2017年10月25日

『アトミック・ブロンド』

映画公開前だが、ウェブ上のサイトでは、次のような映画紹介があった。


1989年にベルリンの壁が崩壊され、今まで西と東に分かれていた超大国同士が同盟を組みはじめようとしていました。物語は大きな力が動こうとしていたその前夜から始まります。


イギリス秘密情報部MI6のトップレベルのスパイであるロレーヌ・ブロートンはベルリンに派遣されます。理由なく秘密情報部のエージェントを秘密裏に殺害した残虐なスパイ集団を倒すためです。ロレーヌ・ブロートンはベルリン支局の局長デヴィッド・パーシヴァルと連携するよう命じられますが、二人は反発しあいます。


紆余曲折ありながらも二人はタッグを組むと素晴らしい連携が生まれ、西側諸国を脅かすスパイや組織を次々と倒してゆきます。


という話ではない。上記の紹介は50%くらいしか当たっていない。公開前とはいえ、ミスリーディングな予告編以上にひどいものである。


グラフィック・ノヴェルが原作とのことで、そう思えば、ひとつひとつの「絵」がきまっているし、グラフィック・ノヴェルらしい暗さ、荒唐無稽さ、そして大胆なひねりの連続という点で、いかにもという感じがする。実際、ひねりは多くて、最後の最後まで気が抜けないというか、最後の段階で、もう一度、頭をリセットしてストーリーを再構成することを迫られる。


もちろん、そういう小難しい映画と思われては困る。それを上回る魅力として、その驚異的なアクションがある。これまでのアクション映画でのいろいろな動きやカットを吸収していることはいうまでもないが、それ以上に、格闘する二人にカメラがものすごく接近していて、観ている側は、殴り合い、殺し合う二人に、あたかも巻き込まれてしまったかのような気になってしまう。


つまり目の前で格闘が行なわれているのではなく、もう見ている私自身が、とばっちりを受けて、戦う二人の間に入りこんでしまい、まさに目の前を拳が行き交い、いっしょに蹴られ、転倒し、組み伏せられ、なにがなんだかわからないうちに、自分がぼこぼこにされててしまうような、そんな感覚が生ずる映像なのだ。このカメラワークは、これまで観たことも、体験したこともない。とにかく格闘シーンが驚異的である。


そもそもシャーリーズ・セロンがMI6のエージェントとしてみせる戦いの流儀は、たとえば女性ならではの流儀で、華麗に舞うような格闘技で相手を寄せ付けないというのではない。接近して何度も蹴ったりぶん殴ったりして相手を倒すという、華麗な技とは程遠い、ものすごい力技なのだ。東ベルリンの警官相手なら彼女は無敵だが、屈強なKGBのエージェント相手の熾烈な戦いでは、力でねじ伏せ倒す行為の強度が増し、巻き込まれたかのようなカメラワークによって、すでに述べたのように、これまでにないアクションシーンが展開する。


スタントとかCGの助けを借りているのだろうが(すべて彼女がスタントなしでやっているというような情報があったが、それは嘘で、スタントを使っている、まああたりまえのことだが)、セロン自身が、投げたり、投げとばされたように見えてしまう場面も多い。そういう意味でたいへんだっただろうと思うのだが、同時に、シャーリーズ・セロンのアクションをみていて、これでようやく『イーオン・フラックス』の実写版に到達したという思いも強くなった。


イギリスにいた頃、テレビで、あるアニメーションをみて驚いた。カマキリのような女殺し屋らしき人物が、敵のアジトに潜入して、とにかく殺しまくる。台詞はほぼ皆無。彼女が去ったあとは、もうあたり一面、血の海で、そこを歩くと、ちゃぽんちゃぽんと血の海が音をたてる。それはいうまでもなく『イーオン・フラックス』の一挿話、その一場面であって、なんだこのアニメはと言葉を失った記憶がある。


『イーオン・フラックス』は、のちに、日系の女性監督カリン・クサマによって実写版が創られた。昨年か今年だったか忘れたのだが、ヒューマン・トラスト渋谷で『インヴィテーション』を観たのだが、カリン・クサマは健在で、じわじわと恐怖をもりあげていく展開には手慣れたものを感じないではいられなかったが、そのカリン・クサマの実写版『イーオン・フラックス』で主役を演じたのがシャーリーズ・セロンだった。この実写版はヒットしたのかどうか知らないのだが、主人公のキャラならびに状況の設定が有能な正義の戦士であって、アニメ版でみたようなあくどさ、強靭さ、凶悪さは消えていた。


私が好きな『イーオン・フラックス』の、納得できる実写版は、今回の『アトミック・ブロンド』によって、ようやく完成したといっていいだろう。体中、あざだらけ、傷だらけになっても、男を殺しまくる今回のシャーリーズ・セロンは、まさにイーオン・フラックスの再来であろう。かくしてこの映画は、爽快感もあるし、その爽快感を最後にはきちんとひっくりかえすどんでん返しも用意され、あくどさもMAXになっている。


ただアメリカでの評価は賛否両論というのが意外で、つまり賛否両論になるような映画ではないと思ったからだ。どうもそれはこの映画のなかでレズビアン・シーンが出てくることに関係していて、アメリカではくそトランプ以降、女性蔑視と同性愛に対するバッシングがまたぞろ復活していて、この映画に対して、そのレズシーンによって、バカ家族愛ファースト・ファシストがバッシングに走っているようだなのだ。しかしこの映画をみれば、標準以上に面白い映画なので、バッシングを跳ね返す高評価を表明する映画ファンもあらわれ、バッシングがやや下火になっている。アメリカの頭の悪い、排除の論理でしか思考できない、ファシストどもが、映画を見ずにただレズビアンだからといってゾンビのように寄ってくる、この状況はなんとかしてほしいものだ。


ただレズビアン・シーンといっても短い。それを売りにしたり、大々的にレズビアン讃歌を展開しているのでは全然ない。たとえば米国と日本が同じかどうか知らないが、AVでレズビアン物というのは、日本では、ヘテロでエッチなダブルHの男性によって消費されているのであって、美しい女性のレズビアン性交はヘテロ男性向けのAVとしてじゅうぶんに成立している。たとえば数は少ないだろうが同性愛男性AVにおける男同士のからみを、同性愛ではない女性が興奮して観るのと同じであろう。日本で、AVのレズビアン物を女性の同性愛者だけが見て興奮しているということはありえない。異性愛者や同性愛者の男女によってレズビアンAVは消費されているのである。また実際、この映画のレズビアン・シーンは短くておとなしめで、アメリカの似非道徳主義者が騒ぐほどのことでもないし、また男とのからみはなくて、女とのからみしかない映画で、このシーンは男女の性行為の代償でもある。


あと映画のなかで使われている音楽というか歌が魅力的だと評価がたかい。最初のほうで一瞬、デヴィッド・リンチの映画か(べつに監督の名前がデヴィッド・リンチに似ているからではない)と思ったところがあったのだが、それはデヴィッド・ボウイの曲がながれてきたせいだった。同時に、聞き覚えのあるその曲が何の曲だか思い出せなくて、もどかしい思いがしたが、あとで、キャットピープルの歌だとわかった。懐かしすぎて、涙こそでなかったがちょっと胸が熱くなった。

posted by ohashi at 19:40| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月23日

『プラネタリウム』

2016年フランス映画


映画のホームページには、以下のような紹介が――


野心家の姉ローラと純粋な妹ケイトは、人々の心を虜にするスピリチュアリスト。

彼女たちは、本当に“見えている”のか? それとも・・・。


1930年代。アメリカ人スピリチュアリストのローラとケイトのバーロウ姉妹は、憧れのパリへと向かう。聡明な姉のローラはショーを仕切る野心家で、純粋な妹のケイトは自分の世界に閉じこもりがちな少女。死者を呼び寄せる降霊術ショーを披露し、話題の美人姉妹として活躍し金を稼いでいた。そんな二人の才能に魅せられたやり手の映画プロデューサーのコルベンは、世界初の映画を撮影しようと姉妹と契約する。果たして姉妹の力は本物なのか?


見えない世界を見せられるのか?姉妹の運命が狂いだす―。


という宣伝文句だったが、そういう映画かと期待したところ、そうではなかった。


期待はずれというのは、良い意味と悪い意味がある。宣伝文句のような映画ではなかったが、現代の日本にも通ずる世界の映画だったといえばよい意味で期待を裏切られたことになる。映画は1943年の時点で始まる。劇場のクロークルーム係りのナタリー・ポートマンが、働いているところを、かつての知人にみつかり、現時点にいたる昔話をはじめる。それは「いまでは「戦前」と呼ばれるようになった時代の出来事で……」と。いまの日本の、いまこの時代に名前はついていないが、「戦前」という名前がつかないことを祈るばかりである。


戦前の時代のパリからナチス占領下のパリへの物語であり、戦争の暗黒を色濃く投影する映画である。それは期待はずれでよかったのだが、戦争の影におびえながら、それでも平和だった時代へのノスタルジーに胸が締め付けられるわけではなく、ナチス占領下の抑圧的暮らしぶりの恐怖、憤怒、絶望が噴出するわけではない。面白い題材なのに、また演者の力演にもかかわらず、どうして、こんな中途半端な映画なのか。どうしたら、もっと面白く(べつにセンチメンタルに、あるいはお涙頂戴でもなければ、怒りと響きの映画になれというわけではないのだが、それにしても)、なんとかならないのかという思いが最後まで消えなかった。


一般の映画評である。ステマかもしれないが――


ローラとケイト☆人の心を狂わす美しい姉妹 (投稿日:9/22)

知的な美しさ。/スタイル抜群。/パドメ姫からのファンですが…彼女の魅力は進化中。

今作でもステキなナタリー・ポートマンが観られます。/しかも、リリー=ローズ・デップが妹役。/消えてしまいそうな儚い可愛らしさ。妖精?


美人姉妹。/ポスターになっている2人のバスタイム・シーンもお見逃しなく。


英語と仏語を自在に操るこの美しい姉妹がかっこいい。/スピリチュアリストの妹。/その妹の能力を使って生計を立てる姉。/1人の映画プロデューサーとの出会いで運命の歯車が狂い出すーー。


不思議な霊の世界。/相手の見たいものを見せるという妹の才能。/姉の深い愛。/パリに降る雪や南仏の海の美しさ。/見どころ満載。/そして、ええーっ!/そう来たかーー!!の展開&結末。/


美しい姉妹とレベッカ・ズロトヴスキー監督が創り上げる独創的な世界に、身も心もを沈めちゃってくださーい。/


神秘的でダーク&知的で美しい/独特なパワーを感じる映画でした。


余談/ジャパン・プレミア。人生で一度あるか?/目の前にナタリー・ポートマンがいる!

テンション上がりました。驚いたのはナタリーの日本語力!/自己紹介がおもしろかった。酉年生まれなのね。

投稿:あらりん

評価:3 星評価


こんな映画ではないのでステマでしょう。とはいえここまでほめていたら星5つ(満点)でもおかしくないのだが、星3つというのは、ある意味、正しく映画を評価しているともいえる(私としては残念ながら星2つ以上は、拷問されても、出せない)。


この映画評では、ナタリー・ポートマンをパドメ姫(『スター・ウォーズ』シリーズ)以来のファンだというが、私は『レオン』の頃からファンではないが知っているわい。そのナタリー・ポートマン、実年齢34歳くらいだそうだが、44歳くらいにみえる。そしてリリー=ローズ・デップが現在18(撮影時は16)。これを姉妹というのは無理がある。映画のなかでは、どうみても母と娘にしかみえない(顔のアップが多いのもポートマンには不利に働いている)。


リリー=ローズ・ディップは映画『ダンサー』ではイサドラ・ダンカン役で、この時は完全に大人だったが、今回の役は実年齢にも近くて、その独特の雰囲気とあいまって、好演しているといえるのだが、いや、それをいうならナタリー・ポートマンも今回は久しぶりに裸体を見せていて(後ろからだが――なお男性も全裸位になってペニスもはっきり見えるので、これがR12の理由だろう)、好演あるいは力演している。だったら、演出でなんとかならなかったのか。


1人の映画プロデューサーとの出会いで運命の歯車が狂い出すーー。//不思議な霊の世界。/相手の見たいものを見せるという妹の才能。/姉の深い愛。/パリに降る雪や南仏の海の美しさ。/見どころ満載。/そして、ええーっ!/そう来たかーー!!の展開&結末。」とうけれど、この一人の映画プロデューサーというのが重要で、このコルベンAndre Korbenというのは、実在した映画監督・プロデューサであるベルナール・ナタンBernard Natan (born Natan Tannenzaft; 1886 –1942) のこと。


問題は、実在の人物を扱う場合、いくら名前を変えても実際の行動や業績に縛られてしまうため、映画あるいは物語の必然性から外れてしまうということだ。コルベン/ナタンがポルノ映画に出演していたというのは事実なのだが、映画のなかでは意味不明の蓋然性のない設定にみえる。いっぽうで、ナタンはパテー兄弟社という大きな映画会社やスタジオを買収し映画の技術革新にはげむのだが、そうした辣腕経営者、プロデューサーとしての側面は場面はあっても、強調されない。またコルベン/ナタンが心霊現象に興味を持ち、科学的に立証された心霊映画を撮ろうとするのは、虚構なのだが、しかし、なぜ、そうした愚行に走ろうとしたのか心理的あるいは人間的説明が希薄なために、コルベンはただの愚かな経営者にしかみえない。虚構部分を史実に組み入れたため、史実の部分が説得力がなくなり、虚構の部分がコルベン/ナタンの失脚の有力な根拠になってしまった。彼の愚行のために、ナタリーポートマンの妹リリー=ローズ・デップが、放射性物質を扱う危険な実験に供され、のちに白血病となって死ぬ原因ともなるのだから。


もちろんコルベン失脚は、当時のユダヤ人ヘイトがあったことは確かだろう。これは一見神秘的にみえる姉妹の心霊現象物語のなかに、リアルな史実を盛り込み、ユダヤ人の悲劇的エピソードとして映画を成立させようとしたから当然なのだが。


また、その意図はもちろんわかるし、イスラエル出身のナタリー・ポートマンが、全力でそれにかかわるというのも理解できる。問題は、この映画が1939年から42年をフランスの文化風景を描く際に、映画人(監督、俳優、女優、プロデューサー)の活動を物語の中枢に据え、映画の画面自体も、昔の古い映画のような作りにしているところがある点だ。正方形の画面になったり、周囲からしぼっていく暗転の技法がふつうに使われたりする。そこは面白いといえば面白い。まさにメタ映画なのだが、同時に、それによってすべてが作りごとの絵空事の空虚感が消えないのだ。コルベン/ナタンが最後に裁判所で判決を受けるとき(ただし史実では釈放されるのだが、その後、フランス政府が彼をナチスに引き渡し、最後はアウシュヴィッツに送られる)、詰め寄ったメディア関係者に、私の写真をとるな、これは喜劇ではない、これは悲劇なのだといって両手で顔を隠すというシーンがある。これなどは、まさにいかにも当時の映画の演出であり当時の俳優の演技そのままである。それは面白いのだが、面白いと思う瞬間、悲劇性は遠のいてしまう。ブレヒトなら、これを悲劇性を脱色する異化の手法とするだろうが、あいにく、この映画は、この部分を、異化的な場面とするつもりはないだろう。


さらにいえば、映画は顔のアップを多用する。まさに顔の映画なのだが、それによって、周囲の状況が、時代の変化が、社会の圧力がまったく伝わらない。あるいは暗示的に終わってしまう。暗示的手法は、この映画のなかでは、効果的に使われているとも思えない。むしろ舌足らずな、未完成な語りを思わせてしまう。そう、すべてにわたってこの演出は、退屈で眠らせるのか、いらいらして腹がたつかのいずれかなのだ。


もちろん、今という時代への警鐘であることはたしかだろう。ネットの映画評を見ても、現在の、冗談抜きの「戦前」かもしれない日本の状況とシンクロさせている感想は、私が見た限りでは、なかった。だが、あからさまな、おしつけがましい警鐘を避けるために、暗示的に控えめに表現することは、舌足らずと説明不足とは違うし、そこにセンスのなさ(はっきりいってフランス映画と思えないほど、センスが悪いのだ、最後の音楽にしてもエンドクレジットの途中で終わってしまい、あとが続かないのはどうしたわけか)、そしてすべてが映画の場面、あるいは映画の書き割りのような現実に収束させてしまうので(パリに降る雪の場面、最初のそれは本物らしい雪だが、ノスタルジックな回想の場面の雪は、羽根布団の羽のようなものにかわってしまい、ノスタルジックな回想場面の作り物性を強調している)、これではいつまでたっても、リアルに到達しないのだ。リアルに到達しない、あるいはリアルへの到達回路を示すことのできない映画が、史実をもてあそぶなと言ってやりたい。

posted by ohashi at 18:33| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月17日

『三人目の殺人』2

ポスト・トゥルースの時代


結局、鈴木砂羽、土下座強要事件は、うやむやになったまま終わったようだが、最初から、うやむやな事件だった。こういう芸能記事は、芸能プロとか事務所の思惑が入り、宣伝売名行為と脚の引っ張り合いとかからまりあってまともに扱うとバカをみるのだが、同時にまた、今回の事件は、私の立場でもあるのだが、小さすぎる事件(小劇場における小劇団の小規模公演)のわりに大事件なみに扱われたので、ニュースにするほうも、実のところ、失敗したと後悔しているのではないかと思う。帝国劇場での1か月半の公演で、出演予定の女優2名が二日前に降板といっても、病気か怪我ならニュースにもならないのだが、土下座供与ならかろうじてニュースになるかどうかというところだろう。


その後の展開もひどいものだった。そもそも降板した女優は、公演に損害を与えることになったので、訴えられてもしかたがない(訴えが通るかどうかはべつにして)。ところがこれを察知したのか事務所の側の社長のほうが、意味不明の強気に出て、劇団や演出家を批判、公演をやめさせるようにとメディアに顔を出して言いはじめる。土下座させられることはひどいとしても、それで降板するのは女優側、事務所側の無責任姿勢が問われてもしかたがない。損害賠償の義務は事務所側にある。土下座強要は暴力的だが暴力をふるっているわけではない。土下座の姿をネットに流したわけでもない。


いっぽう舞台稽古とか演劇界では、演出が土下座のようなことを強いるのは当たり前で問題にならないという問題発言もあって唖然とした。なかには演出家と役者の関係は社長と社員の関係と同じだから社員は絶対服従だというバカなことをいう演出家もいて、なるほど、演劇界は、そんな閉鎖的な社会だから、バカが多いのかとも納得した次第だが、現実問題として社長が社員に土下座させたらパワハラ問題となり訴えられたら社長が不利であり、そんな会社はブラック企業以下との評判も免れない。また演劇界でも演出家が厳しく指導するのはいいとしても、いまは、パワハラになるような指導が容認される時代ではないし、時代のせいだけでなく、人間的にも、相手の人格をおとしめるような非人道的な処置は絶対にあってはならない。大学で学生が不正行為をはたらいたからといって、学生たちの前でその学生を土下座させて謝らせたら、最終的には教員のほうが訴えられるだろう。


あと社長と社員というバカ比喩を持ち出した演出家に問いたい。若くて気鋭の演出家であっても、有名俳優とか大御所俳優がいたら、その俳優に土下座させることができるのか。演出家と俳優との関係を、社長と社員という関係になぞらえるのは、現実の企業文化を考慮すればまちがっているし、演劇界の現実でもないのだ。


もちろん最大の問題は、土下座させたか、させなかったかということである。女優二人が二回目の通し稽古に出なかったということだが、欠席することは劇団に通告済みであったにもかかわらず、演出家の耳に達してなかったので、激怒した演出家が、欠席した二人の女優に、土下座させたということだとしたら、そもそも、欠席を通告していた二人は、土下座すること時代おかしい。連絡が通ってなかったとしても、誤解を正すべきであって、いくら演出家が激高していたとしても、そこは誤ってい行けない。警察の拷問的取り調べによって自白を強要されるのと同じように、演出家から、土下座を強要されたというのだろうか。そうでもしないと演出家の気が収まらなくて、土下座に至ったのか。


いっぽうで演出家の側は、土下座を強要していないと明言している。これは二人の女優が完全に虚偽の発言をしているのか、あるいは、その場の雰囲気で、自分もしくは自分たちが悪いわけではないだが、とにかくその場をおさめるためい、言われもしないのだが、自発的に土下座をして謝ったということだろうか。この場合、土下座を、強要されたわけではないが、間接的に強要されたのも同じで、また演出家は土下座を止めなかったとしたら、強要とみなされてもしかたながないということになろう。となれば演出家が、土下座を強要していないというのは真実かもしれないし、土下座を強要されたという二人の女優の証言も真実かもしれない。


ただしどちらも真実を語っているというもの真実なら、どちらも虚偽を語っているというのも真実だろう。この場合、真実がどうであるかは、両者ともに知っている。どちらかが真実を語り、どちらかが虚偽を語っているということに、本来なら、なってしかるべきなのに、そうはならない。どちらも真実であると自分をあざむいているわけでないだろう。


真相に近いのは、どちらも虚偽だと、つまり自分に有利なように印象操作するために、虚偽と承知しながら、あるいは虚偽と確定的に批判されないような虚偽を語っているとはいえないだろうか。ここで思い出されるのは、結局、法廷戦術ということを優先して、虚偽でも、あるいは虚偽に限りなく近い発言しかしないという、『三度目の殺人』における証言なのである。


『三度目の殺人』について、そういう頭のおかしな、あるいは悪魔的な犯罪者がいるということではないと思う。あるいは、どんなに真実を語っても、最初から結論ありきの裁判過程で真実は重んじられることはなく、すべてがあらかじめ決定されているという裁判批判でもないだろう(いや、裁判批判的要素はまちがいなくあるが)。重要なのは、『三度目の殺人』の世界は、発言がすべて法廷戦術と印象操作という観点から決定されているということである。この世界にはすでに名前がついているポスト・トゥルースの世界と。


『三度目の殺人』は、繰り返すが、また前回の記事ではなにも触れていないが、このポストトゥルースPosttruthの世界の現実を世界に先駆けてとはいいすぎかもしれないが、先駆けてといっていいほど、物語化・映像化しているのである。このポスト・トゥルースの世界では、人間の発言は、真実に対する責任をもたなくいいというより、なんらかの戦術によって操作されることになるのだが、一貫性だの自己同一性は存在しなくなる。いかようにでも発言を盛り込まれるまさに「器」なのである。ポスト・トゥルースの世界における人間は、戦術的に合致したものが真実として認定され、ほんとうの真実は虚偽でしかなくなる。真実として通用する虚偽と、虚偽としかみなされない真実。ポスト・トゥルース時代における人間は、こうして真実とは無縁のロボット化した人間あるいは、いかようにでも操作される心変わりする悪魔でしかなくなる。そう思うと、この映画は、確実に、私たちのリアルに近づきつつあることがわかる。

posted by ohashi at 22:38| 映画 | 更新情報をチェックする