2018年07月08日

『死の谷間』

Z for Zachariah2015)スイス、アイスランド、ニュージーランド合作のSF映画である。監督はクレイグ・ゾベル、マーゴット・ロビー、チューウィテル・イジオフォー、クリス・パインの三人によるドラマ。原作ロバート・C・オブライエンの同名の小説(1974)、日本語訳『死の影の谷間』越智道雄訳(評論社2001)


映画のポスターなどではSFサスペンスとして宣伝しているが、それに惹かれて見に行くと、たぶんというか、ほぼ間違いなく失望すると思う。B級というか、1.5流くらいのSF映画が好きな私が観そうな映画と思われるかもしれないが、そうではなくて、この映画というか原作には、オーラが漂っているのである。だから英文科の関係者としては見に行くしかない。


なぜならこの作品、アメリカの高校とか大学などで教材に使われる作品であって、その証拠に、この原作には、専用の参考書が何種類もでている。York NotesとかPassnotesをはじめとして、さまざまな種類のStudy Guideが出ている。教室で教材として使われる名作文学(児童文学に分類されることもあるが、ヤングアダルト物だろう)。だから、あの名作がどんな映画になっているのか、面白かろうがなかろうが、とにかく一度見に行かなくてはいけない、そんな映画なのだ。もしあなたが英米文学のファンや研究者であるのなら、絶対に。


主役はマーゴット・ロビー、『スーサイド・スクワッド』が印象的だったが、最近では『アイ、トーニャ』でも強烈な印象を残したし、『ピーター・ラビット』にも出演(声の)していた(最初からナレーターとして登場していた)。よく出会う彼女で、またかと思ったが、2015年の映画で、『スーサイド・スクワッド』以前の映画。まあ最近の彼女の活躍によって日本でも公開されたのはよかった。


映画は、核戦争後、文明が崩壊した世界に生存している一人の少女と、その地にあらわれた二人の男との関係を扱うもので、暴力シーンやアクションは皆無、逡巡や嫉妬など心理的動揺を丁寧に表象しながら、ニュージーランドの無垢な壮大な自然を背景として、愛と再生のドラマをじっくりと見せるもので、正直言って地味、だた、原作が、じっくり描き込まれ語られた文芸作品であることは充分に感知できる。


ただ、原作を英語でも日本語の翻訳でも読んでいないので、何とも言えないところもあるし、映画が原作とどのくらい隔たっているのか、密着しているのか判断できないのだが、最初、男女二人の物語かと思っていたら第三の人物が登場することで、三角関係になって、それまで曖昧な形でしかなかった男女の関係が明確な愛情関係へと変わる。最終的に第三の人物は消滅する(ただし、なぜ消滅したのか、消滅してどうなったのかは不明)。まさに「消滅する媒介者」としてその存在が愛をはぐくんだ。曖昧な愛が三角関係を経ることで明確な愛が生まれる。


なぜこれがSFでなければいけないのかは、疑問が残るところだが、三角関係に因数分解できる恋愛の発生と展開という「欲望の現象学」の実例ともいえるようなプロットを展開するのに、人類がほぼ死滅し、男女の三人しかいないような舞台設定は、不条理演劇での設定でなければ(このまま舞台になりそうでもあるのだが)、SFの世界でしか可能ではないのかもしれない。


とはいえ原作の世界観と設定を映画は尊重しているようなので、なぜ農家に、牧師の家とはいえ、あれほどたくさんの本があるのかとか、彼女が地元の図書館から本を持ち出すのはなぜかとか、説明してほしかった――まあ、みればわかるでしょうということだろが、つまり本好き、文学好きの少女という設定なのだろうと予想はつくものの。ただ、ほんとうに原作を尊重しているのかどうかは、謎で。そもそも原作の登場人物は二人しかない。三人のドラマではないのだ。もちろん、この映画をみながら、三番目の人物は、ふたりのうち、どちらかの妄想のなかの存在ではないかと疑っていたかことは事実なのだが、三番目の人物は、原作のドラマを、むしろわかりやすくするために、登場させたのか、原作から離れたのか。いまのところ、この点については不明としかいいようがない。いずれ報告したい。


付記

主人公の女性の家の書斎にA for Adamという本があるのだが、Z for ZachariahというタイトルがZ人間、最後の人間ということか。とはいえ聖書にあるザッカリアは、洗礼者ヨハネの父親で、夫婦の間に念願の子供が生まれるという物語が背後にある。たぶんZ人間=最後の人間(ゾンビ―的含意はない)と思っていたら、子供が生まれ、未来がはじまるということの暗示か。


続きを読む
posted by ohashi at 02:16| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年06月28日

『オンリー・ザ・ブレイブ』

実は、とくに見るつもりはなかった映画なのだが、別の映画をみる予定が変更になって、ただやむなく映画館に足を運んだ。週日の夜で、シネコンのスクリーンにも、そんなに人が入っていない。


しかし、たぶん観た人が誰でも驚くだろう。こういう映画を毎日観たかった。宣伝が悪すぎることはまちがない。見る前から誰もが勝手にイメージしてしまって、勝手に見る気をなくしているような気がする。『ダークサイド』は、予告編がすばらしくて、第二の『ツインピークス』かと思わせて、実際にはしょぼい映画だったが、こちらは、ありがちの映画かと思わせて深い感動へと導く良質な映画だった。泣けるし。またいろいろ考えさせられたし。


つまり映画を見る前は、こんなふうに予想した。竜巻と並んでアメリカのお家芸みたいな巨大山火事と戦う消防部隊の話。山火事と戦うのは、戦争そのものメタファーでもある。あるいは戦争映画のヴァリエーションであって、戦争映画もどきであれば、お約束のように敵中突破がテーマとなる。当然のことながら、危険と直面し、犠牲者もでるだろうが、最後には山火事を鎮火して家族のもとに帰る。9.11以降、消防士の株があがって、彼らは危険に立ち向かい市民を守る職業ゆえに、愛国的右翼的パトスを喚起する(ホットかクールかわかないが)セックスシンボルにもなったことは否めない。『バックドラフト』とか『シカゴファイアー』などスクリーンやテレビでの消防士物は人気があるようだ。それに便乗しているのだろうか。山火事シーンのCGがウリだろうか。まあ、そんなに見たい映画ではない……


という予想に対して、映画はもっと熱いし、またもっと冷静である。予想は裏切られる。


恥ずかしながら映画をみてから、はじめて監督がジョセフ・コシンスキー(Joseph Kosinski)であることを知った。え、あの『トロン: レガシー Tron: Legacy (2010 監督)と『オブリビオンOblivion(2013 監督・脚本・原作・製作)の、あのコシンスキー? なぜそれを宣伝しない。どちらも、すぐれたSF映画であった。『トロン』は前作からの設定をかりるという制約があったが、シェイクスピアの『テンペスト』を下敷きにした見事なSF映画になっていたし、トム・クルーズ主演の後者は、私のみたSF映画のなかで、ベスト10には入る。だからコシンスキー監督の映画とわかっていたら、公開と同時に見に行くところだった。それを宣伝していない。まあ、わからないわけではない。『オンリー・ザ・ブレイブ』はSF映画ではなく実話物なのだから。


以下、ネタバレ注意 Warning: Spoilers これからこの映画を見る人は、読まないで下さい。


『デトロイト』のキャスリン・ビグロー監督に『K19』という冷戦時代に事故を起こしたソ連原潜を扱った映画がある。実話物なのだが、あのなかで放射能漏れを起こしている原子炉の修理に若い水兵たちを送り込む場面がある。作業は30分で交代。とはいえ30分の被爆は致死的であって、作業員は出てくると火傷をし嘔吐する。それでも艦長は水兵を原子炉修理にむかわせる。このとき放射能除けといって水兵に防護服を着せるのだが、実は、それは防護服でもなでもなく(そもそもそんなものは存在しない)、ただのビニールのレインコート(みたいなもの)にすぎないのだが、艦長らはこれが身を守ると水兵たちに着せて原子炉へと送り込む。痛ましい場面である。水兵たちは、それが放射から身を守ってくれると信じているが、ただのビニールのレインコートである。


『オンリー・ザ・ブレブ』をみて、あの火炎から身を守る寝袋のようなもの(名前があったのだが忘れた)、あれはビニールのレインコートの放射能防護服と同様、現実の猛火のまえでは役にたたないだろうとわかった。役にたたない、ただの気休めのようなものだが、それが最後の防御手段となる。訓練のなかで、これにもぐって火事をしのぐときは地獄の熱さだが、息ができるかぎり、生きていられると隊長はいう。隊長は、これまでに、それにもぐったことがあるような口ぶりなのだが、おそらく、それはないだろう。ビニールのレインコートでは放射能は防げないのと同様、あんなもので火炎はふせげない。ではなんのために。それは望みを絶たれた時に、すがれる最後の希望であり、溺れる直前につかんで助かると信じて溺れるときの藁一本なのである。唯一の効能は、死体が身元判読できないほど黒焦げになるのを防ぐことぐらいだろうか。彼らは死の直前、希望にすがって死ぬ。それは救いだろうか。このことを思うとその冷厳な現実に身がすくむ。


ヒコーキファンとしては、山林火災に多くの払い下げ軍用機あるいは民間型が使われているのを知っていたので、C130と、いろいろなヘリコプターの活躍を、映画が始まると期待していた。そのなかでも冒頭で民間人のプールから水を吸い上げる巨大ヘリコプターが登場して目を見張った。あれはシコルスキーのCH-54 タルヘ(CH-54 Tarhe)の民間モデル、シコルスキー S-64だ(今米軍では使用していない)。現在は沖縄の小学校の校庭をドアで攻撃したバカヘリコプターのスタリオンが世界最大の軍用ヘリコプターかもしれないが、以前は、この「スカイクレーン」のあだ名をもつタルヘが世界最大のヘリコプターだった。まさに空飛ぶクレーンの異名そのものだったが、民間の消火用任務に就いているそれが軽快に飛ぶところを見たのははじめてで、かなり興奮した。だが、もちろん、後半、航空機の誤爆(誤消火)が悲劇の発端だったのだが。


ヒコーキファンでなくても、もちろん、この映画は楽しめる。山林消防隊の彼らは、日ごろの地道な訓練と努力が認められて精鋭部隊へと格上げされ、市当局の援助や家族の援助によって、順調に消火活動をこなしていく。もちろん危険な職業だから、家族の者にとって、生活には死と隣り合わせの不安があるが、また周囲を山林に囲まれている地方都市の生活は大規模山林火災の脅威にさらされてはいるが、それでもアメリカの庶民の地方都市の生活の、その変哲のなさが、そのありふれたさまが、かえって貴重な、かけがえのない日常として迫ってくるのである。また隊員ひとりひとりの家庭の事情や個人的問題なども丁寧に跡付けられていて、気づくと、見ている者は、自分が、この消防隊を見守り支援する家族や同郷人のような立場にいることを発見する(ただ20人全員の名前と顔を覚えることはできないので、映画そのものも隊長と、新入りのマクドナーの家族生活を関心の中心としているのだが)。


もちろんただ平和なだけの生活ではない。問題はある。だが、それも人々の生活の知恵と経験に根差す叡智とそしてなによりも善意によって克服できることは容易に予測できる。となると、この生活、とくにアメリカの庶民でなくても、永遠に続いてほしいような気がする。サバービアのようなわざとらしいアメリカン・ライフがあるわけではない。ただ、つつましやかな、そして、静かに流れていく日常の時間がある。これこそが、本来のユートピアではないかと思えてくる。


だからこそ、悲劇が耐え難いものとしてのしかかる。そこから悲しみのあまり怒りをぶつけたくなるようなところがある。だが、この映画は、とくに何かを告発するという姿勢はみせていない。責任を問うようなこともしてない。むしろ殉職した19人の消防士に対する追悼がメインであって、責任者の告発、あるは魔女狩りのようなことはしていない。これはまちがいなのだが、同時に、示された事実というかエピソードから、いろいろな可能性をひろいあげることができるようにしている。この映画は、観客に考えさせる。観客が、責任追及するのではなく、可能性を拾い上げて、独自の物語をつくるように仕向けているところがある。いいかたをかえると、この隊長(ジョシュ・ブローリン)の責任は重大であるのだが、映画は、この善良で有能な隊長を、惨事の責任者には絶対にしたくないというようにもみえる。


たとえば最初の方にエリート精鋭部隊の指揮官は、訓練中の部隊の指揮官の適切な助言を聞こうともしない。彼らはエリート意識によるプライドだけは一人前で、中身は、からっぽ、無能ではないかという疑いもある。無能な人間が指揮をとる組織というのは結構多い。その場合、失敗しても、責任をとらなくていいような言い訳が存在する。たとえば自然の猛威は予測できないし、これと戦うことはできなというような理由をあげて、作戦や予測の失敗をとらなくていい組織の場合、無能な人間がはびこることもある。森林消防隊も、プライドのみ高くて無能な指揮官が多いのではないか。今回の悲劇も、全体の作戦指揮をする人間が無能であった可能性がある。たとえ映画は、予測できなかった突風の猛威にすべての原因があるように描かれているが、今回の消防作戦全体の指揮官が無能でなかったら、彼ら19人は助かったかもしれないという可能性もある。


市レベルで消防精鋭部隊をもつのは全国初ということもあって、グラニット・マウンテン・ホットショット部隊は、精鋭部隊に認定された直後の1年目に実績と能力の高さをアピールするために、隊長以下、全員が、無理をして、最後まで踏みとどまったために、猛烈な火炎から逃れる術を失ったということもできる。精鋭部隊間のへんなプライドと競争がなければ、また彼らが異例の昇格を経た精鋭部隊で、必要以上に、がんばったりしなかったら、悲劇は防げたかもしれないという暗示がある。


まあ、このような悲劇の場合、天災か人災かについては、実のところ半々であることは一般的にいえるだろう。ただ、くりかえすが、この映画は、人災であることを追及はしていない。むしろ天災として、悲劇性を盛り上げようとしている。そして、それが監督の意に沿うものか反しているかはわからないが、人災という面もまったく払拭しきれないことを暗示している――ただしジョシュ・ブローリンは悲劇の被害者として確定しながら。


134分の映画である。私は時計を見ながら映画を見ることはないが、2時間を少しでも超える映画は、長めだと勘でわかることが多い。しかし、今回の映画は、長さを感じなかった。それどころかもっと長くてもよいと思った。



posted by ohashi at 12:57| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年06月23日

『ピーターラビット』

最初は見に行く予定はなかったのだが、たまたま私の姪から、ネットの評価では、この映画、児童文学の実写映画というよりも、どちらかというと『マッドマックス』だということを聞いた。たしかに予告編から推測するかぎり、ただ、可愛い映画ではない、癖の強い映画だという印象を受けた。で、実際見てみたら、相当癖が強い。それもブリティッシュなテイスト満載の喜劇として。ブリティッシュの喜劇は、とにかく癖が強い。しかもリアル。決してきれいごととか教訓には逃げない。上品さよりも下品さにシフトしがち。


そして英語もブリティッシュ・アクセントで、コックニ―だから、独特の癖がある。もちろん英国人にいわせれば、アメリカ英語のほうが訛っているのかもしれないが、日本はアメリカ英語圏なので、ブリティッシュ・アクセントは癖の強い英語となる。


この映画でも、レイジー・スーザンのことを、ライジー・スーザンと発音している。すばらしい。もちろん英国映画(正確にはオーストラリア・アメリカ・イギリスの合作映画なのだが)の場合、英国らしさを強調することが多いので、ウィンドミアに代表される英国の自然が強調される(撮影はオーストラリアでおこなわれたのだが)。


あと、容赦ないリアル。ピーターのお父さんは、つかまってウサギのパイになったのだが、ここには動物と人間との残酷な関係がある。たとえばディズニー・アニメの『ズートピア』には、人間が出てこない動物だけの世界だが、その世界は人間の世界のメタファーにすぎず、人間と動物との関係性は完全に消えている。『ペット』とか『ファインディング・ドリー』のほうが人間と動物の関係性を描いている(人間も登場するからあたりまえといえば、あたりまえなのだが)。そしてこの映画ではウサギはペットに飼われるのでなければ、食べられるのである。この映画のなかで動物たちは擬人化されていて人間社会の縮図ともなっているのだが、同時に、食べられることで動物性も維持している。つまりこの映画で動物は、メタファーでもあり、メトニミーでもある。人間の同類であると同時に人間の他者である。擬人化されてもいるし、動物そのものである。ピーターの青い上着は、ビアには見えていない可能性がある(彼女が空想のなかで着せているとしても)。現実(メトニミー)であると同意に空想(擬人化、メタファー)でもあるという二重性は、最後まで維持されているように思われる。


このことは、さらにもうひとつのリアルとも関係する。ウサギはペットにもなるが、同時に害獣でもある。実際、日々、動物と戦っている私にとって、この映画のピーターとトーマス・マクレガーとの闘争は、他人ごとではない。人間は害獣と戦っている。ウサギは害獣のひとつである。そのため繰り返すが、この映画のウサギと人間との戦いは他人ごとではない。


もちろん、私の場合、ウサギではなく鳩と戦っているのだが。日々、鳩と戦っていて、鳩は空飛ぶネズミだと、薄汚い動物だと本当に思っていて、日々、ヴェランダで戦っているのだが、いくら戦っているとはいえ、鳩を殺してはいない。実際、鳩を殺すことは法律で禁じられているので、殺してはいないが、戦う時は、殺してもいいくらいのいきおいでいる。この映画のトーマスとピーターの戦いほど激しくはないが、双方の憎しみの強度は全く同じである。


また私はトーマスのように鳩から報復されてはいはないが、しかし、鳩の狡猾さは私を苦しめている。毎日報復されているのも同じである。本当なら爆薬をしかけたいが、そうなると私の住居も吹き飛ばされかねないし、近所迷惑なので、それはしないとしても。


動物を食べ、動物を駆除する、その残酷さ、その冷厳な関係性があるがゆえに、それを隠そうともしていないがゆえに、笑いも、動物と人間の関係性をいっぽうで効果的に抑圧するような種類のものが選ばれると同時に、冷酷な関係性を反映するようなものともなっている。暗い関係性があるがゆえに、人間と動物の戦いは、関係性を反映するように冷酷であるとともに、関係性を抑圧するような、派手なマッドマックス的戦いとなるのであろう。


なお気づいたのは、俳優は、サム・ニールがマクレガー爺さんとは全然気づかなかったが、それとはべつに声を担当している俳優が、無駄に豪華すぎるのも、驚いた。デイジー・リドリー(『スター・ウォーズ』)に、マーゴット・ロビー(『アイ、トーニャ』)。ピーターの声のジェイムズ・コーデンは、私は知らなかったのだが、彼が声優をしていると驚いている観客もいたので、知っている人は、知っているのだろう。


そして最後にして、決して最少ではないこととして  つづく

posted by ohashi at 03:49| 映画 | 更新情報をチェックする