2017年08月30日

『関が原』

徹子の部屋に平岳大が出演していて、父、平幹二郎の思い出とか、自分が舞台にたつようになったいきさつなどを語り、興味深かった。ちなみに平幹二郎の最後の舞台はトラムシアターでの『クレシダ』で、私自身、その舞台を観たのだが、あの劇が最後の舞台だというのは、劇の内容も考慮すると、深い感慨にとらわれずにはいられない。実際、死にかかっているか、天国に行ってしまった俳優の物語でもあるのだから。

ただ平岳大が徹子の部屋に出演したのは、映画の宣伝でもあった。大作『関ケ原』の。なんの予備知識もなかった私は、平岳大が何の役なのか興味を持ったのだが、なんと島左近。英雄のいない関ヶ原の戦いのなかで、唯一、英雄といえる役どころ。これはうらやましい。


私は俳優経験もないので、あくまでも妄想だが、もし『関ケ原』という映画を撮るから何か役をやれといわれたら、英雄のいない戦いなので、誰もやりたくないので、頭をかかえてしまうしかない。


徳川家康は、司馬版では狸オヤジだろうから、いやだ。石田三成は、ストレスがたまると下痢をしてしまって戦線離脱をくりかえすというのは、かっこ悪すぎる。実際、いくさ上手ででもない。映画『のぼうの城』(2012)で描かれたように石田軍は野城ひとつを攻めあぐね、むしろ野村萬斎演ずるところの城主成田長親に翻弄されている(ちなみに『のぼうの城』では石田三成は上地雄輔、大谷吉継が山田孝之、そして長束正家が平岳大(この『関が原』では島左近)だった)。


あと毛利輝元はバカだし、島津は卑怯者だし、小早川秀秋は裏切り者だし、どいつもこいつもろくなもんじゃない。強いて言えば大谷吉嗣か。三成の盟友でもあり、戦場でも奮戦し、小早川の裏切りによって、あえなく敗退する悲運の武将である。ただ、持病があるというのは演技するときにはつらい。あとそうなると残っているのは島左近しかない。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」という歌が残っているくらいで、三成ごときにはふさわしくない武将で経験も豊富で、またいくさ上手だった。そういえば前回紹介した、昔TBSが創ったテレビ・ドラマで島左近を演じたのは三船敏郎だった。まあ、そういうかっこいい役どころなのである。


と、前置きが長くなったが、映画そのものは、予想通りの面も多いが、予想を裏切る面もあて、映画が依拠する歴史観には全面的に反対なのだが、十分に楽しむことができた。石田三成もただ義を、観念的に求める理想主義者あるいは理論家肌の人間というのではなく、現実を見据え、政治の表と裏を充分に把握している、むしろ卓越した現実主義者でもあるのだが、しかし現実主義の中に埋没するのではなくあえて挙兵したという理想と行動の人でもあるという演出だった。そしてそこにリアル感を濃厚に漂わせる結果になった。三成は戦場において下痢で引っ込んでしまうということはなく、行動の人としても描かれ、陣頭指揮のみならず先頭に立って敵軍と渡り合う場面すら登場する。


リアル感というのは、映画的には限りなくドキュメンタリー感を出すというかたちになる。CGやドローン撮影など昔に比べれば、はるかに簡単にできるようになったのだが、これをしないように(VFXを多用した『のぼうの城』とは違うということだろう)。なるほど上から直下を見下ろすようなカットもあるのだが、大規模合戦を撮影するとき昔の映画のように真上から大軍の衝突を示すということはしない。平原を将棋の碁盤にみたてて、そこに両軍が入り乱れ、また激突することを、真上から、あるいは俯瞰するシーンというのは存在しない。


カメラは、ほとんど、地上を動く人間の目線を維持していて、戦場の全体像あるいは俯瞰像は開示されることなく、カメラはどこまでも兵士たちといっしょに移動する。完全なドキュメンタリーではもちろんないが、ドキュメンタリー的なものとしえ映画を構築しようとしたことはまちがいないだろう。


合戦の前日からはじまり、フラッシュバックを交ええ合戦までの経緯を解き明かす。少年時代の司馬遼太郎も登場させるのは意表を突くが、それ以外はある意味安定した語り口である。そのため映像のリアル感によって全体のリアル感を出そうとしているように思われる。画面はけっこう暗い。夜の場面でなくても、細部がわからないところは多い。自然光で撮っているように思われるところもある。また台詞も、聞きづらいところはある。音声を拾いきれてないように思われるのだが、そこは放置しているように思われる。すみずみまで一言一句聞こえるのではなく、よくわからない聞こえ方がリアルを増すというように思われる。


もちろんその極致は島津勢の台詞で、音声は聞き取れても、内容はまったくわからない。字幕でも出してもらわらないと、なにを言っているのか全然わからない。すべての台詞が当時の言葉や方言を再現しているわけではないが、方言などを生々しく出すことで、臨場感、リアル感を出すしかけになっている(あの汚い尾張弁/名古屋弁も、聞きづらいと思う観客は多いだろう)。


また字幕情報を最小限に抑えてある。福島正則、黒田長政、小早川秀秋が、家康や三成、島左近が誰かはわかるのだが、それ以外は、なんの説明もない。名前がわからない人物(足軽などの名もなき脇役ではない人物)が圧倒的に多い。これは、まさに戦場に投げ出され、誰が誰だか、またどこがどこだかわからないまま、右往左往する、そんな感覚を観客に「体感」させることを狙っているのではないだろうか。映画館で体感せよというのは、スペクタクルの迫力を見よというのではなく、むしろ、右往左往感覚を体感することだったのかとわかる。まあコピーを作る側は、何も考えずに前者の意味を想定していたのだろうが。で、そうなると、これは観客が難民化するということでもある。現代の世界において、一市民が、戦争からどのような行為をもたらさせるかというと、雄々しく戦うことでもなければ玉砕することでも捕虜になって拷問されることでもなく(ネトウヨなら拷問することしか考えないだろうが)、ただ、わけのわからぬまま逃げまどうことではないだろうか。現代において戦争と人間とをつなぐのは難民化現象であろう。


有村架純ほか伊賀忍者が活躍する。中嶋しゅう氏も、けっこう重要な役で出演していた(冥福を祈るばかりである)。ただ、こうした架空の人物を登場させることは、もちろん史実に登場する人物を通してだけでは描ききれない歴史の真実を、虚構人物を通して描くという由緒正しい技法なので、いいのだが、ただ、こうしたやり方は、昔ながらの時代小説の常套手段として、なにか古臭さを感ずる。もちろん、こういう設定をやめれば、時代小説や、NHKの大河ドラマなどは成立しなくなるのだが、しかし、その機能や意義がなんであれ、大衆エンターテインメント小説の指標であることはまちがない。そういう原作・小説に、歴史を勝手に解釈してもらいたくない。とはいえこれは私が司馬遼太郎の小説を嫌いだという個人的な嗜好にすぎず、意味のない繰り言かもしれないのだが。


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2017年08月26日

『ギフト』

『ギフト 僕が君に残せるもの』Gleason(2016)


映画の内容とは関係ない話で恐縮だが、ヒューマントラスト有楽町で、この映画をみたあと、館内も明るくなり観客(満席だった)も出口にむかって移動しはじめた。私のすぐ隣の高齢の御婦人二人連れは、ハンカチで目をおさせて、あまりに悲しくてと興奮冷めやらぬ様子だた。私が座っているいたのはD列の8番。横列の右端である。ただ、右端は壁に面していて、こちらから出るわけにはいかない。そこで私はご婦人二人が、ひとしきり落ち着いて席を立つのを待った。待った。待った……。いっこうに立ち上がる気配はない。さらにいうと、ご婦人がたの隣の列、つまりD2からD7の席まで、6人が席にどっかり居座って立ち上がろうとする気配はないく、映画の余韻にひたって、のんびりくつろいでいる。さすがにいい加減しびれを切らして、私は一人D8の席から立ちあがって、まだ座っている客の前をとってD1の席まで行って通路に出た。なかには人が通るからと足をひっこめるように注意する、このD列の観客がいる。私はすみませんと低姿勢であやまりながら前を抜けていく。まるで迷惑をかけているかのように。だが、みると、他の席の観客はみんないなくなっている。ただD列だけ、6人のクソジジイとクソババア(中年のオヤジもいたようだが)が、まるで駅の待合室かのように横一列で、なごんでいて、帰ろうともしない。迷惑をかけているのは私ではない、あんたらだ。なんなんだ、こいつらは。映画が感動的で席を立てなかった? いや、年輩の観客はたくさんいたが、彼らはすでに席を立っていなくなっている。このD列のアホ老人だけが、どういうわけか残っているのだ。わけがわからんわい。


ただ、なんの因果か、映画館では頻繁に、劇場でもちょくちょく、変な観客が周りに座ることが多い。変なというよりも態度が悪い、鑑賞・観劇の邪魔になる観客というのは、いつも私の周りに集まってくる。この6月に新国立劇場小劇場で『これはあなたのもの 1943-ウクライナ』(地人会)を観た時、86歳になる八千草薫が出演していたということでも話題になったが、作品そのものは素晴らしかったが、ただ、全体に声が小さくて、聞こえるか、聞こえないかのぎりぎりの台詞の音量になっていた。八千草薫の年齢からしたら、声は通るので聞こえないことはないのだが、声が小さいことは否めない。NHKの衛星放送でもこの舞台を録画して放送していたが、あれをご覧になれば、全体的に音が小さいことはなんとなくわかる。で、なにがいいたいかというと、そのとき劇場では、私の席の近くに二人ぐらい咳が止まらない観客がいて、始終咳をしていて、そのつど気が散ったり、台詞が聞こえなくなる。あるいは昨日観た映画では、E列の観客がG列の私の席に座っていた。アルファベットが分からないからといって、適当に座ったということだが、指定席なので適当に座られても困る。そして私の隣にいた女は、ずっと携帯をみていた。まあ、マナーの悪い観客と病気なのだから来るなといいたい咳き込んでいる観客が私のところに寄ってい来る。どうしてなのだ、神さまに嫌われているのか。この理不尽さは何か。ついつい声を挙げたくなる。


ただ私の場合、理不尽さは、まだ少ない。ないしろ花形フットボール選手が、引退後、ALSを発症することにくらべたら。


筋萎縮性側索硬化症(英語:Amyotrophic lateral sclerosis 略してALS)と診断されてから現在にいたるまでの姿を、子供に残すとして診断後から撮り続けているビデオ日記の映像を中心したドキュメンタリー映画である。予告編をみて、思わず涙ぐんでしまったため、ある意味、お涙頂戴映画でもあって、ほんとうのところ、心から観たいという映画ではなかった。しかし、実際、観てみると、そんな可哀そうだという安易な感傷にひたっているような映画ではなかった。


映画は、この元フットボール選手の死をもって閉じられると思っていた。予備知識ゼロで観たので。


確かに見ているとALSの進行は早い。ほんとうにあっという間に言葉を発することすらできなくなっていく。進行の速さに唖然とするとき、もはや死は避けられない、それも最速でやってくるという思いにとらわれる。映画の終わりは、スティーヴン・グリーソンは、かなりやつれ、やせ衰えている。息子を抱くというよりも、車椅子の身体の上に、幼い息子を載せてぐったりしている、この父子の姿で、映画は終わる。エンドクレジットでは何も報告されず、その後、映画の日本公開に際して来日した奥さんの映像コメントが入る。


夫は、まだというのは、とても残酷な言い方がだが、まだ生きている。しかも奥さんが来日しているから、介護を他人に完全に任せてもよくなっている。症状がよくなったということではない。ALSになってから、失うべきものはすべて失ったが、その喪失状態に慣れたということ。そう妻は伝えていた。テクノロジーの支援によって、全身がマヒしても、また食事ができなくなっても、呼吸ができなくなっても、それでも生きていける。残酷なというべきか、救いというべきか、頭脳はしっかりしている。したがってコミュニケーションはできる。苦しみを訴えることはできる。苦しみを認識できる。


そして慣れることもできる。たとえ言葉を失っても、慣れることはできる。この当人の、そして人間の強さに、言葉を失う。


これが最低であると言えるうちは、最低ではないということだろうか。


と同時に、どれほど欠乏しても、どれほど失っても、人間は苦しみ悲しみながらも慣れることができる。それが人間性であるかのように思えてくる。病気になる場合、あるいは生活環境が変わる場合、それまでのクォリティ・オヴ・ライフ(QOL)は失いたくないものだし、それをなんとか維持したい。それがプライドとまではいわなくとも、人間の最低限の尊厳ということもできる。だが、QOLは、相対的なもので、客観的にみて、明らかな低下あるいは劣化でも、人間はそれに順応でき、順応できた状態がQOLとなる。以前3.11の大震災のとき、私は外出先(神奈川県相模原市)で、停電にあって帰宅できず、小学校の体育館で一夜を過ごすことになった。私のQOLは劇的に劣化した。夕食は、乾パンとバナナ一本と水一杯だけとなったからだ。しかし、そのときはそれでも平気だった。普段は大ぐらいなのに空腹すら感じなかった。身体が完全に節電モードのようになってしまい、このまま何日も過ごせるように思った。幸い、この状態は一晩で終わり、翌日の午前中には帰宅できたし、被災地で避難された住民の苦労には足元にも及ばないものだったが、ただQOLがいくら劣化しても、人間は適応できるし、また劣化状態がQOLになることを悟ったような気がした。そのときは。


映画はリアルであること、夫婦の対立とか病人の愚痴、夫を愛していながら疲弊していく妻の複雑な思いなど、美化したり美談に仕立て上げることなく、冷静に提示しているのはりっぱとしかいいようがない。そのリアリズムは貴重である。


たとえば父親のすすめで信仰療法に出かけるところがある。伝道師のような人物が語るところによれば、自分で自分の体に触れ、歌をうたい、神をたたえ祈ることで、病気を克服できるらしい。最後に、病気をもっている人たちに、自分のできなかったことしてごらんなさいと伝道師はいう。するとグリーソンは、感極まってと思うのだが、走ってみるという(ALSと診断された彼は筋肉が衰えて歩くこともやっとという状態になっているので)。そこで会場で、フットボールの試合のときのようにひざまずいた姿勢からダッシュするのだが、数歩歩んだだけで倒れ込んでしまう。すると伝道師は、それが奇跡であるかのように4歩も歩めたとほめそやす。なんといういんちき。妻は、信仰療法など信じていない。信仰心篤い父親の勧めなのだが、しかし、父親を責めるわけにいかない。家族に病人がでれば、その病気が重ければ重いほど、奇跡を信じて、なんにでも手をだすのだし、私も同じことをしていたかもしれない。ともかく、このへんのリアルさには圧倒された。


実際に映画をみることで得たこともある。カメラは原則として固定している。とりわけビデオ日記はそうである。固定したカメラのむこうで、撮影された人物の動き、人物の振る舞いかた、現前のありようが不思議な感銘をもって伝えられる。また固定カメラは演出のゼロ度にむかうことで、媒介されない生の人物の言動に接することができる(という幻想をあたえる)。まさにそれがドキュメンタリー映画ということなのだが。


ただ途中からの展開は予期せぬものであり、いろいろと考えさせられたところがある。グリーソンはALSのため、話す能力を奪われていく。シェイクスピアの『リチャード二世』のなかに、死にゆくジョン・オブ・ゴーントが、いまわの際にこれを最後にと必死で言葉をつむぐ者の言葉は必ず心に響くというようなことを語るのだが、グリーソンのしゃべる能力を失ってしまう直前の必死の発話は、内容はわかりにくくなっているが、聞く者の心を打つ。予告編で泣きそうになったのも、まさにそこのところだった。


しかし言葉を話せなくなる時を予期して、自分の声を、また自分が使う単語を自分の音声でコンピュータで録音しておく。またコンピュータのディスプレイ上の文字を目で追うだけで文字入力できる装置を使いこなせるようになる。そうすると自分では言葉を発する力がなくなっても、視線で追った文字を入力し、それを自分の録音した声で音声化することによて、明瞭、明晰な声でコミュニケーションできるようになる。


本来なら言葉を発することができなくて、沈黙するところ、コンピュータを使うことで、それまでの苦しい発話から解放されて自由に言葉を駆使できる。元気な頃に録音した声には張りあがる。また機械処理した言葉だから明瞭である。いったいこれはどうしたのだろう。音声すら失った男が、機械技術の助けをかりて雄弁に意志伝達ができる。もちろん顔は話していない。口はつぐんでいる。ただコンピュータのスピーカーから声が伝わってくる。これは文字言語、エクリチュールを、機械によって音声化したもので、肉声のもつ身体性や現前性は失われている。


ただ、ちょうどエクリチュールが身体性と現前性を欠落させているがゆえに、死と結びついたように、この機械音声もエクリチュールと同様に死せる機械の声なのかというと、そういう面(どうしても違和感が消えない)と同時に、音声にはない超越的な面もあることに気づく。本人はALSの進行とともに、衰弱しているのだが、その本人から、機械を媒介として聞こえてくる元気な明瞭な人工的な声。だがこの人工的な声、疲れも苦痛も知らず、さらには歳もとらず、雑音にも邪魔されないこの声は、エクリチュールであるとともに、魂の声である。あるいは魂そのものの形態であるといえるかもしれない。


外的年齢、身体状態に左右されない内なる声の現前化、それが文字であるし(英語では文章の要旨というときの「要旨」というのはspirit「精神」あるいは「霊・魂」である)、その文字が進化してコンピュータの声(本人の)となったといえよう。このコンピュータの声は、エクリチュール、文字言語である。そしてそれは魂の声でもあった(キットラーは何て言っていたか、もう一度読みなおす必要がありそうだ)。


この映画は、人間の尊厳とは、人間であることとの意味は、またコミュニケーションを可能にするテクノロジーの意義は。考えさせられることがやまのようにある。それは簡単に答えが出せない難問ばかりだが、グリーソンの生きざまそのものが、ひとつの解答にもなっている。


だから映画館で私が退出するのをさまたげた横一列に座ったまま立ち上がろうとしない**どものように、哀れだと感傷に浸っている場合ではないぞ。映画館が明るくなって、他の列の客はすべて退席したというのに、なにか、くつろいで座って、涙をながして、結局、難病に陥った人物を見下げている**どもよりは、グリーソン本人が、その周囲が、はるかに偉大であること、観る者に限りない思索の糧をあたえてくれる素晴らしい教師であることは肝に銘じたほうがいいだろう。



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2017年08月25日

『ハートストーン』

英語訳題は原題をそのまま訳していてHeartstone。とはいえこれがどんな意味なのかわからないのだが(heart of stoneとかstony heartならわかるのだが)。東京での上映は終わってしまったが、これから全国各地で順次上演される。東アイスランドの寒村を舞台にした、ゲイ映画、LGBT映画である。


まず最初にカサゴは日本では高級魚である。どう調理しても美味しい。私は塩焼きかから揚げなどが好きだが、鍋に入れても、煮てもなんでもおいしい。ところがアイスランドのこの地方では、カサゴが釣れるとがっかりして、唾を吐いて海に捨てる。なんというもったいないことを、と思わずにはいられない。西洋料理でもブイヤベースとかアクアパッツアなんかには絶対に使うと思う。


たしかに見た目はごついが、カサゴを捨てるアイスランド人は絶対におかしいとしかいえない(まあ、似たようなこともあって、私の母の故郷は瀬戸内の漁港(山口県)だが、そこではシャコが網にかかると、みんな捨ていたとのこと。ところが名古屋に来たら、シャコが寿司店で食べられている。しかも高級なネタとして。なんであんなグロテスクな、捨てるしかなかったものが、都会では食べているのかとびっくりしたらしいが、まあ、それと同じだろう。流通経路がなくて売れない、あるいは地方独自の迷信とか伝承があって嫌われているとか。それと同じようにアイスランドではカサゴが嫌われているということのようだ)。カサゴの話は最後に触れる(映画の最後にも出てくる)


最初は思春期を迎えた少年少女たちの日常が淡々と映画かれる。ドキュメンタリー映画かと思えるほどで、これからどの方向に向かっていくか、中盤まで見極めにくい。ただ、その淡々としたところが心地よく、アイスランドの自然のなかで、のびのびと春の目覚めを体験していく少年少女たちの屈託のない牧歌的日常は観ていて癒される感じがする。


おそらく予備知識なしでみると、たとえば男の子ふたりが互いに股間の性器にふれて、ふざけあうところも、仲のいい男の子どうしの、異性への性的渇望を、同性との戯れというか、おふざけで紛らわす行為として、すんなり受け止めることができる。予備知識があると他愛もおないおふざけでも、そこに本気が透けて見える。ボーイズ・ラブというのは日本語としえ正しい用法ではないかもしれないが、映画の最初から「ボーイズ・ラブ」は濃厚に感じ取ることができる。


予備知識があると、この牧歌的世界のなかで、男性どうしの同性愛がすんなり自然に目覚めていくことが確かな手ごたえとともに感ずることができて、なんとも心地いいのだが、予備知識なしでみれば、事態は、そんなに牧歌的でも、自然的でもない。幼なじみの少年どうしだが、相手に強い愛情を抱くのは、とにかく一方だけで(クリスチャン)、もう一方のソールは、異性にしか性的興味はない。片思いの同性愛であり、少年どうし、堅い友情でむすばれ、相手のことを好きであることを自他ともに認めるのだが、それが同性愛的感情であることを自覚しているのはクリスチャンだけで、もう一方のソールの愛情は異性に向けられ、同性を愛情の対象とすることはない。となると片思い、相手に伝わらぬ思い、そしてさらに同性愛を差別的にしかとらえない因襲的な田舎町において、悶々とする少年の苦悩、それが物語の後半に色濃くなる。


それにつれてアイスランドの風景も、寂寥感を増し、まさにメランコリックな風景へと変貌してゆく。白夜なのか、完全に暗くならない薄明の夜の世界、そして曇り空がつづく季節の暗さ……。そのなかで遂げられぬ欲望をかかえて悶々とする少年。もはや牧歌的な風景や世界は後退し、救いのない望みのない灰色の光景が、メランコリーの強度を増すように貢献する。アイスランドの、ある意味、過酷な自然が、後半の同性愛者を襲うデプレッションとシンクロしはじめるのである。


カメラは少年たちの顔に密着する。正面からのアップではなく、側面からの、やや下から見上げるようなカメラが、繊細な心理的揺れ動きを暗示して素晴らしいし、見上げるカメラは時折、抜けるような青空を移して、透明で爽やかな空気の流動を伝えるのだが、また、アイスランドの覆いかぶさる一面の雲を見上げることになり、陰鬱な圧迫感の増大に貢献する。


映画も中盤以降は、デプレッション、メランコリーとしか形容できない風景と物語が展開する。ゲイ映画にふさわしく、この映画は冒頭から海辺の町であることが強調される。水と海ほど、同性愛的欲望の背景としてふさわしいものはない。そして冒頭で少年たちは、埠頭で多くの魚を釣り上げる。そのなかでカサゴだけは嫌われるのだが……。少年は、大量にとれた魚の一部をバケツ一杯に盛って家に持ち帰るのだが、母親は盗んできた魚だろうからと、大量の魚を家の外に放置する。あれだけりっぱな魚があれば、毎日、なにかの料理ができて、一週間は食事に困らないのではと思うが、母親は肉食系らしく、魚に見向きもしない。いつしか大量の魚は放置されて腐るだけで、海に捨てるしかなくなる。


魚を食べないとDHAが摂れないので頭が悪くなるのだが、それはともかく、腐った魚は、いっぽうで、この寒村に暮らす住民たちの、神に見放されて腐るしかないような日常を暗示することになる。


カサゴへの嫌悪は、同性愛嫌悪(ホモフォビア)の表象だろう。しかしグロテスクなカサゴが嫌われること=同性愛嫌悪であるとすれば、寒村の生活は健全かというと、腐った魚が表象しているように、村人たちの生活も腐っている。むしろ同性愛嫌悪を正義と思っている村人たちの知能と精神年齢の低さこそが(重要なのは、子供たちの世界と、大人たちの世界に断絶はないからである。大人たちも、子供のまま大人になったかにみえる)抑圧的風土をつくりあげる。この腐った日常のなかで、抑えられれば抑えられるだけ、盛り上がる同性愛感情は、むしろ、それこそが純愛である、あるいは真正の恋愛感情のように思えてくる。


ただ腐った日常であればあるほど、不寛容になり、同性愛を嫌悪することで、かろうじて自らを正当化するという貧困な精神的姿勢が強まり、犠牲者をたえず輩出することになる。やりばのない怒りとむくわれない愛をかかえた少年は、自殺に走る。幸い、未遂に終わるのだが、たとえ、ふたりとも同性愛を強く自覚しても、もはや、もとのような牧歌的なおふざけやいちゃつき、あるいは同性愛的感情の自然な無自覚な発露へと戻ることはない。少年二人の同性愛は終わりを告げるかにみえる。自殺未遂をしたほうは村を去るしかないようだから。


異性愛中心主義あるいは強制的異性愛の解釈をすれば、子供から大人への成長過程で、幼なじみの男の子どうしは、健全な友情へと発展するかにみえて、決して悪意ではなく邪悪なものに魅了されたわけでもないが、道を誤り、同性愛へと傾斜することで、当人も、友人も、家族を傷つけてしまった。現代は同性愛に寛容であるかにみえる。しかし同性愛は異常性愛であり、伝統的な健全な恋愛観からすれば嫌悪すべきものであり、健全な大人の恋愛を妨げるものである。だが、同性との強い友情関係が、同性愛的感情へと発展する可能性あるいは危険性は常にある。むしろそれを経験し、倒錯の道を歩んだこと、世間の不寛容や差別を体験したことは悪いことではない。つらい経験を通して人は成長できる。この思秋期の過ちは決して無駄ではない。むしろ有益ですらあった……。


映画の最後は、冒頭と同じ、子供が埠頭で魚を釣っている。冒頭ではグループで、最後のほうでは子供が一人。それを主人公の一人ソールが離れたところから観ている。彼は冒頭での子供どうしの遊びから距離を置くような成長を遂げたことが暗示される。最後に子供が一人、カサゴ(!)を釣り上げる。カサゴはアイスランドか、この寒村では嫌われているようで、カサゴに侮蔑の言葉を投げかけ、その開いた大きな口に、唾をぶつけ、海に捨ているのである。冒頭ではソール自身が同じことをしていた。このカサゴは、あるいみ嫌忌される同性愛者の象徴でもあろう。唾を吐かれて嫌われる。


最後は捨てられて海中をおちていくカサゴの姿がある。硬直して、一定の距離を沈んだあと、死んだと思われたカサゴは不意に生き返る。そして何事もなかったかのように、泳いでいく。ヘテロな解釈などくそくらえ。成長などゴミ箱に捨てろ。同性愛的欲望は、負けはしない。同性愛を失うな。頑張れと応援したくなる。たとえ、どのような暴力も、大人たちが、ヘテロ中心主義者たちが、みずからの腐敗を棚に上げて、どれほど差別的に接しようと、同性愛の欲望を抑圧することはできない。それが最後のメッセージである。


追記:誰か教えてほしいのだが、この映画のなかで子供たちは、学校に行かない。就学年齢の子供たちの学校生活は、一度も描かれることがない。長い夏休みとか冬休みなのだろうか。とにかく学校は影もかたちもない。そのため子供たちの言動は、大人の縮図いや大人と同じようにみえてくる。あの子供たちがたむろする店はなんなのか。ダイナーでもなければレストランでも居酒屋でもない。ただ、お酒こそ売られていないのだが、それを除けば、大人たちがたむろする飲食店となんらかわりはない。物語は子供の物語だが、大人の物語でもある。子供と大人との根源的断絶はない(成長はない)。少年物語にみえて、これは大人たちのクィア物語なのである。


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