2018年04月02日

『トレイン・ミッション』

ネットにあった意見。ここまで書かれると、見に行かざるをえない(行替えを変更)。




これは、パニック映画の最高傑作。金字塔だ! (投稿日:3/31)




「トレイン・ミッション」という邦題を見た瞬間、だいたいの筋が想像できるでしょ。


……実はまったく違うのですが。見た瞬間、「暇人以外は観る必要がない三流の模倣作だ」と感じるはずです。……その予想を、良い意味で見事に裏切る作品なのですが。




邦題が凡庸なら、あらすじも投げやりに書き飛ばされているこの作品。しかし、いやいやいや。ほんとうに驚嘆しました。




突然失業した初老の主人公が家路に向かう寂しさ辛さ。この抑えられた名演技から映画が始まり、一瞬の隙もなく、観客はグイグイとストーリーに引き込まれます。列車の中で巻き起こる、ジワジワと異常さが鮮明になりゆくサスペンスの恐怖は、ヒッチコックも軽く凌駕する怖さです。そしてついに事件はパニックへ。これも往年のパニック映画「カサンドラクロス」を軽々と超えるレベルです。




だれか一人が死なねばならない時に人々が見せた、人間としての誇りと勇気と尊厳も。最後まで予想もつかない見事なミステリー作品としての驚きも。そしてエンドロールのオシャレなところまで。手抜きひとつ、ありません。




もしも映画の評価点として★6個を選択できたなら、6個でも7個でも付けたいほどの作品でしたが、この凄さを、凡庸な邦題はまったく伝えられていません。日本の映画宣伝屋の仕事がいかに手抜きで愚劣かを証明するひとつの例だと思います。この凄い作品に対して、いったい誰がこんな馬鹿げた邦題を付けたのか。もしも良い案を思いつかなかったのなら、原題をそのまま使うべきなのです。なぜなら映画の制作者たちが、日本の宣伝屋の何十倍もの時間と愛情とを込めて考え抜いたタイトルなのですから。宣伝屋は、この映画の原題を見た瞬間、だっせー、と思ったのでしょう。しかし、その、一見、平凡すぎるタイトルをひねり出すまでに、どれだけ頭を絞ったか。そして実際に原題がどれほど優れているか。


わかんないのかねぇ。ほんと情けないです。




原題はThe Commuterで、トレイン・ミッションというのは英語としてどうなのかと思うのだが、ただ原題が地味すぎるので、日本で内容に即したもの考えたのだろう。英語表現として正しいかどうか問わないのだが。韓国映画の『新感染』という例もある(原題は地味だったと思う)。だから頭をひねったうえのタイトルだっと思うし、なにも、そこまでぼろくそにいわなくてもと思う。地味な原題だが、見てみると派手な内容でギャップで驚かせるということかもしれない(『新感染』の原題がそうだった)。「宣伝屋」と馬鹿にしているのだが、上記のコメントそのものは、ここまで書かれると、映画館に足を運ばずにはいられなくなる、優れた宣伝だと思う。文章も上手いし、迫力もある。




見てみたら、じゅうぶん面白い映画だったが、ここまで面白いかどうかは疑問。とはいえ予想外に面白かったのは確かで、観客はあまりいなかったがお薦めの映画ではある。




65歳のリーアム・ニーソンは、ずいぶんふけた感じで、メイクなのかよくわからないが、65歳で、犯罪者を制圧するのだから、力負け体力負けすることも多く、格闘シーンではつねにぎりぎりの勝利となるところが面白い。元警官、保険会社を解雇されたばかりの職員が通勤電車のなかえひとりで陰謀に立ち向かうという緊迫感は、無敵のマッチョなスーパーヒーローでは出せないことかもしれないので、この設定、この格闘シーンは成功しているのだろう。『フライトゲーム』(Non-stop)の列車版である。乗客を人質にとるテロリストと間違われるのも同じだ。




これ以上、書くとネタバレになるので、やめるが、私が一番驚き、またパニックになったのはオープニング・シーン。え、このシーンはなんだと驚き。よくわからないので、ほんとうにどうしたらいいのかパニックになった。




主人公が目覚めて職場まで行くというシーンなのだが、たとえば目覚めの瞬間が何度も繰り返される。そのつど、周囲から主人公の外見まで、変わっている。主人公は歳をとったり、若返ったり、時系列がばらばらになって提示される。年齢、環境、人間関係なども、目まぐるしく変化する。いったいこのシーンはなんだと、どう考えたらいいのかと驚いた。




なお映画のなかでは、サム・ニールが最初、誰だが全然わからなかった。エンドクレジットではじめてわかった。ジョン・バンクス(『ブレイキング・バッド』の)も既視感はあったら誰かはっきりわからなかった。パトリック・ウィルソンは、私としては久しぶりだったが、よい味を出してた。目撃者プリンというのな、まさか、あのプリンだったとは。




で、オープニングのシークエンスを振り返ると、時系列の解体によって、主人公のこれまでの人生、若い頃からうらぶれた中高年にいたるまでの変化や変遷を簡潔にわからせるというふうに思っていたのは、まちがいではないとしても、それだけではないことがわかった。つまり……(ネタバレになるので、やめるが、オープニングに全体の秘密が隠されていたともいえる)。



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posted by ohashi at 15:50| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年02月11日

『ルイの九番目の人生』

2015年に完成して2016年に公開された映画で、わざわざ2018年に公開されなくてもいいのではないだろうか。先日、アメリカのアカデミー賞のノミネート作品が発表されたが、そのうち現時点で、日本で公開されているのは『ゲットアウト』と『スリー・ビルボード』くらいで、あとは日本では未公開の作品ばかりで、アカデミー賞にノミネートされなかったら公開すらされなかったであろう映画である。その意味で、アカデミー賞はありがたい。それがなかったら多くの素晴らしい映画が日本で公開されないまま終わってしまうのだから。


『ルイの九番目の人生』は、予告編で判断したら期待値マックスの興味深い映画だった。実際に見てみると、期待を裏切らないというよりも、しっかり期待を裏切ってくれた映画で、なにもわざわざ、今になって公開しなくてもいいのではないか。


アンソニー・ミンゲラ監督(劇作家でもあったが、私と同年齢。ただし、むこうは私と違い善人なので早死にしている)が企画してはたせなかった映画原案を息子がプロデュースして映画化にこぎつけたという作品なので、けっこう期待はしていた。ただ監督はアレクサンドル・アジャ(ミンゲラ監督のほうに注意をとられて、まったく調べなかったが、聞いたことがある。たしかフランスのホラー映画監督)のわりには、ホラー映画臭がない。ファンタジーの癖の強さにシフトしている。


ルイ役のエイダン・ロングワースがかわゆいということは認めてもいい。小児昏睡の専門家医をジェイミー・ドーナンが演じていて、『フィフティ・シェイズ』の若き変態富豪の役で有名だが、彼の役や演技ではなく(変態は好きだ)、映画そのものが嫌いなので、あまり好印象をもっていない。『ハイドリッヒを撃て』ではキリアン・マーフィーと共演していて、映画そのものもよかったのだが、今回は、これまでの映画とはちょっと雰囲気がちがっているが、それでもイケメンの医師という、まあはまり役である。そして彼が愛し合うようになる、ルイの母親がサラ・ガドン。最近の映画では即位直前のエリザベス女王役がなんといっても印象ぶかいのだが、天使のようにかわいい男の子と、美男美女の二人が出てきて、それで見せる映画なのだと思う。


謎の部分は、開始からしばらくしても、進展がまったくなく、解決へ向けての努力もなされず、むしろ解決がどうのこうのという映画ではないことがわかってくる。ホラー的要素も、ない。家族向けを狙った映画なのだろうか。繰り返すが、美少年と美男美女との人間的からみを、あわてず、ファンタジー的雰囲気のなかでゆっくり鑑賞するということなのだろうか。


けっして眠たくはなかったのだが、完全に予想と期待を裏切られた映画であったために、いつしか意識が遠のきはじめ……。まあすこし見逃したところはあるが、内容は把握できた。最後の事件の全容の解明にしても、やはりファンタジーとしてもホラーとしても中途半端であり、かといって推理小説的な解決という点からみても、肝心な設定のファンタジー臭が強いということもあり、どうしても不満が残る。


まあ、無理して公開しなくても、よかったのでは。ジェイミー・ドーナンのファンが多いのだろうか。サラ・ガドンのファンが多いとも思えないないのだが。ただひとつだけ言えることがある。


海、溺死、海の怪物のイメージが強い。死と水のイメージの結びつき。これは、ゲイ物語、ゲイ映画のモチーフである。実際、少年と父親(義理の)との関係は、親子関係とみるか、男同士の関係とみるか、あるいは両方としてみるか、そこが微妙なところである。ただゲイの男性は、母親だけは愛している。そこにちょっと違和感があって、この映画を、隠れゲイ映画とみるべきは、躊躇するところである。


それにこれは母親の気持ちを忖度する映画であって、忖度映画のひとつになることは間違いなのだが。



サラ・ガドンの最近作のひとつが即位前のエリザベス女王(王女)のお忍びの一夜を描いた『ロイヤル・ナイト』(2016 原題は「ナイト・アウト」)で、そこでは奔放な妹に対して思慮深い未来の女王たる姉の役を演じていて印象的だったが、私が彼女をはじめて映画のなかでみたのは、ルーク・エヴァンズが実在のヴラド・ドラキュラを演じた『ドラキュラZero(2014)でもなければドニ・ビルヌーブ監督の『複製された男』(2014)でもなく(どちらも彼女がどこに出ていたかよく覚えていないのだが)、クローネンバーグ監督の息子ブランン・クローネンバーグ監督の『アンチヴァイラル』(2013)だった。


その映画における彼女の美しさに目を奪われた記憶があったのだが、その映画で主役を演じたのが、まだ知名度の低かった男性俳優で、彼の不気味な個性と存在感にも圧倒された記憶がある。その男性俳優とは、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ。え、誰っ? と聞くなかれ。彼は今年のアカデミー賞候補作のうち2作品に出演している。ひとつは『ゲット・アウト』。そしてもうひとつは『スリー・ビルボード』――この直前の記事で私が冒頭で着目したシーンにおけるレッド役が彼だった。

posted by ohashi at 20:29| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年02月09日

『スリー・ビルボード』

この映画のなかで最も衝撃的かつ映画全体を集約していると思われるシーンがある。病院の病室。ディクソン巡査(サム・ロックウェル)に殴る蹴るの暴行を受けたうえに二階の窓から道路の放り投げられ重傷を負い、体中、包帯でぐるぐる巻きにされた広告店主レッド(ケイレブ・ジョーンズ)のいる病室か集中治療室のようなところに、火事で大火傷を負って、レッド以上に包帯で頭部と体をぐるぐる巻きにされベッドから動くこともできない状態のディクソンが運ばれてくる。レッドは病室で動くことができる。彼は、すかさず、運ばれてきた重症患者に近づき、声をかけ、きっとよくなるから元気をだせというような温かい励ましと慰めの言葉をかける。オレンジジュースを飲むかと自分用のジュースをカップにいれてストローをつけて相手に差し出そうとするのである。


この時点でレッドは運ばれてきた重症患者が、自分に暴行を働いた暴力警官であることを知らない(顔がわからないから当然である)。いっぽうディクソンのほうは包帯で覆われた頭部の隙間から、自分に声をかけてきた同室の患者が、レッドであることを知る。ディクソンであることに気づかないレッドに対して、ディクソンは、涙だながらに、すまないと謝るのである。とそのときはじめてレッドも、この包帯の男が自分に理不尽な暴行をはたらいたディクソン巡査であることを知って驚く。


私がこの場面に衝撃を受けたのは、その唐突さとではなく、むしろ自然ななりゆきに対してである。レッドが運ばれてきた患者にやさしく声をかける。それは、不自然さのまったくない、自発的な、いや反射的な反応であるようにみえる。私だって、まあ、この歳になっても人見知りなのだが、自分と同じように、あるいは自分以上に、大けがをした患者、あるいは同室者に、自分では気づかないうちに声をかけているのではないかと思う。


大けがを負った者どうしに生まれる、共感の絆。だからレッドが、その火傷の患者が、自分に危害を加えたディクソンであったことを知ったあとで、突然、態度を変えて、相手を罵ったり、仕返しの暴力をふるったりはしないだろうと見ている側も予想する。実際、その予想は的中して、レッドは、運命の皮肉に驚くというよりも、あきれつつ、また怒りや憎しみを感じつつも、オレンジジュースをそっと差し出すのである。


赦しというようなものではない。大けがを負ったものの間に生まれる絆というか連帯感みたいなもの。それは互いの憎悪や怒りを超えて突発事故のように生まれる反射的行動である。自分ではどうすることもできない、あるいは自分では意識的にこしらえることができななかった連帯感。これこそ、この映画を支える中心的なテーマであろう。


傷つく者たちの、不遇の者たちの、虐げられた者たちの相互扶助と連帯感。たとえ私たちが恵まれている側にいても、事故は起こる。怪我はする。病気にはなる。そのとき、私は苦しむ者になる。傷つく者になる。そのような苦しむ者たちになったとき、自然に、いや反射的に生まれる絆、自分ではコントロールできない、まるでおぞましい欲望のような、思わず、おさえつけてしまいたくなるような衝動的な「善」の噴出を、私も感ずるはずある。


この時、私は傷つく者たちのコミュニティの一員となる。それも衝動的な善に驚き、また衝動的な善に支えられながら。。


Surprised by SinならぬSurprised by Goodness.虐げられた者は、傷つく者たちは、同じ境遇の者を決して見捨てない。その支援と連帯の本能は、なにをもってしても、社会制度も、教育をもってしても、抑えることはできない。この善の次元。隠れたる次元。自分では気づくことなく、また社会においても必ずしも認知されない次元。それに接することから生まれる、名状しがたい安堵感と至福。それがこの映画が提示してくれるものであろう。


結末にそれがよくあらわれている。傷ついた者どうしの間にき生まれる、友愛と連帯。それが生まれたこと。それに包まれること。もはや復讐が問題なのではない。事件解決が問題なのではない。たとえそのふたつが限りなく遠い目標であり、不可能な要求であっても、むしろ不可能な要求であればあるほど、傷ついた者たちの間の連帯が保証される。この場合、未来でも、過去でもない、いまとここにこそ、私たちを不意打ちにする善なるものの発露と、そこから生まれる癒しと安堵感の時空が創造されるのだ。


マーティン・マクドナーの戯曲は『イニシュマン島のビリー』を翻訳劇として舞台でみたことがある(再演のほうだが)。「イニシュマン島」というのはアラン諸島の島のひとつ。あと映画では『セブン・サイコパス』は評判の作品もみた。出演者も『スリー・ビルボード』と重なっている。実は、ナショナル・シアター・ライブの『ハングマン』を昨年、映画館で見そびれた。この映画の公開を機に、『ハングマン』も、どこかの映画館で上映してくれないだろうか。


フランシス・マクドーマンドについて、はじめって知ったというような声をもきくが、むしろ知らないほうがおかしい。『ファーゴ』が有名だが、それ以外にも多くの映画に出演していて、私も、彼女の出演作で、見ている映画よりも見ていない映画のほうがはるかに少ない。とはいえ、彼女の映画出演作のリストをみても、何の役だったのか思い出せない作品も、実は多く、まあバイプレーヤーとしての活動がメインなのかもしれない。


ウディ・ハレルソン(ウィロビー署長)とサム・ロックウェル(ディクソン巡査)は、マクドナー組という枠には収まらない知名度の高さを誇るが、彼らが、いい役をもっていってしまっている観がある。しかし、マクドーマンドのダメ夫役のジョン・ホークスも、彼女の息子のルーカス・ヘッジズも、そして身長132センチのピーター・ディンクレイジも、最終的には悪人ではなく、また冷酷な人間でも無神経な人間もなく、みんな「いい人」たちばかりの「いい役」ではある。


アビー・コーニシュは『ジオストーム』にも出ていたが、余計なお世話ながら、ちょっと太りすぎではないだろうか。

posted by ohashi at 22:14| 映画 | 更新情報をチェックする