筒井康隆『敵』が出版されたのは1998年1月で、75歳の元大学教授の日常を描くこの作品を、出版当時はさして読みたいとも思わなかったのだが、今回、映画化されたのを機に読んでみた。気づくと私自身が主人公の75歳という年齢に近づいてきた。元大学教授というのも同じ境遇である。
吉田大八監督の映画『敵』(2023年製作、一般公開2025年)と、筒井康隆の小説『敵』とは、原作と映画化作品という関係ではあるものの、それぞれ独立した作品として、どちらがオリジナルで、どちらがアダプテーションかを考えることなく、ふたつのパラレルワールドを展開する同等の作品としてみても面白いのではないかと思う。
映画では主人公を78歳としているが、おそらくこれは主役を演ずる長塚京三の映画撮影時の実年齢にあわせたのだろう。
細かなことをいえば、小説では主人公が要求する講演料は最低でも20万円なのだが、これは相当の売れっ子の元教授でないともらえない額である。おそらく筒井康隆は50万とか100万あるいはそれ以上の講演料をもらっているのだろうから、まあ大学をやめたしがない元教授だから20万円くらいかと考えたのだろうが、高い。実際、映画では10万円以下の講演は引き受けないということになっているが、それでも高い方だと思う。ちなみに私は、私ごときの一回の講演に10万、20万円だすというような依頼は絶対ひきうけない。安ければ安いほど引き受ける。それが老人の美学である。もし私が安い講演あるいは無料の講演依頼を断ったとしたら、それは講演料が安いからではなく、体力の問題であったり、準備期間が少なすぎるとか、講演内容に問題があるからにすぎない。ただし私に講演依頼などくることはめったにないのだが。
あと1997年の小説だと、ネット環境がいまと違いすぎていて、敵がやってくるという情報は、いったいどこで話題になっているのか、私はしたことがないのでよくわからないのだが、いまでいうオープンチャットルームみたいなものか。ラインとも違うようだけれども。
映画版ではさすがに小説出版時の1998年の時点でのネット環境の再現はあきらめて、あやしげな迷惑メールとして「敵」情報が伝えられるにすぎない。
また主人公はパソコンで原稿を書いているので、出来上がった原稿は、そのまま編集者にデータファイルとして送信すればすむのだが、映画では、わざわざ主人公宅まで編集者が原稿をとりにきて、その場で目を通す(小説にはなかった場面であるが)。私自身の場合でも、いまでは編集者に一度も直接会うこともなく翻訳本を上梓するのはふつうのことになっているので、あれは一昔前の時代のことだとノスタルジックな思いすらしてしまった。
映画のなかで鍋料理の場面は、ひとつのクライマックスみたいになっていて、その場に、設定上、参加できなかった俳優が残念に思っていたというトークをネットかなにかで観たのだが、小説のほうは、「ああいう不条理にどこまで耐えられるか、自分を試しただけだよ」と主人公に言わせているのだが(「珍客」の章)、映画のほうは、そこまで不条理ではないが死人が出て、小説よりも深刻な事態に発展する。
というのも小説のほうは、そんなに人は死なない。主人公の妻はすでに死んでいるが、主人公の教え子たちは、鍋料理の場で死ぬ一人を除いて、みな健在である。映画のほうは、主人公の知人が死んだりいなくなったりする。そのため死の影が小説よりも大きい。また映画のほうがホラー的要素が強くなっている。
ちなみに小説では、鍋料理の場で、ほんとうに人が死んだのかどうかわからないともいえる。小説もこの段階で、現実か妄想か、主人公にも読者にも区別がつかなくなる。映画のほうも、どこかの時点で、これは妄想らしい(とくに敵に関するエピソード)と観客も気づくことになると思うのだが、現実と妄想、虚構と事実、外界と内面との境界があいまいになって……。そして映画の最後を迎えることになる。
小説も同じで、現実の中で事件化される敵の存在は、ネット上でのフェイクニュースみたいなものと思えてくるのだが、それがいつしか主人公の内面から湧き出てくる恐怖の存在となってゆく――というか、それは映画のほうか。敵の襲来によって難民となった人々が主人公の家のなかに黒く汚れた群衆となって到来するのだが、それはまた一瞬の幻覚ともなっている。
映画のほうは、現実の背後にある死の世界が次第に存在感を増してゆき、主人公のおだやかで変哲もない日常がそこにとりこまれていくという展開をするが、小説のほうは、死に直面した主人公が息を引き取る前に、その毒を精神内から出し切るという、デトックス物語ともなっている。そしてそのデトックス過程で主人公の思いがさく裂。いうなれば、後半は主人公の脳内劇場となってゆく。
小説ではボブ・フォッシー監督の映画『オール・ザット・ジャズ』について触れられるが、死が迫る演出家がみずからの人生を振り返るとき、それがミュージカルの場面となって去来するというこの映画は、この小説の世界と通底している。小説でも死を覚悟する主人公の頭のなかでは、教え子や三人の女性(死んだ妻、恋愛感情を抱いた教え子、そしてクラブ「夜間飛行」を手伝っている女子大生)への性的妄想がさく裂する――まさに『オール・ザット・ジャズ』の世界のように。さらにそれは脳内劇場へと変貌をとげて、戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』の舞台に主人公たちを出演させるのだ。このへんは小説を読んでいて圧巻なのだが、映画ではその方向にはすすまない。小説では、『オール・ザット・ジャズ』のロイ・シャイダーのように主人公は愛する人たちに別れを告げる。
正確に言えば、また会いたいという思いをいだきつつ、主人公は死んでゆくのだが、映画ではこの再会の思いを引き受けることになって、主人公は死んでも死なないというか、別モードで生き延びる。いっぽう小説のほうでは、主人公は死ぬ。というか、小説では、死を描くことは容易だし、実際、多くの小説は死を描いてきたし、そもそも文学は死を描くためにこそあるといってもいいのだが、しかし死について描く文学自体は死ぬことはない。そもそも文学あるいは小説は、どのように死ぬのか。
有名な例だが、演劇の場合、舞台で登場人物が死んでも、それは死を演じているだけで、演じている俳優が死ぬわけではない。もし事故とか病気で、舞台で俳優がほんとうに死んでも、観客はそれを演技としてうけとめるだけである。舞台では俳優がほんとうに死んでも、ほんとうに死んだとは受け入れらない。ならば、演劇において虚構とか演技ではない死はどのように表象するのか。
そんなものは表象しなくていいといえばそれまでだが、逆にいうと、俳優は舞台では死ねない(たとえ現実には公演中に亡くなる俳優は多いし、舞台で死ねれば本望という俳優も多いのだが)。なにをやっても演技と思われるだけである。ならば俳優にとって死は、干されて劇場に呼ばれなくなること、あるいは劇場を後にしてどこかへ消えることである。
実際、物語の世界をすべて劇場での出来事に置き換えたジョー・ライト監督の『アンナ・カレーニナ』では、ヒロインの死は、蒸気機関車に轢かれるというメロドラマティクの死ではなくて、出番が終わったので、先に失礼するというかたちで劇場を後にするヒロイン役の俳優の行動によって示されていた――なんというアンチクライマックス、しかし、そうでもしないと〈人生は芝居、人間は俳優、世界は劇場〉というこの映画のコンセプトのなかで死を表象できないのである。
小説の場合はどうか。簡単に理論化できるわけではないので、『敵』に即して考えれば、まずこの主人公の元大学教授は、自分の死を、自分でコントロールしようとしている。ふつうなら、あるいは私が想定している自分の死は、事故などによる不慮の死でなければ、病気で死ぬことだろうが、この主人公は病死の可能性をリアルに考えていない。そこが不思議なところ。主人公が望むのは自死である。その方法なども考えている。
しかし小説では、主人公は予行演習はするものの、その後、とくに病気もケガもせずに、いつのまにか意識が遠のいていって死んでいる。その間、敵に関する記述が多くなる。また映画でも同様に後半になって敵による影響が現実あるいは主人公の意識に入り込んでくる。そのために、どうやら主人公は身体的な病気とか体力の衰え以前に認知症をわずらって死んでゆくのではないかと思われる。敵の存在におびえるのは認知症の徴候である。また認知症になったら先は長くないともよく言われる。
だが若年性の認知症にならなくても、人は死ぬときには誰でも認知症になる。現実と幻想との区別がつかなくなる。過去と現在が入り混じる。自分が生きているのか死んでいるのかもわからなくなる。そうして意識が混濁するなか死を迎える。私自身、そうして死んでゆくだろうと思う。認知症になったから死ぬのではなく、死ぬから認知症になるのである。
筒井康隆氏は新書『老人の美学』(2019)の中で、『敵』を出版した頃、森毅氏と対談したときのことに触れ、森毅が、モダニズム小説というのは過去と現在をいったりきたり、現実と幻想との区別がないような書き方をしていて、認知症的だというコメントをしたことを伝えている。
そういわれてしまえば、まさにその通りなのだが、認知症的世界の客観的相関物は、モダニズム小説だけではない。フローリアン・ゼレール戯曲『Le Père 父』(2012)は日本でも翻訳上演されたと思うが観ていないのだが、ゼレール自身が監督した映画『ファーザー』(The Father, 2020)もコロナ渦で映画館では観ておらず配信で観たのだが、その映画において、認知症になった高齢男性の視点からみた世界は、モダニズム小説というよりも不条理演劇いやホラー映画そのものだった。強度な認知症になれば被害妄想のなかで苦しむことになり、出口なき覚醒なき悪夢の世界に閉じ込められて死んでゆくとしても、誰もが死の直前には認知症的になるとすれば、待っているのは悪夢の世界だと思うと気が滅入る。
『敵』は小説版ではモダニズム小説、映画版ではホラー色の強い作風になっているのは、ともに、認知症的世界の表象の二形態ということになるのだろうか。
ただし映画版では主人公は死んでも死ななない。どいうことかは映画を観てのお楽しみということになるのだが、小説版では、主人公は死ぬ。三人称の小説だが、基本的には疑似一人称の小説である『敵』は、主人公の内面を描いているので、死の瞬間も外面ではなく内面から描いている。そのため死は外的に、あるいは臨床的に死にましたと描けないのだが、そのぶん、まさに死を内側から描くという挑戦的な文学的試みが実現する。
それは『敵』の文体とも関係する。この文体をどういうふうに考えてはよいのか、私自身、正直なところよくわからないのだが、先の対談を回顧するなかで筒井氏はエンターテインメント小説ではなく「モダニズム小説」を、純文学を書こうとしたと述べている(「『敵』はモダニズム文学の美を狙っていると同時に主人公渡辺儀助の老人としての生活の美を描こうとしているのだ」)。そのため、その文体は癖ではなく意図的にこしられたものだろう。では、その特徴は何か。
読点(、)が極端に少ない文章となっている。読者が読み間違ったり読み取れなくないように最小限の読点はあるが、句点(。)以外、読点は極端に少ない。人間の意識の流れのなかでは単語の流れや羅列はあっても読点はない。そのため読点のない息の長い文章はそれ自体で主人公の内面のつぶやきの直接的な表象かもしれず読者としても自分が主人公の内面に入り込んでそのつぶやきをじっくり聞いているようなあるいは自分で言葉を内語として発しているようなそんな思いにとらわれるのかもしれない。もちろん、それ以外の効果もあるとしても、今は思いつかない。
もうひとつは擬音語とか擬態語がすべて漢字で示されている点も特徴のひとつだろう。たとえば「雨が使徒使徒と降る」というように書かれている。実際、見慣れない漢字の羅列に出会うと、それを音読みして、なんとか意味が分かる場合もあれば、音読みしてもなんの擬音語か擬態語かわからないところもある。
よくわからないということをお断りをしたうえで、私見を述べれば、これはワープロとかパソコンで原稿を書いているときの過剰な変換や誤変換をそのまま再現しているのではないだろうか。もちろん私のパソコンは「雨が使徒使徒と降る」という誤変換はしないが、ただいかにもワープロ・パソコンで書いたときのような文章らしさを醸し出しているのではないだろうか(先に触れたように映画では主人公はパソコンで原稿を書いている)。
これはパソコンでうまく文章を返還できない(あるいは初期のパソコンの限られた文章作成能力)へのパロディではなく、なにか非人称的な力が、主人公渡辺儀助の意識のなかで、あるいは作家自身のなかで働いている、もしくは侵入しているのかと思われる仕掛けではないのか。
いまでいえばAIあるいは生成AIによって書かれた文章という趣がある。ことわっておくが、主人公がAIに乗っ取られているとか、主人公など最初からいなくてAIが書いているだけというホラーを考えているわけではなく、なにか文章の一部が勝手に漢字変換されてしまうことで、非人称的な力が顕在化したことが感得されるということだ。そしてその非人称的な力とは、言語の力かもしれないし、無意識の力かもしれないし、自我がコントロールできない老いや老齢による変化かもしれないし、究極的にはそれは死への譲渡過程のはじまりなのかもしれない。
この小説において敵は、北方から侵略してきて日本人の多くを難民化する脅威的存在だけではなく、名指されぬものとして存在している。主人公を死へと追いやる、すでに主人公の内面に侵入している名もなき敵がいるのだ。
ところで主人公がいつから認知症になって死を迎えるのかについて、敵についての妄想がひどくなったことと認知症の進行とがパラレルになっているという暗示から、認知症、衰弱、死という連関が想定されているように思われるのだが、今回、映画を観ながら別の可能性も考えた。
これは私の認知症的妄想といわれれば反論もできないが、映画のなかで、主人公が自死の予行演習をしたとき(小説でははっきりと書かれていないとはいえ)、あのとき事故でほんとうに死んでしまったのではないだろうか。予行演習以後の出来事は、死の直前に主人公に記憶や情感や欲望や希望が入り混じったもの(all that jazz)が去来したことの記述ではなかったか。
ニコス・カザンザキスの小説『最後の誘惑』(映画化もされたが)では、十字架にかけられたイエス・キリストは、十字架から降ろされ、ひそかにマグダラのマリアに助けられ彼女と結婚をして子供や孫に恵まれいままさに大往生するときに、そこで我に返って、これまでのことは死の直前に悪魔がみせた誘惑の偽りの人生であったことを悟り、誘惑に勝って死ぬという内容だが、『敵』でも主人公は薄れゆく意識の最後の瞬間に目覚め、予行演習ではなく真の死に直面し、確実に死ぬことを悟るのではないだろうか――もちろん、それで悪あがきをするのではなく、おだやかに死を迎え入れるのだが。
とはいえすべてではないとしても、一部を、AIが書いたような文章は、主人公の死をどのように表象するのか。それは言語と文章表現の崩壊というかたちをとる。実際、小説『敵』は、主人公の日常と所感とを、きちんと、ほぼ同じ字数の章で展開する、整った、まさに端正な小説である。そこにあるのは淡々とし平穏な日常の報告の身辺日記的エッセイであり、また決して深入りすることはないが同時に浅薄でも通俗的でもない知的なエッセイである。しかし、それが最後になると、たとえば、AIがみずからの文章の情報データを放出するかのように、これまでの文章のキーワードをすべて列挙しはじめる――もちろんこれは、主人公の混濁した意識が生み出す記憶の断片としても読めるのだが(さらにいえば、脳内に潜む敵をすべて吐き出すデトックスの試みとも読める)。
そしてやがてページに大きな空白が生まれ、雨の「使徒使徒」という、擬音語だが擬態語だかしれない漢字のみが、白いページの中に、さならが一粒雨のように印字されることになる。
言語表現が、あるいはエクリチュールが息絶えようとしている。主人公の意識/書き手の文章に侵略して一部を乗っ取ろうとしたAIも、主人公/書き手が、死んでしまうとき、宿主が枯れてしまうとき、なにも生成できずにみずからも消滅するしかないようだ。
ただ、この末尾のイメージは、先ほど触れた映画『ファーザー』の主人公(アンソニー・ホプキンズが演ずる)の最後の述懐を思い起こさせる。認知症になった主人公は、木々の豊かな葉が枯葉となって落ちてゆくように、自分のなかからすべてのものが失われてゆくともらす(主人公はそこで死ぬわけではなく、また映画は、病室の外の木々の豊かな緑を映し出しているが)。『敵』のなかで主人公がみる光景は雨あるいは雪がしずかに降る光景である。それはまた喪失と消滅の、瞬時に消えるのではなく、ゆっくりと存在を喪失してゆくという光景であり、それは光景をみているあるいは幻視している主人公の意識と同期している。
死を扱った映画、このブログでもふれた『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』(ペドロ・アルモドバル監督2023年)では、ジョイスのDubliners(『ダブリン市民』『ダブリンの市民』『ダブリンの人びと』『ダブリナーズ』などの訳題あり)のなかの「死者たちThe Dead」から二度ほど引用され、ジョン・ヒューストンの映画化作品の一場面が実際に映画のなかで引用される。映画をみていたとき、「死者たち」のどこにある引用かわからなかったが、調べてみてというか思い出して、最後の一節だとわかった。
雪がかすかに降っている音が聞こえる。最後の時の到来のように、生者たちと死者たちすべての上に降っている、かすかな音が聞こえる。
ジョイス『ダブリンの市民』結城英雄訳、(岩波文庫2004)「死者たち」(末尾)より
この光景(ジョン・ヒューストンの映画の最後の場面でもある)は『敵』の終わりを彷彿とさせる。筒井康隆『敵』は、死の表象をめぐる挑戦的試みでもあると同時に、死の表象の忘れかけていた鉱脈を掘り当てくれた貴重な作品であるように思う。
私も雨か雪の降る景色を眺めることができればいいな。
2025年02月20日
『エマニュエル』
オドレイ・ディワン監督 2024年 フランス映画
前作『エマニュエル夫人』の原題は『エマニュエル』で今作も前作と同じ『エマニュエル』。「エマニュエル夫人」というのは日本で勝手につけたタイトル(もっとも「夫人」であることはまちがいなかったが)。
ただそれにしても1974年の前作に登場したシルヴィア・クリステルは当時21歳。清純さのなかにエロスをにじませるまばゆいばかりの若いエマニュエルの面影は、今回の35歳のノエミ・メルランのエマニュエルにはない。ノエミ・メルランの顔はきつい。シルヴィア・クリステルにあったあどけなさは(たとえそれが淫乱さの引き立て役であったとしても)、ノエミ・メルランには望めない。彼女はむしろ禁欲的なイメージ、エロスとは対極にある存在であるかにみえる。
実際、『燃える女の肖像』(セリーヌ・シアマ監督2019)のノエミ・メルランのほうが、ずっとよかったというか、そこでは彼女は同性愛的感情に覚醒するのではなく覚醒させる側だったのだが、またそこではレズビアン映画の古典ともいえる格調のたかさが際立っていたのだが、今回の『エマニュエル』において、彼女はエロくないし、そもそも何をやっているのかよくわからない。彼女は誰を愛しているのかわからないし、誰から愛されているのかも不明。
最初から結論をいえば、ノエミ・メルラン版の『エマニュエル』は他動詞的ではなく自動詞的である。自慰的といえばそうかもしれないし、また自律的といってもいい。とにかく愛しもしないし愛されもしない。ただ欲望を開花させるだけである。まあそこが、人工中絶のために奔走する主人公を扱う『あのこと』の監督オドレイ・ディワンの真骨頂というべきかもしれない。相手がいないのである。
もうひとつ今回の『エマニュエル』では、すべてが脳内劇場のできごとであるとみることもできる。冒頭のシーンで香港へ向かう旅客機のトイレでのセックスは、いきなり奔放なエロス全開かと思うのだが、機内における彼女の性的妄想にすぎないのではという可能性が残る。実際、彼女のその後の言動は、妄想の沼にはまるようなところがあるというか、すでに沼にはまっているところがあり、香港に向かう旅客機のなかではじまっていたと推測できるのだ。
彼女の妄想癖は二つの要因によって加速する。ひとつは性的欲望の抑圧による反動によって。そもそも彼女は香港のホテルのステータスのランクが下がったことの原因を突き止めるために派遣された監査官のような立場にあり、本部の指示に従って、香港のホテル支配人(ナオミ・ワッツ)の問題点を探ることになる。支配人のホテル運営にとくに難があるとは思われないが、支配人はエマニュエルに対し、ホテルという空間をエロティックでリラックスできる祝祭的な場として演出していると語る。おそらくそれがホテルの評判を下げた原因ではないかと思われるし、本部もそのことをエマニュエルに確認させようとしている。エマニュエルは、いうなれば、スーパーエゴの指令によって、エロティックな欲望のありかをつきとめることで、性的欲望の抑圧に加担しているとでもいうべきか。
最終的に彼女は、ホテル経営に何ら問題はないと報告するのだが、おそらくそれは本部の意向にそぐわない報告であり、ホテル支配人ではなく彼女自身が解雇されるだろうが、同時にそれはスーパーエゴの支配を離れ、彼女が無意識の性的欲望を解放したことも意味している。
それがある意味、彼女の脳内における精神的変化であるとすれば、いまひとつは彼女をとりまく環境から発散するエロスである。彼女の性的欲望が周囲の環境と同期するか、もしくは周囲の環境が彼女の性的欲望を喚起するといってもいい。
香港という東洋の神秘とエロスの場。1974年の『エマニュエル夫人』もそうだったが、アジア(タイのバンコクだったか)がオリエンタルなエロス解放の場となったように、いま香港の高級ホテルだけでなくその路地裏もまた危険なエロスを発散する。あるいはもっと正確にいえば、オリエンタリズムによって東洋が、実際はどうであれ、西洋の眼からすると危険な死と隣り合わせのエロスの場となる――と、そのように妄想されるのだ、ちょうど、危険きわまりない遊びが行なわれている秘密のクラブと西洋からの訪問客たちが考えている場が、実際にエマニュエルが危険を承知で行ってみると、ただの雀荘だったというエピソードが如実に示しているように(なおこの雀荘は裏で売春斡旋業をしているようなのだが)。
そしてホテルそのものもまた、すでに支配人の言葉どおりに、エロスの解放の場となっている。嵐の夜、ホテルの地下が浸水して水浸しになるエピソードが濃厚に漂わせているように、ホテルの身体は下半身がうずき濡れているのである。
こうした二つの要因――抑圧的な使命に対する反発と、エロティックな環境――によってエマニュエルは徐々に自分の性的欲望を解放するのだが、しかし、同時にそれは直接的な肉体的経験というよりも、雰囲気に酔っているというか、あるいは自慰的な妄想にひたることでしかない。
彼女は神秘的な日本人の男性ケイ・シノハラ(ウィル・シャープがいい味を出しているのだが)に惹かれてゆくのだが、彼が宿泊しているホテルの部屋のバスルームで、彼女は不在のケイ・シノハラ/ウィル・シャープを思いひとり浴槽に入る。おそらくそれは彼女の片思いというよりも妄想によるマスターベーションということだろう。
エマニュエルがケイ・シノハラと結ばれることになって映画はクライマックスを迎え終わるのではという予想は、ある程度、的中して、彼女はケイ・シノハラの手引きで香港の夜の性的世界に導かれ、そこの若い男性と肉体的に結ばれることになる……。いや、ケイ・シノハラとではないのか。彼は、エマニュエルを香港の男性との性行為へと導くことで消えてゆく消滅する媒介者ということだったのか。
いやそうではなく、エマニュエルと香港の若い男性とがセックスをするその場に、ケイ・シノハラは消えずに残っている。それだけでなく、ケイ・シノハラは、エマニュエルと香港の若い男とのセックスの指南役として、あれこれ指示を出すのだ。なんだ、これは。
結局、エマニュエルが、香港ではじめてセックスをする見知らぬ男性は、その場にいて二人のセックスを見守っているケイ・シノハラの身代わりなのである。彼女のセックスは、ケイ・シノハラを念頭においたマスターベーションにすぎない。そしておそらくこれが、この映画が到達するひとつの洞察なのである。エロスは、遠いもの、手に入らないものへの妄想によって最高の強度の達するのだということ。マスバーベーションほどエロティクなものはないと洞察。
ケイ・シノハラは、ほんとに存在したのかどうかわからない。彼女の妄想のなかだけの存在だったのかもしれない。最後の場面、彼女と見知らぬ男とのセックスの場にいるケイ・シノハラは彼女の妄想のなかだけの存在かもしれない。おそらく、香港のホテルも、香港も、そしてアジアも、オリエントも。
そしてこの妄想をエマニュエルが仕切っている。彼女が構築している。彼女は欲望を利用されるのではなく、欲望をみずから発見し操縦している。自動詞的な欲望は、誰に利用されるわけでもなく、誰に奉仕するわけでもなく、自由なのである。それが女性にとってのひとつの望ましい欲望のかたちである。禁欲的な欲望と自由奔放な欲望との合体。それがこの映画が到達する第二の洞察ではないだろうか。
前作『エマニュエル夫人』の原題は『エマニュエル』で今作も前作と同じ『エマニュエル』。「エマニュエル夫人」というのは日本で勝手につけたタイトル(もっとも「夫人」であることはまちがいなかったが)。
ただそれにしても1974年の前作に登場したシルヴィア・クリステルは当時21歳。清純さのなかにエロスをにじませるまばゆいばかりの若いエマニュエルの面影は、今回の35歳のノエミ・メルランのエマニュエルにはない。ノエミ・メルランの顔はきつい。シルヴィア・クリステルにあったあどけなさは(たとえそれが淫乱さの引き立て役であったとしても)、ノエミ・メルランには望めない。彼女はむしろ禁欲的なイメージ、エロスとは対極にある存在であるかにみえる。
実際、『燃える女の肖像』(セリーヌ・シアマ監督2019)のノエミ・メルランのほうが、ずっとよかったというか、そこでは彼女は同性愛的感情に覚醒するのではなく覚醒させる側だったのだが、またそこではレズビアン映画の古典ともいえる格調のたかさが際立っていたのだが、今回の『エマニュエル』において、彼女はエロくないし、そもそも何をやっているのかよくわからない。彼女は誰を愛しているのかわからないし、誰から愛されているのかも不明。
最初から結論をいえば、ノエミ・メルラン版の『エマニュエル』は他動詞的ではなく自動詞的である。自慰的といえばそうかもしれないし、また自律的といってもいい。とにかく愛しもしないし愛されもしない。ただ欲望を開花させるだけである。まあそこが、人工中絶のために奔走する主人公を扱う『あのこと』の監督オドレイ・ディワンの真骨頂というべきかもしれない。相手がいないのである。
もうひとつ今回の『エマニュエル』では、すべてが脳内劇場のできごとであるとみることもできる。冒頭のシーンで香港へ向かう旅客機のトイレでのセックスは、いきなり奔放なエロス全開かと思うのだが、機内における彼女の性的妄想にすぎないのではという可能性が残る。実際、彼女のその後の言動は、妄想の沼にはまるようなところがあるというか、すでに沼にはまっているところがあり、香港に向かう旅客機のなかではじまっていたと推測できるのだ。
彼女の妄想癖は二つの要因によって加速する。ひとつは性的欲望の抑圧による反動によって。そもそも彼女は香港のホテルのステータスのランクが下がったことの原因を突き止めるために派遣された監査官のような立場にあり、本部の指示に従って、香港のホテル支配人(ナオミ・ワッツ)の問題点を探ることになる。支配人のホテル運営にとくに難があるとは思われないが、支配人はエマニュエルに対し、ホテルという空間をエロティックでリラックスできる祝祭的な場として演出していると語る。おそらくそれがホテルの評判を下げた原因ではないかと思われるし、本部もそのことをエマニュエルに確認させようとしている。エマニュエルは、いうなれば、スーパーエゴの指令によって、エロティックな欲望のありかをつきとめることで、性的欲望の抑圧に加担しているとでもいうべきか。
最終的に彼女は、ホテル経営に何ら問題はないと報告するのだが、おそらくそれは本部の意向にそぐわない報告であり、ホテル支配人ではなく彼女自身が解雇されるだろうが、同時にそれはスーパーエゴの支配を離れ、彼女が無意識の性的欲望を解放したことも意味している。
それがある意味、彼女の脳内における精神的変化であるとすれば、いまひとつは彼女をとりまく環境から発散するエロスである。彼女の性的欲望が周囲の環境と同期するか、もしくは周囲の環境が彼女の性的欲望を喚起するといってもいい。
香港という東洋の神秘とエロスの場。1974年の『エマニュエル夫人』もそうだったが、アジア(タイのバンコクだったか)がオリエンタルなエロス解放の場となったように、いま香港の高級ホテルだけでなくその路地裏もまた危険なエロスを発散する。あるいはもっと正確にいえば、オリエンタリズムによって東洋が、実際はどうであれ、西洋の眼からすると危険な死と隣り合わせのエロスの場となる――と、そのように妄想されるのだ、ちょうど、危険きわまりない遊びが行なわれている秘密のクラブと西洋からの訪問客たちが考えている場が、実際にエマニュエルが危険を承知で行ってみると、ただの雀荘だったというエピソードが如実に示しているように(なおこの雀荘は裏で売春斡旋業をしているようなのだが)。
そしてホテルそのものもまた、すでに支配人の言葉どおりに、エロスの解放の場となっている。嵐の夜、ホテルの地下が浸水して水浸しになるエピソードが濃厚に漂わせているように、ホテルの身体は下半身がうずき濡れているのである。
こうした二つの要因――抑圧的な使命に対する反発と、エロティックな環境――によってエマニュエルは徐々に自分の性的欲望を解放するのだが、しかし、同時にそれは直接的な肉体的経験というよりも、雰囲気に酔っているというか、あるいは自慰的な妄想にひたることでしかない。
彼女は神秘的な日本人の男性ケイ・シノハラ(ウィル・シャープがいい味を出しているのだが)に惹かれてゆくのだが、彼が宿泊しているホテルの部屋のバスルームで、彼女は不在のケイ・シノハラ/ウィル・シャープを思いひとり浴槽に入る。おそらくそれは彼女の片思いというよりも妄想によるマスターベーションということだろう。
エマニュエルがケイ・シノハラと結ばれることになって映画はクライマックスを迎え終わるのではという予想は、ある程度、的中して、彼女はケイ・シノハラの手引きで香港の夜の性的世界に導かれ、そこの若い男性と肉体的に結ばれることになる……。いや、ケイ・シノハラとではないのか。彼は、エマニュエルを香港の男性との性行為へと導くことで消えてゆく消滅する媒介者ということだったのか。
いやそうではなく、エマニュエルと香港の若い男性とがセックスをするその場に、ケイ・シノハラは消えずに残っている。それだけでなく、ケイ・シノハラは、エマニュエルと香港の若い男とのセックスの指南役として、あれこれ指示を出すのだ。なんだ、これは。
結局、エマニュエルが、香港ではじめてセックスをする見知らぬ男性は、その場にいて二人のセックスを見守っているケイ・シノハラの身代わりなのである。彼女のセックスは、ケイ・シノハラを念頭においたマスターベーションにすぎない。そしておそらくこれが、この映画が到達するひとつの洞察なのである。エロスは、遠いもの、手に入らないものへの妄想によって最高の強度の達するのだということ。マスバーベーションほどエロティクなものはないと洞察。
ケイ・シノハラは、ほんとに存在したのかどうかわからない。彼女の妄想のなかだけの存在だったのかもしれない。最後の場面、彼女と見知らぬ男とのセックスの場にいるケイ・シノハラは彼女の妄想のなかだけの存在かもしれない。おそらく、香港のホテルも、香港も、そしてアジアも、オリエントも。
そしてこの妄想をエマニュエルが仕切っている。彼女が構築している。彼女は欲望を利用されるのではなく、欲望をみずから発見し操縦している。自動詞的な欲望は、誰に利用されるわけでもなく、誰に奉仕するわけでもなく、自由なのである。それが女性にとってのひとつの望ましい欲望のかたちである。禁欲的な欲望と自由奔放な欲望との合体。それがこの映画が到達する第二の洞察ではないだろうか。
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2025年02月18日
『Broken Rage』
アマゾン・プライムヴィデオで配信中の北野武監督・脚本・主演の映画『Broken Rage』は、Wikipediaによる紹介を引用すると
ちなみに、Wikipediaのこの項目には、「この作品記事はあらすじの作成が望まれています。 ご協力ください」と間抜けな注意書きがある。概要という見出しなのだが、これはりっぱなあらすじで、これ以上、何を付け加えるというのだろうか。またこの↑概要は、多くのねたをばらしている。
前半30分がシリアス編、後半30分がセルフ・パロディのギャグ・コメディ編となるが、前半と後半で同じ物語を共有しているので、絨毯の裏表ともいえるのだが、ただ、それをいうなら前半は、あるいは最初は、悲劇(実際にはハッピーエンディングのシリアス劇)、二番目は茶番でということになろうか。
この茶番の部分は、正直言って観ていてつらく恥ずかしくなったし、多くの視聴者もそう感じたようだが、ただ、観ているうちにあまりのくだらなさで大笑いしたことも事実。ひとつひとつのギャグは面白くもなんともないのだが、それを何度も畳みかけるとおかしくてたまらなくなるというやつだろうか。
ただ同じ物語の反復というのは興味深かった。いわゆる、今流行りともいえない前から流行っているタイム・ループ物に属する映画だとみたらどうだろう。
ただし、タイム・ループ物では、同じ事件、同じ物語を繰り返されるとき、当事者は、前の回の記憶がある。つまり同じ事件が展開しているという記憶がある(たとえそれは全員ではなくても、主人公あるいは重要人物には出来事が反復していることが認識できる)。
しかし『Broken Rage』においては登場人物は、前半と同じ物語、同じ事件を反復しているという意識はまったくない。となると、これはタイム・リープ物というパラダイムでは把握できない構成であるとわかる。
同じ事件、同じ物語を反復したのである。なぜ、そんなことをするのか。
ホン・サンス監督・脚本の『正しい日 間違えた日』(2015)は、同じ出来事を前半と後半で反復する、ある意味、異色作。
映画監督の主人公が観光地で女性と出会い、大学で少人数の学生やファンを相手に講演をするといった出来事(ホン・サンス監督の映画ではおなじみの私小説出来事)が、前半と後半で繰り返される。ただしまったく同じではなく、後半では、登場人物と展開は同じだが、カメラアングルやカット割りを変えたり、新たなエピソードを加えたり、出来事の時間も長くして、前半よりも掘り下げた内容となっている。ということは前半だけでは物足らなくて後半を取り直した。後半はセカンドテイクなのである。
どちらが「正しい日」で、どちがら「間違った日」なのかははっきりしないが、ふつうに考えると、最初のテイクがよくなかったから、つまり完成に達しなかったから、もう一テイク撮ったということになろう。2回目が、反復回が、完成もしくは完成に一歩近づいた回ということになろう。
もちろん映画撮影の場合起こりうることだが、最初撮ったシーンが気に入らない、あるいは失敗とみなされ、何度も、撮り直してみて、結果的に最初のシーンが一番よかったということもあろう。繰り返せば繰り返すほどよくなる場合と、反対に繰り返すごとに悪くなるということもある。
そのような可能性を常に念頭に置きつつ、一般的には、繰り返す以上、後続回のほうが改善されているとみるべきだろう。ゲームのようにリセットしてやり直すことでよい結果がでるとみることができる。
だが『Broken Rage』では、完成された30分の短編映画(北野監督のこれまでの映画の集大成というか簡約あるいは凝集版)という前半に対して、同じ物語を提示する後半は、改善された向上したというよりも、改悪、悪化したようにみえる。完成された前半を後半で覆したかのようだ。前半が間違えた日、後半が正しい日となってハッピーエンディングとなるというよりも、前半は完成した正しい作品、二番目つまり後半は間違った茶番というほうがぴったりくる。
しかし反復の理由は結果はどうであれ完成への挑戦であり、前半はまちがった日であり後半は正しい日であるという意味付けは残る。『Broken Rage』では、まちがった失敗でもあるような後半が、前半の改善版ともいえる。なぜか。
いまはもう読まれなくなったと思うが、私が英文科の学生の頃に読んだオルダス・ハクスリーのエッセイに、「悲劇と全体的真実」というのがあった(‘Tragedy and the Whole Truth’, Music at Night(1931)所収)。
私などこれを読んだ最後の世代ではないかと思うが、このエッセイのなかでハクスリーは悲劇というのは定められた破局的結末にむかってすべてが収斂するよう、夾雑物を一切排除した展開をするのに対し、喜劇は、夾雑物や筋とは無関係な要素を積極的に取り入れ脱線をもいとわないルースな展開をする。
だから喜劇は未完成な劣悪な芸術というのではなく、実はそこが喜劇の素晴らしいところであって、喜劇は、悲劇では表象できない人生や世界の不確定要素を表象できる。悲劇が純粋かつ狭小な真実の提示をめざすとすれば、喜劇はあらゆる可能性を考慮する全体的真実を提示するのである。
たとえばとハクスリーはシェイクスピアの『オセロー』を例にだす。オセローの妻となったデズデモーナが、あとから別の船で到着した夫オセローを出迎えに桟橋を走ってくるときに、よもやつまずいて、倒れ、スカートがめくれあがってパンツまるみえという、はしたない姿をさらけだすことはないだろう。そんなアクションなり描写があれば、悲劇作品がだいなしになる。
ハクスリーが念頭に置いているのはフィールディングの『トム・ジョーンズ』である。そこでは主人公の恋人が再会に駆けつけるもののけつまずきパンツ丸見えになる。しかし喜劇的要素満載の『トム・ジョーンズ』ではその描写で作品世界がゆらぐことはない。さらにいえば、転んではしたない姿になるということは現実には起り得る。しかし悲劇は、そうした可能性を取り入れることはできない。悲劇のほうが現実に対する間口が狭いのである。それに対して喜劇的なものは、あらゆる可能性を吸収できる。喜劇は全体的真実に開かれているのである。
こう考えると、『Broken Rage』は、完成度の高い、それゆえ夾雑物や不純な要素を排除している前半部に対して、排除された可能性、作品の完成を阻止するような否定的可能性を積極的に取り込んだ後半部をぶつけてきたといえるだろう。前半部は現実の多様な可能性を排除し、後半部は現実の多様な可能性をとりいれている、つまり後半部は全体的真実に迫ろうとしているのである。
実際、『Broken Rage』では主人公は何度もけつまずく。座ろうとする椅子が壊れていて、壊れたテーブルごとひっくりかえる。そのひとつひとつが茶番的笑いの種かもしれないが、同時にそれは、前半部でかっこいい殺し屋を作りあげるために排除された、かっこわるい可能性(ただし現実には常に起こりうる出来事)の一コマなのである。
『Broken Rage』の後半は、あるいは二度目は全体的真実が開示される場である。となると、初回をパロディ化し、初回の完成度を揺るがすような第二回は、その実、全体的真実への作品を開き、初回の完成度を上回る全体的真実への開かれを実現しているのである。
実際のところ、第一回で謎なまま取り残された要素(Mとは誰か)が、第二回の最後で判明する。第二回は、正しい日、真実が開示される日でもあったのだ。
概要
殺し屋の男"ねずみ"は謎の男『M』からの依頼で闇金経営者・大黒、暴力団組長・茂木をはじめ、数々の暗殺を重ねていた。しかし、依頼を受ける喫茶店を警察に押さえられ、刑事・井上、福田らから取調べを受ける。
”ねずみ”は暴力を交えた苛烈な取り調べを受けるが、頑なに背後関係を吐かない。そこで、井上、福田らから過去の罪を全て揉み消し、新しい身分、住居と死ぬまで困らない報酬を保障する代わりに覆面捜査官となって麻薬組織への潜入を持ちかけられる。
刑事らの手引きにより、対象の麻薬組織のボス・金城の前で強力な腕っぷしを披露し、組織に引き入れられて即座にボディーガードに抜擢される。更には金城を狙った暗殺者を拳銃を抜く暇も与えず射殺し信頼を得る。
しかし、肝心の薬物取引の現場を押さえる機会がなかなか訪れず、焦れた刑事らによって、混ぜ物入りの麻薬が縄張り内で発見されたという偽情報を”ねずみ”から金城に報告し、内部不和を招く。組織内で薬物をパッケージ化する田村へ疑いの目が向けられ、金城による直接かつ大規模な取引が行われるように仕向けることに成功したのだった。
そして当日、遂に刑事らは多数の警官と共に取引現場に押し入り、その中で”ねずみ”は手筈通り、刑事により射殺されたように見せかけ、自由を手にするのであった。
……という内容を、前半はバイオレンスドラマ、後半ではセルフパロディのストーリーコントとなり最後に前半では語られなかったネタバらしがある。
ちなみに、Wikipediaのこの項目には、「この作品記事はあらすじの作成が望まれています。 ご協力ください」と間抜けな注意書きがある。概要という見出しなのだが、これはりっぱなあらすじで、これ以上、何を付け加えるというのだろうか。またこの↑概要は、多くのねたをばらしている。
前半30分がシリアス編、後半30分がセルフ・パロディのギャグ・コメディ編となるが、前半と後半で同じ物語を共有しているので、絨毯の裏表ともいえるのだが、ただ、それをいうなら前半は、あるいは最初は、悲劇(実際にはハッピーエンディングのシリアス劇)、二番目は茶番でということになろうか。
この茶番の部分は、正直言って観ていてつらく恥ずかしくなったし、多くの視聴者もそう感じたようだが、ただ、観ているうちにあまりのくだらなさで大笑いしたことも事実。ひとつひとつのギャグは面白くもなんともないのだが、それを何度も畳みかけるとおかしくてたまらなくなるというやつだろうか。
ただ同じ物語の反復というのは興味深かった。いわゆる、今流行りともいえない前から流行っているタイム・ループ物に属する映画だとみたらどうだろう。
ただし、タイム・ループ物では、同じ事件、同じ物語を繰り返されるとき、当事者は、前の回の記憶がある。つまり同じ事件が展開しているという記憶がある(たとえそれは全員ではなくても、主人公あるいは重要人物には出来事が反復していることが認識できる)。
しかし『Broken Rage』においては登場人物は、前半と同じ物語、同じ事件を反復しているという意識はまったくない。となると、これはタイム・リープ物というパラダイムでは把握できない構成であるとわかる。
同じ事件、同じ物語を反復したのである。なぜ、そんなことをするのか。
ホン・サンス監督・脚本の『正しい日 間違えた日』(2015)は、同じ出来事を前半と後半で反復する、ある意味、異色作。
映画監督の主人公が観光地で女性と出会い、大学で少人数の学生やファンを相手に講演をするといった出来事(ホン・サンス監督の映画ではおなじみの私小説出来事)が、前半と後半で繰り返される。ただしまったく同じではなく、後半では、登場人物と展開は同じだが、カメラアングルやカット割りを変えたり、新たなエピソードを加えたり、出来事の時間も長くして、前半よりも掘り下げた内容となっている。ということは前半だけでは物足らなくて後半を取り直した。後半はセカンドテイクなのである。
どちらが「正しい日」で、どちがら「間違った日」なのかははっきりしないが、ふつうに考えると、最初のテイクがよくなかったから、つまり完成に達しなかったから、もう一テイク撮ったということになろう。2回目が、反復回が、完成もしくは完成に一歩近づいた回ということになろう。
もちろん映画撮影の場合起こりうることだが、最初撮ったシーンが気に入らない、あるいは失敗とみなされ、何度も、撮り直してみて、結果的に最初のシーンが一番よかったということもあろう。繰り返せば繰り返すほどよくなる場合と、反対に繰り返すごとに悪くなるということもある。
そのような可能性を常に念頭に置きつつ、一般的には、繰り返す以上、後続回のほうが改善されているとみるべきだろう。ゲームのようにリセットしてやり直すことでよい結果がでるとみることができる。
だが『Broken Rage』では、完成された30分の短編映画(北野監督のこれまでの映画の集大成というか簡約あるいは凝集版)という前半に対して、同じ物語を提示する後半は、改善された向上したというよりも、改悪、悪化したようにみえる。完成された前半を後半で覆したかのようだ。前半が間違えた日、後半が正しい日となってハッピーエンディングとなるというよりも、前半は完成した正しい作品、二番目つまり後半は間違った茶番というほうがぴったりくる。
しかし反復の理由は結果はどうであれ完成への挑戦であり、前半はまちがった日であり後半は正しい日であるという意味付けは残る。『Broken Rage』では、まちがった失敗でもあるような後半が、前半の改善版ともいえる。なぜか。
いまはもう読まれなくなったと思うが、私が英文科の学生の頃に読んだオルダス・ハクスリーのエッセイに、「悲劇と全体的真実」というのがあった(‘Tragedy and the Whole Truth’, Music at Night(1931)所収)。
私などこれを読んだ最後の世代ではないかと思うが、このエッセイのなかでハクスリーは悲劇というのは定められた破局的結末にむかってすべてが収斂するよう、夾雑物を一切排除した展開をするのに対し、喜劇は、夾雑物や筋とは無関係な要素を積極的に取り入れ脱線をもいとわないルースな展開をする。
だから喜劇は未完成な劣悪な芸術というのではなく、実はそこが喜劇の素晴らしいところであって、喜劇は、悲劇では表象できない人生や世界の不確定要素を表象できる。悲劇が純粋かつ狭小な真実の提示をめざすとすれば、喜劇はあらゆる可能性を考慮する全体的真実を提示するのである。
たとえばとハクスリーはシェイクスピアの『オセロー』を例にだす。オセローの妻となったデズデモーナが、あとから別の船で到着した夫オセローを出迎えに桟橋を走ってくるときに、よもやつまずいて、倒れ、スカートがめくれあがってパンツまるみえという、はしたない姿をさらけだすことはないだろう。そんなアクションなり描写があれば、悲劇作品がだいなしになる。
ハクスリーが念頭に置いているのはフィールディングの『トム・ジョーンズ』である。そこでは主人公の恋人が再会に駆けつけるもののけつまずきパンツ丸見えになる。しかし喜劇的要素満載の『トム・ジョーンズ』ではその描写で作品世界がゆらぐことはない。さらにいえば、転んではしたない姿になるということは現実には起り得る。しかし悲劇は、そうした可能性を取り入れることはできない。悲劇のほうが現実に対する間口が狭いのである。それに対して喜劇的なものは、あらゆる可能性を吸収できる。喜劇は全体的真実に開かれているのである。
こう考えると、『Broken Rage』は、完成度の高い、それゆえ夾雑物や不純な要素を排除している前半部に対して、排除された可能性、作品の完成を阻止するような否定的可能性を積極的に取り込んだ後半部をぶつけてきたといえるだろう。前半部は現実の多様な可能性を排除し、後半部は現実の多様な可能性をとりいれている、つまり後半部は全体的真実に迫ろうとしているのである。
実際、『Broken Rage』では主人公は何度もけつまずく。座ろうとする椅子が壊れていて、壊れたテーブルごとひっくりかえる。そのひとつひとつが茶番的笑いの種かもしれないが、同時にそれは、前半部でかっこいい殺し屋を作りあげるために排除された、かっこわるい可能性(ただし現実には常に起こりうる出来事)の一コマなのである。
『Broken Rage』の後半は、あるいは二度目は全体的真実が開示される場である。となると、初回をパロディ化し、初回の完成度を揺るがすような第二回は、その実、全体的真実への作品を開き、初回の完成度を上回る全体的真実への開かれを実現しているのである。
実際のところ、第一回で謎なまま取り残された要素(Mとは誰か)が、第二回の最後で判明する。第二回は、正しい日、真実が開示される日でもあったのだ。
posted by ohashi at 12:13| 映画
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2025年02月16日
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』
ペドロ・アルモドバル監督のこの映画The Room Next Door(2024)は「百合」の映画かというと、そうではあるが、そうでもない。少なくとも体裁上、これはがんで死んでゆく友人の女性をみとる女性の、友情物語で、そこにエクスプリシットなレズビアン描写はない。
がんで余命いくばくもないマーサ・ハント/ティルダ・スウィントンには娘がいることになっているし(実際、彼女の死後、その娘が登場する)、彼女の世話をする友達のイングリッド・パーカー/ジュリアン・ムーアにはボーイ・フレンド(ダミアン・カニンガム/ジョン・タトゥーロ)がいる。もっともジュリアン・ムーアにとって、ダミアン/タトゥーロは、マーサ/ティルダ・スウィントンからのおさがりなのだが。まあマーサとイングリッドは友達だが、同時に姉妹のような関係でもある。そして仲の良い、姉妹のような関係のふたりをレズビアンと呼ぶことには抵抗があるかもしれない――レズビアンがよくないということでは決してない。
だが、ふたりの女性のなかに、レズビアン的感情があることは、におわされているのではないだろうか。直接的ではなく、状況的に。マーサが購入するガラス張りの別荘は、湖を臨むところにある。物語は湖を背景にしている、水物語である。
そしてさらにマーサが自殺を遂げた後、刑事が、自殺ほう助ではないかとイングリッド/ジュリアン・ムーアを問い詰める。合衆国では自殺は刑事罰に問われないが、自殺ほう助は、そのかたちでの安楽死を認めている州でないかぎり、刑事罰に問われるようだ。そのためマーサ/ティルダ・スウィントンはイングリッド/ジュリアン・ムーアらに迷惑がかからないように、自分の判断で薬物を手に入れて一人で死ぬことにしたと遺書を残すのだが、警察は、イングリッドによる自殺ほう助を厳しく問い詰める。
それは当然といえば当然のことだが、だがその追及の異端審問的な厳しさに対しては、同性愛者に対する偏見と迫害を想起させるのに十分なものがある。そしてここからわかるのは、女性同士の友情、あるいは姉妹の家族愛の物語に、同性愛物語が影のように寄り添っていることである。
私がつねに指摘しているのは、水の物語ではなく、絨毯の裏表の関係である。同性愛物語と異性愛物語は、絨毯の裏表のように、表裏一体化している、つまり同じ図柄を共有している。
問題はなぜそんなことをするかである。もちろん同性愛物語に対する抵抗を緩和するあるいはなくすために異性愛物語をカムフラージュに使うということがあろう。異性愛物語は、同性愛物語を流通させるための通行手形、賄賂みたいなものとみることができる。
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』にも、すでに述べたように異性愛者の女性ふたりの姉妹的友情という設定が異性愛物語を支持しているようにみえる。だが、ほんとうに異性愛物語として解釈されてしまわないような工夫もほどこされていて、マーサがかつてジャーナリストとして中東で取材したとき、カトリック教会の信者で明らかに同愛者であるアラブ人を登場させている。マーサとイングリッドは姉妹ようだと述べたが、実際には、二人の俳優は同年齢で、おそらく映画の中でも同年齢という設定だろう(姉妹ではない、姉妹愛ではない)。
そしてきわめつけは、マーサの娘である。マーサの死後、娘のミシェルがマーサが最期を迎えた家を訪れる。彼女は母親そっくりである。当然のことながらティルダ・スウィントンの一人二役なのだから。しかし、この一人二役には違和感がある。むしろティルダ・スウィントンに似た誰が別の俳優を使えばよかったのにとも思うのだが、ただ母親が死んでも、娘のなかに/として母親は生きているという「死と再生」あるいは「断絶と連続」のイメージを出したかったのかもしれない。またさらにいうと、母親とそっくりな娘は、まるでクローン人間のようである。そう、娘である彼女は、父親を必要とせず、母親から直接生まれてきた単性生殖の娘であるようにみえる。あるいはクローンのような娘であって、男を必要としない存在なのだ―ボーイズ・オン・ザ・サイド。
だが同性愛的要素をこっそり忍ばせる、あるいは批判や差別をかわし、わかる人にはわかるという、やや消極的な理由だけが、この二重の光学の存在理由ではない。
同性愛は異性愛とは別物の異物的存在ではない。同性愛あるいは同性愛的感情は異性愛と区別がつかない、あるいは異性愛とからまりあっている。誰もが、あるいは異性愛者もまた、同性愛者あるいは同性愛的感情を明確に宿している。
同性愛者は、たんなる変態でもなければモンスターでもない。異性愛者と同じ人間であり、さらにいえば異性愛者と同じ精神や感情を共有している同胞である。異性に対して抱く同じ感情を同性に対して抱いてもなにもおかしくない。それは当然の感情であり、モンストラスなもの、変態的・倒錯的なものではない。だからこそ異性愛と同性愛は双子の兄弟姉妹のように見分けがつかないし、また分けて考える必要もないのである。
同性愛者は隣の家に、あるいは隣の部屋に住んでいる異物あるいは他者ではない。異性愛と同性愛とのあいだに境界などない。映画のタイトルになっている「隣の部屋」は、同性愛者に割り振られている差別的特別区画のイメージがある。だが、実際には、同性愛者はそこにいない。映画のなかでジュリアン・ムーアがいるのは、真下の部屋である――メタフォリカルな存在。それは隣の部屋ではない――メトニミーではない。同性愛者は異性愛者と重なり合っている――幽体離脱のように異性愛者とうりふたつで、異性愛者から生まれ出るのだ。
一見、同性愛差別を緩和するための措置とみえたもの、異性愛者に通告手形、あるいは賄賂のように手渡される異性愛的要素は、実のところ、同性愛のありかを示す真実の開示であった。
異性愛と同性愛、それは「あれか/これか」Either Orの関係ではない。「どちらもBoth」の関係なのである。
付記
ペドロ・アルモドバルの2023年の短編映画『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』Strange Way of Lifeは、カウボーイのエクスプリシットな同性愛を描いた、まさにゲイ映画の典型なのだが、そのなかで、何年振りかで再会したジェイク/イーサン・ホークを看病することになったシルヴァ/ペドロ・パスカルはこう語る。それが映画の最後の締めくくりのセリフともなっている。字幕はとてもうまく訳していた記憶にあり、それを超える訳はできそうもないので、原語のまま引用する:
たがいに、いたわり、まもり、なかむつまじくいる。同性愛も異性愛もない。
いや、昨年翻訳出版されたジェーン・ウォード『異性愛という悲劇』安達眞弓訳(太田出版2024)にあるように、むしろ異性愛のほうが冷酷で差別的で愚劣で愛と思いやりの要件を満たしていないかもしれないのだ。
がんで余命いくばくもないマーサ・ハント/ティルダ・スウィントンには娘がいることになっているし(実際、彼女の死後、その娘が登場する)、彼女の世話をする友達のイングリッド・パーカー/ジュリアン・ムーアにはボーイ・フレンド(ダミアン・カニンガム/ジョン・タトゥーロ)がいる。もっともジュリアン・ムーアにとって、ダミアン/タトゥーロは、マーサ/ティルダ・スウィントンからのおさがりなのだが。まあマーサとイングリッドは友達だが、同時に姉妹のような関係でもある。そして仲の良い、姉妹のような関係のふたりをレズビアンと呼ぶことには抵抗があるかもしれない――レズビアンがよくないということでは決してない。
だが、ふたりの女性のなかに、レズビアン的感情があることは、におわされているのではないだろうか。直接的ではなく、状況的に。マーサが購入するガラス張りの別荘は、湖を臨むところにある。物語は湖を背景にしている、水物語である。
そしてさらにマーサが自殺を遂げた後、刑事が、自殺ほう助ではないかとイングリッド/ジュリアン・ムーアを問い詰める。合衆国では自殺は刑事罰に問われないが、自殺ほう助は、そのかたちでの安楽死を認めている州でないかぎり、刑事罰に問われるようだ。そのためマーサ/ティルダ・スウィントンはイングリッド/ジュリアン・ムーアらに迷惑がかからないように、自分の判断で薬物を手に入れて一人で死ぬことにしたと遺書を残すのだが、警察は、イングリッドによる自殺ほう助を厳しく問い詰める。
それは当然といえば当然のことだが、だがその追及の異端審問的な厳しさに対しては、同性愛者に対する偏見と迫害を想起させるのに十分なものがある。そしてここからわかるのは、女性同士の友情、あるいは姉妹の家族愛の物語に、同性愛物語が影のように寄り添っていることである。
私がつねに指摘しているのは、水の物語ではなく、絨毯の裏表の関係である。同性愛物語と異性愛物語は、絨毯の裏表のように、表裏一体化している、つまり同じ図柄を共有している。
問題はなぜそんなことをするかである。もちろん同性愛物語に対する抵抗を緩和するあるいはなくすために異性愛物語をカムフラージュに使うということがあろう。異性愛物語は、同性愛物語を流通させるための通行手形、賄賂みたいなものとみることができる。
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』にも、すでに述べたように異性愛者の女性ふたりの姉妹的友情という設定が異性愛物語を支持しているようにみえる。だが、ほんとうに異性愛物語として解釈されてしまわないような工夫もほどこされていて、マーサがかつてジャーナリストとして中東で取材したとき、カトリック教会の信者で明らかに同愛者であるアラブ人を登場させている。マーサとイングリッドは姉妹ようだと述べたが、実際には、二人の俳優は同年齢で、おそらく映画の中でも同年齢という設定だろう(姉妹ではない、姉妹愛ではない)。
そしてきわめつけは、マーサの娘である。マーサの死後、娘のミシェルがマーサが最期を迎えた家を訪れる。彼女は母親そっくりである。当然のことながらティルダ・スウィントンの一人二役なのだから。しかし、この一人二役には違和感がある。むしろティルダ・スウィントンに似た誰が別の俳優を使えばよかったのにとも思うのだが、ただ母親が死んでも、娘のなかに/として母親は生きているという「死と再生」あるいは「断絶と連続」のイメージを出したかったのかもしれない。またさらにいうと、母親とそっくりな娘は、まるでクローン人間のようである。そう、娘である彼女は、父親を必要とせず、母親から直接生まれてきた単性生殖の娘であるようにみえる。あるいはクローンのような娘であって、男を必要としない存在なのだ―ボーイズ・オン・ザ・サイド。
だが同性愛的要素をこっそり忍ばせる、あるいは批判や差別をかわし、わかる人にはわかるという、やや消極的な理由だけが、この二重の光学の存在理由ではない。
同性愛は異性愛とは別物の異物的存在ではない。同性愛あるいは同性愛的感情は異性愛と区別がつかない、あるいは異性愛とからまりあっている。誰もが、あるいは異性愛者もまた、同性愛者あるいは同性愛的感情を明確に宿している。
同性愛者は、たんなる変態でもなければモンスターでもない。異性愛者と同じ人間であり、さらにいえば異性愛者と同じ精神や感情を共有している同胞である。異性に対して抱く同じ感情を同性に対して抱いてもなにもおかしくない。それは当然の感情であり、モンストラスなもの、変態的・倒錯的なものではない。だからこそ異性愛と同性愛は双子の兄弟姉妹のように見分けがつかないし、また分けて考える必要もないのである。
同性愛者は隣の家に、あるいは隣の部屋に住んでいる異物あるいは他者ではない。異性愛と同性愛とのあいだに境界などない。映画のタイトルになっている「隣の部屋」は、同性愛者に割り振られている差別的特別区画のイメージがある。だが、実際には、同性愛者はそこにいない。映画のなかでジュリアン・ムーアがいるのは、真下の部屋である――メタフォリカルな存在。それは隣の部屋ではない――メトニミーではない。同性愛者は異性愛者と重なり合っている――幽体離脱のように異性愛者とうりふたつで、異性愛者から生まれ出るのだ。
一見、同性愛差別を緩和するための措置とみえたもの、異性愛者に通告手形、あるいは賄賂のように手渡される異性愛的要素は、実のところ、同性愛のありかを示す真実の開示であった。
異性愛と同性愛、それは「あれか/これか」Either Orの関係ではない。「どちらもBoth」の関係なのである。
付記
ペドロ・アルモドバルの2023年の短編映画『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』Strange Way of Lifeは、カウボーイのエクスプリシットな同性愛を描いた、まさにゲイ映画の典型なのだが、そのなかで、何年振りかで再会したジェイク/イーサン・ホークを看病することになったシルヴァ/ペドロ・パスカルはこう語る。それが映画の最後の締めくくりのセリフともなっている。字幕はとてもうまく訳していた記憶にあり、それを超える訳はできそうもないので、原語のまま引用する:
Silva: [to Jake] Years ago, you asked me what two men could do living together on a ranch.
I'll answer you now.
They can look after one another, protect each other. They can keep each other company.
たがいに、いたわり、まもり、なかむつまじくいる。同性愛も異性愛もない。
いや、昨年翻訳出版されたジェーン・ウォード『異性愛という悲劇』安達眞弓訳(太田出版2024)にあるように、むしろ異性愛のほうが冷酷で差別的で愚劣で愛と思いやりの要件を満たしていないかもしれないのだ。
posted by ohashi at 23:06| 映画
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2025年01月30日
『室町無頼』
映画館で予告編を見る限り、大泉洋の時代劇は、さほど観たいとも思わなかったし、そもそも、あまりよくわからない室町時代が舞台であること。ポジティヴな期待をかきたてる唯一の要因といえば、それは入江悠監督・脚本の映画だということだった。
だから強く観てみたいと思わせるような映画ではなかったが、公開前に、この作品を絶賛しているネット記事にめぐりあったこともあり、どんな映画なのか俄然興味がわいてきた。
そこで公開まもない頃に映画館に足を運んだが、期待にたがわずというか、期待以上の映画であることが確認できた。
大泉洋も、いつもの、よく出会う役柄とはちがっていたし、NHK大河ドラマの源頼朝ともちがっていて、一見何の衒いもなく策もなく飄々と生きているかにみえて、残酷で無策な権力者への怒りを秘めつつも冷静で、敵の眼をあざむく策と用意周到な計略をもってしてことを進めるなど、一筋縄ではいかない端倪すべからざる人間性を誇る、まさにヒーローと無縁であるかにみえて、もっとも正統的なヒーローであった。
ちなみに私の祖母(私に将棋を教えてくれたが決して勝たせてくれなかった)は、剣道の心得などないはずなのに、テレビの時代劇をみてはいつも、俳優の剣の持ち方が悪いとか、腰が入っていないをはじめとして、ありとあらゆる文句をつけていたが、『室町無頼』におけるCGと組み合わされているがCGくささを感じない殺陣には、おそらく文句は言わないだろうと思った。実際、大泉洋をはじめとした演者たちの剣さばきには、映画特有の殺陣の伝統を見事に継承しているように感じた。
物語のなかで、蓮田兵衛/大泉洋の弟子ともいえる才蔵/長尾謙杜の棒術は、クライマックスにおいては地上から屋根の上へと展開する剣戟をみせるのだが、CGと協調するその殺陣は優雅であり力強く、決まった動きと予想外の動きとを見事に合体させて、たとえば映画『八犬伝』(2024)における天守閣の屋根での決闘をしのぐものがあった。
昔、セルゲイ・ボンダルチュク監督のソ連映画『戦争と平和』を映画館でみたとき、戦闘場面(ボロジノの戦いだったと思うが)において、画面の隅々から隅まで戦う兵士たちの動きが認められて大いに圧倒された記憶があるが、12万もエキストラを使った『戦争と平和』に比べれば数こそ少ないものの、強度においてそれに匹敵するほどの一揆の場面が展開していたことは特筆に値しよう。一揆に参加した民衆たち/エキストラたちが誰一人として手を抜くことなく、その絶望と怒りを発散させ、最後には祝祭的な興奮を一丸となって伝えることができていた。
おそらくそこには、黒澤明監督の『七人の侍』にみられたような、勝利をもたらしたのは農民/庶民の力だということの画像的メッセージが意図されているのだろうが、『室町無頼』においては、庶民の力の全面的肯定だけでなく、指導した蓮田兵衛/大泉洋の力もまた等しく顕彰されているように思われた。
『七人の侍』を思い出したついでに、『七人の侍』がアメリカ映画の西部劇の世界をモデルにしていたとしたら、『室町無頼』も西部劇的な世界だが、その音楽からもわかるように、アメリカの西部劇というよりもマカロニ・ウエスタンの世界である(英語ではスパゲッティ・ウェスタンという――こちらのほうが和製英語みたいだが、マカロニのほうが和製英語)。ただ西部劇もマカロニ・ウェスタンも荒野あるいは原野のなかに忽然と姿をあらわす宿場町のようなところが舞台となるのだが、『室町無頼』では、世界は荒野とか原野ではない、ただ荒廃した、累々たる死体の山が連なる地獄のようなところというか地獄そのものとなっている。その意味で、この世界は核戦争後の荒廃した世界を舞台にした『マッド・マックス』シリーズの世界、アフターアルマゲドン的世界に近い。だが、『マッド・マックス』の世界では主人公が戦う相手は地獄の大王というよりも地方の豪族みたいな連中であって、その世界の支配者や国家権力ではない(そもそも『マッド・マックス』の世界線においては国家は崩壊し世界の支配者はいない)。
映画では荒廃した京都が舞台だが、その京都は東山文化の時代ということのようだが、日本文化は御所あるいは幕府の建物以外にはもはや存在しない。これは中心部にだけ文明化されていても、その周囲にひろがるのは荒野でしかないという世界、そう映画『グラディエーターII』がみせる古代ローマ(紀元後の世界だが)の世界を強く連想させる。ただし『グラディエ―ターII』が貴種流離譚であるのに対し、『室町無頼』の蓮田/大泉は、あくまでも無頼の徒である。無頼の徒が実は将軍の落胤だったというような設定ではないところがよい。
ただし『室町無頼』から強く連想される最近の映画は、方向性が正反対で敵と味方が真逆でありながら、どこか似ている『はたらく細胞』である。戦争アクション映画はローテクであればあるほど迫力をます。そこに肉弾戦の要素が入るからである。ハッカーが戦争を起こし、ハッカーが戦争を防ぐという現代の戦争に映画的みどころは存在しない。『はたらく細胞』は、人体における生理的・化学的反応をすべて擬人化しているため、白血球も、キラーT細胞も、NK細胞もどれも、細菌をナイフで殺す――飛び道具は使わない。そしてそれは『室町無頼』における剣を使うアクションと何ら変わりない。
ただ、『はたらく細胞』との比較は、『室町無頼』の世界を照らすというよりも、『室町無頼』によって『はたらく細胞』の世界のイデオロギー的限界があぶりだされるのであって、この点は深追いしないでおくが、ただ、『はたらく細胞』と『室町無頼』は、両極にあるというか、同じ図柄を共有している絨毯の裏と表という関係にあることは明記しておきたい。
【たとえば室町幕府からみれば、一揆は、ガン細胞の増殖みたいなものである。しかし、がん細胞がいくら増殖して人体をのっとっても、人体をコントロールする力はない。それどころか人体を破滅させるしかない。一揆勢力はそれをわかっているから、国家権力に歯向かうとはいっても、農民や庶民を苦しめる証文を破棄するというかたちでとどまっている。国家転覆を目指しているわけではない。】
一揆という反乱は最後には祝祭となって終わる。庶民や農民の歓喜の踊りがそこにある。しかしまた犠牲者も多い。無血革命ではなく流血革命である。そしてそこには責任問題も生まれる。もちろん現実には、そのような成功した革命の指導者あるいは成功したテロのリーダーが責任をとらないことは多い。イスラエルの首相にもなったメナヒム・ベギンは、キング・デイヴィッド・ホテル爆破というテロ行為やデイル・ヤシーン村での虐殺事件などに関与した過激派のシオニスト=テロリストだったが、1978年にノーベル平和賞を受賞している(過去の違法なテロ行為を反省したからではない)。
文学・演劇・映画では、そのような非道を許すことはない。あるいは許さないからこそ、文学の存在価値がある。これは勧善懲悪とは違う。人を殺したら、自らもその責任をとらねばならない。いわゆるPoetic Justice(詩的正義)の問題である。ハムレットがあやまって人を殺したとき、ロミオが友人を殺した人間を激昂して殺したとき、この主人公たちは、同情に値する優れた人間であるけれども、劇の最後には死ぬのだろうと観客は予想し、そのとおりになる。だが、死による代償を払うことによって、その行為は高貴さと崇高さをまとうことになる。
『室町無頼』でも、多くの死に関係する者たちがのうのうと生き延びることはしない。生き延びてほしい人物も含めて、関係者には死の代償が訪れる。だが、それによって、行為(一揆)が無駄であったということではなく、むしろ一揆の精神が魂が後世に生き延びて行けるのである。その意味でも、けっこう正統的な時代劇であった。
【追記:私がはじめて読んだ本格的時代小説は、井上靖の『風林火山』だった。その作品が収録されている本には、さらにもうひとつ井上作品(長編)が収録されていて、それが『戦国無頼』であった。『風林火山』には史実に基づく人物が登場していたが、『戦国無頼』の主要人物はすべて虚構の人物だった。彼らの愛憎劇が主流であり、そのため子供の私にはあまり面白くなかった。またこの『戦国無頼』は映画化されていた。私が生まれるまえに制作された映画(1952年、稲垣浩監督、三船敏郎、三國連太郎、山口俶子ほか)で、いまでもDVD とか配信でみることができるのかどうかわからないが、この小説あるいは映画と『室町無頼』は関係あるのだろうか。まあ、関係ないようだが。
『国民の文学20 井上靖 風林火山 戦国無頼他』(河出書房)】
だから強く観てみたいと思わせるような映画ではなかったが、公開前に、この作品を絶賛しているネット記事にめぐりあったこともあり、どんな映画なのか俄然興味がわいてきた。
そこで公開まもない頃に映画館に足を運んだが、期待にたがわずというか、期待以上の映画であることが確認できた。
大泉洋も、いつもの、よく出会う役柄とはちがっていたし、NHK大河ドラマの源頼朝ともちがっていて、一見何の衒いもなく策もなく飄々と生きているかにみえて、残酷で無策な権力者への怒りを秘めつつも冷静で、敵の眼をあざむく策と用意周到な計略をもってしてことを進めるなど、一筋縄ではいかない端倪すべからざる人間性を誇る、まさにヒーローと無縁であるかにみえて、もっとも正統的なヒーローであった。
ちなみに私の祖母(私に将棋を教えてくれたが決して勝たせてくれなかった)は、剣道の心得などないはずなのに、テレビの時代劇をみてはいつも、俳優の剣の持ち方が悪いとか、腰が入っていないをはじめとして、ありとあらゆる文句をつけていたが、『室町無頼』におけるCGと組み合わされているがCGくささを感じない殺陣には、おそらく文句は言わないだろうと思った。実際、大泉洋をはじめとした演者たちの剣さばきには、映画特有の殺陣の伝統を見事に継承しているように感じた。
物語のなかで、蓮田兵衛/大泉洋の弟子ともいえる才蔵/長尾謙杜の棒術は、クライマックスにおいては地上から屋根の上へと展開する剣戟をみせるのだが、CGと協調するその殺陣は優雅であり力強く、決まった動きと予想外の動きとを見事に合体させて、たとえば映画『八犬伝』(2024)における天守閣の屋根での決闘をしのぐものがあった。
昔、セルゲイ・ボンダルチュク監督のソ連映画『戦争と平和』を映画館でみたとき、戦闘場面(ボロジノの戦いだったと思うが)において、画面の隅々から隅まで戦う兵士たちの動きが認められて大いに圧倒された記憶があるが、12万もエキストラを使った『戦争と平和』に比べれば数こそ少ないものの、強度においてそれに匹敵するほどの一揆の場面が展開していたことは特筆に値しよう。一揆に参加した民衆たち/エキストラたちが誰一人として手を抜くことなく、その絶望と怒りを発散させ、最後には祝祭的な興奮を一丸となって伝えることができていた。
おそらくそこには、黒澤明監督の『七人の侍』にみられたような、勝利をもたらしたのは農民/庶民の力だということの画像的メッセージが意図されているのだろうが、『室町無頼』においては、庶民の力の全面的肯定だけでなく、指導した蓮田兵衛/大泉洋の力もまた等しく顕彰されているように思われた。
『七人の侍』を思い出したついでに、『七人の侍』がアメリカ映画の西部劇の世界をモデルにしていたとしたら、『室町無頼』も西部劇的な世界だが、その音楽からもわかるように、アメリカの西部劇というよりもマカロニ・ウエスタンの世界である(英語ではスパゲッティ・ウェスタンという――こちらのほうが和製英語みたいだが、マカロニのほうが和製英語)。ただ西部劇もマカロニ・ウェスタンも荒野あるいは原野のなかに忽然と姿をあらわす宿場町のようなところが舞台となるのだが、『室町無頼』では、世界は荒野とか原野ではない、ただ荒廃した、累々たる死体の山が連なる地獄のようなところというか地獄そのものとなっている。その意味で、この世界は核戦争後の荒廃した世界を舞台にした『マッド・マックス』シリーズの世界、アフターアルマゲドン的世界に近い。だが、『マッド・マックス』の世界では主人公が戦う相手は地獄の大王というよりも地方の豪族みたいな連中であって、その世界の支配者や国家権力ではない(そもそも『マッド・マックス』の世界線においては国家は崩壊し世界の支配者はいない)。
映画では荒廃した京都が舞台だが、その京都は東山文化の時代ということのようだが、日本文化は御所あるいは幕府の建物以外にはもはや存在しない。これは中心部にだけ文明化されていても、その周囲にひろがるのは荒野でしかないという世界、そう映画『グラディエーターII』がみせる古代ローマ(紀元後の世界だが)の世界を強く連想させる。ただし『グラディエ―ターII』が貴種流離譚であるのに対し、『室町無頼』の蓮田/大泉は、あくまでも無頼の徒である。無頼の徒が実は将軍の落胤だったというような設定ではないところがよい。
ただし『室町無頼』から強く連想される最近の映画は、方向性が正反対で敵と味方が真逆でありながら、どこか似ている『はたらく細胞』である。戦争アクション映画はローテクであればあるほど迫力をます。そこに肉弾戦の要素が入るからである。ハッカーが戦争を起こし、ハッカーが戦争を防ぐという現代の戦争に映画的みどころは存在しない。『はたらく細胞』は、人体における生理的・化学的反応をすべて擬人化しているため、白血球も、キラーT細胞も、NK細胞もどれも、細菌をナイフで殺す――飛び道具は使わない。そしてそれは『室町無頼』における剣を使うアクションと何ら変わりない。
ただ、『はたらく細胞』との比較は、『室町無頼』の世界を照らすというよりも、『室町無頼』によって『はたらく細胞』の世界のイデオロギー的限界があぶりだされるのであって、この点は深追いしないでおくが、ただ、『はたらく細胞』と『室町無頼』は、両極にあるというか、同じ図柄を共有している絨毯の裏と表という関係にあることは明記しておきたい。
【たとえば室町幕府からみれば、一揆は、ガン細胞の増殖みたいなものである。しかし、がん細胞がいくら増殖して人体をのっとっても、人体をコントロールする力はない。それどころか人体を破滅させるしかない。一揆勢力はそれをわかっているから、国家権力に歯向かうとはいっても、農民や庶民を苦しめる証文を破棄するというかたちでとどまっている。国家転覆を目指しているわけではない。】
一揆という反乱は最後には祝祭となって終わる。庶民や農民の歓喜の踊りがそこにある。しかしまた犠牲者も多い。無血革命ではなく流血革命である。そしてそこには責任問題も生まれる。もちろん現実には、そのような成功した革命の指導者あるいは成功したテロのリーダーが責任をとらないことは多い。イスラエルの首相にもなったメナヒム・ベギンは、キング・デイヴィッド・ホテル爆破というテロ行為やデイル・ヤシーン村での虐殺事件などに関与した過激派のシオニスト=テロリストだったが、1978年にノーベル平和賞を受賞している(過去の違法なテロ行為を反省したからではない)。
文学・演劇・映画では、そのような非道を許すことはない。あるいは許さないからこそ、文学の存在価値がある。これは勧善懲悪とは違う。人を殺したら、自らもその責任をとらねばならない。いわゆるPoetic Justice(詩的正義)の問題である。ハムレットがあやまって人を殺したとき、ロミオが友人を殺した人間を激昂して殺したとき、この主人公たちは、同情に値する優れた人間であるけれども、劇の最後には死ぬのだろうと観客は予想し、そのとおりになる。だが、死による代償を払うことによって、その行為は高貴さと崇高さをまとうことになる。
『室町無頼』でも、多くの死に関係する者たちがのうのうと生き延びることはしない。生き延びてほしい人物も含めて、関係者には死の代償が訪れる。だが、それによって、行為(一揆)が無駄であったということではなく、むしろ一揆の精神が魂が後世に生き延びて行けるのである。その意味でも、けっこう正統的な時代劇であった。
【追記:私がはじめて読んだ本格的時代小説は、井上靖の『風林火山』だった。その作品が収録されている本には、さらにもうひとつ井上作品(長編)が収録されていて、それが『戦国無頼』であった。『風林火山』には史実に基づく人物が登場していたが、『戦国無頼』の主要人物はすべて虚構の人物だった。彼らの愛憎劇が主流であり、そのため子供の私にはあまり面白くなかった。またこの『戦国無頼』は映画化されていた。私が生まれるまえに制作された映画(1952年、稲垣浩監督、三船敏郎、三國連太郎、山口俶子ほか)で、いまでもDVD とか配信でみることができるのかどうかわからないが、この小説あるいは映画と『室町無頼』は関係あるのだろうか。まあ、関係ないようだが。
『国民の文学20 井上靖 風林火山 戦国無頼他』(河出書房)】
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2025年01月28日
『ボーダーランズ』
TVガイドWeb によるストーリー(Web2025.1.27)
まあ、観てみて面白かったのだが、しかし、アメリカでの評判はすこぶる悪い。今年度の栄誉あるゴールデンラズベリー賞にノミネートされていて、3月1日には受賞するかもしれない。記事にあるように人気のビデオゲームの映画化なのだが、そうした映画としては歴代最悪から二番目の興行収入らしい。
アマゾンのプライムビデオをパソコンとかテレビの画面、タブレットや携帯の画面などで観ていると、充分に面白いのだが、映画館の大きなスクリーンで観ると、さすがに安っぽさが目についてしまうのだろうか。
配役にも問題があるかもしれない。ゲームでは22歳という設定のリリス(主人公)を、映画では55歳のケイト・ブランシェットが演じている。映画のなかではもう若くないというようなことをケイト・ブランシェットは述懐するし、また中高年の女性が主人公で悪いということはないが、ただ、どうみても若い女性という設定のようなので、中高年の女性が女子高校生のコスプレをしているような痛々しさがある。ケイト・ブランシェット自身は、このハードなアクション役をけっこう気に入っているようなのだが、しかし、誰もが、彼女に対して仕事を選んだらと言いたくなる。あるいはケイト・ブランシェットの無駄遣いという気がしてならない。
もう一人の無駄遣いはケヴィン・ハートである。Netfixオリジナルの映画『Lift/リフト』(2024)ではお笑いを封印した役柄で、それはそれでよかったのだが、今回は、お笑いが中途半端。一輪車ロボットのクラップトラップが、ケヴィン・ハートが演じてもいい、うっとうしい色物のロボットだったが、その声をジャック・ブラックが担当していて、お笑いは彼が独占している観がある。そのためケヴィン・ハートはティナ姫を守る兵士くずれのボディガードだけれども、100%のヒーローかというと、その小柄な容姿がややコミカルで、結局、ヒーローなのか道化なのか、どっちつかず。さらにいえばティナ姫を守る巨漢のクリーグと小柄なローランド/ケヴィン・ハートという凸凹コンビも、その特徴をよく活かしていない。ケヴィン・ハートの無駄遣いである。
ジェイミー・リー・カーチス演ずる科学者タニスは、オリジナルのゲームでは、おそらくぶっ飛んだ科学者なのだろうが、映画版ではごくふつうの科学者にすぎない。彼女は、リリス/ケイト・ブランシェットとは母と娘ほどの年齢差なのだが、実年齢では10歳くらいしか離れておらず、しかも映画の中ではタニスとリリスは同じ年齢あるいは同じ世代にみえる。
またリリス/ケイト・ブランシェットの前に、生き別れになった母親がホログラムとなってあらわれるのだが、母親のほうが娘よりも若くみえるのは、設定をくずすことになる。
全体にこじんまりまとまりすぎてしまい、たとえば『マッドマックス』のような荒野での大追跡劇が、あるにはあるのだが、すぐに終わってしまい、あとは廃墟のなかでのドタバタで終わっている。物語は宇宙全体を巻き込む大事件であるのだが、大事件とは裏腹の矮小化された事件の羅列になっている。
とはいえ目まぐるしいアクション場面はそれなりに見ごたえはあるし、このグループで宇宙をところせましと飛び回るという往年のスペースオペラ的(『スター・ウォーズ』的といったほうがわかりやすいか)展開あるいは続編も見込めそうだと思うのだが、しかし、映画のはじめのほうで予想される展開はそうではなかった。
冒頭からケイト・ブランシェットによるナレーションは、設定を説明するのだが、どこか斜に構えていて、こんなくらだらいことを誰が信ずるかというアイロニカルな語調が際立っていて面白く、しかも冒頭登場するリリス/ケイト・ブランシェットは、賞金稼ぎだが、中高年女性で、人生にも仕事にも疲れ、すべての事象を距離を置いてみているのだが、それでいて有能きわまりないという、なかなか魅力的な役柄だった。彼女に仕事を依頼しに来る人間をうっとうしく思い、そのボディガードをさっさと射殺してしまうところも、変にジャンル映画におもねったりしないリアルな人物像となっていて期待がたかまった。だが期待は期待だけで終わり、実現することはなかった。
最旬!動画配信トピックス
「ボーダーランズ」見どころを紹介! ケイト・ブランシェットら個性派チームのぶっ飛び逃避行
世界中で愛される大人気ゲームを原作に、惑星・パンドラで繰り広げられるスリルとユーモアの旅を描いたアクションアドベンチャー映画「ボーダーランズ」がPrime Videoで配信中。ホラー映画の名手であるイーライ・ロスの監督最新作としても、名優のケイト・ブランシェット主演作としても話題の本作に、注目が集まっている。
物語の始まりは、主人公の賞金稼ぎ・リリス(ケイト・ブランシェット)が宇宙一の大物実業家・アトラス(エドガー・ラミレス)に娘の捜索を依頼されるところから。彼の娘であるタイニー・ティナ(アリアナ・グリーンブラット)が惑星・パンドラで行方不明になったようで、彼女を見つけ出して連れ戻すよう指示される。報酬に満足して依頼を受けたリリスは、自らの故郷でもあるパンドラへ。だが、簡単に思えた任務の裏には、宇宙を揺るがす壮大な陰謀が潜んでいた――。【以下略】
まあ、観てみて面白かったのだが、しかし、アメリカでの評判はすこぶる悪い。今年度の栄誉あるゴールデンラズベリー賞にノミネートされていて、3月1日には受賞するかもしれない。記事にあるように人気のビデオゲームの映画化なのだが、そうした映画としては歴代最悪から二番目の興行収入らしい。
アマゾンのプライムビデオをパソコンとかテレビの画面、タブレットや携帯の画面などで観ていると、充分に面白いのだが、映画館の大きなスクリーンで観ると、さすがに安っぽさが目についてしまうのだろうか。
配役にも問題があるかもしれない。ゲームでは22歳という設定のリリス(主人公)を、映画では55歳のケイト・ブランシェットが演じている。映画のなかではもう若くないというようなことをケイト・ブランシェットは述懐するし、また中高年の女性が主人公で悪いということはないが、ただ、どうみても若い女性という設定のようなので、中高年の女性が女子高校生のコスプレをしているような痛々しさがある。ケイト・ブランシェット自身は、このハードなアクション役をけっこう気に入っているようなのだが、しかし、誰もが、彼女に対して仕事を選んだらと言いたくなる。あるいはケイト・ブランシェットの無駄遣いという気がしてならない。
もう一人の無駄遣いはケヴィン・ハートである。Netfixオリジナルの映画『Lift/リフト』(2024)ではお笑いを封印した役柄で、それはそれでよかったのだが、今回は、お笑いが中途半端。一輪車ロボットのクラップトラップが、ケヴィン・ハートが演じてもいい、うっとうしい色物のロボットだったが、その声をジャック・ブラックが担当していて、お笑いは彼が独占している観がある。そのためケヴィン・ハートはティナ姫を守る兵士くずれのボディガードだけれども、100%のヒーローかというと、その小柄な容姿がややコミカルで、結局、ヒーローなのか道化なのか、どっちつかず。さらにいえばティナ姫を守る巨漢のクリーグと小柄なローランド/ケヴィン・ハートという凸凹コンビも、その特徴をよく活かしていない。ケヴィン・ハートの無駄遣いである。
ジェイミー・リー・カーチス演ずる科学者タニスは、オリジナルのゲームでは、おそらくぶっ飛んだ科学者なのだろうが、映画版ではごくふつうの科学者にすぎない。彼女は、リリス/ケイト・ブランシェットとは母と娘ほどの年齢差なのだが、実年齢では10歳くらいしか離れておらず、しかも映画の中ではタニスとリリスは同じ年齢あるいは同じ世代にみえる。
またリリス/ケイト・ブランシェットの前に、生き別れになった母親がホログラムとなってあらわれるのだが、母親のほうが娘よりも若くみえるのは、設定をくずすことになる。
全体にこじんまりまとまりすぎてしまい、たとえば『マッドマックス』のような荒野での大追跡劇が、あるにはあるのだが、すぐに終わってしまい、あとは廃墟のなかでのドタバタで終わっている。物語は宇宙全体を巻き込む大事件であるのだが、大事件とは裏腹の矮小化された事件の羅列になっている。
とはいえ目まぐるしいアクション場面はそれなりに見ごたえはあるし、このグループで宇宙をところせましと飛び回るという往年のスペースオペラ的(『スター・ウォーズ』的といったほうがわかりやすいか)展開あるいは続編も見込めそうだと思うのだが、しかし、映画のはじめのほうで予想される展開はそうではなかった。
冒頭からケイト・ブランシェットによるナレーションは、設定を説明するのだが、どこか斜に構えていて、こんなくらだらいことを誰が信ずるかというアイロニカルな語調が際立っていて面白く、しかも冒頭登場するリリス/ケイト・ブランシェットは、賞金稼ぎだが、中高年女性で、人生にも仕事にも疲れ、すべての事象を距離を置いてみているのだが、それでいて有能きわまりないという、なかなか魅力的な役柄だった。彼女に仕事を依頼しに来る人間をうっとうしく思い、そのボディガードをさっさと射殺してしまうところも、変にジャンル映画におもねったりしないリアルな人物像となっていて期待がたかまった。だが期待は期待だけで終わり、実現することはなかった。
posted by ohashi at 12:14| 映画
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2025年01月10日
マルタのネコ
『ねこしま』Cats of Malta(サラ・ジェイン・ポルテッリ監督、2023年 マルタ映画、71分)
木村拓哉主演の『グランメゾン・パリ』は、わざわざ正月早々映画館まで足を運ぶまでもない映画だと酷評しているネット記事があった――この映画の大ヒットを予測できないキムタク・アンチが勝手なことを書き散らかしていて、おそらくその記事の筆者は大顰蹙をかったにちがいない。『グランメゾン・パリ』はヒットしただけのことはある、お金のかかった豪華な、そして正月に観る価値のある映画である。これにくらべたらドキュメンタリー映画『ねこしま』は、わざわざ映画館でみることはない、テレビかネットの配信でみればいい映画である。
とはいえ71分のドキュメンタリー映画、けっこう楽しんだのだが。
マルタ島は人口45万に対してネコが10万匹いると字幕に出ていた。ただネット上の紹介記事ではネコが100万匹とあって、どちらがほんとうなのかわからない(映画のナレーションは聞きそびれた)。ただ、ネコが多いことはたしかなのだろう。映画は、ネコに餌やりをしたりネコを保護する人たちへのインタヴューで構成されていて、ネコといっても野良ネコあるいは保護ネコがメインで、ネコがたくさんでてくるが、絵そのものはとくに際立っているということはない。あくまでもインタヴュー中心。
そのインタヴューだが、住民(というかマルタ共和国の国民というべきだが)は、みんな英語を話している。国民がみな英語を話せるわけではないだろうから、限定的な人たちにインタヴューしていることになる――と思っていたが、マルタ共和国は、マルタ語と英語が公用語であることを知らなかった。国民の8割が英語を話せるとのこと。ということは英語が話せる話せないでインタヴューの対象を選ぶ必要はないということだ。行き当たりばったりに話を聞いても、あるいは特定の役割を担う人たちに話を聞くにしても、相手は、みなふつうに英語を話すということになる。
基本的に野良ネコStray Catsの世話をする人たちに話を聞いている。ただ近所に居座っているネコに餌をやる人、ネコ村を設けて餌をやっている人からヴォランティアで保護活動をしてキャット・パークを経営している人、あとは巨大なネコの彫刻をつくり彩色しているアーティスト、またネコに餌をやっていて新聞にとりあげられていた少年とか、英国から移住してきて多くのネコたちの世話をしている元女優といった多彩な人たちとネコとのかかわりが語られてゆく。
印象的だったことのひとつは、保護ネコの里親にネコを紹介しても、ネコをネズミ捕りのために倉庫とか閉店後の商店で飼っているという場合には、そのネコを里親から奪い返すことだった。あくまでも家族の一員として扱わなければ、里親の資格はないという理由だった。
あと、怪我をし老いぼれて汚くて元気のないネコの引き取り手を募集したときのこと。さすがに、このネコを引き取る人はいないと思ったのだが、高齢の女性がそのネコを喜んで引き受けていた。若くて元気のいいネコだと、飼い主の自分が高齢で先に死んだら可哀そうだが、この年老いたネコはおそらくほぼ同時期に自分といっしょに死ぬことになろうから、死ぬまでいっしょに暮らすということだった。老いたネコと老いた人間はともに伴侶になる。
もちろんこの映画は感動というよりは考えさせられることのほうが多かった。キャット・フードを決まった場所に置いておくと野良ネコが食べにくるのだが、べつに食い散らかすというわけではないが、街にキャットフードの食べ残しがあふれていると衛生面でどうだろうかという懸念はある。日本でも鳩に餌やりをする人間が絶えることがなく、住民や自治体が頭を悩ませているが、ネコに餌やりをする人々も、日本で鳩への違法な餌やりと同等のことをしているのではないかというのは言い過ぎだろうか。ネコへの不妊治療も、それが保護されたネコが受ける特権的処置であることが前提となっているようだが、また確かに不妊治療をしないと、ほんとうに町中にネコがあふれてしまうと思うのだが、しかし、動物の繁殖に関する干渉というむつかしい問題が残る。
またこの映画から伝わってくるのは、ネコの保護や世話をしている人たちはヴォランティアで、お金も人手も足りないのである。日本人なら誰もが思いつく表現で、実際にこの映画を観た人がネット上でも語っていたのだが、ほんとうにこの映画に登場するヴォランティアの人たちは忙しくて「ネコの手も借りたい」ほどなのだ。ネコとのつきあい、それも野良ネコの保護の未来はけっして明るくはない。
とはいえネコが多いマルタ島の光景には、島そのものが歴史ある風光明媚な観光地でもあることもあって、癒されるし、正月にのんびりとみる映画としては、べつに正月ではなくてもいいのだが、おすすめの一本ということになる。
そしてこれは付け加えておかねばならないのだが、ネコ好きに悪い人はいないために、この映画は、ただそれだけで心温まる映画であることを保証されているのである。現実でもそうだろうが、とりわけ文学的・文化的にも、ネコ好き人間の好感度は常に爆上がりなのである。
****
私は文学理論に関心があるのだが、ここでいう文学理論は、読むための理論であって、書くための理論ではない。私に関心のある文学理論をいくら学んでも、小説や詩の一編すら書けないだろうが、ただ、研究者や批評家にはなれる。しかし書くための理論というものもないことはない。アメリカの大学には昔からある創作課程が日本の大学に設けられるようになって久しく、そこでは書くための理論が教えられているだろうし、また小説の書き方のような本はけっこうあって、これらは正直言って、思想・哲学の分野に通ずる文学理論からみると、格下にみられているのだが、書くための理論も、文学理論として考慮すべきであると私は考えている。
そうした書くための理論のなかで、よく取り上げられるのが、作中人物の好感度を上げるための手法として、動物好き(ペット好き)にすることである。たとえどれほど残忍な連続殺人犯でも犬好き・ネコ好きならば、その人物の性格に奥行きができ、読者からの同情も集めるかもしれない。動物好きはキャラクター設定において有効な働きをしてくれる。
東野圭吾『悪意』(講談社文庫2001)は、記録とか語りの真実を虚偽をめぐるメタフィクショナルな仕掛けに満ちた推理小説だが、そのなかで犯人(職業は作家)は、捜査を混乱させるために、ある人物の性格について虚偽の情報を流す。それをつきとめた刑事が、こんなふうに話す―
かくして犯人は、動物との接し方によって、ある人物の性格を「読者が自分でイメージ」できるようにする。端的にいって、ネコ嫌い、あるいはネコ殺しである。
人物をネコ好きにすることで、その人物の好感度が上がるとすれば、逆のことをすれば好感度は下落する。連続殺人犯が、子供の頃にペットを虐待したり殺したりしていたら、それだけでその人物に救いの手は誰からも差し伸べられないことになる。動物好きにするという性格づくりは、逆に使えば、性格を強力かつ有効に貶める手段となる。
動物、それもネコを使った性格付けの、有名かどうは知らないがとにかく印象的な場面が、エリオット・グールド主演、ロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』(1972)の冒頭にある。夜フィリップ・マーロー/エリオット・グールドがネコに起こされる。餌をくれということのようだが、キャット・フードをきらしていることがわかると、マーローはしかたく夜の街に車でキャット・フードを買いに出る。ここで観客はマーローについて自分でイメージをこしらえることができる。わがままなネコのためにキャット・フードを買いに出る!なんていい奴なんだ。
同じようにいい奴だったのは、この私である。私は動物をペットして飼ったことはないが、一時期、ネコと同棲していたことがある。ネコと同棲? なんだ、なにかの比喩かと問いただされそうだが、比喩でも暗号でもなく、ほんとうにネコと同棲していた。いっしょに寝ていた――人間ではなくネコと。(まあ、お前の性格からして男性であれ女性であれ、人間と同棲するのは不可能だろうから、嘘ではなかろうと嘲笑が聞こえてきそうだ)
ある夜、キャット・フードをきらしていることがわかった。ネコがせっついてうるさい。そのため私は深夜、駅前の商店街にキャット・フードを探しに出た。いまとちがって当時は、コンビニなどなかった。スーパーや店も11時頃にはどこも閉まっていた。ただ、かろうじて、小さな雑貨店が開いていて、食料品も売っていたその店でキャット・フードを購入できた。そして帰宅路を急ぎながら、『ロング・グッドパイ』のマーロー/エリオット・グールドになったみたいだと、妙に誇らしげに感じたことを今も鮮明に覚えている。
こんなエピソードを語って、自分の好感度を爆上げしようとするとは、なんと姑息な人間だと軽蔑されるかもしれないが、好感度を上げようとは思っていない。というのも、私はネコ好きどころか、結局、そのネコを捨てた度し難い人間だからだ。引っ越しすることになったが、ネコをいっしょには連れてゆかなかった。私は、人間からは嫌われたりして捨てられてばかりいたが、人間を捨てたことはない。しかしネコは捨てた。これは、いまも悔いてやまない罪である。
木村拓哉主演の『グランメゾン・パリ』は、わざわざ正月早々映画館まで足を運ぶまでもない映画だと酷評しているネット記事があった――この映画の大ヒットを予測できないキムタク・アンチが勝手なことを書き散らかしていて、おそらくその記事の筆者は大顰蹙をかったにちがいない。『グランメゾン・パリ』はヒットしただけのことはある、お金のかかった豪華な、そして正月に観る価値のある映画である。これにくらべたらドキュメンタリー映画『ねこしま』は、わざわざ映画館でみることはない、テレビかネットの配信でみればいい映画である。
とはいえ71分のドキュメンタリー映画、けっこう楽しんだのだが。
マルタ島は人口45万に対してネコが10万匹いると字幕に出ていた。ただネット上の紹介記事ではネコが100万匹とあって、どちらがほんとうなのかわからない(映画のナレーションは聞きそびれた)。ただ、ネコが多いことはたしかなのだろう。映画は、ネコに餌やりをしたりネコを保護する人たちへのインタヴューで構成されていて、ネコといっても野良ネコあるいは保護ネコがメインで、ネコがたくさんでてくるが、絵そのものはとくに際立っているということはない。あくまでもインタヴュー中心。
そのインタヴューだが、住民(というかマルタ共和国の国民というべきだが)は、みんな英語を話している。国民がみな英語を話せるわけではないだろうから、限定的な人たちにインタヴューしていることになる――と思っていたが、マルタ共和国は、マルタ語と英語が公用語であることを知らなかった。国民の8割が英語を話せるとのこと。ということは英語が話せる話せないでインタヴューの対象を選ぶ必要はないということだ。行き当たりばったりに話を聞いても、あるいは特定の役割を担う人たちに話を聞くにしても、相手は、みなふつうに英語を話すということになる。
基本的に野良ネコStray Catsの世話をする人たちに話を聞いている。ただ近所に居座っているネコに餌をやる人、ネコ村を設けて餌をやっている人からヴォランティアで保護活動をしてキャット・パークを経営している人、あとは巨大なネコの彫刻をつくり彩色しているアーティスト、またネコに餌をやっていて新聞にとりあげられていた少年とか、英国から移住してきて多くのネコたちの世話をしている元女優といった多彩な人たちとネコとのかかわりが語られてゆく。
印象的だったことのひとつは、保護ネコの里親にネコを紹介しても、ネコをネズミ捕りのために倉庫とか閉店後の商店で飼っているという場合には、そのネコを里親から奪い返すことだった。あくまでも家族の一員として扱わなければ、里親の資格はないという理由だった。
あと、怪我をし老いぼれて汚くて元気のないネコの引き取り手を募集したときのこと。さすがに、このネコを引き取る人はいないと思ったのだが、高齢の女性がそのネコを喜んで引き受けていた。若くて元気のいいネコだと、飼い主の自分が高齢で先に死んだら可哀そうだが、この年老いたネコはおそらくほぼ同時期に自分といっしょに死ぬことになろうから、死ぬまでいっしょに暮らすということだった。老いたネコと老いた人間はともに伴侶になる。
もちろんこの映画は感動というよりは考えさせられることのほうが多かった。キャット・フードを決まった場所に置いておくと野良ネコが食べにくるのだが、べつに食い散らかすというわけではないが、街にキャットフードの食べ残しがあふれていると衛生面でどうだろうかという懸念はある。日本でも鳩に餌やりをする人間が絶えることがなく、住民や自治体が頭を悩ませているが、ネコに餌やりをする人々も、日本で鳩への違法な餌やりと同等のことをしているのではないかというのは言い過ぎだろうか。ネコへの不妊治療も、それが保護されたネコが受ける特権的処置であることが前提となっているようだが、また確かに不妊治療をしないと、ほんとうに町中にネコがあふれてしまうと思うのだが、しかし、動物の繁殖に関する干渉というむつかしい問題が残る。
またこの映画から伝わってくるのは、ネコの保護や世話をしている人たちはヴォランティアで、お金も人手も足りないのである。日本人なら誰もが思いつく表現で、実際にこの映画を観た人がネット上でも語っていたのだが、ほんとうにこの映画に登場するヴォランティアの人たちは忙しくて「ネコの手も借りたい」ほどなのだ。ネコとのつきあい、それも野良ネコの保護の未来はけっして明るくはない。
とはいえネコが多いマルタ島の光景には、島そのものが歴史ある風光明媚な観光地でもあることもあって、癒されるし、正月にのんびりとみる映画としては、べつに正月ではなくてもいいのだが、おすすめの一本ということになる。
そしてこれは付け加えておかねばならないのだが、ネコ好きに悪い人はいないために、この映画は、ただそれだけで心温まる映画であることを保証されているのである。現実でもそうだろうが、とりわけ文学的・文化的にも、ネコ好き人間の好感度は常に爆上がりなのである。
****
私は文学理論に関心があるのだが、ここでいう文学理論は、読むための理論であって、書くための理論ではない。私に関心のある文学理論をいくら学んでも、小説や詩の一編すら書けないだろうが、ただ、研究者や批評家にはなれる。しかし書くための理論というものもないことはない。アメリカの大学には昔からある創作課程が日本の大学に設けられるようになって久しく、そこでは書くための理論が教えられているだろうし、また小説の書き方のような本はけっこうあって、これらは正直言って、思想・哲学の分野に通ずる文学理論からみると、格下にみられているのだが、書くための理論も、文学理論として考慮すべきであると私は考えている。
そうした書くための理論のなかで、よく取り上げられるのが、作中人物の好感度を上げるための手法として、動物好き(ペット好き)にすることである。たとえどれほど残忍な連続殺人犯でも犬好き・ネコ好きならば、その人物の性格に奥行きができ、読者からの同情も集めるかもしれない。動物好きはキャラクター設定において有効な働きをしてくれる。
東野圭吾『悪意』(講談社文庫2001)は、記録とか語りの真実を虚偽をめぐるメタフィクショナルな仕掛けに満ちた推理小説だが、そのなかで犯人(職業は作家)は、捜査を混乱させるために、ある人物の性格について虚偽の情報を流す。それをつきとめた刑事が、こんなふうに話す―
今回私は少しだけ文芸の世界に触れてみたわけですが、作品を批評する言葉として、こういう表現を覚えましたよ。それはね、「人間を描く」という言葉です。その人物がどういう人間なのかを読者に伝えるということですが、それは説明文ではいけないそうですね。ちょっとしたしぐさや台詞などから、読者が自分でイメージを構築していけるように書くというのが、「人間を描く」ということなんでしょう?(p.354)
かくして犯人は、動物との接し方によって、ある人物の性格を「読者が自分でイメージ」できるようにする。端的にいって、ネコ嫌い、あるいはネコ殺しである。
人物をネコ好きにすることで、その人物の好感度が上がるとすれば、逆のことをすれば好感度は下落する。連続殺人犯が、子供の頃にペットを虐待したり殺したりしていたら、それだけでその人物に救いの手は誰からも差し伸べられないことになる。動物好きにするという性格づくりは、逆に使えば、性格を強力かつ有効に貶める手段となる。
動物、それもネコを使った性格付けの、有名かどうは知らないがとにかく印象的な場面が、エリオット・グールド主演、ロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』(1972)の冒頭にある。夜フィリップ・マーロー/エリオット・グールドがネコに起こされる。餌をくれということのようだが、キャット・フードをきらしていることがわかると、マーローはしかたく夜の街に車でキャット・フードを買いに出る。ここで観客はマーローについて自分でイメージをこしらえることができる。わがままなネコのためにキャット・フードを買いに出る!なんていい奴なんだ。
同じようにいい奴だったのは、この私である。私は動物をペットして飼ったことはないが、一時期、ネコと同棲していたことがある。ネコと同棲? なんだ、なにかの比喩かと問いただされそうだが、比喩でも暗号でもなく、ほんとうにネコと同棲していた。いっしょに寝ていた――人間ではなくネコと。(まあ、お前の性格からして男性であれ女性であれ、人間と同棲するのは不可能だろうから、嘘ではなかろうと嘲笑が聞こえてきそうだ)
ある夜、キャット・フードをきらしていることがわかった。ネコがせっついてうるさい。そのため私は深夜、駅前の商店街にキャット・フードを探しに出た。いまとちがって当時は、コンビニなどなかった。スーパーや店も11時頃にはどこも閉まっていた。ただ、かろうじて、小さな雑貨店が開いていて、食料品も売っていたその店でキャット・フードを購入できた。そして帰宅路を急ぎながら、『ロング・グッドパイ』のマーロー/エリオット・グールドになったみたいだと、妙に誇らしげに感じたことを今も鮮明に覚えている。
こんなエピソードを語って、自分の好感度を爆上げしようとするとは、なんと姑息な人間だと軽蔑されるかもしれないが、好感度を上げようとは思っていない。というのも、私はネコ好きどころか、結局、そのネコを捨てた度し難い人間だからだ。引っ越しすることになったが、ネコをいっしょには連れてゆかなかった。私は、人間からは嫌われたりして捨てられてばかりいたが、人間を捨てたことはない。しかしネコは捨てた。これは、いまも悔いてやまない罪である。
posted by ohashi at 23:28| 映画
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2025年01月03日
わたし失敗するので
昨年(2024年)の夏ごろに公開されていた『インサイドヘッド2』(Inside Out 2, 2024)が、12月に入ってからいくいつかの動画配信でみることができるようになった。そのため、あらためてこのアニメ映画の興味深いところを指摘しておきたい。
とはいえ誰もが気づくところなのだが。
前作『インサイドヘッド』のときから成長して思春期の女の子になったライリー・アンダーセンには、これまでのヨコロビ(Joy)、カナシミ(Sadness)、イカリ(Anger)、ムカムカ(Disgust)、ビビり(Fear)の5つの感情のほかに、新たにシンパイ(Anxiety)、イイナー(Envy)、ハズカシ(Embarrassment)、ダリイ(Ennui)、そしてナツカシ(Nostalgia)の5つの感情が加わる。というか、この新たな5つの感情が、それまでの古い5つの感情(子供っぽいストレートな感情)にとってかわるというか、それまでの感情を周辺に追いやり、主流に収まることになる。脳内における感情の覇権争いが物語のメインになる。
前作において5つの感情のうち、中心となるのがヨコロビ(Joy)だったが、成長をとげたライリーの頭のなかに出現する5つの感情のうち中心となるのがシンパイ(Anxiety)である。これがどういうことになるのか。私にとって、それは予想外の展開となった。
ライリーは、明日、アイスホッケーの練習試合がある。この試合は高校生のチームに、ライリーら中学生が混じって行なう試合で、ここで活躍して、コーチにも、またチームメイトにも認められ、強いアイス・ホッケーチームを擁する高校への進学を有利に進めるというのが、ライリーの願望である。ライリーがアイス・ホッケーの選手というのは前作と同じ設定である。
試合前日の夜、眠っているライリーの頭のなかで何が起こっているのかというと、「わたし失敗するので」と自分に言い聞かせることだった。これには驚いた。
ふつう、重要な試合に臨む場合、過去の成功体験をもとに、脳内で試合をシミュレートして、作戦を練ると同時に「わたし失敗しないので」と自分に言い聞かせてリラックスするのではないかと思う。わたしはアスリートではないのだが、そんなふうに考えた。
ところがライリーの頭のなかでは、たとえば自分が試合の際にしくじって相手チームに大量得点をあたえてしまい、チームメイトからは非難され、コーチからは叱責され、高校生のメンバーや、自分の仲間の中学生メンバーからも後ろ指をさされてチームを追われるというイメージが脳内に定着する。そしてそのような失敗するイメージを可能な限り多くこしらえ蓄積することを脳内で行なうのである。これでは明るい明日どころか、絶望の未来しか頭に浮かんでこない。そんな状態で翌日の試合に臨むのである。
「わたし失敗しないので」ではなく「わたし絶対に失敗するので」がまるで呪文のように頭をよぎり、この呪文で自分自身を追い込み追い詰め、そこで、もうやけくそになって暴れまくる、それが運動能力の爆発的な向上となり、すぐれたパフォーマンスとなってあらわれる。自分は失敗すると思い込んでいる彼女が試合で大活躍するのである。
繰り返すが、「わたし失敗しないので」とポジティヴに考え、成功体験をもとにリラックスして試合に臨んで、もてる能力を発揮する場合と、「わたし失敗するので」とネガティヴに考え、自分を追い詰め不安と緊張によって自分を締め上げ、それが爆発的な能力の向上への引き金となるというのは、どちらもありうることである。ただ一般的には後者の可能性については、日本では、考慮の埒外に置かれていたのかもしれないが、この『インサイドヘッド2』では、それが常態であり、常識化していることに驚いた。
思い当たるふしがないでもない。私は東京大学の教員だったが、東大生の自己評価は低い。優秀な学生であればあるほど自己評価が低いように思われた。それが不思議だった。
実際、こんなに優秀な学生が、どうして自信を喪失するのか、不思議でたまらなかったことがある。見栄でも謙遜でもなんでもなく、ほんとうに自分はダメだと考えている学生が、最終的には誰にもひけをとらない優秀な成績をおさめ、卓越した成果をあげることが、東大ではふつうに起きていた。
その秘密というかからくりは、自己評価を低くするときには徹底して低くして自分を追いつめることであった。「向上心がない奴はだめだ」というとき、たんにただがんばるという気持ちだけで向上できるものではない。自分の未熟さを真摯に受け止め、失敗の必然性を納得し、苦しくて泣きだしそうなるほど絶望して自分を追い込むことではじめて、向上できるのである。そのためには自己評価を下げねばならない。
もちろんこのプロセスには危険がともなう。『インサドヘッド2』では、ヨロコビ(Joy)がシンパイ(Anxiety)に主導権を奪われる。それが子供から大人への成長の証しとして当然されているようだが、しかしシンパイ(Anxiety)が脳内で他の感情をコントロールし、行為の方向性を決定するというのは、それ自体で、心配な面がある。
実際、『インサイドヘッド2』における、このネガティヴな不安と絶望によって能力の爆発的向上をはかるという工程は、不安と焦燥がさらなる不安と焦燥へを招くという負のスパイラルから抜け出せなくなるという危険性を伴うことになる。ダメだと自分に言い聞かせることによって、ほんとにダメになってしまう危険性がある。シンパイ(Anxiety)の暴走によって神経症が引き起こされる可能性がある。
実際『インサイドヘッド2』ではそれが起こる。主導権を握ったシンパイ(Anxiety)が暴走して収拾がつかなくなる。それをとめるのが、かつて感情の主導権を握っていたヨロコビ(Joy)である。おそらくそれは緊張からの解放をめざすこと、ひたすら向上することだけでなく時には休息する必要があることの自覚であり、おそらくこれが最終的に大人へと成長することであるという暗示がある。
古い5つの感情が、新しい5つの感情に追いやられるということが大人への成長ではない。新たに覇権をにぎった新しい5つの感情が、暴走することなく、古い感情とも和解し協力しあえるようになることが、大人へのほんとうの成長だったのである。
とはいえ誰もが気づくところなのだが。
前作『インサイドヘッド』のときから成長して思春期の女の子になったライリー・アンダーセンには、これまでのヨコロビ(Joy)、カナシミ(Sadness)、イカリ(Anger)、ムカムカ(Disgust)、ビビり(Fear)の5つの感情のほかに、新たにシンパイ(Anxiety)、イイナー(Envy)、ハズカシ(Embarrassment)、ダリイ(Ennui)、そしてナツカシ(Nostalgia)の5つの感情が加わる。というか、この新たな5つの感情が、それまでの古い5つの感情(子供っぽいストレートな感情)にとってかわるというか、それまでの感情を周辺に追いやり、主流に収まることになる。脳内における感情の覇権争いが物語のメインになる。
前作において5つの感情のうち、中心となるのがヨコロビ(Joy)だったが、成長をとげたライリーの頭のなかに出現する5つの感情のうち中心となるのがシンパイ(Anxiety)である。これがどういうことになるのか。私にとって、それは予想外の展開となった。
ライリーは、明日、アイスホッケーの練習試合がある。この試合は高校生のチームに、ライリーら中学生が混じって行なう試合で、ここで活躍して、コーチにも、またチームメイトにも認められ、強いアイス・ホッケーチームを擁する高校への進学を有利に進めるというのが、ライリーの願望である。ライリーがアイス・ホッケーの選手というのは前作と同じ設定である。
試合前日の夜、眠っているライリーの頭のなかで何が起こっているのかというと、「わたし失敗するので」と自分に言い聞かせることだった。これには驚いた。
ふつう、重要な試合に臨む場合、過去の成功体験をもとに、脳内で試合をシミュレートして、作戦を練ると同時に「わたし失敗しないので」と自分に言い聞かせてリラックスするのではないかと思う。わたしはアスリートではないのだが、そんなふうに考えた。
ところがライリーの頭のなかでは、たとえば自分が試合の際にしくじって相手チームに大量得点をあたえてしまい、チームメイトからは非難され、コーチからは叱責され、高校生のメンバーや、自分の仲間の中学生メンバーからも後ろ指をさされてチームを追われるというイメージが脳内に定着する。そしてそのような失敗するイメージを可能な限り多くこしらえ蓄積することを脳内で行なうのである。これでは明るい明日どころか、絶望の未来しか頭に浮かんでこない。そんな状態で翌日の試合に臨むのである。
「わたし失敗しないので」ではなく「わたし絶対に失敗するので」がまるで呪文のように頭をよぎり、この呪文で自分自身を追い込み追い詰め、そこで、もうやけくそになって暴れまくる、それが運動能力の爆発的な向上となり、すぐれたパフォーマンスとなってあらわれる。自分は失敗すると思い込んでいる彼女が試合で大活躍するのである。
繰り返すが、「わたし失敗しないので」とポジティヴに考え、成功体験をもとにリラックスして試合に臨んで、もてる能力を発揮する場合と、「わたし失敗するので」とネガティヴに考え、自分を追い詰め不安と緊張によって自分を締め上げ、それが爆発的な能力の向上への引き金となるというのは、どちらもありうることである。ただ一般的には後者の可能性については、日本では、考慮の埒外に置かれていたのかもしれないが、この『インサイドヘッド2』では、それが常態であり、常識化していることに驚いた。
思い当たるふしがないでもない。私は東京大学の教員だったが、東大生の自己評価は低い。優秀な学生であればあるほど自己評価が低いように思われた。それが不思議だった。
実際、こんなに優秀な学生が、どうして自信を喪失するのか、不思議でたまらなかったことがある。見栄でも謙遜でもなんでもなく、ほんとうに自分はダメだと考えている学生が、最終的には誰にもひけをとらない優秀な成績をおさめ、卓越した成果をあげることが、東大ではふつうに起きていた。
その秘密というかからくりは、自己評価を低くするときには徹底して低くして自分を追いつめることであった。「向上心がない奴はだめだ」というとき、たんにただがんばるという気持ちだけで向上できるものではない。自分の未熟さを真摯に受け止め、失敗の必然性を納得し、苦しくて泣きだしそうなるほど絶望して自分を追い込むことではじめて、向上できるのである。そのためには自己評価を下げねばならない。
もちろんこのプロセスには危険がともなう。『インサドヘッド2』では、ヨロコビ(Joy)がシンパイ(Anxiety)に主導権を奪われる。それが子供から大人への成長の証しとして当然されているようだが、しかしシンパイ(Anxiety)が脳内で他の感情をコントロールし、行為の方向性を決定するというのは、それ自体で、心配な面がある。
実際、『インサイドヘッド2』における、このネガティヴな不安と絶望によって能力の爆発的向上をはかるという工程は、不安と焦燥がさらなる不安と焦燥へを招くという負のスパイラルから抜け出せなくなるという危険性を伴うことになる。ダメだと自分に言い聞かせることによって、ほんとにダメになってしまう危険性がある。シンパイ(Anxiety)の暴走によって神経症が引き起こされる可能性がある。
実際『インサイドヘッド2』ではそれが起こる。主導権を握ったシンパイ(Anxiety)が暴走して収拾がつかなくなる。それをとめるのが、かつて感情の主導権を握っていたヨロコビ(Joy)である。おそらくそれは緊張からの解放をめざすこと、ひたすら向上することだけでなく時には休息する必要があることの自覚であり、おそらくこれが最終的に大人へと成長することであるという暗示がある。
古い5つの感情が、新しい5つの感情に追いやられるということが大人への成長ではない。新たに覇権をにぎった新しい5つの感情が、暴走することなく、古い感情とも和解し協力しあえるようになることが、大人へのほんとうの成長だったのである。
posted by ohashi at 23:23| 映画
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2025年01月02日
『正体』
監督:藤井道人。2024年11月29日公開
【冤罪とか警察の捜査方法とか死刑制度などについて、この映画をめぐっていろいろ語られているので、ここでは映画の様式あるは形態に集中して語ることを許していただきたい。】
映画の冒頭近くで、脱獄した死刑囚・鏑木慶一/横浜流星を追ってきた刑事・又貫征吾/山田孝之が、脱獄後の鏑木/横浜流星と接触した数人と対峙する場面がある。左側に刑事/山田、右側に関係者が位置して、対峙するふたりの横顔が画面を占める。鏑木/横浜と接触した数人は、鏑木/横浜が嘘をついていた、あるいは何も語らなかったので、脱獄し指名手配された人間とは気づかなかったと口をそろえて証言する。いらだちを隠せない刑事/山田の顔が、最後に、正面から映し出される。それは取り調べたこの数人の特定の誰かではなく全員に語りかけている、あるいは全員に同じことを語りかけているという印象をあたえるのだが……。あなたたちは、彼の正体を見破れなかったのですか、と。そして次にタイトル「正体」の文字が大きく画面にでる。
私たちと言ってもいいのだが、つまり私と同じような平均的な知力をもつ平均的な観客、私たちは、ここで脱獄囚が、その逃亡生活のなかで、こうした人たちと接触し、彼らをもののみごとに騙しおおせたのだろう、そういう物語の映画にちがいないと予想する。そしてさらに予想する、彼が、その狡知によって、いかに正体を見破られずにすごしたのか、それが映画の醍醐味となるだろう、と。
だが映画の最後になって、刑事と関係者が横向きで対峙するこの冒頭の場面は、最初とは異なる意味合いを帯びることに気づくことになる。
これは私が勝手に、あるいは気まぐれに、冒頭の場面を思い出したということではない。映画の最後のほうでも、この対峙の場面がもう一度出てくるのだ。対峙する右側の人物(つまり彼と接触していた人たち)は同じであり、左側の人物だけが異なる。左側の人物は、刑事ではなく鏑木/横浜流星であり、彼は収監され、いま面会室でガラス越しに対峙しているのである。そして彼と接触している人物たちはみな口をそろえて、彼の無実が立証されることを信じ、彼を励ますのである。
【ここですでにネタバレを一つ。原作では鏑木は最後に殺され、生きているうちに冤罪を晴らすことができなかった。映画では彼は銃で撃たれるものの一命をとりとめ、収監され、裁判に臨むことになる。なお、以下、ネタバレを含む記述となるので注意。】
この最後の場面、正確には裁判で判決が言い渡される前の収監中の鏑木と、関係者が対峙する場面は、冒頭の同じような対峙の場面(おそらくは警察の取調室での)を思い起こさせるものであり、冒頭の対峙場面の再考を観る者に迫るのである。
冒頭で、刑事・又貫征吾/山田孝之は、彼の正体が見抜けなかったのかと咎めるように言い放す。だが、映画を観終わったか、観終わりそうになっている観客にはわかる。彼らは正体を見抜いていた。鏑木慶一/横浜流星が、指名手配されている脱獄囚であることを、そして彼が人殺しなどしない無実の人間であることを。そうこの映画は、狡猾な脱獄囚が出会った人びとを騙して逃げおおせる話ではなかった。彼と出会った人々が、騙されるのではなく、彼の正体を知るようになる話だと。そして彼の正体を知るようになった人びとはみな彼を愛するようになるのだ、と。誰一人としてだまされてはいなかった。誰一人として正体を見失うことはなかった。
この冒頭の場面は、こうして最初の印象とは異なるものとなるのだが、異なるのはそれだけではない。刑事/山田孝之は、彼の正体を見破れなかったのですかと問うのだが、その問いは、刑事自身にもはねかえってくる。刑事は、鏑木/横浜の正体をほんとうにわからなかったのか。いや、ひょっとしたら刑事/山田自身、鏑木/横浜が無実であることを最初からわかっていたのではないか、彼は正体を見破っていたのではなかったか。
かくして冒頭の対峙する場面は、無知をテーマにしているかにみえて、実は、洞察をテーマとした場面へと反転する。
これが冒頭の対峙場面の正体である。
無知を装った洞察、あるいは洞察を語れない沈黙といってもいい。鏑木慶一/横浜流星が逃亡するときの方法が壮絶なのだが、彼は独房でガラスの破片かなにかで自分の口の中を、舌を傷つける。口腔内からおびただしい出血をする。それを吐血と思わせることによって、彼は救急車で刑務所から病院へと運ばれる。その途中で救急車から逃げ出すのである。
この、ある意味、狡猾な、そしてその命がけの脱出方法には感動すら覚えるのだが、同時に、そこにはアレゴリカルな意味も込められている。口を舌を傷つけることは、彼が無実を主張しても聞き入れてもらえなかったこと、声を言葉を失ったも同じ状態であったことを、私たちに強く印象付けるのである。
となると冒頭の対峙場面における彼と接触した人びとの無知(思われるもの)も、彼の無実を主張したい声を封じられていたことのアレゴリーともとれないことはない。実際、彼と接触した人びとは、やがて連帯し、彼の無実を主張する運動を起こすまでになる。声を奪われていた彼に声をあたえる人びとがあらわれてくるのである。
無知から知へ、無音・無声・沈黙から音と声そして主張への変遷は、映画の最後の判決申し渡しの場面でも繰り広げられる。
いま変遷といったが、反転といったほうがいいのかもしれない。冒頭の対峙場面が無知から知へと反転する。この場面の刑事の問いかけが、問いかける者つまり刑事へと反転する。問う者が問われる者になるという反転。
ここで思い出されるのが鏑木慶一/横浜流星が、ジャーナリストの安藤沙耶香/吉岡里帆の住居に隠れていたところ刑事たちに踏み込まれ窓から街路へと飛び降りて逃げ出すシーンである。住宅街か商店街かどちらともつかないところだが、人通りの多い場所を彼は必死で逃走する。ワンテイク・ワンシーンで撮られていたと記憶するが、迫力のあるこの逃亡シーンにおいて、街の人びとは彼の行く手を阻む敵でもある。おそらくは全員エキストラなのだろうが、観ている側からすると、一般人を巻き込むゲリラ撮影をしているとしか思えず、道行く人びとが、彼の逃走経路上の障害物にしかみえず、ごく普通の庶民ともいえる人びとが凶悪な妨害者・通報者・監視者にもみえてくるというパラノイアを観客は主人公と共有できてしまう(なお彼は川に飛び降りて逃げおおせるのだが)。
逃亡者である彼にとって、妨害者・通報者・監視者でしかない人びとの群れは、映画の最後のほうには、反転して、彼を冤罪事件・誤認逮捕の被害者として再捜査を求める声をあげる人びとへと変わってゆく。敵とみえていたものが、味方へと反転する。それは鏑木/横浜流星が事件の真相を追い、自己の無実を証明するために奔走するなかで多くの人と接触してきたことによって、彼の支援者たちをはぐくむことにもなったからである。
その行程は、一方で彼の存在を警察に通報することになっても、他方で、彼の支援者をつくりだした。敵と味方とが、不分明にまざりあり、それが最後には、味方だったとわかる。敵と即断することなく味方であることを見極めよ。あるいは敵が味方となることはある――これが最後の判決言い渡しの場面に劇的なかたちで反復される。
裁判所で判決が言い渡されるとき、傍証席にいる安藤沙耶香/吉岡里帆の顔が大きく映し出されるのだが、判決が言い渡されているとき、音が消える。無音で映像だけとなる(心理的に解釈すれば、判決を聞く前の彼女の極度の緊張状態から、茫然自失となり周囲の音が聴こえなくなったということだろうか)。彼女の周囲の人は判決を聞いて興奮している。なかには拍手している傍聴者もいる。だが無音なので、判決内容がわからない。拍手している人は彼が無罪を勝ち取ったことに対して拍手しているのか、凶悪な死刑囚の逃亡犯にこれでようやく正義の鉄槌がふりおろされ極刑が言い渡された、このことに拍手しているのかわからない。無音のまま、私たちは、傍聴席の人々の顔やふるまいをつぶさに観察することになる。そして彼の支援者が満面の笑みを浮かべて拍手している様をみて、確信する。無罪判決だったのだ、と。と、このとき音が戻る。無罪判決に沸き立つ傍聴席、そして笑顔をみせる横浜流星。エンドクレジットがはじまる。
この判決言い渡しの場面が、映画全体の集約となっていることは詳しく語る必要はないだろう。またそれは奇をてらった演出ではなく、映画のロジックの延長線上に確固たるかたち位置づけれる映像表現であることは、どれほど強調しても強調したりないのであるが。
結局、正体とは、死刑囚の逃亡犯の無実の正体であっただけでなく、彼の正体を見抜き、彼を支援する人たちを集わせる社会のありようでもあったのだ。凶悪な犯罪者の正体は、無実の無垢の高校生だった。誤認逮捕した刑事や警察はまた再捜査を決断する真相究明者でもあった。凶悪殺人犯を糾弾した世論はまた冤罪事件を糾弾する正義の声でもあった。敵の正体は、敵ではなかったかもしれない。あるいは敵の正体が味方であると信ずること。そしてその化学変化を、そのプロセスをみきわめること、それがこの映画の映像表現の賭けだったのだ。
【冤罪とか警察の捜査方法とか死刑制度などについて、この映画をめぐっていろいろ語られているので、ここでは映画の様式あるは形態に集中して語ることを許していただきたい。】
映画の冒頭近くで、脱獄した死刑囚・鏑木慶一/横浜流星を追ってきた刑事・又貫征吾/山田孝之が、脱獄後の鏑木/横浜流星と接触した数人と対峙する場面がある。左側に刑事/山田、右側に関係者が位置して、対峙するふたりの横顔が画面を占める。鏑木/横浜と接触した数人は、鏑木/横浜が嘘をついていた、あるいは何も語らなかったので、脱獄し指名手配された人間とは気づかなかったと口をそろえて証言する。いらだちを隠せない刑事/山田の顔が、最後に、正面から映し出される。それは取り調べたこの数人の特定の誰かではなく全員に語りかけている、あるいは全員に同じことを語りかけているという印象をあたえるのだが……。あなたたちは、彼の正体を見破れなかったのですか、と。そして次にタイトル「正体」の文字が大きく画面にでる。
私たちと言ってもいいのだが、つまり私と同じような平均的な知力をもつ平均的な観客、私たちは、ここで脱獄囚が、その逃亡生活のなかで、こうした人たちと接触し、彼らをもののみごとに騙しおおせたのだろう、そういう物語の映画にちがいないと予想する。そしてさらに予想する、彼が、その狡知によって、いかに正体を見破られずにすごしたのか、それが映画の醍醐味となるだろう、と。
だが映画の最後になって、刑事と関係者が横向きで対峙するこの冒頭の場面は、最初とは異なる意味合いを帯びることに気づくことになる。
これは私が勝手に、あるいは気まぐれに、冒頭の場面を思い出したということではない。映画の最後のほうでも、この対峙の場面がもう一度出てくるのだ。対峙する右側の人物(つまり彼と接触していた人たち)は同じであり、左側の人物だけが異なる。左側の人物は、刑事ではなく鏑木/横浜流星であり、彼は収監され、いま面会室でガラス越しに対峙しているのである。そして彼と接触している人物たちはみな口をそろえて、彼の無実が立証されることを信じ、彼を励ますのである。
【ここですでにネタバレを一つ。原作では鏑木は最後に殺され、生きているうちに冤罪を晴らすことができなかった。映画では彼は銃で撃たれるものの一命をとりとめ、収監され、裁判に臨むことになる。なお、以下、ネタバレを含む記述となるので注意。】
この最後の場面、正確には裁判で判決が言い渡される前の収監中の鏑木と、関係者が対峙する場面は、冒頭の同じような対峙の場面(おそらくは警察の取調室での)を思い起こさせるものであり、冒頭の対峙場面の再考を観る者に迫るのである。
冒頭で、刑事・又貫征吾/山田孝之は、彼の正体が見抜けなかったのかと咎めるように言い放す。だが、映画を観終わったか、観終わりそうになっている観客にはわかる。彼らは正体を見抜いていた。鏑木慶一/横浜流星が、指名手配されている脱獄囚であることを、そして彼が人殺しなどしない無実の人間であることを。そうこの映画は、狡猾な脱獄囚が出会った人びとを騙して逃げおおせる話ではなかった。彼と出会った人々が、騙されるのではなく、彼の正体を知るようになる話だと。そして彼の正体を知るようになった人びとはみな彼を愛するようになるのだ、と。誰一人としてだまされてはいなかった。誰一人として正体を見失うことはなかった。
この冒頭の場面は、こうして最初の印象とは異なるものとなるのだが、異なるのはそれだけではない。刑事/山田孝之は、彼の正体を見破れなかったのですかと問うのだが、その問いは、刑事自身にもはねかえってくる。刑事は、鏑木/横浜の正体をほんとうにわからなかったのか。いや、ひょっとしたら刑事/山田自身、鏑木/横浜が無実であることを最初からわかっていたのではないか、彼は正体を見破っていたのではなかったか。
かくして冒頭の対峙する場面は、無知をテーマにしているかにみえて、実は、洞察をテーマとした場面へと反転する。
これが冒頭の対峙場面の正体である。
無知を装った洞察、あるいは洞察を語れない沈黙といってもいい。鏑木慶一/横浜流星が逃亡するときの方法が壮絶なのだが、彼は独房でガラスの破片かなにかで自分の口の中を、舌を傷つける。口腔内からおびただしい出血をする。それを吐血と思わせることによって、彼は救急車で刑務所から病院へと運ばれる。その途中で救急車から逃げ出すのである。
この、ある意味、狡猾な、そしてその命がけの脱出方法には感動すら覚えるのだが、同時に、そこにはアレゴリカルな意味も込められている。口を舌を傷つけることは、彼が無実を主張しても聞き入れてもらえなかったこと、声を言葉を失ったも同じ状態であったことを、私たちに強く印象付けるのである。
となると冒頭の対峙場面における彼と接触した人びとの無知(思われるもの)も、彼の無実を主張したい声を封じられていたことのアレゴリーともとれないことはない。実際、彼と接触した人びとは、やがて連帯し、彼の無実を主張する運動を起こすまでになる。声を奪われていた彼に声をあたえる人びとがあらわれてくるのである。
無知から知へ、無音・無声・沈黙から音と声そして主張への変遷は、映画の最後の判決申し渡しの場面でも繰り広げられる。
いま変遷といったが、反転といったほうがいいのかもしれない。冒頭の対峙場面が無知から知へと反転する。この場面の刑事の問いかけが、問いかける者つまり刑事へと反転する。問う者が問われる者になるという反転。
ここで思い出されるのが鏑木慶一/横浜流星が、ジャーナリストの安藤沙耶香/吉岡里帆の住居に隠れていたところ刑事たちに踏み込まれ窓から街路へと飛び降りて逃げ出すシーンである。住宅街か商店街かどちらともつかないところだが、人通りの多い場所を彼は必死で逃走する。ワンテイク・ワンシーンで撮られていたと記憶するが、迫力のあるこの逃亡シーンにおいて、街の人びとは彼の行く手を阻む敵でもある。おそらくは全員エキストラなのだろうが、観ている側からすると、一般人を巻き込むゲリラ撮影をしているとしか思えず、道行く人びとが、彼の逃走経路上の障害物にしかみえず、ごく普通の庶民ともいえる人びとが凶悪な妨害者・通報者・監視者にもみえてくるというパラノイアを観客は主人公と共有できてしまう(なお彼は川に飛び降りて逃げおおせるのだが)。
逃亡者である彼にとって、妨害者・通報者・監視者でしかない人びとの群れは、映画の最後のほうには、反転して、彼を冤罪事件・誤認逮捕の被害者として再捜査を求める声をあげる人びとへと変わってゆく。敵とみえていたものが、味方へと反転する。それは鏑木/横浜流星が事件の真相を追い、自己の無実を証明するために奔走するなかで多くの人と接触してきたことによって、彼の支援者たちをはぐくむことにもなったからである。
その行程は、一方で彼の存在を警察に通報することになっても、他方で、彼の支援者をつくりだした。敵と味方とが、不分明にまざりあり、それが最後には、味方だったとわかる。敵と即断することなく味方であることを見極めよ。あるいは敵が味方となることはある――これが最後の判決言い渡しの場面に劇的なかたちで反復される。
裁判所で判決が言い渡されるとき、傍証席にいる安藤沙耶香/吉岡里帆の顔が大きく映し出されるのだが、判決が言い渡されているとき、音が消える。無音で映像だけとなる(心理的に解釈すれば、判決を聞く前の彼女の極度の緊張状態から、茫然自失となり周囲の音が聴こえなくなったということだろうか)。彼女の周囲の人は判決を聞いて興奮している。なかには拍手している傍聴者もいる。だが無音なので、判決内容がわからない。拍手している人は彼が無罪を勝ち取ったことに対して拍手しているのか、凶悪な死刑囚の逃亡犯にこれでようやく正義の鉄槌がふりおろされ極刑が言い渡された、このことに拍手しているのかわからない。無音のまま、私たちは、傍聴席の人々の顔やふるまいをつぶさに観察することになる。そして彼の支援者が満面の笑みを浮かべて拍手している様をみて、確信する。無罪判決だったのだ、と。と、このとき音が戻る。無罪判決に沸き立つ傍聴席、そして笑顔をみせる横浜流星。エンドクレジットがはじまる。
この判決言い渡しの場面が、映画全体の集約となっていることは詳しく語る必要はないだろう。またそれは奇をてらった演出ではなく、映画のロジックの延長線上に確固たるかたち位置づけれる映像表現であることは、どれほど強調しても強調したりないのであるが。
結局、正体とは、死刑囚の逃亡犯の無実の正体であっただけでなく、彼の正体を見抜き、彼を支援する人たちを集わせる社会のありようでもあったのだ。凶悪な犯罪者の正体は、無実の無垢の高校生だった。誤認逮捕した刑事や警察はまた再捜査を決断する真相究明者でもあった。凶悪殺人犯を糾弾した世論はまた冤罪事件を糾弾する正義の声でもあった。敵の正体は、敵ではなかったかもしれない。あるいは敵の正体が味方であると信ずること。そしてその化学変化を、そのプロセスをみきわめること、それがこの映画の映像表現の賭けだったのだ。
posted by ohashi at 22:58| 映画
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2025年01月01日
『ライオンキング:ムファサ』
I always wanted a brother.
『ライオンキング』は、最初のアニメ版(正確には舞台ミュージカルのアニメ版)しかみていなくて、その後のアニメ版や実写版のスピンオフ篇などなにもみていないのだが、今回、『ライオン・キング:ムファサ』(原題Mufasa: Lion King, 2024)を予備知識なしの吹き替え版実写版でみることに。
ただ正確には実写版ではなくて、実写のようなCGによる映画なのだが、それにしても、予備知識ゼロで観たために、最初は知らない名前のライオンたちが出てきて、物語がつかめなかったが、最後にスカー(アニメ版ではムファサの弟)が誕生し、ムファサがシンバの父親であることもわかり、最初のアニメ版の前日譚であることがはっきりして大団円を迎えることになった。
それはそれでよかったのだが、予備知識ゼロで観たために、監督がバリー・ジェンキンズであることをエンドクレジットではじめて知ることに。バリー・ジェンキンズ、そう、正統派とでもいうべきゲイ映画でアカデミー賞も獲った『ムーンライト』(2016)の監督じゃないか。それがわかると、この映画がにわかにゲイ映画にみえてきた。
最初のアニメ版はシェイクスピアの『ハムレット』の翻案でもあって、兄が邪悪な弟に殺され、その兄の息子が、その兄の弟つまり叔父に復讐する物語だった。シェイクスピアお得意の兄と弟の確執と、弟による兄殺しの世界だが、それは『ハムレット』のなかで言及もされているように、聖書で語られる世界で最初の殺人事件、弟カインによる兄アベル殺しという原型的な兄殺しにもつながる神話的次元をももっていた。アニメ版では、ムファサ(兄)とスカー(弟)の対立である。
ところが今回の『ライオン・キング:ムファサ』(以後、『ムファサ』と表記)では、ムファサとスカーは兄弟ではなくなった。血のつながりはなくなった。アメリカのディズニー・ファンはこの設定の変更を怒っているらしいのだが、ふたりは兄弟ではなく、血のつながりのない他者となった。そしてここにゲイ物語誕生の契機があった。ムファサとスカーは、兄弟未満、友達以上の情愛関係をむすことになるのだから。
ムファサとスカー(スカーは後年の綽名のようなもので、もともとはタカと呼ばれていた)の物語は、川でワニに追われていたムファサをタカが救出するところからはじまる。そう水の物語。
よそ者の流れ者(文字通り「流れ者」なのだが)となったムファサは、タカの父ライオンであるオバシから嫌われ、雌ライオンの群れのなかで暮らすことを命じられる。流れ者になってからのムファサのジェンダーは雄雌の中間に、あるいはトランス的なものとなる。ジェンダー的にも流れ者である。いっぽうタカは父ライオンの後継者として優遇されるが、タカとムファサは、おかれた境遇に関係なく、血のつながった兄弟のように仲が良い幼少期を過ごすことになる【予告編では「兄弟が欲しかった」というセリフが強調されていて、それを語るのがムファサで、新たにできた兄弟は弟のスカーだと思っていた。新しく子供が生まれて弟や妹になる。ところが映画をみると、そう語るのはタカ/スカーのほうであり、これで頭が混乱してしまった】
だがそれも、凶悪なはぐれライオンの襲撃の際にタカが臆病風にふかれたことから、勇気あるムファサに対して優位に立てなくなり、物語が新しい段階に入る。
兄弟のように仲の良い二人は、血のつながった兄弟ではないから兄弟愛というよりも友情関係にあるのだが、おそらくそれを〈兄弟未満・友情以上〉のゲイ的関係とみるのは、こじつけがはなはだしいと批判されるかもしれない。たしかに、映画のなかで幼い二人に明確なゲイ的関係はない。そこには是枝裕和監督の映画『怪物』にあるような小学生どうしの同性愛的関係はない。しかし『怪物』との類似性はある。それが水。つねに諏訪湖のみえる場所で事件は起こり、最後には少年二人が洪水で流されて死ぬという『怪物』の物語は、『ムファサ』とともに水のイメージを共有し、『ムファサ』も『怪物』と同様の同性愛物語であることを暗示してはいないだろうか。水の力で。
実際、『ムファサ』がこれほど水にこだわる映画とは予想だにできなかった。ムファサは洪水によって父・母と別れ、急流に流され滝つぼに落ち、そして救出される。また最後の白いライオン、キロスとの決闘の場面も、水のなかである。これはムファサにとって幼い頃の経験から、水がトラウマになり、水が弱点となっていることによる物語の盛り上げ方とも関係しようが、それにしても水が多い。『ムファサ』の水は、ゲイ的物語を暗示しているのである。
そもそも動物界は、セックスが後背位であることもあって、ゲイの世界である。そしてもうひとつ、アニメ版では声を担当している俳優陣は白人と黒人との混合によって成り立っているが、『ムファサ』では、アフリカのライオンを含むすべての動物がほぼ全員、黒人の俳優が声を担当している。『ムファサ』において強大で邪悪な天敵ともいえるキロスは白いライオンで、その声だけは白人が担当している(マッツ・ミケルセンである)。したがって『ムファサ』における白いライオンとその他のアフリカ・ライオンとの対立は白人と黒人との対立となっている(日本語吹き替え版ではこの関係は再現できない)。
アニメ版から『ムファサ』へと移行する段階で、その世界は、アフリカ系アメリカ人の世界になった。では、セクシュアリティの面で、アニメ版から『ムファサ』への移行において、その世界は、ヘテロからゲイへと変遷ととげたのか。いや、そもそもアニメ版においてもゲイ的要素は濃厚だった。むしろ『ムファサ』ではヘテロ性が強化される――とはいえゲイ的要素は消えることはないのだが。
最初のアニメ版、『ハムレット』の翻案であった『ライオン・キング』では、兄のムファサを殺すスカーは、兄の死後、兄のハーレムを引き継ぐこともなく雌ライオンに興味をしめさず、雄のハイエナたちとの生活を変えようとしない、まあゲイ的要素が濃厚なライオンだった(声はジェレミー・アイアンズが担当)――悪魔化されたゲイ男性というイメージだった。実際、『ハムレット』の場合、兄には大学生になる息子(ハムレットのこと)がいるのに、その兄の弟はずっと独身なのである。そのために考えられることは二つ。ひとつはゲイであること。もうひとつは兄嫁(ハムレットの母)に対する恋慕の情があって、機をみて兄を殺害し、兄嫁と結婚するに至ったという設定。このふたつの設定を『ムファサ』は引き受けているようにも思われる。
『ムファサ』におけるヘテロ化プロジェクトとは、おそらくこうである。ムファサとタカは、子供頃は同性愛のふたりのようにじゃれあっていたのだが(そもそも子供は同性愛者である――フロイト的にいうと子供は多形倒錯期あるいは肛門期にある――要は子供はみんな変態のホモだということである)。やがて、ヘテロの世界へと成長をとげ、子供は大人になる。『ムファサ』において、その契機となるのが、雌ライオン・サラビ(シンバの母)との出会いである。サラビをめぐってムファサとタカはライバル関係になるのだが、ムファサはつねにタカをたててサラビを譲る格好になるのだが、実はそれがサラビに見抜かれ、サラビとムファサの仲がかえって深まるかたちになる。そしてタカは、ムファサによる盛り上げにもかかわらず、サラビとは結ばれなくなる。
実はこの映画ではタカに差し出される援助の手はどれも悪手となって、彼を不幸な目にあわせてしまう。そのアイロニックな悲劇性が顕著である。そして彼が不幸になるのと反比例してムファサはヒーロー化してゆく。不安定なジェンダーの雄から一人前の王者としての雄ライオンへと変貌をとげる。宿敵の白ライオン・キロスも倒す。そして王者として動物界に君臨する。
しかし、このヘテロ化には裏面がある。雌ライオン・サラビをめぐってムファサとタカはライバル関係にあったのだろうか。たしかに最終的にタカは、サラビをムファサによって奪われるかっこうになる。その恨みが後年、タカ/スカーによるムファサ殺しとなるように思われる。しかし、ムファサとタカは兄弟のように仲が良かったのであって、そこに旅の友として雌のサラビが入ってくることによって二人の疑似兄弟関係にひびが入りはじめる。ゾウの暴走からサラビをまもったムファサのことに対し、タカは、サラビを恨んでいたのではないか。つまりサラビをめぐっての雄ふたりのライバル関係とみえたものの裏には、ムファサをめぐるサラビとタカのライバル関係があったのではないか。前者はつまり女一人を男二人が奪い合うヘテロの三角関係、後者は男一人を男と女が奪い合う、ヘテロとホモとの競争関係となる。
ムファサは、サラビをタカに譲ることによって、タカとのホモソーシャル関係あるいはホモセクシュアル関係を維持しようとする。ところがそれが裏目にでて、サラビはムファサを愛するようになる。そうなるとムファサとタカとのホモソーシャル関係が分断されることになる。ヘテロ関係はホモ関係と絡まり合っているのである。
要は『ムファサ』において典型的なヘテロ物語とみえたものが、その裏面ではゲイ物語でもあったということである。これをムファサの物語とスカーの物語といってもいい。両者は同じ物語を共有している。だがその意味は異なる。ちょうど絨毯の裏と表が同じ図柄を共有しながらも見た印象が大きく異なるように。したがって『ムファサ』は、ヘテロ物語と読んで全然問題ないのだが、同時に、ゲイ物語と読んでも全然問題ないのである。
タカは、キロスからムファサを助けるために顔面に傷を負う。それがスカーという名前の由来になるのだが、ある意味、それは名誉の負傷でもある。しかし、ムファサにとって、それは裏切り者のタカの忌まわしいしるしでもある。しかも傷をもつ者は、物語においては同性愛者であることが多い(現実に、傷のある人間が同性愛者であることはまずない。あくまでも物語のなかでの常套的設定のことである)。スカーは、ゲイのしるしである。それが名誉の負傷のしるしであることが判明することはあるのだろうか。『ムファサ』の後日譚を知っている私たちは、残念ながら、その日が来ないことを知っている。
『ライオンキング』は、最初のアニメ版(正確には舞台ミュージカルのアニメ版)しかみていなくて、その後のアニメ版や実写版のスピンオフ篇などなにもみていないのだが、今回、『ライオン・キング:ムファサ』(原題Mufasa: Lion King, 2024)を予備知識なしの吹き替え版実写版でみることに。
ただ正確には実写版ではなくて、実写のようなCGによる映画なのだが、それにしても、予備知識ゼロで観たために、最初は知らない名前のライオンたちが出てきて、物語がつかめなかったが、最後にスカー(アニメ版ではムファサの弟)が誕生し、ムファサがシンバの父親であることもわかり、最初のアニメ版の前日譚であることがはっきりして大団円を迎えることになった。
それはそれでよかったのだが、予備知識ゼロで観たために、監督がバリー・ジェンキンズであることをエンドクレジットではじめて知ることに。バリー・ジェンキンズ、そう、正統派とでもいうべきゲイ映画でアカデミー賞も獲った『ムーンライト』(2016)の監督じゃないか。それがわかると、この映画がにわかにゲイ映画にみえてきた。
最初のアニメ版はシェイクスピアの『ハムレット』の翻案でもあって、兄が邪悪な弟に殺され、その兄の息子が、その兄の弟つまり叔父に復讐する物語だった。シェイクスピアお得意の兄と弟の確執と、弟による兄殺しの世界だが、それは『ハムレット』のなかで言及もされているように、聖書で語られる世界で最初の殺人事件、弟カインによる兄アベル殺しという原型的な兄殺しにもつながる神話的次元をももっていた。アニメ版では、ムファサ(兄)とスカー(弟)の対立である。
ところが今回の『ライオン・キング:ムファサ』(以後、『ムファサ』と表記)では、ムファサとスカーは兄弟ではなくなった。血のつながりはなくなった。アメリカのディズニー・ファンはこの設定の変更を怒っているらしいのだが、ふたりは兄弟ではなく、血のつながりのない他者となった。そしてここにゲイ物語誕生の契機があった。ムファサとスカーは、兄弟未満、友達以上の情愛関係をむすことになるのだから。
ムファサとスカー(スカーは後年の綽名のようなもので、もともとはタカと呼ばれていた)の物語は、川でワニに追われていたムファサをタカが救出するところからはじまる。そう水の物語。
よそ者の流れ者(文字通り「流れ者」なのだが)となったムファサは、タカの父ライオンであるオバシから嫌われ、雌ライオンの群れのなかで暮らすことを命じられる。流れ者になってからのムファサのジェンダーは雄雌の中間に、あるいはトランス的なものとなる。ジェンダー的にも流れ者である。いっぽうタカは父ライオンの後継者として優遇されるが、タカとムファサは、おかれた境遇に関係なく、血のつながった兄弟のように仲が良い幼少期を過ごすことになる【予告編では「兄弟が欲しかった」というセリフが強調されていて、それを語るのがムファサで、新たにできた兄弟は弟のスカーだと思っていた。新しく子供が生まれて弟や妹になる。ところが映画をみると、そう語るのはタカ/スカーのほうであり、これで頭が混乱してしまった】
だがそれも、凶悪なはぐれライオンの襲撃の際にタカが臆病風にふかれたことから、勇気あるムファサに対して優位に立てなくなり、物語が新しい段階に入る。
兄弟のように仲の良い二人は、血のつながった兄弟ではないから兄弟愛というよりも友情関係にあるのだが、おそらくそれを〈兄弟未満・友情以上〉のゲイ的関係とみるのは、こじつけがはなはだしいと批判されるかもしれない。たしかに、映画のなかで幼い二人に明確なゲイ的関係はない。そこには是枝裕和監督の映画『怪物』にあるような小学生どうしの同性愛的関係はない。しかし『怪物』との類似性はある。それが水。つねに諏訪湖のみえる場所で事件は起こり、最後には少年二人が洪水で流されて死ぬという『怪物』の物語は、『ムファサ』とともに水のイメージを共有し、『ムファサ』も『怪物』と同様の同性愛物語であることを暗示してはいないだろうか。水の力で。
実際、『ムファサ』がこれほど水にこだわる映画とは予想だにできなかった。ムファサは洪水によって父・母と別れ、急流に流され滝つぼに落ち、そして救出される。また最後の白いライオン、キロスとの決闘の場面も、水のなかである。これはムファサにとって幼い頃の経験から、水がトラウマになり、水が弱点となっていることによる物語の盛り上げ方とも関係しようが、それにしても水が多い。『ムファサ』の水は、ゲイ的物語を暗示しているのである。
そもそも動物界は、セックスが後背位であることもあって、ゲイの世界である。そしてもうひとつ、アニメ版では声を担当している俳優陣は白人と黒人との混合によって成り立っているが、『ムファサ』では、アフリカのライオンを含むすべての動物がほぼ全員、黒人の俳優が声を担当している。『ムファサ』において強大で邪悪な天敵ともいえるキロスは白いライオンで、その声だけは白人が担当している(マッツ・ミケルセンである)。したがって『ムファサ』における白いライオンとその他のアフリカ・ライオンとの対立は白人と黒人との対立となっている(日本語吹き替え版ではこの関係は再現できない)。
アニメ版から『ムファサ』へと移行する段階で、その世界は、アフリカ系アメリカ人の世界になった。では、セクシュアリティの面で、アニメ版から『ムファサ』への移行において、その世界は、ヘテロからゲイへと変遷ととげたのか。いや、そもそもアニメ版においてもゲイ的要素は濃厚だった。むしろ『ムファサ』ではヘテロ性が強化される――とはいえゲイ的要素は消えることはないのだが。
最初のアニメ版、『ハムレット』の翻案であった『ライオン・キング』では、兄のムファサを殺すスカーは、兄の死後、兄のハーレムを引き継ぐこともなく雌ライオンに興味をしめさず、雄のハイエナたちとの生活を変えようとしない、まあゲイ的要素が濃厚なライオンだった(声はジェレミー・アイアンズが担当)――悪魔化されたゲイ男性というイメージだった。実際、『ハムレット』の場合、兄には大学生になる息子(ハムレットのこと)がいるのに、その兄の弟はずっと独身なのである。そのために考えられることは二つ。ひとつはゲイであること。もうひとつは兄嫁(ハムレットの母)に対する恋慕の情があって、機をみて兄を殺害し、兄嫁と結婚するに至ったという設定。このふたつの設定を『ムファサ』は引き受けているようにも思われる。
『ムファサ』におけるヘテロ化プロジェクトとは、おそらくこうである。ムファサとタカは、子供頃は同性愛のふたりのようにじゃれあっていたのだが(そもそも子供は同性愛者である――フロイト的にいうと子供は多形倒錯期あるいは肛門期にある――要は子供はみんな変態のホモだということである)。やがて、ヘテロの世界へと成長をとげ、子供は大人になる。『ムファサ』において、その契機となるのが、雌ライオン・サラビ(シンバの母)との出会いである。サラビをめぐってムファサとタカはライバル関係になるのだが、ムファサはつねにタカをたててサラビを譲る格好になるのだが、実はそれがサラビに見抜かれ、サラビとムファサの仲がかえって深まるかたちになる。そしてタカは、ムファサによる盛り上げにもかかわらず、サラビとは結ばれなくなる。
実はこの映画ではタカに差し出される援助の手はどれも悪手となって、彼を不幸な目にあわせてしまう。そのアイロニックな悲劇性が顕著である。そして彼が不幸になるのと反比例してムファサはヒーロー化してゆく。不安定なジェンダーの雄から一人前の王者としての雄ライオンへと変貌をとげる。宿敵の白ライオン・キロスも倒す。そして王者として動物界に君臨する。
しかし、このヘテロ化には裏面がある。雌ライオン・サラビをめぐってムファサとタカはライバル関係にあったのだろうか。たしかに最終的にタカは、サラビをムファサによって奪われるかっこうになる。その恨みが後年、タカ/スカーによるムファサ殺しとなるように思われる。しかし、ムファサとタカは兄弟のように仲が良かったのであって、そこに旅の友として雌のサラビが入ってくることによって二人の疑似兄弟関係にひびが入りはじめる。ゾウの暴走からサラビをまもったムファサのことに対し、タカは、サラビを恨んでいたのではないか。つまりサラビをめぐっての雄ふたりのライバル関係とみえたものの裏には、ムファサをめぐるサラビとタカのライバル関係があったのではないか。前者はつまり女一人を男二人が奪い合うヘテロの三角関係、後者は男一人を男と女が奪い合う、ヘテロとホモとの競争関係となる。
ムファサは、サラビをタカに譲ることによって、タカとのホモソーシャル関係あるいはホモセクシュアル関係を維持しようとする。ところがそれが裏目にでて、サラビはムファサを愛するようになる。そうなるとムファサとタカとのホモソーシャル関係が分断されることになる。ヘテロ関係はホモ関係と絡まり合っているのである。
要は『ムファサ』において典型的なヘテロ物語とみえたものが、その裏面ではゲイ物語でもあったということである。これをムファサの物語とスカーの物語といってもいい。両者は同じ物語を共有している。だがその意味は異なる。ちょうど絨毯の裏と表が同じ図柄を共有しながらも見た印象が大きく異なるように。したがって『ムファサ』は、ヘテロ物語と読んで全然問題ないのだが、同時に、ゲイ物語と読んでも全然問題ないのである。
タカは、キロスからムファサを助けるために顔面に傷を負う。それがスカーという名前の由来になるのだが、ある意味、それは名誉の負傷でもある。しかし、ムファサにとって、それは裏切り者のタカの忌まわしいしるしでもある。しかも傷をもつ者は、物語においては同性愛者であることが多い(現実に、傷のある人間が同性愛者であることはまずない。あくまでも物語のなかでの常套的設定のことである)。スカーは、ゲイのしるしである。それが名誉の負傷のしるしであることが判明することはあるのだろうか。『ムファサ』の後日譚を知っている私たちは、残念ながら、その日が来ないことを知っている。
posted by ohashi at 12:02| 映画
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