2018年05月04日

『娼年』

石田衣良原作の『娼年』は2016年に三浦大輔演出で舞台化されたのだが(はずかしながら、その舞台は見ていないのだが)今回、三浦大輔脚本・監督で映画化された。映画を見ていると、もとが舞台とは思えないのだが、セックスシーンは室内なので、つまりは舞台を室内に見立てれば、セックスの相手は変わっても同じ空間できる。なるほど、もとが舞台であるということは納得できる。


内容にしても娼夫となった男性が、客としての女性と接触するなかで、欲望の多様さにめざめていくという展開は、映画では、女性との接触場所が、東京の主要な繁華街にわたるというか空間的広がりがあるので、変態的欲望のアナトミー(百科全書的形式)へと進んでいくかと思うものの、主人公にとって死んだ母親の存在が、変態的欲望空間のスクロールを統御する中心的存在(もしくは不在)となることで、物語を時間軸で締めてゆく構成も見事で、面白い映画だった。


エロいことは言うまでもなく、映画館でみんなでセックスシーンをみるのは、ちょっとはずかしい。家で家族とみるのもはずかしい。いずれdvd、ブルーレイで独りで視聴するのがベストかと思うのだが、エロい映画は好きなので、私としては評価が高い。AVではごくふうつうなのだが、精液がしっかり見える(AVにおける、いわゆるぶっかけ)のは、一般映画では、けっこう珍しいことではないかと思う。


最近、授業では『ロミオとジュリエット』を読んでいるのだが、私は授業では教員も学生も、ともに参加者からアイデアをもらうことを目的とすべきだと常々語っている。教員にとって学生が常に示す独創的アイデアは、学生自身のポテンシャルを発展させる起点となるとともに、研究者でもある教員にとって、自分の研究の新たな展開の契機となってくれるもので貴重なことこのうえない。教員は学生からも学ぶことが多いのであって、教員とは威張ったり学生を威嚇することだと勘違いしているバカがときどきいるのだが、幸い、私の同僚には、そういうバカはほんとうにいないのでうれしく思っている(むしろ教員ではなくて、学生のなかに、それも……)。


閑話休題。で、学生の優れた指摘のなかに、『ロミオとジュリエット』のなかでgreenという形容詞の使い方に関するものがった。シェイクスピアの用法では、greenは新鮮とかフレッシュとか若さ、未熟さ、無垢などという予想できる用法のほかに、green sicknessという萎黄病とか腐乱した死体の色を暗示する用例がある。そして、このふたつの用法の接点として、埋葬されてまもないというとき、シェイクスピアはgreenを使っている。新鮮さ、まもないこと、古くなっていないこと、そして黄色く、あるいは蒼白く変色した死肉の色。おそらくこのふたつは生と死の合体として、『ロミオとジュリエット』をつらぬいている。Greenはこの劇の色でもあるのだ。若さ、未熟さ、無垢、新鮮、蒼白、萎黄病、死肉……。


『娼年』の舞台とは違うところは、すぐにわかる。画面の青が強い。北野武映画の北野ブルーよりも、もっとどす黒い、青というよりも藍色いや紺色、それも黒がまざってどす黒い紺色が画面を支配する。冒頭の性行為シーン。裸で抱き合う人間の肉体。そこでは肌色を起点に暖色が展開するようにみえて暖色は皆無。人間の身体の影の部分が、青黒くみえる。そのため絡みあう男女の身体が青黒い影をもった青ざめた肌の色となる。それは黒い黄色でもあり、黒い緑色でもあり、よごれた青あるいは紺色であって、死体の色である。性行為、エロスが、生を志向するどころか、タナトスの青黒さに染め上げられているのだ。


おそらくこの青黒さは、主人公の売春行為が引き寄せる闇の世界を意味しているのだろう。こちら側、昼の世界、堅気の世界と、主人公がその住人となったともいえる夜の闇の世界、違法と欲望の世界、主人公の行動は、その性行為をとおして、昼から夜へと至る。それはまた青黒さ、どす黒い影が、身体にからみつき、東京の繁華街がどす黒く染め上げられる過程として生起するといえるかもしれないが、同時に、身体が死体かしていることの暗示もあるのだ。


追記

私がはじめて宝塚市の宝塚劇場に行ったのは、真飛聖の引退公演だった。ベルばらのスピンオフ作品だったが、あるときテレビで真飛聖が出演しているドラマをみて、引退公演のことを思い出した。以後、彼女の出演している映画とかドラマをよく見るようになった。実は三浦大輔演出の『娼年』が東京芸術劇場のプレイハウスにかったとき、その前か後のプレイハウスでミュージカルの『マイフェア・レディ』を上演していた。イライザは、ダブル主演だったが、私は迷わず真飛聖版のイライザを選んだ。今回、舞台版で高岡早紀が演じた役を、映画では真飛聖が演じている。別に追っかけでもファンでもないが、彼女のパーフォーマンスを見る機会を得たのはよかった。


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2018年04月08日

『しあわせの絵の具』

サリー・ホーキンズの演技は、『シェイプ・オブ・ウォーター』よりもすごいという評価がネット上にみられるのだが、それには同感だが、ただ、この映画、2015年に撮影され、2016年完成し、2017年にアメリカでも公開された映画であって、こちらほうが古い。そして、この演技から『シェイプ・オブ・ウォーター』の主役へと展開したのではないかと思う。また『しあわせの絵の具』も、『シェイプ・オブ・ウォーター』がアカデミー賞にノミネートされ受賞しなかったら、日本で公開されなかったかもしれないので、アカデミー賞にただただ感謝。


監督のアシュリング・ウォルシュは、サリー・ホーキンスとTVドラマ『荊の城』(2005)以来だが、『荊の城』は、テレビドラマ版のDVDももっているし、韓国版のリメイク(『お嬢さん』)もブルーレイをもっている(うかつにも劇場公開時に観に行くチャンスを逸した)。だからサラ・ウォーターズ原作もテレビドラマ版も映画版も好きな作品なのだが、そのテレビ・ミニシリーズ版の監督がアシュリング・ウォルシュだとは知らなかった。まあ個人的な好みで、今回の映画とは関係がないが。


映画の最後のエンドクレジットで、実際のモード・ルイスに取材したときのテレビ番組のモノクロ映像が少し流れる。実際の彼女は、サリー・ホーキンズとは似ていないのだが(似ているような表情をみせるときがあるにしても)、顔がアップになったとき、幸せそうな表情をしていて圧倒される。障害をかかえての彼女の人生は、恵まれたものではなくて、苦労の連続で、悲痛な出来事にも事欠かなかったのだが、また無骨で感情表現が下手で暴力的でもあった夫とのつましい生活も陽気な笑い声のたえない雰囲気とは無縁の陰気なものだったように思うのだが、しかし彼女は幸福だったとわかる。そこで思わず涙が出てきた。このエンドクレジットでほんとうにスイッチが入る。号泣の上級者の姪(44日の記事参照)といっしょに見なくてよかった。

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2018年04月04日

『ボス・ベイビー』

観客はたくさん入っているようだが、『リメンバー・ミー』といったアニメに比べると、評価がやや低い。ふたつを見た数人に聞いたところ、両方とも面白いという意見から、『ボス。ベイビー』は面白かったが、それほど感動はしなかったという意見にわかれた。とはいえ統計的信憑性はない。聞いたのは3人だから。

『ボス・ベイビー』は、最後に2017年3月に至る(つまり米国での公開時になる)。ということはこの物語は、現時点から30年くらい前の出来事である。空港ではDC10 が飛んでいたという指摘があった(DC10 は知っているし、いまでは飛んでいないが、それは完全に見落としていた――ヒコーキ・ファンとしては残念)。たぶん出てくるおもちゃにも1960年代あるいは70年代に流行したものがあるのだろうが、米国で生まれ育ったわけではないのでわからない。『シェイプ・オブ・ウォーター』も冷戦時代を舞台にしていて、時代の文化を濃厚に漂わせる仕掛けなのだが(『ミスター・エド』のテレビ番組を垣垣間見ることができて、個人的にかなり興奮したが、この件については別記事で)、『ボス・ベイビー』は、力点を風俗習慣ではなくアニメ表現そのものに置いている。そこが逆にわかりにくいところだったのかもしれない。まあ少年の寝室にはガンダルフの目覚まし時計もあるし(これは知人から指摘されるまでわからなかった。映画版のイアン・マッカランのガンダルフではなくて、本の挿絵で描かれている、あるいは古い『指輪物語』のアニメのガンダルフの格好をしていたので――だから映画版の『指輪物語』はまだ存在していない世界だったと気づくべきだった)、現在の物語と思ってもしかたがない。古さは、アニメ表現そのもので伝えている。つまり主人公の少年ティム(芳根京子)の空想・妄想世界のアニメ表現が、昔懐かしい60年代や70年代の米国アニメ(大雑把な表現で恥ずかしいが)の様式なのだが、ただ、この様式は現在でも米国のテレビアニメではふつうに使われているので完璧にノスタルジックなわけではない。そこが、アニメ表現がノスタルジックではなく古臭いと思われてしまったのではないか?

兄弟争いのアニメ

ボス・ベイビーといのは、Baby Corporationが調査あるいは諜報活動のために送り込んだエージェントなのだが、この荒唐無稽なお伽噺のなかに、弟や妹が生まれる長男長女の悲哀を盛り込んだということになって、最初のうちは興味をそそられる。

実際、私自身、それまで一身に受けていた両親の愛をすべて、新しく生まれた妹の奪われて、相当むずがったようだが、まあ同じような経験は、弟や妹が生まれた兄や姉は、経験していると思う。新しく生まれ、親の愛をすべてもっていく弟や妹はボス・ベイビーなのである。

とはいえ弟や妹にとって、親の愛を奪おうと思ったり、家族の自分中心に運営するよう計らったりすることなど夢にも思わず、また大きくなっても、このことで兄や姉に対して悪い感情などもつこともない(別の理由で憎んだりすることはあっても)。だから弟や妹がボス・ベイビーだというのは兄や姉からの完全な投影である。つまり姉や兄が妹や弟を憎んでいるのに、逆に弟や妹が自分を憎んでいるという物語に変えてしまうのである。

もちろん兄弟姉妹も大人になってからは、骨肉の争いに身を投ずることになるかもしれないし、たとえば兄弟喧嘩の芝居も生まれてくることになろう。私の大嫌いな岩田美喜の『兄弟喧嘩のイギリス・アイルランド演劇』の世界がリアルに迫ってくる。

なお岩田美喜氏とは一面識もないから、ご本人に関して好きも嫌いもないのだが、そのエクリチュールの主体としての岩田については、本人ではなく、あくまでもエクリチュールの主体としての岩田氏には、つねにいらっとさせられるので(政治的信条とか信念が異なるからということではない。嫌われる文体で書いているからだ)。

それはともかく、ボス・ベイビーは最後にはお約束どおり仲良しになるのだが、途中は、まさに兄弟喧嘩のドラマ。このドラマは、姉や兄たちが、親の愛を奪う弟や妹に対して、つまりボス・ベイビーに対していだく、ある意味、理不尽な怨念みたいなものを原動力にしている。その点を嫌だと思う人はいるかもしれない。

プロティウス的ダーク・ヒーロー ネタバレ注意 Warning:Spoiler

アニメ『ボス・ベイビー』については、なんといってもボス・ベイビーの顔だろう。赤ん坊らしさが感じられないこと、赤ちゃんの愛らしさかわいさがないことに対して、残念に思う観客もいよう。だが、最終的にボス・ベイビーがふつうの赤ん坊になってしまうと、なんだかがっかりするのも事実で、ボス・ベイビー時代の大人と子供の顔の使い分け、子供なのに言動は大人のアンバランス、どれをとってもボス・ベイビーであったときのほうが、ずっと魅力的なのである。

これは芸達者なコメディアンの超絶芸を見ているような楽しさがある。またボス・ベイビーにとって、かわいい赤ん坊の姿は、人をあざむくための仮装、あるいは演技であって、そのため最後にかわいい赤ん坊にもどっても、本物になったというよりも、偽物になった観がいなめない。そこが面白いし、そこに残念なものを感ずる観客もいるのかもしれない。

しかし大人と赤ん坊の表情やしぐさの使い分けと、その融合、どこをとっても、ボス・ベイビーの魅力は圧倒的であり、この映画の面白さの中心はここにあるといってもいい。アニメとしては超絶的なのである。そそして逆にいうと、それ以外の要素が、この点を支援するところがうすい。べつに邪魔しているわけではないが、超絶的な表情やしぐさの情景と、物語の上の要請とはいえ、古臭いアニメの技法、その両者の統一感に欠けるし、両者が分裂したり矛盾としてぶつかりあうわけではない、そこがやや中途半端なのかもしれない。

クィア・ベイビー

赤ん坊はどこから来るのかという問題は、性や性行為の問題とからんでくるので、本来、ただかわいいだけではすまないところがある。しかし、このアニメは、この問題を回避している。なにしろ、赤ん坊はBaby Corpからやってくるという設定(あるいはこれは後日、ティモシー(兄のこと)が自分の娘に語って聞かせる物語)となっているからだ。ここには性やセックスについて、ひとかけらもない。子供とみることができる家族向き映画だから当然と言えば当然だが、オスカー・ワイルドの童話にゲイ的要素が入り込んできたように、こうしたノン・セクシュアルな映画にクィア的要素が入ってくる。

このアニメ、お尻ネタが多い。そもそもオープニングは赤ちゃん(たぶん未来のボス・ベイビー)のお尻のアップから入る(オープニングだけならネットの動画でみることができるから確認していただきたい)。またBaby Corpのベイビー・マシン(というのかどうわからないが)で、未来のボス・ベイビーはおしゃぶりを肛門に刺されそうになる。オナラネタもあるし、圧巻は、ボス・ベイビーとティモシーがPuppy Corpに見学に行く場面。二人はアトラクション用の大きな犬の置物の肛門から出てくるし、犬に化けているボス・ベイビーは、本物の子犬に、尻のにおいを嗅がれる。犬の習性だからそうなるのだが、肛門、犬などからゲイ的な要素が浮上する。

いや、それはまたすべてクィアに還元する悪い癖というなかれ。この兄と弟、ミドル・ネームが女性である。セオドア・リンゼイ・テンプルトン(ボス・ベイビー) とティモシー・レスリー・テンプルトン(ティム)。ふたりは両性具有的、あるいかクィアである。またこの映画には女性がからんでこない。母親や赤ん坊を生むのではなく、連れてくる。

またボス・ベイビー誕生の冒頭のシークエンスをみてもいい。彼は他の赤ん坊とはどこか異なるために、家族の一員として生まれるのではなく、Baby Corpの経営担当の仕事を割り振られ、のちにエージェントとなって、ティムの家の赤ん坊となるのであって、変わり者のモンスターあるいは才人で、Baby Corporationの中にいる限り、歳をとらない。つまり外見的には赤ん坊のままで成長しない。フロイト流にいうのなら肛門期でストップしている。そして言うまでもなく、のちに批判されるフロイトの議論では、この肛門期でストップしてしまう人間(とりわけ男性)が同性愛者になるのである。

つけ加えれば、Puppy Corpが売り出す新しい子犬も、永久に歳をとらない子犬である。ここにも肛門期/子犬/停滞から、同性愛的イメージがわいてくる。また子犬をロケットで全世界にむけて拡散させるという荒唐無稽な展開も、ロケットと言うファリック・シンボル(異性愛へつながる可能性)を無効にして子犬を解放するというシークエンスを用意したからったのではないか。ロケットというファリック・シンボルは機能不全に陥るのである。

結局、兄とボス・ベイビーとの争いから協力関係へといたるプロセスもまた、兄弟愛の名の下に同性愛的要素を濃厚に漂わせるのであり、兄のティムが、弟と自分を、二人組の海賊として空想することもまた、海、海賊、海賊の同性愛ユートピアへという連想を引き寄せることになろう。女性がからんでこない、このアニメは、子供向けのノン・セックス、兄弟愛という口実、女性を介在させない無性生殖あるいは無性増殖を通して、クィア的要素を全開させる。そういう意味では面白かったし、まただからこそ、観客のなかに、無意識のうちに反発を招いたかもしれないのだが。とにかくクィア映画であることは強調しておきたい。

posted by ohashi at 08:17| 映画 | 更新情報をチェックする