2018年02月11日

『ルイの九番目の人生』

2015年に完成して2016年に公開された映画で、わざわざ2018年に公開されなくてもいいのではないだろうか。先日、アメリカのアカデミー賞のノミネート作品が発表されたが、そのうち現時点で、日本で公開されているのは『ゲットアウト』と『スリー・ビルボード』くらいで、あとは日本では未公開の作品ばかりで、アカデミー賞にノミネートされなかったら公開すらされなかったであろう映画である。その意味で、アカデミー賞はありがたい。それがなかったら多くの素晴らしい映画が日本で公開されないまま終わってしまうのだから。


『ルイの九番目の人生』は、予告編で判断したら期待値マックスの興味深い映画だった。実際に見てみると、期待を裏切らないというよりも、しっかり期待を裏切ってくれた映画で、なにもわざわざ、今になって公開しなくてもいいのではないか。


アンソニー・ミンゲラ監督(劇作家でもあったが、私と同年齢。ただし、むこうは私と違い善人なので早死にしている)が企画してはたせなかった映画原案を息子がプロデュースして映画化にこぎつけたという作品なので、けっこう期待はしていた。ただ監督はアレクサンドル・アジャ(ミンゲラ監督のほうに注意をとられて、まったく調べなかったが、聞いたことがある。たしかフランスのホラー映画監督)のわりには、ホラー映画臭がない。ファンタジーの癖の強さにシフトしている。


ルイ役のエイダン・ロングワースがかわゆいということは認めてもいい。小児昏睡の専門家医をジェイミー・ドーナンが演じていて、『フィフティ・シェイズ』の若き変態富豪の役で有名だが、彼の役や演技ではなく(変態は好きだ)、映画そのものが嫌いなので、あまり好印象をもっていない。『ハイドリッヒを撃て』ではキリアン・マーフィーと共演していて、映画そのものもよかったのだが、今回は、これまでの映画とはちょっと雰囲気がちがっているが、それでもイケメンの医師という、まあはまり役である。そして彼が愛し合うようになる、ルイの母親がサラ・ガドン。最近の映画では即位直前のエリザベス女王役がなんといっても印象ぶかいのだが、天使のようにかわいい男の子と、美男美女の二人が出てきて、それで見せる映画なのだと思う。


謎の部分は、開始からしばらくしても、進展がまったくなく、解決へ向けての努力もなされず、むしろ解決がどうのこうのという映画ではないことがわかってくる。ホラー的要素も、ない。家族向けを狙った映画なのだろうか。繰り返すが、美少年と美男美女との人間的からみを、あわてず、ファンタジー的雰囲気のなかでゆっくり鑑賞するということなのだろうか。


けっして眠たくはなかったのだが、完全に予想と期待を裏切られた映画であったために、いつしか意識が遠のきはじめ……。まあすこし見逃したところはあるが、内容は把握できた。最後の事件の全容の解明にしても、やはりファンタジーとしてもホラーとしても中途半端であり、かといって推理小説的な解決という点からみても、肝心な設定のファンタジー臭が強いということもあり、どうしても不満が残る。


まあ、無理して公開しなくても、よかったのでは。ジェイミー・ドーナンのファンが多いのだろうか。サラ・ガドンのファンが多いとも思えないないのだが。ただひとつだけ言えることがある。


海、溺死、海の怪物のイメージが強い。死と水のイメージの結びつき。これは、ゲイ物語、ゲイ映画のモチーフである。実際、少年と父親(義理の)との関係は、親子関係とみるか、男同士の関係とみるか、あるいは両方としてみるか、そこが微妙なところである。ただゲイの男性は、母親だけは愛している。そこにちょっと違和感があって、この映画を、隠れゲイ映画とみるべきは、躊躇するところである。


それにこれは母親の気持ちを忖度する映画であって、忖度映画のひとつになることは間違いなのだが。



サラ・ガドンの最近作のひとつが即位前のエリザベス女王(王女)のお忍びの一夜を描いた『ロイヤル・ナイト』(2016 原題は「ナイト・アウト」)で、そこでは奔放な妹に対して思慮深い未来の女王たる姉の役を演じていて印象的だったが、私が彼女をはじめて映画のなかでみたのは、ルーク・エヴァンズが実在のヴラド・ドラキュラを演じた『ドラキュラZero(2014)でもなければドニ・ビルヌーブ監督の『複製された男』(2014)でもなく(どちらも彼女がどこに出ていたかよく覚えていないのだが)、クローネンバーグ監督の息子ブランン・クローネンバーグ監督の『アンチヴァイラル』(2013)だった。


その映画における彼女の美しさに目を奪われた記憶があったのだが、その映画で主役を演じたのが、まだ知名度の低かった男性俳優で、彼の不気味な個性と存在感にも圧倒された記憶がある。その男性俳優とは、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ。え、誰っ? と聞くなかれ。彼は今年のアカデミー賞候補作のうち2作品に出演している。ひとつは『ゲット・アウト』。そしてもうひとつは『スリー・ビルボード』――この直前の記事で私が冒頭で着目したシーンにおけるレッド役が彼だった。

posted by ohashi at 20:29| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年02月09日

『スリー・ビルボード』

この映画のなかで最も衝撃的かつ映画全体を集約していると思われるシーンがある。病院の病室。ディクソン巡査(サム・ロックウェル)に殴る蹴るの暴行を受けたうえに二階の窓から道路の放り投げられ重傷を負い、体中、包帯でぐるぐる巻きにされた広告店主レッド(ケイレブ・ジョーンズ)のいる病室か集中治療室のようなところに、火事で大火傷を負って、レッド以上に包帯で頭部と体をぐるぐる巻きにされベッドから動くこともできない状態のディクソンが運ばれてくる。レッドは病室で動くことができる。彼は、すかさず、運ばれてきた重症患者に近づき、声をかけ、きっとよくなるから元気をだせというような温かい励ましと慰めの言葉をかける。オレンジジュースを飲むかと自分用のジュースをカップにいれてストローをつけて相手に差し出そうとするのである。


この時点でレッドは運ばれてきた重症患者が、自分に暴行を働いた暴力警官であることを知らない(顔がわからないから当然である)。いっぽうディクソンのほうは包帯で覆われた頭部の隙間から、自分に声をかけてきた同室の患者が、レッドであることを知る。ディクソンであることに気づかないレッドに対して、ディクソンは、涙だながらに、すまないと謝るのである。とそのときはじめてレッドも、この包帯の男が自分に理不尽な暴行をはたらいたディクソン巡査であることを知って驚く。


私がこの場面に衝撃を受けたのは、その唐突さとではなく、むしろ自然ななりゆきに対してである。レッドが運ばれてきた患者にやさしく声をかける。それは、不自然さのまったくない、自発的な、いや反射的な反応であるようにみえる。私だって、まあ、この歳になっても人見知りなのだが、自分と同じように、あるいは自分以上に、大けがをした患者、あるいは同室者に、自分では気づかないうちに声をかけているのではないかと思う。


大けがを負った者どうしに生まれる、共感の絆。だからレッドが、その火傷の患者が、自分に危害を加えたディクソンであったことを知ったあとで、突然、態度を変えて、相手を罵ったり、仕返しの暴力をふるったりはしないだろうと見ている側も予想する。実際、その予想は的中して、レッドは、運命の皮肉に驚くというよりも、あきれつつ、また怒りや憎しみを感じつつも、オレンジジュースをそっと差し出すのである。


赦しというようなものではない。大けがを負ったものの間に生まれる絆というか連帯感みたいなもの。それは互いの憎悪や怒りを超えて突発事故のように生まれる反射的行動である。自分ではどうすることもできない、あるいは自分では意識的にこしらえることができななかった連帯感。これこそ、この映画を支える中心的なテーマであろう。


傷つく者たちの、不遇の者たちの、虐げられた者たちの相互扶助と連帯感。たとえ私たちが恵まれている側にいても、事故は起こる。怪我はする。病気にはなる。そのとき、私は苦しむ者になる。傷つく者になる。そのような苦しむ者たちになったとき、自然に、いや反射的に生まれる絆、自分ではコントロールできない、まるでおぞましい欲望のような、思わず、おさえつけてしまいたくなるような衝動的な「善」の噴出を、私も感ずるはずある。


この時、私は傷つく者たちのコミュニティの一員となる。それも衝動的な善に驚き、また衝動的な善に支えられながら。。


Surprised by SinならぬSurprised by Goodness.虐げられた者は、傷つく者たちは、同じ境遇の者を決して見捨てない。その支援と連帯の本能は、なにをもってしても、社会制度も、教育をもってしても、抑えることはできない。この善の次元。隠れたる次元。自分では気づくことなく、また社会においても必ずしも認知されない次元。それに接することから生まれる、名状しがたい安堵感と至福。それがこの映画が提示してくれるものであろう。


結末にそれがよくあらわれている。傷ついた者どうしの間にき生まれる、友愛と連帯。それが生まれたこと。それに包まれること。もはや復讐が問題なのではない。事件解決が問題なのではない。たとえそのふたつが限りなく遠い目標であり、不可能な要求であっても、むしろ不可能な要求であればあるほど、傷ついた者たちの間の連帯が保証される。この場合、未来でも、過去でもない、いまとここにこそ、私たちを不意打ちにする善なるものの発露と、そこから生まれる癒しと安堵感の時空が創造されるのだ。


マーティン・マクドナーの戯曲は『イニシュマン島のビリー』を翻訳劇として舞台でみたことがある(再演のほうだが)。「イニシュマン島」というのはアラン諸島の島のひとつ。あと映画では『セブン・サイコパス』は評判の作品もみた。出演者も『スリー・ビルボード』と重なっている。実は、ナショナル・シアター・ライブの『ハングマン』を昨年、映画館で見そびれた。この映画の公開を機に、『ハングマン』も、どこかの映画館で上映してくれないだろうか。


フランシス・マクドーマンドについて、はじめって知ったというような声をもきくが、むしろ知らないほうがおかしい。『ファーゴ』が有名だが、それ以外にも多くの映画に出演していて、私も、彼女の出演作で、見ている映画よりも見ていない映画のほうがはるかに少ない。とはいえ、彼女の映画出演作のリストをみても、何の役だったのか思い出せない作品も、実は多く、まあバイプレーヤーとしての活動がメインなのかもしれない。


ウディ・ハレルソン(ウィロビー署長)とサム・ロックウェル(ディクソン巡査)は、マクドナー組という枠には収まらない知名度の高さを誇るが、彼らが、いい役をもっていってしまっている観がある。しかし、マクドーマンドのダメ夫役のジョン・ホークスも、彼女の息子のルーカス・ヘッジズも、そして身長132センチのピーター・ディンクレイジも、最終的には悪人ではなく、また冷酷な人間でも無神経な人間もなく、みんな「いい人」たちばかりの「いい役」ではある。


アビー・コーニシュは『ジオストーム』にも出ていたが、余計なお世話ながら、ちょっと太りすぎではないだろうか。

posted by ohashi at 22:14| 映画 | 更新情報をチェックする

2018年02月01日

『否定と肯定』

タイトルにあるような両論併記は、まさに修正主義者の思うつぼであって、それは映画のなかでも説明されていたが、アウシュヴィッツについて肯定派と否定派があるとき、アウシュヴィッツの存在そのものがかなり揺らぎ、なぜアウシュヴィッツが生まれたのか、その関係性は、あるいは責任はなどという、本来問われるべき問題が、脇においやられてしまう。

映画の原題はDenial. ただし原告と被告に分かれての裁判闘争だから、否定と肯定としたのかもしれないが、あるいは、そうでもしないと日本でもネトウヨの攻撃に映画会社がさらされるかもしれないということか。

原題のDenialは二つの意味が込められている。一つはアウシュヴィッツ否定派の「否定行為」、そしていまひとつはレイチェル・ワイズ演ずるところの歴史研究者・大学教授が、アウシュヴィッツ否定派に訴えられたとき、法廷戦術として、彼女自身は証言しないで、すべてを法廷弁護士の弁論に委ねることにした、自らは望まなかった「自己否定行為」をいう。結果的に彼女が受け入れたこの戦略が功を奏したのだが、アウシュヴィッツの生き残り、アウシュヴィッツ証言者すらも証言させない。理由は、そうした人々が否定派の悪辣な反対尋問で屈辱を味あわされ傷つけられないようにするためというものであった。生存者に証言をさせないことに意味があるのか、観客は釈然としないのだが、結果的にそれがよかったということにある。ここにあるのは法廷戦術のリアルである。その意味で、理念の前に現実を、論理よりも戦術を重んずるような、リアルを追求する映画となっている。

と同時にデイヴィッド・ヘアの脚本が、なんといっても知的かつ洞察にあふれていて、歴史修正主義者の手口というものを実に手際よくわかりやすく教えてくれる。その意味でも、この映画は見る価値がある。実際、過去の、遠い地のアウシュヴィツの話ではない。同じことは日本においても確実にあてはまるからであり、安部首相も加担しているらしい、歴史修正主義者のなりふりかまわぬ暴挙こそ、この映画で裁かれているものだ。

実際、日本にも、アウシュヴィッツがどのこうのと話題にすれば、まだそんな迷信に囚われているのか、アウシュヴィッツなどなかったなどとしたり顔にいう人間は(つまり歴史修正主義者に影響をうけた人間)は、ほんとうにいるのである。

歴史酒精主義者の怖いところは、彼らの言説が、直接、ネオナチやネトウヨの歪んだ発想を形成したということではなく、反ユダヤ主義的姿勢を掘り出してしまうことなのである。漱石の『夢十夜』のなかの運慶の話を思い出してもいい。というか正確に思い出していないのだが、運慶は、木とか石を刻んで仏像をつくっているのではなく、木のなかに、あるいは石のなかに埋まっている仏の姿を取り出しているのだという。これと同じで、歴史修正主義者は、その議論によって歴史の解釈の刷新とか歴史的事実の深層に迫るのではなく、ネオナチを引きずり出し造型しているのである。そこが怖いし、彼らの言動は、ヘイト・クライムを遂行するのではなく、また反ユダヤ主義を標榜するのではないにもかかわらず、隠れていたヘイトと反ユダヤ主義に発掘してしまうのだ。日本でも「反日」のレッテルが、戦前・戦中の「非国民」と同じようにまかりとおっている現在の悲惨と、歴史修正主義者たちとは無関係ではないだろう。

Wikipediaには「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」という記事があって、この事件の経緯について探るのに参考になるが、日本語の表記が、たぶん英語版を翻訳したものだろうが、ところどころわかりにくくなっていて、何度も読みなおさなければいけないところがあり、ときには何度読みなおしてもわからないところがある。

まあ法律用語は素人には理解不可能なものが多いので、しかたがないともいえるのだが、映画ではPenguin Booksを「ペンギン出版社」と訳しているが、字幕なので字数制限があるとはいえペンギン社でしょうね。あとThe Athenaeum Hotelは英語読みで「アシーニアム」ホテルと覚えていたが、「アセニ(ー)アム」という米国式発音もあるらしいが、映画の字幕では確か「アテナエウム」とあって、ロンドンにそんな名前のホテルがあるのだと思った瞬間、「アシーニアム」の間違いだろうと気づいた。

とはいえこれは些細なことで、こういう間違いは、私自身、やまのようにしているのだが、問題は、ここで書けないほど、わかりにく、あるいはおぼえにくい、法律関係の用語とか表現があったこと。なんとかしてくれと思ったのは事実。東京での上映は終わって、あとはDVD(あるいはブルーレイ)を待つばかりだが、日本語字幕には法律の専門家のアドヴァイスを入れて再考してほしいし、英語字幕も必ず入れてほしいと思う。

法廷物は、たいてい劇的で緊迫感があり、見ていてあきないのだが、まあ、この裁判では否定派が論破されたからよかったようなものの、しかし、これでネオナチも否定派も(ネトウヨ)も消滅することはないし、彼らは、まるで勝訴したかのようにメディアに露出している(それは映画のなかでも示されていた)。解決はほどとおいし、否定派との闘争は、これは終わりではなく、むしろはじまったばかりなのだ、Broadcasting Bitchとしかいいようがない。否定と肯定という両論併記のタイトルからして。

付記
Wikipediaでは「ブーディカ」の見出しだが、「BoudicaまたはBoudicca、過去にはBoadiceaなどとの表記も。日本語でもボウディッカ、ボアディケア、ボーディカ、ブーディッカ、ボアディシア、ヴーディカなどと訳される。生年不詳 – 60年/61年?)」とあって、まあ表記は一定していない。全く個人的なことだが、私は「ボーデシア」と表記している。ちなみに第二次大戦中には、彼女の名前を冠した巡洋艦があって、日本では「ボーデシア」と表記している。それにあわせたわけではないが。

ちなみに、以下はWikipedia英語版の記述。Boudica or Boudicca (Latinised as Boadicea or Boudicea /boʊdɪˈsiːə/, and known in Welsh as Buddug [ˈbɨ̞ðɨ̞ɡ]) was a queen of the British Celtic Iceni tribe who led an uprising against the occupying forces of the Roman Empire in AD 60 or 61.

なお
恥ずかしながらロンドンに彼女の像があることを知らなかった。もしロンドンに行くことがあれば、見てみたい。ちなみに彼女の反乱を扱った芝居はシェイクスピアの時代にもある。また英国文化のなかに彼女はかなりふかく根ざしている。

あとこの映画から学んだことだが、実際に実行できることかどうかわからないが、相手を非難するとき、相手の眼を見ずに、こちらの主張をすること。法廷弁護士じゃないとなかなか実行できそうもないが。
posted by ohashi at 16:23| 映画 | 更新情報をチェックする