聖大アントニオス(ギリシア語: Αντώνιος, ラテン語: Antonius、251年頃 - 356年)、あるいは大アントニオ
麦角菌・中毒・丹毒・脱疽を中世ヨーロッパで「聖アントニウスの火」と呼んだ。大アントニオスに祈ることで治癒されると信じられていたからである。Wikipedia 「大アントニウス」の項目より。
聖セバスティアヌス(Sebastianus, 伝承による没月日287年1月20日)
セバスティアヌスは黒死病から信者を守るといわれてきた。『黄金伝説』によれば、グンブルト王時代にロンバルドを黒死病の大流行が襲った際、パヴィア地方にある聖ペテロ教会で聖セバスティアヌスの祭壇を建立したことで、流行が止んだという。Wikipedia「セバスティアヌス」の項目より。
しかし、この二人の聖人には、病から守ってくれるほかに別の面がある。セバスティアヌスはいうまでもなくゲイの聖人であり、アントニウスは、数多の誘惑の標的となったのだが、ひいてはそれが、仏教用語だが、数多の内なる煩悩をかかえていることにもなり、その煩悩のなかには同性愛的なものも含まれる。もしアントニウスが志操堅固な人物だったら、あれほどの誘惑の魔の手が及ぶことはなかっただろう。その性格にはどこかもろいところがあり、そこにつけこまれたと考えられるのである――たとえ最後には誘惑に打ち勝つとしても。もちろん、その性格のもろさや弱さは、美点でもあって、心優しきアントニウスは、献身的に相手につくす、たとえどんなに裏切られても、また自己犠牲を厭うこともない。
この強さと弱さを兼ね備え、愚かでもあるが、同時に哀れを誘うところもあるというアントニウス像は、その後、多くの文学的・演劇的人物像の雛型となった。たとえば、クレオパトラにどれほど裏切られようとも、彼女への愛を貫き、最後には彼女のために身を亡ぼす人物にはアントニウスの名前が付けられた(シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』)。
あるいは友人の結婚のために、その費用を用立てるためにユダヤ人の高利貸しから金を借りるが、金が返せなくなったとき、担保として肉一ポンドを切り取られそうになるヴェニスの商人はアントニオという名前だったではないか、そしてその友人の名前はバッサーニオ――この名はセバスチャンの変型(シェイクスピア『ヴェニスの商人』)。身を滅ぼしそうになる心優しきアントニオこそ、アントニオの名前にふさわしく、また戯曲は、アントニオとバッサーニオ/セバスチャンの間に同性愛的感情があることを暗示している。
シェイクスピアの『テンペスト』にはアントニオとセバスチャンのペアが登場している。アントニオはミラノ公爵プロスペロの弟であり、セバスチャンはナポリ王の弟である。プロスペロを追放してその後釜にすわったアントニオは、セバスチャンに対し自分を見習って兄のナポリ王の命をとれとそそのかす。この二人の間にはとくに同性愛的感情は認められないのだが、戯曲が、この二人にアントニオとセバスチャンという役名をつけたとき、この悪人二人組は、ゲイカップルといえるほどの似た者同士だというヒントをあたえているのである――演技者たちに、そして戯曲の読者に。
アントニオとセバスチャンのペアが、アントニオの片思いというかたちで同性愛性を獲得するのが『十二夜』である――とはいえ、私の見たある舞台では、二人が最初に登場するとき、同じひとつのベッドに寝ているという、エクスプリシットな同性愛性を誇示していたのだが。
アントニオは、愛するセバスチャンを助けるべく決闘の場に割って入ることで出身地がばれ捕まってしまうのだが、そのセバスチャンは、双子の妹ヴァイオラが変装したもので、セバスチャンその人ではないため、当然、アントニオが誰だかわからない。そのため、突然現れて自分を助けてくれたアントニオから、預けた金を返してくれと求められても、なんのことかわからない。いっぽうアントニオは助けたセバスチャンに裏切られたと感じ嘆き悲しむ。それをみてヴァイオラは、双子の兄がこのイリリアの国に漂着したのではと推理する――なんと利発なヴァイオラ。いっぽうアントニオは誤解によって絶望するしかない。このアントニオは、ある意味愚かだが、同情する余地もあり、哀れを誘う男でもある。まさにアントニオの典型なのである。
『役者になったスパイ』(Moskau Einfach!, 2020)は、主人公の捜査官シュエラーが、船乗りのヴァロといなって、エキストラとして劇団に入り込み、『十二夜』のリハーサルに参加するが、急遽、アントニオ役を担うことになる。シュエラー → ヴァロ → エキストラ → アントニオと変遷してゆくなかだ、最後にアントニオという、主人公にもっともふさわしい名前、あるいは主人公の真のアイデンティティに到達するのである。事実、この映画は、アントニオ物の映画として称賛されてもいい――不運で、愚かで、一途な思いを抱き、試練にあい、絶望し、またかくしていた正体もあばかれ、愛する者からもうとまれる、哀れを誘うアントニオ的人物に、この映画の主人公はもののみごとになりおおせている。
ただし、恋愛対象が、同性の男性ではなく、女性であることによって、シェイクスピアの原作を愚劣な異性愛中心主義によって踏みにじっている。よりにもよってアントニオとセバスチャンのペアを登場させ、アントニオのエクスプリシットな同性愛的感情を明確にし、また伝統的アントニウス・セバスティアヌスのゲイ・カップルという設定にしている原作に、シェイクスピアに、敬意のひとかけらも示さないとは。
『十二夜』のジェンダー解釈は、異性愛的解釈を支持しているようにもにみえる。すなわち、最初、イリリアの為政者オーシーノ公爵は、貴族の女性オリヴィアに求婚しても、はねつけられる。そして男たちに囲まれた宮廷で、果たせぬ恋の思いに苦しんでいる。いっぽう、オリヴィアは、死んだ兄の喪に服し(それが求婚を拒否する理由でもある)、女たちに囲まれた館に引き籠っている。かたや公爵を中心とする男性ホモソーシャル集団。かたやオリヴィアを中心とする女性ホモソーシャル集団。そこにイリリアに漂着したヴァイオラが男装して公爵に仕えることになり、公爵とオリヴィアとの仲をとりもつことになる。
最終的に公爵は、その男性ホモソーシャル集団を解体して、ヴァイオラと結婚することになる。いっぽうオリヴィアも、ヴァイオラの双子の兄セバスチャンと結婚することになり、オリヴィアをとりまく女性ホモソーシャル集団も解体する。人間の成長過程において、子供の頃は同性との親密な関係を構築し、そこに安住するが、いつしか異性への愛にめざめることで成長をとげる。同性(愛)関係から異性愛関係への移行があるべき望ましい正常な変移であって、戯曲はその達成を言祝いでいるようにみえる。
だが公爵は、女性としてのヴァイオラというよりも男装していたときのヴァイオラを愛し、その同性愛的感情を結婚によって確保するかにみえる。いっぽうオリヴィアも、最初男装したヴァイオラ、つまり(変装した)女性っぽい男に一目ぼれをしてしまうのだが、最終的にヴァイオラの双子の兄セバスチャンと結ばれることによって、結局、(生物的に)女性っぽい男性と結ばれることになるのだが、それによって女性的男性への愛は消滅することのなく温存されるのである。
つまり同性愛的欲望から異性愛の世界への変遷は、実は、変遷でもなんでもなく、同性愛的欲望は、異性愛関係にも、パッシングして入り込んでいるのである。異性愛は同性愛を否定するのではなく、同性愛の隠れ蓑になってしまう。ヘテロセクシズムの機能不全あるいは機能転換こそが、この戯曲の主題そのものなのである。
だからこそ、おなじみのアントニオとセバスチャンのペアを登場させ、そこに明確な同性愛的感情の発生を促すことで、同性愛的テーマを通奏低音のごとく響かせたということができよう。
これを絶対に認めたくないヘテロセクシズム映画が、全力をあげて、同性愛的的テーマを抑圧しにかかったのである。これがスイスなのである。
