2017年08月05日

『忍びの国』

『忍びの国』は、予想外に面白い映画だった。


予告編で見る限り、戦国時代、伊賀の国に織田信長の軍勢が攻め入り、熾烈な戦いが展開するが、そのなかで、おそらく首領格ではないかもしれないが有能な忍び(大野智)が、圧倒的に強大な織田軍を前に苦戦するも、叡智によって敵の裏をかき、仲間を鼓舞して、勝利に導く、いや伊賀の国が信長軍に勝利したという記録はないから、勝利をまぢかにして、信長の調略によって敗北するという話かと思った。実際、伊賀の国と信長軍との衝突は、二回にわたって起こっている。ということは最初に撃退したことになる。でかした忍者軍。まあ、そういう話かと思った。


予告編から伝わってくる大野智の熱い演技も、こうした予想を裏付けるように思われえた。ただ、そうなると大阪冬の陣と夏の陣みたいなもので、大野智扮する忍びが、真田幸村に見えてくる。昨年のNHKの大河ドラマ『真田丸』の人気の余韻がまだ残っているのかもしれない。繰り返すが、予告編からみると、そんな映画かと思ったが、観てみると全然違った映画だった。


考えちゃダメ!

楽しんで!深く考えないで観ると面白いと思います。深く考えると、もはや人間ではない自分に気づかない無門が悲しいです。人間ではない者達が集まると、もはやこれが正義になるのですね。お国が人間で良かった。


これはたまたまネットで目にした一般の映画評なのだが、舌足らずで、なにを言っているのかわからないコメントなのだが、とりわけ「人間でない」とか云々のところがまったく理解不可能だった。ところが映画を見てみると、この映画評、それなりに正鵠を射ている立派なコメントなのである。


とはいえ、上記のコメンテイターにはまったく失礼ながら、これは考えさせられる映画でもある。そして上記コメント最後の「お国が人間で良かった」というのは、お国=国家ではなく、お国は石原さとみが演ずる、大野智の妻のことである。でもなぜ妻が人間でよかったのか。主人公が人間でない? 


実際、映画の途中まで忍者版『真田丸』だと思っていたので、その印象を退け、一度、頭をリセットするまで、けっこう時間がかかった――私の頭の回転がのろいせいで。そして『真田丸』ではないと悟れば、俄然、映画が面白くなる。


実際、大野智演ずる主人公の無門(←これが名前)は、伊賀の下忍仲間では一匹狼の、それも最高の技能を誇る忍者、つまりは最強の戦士=殺し屋あるいは最強の殺人マシーンであり、その超人的な殺人技の冴えを映像で堪能できる。また、人の命をなんとも思わない殺人マシーンが、自分の行動に疑問をもちはじめ、人間性にめざめていくのだが、時すでに遅くという展開に、この映画の予想を裏切る面白さがあった。


結局、この映画は『真田丸』ではなく、忍者軍団での非人間的な価値観(正確にいえば無価値観か)を疑いもせず、欲望のままに生きる殺人マシーンたちのうち、一人(鈴木亮平)は自らの弟の死をきっかけにして忍者軍団の非人間性に目覚め、伊賀の国を裏切ることになるのだが、主人公(大野智)もまた、鈴木亮平や妻の石原さとみとの出会いによって、みずからの生き方に疑問を抱き、自分と同じような境遇の下忍仲間を利用する忍者軍団の冷徹非情な幹部たちへの怒りを覚えるようになる。


『真田丸』とは全然違うジャンルである。実際、この人間ではない忍者軍団と織田軍との最初の戦いでは、本来なら、織田軍つまり数にものをいわせる権力者側の軍隊ではなく、伊賀の忍者軍団つまり反権力のマイノリティ集団のほうに肩入れしたくなるのがふつうだが、この映画では、人間ではない忍者軍団をぶっつぶせる織田軍に肩入れしたくなるのだ。それほどまでに忍者軍団の非人間っぷりがすごい。


類似のジャンルの映画はいろいろ思い浮かぶといいながら、出てこないのだが、たとえばリュック・ベッソン監督の『レオン』(1994)はどうか。マフィアに雇われている有能な最強の、そして非情な殺し屋が少女と出会うことで人間性にめざめ、彼自身を殺し屋に仕立てるために子供のころから自分を養育してきた父親代わりのボスを裏切り、少女を助けるため、みずから死んでいく--このレオン/ジャン・レノの物語は、『忍びの国』に通ずるものがある。他国から子供を拉致して殺人マシーンに仕立て、その殺人マシーンを使い捨てにする冷酷な忍者軍団のボスたちと、最後には、その彼らに怒りをぶつけ復讐しようとする主人公の運命が同じだということだけではない。ふたつの映画を通して。根無し草的な存在(レオンと観葉植物、無門(どのような門も破るということから、つまり守るべき家などない)と、他国から拉致されてきた妻のお国)そして子どもというモチーフが共有されていることもまた興味深いのだ。


あと時代劇としては、日置大膳役の伊勢谷友介の存在感がハンパでないし、 マキタスポーツ(長野左京亮役)は、彼の本来の居場所は、時代劇のなかにしかないと思えるほど、時代劇のために生まれてきたようなタレントにもみえる。織田信雄役のHey! Say! JUMPの 知念侑李も本来なら軽薄な悪役というところだが、伊勢の忍者軍団が人間ではないがゆえに、そのぶん、人間味を引き受けた観があり、応援したくなるヒーローにもなった。これはこの映画の特異なところだろう。


ちなみに83日のNHKBSプレミアム【英雄たちの選択】「真説・山崎の戦い~なぜ光秀は天下をとれなかったのか?~」午後8時~午後9時の最後で司会の磯田道史が、光秀が本能寺で信長を討ったことによって、これで信長による大虐殺が終わりを告げることになったというようなコメントをしていて、なるほどと目を開かれた。実際、信長の軍団は、戦闘員・非戦闘員を問わず無差別の大量殺戮を繰り返してきた。それが止んだだけでも、本能寺の変は、意味があったのだ。そして伊賀の国への侵略をみても、二度目の侵攻では大虐殺を行なっている。だから人間ではないのは織田軍も同じなのだ。ところが映画のなかでは忍者軍団を極度に悪魔化しているために、織田軍が正義の戦いをしたかのような、そして伊賀忍者という悪を征服したかのような印象を与えるのである。


しかも映画のなかでは伊賀忍者の悪魔化にさらに追い打ちをかけるように、伊賀忍者は征服されたのではなく、全国に散らばり、やがて、そのおのれの欲望のみに生きて、人道も命も平気で踏みにじる悪鬼(とは言っていないが、そんなようなものでしょう)となってよみがえるのだとを日置大膳/伊勢谷友介が語る。そして、そこで伊賀の下忍たちの姿が現代の若者たちの姿にかわっていくシーンがある。そのため、たしかに人の心をもたず大量虐殺をなんとも思わない織田軍もまた本来なら伊賀の忍者軍団に劣らずあさましい獣的な存在であるのだが、そのように感じさせないところに、この映画の魔力があるといえようか。【なお磯田道史氏の著作『無私の日本人』なかの一編「穀田屋十三郎」を、この『忍びの国』の中村義洋監督が映画化するという話があったのだが、実現したのだろうか】


なお、そう考えると主人公の無門を大野智に演じさせているというのも、絶妙のキャスティングかもしれない。主人公は、最強の忍者戦士なのだが、同時に、金のためには平気で人殺しをし、守るべき大儀などない、心のない人間なのだが、それは大野智のイメージ(演技上の)に良く似合う。ある意味アンチヒーローである。その彼が人間性に目覚め、苦悩し、怒り、悲しみ、人間味あふれたヒーローへと変貌していくところを、大野智が熱演している。最初は主人公に対する距離のとりかたに戸惑うものの(この戸惑いは織田軍に対してもいえる)最後には、距離がなくなる、主人公への対応が安定する。それはまた主人公のアンチヒーローからヒーローへの変貌を意味している。


Last but not least 残忍で人の心を欠いているのは、伊賀の忍者軍団で、織田信雄率いる織田軍・伊勢軍は、そうでないという設定になっているが、織田信雄に従って伊賀の国への侵攻を決意するとき、家臣団は軍団をまとめ奮い立たせるがごとく、動物のように吠える。一方伊賀の忍者軍団も、信長からは(あるいは当時から?)「虎狼の族」と呼ばれ侮蔑されまた恐れられている。彼らは獣であり、実際、彼らが群れて攻撃する様は、サル山の猿の群れにもみえるし、地を這うウルフパックのようにもみえる。そして史実としてみれば、伊賀の忍者軍団と織田軍とは、どちらも獣的で非情かつ非道な集団で、選ぶところはない。


そもそも映画の冒頭で、忍者軍団は、二手に分かれて争っている。どちらも忍者なのであって、これは戦闘の準備、予行演習、訓練かと思うと、そうではなくて、ほんとうに殺し合っている。なぜ同じ忍者どおしで殺し合うのか。異なる一門あるいは家系は無意味に争い、多くの命を無駄にしていると語られる。同族どうしで殺し合い、仲間の命を恐ろしく軽んじている。だが、この無意味な内部抗争は、戦国の世の象徴ともなっている。この映画における戦闘も、敵と味方に分かれているのだが、大局的にみれば同族の争いである。


実際、この映画はいっぽうで、明確な二項対立によって対照的なふたつ世界を構築しているが、単純に二分化できない可能性もしっかり垣間見せているといえよう。この脱構築状態は、この映画のもうひとつのテーマである「術」の問題とも関係があるかもしれない。


忍者は、人間の精神を操る「術」をもっている。「術」とは特殊技能ではなくて、言葉によって相手に暗示をかけて行動を操作することをいっているようだ。忍者のひとりを裏切らせ、その裏切り忍者の助言によって、織田軍が伊賀の国に侵攻するという展開も、すべて「術」のなせるわざであり、すべては忍者軍団の幹部のシナリオどおりだということになっているのだから。


しかし、このような「術」を問題にすれば、どこからが術に操られた結果であり、どこまでが自由意思なのか区別がつかなくなる。術によれば、なんでもありなのである。織田信長は次男に伊賀の国は「虎狼の族」の国なので攻め入ってはいけないと釘をさしているのだが、この禁令は、実は父親をあてにせずに自分の才覚で成果をあげよという暗示あるいはフリであると伊勢の国では解釈するのである。暗示あるいはフリであるという解釈は、術の世界である。つまり直接的な命令は、その意図を分析され慎重な判断を促すことにもなるが、間接的命令あるいは暗示あるいはフリだと、無批判に受け入れてしまう。まさに催眠術と同じなのである。術であれ、間接的命令であるフリであれ、催眠術であれ、それられと自由意思や決断との境界線はないことになる。もはやすべてが術による操作ともいえてしまうのだから。


ちなみに主人公の無門は、人殺しの技術は伊賀随一であり並ぶ者なき腕前なのだが、人心をあやつる、つまり術をかけることだけでは下手である。妻のお国を拉致するときも、術をかけて連れ去ろうとするのだが、石原さとみは、その術にかからない。ほかにも無門/大野智が術をかけることが下手だった場面もあったような気がする。結局、これは、彼女が自由意思で伊賀の里までやってきたということであり、ある意味、二人の絆が、催眠術的なものではないことの証明だともいえよう。


またこの原作と映画は、伊賀の忍者を悪く描いているという点で、特異なものかもしれないが、冷静に考えれば、江戸時代になっても御庭番として、地方の大名や武家の動向の監視、諜報活動をおこない、ときには暗殺をも請け負った忍者集団は、ろくなものではない。アサシンである。国家の闇の部分をすべて背負い、すべてを闇から闇へと葬る恐怖の殺人集団である。まあCIAあるいは内閣調査室みたいなもので、権力者に重用される国家の犬であり、庶民感情からは許しがたい卑劣なクズ集団である。スパイ物の小説や映画のおかげで、彼らは美化されることも多いが、冷静に考えれば、およそ好まれる集団ではない。


しかしである。彼らをCIAや内閣調査室と同等に考えるというのも歴史錯誤であろう。戦国の世に国家統一を目指して大虐殺を繰り返す悪魔のような織田軍に対して、少数で徹底抗戦して、皆殺しにされた伊賀の忍者軍団とその一族は、「虎狼の族」と呼ばれさげすまれ恐れられても、ほんとうはどうだったのか、わからない。彼らは統一と全体化を阻む勇気あるレジスタンスだったかもしれない。彼らは民主的共同体を実現し、伊賀の里は、ある意味、ユートピア、つまり戦国の世であればこそ可能だったユートピアだったのかもしれない。


だが、原作とこの映画は、彼らを虎狼の族として、術によって人心を操作しつつ、金銭という資本主義の術に操られている卑劣で愚劣な一族として悪魔化している。だが、それは原作あるいは映画が、わたしたちにかけた「術」かもしれないのだ。


かくして「術」をひとつのテーマとして提示したこの映画は、そのために、テーマそのものも、どこまでも未完結な開かれたものとしている。


posted by ohashi at 16:27| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月02日

『ザ。マミー』

『サハラに舞う羽』という映画があった。監督は『エリザベス』『エリザベス ゴールデン・エイジ』のシェカール・カブール。主演は今は亡きヒース・レジャー。私ははじめて見る映画/物語だったが、これはAEW・メイソンの小説『四枚の羽根』のなんと六度目の映画化。 原題はThe Four Feathers。この羽というのは臆病者に送られる白い羽のこと。アフリカのスーダンへの着任を前にして除隊した英軍士官(ヒース・レジャー)に送られこの羽。四枚の羽根を送られた、つまり臆病者と非難されたヒース・レジャーは、汚名をはらすため、ひそかにアフリカにわたり、現地の反乱軍の抵抗にあって苦境に陥る英軍の仲間(4枚の羽根の送り手たち)を、ひそかに助け、臆病者の汚名を晴らすことになる。


ワーテルローの戦いあたりではまだ効果的だった英軍の方形陣も、ヨーロッパでは時代遅れになっていたのだが、アフリカではまだ使われていたものの、それもスーダンで反乱軍に破られていくという歴史的な時代、ゴードン将軍の戦死の時代を背景としている。シェカール・カブールの演出は力強く、また原作である、やや古臭い、友情と名誉の物語を、リアルな映像によって現代によみがえらせている。だが……。


捕虜になった友人を助けるべく、みずからも捕虜収容所というか、捕虜収地下洞窟に潜入する主人公は――とにかく見ている側が窒息しそうなくらい、人間がひしめき合いおりかさなり身動きもとれない洞窟の映像は一見の価値あり――、そこで策を講じて脱出する。その策とは、一時的に仮死状態になる薬物によって、死体と扱われて収容所から外に捨てられるというもの


仮死状態になる薬。え、『ロミオとジュリエット』か。そんな薬など、『ロミオとジュリエット』の時代にもなかったというか、あると信じられていたかもしれないが、そんなものはない。この仮死状態になる薬が、重要な設定になるところで、この映画は一挙に百年以上も前に後戻りしたかのようだ。


どんなにリアルな映像をまとってても、結局、仮死状態になる薬を利用することで、腐乱した死体の死臭に気づかされる。厚化粧という比喩はよくないことを知りつつ、あえて使えば、厚化粧の下の老いた肌に気づかされるとでもいおうか。若作りしていても、実は相当な年齢である、いやひょっとしたら生きていないのかもしれないと気づかされる、それが『サハラに舞う羽』の仮死状態になる薬だった。


差別的な比喩をお詫びするが、逆のことも考えられる。どんなに今風であっても、実は古めかしい、ノスタルジアを喚起するような作品づくりもできる。『サハラに舞う羽』は、むしろノスタルジアからは縁をきった現代性を追及したようだが、ただどんなに縁を切ろうとも、古めかしさのくびきからは逃れられなかったということができるとすれば、一見新しいそうで、実は古めかしい、いやその古さを楽しむような、ポストモダン的な方向性というのもありうるだろう。


『ザ・マミー』は1932年公開の映画『ミイラ再生』をリブートした作品ということだが、『ハムナプトラ』も、『ミイラの再生』のリブートということなので、この作品は、『ハムナプトラ』のリブートということにもなる。またユニヴァーサル・ピクチャーズのダーク・ユニバースの第1作目となる作品でもあるということ。うまくいけば現代の映像技術をふんだんに使いながら、どこかなつかしい物語や雰囲気などがあって、新しいとともにノスタルジックな作品が誕生すればいいということになる。


ただ問題は、ひとつあって、昔のユニヴァーサル・ピクチャーズのモンスター物というのは、B級ホラーでしょう。ノスタルジックというよりもB級映画感が支配的になってしまうと、いくらCGをふんだんに使っても、安物映画にみえてしまう。ノスタルジアには骨董品がもつ高級感がある。しかしB級ホラー・モンスター映画には高級感がない。そこをどうするかということかもしれない。


実際、映画制作側も模索しているのかもしれない。『ザ・マミー』は面白い映画だが、アメリカでの批評家の評判はよくない。それもわからないわけではない、トム・クルーズとかラッセル・クロウというスターを使っていながら、軽い。軽いのはいいのだが、それが安っぽさにつながってしまう。


そのため軽さを、どう評価するかで、全体の評価が左右されるのかもしれない。というのもこの映画、たとえばよみがえった闇の女王が、どこまで逃げても追いかけてきたり、時として悪夢の世界に引きずり込まれるということになっても――このあたりは、けっこう工夫が凝らされていて、それなりに興味ぶかいのだが――、全然怖くない。まえに映画『ウィッチ』が怖くないと書いたが、『ザ・マミー』と比べたら『ウィッチ』はずいぶん怖い映画だということがわかる。ということは、逆に、恐怖がうまくコントロールされていて、家族向き映画という作りをされているのかもしれない。


だから好意的に言えば、B級ホラーの世界を、家族向き映画にしたということかもしれない。とはいえ、たとえばジェイムズ・ホエイルの映画『フランケンシュタイン』が公開されたころの観客は、ボリス・カーロフ扮するモンスターにおびえたかもしれないが(ちなみにこの映画の科学者はヘンリー・フランケンシュタインとなっている(原作はヴィクター・フランケンシュタイン)、またモンスターには名前がない)、いまからみれば、怖くもなんともない、むしろ愛嬌のある、文化的アイコンとなった、ゆるキャラに近いモンスターである。


B級ホラーは時がたてば怖くなくなる。するとますます安っぽくなる。この怖くなくなることを、安っぽさと接続するか、家族向きホラーと接続するか、今後の作品展開を待つしかないだろう。


最後に、この映画『ザ・マミー』では、実は、怖い場面がひとつある。ほんとうに心臓の鼓動が激しくなり、あとあとも夢をみそうな怖いシーンがある。それは飛行機が墜落するシーンである。ミイラの棺を載せた輸送機は、ミイラの強力な霊力によって英国上空で空中分解しはじめ、墜落してゆく。トム・クルーズは、女性に唯一のパラシュートをあたえて脱出させたあと、みずから墜落する輸送機と運命をともにする。輸送機の壊れたドア付近に身を寄せるトム・クルーズと、画面に迫ってくる地表。飛行機に乗っていて墜落を経験した場合は、まさにあんなふうだろうと思い、恐怖に身がすくんだ。


そして暗転。死んだと思われるトム・クルーズは、死体安置所で、よみがえる。死んでも死なないのだ。もちろん多くの死人がでる映画だが、トム・クルーズの相棒も死んでも幽霊となってつねにつきまとっている。怖くない。やっぱり安っぽいか。


posted by ohashi at 14:34| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月01日

『メアリと魔女の花』

映画館で場内が暗くなって予告編がはじまってもしゃべっているカップルがいると心配になる。以前、テレビで芸能人が映画館で予告編の時、友達としゃべっていたら注意されたことがあるが、予告編のときはしゃべってかまわないのではと話していた。まあ本編のときにしゃべらなければ問題ないのだが、しかし暗くなって予告編がはじまってもしゃべっている人間は、本編がはじまってもしゃべっているのではないかと心配になる。私がみた映画館でも予告編がはじまってもしゃべっているカップルがいて、嫌な感じがした。本編では黙っていたのだから問題はないのだが。しかし、予告編のと、なにもしゃべらなくても黙っていていいのではないか。そのカップル、映画が終わったら、エンドクレジットのところでぼそぼそしゃべりはじめ、場内が明るくなってからは、いやあ、映画を見ると疲れる、眠くなると話している。結局、映画が好きじゃないし、映画を見てもわからないタイプの人間だろう。とっと帰れ、あるいは映画館なんかに来るなと言ってやりたい。


というのもその映画『メアリと魔女の花』で、夜の回で、私自身、睡眠不足で疲労気味だったので、寝てしまうのではと心配したが、映画がはじまってからは目が覚めた。よくこの映画で眠たくなるものだと、あきれた。


『メアリと魔女の花』――『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマーニー』を監督した米林宏昌の監督作品であり、ジブリを退社したプロデューサー西村義明とともに立ち上げたスタジオ・ポノックの第一作品である。面白い長編アニメで、楽しませてもらったのだが、なにか物足らないものがある。いや、その逆かもしれないのだが、スタジオ・ジブリの過去の作品のモチーフの集大成、あるいは過去のモチーフのてんこ盛りのようなところがあり、まさにジブリが名前を変えて再出発したという趣がある。盛りだくさんで、物足りなさとは程遠いのだが、むしろそこのとが物足りなさとでもいえようか。


とにかくジブリの集大成になっている、あるいは集大成たることにこだわりすぎて、監督本来の持ち味のようなものが出ていないのではないという気がした。


『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマーニー』は、いかにもというスタジオ・ジブリ系の絵柄のアニメだが、しかし、どこかに米林監督の、たとえば宮崎駿監督作品とは異なるテイストのようなものがあって、そこが面白かった。二作のうち、どちらもイギリスの児童文学作品を原作としているのだが、とりわけ『思い出のマーニー』は、泣けた。実際、観た人の多くが泣けたと思う。


だが、今回の『メアリと魔女の花』は、次から次へと繰り出されるジブリ的なモチーフに、なつかしさのような安心感を覚えるのだが、しかし物語そのものは、泣ける話ではない。いや、泣かなくてもいいのだが、たとえハッピーエンディングとはいえ、そこになにかぐっとくるようなものがない。面白いことはまちがいないが感銘を受けることはないといえばいいのか。


『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマーニー』は、ジブリ作品の一部、ある意味、宮崎アニメとメトニミカルな関係をもっていて、ジブリ系アニメでも、独自路線を行くことも可能だったのが、今回は、ジブリ作品のメタファーであるために、ジブリの遺産をすべてもらさず受け継ごう、あるいは再生産しようという意気込みが強くて、ジブリのメタファーたらんとして、ジブリ作品の反復とリサイクルに終始したという感がある。


ジブリにいた頃は、ジブリ離れを目指していて、ジブリ亡きあと、今度はジブリに限りなく近づこうとしている。まあ、そういうものかもしれないが。

posted by ohashi at 22:49| 映画 | 更新情報をチェックする