2017年08月24日

『ハイドリヒを撃て』

この映画が扱っている歴史的事件はラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件である。以下ウィキペディアで「ハイドリヒ」の項を引用すると


ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 190437 - 194264日)は、ドイツの政治家、軍人。最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)および警察大将(General der Polizei)。

国家保安本部(RSHA)の事実上の初代長官。ドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者となった。ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者であった。その冷酷さから親衛隊の部下たちから「金髪の野獣(Die blonde Bestie)」と渾名された。戦時中にはベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治にあたっていたが、大英帝国政府およびチェコスロバキア亡命政府が送りこんだチェコ人部隊により暗殺された(エンスラポイド作戦)。


映画の原題はこの作戦名Anthropoid。ウィキペディアの「エンスラポイド作戦から引用すると:


エンスラポイド作戦(Operation Anthropoid)は、第二次世界大戦中、大英帝国政府とチェコスロバキア駐英亡命政府により計画された、ナチス・ドイツのベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治者ラインハルト・ハイドリヒの暗殺作戦のコードネームである。日本語では、「類人猿作戦」などとも訳される。ハイドリヒは、ナチスの秘密警察を束ねる国家保安本部の長官であり、ユダヤ人や他の人種の虐殺に対する「ユダヤ人問題の最終的解決」(ナチスはユダヤ人や少数民族の絶滅政策のことを婉曲的に「最終的解決」と称していた)を行うナチスの主要計画遂行者であった。


この事件を扱った映画として、おそらくもっとも有名なのは大戦中の1942年に上映されたフリッツ・ラングの『死刑執行人もまた死す』(Hangman Also Dies)だが(現在DVDでも簡単に見ることができる。またこの映画のシナリオにはブレヒトが関係していた)、映画化作品はほかにもあり、さらに小説『HHH』を原作とした映画も2017年にはつくられている(公開されるかどうかわからないが)。


またハイドリヒと最終解決については、これもテレビ映画『謀議』が制作された。私はDVDで観たのだが、ナチス高官がハイドリヒを議長にして最終解決問題を検討した会議で、ホロコーストを法的に正当化する手続きを検討し、大量にでる死者をどう処理するかという難問を検討する白熱の議論を会議室だけを舞台にして再現するテレビ映画だった。検討されているのは難問ばかりで、要はホロコーストは辞めたほうが得策だと誰もが思うところ、最初からホロコーストありきで、会議を強引に導いていくハイドリヒの不条理さ、そしてハイドリヒのお友達ヒトラーが怖くて、ハイドリヒの意図を忖度する会議メンバーたちが印象的だった。ケネス・ブラナーがハイドリヒを演じていて(スティーヴン・トゥッチがアイヒマンを演じている)、ちょっと金髪の野獣というイメージとは程遠くて、そこに難があったのだが。


『謀議』(原題: Conspiracy)は、第二次世界大戦中にドイツのヴァンゼーでナチス・ドイツ高官達が集まって開かれた、ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅を議論したヴァンゼー会議をテーマにした、アメリカ・イギリス共同制作のテレビ映画。


ヴァンゼー会議(独: Wannseekonferenz、英: Wannsee Conference)は、15名のヒトラー政権の高官が会同して、ヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害について分担と連携を討議した会議である。会議は1942120日にベルリンの高級住宅地、ヴァンゼー湖畔にある親衛隊の所有する邸宅で開催された。


もうひとつ私が、この『ハイドリヒを撃て』に興味をもったのは、監督がショーン・エリスであること。『フローズン・タイム』とか『ブロークン』の監督(『メトロマニア』は観ていない)だったからだ。世界的に活躍する写真家でもあって日本にも来ている。あと映画のなかでの暗殺実行者の二人、ヨゼフ・ガブチーク を キリアン・マーフィが、ヤン・クビシュを ジェイミー・ドーナンが演じているが、ジェイミー・ドーナンは『フィフティ・シェイズ』の男でしょう、ちょっと見る気が失せるのだが、この映画では熱演していた。


前置きが長くなったが、この映画は、パラシュートで降下した二人が、プラハの街に潜入して暗殺実行するまでが前半(時計で測ったわけではないので、かんたんにそんな感じと思っているのだが)。モノクロ映画かと思われるくらいに、抑えた色調(セピア色的)の映画で、潜入してからは淡々とした日常がつづいていく。


この猛暑のなか新宿武蔵野館に到着する頃には、体の表面が溶け始めて、どろどろになっている。また新宿武蔵野館の館内、いつも臭い。生臭い。同じビルに入っている居酒屋から料理の煙がもれてくるみたいで(実際にどうかわからないが、そうとしか思えないのだ)、いつも変な臭いがロビーに満ちている。ためしに帰りに階段から降りてみるとよい。階段は、冷房がないので、夏だと生暖かいが、まったくの無臭である。で、そんな謎の臭いの漂う映画館に、体の表面が溶けかかっている(『ナウシカ』の巨神兵みたいなものである)私が到着して映画館のシートに身を沈めたら、すぐに睡魔が襲ってくる。そのため前半は記憶をなくしているところがある。


記憶喪失は私の責任だが、ただ、映画のなかで潜入するといっても、異国や他国ではなく、ナチスに占領された自国である以上、アットホーム感が出ていて、緊張感が和らいでしまう。そして淡々とした日常。実際、暗殺実行者たちは、プラハで、それぞれ恋に落ち、結婚の約束まで交わしてしまうのだ。そのため緊張感はミニマムで、溶けかかっている私はいつしか……。


ただ暗殺実行のあとは、結末はわかっているとはいえ、胃が痛くなるような緊張感とともに、最後の銃撃戦にいたるまで一挙に緊迫した展開に入る。潜入して暗殺にかろうじて成功する以上、あとはお約束の敵中突破物となるのだが……ということになる。


ハイドリヒがオープンカーに乗車中に銃撃され、手りゅう弾を車の下に投げ込まれてその爆発によって死に至るのだが、護衛がいない。これについては、いろいろと言われているようだが、市民に警戒心をあたえないように、護衛も最小限あるいは護衛をつけずにいたことが裏目に出たという説がある。しかしチェコの国民を徹底的に弾圧していた張本人が暗殺あるいは襲撃の可能性を考えなかったのかということは謎かもしれない。おそらく、みくびっていたのだろう。反抗なり抵抗はない。かりにナチスの高官なり指導者を暗殺しようものなら、報復が恐ろしい。だからいくらナチスの軍隊を憎んでも、大規模な報復をおそれてなにもしないと見くびっていたのではないだろうか。護衛を少なくしてオープンカーにして市民と壁をもうけないというのは、サンケイ新聞的な解釈で、むしろそれは潜在的威圧行為でもあるかもしれない。


独裁者というのはそういうことをするのである。記憶にないという無責任な答弁で安部一族を守った佐川宣寿を国税庁長官にしたり、首相の妻のお付きの役人谷査恵子をイタリア日本大使館一等書記官に任命したりというのは、ご褒美であり、口封じであり、そして国民をバカにする所業だろう。人種差別で避難された警官をトランプ大統領が恩赦にしたのも(←8月28日に追記)、アメリカ国民を愚弄する暴挙だろう。批判してもしょせん、臆病者、根性なし、烏合の衆でであって、そんなやつらなど怖くないぞと、ハイドリヒが、安部一族が、トランプ一族が意思表示する。


だがチェコの場合、そこに予期せぬ強烈なしっぺ返しが来る。臆病者、根性なしと見くびっていたチェコ人からの反撃が生まれた。


もちろんその後の報復は予想通り、激烈をきわめ、映画では5000人の市民が犠牲になったとのこと。それはまた国際社会からの批判を浴び、同盟の見直しとなったことが語れる。これに対しては、突発的に起こった暗殺ではなく、計画的な暗殺であり、その結果は、予測できたことであって、そのような作戦を敢行しなければよかったという考え方もあろう。多くのプラハ市民は、何もわからないまま、殺された。だから暗殺実行者たちを非難することも可能だが、悪いのは、ナチスの軍隊である。指導者が殺されたことを、口実として、見せしめ的な大虐殺を心おきなく実行した凶悪さは、まさに悪魔の軍隊である--この凶悪さは、大陸における日本の軍隊のそれと選ぶところがない。


これは連続殺人犯が死刑執行人となったということであり、連続殺人犯を非難する前に連続殺人犯を告発した側を批判することは筋違いなのである。そして恐ろしいのは連続殺人犯が死刑執行人になるという体制ができてしまっていたことだ。この点は、どれほど強調しても強調しすぎることはない。


そもそも第二次世界大戦は占領戦であるといわれている。初戦でドイツがヨーロッパ全土をほぼ占領してしまう。ヨーロッパ各国は、ドイツ帝国下の植民地扱いになる。もはや大軍が対峙して正面衝突するのは過去の時代の戦いとなり、占領下におけるレジスタンスが主となる。占領と抵抗。このなかで占領軍の中枢に潜入し指揮系統の頂点にいる指揮官を殺害することは、戦術上当然の作戦であって、7人の降下兵は、最後まで最善を尽くしたということになる。戦時下において。犠牲は多かったが、私たちにできることは犠牲者を追悼することである。


映画の中で、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』が引用され、また読まれている。降下兵の一人が、踏みとどまって抵抗するときに、シェイクスピアからの引用をする。


Cowards die many times before their deaths.

The valiant never taste of death but once.(2.2)

(臆病者は、死ぬ前に何度も死んでいるが、勇者は、一度しか死を味あわない)


と。この台詞は、どの作品の誰の台詞だったかすぐに思い出せなかったが、映画のなかで『ジュリアス・シーザー』の本が出てきたので、『シーザー』であることはまちがいないと思った。ただ、これはシーザーの台詞で、不吉な予言とか噂があって、外出を辞めさせようとする妻にむかってシーザー自身が言う台詞なのだ。自分はそんな臆病者ではないと。ただこれには違和感がある。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』というのは、シーザーの偉業をたたえる話ではなくて、シーザーの暗殺を企ている側の物語である。そしてシーザーは劇の途中で殺される。ちょうど、この映画のラインハルト・ハインリヒのように。そう、ハインリヒ=シーザーであり、シェイクスピアの作品は本来なら『シーザーを撃て』というタイトルでもおかしくないのである。


『ジュリアス・シーザー』とこの映画とのアナロジーは、両作品に対する評価の再考を促す。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』は、ソフィスティケイトされた解釈が横行しすぎているか、逸脱的解釈が主流になっているのところがある。しかし愚直なまでに、素朴な解釈をすれば、シェイクスピアの作品は、独裁者シーザーを倒した7人が、やがて独裁体制側に圧殺されていく物語であって、ファシズムと戦い最後に散っていった勇者たちの追悼劇である。だからシーザー暗殺劇は、ハインリヒ暗殺映画と重なり合う。独裁者/死刑執行人を倒し、圧倒的な数の敵の前にやがて倒れた者たちの物語として。


シーザーを倒したあと、キャシアスは次のような台詞をいう――


How many ages hence.

Shall this our lofty scene be acted over

In states unborn and accents yet unknown!(3.1)

これからさきどれだけの時代が、この我らの英雄的な場面を上演してゆくことだろうか、いまだ生まれざる国で、いまだ知られざる言語で。


ハイドリヒ暗殺の映画は、フリッツ・ラングから数え、今回の映画もふくめて、6回か7回あるという。独裁者への抵抗の瞬間は、これからも上映されるだろう。これは帝国との勝ち目のたない戦いに一矢報いえた奇跡の瞬間である。それを上演・上映しつづけることは、独裁体制への戦いは決して終わることがないことを意味するだろう。また同時に、この戦いのなかで死んでいった者たち、犠牲者たちへの終わりなき追悼行為ともなろう。


映画の終わりにクレジットがでる。監督の名前ショーン・エリス。彼はイングランド出身のようだが名前はアイルランド系である。キリアン・マーフィー、そしてジェイミー・ドーナンともに、アイルランド出身である。アイルランドの映画ではないが、あるいは私の勝手な印象かもしれないが、ナチス・ドイツとチェコ人の戦いは、イングランド帝国とアイルランドとの戦いの影も帯びているだろう。そんな気もする。また、もちろん大日本帝国と、その暴虐の前に犠牲になったアジアの人びとのことを忘れてはいけないだろう。


posted by ohashi at 20:09| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月19日

『ベイビードライバー』

エドガー・ライトEdgar Wright監督がはじめてアメリカで撮影した映画ということもあって見に行った。上映館が少ないせいか、あるいは夏休みのせいか、けっこう人が入っているというか、満席状態なので、そんなに評判の映画かと思ったが、まあ、面白い映画なので、人気がでても当然か。


主人公は子供の頃の事故とトラウマで耳鳴りがするというので、始終、耳鳴りを打ち消すような音楽をiPodで聴いていないと生活ができない。またその運転技術を見込まれ、ギャングのボスに銀行強盗団のドライヴァーとして雇われている。犯罪と逃亡、カーチェイス、そして強烈な音楽。この三つの相乗効果によって、映画は音楽と映像のみごとなコラボをはたすエンターテインメント映画となっている。


まあ冒頭近くのタイトルが入る場面のシークエンスは、驚異のワンショット・ワンシーン、トラッキング・ショットというのかいわないのかわからないが、監督は、こんな撮影をいままでしたのかと思ったが、『ドーン・オブ・ザ・デッド』の冒頭が、まさにこれだったので、記憶喪失を恥じることとなった。大胆な撮影テクニックも、この監督の魅力だったことをあらためて思い起こした。


音楽と映像との見事なコラボといえばそれまでだが、行為に音楽は伴奏として入るのか、音楽があって、これに行為が追い付くのかどちらかわからないところもある。はじめに行為ありきではなく、はじめに音楽あり、それがこの映画の魅力ともなっている。


主役のアンセル・エルゴートは、『ダイヴァージェント』とか『きっと星のせいじゃない』に重要な役で出演しているのだが、観ていない(クロエ・モリッツ主演の『キャリー』にも出演していたらしいが記憶にない)。ジョン・ハムの出演映画はいくつか観ているのだが、ワンダーウーマンのガルガ・ドットと夫婦になった『Mr & Mrsスパイ』以外は、記憶にない。まあ、ある意味、よく見る顔なのだが。また今回の役どころは、最後まで主人公につきまとう、お約束のキャラなのだが、こういうお約束のキャラというか展開に追従したことが、先に触れたロシアのSF映画『アトラクション-征圧-』が、傑作映画になりそこねているところだった。


リリー・ウィリアムズは、これよりも前の第二次大戦物に出ていた映画を、新宿のシネマカリテで上映していたが、どうしてもスケジュールが合わず見そびれた。残念。今回の役どころは、シンデレラよりも彼女にマッチしているような気がした。とはいえシンデレラも、本質はメイドなのだが。


あと音楽映画ということではないが、作曲家のポール・ウィリアムズが出ていることに驚いた。あっというまに殺されてしまうのだが。


映画のタイトルは、サイモン&ガーファンクルの1970年のアルバムBridge Over Troubled Water に収録されている"Baby Driver"より。ネット上でも観ることができるはずだが、いまのところ私のPCでは失敗している。

posted by ohashi at 16:06| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月18日

『海底47m』

『海底47m』(原題:47 Meters Down)は2017年にイギリスで製作されたホ映画。監督はヨハネス・ロバーツ、主演はマンディ・ムーア、クレア・ホルト。


ブレイク・ライブリー主演の『ロスト・バケーション』(原題: The Shallows2016年)という映画がある。沖合の岩場に取り残された女性が人食いザメとひとりで戦う話で、目と鼻の先に砂浜が見えるのに、人食いざめのせいで、助けも呼べず、そこに泳いでもいけないという恐怖を描いた作品だった。登場するのはブレイク・ライブリーだけといってもよく、ワン・シチュエーション映画なのだが、予想外におもしろくまた奇想天外で、最後には彼女が巨大人食いザメをやっつけてしまうのである。どうやったはか映画を観てのお楽しみ。


同じく人食いザメに襲われる映画として、この『海底47m』は、ハラハラドキドキのエンターテインメント映画と期待できた。だが、残念ながら期待は裏切られた。『ロスト・バケーション』に比べると、何倍も劣るのである。映画.comの作品情報は以下のとおり――


水深47メートルの海に沈んだ檻の中で、人喰いザメの恐怖と対峙する姉妹の姿を描いたシチュエーションパニックスリラー。メキシコで休暇を過ごしていたリサとケイトの姉妹は、現地で知り合った男から、海に沈めた檻の中からサメを鑑賞する「シャークケイジダイビング」に誘われる。水深5メートルの檻の中からサメを間近に見て興奮する2人だったが、ワイヤーが切れて檻が一気に水深47メートルまで沈んでしまう。無線も届かず、ボンベに残された空気もわずかという極限状態の中、サメの餌食になる危険におびえながら、2人は生還を目指すが……。「塔の上のラプンツェル」で声優を務めたマンディ・ムーアと、テレビシリーズ「ヴァンパイア・ダイアリーズ」などで知られるクレア・ホルトが主人公姉妹を演じた。監督は「ストレージ24」のヨハネス・ロバーツ。


この姉妹の人間ドラマ部分は無視する。サメよけの檻に入って、海中でサメを観察するというスリルに満ちた体験は、映画のなかでは違法行為で闇商売であり、だからこそ檻をつるすワイヤーが外れるという事故も起こる。これが正規の観光事業なら、事故が起これば決死のレスキュー作業が行われるのだが、違法操業なので、サメの出る海底に沈んだ女性二人を置き去りにして逃げてしまうという可能性を最後まで払拭できない……。


と欠点をあげつらっていたら、ほんとうにきりがないのでやめる。47mというのは相当深い。実際には真っ暗な可能性もあるが、それだと映画にならないから薄暗い感じで女性二人の絶体絶命の危機が描かれる。とにかく薄暗い。ウエットスーツ姿の女性二人の身体もはっきりみることもできず、おまけに、海底で顔全体を覆う酸素マスクを着けているので、事故があってから、女性二人の身体どころか顔までも最後までよくわからない。サメも襲い方が生ぬるい。最後に変なひねりがあるが、ひねりなどなくてもいいのではないか。


ちなみに深度47メートルでは、酸素ボンベでの呼吸もむつかしく、光もとどかないから、赤い血が緑色にみえるらしい。とにかく想像を絶した深さなのである。


まあダメ映画でしょう。

  

追記  8月25日記す

 この映画を、もし深いものと考えるなら、最後のひねりが重要だろう。

 つまりXというかたちで終わりだと思っていたら、実はYが真の終わりだったという構成である。

 このときXとYに何が入るかである。

 一般に、ハッピー・エンディングだと思ったらバッド・エンディングだった。あるいはその逆というパターンが考えられる。

 この映画は、変わっていて、XとYとが程度の差こそあれ、ほぼ同じなのである。別の表現を使うと、Xは実はフェイクで、Yが真の終わりだったということでもある。ただ、こうした二重の終わり方が生ずる原因を考えると、実はYもまたフェイクではないかという可能性が生まれる。となるとこの映画、にわかに深いものとなる。新海47mどころではなく、底なしの悪夢となる。

posted by ohashi at 11:20| 映画 | 更新情報をチェックする