2015年02月12日

『輪廻の蛇』

映画『インターステラー』を見た後で、ロバート・A・ハインラインのSF短編「歪んだ家」を読みたくなった。前に、翻訳で読んだことがある。ハヤカワSF文庫に短編集があったはずだ。たしか、それは『輪廻の蛇』という短編集だったと思い出した。そこで探した。出てこない。どこに置いてあるのか見当もつかない。やむなく買うしかないかと思って、ネットで探したら、絶版か品切れで、古書には、びっくりするような値段がつけられていた。それが昨年のこと。

そうしたら今年の1月下旬にかけて、書店にハインラインの『輪廻の蛇』が積まれているのではないか。イーサン・ホーク主演の『プリデスティネーション』公開にあわせての再販というのはありがたい。映画は「輪廻の蛇」原題’All You Zombies’の映画化とのこと。結局、いまなおみつからぬ文庫本をあきらめ、この再販本を購入することにした。読めないとあきらめていたところなので、ほんとうにうれしい。

ちなみにこの短編集には、たとえばスラヴォイ・ジジェクが昔、論じたことのある「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」という中編も入っているのでお勧めでもある。なぜ「歪んだ家」と『インターステラー』かといえば、それは映画を短編を読めば、おのずとわかる。

今回の再販本には、高橋良平氏の新たな解説がつけられた(旧版の解説はなくなった)。
解説の最後に
ハイライン自身がファンタジイ集と呼んだ異色づくめの本書に、共通するテーマを探れば、それは愛と孤独といえるかもしれない。それゆえ、『宇宙の戦士』以来喧伝されて固定化した右寄りのハインライン像は、本書によって修正されるに違いない。

と。愛と孤独のテーマを扱ったら右寄りではなくなるというのは、頭がファンタジーすぎる。愛と孤独のテーマは、中道路線あるいは左翼路線なのか。頭がファンタジーになりそうだ。どうせ今や、ネトウヨのはびこる時代。むしろ右翼SF作家としてハインラインを永遠に固定したほうが、ハインラインの人気がでるのではないでしょうか。

posted by ohashi at 03:12| 英文学 | 更新情報をチェックする

2014年12月28日

ハリー・クラーク

親戚の女の子というか高校生が、落書きというか趣味でイラストを描いていて、見せてもらったので、感想を述べた。「う~ん、これは、一見、ビアズレー風のイラストだけれども、よく見ると、強いて言えばハリー・クラーク風だね」というと、え、ハリー・クラークを知っているの?と言われ、ひとしきり、ハリー・クラークで話が盛り上がり、ハリー・クラークを知らないその子の両親から尊敬されたというよりも、むしろあきれられた。その子が小学生の時に、ディズニー・シーの話で盛り上がったことがあったが、そのときディズニー・シーに行ったことがない、その子の両親が私に見せたのと同じ表情をしていた。

それはともかく、ハリー・クラークが好きだというので、今年、日本でも本が出ていたことを思い出し、AMAZONで調べて、その子に、本をプレゼントした。海野弘「著」ではなく「監修」で、バイリンガル版とある。よくわからないが、英語の本に簡単な解説をつけたものか。実物を見ていないので、何とも言えないのだが。AMAZONのカスタマー・レヴューには、次のようなものがあった。けっ、偉そうにというコメントだが、最初の一節だけ引用する。
華麗で妖艶な線画の美 投稿者 hatori 投稿日 2014/10/13
十九世紀末、挿絵画家の黄金時代後期に活躍した線画の名手ハリー・クラークの作品集です。モノクロ画の挿絵画家として有名なオーブリー・ビアズリーに対し、クラークは英語圏でも知名度が高いとはいえず、日本では荒俣宏氏の著書で言及される程度だったと思います。ところが2010年代に入り、クラークの挿絵付きアンデルセン作品集やファウストの刊行が相次ぎ、このたび生涯の作品を広く網羅した本書が刊行され、クラーク作品が一気に身近になってきました。

馬鹿野郎、英文学者、英文学研究者やファンだったら、ハリー・クラークの挿絵と名前くらいは知っているわい。あほか。この駄作野郎が(演技です--12月27日の記事参照)。

私がエドガー・アラン・ポウの作品を翻訳で初めて読んだとき(小学生か中学生だったが)、その挿絵はハリー・クラークの絵だった。以後、ポウといえばハリー・クラークで、実際、創元推理文庫のポウ全集でも、ハリー・クラークのモノクロの挿画が、ブック・カバーから、口絵などに使われている。文庫サイズだから、絵が小さいのが残念なところだが、創元版は、ハリー・クラークとポウの作品との結びつきを決定的にしている。

ちなみに私が読んだポウの翻訳には色刷りのハリー・クラークの挿絵があった。モルグ街の殺人も、ライジーアも、黄金中も、大渦にのまれても、群衆の人も、すべてハリー・クラークの画像でしか、想像できなくなっている。私にとっても。また英文学あるいは米文学愛好者にとっても。

ちなみに2014年に出たちくま文庫のA.E.コッパード短編集『郵便局と蛇』のカバーもハリー・クラークの絵が使われていた。書店で手に取って、これはハリー・クラークだとわかり、うれしくなったことを覚えている。
posted by ohashi at 07:19| 英文学 | 更新情報をチェックする

2013年06月22日

The Book of Sir Thomas More覚書

アイデアをメモしておく。

継ぐのは誰か Succession問題

a.国王の友人や助言者をめぐる歴史劇による宗教文化の応酬。
b.エリザベス女王の衰弱と後継者問題の浮上 これを狙って演劇活動の胎動。
c.望ましき後継者へ
モアはSuccession(ヘンリー8世とアン・ブーリンの結婚)を認めない→二人の子であるエリザベス女王を後継者として承認しない。モアにハムレットの影(イアーゴの影)があるとすれば、それはモアがハムレットやイアーゴとともに結婚に反対する人間。
モアは、Witが誤ってLady Vanity(アン・ブーリン)と結婚しないよう助言するGood Counseler。
d.イングランドのカトリック・コミュニティが望ましい後継者として指定したのはスコットランドのジェイムズ一世 →1603年へ  1)カトリック革命に 2)寛容な宗教政策
e. Anthony Mundayの旧作(Master of Revelsによって却下されたか書き直し要求された)に改訂・修正をほどこすべく、ロンドンの演劇界のカトリック寄りの中堅劇作家が結集した。
 マンデイ:隠れカトリックの要素が強い。
 ヘイウッド:トマス・モア家につながるジャスパー・ヘイウッドと関係ありか?
 チェトル:不明
 シェイクスピア:最も怪しい隠れカトリック。
 めざすはカトリック革命。ただしモアは国王ではないので、そこに望ましき為政者の姿が描かれるわけではない。
f.その当時書かれたトマス・モア伝は、時代の節目に、政権交代するときに登場。『サー・トマス・モア』もその例に漏れない、その一つ。
g。革命はなぜ失敗したのか。ジェイムズ一世への期待と落胆。Gunpowder Plotの発覚。→カトリック・コミュニティの一時的弱体化。『サー・トマス・モア』は上演もされずに長い眠りについた。
『サー・トマス・モア』はユートピアの岸辺に辿りつけなかった。
以上
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2013年06月19日

山の言葉

前回「三姉妹」(2013年6月1日)のところで、タイトルを山の言葉とした。ハロルド・ピンターの戯曲のことが念頭にあったからである。

ピンターのその作品は、劇作家がクルド族のへの迫害と惨状をまのあたりにして生まれたといわれている。作品には、トルコとかクルド族の名前は出てこない。どこともしれない国で、山の民が、言葉を奪われ、都の言葉を話すように強制され迫害されるという厳しい状況を扱っている。またどこの国とも明記されていないぶん、現在、世界でいまなお続く少数民族迫害の現実を観客につきつける。

問題は、その日本語訳でとんでもないことが起こっていることである。現在、それはハヤカワ演劇文庫に入っていて、簡単に入手し、読むことができる。私は比較的最近知ったのであって、業界では話題になって久しく、旧聞に属する問題かもしれないが、取り上げる。

作品の内容の詳細は除くか、そのなかにこんなやり取りがある。


若い女 私の名前はセアラ・ジョンソンです。夫に面会に来ました。当然の権利です。どこなん
    です、あの人は?
士官  書類を見せて。
           彼女は一枚の紙を渡す。彼はそれを調べ、軍曹の方を向く。
    亭主は山の者じゃない。ここじゃ場違いだ。
軍曹  女もですな。こいつはおまんこくさいインテリのようにみえますぜ。
士官  しかしお前はこの女がケツを振ると言ったな。
軍曹  インテリほどケツの振り方がいいんですよ。
           照明消える。

喜志哲雄訳である。

「こいつはおまんこくさいインテリのようにみえますぜ」というのは原文ではShe looks lika a fucking intellectual to me.であり、「彼女は、いまいましい/いやな/くそったれなインテリに見える」というのが普通の訳であろう。つまり「色気のないインテリ女、セックスに興味のないインテリ女、不感症のインテリ女」くらいの意味だろう。それが「おまんこくさい」と訳されてしまうと意味不明になる。強いて言えば、まんこくさいの意味をくんで、「この女は下品なまでに色っぽいインテリ女」という意味なのだろうか。

だとしたら次の行と齟齬をきたす。「しかし、おまえは、この女がケツを振ると言ったな」(But you said her arse wobbled.)とある。これは「彼女が色っぽい、はちきれんばかりの色気がある」という意味だろう。すぐ前の行で、「色気のないインテリ女」と言い放つ軍曹に対して士官が、「まえにおまえは、この女が色っぽい」と言ったのではと、つっこむのである。そこで軍曹は「インテリ女が案外一番色っぽいもんですよ」と答える。そうなると筋が通る。

Fuckingに「おまんこくさい」と言うわけのわからない訳語を当てたために、意味がとおらなくなった。ひょっとしたら「しょんべんくさい」インテリ女という、≪頭でっかちで性的に成熟していないインテリ女≫というつもりが、「おまんこくさい」などという、私自身これまでの人生の一度も使ったことのない、わけわかない言葉を使ったために、意味がとおらなくなったのか。誤訳といっていい。へんなこだわりのために、せっかくの翻訳がここだけ誤訳になったのである。

ともかくfuckingの訳語に「おまんこくさい」というのは、おかしいのではと、編集者も喜志先生に一言申し上げておくべきだったのでは。まあ喜志哲雄、怖そうだから、なにも言えなかったということだろう。それならば許すしかない。しかし、もし編集者が喜志哲雄に説得されてこれでいいとでも思ったのなら、洗脳されてんじゃないぞ、このおバカ編集者としか言いようがない。

Fuckingをおまんこくさいと訳したために、統一上、つぎのような表現をすることになった。

誰なんだ、あのおまんこくさい女は? 何をやっているんだ、あのおまんこくさい女は、ここで? どいつだよ、あのおまんこくさい女をおまんこくさいドアからなかに入れたのは? Who’s that fucking woman? What’s that fucking woman doing here? Who let that fucking woman through the fucking door?

「おまんこくさいドア」というのは、どんなドアなんだ。どいつだ、こんなわけのわからない訳文を作ったのは。喜志哲雄である。Fuckingについて普通の訳語をあてておけば、「おまんこくさいドア」という、下品を通り越してシュールなイメージも発散するような、変な訳文にはならなかったはずだ。それにfuckingの意味を説明的に訳しても、「おまんこくさい」にはならない。まあペットの猫の生理時の****の臭さから、発情している女とでも言いたかったのかもしれないが、ドアは発情しませんよ、喜志先生。

それにしてもドアまでおまんこくさくなった、この不適切な訳語については、どうしても使ってみたかったのだろう。老人のセクハラみたいなものなのだろうか。それを思うとちょっと嫌な感じがする。

ハロルド・ピンター 『 景気づけに一杯 山の言葉 ほか』((ハヤカワ演劇文庫 24)(早川書房 2009)。
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2013年06月15日

『二都物語』

私と『二都物語』

すでに2013年6月5日のオブリビオン3の記事で、ディケンズの『二都物語』について触れた。映画のなかでトム・クルーズが廃墟となった地球で集めてくる本のひとつに、ディケンズのこの作品があった。映画のすごいところは、この小説もまた映画の内容とシンクロする部分があるということである。映画を観終わったあと、この小説を思い出すと、驚く。そうか、と。

私がディケンズの『二都物語』に初めて出会ったのは小学生の時だった。病弱な私は、いつも風邪にかかり高熱をだし、学校を休んでばかりいた。そんなとき、朝から寝込んでいて退屈だろうと、母親がポータブルテレビを布団の横にもってきてくれた。父親は仕事の関係で、もらってくるか、買ってくるかしていて、我が家にはいつも目新しい家電があった。いわゆるポータブルテレビもそのひとつで、モノクロなのだが、画面はけっこう鮮明だった。二代目のテレビとしてけっこう重宝していたことを思い出す。

寝込んでいた小学生の私は、母が置いてくれたそのポータブルテレビで、たぶんNHKで放送していた映画をみていた(吹き替えだったと思う)。途中からだったので、最初は話についていけなかったが、だんだん話が見えてきた。フランス革命の時代、その動乱に巻き込まれたイギリス人たちの話で、最後には、自分の友人とその友人の恋人を助けるために、自分が身代わりとなって、断頭台の露と消えていく男の話になって、映画から目が離せなくなった。まあ、ダーク・ボカートがかっこよかったというのも事実だった。

ヒーローとしては、悪なんだけれども、悪の外見の下に、他者のためにみずから犠牲になることもいとわない高貴な魂を宿しているという、英文学では18世紀以後に登場するパタンを踏襲している。演劇で言えば、たとえばコングリーヴの『悪口学校』とか、あるいはバーナード・ショーの『悪魔の弟子』の主人公といっても、両者ともに、『二都物語』のよりは、知名度が低いので、参考にならないか。

レストレーション・ドラマにおける不道徳な主人公たちが批判の対象となったとき、不良で悪で放蕩者なのだけれども、内面はイノセントで高貴だという主人公が生まれた。たとえばそれはジョニー・デップが、ロチェスター伯を演じた映画『リバティーン』にも引き継がれていて、梅毒で鼻がもげるほどの放蕩を繰り返した詩人も、誰よりも国王と国家の秩序を思う憂国の士であったとわかるのである。このタイプの主人公は、善人であることが確保されているので、ひねくれればひねくれるほど、悪に染まれば染まるほど、堕落すればするほど、嫌われれば嫌われるほど、人間的魅力が増すのである。

残念ながら、映画『二都物語』のダーク・ボガートはかっこよすぎて(彼がゲイであったことを私が知るのは、ずっとあとのことだが)、私にはその真似ごとすらできなかったのだが、映画の最後はいまも鮮明に覚えている。

『二都物語』(ラルフ・トーマス監督1957年、イギリス映画)。身代わりとなって断頭台の露と消えることになるシドニー・カートン/ダーク・ボガートは、処刑される貴族の一団に加わって順番を待っている。処刑されるのは、かつては権勢を誇り腐敗した放蕩的貴族たちばかりだが、そのなかに幼い少女も交じっている。この少女と彼が際立っていたように思う(まあスクリーン・メモリーかもしれないが)、この少女が処刑される直前、怖いといって彼に抱きつく。怖くないからとなだめられた少女は、断頭台で、邪魔になる長い髪を処刑人によってたくし上げられると、驚くほど美しい女性のうなじがあらわれるという衝撃的な場面のあと、ダーク・ボガートが断頭台へと階段をのぼってゆく。彼自身によるナレーションが入る。またそこに彼の犠牲的行為によって、生き延び再会できた恋人たちの映像が入る。そして断頭台の階段を、階段の裏からとらえるカメラ。階段を登る彼の姿を裏からとらえるカメラ。そしてナレーション。エンドマーク。

見ているのは小学生である。こんな物語があるのかと衝撃を受け、そして自己犠牲をいとわぬ情念の強さに圧倒された。しかし、それは映画の迫力であって、その後、小説を読んだときは、長い小説で、いろいろなことが書いてあって、かつての衝撃は蘇ってこなかった。筋立てを簡略化して衝撃性を高めた映画の結末であったからこそ、小学生の私も熱を出したのではなかったか。

母親がテレビを片付けにきて、私の熱を測ったら、高熱を出していた。まだ風邪がなおっていなかったのか、あるいは、映画をみて興奮しすぎて高熱をだしたのか、それは私にもわからなかったのだが、以後、風邪で寝込んだときには、テレビをみせてもらえなくなっていた。
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2013年06月14日

カクシンハン公演『リア』つづき

前日(6月13日)の記事のつづき

カクシンハン公演、まあ、冷静にチラシをみてみれば、最初からすばらしさが予感できたはずだ。なにしろ主役のリアを演ずるのは河内大和で、「りゅーとぴあ能楽堂シェイクスピアシリーズ」や、08年に旗揚げされた「KURITAカンパニー」で今年退団するまでシェイクスピア劇の主役を演じるなどして中核的存在として活躍した俳優だからである。

実際その舞台は、その身体表現ともども、見事というほかはなく、おそらく彼の演技を目当てに劇場に足を運ぶ観客も多いはずだ。

そしてそうした俳優たちを演出した木村龍之介君の力量も相当なものだと感心した。で、木村君、将来まちがいなく、本格的なシェイクスピア劇も上演できる演出家になる、いやすでにそうなっている、彼にとって残る緊急な課題は卒業することである。そう、パンフレットにも書いてあったが、彼はまだ東大を卒業していない。私はすでに単位を出した。高い評価の成績を獲得している。ただ単位数が足りない。私が出せる単位はもうないので、私が助けるわけにはいかないが、無事卒業して欲しいと思う。能力について何も心配していない。ただ演劇関係者は、まじめに授業に出て単位をとるなんてことは絶対にしたことのない連中ばかりだから(もちろん全員がそうだというわけではない。そういう連中は、100名中99.9人にすぎないのだが)、環境が悪すぎる。悪い仲間に囲まれて、ダークサイドに堕ちないことを祈るばかりである。白井なんとかという演出家よりも、はるかにすぐれた演出家なのだから、もうすでに。
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2013年06月13日

カクシンハン公演『リア』

本日、Theatre Companyカクシンハンの公演『リア』 (シェイクスピアの『リア王』)に行ってきた。場所はSpace雑遊(新宿三丁目 都営新宿線新宿三丁目駅C5出口の前)。6月12日から16日まで。

すでに劇団公演は3回目のようなのだが、私としては初めての公演で、観終わった後、初めてなのが恥ずかしくなった。前2回の公演も見ておくとよかったと反省。まあ最初は、半信半疑で期待も少なく、ただ演出の木村龍之介がどのくらいの腕前なのか、多少、問題があっても将来性を買って大目に見てやろうなどと、そんな上から目線の考え方で劇場に入った。

いや、すばらしい公演でびっくりした。期待以上というよりも、期待をはるかに超える素晴らしい公演だった。シェイクスピアの台詞を、省略はあっても、変えていないところがすごい。今回2時間40分(休憩10分を含む)の公演で、シェイクスピアの台詞の魅力と力強さを体感したといってもいい。シェイクスピア劇に思い入れのある私としては、とにかくシェイクスピアの台詞を全部聞け、そのさまざまな特徴と全体的な劇的緊張を満喫できたことはよかった(実際演技者のアーティキュレーションはすばらしく、すべて明瞭に聞き取れた)。またシェイクスピア劇に思い入れはない観客であっても、これだけの台詞量の、超本格的な演劇公演に接して興奮しないはずはない。

また演出も、その意図を疑わせるものもないわけではないが、私には逆立ちしても真似のできない斬新な演出もあり、絵としても、また映像効果、音響効果としても、興奮できるすばらしさがあった。しかも平日であっても、ほぼ満席で、また関係者席というがほとんどなくて、ほぼ一般席(たとえ演劇関係者であっても関係者ではない観客)であったことも、この劇団の人気をうかがわせるものがある。とにかく素晴らしい公演の第一報を。また今後、この劇団の公演をフォローしようと思った率直な感想も添えて。

posted by ohashi at 23:32| 英文学 | 更新情報をチェックする

2013年06月12日

黒澤明のシェイクスピア映画 1

はじめに
黒澤明のシェイクスピア映画はボーダーライン上の作品を含めて四作品――すなわち『悪い奴ほどよく眠る』『蜘蛛巣城』『乱』そして『生きもの記録』である。『生きもの記録』は『リア王』の翻案とみる欧米圏での視点もあるが、核の脅威、世界の終末を幻視する老人、その老人を狂人扱いする周囲の人間、ついには発狂する老人と、リア王と共通する要素はあるが、類似は意図的ではなく偶然であろう。ただ喜ばしき偶然によって、通常でもエコロジカルな解釈を招く『リア王』理解に、狂気へといたる終末観という新たな次元を加えた功績は大きいと言わざるをえない。ただ『生きものの記録』を除いても、黒澤シェイクスピア映画は三本なのか。『蜘蛛巣城』と『乱』が、それぞれシェイクスピアの『マクベス』と『リア王』の世界を日本の戦国時代に置き換えた誰もが認めるシェイクスピア映画であって、『悪い奴ほどよく眠る』が『ハムレット』の翻案作品であるという情報は不必要な攪乱的観点として退けられているようにみえる――少なくとも日本では。

『悪い奴ほどよく眠る』――『ハムレット』を眠らせるな
巨悪を眠らせるなというフレーズは、いまでもメディアなどで使われる表現だが、考えてみるとおかしなことで、巨悪ならずっと眠っていてもらいたい。ウィンダム・ルイスの古典的破滅型SF『海竜(クラーケン)めざめる』(1953)が描くような、潜伏していた異星の生命体が、害宇宙からの信号で目覚めて地球環境を改変するという事態は、恐怖以外のなにものでもない(ルイスのこのSFは、黒澤の『生きもの記録』とエコロジカルな恐怖において共通点がある)。それが恐怖ではなく正義の怒りの表現となるのは、フレーズの起源が黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』であるからだ。

殺人事件にまで発展する官公庁の汚職事件を暴こうとする主人公の奮闘もむなしく、映画では真相は闇に葬り去られるかにみえる。映画の最後、事件の首謀者で開発公団の副総裁(森雅之)が電話をかける。相手は、副総裁が電話口でも最敬礼して応対する謎の人物(黒幕とおぼしき)である。最後に副総裁は「おやすみなさい」と言って電話を切ろうとして、自分の失言に気付く。良く眠れなかったので昼夜をとりちがえたからだと弁明する。悪役の副総裁ですら心労で眠れなかった。だが真の黒幕は安眠をさまたげられることはない。最後に映画のタイトルが写しだされる――「悪い奴ほどよく眠る」。

原作の『ハムレット』は、亡霊の出現で始まるとすれば、この映画は、結婚式で始まり、両者の関係性は薄いようにみえる。戯曲では結ばれなかったハムレットとオフィーリアも、映画では最初から結ばれる。それは土地開発公団副総裁の娘と秘書の結婚式というかたちで。ハムレットは西幸一/三船敏郎であり、オフィーリアは岩淵佳子/香川京子である。二人の結婚式は、多くの報道関係者を、このスペクタクルの観客に仕立てて劇場的盛り上がりをみせるかのようだ。

そう、これは戯曲における劇中劇、すなわち現国王クローディアス(ハムレットの父親の弟)の犯罪行為を再現した劇を上演し、それをみて動揺するクローディアスをみて、そこに犯罪の確証とする挑戦的行為だったが、映画では、式のクライマックスたるケーキ入刀で、運びこまれる公団のビルをかたどったケーキが、犯罪行為を再現するものだった。なぜならその公団ビルのケーキの七階には、赤いバラの花が刺さっていて、それが5年前の公団課長補佐、古谷が飛び降り自殺した窓であったからだ。こうして結婚式は土地開発公団内における腐敗と犯罪を暴く場と化し、それをひそかに仕組んだのが花婿の西/三船敏郎だということから、策略と陰謀と劇場的仕掛けに満ちた復讐劇として、この映画と戯曲は物語を共有するかにみえる。自殺した古谷課長の息子は別人である西になりすまして復讐の機会をうかがうのだが、これは狂人のふりをするハムレットの策略と通ずるところがある。

けれどもそれ以後は、『ハムレット』の要素は共有と兼任化を経ることになる。たとえば三船/ハムレットの父にして亡霊は、死んだ父親は登場せず、代わりに死んだと思われた公団契約課長補佐和田/藤原鎌足が亡霊のように扱われる。死んだはずの公団課長補佐和田をみて発狂する課長の白井/西村晃は、ハムレットの母親ガートルードと発狂するオフィーリアの二役的存在となる。またオフィーリア/香川京子の兄レアティーズにあたるのは岩淵辰夫/三橋達也だが、ふたりの父が岩淵公団副総裁/森雅之となると、彼は戯曲のポローニアスとクローディアスを兼任することになる。

ここまでくると『ハムレット』の面影はなくなるのではないかと思われるかもしれないが、それでも『ハムレット』は眠らないのは、原作のハムレットとその友人ホレイショーとの関係が、映画でも西/三船と板倉/加藤武との関係に反映されており、原作のみずから傷つきながらも復讐を果たして死んでゆくハムレットとは異なり、西/三船は、復讐の半ばで無残にも殺されてしまうものの、後に残って真実を告げるホレイショー/板倉/加藤武の存在が、この映画をまぎれもなく『ハムレット』の現代版としている。つづく
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2013年06月07日

吉田寅次郎

このところ煮詰まっていて仕事に追われ、夜も寝ている場合ではないのだが、しかしもともと体力がないほうなので、眠らないと、ただでさえ無い知恵が絞りだせない。そういえば蚊に自分の手を刺させて、目を覚ました人物がいた。思い出した吉田松陰である。

『宝島』とか『ジキル博士とハイド氏』で有名なロバート・ルイス・スティーヴンソンに吉田松陰に関する伝記(短編)があって、これは日本での伝記よりも早い、ということは世界一早い吉田松陰の伝記であることは、一部には良く知られていることである。私がたまたまそれを知ったのは、昔、R.W.チェムバーズのトマス・モアの伝記を読んだときである。チェムバーズは、トマス・モア研究の第一人者でその伝記は今でも最も基本的な資料となっている。トマス・モアが若い頃、寝る間も惜しんでいかに勉強したかを語るとき、チェンバースは、なんと、日本のサムライの思想家を例にあげてるのだ。蚊に手を刺させて睡魔を追い払った人物として。しかも、あのロバート・ルイス・スティーヴンソンによればとある、注には‘Torajiro Yoshida’とだけある。このヨシダトラジロウというのが吉田松陰ということはわかったが、スティーヴンソンとの関係もわからぬまま、そのまま放置した。昔はまだネット時代でなかった(少なくとも私は、ネット社会の恩恵を被るには至っていなかった)。調べようと思ったら図書館にこもるしかなかったのだが、いつか暇になったらと思い、なにもしなかった。

時代はかわったもので、いまやネット社会。ウェブ上で調べたらすぐにわかった。「蚊がどうのこうの」というのは、スティーヴンソンのFamiliar Studies of Men and Books (1882)に収録されている伝記‘Yoshida Torajiro’に書かれたていることである。この本文は、いまやネットで読むことができるし、簡単にダウンロードもできる。またすでにいくつか日本語もあるようだ。ためしに英語で読んでみたが、難しい単語はないのだが、日本の歴史のことだからわかりやすいと思っていると、言っていることが抽象的で難解なところも多い。ひょっとしたら日本人にはわかりにくいが英語圏の人間にはわかりやすいのかもしれないが。

ではなぜスティーヴンソンが吉田松陰の伝記を書くようになったのかというと、
教育・文化面では、幕末、山田と同じく松下村塾で学んだ 正木退蔵まさきたいぞう (1846-1896)が挙げられます。正木は維新後「東京職工学校(現 東京工業大学)」の初代校長を務め、また、松陰を海外に伝える役割を果たしたことで特筆されます。正木は1871(明治4)年、ロンドン大学で化学を学び、帰国後、工部省を経て文部省へ。その後再び渡英し、留学生の監督のほか「東京大学」などのお雇い教師の募集や教育の調査などに携わったようです。
「おいでませ山口県ブランド館」ホームページより。http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/gyosei/kanko/brand/index.html


さらに詳しくは、よしだみどり氏による著書二冊『烈々たる日本人』(祥伝社 2000)および『物語る人(トゥシターラ)—『宝島』の作者R・L・スティーヴンスンの生涯』(毎日新聞社1999/12)に詳しい。

私が図書館とは図書室で調べるのを止めていたときに、すでに本まで書かれ、関連資料とかスティーヴンソンの原文を簡単に読めるというのは隔世の感がある。この件で、私が貢献できるといえば、スティーヴンソンのこの伝記は、吉田松陰を知る日本人だけでなく英国人にもよく読まれていたのではないか、それもトマス・モアや英国初期近代の文学文化の研究家にも読まれ、あろうことかトマス・モアの伝記に、吉田寅次郎(松陰)の名が、顔を出しているのである。

となるとこの正木退蔵とは、『長州5(ファイヴ)』に出ていた人かと思い当たり、調べたが自分の歴史の無知を痛感するだけだった。長州ファイブとは、幕末に長州藩から派遣されてヨーロッパに秘密留学した、井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)の5人の長州藩士のことである。映画にもなった――『長州ファイヴ』(五十嵐匠監督、2006)。この歴史映画の重厚さと美しい映像に私は感嘆したが、俳優たちの熱演や監督のすぐれた演出にもかかわらず、そのタイトルで損をした。実は「長州ファイブ」とは、彼らの偉業をたたえてロンドン大学に建てられた顕彰碑「長州ファイブ (Choshu Five)」から来ていて由緒正しいものなのだが、宣伝不足もあり、タイトルだけではポップな幕末物時代劇くらいにしか思えず、逆に、長州(山口)を馬鹿にしているのではと勘違いした者もいたのではないか(かくいう私がそうだった)。また正木退蔵はこの長州五傑には入っていなかったが、なぜ私は、いま、この映画を思い出したのだろう。

おそらくそれは映画『長州ファイヴ』で、松田龍平演ずるところの山尾庸三をめぐるスコットランドの造船場の挿話と映像が印象的だったからで、この山尾庸三は、東京大学工学部の前身となる工学寮を設立し、日本の工学の父と呼ばれている。同じく正木退蔵もスコットランドに留学して、東京工業大の初代学長となっている。両者を私は混同してしまったが、明治期の日本の工学系アカデミーを設立した双璧なのだから混同もやむなしか(なお現在上映中の映画『探偵はBARにいる2』ならびに『船を編む』に出演中の松田龍平のことを思い浮かべる機会があり、そこから、この映画を連想したのかもしれないが)。

ただ、私が映画『長州ファイブ』を思い出した要因はほかにもある。映画に俳優の北村有起哉が井上馨役で出演していたからだ。井上肇は留学半ばで帰国し、維新期から明治期において政治家として大いに活躍するのだが、その役が印象的だった。北村はそれまでにも映画に出ているが、私個人的には『長州ファイブ』まで、印象に残らなかった(近年のテレビドラマでの活躍も、その映画以降ではないかと思う)。その北村有起哉が高野志穂と6月4日結婚したことが報じられたからである。

すべての道は『長州ファイブ』に通じたのだが、その基点は、吉田松陰の伝記、それもあろうことか、スティーヴンソンの伝記であり、さらにそれを読んだトマス・モア学者の記述であった。カオス理論みたいな話になった。山口県の人たちに、いまなお敬愛されてやまない吉田松陰は、ある意味、植民地帝国主義者であり、韓国、中国とのいま現在の摩擦の淵源となったような人物でもあるが、その人物が、そうした側面を知る由もなかったスティーヴソンによっていち早く伝記の題材となり、さらにその伝記の内容の一部が、トマス・モアの伝記のなかで言及されるとは、誰が予想しえたであろう。もちろん英文学の話をするつもりが映画の話になったことも、自分でいうのもなんだが、予想外だった。
posted by ohashi at 12:02| 英文学 | 更新情報をチェックする

2013年06月04日

作者とは何か? 1

Case1 J T LeRoy編

6月3日にテレビ東京夜9時00分~夜9時54分の番組「実録世界のミステリー:人生が大逆転!35歳、女の運命を変えた大ウソ」の後半のほうをたまたま見た。内容は「小説家になることを夢見る彼女は自分の小説が売れるようにとあるウソをついた。そのおかげで小説は大ヒットし映画化も実現!しかし、彼女はそれを隠すために嘘を重ね、後戻りできない状態に…。世界中を騙して夢を叶えた35歳の女性の結末は!?」というもの。

その再現ドラマをぼんやり見ていたら、忘却から覚醒してきた。これ読んだことがあるというのだったら話は面白かったのだが、そうではなくて、アマゾンのカートに、ずいぶん前に保存して、そのままになっていた本だと思い出した。『サラ、神に背いた少年』と『サラ、いつわりの祈り』の2冊だ。どうしてそれを読もう、あるいは購入しようと思ったのか、その経緯は思い出せなかったが、一刻も早く読みたい、購入したいというような本ではなかったようだ(ああ、思い出せない)。また作者をめぐってスキャンダラスな事件があったようで、詳しく調べなかったのだが、なにか面倒な本かもしれないと思い、購入を躊躇したのかもしれない。スキャンダラスな事件がらみで読もうと思ったわけではない。

今回、再現ドラマから、いろいろなことがわかった。35歳の女性(ローラ・アルバート)は14歳の少年をめぐる小説を書いたのだが、その際、作者を14歳の少年であり、ローラ自身は社会福祉士であると嘘をつき出版社に売り込んだ。そこまでは軽い嘘のつもりだったのかもしれないが、小説がヒットし、原稿料を受け取るまでになると、真実を告白できなくなり、嘘に嘘を重ねることになる。出版社からの要請で作者を公の場所に出さねならなくなったとき、自分の恋人の妹に男装させ、作者と偽った。さらにはローラは、リロイを性同一障害者と偽ることになり、リロイにカリスマ性すら獲得することになる。だが新聞記者がリロイのことを不信に思い、ついにリロイに扮している女性の兄、ローラの恋人に取材し真相を聞き出すことに成功、すべてが明るみに出る。

再現ドラマを見て、そういうことだったのかと(そのドラマが真実を反映しているとしての話だが)、認識を新たにしたのだが、複雑な話ではないのに、ややこしい話と私が思いこんだのは、実際に起ったとは思えない荒唐無稽な話だったからだ。そうローラ・アルバートも、これまでの経緯を書いたら、さぞかし面白い小悦になるのではないかと思うのだが。

実際のところ、女性の作者が、これは14歳の少年が書いた自伝小説であり、すべては実話だというような嘘をつくことは、よくあることで、たとえ作者はそんな嘘はつかなくても、出版社のほうが積極的に、宣伝のためにこういう嘘を利用することはあるだろう。しかし、作者の少年をでっちあげるために、自分の恋人の妹に男装させて少年に変装させるとなると、悪ふざけがひどすぎるし、犯罪的な行為に近くなる。そんなことをする度胸は私にはないし、私が異常ではないだろう。実際、そんな度胸があるとすれば、正直言って悪ふざけを平気でする犯罪者的な馬鹿か、犯罪者そのものだろう。ローラ・アルバートは不幸な生い立ちの女性らしいのだが、同時に、それはこれまで生きてきた、犯罪者がいる環境が彼女の性格を形成することになり、端的に言って性質の悪い俗悪な人間なのだ。ありもしない作者を、すぐ変装とわかるような男装女性によってでっちあげ、その作者にインタヴューをさせるというのは、いたずらの域を完全に超えているのである。

ただ、こうは言える。作者が詐欺師だったが、その作品は、すぐれていたことは、まちがいないだろう、と。こうした作品に感動した読者がいても全然おかしくない。それはいいのだが、無教養な女性に下手な男装をさせただけの作者リロイが、インタヴューを受け、そこで語られたことに感動する読者がいるとなると、頭をかかえたくなる。そんなとき、作者とは何かを考えざるをえなくなる。そこでこれから数回にわたって、作者機能について、考えたことを書いてみたい。

ちなみにリロイの作品は『サラ、神に背いた少年』(Sarah)と『サラ、いつわりの祈り(The Heart Is Deceitful Above All Things)』は、金原瑞人が訳している。ざまあ、みろ(失礼)と、わけもなく楽しくなるのだが、さらに第三作『かたつむりハロルド』は金原朋樹という人物が訳している。これって金原一族? まあ、私としても、こんないかがわしい作品を喜んで訳すような愚は犯したくない。もし年を取っていたら、晩節を汚すというのは、このことだ。と言いたいところだが、繰り返すが、作品は良くできた、面白い話なのだろう。むしろ、金原訳であることを、全面に出していいのではないか。翻訳には定評があるのだから、読むに値する本だと思う。

私は、アマゾンのカートに保存していた2冊を取り出して、注文したところである。読んだ報告もしたいと思っている。つづく
posted by ohashi at 23:42| 英文学 | 更新情報をチェックする