2018年04月19日

カクシンハン『ハムレット』2

拾遺

1顔写真NG

カクシンハン・マガジンでの木村龍之介氏との対談は、私の顔写真がないということで、申し訳なく思っているのだが、私は顔出しNGなので、対談の話をいただいた時は、せっかくの機会なので、カクシンハンや木村氏を応援したいと思いつつも、最初はお断りした。顔出しNGだからと、こちらが条件をつけてもOKという場合もあるのだが、そういうとき、結局、隠し撮りされた顔写真を使われて、事後承諾ということもないことはない。当然、こちらは憤慨して、関係者とは完全に絶交状態となる。今回も、顔出しNGの条件を出して、引き受けてもいいのだが、万が一、木村氏あるいは関係者が、小さな顔写真くらいいいのではと軽い気持ちで裏切ったりすると(基本的にそのようなことはないと承知しているが、しかし魔がさすというようなことがないわけではないから)、それで、これまで応援し、また公演を楽しみにしてきたカクシンハンと縁が切れてしまうのはつらいので、最初からお断りすることにこしたことはないと考えた。

しかし、その後、木村氏のほうから再度、顔写真なしでよいのでと打診があったので、観客は私の話には興味はないと思うのだが、対談をとおして木村氏からいろいろな話を引き出せれば、カクシンハンのファンや観客にとっては、とても有意義なことではないかと考えた、お引き受けすることにした。対談は、本郷の私の研究室で、木村氏が当日のリハーサルを終えたあとの夕方から夜にかけて、2時間以上、話していた。内容は多岐にわたり、適当なものを拾ってまとめるのにじゅうぶんな材料が用意できたと思ったが、話が長すぎて、まとめるのに大変だったにちがいなく、もっと短く、簡潔に対談していれば、あとの作業も楽だったのだろうと思い、やや無神経なところがあった点、木村氏や関係者のかたがたにお詫びしたい。

ちなみになぜ顔出しNGかという理由については、自分でも実は定かではない。まあ人に見せるような顔じゃないし、恥ずかしいからというのは確かだが(とんでもなくひどい顔なのだろうと想像してもらってもよいが)、理由は、それだけではない。ではなにかと言われると、最初に述べたように自分でもよくわからない。顔を出さないことで、かえって注目を浴びようという戦略ではないかと思われるかもしれない。モーリス・ブランショとか、一時期までのデリダがそうだったが、あいにく私はそこまで著名でもなければ偉大で優れた人間でもない。ただ、現代のような情報時代、顔を出すのを拒むことで、失う仕事、失うチャンスは多かったはずで、顔出しNGは、決して有利なことではない。

また顔を出さないという条件を提示して仕事をすることもあるので、たとえば2018年から某社の、高校の現代文Bの教科書に私の文章が掲載されているのだが、著者略歴はあっても、私の顔写真は掲載されていない。他の著者の顔写真はすべて掲載されているのに、私のだけはない。教科書会社にも、どうしても顔写真が必要というのなら、私は掲載を希望しないからと伝えたら、顔写真なしでかまわないということになった。迷惑をかけたとは思うが、そのように顔写真を私は公開していないので、もし、なにかの仕事で、あるいは著作で、顔写真を使ったら、これまで顔写真なしで同意してもらった出版社から、私は殺されるわい。だから死ぬまで、顔写真なしで通すしかないと思う。そのぶん仕事を失うことも多いと思うが、それほど仕事をしたいわけでもない。


2 リメンバー・ミー

カクシンハン公演で台本として使われているのは、松岡和子氏の翻訳だが、その翻訳のなかでRemember Meを松岡氏は「私の言ったことを忘れるな」と訳されている。それはそれでいいのだが、その台詞の原文は「リメンバー・ミー」なのである。

また実際、舞台のうえから花弁が、はらはらと落ちてくるような演出もある。そのとき、亡霊の言葉、「私が語ったことを忘れるな」が聞こえてくる。だが、その台詞、原文ではリメンバー・ミーなのである。

まあ要は、ディズニー/ピクサーのアニメ『リメンバー・ミー』と同じことをしてもよかったのに、惜しいという、カクシンハンにとっては、迷惑なコメントを書いているのだが。

ちなみにアニメの方は、メキシコの死者の日における一夜がテーマで、死者の日を象徴するのは黄色というかオレンジ色のマリゴールド。アニメのなかでは、マリゴールドの花が、まさに絨毯のように敷き詰められ、おびただしい花弁として宙を舞う。

べつにカクシンハンの舞台がディズニー/ピクサーのアニメをまねて欲しかったというような話ではない。上から落ちてくる花弁は、桃色ではなく黄色だったらよかったのにというような話でもない。ただ、勝手にアニメを連想したにすぎないのだが、その連想には理由と論理がある。

アニメの原題はCoco。これは主人公にとって、また物語全体にとっても、重要な曾祖母の名前でもあるのだが、普通名詞としてのそれは、死者の日に還ってくる亡霊のことを意味するスペイン語。日本語のタイトルのように『リメンバー・ミー』としてもよかったと思うのだが、『リメンバー・ミー』というタイトルの映画はけっこうな数、つくられていて、混同を避けるためだったのかもしれない。


また『リメンバー・ミー』というのは、すでに述べたように『ハムレット』のなかで父親の亡霊(Coco)がハムレットに語る言葉でもある。ディズニー/ピクサーの『リメンバー・ミー』は、内容面でも『ハムレット』に類似しているところもある。両者を比べる、あるいは相互に連想することは、カクシンハンの舞台を見た者のなかにおのずと生まれる衝動かもしれない――

と、マリゴールドの乱舞するアニメの関連商品のクリアファイルを見ながら考えた。

3.3.11

木村龍之介氏にとってカクシンハンの原点は3.11にあるということを対談をとおして初めて知った。

それを知ることで、思うこと、思い出すことがあった。2011年3月11日以降、大震災のあと、文学部では(まあ大学全体でそうだったのだろうが)在校生の安否確認をすることになった。というかするようにという要請があった。英語英米文学研究室では、ほとんどの学生についてはすぐに安否確認ができた。当時、私は研究室の主任だったらか、そのことはよく覚えているのだが、ただひとりだけ安否確認ができない学生がいた。木村龍之介である。この学生の指導教員は私だったから、かなりあせった。文学部からは全員の安否確認を急ぐように言われるのだが、木村君がどこにいるのかわからない。在学中から演劇活動をしていることは知っていたので、東京ではなく、どこか地方に巡業というかドサ回りでもしていて、それで連絡がとれないのかと考えた。もしそうなら、さらに心配になってきた。というのも、もしかしたら東北で震災に巻き込まれていて帰れなくなったのか、行方不明なのか、と。だとすると、一刻も早く状況を把握する必要が生ずる。

当時の3月は非常事態であった。たとえば卒業生全員を集めての卒業式がおこなえなかった。卒業式はなくなり、研究室で学生に卒業証書を手渡して終わりという、そういう状態だった。そんなか、安否確認で一番たいへんだったのは、実施的に作業をしてもらった当時の助手/助教であって、本来なら、問い合わせたりはしない実家にまで連絡をした。そしてようやく連絡がとれた。ただし、連絡は助教/助手にまかせていたので、どこにどうしていたかについては知らなかった。地方巡業ではなくて、また地震や津波に巻き込まれていなくて、安心した。

木村君のことは、当時、英文研究室でも心配したが、文学部の事務のほうでも、心配と苛立ちを募らせていた。木村君には必要な手続きをしてもらわないといけないことがあったのだが、それが3月という年度末に手続きが完了していないこともあり、文学部事務室の方でも気をもんでいた。そしてようやく連絡がとれた。大学に来てもらって、主任の私が木村君を事務室に連れて行くことになった。事務室のドアをあけ、英文の木村龍之介君が手続きに来ましたといったら、事務の人たちの間から、拍手が沸き起こった。これにはちょっと驚いたが、よくぞ木村君を見つけてくれたという私への称賛ではまったくなく、無事でいたことの安堵の拍手だったし、それほどまでに文学部事務室でも、安否確認のとれない学生について、心から心配していたということだろう。見つかってよかったという安堵と歓喜の拍手だった。

その時、木村君は、どこにいたのか。今回の対談ではじめてわかった。地方巡業にも行ったいなし、震災の犠牲者となったわけではなく、東京にいたのだ。

これを聞いて、ちょっとむっとした。あのとき研究室が、文学部事務室が、あれほど右往左往して困惑の極致にあったのは、なんのためだったのか。当時の非常事態に、連絡が取れない状態のままでいたというのは、なんという非常識な逸脱行為か、と。

ただし、木村氏によれば、当時思うところがあって、悩んでいたとのことだった。それがカクシンハンの旗揚げへとつながったのだから、そのため外部との隔離は、必要なプロセスだったのだろう。それがなければ今日のカクシンハンの舞台も存在しなかったと思うと、感慨深いのだが。

posted by ohashi at 23:10| コメント | 更新情報をチェックする

2018年03月31日

倒叙ミステリー

昨今の森友学園問題(加計学園問題も同じだが)の関連ニュースあるいは証人喚問をみていると、終わらない倒叙ミステリーを連想してしまう。


倒叙ミステリーというのは、最初から犯人がわかっているもの。テレビドラマでは刑事コロンボ、あるいは古畑任三郎といえばわかるだろうか。どちらもよく再放送されるので、わかるとは思うのだが、これでもわからないかもしれないとしたら、もうたとえる探偵がいない。


大倉崇裕の福屋警部補シリーズといったら、もっとわからないか。まあ熱心なミステリーファンでもない私が、たまたま知っているシリーズに言及することは、批判されることはあっても、決して褒められたものではないだろうが。


あ、ちなみに福屋警部補は、先に登場した私の姪に似ている。テレビドラマの壇れいとは全然ちがって、原作のほうの福屋警部補。ただし姪のほうは、福屋警部補と外見が似ているだけで、警部補に比べると頭が悪すぎる(こんなことを書いていると、最後に罠にはめられ、処刑されるぞい)。


つまり最初から犯人がわかっていて、後は、その犯人をどう追い詰め、自白させるか、逮捕までもっていくか、そこが面白さの肝となる。ただ、その設定で推理小説が書けるということは、犯人が抵抗したり、絶対に自白しないとき、どう追い詰めるか、どうゆるがぬ証拠をつきつけるか、追及する側が苦慮し、どのような工夫をするか、奥の手を出すか、どんでん返しをするか、そこが読者の関心の中心となる。


現実の倒叙物(つまり現在の森友問題)では、犯人が誰かはわかっている。問題は、どうやって逮捕し起訴にもちこむか。あるいはどうやって政権を交替させるかについて、まったく先がみえないことだ。犯人が誰かはわからないのではない。犯人は、誰かわかっている。犯人がつかまるめどだたないのであって、これが倒叙物なら、最初はわくわくしても、だんだんいらいらがつのってくる。


フィクションなら、最後のどんでん返しですっきりとするのだが、現実の倒叙物(まあ茶番といってもいいが)では、犯人が、どうどうと、何食わぬ顔をして、仕事を続けている、。ドラマだったら最高度の悪人であって、いずれ裁きが下り、すっきりいすることがわかる。フィクションなら。


現実ならどうか。結局、これまでだったら、政治家は、ゆるがぬ証拠がなくても、ばれたら辞任していた。政権交代に発展しかねないため、辞めるから許せということかもしれないし、悪いことはするが、ばれたら、いさぎよく辞めるというのが政治家の美学でもあったと思う。切腹は敗北ではなく、武士道における最高の勝利である。不正がばれて辞任することもまた政治家としての輝かしい業績だったはずだ。


ところが現在の政権は腐敗しきっているし、独裁的で、しかも低能であって、美学もくそもない(唯一あるダンディズムはギャングのボスの格好をする国際的にも馬鹿にされているダンディズムでしかない)。この倒叙物には終わりがみえない。終われない倒叙物ほど悲惨なものはない。


まあ、現段階では、追及の奥の手があって、どんでん返しが起こるなんてことは、まずありえない。どんでん返しを期待させても、どんでん返しは起こらない。相手が非を認めて辞めることを待つしかないが、現政権は腐りきっていて、罪の意識も良心のひとかけらもないし、官僚は自殺して自分たちを守るのが当然だと考えているために、解決はないだろう。


問題なのは、こんな腐敗しきった政権に、憲法を変えてほしくないことだ。私は改憲には反対のほうだが、よりにもよって、こんな腐りきった政権が憲法を変えたら、10億年禍根が残るぞ。


posted by ohashi at 17:49| コメント | 更新情報をチェックする

Family Secret

ディズニー/ピクサー・アニメ『リメンバー・ミー』(原題Coco2017)を姪その他と見に行った。姪を馬鹿にしていると、ひどい目にあうという別の映画もみてきたばかりだが、べつにとくに馬鹿にするつもりもないのだが……。ミュージカルだから吹き替えよりも字幕版だというので、つきあったが、なるほど評判の映画だということもわかったし、なにより私の姪が上級者だということもわかった。


字幕版を選んだから上級者ということではなく、号泣の上級者じゃい。姪によれば、自分の母親からは、そうやって泣かれると周りの人間が引いてしまうと感じの悪いことを言われるというので、あんたの母親のいうとおりで、勝手に大泣きする人間がいると、周りの人間はしらける。これは一般論だというと、不服ながら納得したようす。


まあ、でも、先に泣いた方が勝ちで、そうすれば周りはしらけるだろうが、本人は泣いてすっきりするだろう。とにかく先に泣くこと。もう嗚咽するくらい泣くこと。姪は、そういう意味で泣きの上級者だ。とはいえ、こういう上級者とは、映画には、二度といっしょに行かないと、心の中で誓った。たぶん彼女の友だちもわかっていて、いっしょに映画に行ってくれる者はいないのだろう。私が狙われたのだ。


それはともかく、この『リメンバー・ミー』という映画、他人事じゃないよと、姪に説明。なぜなら、あなたのひいおじいちゃん(私の祖父だが)の写真は1枚も残っていないのだから。写真も残っていないので、私自身、父方の祖父の顔を知らない(母方の祖父、安政元か万延元年に生まれた祖父の写真は残っている(昭和10年くらいまで生きた)、したがってよく知っているし、母親も村の村長までした父親の思い出をよく私に語ってくれた)。


父方の祖父については、存在しないも同じで、どうしてかというと、映画と同じ。家族を捨てて出て行ったから、本人が写っている写真は捨てられた。そういう意味で、この祖父は、誰も覚えていないというか、写真もないので、メキシコでは供養してもらえないし、死者の日の祭りに、生者の世界を訪れることもできない。この映画の****と同じだよというと、姪は唖然。ここで泣かんのかい――別に泣く理由もないが。


私の父方の、この祖父は、東大(いまの工学部)を卒業しているのだけれど、事業に失敗して会社が倒産、借金取りから逃げまわる生活をすることになり、しかも家族のもとを去ったというか、家族を見捨てて、愛人のところを転々とし(破産したのに複数の愛人がいたとはうらやましいが)、最後には先妻の子供のところで死んだ(感じ悪い死に方じゃ)。私の祖母は、この祖父からの援助を一切受けず、自分の親戚などの援助によって、かろうじて私の父親を育てたが、子供を大学に行かせることまでは経済的にできなかった。私の父にしてみれば、父親は東大を卒業しているので、たとえ東大でなくても、とにかく大学まで行きたかったようだが、それもかなわず。ということで、写真は、最初からなかったかもしれないものの、もしあったなら、破棄されていた。


いや、映画の話をするつもり、なんでこんなFamily Secretを話すさなければいけないのか。とりあえず、ここでやめる。

posted by ohashi at 17:44| コメント | 更新情報をチェックする