2018年06月03日

『サバービコン』

ジョージ・クルーニー監督の映画は、あまり好きではなかったのだが、この映画にかぎっては、コーエン兄弟の脚本ということもあり、またアメリカではあまり評判がよくなかったようなのだが、じゅうぶんに面白い映画で、私のなかでの評価はきわめて高い。

マット・デイモン主演作としても、身長13センチになるという『ダウンサイズ』と較べてみると、なるほどマット・デイモンらしさは、こちらの映画にはないかもしれないが、いくら13センチになっても、周りの人間もみんな13センチではセンス・オブ・ワンダーも半減するし、しかも小さくなってから就く職業がランズ・エンドの通販の電話オペレーターというのは、何を考えているのかわからないし、最後にはノルウェーのフィヨルド(イブセンの芝居では狂気の淵源ともなる風景)がでてくるような映画『ダウンサイズ』よりは、『サバービコン』のほうがはるかに面白い。

日本のネット上には、アメリカでの不評をまにうけて、むりやり低い評価にしている馬鹿どもが多いのだが、『アイ、トーニャ』に出てくるような馬鹿な白人が主流になっているような現代のアメリカでの評価など、くそみたいなものだ。ただ1950年代へのノスタルジアがない人間が多いことも不評に一役かっているのかもしれない。

私は1950年代には日本で生まれ、アメリカにいたわけではないのだが、アメリカの50年代文化を多少遅れながらも追認していたことをこの映画で思い知った。この映画のなかでテレビのチャンネルを変えるリモコンを見たか? 

なつかしくて涙が出そうになった。大きな懐中電灯みたいなものでテレビ側の受光器に光をあててチャンネルをかえるもの。私の父は、家電メーカーに勤めていたわけではなくが、家電メーカー関連の仕事をしていて、いつも目新しい、あるいは珍しい新製品を買ってきた。そのなかにチャンネルを変えるリモコン(もちろんテレビについていたのだが)があった。大きな懐中電灯、それもピストル型で引き金がついている。引き金が点灯スイッチになっている。受光器は左右に分かれ、右側に光をあてるとチャンネルが右まわりに変わる。左側に光をあてると、チャンネルが左側に回る。私より上の世代の人たちがいたらぜひ聞いてみてほしい。それは我が家では一時期まちがいなく使われた。その後けっこう早くすたれてしまい、現在のリモコンが登場するまで、テレビにはリモコンがついていない時期がかなりあった。

ああ、憶えている人はいるだろうか。私も忘れかけていたが、映画のなかでマット・デイモンがそれをつかってテレビのチャンネルを変えていたので、急に記憶のなかから蘇った。

もうひとつ。テレビのコマーシャルで宣伝していた子供向けのおもちゃ。柔軟なプラスチックの糸でもなければ棒でも紐でもないのだが、楊枝大で、両端が丸くなっていて、そこで縦横上下、自由に連結できて、なにか適当な立体物みたいなものをつくるもの。とにかくそれが我が家にもあった。そんなに面白い組立オモチャではなかったが、また女の子用かもしれないのだが、さらに積極的に親にねだったり、親から買い与えられたりした記憶はないのだが、とにかくそれがあった。50年代のアメリカの人気の組み立ておもちゃだったとは。これもまた記憶の奥深くから蘇ってきた。

ここから本題。べつに玩具にかぎらないが、50年代のアメリカの玩具製品には、製品自体を手に取る、得意げな、もしくは満面の笑顔をたたえた男の子の写真やイラストが添えられていたものだ。ときには男の子ではなく女の子、さらには両親や兄弟姉妹などの家族の写真やイラストなどもあった。ああ、それがアメリカン。アメリカの恵まれた快適な生活を強烈に印象付けたものだ。

だが、今から思うと、まぎれもなくアメリカ人のファミリーだと思っていた宣伝用のイラストや写真、まさに良きアメリカンライフのアイコンともいうべきそれには、黒人や異人種はひとりも存在しなかった。存在しなかったばかりか、そうした明るいアメリカンライフにはあからさまな違法行為そのものであった黒人差別と迫害があった。古き良き50年代のアメリカンライフの繁栄のなかにある闇。それをこの映画は容赦なくえぐり出す。

繰り返すと50年代のアメリカンライフのアイコンとして広告などでつかわれていたアメリカンボーイズ&ガールズ。50年代幼年期を過ごした私が、文字通り、口から涎を流しながらあこがれてみていたアメリカンライフの一点の曇りもなき光輝く暮らし、はたして日本にいてあんな暮らしは出来るのだろうか、一生かかってもむりだろうと羨望の眼でみていたアメリカンライフ。それが黒人を卑劣かつ愚劣な扱いをして暴力的に迫害するクソ生活だったとは、いや白人だけの生活をとってみても、根底が腐りきっているファミリーライフだったとは。明るい50年代のクソ・アメリカン。こんな面白い映画はまたとない。

実際、映画は、最初、予告編では触れられていない展開をする。サバービコンに黒人家族が引っ越してきて、住宅街がざわつきはじめるところから映画ははじまるのだ。都市部での黒人との共存を逃れて郊外に白人だけの住宅地を造成して、そこで暮らすようになった中産階層の人々の世界に、黒人家族がやってくる。そしてそれを機に、街の人々が黒人家族を追い出そうと、露骨な嫌がらせをはじめる。やがて嫌がらせは度を越して、暴動にまで発展する(実際にあった事件にもとづいているとのことだが、類似の事件はやまのようにあっただろう)。お騒がせな黒人一家は、最後のほうでわかるのか、あるいは最初のほうでわかるのか記憶にないのだが、全米黒人地位向上協会/全国有色人種向上協会(National Association for the Advancement of Colored People, NAACP)が派遣した家族だとはっきり語られる。協会の目的は、騒動を引き起こして白人の暴力性を白日の下に曝そうということもあったかもしれないが、基本は、人種間の融和であろう。だが融和どころか、白人たちは、リスぺクタブルな黒人家族を前にして、敵意をむき出しにして、最後には野蛮人どころか動物のようになって、この家族に襲いにかかるのだ。

予想しなかった展開がここにある。となる予告編でみたマット・デイモン、ジュリアン・ムーア夫妻の話はどうなったのか。実は、この黒人一家のすぐ隣というか、裏庭をとおして接しているのがマット・デイモンの家族の家なのだ。この二つの家、この両家族をめぐる物語が、並行して進むといえばいいのだが、どこかでまじわるかと思うと、両家族の男の子は友情を結ぶものの、それ以外のまじわりはない。まじりあい方が弱い、ダブルプロット構造が不評の原因のひとつのようだが、シェイクスピア演劇の研究者からすれば、まじりあわない、あるいはまじりあいかたが弱いダブルプロットやトリプルプロットには、慣れ親しんでいるので、まったく違和感がない。むしろ片や剥ぐ解される黒人家族の物語。片や妻殺し保険金殺人などの卑劣で残忍な暴力の淵源となる白人中産階層家族の物語。その両者が空間的に並立していること、しかも強い結びつきがないまま、あるいはどちらの家族の大人たちも、隣家にまったく関心がないままに存在していることのなかに、限りないアイロニーと、限りない諷刺を埋め込んでいる。そこがなんともいえず面白いのだ。

これまでのジョージ・クルーニーの監督映画作品は、あまり好きではないと語ったのだが、それは丁寧にきちんと隙なく折り目正しく作られた映画であって、それゆにえ面白みがないかったのだ。

ただ今回は、その折り目正しさが、裏目にでるどころか、映画そのものを面白くしている。くそまじめぶり、あるいは融通の利かない折り目正しさは健在なのだが、物語内容がブラックなので、その落差が、ブラックコメディにぴったりなのだ。へらへら笑いながら、おもしろおかしいことを言うのと対照的に、まじめくさった顔をして、おもしろおかしいこと、ばかばかしいことをやったほうがインパクトは大きい。その意味で、折り目正しく、そつのないクルーニー映画が、こうしたブラックな内容の物語を展開することで、突如として面白くなる。今回は、べつにこれまでの語り口をかえていないのだが、内容が内容だけに、映画そのものがはじけている。とはいえ、これはまったくコーエン兄弟の世界といえば、そうなのだが。

最後に、これはいいことか悪いことか判断がつかないのだが、他の映画と連携しているところがある。ジュリアン・ムーアの一人二役は、大いに期待はずれだったトッド・ヘインズ監督の『ワンダーストラック』と同じだし、また夢の国=夢の住宅街とつながる点で、『キングスマン2』の彼女と同じである。あとひと昔の映画だが、『めぐりあう時間たち』でジュリアン・ムーアは、追いつめらえる50年代の主婦の役だった。またマット・デイモンにしても、夢の国=住宅街で暮らすところは『ダウンサイジング』と同じといえなくもない。

あと社会風刺は人種差別のところ以外でも強烈である。リュック・ベッソンの『ヴァレリアン』では、買い物目当てにやってくるツアー客がヴァーチャル・リアリティのショッピングモールで、気づくと、いや最後まで気づかないまま、ほんとうにガラクタを買わされているという現代の消費資本主義社会への強烈な諷刺があって、たぶんアメリカでは受けないだろうと思うのだが、それと同じような諷刺が『サバービコン』にもある。疑いをもった保険調査員を殺そうとして、コーヒーにほんのちょっとだけ洗剤を入れたら、その調査員が塗炭の苦しみにあえぎはじめるというのは、いかに日常的に使っている食器洗いようの洗剤が毒物なのかを批判する強烈な諷刺だろう。そのあたりで、きわめてやばい諷刺をしている。もちろんこの映画は、トランプ政権の政策を強烈に諷刺いや真正面から批判しているため、アメリカのネトウヨから嫌われるだろう。そのあたりに不評の原因があるのかもしれない。私にとってはお薦めの映画である。


posted by ohashi at 23:41| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年06月02日

『万引き家族』

先行上演をみてきた。


むかし『父になる』公開時に、福山雅治がテレビのインタヴューに答えているなかで、子役とリリー・フランキーと共演してはいけないと言われている、子役やリリー・フランキーがみんなもっていってしまうからと、冗談として語っていたことを思い出した(「リリー・フランキー」がジャンル名になっているのがおかしいのだが)。


今回の映画も、ある意味で同じで、子役とリリー・フランキーと安藤サクラが全部持っていった映画だった。いや、樹木希林や松岡茉優が生彩がなかったということはまったくなくて、強い存在感を発揮していたが、今回はリリー・フランキーや安藤サクラが得たような強い見せ場がなかっただけにすぎないのだが。


今上演中の『ゲティ家の身代金』(リドリー・スコット監督)と比べると、貧富の差は唖然とするものがあるが、同時に、孫の身代金を節税対策に使うようなクズ富豪にくらべると、貧乏家族のほうがはるかに暖かい愛に満ちている。まあ、どちらの映画も、トランプ政権批判や貧困層を生む格差制作批判の映画であることはまちがいないだろう。


万引き家族というのは、万引きで生業をたてているという意味のほかに(実際には、万引きは生活のごく一部にすぎない)、もうひとつの意味があることがわかった。ネタバレになるので、今日はここまでしか言えないのだが。

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posted by ohashi at 20:49| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年05月04日

『娼年』

石田衣良原作の『娼年』は2016年に三浦大輔演出で舞台化されたのだが(はずかしながら、その舞台は見ていないのだが)今回、三浦大輔脚本・監督で映画化された。映画を見ていると、もとが舞台とは思えないのだが、セックスシーンは室内なので、つまりは舞台を室内に見立てれば、セックスの相手は変わっても同じ空間できる。なるほど、もとが舞台であるということは納得できる。


内容にしても娼夫となった男性が、客としての女性と接触するなかで、欲望の多様さにめざめていくという展開は、映画では、女性との接触場所が、東京の主要な繁華街にわたるというか空間的広がりがあるので、変態的欲望のアナトミー(百科全書的形式)へと進んでいくかと思うものの、主人公にとって死んだ母親の存在が、変態的欲望空間のスクロールを統御する中心的存在(もしくは不在)となることで、物語を時間軸で締めてゆく構成も見事で、面白い映画だった。


エロいことは言うまでもなく、映画館でみんなでセックスシーンをみるのは、ちょっとはずかしい。家で家族とみるのもはずかしい。いずれdvd、ブルーレイで独りで視聴するのがベストかと思うのだが、エロい映画は好きなので、私としては評価が高い。AVではごくふうつうなのだが、精液がしっかり見える(AVにおける、いわゆるぶっかけ)のは、一般映画では、けっこう珍しいことではないかと思う。


最近、授業では『ロミオとジュリエット』を読んでいるのだが、私は授業では教員も学生も、ともに参加者からアイデアをもらうことを目的とすべきだと常々語っている。教員にとって学生が常に示す独創的アイデアは、学生自身のポテンシャルを発展させる起点となるとともに、研究者でもある教員にとって、自分の研究の新たな展開の契機となってくれるもので貴重なことこのうえない。教員は学生からも学ぶことが多いのであって、教員とは威張ったり学生を威嚇することだと勘違いしているバカがときどきいるのだが、幸い、私の同僚には、そういうバカはほんとうにいないのでうれしく思っている(むしろ教員ではなくて、学生のなかに、それも……)。


閑話休題。で、学生の優れた指摘のなかに、『ロミオとジュリエット』のなかでgreenという形容詞の使い方に関するものがった。シェイクスピアの用法では、greenは新鮮とかフレッシュとか若さ、未熟さ、無垢などという予想できる用法のほかに、green sicknessという萎黄病とか腐乱した死体の色を暗示する用例がある。そして、このふたつの用法の接点として、埋葬されてまもないというとき、シェイクスピアはgreenを使っている。新鮮さ、まもないこと、古くなっていないこと、そして黄色く、あるいは蒼白く変色した死肉の色。おそらくこのふたつは生と死の合体として、『ロミオとジュリエット』をつらぬいている。Greenはこの劇の色でもあるのだ。若さ、未熟さ、無垢、新鮮、蒼白、萎黄病、死肉……。


『娼年』の舞台とは違うところは、すぐにわかる。画面の青が強い。北野武映画の北野ブルーよりも、もっとどす黒い、青というよりも藍色いや紺色、それも黒がまざってどす黒い紺色が画面を支配する。冒頭の性行為シーン。裸で抱き合う人間の肉体。そこでは肌色を起点に暖色が展開するようにみえて暖色は皆無。人間の身体の影の部分が、青黒くみえる。そのため絡みあう男女の身体が青黒い影をもった青ざめた肌の色となる。それは黒い黄色でもあり、黒い緑色でもあり、よごれた青あるいは紺色であって、死体の色である。性行為、エロスが、生を志向するどころか、タナトスの青黒さに染め上げられているのだ。


おそらくこの青黒さは、主人公の売春行為が引き寄せる闇の世界を意味しているのだろう。こちら側、昼の世界、堅気の世界と、主人公がその住人となったともいえる夜の闇の世界、違法と欲望の世界、主人公の行動は、その性行為をとおして、昼から夜へと至る。それはまた青黒さ、どす黒い影が、身体にからみつき、東京の繁華街がどす黒く染め上げられる過程として生起するといえるかもしれないが、同時に、身体が死体かしていることの暗示もあるのだ。


追記

私がはじめて宝塚市の宝塚劇場に行ったのは、真飛聖の引退公演だった。ベルばらのスピンオフ作品だったが、あるときテレビで真飛聖が出演しているドラマをみて、引退公演のことを思い出した。以後、彼女の出演している映画とかドラマをよく見るようになった。実は三浦大輔演出の『娼年』が東京芸術劇場のプレイハウスにかったとき、その前か後のプレイハウスでミュージカルの『マイフェア・レディ』を上演していた。イライザは、ダブル主演だったが、私は迷わず真飛聖版のイライザを選んだ。今回、舞台版で高岡早紀が演じた役を、映画では真飛聖が演じている。別に追っかけでもファンでもないが、彼女のパーフォーマンスを見る機会を得たのはよかった。


posted by ohashi at 09:51| 映画 | 更新情報をチェックする