2017年09月17日

『散歩する侵略者』

前川知大と黒沢清とのコラボとなると、ふたつのことが予想される。相乗効果か、相殺されるか。結果としては、どちらも、よいところがでていたのではないかと思う。強いて言えば、前川ファンからすれば物足りないところもあるかもしれないが、黒沢ファンからすれば、よい題材を得て黒沢ワールド全開という面もある。


結論から先にいえば愛が地球を救ったということか。圧倒的な強さの宇宙人/侵略者のまえに消滅するしかなかいと思われた地球だが、侵略と破壊が途中で突然止んで人類は救われる。これはHGウェルズの『宇宙戦争』(原題は『(両)世界戦争』)と同じパタンでしょう。つまり圧倒的な強さの火星人侵略者たちも、地球にある病原菌に対して免疫がなく、地球征服直前に死んでしまい、地球はからくも救われたということ。このアナロジーから考えれば、宇宙人の侵略が途中で止まったのは地球に蔓延している、また地球人には免疫があるが、宇宙人には毒かもしれない、愛という名の病のせいである。


この愛というのは、困ったもので、宇宙人のガイド役をやらされている長谷川博己も、最後には侵略する宇宙人のほうを応援して自らを捧げるのである。密着取材、あるいはガイドとはいっているが、人質、捕囚でもあり、この長谷川の行動は、自分を束縛・監禁する者を愛してしまうというストックホルム症候群と同じである。実際、ネット上でも宇宙人のほうを応援してしまうという声もあり、地球にいかに愛という病が蔓延しているかがわかろうというものだ。


宇宙人は、地球人から概念を奪う。地球人のことを知るためにというのはわからないわけではないが、ただ、フィクションをまじめにとりすぎるのはおかしいとはいえ、概念は基本は言語であり、言語は二項対立から成る。実際、宇宙人が奪う概念の多くは二項対立からなっている。他人の家と自分の家とか。家族と家族ではないものとか。もし宇宙人がこうした二項対立を理解できないというのなら、まず言語をもっていないことであり、言語を持たない人間が、よその星まで行ける高度な文明を持てるはずがないし、また二項対立を知らない宇宙人が、侵略などするはずがない。侵略は二項対立の概念なくしてはありえないからだ。


この点は問わないことにして、不思議なのは概念を奪われた人間が廃人になることである。まあ、これもわからないわけではない。概念ひとつとはいえ、それはシステム化して他の概念と繋がっている。だから、たとえば体から肝臓ひとつ抜いただけでも、その人物は死んでしまうのと同じということもできる。しかし映画の場合、そうではないようだ。概念を抜かれる人間は、廃人になるのではなく、その時思わず涙を流す。痛いとか苦しいとかではなく、不意の涙である。となるとこの涙とは何か。


児島一哉扮する刑事が「自分」という概念を抜かれてしまうところがある。彼の場合、その自分とは、自己嫌悪と絶望の対象である。自分のこと、自分のふがいなさが嫌でたまらない。そのため「自分」という概念が抜き取られてしまうと、ある意味、このトラウマのような自分から解放され自由になれるのである。概念を抜かれた人間たちは、立っていられなくなって廃人化するかにみえて、同時に、自由にふるまうようになる。むしろ解放され自由にふるまうようになり、これが逆にウィルスにおかされた病人扱いされる原因ともなる。概念が抜かれたあとの涙は束縛から解放されたときの喜びとまではいかなくとも、解放感の涙だった可能性がある。


もしそうなら、概念を抜かれたときに立っていられなくなるというのも、脳から重要な部分が奪われたときのショック症状ともいえるのだが、同時にそれは、人間を直立歩行させるのが概念であること。トラウマでもコンプレックスでも、理念や理想でも、義務や責任感でも、良心や正義感、とにかくなんでもいいのだが、そうしたものが人間を直立歩行させる。


それがなくなってしまうと直立歩行ができなくなる。身体のコントロールがきかなくなった状態から、体を動かせなくなる状態か、もしくは体が動きすぎる状態(子どものような遊戯的行為に、あるいは無軌道な行為に)が出現するのだが、ただ、いえるのは、それが解放された人間の姿なのである。概念は人間を直立方向させ、ひとかどの社会人にするのだが、同時にそれは人間を束縛する装置でもあった。


これに対して、概念ではなく、愛を奪われた人間はどうなるのか。概念を奪われると立っていられなくなる。しかし愛を奪われても概念という鎧が残っている以上、直立歩行はできる。しかし、そのとき、概念を束縛と感ずる愛が奪われてしまうので、無軌道な身体と精神が消えてしまい、ロボットのような、もっと正確にいえば、鎧で身動きできず、動きをとめたロボットのようになる。概念を奪われると人間は、動物化して、暴れたり自由に動き回ることができるようになる。愛を奪われると、人間は、機械化して、廃人化する。


ということなのだろうか。何を言っているのかと不思議に思った方は映画を観てほしい。ただし、ここでは手段ではなく目的を語っている。目的の部分、あるいは理屈の部分は、前川知大の原案だから、実は、しっかりしているのだが、ただ、舞台でも、映画でも、重要なのは主題を提示するという目的の部分ではなく、主題がいかに提示されるかという手段ものほうがそれ以上に重要だろう。それについては、何も語っていない。


ただ、こうは言えるだろう。全体でよくわからないが、途中の物語のプロセスと提示法は、とても面白いというのが、誰もが抱く偽らざる感想にちがいない。だから、そちらのほうに力点を置くべきだが、とりあえずの一報として、作品の「概念」について考えてみた。


posted by ohashi at 21:41| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月12日

『三度目の殺人』

「死亡フラッグ」という言い方があって(フラグはflag、もともとコンピュータのプログラム用語らしい。ちがっていたらごめんなさい)、小説、ドラマ、映画などで、この人物は死にますということを暗示させる、ある意味紋切り型の台詞とか演出のことをいう。逆に、死にかけて実は助かりますということを暗示する場合は「生存フラグ」とかいうらしいのだが、映画では、こういう言い方はないのだが、勝手に作ってしまうと「善人フラグ」というのが確認されていて、そのひとつが、このブログでも紹介している「猫を助ける/救う」ことである。猫でなくても動物ならなんでも、ときには植物でもいのだが、とにかく動物を救っている姿は、その人が心優しい善人であることを衣装づける、善人フラグである。


『三度目の殺人』は、この善人フラグを、少なくとも二つあるいは三つ使っている。にもかかわらず、その人物が善人であるかどうか最後まで謎である。殺人を犯し逮捕され裁判にかけられる役所広司扮する人物のことである。


善人フラグのひとつは、動物を助けること。それは役所が鳥を飼っていることである。逮捕され収監されることを予感したのか、それまで飼っていた鳥を逃がしてやり、また、死んだ鳥は、窓の下の庭に丁寧に埋葬している。また獄中で、鳥の鳴き声が聞こえると、パンくずるのようなもの載せた手を独房の窓から差し出して、鳥に食べさせようとするのだ。明確な善人フラグである。


だが鳥の鳴き声はしても、鳥は姿をみせない。鳥が役所の手のひらの餌を食べるところは映像としてでてこないのだ。妄想かもしれない。映画には現実と、想像とが等価に扱われ、妄想が実体化する映像が挿入される。これも、そのひとつかもしれない。とはいえ、たとえ妄想のなかでも小鳥あるいは野鳥に餌をやろうとするのは、本人が善人であることの証拠となる。


しかし、そうした善人フラグ(繰り返すが、こうした言い方があるわけではなくて、ここで勝手に作っている)にも拘わらず、役所は、飼っていた小鳥を4羽か5羽殺している。そのうち1羽を逃がしたというが、それもなにか小鳥への善意というよりも悪意のあるもてあそび行為のようにみえる。逮捕され収監されるからといって、飼っていた小鳥を4羽か5羽一度に殺害するのは、現実でもフィクションでも殺人鬼フラグである。善人フラグが、この殺人鬼フラグで相殺される。


もうひとつの善人フラグは、娘を愛することかもしれない。役所は映画のなかでは実の娘(登場しない)から嫌われている。その代償から、雇われた工場長の娘(広瀬すず)を娘のようにかわいがっている。また娘への愛によって福山雅治は役所広司に感情移入し共感し連帯感すら抱くようになる。善人フラグは、傍観者が読者が観客が、登場人物に共感するための仕掛けである。この善人フラグに対しては、これを否定するようなフラグはないように思われる。


しかし、もうひとつの共感フラグが存在する。それは誤解される主人公という設定である。これもドラマや映画の登場人物への観客の反応操作について言えることだが、ある自分がどんな人物であれ、誤解されていることがわかると、もちろん、それは観客にしかわからないことであり、観客だけがその人物の誤解されることのない真の姿を知っているということになる。こうした裁判物、あるいは冤罪物において、誤解される主人公というのは、まさに得意中の得意の設定である。


だが、この映画で示されるのは、役所はほんとうは善人なのに、誰も、その発言を信じていない、あるいは信じてくれなくて、冤罪の憂き目をみているということが一方にあるとすれば、それは、同時に、弁護士の、あるいは観客の勝手な思い込みかもしれない。誤解される人物(役所広司)が、善人あるいは無実の人間なのに、犯罪者として誤解されるというのではなく、その逆、つまり無実の人間か善人というのは誤解で、ほんとうは冷血な殺人鬼というのは真実であるという可能性が濃厚に漂っているのだ。


最後のほうで福山雅治は、役所広司のことを、「器」かといってのける。つまり、誰もが、役所のとらえどころなさ、発言の一貫性のなさ、その心理の謎に対して、自分勝手に、自分の考えを投影する、あるいは盛りつける器であるというのだ。検事や裁判官、裁判所は、死刑に値する殺人犯という判断を盛る。いっぽう弁護士の方では、死刑になることで、自分の娘のような広瀬すずを救うのではないかと善人説を盛り込む。だが、いずれも真実ではないという可能性が最後まで残るのである。


ならば真実のゆくえは? 簡単に言えば、役所は、善人であると同時に殺人鬼であるということだ。だが、このことは簡単ではない。善人か悪人かではない。善人であり悪人なのである。となるとアイデンティティの考え方は崩壊する。有罪であり無罪であるというのは裁判所ではお手上げなのである。同時に、相反する要素が同居しているということは、あらゆる可能性を組み込むことによって充実しているのではなく、逆に、空虚であるということだ。有罪でもあり無罪でもあるということは、有罪でもないが無罪でもないということであり、端的にいって、それはゼロあるいは白紙というのと同じなのである。


これは人間の中に天使と悪魔がいるということなのだが、同時に、天使でもあり悪魔でもある人間というのは、ある意味、からっぽな人間なのであり、カカシなのである。


このことは十字のイメージによって映画のなかで示される。十字架とか宗教的イメージがあるのかと思ったが(それもあるのかもしれないが)、映画では端的にいって人間が善と悪との交点であること、天使と悪魔が出会う十字路、それが人間なのだということを示そうとしているように思う。


そしてこの真実をつきつけられたとき、人間にできるのは、逃亡して、そこに善なり悪なり、どちらか一方の解釈なり判断を押しつけることである。あとひとつは、映画の最後の福山雅治のように、戸惑うことである。十字路の交差点で。


付記

シェイクスピアの『ヴェニスの商人』では、ユダヤ人高利貸シャイロックは、過激な主張をしてキリスト教徒を困らせ、それに対するキリスト教徒からの理不尽な反応を引き出すことで、ヴェニスの支配層のキリスト教徒の欺瞞性を暴くことになったが、この映画でも、このとらえどころのない役所の言動をとおして、裁判制度の欺瞞性が徹底的にあばかれることになった。実際、裁判性を批判する物語なり映画はあまたあるが、この映画ほど、裁判制度のむなしさ、いい加減さ、虚偽と欺瞞性を怖いくらいに暴く映画はほかにないと思う。その点でも一見の価値はある。


posted by ohashi at 17:28| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月10日

『ダンケルク』

ジョージ。オーウェルがどこかで書いていたと思うのだが、イギリス人がいかに変わり者かは、ダンケルクの戦いのような負け戦でも、まるで戦勝記念日のように祝っていることからもわかると。実際、この映画でも故郷に帰還した兵士たちが、住民から唾を吐きかけられるのではないかとおびえていると、まるで凱旋したかのような大歓迎を受けて驚くところがある。過酷な状況から命からがら逃げかえった兵士たちをねぎらうというのなら、わかる。まあ最近の右傾化した日本でなら絶対にありえないことだろうが。しかし、そうではなく、あくまでも大歓迎なのだ。


実際、このダンケルクから撤退には、なにか解せないところがある。敗北を勝利へと変えるチャーチルの糞レトリック。民間から救助のための漁船などが多数海峡を渡ったというのは美談かもしれない(実際、この民間人の努力は顕彰ものである)が、しかし、裏を返せば軍が本格的な援助をしないという異常事態にもなっている。本土決戦という名目のために軍事力を出し渋っている。日本の場合も戦争末期では本土決戦という名目のため最新兵器を精鋭部隊を温存し、クズ連中を特攻に追いやっていた(『海辺の生と死』をみてもわかるように、たとえば大学生でも理系学生は温存され、文系学生はクズ扱いになり学徒動員によて特攻まで課せられたのだ)。軍のこうした謀略と欺瞞性は告発されていないようだ。また実際のところダンケルクを占領したドイツ軍は、ヨーロッパでの終戦記念日たる4558日以降も抵抗し、終戦後に、降伏したのである(つまり戦時中は陥落していなかっただ)。


ダンケルクの戦いには、なにかが腐っている。真実が侵食され、何かに乗っ取られている。多くの犠牲者を出し、また多くの救出者も出した歴史的大事件のリアルが、どこか奪われているのである。


監督が影響を受けていなかったと思うのだが、かつて大スペクタクル映画『史上最大の作戦』(日本語タイトル)のあと造られた戦争映画のひとつに『バルジの戦い』という映画がある。負けいくさを映画化したものとしては『遠すぎた橋』(バルジ戦の前のマーケット・ガーデン作戦を描く)があるが、この3作のなかで、『バルジ大作戦』(ケン・アナキン監督、同監督は『史上最大の…』でも共同監督の一人だった)だけが負けそうになって最後に勝つという点で『ダンケルク』に近いところもあるのだが、とにかくこの映画、興業成績とは関係なく大作映画というよりもB級映画感が否めなかった。原因は、その演出にあった。それは映画そのものが最後に字幕でことわっているのだが、この大規模な広範囲にわたる戦闘を描く際に、特定の人物に多くの人物の実際の行動を集約して描いたのである。そのため、本来なら大規模な群像劇となるところ、こじんまりとした映画に終わってしまった。


特定の個人や小集団に焦点を合わせる場合、周辺的地位に追いやられた彼らを通して大規模で全体像が見えない戦いの臨場感を出すというのならわかるが、特定の個人なり集団が常に戦闘の中心にいることになったため大戦闘というよりも小戦闘になって、規模としてはノルマンディー上陸作戦よりはるかに大きな規模の戦いが、ノルマンディー作戦よりも小規模なものとなった。


バルジ作戦というのは、第二次世界大戦末期194412月から451月にかけて、ドイツ軍が多数の戦車を擁する軍団でもって、フランス、ベルギーに進駐してきた連合軍を蹴散らし、「第二のダンケルク」(!)にしようと試みた作戦。「バルジ」というのは膨らみとか突出という英語で、バルジ作戦は、戦線から大きく突出するドイツ軍という意味で連合軍側がつけた名前。


当時、テレビで観た予告編では、多数の戦車がこれでもかというくらいに登場し戦場を動きまわる迫力のある映画と思われたが、映画そのものは、その予告編を超えるものではなかった。たとえばドイツ軍の欺瞞作戦によって蹴散らされた一台の戦車が、戦車兵の努力で戦車を修復し、一台で敵に立ち向かい、最後にはドイツ軍の補給所を急襲して占拠、補給にくるドイツ軍を次々と撃破するというのは、画面は派手だけれども、ただ一台の戦車で、ドイツ全軍を撃破・降伏させるような安物感が否めないのである。


個人や小集団を大規模な戦闘とからませるとき二つの方法が考えられる。メトニミー的方法とメタファー的方法。この個人や小集団が、大きな、全体像が見えない戦場を右往左往するとき、そこにドキュメンタリー的な臨場感が生まれる。司令官とか指揮官に焦点を当てる方法は、全体像はつかみやすいが、指導者からの上から目線だけでは、事件のリアルはつかみきれない。


それにくらべ一部、それも全体を象徴しない一部の目線が、リアル感を醸成する。また逆に『バルジ大作戦』のように、少数の個人に全体行動を集約・象徴化させても、観る側は、それを全体のメタファーとみるのではなく、メトニミーとしてみるから、皮肉なことに、メタファー的集約が機能せず、小規模な戦いになってしまう。


ノーラン監督の『ダンケルク』は、少数に全体を代表させるという方法をとりながら、そこに全体的な視点を付与することのない、メト二ミカルな右往左往性を付与したために、小規模性は、完全には払拭できないとしても、みんなが右往左往しているという、もはや終わりなき苦難と化した茫漠性が生まれることになった。


砂浜も、海も、空も、そこに人間を包み込む安らぎを与えることのなない、広すぎる、大きすぎるというイメージ。そこに実物主義にこだわる監督の、大掛かりな撮影方法が、さらにスケールの大きさを維持するように働くということができる。


だが、少人数に、あるいは一部に全体を集約させるというメタファー的操作は、今回、正直言って驚愕するほどの大胆な構成をとって出現することになった。その衝撃の大きさは、最初は、へんな違和感として生まれ、最後には、驚きをともった感得されることになったのだが、つまり、時間的にもこのメタファー操作が行われたのである。


おそらくこのことを強調しすぎると、敷居の高い映画と思われ、下手をすると客足が減るかもしれないと映画会社が考えたかどうかわからないが、とにかくこの点は驚いた。つまり最初に海岸というか埠頭に集まってイギリス本土への移送を待つ兵士たちの群れがいる。このとき埠頭だったか海岸だったかわすれたが、その字幕と、すぐ下に一週間(one week)とでる。これがなんだかよくわからない。つまり一週間前の出来事かと思うと、そうではなく、海岸の物語は一週間ということだとわかる。


つぎにイギリス本土から民間人が漁船を出して助けていくとき、父親と息子二人の家族の物語が語られる。これがたしか一日とでる。


またさらにスピットファイアー(スピットファイアーはすごくスマートな戦闘機なのだけれども、この映画に出てくる機体は、場面によって太っているようにみえるところがある。まあ、どうでもいいことかもしれないが)三機がドイツ機と渡り合うとき1時間とでる。その燃料で飛べる時間の限界なのだろう。問題は、この映画、陸と海と空の三つの視点から戦いが語られるという謳い文句だったが、1週間と1日と1時間が、106分の時間のなかで、均等に積層化されるのである。


戦闘機は映画の最初から最後まで飛んでいる。海の場面で民間の船が助ける英国軍士官は、ダンケルクから英国本土に一度は到着したはずではなかったか。キリアン・マーフィー扮する士官は、『ハイドリヒを撃て』の落下傘兵とは比べものにならない臆病者(悪く言いすぎればだが、彼の役どころは戦争後遺症から抜け出せない病人)になっているのだが、その存在も不思議で、陸の物語から、どこで海の物語に入り込んだのか、よくわからない。


それはともかく、はっきり言えることは1時間の物語が1日の物語と共存し、さらにはそれは1週間の物語とも共存する。もし陸地の物語を基準にすれば、燃料に限りのあるはずのスピットファイアーは1週間飛び続けていることになる。少人数で全体を表象する場合は空間的・物理的集約だった。しかしここでは時間的集約が、1時間は1日に、1日は1週間にという集約のされ方になっている……。


ああ、と思う。これは『インセプション』の世界だ、と。


1秒が1時間になるような、そして1時間が10年にもなるような世界。ノーランは、『バットマン』シリーズの監督ではなく、『メメント』の監督であり、時間軸を混乱させたり、時間そのものを変形させたり圧縮あるいは拡張させたりする、時間の魔術師、時間の塑像師だった。


このことに気づいたのが106分の映画の終わりの方だった。そんなふうに見なかった。そして『インセプション』を思い浮かべるべきだったと後悔したのは、映画館を出てからだった。これから観る人は、どうか、この時間の魔術をしっかり見据えてほしい。私のようにぼんやりではなく。


もちろん問題は、なぜそういうことをするのか。『インセプション』も『インターステラー』も、それを説明するSF的枠組があった。だが、そのSF的枠組を取り払った時、つまり本来もつべき違和感とか疑問をなしくずしにしてしまうSF的設定がなくなり、史実に基づく歴史再現映画でもあるこの映画で、なぜ、そのようなことをするのか、その効果はなにかが、むき出しの疑問、逃げ場のない直面するしかない疑問として立ちはだかるのである。


それはなぜか。リアルに、実物主義にこだわる映画監督(映画会社側の売り言葉)が、このような構成の映画をとることによって、映画は「実験的映画」になるといえば、これも逃げ口上だろう。


たとえば最初から最後まで飛んでいるスピットファイアーの姿は、現実の戦闘機のリアルな映像というよりも、なにかこの世のものではない、怪物的、あるいは幽霊的な存在感と浮遊感を漂わせている。実際、この飛行機とその飛翔空間の空気感の見事さに匹敵するのは宮崎アニメしかないだろう。宮崎アニメのヒコーキ物の代表作でもある『紅の豚』を思い出した。空にある戦闘機の墓場という幻想空間。この『ダンケルク』にも、そんな空間があるような気もした。


この戦闘機に限らない、実物主義、現物のリアル感にこだわる監督の作り出す映像が、どこかこの世のものではない幽霊空間にみえてくる。夢の世界、悪夢の世界なのか。それが現在から過去をみるときの視覚効果なのか。リアルなドキュメンタリーがこの世のものではない、不気味な、そして魅惑的な、悪夢的な、天上的な、映像と共存している。そしてその先には、すでに述べたような史実のダンケルクの撤収作戦にみられる、欺瞞性、虚構性、あるいは神の摂理、そうした超越性があるのか……。いまは、ここまでにしたい。(いつか必ず続く)

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posted by ohashi at 13:52| 映画 | 更新情報をチェックする