2018年06月17日

『ダークサイド』

『ダークサイド』Looking Glass

この映画も『リディヴァイダー』と同じくらい評判が悪い。とはいえ映画館では最後まで緊張しながら見ていたし、退屈で寝てしまうような映画ではなかった(実は派手に寝ている観客がいたのだが、それは映画のせいではなく、私のせいです)。


ニコラス・ケイジ主演によるサイコスリラー。幼い娘を事故で亡くした夫婦、レイとマギー。2人は新生活を求め、田舎のモーテルを買い取り経営を始める。そんなある日、レイは倉庫の奥で10号室へと続く隠し通路を発見。女2人の禁断プレイを覗き見してしまう……。共演は「バーティカル・リミット」のロビン・タネイ、「ナイト&デイ」」のマーク・ブルカス、「旅するジーンズと19歳の旅立ち」のアーニー・ライブリー。監督は「コントロール(2004)」のティム・ハンター。


ロビン・タネイは、ふつう「ロビン・タニー」と表記されている。映画会社の人間も、たまにはアメリカのテレビドラマをみたほうがいい。ロビン・タニーついて、いまでは誰も覚えていない映画『ヴァーティカル・リミット』を引き合いにだしてもわかるはずがない。むしろテレビ・ドラマ・シリーズ『メンタリスト』のリスボン捜査官といえば、すぐにわかる人が多いのではないだろうか。それでもわからない人は、まあ、この映画をみることもないでしょう。


とはいえべつにロビン・タニー目当てで映画をみにいったわけではない。むしろ彼女目当てで見に行くと、失望していたかもしれない。強気の女というイメージは踏襲しているのだが、もう少し、彼女のオーラがにじみ出るような演出なり映画展開を用意してはどうかとも思った。


ニコラス・ケイジの役は、ロビン・タニーの夫で、田舎町のモーテルの経営者。モーテルの経営者といっても雑用は全部ひきうけ、ときには部屋の掃除までもする、働きづめの職業であって、その働きぶりは、『カリフォルニア・プロジェクト』のウィレム・デフォーに匹敵するといったらいいすぎか。もちろん問題もかかえているのだが、そうか、いまわかったのは、この映画の予告編(衛星放送のスターチャンネル無料版の上映中映画の宣伝番組における)をみたからである。


この予告編、この映画が大作でもなければ傑作映画でもないが、良質のサスペンスホラー映画であることを告げていた――ように誰もが思うはずだ。この予告編、見れば、多くの人の足を映画館に運ばせるはずだ。実際、この予告編は、期待を大きく膨らませてくれる。映画の半分以上を、いや終盤にいたるまで、期待のたかまりが持続して、飽きることがない。いまに、とんでもないことが起こる、いまに、巨悪が暴かれるのではと、期待が決してしぼむことがないまま、気づくと終わっている。え、これで終わりか。結局、1時間30分か2時間くらいのテレビドラマ程度の映画だったとわかるのである。単発のテレビドラマだったとしら、まあ許されるでしょう。ニコラス・ケイジがでていても、こぶりな映画だったということか。


では、期待値のマックスはどれくらいのものかというと、ロビン・タニーは、調べると、ララ・フリン・ボイルと幼馴染だったらしい。そう、ララ・フリン・ボイル。ことによるとこの映画は『ツイン・ピークス』みたいな不気味な映画になるのではという期待はどこかにあった。実際、この映画の出来事から『ツイン・ピークス』みたいな映画あるいは連続ドラマはできそうな気がしたのだが。



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2018年06月07日

『リディヴァイダー』

新宿のシネマカリテでは定期的というか、断続的にというか、面白いSF映画を見せてくれる。昨年はフョードル・ボンダルチューク監督の『アトラクション 制圧』 (2017)で、度肝を抜かれたのだが……。とはいえ興奮したのは最初のほうだけで、中盤から後半にかけては、アメリカの青春不良映画のフォーマットどおりに話が進んで落胆したことも事実だし、あと、ロシアにもヘイトグループが存在しているらしいことがわかり面白かった(ああ、愚かさに国境なし!)。


今回の『リディヴァイダー』Kill Switch(2017)は、超大映画とか、あるいは賞をとるような映画でもないが、まあ面白かった。知っている俳優は主人公のダン・スティーヴンスだけで、低予算映画ながら、ここまでのCGをつくりあげる点、驚くべきものがある。悪夢的なシュールな映像(空から突然、列車が降ってきて、目と鼻の先の地面に激突する)と、POVが一人称になっている映像の面白さ(ああ、この映画でもまた主役のダン・スティーヴンズ、『美女と野獣』のときと同じで、素顔が映画に露出する時間が少ない)で、けっこう楽しめる映画である。


ある映画紹介を、そのまま引用すると


「美女と野獣」やテレビシリーズ「レギオン」で注目されるダン・スティーブンスが主演し、主人公の一人称視点を取り入れて描いたSFアクション。現実の地球と、地球をコピーして作り上げた複製世界が舞台となり、現実の地球では通常の客観映像、複製世界では主人公の一人称映像が用いられている。エネルギーの枯渇が大きな問題となっている近未来。人類はコピーしたもうひとつの地球「エコーワールド」からエネルギーを得ることで、問題を解決しようとしていた。しかし、2つの世界をつなぐタワーの暴走により各地で異常事態が発生。地球は崩壊の危機に陥ってしまう。人類は元NASAのパイロット、ウィルをエコーワールドへと送り込むが、そこには荒廃した世界が広がっていた。


もうひとつの地球というか宇宙をつくる。そこからエネルギーをもらってくる。もうひとつの宇宙は有機体は生存しておらず、エネルギー資源は取り放題である(そう資源としてではなく、エネルギーとして地球に転送するということは、どういうことなのかと今気づいた)。たとえていえば私がなんらかの内臓器官を病むとする(損傷するといってもいい)。そのとき私は自分のクローンを急遽つくり、そのクローンから臓器をもらうというようなことだ。自分から輸血したり臓器をもらうわけだから、拒否反応はない。これぞほんとうの「私を離さないで」ということになるが。


ところが、もしもうひとりのクローン人間の私が病気になってしまうと、臓器を移植するにしても、病んだ臓器を移植することになる。この解決策は、クローン人間から臓器をとることをやめること。それで終わりなのだが、もし私とクローン人間とがシャム双生児のようにつながっていたら、そのとき片方が病気になれば、もう片方も病気になって、シャム双生児は共倒れになる危機が生ずる。となると半身を切り離すしかない(萩尾先生の『半神』の世界じゃい)。


シャム双生児というのはこの映画のなかでも使われるキーワードで、どういうわけか、二つの世界がシャム双生児みたいにつながることになり、片方に異変が起こると、もう片方も影響を受ける。そのため二つの世界の切り離し、あるいは片方の破壊ということが必要になる。


そう破壊。しかしエネルギー危機を救うためにエコーワールド(クローン宇宙といってもいい)をつくり、そこからエネルギーを転送するとき、一対の巨大な塔が転送装置となるり、この一対の巨大な塔が、人類の希望として稼働しはじめると異変が起こりはじめるので、そうなれば一対の塔の稼働を停止するか破壊すれば、人類は助かるのである。それで終わり。


ところがこの映画では、主人公が、もう一つのエコーワールドに行き、そこで、一対の塔のスイッチを切る(原題Kill Switchは、そういう意味である)。だが、なぜエコーワールドのスイッチを切るのか。こちらのスイッチを切れば済む話ではないか。


いやメキシコからの移民対策としていくら高い壁をつくっても防げないのと同じで、こちらのスイッチをきっても、むこうのスイッチを切らないかぎり、エネルギー流入はとまらないということらしい。どうもシャム双生児のイメージでふたつの世界を考えずにはいられないようなのだ、この映画は。


そのため主人公はこちら側からエコーワールドへと転送され、エコーワールドでの一対の塔のエネルギー転送をとめる装置を携え、任務を遂行することになるのだが、エコーワールドは有機体は存在しないはずだったのが、こちらの世界とうり二つの世界となっていて、人間も文明も存在している。ちがうのは文字の左右が逆になっていること――つまり世界とエコー世界は、鏡像のような関係にあることがわかる。しかも、エネルギー会社の最高責任者も、また主人公の同僚たちも、主人公を支援する者もいるが、多くは主人公のミッションを阻止しようとするのである。これはいったいどういうことか、私の頭のほうが、エネルギー転送装置よりも先に機能を停止してしまう。


だから早めに映画の物語から離れ、映像に肉薄したほうがいいだろう。


もうひとつの地球が、太陽を中心とする対角線上の端と端に位置していて、たがいに相手の存在を感知できないのだが、たまたま一方の地球から、もう一方の地球に宇宙飛行士がやってくるという映画が、20世紀にあったし、21世紀になってもリメイクで作られたような気がする。その映画で宇宙飛行士が体験する疎外感・孤独感――ありふれた地球の日常のようでいて、実は、ちがっていることからおこる違和感と絶望――を前面に押し出す映画となるかというと、そうでもない。


物語の流れは、エコーワールド転送された主人公の体験に寄り添いつつ、なぜこのエコーワールドに送り込まれることになったのか、フラッシュバック的に事情を説明する映像が断続的に入るかたちをとり、物語の後半というか終わり近くになると、全体像がみえてくるということになる。その際、なぜ、このエネルギー危機を乗り越える方策が破綻したのか、エネルギー企業が嘘をついていたのでは、この世界のはどうなってしまうのかという、世界あるいは宇宙のありようについての考察は語られることなく、主人公の過去の思い出が語られるだけで、観客もこの流れに乗るしかない。


この映画の特徴は、エコーワールドへ転送される主人公の体験は一人称映像POVで語られることだ。主人公の視界と観客の視界が同じとなる。そしてその視界に、コンピューターによる音声情報と文字情報が入る。これは主人公がなんらかの装置を頭に装着していて、その装置を通してみた現実の姿、ならびにその装置が視界に展開する文字情報ということになる。それは面白い。しかも主人公が、ヘッドギアをなくしたり、こわされたりしても、視界は、一人称のままなのである。とにかくエコーワールドでの体験を一人称版映像にしたかったということだろ。そうなると主人公の顔がわからない。そこで、回想シーンをもってきて、そこでは三人称映像とすることで、主役の顔が最後まで分からない異常事態を避けたことになる。


ただ、この一人称映像は面白い。主人公が戦ったり攻撃したりするときは、まさにゲーム感覚で映像をみていられる。しかし、同時に、主人公は、元宇宙飛行士の物理学者という設定なので、戦う戦士ではない。むしろ最初は事情がわからず逃げ回る。また戦うシーンよりも逃げるシーンのほうが多い。敵に背をむけて走る。後ろから銃撃される。私の傍を銃弾がかすめ去る。私の逃げていく前方に着弾して煙があがる。これがなんともいえぬほど、怖い。戦場での臨場感がある。つまり戦場では戦うにせよ、逃げるにせよ、運まかせである。自分の運の良し悪しへ賭けるしかないという無力感と絶望と祈り。まさにこれが戦場のリアルではないかと思えてくるのである。


あと主人公が負傷すると、映像が、あなたはダメージをうけています、医療機関で治療する必要がありますというような表示が出る。アクション映画では、主人公は、けがをしても死なないどころか、無敵である。不死の存在として生きる。アクション映画には、皮肉なことに、肉体は存在しないのである。この原則を一人称映像POVは守る。あなたは負傷しましたと情報が出ても、その情報の受け手である主人公の視界を共有する観客は、いたくもかゆくもないのである。そして一人称映像から判断して、どうやら主人公は死んだらしいと判断する。死すらも、実感できないのである。この痛みなき、死ぬことのない肉体こそ、アクション映画の肉体そのものなのである。


最後に、いまのこととも関連するのだが、この映画を見終わって、都市の雑踏のなかを歩くと面白い。自分が観ている都市の風景が、一人称映像POVを見ているように思えてくる。そして歩行者の間を、いつもよりも速足で、すいすいと抜けていく、自分、そのスピーディーな一人称映像を実現している自分を発見するのである。


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posted by ohashi at 07:34| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年06月04日

『孤狼の血』

アントニー・フクワ監督の『トレーニング・デイ』も、同じく、ベテラン刑事と新米刑事とが組んで所轄内をパトロールする話で、デンゼル・ワシントンがベテラン先輩刑事、新米刑事がイーサン・ホークという顔ぶれだったが、デンゼル・ワシントンがとんでもない悪徳刑事であって、正義感の強い新米刑事は、ずっとデンゼル・ワシントンにふりまわっされぱなしという映画だった。フクワ監督とデンゼル・ワシントンはよく組んで映画を作っている。そのためでもないが、デンゼル・ワシントンは、悪徳刑事だが、ただの悪徳刑事ではなく、なにか裏があるのではなと、見る側は常に期待しているのである。

たとえばデンゼル・ワシントンは潜入捜査官のような存在で、ギャングからわいろをもらっても、最終的に闇社会の黒幕を暴くチャンスを虎視眈々と狙っているのではないか。あるいはそういう裏はなく、以前、有能な正義感あふれる刑事だったデンゼル・ワシントンが、なぜいまのような悪徳刑事になりさがったのか、そこには涙なしには語られない、あるいは聞くことができない深い事情があるのかもしれない。と、まあこんなことを考えながら映画をみていた。おそらく誰もが。しかし、映画は最後の最後にいたっても、深い事情は語らず、またデンゼル・ワシントンも、実は潜入捜査官だったと本性をあらわすことはなかった。つまり彼はたんなる悪徳警官であって、死んでおかしくないような存在だったのだ。

実はこれには驚いた。そうなると映画はカタルシスゼロではないのだろうか。実際、ゼロで、デンゼル・ワシントンの悪ぶりを見るだけで終わった。

いっぽう『孤狼の血』は、役所宏司演ずる悪徳警官が、たとえ汚職警官の汚名を着ようとも、すべて計算づくで暴力団の世界が動かしていたことが、最後にわかる。かつて『ある天文学者の恋文』という映画では、天文学者が死後、自分の若い恋人に、自分がまだ生きているかのように、彼女の行動を監視し先回りし助言をあたえるようなメモを残す。ほんとうは死んでいないのではと思わせるような配慮と計画のなか、それがすべて天文学者の緻密な計算のもとに、恋人の行動を予測し、彼女が、天文学者の死を乗り越えていくように導く計算をしていたことがわかる。それは彼女の行動を、一秒も違わぬかのように予測する驚異的な計算であったのだが、それと同じことが、この映画でも起こる。

役所広司扮する刑事は、暴力団の抗争を抑えきれない事態が発生した場合、みずからを犠牲にしつつも、抗争の広がりを未然に収束させるような計画を綿密にねっていたことが最後にわかり、彼を軽蔑していた、正義感あふれる若い刑事(松坂桃李)を驚かせる。

その意味で、残酷な暴力描写が多い映画なのだが、社会のどうしようもない闇を観たというよりも、むしろ闇を照らす光の明るさに爽快感すら覚えるような、カタルシスのある映画だった。

むしろそこにやや不満が残るということはいえるかもしれない。


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posted by ohashi at 07:09| 映画 | 更新情報をチェックする