2017年09月14日

日野皓正の世田谷パブリックシアター





まずネット上の記事から:


ジャズトランペット奏者の日野皓正さん(74)が、東京都世田谷区で20日にあったコンサートの最中、ドラムを演奏していた男子中学生の髪をつかんで顔を往復ビンタしていたことが31日、区教育委員会への取材で分かった。生徒にけがはなかった。


 区教委は「生徒がソロパートでなかなか演奏を止めなかったため、進行に支障が出ると日野さんが判断し、中断させた」と説明。「日野氏の行為は行き過ぎた指導だったと捉えている」としている。




 区教委によると、コンサートは区教委主催の体験学習で、日野氏らプロ演奏家の指導を受けた中学生約40人が約4カ月練習した成果を披露する場だった。




 生徒は保護者に、自分の行動を反省しており今後も演奏活動に参加したいと話しているという。区教委は「今後も事業を実施するため、日野氏側と話し合っていきたい」としている。(共同)



日野皓正の世田谷パブリックシアターでの、「せたがやこどもプロジェクト2015≪ステージ編≫ 日野皓正 presents Jazz for Kidsでの中学生への、いわゆる「平手打ち」事件について。


すでにいろいろなことが言われているが、基本は、体罰あるいは暴力的制裁は駄目でしょうということにつきる。一番、滑稽なのは、愛があれば許されるというたわごとで、実は、今回の鈴木砂羽、土下座強要事件でも、女優二人に厳しく当たった砂羽の場合、そこに愛があったかどうかが重要になると、まるで「愛があれば」という、ばかばかしいたわごとが、普遍的な基準であるかのように語られている。愚行も、ここに極まれりということだろう。


愛があれば許される? おそらく児童虐待で親を取り調べている警察官は、毎日のように、その虐待をした親から聞かされているだろう――「虐待ではない、愛の鞭だ、愛があったのだ、他人に、警察に何がわかる」と。愛があれば何でもゆるされると、反省の色もなく、くってかかる親に取調官も辟易としているにちがいないだろうが、愛があれば許されるなどということは絶対にない。ただ、ちょっと嫌なのは「愛の鞭」などという、くだらないパラドクスを考案したのが、文学関係者であることだ。文学の弊害が、ここにある。だから気分が悪い。しかし「愛の鞭」などという美談によって、みずからの犯罪性を正当化し、善人ぶろうとする人間の欺瞞性を暴くこともまた文学がめざしていたことでもあれば、そこに希望があることも事実だが。


ただし世田谷パブリックシアターでの事件を具体的・個別的な事情を考慮するのは重要だろう。実際、一部の映像だけでは誤解が生じかねないという意見も多くて、それは確かである。しかし全体の流れをみて、何を確認するのかといえば、愛があったかどうかという、あほらしいことではない。そうではなくて、その中学生と日野との間に、日野の爆発にいたるまでの何かわだかまりがあったかどうかということである。もし二人の関係が良好であるか、悪いということがない場合、日野の暴発は精神異常の類に入る。もし二人の関係が悪化していたことがわかれば、怒りを鬱積させてきた日野の暴発が理解できないこともないが、だからといって、日野のしたことが許されるわけではない。


後者の場合、相手は中学生でしょう。日野は74歳。中学生相手にぶちきれても、大人げないこと限りない。74歳の世界的アーティストが、中学生が暴発しても(とはいえ中学生が日野を言葉で罵倒し侮辱したわけではないが)、それにぶちきれることは、大人げないし、器の小ささを露呈するだけで、端的にいって恥ずかしいことなのだ。


また中学生が、なにか犯罪的なルール違反をしたので、やむなく正義感あふれる(拍手)、74歳の(拍手)、世界的アーティスト(拍手)が、鉄拳制裁(拍手)を、体罰はよくないと承知のうえで、おこなった(拍手)というのは事実をねじまげている。まずマスタークラスの最後に、各パートが、ソロで演奏をする。そのときドラムの中学生が自分の持ち時間を超過して演奏しつづけたのを、日野が駈けよって、声をかけたということはなく、いきなりスティック2本を奪って投げ捨てた。スティックを奪われた中学生は、それでも素手でドラムをたたいて演奏を続けたので、さらに激高した日野がさ平手打ちに及んだということになる。


相手は中学生といっても、中学生の事情は知らないが、こうしたマスタークラスに出席できて、ドラムを演奏できるというのは、ふつうの中学生ではない。中学生棋士の藤井四段の活躍がめざましいわけだが、それにドラムをこんなに演奏できるというのは、同じく才能のある中学生というべきだろう。中学生ということすら違和感がある。ふうつの中学生あるいは中学生というくくりすらまちがっている。多くの中学生男子は野球とかサッカーをプレイすることができるだろう。もちろん将来プロの選手になるまでに優れたプレーができるのは、ほんの一握りだろうが。ところがドラムの場合、あるいはジャズの楽器は、ほとんどの中学生が演奏できない。最少から演奏できるのはほんの一握りの中学生であり、そのなかで将来プロになるのはごくわずかだろう。そのごくわずかの中学生が、今回のマスタークラスに参加している。


彼らはみんな英才教育を受けている。英才教育を受けたことのない私は、英才教育とはどんなものなのか実感がわかないのだが、ただ、親から勧められ全面的に援助を受ける場合と、周囲の反対を押し切って独学でなければ早期の教育を受ける場合とに二分されるかもしれない。いずれにしても、彼らは独自の道を歩んでいる。既存・既成の道からははずれている。ある意味、はぐれ者である。王道からはぐれるということではなく、彼らの場合、はぐれることが王道なのである。


そんな彼らには、存在自体がルール破りなので、秩序を重んずるとか規則を守るという意識は希薄かもしれないし、また、そうでなければ優れたアーティストになれないかもしれない。だから破天荒なところ無軌道なところは、アーティストになるための、アーティストであるために社会が容認し耐えねばならない悪弊である。あるいはアーティストが社会から容認される特権である。


そんなことは世界の日野はわかっているはずである。わかっているなら寛容になればいいのに、まさにブチ切れるという一線を越えてしまう。そういう一線超えこそアーティストに不可欠だとすれば、日野自身が、一線を越えていながら、一線を越えた中学生を制裁しているとなれば、なぜおまえは自分を罰しないのだ、反省も謝罪もしていないではないか。74歳にもなって(あっ、十歳も年上の人間に対してこんな口をきいてしまった私は、日野から平手打ちされるかもしれないが)。


あるいはソロで演奏するときには、本人も相当ハイになっている。夢中になって没頭して陶酔すらしている。おそらくドラムという楽器の演奏は、ソロ演奏のときはとりわけ陶酔的になるものかもしれない。そうなると時のたつのも忘れる、自分の割り当て時間を意識しなくなる。こんなとき、アーティストなら、そういう陶酔状態についてよくわかっていると思うから、暴走しはじめたらどうするのか、一般人よりも、よく理解しているはずである。


もちろん、ネットなどでよくいう「神対応」というのが、この場合、どういうものなのかわからない。拍手でもして健闘を認めて後で楽屋で、ぼこぼこにするとか、みずから楽器を演奏してドラムにあわせるか、妨害して、我に返させるか。マイクで大声でほめるかけなすか。とことんやらせて我に返るまで待つか。後ろから抱きかかえて、当人の興奮を沈めるとか……。


いずれにせよ、今回の日野の対応は、神対応ではないことは否定しようもなく、最悪の対応であろう。晩節を汚すとはこのことである。あるいは74歳だから経験豊かだとうことは偏見だということがわかる。この74歳は、こういう場合(つまりこんなことは四六時中起こっているのかもしれない)にどう対処するか経験をまったく積んでいない。中学生並みである(中学生諸君には失礼ながら)。


もちろんどんなに没頭しても、薬でも飲んで自己を完全に忘却しているわけではないから、意識の一部は残っている。アーティストだからといって、そういうルールを破っていいわけではない。アーティストに寛容な人間ばかりとはかぎらない。アーティストも社会の一員である以上、最低限のルールを守らなければならない。犯罪者ではないのだから。日野はそのように考えたのかもしれない。したがって今回のような暴走になった。


しかしである、だったら、日野本人が、中学生を殴るようなルール違反を犯してはいけないはずではなかった。どんなに興奮しても、一線を越えてはいけない。だったら、中学生が一線を越えたのは確かである。だが日野も興奮しすぎて一線を越えている。一線を越えるような場合には暴力を仕方がないとする意見が今回観られたが、その場合、日野も殴り倒して中学生への暴力を辞めさせるべきであった。


まあ、世界の日野といっても、この程度なものである。実際に、その頭のなかで何が起こったのかわかるはずもないが、ただ、世界の日野は、世界の日野の指示を無視するような中学生に自分の権威がないがしろにされたような気がしたのだろう。中学生ごときに舐められてたまるかという気持ちが暴行、あるいは暴行めいたものの引き金を引いたというのは、ひとつの有力な解釈だろう。それが真実ではないかもしれないが、そのようにみえる。なんとまあ小さな男なのか。世界的なアーティストという名声が、だいなしになるのではないか。はっきりいって落胆の侮蔑の気持ちしかわかない。


もしそうでないとするならば、しっかり謝罪して、そのような行動に走った経緯を、たとえ恥をさらすことになっても、またさすがにプライヴェットな部分を全部さらけだせとはいえないが、説明すべきだろう。それが私は神対応だと思っている。今回の件は、弁護の余地のない糞対応だと思う。


また今回の日野の対応を、褒めるバカも世間に多いが、その中学生を挑発行為を繰り返す北朝鮮に見立てているのではないかと心配している。北朝鮮を制裁できないから、かわりに日野の行為を代償とみなした。ただ、はっきりしないぼんやりとした映像でみるかぎり、その中学生は、スティックをいきなりとりあげたら、殴り返してくるような、北朝鮮のような危険な存在ではないようにみえる。だからあえて平手打ちまで及んだのでは。大柄で屈強で人相も悪い怖そうな中学生だったら、果たして、言葉ではなく力づくで辞めさせたかどうか。そこで日野が数発殴り返されて出血して脳震盪でも起こして倒れても奪ったスティックを離さなかったら、もちろん暴力や体罰は絶対に容認しないが、世界の日野の勇気と筋をとおす姿勢に拍手を送ったのかもしれない。まあ夢物語だが。

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posted by ohashi at 09:44| コメント | 更新情報をチェックする

2017年09月13日

出演女優降板トラブル

日刊スポーツの記事より


今日13日初日の女優鈴木砂羽(44)が主演・初演出する舞台「結婚の条件」(東京・新宿シアター・モリエール)で出演予定だった2人の女優が12日、降板を発表した。理由として土下座など「鈴木氏から人道にもとる数々の行為を受けた」と主張。一方、制作側はそれらの行為はなかったと否定し、鈴木は当惑しているとしている。開幕前日の舞台降板発表は異例で、関係者は混乱した。降板したのは元準ミス・インターナショナル日本代表の鳳恵弥(36)と築地のおかみも務める牧野美千子(52)。


なぜ、これが全国的なニュースになるのかよくわからない。新宿のシアター・モリエールへ行ったことがありますか。私は地下鉄の新宿三丁目の駅から行くのだけれど、恥ずかしながら、いつも場所がわからなくなって迷う。入口からすぐに二階というか上階にいく階段があって、上が受付になる。入口から入ると右手が舞台になる。


ただ、小劇場ですよ。もちろんシアター・モリエールよりも小さな小劇場もあるし、またスタジオのような劇場に比べたら大きな劇場ではある、でも小劇場ですよ。私が道に迷うのも、縦型の掲示板が一つあるだけで、遠くからはわからないし、気づかないと前をとおりすぎてしまう。その小劇場で、13日から18日までの1週間もない公演ですよ。そういう小劇団の小劇場での小規模での公演におけるトラブルが、全国版のニュースになるとは。


日本全国で、あるいは東京ではとくに、小劇団による小劇場における小規模の公演というのは、毎日のように行われている。そこでのトラブルは日常茶飯事かもしれないが、それが地方であれ全国であれ、刑事事件でもならない限り、事件として扱われることはない。


ニュースを伝える側も、伝え方がおかしい。「脚本家・江頭美智留氏(56)」と伝えるのだが、この人は劇団の主催者でしょう。そう明確に伝えないと、ふつうこういうとき脚本家がとやかくいうことはないのだから。


繰り返すが、公演に関するトラブルが全国ニュースになるというのは、鈴木砂羽を第二の豊田真由子と思ったのだろうか。国会議員の暴言と、小劇団の小劇場における小規模公演の演出家の暴言・暴挙とは比べ物にならない。たとえ鈴木砂羽が豊田真由子よりも有名だとしても。もしかしたら売名行為ではないだろうか。もし売名行為ではないとしたら、こうした小劇場公演は、固定ファンがいて、たいてい満席であり、そんなスキャンダルによる宣伝をしなくてもいいのだから。


とはいえ、今回のニュースで、私には、かなりのサプライズになったことがあった。


牧野美千子、いま、演劇活動していることを初めて知った。無知を恥じるしかないが、「科学戦隊ダイナマン」に出演した牧野美千子は、紅二点というべきもうひとりの萩原佐代子とともに、伝説の戦隊ヒロイン、あるいはマドンナであった。「牧野美千子」の名前だけで、彼女の姿を見るためだけに毎回「科学戦隊ダイナマン」をみていた昔がよみがえった。とはいえ戦隊物のファンからは今も人気があって、そうした活動も続けていることを今回初めて知った。シアター・モリエールに見に行けばよかった……。降板したので、観ることはないが。



posted by ohashi at 18:25| コメント | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

関ケ原

実は、とくに見る予定はなかったのだが、事情があって映画『関ケ原』を見ることに。関ヶ原の戦いについては、今回の映画とは関係なく、いろいろ思い入れが強い。というか思い入れがない。


かつてTBSが大型テレビ・ドラマとして『関ケ原』を制作したことがある。加藤剛の石田三成、森繁久彌の徳川家康をはじめとしてオールスター総出演のドラマだった。それにあわせて予習か復習かどちらか忘れたのだけれども、司馬遼太郎の『関ケ原』を新潮文庫で読んだ記憶がある。ただ、その頃は司馬遼太郎の小説をとおして、史実を知ろうという目的が強くえ、今回の映画で再現してある少年時代の作者の思い出から語られるということを完全に忘れていた。時代小説を歴史的事実への窓として読んだのであり、語りの様式など、すっかり記憶から消えていた。


司馬版『関ケ原』を読んで、愕然としたことは、この天下分け目の大決戦については、英雄はいないということだった。西軍と東軍が激突していない。両軍のごく一部が戦ったにすぎない。家康の調略によって戦う前から勝敗は決まっていた。まさに大軍が正面から激突するという戦国時代の戦いは、もうすでに過去のものとなっていた。新しい時代の、物語性も、英雄も存在しない駆け引きだけの無味乾燥な戦い。ただ強いて言えば「義の人」としての石田三成像が司馬版にはあったし、TBSのドラマはそれを強調した。それまでは冷酷な官僚として描かれていた石田三成が、悲運の英雄として家康を凌ぐ偉大さを獲得する。これがある意味、不満でもあった。


私は名古屋市の出身だから、尾張の三英傑として信長、秀吉、家康には、興味があった。この三人は、最後に家康がすべてを狡猾にもっていったというイメージがあるかもしれないが、名古屋の人間としては、天下統一をし、新しい時代をつくったのは、この三人の偉業であって、秀吉が信長らの遺志を、そして秀吉の遺志を家康が引き継いだというイメージがあって、三人は同じ運命の流れに乗っていた、まさに三英傑であり、そこに石田三成ごときが入りこむ余地はない。近江出身の石田三成は好きではない。やはり家康は偉い。焼け落ちたととはいえ、再建された名古屋城のオリジナルを造ったのは家康だし、名古屋城は大阪城に対抗していて、大阪城よりも大きいのである。徳川時代に尾張は徳川御三家のひとつだったし。


また私の子供の頃、山岡荘八の小説『徳川家康』の影響も大きかったし、NET(現・テレビ朝日)系列のテレビ・ドラマ『徳川家康』(1964年)主演:北大路欣也、壮年期は市川右太衛門も、人気があった。北大路欣也の熱演も人気に貢献した――父親の市川歌右衛門に家康役が引き継がれた時は、魅力が半減したような気がした。小説で、テレビドラマで描かれる家康は、権謀術策の狸オヤジではなく、とにかく苦労人で艱難辛苦を舐め、とにかく誠実な人柄で数多くの悲運に恵まれながら、泰平の世をつくりあげた偉人であった。信長も秀吉も限界か、欠陥があったモンスターであった。家康こそが人間味を失うことのない義の人だった。


それが家康像の凋落がいつ頃のことかわからないが、始まった。たぶん司馬遼太郎もその戦犯の一人だろうと思うのだが、私の子供の頃は、信長も秀吉も、あんな汚い名古屋弁をドラマで話していなかった。家康は三河だから名古屋弁とは違うかもしれないが、それをいうなら石田三成は近江の言葉あるいは関西弁をなぜ使わないのかということにもる。


加藤清正、福島正則、黒田長政など、秀吉の家臣ながら、関ケ原では家康側についた武将たちは、ただの乱暴者(福島正則などはとくに)というイメージも強いのだが、実像は異なるだろう。


と、まあ、司馬遼太郎の『関ケ原』で定着したようなイメージは変革しないと、すべて石田三成という脇役が、とんでもなく偉大な英雄に変貌をとげ、本来、英雄的であった人物たちが次々の矮小化されてしまう。


BS-TBSで最近放送された『諸説あり』では、関ケ原の戦いの見直しがすすんでいて、当時の一次資料を読み解くと、主戦場は関ケ原ではなく山中(「さんちゅう」ではなく、地名)で、戦闘も2時間余りで終わり、当時は宇喜田秀家が家康と戦って負けたといわれた。小早川秀秋の裏切りはなかった。最初から東軍だった。また首謀者は石田三成ですらなかったという。石田三成は大谷吉継を説得して仲間に引き入れたとされるが、むしろ大谷吉継のほうが石田三成を説得したのではないか。そもそも石田三成と家康は昵懇の仲だった(番組では触れられていなかったが、実際、三成は、福島正則ら武将に襲われたとき、家康の屋敷に逃げ込んでいるのだが、この行動は、敵の裏をかく大胆不敵な行動と思われているものの、単に家康に助けを求めたにすぎなかったのでは)。首謀者は結局、誰だか、わからない。反家康で結束する勢力があり、そこに石田三成も巻き込まれたという説もあるようだ。


もう、こうなると物語のへったくれもない。ただただ面白みのない、英雄たちが消えた、無味乾燥な事実の展開ということになってしまう。まあ、これがリアルなのかもしれないが……。


しかし、物語は死んだ、物語れ。


石田三成が、大谷吉嗣に説得されて、反家康勢力の最終的に中心人物とみなされるようになるというは、ジュリアス・シーザーとブルータスの物語ではないか。シーザー暗殺の首謀者と目されるブルータスは、シーザーの息子でもあったか、息子同然の扱いを受けたといわれ、だからこそ、「ブルータス、おまえもか」というシーザーの言葉は、自分の息子に裏切られた父親の驚愕の声なのである。同じく石田三成も家康とは父と息子くらいの関係であったかもしれないが(秀吉と三成の関係とは異なり)、盟友の大谷らに家康打倒のための勢力の中心人物に祭り上げられるという悲劇。だか、これだと石田三成をもうひとりの英雄にする物語で、面白くないのだが。


ちなみに信長の旗印は「永楽通宝」だった。また三成の旗印「大一大万大吉」というのは、 「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」というような意味だと言われているが(今回の映画でも)、しかし、それをその意味で解釈するのは、後世であって、当時の意味がどうであったのか、わからないという。


信長の「永楽通宝」も、経済を重視したからという説もあるそうだが、はっきりしたことはわからない。信長の旗印も、三成の旗印も、まあ縁起をかついで、お宝の象徴である貨幣、めでたい言葉「大・一・万・吉」を列挙したものだろう。映画のなかでは「利」と「義」が二項対立となっていて、世の中「利」に走っているが、自分は「義」を重んずるということを三成がいう。しかし、「大一大万大吉」という旗印は、「義」というよりも「利」ではないか。それを後世に勝手にこじつけめいた解釈を行なった。家康の旗印は有名な「厭離穢土欣求浄土」である。宗教思想と連携したユートピア運動のスローガンである。私が兵士だったら、「大一大万大吉」などという思想も理念もへったくれもない旗印の下ではなく、「厭離穢土欣求浄土」という旗印のもとで命をなげうちたいと思うだろう。まあ、そんな度胸もないが、超越性、脱俗性、理想性は心を打つ。三成ではなく家康こそ「義」の武将である。つづく


posted by ohashi at 18:49| コメント | 更新情報をチェックする