイン風にいえば、用法なのだとすれば、言葉の発音も用法に左右される。最初は誤用であったものも、持続的に誤用されれば正用となる。また変化の過程で複数の正用法が生まれ、それらが併存することもある。だから「正しい日本語」という時には慎重の上にも慎重であらねばならない。
今回のように過去の読み方を「正しい日本語」とするならば、おそらく語彙だけでなく発音も違っている平安時代の日本語とか江戸時代の日本語が「正しい日本語」であり、それらを覚えておかないと「正しい日本人」ではないといういうことになり、これは、民族主義者のファシストでも驚く真正の愚劣さの発露であろう。
腹が立つのは正月早々、こんなネットの些細な、低次元のコメントで怒らされていることである。今年も私には、ろくなことがないだろう。
以下の記事があった。内容に問題はないのだが、問題は「正しい」「間違っている」という勝手な判定が愚劣すぎることである。
【続柄】は「ぞくがら」ではありません。正しい読み方知ってる?【読めないと恥ずかしい漢字クイズ】暮らしニスタ によるストーリー 1月2日
役所や公的な書類で目にする「続柄」。「ぞくがら」だと思っていませんか?今回の漢字クイズは、実は間違って覚えているかもしれない?!身近な漢字の読み方をご紹介します。
【続柄】は「ぞくがら」と読まない!?
「続柄」とは、『家族・親族との関係を指す呼び方のこと』で、しばしば戸籍簿や住民票などの書類で目にしたり、社会保険関係の書類に記載することもあります。
「ぞくがら」だと、「音読み+訓読み」の特殊な読み方となるため、本来の読み方ではありません。ところが、多くの人が「ぞくがら」と読むようになってしまったため、「慣用読み」としてこちらが定着してしまいました。
では、本来の読み方を知っていますか?
【続柄】の読み方の正解は…?
=「つづきがら」でした!
辞書で「ぞくがら」を調べると、『続柄(つづきがら)の俗な言い方』と表記されています。逆に「つづきがら」の項目には、『続(き)柄』との表記が。
本来は「続き柄」だったのを、送り仮名の「き」を省いて表記することが多くなったため、間違った「ぞくがら」の読み方が広まったと考えられています。
現在では慣用読みとして間違っているとは言えない「ぞくがら」ですが、正しい日本語を覚えておきたいものですね。
((なお注記として、「まとめ/meiko 参考/デジタル大辞泉(小学館)、実用日本語表現辞典 ※記事を再編集して配信しています。」とある。))
要は、いまでは「ぞくがら」と読む「続柄」は、もともとは「つづきがら」と読んでいて、それは「続き柄」が「続柄」と表記されるようになったため「ぞくがら」と読まれるようになった――ということである。
それはそれでわかる(ただし言語学者あるいは語源の専門家としてではなく、あくまでも素人の感想なのだが)。
しかし、この記事を書いたAIもしくはAI以下の愚かな執筆者は、これを正しい読み方、まちがった読み方というパラダイムでくくってしまい、「続柄」のもともとの読み方は「つづきがら」でしたという情報提供ですむものを、「正しい日本語を覚えておきたいものですね」という鼻持ちならない上から目線の偉そうな忠告をあたえている。
そもそも言葉は生き物であって、日々変化する(進化・進歩とばかりはいえないので変化とするしかないが)。言葉の意味は、ヴィトゲンシュタイン風にいえば、用法なのだとすれば、言葉の発音も用法に左右される。最初は誤用であったものも、持続的に誤用されれば正用となる。また変化の過程で複数の正用法が生まれ、それらが併存することもある。だから「正しい日本語」という時には慎重の上にも慎重であらねばならない。
今回のように過去の読み方を「正しい日本語」とするならば、おそらく語彙だけでなく発音も違っている平安時代の日本語とか江戸時代の日本語が「正しい日本語」であり、それらを覚えておかないと「正しい日本人」ではないといういうことになり、これは、民族主義者のファシストでも驚く真正の愚劣さの発露であろう。
腹が立つのは正月早々、こんなネットの些細な、低次元のコメントで怒らされていることである。今年も私には、ろくなことがないだろう。
posted by ohashi at 23:01| コメント
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2026年01月01日
New Year’s Resolutions for 2026
私の使っている手帳(大型なので日記帳にもなるのだが)は、在職中から、4月はじまりのもので、自分のなかでも4月を年度初めと位置付けているので、1月1日に新年の決意とか目標というもの考えたことがない。私にとって2025年はまだ終わっていない。
とはいえ、1月1日は、今年の目標を考えたり表明したりするのはよい機会なので、2026年中にしてみたいことを2点だけ記しておきたい。
1
ひとつはエドワード・W・サイードの『晩年のスタイル』の翻訳を新訳・改訳をこのブログで発表することである。
『晩年のスタイル』は、私の翻訳で、岩波書店から刊行されたのだが、それを文庫化しなかという話が何年も前からもちあがった。そのため実際に自分の翻訳を見直してみると、誤訳をはじめとして不適切な訳文やニュアンスの取違いなど多々あることに気づき、改訳・修正作業に入り、時間はかかったが、まだまだ修正する余地はあるのだが、一応改訳を終えている。それをこのブログで公表しようというのである。
改訳作業に時間がかかりすぎたせいもあって、いまや出版社からも督促のメールなどもこなくなった。諦められたのだと思う。私自身、べつに出版されなくてもかまわないのだが、改訳版だけはネットで公表して、すでに購入され読まれた読者、あるいはこれから読もうという読者に少しでも読みやすくまた正確な訳文が提供できればと思っている。そのためなるべく早い段階で、このブログに連続して掲載する予定。
もちろん版権とか翻訳権の問題で、出版社からクレームがついたら、この企画はすぐにとりさげる。クレームがつかなければ、どこかの出版社が新訳・改訳版を出してくれれば、それはそれでありがたいことだと思っている。その際、私の改訳原稿を使っていただけれ、もっとありがたい。
文庫化の作業についての報告としては、編集者から厳しく訳文をチェックしてもらったので、それはありがたかったのだが、ダメ出しが多すぎる。もちろんそれは私の側に誤訳が多いからだろうと思われればそれまでなのだが、文体にまでケチをつけられる。要は、その編集者の理想とする訳文があって、それに合致しない私の訳文には永遠にダメ出しがなされるのであり、実際、これまでもなんども改訳原稿を提出しているのだが、毎回差し戻されて、終わりがみえない。それで嫌になったというのも私の正直な感想である。もちろんチェックしていただいたことに対しては心から感謝しつつ、自分の文体で好きなように翻訳して、ネットに残しておきたいと、今は思っている。
2
無限ループ物語論をネットに公表すること。
無限ループ物語が、流行っているというよりも、定着していて、毎年、映画とか小説などが作られている。それについて論文を書いて欲しいと依頼されたのだが、私にとって、これまで考えたことのない初めての分野なので、原稿が難航した。調べれば調べるほと、あるいは考えれば考えるほど、新たな作品を見出し、新たな着想が生まれ、終わりがなくなった。原稿も書いたのだが、すでに100枚を超えている。これを完成させたとしても、論集に、この100枚超えの原稿を載せるわけにはいかないので、30枚くらいに縮める作業がある。それはできないこともないなのだが、時間が欲しい。と、そうこうしているうちに、約束の締切を何度も守れず、編者には多大の迷惑をおかけしたので、編者から昨年暮れに見捨てられた。
ここまで待ってもらったのだから、今年の1月初旬か中旬まで待ってもかまわないのではないかと勝手に考えたが、何度も裏切られて神経をすり減らした編者としては、私にもう関わりたくないということで縁を切られた。私としてはお詫びするしかないまま、新年を迎えた。
ただ、遅々として進まぬ私の考察だが、ようやくここにきて、まとまりをみせはじめた。そそのため100枚超えの原稿をさらに広げてゆく作業と、100枚超えの原稿を30枚くらいに縮めて序論とする作業のふたつをすすめたいと思うようになった。
すでに改訳原稿があるサイードの『晩年のスタイル』とちがって、未完の原稿しかないために、一挙にあるいは定期的に掲載することはむつかしいのだが、可能な限りアップして、批判など乞いたいと願っている。
もちろん、この2点以外にも、2026年にしてみたいこと、予定として入っていることはあるのだが、それは個人的なことであったり、公にできないことだあったりするので、ここに書くのは差し控えたい。
正月早々、私自身の恥をさらすようなことになったのだが、恥をさらしているがゆえに、決意は固いと思っていただきたい。
とはいえ、1月1日は、今年の目標を考えたり表明したりするのはよい機会なので、2026年中にしてみたいことを2点だけ記しておきたい。
1
ひとつはエドワード・W・サイードの『晩年のスタイル』の翻訳を新訳・改訳をこのブログで発表することである。
『晩年のスタイル』は、私の翻訳で、岩波書店から刊行されたのだが、それを文庫化しなかという話が何年も前からもちあがった。そのため実際に自分の翻訳を見直してみると、誤訳をはじめとして不適切な訳文やニュアンスの取違いなど多々あることに気づき、改訳・修正作業に入り、時間はかかったが、まだまだ修正する余地はあるのだが、一応改訳を終えている。それをこのブログで公表しようというのである。
改訳作業に時間がかかりすぎたせいもあって、いまや出版社からも督促のメールなどもこなくなった。諦められたのだと思う。私自身、べつに出版されなくてもかまわないのだが、改訳版だけはネットで公表して、すでに購入され読まれた読者、あるいはこれから読もうという読者に少しでも読みやすくまた正確な訳文が提供できればと思っている。そのためなるべく早い段階で、このブログに連続して掲載する予定。
もちろん版権とか翻訳権の問題で、出版社からクレームがついたら、この企画はすぐにとりさげる。クレームがつかなければ、どこかの出版社が新訳・改訳版を出してくれれば、それはそれでありがたいことだと思っている。その際、私の改訳原稿を使っていただけれ、もっとありがたい。
文庫化の作業についての報告としては、編集者から厳しく訳文をチェックしてもらったので、それはありがたかったのだが、ダメ出しが多すぎる。もちろんそれは私の側に誤訳が多いからだろうと思われればそれまでなのだが、文体にまでケチをつけられる。要は、その編集者の理想とする訳文があって、それに合致しない私の訳文には永遠にダメ出しがなされるのであり、実際、これまでもなんども改訳原稿を提出しているのだが、毎回差し戻されて、終わりがみえない。それで嫌になったというのも私の正直な感想である。もちろんチェックしていただいたことに対しては心から感謝しつつ、自分の文体で好きなように翻訳して、ネットに残しておきたいと、今は思っている。
2
無限ループ物語論をネットに公表すること。
無限ループ物語が、流行っているというよりも、定着していて、毎年、映画とか小説などが作られている。それについて論文を書いて欲しいと依頼されたのだが、私にとって、これまで考えたことのない初めての分野なので、原稿が難航した。調べれば調べるほと、あるいは考えれば考えるほど、新たな作品を見出し、新たな着想が生まれ、終わりがなくなった。原稿も書いたのだが、すでに100枚を超えている。これを完成させたとしても、論集に、この100枚超えの原稿を載せるわけにはいかないので、30枚くらいに縮める作業がある。それはできないこともないなのだが、時間が欲しい。と、そうこうしているうちに、約束の締切を何度も守れず、編者には多大の迷惑をおかけしたので、編者から昨年暮れに見捨てられた。
ここまで待ってもらったのだから、今年の1月初旬か中旬まで待ってもかまわないのではないかと勝手に考えたが、何度も裏切られて神経をすり減らした編者としては、私にもう関わりたくないということで縁を切られた。私としてはお詫びするしかないまま、新年を迎えた。
ただ、遅々として進まぬ私の考察だが、ようやくここにきて、まとまりをみせはじめた。そそのため100枚超えの原稿をさらに広げてゆく作業と、100枚超えの原稿を30枚くらいに縮めて序論とする作業のふたつをすすめたいと思うようになった。
すでに改訳原稿があるサイードの『晩年のスタイル』とちがって、未完の原稿しかないために、一挙にあるいは定期的に掲載することはむつかしいのだが、可能な限りアップして、批判など乞いたいと願っている。
もちろん、この2点以外にも、2026年にしてみたいこと、予定として入っていることはあるのだが、それは個人的なことであったり、公にできないことだあったりするので、ここに書くのは差し控えたい。
正月早々、私自身の恥をさらすようなことになったのだが、恥をさらしているがゆえに、決意は固いと思っていただきたい。
posted by ohashi at 23:07| コメント
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2025年12月16日
愚かさに国境はない:異様なタイトル
ネット上に変な見出しの記事があらわれた。
ロブ・ライナー監督夫妻の殺害には驚いたが、それの関連のニュースだと思うのだが、「『スタンド・バイ・ミー』元子役が死亡したロブ・ライナー監督を追悼」というのならわかるが、「ロブ・ライナー監督が、『スタンド・バイ・ミー』に子役として出演していた俳優が亡くなったことを追悼したことがある」という意味の見出しは、いまそれをわざわざニュースとして伝える必要があるのかと疑問に思いつつ、どんなことかとつい記事を全部読んでしまった。
以下、この見出しがいかにとんちんかんなのかを確認していただきたく、全文を引用する:
ということで、この記事そのものに問題はない。となると、あの見出し「『スタンド・バイ・ミー』元子役の死を受け、ロブ・ライナー監督が追悼」はいったい何だったのだろう。
もしAIがこの見出しを作ったのだったら、記事内容と異なるので訂正しないといけない。もし、意図的に変なタイトルをつけて、私のような読者を騙そうとしたらなら――たとえ、思わせぶりなタイトルで読者の注目を浴びようとすることはよくあるとはいえ――、内容と反するタイトルなので絶対にしてはいけないことである。
ちなみに記事の表記にも問題がある。「ロブ・ライナーさん」と「妻ミシェル・シンガーさん」にみられる「さん」付け。有名人には「さん」をつけない。もし執筆者が、その有名人と知り合いで「さん」付けで呼びたくなったとしても、その場合も「さん」は付けない。
実際、この記事では、追悼している元子役たちに対しては、すべて呼び捨てである。この記事の様式/文体で考えれば、なぜ元子役たちを「さん」付けしないのかわからない。
「ロサンゼルス市警は二人を殺害した疑いで、息子のニック・ライナー(32)を逮捕したと発表した」とあるが、息子は「さん」付けしないのか。有罪が確定していない容疑者であり推定無罪の人物を、罪人扱いで呼び捨てですか。結局、ルールも統一性になにもない書式で書いているから、こんなわけのわからない見出しも気づかずにすませてしまうのだろう。
シネマトゥデイ154.5K フォロワー
『スタンド・バイ・ミー』元子役の死を受け、ロブ・ライナー監督が追悼
シネマトゥデイ によるストーリー 2025年12月16日
ロブ・ライナー監督夫妻の殺害には驚いたが、それの関連のニュースだと思うのだが、「『スタンド・バイ・ミー』元子役が死亡したロブ・ライナー監督を追悼」というのならわかるが、「ロブ・ライナー監督が、『スタンド・バイ・ミー』に子役として出演していた俳優が亡くなったことを追悼したことがある」という意味の見出しは、いまそれをわざわざニュースとして伝える必要があるのかと疑問に思いつつ、どんなことかとつい記事を全部読んでしまった。
以下、この見出しがいかにとんちんかんなのかを確認していただきたく、全文を引用する:
映画監督のロブ・ライナーさん(78)と妻ミシェル・シンガーさん(68)が現地時間14日に米カリフォルニア州・ロサンゼルスの自宅で遺体で発見されたことを受け、ライナー監督が手掛けた映画『スタンド・バイ・ミー』に出演したキャストが、追悼のメッセージを発表した。
『スタンド・バイ・ミー』で冒険に出る4人の少年のうち、ぽっちゃり気味の少年バーンを演じた俳優のジェリー・オコンネルは、People.comに「私たちみんながショックを受けています。彼ら(ウィル・ウィートン、コリー・フェルドマン)の代わりに話すことはできませんが、私にとっては両親を亡くしたような気持ちです」とコメント。
「私の人生の全ては、ロブ・ライナーのおかげで得たものなんです。子供たちも、妻も、全てです」というジェリーは、『スタンド・バイ・ミー』の撮影当時、ライナー監督が子役だった彼らを守ってくれたとも語り「彼は私たちをまとめ、しかもそのやり方は、教師や権威を持った人々のものとは違った。彼はただ特別だった。本当に優しい魂を持った特別な人だったんです」と言葉を寄せている。
また、メガネ姿で皮肉屋のテディを演じたコリー・フェルドマンは、X(旧Twitter)で、今回の件について「ひどいニュースだ」と投稿し「ショックと悲しみに包まれています。ロブ、あなたを愛しています。本当に寂しい」と追悼。ライナー監督について「彼は私たち全員に愛と慈悲を意味のある形で示してくれた、素晴らしい方でした。彼はそうして私たち4人の子役との間に絆と信頼を築き、人間的でエモーショナルな演技を引き出してくれたのです。ポジティブな役割/父親像を必要としていた私たちにそれを示すことのできる数少ない監督でした。このように恐ろしい形であなたの命が奪われたことに、心からお悔やみを申し上げます」とつづっている。
さらに、不良グループのリーダー、エースを演じたキーファー・サザーランドは、訃報を受けて「心が打ち砕かれている」とInstagramに投稿。「ロブは一緒に仕事をする喜びを得たなかでも、最も親切で紳士的な方の一人でした。ほんの若造だったころに、人生を変える機会を与えてくれたこと。永遠に感謝します」と追悼している。
Los Angeles Timesなどによると、ライナー監督とミシェルさんの遺体は、現地時間14日に娘のロミーさん(20)によって発見された。二人には刺されたとみられる傷があり、ロサンゼルス市警は二人を殺害した疑いで、息子のニック・ライナー(32)を逮捕したと発表した。(編集部・入倉功一)
ということで、この記事そのものに問題はない。となると、あの見出し「『スタンド・バイ・ミー』元子役の死を受け、ロブ・ライナー監督が追悼」はいったい何だったのだろう。
もしAIがこの見出しを作ったのだったら、記事内容と異なるので訂正しないといけない。もし、意図的に変なタイトルをつけて、私のような読者を騙そうとしたらなら――たとえ、思わせぶりなタイトルで読者の注目を浴びようとすることはよくあるとはいえ――、内容と反するタイトルなので絶対にしてはいけないことである。
ちなみに記事の表記にも問題がある。「ロブ・ライナーさん」と「妻ミシェル・シンガーさん」にみられる「さん」付け。有名人には「さん」をつけない。もし執筆者が、その有名人と知り合いで「さん」付けで呼びたくなったとしても、その場合も「さん」は付けない。
実際、この記事では、追悼している元子役たちに対しては、すべて呼び捨てである。この記事の様式/文体で考えれば、なぜ元子役たちを「さん」付けしないのかわからない。
「ロサンゼルス市警は二人を殺害した疑いで、息子のニック・ライナー(32)を逮捕したと発表した」とあるが、息子は「さん」付けしないのか。有罪が確定していない容疑者であり推定無罪の人物を、罪人扱いで呼び捨てですか。結局、ルールも統一性になにもない書式で書いているから、こんなわけのわからない見出しも気づかずにすませてしまうのだろう。
posted by ohashi at 21:28| コメント
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2025年11月14日
じゃじゃ馬とトガリネズミ
どちらも英語でいうとshrew。
シェイクスピアの喜劇The Taming of the Shrewを、坪内逍遥あたりが「じゃじゃ馬ならし」と訳して以来、shrewは馬のことと思っている日本人は多いのだが、shrewは馬でなく、ネズミ、モグラのことである。
shrewの意味を英和辞典(Weblio)で調べると
とある。一つの単語のなかに異なる二つの語が同居している。「口やかましい女」と「ネズミ」はどうむすびつくのか(むすびつきそうもないものが語義のなかに共存しているので)。
ネットで語源を調べてみると以下のような説明をみつけた:
とあって別々の語が一体化したのではないかと思われる。
たとえばschoolには「学校」関連の意味のほかに、「名詞可算名詞 (魚・クジラなどの)群れ 〔of〕。動詞 自動詞〈魚が〉群れをなす,群れをなして泳ぐ.」という意味もあるが、英和辞典などの見出しではschool1とかschool2として区別している。つまり現代英語では、同じ綴りなのだが、もともとは別語源の単語という意味で。
「めだかの学校」という童謡を聞いたとき、水のなかのメダカの群れを「学校」という比喩で語るのは、なんと卓越した、あるいは変なセンスの表現なのだろうと感心したが、おそらく「めだかの群れ」という英語を「めだかの学校」と誤訳したにちがいないと、あとでわかった。
それはともかく、shrewの語源について、もう少し学術的な記述はないかと、ネットを探したら、以下の記事があった。
ただ、言えることは、先ほどの「school」と同様に、語源の異なる別の単語としてみてもよいように思われるのだが、多くの辞書には、同一単語内のふたつの異なる語義としている。そしてその場合、「がみがみ女」と「トガリネズミ」を結びつけるものが欠けている。そのミッシングリンクはなにか?
上記エティモラインetymolineにおける「シューリーマウス」--これはトガリネズミのことだろうが--、それが「毒のある噛みつきを持つ〔ママ〕と信じられ、迷信的な恐れを抱かれていました」と書かれている。「毒のある噛みつきを持つ」というのは日本語としておかしい、まあ、もしかしたら専門用語ジャーゴンなのかもしれないが。
そのため恐ろしい毒ネズミ(トガリネズミ)という語が、悪人、悪党、性悪女という比喩的な意味を帯びるようになったのか、悪人、悪党、性悪女という意味の語のほうが比喩として使われ、毒のある怖いネズミの名称となったか、まあ、そのいずれかだろうということになる。
ただしエティモラインの「かつては毒のある噛みつきを持つと信じられ、迷信的な恐れを抱かれていました」という記述は、日本語だけでなく、内容もおかしい。
ネットでは「毒という問い」という記事があった。
名古屋大学学術研究・産学官連携推進本部2025年7月22日12:35
https://note.com/nagoya_ura/n/n9e5425fa7f4f
この名古屋大学の北教授のグループによってトガリネズミの毒がつい最近、解明されたとのことだが、教授は20年以上も前からトガリネズミの毒を研究していたし、それ以前から、トガリネズミの毒については知られていて。けっして伝説ではないのである。
ただし300種以上もある、かわいらしい小さなトガリネズミすべてが「毒のある噛みつき」を持っているわけではなく、そのごく一部が強い毒のある噛みつきを持っているのである。だからトガリネズミについて、その毒性を記述していない辞書があってもおかしくはない。
そしてその「トガリネズミ」は英語ではただ、shrewという。
ちなみに日本テレビ系「金曜ロードショー」では、ディズニー最新作『ズートピア2』の12月5日全国公開を記念し、12月5日に、アカデミー賞長編アニメーション賞に輝いた『ズートピア』(2016)をノーカットで放送予定とのこと。そこにshrewが登場するから興味があれば観てほしい。小動物地区に暮らしているshrewが吹き替えでは何と呼ばれているかしらないが、まあ「トガリネズミ」だろう。
シェイクスピアの喜劇The Taming of the Shrewを、坪内逍遥あたりが「じゃじゃ馬ならし」と訳して以来、shrewは馬のことと思っている日本人は多いのだが、shrewは馬でなく、ネズミ、モグラのことである。
shrewの意味を英和辞典(Weblio)で調べると
口やかましい女、がみがみ女、トガリネズミ
とある。一つの単語のなかに異なる二つの語が同居している。「口やかましい女」と「ネズミ」はどうむすびつくのか(むすびつきそうもないものが語義のなかに共存しているので)。
ネットで語源を調べてみると以下のような説明をみつけた:
shrewの語源
古英語screawaトガリネズミ
→中英語shreue悪党・非行児
→近現代英語shrew トガリネズミ、意地悪な女性
とあって別々の語が一体化したのではないかと思われる。
たとえばschoolには「学校」関連の意味のほかに、「名詞可算名詞 (魚・クジラなどの)群れ 〔of〕。動詞 自動詞〈魚が〉群れをなす,群れをなして泳ぐ.」という意味もあるが、英和辞典などの見出しではschool1とかschool2として区別している。つまり現代英語では、同じ綴りなのだが、もともとは別語源の単語という意味で。
「めだかの学校」という童謡を聞いたとき、水のなかのメダカの群れを「学校」という比喩で語るのは、なんと卓越した、あるいは変なセンスの表現なのだろうと感心したが、おそらく「めだかの群れ」という英語を「めだかの学校」と誤訳したにちがいないと、あとでわかった。
それはともかく、shrewの語源について、もう少し学術的な記述はないかと、ネットを探したら、以下の記事があった。
エティモラインetymonline
「shrew」の意味: 小さな哺乳類; 悪意のある女性; 口やかましい女性
「shrew 」の語源:
[小さな昆虫食の哺乳類; 悪意のある女性] 中英語の shreue は、「悪党、悪人; しかりつける女性; しつけの悪い子供」といった意味でのみ記録されており、これは古英語の screawa「シューリーマウス」、語源が不明な言葉から来ていると考えられています。
おそらく、原始ゲルマン語の *skraw-、インド・ヨーロッパ語族の *skreu-「切る; 切断工具」(shred (n.) を参照)に由来し、シューリーマウスの尖った鼻を指しているのかもしれません。古英語では scirfemus(sceorfan「かじる」から)という別の呼び方もありました。しかし、オックスフォード英語辞典(1989年版)は、古英語から16世紀まで「動物」としての意味が欠けているのは「注目に値する」と述べています。この辞典は二つの言葉を別々に扱い、「悪意のある人」という意味が元々のものかもしれないと推測しています。中英語辞典は、中高ドイツ語の shröuwel、schrowel、schrewel「悪魔」にも言及しています。
「気難しく、悪意があり、騒がしく、意地悪で、厄介で、騒々しい女性」という特定の意味は、約1300年頃から証明されており、初期の「意地悪な人」(男性または女性)という意味から発展したものです。これは伝統的に、シューリーマウスが持つとされる悪意のある影響に起因すると考えられており、かつては毒のある噛みつきを持つと信じられ、迷信的な恐れを抱かれていました(beshrew を比較)。Shrewsは、1560年代から17世紀にかけて、sheep(羊)と対照的な妻のタイプとして結びつけられていました。【この記事の「シューリーマウス」というのはネットで探しても出てこなかった。】
ただ、言えることは、先ほどの「school」と同様に、語源の異なる別の単語としてみてもよいように思われるのだが、多くの辞書には、同一単語内のふたつの異なる語義としている。そしてその場合、「がみがみ女」と「トガリネズミ」を結びつけるものが欠けている。そのミッシングリンクはなにか?
上記エティモラインetymolineにおける「シューリーマウス」--これはトガリネズミのことだろうが--、それが「毒のある噛みつきを持つ〔ママ〕と信じられ、迷信的な恐れを抱かれていました」と書かれている。「毒のある噛みつきを持つ」というのは日本語としておかしい、まあ、もしかしたら専門用語ジャーゴンなのかもしれないが。
そのため恐ろしい毒ネズミ(トガリネズミ)という語が、悪人、悪党、性悪女という比喩的な意味を帯びるようになったのか、悪人、悪党、性悪女という意味の語のほうが比喩として使われ、毒のある怖いネズミの名称となったか、まあ、そのいずれかだろうということになる。
ただしエティモラインの「かつては毒のある噛みつきを持つと信じられ、迷信的な恐れを抱かれていました」という記述は、日本語だけでなく、内容もおかしい。
ネットでは「毒という問い」という記事があった。
名古屋大学学術研究・産学官連携推進本部2025年7月22日12:35
https://note.com/nagoya_ura/n/n9e5425fa7f4f
「毒を持つ動物」といえば、何を思い浮かべますか?
毒ヘビ、毒グモ、スズメバチにアシナガバチ、フグに毒クラゲ…
危険生物好きの方なら、きっとまだまだ出てくるはず。
でも、その中に哺乳類はいるでしょうか?
あまり知られていませんが、哺乳類にも、毒をもつものがいます。その一つが「トガリネズミ」です。
【写真画像あり】
トガリネズミの中でも特に凶暴な「ブラリナトガリネズミ」。トガリネズミの仲間は、世界で300種以上が知られています。
ネズミといっても"モグラ"の仲間で、名前の通り"尖トガった"鼻先を持ちます。
「哺乳類で毒をもつ動物は、トガリネズミの仲間とカモノハシくらいしか知られていないんですよ。」
そう話すのは、この珍しい動物の毒を20年以上研究する北将樹きたまさきさん(生命農学研究科 教授)。【以下略】
この名古屋大学の北教授のグループによってトガリネズミの毒がつい最近、解明されたとのことだが、教授は20年以上も前からトガリネズミの毒を研究していたし、それ以前から、トガリネズミの毒については知られていて。けっして伝説ではないのである。
ただし300種以上もある、かわいらしい小さなトガリネズミすべてが「毒のある噛みつき」を持っているわけではなく、そのごく一部が強い毒のある噛みつきを持っているのである。だからトガリネズミについて、その毒性を記述していない辞書があってもおかしくはない。
そしてその「トガリネズミ」は英語ではただ、shrewという。
ちなみに日本テレビ系「金曜ロードショー」では、ディズニー最新作『ズートピア2』の12月5日全国公開を記念し、12月5日に、アカデミー賞長編アニメーション賞に輝いた『ズートピア』(2016)をノーカットで放送予定とのこと。そこにshrewが登場するから興味があれば観てほしい。小動物地区に暮らしているshrewが吹き替えでは何と呼ばれているかしらないが、まあ「トガリネズミ」だろう。
posted by ohashi at 15:50| コメント
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2025年11月03日
街頭インタヴュー
以下の記事がめについた:
しかし、この記事では、街頭インタヴューは、街で突然カメラを向けて録音・録画すると信じているようだが、実際のインタヴューに立ち会っていないことがバレバレである。
「そもそも、街で突然カメラを向けられて、的確なコメントを数分で話せる素人なんていない。」とこの記事も認めている。ほとんどの人が街頭インタヴューを断るだろうから(私も断ったことがある)、答えてくれる人がみつかるまで、あちこち歩きまわり、追いかけ続け、カメラを延々と回し続けるなんてことはしない。ADが駆けずり回って、答えてくれそうな人を捜す。いっぽう答えるほうも、何か言ってやろう、テレビに出てやろうという気構えでくるから、正直いって、まともな人間ではない。
あといきなり街頭でカメラとマイクをむけることはしない。通行の邪魔になったりしたら、オールドメディアは横暴だとか非難されたりして、インタヴューどころではない。そのため通行の邪魔にならない、人通りも比較的少ない、落ち着いた場所にインタヴュアーとカメラが陣取り、ADが捜して連れてくる人を待っているというのが、普通のインタヴューの段取りだろう。
あとインタヴューに答えるために、連れてこられる人間も、まともな人間ではない。ごくつぶしの暇人か、よほどの目立ちたがり屋か、精神異常者か、酔っ払いといったところだろう。そんな連中の意見などまともにとりあうべきではない。むしろ、インタヴューに答える人間たちは、むしろお飾りだろう。中味なんかはどうでもよく、ただ一般人の意見を聞いているという、やってる感だけを出そうとしているにすぎない。
まともなニュース報道とは、街頭インタヴューをしない報道のことだろう。
日刊ゲンダイDIGITAL
街頭インタビュー改ざんは「月曜から夜ふかし」だけか? 欲しいコメント取れず現場は四苦八苦
日刊ゲンダイDIGITAL によるストーリー 公開日:2025/11/02 06:00 更新日:2025/11/02 09:49
日本テレビ系バラエティー番組「月曜から夜ふかし」は、街頭インタビューでのやりとりを捏造したとして、放送倫理・番組向上機構(BPO)から放送倫理違反を指摘されたが、街頭取材のデッチ上げは「夜ふかし」だけなのか。
自炊で食べることの多い料理を聞かれた中国出身の女性が、鍋料理と答えたのを、「夜ふかし」のチーフディレクターは「これではオチが弱い」と、中国ではカラスをつかまえて煮込んで食べると改ざんしていた。しかし、テレビ業界ではこんなことは日常茶飯事だという。
【中略】
いや、日本人相手の街頭インタビューだって怪しいものだ。そもそも、街で突然カメラを向けられて、的確なコメントを数分で話せる素人なんていない。拒否されることも多く、TBSアナの安住紳一郎の若いころの経験では、20~50人に声をかけて、答えてくれるのは1人だったという。
ようやく何人か収録できても、さらに編集・加工して、使えるのは10人に1人いるかどうかだろう。歩留まりをよくするため、スタッフは話してほしいエピソードを誘導質問したり、テイク2を撮り直したりと仕込む。最近多いのはイラストで顔を隠した映像で、はたしてその人がしゃべっているのかどうかもわからなくなっている。
【以下略】
(コラムニスト・海原かみな)
全文は https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/379786
しかし、この記事では、街頭インタヴューは、街で突然カメラを向けて録音・録画すると信じているようだが、実際のインタヴューに立ち会っていないことがバレバレである。
「そもそも、街で突然カメラを向けられて、的確なコメントを数分で話せる素人なんていない。」とこの記事も認めている。ほとんどの人が街頭インタヴューを断るだろうから(私も断ったことがある)、答えてくれる人がみつかるまで、あちこち歩きまわり、追いかけ続け、カメラを延々と回し続けるなんてことはしない。ADが駆けずり回って、答えてくれそうな人を捜す。いっぽう答えるほうも、何か言ってやろう、テレビに出てやろうという気構えでくるから、正直いって、まともな人間ではない。
あといきなり街頭でカメラとマイクをむけることはしない。通行の邪魔になったりしたら、オールドメディアは横暴だとか非難されたりして、インタヴューどころではない。そのため通行の邪魔にならない、人通りも比較的少ない、落ち着いた場所にインタヴュアーとカメラが陣取り、ADが捜して連れてくる人を待っているというのが、普通のインタヴューの段取りだろう。
あとインタヴューに答えるために、連れてこられる人間も、まともな人間ではない。ごくつぶしの暇人か、よほどの目立ちたがり屋か、精神異常者か、酔っ払いといったところだろう。そんな連中の意見などまともにとりあうべきではない。むしろ、インタヴューに答える人間たちは、むしろお飾りだろう。中味なんかはどうでもよく、ただ一般人の意見を聞いているという、やってる感だけを出そうとしているにすぎない。
まともなニュース報道とは、街頭インタヴューをしない報道のことだろう。
posted by ohashi at 01:00| コメント
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