2025年07月26日

『スーパーマン』2

『スリザー』
ジェームズ・ガンの初監督作品(公式には)『スリザーSlither』(2006)は、『トロミオとジュリエット』からみると、ずいぶん洗練されたSFホラーコメディということになるが、『スーパーマン』からみると、B級感(いやZ級感)が消えないというかB級映画そのものともいえるクズ映画である。ネイサン・フィリオンとエリザベス・バンクスが主演だが、ネイサン・フィリオンは『キャッスル』を観るまでは私としてはその存在が認知できなかった(私にとって『キャッスル』後は、フィリオンが『プライヴェート・ライアン』にも出演していることを確認したのだが)--したがって無名の俳優だった。いっぽう仕事を選べよというほどひどい映画ではないとはいえ、この映画のなかのエリザベス・バンクスは、他の出演作における彼女とは異なり、B級映画専門の俳優のようにみえた。

ただしひどいグロテスクな映画ともいえつつ、そんなにグロテスクでもないともいえる映画で、ジェームズ・ガン監督の過去と未来がせめぎあっている作品とでもいえようか。

物語はグロテスクで不条理だが、洗練されてもいて、宇宙生物がアメリカの地方都市を侵略し、住民全員を奴隷化し、最初にとりついた人物に吸収していくというおなじみの物語のまさにジャンル映画なのだが(つまり敵は人間から個性を奪い一体化するファシズム)、このジャンルの集大成をもめざしていて定番の要素をもれなく吸収しているという特徴をもつ。

またそのグロテスクぶりは、最近の映画『サブスタンス』(コラリー・ファルジャ監督、2024年)のモンスターの上をゆくものである。美容とか女性の身体のグロテスクな可塑性をめぐる映画としての『サブスタンス』は、同じく女性の身体の脅威的な持続性と脆さを身体変形というかたちでパロディ化した『永遠(とわ)に美しく』(ゼメキス監督、1992年)あたりを継承したものかと思っていたが、そのグロさは、『スリザー』そのものではないが、『スリザー』的なB級いやZ級のグロテスクを踏襲するものではないかと思えてきた(ちなみにZ級というのは最低ということだが、ただ現在ではゾンビ映画をも意味するので、C級くらいにとどめておくほうがいいのかもしれな。ちなみに『スリザー』、ゾンビ映画ではないが、ゾンビ映画のフォーマットにはのっとっている)。

宇宙からの侵略テーマは、おなじみのものだが、ナメクジ型の宇宙生物の超群団が人間を襲うさまは、『スーパーマン』においてエンジニアがスーパーマンに対してくりだすナノテクノロジー武器(スーパーマンの肺にまで進出して文字通り息の根をとめようとする)の元祖ともいえるものだろう。もちろんいうまでもなく、エイリアンの侵略というテーマは、その具現化は異なるにせよ、両映画に共通している。

また『スーパーマン』では空飛ぶ犬が印象的だが、『スリザー』でも、犬が宇宙生物にとりつかれたり、あるいは宇宙生物にとりつかれた住民の餌食となって食われたりする。『スリザー』において、警察が、ある倉庫を捜索し、そこに食われたり殺されたりした犬の累々たる死骸(映画の作り物とはいえ、これほど多くの犬の死骸を観たことは私はない)を発見するという場面があるが、ガン監督、犬が好きなのか嫌いなのかよくわからない。

『スーパー!』
と小見出しをつけても、実のところ、内容はもうほとんど忘れてしまったが、ガン監督の『スーパー!Super』(2010)は、『スリザー』から『スーパーマン』への途上にある重要な低予算映画である。これはスーパーヒーローが一般人の日常生活のなかにごく自然なかたちで存在し、一般人がスーパーヒーローに、ただあこがれるのではなく、実際にスーパーヒーローになって悪と戦うことを通して、現実あるいは虚構におけるスーパーヒーローの意味を問い直す、パロディともいえなくもないが基本的に自意識的な作品であった。それはスーパーヒーロー物語ではなく、スーパーヒーロー物語についての物語、メタ・スーパーヒーロー物語でもあった。

主役はレイン・ウィルソン(今も活躍している俳優だが主役映画は他にあったかどうか不明)で、新規のスーパーヒーロー、クリムゾンボルトになる。そのサイドキックであるボルティーをエレン・ペイジが演ずる(このスーパーヒーロー・ペアのモデルはバットマンとロビンだが、それは彼らがスーパーマンのような超能力をもつ宇宙人ではなく、人間だからである)。

なお映画には、リヴ・タイラー、ケヴィン・ベイコン、そしてネイサン・フィリオンが出演。

映画のなかで、エレン・ペイジが、私のコスチュームをみて欲情しているでしょうというようなことを話す場面がある。スーパーヒーローのコスチュームがエロティックなことは誰もが承知しているが、それは台詞に出して言ってはいけない暗黙の了解事項である。それをあえて言わせる――演劇や映画のなかで、これは芝居だ、映画だというようなものである。すでに一線を越えているのである。

【同じようなスーパーヒーローのコスチュームとそのエロスをめぐる台詞として、テレビでスーパーマンを演じたジョージ・リーヴズの自殺を扱った映画『ハリウッドランド』(2006)のなかで、リーヴズを演じたベン・アフレックは、スーパーマンの扮装で撮影に臨むとき、ペニスがちゃんとパンツになかにおさまっているかスタッフに目視で確認させるところがって、それは当然のことであっても、私はけっこう衝撃を受けた。】

ちなみにコスチュームがエロティックでしょうと言われても、男になる前のエレン・ペイジは(男に、つまりエリオット・ペイジになってからも)、そんなにエロスを感ずることのない、どちらかという少女体型をしていて、実感がわかなかったし、そんな彼女に欲情するのは、子供に欲情するのと同じで、かなり危険な感情であることもわかった。ただ、このわずか一例からでも、映画『スーパー!』が、触れてはいけないところに触手を伸ばす、大胆なつくりをしていることがわかる。スーパーヒーローというサブカル的いやカルチャーそのものと一般人とのかかわりを、かなりつっこんだかたちで追求していた。

実際、映画はスーパーヒーローに入れ込むあげく、ヴィラン的になる狂気までも露出させていた。スーパーヒーローがもたらす狂喜と狂気。またそこにみられる無意識の欲望のうごめき。これは、まさにメタ・スーパーヒーロー映画といえるようなものであり、この映画のメタ性あるいは自意識性が『スーパーマン』にも流れ込んでいると観るのは、決して私だけではないと思う。つづく

posted by ohashi at 19:27| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年07月25日

『スーパーマン』1

二人しかいない

私はアメリカ人(まあ、平均的な)ではないので、知らない俳優が多くて当然だとしても、映画『スーパーマン』(ジェームズ・ガン監督2025)のなかでスクリーン上で確認できた知っているというか有名な俳優は、レックス・ルーサー役のニコラス・ホルト(出演映画、ドラマ多数。冒頭でみのもんた司会のクイズ・ミリオネアと全く同じ形式のテレビ・クイズ番組が登場して、フジテレビ、パクったのかと驚いた映画『アバウト・ア・ボーイ』――そこに登場する子役の頃からニコラス・ホルトはよく知っている)と、グリーン・ランタン役のネイサン・フィリオンの二人だけ。

ネイサン・フィリオンって誰だというなかれ。大ヒット、テレビドラマ『キャッスル』(放送終了、シーズン7くらいまでいった)の主役(実際には、相棒役のスタナ・カヤック扮するケイト・ベケット刑事のほうが人気が出て、フィリオンがシリーズ継続を嫌がったとかいわれていた)、そして現在もアメリカと日本(BS、CS)で放送中の『ザ・ルーキー40歳の新米ポリス!?』(現在シーズン7)で主役。

ニコラス・ホルトとネイサン・フィリオンの二人(さらにいえばスーパーマンの父親役のブラッドリー・クーパーは当人とは気づかなかった。母親役のアンジェラ・サラファンはテレビ・ドラマ『ウェスト・ワールド』に出演して人気が出たのとことだが、『ウェスト・ワールド』は全部観たが、もう今となっては彼女がどんな役だったのか覚えていない)。

ちなみに知っている俳優が二人しかないというもうひとつの映画が『侍タイムスリッパー』。山口馬木也と冨家ノリマサの二人しか知らなかった。山口馬木也は、映画やドラマ、それに舞台(シェイクスピア劇)でも観ていて知っていた。冨家ノリマサは誰もが一度はテレビ・ドラマで観ているはず。この二人しか知っている俳優はいなかったのだが、低予算のインディーズ映画『侍タイムスリッパー』なら、それは当然のことである。

当然ではないのは、『侍タイムスリッパー』の何倍かわからぬくらいの膨大な製作費を使った映画『スーパーマン』で有名な俳優が二人しかいないというのは、どういうことか。スーパーマン役のデヴィット・コンスウェット、誰か知っていますか。彼が出演した前作は『ツイスターズ』だが、この映画、主役はデイジー・エドガー=ジョーンズ(誰だというなかれ、私の好きな『ザリガニの鳴くところ』の主役)とグレン・パウエル(『トップガン マーヴェリック』に出演後、人気が出ていくつかの映画の主役に)のふたり。デヴィット・コンスウェットは端役。別に彼に魅力がないとか演技が下手だということではない。ただ、こんな大作映画に出演するような俳優ではなく、本来なら、主役といってもB級映画の主役がお似合いなのだ。

映画の宣伝というか、彼自身の宣伝において、子役の頃からの長い経歴からしても、すでに大物俳優であるかのような宣伝のされかたをされているが、無理やり感のある誇張であろう。小物俳優ではないか。小物がメジャーな映画の主役をするなということではない。抜擢が間違っているということでもない。ただ、彼が主役になることは、映画全体のつくりとどこかしっくりくるのだ。すなわち、この映画はメジャーなマイナー映画なのだ。いいかえればB級感ただようA級映画なのだから。

そう今回の『スーパーマン』、メジャーな映画というよりも、B級映画臭がふんぷんとしているのである。メジャーなマイナー映画。メジャーでありながらマイナーは存在。まさに監督がそうだ。

永久C級映画監督

以前、シェイクスピア映画について本を書こうとして色々調べていた頃、1996年製作のTromeo and JulietというB級映画がカルト的な人気を博していることがわかった。製作はトローマ・エンターテインメント。Wikipediaの説明が簡潔で要を得ている。
トロマ・エンターテインメント(英語: Troma Entertainment)は、アメリカ合衆国の映画製作会社。イェール大学出身のロイド・カウフマン(Lloyd Kaufman)は、1971年から映画の製作を行っていたが、1974年にマイケル・ハーツ(Michael Herz)と共にトロマ社を設立した。設立当初から低予算のインディペンデント映画の製作に特化し、いわゆるB級映画を専門的に製作及び配給している。
ホラー映画やコメディ映画が主なジャンルで、内容的には度を越したくだらない設定のものが多いが、日本においても一部熱狂的なファンが存在するため劇場未公開作品であってもビデオ化される事も多い。
【中略】
トロマ作品はカルト映画として取り上げられる事もあるが、あまりのくだらなさから「おバカ映画」「Z級映画」とも呼ばれ馬鹿馬鹿しさを楽しむための映画であるため、鑑賞の際には寛容さが必要である。

いくら日本語版のWikipediaのレヴェルが低いとはいえ、解説文の記述/修飾語とし「度を越したくだらない設定」という表現は、ちょっと度を超しているが、ただ、まったくその通りである。

そのなかでTromeo and Julietはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のパロディでもないパスティーシュのようなもので、無意味に、流血沙汰になり、人間の身体が切り刻まれ周囲が血の海と化すような、精神年齢が低そうなというよりも、精神年齢なんかないような人間が面白がるような作品だった。私は当時、DVDだったかVHSだったか、これを購入し、東大英文研究室の映像教材のコレクションに入れた。トローマ・エンターテインメントは比較的最近も、『#シェイクスピア シットストーム #ShakespearesShitstorm』 (2020)を制作したが、DVD化されているかどうかわからない。もし東大英文研究室がこの作品をコレクションに加えなかったとしても、私はその判断は正しいと思う。ちなみに『トロミオ……』を観た外国人教師は、最低の映画だと言っていたが、でもくだらないけど面白いとも評していた。

20世紀の終わり頃のこと、この映画の監督はわからなかったが、いまでは、トローマ社のLloyd Kaufmanが監督ということになった。ただ、トローマ社のほとんどの映画はKaufmanが監督となっている。どうやらKaufmanはプロデューサー的な存在であって実際には他の人間が監督として映画を制作していたのだろう。『トロミオ……』の場合、それは副監督、助監督として映画に参加し、脚本を書いた人間、すなわちジェームズ・ガンである。

「トロマ作品はカルト映画として取り上げられる事もあるが、あまりのくだらなさから「おバカ映画」「Z級映画」とも呼ばれ馬鹿馬鹿しさを楽しむための映画であるため……」とWikipediaにあるような映画、そのひとつの『トロミオとジュリエット』の実質的な監督ならびに脚本製作者がジェームズ・ガン。おバカ映画、C級を通り越してZ級映画のこの映画がどんな映画だったのか、正直言って、漠然とした印象があるものの、そのほとんどを忘れてしまった。ただ、ジェームズ・ガンのこのZ級映画がどんなだったかは、ジェームズ・ガンのメジャーデヴュー映画『スリザー』を観ることで推し量ることができる。つづく
posted by ohashi at 01:11| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年07月17日

『F1/エフワン』

『F1/エフワン』(2025)のジョセフ・コシンスキー監督の映画についていえば、私は、ほとんど観ていて、印象的な作品が多い。『オブリビオン』(2013)はトム・クルーズ演ずる主人公が、忘れるどころか記憶力がありすぎて驚いたし、近年では『トップガン マーヴェリック』(22)の大ヒットも記憶に新しい。また山火事の消火部隊を描いた『オンリー・ザ・ブレイブ』(17)はほんとうに泣いた――まあ私が泣いたということを知ると、これからはじめてその映画を観ようとする人は、おそらく意地でも泣かないと思うので、申し訳ないことをしたと思いつつ、でもあれは泣けた。

カーレースの映画のみならず、カーレースそのものに全く無知で興味がない私としては――なにしろこの映画『F1』には、現役のレーサーが本人役で20人以上出演しているとのことだが、私は誰一人、わからず――、今回の映画は初めてのカーレース映画といってもいい。その意味で余計なことを考えず、新鮮な気持ちで観ることができたのだが。

というかたしかにそうだが、『F1』 を観た後、やはり気になって、ジェームズ・マンゴールド監督の2019/20年の映画『フォードvsフェラーリ』(Ford v Ferrari 別題Le Mans 66)を観てみた。なぜならこの映画は、2011年にマイケル・マンによって企画が進行してから、2013年にコジンスキー監督、トム・クルーズ、ブラッド・ピット主演による映画として企画が再出発をしたものの、最終的に、2018年マンゴールド監督、マット・デーモン、クリスチャン・ベール主演による映画として完成されたという経緯があるからである。

マンゴールド監督『フォードvsフェラーリ』において、元ドライヴァーでカーデザイナーのキャロル・シェルビー/マット・デーモンとカーエンジニアでドライヴァーのケン・マイルズ/クリスチャン・ベールのペアに照応するのが、『F1』におけるチームのオーナー役のハビエル・バルデムと老練のドライヴァー役のブラッド・ピットとなる。どちらもドライヴァーは、マーヴェリック(一匹オオカミ)である。『F1』のブラッド・ピットはマーヴェリックだが、『フォードvsフェラーリ』のケン・マイルズ/クリスチャン・ベールも結婚していて息子もいるのだが、性格的にマーヴェリックそのものである。

だがそれだけではない。主役にからむ女性が、ともにアイルランド系なのだ。

『F1』では、女性技術者のケイトに扮するのはケリー・コンドン。『ナイトスイム』(24)『プロフェッショナル』(24)そして『イニシェリン島の精霊』(22)に出演。

『フォードvsフェラーリ』のケン・マイルズの妻モリーを演ずるのはカトリーナ・バルフ。彼女はなんといっても連続テレビ・ドラマ『アウトランダー』(2014-)のヒロインで有名。

主要な配役からして、『F1』と『フォードvsフェラーリ』は基本構成を共有している。

だが、もちろん違いもある。F1レースとルマン24時間耐久レースとはレースの形式もレーシングカーの種類もちがうのだが、それとあわせて時代も違う。『フォードvsフェラーリ』は別題『ルマン66』が示しているように1966年でのルマン24時間耐久レースのことである。いっぽう『F1』は21世紀の現在が舞台である。また前者が実話に基づいているのに対して、後者はフィクションである。この違いが映画の決定的な違いとなる。

つまり『フォードvsフェラーリ』は実話に基づいているから、マーヴェリックが子持ちの亭主となっているし、実話に基づくからこそ、ビターな終わりにもなっている。優勝の歓喜と死の喪失とが踵を接して起こる。私のように何も知らない観客にとっては、衝撃的な終わりではあったが、歴史を知っている観客にとっては不可避的な運命の物語であった(その原因はいまも不明なのだが)。

いっぽう『F1』は実話の縛りはないから、万年Bクラスに甘んじてきたチームが、60歳近い老齢のドライヴァー(実はチームオーナーの昔の同僚)を雇い、チームの若いドライヴァーと競わせながら、その老獪な知恵による戦術に助けられて最後には優勝をはたすという架空の物語をつくることができた。女性は、チームの整備員として加わるだけでなく、チームのテクニカルディレクターとしても参加し、チームの司令塔となって活躍する。ブラッド・ピット扮するドライヴァーにはモデルがいるらしいのだが、また実際のF1レースのプロセスなり作業ルーティーンは正確に踏襲されているのだが、それらを除けば、物語は実話にじゃまされることなく、ハッピーエンディングへ向けてエンターテインメントのコースを疾走する。最終ランで、前方に立ちはだかるレーシングカーが一台もいないコースを運転席から観る幻想的ともいえる、そして至福の映像は、この映画のありようそのものを集約している。

『フォードvsフェラーリ』では、耐久レースの際に、ピットインした車を10分くらいかけて整備し、部品まで取り換えたあとレースに復帰するという場面がある。レースの形態と時代が異なるので比較は成立しないかもしれないが、『F1』では、ピットインしてタイヤ交換を3秒で終えてレースに復帰するという場面がある。1ミリもミスが許されない驚異の整備作業だが、システムと時代の違いだけではすまされない、なにか世界線が異なる出来事を観ている感じがする。

たとえば『フォードvsフェラーリ』では、ドライヴァーへの指示は、チームのメンバーがコースの端で指示を書いた黒板を掲げてすませる。ル・マンではない別のレースで、チームのリーダーのマット・デーモンが最後の賭けに出て、死ぬ気で走れというような指示を自分で黒板に書いて、走行中のクリスチャン・ベールに提示するという印象的な場面があったが、21世紀のF1では、指示はすべて無線でドライヴァーに伝わる(実際、高速走行中のドライバーがボードに書かれた指示を見落とすか読み取れないことは多々あるだろう)。いやそれだけではない、ドライヴァーは走行中に判明する問題点をチームに無線で報告したりするが、チームのテクニカルサポートグループは、そうした報告を待つまでもなく、車の状態は逐一チェックしている。実際、走行中のレーシングカーは、ドライヴァーがいなくても、無線でリモートコントロールできてしまえるのではないか。レーシングカーに搭載したAIが状況を独自に判断し、遠隔操縦と瞬時の状況判断による戦術構成によって、人間がいなくてもレースを成立させてしまうのではないか。

もしそうなら、今後のレースは、どのチームも過去の経験(ときには過去の優勝経験)を活かしながら地道に、チームのテクニカルディレクターの指示に従い、ドライヴァーに安全走行させ、あとは粘り強く優勝を狙うしかない。テクノロジーとチームワークが重要となる。そして、わくわくするような冒険的要素はもうなくなる。

『F1』を観て、カーレースについての素人が、まさに素人であるがゆえの率直な感想を抱いた結果がこれである。将棋とかチェスの世界で、人間がコンピューターと対戦することがあるが、F1レースでは人間vsコンピュータどころか、コンピュータvsコンピュータになってもおかしくないのではないか。20世紀のレーシング映画のタイトル『フォードvsフェラーリ』は、21世紀のレーシング映画のタイトルとしては『人間vsコンピューター』あるいは『コンピューターvsコンピューター』がふさわしい【AIという言葉を使うべきかもしれないが、AIvsAIだとローマ字だか数字が横並びになるのは見にくいのでやめた。】

問題はドライヴァーなのである。そしてドライヴァーは、この種のジャンル(つまりシステムに組み込まれないことが美徳でもあるような生き方を描く)において定番となっているマーヴェリックだからではなく、カーレースにおいて早晩マーヴェリックにならざるをえない運命にある。『フォードvsフェラーリ』でケン・マイルズ/クリスチャン・ベールが妻子のある中途半端なマーヴェリックであったのは、実在した人物をモデルの映画化だからという理由のほかに、排除され邪魔者扱いにされる真のマーヴェリックになる途上にあったドライヴァーという理由もあろう。

『フォードvsフェラーリ』の最後におけるケン・マイルズの事故死は、実話に基づいているだけでなく、ドライヴァーの消滅という運命を先取りしていたともいる。いやその前に、彼は、フォード車が三台そろってゴールインして優勝を分かち合うという企業側の宣伝戦略に譲歩したがゆえに、単独優勝という栄誉を逃し、二位に甘んじなければいけなかった。そのときに彼はもうすでに死んでいたともいえるのだが。

『F1』ではブラッド・ピットは優勝をするのだが、チームからは去る。彼は自身がチームに不用だと悟ったからである。ひとつには若いドライヴァーが力をつけてきて、彼にチームを任せてもよいと判断したから――実際、この若いドライヴァーは、チームをまとめる統率力という点において、一匹狼のブラッド・ピットよりも圧倒的に優れている。そして、一般的なこととして、F1のような高度にシステム化され電子化されAIと企業論理に支配されるカーレースにおいて、ドライヴァーは無用の長物であると悟ったからである。

ドライヴァーが不用だということは、『F1』では逆にというか逆説的にドライヴァーがいなければ優勝できなかったというかたちで立証される。ブラッド・ピット扮する老獪なドライヴァーは、規則を破るか破らないかの瀬戸際のところで、違法すれすれの戦術を駆使して、チームの順位を上位へと押し上げる。基本的にマーヴェリックだが、それでもチームワークを重視して、同じチームの別のドライヴァーに花をもたせようとするまでになる。最後は、小細工をするのではない正攻法での走行によって優勝を勝ち取るのだが、それは、彼の戦術によって、もう一人のドライヴァーが上位に食い込んだおかげである。そしてこのもう一人のドライヴァーが一位争いをするなかで、接触事故が起こり、ブラッド・ピットにチャンスがまわってきたという偶然の要素もある。

狡猾な小細工と偶然の助力。このふたつは常態化することはできない。ある意味、一度限りである。ブラッド・ピットの叡智あるいは狡知によってチームは優勝できたが、それは一度限りの奇跡なのであって、簡単に繰り返すことはできないし、蓄積され継承されることはない。いうなればそれは規則の存在を保証する例外のようなものである。ブラッド・ピットの活躍がすばらしければすばらしいほど、その例外性が際立ち、ドライヴァー無用の前提は強化されるだけである。

あるいはこうもいえる。機械化され電子化されシステム化されコントロールされたカーレース、チームが一糸乱れぬ統率力でもって一丸となって取り組むカーレース、そのなかで唯一の不安定要因あるいは不確定要因は、ドライヴァーである。予測不可能な行動をとるというだけではない。人間であるからにはミスをするかもしれない。そのためどんなにマシンをモニターしコントロールしても、ドライヴァーが予測不能な事態をいつ何時でも引き起こし、それがマシンに、ひいてはレースにも甚大な影響をおよぼすかもしれない。やはりドライヴァーは不必要なのか。不必要である。だが、この不安定要因がなければレースは面白くない。レースに参加するチームのクルーにとって、レースの真骨頂は、マシンが故障もしくは不調なときである。レースを観戦する観客にとってレースの醍醐味は大小さまざまなアクシデントである。レースの邪魔をするドライヴァーはレースの醍醐味を生成しうる。それは、陸上競技において走者の滑らかな疾走を妨げる障害物のようなものである。カーレースは直線コースだけを用意しているのではない(ドラッグ・レースはべつだが)。曲がりくねった曲線コースをつくり、そしてドライヴァーという障害物を前もって用意しているのである。ドライヴァーは最後の、わくわくするような冒険的要素なのである。

カーレースは、参加者が外なる敵(走行しにくいコース、相手チームの車)だけでなく内なる敵(すなわちドライヴァー)とも戦う過酷なレースである。ただ、そう考えると、マーヴェリックのブラッド・ピットの違法すれすれな戦術によって予定変更を絶えず余儀なくされながら、なんとか最後の優勝までこぎつけたというのは、マーヴェリックを抱え込んだレースチームの例外的な(不運あるいは幸運な)出来事ではなくて、実は、カーレースそのもののお馴染みの出来事なのである。どのチームもドライヴァー=マーヴェリックを抱え込んでいる。ドライヴァーとの戦いこそが、あるいはドライヴァーという歩く無軌道・歩く破天荒・老練なマーヴェリック(さらにいいかえれば最後の冒険的要素)をいかに手なずけ、レースに貢献させるかが(危険をものともせず、死んでもおかしくないドライヴァーをいかにして死の淵から生還させるかが)、レースの勝敗を左右するのである。

ドライヴァーは不要だが、ドライヴァーほど必要なものはない。ただしドライヴァーはその否定性や例外性において必要とされるのである。犯罪者は文明を崩壊させるかもしれないが、機能的社会学では、犯罪者がいなければ文明は維持できないと考える。同様に、カーレースは、どんどん洗練化されシステム化されるにしたがって、ドライヴァーを無用の存在となる一方で、ドライヴァーを切望するのである。ドライヴァー、この最後の冒険的要素なくしてカーレースはありえない――ちょうど犯罪者なくして文明が存続しないのと同じように。

ただし、ドライヴァーにとっては、そのように否定的に存在を確保され必要とされるのは、嬉しいことではないだろう。むしろ怒りと悲しいみをもたらすことだろう。それは好かれることではなく嫌われること、愛されるのではなく憎まれることのなかに存在価値があるというのだから。

映画の最後にブラッド・ピットが安らぎを見出すのは、ドライヴァーが、その個性と能力を存分に発揮できるカーレース、「バハ1000 (Baja 1000)」である。「バハ1000 」――「メキシコのバハ・カリフォルニア州にあるバハ・カリフォルニア半島で毎年11月に行われる自動車と二輪車のデザートレース」(とWikipediaにある)。巨額の賞金や準備金が費やされることのない、また高度にシステム化されていない、車と自然と人間が一体化できる、ある意味牧歌的な(砂漠だが)、ノスタルジックなカーレース。これが彼にとって救いの場となる。優秀なドライヴァーが自らの存在価値を横領されることなく、否定性あるいは例外性においてネガティヴに評価されることない、数少ないカーレース。そこに最後にたどり着く映画『F1』は、ある意味で、レース・ドライヴァーへの賛歌でありまた鎮魂歌なのだ。
posted by ohashi at 11:32| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年06月29日

『国宝』1

公開初週よりも週を重ねるごとに観客数が増えてゆく映画としては『国宝』の前に、『教皇選挙』があった。見かけたところ、似ても似つかぬ両作品だが、しかし、似ているところもある。血とか世襲、あるいは伝統に、集団の将来をゆだねるか、脱世襲・脱伝統のよそ者に希望を託すかという点では、同じ主題を共有しているといえようか。

もちろん、共有されているのはそれだけではない。ただしそれ以上に差異も目立つのかもしれない。『教皇選挙』は、爺さんしか出てこない映画という評判が若い人の間に広まっていた。それは確かにそうなのだが。いっぽう『国宝』は若いアイドル的な俳優が主演とあって、若い観客層を動員している。この違いは大きい。とはいえどちらもよい作品で、多くの人が映画館で観ることになったのはよかった。私は両作品を複数回観ている。

アマデウス
ピーター・シェーファー作の戯曲(映画化もされた)『アマデウス』は、その才能を神に愛された天才作曲家モーツァルトを、人間的には精神的発達のみられない幼児的人間として提示して観客を驚かせたのだが、実際のモーツァルトは、そこまでひどい人間ではなかったようだが、同時に、どうしようもない性格破綻者という面もあったようで、まったくの虚構というわけでもなかったようだ。うんこの話をするときだけ盛り上がったモーツァルトにとって、その音楽的才能は、神から与えられ、また神に愛された証拠でもあったのだが、それとひきかえに人格的には成長を阻まれ、みかけは大人だが心は子供のままというアンバランスな状態を余儀なくされた、つまり神から愛されたモーツァルトは神から呪われていたのでもあった。

映画『国宝』においても、「芸」を極める歌舞伎役者は、その過程で、芸に身をささげることで、自分自身を見失い、人間性を失い、さらに多くの人間を犠牲にしてゆく。芸に精進することは、悪魔に魂を売ること、あるいは悪魔との契約をむすぶことだということが鮮明に打ち出される。

幸福の約束
その芸は、観る者を幸せな気分あるいは正月を迎えたような晴れの気分にさせてくれるのだが、その幸せの約束は、悪魔に魂を売った「人間国宝」によってもたらされるのである。

この場面、映画の終幕において、人間国宝に選ばれた立花喜久雄/花井東一郎/吉沢亮に取材したカメラマンの女性(瀧内公実)が、自分と母親を見捨てた父に対して、自分の正体を明かし、思いのたけを言い放つのだが、そのとき、あなたのことを父親と思ったことはないが、あなたの芸はすばらしい、人を幸福にすると言ってのけるのである。

【なお以下のネット記事参照:「ciatr[シアター] 物語と、出会おう。
『国宝』のネタバレあらすじを解説!喜久雄はラストシーンでどうなったかまで徹底考察!2025年6月24日更新 茂木たまこ」

その一部を引用すると:
数年後。俊介はこの世を去り、喜久雄は人間国宝に認定されます。インタビューで「ずっとある景色を探している気がする」と語る喜久雄。カメラマンの女性は、彼に「藤駒という女性を覚えていますか?」と問いかけます。彼女は喜久雄の隠し子の綾乃(清原果耶)だったのです。

この執筆者、茂木たまこ は、瀧内公美を清原果耶と間違えている。いったいどうしたら、そんな間違いができるのだ。おそらく映画を観ずに記事を書いているのだろう。地******】

だが幸福を約束するその芸の担い手であり日本一の歌舞伎役者になった人間国宝の男のこれまでに人生は幸福なものではなかった。人間国宝に選ばれたことを祝福するとき、取材側は「順風満帆な人生」という言葉を使うが、映画の観客にとって、親が殺され、三代目に選ばれても後ろ盾がいなくなり、一度は梨園を追放された男のどこが順風満帆なのかと、あきれるしかない。幸福の約束をもたらす芸の担い手の人生は決して幸福なものではなかった。

ブレヒトは、ユートピアを目指す運動に身を投じた自分たちの人生や日常は決してユートピア的なではなかったという詩を残したが、人を幸せにする芸の担い手は、決して幸せではなかった。いやそれどころか、芸に食い尽くされてしまったというほかはない。

女形で人間国宝の小野川万菊/田中泯は、喜久雄と初めて会ったとき、「美しいお顔。でも芸をするなら邪魔も邪魔。そのお顔に食われないように」と忠告する。この忠告は、いろいろな含意があって考えさせられるのだが、含意をひとまず無視すれば、結局、喜久雄は、その顔に食われてしまうのではないだろうか。顔に食われ、最後には芸に食われる。

喜久雄/吉沢亮と俊介/横浜流星が二人藤娘で共演するとき、俊介の父親花井半二郎/渡辺謙は息子の俊介に「歌舞伎役者の家に生まれたという血筋が守ってくれる」といい、喜久雄には「体が覚えこんだ芸が守ってくれる」という。ここで血筋が才能かという二項対立が主題としていよいよ明確になり、その対立が以後の物語を牽引してゆくように思われる。

その才能によって喜久雄は名跡を継いで、三代目になるところまでゆき、血筋ではなく才能が物をいうことを立証するように思えるのだが、出奔していた俊介がもどり歌舞伎に復帰することで、喜久雄は歌舞伎界から無視されやがて追放される。それはヤクザの息子であり隠し子がいるというスキャンダルによって冷遇されたのか、冷遇され追放されるべくスキャンダルが公になったのか、はっきりしないまま、血筋の前に喜久雄は敗退するのである。

呪われた血
しかし血筋か才能かという二項対立は、意味をなくしてゆく。血筋だけで才能がなければ歌舞伎役者として大成はしないということだけではない。背中に大きな入れ墨がある人間が人間国宝に選ばれるという、ある意味、快挙ともいえる事件が起こるからでもない。そもそも花井半二郎、花井半也という花井家の血は、重度の糖尿病の血であって、この血は花井半二郎から視力と命を奪い、その息子、花井半也からは足と命を奪う、呪われた血でしかない。

この糖尿病の血は、花井の名跡を守ってくれるどころか、破滅と死に追いやるのである。この花井の血にはなんのアドヴァンテージもない。なんというアイロニー。花井家の親子は、その呪われた血に食われてしまうのである。

いっぽう血筋はなく芸一筋で生きていく喜久雄にしても、すでに述べたように、芸に身をささげることで、自分の人間性を失い、自分を支えてくれる女性たちをつぎつぎと犠牲にしてゆく。梨園を追放されて地方営業に身を落とした喜久雄に献身的につくす彰子/森七菜が、喜久雄の関心は踊ること、芸にしかないことを悟り去っていったように、喜久雄には現実の女性への奉仕に感謝する気持ちなどまったくない(ここでもアイロニーが見え隠れする。彼の背中の彫り物はフクロウの図柄だった。それは感謝の気持ちをあらわすものと少年時代の彼は述べているが、彼が人生のなかで誰かに感謝することは一度もない)。

喜久雄は累々たる屍を乗り越えてただひたすら芸に精進するのである。ある意味、ライヴァルの俊介が糖尿病の血に食われたように、彼もまた芸の道に食われてしまうのである。

こうしたアイロニックな関係性が、映画のなかでは強調されているかのように思われる。したがってみずからの芸で復讐をせよという忠告もまた、むなしく響くしかない。いったいなんのために、誰のために復讐するというのか。ヤクザ同士の抗争のなかで命を落とした自分の父の仇をとるということなのか。

たしかに映画の終幕、人間国宝となった喜久雄は、ある景色を追い求めていたと語り、それは雪がふりしきる夜の光景であると映像的に説明される。となるとそれはまたヤクザ同士の抗争のなかで命を落とした自分の父の死の光景と結びつく。そこで人間国宝として最後の踊りをまったあと、雪にみたてた紙吹雪をみて美しいと語る喜久雄は、なんとなく復讐をはたしたような感じがする。事実、少年時代には父の仇をとろうとして失敗した彼は、いま人間国宝となり日本一の歌舞伎役者になって……。復讐?芸で復讐?

そもそも復讐に役立てられたり、復讐の道具になったりするような芸は、芸でもなんでもない。芸を磨き、芸を身につけるのは個人だが、身についた芸は、個人を超え、個人の意思で左右されるようなものではなくなる。個人を超越する大きな存在となる。

芸を磨くのは個人だが、その芸を完成させたときには、個人は消滅する。芸に個人が食い尽くされたとき芸は完成する。吸血鬼のような芸に、血を吸われて食い尽くされて死ぬときこそが芸の完成なのである。

喜久雄の父親は、ヤクザの親分として抗争のなかで命を落とすが、雪のふりしきる夜の中庭で銃弾に倒れるその姿は、ヤクザとしての理想的な最期、美しい死なのである。父親は死ぬことでヤクザとしての人生を完成させた。

喜久雄が師事した花井家の二代目と、その御曹司は、ともに糖尿病の呪われた血によって命を落とす。血筋は、守るどころか、殺すのである。だが、殺す血筋こそが、本筋であって、血が守るというのは自分勝手な妄想にすぎない。また血筋が殺すというのは、歌舞伎の名門に生まれた者にのしかかる伝統とか芸道の重さを暗示していよう。花井家の親子は、糖尿病によって命を縮めるのだが、それはまた名門に生まれた者にとっての避けられぬ宿命そのものだったともいえる。彼らは血筋によって死んだのだが、それは芸を全うしたともいいかえられるのである。

喜久雄の場合も、歌舞伎の血筋ではなくヤクザの血筋が死の美学へと彼を追いやったといえないことはない。だがそれは歌舞伎の芸を極めることと矛盾・対立はしない。ヤクザ道に殉死するのと同じように、彼は芸道に殉死する。彼にとってはタナトスしか存在しないーー彼が観ているのも、それである。自分の美しい死。

実際、映画のなかで示される歌舞伎の舞踊や場面は、どれも死の場面であることは特筆に値しよう。人間国宝になってからの最初の踊りは、おそらく最後の踊りでもあって、舞台で死に絶えたという役を終えた彼が立ち上がるとき、それは幽体離脱によって魂だけが起き上がったかのようにみえる。おそらく最後の踊りで彼は死んだとも考えられる。芸に食い殺されて死ぬことが彼の芸の完成であり彼の望むところでもあったのだ。それはまた雪の降りしきる夜の庭で殺された自分の父親と同じような美しい死を実現したことの満足感でもあったのだろう。

人間国宝となった喜久雄は最後に芸を完成させる。それはまた芸に食い尽くされ、芸に殉死することでもあった。

つづく
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2025年05月16日

『異端者の家』

Heretic(2024) スコット・ベック監督

昔、イギリスだったか、欧米の国のアンケートで、隣に住んでもらいたくない人はどんな人ですかという質問に対して、一番多かったのが「新興宗教の人」というものだった。テロリストとかサイコパスの脅威というものが身近に感じられることはなかった時代のことである。今だったら隣人として望ましくないのは、テロリスト/サイコパスが一位にきて、その次が新興宗教の人であろうか(今ならさらに、移民系の人などという本音が出てくるのかもしれない)。

他人の宗教については、なんであれ、尊重すべしという考え方(信教の自由)に私は異論はない。ただし新興宗教は問題である。彼らのことを差別したり弾圧したりするのは許されることではないし、彼らが違法なことをしない、まっというな市民であれば、またときには優れた人格者であれば、尊敬こそすれ軽蔑することはない。

しかし、グレアム・グリーンの小説ではないが、「おとなしいアメリカ人」というのは撞着表現であるように、おとなしい新興宗教信者というのも撞着表現である。なぜなら彼らは布教活動をして、平穏で静かな市民生活に異和を生じさせる。うっとうしいのである。

彼らに対する(その独善性と狭小な世界観に対する)反感を、映画『異端者の家』は活性化して物語のなかに繰り込んでいるように思われる。

私たちはアメリカ人ではないので、映画の最初のほうでは気づかないと思うのだが、アメリカ人であれば、すぐに気づく。最初に登場するふたりの若い女性が「末日聖徒イエス・キリスト教会」の信者だということを。また二人のうち一人が、街の若者たちにスカートを下げられてしまうこと――魔法の下着をつけているのかと。あるいは二人が訪問先で、コーラをだしてもらうこと(訪問者に求められてもいないのにコーラを出すのは異様である)。そして二人が布教活動をしていること。こうしことから二人が末日聖徒イエス・キリスト教会の信者であることが、アメリカ人ならすぐにわかる。私に言わせれば隣に住んでほしくない人たちである。

不意打ちでいきなりスカートを下げるというのは、なんというひどいことをする悪ガキなのだと思うのだが、これは、末日聖徒イエス・キリスト教会の信者は、「ガーメント」と呼ばれる独特の下着の着用が義務づけられることを前提とした、質の悪いいたずら行為である。末日聖徒イエス・キリスト教会の信者は、カフェインの飲用を禁じられているが、末日聖徒イエス・キリスト教会創設者ジョゼフ・スミスが教団創設時には知らなかった(存在しなかった)コーラ(カフェイン飲料)は飲用が許されている。ミスター・リード/ヒュー・グラントは二人の女性に、コーヒーや紅茶ではなくコーラを出すのである。

あと、末日聖徒イエス・キリスト教会の信者は、戸別訪問(ドアto ドア)の伝道活動をすることになっている――二人一組で。そしてミスター・リードは過去に末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道師の訪問を受けたか、あるいは新たに末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道師の派遣を要望したか、いずれかだったか忘れたが、彼は末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道師が来ることがわかっていて招き入れる。

と、まあ末日聖徒イエス・キリスト教会について、偉そうに語っている私だが、実は、この映画を観るまで末日聖徒イエス・キリスト教会について、よく知らなかった。そもそも関心もなかった。そこで末日聖徒イエス・キリスト教会について少し調べてみたら、この映画が末日聖徒イエス・キリスト教会についてある程度熟知している観客層にむけてつくられていることがわかった。熟知といっても、末日聖徒イエス・キリスト教会の信者と日常的に接触しているアメリカ人なら誰でも知っているということだが。

あと、避妊用インプラント(英語表現はいろいろあるようだが、 ‘Norplant’が一般的か)というものがあることをまったく知らなかった。「タコベル」は日本にも進出してきたようだが、これもまったく知らず。けっこう知らないことが多く、またモノポリーゲームの由来についても、この映画から教えてもらった。

先週の『チコちゃんしかられる』で、ルー・ゲーリックの背番号4が永久欠番になった由来が語られた際に、ゲーリックが患った難病、筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis、略称: ALS)についても説明があったが、そのALSが『異端者の家』でも語られた。字幕では‘Lou Gehrig's disease’を、「ルー・ゲーリッグ病」としていたが、いや、「ルー・ゲーリックの病気」であって、病気の別名ではないのだからと考えたが、「ルー・ゲーリック病」というはALSの別名として存在していた。

あと映画のなかでは、三つの釘が出てくる。これは映画のなかで説明されていないが、調べてみると、キリスト教ではイエス・キリストを十字架に打ち付けた釘が神聖視されていて、聖釘と呼ばれ、それは3本である。両手・両足に釘を打ち込まれたのだから、4本ではないかと思われるのだが、両足を重ねてそれを1本の釘で固定したので、3本ということになる(3という三位一体にも通ずるマジカル・ナンバーとも関係するようだが)。

と、まあ、このほかにも教えられたことは多くあって、予想外に知的刺激に満ちた情報満載の映画であった。

そして末日聖徒イエス・キリスト教会について知れば知るほど、なんともいかがわしい新興宗教臭に息がつまりそうになった。

だから、ミスター・リードが末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道師二人を自宅に招き入れてから、この女性ふたり――隣に住んでほしくない新興宗教信者の二人――が、はやく天国に引っ越してくれないかと、新興宗教ならびに新興宗教信者嫌いの私としてはそればかり願っていたが、ミスター・リードが仕掛ける議論も実に興味深く、また共感を呼ぶものであって、もう少し議論を聞いていたいので、この二人には天国に引っ越すのを待ってほしいとも願っている自分がいた。しかし、これは私の偏見と誤解でもあった。

そもそもなぜミスター・リードは議論をふっかけているのか。末日聖徒イエス・キリスト教会に洗脳されている若い信者ふたりを、その議論によって脱洗脳化をめざしているのかとも思ったが、そしてたしかに脱洗脳化の方向に進んでいるように思われるのだが、いまひとつ目指すところがわからなかった。ふたりを追い詰めて、自殺させるか、殺すのか、あるいは奴隷のように生かすのか。最後まで観るとわかるのだが、この点をまとめると、以下のようになる。

ミスター・リードが証明しようとしているのは、
1. 宗教は詐欺である。手品師の手品のようにいかさまである。三大宗教は宣伝によって信者を募ることができた。神は詐欺師・いかさま師・手品師である。

2. 宗教は支配のシステムである。
宗教は信者を騙し、信者を洗脳し、信者を奴隷化する。とはつまり神は、人間を支配する征服者あるいは悪魔である。

問題は1と2がどういうかたちで繋がるかである。

確認すべきは1についてミスター・リードは何も説明も説得もしていない。彼は二人の伝道師に奇跡をみせると約束する。そして伝道師の女性が、その奇跡がインチキであることを見抜く。そしてそこからミスター・リードのみせるもの、その説明や議論がすべてインチキではないかという示唆が生まれる。

しかし、そこから、どのようにして宗教は信者の、ひいては人間の、心を支配するシステムであるといいうことになるのか。それは、上記1で伝道師の女性が、超人的な推理力によってミスター・リードのトリックを暴き、この恐怖の館から脱出できると思われた瞬間、実はすべてがミスター・リードによってあらかじめ計画されたことであって、自由意志による謎の解明と脱出はすべてミスター・リードのシナリオであったことがわかり、伝道師の女性の心が折れ、それが彼女への支配につながるということである。

宗教は詐欺だと暴いた彼女は、洗脳から解放されたどころか、さらに深い洗脳と隷属へと貶められたということである。

ということは、ミスター・リードが行なっているのは新興宗教に洗脳された信者(ここでは女性伝道師のふたり)を脱洗脳して、末日聖徒イエス・キリスト教会の支配から解放するのではなく、末日聖徒イエス・キリスト教会のような新興宗教あるいは宗教一般の支配下に信者を置き、隷属化する(あるいは最終的に殺害する)ことのように思われる。

ミスター・リードは一夫多妻制を唱道したジョゼフ・スミスのような末日聖徒イエス・キリスト教会の教祖を批判しているようにみえて、その実、自身もまたジョゼフ・スミスになりたがっている、いやジョゼフ・スミスそのものである。

なぜなら、ジョゼフ・スミスは、どの教会・教派・宗派が真実であるかを求め、その結果、いずれの宗派もことごとく誤っているがゆえに、末日聖徒イエス・キリスト教会を立ち上げたことになっている。ミスター・スミスも、唯一無二の宗教を求めて模索し宗教の本質を極めたことになっている。つまり多様な宗教、あるいは三大宗教(仏教、キリスト教、イスラム教だが、映画のなかではユダヤ教、キリスト教、イスラム教となっている)は、同じ一つの真理を、それぞれの仕方で表象したものと考えることもできるが、そうせずに、順位なり優劣をつけるという発想は、末日聖徒イエス・キリスト教会の発想である――だからこそ同じキリスト教徒を、よりよい、あるいはベストな宗教(末日聖徒イエス・キリスト教会)に改宗させるという発想が出てくる。そしてそれはまたミスター・リードの発想でもある。

最初ミスター・リードは世界のさまざまな宗教を研究しているようにみえ、末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典も読み込んでいるように思われたのだが、しかし、末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典しか読んでいないのでは。宗教研究者などではなく、末日聖徒イエス・キリスト教会に深く帰依して、最終的に、創設者ジョゼフ・スミスのまねびとして、信者を支配し隷属化しているのではないか。

またジョゼフ・スミスの一夫多妻制を批判しているようにみえて、のちにわかるのだが、ミスター・リードは多くの女性を奴隷化している(おそらく性奴隷として)。彼自身が一夫多妻制を実践している。そもそも二人の伝道師を招き入れたのも、まさに、蟻地獄のようなその家に末日聖徒イエス・キリスト教会信者を招き入れ、支配し、奴隷化するためではなかったのか、というか、そうしたのであり、いままさにそうしつつあるというのが、この映画の物語なのだ――ジョゼフ・スミスのように彼の妻たちは一般女性ではなく信者なのである。

したがって、この映画は、私のような新興宗教嫌いの人間につかまって、脱洗脳化されるか、殺されるか、奴隷化される二人の哀れな新興宗教の伝道師の女性たちの物語ではまったくない。

また形式的には変質者の連続殺人鬼の罠にはまって、その殺人鬼の家に囚われた哀れな女性たちの物語だが、たとえば『羊たちの沈黙』のような変質者に誘拐され囚われた女性の救出劇には――実は、この映画は蛾とか地下室などによって、『羊たちの沈黙』を意図的に彷彿とさせながら――なっていない。むしろ二人の伝道者女性は、一般のキリスト教徒を改宗させるつもりだったのだが、逆に、末日聖徒イエス・キリスト教会創設者のジョゼフ・スミスのごときミスター・リードによって支配・洗脳される、つまり彼女たちが再び改宗させられる、あるいは末日聖徒イエス・キリスト教会の真の信者になるのである――教祖の奴隷になることによって。

映画のタイトルはヘレティック(異端者、異端的)である。これを『異端者の家』と訳してしまうと、ミスター・リードが異端者に思えてくるのだが、異端者は、そもそも末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道師の女性ふたりである。たとえ、末日聖徒イエス・キリスト教会がなんといおうと、末日聖徒イエス・キリスト教会は異端である。そしてミスター・リードも末日聖徒イエス・キリスト教会の教祖ジョゼフ・スミス的である、つまり異端者・異端的である。異端者のふたりの女性が、異端者の男の家を訪問する。それが形容詞のみのタイトルの意味だろう。異端的なもの--つまり末日聖徒イエス・キリスト教会的なもの--は、映画のなかに偏在しているのである。

末日聖徒イエス・キリスト教会の信者は、他のキリスト教宗派から改宗させられて信者となった場合もあるが、多くは、末日聖徒イエス・キリスト教会信者の家に生まれたから、そのまま信者になったのである。そのため、惰性とか習慣によって信者になった者たちは、真の信者に生まれ変わるべく、変容をとげねばならない。そのための儀式が、このミスター・リードの家での試練だともいえる。

ちなみに、若い二人の宣教師の女性を演じているソフィー・サッチャー/シスター・バーンズとクロエ・イースト/シスター・パクストンは、ともに実際に末日聖徒イエス・キリスト教会信者の両親のもとに生まれたとのことだが、今では、信者ではないとのこと。末日聖徒イエス・キリスト教会にかぎらず、統一教会でもいい、新興宗教の第二世代は、親から独立する傾向にある。そのためにまず新興宗教は第二世代の信者の信仰を強化する必要に迫られる。 つづく

posted by ohashi at 00:40| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年05月12日

『教皇選挙』

エドワード・ベルガー監督 2025年

「コンクラーヴェ」Conclaveは、「根比べ」だと日本で言われ始めたのはいつ頃のことだったのだろうか。前回の「コンクラーヴェ」の時は、あまり意識しなかったので、前回と今回の間くらいなのか、それとももっと前からあったのか、わからない。ちなみに映画『教皇選挙』では、英語で「コンクレイヴ」と発音されることが多かったように思う。

ジェンダー関係の映画会をしたいから、なにかいい映画はないかと言われ、それだったら『教皇選挙』でしょうと伝えたが、ジェンダー関係というのはクィアな映画という意味でもあって、『教皇選挙』を観る映画会では、この映画のどこがジェンダー/クィアなのだとメンバーがいぶかりまくり、とうとう、大橋はついにボケたかとみんな思ったらしい――あるいはカトリックにおけるジェンダー差別というテーマを大橋は指摘しようとしたのかと好意的にとらえてた意見があったようだが、最後には、誰もがジェンダー映画であること、大橋はまだボケていない(ほとんどボケているのに)というところに落ち着いたようだ。

カトリックの女性差別については2008年の映画『ダウト―あるカトリック学校で』での一場面を思い出す。カトリック教会と、それに隣接しているカトリックの小学校があり、小学校はシスターが教員となり、となりの教会からも神父が非常勤で教えにくる。あるとき校長室で会議を行うが、メリル・ストリープ扮する校長は大きな校長専用の机を前にした校長用の椅子に座っている。他の教員/シスターたちは校長室のなかにある椅子とかソファに座っている。そこへ神父のシーモア・ホフマンが、遅れてごめんといいながら入ってくる。すると校長/メリル・ストリープはさっと立ち上がって席(校長用机に付属する上席である)を神父にゆずる。

それは年老いた神父に敬意を表して席を譲るのでもなければ(神父は校長よりも若いように思う)、あるいは授業で疲れている神父の労をねぎらって、よい席を譲るというのでもない。たとえ校長であっても、女性である以上、男性の聖職者に上席をゆずるのは当然の義務であるらしく、席を譲られた神父は礼も言わず、当然の権利として校長の椅子にすわり、ふんぞりかえり煙草を吸うのである。

これは映画におけるカトリックの女性差別を強調する一コマであって、ほかにも、たとえばシスターたちの質素な夕食と、神父たちの陽気なおしゃべりとともに食される豪勢なディナーとの対比があり、男女差は歴然としている。そしてこの格差と差別が映画の物語・事件へと連動してゆく。

『教皇選挙』でも、修道女たちは下働きで、不可視の存在とされていることは、シスター・アグネス/イザベラ・ロッセリーニが語っているとおりである。だがそれもいずれかわってゆくかもしれないという暗示が映画の最後の場面――トマス・ローレンス枢機卿/レイフ・ファインズが見習い修道女たちの姿をサンタ・マルタ館の窓から見下ろす場面――から暗示されているように思う。

あと、これは少し内容とずれるかもしれないが(まあずれたほうがネタバレにならなくていいのかもしれないが)、『教皇選挙』での出来事は、なにか日本風の成り行きにみえることが多かった。いや、日本風ではなく、普遍的なものかもしれず、普遍教会だからこそ、日本的でもあるということかもしれないが。

たとえば激論というか喧嘩になる場合――私が所属していたある大学の教授会で二人の教授が激しい応酬をし始めた。その場にいた教授会メンバーは、誰もが、困ったものだと思いつつも、どう収拾すべきかわからなかった(なお対立はイデオロギー的なものではなかった)。するとある一人の教授が立ち上がって、喧嘩状態にある二人の教授を諫め、冷静に話し合うことを懇々と諭したので、その場は、それでおさまった。映画とは異なるのだが、喧嘩を仲裁したことになったこの教授は、その後、文学部長に選ばれた。

喧嘩を仲裁するものではない。仲裁した者は、その後、責任ある立場、要職に就かされることになる。いや、喧嘩の仲裁ではなく、なんであれ、意見を言うと、その後、役職につかされるがゆえに、逆に、誰も意見を言いたがらないという、なんとも日本的な風潮があるのは確かだろう。

もちろん積極的に意見を述べる者たちは、責任ある立場に就くことになり、それはそれで適材適所ではないかと思われがちだが、しかし、野心丸出しとまでいかなくても、野心家にみえる人間、ぎらぎらした人間は、要職に就けない、もしくは嫌われるという原則がある。

「~になりたい」と口にするような人間は、なりたければ、ならせればいいのにと私などは思うのだが、日本的な風潮では、そうした人間は野心家であり用心しなければならい。そうした人間が権力を握ったら何をしでかすかわからない。

もしあなたが「~になりたい」と思っているのなら、「~には絶対になりたくない」と本心から思い、またこの場合、「~には絶対になりたくない」と口にすることも重要である。そうすると、あなたはたぶん絶対に~になってしまう。野心なき人、権力を掌中に収めても絶対に悪用しない人と判断されるからである。

だがこの日本的システムでは、なりたい人、なるために準備をしてきた人が、なれなくて、何も準備していない人が、その地位についてしまうという懸念が生ずるかもしれない。だが、適材適所を決めるのは、当人ではなく、他人である。しかもその他人とは、その地位にいやいやついた人間か、さもなくばその地位には絶対につくことがない人間である。これは不条理なシステムに思われるかもしれないが、意外と合理的な判断に基づく選抜が行なわれるかにみえる。そしてこのシステムは、『教皇選挙』における教皇選定のプロセスにおいても踏襲されているように思われのが面白いところである。あるいは普遍教会の普遍たるゆえんか。

たとえば『教皇選挙』のなかで、ある枢機卿は、教皇になりたくないと公言していたにもかかわらず、状況と周囲による圧力によって、野心を抱くようになったかにみえる。そしてさんざん迷ったあげく、投票用紙に自分の名前を書くのだが、その投票用紙を投入した、その瞬間……。まるで天罰が下ったかのような出来事が起こるのである。

最後に、冒頭ならびにエンドクレジットにおいて、俳優名を記すローマ字のなかの一文字だけが色が違っているのである。たとえばShakespeareという表記の際に、Shakespeareと太字で示した文字の色が違うのである(どの文字が色が違いになるかについて規則性はないようだ)。基本的にはライトブラウンの文字なのだが、そのなかでひとつの文字だけがライト・イェローになっている。これが気になった。

名前のなかで、一文字だけ色が違うというのは、ある意味、欠陥である。他の文字の色とそろわなかったというアクシデント。欠損ではない。なにもなくなっていないのだから。その文字の色だけがほかの文字と異なっている。色指定ミス。なんらかのミスであるように思われる。文字のなかに異物がまじっているのである。

しかし映画を観終わった観客なら、この色ミス・欠陥・事故、あるいは異物は、あってはならないこと、早急に対処すべきこと、すなわちほかの文字の色にあわせてそれでよしとするのではない、なにかポジティヴな意味を感ずるのではないか。このささやかなミスあるいは異物は、ミスではなく有益な異物である。ランダムに現れるので、統一的な原理とか原則にのっとったものでもない異物。ランダムにあわれる不統一。これはポジティヴに捉えると、何かがかわってゆくささやかな予兆のようにもみえる。あるいはこの不統一、この異物は、抑圧された何かが顕在化したともとれる。色違いの遺物としての文字は、何かの存在、あるいは登場をしめす、断裂、亀裂であり、そして開かれた窓でもある。統一的な色ではない色の文字--まさに異物。それは嘆かわしい欠陥や訂正すべきミスではなく、変化の予兆であり、はじまりの象徴であり、背後にあるなにかの象徴ともなっている。おそらくこの異物は、この映画のテーマを暗示するささやかだが、効果の大きな特異点なのである。そしてそこにかすかな希望が宿るように思われる。
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2025年05月11日

『サンダーボルツ*』


ジェイク・シュライアー監督 2025年アメリカ映画

日本語のタイトルは『サンダーボルツ』となっているが、正確には『サンダーボルツ*』でしょう。★では意味がない。

正直言って面白くなかった。まあ私はマーヴェルのスーパーヒーロー物映画をほとんどまったく観ないこともあって、その物語の宇宙にまったく思い入れがないというからでもあて、ファンでなければ、その薄っぺらで安っぽい物語には退屈こそすれ、感動などするはずがない。誰が感動するのだ*。

ならばなぜ観ようと思ったのかと問われるかもしれないが、それは、男前のフローレンス・ピューが中心にいる映画のポスターを見たからである。私はフローレンス・ピューのファンで彼女の出演作なら全部観たい。

まあマーベル物でヴィランたちが、ヒーローとなって戦うというのは、逆転の意外性があって面白いのだろうが、しかし、この映画で見る限り、彼らがヴィランであるとは思えない。ヴィランではなく、B級あるいは二線級のヒーローたちであって、ある意味でヒーローたちのバッタもんである。しかも、度し難いことに、B級ヒーロー、二線級のヒーローであることを自虐的に宣伝する始末なのだ。

アヴェンジャーズなきあと、アヴェンジャーズの後を継ぐニュー・アヴェンジャーズになっておかしくないヒーローたちとはとても思えない。彼らにアヴェンジャーズの後任はむりであり、全員ボブにしてやられているのではないか。

負け犬群団である。サンダーボルツというネーミングも、負け犬のなかでも最たる負け犬であるレッド・ガーディンが勝手につけた名前で他のメンバーは誰もそれを気に入っていないばかりか、無視しているではないか*。つまりメンバーからこんなに嫌われているチーム名というのは、めったにお目にかかることはない。

*コミックスとは設定が違うようだ。

テーマはトラウマである*。え、トラウマ。「サンダーボルツ」のメンバー全員がトラウマをかかえている。そして戦う相手もトラウマである。そう、宇宙からのエイリアンとか、世界征服をたくらむプーチンとかトランプのようなスーパーヴィランとか、自然界の根源的悪と戦うのではなくて、トラウマと、つまり自分自身と戦うのである。その映像化は面白いが、しかし勝手に戦ってろ、としかいいようがない。

*トラウマTaumaは英語だと「トローマ」と発音するのが一般的だが、「トラウマ」とも発音する。DramaとTraumaを語呂あわせ的につかったタイトルの本を読んだことがある。それは「ドラマ・トラウマ」と韻を踏ませていて、「ドラマ、トローマ」では意味をなさなかった。

トラウマなど誰もが抱えている。自分のトラウマによって深く心を病み、再起不能な病的状態に苦しんでいる人は別として、誰もが大なり小なりトラウマとともに生きている。私のような70歳を超えるクソ老人となると、トラウマを消し去ることができないまま、それとつきあうしかない。ほとんどの人がそうであろう。

死に至るトラウマではないかぎり、トラウマで大騒ぎをするというのは愚かさの極みであろう。あるいは幼さの極みであろう。そう、この巨悪と戦うことなく、自己のトラウマと戦うというマスターベーションに感動するのは幼い人間にすぎない。トラウマ偏愛は、ジュヴナイルだと思っている。もともとコミックはジュヴナイルかなどといったら、その認識の古さに笑われるだろうが、この映画は、このコミックの世界の実写化映画は、誰がどう見てもジュヴナイルである。いい大人が観るような映画ではない。

ちなみにネットでは、フローレンス・ピューがかっこいいという評価とともに、バッキー・バーンズ / ウィンター・ソルジャーを演ずるセバスチャン・スタンがかっこいい、とくにバイクに乗って登場するシーンがと判で押したようにコメントしているが、なるほど、映画館では主演映画『顔を捨てた男』(A Different Man)の予告編を観たくらいだから(あんまり観たい映画ではないが)、現在、人気のある俳優なのだろう。しかも彼はまた『アプレンティス――ドナルド・トランプの創り方』(The Apprentice)で、若き日のトランプを演じている。そして『サンダーボルツ*』におけるバッキー・バーンズは、ヴァンス副大統領によく似ている。ふたりは年齢も一歳ちがいにすぎない(ヴァンス1984年8月2日生まれ、スタン1983年8月13日生まれ)。

つまりセバスチャン・スタンはトランプ大統領とヴァンス副大統領というアメリカ史上いや世界史上最悪のファシスト・カップル、いやスーパーヴィラン二人を一人で演じきった稀有な俳優ということになるし、せっかくだからファシスト・カップルを彷彿とさせるスーパーヴィランを一人二役で演じさせればよかったのだが、ジュヴナイルをつくるしか能のない制作陣にそれを望むのはむりだろうが。

私は映画『ブラック・ウィドウ』(2021)を観ていたので(内容は忘れていたが)、今作でタスクマスターがあらわれても驚かなかったが、中の人の顔がわかったとき、誰だかすぐに認識できず、記憶を探っているうちに、あっというまに殺されてしまった。え!? 驚いたが、中の人がオルガ・キュリレンコだったことを思い出して、さらに驚いた。しかも、ほんとうにあっというまに殺されてしまう。なんだこの脚本は。というか高いギャラを払うのをしぶって早々と退場してもらったのだろう。貧乏映画が。

ボブの顔をみているうちに、誰かを思い出した。そうビル・プルマンに似ていると思ったら、ビル・プルマンのほうとうに息子だった。しかし、ほんとうの息子とわかる前も、わかってからも、ビル・プルマンによく似たそっくりさん程度にしかみえなかったのは、この映画の特質ともシンクロする。メンバーのヒーローたちはみな、そっくりさんで、本物とは一線を画す、まがいものなのである。まがいものの彼らの売りはトラウマ。なさけなさすぎる。

いや、マーヴェル映画らしからぬというのがほめ言葉としてネットでは流通しているようだが、しかし、たとえばCIAの長官ヴァレンティーナ・アレグラ・デ・フォンテーヌ*。彼女は元は、あるいは今もか、O.X.E.グループを率いる実業家で、いまや絶大な権力を誇り、スーパーヒーローたちを操り、また彼らに敵対するというのは、たとえばスーパーマンにおけるレックス・ルーサーのような存在ではないか。というかおなじみのキャラではないか……。

*彼女は映画のなかではMs「ミズ」と呼ばれているのだが、字幕は「ミス」としている。間違ってそうしたなら映画会社と字幕翻訳家は地獄に落ちろ、意図的にそうしたのなら、映画会社と字幕翻訳家は地獄に落ちろ。

というかレックス・ルーサーはDCコミックスのキャラクタだった。マーヴェルとは関係がない。マーヴェル・コミックスの映画らしくないのはいいとしても、それがDCコミックスでおなじみのキャラクター・タイプに依存しているというのは、なさけなさすぎる。

観る前から――そして観た後も、あらためてわかったことは――この映画にはなんの期待もしていなかったことである。期待を裏切られることはなかった*。

*だったらなぜ観たのかといわれるがフローレンス・ピューのファンだからである。イギリスの俳優で、娼婦、夫殺しの若妻、女子プロレスラー、修道尼、貴族の娘、皇女、『リア王』のコーディリアまでを演じられる俳優はそんなにいない、いやほかにいないと思われるので。
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2025年05月04日

『新幹線大爆破』

1975年の『新幹線大爆破』(監督:佐藤純弥、出演:高倉健、千葉真一、宇津井健ほか)の「リブート版」と言われているNetflix配信の『新幹線大爆破』(監督:樋口真嗣)は、リブート版ではない。リブート版というのなら、前作『新幹線大爆破』(1975)は、なかったことにして、同じか同じような設定で新幹線に爆弾が仕掛けられた映画を作ることだが、今作では新幹線は一度爆破されていることになっている。それだけではない今作は、1975年版の世界線にあることが徐々に明らかとなる。リブート版ではなく続編である。ただし続編と最初から銘打ってしまうと内容を予測されてしまうので、あえてリブート版と嘘をついたのだろうか。

繰り返すと、リブート版というのなら、前作は抹消され、あらたな物語が立ち上げられねばならない。もし前作が抹消されることがないのなら、それは続編というべきものである。

あともうひとつ1975年版の『新幹線大爆破』は、映画『スピード』(1994年、ヤン・デ・ボン監督作)に影響をあたえたというが、今からみると、1975年版を知らない観客は、今回の『新幹線大爆破』を、『スピード』に影響を受けているとみなしかねない。バスと新幹線の違いはあれ、ともに並走したり、乗客を乗り移らせたり、最後は車両を暴走させ爆発させるなど、今回の映画は『スピード』の新幹線版である。今回、統括司令長の斎藤工が双眼鏡で電子掲示板をみるところは、1975年版の同様な場面を連想させる、前作へのオマージュとのことだが、犯人らしき人物が自宅で、爆弾を仕掛けられた新幹線のニュースを視る場面など、『スピード』の同様な場面を思い出し、『スピード』へのオマージュかと一瞬思ってしまったほどだ。

1975年版は爆弾を仕掛けたテロリストの側の視点から描かれたのだが(それゆえにJR、当時は国鉄の協力は得られなかった)、2025年版は乗務員とJR職員の側の視点から描かれ、JR職員の賢明な判断と、果敢な挑戦と、なによりその乗客を守る犠牲的精神が前面に出ていてJR側としても協力を惜しまずにはいられなかったのかもしれないが、私はこの映画を、爆弾を仕掛けられた新幹線の乗客になったかたちで受け止めた。

終点にむかって高速で突き進む列車に乗り合わせた夢というのは、フロイト的な夢解釈をすれば、運命的なものを強く感じさせる夢である。逃れられない運命にむかってひたすら突き進む列車。その行路は、明るい未来とか新たな段階へと向かうポジティヴなものではなくて、むしろ死へと行路である。もしこれが夢でのお告げなら、この夢は、もうすく死ぬあるいはあなたが死にたがっていることを暗示する。高速で突き進む列車に乗っている夢とは、だから爆弾を仕掛けられていなくても不吉な夢である。

死へとむかってひた走る列車から、首尾よく降りる、あるいは途中下車できるのなら、あなたはまだ死にたくない、あるいは死から逃れられる、もしくは死から逃れたいと望んでいることになる。夢は願望充足であるのなら、高速列車に乗る夢が伝えているのは、宿命に囚われる不安と恐怖、そこから逃れたいという願望(とその成就)である。

逆に考えると、私たちが機械的移動手段に身を任せるとき、それを運転したりコントロールするのではなく、ただ受動的に運ばれてゆくにすぎないとき、ついつい死への宿命への旅としてとらえてしまう。運ばれてゆく移動は、つねに、死への旅路であり、つねに不安と恐怖のなかにある。バスから降りるとき、電車から降りるとき、船から降りるとき、飛行機から降りるとき、私たちはつねに今日も生き延びたと無意識のうちに思う。あるいは旅路とは私たちが死と相対する時間でもある。旅路とは悪夢なのである。

だから爆弾を仕掛けられた列車というのは、特別な事例あるいは異常事態ではなく、列車がもつ無意識の部分、列車の暗黒の部分、死と隣り合わせになっている部分を、忘れないように顕在化させるものに他ならない。

広く考えれば、死へと向かう列車とは、私たちの人生である(終点は例外なく死である)。しかし私たちはこの宿命をついつい忘れてしまう。そのために時折、この列車が死と隣りあわせになっていることを意識させる爆弾を仕掛けておかねばならない。あるいはそれは腐敗した政権によって自滅へとひた走る今の日本の状況かもしれないし、狂気の国王、教皇になりたがっている国王とその狂気集団によって蹂躙されるいまのアメリカ、いや世界の状況かもしれない。

そう考えれば、『新幹線大爆破』がどのようなエンターテイメントか理解できる。それは途中下車の喜び、終点まで行かないことの、大いなる生の享受である。

映画の快楽は、メランコリックな光景のなかを移動することであるとすれば、死と破滅にむかって疾走する列車ほど、映画のメランコリーの強度を増す装置はないだろう。そしてそうした列車のなかにとらわれていることの恐怖、あるいはそのタナトスの呪縛を、最終的に下車することはわかっているものの、つかのま、味わうこと。これこそ、映画が提供する至高の戦慄と喜びにちがいない。

posted by ohashi at 08:14| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年05月01日

『ビーキーパー』

The Beekeeper
監督 デヴィッド・エアー
脚本 カート・ウィマー

1月公開時に見そびれてしまい、気づくと映画館での公開が終わっていたので残念に思っていたら、AMAZONプライム・ビデオで配信と知り、劇場公開から配信まで短すぎで驚いた。あまり人が入らなかったのだろか。まあ、私も映画館に行きそびれたのだが。

アマゾン・プライム・ビデオでの配信だから視聴者からのレヴューが読める。アマゾンのレヴューは、全部がそうではないのだが、平均してみると質が悪い。そのためあんまり期待できないのだが、案の定、こういう映画は頭をからっぽにしてみるのがいいという、頭がからっぽな視聴者の意見が大半を占めていた。面白いとほめていているレヴューアーも、くだらないとけなしているレヴューアーも、頭が空っぽという点では同じ穴のムジナとでもいおうか。

配信が始まったころのレヴューで、主人公のところにすぐに刺客があらわれるところで観るのをやめたという低評価のコメントがあったが、いま探してみると、そのコメントがみつからない。筋書きのご都合主義を批判したコメントだと思うのだが、ご都合主義と最初から決めてかかる頭が空っぽな人間のコメントである。

もうひとつ「「正義」の主人公からしていきなり詐欺組織のアジトを爆破して証拠隠滅を図る始末」というコメントがあった。主人公の理不尽な行動を批判して★1つなのだが、★1は、レヴューアーの頭のなかである。

べつに頭をフル回転させる必要はない。詐欺組織のコールセンターを爆破した直後、主人公のもとに、殺し屋の集団がやってくるのは、主人公の計算どおりであることは、すぐにわかる。それはコールセンターを襲撃する前に、主人公(ジェイソン・ステイサム)が、ただの養蜂家だとガードマンたちに自己紹介しているからである。なんだこの自己紹介はと違和感を抱くのだが、コールセンターを爆破しても、詐欺組織の全容はわからないから、あえて自己紹介をして、詐欺組織に刺客を派遣させ、その刺客から詐欺組織の全容をつかもうとしている、きわめて理にかなった、冷静沈着な作戦なのである。

だからコールセンターを爆破するのは証拠隠滅ではない。爆発によって、上部組織を驚かせ怒らせることで、上部組織に報復をさせる。養蜂家を名乗っているから、上部組織が、養蜂家の存在を突き止めるのは時間の問題である。ただしそのつかのまの時間で主人公は殺し屋たちを陥れる罠を周到に仕掛けておくことができる。そしてリーダー格の男をとおして、ボスを脅し怒らせ、その存在をつきとめる。すべて主人公の計画なのである。

【なおジェイソン・ステイサムは、その後も「養蜂家」であると名乗っているが、それは「ビーキーパー」という組織あるいは元組織員がからんでいることを、暗に、関係者に知らせ、関係者をビビらせるためである。】

このことは頭の良し悪しには関係がない。ふつうに冷静にみていれば、わかることであるし、このくらいのことなら理解できる観客層を映画は想定しているのである。ただし頭がからっぽなら、なにも理解できないだろうが。

コールセンターを爆破するところは、蜂バスターが、スズメバチの巣を攻撃するとき煙などでいぶりだす戦略に似ている。主人公の行動のパターンは、養蜂家というよりも、蜂バスター、スズメバチ・ハンター、蜂駆除業者の行動とシンクロするところが多い。実際、蜂あるいは蜂の巣はこの映画のルート・メタファーとして機能している――このことは誰にでもすぐわかることである、その人の頭がからっぽでなければ。

たとえば養蜂家/ジェイソン・ステイサムの恩人の老婦人は、慈善団体の理事で団体の財産を管理しているのだが、フィッシング詐欺にあって団体の資産すべてを失い、責任を感じて自殺する。そこから養蜂家の復讐が始まるのだが、この慈善団体の理事/トップが彼女だということは、慈善団体は女王蜂をトップにいただく蜂の巣である。

そしてこの蜂の巣を破壊した悪徳企業は、ほどなくしてトップに女性をいただく蜂の巣形態の組織になっていることがわかる。いうなれば善良な蜜蜂の巣が、悪辣なスズメバチによって破壊されたのであり、養蜂家はスズメバチ・ハンターとなって今度はスズメバチの巣を破壊しまくるといえばわかりやすいか。【この映画ではCIAも女王蜂を中心とした蜂の巣組織という設定になっている。】またジェイソン・ステイサムは押し寄せる敵を次々と倒してゆくがこれなど蜂駆除業者が、攻撃するスズメバチ群団を容赦なくやっつける姿を思い起こさせる。

とはいえ、養蜂家/ジェイソン・ステイサムは、蜂なのか、蜂の巣を管理する養蜂家なのか、スズメバチ・ハンターなのか、よくわからないところもある、というか、そのすべてであるために、蜂・蜂の巣というルート・メタファーの存在がぼやけたところは否めない。

また蜂の巣(Beehive)がディストピアとユートピア双方のメタファーにもなっているところが、ルート・メタファーの意義を曖昧にしているともいえる。

【IMDbでは、最後のラスボス的存在で、ビーキーパー殺しのラザルスが黄色のジャケットを身に着けているのは、黄色が蜂の天敵の色だからと説明しているが、黄色が蜂の天敵の色だということは聞いたことがない。黒が蜂の天敵の色だとは言われている。IMDbではジェイソン・ステイサムを蜂とみなし、ラザルスを蜂駆除人とみているようだが、逆であろう。黄色いラザルスこそ悪しきオオスズメバチであり、ジェイソン・ステイサムは凶悪なオオスズメバチを駆除する側である。IMDbもメタファーの意義について混乱している。IMDbのコメント:Lazarus puts up the biggest fight against Adam, and he wears a yellow jacket, which are the natural enemies of bees. Adamはジェイソン・ステイサムの作中名アダム・クレイのこと。なおIMDbのコメントは文法的にも混乱している。】

あとジェイソン・ステイサムが悪辣な組織の幹部を皆殺しにするのはわかるが、傭兵的ボディーガードとか政府の護衛官などを無差別に殺すのはどうかというネット上の意見が多く見受けられた。このくそ偽善者どもと思ったのだが、しかし、よりにもよってこの作品でそれを言うかと、あきれかえった。この記事におけるルート・メタファーは「頭がからっぽ」なのだが、もちろんメタファーであって、ほんとうに頭が空っぽだとは思っていないが、どうやら、ほんとうに頭が空っぽな人間がネットにはいるようだ。

というのもジェイソン・ステイサムは、警察官、FBI捜査官、シークレット・サーヴィス、そして傭兵的ボディーガード、そのすべてに対して、致命傷を与えていない。これは銃撃戦や殴り合いなどのアクションシーンをみていればわかる。アクション映画全般で、たとえば足を撃つというのは、相手を殺さないというサインなのだが、実際には足を撃たれて死ぬことだってある。しかし映画それもアクション映画の世界では、足を撃つのは殺さないことと同義である。この作品でも、敵となる勢力の性格ゆえに、むやみに殺したりはしない。殺していないというサインは随所にある。それがこの映画と『ジョン・ウィック』などの映画と異なるところである。【組織を辞めた養蜂家の後継者となる女性は、ガソリンスタンドでミニガン(小型のガトリング銃)をぶっ放すことで、殺されるのではなく、ガソリンの引火をまねき自滅する。】

あとジェレミー・アイアンズが登場していて、彼がラスボスあるいは強敵となるかと思っていたら、そこまでではなかった。またミニー・ドライヴァーを久しぶりにみかけたのだが(とはいえ彼女はコンスタントに映画に出ているので、私だけがそれを知らなかったのだが)、彼女の出番はほんの一瞬でしかなかった。しかし、こうした点は、おそらく続編への布石であろう。実際、この映画は、続編ありきのような気もする。彼らは続編での活躍を約束されているのだろう。本作は、続編を見越しての、あるいは本編のはじまりを記す、パイロット版というようなところもある。続編の制作は決まったようだが。

この記事のなかでもちょっと触れたが、蜂の巣(Beehive)は、文化的・歴史的にみて、文化、文明、社会を意味する重要なメタファーとして機能してきた。私もある一時期、Beehiveのメタファーについて研究しようとしたことがある――資料は少し集めたが、研究に着手できなかったが。ユートピアにもディストピアにも、とにかく双方のメタファーにもなるBeehiveは、コンスタントに歴史に登場している。そもそも映画に限っても「蜂」がタイトルになっている映画はけっこう多い。それだけに「蜂」「蜂の巣」がもつ文化的喚起力は大きいといわねばならない。その一番新しいところでは……

『教皇選挙』では、カトリックは女王蜂を中心とした蜂の巣組織になる……
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2025年02月26日

『敵』

筒井康隆『敵』が出版されたのは1998年1月で、75歳の元大学教授の日常を描くこの作品を、出版当時はさして読みたいとも思わなかったのだが、今回、映画化されたのを機に読んでみた。気づくと私自身が主人公の75歳という年齢に近づいてきた。元大学教授というのも同じ境遇である。

吉田大八監督の映画『敵』(2023年製作、一般公開2025年)と、筒井康隆の小説『敵』とは、原作と映画化作品という関係ではあるものの、それぞれ独立した作品として、どちらがオリジナルで、どちらがアダプテーションかを考えることなく、ふたつのパラレルワールドを展開する同等の作品としてみても面白いのではないかと思う。

映画では主人公を78歳としているが、おそらくこれは主役を演ずる長塚京三の映画撮影時の実年齢にあわせたのだろう。

細かなことをいえば、小説では主人公が要求する講演料は最低でも20万円なのだが、これは相当の売れっ子の元教授でないともらえない額である。おそらく筒井康隆は50万とか100万あるいはそれ以上の講演料をもらっているのだろうから、まあ大学をやめたしがない元教授だから20万円くらいかと考えたのだろうが、高い。実際、映画では10万円以下の講演は引き受けないということになっているが、それでも高い方だと思う。ちなみに私は、私ごときの一回の講演に10万、20万円だすというような依頼は絶対ひきうけない。安ければ安いほど引き受ける。それが老人の美学である。もし私が安い講演あるいは無料の講演依頼を断ったとしたら、それは講演料が安いからではなく、体力の問題であったり、準備期間が少なすぎるとか、講演内容に問題があるからにすぎない。ただし私に講演依頼などくることはめったにないのだが。

あと1997年の小説だと、ネット環境がいまと違いすぎていて、敵がやってくるという情報は、いったいどこで話題になっているのか、私はしたことがないのでよくわからないのだが、いまでいうオープンチャットルームみたいなものか。ラインとも違うようだけれども。

映画版ではさすがに小説出版時の1998年の時点でのネット環境の再現はあきらめて、あやしげな迷惑メールとして「敵」情報が伝えられるにすぎない。

また主人公はパソコンで原稿を書いているので、出来上がった原稿は、そのまま編集者にデータファイルとして送信すればすむのだが、映画では、わざわざ主人公宅まで編集者が原稿をとりにきて、その場で目を通す(小説にはなかった場面であるが)。私自身の場合でも、いまでは編集者に一度も直接会うこともなく翻訳本を上梓するのはふつうのことになっているので、あれは一昔前の時代のことだとノスタルジックな思いすらしてしまった。

映画のなかで鍋料理の場面は、ひとつのクライマックスみたいになっていて、その場に、設定上、参加できなかった俳優が残念に思っていたというトークをネットかなにかで観たのだが、小説のほうは、「ああいう不条理にどこまで耐えられるか、自分を試しただけだよ」と主人公に言わせているのだが(「珍客」の章)、映画のほうは、そこまで不条理ではないが死人が出て、小説よりも深刻な事態に発展する。

というのも小説のほうは、そんなに人は死なない。主人公の妻はすでに死んでいるが、主人公の教え子たちは、鍋料理の場で死ぬ一人を除いて、みな健在である。映画のほうは、主人公の知人が死んだりいなくなったりする。そのため死の影が小説よりも大きい。また映画のほうがホラー的要素が強くなっている。

ちなみに小説では、鍋料理の場で、ほんとうに人が死んだのかどうかわからないともいえる。小説もこの段階で、現実か妄想か、主人公にも読者にも区別がつかなくなる。映画のほうも、どこかの時点で、これは妄想らしい(とくに敵に関するエピソード)と観客も気づくことになると思うのだが、現実と妄想、虚構と事実、外界と内面との境界があいまいになって……。そして映画の最後を迎えることになる。

小説も同じで、現実の中で事件化される敵の存在は、ネット上でのフェイクニュースみたいなものと思えてくるのだが、それがいつしか主人公の内面から湧き出てくる恐怖の存在となってゆく――というか、それは映画のほうか。敵の襲来によって難民となった人々が主人公の家のなかに黒く汚れた群衆となって到来するのだが、それはまた一瞬の幻覚ともなっている。

映画のほうは、現実の背後にある死の世界が次第に存在感を増してゆき、主人公のおだやかで変哲もない日常がそこにとりこまれていくという展開をするが、小説のほうは、死に直面した主人公が息を引き取る前に、その毒を精神内から出し切るという、デトックス物語ともなっている。そしてそのデトックス過程で主人公の思いがさく裂。いうなれば、後半は主人公の脳内劇場となってゆく。

小説ではボブ・フォッシー監督の映画『オール・ザット・ジャズ』について触れられるが、死が迫る演出家がみずからの人生を振り返るとき、それがミュージカルの場面となって去来するというこの映画は、この小説の世界と通底している。小説でも死を覚悟する主人公の頭のなかでは、教え子や三人の女性(死んだ妻、恋愛感情を抱いた教え子、そしてクラブ「夜間飛行」を手伝っている女子大生)への性的妄想がさく裂する――まさに『オール・ザット・ジャズ』の世界のように。さらにそれは脳内劇場へと変貌をとげて、戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』の舞台に主人公たちを出演させるのだ。このへんは小説を読んでいて圧巻なのだが、映画ではその方向にはすすまない。小説では、『オール・ザット・ジャズ』のロイ・シャイダーのように主人公は愛する人たちに別れを告げる。

正確に言えば、また会いたいという思いをいだきつつ、主人公は死んでゆくのだが、映画ではこの再会の思いを引き受けることになって、主人公は死んでも死なないというか、別モードで生き延びる。いっぽう小説のほうでは、主人公は死ぬ。というか、小説では、死を描くことは容易だし、実際、多くの小説は死を描いてきたし、そもそも文学は死を描くためにこそあるといってもいいのだが、しかし死について描く文学自体は死ぬことはない。そもそも文学あるいは小説は、どのように死ぬのか。

有名な例だが、演劇の場合、舞台で登場人物が死んでも、それは死を演じているだけで、演じている俳優が死ぬわけではない。もし事故とか病気で、舞台で俳優がほんとうに死んでも、観客はそれを演技としてうけとめるだけである。舞台では俳優がほんとうに死んでも、ほんとうに死んだとは受け入れらない。ならば、演劇において虚構とか演技ではない死はどのように表象するのか。

そんなものは表象しなくていいといえばそれまでだが、逆にいうと、俳優は舞台では死ねない(たとえ現実には公演中に亡くなる俳優は多いし、舞台で死ねれば本望という俳優も多いのだが)。なにをやっても演技と思われるだけである。ならば俳優にとって死は、干されて劇場に呼ばれなくなること、あるいは劇場を後にしてどこかへ消えることである。

実際、物語の世界をすべて劇場での出来事に置き換えたジョー・ライト監督の『アンナ・カレーニナ』では、ヒロインの死は、蒸気機関車に轢かれるというメロドラマティクの死ではなくて、出番が終わったので、先に失礼するというかたちで劇場を後にするヒロイン役の俳優の行動によって示されていた――なんというアンチクライマックス、しかし、そうでもしないと〈人生は芝居、人間は俳優、世界は劇場〉というこの映画のコンセプトのなかで死を表象できないのである。

小説の場合はどうか。簡単に理論化できるわけではないので、『敵』に即して考えれば、まずこの主人公の元大学教授は、自分の死を、自分でコントロールしようとしている。ふつうなら、あるいは私が想定している自分の死は、事故などによる不慮の死でなければ、病気で死ぬことだろうが、この主人公は病死の可能性をリアルに考えていない。そこが不思議なところ。主人公が望むのは自死である。その方法なども考えている。

しかし小説では、主人公は予行演習はするものの、その後、とくに病気もケガもせずに、いつのまにか意識が遠のいていって死んでいる。その間、敵に関する記述が多くなる。また映画でも同様に後半になって敵による影響が現実あるいは主人公の意識に入り込んでくる。そのために、どうやら主人公は身体的な病気とか体力の衰え以前に認知症をわずらって死んでゆくのではないかと思われる。敵の存在におびえるのは認知症の徴候である。また認知症になったら先は長くないともよく言われる。

だが若年性の認知症にならなくても、人は死ぬときには誰でも認知症になる。現実と幻想との区別がつかなくなる。過去と現在が入り混じる。自分が生きているのか死んでいるのかもわからなくなる。そうして意識が混濁するなか死を迎える。私自身、そうして死んでゆくだろうと思う。認知症になったから死ぬのではなく、死ぬから認知症になるのである。

筒井康隆氏は新書『老人の美学』(2019)の中で、『敵』を出版した頃、森毅氏と対談したときのことに触れ、森毅が、モダニズム小説というのは過去と現在をいったりきたり、現実と幻想との区別がないような書き方をしていて、認知症的だというコメントをしたことを伝えている。

そういわれてしまえば、まさにその通りなのだが、認知症的世界の客観的相関物は、モダニズム小説だけではない。フローリアン・ゼレール戯曲『Le Père 父』(2012)は日本でも翻訳上演されたと思うが観ていないのだが、ゼレール自身が監督した映画『ファーザー』(The Father, 2020)もコロナ渦で映画館では観ておらず配信で観たのだが、その映画において、認知症になった高齢男性の視点からみた世界は、モダニズム小説というよりも不条理演劇いやホラー映画そのものだった。強度な認知症になれば被害妄想のなかで苦しむことになり、出口なき覚醒なき悪夢の世界に閉じ込められて死んでゆくとしても、誰もが死の直前には認知症的になるとすれば、待っているのは悪夢の世界だと思うと気が滅入る。

『敵』は小説版ではモダニズム小説、映画版ではホラー色の強い作風になっているのは、ともに、認知症的世界の表象の二形態ということになるのだろうか。

ただし映画版では主人公は死んでも死ななない。どいうことかは映画を観てのお楽しみということになるのだが、小説版では、主人公は死ぬ。三人称の小説だが、基本的には疑似一人称の小説である『敵』は、主人公の内面を描いているので、死の瞬間も外面ではなく内面から描いている。そのため死は外的に、あるいは臨床的に死にましたと描けないのだが、そのぶん、まさに死を内側から描くという挑戦的な文学的試みが実現する。

それは『敵』の文体とも関係する。この文体をどういうふうに考えてはよいのか、私自身、正直なところよくわからないのだが、先の対談を回顧するなかで筒井氏はエンターテインメント小説ではなく「モダニズム小説」を、純文学を書こうとしたと述べている(「『敵』はモダニズム文学の美を狙っていると同時に主人公渡辺儀助の老人としての生活の美を描こうとしているのだ」)。そのため、その文体は癖ではなく意図的にこしられたものだろう。では、その特徴は何か。

読点(、)が極端に少ない文章となっている。読者が読み間違ったり読み取れなくないように最小限の読点はあるが、句点(。)以外、読点は極端に少ない。人間の意識の流れのなかでは単語の流れや羅列はあっても読点はない。そのため読点のない息の長い文章はそれ自体で主人公の内面のつぶやきの直接的な表象かもしれず読者としても自分が主人公の内面に入り込んでそのつぶやきをじっくり聞いているようなあるいは自分で言葉を内語として発しているようなそんな思いにとらわれるのかもしれない。もちろん、それ以外の効果もあるとしても、今は思いつかない。

もうひとつは擬音語とか擬態語がすべて漢字で示されている点も特徴のひとつだろう。たとえば「雨が使徒使徒と降る」というように書かれている。実際、見慣れない漢字の羅列に出会うと、それを音読みして、なんとか意味が分かる場合もあれば、音読みしてもなんの擬音語か擬態語かわからないところもある。

よくわからないということをお断りをしたうえで、私見を述べれば、これはワープロとかパソコンで原稿を書いているときの過剰な変換や誤変換をそのまま再現しているのではないだろうか。もちろん私のパソコンは「雨が使徒使徒と降る」という誤変換はしないが、ただいかにもワープロ・パソコンで書いたときのような文章らしさを醸し出しているのではないだろうか(先に触れたように映画では主人公はパソコンで原稿を書いている)。

これはパソコンでうまく文章を返還できない(あるいは初期のパソコンの限られた文章作成能力)へのパロディではなく、なにか非人称的な力が、主人公渡辺儀助の意識のなかで、あるいは作家自身のなかで働いている、もしくは侵入しているのかと思われる仕掛けではないのか。

いまでいえばAIあるいは生成AIによって書かれた文章という趣がある。ことわっておくが、主人公がAIに乗っ取られているとか、主人公など最初からいなくてAIが書いているだけというホラーを考えているわけではなく、なにか文章の一部が勝手に漢字変換されてしまうことで、非人称的な力が顕在化したことが感得されるということだ。そしてその非人称的な力とは、言語の力かもしれないし、無意識の力かもしれないし、自我がコントロールできない老いや老齢による変化かもしれないし、究極的にはそれは死への譲渡過程のはじまりなのかもしれない。

この小説において敵は、北方から侵略してきて日本人の多くを難民化する脅威的存在だけではなく、名指されぬものとして存在している。主人公を死へと追いやる、すでに主人公の内面に侵入している名もなき敵がいるのだ。

ところで主人公がいつから認知症になって死を迎えるのかについて、敵についての妄想がひどくなったことと認知症の進行とがパラレルになっているという暗示から、認知症、衰弱、死という連関が想定されているように思われるのだが、今回、映画を観ながら別の可能性も考えた。

これは私の認知症的妄想といわれれば反論もできないが、映画のなかで、主人公が自死の予行演習をしたとき(小説でははっきりと書かれていないとはいえ)、あのとき事故でほんとうに死んでしまったのではないだろうか。予行演習以後の出来事は、死の直前に主人公に記憶や情感や欲望や希望が入り混じったもの(all that jazz)が去来したことの記述ではなかったか。

ニコス・カザンザキスの小説『最後の誘惑』(映画化もされたが)では、十字架にかけられたイエス・キリストは、十字架から降ろされ、ひそかにマグダラのマリアに助けられ彼女と結婚をして子供や孫に恵まれいままさに大往生するときに、そこで我に返って、これまでのことは死の直前に悪魔がみせた誘惑の偽りの人生であったことを悟り、誘惑に勝って死ぬという内容だが、『敵』でも主人公は薄れゆく意識の最後の瞬間に目覚め、予行演習ではなく真の死に直面し、確実に死ぬことを悟るのではないだろうか――もちろん、それで悪あがきをするのではなく、おだやかに死を迎え入れるのだが。

とはいえすべてではないとしても、一部を、AIが書いたような文章は、主人公の死をどのように表象するのか。それは言語と文章表現の崩壊というかたちをとる。実際、小説『敵』は、主人公の日常と所感とを、きちんと、ほぼ同じ字数の章で展開する、整った、まさに端正な小説である。そこにあるのは淡々とし平穏な日常の報告の身辺日記的エッセイであり、また決して深入りすることはないが同時に浅薄でも通俗的でもない知的なエッセイである。しかし、それが最後になると、たとえば、AIがみずからの文章の情報データを放出するかのように、これまでの文章のキーワードをすべて列挙しはじめる――もちろんこれは、主人公の混濁した意識が生み出す記憶の断片としても読めるのだが(さらにいえば、脳内に潜む敵をすべて吐き出すデトックスの試みとも読める)。

そしてやがてページに大きな空白が生まれ、雨の「使徒使徒」という、擬音語だが擬態語だかしれない漢字のみが、白いページの中に、さならが一粒雨のように印字されることになる。

言語表現が、あるいはエクリチュールが息絶えようとしている。主人公の意識/書き手の文章に侵略して一部を乗っ取ろうとしたAIも、主人公/書き手が、死んでしまうとき、宿主が枯れてしまうとき、なにも生成できずにみずからも消滅するしかないようだ。

ただ、この末尾のイメージは、先ほど触れた映画『ファーザー』の主人公(アンソニー・ホプキンズが演ずる)の最後の述懐を思い起こさせる。認知症になった主人公は、木々の豊かな葉が枯葉となって落ちてゆくように、自分のなかからすべてのものが失われてゆくともらす(主人公はそこで死ぬわけではなく、また映画は、病室の外の木々の豊かな緑を映し出しているが)。『敵』のなかで主人公がみる光景は雨あるいは雪がしずかに降る光景である。それはまた喪失と消滅の、瞬時に消えるのではなく、ゆっくりと存在を喪失してゆくという光景であり、それは光景をみているあるいは幻視している主人公の意識と同期している。

死を扱った映画、このブログでもふれた『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』(ペドロ・アルモドバル監督2023年)では、ジョイスのDubliners(『ダブリン市民』『ダブリンの市民』『ダブリンの人びと』『ダブリナーズ』などの訳題あり)のなかの「死者たちThe Dead」から二度ほど引用され、ジョン・ヒューストンの映画化作品の一場面が実際に映画のなかで引用される。映画をみていたとき、「死者たち」のどこにある引用かわからなかったが、調べてみてというか思い出して、最後の一節だとわかった。

雪がかすかに降っている音が聞こえる。最後の時の到来のように、生者たちと死者たちすべての上に降っている、かすかな音が聞こえる。
ジョイス『ダブリンの市民』結城英雄訳、(岩波文庫2004)「死者たち」(末尾)より

この光景(ジョン・ヒューストンの映画の最後の場面でもある)は『敵』の終わりを彷彿とさせる。筒井康隆『敵』は、死の表象をめぐる挑戦的試みでもあると同時に、死の表象の忘れかけていた鉱脈を掘り当てくれた貴重な作品であるように思う。

私も雨か雪の降る景色を眺めることができればいいな。
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