問題は、幾多の事件なり試練を経て、キリアン・マドックスがボディビルダーになる夢をいったんはあきらめるが、最終的にあきらめないことである。アリストテレスではないが、物語には、始めと中と終わりがあるものならば、この映画には終わりがない。いや、終わりらしきものはみえるのだが、結局それは幻想か白昼夢であることがわかる。その終わりではない。ならばどんな終わりが。結局、終わりをみつけられないまま、始めと中だけがあり、終わりのない物語が、まさに終わるのである。
たとえば、『ボディビルダー』は『タクシードライバー』によく似ている。しかし『タクシードライバー』のほうは、疎外され孤立し狂気に陥る主人公が、その暴力を、社会のために使う。そうすることでヒーローになり社会的に高く評価される――その結果、追及していた承認要求が満たされる。孤独と狂気が昇華され社会的有用性を帯びることになる。これで主人公の苦悩と苦難は終わる。これに対し『ボディビルダー』では、主人公が必死に構築し改造してきた肉体は、芸術的な美の対象(コンテストの評価対象)ではあっても、社会的にみて無用の長物である。何の役にもたたない。その強靭な肉体は戦いのためのものではない。彼は殺人マシーンになるためにトレーニングに励んではいないのだから。彼の格闘能力はゼロである。そのため攻撃力を活かしてヒーローになることもできない。ただその筋力から力は出せるので、物的破壊へと暴走することにはなる。主人公の怒りは人ではなく物にむけられる。彼は他人を身体的に攻撃することは一度もない。たとえ身体的に攻撃されることはあっても。
おそらく主人公にとって最良の道は、プロのボディビルダーになることをあきらめることである。もちろんここまで来たのだから、簡単に別の道を選べない。しかしボディビルディングに固執している限り、確実に破滅し、社会的信用評価を下げることになる。
この映画における主人公の位置づけとして、ひとつ言えることは、アメリカン・ドリームの囚われ人(プリズナー)ということであろう。これに対して映画が提供する結末は、ドリームを達成するというハッピーエンディングであってもよかった。アメリカン・ドリームの達成者を主人公をする映画は多い。キリアン・マッドクスも、もしかしたらロッキーになれたかもしれない。だが、キリアン・マーフィーはロッキーよりもランボー(もともとは顧みられず差別されるヴェトナム帰還兵)に近い。
実際、アメリカン・ドリームの特徴は、ほんの一握りの成功者のほかに、やまのような負け犬を生み出すことである。そして成功者の映画があると同時に、映画とりわけアメリカ映画はまた負け犬にも寄り添う作品を輩出してきた。負け犬とは、たんに挫折を味わった人間ということではない。挫折はつらいものだが、挫折のつぎに新たな出発もある。しかし、アメリカン・ドリームの怖いところは、中毒症、依存症のように取り付いて、アメリカン・ドリームを手放さないようにさせることだ。いつまでも見果てぬ夢を見続ける。何度挫折しても夢を捨てない。薬物やアルコール依存症とまったく同じ症状である。負け犬とは、アメリカン・ドリーム依存症の別名なのである。
かくして『ボディビルダー』においてキリアン・マドックスは、挫折して人生をやり直せば救いを見出すことができても、挫折を、敗北を認めず、夢を追い続けるのだ――超一流のボディビルダーとなって名声を博し、多くの雑誌の表紙を飾る存在になるという夢を。『ボディビルダー』の原題とはMagazine Dreams(雑誌の表紙を飾る夢)であった。
だがそれだけではあるまい。キリアン・マーフィーがダイナーだかレストランで暴れ、そこの駐車場の車を壊すと、かけつけた複数の白人警官に取り押さえられるのだが、その姿はアメリカにおいて日常的に繰り広げられる白人警官のアフリカ系市民への暴行そのものでもあった。キリアン・マーフィーの承認要求は、たんに人気者に、ヒーローに、セレブになりたいということではない。その淵源には、人種差別があり、その克服、あるいは復讐が、彼をボディビルダーへとかりたてている。彼の承認要求は個人的・私的なものではなく、社会的なものであり、その怒りは公的差別と不公平にむけられているのである。
だからどうしたというなかれ。この映画は、そうしたアフリカ系市民が置かれた状況の特質を赤裸々に暴いている。つまり現時点では救いはない。今日もまたアフリカ系市民は白人警官に暴行を加えられるだろう。今日もまたアフリカ系市民は見下され、屈辱を耐え忍ぶしかないだろう。事態は改善される見込みはない。ただ忍耐することしかない。
こうみれば、アメリカン・ドリームを捨てきれないキリアン・マドックスはただ愚かではない。夢を捨てず、希望を抱き続ける彼は、実は楽観的であるのではなく、ただ耐えているだけなのだ。彼は不可能な夢を追い続けているかにみえて、実は、耐えているだけなのである。アメリカン・ドリームの拷問に。夢を抱くのではなく、夢という拷問に耐える。それが彼のような人種と階級にとって、いまできることのすべてであるように思われる。彼はこう語っているかにみえる。I will be the pattern of all patienceと。
2026年02月06日
『ボディビルダー』2
posted by ohashi at 22:32| 映画
|
2026年02月05日
『ボディビルダー』1
暴力事件を起こしたジョナサン・メジャースJonathan Majorsの復帰第一作かと思い、それはそれで喜ばしいことと思ったのだが、この映画は2023年に公開予定が、暴力事件のためアメリカでは公開延期、2025年3月に公開。日本でも昨年の12月から公開されている。まあ、確かにこの映画において、決して暴力的な人間ではないが、怒りと狂気と絶望によって暴走するメジャースの役どころと、暴力事件は結び付けられやすいから、事件のほとぼりが冷めるまで公開はむりだったということはわかる。
メジャースの出演映画からすると、この『ボディビルダー』は、『グリードIII』と『アントワン・アンド・ワスプ』の続編(いずれも2023年公開)と同じ時期の映画で、Netflix配信の『デヴォーション』(2020)よりも後ということになる。ちなみに『デヴォーション』は私の好きな映画で(戦争物というよりもヒコーキ物なので)、史実に基づくため、メジャースも共演のグレン・パウウェル(!)も、おとなしめの役どころなのだが、それが実は映画のよさともなっている。
あと『ボディビルダー』の監督イライジャ・バイナムの前作『ホット・サマー・ナイツ』(2018)はティモシー・シャラメの映画なのだが、そのティモシー・シャラメとメジャースは共演していたことがある。2017年はティモシー・シャラメは、『ホット・サマー……』のほかに『君の名前……』、『レディ・バード』に出演しているのだが、なかでも一番の端役で出ているのがスコット・クーパー監督の『荒野の誓い』(Hostiles, 2017)――すぐに死んでしまうので。その映画に、ジョナサン・メジャースが出演していた。後半で任務をリタイアする役どころだったが、かなり印象的な人物を演じていた。そのメジャースがバイナム監督の二作めに主役で登場するのは、なにかの因縁なのだろうか。
それはともかく、『ボディビルダー』は、その救いのなさが際立つものの、同時にメジャースの迫力と魅力を存分に示してくれる驚異的映画だった。
ちなみに『ボディビルダー』にはヘイリー・ベネットが出演しているのだが、残念ながら、『アムステルダム』に出演していたテイラー・スウィフトと肩をならべるくらい、出演時間が短い――メジャース演ずるキリアン・マッドクスに影響を与える人物ではあるのだが。また個人的には、彼女の映画を観たのは『スワロー』(2019)が最後で(『ボーダーランズ』(2024)でも観たのだが、その時は気づかず)、今回、いつのまにか、こんなにぽっちゃりした女性になったのかと驚いた。
ジェシー/ヘイリー・ベネットは映画のなかで、キリアン・マッドクス/ジョナサン・メジャースから突然デートを申し込まれるのだが、こんなむきむきの筋肉の人相の悪いアフリカ系の男性から交際を申し込まれても、嫌悪感しかわかないかもしれないのだが、最終的に彼女はデートに応ずる(デートのことを自分の両親にも伝えている)。フィクションだからしかたがないといえばそれまでだが、しかしメジャース扮するキリアン・マドックスは、シャイだが礼儀正しく誠実で心優しい青年にみえる。女性が魅力を感じてもおかしくない人物であることは、特筆すべきである。悲劇は、そのような青年が、男女の友人がなく、孤独なボディビルダーとしてトレーニングするうちに狂気におちいっていくことである。さらに、その狂気から彼は最後まで抜け出せないでいる。
皮肉なのは、あれほど強靭な肉体、鋼の筋肉――無敵で、攻撃にも痛みにも屈しない筋肉――を持っていながら、その孤独な環境ゆえに、それにみあった強靭な精神を持てないことである。しかもその体づくり(一日6000キロ・カロリーの食事)、トレーニング、筋肉増強剤注射などによって、鉄の肉体ができるはずが、内部から体が蝕まれてゆく。精神的にも追い詰められてゆく。強靭な肉体にやどるガラスの魂。いや肉体もまた筋肉増強剤で蝕まれ、負担のかかりすぎる心臓は崩壊寸前である。医師からは手術をすすめられるが、それを拒否――ボディビルダーは体に傷を残ることはできないからである。
映画の最後に、彼は、選考会で優勝し、栄誉に包まれ喝采を浴びているようにもみえる。それが幻想なのか、実際に現在の苦境を抜け出して最後に勝ち取る栄光なのかは、意見が分かれるとかいう意見がネット上にあり、また監督も、解釈は観客にゆだねられると述べているらしいのだが(ほんまかいな)、あれは幻想に決まっているでしょう。その幻想の栄光を追い求めて、結局、彼は最高のボディビルダーになる夢を捨てきれないまま、あるいはボディビルダー依存症から抜け出せないまま、身体が崩壊する門口にたっている――それが映画が示す「終わり」の姿である。
彼がボディビルダーとして成功するわけがないと思われる根拠は、もちろん、夢が絶たれ自暴自棄になった行動からもう未来がないと感じられるだけではない。その肉体である。キリアン・マドックス/ジョナサン・メジャースの鍛え上げられた肉体は、映画の冒頭で目にすると驚愕のあまり卒倒するような迫力がある。しかし映画のなかではキリアンがあこがれ、自分の理想像としてあがめているプロのボディビルダー、ブラッド・ヴァンダーホールが登場する。自身がプロのボディビルダーで俳優でもあるマイク・オハーンが演じているのだが、あいにくボディビルについては全く無知の私は、この人物が世界中の雑誌の表紙に載ったことがある有名人だとは知らなかった。そんなことも知らないのかと、キリアン・マドックス/ジョナサン・メジャースに責められそうなだが(映画のなかで同様に問い詰められたヘイリー・ベネットの困惑がよくわかる)、とにかくこのマイク・オハーンの肉体にくらべると、キリアン・マドックス/ジョナサン・メジャースの肉体は見劣りがする。
またキリアン自身が追い詰められ心身ともに傷ついていくにつれ、彼の超人的肉体が細るような印象を受け、マイク・オハーンの実際の肉体をみると、ますます細るようにみえてならない。残念ながらキリアン・マドックス/ジョナサン・メジャースが、ブラッド/マイクのようにプロのボディビルダーとなって脚光を浴びる日はこないだろうと確信できる(なおマイク・オハーンは、よくあの役を引き受けたと、ちょっと驚くのだが)。
つづく
メジャースの出演映画からすると、この『ボディビルダー』は、『グリードIII』と『アントワン・アンド・ワスプ』の続編(いずれも2023年公開)と同じ時期の映画で、Netflix配信の『デヴォーション』(2020)よりも後ということになる。ちなみに『デヴォーション』は私の好きな映画で(戦争物というよりもヒコーキ物なので)、史実に基づくため、メジャースも共演のグレン・パウウェル(!)も、おとなしめの役どころなのだが、それが実は映画のよさともなっている。
あと『ボディビルダー』の監督イライジャ・バイナムの前作『ホット・サマー・ナイツ』(2018)はティモシー・シャラメの映画なのだが、そのティモシー・シャラメとメジャースは共演していたことがある。2017年はティモシー・シャラメは、『ホット・サマー……』のほかに『君の名前……』、『レディ・バード』に出演しているのだが、なかでも一番の端役で出ているのがスコット・クーパー監督の『荒野の誓い』(Hostiles, 2017)――すぐに死んでしまうので。その映画に、ジョナサン・メジャースが出演していた。後半で任務をリタイアする役どころだったが、かなり印象的な人物を演じていた。そのメジャースがバイナム監督の二作めに主役で登場するのは、なにかの因縁なのだろうか。
それはともかく、『ボディビルダー』は、その救いのなさが際立つものの、同時にメジャースの迫力と魅力を存分に示してくれる驚異的映画だった。
ちなみに『ボディビルダー』にはヘイリー・ベネットが出演しているのだが、残念ながら、『アムステルダム』に出演していたテイラー・スウィフトと肩をならべるくらい、出演時間が短い――メジャース演ずるキリアン・マッドクスに影響を与える人物ではあるのだが。また個人的には、彼女の映画を観たのは『スワロー』(2019)が最後で(『ボーダーランズ』(2024)でも観たのだが、その時は気づかず)、今回、いつのまにか、こんなにぽっちゃりした女性になったのかと驚いた。
ジェシー/ヘイリー・ベネットは映画のなかで、キリアン・マッドクス/ジョナサン・メジャースから突然デートを申し込まれるのだが、こんなむきむきの筋肉の人相の悪いアフリカ系の男性から交際を申し込まれても、嫌悪感しかわかないかもしれないのだが、最終的に彼女はデートに応ずる(デートのことを自分の両親にも伝えている)。フィクションだからしかたがないといえばそれまでだが、しかしメジャース扮するキリアン・マドックスは、シャイだが礼儀正しく誠実で心優しい青年にみえる。女性が魅力を感じてもおかしくない人物であることは、特筆すべきである。悲劇は、そのような青年が、男女の友人がなく、孤独なボディビルダーとしてトレーニングするうちに狂気におちいっていくことである。さらに、その狂気から彼は最後まで抜け出せないでいる。
皮肉なのは、あれほど強靭な肉体、鋼の筋肉――無敵で、攻撃にも痛みにも屈しない筋肉――を持っていながら、その孤独な環境ゆえに、それにみあった強靭な精神を持てないことである。しかもその体づくり(一日6000キロ・カロリーの食事)、トレーニング、筋肉増強剤注射などによって、鉄の肉体ができるはずが、内部から体が蝕まれてゆく。精神的にも追い詰められてゆく。強靭な肉体にやどるガラスの魂。いや肉体もまた筋肉増強剤で蝕まれ、負担のかかりすぎる心臓は崩壊寸前である。医師からは手術をすすめられるが、それを拒否――ボディビルダーは体に傷を残ることはできないからである。
映画の最後に、彼は、選考会で優勝し、栄誉に包まれ喝采を浴びているようにもみえる。それが幻想なのか、実際に現在の苦境を抜け出して最後に勝ち取る栄光なのかは、意見が分かれるとかいう意見がネット上にあり、また監督も、解釈は観客にゆだねられると述べているらしいのだが(ほんまかいな)、あれは幻想に決まっているでしょう。その幻想の栄光を追い求めて、結局、彼は最高のボディビルダーになる夢を捨てきれないまま、あるいはボディビルダー依存症から抜け出せないまま、身体が崩壊する門口にたっている――それが映画が示す「終わり」の姿である。
彼がボディビルダーとして成功するわけがないと思われる根拠は、もちろん、夢が絶たれ自暴自棄になった行動からもう未来がないと感じられるだけではない。その肉体である。キリアン・マドックス/ジョナサン・メジャースの鍛え上げられた肉体は、映画の冒頭で目にすると驚愕のあまり卒倒するような迫力がある。しかし映画のなかではキリアンがあこがれ、自分の理想像としてあがめているプロのボディビルダー、ブラッド・ヴァンダーホールが登場する。自身がプロのボディビルダーで俳優でもあるマイク・オハーンが演じているのだが、あいにくボディビルについては全く無知の私は、この人物が世界中の雑誌の表紙に載ったことがある有名人だとは知らなかった。そんなことも知らないのかと、キリアン・マドックス/ジョナサン・メジャースに責められそうなだが(映画のなかで同様に問い詰められたヘイリー・ベネットの困惑がよくわかる)、とにかくこのマイク・オハーンの肉体にくらべると、キリアン・マドックス/ジョナサン・メジャースの肉体は見劣りがする。
またキリアン自身が追い詰められ心身ともに傷ついていくにつれ、彼の超人的肉体が細るような印象を受け、マイク・オハーンの実際の肉体をみると、ますます細るようにみえてならない。残念ながらキリアン・マドックス/ジョナサン・メジャースが、ブラッド/マイクのようにプロのボディビルダーとなって脚光を浴びる日はこないだろうと確信できる(なおマイク・オハーンは、よくあの役を引き受けたと、ちょっと驚くのだが)。
つづく
posted by ohashi at 15:15| 映画
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2026年02月01日
『果てしなきスカーレット』1
細田守監督のこの長編アニメ映画は、日本では評価が低くヒットしなかったようだが、海外では高く評価されているようで、まあよかったのではないだろか。劣等国民が70%のこの国は、残り30%のまともな国民には失礼ながら、また残念ながら、劣等国といってよく、そんな劣等国の国民に高く評価されたら、それこそ恥というべきであろう。
むしろ日本で評価されなかったところが、実は、この長編アニメの素晴らしいところで、日本の劣等国民にとっての作品の問題点を挙げれば、それがこの作品のすぐれたところの指摘にもなるのだが、それを考えてみたい。
ただ、その前に――このアニメの最後、デンマークの王女スカーレットは女王として即位する(これは当然予想されることなので、ネタバレにならないと思う)。このとき集まった国民に対して、彼女は、つぎのようなことを述べる――隣国とは友好関係をむすび、庶民が苦しむことのないような政治をこころがける、と。まあ、ある意味、あたりまえというか、ありきたりの演説で、目新しさとか独創性はないのだが――ふつうなら――、しかし、これは現在の日本においては、とんでもない威力の政権批判といなる。
なぜなら、いや、いうまでもないのだが、スカーレットと同様に女性の首長でもある日本の総理大臣のスローガンは、おそらく、隣国とは敵対関係を維持し、国民の苦しみに寄り添うよう消費税(飲食品)を2年間ゼロにするが、その後12%にあげるとういう消費増税を狙い、不正をおこなった議員を優遇し、日本を「強くて戦争のできる国にする」というのだから、スカーレットが宣言する善政とはまっこうから対立する。スカーレットの最後の紋切り型の善政宣言が、この国ではとんでもない反権力・反政権の宣言となってしまうのだ。日本人、ほんとうにかわいそうというべきか、愚民だからあわれむ必要はないというべきか。
*
アニメファンの多くは声優ファンである。しかしこの『果てしなきスカーレット』は、そうしたアニメ・声優ファンの嗜好を逆なでするような人選を行なっている。
主役のスカーレットは芦田愛菜、スカーレットとともに旅する現在日本からやってきた看護師の聖を岡田将生、スカーレットの父アムレットを市川正親、その妻(スカーレットにとっては義母らしい)を斉藤由貴、クローディアスを役所広司、ポローニアスを山路和弘、その息子レアティーズを柄本隆生が声を。また『ハムレット』のなかでは端役だが、この作品では重要な人物となるヴァルデマンドとコーネリウスをそれぞれ吉田鋼太郎と松重豊が声を担当している。ローゼンクランツとギルデンスターンは原作ほど活躍はしないが、それでも青木宗高と染谷将太を起用。原作にはない老婆を白石加代子が声を。いわゆる声優は、墓堀り人の二人で宮野真守と津田健次郎を起用――これだけでも豪華声優たちといえるのだが、ほかにめぼしい声優はいない。もちろん原作にはない年寄りの長の声を、いまやレジェンドとなった羽佐間道夫が担当していることは忘れてはいけないが。
もし画面を観ずに、声とか発声法だけ聞いて、どれが実写かどれがアニマかを判断するとすれば、誰でもそれを聞き分けられると思う。声優について詳しくはないが、いつの頃からか、いかにも声優の発声という型みたいなものができあがって、声優たちは、みなそれを踏襲するようになった。アニメ作品は、共通の発声法に従った声を響かせることになる。アニマファンはそれに慣れてしまったので、声優ではない俳優とかアイドルが声を担当すると、聞きなれた発声法ではないので、ファンから反発される(もちろん下手だからということもあるだろうが)。
ところが『果てしなきスカーレット』では、豪華な俳優陣が声を担当し、彼らは発声法や声質が声優とは異なる。異なるから、そして下手ならば、アニメファンも満足するかもしれないが、逆に芦田愛菜をはじめとしてみんな上手い、上手すぎる。
『ハムレット』のアダプテーションだからということかもしれないが、舞台俳優が多い。芦田愛菜の相手役の岡田将生は舞台俳優かと思うかもしれないが、りっぱな舞台俳優であり、彼は、なんとハムレットを演じたこともある(私はその舞台を観たことがある)。このそうそうたる俳優陣による声の共演は、凡百のアニメ映画にはない、迫力のある、荘厳な、声の饗宴を実現している。事実、『果てしなきスカーレット』は、画面だけでなく声にも圧倒される――その新鮮さ、力強さ、奥深さによって。羽佐間道夫は、アニメ声優の発声法が型にはまる以前の、もっとも有名な声優の一人だろうが、このレジェンドを起用することからも、通常の声優を排除する強い姿勢がみえる。逆にいえばアニメ・声優ファンからの反発は避けられないだろう。しかしアニメ・声優ファンではない者にとって、この声優排除のキャスティングは、実にありがたい、すばらしい、感動する、陶酔できる……。称賛の言葉は尽きない。
まあ宮崎駿も細田守も、声優が嫌いのようだ。声優なくしては成立しないアニメ作品の制作者が主役クラスの人物に声優を使いたがらないのは、皮肉といえば皮肉なのだが、しかし、熱烈なアニメファンではない者にとっては、それは全面的に支持できる選択である。わざとらしい声の演技は聞きたくない。発声法と声にたよらない演技を私たちは求めているのだ。
つづく
むしろ日本で評価されなかったところが、実は、この長編アニメの素晴らしいところで、日本の劣等国民にとっての作品の問題点を挙げれば、それがこの作品のすぐれたところの指摘にもなるのだが、それを考えてみたい。
ただ、その前に――このアニメの最後、デンマークの王女スカーレットは女王として即位する(これは当然予想されることなので、ネタバレにならないと思う)。このとき集まった国民に対して、彼女は、つぎのようなことを述べる――隣国とは友好関係をむすび、庶民が苦しむことのないような政治をこころがける、と。まあ、ある意味、あたりまえというか、ありきたりの演説で、目新しさとか独創性はないのだが――ふつうなら――、しかし、これは現在の日本においては、とんでもない威力の政権批判といなる。
なぜなら、いや、いうまでもないのだが、スカーレットと同様に女性の首長でもある日本の総理大臣のスローガンは、おそらく、隣国とは敵対関係を維持し、国民の苦しみに寄り添うよう消費税(飲食品)を2年間ゼロにするが、その後12%にあげるとういう消費増税を狙い、不正をおこなった議員を優遇し、日本を「強くて戦争のできる国にする」というのだから、スカーレットが宣言する善政とはまっこうから対立する。スカーレットの最後の紋切り型の善政宣言が、この国ではとんでもない反権力・反政権の宣言となってしまうのだ。日本人、ほんとうにかわいそうというべきか、愚民だからあわれむ必要はないというべきか。
*
アニメファンの多くは声優ファンである。しかしこの『果てしなきスカーレット』は、そうしたアニメ・声優ファンの嗜好を逆なでするような人選を行なっている。
主役のスカーレットは芦田愛菜、スカーレットとともに旅する現在日本からやってきた看護師の聖を岡田将生、スカーレットの父アムレットを市川正親、その妻(スカーレットにとっては義母らしい)を斉藤由貴、クローディアスを役所広司、ポローニアスを山路和弘、その息子レアティーズを柄本隆生が声を。また『ハムレット』のなかでは端役だが、この作品では重要な人物となるヴァルデマンドとコーネリウスをそれぞれ吉田鋼太郎と松重豊が声を担当している。ローゼンクランツとギルデンスターンは原作ほど活躍はしないが、それでも青木宗高と染谷将太を起用。原作にはない老婆を白石加代子が声を。いわゆる声優は、墓堀り人の二人で宮野真守と津田健次郎を起用――これだけでも豪華声優たちといえるのだが、ほかにめぼしい声優はいない。もちろん原作にはない年寄りの長の声を、いまやレジェンドとなった羽佐間道夫が担当していることは忘れてはいけないが。
もし画面を観ずに、声とか発声法だけ聞いて、どれが実写かどれがアニマかを判断するとすれば、誰でもそれを聞き分けられると思う。声優について詳しくはないが、いつの頃からか、いかにも声優の発声という型みたいなものができあがって、声優たちは、みなそれを踏襲するようになった。アニメ作品は、共通の発声法に従った声を響かせることになる。アニマファンはそれに慣れてしまったので、声優ではない俳優とかアイドルが声を担当すると、聞きなれた発声法ではないので、ファンから反発される(もちろん下手だからということもあるだろうが)。
ところが『果てしなきスカーレット』では、豪華な俳優陣が声を担当し、彼らは発声法や声質が声優とは異なる。異なるから、そして下手ならば、アニメファンも満足するかもしれないが、逆に芦田愛菜をはじめとしてみんな上手い、上手すぎる。
『ハムレット』のアダプテーションだからということかもしれないが、舞台俳優が多い。芦田愛菜の相手役の岡田将生は舞台俳優かと思うかもしれないが、りっぱな舞台俳優であり、彼は、なんとハムレットを演じたこともある(私はその舞台を観たことがある)。このそうそうたる俳優陣による声の共演は、凡百のアニメ映画にはない、迫力のある、荘厳な、声の饗宴を実現している。事実、『果てしなきスカーレット』は、画面だけでなく声にも圧倒される――その新鮮さ、力強さ、奥深さによって。羽佐間道夫は、アニメ声優の発声法が型にはまる以前の、もっとも有名な声優の一人だろうが、このレジェンドを起用することからも、通常の声優を排除する強い姿勢がみえる。逆にいえばアニメ・声優ファンからの反発は避けられないだろう。しかしアニメ・声優ファンではない者にとって、この声優排除のキャスティングは、実にありがたい、すばらしい、感動する、陶酔できる……。称賛の言葉は尽きない。
まあ宮崎駿も細田守も、声優が嫌いのようだ。声優なくしては成立しないアニメ作品の制作者が主役クラスの人物に声優を使いたがらないのは、皮肉といえば皮肉なのだが、しかし、熱烈なアニメファンではない者にとっては、それは全面的に支持できる選択である。わざとらしい声の演技は聞きたくない。発声法と声にたよらない演技を私たちは求めているのだ。
つづく
posted by ohashi at 16:10| 映画
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2026年01月26日
『役者になったスパイ』2
アントニオとセバスチャンという名前はともに聖人、聖アントニウスと聖セタスティアヌスから来ている。中世以来、聖アントニウスと聖セバスティアヌスは、ともに描かれることが多かった。二人の生涯に接点はないが、二人とも病を治す聖人であることから、ペアで描かれることが多かったようだ。
しかし、この二人の聖人には、病から守ってくれるほかに別の面がある。セバスティアヌスはいうまでもなくゲイの聖人であり、アントニウスは、数多の誘惑の標的となったのだが、ひいてはそれが、仏教用語だが、数多の内なる煩悩をかかえていることにもなり、その煩悩のなかには同性愛的なものも含まれる。もしアントニウスが志操堅固な人物だったら、あれほどの誘惑の魔の手が及ぶことはなかっただろう。その性格にはどこかもろいところがあり、そこにつけこまれたと考えられるのである――たとえ最後には誘惑に打ち勝つとしても。もちろん、その性格のもろさや弱さは、美点でもあって、心優しきアントニウスは、献身的に相手につくす、たとえどんなに裏切られても、また自己犠牲を厭うこともない。
この強さと弱さを兼ね備え、愚かでもあるが、同時に哀れを誘うところもあるというアントニウス像は、その後、多くの文学的・演劇的人物像の雛型となった。たとえば、クレオパトラにどれほど裏切られようとも、彼女への愛を貫き、最後には彼女のために身を亡ぼす人物にはアントニウスの名前が付けられた(シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』)。
あるいは友人の結婚のために、その費用を用立てるためにユダヤ人の高利貸しから金を借りるが、金が返せなくなったとき、担保として肉一ポンドを切り取られそうになるヴェニスの商人はアントニオという名前だったではないか、そしてその友人の名前はバッサーニオ――この名はセバスチャンの変型(シェイクスピア『ヴェニスの商人』)。身を滅ぼしそうになる心優しきアントニオこそ、アントニオの名前にふさわしく、また戯曲は、アントニオとバッサーニオ/セバスチャンの間に同性愛的感情があることを暗示している。
シェイクスピアの『テンペスト』にはアントニオとセバスチャンのペアが登場している。アントニオはミラノ公爵プロスペロの弟であり、セバスチャンはナポリ王の弟である。プロスペロを追放してその後釜にすわったアントニオは、セバスチャンに対し自分を見習って兄のナポリ王の命をとれとそそのかす。この二人の間にはとくに同性愛的感情は認められないのだが、戯曲が、この二人にアントニオとセバスチャンという役名をつけたとき、この悪人二人組は、ゲイカップルといえるほどの似た者同士だというヒントをあたえているのである――演技者たちに、そして戯曲の読者に。
アントニオとセバスチャンのペアが、アントニオの片思いというかたちで同性愛性を獲得するのが『十二夜』である――とはいえ、私の見たある舞台では、二人が最初に登場するとき、同じひとつのベッドに寝ているという、エクスプリシットな同性愛性を誇示していたのだが。
アントニオは、愛するセバスチャンを助けるべく決闘の場に割って入ることで出身地がばれ捕まってしまうのだが、そのセバスチャンは、双子の妹ヴァイオラが変装したもので、セバスチャンその人ではないため、当然、アントニオが誰だかわからない。そのため、突然現れて自分を助けてくれたアントニオから、預けた金を返してくれと求められても、なんのことかわからない。いっぽうアントニオは助けたセバスチャンに裏切られたと感じ嘆き悲しむ。それをみてヴァイオラは、双子の兄がこのイリリアの国に漂着したのではと推理する――なんと利発なヴァイオラ。いっぽうアントニオは誤解によって絶望するしかない。このアントニオは、ある意味愚かだが、同情する余地もあり、哀れを誘う男でもある。まさにアントニオの典型なのである。
『役者になったスパイ』(Moskau Einfach!, 2020)は、主人公の捜査官シュエラーが、船乗りのヴァロといなって、エキストラとして劇団に入り込み、『十二夜』のリハーサルに参加するが、急遽、アントニオ役を担うことになる。シュエラー → ヴァロ → エキストラ → アントニオと変遷してゆくなかだ、最後にアントニオという、主人公にもっともふさわしい名前、あるいは主人公の真のアイデンティティに到達するのである。事実、この映画は、アントニオ物の映画として称賛されてもいい――不運で、愚かで、一途な思いを抱き、試練にあい、絶望し、またかくしていた正体もあばかれ、愛する者からもうとまれる、哀れを誘うアントニオ的人物に、この映画の主人公はもののみごとになりおおせている。
ただし、恋愛対象が、同性の男性ではなく、女性であることによって、シェイクスピアの原作を愚劣な異性愛中心主義によって踏みにじっている。よりにもよってアントニオとセバスチャンのペアを登場させ、アントニオのエクスプリシットな同性愛的感情を明確にし、また伝統的アントニウス・セバスティアヌスのゲイ・カップルという設定にしている原作に、シェイクスピアに、敬意のひとかけらも示さないとは。
『十二夜』のジェンダー解釈は、異性愛的解釈を支持しているようにもにみえる。すなわち、最初、イリリアの為政者オーシーノ公爵は、貴族の女性オリヴィアに求婚しても、はねつけられる。そして男たちに囲まれた宮廷で、果たせぬ恋の思いに苦しんでいる。いっぽう、オリヴィアは、死んだ兄の喪に服し(それが求婚を拒否する理由でもある)、女たちに囲まれた館に引き籠っている。かたや公爵を中心とする男性ホモソーシャル集団。かたやオリヴィアを中心とする女性ホモソーシャル集団。そこにイリリアに漂着したヴァイオラが男装して公爵に仕えることになり、公爵とオリヴィアとの仲をとりもつことになる。
最終的に公爵は、その男性ホモソーシャル集団を解体して、ヴァイオラと結婚することになる。いっぽうオリヴィアも、ヴァイオラの双子の兄セバスチャンと結婚することになり、オリヴィアをとりまく女性ホモソーシャル集団も解体する。人間の成長過程において、子供の頃は同性との親密な関係を構築し、そこに安住するが、いつしか異性への愛にめざめることで成長をとげる。同性(愛)関係から異性愛関係への移行があるべき望ましい正常な変移であって、戯曲はその達成を言祝いでいるようにみえる。
だが公爵は、女性としてのヴァイオラというよりも男装していたときのヴァイオラを愛し、その同性愛的感情を結婚によって確保するかにみえる。いっぽうオリヴィアも、最初男装したヴァイオラ、つまり(変装した)女性っぽい男に一目ぼれをしてしまうのだが、最終的にヴァイオラの双子の兄セバスチャンと結ばれることによって、結局、(生物的に)女性っぽい男性と結ばれることになるのだが、それによって女性的男性への愛は消滅することのなく温存されるのである。
つまり同性愛的欲望から異性愛の世界への変遷は、実は、変遷でもなんでもなく、同性愛的欲望は、異性愛関係にも、パッシングして入り込んでいるのである。異性愛は同性愛を否定するのではなく、同性愛の隠れ蓑になってしまう。ヘテロセクシズムの機能不全あるいは機能転換こそが、この戯曲の主題そのものなのである。
だからこそ、おなじみのアントニオとセバスチャンのペアを登場させ、そこに明確な同性愛的感情の発生を促すことで、同性愛的テーマを通奏低音のごとく響かせたということができよう。
これを絶対に認めたくないヘテロセクシズム映画が、全力をあげて、同性愛的的テーマを抑圧しにかかったのである。これがスイスなのである。
聖大アントニオス(ギリシア語: Αντώνιος, ラテン語: Antonius、251年頃 - 356年)、あるいは大アントニオ
麦角菌・中毒・丹毒・脱疽を中世ヨーロッパで「聖アントニウスの火」と呼んだ。大アントニオスに祈ることで治癒されると信じられていたからである。Wikipedia 「大アントニウス」の項目より。
聖セバスティアヌス(Sebastianus, 伝承による没月日287年1月20日)
セバスティアヌスは黒死病から信者を守るといわれてきた。『黄金伝説』によれば、グンブルト王時代にロンバルドを黒死病の大流行が襲った際、パヴィア地方にある聖ペテロ教会で聖セバスティアヌスの祭壇を建立したことで、流行が止んだという。Wikipedia「セバスティアヌス」の項目より。
しかし、この二人の聖人には、病から守ってくれるほかに別の面がある。セバスティアヌスはいうまでもなくゲイの聖人であり、アントニウスは、数多の誘惑の標的となったのだが、ひいてはそれが、仏教用語だが、数多の内なる煩悩をかかえていることにもなり、その煩悩のなかには同性愛的なものも含まれる。もしアントニウスが志操堅固な人物だったら、あれほどの誘惑の魔の手が及ぶことはなかっただろう。その性格にはどこかもろいところがあり、そこにつけこまれたと考えられるのである――たとえ最後には誘惑に打ち勝つとしても。もちろん、その性格のもろさや弱さは、美点でもあって、心優しきアントニウスは、献身的に相手につくす、たとえどんなに裏切られても、また自己犠牲を厭うこともない。
この強さと弱さを兼ね備え、愚かでもあるが、同時に哀れを誘うところもあるというアントニウス像は、その後、多くの文学的・演劇的人物像の雛型となった。たとえば、クレオパトラにどれほど裏切られようとも、彼女への愛を貫き、最後には彼女のために身を亡ぼす人物にはアントニウスの名前が付けられた(シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』)。
あるいは友人の結婚のために、その費用を用立てるためにユダヤ人の高利貸しから金を借りるが、金が返せなくなったとき、担保として肉一ポンドを切り取られそうになるヴェニスの商人はアントニオという名前だったではないか、そしてその友人の名前はバッサーニオ――この名はセバスチャンの変型(シェイクスピア『ヴェニスの商人』)。身を滅ぼしそうになる心優しきアントニオこそ、アントニオの名前にふさわしく、また戯曲は、アントニオとバッサーニオ/セバスチャンの間に同性愛的感情があることを暗示している。
シェイクスピアの『テンペスト』にはアントニオとセバスチャンのペアが登場している。アントニオはミラノ公爵プロスペロの弟であり、セバスチャンはナポリ王の弟である。プロスペロを追放してその後釜にすわったアントニオは、セバスチャンに対し自分を見習って兄のナポリ王の命をとれとそそのかす。この二人の間にはとくに同性愛的感情は認められないのだが、戯曲が、この二人にアントニオとセバスチャンという役名をつけたとき、この悪人二人組は、ゲイカップルといえるほどの似た者同士だというヒントをあたえているのである――演技者たちに、そして戯曲の読者に。
アントニオとセバスチャンのペアが、アントニオの片思いというかたちで同性愛性を獲得するのが『十二夜』である――とはいえ、私の見たある舞台では、二人が最初に登場するとき、同じひとつのベッドに寝ているという、エクスプリシットな同性愛性を誇示していたのだが。
アントニオは、愛するセバスチャンを助けるべく決闘の場に割って入ることで出身地がばれ捕まってしまうのだが、そのセバスチャンは、双子の妹ヴァイオラが変装したもので、セバスチャンその人ではないため、当然、アントニオが誰だかわからない。そのため、突然現れて自分を助けてくれたアントニオから、預けた金を返してくれと求められても、なんのことかわからない。いっぽうアントニオは助けたセバスチャンに裏切られたと感じ嘆き悲しむ。それをみてヴァイオラは、双子の兄がこのイリリアの国に漂着したのではと推理する――なんと利発なヴァイオラ。いっぽうアントニオは誤解によって絶望するしかない。このアントニオは、ある意味愚かだが、同情する余地もあり、哀れを誘う男でもある。まさにアントニオの典型なのである。
『役者になったスパイ』(Moskau Einfach!, 2020)は、主人公の捜査官シュエラーが、船乗りのヴァロといなって、エキストラとして劇団に入り込み、『十二夜』のリハーサルに参加するが、急遽、アントニオ役を担うことになる。シュエラー → ヴァロ → エキストラ → アントニオと変遷してゆくなかだ、最後にアントニオという、主人公にもっともふさわしい名前、あるいは主人公の真のアイデンティティに到達するのである。事実、この映画は、アントニオ物の映画として称賛されてもいい――不運で、愚かで、一途な思いを抱き、試練にあい、絶望し、またかくしていた正体もあばかれ、愛する者からもうとまれる、哀れを誘うアントニオ的人物に、この映画の主人公はもののみごとになりおおせている。
ただし、恋愛対象が、同性の男性ではなく、女性であることによって、シェイクスピアの原作を愚劣な異性愛中心主義によって踏みにじっている。よりにもよってアントニオとセバスチャンのペアを登場させ、アントニオのエクスプリシットな同性愛的感情を明確にし、また伝統的アントニウス・セバスティアヌスのゲイ・カップルという設定にしている原作に、シェイクスピアに、敬意のひとかけらも示さないとは。
『十二夜』のジェンダー解釈は、異性愛的解釈を支持しているようにもにみえる。すなわち、最初、イリリアの為政者オーシーノ公爵は、貴族の女性オリヴィアに求婚しても、はねつけられる。そして男たちに囲まれた宮廷で、果たせぬ恋の思いに苦しんでいる。いっぽう、オリヴィアは、死んだ兄の喪に服し(それが求婚を拒否する理由でもある)、女たちに囲まれた館に引き籠っている。かたや公爵を中心とする男性ホモソーシャル集団。かたやオリヴィアを中心とする女性ホモソーシャル集団。そこにイリリアに漂着したヴァイオラが男装して公爵に仕えることになり、公爵とオリヴィアとの仲をとりもつことになる。
最終的に公爵は、その男性ホモソーシャル集団を解体して、ヴァイオラと結婚することになる。いっぽうオリヴィアも、ヴァイオラの双子の兄セバスチャンと結婚することになり、オリヴィアをとりまく女性ホモソーシャル集団も解体する。人間の成長過程において、子供の頃は同性との親密な関係を構築し、そこに安住するが、いつしか異性への愛にめざめることで成長をとげる。同性(愛)関係から異性愛関係への移行があるべき望ましい正常な変移であって、戯曲はその達成を言祝いでいるようにみえる。
だが公爵は、女性としてのヴァイオラというよりも男装していたときのヴァイオラを愛し、その同性愛的感情を結婚によって確保するかにみえる。いっぽうオリヴィアも、最初男装したヴァイオラ、つまり(変装した)女性っぽい男に一目ぼれをしてしまうのだが、最終的にヴァイオラの双子の兄セバスチャンと結ばれることによって、結局、(生物的に)女性っぽい男性と結ばれることになるのだが、それによって女性的男性への愛は消滅することのなく温存されるのである。
つまり同性愛的欲望から異性愛の世界への変遷は、実は、変遷でもなんでもなく、同性愛的欲望は、異性愛関係にも、パッシングして入り込んでいるのである。異性愛は同性愛を否定するのではなく、同性愛の隠れ蓑になってしまう。ヘテロセクシズムの機能不全あるいは機能転換こそが、この戯曲の主題そのものなのである。
だからこそ、おなじみのアントニオとセバスチャンのペアを登場させ、そこに明確な同性愛的感情の発生を促すことで、同性愛的テーマを通奏低音のごとく響かせたということができよう。
これを絶対に認めたくないヘテロセクシズム映画が、全力をあげて、同性愛的的テーマを抑圧しにかかったのである。これがスイスなのである。
posted by ohashi at 20:32| 映画
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2026年01月23日
『役者になったスパイ』1
原題はMoskau Einfach! で、「モスクワまで、片道切符で!」という意味だろうか。日本語のタイトルとのギャップに驚かれる人もいるかもしれないが、日本語のタイトルはそっけないが、内容を反映してはいる。
映画.COMでは、「1989年、冷戦の緊張が続く中、スイスではソ連の共産主義に対する恐れが社会を覆っていた。反体制派の監視と情報収集を目的に、警察官のヴィクトール・シュエラーはデモ活動を行うシャウシュピールハウス劇場への潜入を命じられる。しかし、シュエラーは監視対象の女優オディール・ヨーラと恋に落ちてしまう。さらに劇団員たちとも交流を重ねるうちに、シュエラーは自らの任務に疑問を抱き始める。ウィリアム・シェイクスピア「十二夜」の稽古と現実が交錯しながら、シュエラーの心は任務と恋の狭間で揺れ動いていく」とある。
スイスというと「優しくて穏やかな国」という印象が昔はあった。事実、戦後日本にとって、永世中立国のスイスは手本とすべき、またそうなったらよいと思わせるユートピアのような国であった。しかし、いつのころからは、気づくと、スイスの実態は「強くて、周りからこわいと思われる国」となっていて、この映画もまた「強くてこわいスイス」の暗部をコメディを通して暴くものとなっている。
戦争中、スイスはナチスに協力していた。ドイツ語圏ということも大きく作用したのかもしれないが、戦後もまたそうしたファシストが実権を握り、反体制勢力を密かにスパイし監視対象としていた。監視対象はなんと90万件。そのファイルの存在が明らかになったのが1989年のフィッシュ・スキャンダル(Fichenskandal/Fichen scandal, 英語ではSecret Files scandalとかIndex card scandalともいうらしい)だった。ちなみに1989年はベルリンの壁の崩壊の年ででもあった(崩壊は11月9日)。
こうした政治的動乱あるいは変革期を背景にしたコメディなので、そこは政治的諷刺がたっぷりあるのかと思いきや、そうでもない。そのへんが、なんとも中途半端でいただけないのだが、今回、それはさておき、この映画のゆるがせにできない不穏な陰謀ともいえるような抑圧についてどうしても触れずにはいられない。
それはシェイクスピアの『十二夜』とも関係する同性愛の抑圧である。これは絶対に許せないヘテロセクシズム支配であって、この映画がやっていることは、結局、スイスの政治的ファシストと実は同じなのである。この映画には、シェイクスピアの『十二夜』についてよく知っている専門家ともいえる人たちが推薦の言葉を寄せているが、おそらく、映画を観てこんなはずではなかったと彼らは思ったに違いない。にもかかわらず推薦の言葉を寄せるとは、恥を知れ。
↑ただしもちろん別の考え方もある。スイスの闇歴史ともいえる事件にからめたコメディ映画は、たとえ1989年時点のこととはいえ、まだ記憶に新しいことかもしれず、いっぽうで左翼・リベラル派に肩入れしすぎると保守派からは反発されるかもしれず、かといって保守派を擁護すれば、違法な警察国家の監視体制を肯定することになり、結局、どっちつかずの中道的諷刺で終わるしかなかったのではないか。もちろんこれは誰か一人の判断ではなく、映画製作側における合議によって決定されたのであろう。そのとばっちりで保守とリベラル双方のご機嫌をとるべくシェイクスピアの『十二夜』から同性愛的・ジェンダー流動的要素を完璧に排除することになった。その結果、ありきたりな異性愛物語に落ち着くことになった。よりにもよって『十二夜』を上演するという映画が。
さらにこの映画を推薦することになったシェイクスピアの専門家たちも、おそらく映画をみて、なんだと思ったに違いないのだが、そこで推薦することを辞退はせずに、お茶を濁したような推薦をしたということだろう。世界は妥協からできている。
問題は、『十二夜』において、明らかに同性愛者である人物を、映画が、異性愛者にしていることである。この暴挙を、強制的異性愛体制化あるいは異性愛中心ファシズムといわずして、なんというのか。
この映画では、左翼反体制派の拠点となっていると疑われている劇団あるいは劇場に、警察の捜査官がエキストラの一人として送り込まれる【設定では、エキストラは二人である。ふつうの劇団が、端役の二人のために、わざわざ人を、それも演技経験のない素人を雇うことはない。劇団員がいなければ、劇団員の誰かが二役をするだけであって、エキストラを雇うというのは、演劇のことを知らない映画関係者のバカな発想か、あるいは実情と会わないと知りつつ、そうした設定にせざるをえない映画製作者側の観客を舐めきった仕掛けだろう】。劇団はそこでシェイクスピアの『十二夜』を上演準備中であり、本読みからはじめてリハーサルを重ねてゆく。主人公は最初、アントニオを逮捕する警官役だったのだが、アントニオ役の俳優が怪我をしたため、急遽、主人公がアントニオに選ばれ、舞台に立つことになる。
主人公は警察側から送り込まれる潜入捜査員なのだが、やがて劇団の主役俳優の女性を恋してしまう。その女優は『十二夜』ではオリヴィアを演ずる。オリヴィアというのは、死んだ兄のために喪に服し、公爵の求愛を退け、身近に女性だけを配している暮らしている貴族の女性だが、男性に変装した主人公、男臭くなくどちらかといえば女性的な美少年ともいえる主人公ヴァイオラ【この映画のなかでは男装の麗人ともいえるヴァイオラは完全に抹消され言及もされない】に恋してしまうのである。それがオリヴィア。
最終的に異性愛に走るオリヴィアだが、そこに至るまでは同性愛的傾向の強い女性である。それをこの映画では、最初から、演出家とできている女性俳優に演じさせる。レズビアンっぽい女性の役を演ずるのが、よりにもよって、むくつけき男性演出家と肉体関係にある女性俳優なのである。なんという悪意。なんというホモフォビア。同性愛をとにかく抑圧するという意図しかないのだ――これがスイスか。
そしてこのオリヴィア役の女性俳優と、潜入捜査している捜査官が恋に落ちる。この捜査官、最初はエキストラ(この設定の非現実性はすでに述べた)だったが、アントニオを演ずることになる。よりにもよって。そもそもオリヴィアは自らをレズビアンだとカミングアウトしているわけではないし、彼女のレズビアン性は解釈の問題かもしれないのだが、アントオは違う。アントニオは、シェイクスピアの戯曲そのものが、明確に、ゲイだと指定している。自分は愛のためなら何でもするというのが、アントニオの決め台詞だが、そこでいう愛とは男性への愛である。しかし映画では、それを女性(先ほどの女性俳優)への愛の告白に変えてしまう。明確な同性愛を異性愛にすりかえる、なんという悪意、なんというホモフォビア――これがスイスか。
『十二夜』のなかで、アントニオは船乗りというか船長である。映画のなかで潜入捜査員は「船乗り」ということになっていて、『十二夜』の設定に寄せようとしたのかもしれないが、まったく有効活用されていない。そのアントニオは、海で溺れかかった若い男を助ける。そしてこの男の面倒を見る。やがてイリリア(『十二夜』の舞台となる国)に到着し、その国をみてみたいという若い男の願望をかなえてやるために、アントニオは自分の財布を持たせて好きに使うようにとまでいう。ただ、アントニオはイリリアと敵対している国の出身で、見つかれば逮捕され処刑されるかもしれない。しかし、若い男のために、アントニオは危険をかえりみず、自身もイリリアに潜入し、若い男を守ろうとする。彼はいう、自分は愛のためには何でもする男だと――この愛が若い男への同性愛であることは歴然としている。そしてアントニオは敵国に潜入する。この設定は映画のなかの潜入捜査員の設定と同じだが、映画は、それをまったく有効活用していない。
アントニオが敵国人だとばれて逮捕されてしまうのは、彼が守ろうとしている若い男が、決闘騒ぎに巻き込まれ、命を落とそうとしているところに遭遇し、おのが身の危険を顧みずに、日本風にいうと決闘の助太刀をしたからである。アントニオはそれで逮捕されてしまう。
ただし、このとき若い男を助けにしゃしゃりでたアントニオだったが、実は、この若い男は、彼の双子の妹で男装したヴァイオラなのだが、アントニオにはそれがわからない。そこでさらに混乱に拍車がかかる(このあたりシェイクスピアの喜劇的センスがさえる)。
問題は、アントニオが自身を犠牲にしてまでして助けようとした若い男の、その名前である。セバスチャン。セバスチャンだぞ。アントニオとセバスチャン。『十二夜』は、ふたりが出会った瞬間から恋におちる――とくにアントニオのほうがセバスチャンに――ことを明確に伝えている。アントニオとセバスチャンの名前によって。
このことをまったく顧みないどころか、抑圧してしまう、この愚劣なスイス映画は、いったい何がしたいのだ。もちろん同性愛を抑圧したいのである。これがスイスなのだ。
つづく
映画.COMでは、「1989年、冷戦の緊張が続く中、スイスではソ連の共産主義に対する恐れが社会を覆っていた。反体制派の監視と情報収集を目的に、警察官のヴィクトール・シュエラーはデモ活動を行うシャウシュピールハウス劇場への潜入を命じられる。しかし、シュエラーは監視対象の女優オディール・ヨーラと恋に落ちてしまう。さらに劇団員たちとも交流を重ねるうちに、シュエラーは自らの任務に疑問を抱き始める。ウィリアム・シェイクスピア「十二夜」の稽古と現実が交錯しながら、シュエラーの心は任務と恋の狭間で揺れ動いていく」とある。
スイスというと「優しくて穏やかな国」という印象が昔はあった。事実、戦後日本にとって、永世中立国のスイスは手本とすべき、またそうなったらよいと思わせるユートピアのような国であった。しかし、いつのころからは、気づくと、スイスの実態は「強くて、周りからこわいと思われる国」となっていて、この映画もまた「強くてこわいスイス」の暗部をコメディを通して暴くものとなっている。
戦争中、スイスはナチスに協力していた。ドイツ語圏ということも大きく作用したのかもしれないが、戦後もまたそうしたファシストが実権を握り、反体制勢力を密かにスパイし監視対象としていた。監視対象はなんと90万件。そのファイルの存在が明らかになったのが1989年のフィッシュ・スキャンダル(Fichenskandal/Fichen scandal, 英語ではSecret Files scandalとかIndex card scandalともいうらしい)だった。ちなみに1989年はベルリンの壁の崩壊の年ででもあった(崩壊は11月9日)。
こうした政治的動乱あるいは変革期を背景にしたコメディなので、そこは政治的諷刺がたっぷりあるのかと思いきや、そうでもない。そのへんが、なんとも中途半端でいただけないのだが、今回、それはさておき、この映画のゆるがせにできない不穏な陰謀ともいえるような抑圧についてどうしても触れずにはいられない。
それはシェイクスピアの『十二夜』とも関係する同性愛の抑圧である。これは絶対に許せないヘテロセクシズム支配であって、この映画がやっていることは、結局、スイスの政治的ファシストと実は同じなのである。この映画には、シェイクスピアの『十二夜』についてよく知っている専門家ともいえる人たちが推薦の言葉を寄せているが、おそらく、映画を観てこんなはずではなかったと彼らは思ったに違いない。にもかかわらず推薦の言葉を寄せるとは、恥を知れ。
↑ただしもちろん別の考え方もある。スイスの闇歴史ともいえる事件にからめたコメディ映画は、たとえ1989年時点のこととはいえ、まだ記憶に新しいことかもしれず、いっぽうで左翼・リベラル派に肩入れしすぎると保守派からは反発されるかもしれず、かといって保守派を擁護すれば、違法な警察国家の監視体制を肯定することになり、結局、どっちつかずの中道的諷刺で終わるしかなかったのではないか。もちろんこれは誰か一人の判断ではなく、映画製作側における合議によって決定されたのであろう。そのとばっちりで保守とリベラル双方のご機嫌をとるべくシェイクスピアの『十二夜』から同性愛的・ジェンダー流動的要素を完璧に排除することになった。その結果、ありきたりな異性愛物語に落ち着くことになった。よりにもよって『十二夜』を上演するという映画が。
さらにこの映画を推薦することになったシェイクスピアの専門家たちも、おそらく映画をみて、なんだと思ったに違いないのだが、そこで推薦することを辞退はせずに、お茶を濁したような推薦をしたということだろう。世界は妥協からできている。
問題は、『十二夜』において、明らかに同性愛者である人物を、映画が、異性愛者にしていることである。この暴挙を、強制的異性愛体制化あるいは異性愛中心ファシズムといわずして、なんというのか。
この映画では、左翼反体制派の拠点となっていると疑われている劇団あるいは劇場に、警察の捜査官がエキストラの一人として送り込まれる【設定では、エキストラは二人である。ふつうの劇団が、端役の二人のために、わざわざ人を、それも演技経験のない素人を雇うことはない。劇団員がいなければ、劇団員の誰かが二役をするだけであって、エキストラを雇うというのは、演劇のことを知らない映画関係者のバカな発想か、あるいは実情と会わないと知りつつ、そうした設定にせざるをえない映画製作者側の観客を舐めきった仕掛けだろう】。劇団はそこでシェイクスピアの『十二夜』を上演準備中であり、本読みからはじめてリハーサルを重ねてゆく。主人公は最初、アントニオを逮捕する警官役だったのだが、アントニオ役の俳優が怪我をしたため、急遽、主人公がアントニオに選ばれ、舞台に立つことになる。
主人公は警察側から送り込まれる潜入捜査員なのだが、やがて劇団の主役俳優の女性を恋してしまう。その女優は『十二夜』ではオリヴィアを演ずる。オリヴィアというのは、死んだ兄のために喪に服し、公爵の求愛を退け、身近に女性だけを配している暮らしている貴族の女性だが、男性に変装した主人公、男臭くなくどちらかといえば女性的な美少年ともいえる主人公ヴァイオラ【この映画のなかでは男装の麗人ともいえるヴァイオラは完全に抹消され言及もされない】に恋してしまうのである。それがオリヴィア。
最終的に異性愛に走るオリヴィアだが、そこに至るまでは同性愛的傾向の強い女性である。それをこの映画では、最初から、演出家とできている女性俳優に演じさせる。レズビアンっぽい女性の役を演ずるのが、よりにもよって、むくつけき男性演出家と肉体関係にある女性俳優なのである。なんという悪意。なんというホモフォビア。同性愛をとにかく抑圧するという意図しかないのだ――これがスイスか。
そしてこのオリヴィア役の女性俳優と、潜入捜査している捜査官が恋に落ちる。この捜査官、最初はエキストラ(この設定の非現実性はすでに述べた)だったが、アントニオを演ずることになる。よりにもよって。そもそもオリヴィアは自らをレズビアンだとカミングアウトしているわけではないし、彼女のレズビアン性は解釈の問題かもしれないのだが、アントオは違う。アントニオは、シェイクスピアの戯曲そのものが、明確に、ゲイだと指定している。自分は愛のためなら何でもするというのが、アントニオの決め台詞だが、そこでいう愛とは男性への愛である。しかし映画では、それを女性(先ほどの女性俳優)への愛の告白に変えてしまう。明確な同性愛を異性愛にすりかえる、なんという悪意、なんというホモフォビア――これがスイスか。
『十二夜』のなかで、アントニオは船乗りというか船長である。映画のなかで潜入捜査員は「船乗り」ということになっていて、『十二夜』の設定に寄せようとしたのかもしれないが、まったく有効活用されていない。そのアントニオは、海で溺れかかった若い男を助ける。そしてこの男の面倒を見る。やがてイリリア(『十二夜』の舞台となる国)に到着し、その国をみてみたいという若い男の願望をかなえてやるために、アントニオは自分の財布を持たせて好きに使うようにとまでいう。ただ、アントニオはイリリアと敵対している国の出身で、見つかれば逮捕され処刑されるかもしれない。しかし、若い男のために、アントニオは危険をかえりみず、自身もイリリアに潜入し、若い男を守ろうとする。彼はいう、自分は愛のためには何でもする男だと――この愛が若い男への同性愛であることは歴然としている。そしてアントニオは敵国に潜入する。この設定は映画のなかの潜入捜査員の設定と同じだが、映画は、それをまったく有効活用していない。
アントニオが敵国人だとばれて逮捕されてしまうのは、彼が守ろうとしている若い男が、決闘騒ぎに巻き込まれ、命を落とそうとしているところに遭遇し、おのが身の危険を顧みずに、日本風にいうと決闘の助太刀をしたからである。アントニオはそれで逮捕されてしまう。
ただし、このとき若い男を助けにしゃしゃりでたアントニオだったが、実は、この若い男は、彼の双子の妹で男装したヴァイオラなのだが、アントニオにはそれがわからない。そこでさらに混乱に拍車がかかる(このあたりシェイクスピアの喜劇的センスがさえる)。
問題は、アントニオが自身を犠牲にしてまでして助けようとした若い男の、その名前である。セバスチャン。セバスチャンだぞ。アントニオとセバスチャン。『十二夜』は、ふたりが出会った瞬間から恋におちる――とくにアントニオのほうがセバスチャンに――ことを明確に伝えている。アントニオとセバスチャンの名前によって。
このことをまったく顧みないどころか、抑圧してしまう、この愚劣なスイス映画は、いったい何がしたいのだ。もちろん同性愛を抑圧したいのである。これがスイスなのだ。
つづく
posted by ohashi at 19:24| 映画
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2026年01月21日
『おくびょう鳥が歌うほうへ』2
シアーシャ・ローナンが演ずるローナは、女優の名前と似ているのだが、「Rona」は、ゲール語で「Seal 封印」を意味するらしい。封印された欲望を解放するというのはこの映画の主題でもある。またRonaは、この映画の監督ノーラ・フィングシャイトNora Fongscheitの名前Noraのアナグラムでもある――それがどうしたといわれれば、なにも言えないのだが、『システム・クラッシャー』Systemsrenger/System Crasher(2019)で鮮烈なデビューを飾った監督が、劇映画第二作の『消えない罪』The Unforgivable(2021)をへて、また今作で、システム・クラッシャー少女の物語に回帰したとことを、主人公の名前のアナグラムで宣言しているように思えてならない。
とはいえ『消えない罪』もまた私は少女物だと思っている。映画が発明あるいは発見した「少女」は、決して途絶えることなく間歇的に制作されつづけている。しかも少女物映画の魅力あるいは魔力は容易に捨てがたいものがあって、同じ監督は何度も少女物を作っている。
2025年の話題作のひとつは、少女物の傑作、早川千絵監督の『ルノワール』だったが、しかし、早川監督の前作『PLAN75』(2022)も部分的に少女物であり、登場する倍賞千恵子は、75歳以上の老人ながら、同時に永遠の少女でもあって、最後にはささやかなかたちかもしれなないがシステム・クラッシャーになる――実際、少女としての倍賞美津子がシステム・クラッシャーであることを山田洋次監督の『東京タクシー』(2025)は見事に露呈させいていた。
【なお2025年に私たちが出会った少女物の映画としては、『バレリーナ:The World of John Wick]』(レン・ワイズマン監督)がある。サブタイトルの付け方がバカなのだが。バレリーナというメインタイトルはよいとしても、それが「ジョン・ウィックの世界」と意味的にどうつながるのかわからない。原題はFrom the World of John WickとFromがついている。これを抜かしてしまうと意味が通らない。ジョン・ウィック物のひとつ、その派生物であるとうのがFromの意味なのだ。
同様に間抜けな例として、『ファーナス/決別の朝』(2013)がある。スコット・クーパーのこの映画はいい映画なのだが、タイトルがおかしい。「ファーナス」というのは「溶鉱炉」のことかと思ったが、それでは意味が通じないので、固有名詞で人名・地名のどちらかだろうと思った。ところが原題はOut of the Furnaceで「溶鉱炉から離れて」とか「溶鉱炉から出て」といった意味で、ファーナンスは人名でも地名でもなかった。Out of を訳さないのでへんなことになる。
閑話休題。2025年のアメリカでは話題作だったポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』では非合法のテロリスト/革命家の女性は、妊娠して大きな腹部をこれみよがしにさらすのだが、彼女は母親というよりも終始、システム・クラッシャーとしての少女だったし、映画では、彼女が生んだ娘もまた少女となって後半活躍をする。あと2025年から今年にかけてリバイバル4K上映されている『落下の王国』もまた少女物であることはいうまでもない。】
ノラ・フィングシャイトの『消えない罪』(2021)も、保安官殺しの服役囚で仮釈放中の女性をサンドラ・ブロックが女優のオーラを完全に消し去って演ずるというある意味すごい映画なのだが、そこでは娘への強い母性愛が際立っていて、少女物とは無縁に思われるかもしれない。しかしそれは最初のうちで、彼女の娘と思われていた女性は、実は彼女が母親代わりに育てた歳の離れた実の妹であって、彼女はを探すのが『消えない罪』であった。そう考えればこの作品もまたみごとなまでに少女物の範疇に入る。
ノラ・フィングシャイト監督はいまのところ少女物の映画しか撮っていないともいえる。『システム・クラッシャー』に戻ると、同情の余地はないわけではない9歳の少女が、あらゆる束縛を嫌い暴れまわるこの映画は、途中から、「じゃじゃ馬ならし」物語かと思えてくる。実際、彼女の通学の付添人をする男性が、森のなかで彼女と暮らすことで、彼女の暴走を抑え、彼女を社会性を身に着けた子供に変身させようとするところがある。そして、そのプロセスと結果に私たちは関心を抱くことになるのだが、同時に、野生動物を家畜化するような矯正行為には、たとえそれが暴力的なものではない、あくまでも教育的配慮に基づくものであっても、なにか落胆してしまう自分がいることに気づくのだが……。
大丈夫、彼女は馴致されることはない。森での合宿は、結局、なんの効果も奏さず、彼女は暴れまわる。映画の軽快な音楽が彼女を応援する。彼女が暴走しはじめると、それを支援するような音楽が付随するのだ。そして最後、逃亡のはてに死にかかった彼女は、施設にもどされ、やがてアフリカでの矯正教育の日々を迎えるのだが、大丈夫、アフリカへと向かう空港のなかで、彼女は逃げ出すのである。Run, Benni, Runというのがこの『システム・クラッシャー』の別タイトルのように思えてくる(Benniというのは主人公の少女の愛称)。
押さえつけ矯正するのではなく、解放して暴れるままにする。周囲の大人たちにとってはたまったものではないが、おそらく、誰もおさえることのできない、荒ぶるエネルギー体としての少女の無軌道なまでの自由な精神の横溢とそのかたくななまでの自己充足性が、不可能な実存を垣間見せてくれるという点で、こうした少女物の映画には得難いものがある。
それは狂人トランプ大統領と同じような専制的独裁の暴力を肯定するのかと、あきられるかもしれないのだが、問題は、そのような体制側の管理者目線で判断を下しては何も見えないということであって、抑圧され自由を奪われもがき苦しむ者の側に立った判断であれば、彼女の無軌道な暴走のなかに意義を見出し、ひいてはそれが、私たちの愛の無償性を引きだすことになるだろう。その意味で、彼女はある意味、教師である。私たちが彼女を教えるのではなく、彼女から教えられるのである――あいにく、彼女/教師からみた私たちは全員落第生となるしかなく、そこが悲しいとしても。
じゃじゃ馬ならしを思いついたのは偶然ではない。『システム・クラッシャー』の最後で彼女は野生のオオカミに出会う。彼女の愛をうけとめ、彼女を愛するのは動物でしかない。システム・クラッシャーとしての少女と心をかよわせることができるのは動物しかない。そういえば『ルノワール』でも、沖田フキ/鈴木唯は、馬と話せるのではなかったか。また『おくびょう鳥が歌うほうへ』においては主人公の女性とアザラシとの交流があった――もちろん映画の冒頭近くにおける羊の生々しい出産、映画の最後におけるおくびょう鳥ことウズラクイナの声も忘れてはならない。
ノラ・フィングシャイト監督の映画というよりも、少女物の映画において動物との交流あるいは〈動物になることBecoming Animals〉は重要なモチーフなのである。主に野生動物と、最初から野生である少女とは、同類として交流するものと措定されているのである。いやそれだけではない。〈動物になること〉〈動物への生成〉は、ドゥルーズの用語でもあって、それはモル化(システム化)するのではなく分子化する(システム・クラッシャー)運動性と同義でもあった。ならば私たちはここに、分子化する運動性の名称として、〈動物になること〉のほかに〈少女になること〉を追加してもよいだろう。これは少女よ永遠なれというスローガンにつながるものではない。少女であることがすでに成長も成熟も拒みシステム化も拒むものであること、つまりは永遠なのであるから。
とはいえ『消えない罪』もまた私は少女物だと思っている。映画が発明あるいは発見した「少女」は、決して途絶えることなく間歇的に制作されつづけている。しかも少女物映画の魅力あるいは魔力は容易に捨てがたいものがあって、同じ監督は何度も少女物を作っている。
2025年の話題作のひとつは、少女物の傑作、早川千絵監督の『ルノワール』だったが、しかし、早川監督の前作『PLAN75』(2022)も部分的に少女物であり、登場する倍賞千恵子は、75歳以上の老人ながら、同時に永遠の少女でもあって、最後にはささやかなかたちかもしれなないがシステム・クラッシャーになる――実際、少女としての倍賞美津子がシステム・クラッシャーであることを山田洋次監督の『東京タクシー』(2025)は見事に露呈させいていた。
【なお2025年に私たちが出会った少女物の映画としては、『バレリーナ:The World of John Wick]』(レン・ワイズマン監督)がある。サブタイトルの付け方がバカなのだが。バレリーナというメインタイトルはよいとしても、それが「ジョン・ウィックの世界」と意味的にどうつながるのかわからない。原題はFrom the World of John WickとFromがついている。これを抜かしてしまうと意味が通らない。ジョン・ウィック物のひとつ、その派生物であるとうのがFromの意味なのだ。
同様に間抜けな例として、『ファーナス/決別の朝』(2013)がある。スコット・クーパーのこの映画はいい映画なのだが、タイトルがおかしい。「ファーナス」というのは「溶鉱炉」のことかと思ったが、それでは意味が通じないので、固有名詞で人名・地名のどちらかだろうと思った。ところが原題はOut of the Furnaceで「溶鉱炉から離れて」とか「溶鉱炉から出て」といった意味で、ファーナンスは人名でも地名でもなかった。Out of を訳さないのでへんなことになる。
閑話休題。2025年のアメリカでは話題作だったポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』では非合法のテロリスト/革命家の女性は、妊娠して大きな腹部をこれみよがしにさらすのだが、彼女は母親というよりも終始、システム・クラッシャーとしての少女だったし、映画では、彼女が生んだ娘もまた少女となって後半活躍をする。あと2025年から今年にかけてリバイバル4K上映されている『落下の王国』もまた少女物であることはいうまでもない。】
ノラ・フィングシャイトの『消えない罪』(2021)も、保安官殺しの服役囚で仮釈放中の女性をサンドラ・ブロックが女優のオーラを完全に消し去って演ずるというある意味すごい映画なのだが、そこでは娘への強い母性愛が際立っていて、少女物とは無縁に思われるかもしれない。しかしそれは最初のうちで、彼女の娘と思われていた女性は、実は彼女が母親代わりに育てた歳の離れた実の妹であって、彼女はを探すのが『消えない罪』であった。そう考えればこの作品もまたみごとなまでに少女物の範疇に入る。
ノラ・フィングシャイト監督はいまのところ少女物の映画しか撮っていないともいえる。『システム・クラッシャー』に戻ると、同情の余地はないわけではない9歳の少女が、あらゆる束縛を嫌い暴れまわるこの映画は、途中から、「じゃじゃ馬ならし」物語かと思えてくる。実際、彼女の通学の付添人をする男性が、森のなかで彼女と暮らすことで、彼女の暴走を抑え、彼女を社会性を身に着けた子供に変身させようとするところがある。そして、そのプロセスと結果に私たちは関心を抱くことになるのだが、同時に、野生動物を家畜化するような矯正行為には、たとえそれが暴力的なものではない、あくまでも教育的配慮に基づくものであっても、なにか落胆してしまう自分がいることに気づくのだが……。
大丈夫、彼女は馴致されることはない。森での合宿は、結局、なんの効果も奏さず、彼女は暴れまわる。映画の軽快な音楽が彼女を応援する。彼女が暴走しはじめると、それを支援するような音楽が付随するのだ。そして最後、逃亡のはてに死にかかった彼女は、施設にもどされ、やがてアフリカでの矯正教育の日々を迎えるのだが、大丈夫、アフリカへと向かう空港のなかで、彼女は逃げ出すのである。Run, Benni, Runというのがこの『システム・クラッシャー』の別タイトルのように思えてくる(Benniというのは主人公の少女の愛称)。
押さえつけ矯正するのではなく、解放して暴れるままにする。周囲の大人たちにとってはたまったものではないが、おそらく、誰もおさえることのできない、荒ぶるエネルギー体としての少女の無軌道なまでの自由な精神の横溢とそのかたくななまでの自己充足性が、不可能な実存を垣間見せてくれるという点で、こうした少女物の映画には得難いものがある。
それは狂人トランプ大統領と同じような専制的独裁の暴力を肯定するのかと、あきられるかもしれないのだが、問題は、そのような体制側の管理者目線で判断を下しては何も見えないということであって、抑圧され自由を奪われもがき苦しむ者の側に立った判断であれば、彼女の無軌道な暴走のなかに意義を見出し、ひいてはそれが、私たちの愛の無償性を引きだすことになるだろう。その意味で、彼女はある意味、教師である。私たちが彼女を教えるのではなく、彼女から教えられるのである――あいにく、彼女/教師からみた私たちは全員落第生となるしかなく、そこが悲しいとしても。
じゃじゃ馬ならしを思いついたのは偶然ではない。『システム・クラッシャー』の最後で彼女は野生のオオカミに出会う。彼女の愛をうけとめ、彼女を愛するのは動物でしかない。システム・クラッシャーとしての少女と心をかよわせることができるのは動物しかない。そういえば『ルノワール』でも、沖田フキ/鈴木唯は、馬と話せるのではなかったか。また『おくびょう鳥が歌うほうへ』においては主人公の女性とアザラシとの交流があった――もちろん映画の冒頭近くにおける羊の生々しい出産、映画の最後におけるおくびょう鳥ことウズラクイナの声も忘れてはならない。
ノラ・フィングシャイト監督の映画というよりも、少女物の映画において動物との交流あるいは〈動物になることBecoming Animals〉は重要なモチーフなのである。主に野生動物と、最初から野生である少女とは、同類として交流するものと措定されているのである。いやそれだけではない。〈動物になること〉〈動物への生成〉は、ドゥルーズの用語でもあって、それはモル化(システム化)するのではなく分子化する(システム・クラッシャー)運動性と同義でもあった。ならば私たちはここに、分子化する運動性の名称として、〈動物になること〉のほかに〈少女になること〉を追加してもよいだろう。これは少女よ永遠なれというスローガンにつながるものではない。少女であることがすでに成長も成熟も拒みシステム化も拒むものであること、つまりは永遠なのであるから。
posted by ohashi at 23:02| 映画
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2026年01月20日
『おくびょう鳥が歌うほうへ』
原題はThe Outrun。「追い抜く、追い越す」という意味のほかに、「限界を乗り越える」というような意味もある。「則を超える」というような意味だとすれば、まさにこれは、『システム・クラシャー』Systemsporenger/System Crasher(2019)の監督ノラ・フィングシャイトNora Fingscheitの面目躍如たる作品ということになる。
日本でつけた「おくびょう鳥」という、のほほんとしたタイトルは、この映画の激しさに似合わない。ただまったく場違いなタイトルというわけでもないだろう。「おくびょう鳥」と言われているのはcorn crakeという鳥で、「ウズラクイナ」と訳されているようだ。おくびょうな鳥で、なかなか姿をあらわさないこの鳥が、映画の最後で、鳴き声を聞かせる(姿はみせない)。それは主人公がようやくみつけた、本当の、隠れた自分の存在そのものだとわかる。
もちろん主人公にとって隠れた自分は、実は、映画の最初からあらわになっている。隠れた自分は、捜されたり隠されたりする対象ではなく、最初から出まくっているのだ――アルコールの力で。彼女はアルコールが入ると、まさにアウトラン状態になって、暴れまくる。そのため社会的信用を失い、恋人からも見捨てられる。そのため依存症の療養のため故郷のオークニー諸島を訪れる。そこで父親の農業を手伝う日々は、彼女に断酒生活を可能にさせるのだが、それも破綻する。そのためオークニー諸島の最北部のパパ(Papa)・ウェストレー島(Papaを映画では「パパ」と発音していなかったような気がするが、現段階では確かめることはできない)で野鳥観察の日々を送りつつ断酒をつづけることになる。
いくつかの示唆的状況なり設定がある。
まず彼女はなぜアルコール依存症になるのか定かではない。『システム・クラッシャー』の少女のように、なにかトラウマを抱えているわけではない。
ただ彼女の過去に依存症の原因をみつけようとすると、それは彼女の父親である。父親は、アルコールが入ると、気が大きくなって暴れはじめる。とくに悪天候の時には豪雨・暴風雨のなかで叫びまくる。この父親は、ふだんは穏やかな性格だが、アルコールによって性格が激変し、妻とは離婚するのだが、しかし、娘に暴力をふるったりはしなかった。その異様な暴れっぷりが幼い娘にはトラウマになったかもしれないのだが、しかし、娘のほうも長じてロンドンで大学院生として暮らすようになると、アルコールによって父親以上に暴れまくる。むしろ父親の狂気が一時的に乗り移ったかのようにもみえる。
パパ・ウェストレイ島の雑貨店の主人は、自身がアルコール依存症であったことを告白する。いまは断酒しているが、アルコールへの誘惑を必死で押さえつけているという苦しい生活、あるいは苦しい人生を彼女に吐露する。
昔、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を英語で読んだとき、主人公のフランケンシュタイン(人造人間のほうではなく、人造人間を作る科学者の方)が、スコットランドのオークニー諸島でもう一人の人造人間をつくろうとするのだが、このオークニー諸島とはどんなところかと調べたことがある。ロマン派的崇高(サブライム)を喚起する激しい天候と不毛の地でもあって、この最後のゴシック小説ともいえる作品にぴったりの場所だと感服した記憶がある。
実際、この映画からもわかるように大海に点在するオークニー諸島、とりわけその最北部のパパ・ウェストレイ島は、文明がそこで果て、むき出しの大自然と接するような殺風景な極北の地でもある――その殺風景さがかえって魅力となって観光地ともなっているくらいに。空と海とが交わる荒涼たる空間、しばしば荒れ狂い空と海との境を消し去る荒ぶる自然に接せる人々は、おそらく神的存在を意識することになろう……。
そしてこのオークニー諸島の自然、その決して癒しの自然ではない荒涼たる自然が、主人公のアルコール依存症を押さえつけるのではなく解放することによって主人公を救う。それは欲望を押さえつけ禁欲的な人生を強いるのではなく、自分の欲望に忠実に生きることで【これはラカンの考え方を踏まえている】、新たな自分を発見する、あるいは生まれ変わる、いや端的に自分を生むということである。
アルコールが入ったときハイになる、その快感を主人公は忘れることはできない。そのためなかなか断酒ができない。しかし、断酒なり禁欲的な生活は依存症の根本的な解決とはならない。断酒会でのノルマを達成して社会生活に復帰できても、自分の欲望を押さえつけ耐え忍び、また欲望の暴発におびえながらの生活は望ましいものでないばかりか、真の生活でもない。要は、アルコールや薬物によってハイになるのではなく(そのように得られる高揚感は最終的に心身を蝕み自身を孤立と破滅へと追いやり、周囲に限なき害悪をもたらす)、小さな自分、ちっぽけな人間など押しつぶしてしまいそうな大自然に、自らを開くことによって高揚感を得ること、自分のなかの荒ぶる欲望と荒ぶる大自然とをシンクロさせることで、新たな自分を見出し、シン生(新生、真正)を実現することである。
映画の最初のほうで主人公ローナは羊の出産に立ち会うというか、母羊の腹のなかに手を入れて赤子を取り上げる(これは実に生々しい場面で、実際に、それは特撮ではなく本当の出産場面であるとのこと。7回出産に立ち会って撮影、その中のひとつを最終的に使ったようだ)。そして映画の最後にローナ/シアーシャ・ローナンは、おくびょう鳥ことウズラクイナの声を聴く。映画のテーマが生まれることであるのは明白である。ただし、それは生まれ変わる、変身することではなく、これまでおくびょうで隠れていた、またアルコールの助けをかりることでしかおもてに出てこられなかった自分と決別して、自分をそこなうことなく、自分の欲望に忠実なままに、自分の力で自分を解放する自分になることなのである。
つづく
付記:シアーシャ・ローナンは有名な俳優だから、とくに語ることもないのだが、彼女の母親役としてサスキア・リーヴズが出演していて、なんともなつかしい思いがさいた。彼女はコンスタントに映画ならびにテレビに出演しているのだが、たとえば『ルーサー』にレギュラーで出ていた記憶があるが、それ以外の映画作品なりテレビドラマを日本で観る機会がなくて、なんだか久しぶりに出逢ったという印象が強い。私がストラットフォード・アポン・エイヴォンにいたころ、ロイヤルシェイクスピア劇団(RSC)に所属していた彼女は、RSCの演目のほとんどに出演していた。とくに感銘を受けたのは、シェイクスピア以外の作品で、ヘイウッドの『やさしさに殺された女』(A Woman Killed with Kindness)とかフォードの『あわれ彼女は娼婦』(’Tis Pity She’s a Whore)の舞台を私はサスキア・リーヴズのアン・フランクフォード(ジ・アザー・プレイス)やアナベラ(スワン)で観ている――これは自慢で、うらやましいだろういいたいところだが、今では誰もうらやましいとも思わないだろう。マイケル・ウィンターボトム監督の『バタフライキッス』(1995)という鮮烈なレズビアン映画も記憶に新しいのだが、もう30年も前の話となった。彼女が健在であることは私にとっては喜ばしいことで、これからも映画やドラマで観る機会があることを願っている。
日本でつけた「おくびょう鳥」という、のほほんとしたタイトルは、この映画の激しさに似合わない。ただまったく場違いなタイトルというわけでもないだろう。「おくびょう鳥」と言われているのはcorn crakeという鳥で、「ウズラクイナ」と訳されているようだ。おくびょうな鳥で、なかなか姿をあらわさないこの鳥が、映画の最後で、鳴き声を聞かせる(姿はみせない)。それは主人公がようやくみつけた、本当の、隠れた自分の存在そのものだとわかる。
もちろん主人公にとって隠れた自分は、実は、映画の最初からあらわになっている。隠れた自分は、捜されたり隠されたりする対象ではなく、最初から出まくっているのだ――アルコールの力で。彼女はアルコールが入ると、まさにアウトラン状態になって、暴れまくる。そのため社会的信用を失い、恋人からも見捨てられる。そのため依存症の療養のため故郷のオークニー諸島を訪れる。そこで父親の農業を手伝う日々は、彼女に断酒生活を可能にさせるのだが、それも破綻する。そのためオークニー諸島の最北部のパパ(Papa)・ウェストレー島(Papaを映画では「パパ」と発音していなかったような気がするが、現段階では確かめることはできない)で野鳥観察の日々を送りつつ断酒をつづけることになる。
いくつかの示唆的状況なり設定がある。
まず彼女はなぜアルコール依存症になるのか定かではない。『システム・クラッシャー』の少女のように、なにかトラウマを抱えているわけではない。
ただ彼女の過去に依存症の原因をみつけようとすると、それは彼女の父親である。父親は、アルコールが入ると、気が大きくなって暴れはじめる。とくに悪天候の時には豪雨・暴風雨のなかで叫びまくる。この父親は、ふだんは穏やかな性格だが、アルコールによって性格が激変し、妻とは離婚するのだが、しかし、娘に暴力をふるったりはしなかった。その異様な暴れっぷりが幼い娘にはトラウマになったかもしれないのだが、しかし、娘のほうも長じてロンドンで大学院生として暮らすようになると、アルコールによって父親以上に暴れまくる。むしろ父親の狂気が一時的に乗り移ったかのようにもみえる。
パパ・ウェストレイ島の雑貨店の主人は、自身がアルコール依存症であったことを告白する。いまは断酒しているが、アルコールへの誘惑を必死で押さえつけているという苦しい生活、あるいは苦しい人生を彼女に吐露する。
昔、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を英語で読んだとき、主人公のフランケンシュタイン(人造人間のほうではなく、人造人間を作る科学者の方)が、スコットランドのオークニー諸島でもう一人の人造人間をつくろうとするのだが、このオークニー諸島とはどんなところかと調べたことがある。ロマン派的崇高(サブライム)を喚起する激しい天候と不毛の地でもあって、この最後のゴシック小説ともいえる作品にぴったりの場所だと感服した記憶がある。
実際、この映画からもわかるように大海に点在するオークニー諸島、とりわけその最北部のパパ・ウェストレイ島は、文明がそこで果て、むき出しの大自然と接するような殺風景な極北の地でもある――その殺風景さがかえって魅力となって観光地ともなっているくらいに。空と海とが交わる荒涼たる空間、しばしば荒れ狂い空と海との境を消し去る荒ぶる自然に接せる人々は、おそらく神的存在を意識することになろう……。
そしてこのオークニー諸島の自然、その決して癒しの自然ではない荒涼たる自然が、主人公のアルコール依存症を押さえつけるのではなく解放することによって主人公を救う。それは欲望を押さえつけ禁欲的な人生を強いるのではなく、自分の欲望に忠実に生きることで【これはラカンの考え方を踏まえている】、新たな自分を発見する、あるいは生まれ変わる、いや端的に自分を生むということである。
アルコールが入ったときハイになる、その快感を主人公は忘れることはできない。そのためなかなか断酒ができない。しかし、断酒なり禁欲的な生活は依存症の根本的な解決とはならない。断酒会でのノルマを達成して社会生活に復帰できても、自分の欲望を押さえつけ耐え忍び、また欲望の暴発におびえながらの生活は望ましいものでないばかりか、真の生活でもない。要は、アルコールや薬物によってハイになるのではなく(そのように得られる高揚感は最終的に心身を蝕み自身を孤立と破滅へと追いやり、周囲に限なき害悪をもたらす)、小さな自分、ちっぽけな人間など押しつぶしてしまいそうな大自然に、自らを開くことによって高揚感を得ること、自分のなかの荒ぶる欲望と荒ぶる大自然とをシンクロさせることで、新たな自分を見出し、シン生(新生、真正)を実現することである。
映画の最初のほうで主人公ローナは羊の出産に立ち会うというか、母羊の腹のなかに手を入れて赤子を取り上げる(これは実に生々しい場面で、実際に、それは特撮ではなく本当の出産場面であるとのこと。7回出産に立ち会って撮影、その中のひとつを最終的に使ったようだ)。そして映画の最後にローナ/シアーシャ・ローナンは、おくびょう鳥ことウズラクイナの声を聴く。映画のテーマが生まれることであるのは明白である。ただし、それは生まれ変わる、変身することではなく、これまでおくびょうで隠れていた、またアルコールの助けをかりることでしかおもてに出てこられなかった自分と決別して、自分をそこなうことなく、自分の欲望に忠実なままに、自分の力で自分を解放する自分になることなのである。
つづく
付記:シアーシャ・ローナンは有名な俳優だから、とくに語ることもないのだが、彼女の母親役としてサスキア・リーヴズが出演していて、なんともなつかしい思いがさいた。彼女はコンスタントに映画ならびにテレビに出演しているのだが、たとえば『ルーサー』にレギュラーで出ていた記憶があるが、それ以外の映画作品なりテレビドラマを日本で観る機会がなくて、なんだか久しぶりに出逢ったという印象が強い。私がストラットフォード・アポン・エイヴォンにいたころ、ロイヤルシェイクスピア劇団(RSC)に所属していた彼女は、RSCの演目のほとんどに出演していた。とくに感銘を受けたのは、シェイクスピア以外の作品で、ヘイウッドの『やさしさに殺された女』(A Woman Killed with Kindness)とかフォードの『あわれ彼女は娼婦』(’Tis Pity She’s a Whore)の舞台を私はサスキア・リーヴズのアン・フランクフォード(ジ・アザー・プレイス)やアナベラ(スワン)で観ている――これは自慢で、うらやましいだろういいたいところだが、今では誰もうらやましいとも思わないだろう。マイケル・ウィンターボトム監督の『バタフライキッス』(1995)という鮮烈なレズビアン映画も記憶に新しいのだが、もう30年も前の話となった。彼女が健在であることは私にとっては喜ばしいことで、これからも映画やドラマで観る機会があることを願っている。
posted by ohashi at 20:08| 映画
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2025年12月10日
『平場の月』2
十代の若者たちの青春恋愛映画(漫画とか小説なども)において、定番化していてうんざりするのは、ふたりのうち片方が死ぬこと。たいては女性のほうが、また事故死もあるが、病死が多い(殺人となると話がかわってしまうので、これはあまりない)。
10代で死ぬことの悲哀は大きいのだが、現実には10代で死ぬ、それも病死というのは、そうざらにあることではない。死によって恋愛感情を盛り上げようとするのは、姑息な感が否めないし、心中とか自殺によって愛を終わらせないための手段かもしれないが、常套化するとほんとうに鼻につく。実際、そうした映画はいまでは全く見ない。というか今でもそうした映画が作られていることは唖然とする。
以前、『殺さない彼と死なない彼女』(監督:小林啓一、主演:間宮祥太朗・桜井日奈子、2019)を、そのタイトルに惹かれて観たことがある。オフビートな青春物で私はとしては途中まで面白かった。確かに彼女(桜井日名子)は「死なない彼女」で安心して観ていたら、別に病弱そうにもみえなかった彼(間宮祥太郎)の方が途中で病死。おい、やっぱり、死ぬんかいと怒りがこみあげてきた。殺さない彼は、死んでしまう彼だったのだ。なんじゃいこれは。
『平場の月』では、中学生のとき同級生で、初恋の相手でもあった男女が、印刷会社に勤め仕事は順調だが妻と離婚し認知症の母を介護している男性(堺雅人)として、また病院の売店の店員としてバイトしながら、いくつかの男性遍歴を経て今は寂しい独り暮らしの女性(井川遥)として再会し、旧交を温めつつ、恋愛に発展する。そのため中学時代にどちらがか死ぬという紋切り型の展開とは無縁のいわゆる大人の恋愛映画として感動できるものと考えた。前評判はよかったように思う。
【ちなみに、舞台になっているTMGあさか医療センターに私が入院していた頃は、売店は、映画のように病院が経営しているのはなく、ローソンだったのだが、今はどうなっているのか不明。ただローソンの店員という設定は避けたという可能性はある。】
しかし、映画を観た人ならわかるように、結局は、死が2人を分かつのである。二人は中学時代には死ななかったのだが、死は遅れていただけで、中年になってから、ようやく追いついてきた。中学生は病死することはめったにないが、中年の男女にとって病死は身近な存在となる。結局、中学生時代に、死にぞこなったひとりが、いまようやく死神に追いつかれて死んだということか。しかし、それは死で終わる紋切り型の青春物の中年版ではないか。せっかく大人の恋を期待したのに、結局は中学生の恋愛の中年男女版にすぎなかったというのは、少々情けない。
実際のところ、映画は中学時代の出来事がフラッシュバックで入り、映画のいまとここが、中学時代のいまとここに重なって示されるために、中年版の中学生恋愛というイメージはいや増しに高まるのである。もちろん、そのぶん――中年の男女ふたりは、肉体関係ももつようになるが――二人の愛は中学生どうしのように、いや中学生以上に、純情そのものである。そこが面白いところかもしれない。中年の男女も、気持ちは、十代の中学生なのである。
そして紋切り型の青春恋愛映画のように、死が2人を分かつ。繰り返すが、それは青春恋愛映画の中年版にすぎない。そこがなんとも気に入らない。ハッピーエンディングであれ、そうでなくても、どうか死ではなく、別の要因で、愛に決着をつけてほしい。死は安易すぎる。恋愛映画における死とりわけ病死は安楽死にすぎない。
ただし中学生恋愛の中年版以外の点で、興味深いのは、女性が「太い」と語られているところである。体型のことではない。芯が太いというような、性格の強さというか堅固さを、どちらかというとポジティヴにとらえた表現で、これが映画とか原作のなかだけの表現か、一般によく使う言い方は私にはわからないが、映画のなかで井川遥は、「太い」女性として語られる。
とはつまり彼女が永遠の「少女」であるということだ。
比較的最近、映画の発明のひとつとして、何ものにも支配されない独立不羈の「少女」の存在があると語った私は、では、たとえばどんな映画がそうかと言われて、物忘れがひどい耄碌老人としての私は、すぐに作品名がでてこなくて、知名度の低い作品をなんとか引き合いに出すしかなかったのだが、よくよく考えれば、今年話題になった作品として『ルノワール』を真っ先に挙げるべきであった。あるいは河合優美が演ずる女性は、「少女」であることが多い。『ルノワール』の監督・早川千絵による『PLAN 75』(2022)の倍賞千恵子は、『TOKYOタクシー』でもそうだったが、永遠の少女というイメージがぴったりくる。彼女たちは、みんな「太い」のである。
実際、映画の中で何度も「太い」と語られる須藤葉子/井川遥は、結局、自分で人生を、生き方を、死に方を選択肢、誰にも従属しない。退院後は親族や恋人の世話になるしかないが、最後は、彼女は一人で死ぬ。誰にも迷惑をかけないのである。あるいは迷惑をかけることを潔しとしない、「太い」女性なのである。
【このことを異化的に示すのが、『殺さない彼と死なない彼女』で死ぬことになる間宮祥太朗のアウトサイダー的な芯の強い変人かつ傲慢なキャラクターである。それは誰にも支配されないまま死んでゆく少女の男性版のようなところがある。そしてこの間宮と桜井のふたつをあわせると、太い少女像が完成するようなところがある。原作の漫画とは異なる世界に映画は私たちを連れ出している。】
その意味で、彼女の現在が、中学時代の彼女と二重写しになるのは、彼女の、中年になっても少女であるという、少女性を強調することになろう(もちろんそれは中学生的心性を失わない堺雅人の感情と対になっているのだが)。そして誰からも支配されない彼女にとって、もっともふさわしいのは、ひとりで死ぬことである。
そう考えると、数多の青春恋愛映画で死ぬ中学生・高校生の女性(ヒロイン)たちは、少女性を全うするために、大人の女性として男性秩序に組み入られ、女性となる前に死ぬのだともいえよう。したがって、病死が恋愛を終わらせたり活性化したりする青春恋愛映画の紋切り型プロットに、ただうんざりするだけではなく、そこに「太い少女」の物語の可能性を、私たちは見出すべきかもしれない。
あと、堺雅人扮する青砥健将のキャラクターついて。彼女が手術後、病気の再発を怖れつつ生活し仕事をはじめると、青砥/堺雅人は、彼女との二人だけの旅行を計画しはじめる。人口肛門をつけての不便な生活を送る彼女を旅行に誘うというのは、あまりに理不尽で、これは女性を支配しようとするエゴイスティックな傲慢な男性の挙措にすぎないのではという批判の声があってもおかしくない。それは確かにそうだと思う。手術後の彼女に対する青砥/堺雅人のふるまいは、あまりに無神経であり、病人を思いやっていない。ただ、私自身の個人的経験からしても、それは起こりうることである。
私自身、母親を、須藤/井川と同じ病気で亡くしたのだが、手術後、病状から回復した母親に接して、私は母親がこれで病気から解放されて永遠に生きるものと思っていた。その思いは、もちろん幻想にすぎないことはわかっても、手術後に母親が死ぬことは想像すらできなかったのだ。私は手術後の母の余命について医師に尋ねなかった。医師としては私が余命について長くないことを自覚していると判断しただろうが、私は、母に、余命などない、母は永遠に健康な人間として老いることも病気で死ぬこともないと本気で信じていたのである。私としては、映画のなかの青砥/堺をこれ以上責めるつもりはない。私は母を旅行に連れ出そうとはしなかったが、青砥/堺の愚かさの多くを共有していることは認めざるを得ない。青砥/堺――それは愚かな私自身の姿でもあったのだから。
10代で死ぬことの悲哀は大きいのだが、現実には10代で死ぬ、それも病死というのは、そうざらにあることではない。死によって恋愛感情を盛り上げようとするのは、姑息な感が否めないし、心中とか自殺によって愛を終わらせないための手段かもしれないが、常套化するとほんとうに鼻につく。実際、そうした映画はいまでは全く見ない。というか今でもそうした映画が作られていることは唖然とする。
以前、『殺さない彼と死なない彼女』(監督:小林啓一、主演:間宮祥太朗・桜井日奈子、2019)を、そのタイトルに惹かれて観たことがある。オフビートな青春物で私はとしては途中まで面白かった。確かに彼女(桜井日名子)は「死なない彼女」で安心して観ていたら、別に病弱そうにもみえなかった彼(間宮祥太郎)の方が途中で病死。おい、やっぱり、死ぬんかいと怒りがこみあげてきた。殺さない彼は、死んでしまう彼だったのだ。なんじゃいこれは。
『平場の月』では、中学生のとき同級生で、初恋の相手でもあった男女が、印刷会社に勤め仕事は順調だが妻と離婚し認知症の母を介護している男性(堺雅人)として、また病院の売店の店員としてバイトしながら、いくつかの男性遍歴を経て今は寂しい独り暮らしの女性(井川遥)として再会し、旧交を温めつつ、恋愛に発展する。そのため中学時代にどちらがか死ぬという紋切り型の展開とは無縁のいわゆる大人の恋愛映画として感動できるものと考えた。前評判はよかったように思う。
【ちなみに、舞台になっているTMGあさか医療センターに私が入院していた頃は、売店は、映画のように病院が経営しているのはなく、ローソンだったのだが、今はどうなっているのか不明。ただローソンの店員という設定は避けたという可能性はある。】
しかし、映画を観た人ならわかるように、結局は、死が2人を分かつのである。二人は中学時代には死ななかったのだが、死は遅れていただけで、中年になってから、ようやく追いついてきた。中学生は病死することはめったにないが、中年の男女にとって病死は身近な存在となる。結局、中学生時代に、死にぞこなったひとりが、いまようやく死神に追いつかれて死んだということか。しかし、それは死で終わる紋切り型の青春物の中年版ではないか。せっかく大人の恋を期待したのに、結局は中学生の恋愛の中年男女版にすぎなかったというのは、少々情けない。
実際のところ、映画は中学時代の出来事がフラッシュバックで入り、映画のいまとここが、中学時代のいまとここに重なって示されるために、中年版の中学生恋愛というイメージはいや増しに高まるのである。もちろん、そのぶん――中年の男女ふたりは、肉体関係ももつようになるが――二人の愛は中学生どうしのように、いや中学生以上に、純情そのものである。そこが面白いところかもしれない。中年の男女も、気持ちは、十代の中学生なのである。
そして紋切り型の青春恋愛映画のように、死が2人を分かつ。繰り返すが、それは青春恋愛映画の中年版にすぎない。そこがなんとも気に入らない。ハッピーエンディングであれ、そうでなくても、どうか死ではなく、別の要因で、愛に決着をつけてほしい。死は安易すぎる。恋愛映画における死とりわけ病死は安楽死にすぎない。
ただし中学生恋愛の中年版以外の点で、興味深いのは、女性が「太い」と語られているところである。体型のことではない。芯が太いというような、性格の強さというか堅固さを、どちらかというとポジティヴにとらえた表現で、これが映画とか原作のなかだけの表現か、一般によく使う言い方は私にはわからないが、映画のなかで井川遥は、「太い」女性として語られる。
とはつまり彼女が永遠の「少女」であるということだ。
比較的最近、映画の発明のひとつとして、何ものにも支配されない独立不羈の「少女」の存在があると語った私は、では、たとえばどんな映画がそうかと言われて、物忘れがひどい耄碌老人としての私は、すぐに作品名がでてこなくて、知名度の低い作品をなんとか引き合いに出すしかなかったのだが、よくよく考えれば、今年話題になった作品として『ルノワール』を真っ先に挙げるべきであった。あるいは河合優美が演ずる女性は、「少女」であることが多い。『ルノワール』の監督・早川千絵による『PLAN 75』(2022)の倍賞千恵子は、『TOKYOタクシー』でもそうだったが、永遠の少女というイメージがぴったりくる。彼女たちは、みんな「太い」のである。
実際、映画の中で何度も「太い」と語られる須藤葉子/井川遥は、結局、自分で人生を、生き方を、死に方を選択肢、誰にも従属しない。退院後は親族や恋人の世話になるしかないが、最後は、彼女は一人で死ぬ。誰にも迷惑をかけないのである。あるいは迷惑をかけることを潔しとしない、「太い」女性なのである。
【このことを異化的に示すのが、『殺さない彼と死なない彼女』で死ぬことになる間宮祥太朗のアウトサイダー的な芯の強い変人かつ傲慢なキャラクターである。それは誰にも支配されないまま死んでゆく少女の男性版のようなところがある。そしてこの間宮と桜井のふたつをあわせると、太い少女像が完成するようなところがある。原作の漫画とは異なる世界に映画は私たちを連れ出している。】
その意味で、彼女の現在が、中学時代の彼女と二重写しになるのは、彼女の、中年になっても少女であるという、少女性を強調することになろう(もちろんそれは中学生的心性を失わない堺雅人の感情と対になっているのだが)。そして誰からも支配されない彼女にとって、もっともふさわしいのは、ひとりで死ぬことである。
そう考えると、数多の青春恋愛映画で死ぬ中学生・高校生の女性(ヒロイン)たちは、少女性を全うするために、大人の女性として男性秩序に組み入られ、女性となる前に死ぬのだともいえよう。したがって、病死が恋愛を終わらせたり活性化したりする青春恋愛映画の紋切り型プロットに、ただうんざりするだけではなく、そこに「太い少女」の物語の可能性を、私たちは見出すべきかもしれない。
あと、堺雅人扮する青砥健将のキャラクターついて。彼女が手術後、病気の再発を怖れつつ生活し仕事をはじめると、青砥/堺雅人は、彼女との二人だけの旅行を計画しはじめる。人口肛門をつけての不便な生活を送る彼女を旅行に誘うというのは、あまりに理不尽で、これは女性を支配しようとするエゴイスティックな傲慢な男性の挙措にすぎないのではという批判の声があってもおかしくない。それは確かにそうだと思う。手術後の彼女に対する青砥/堺雅人のふるまいは、あまりに無神経であり、病人を思いやっていない。ただ、私自身の個人的経験からしても、それは起こりうることである。
私自身、母親を、須藤/井川と同じ病気で亡くしたのだが、手術後、病状から回復した母親に接して、私は母親がこれで病気から解放されて永遠に生きるものと思っていた。その思いは、もちろん幻想にすぎないことはわかっても、手術後に母親が死ぬことは想像すらできなかったのだ。私は手術後の母の余命について医師に尋ねなかった。医師としては私が余命について長くないことを自覚していると判断しただろうが、私は、母に、余命などない、母は永遠に健康な人間として老いることも病気で死ぬこともないと本気で信じていたのである。私としては、映画のなかの青砥/堺をこれ以上責めるつもりはない。私は母を旅行に連れ出そうとはしなかったが、青砥/堺の愚かさの多くを共有していることは認めざるを得ない。青砥/堺――それは愚かな私自身の姿でもあったのだから。
posted by ohashi at 19:44| 映画
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2025年12月03日
『平場の月』1
「平場の月」というのがどういう意味なのか、映画をみても最後までわからなかったのだが、原作を読めばわかるのだろうか。実のところ、観る予定はなかった映画なのだが、けっこう身の回りで宣伝ポスターを見かけた。東武東上線池袋駅では、とくにそれが目についた。調べたところ、映画は、朝霞市とその周辺でロケをしたらしい。いや、そもそも原作では朝霞市が舞台とのこと。そのため観てみることにした。ちなみに私は朝霞市の住民ではない。
東武東上線では「朝霞駅」と「朝霞台駅」がある。朝霞駅を使うことはほとんどないので、映画のなかのいろいろな場面は初めて観るものばかりだったが、駅のシーンで動いている電車は東武線の電車ではないようだ。おそらく駅前のシーンはどこか別のところで撮影したのだろうと思ったが、そうではなかった。駅は北朝霞駅で、動いているのはJR武蔵野線の電車だった【東武線朝霞台駅とJR北朝霞駅は徒歩で1分もかからず移動できる、ほぼ同じ駅と考えていい】
北朝霞駅はよく利用する。大宮方面、浦和方面、また彩の国さいたま芸術劇場に行くときも、また立川、八王子方面に行くときも北朝霞駅を利用する。物語は北朝霞/朝霞台駅周辺を舞台にしているようだ。
となると、ひょっとしてと思って観ていると、堺雅人が胃カメラで内視鏡検査を受ける病院、井川遥が大腸がん手術を受ける病院は、まぎれもなくTMGあさか医療センターだった(映画内では違った名称だったが)。そう、このTMGあさか医療センターは、私が入院・手術をした病院だったので、よく知っている。
実はTMGあさか医療センターが、今の場所に移設される前の「朝霞台中央総合病院」で、私は生まれて初めて入院・手術をした。それも2回。別の病気で。そして移設後、名称も「TMGあさか医療センター」に代わってからも入院・手術。術後はまったく問題なく後遺症もなく、現在に至っている。とにかく映画の中に出てきた病院は、ほんとうになつかしい感じがした。繰り返すが私は朝霞市の住民ではないが、行きつけの病院で紹介状をもらい、こちらで受診することになった。
ちなみに当時は、コロナ禍の最中で、私が行きつけの病院では、100人を超える集団感染を出したが、その病院の紹介状をもってTMGあさか医療センターを受診したとき、私に37度越えの熱があって、コロナ患者ではないかと病院側に緊張を強いたが、検査の結果、コロナには感染していなかった。また当時、コロナ患者が優先され、私のような患者は診察してもらえるのかと心配になったが、TMGあさか医療センターは、今はどうか知らないが、当時は、感染症患者を受け入れていなかったので、私は無事に手術をすることができた。
なおもともと難しい手術ではなかったとはいえ、病院の適切な治療もあって、すぐに退院できて、当時、大学在職中だった私は、大学の授業に大きな穴をあけることなく済んだので、病院には本当に感謝している。
もう一度だけなつかしい場面を語ると、手術の際に手術室のある区画に行くと、手術室担当の看護師が出てきて挨拶をする。映画の場面とまったく同じことを経験していた。
自分のことはこのくらいにして、映画について。つづく
東武東上線では「朝霞駅」と「朝霞台駅」がある。朝霞駅を使うことはほとんどないので、映画のなかのいろいろな場面は初めて観るものばかりだったが、駅のシーンで動いている電車は東武線の電車ではないようだ。おそらく駅前のシーンはどこか別のところで撮影したのだろうと思ったが、そうではなかった。駅は北朝霞駅で、動いているのはJR武蔵野線の電車だった【東武線朝霞台駅とJR北朝霞駅は徒歩で1分もかからず移動できる、ほぼ同じ駅と考えていい】
北朝霞駅はよく利用する。大宮方面、浦和方面、また彩の国さいたま芸術劇場に行くときも、また立川、八王子方面に行くときも北朝霞駅を利用する。物語は北朝霞/朝霞台駅周辺を舞台にしているようだ。
となると、ひょっとしてと思って観ていると、堺雅人が胃カメラで内視鏡検査を受ける病院、井川遥が大腸がん手術を受ける病院は、まぎれもなくTMGあさか医療センターだった(映画内では違った名称だったが)。そう、このTMGあさか医療センターは、私が入院・手術をした病院だったので、よく知っている。
実はTMGあさか医療センターが、今の場所に移設される前の「朝霞台中央総合病院」で、私は生まれて初めて入院・手術をした。それも2回。別の病気で。そして移設後、名称も「TMGあさか医療センター」に代わってからも入院・手術。術後はまったく問題なく後遺症もなく、現在に至っている。とにかく映画の中に出てきた病院は、ほんとうになつかしい感じがした。繰り返すが私は朝霞市の住民ではないが、行きつけの病院で紹介状をもらい、こちらで受診することになった。
ちなみに当時は、コロナ禍の最中で、私が行きつけの病院では、100人を超える集団感染を出したが、その病院の紹介状をもってTMGあさか医療センターを受診したとき、私に37度越えの熱があって、コロナ患者ではないかと病院側に緊張を強いたが、検査の結果、コロナには感染していなかった。また当時、コロナ患者が優先され、私のような患者は診察してもらえるのかと心配になったが、TMGあさか医療センターは、今はどうか知らないが、当時は、感染症患者を受け入れていなかったので、私は無事に手術をすることができた。
なおもともと難しい手術ではなかったとはいえ、病院の適切な治療もあって、すぐに退院できて、当時、大学在職中だった私は、大学の授業に大きな穴をあけることなく済んだので、病院には本当に感謝している。
もう一度だけなつかしい場面を語ると、手術の際に手術室のある区画に行くと、手術室担当の看護師が出てきて挨拶をする。映画の場面とまったく同じことを経験していた。
自分のことはこのくらいにして、映画について。つづく
posted by ohashi at 20:12| 映画
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2025年12月01日
『TOKYOタクシー』
ネット上での感想を2つだけ拾うと、
というのがあった。これは個人の意見なのだとやかく言えないのだが、どっちが超えている、超えていないという感想ほど、語る人間の愚劣さを露呈させるほどのものではなく、また評言の低下というか劣化を招くものはない。私も『パリ・タクシー』を公開時に観たが、『TOKYOタクシー』のほうが超えていると思った。こう語ったところで、何の意味もない。それぞれの映画に、それぞれのよさがあり、それを玩味することが重要で優劣をつけることに意味はない。
ただし、上記の評者は愚かであってもバカではない。次のコメントはバカのそれである。
こういう自分が頭がいいと思っているバカは救いようがない。これは小さな子供が訳知り顔に話しているさまが思い浮かぶ。このテレビではこの人殺されるんだけれども、これは殺されたふりをしているだけで、ほんとうは死んでないよ。ここで血が流れるんだけども、これは血のりっていって、血にみせかけた偽物なんだな。だからみんな嘘なんだ――という頭のいいバカな子供に対しては、そんなことは誰だってわかっている、ドラマのなかでほんとうに殺し合いをしているとは誰も思わない。でも、この人はほんとうに殺された、この人は平気で人を殺す人なんだと、そう頭のなかで想像してごらん、そうして恐ろしい、悲しいと思い、ショックを受ける方が、ドラマをずっと楽しめるし、ドラマの内容もよく理解できるよと教え伝えることは必要である。
その子どもがもう少し歳をとっていると、こう語るかもしれない。演技で死んでいるんだけれども、血の出かたが少ないとか、死に際の痙攣sita
ほうがいいとか、拳銃で殺すのだったら頭を狙ったほうがいいとか、わけ知り顔で話す、以前として、頭のいいバカだとしたら、この子が長じて「止めた車に周囲の映像を組み合わせた撮影ですね。昔はよくある手法でした」とクソ偉そうに語って恥をさらすかもしれないので、こうやって教え伝えた方がいい――
もしこれがほんとうに、この人は死んでしまったのだと視聴者が信じてしまうような演技なり演出をしたら、観客は不快と恐怖を感じて動転してしまうかもしれない。たとえ一瞬でもいい、そんなふうに動転してしまったら、ドラマがだいなしになるでしょう。視聴者が、なにかの場面に驚き恐怖心を抱いたらドラマの内容はそっちのけになる。この殺害場面は、ほんとうに現実で起こった殺害の再現なり真に迫った模倣なのではなく、人が殺されたという記号であればよいというか記号でないといけない。そうでないと視聴者は不快になり憎しみさえ抱いたりするからだよ、と。
さらにいうと、ほんとうに記号だったら、視聴者は白けてしまうから、ある程度、真に迫った行為というものを示す必要がある。真に迫りすぎてもまずいけれども、抽象的な記号的表現になってもまずい、その按配というかバランスがたいせつなんだね。あ、ごめん、こんな話は君にはついていけなかったね。
「走行ルートも目茶苦茶ですね(笑) 東京人でない私でも、あそこ走った後、そこ行く?って分かりましたよ…」と語っているが、たしかに、走行ルートが合理的あるいは現実的でないことは私も気づいた。そこをつっこんで、マウントをとった気分になってもいいのだが、つっこんでマウントをとることは、頭がいいと思っているこのバカにまかせておけばいい。
走行ルートの問題は、たしかに私も気づいた。監督が気づかなかった可能性もあるが、おそらくは気づいている。ただ映画の編集段階で、物語の進行上あるいは情動的な演出上の理由から、効果的な絵の配列が優先され、地理的関係は無視されたのかもしれない。さらにいえば、乗客の倍賞千恵子の自分語りは、過去と現在とを往復する。そしてまた外の景色、走行している場所とも相関関係にある。空間的・地理的にあり得ないルート、遠回りあるいは無意味なルートは、過去と現在との時間的往復運動の錯綜性と同調しているのである。
木村拓哉扮するタクシー運転手が道路の一時停止を無視したため監視していた警官に止められるところがある。ささいながら苦境にたつ木村拓哉に対して乗客の倍賞千恵子が助け舟を出す。自分は心臓の病で手術を受けなければいけないため、自分の甥であるこの運転手は、あせって、ついつい道路標識を無視してしまったのであって、どうか大目に見てほしいと、警官に語る。事情を理解した警官は、見逃してくるのだが、この場面の映画全体のなかに占める重要性はどんなに強調しても強調しすぎることはない。
ちなみに交通規則は映画のなかでは破られるためにある。公開中の『爆弾』では、人が通りの向こうで殺されそうになっているとき、横断歩道で赤信号だから立ち止まってそれを傍観しているのか、規則を破ってでも助けに行くのではないかということが語られる場面がある。これも公開中の『平場の月』では、自転車の二人乗りが登場する(映画の最後のクレジットには、自転車の二人乗りは交通規則違反だが安全に配慮して往来の少ない通りで撮影しているという言い訳が文字で示される)。
『TOKYOタクシー』では一時停止の無視が警察によって摘発されるが、口八丁の乗客の老婦人によって見逃してもらえる。いずれの場合も交通規則は破られるためにあるようだ。そしてその違反は、交通規則に限らず、多岐に及ぶ。『TOKYOタクシー』では、地理的関係なり地理的規則・法則が破られ、タクシーは寄り道と回り道、蛇行と循環を繰り返す。その「違反行為」は、乗客の老婦人の語る人生の紆余曲折という内容だけでなく、現在と過去との境界すらも一時停止せずに無視してしまう混迷と錯綜と自由闊達な語り口、そして想起の偶発性を反映している。またタクシーの後部座先には、現在の老婦人(倍賞千恵子)と若い頃の彼女(蒼井優)が並んで座る場面もある。地理的空間の迷走は過去と現在との迷走的往復を呼び寄せるのである。
実際、山田洋次監督は、規則を破るときにドラマが生まれると考えているようだ。だからこそ監督は規則には反感をもっている。以前、なにかのトークの場で、最近では映画館で上映前に観客に対して、スマホの電源を切れとかおしゃべりをするなとか前の席をけるなといったこまごまとした注意事項が語られるが、あれがうっとうしいと語って、ネット上で反感を買っていた。私はそうした注意事項は必要だと思うしマナーの悪い観客にはほんとうに腹が立つが、それとは別に、山田洋次監督の規則嫌いについて、それが映画の内容にまで浸透していることは重視すべきであることを指摘したい。
そしてこの一時停止無視の場面についていえば、これによってタクシー内でのやりとりに変化が生まれる。そしてまた、ここまでの運転手と乗客との会話が一時停止無視の迷走と迂回であり、しかも地理的規則を無視した回遊であったことがあらためて前景化される。それだけではない。乗客の倍賞千恵子の肝の座った要求、それも虚言に端を発する図々しいまでの要求は、彼女のキャラクターについて多くの示唆を与えることになる。そもそも彼女は振り返れば規則を踏みにじって来た人生であった。そのためには服役すらした。また警官に温情を求める押しの強さは、彼女が服役後、アメリカでネールアーティストの修行をして日本で成功を収めたことも、さもありなんと観客の思わせるものだ。
しかも、彼女は嘘をかたって警官を丸め込んでいる。ここからいえることは、ひょっとしたら彼女がこれまで運転手に語ってきたとは、全部、口から出まかせの嘘だったかもしれないということだ。多くの観客は、そうは思わないかもしれない。しかし、嘘だったという可能性はある。しかも、嘘であったことで、運転手と乗客の交流が意味のないものになるどころか、この巧みな嘘ゆえに(そこにはほんとうことも含まれていようが)、本来なら、生ずることのない心の交流が生まれたからである。嘘でなかったら、ふたりの会話は、凡庸で冷たいものであっただろう。嘘であったからこそ、二人の間に、おそらく一生消えることのない交流が生まれたのである。
そしてこのことは、このタクシーを都会のただの運搬手段ではなく、観光タクシーに変えた。そのため走行ルートがおかしいというコメントは作品の可能性をせばめてしまうことになる。つまりこの走行ルートは観光タクシーのルートなのだ。観光タクシーだからこそ、運転手が観光ガイドになる。また乗客も観たいところを指定して、ルートを変更させる。最短距離を最速でという効率重視の走行ルートは、もはや消え、効率の点からは無意味な迷走的な走行ルートが出現するのである。
こうしてさまざまな小さなルールの変更とルール破りの果てに、彼女の人生にボーナスのような一日が訪れる。運転手にとっても、この走行はボーナスに近い。そしてこの一日が、心温まる会話物語として成立することになる。まさにルール破り、規則違反は、映画製作に関するメタコメンタリーともなっているのである。
*
あとは、この映画の評価とは別に、個人的な感想を述べさせてもらう。
倍賞千恵子の回想のなかで、若い頃の彼女(蒼井優)は、夫(迫田孝也)に暴力をふるわれるわけだが、この迫田孝也扮する夫は、サラリーマンで、妻を顎で使い、気に入らなかったり、妻が反抗的であったりすると殴る。そして帰宅すると、部屋に閉じこもって、クラシック音楽のレコードを聴いている。
この場面を観ながら私は緊張しはじめた。この人間のクズの夫を表象するのに使われたタイプというのがクラシック音楽を聴くサラリーマンである。ただサラリーマンが悪人だとはいえまい。サラリーマンが職業や職種を横断してクズ人間ということにはならないだろう。となると、狭い団地の部屋で、妻や子どもとは交わらず、クラシック音楽を聴いている夫というがクズであるところの構成要素であるように思われる。妻や子供と交流しない夫はクズだろうが、そのクズっぷりと、クラシック音楽のレコード好きということが連動しているのである――あとなにかにつけて几帳面だということもクズであることの要因として映画では想定されているようである。
だが、それでいいのだろうか。たしかに映画のなかでは迫田孝也演ずるこの男は、いかにもクズという感じがするのだが、それでいいのだろうか。というのも、この男にそっくりな人間を私は知っているからである。
私の父親である。
私の父親もサラリーマンで、帰宅したら、部屋に閉じこもって自分で構築したオーディオセットでクラシック音楽のレコードを聴いていた。母はともかく私とはほとんど口をきかなかった(ちなみに私は連れ子ではない)。う~ん、やはり、やはり、私の父は、クズ人間のステレオタイプになっておかしくない人間だったのだろうか。う~ん、と、うなってしまうしかないが、そう、まさに人間のクズだった、アグリー(agree)ですとしかいいようがない。
ちなみに私も、父がいないとき、父の大事にしているレコードに触ったことがある。紙のケースからレコードを出してしげしげとみた。父親がレコードを扱うときの、びっくりするほど慎重な手つきを思い出し、それをまねながら、丁寧に扱い、もとのケースに戻して、いじったことがわからないようにした。しかし、几帳面な父親は、私がレコードをいじったことをすぐに見抜いた……。
映画を観ながら、なんで、こんなエピソードが出てくるのだと、映画館で、手に汗をかき、おしっこをもらしそうになった。私の子供の頃の話ではないか。映画のなかの虚構と、私の実人生が、なぜ重なってしまうのだ。めまいまでしてきた。
ちなみに、私は、父に呼び出され、物差しでひっぱたかれたりはしなかった。それはほんどうである。もし父が私をひっぱたこうものなら、私の母が父を絶対に許さなかっただろう。父は局部にやけどをするくらいではすまなくて、母にほんとうに殺されていたにちがいない。
良い作品だとは思うが、パリタクシーを公開時に見ているので元作品は超えてないと感じた.
というのがあった。これは個人の意見なのだとやかく言えないのだが、どっちが超えている、超えていないという感想ほど、語る人間の愚劣さを露呈させるほどのものではなく、また評言の低下というか劣化を招くものはない。私も『パリ・タクシー』を公開時に観たが、『TOKYOタクシー』のほうが超えていると思った。こう語ったところで、何の意味もない。それぞれの映画に、それぞれのよさがあり、それを玩味することが重要で優劣をつけることに意味はない。
ただし、上記の評者は愚かであってもバカではない。次のコメントはバカのそれである。
止めた車に周囲の映像を組み合わせた撮影ですね。
昔はよくある手法でした。【いまでもそうだぞ。ド阿呆】
かなり良くなったとはいえ、【いまはAIでやっているので、抜かりはない】
車の振動や周囲の影などが伝わらず、【伝わるわけねーだろう。体感シアターか】
残念でした。【残念なのはお前の頭だ】
走行ルートも目茶苦茶ですね(笑)
東京人でない私でも、あそこ走った後、そこ行く?って分かりましたよ…【以下略】
こういう自分が頭がいいと思っているバカは救いようがない。これは小さな子供が訳知り顔に話しているさまが思い浮かぶ。このテレビではこの人殺されるんだけれども、これは殺されたふりをしているだけで、ほんとうは死んでないよ。ここで血が流れるんだけども、これは血のりっていって、血にみせかけた偽物なんだな。だからみんな嘘なんだ――という頭のいいバカな子供に対しては、そんなことは誰だってわかっている、ドラマのなかでほんとうに殺し合いをしているとは誰も思わない。でも、この人はほんとうに殺された、この人は平気で人を殺す人なんだと、そう頭のなかで想像してごらん、そうして恐ろしい、悲しいと思い、ショックを受ける方が、ドラマをずっと楽しめるし、ドラマの内容もよく理解できるよと教え伝えることは必要である。
その子どもがもう少し歳をとっていると、こう語るかもしれない。演技で死んでいるんだけれども、血の出かたが少ないとか、死に際の痙攣sita
ほうがいいとか、拳銃で殺すのだったら頭を狙ったほうがいいとか、わけ知り顔で話す、以前として、頭のいいバカだとしたら、この子が長じて「止めた車に周囲の映像を組み合わせた撮影ですね。昔はよくある手法でした」とクソ偉そうに語って恥をさらすかもしれないので、こうやって教え伝えた方がいい――
もしこれがほんとうに、この人は死んでしまったのだと視聴者が信じてしまうような演技なり演出をしたら、観客は不快と恐怖を感じて動転してしまうかもしれない。たとえ一瞬でもいい、そんなふうに動転してしまったら、ドラマがだいなしになるでしょう。視聴者が、なにかの場面に驚き恐怖心を抱いたらドラマの内容はそっちのけになる。この殺害場面は、ほんとうに現実で起こった殺害の再現なり真に迫った模倣なのではなく、人が殺されたという記号であればよいというか記号でないといけない。そうでないと視聴者は不快になり憎しみさえ抱いたりするからだよ、と。
さらにいうと、ほんとうに記号だったら、視聴者は白けてしまうから、ある程度、真に迫った行為というものを示す必要がある。真に迫りすぎてもまずいけれども、抽象的な記号的表現になってもまずい、その按配というかバランスがたいせつなんだね。あ、ごめん、こんな話は君にはついていけなかったね。
「走行ルートも目茶苦茶ですね(笑) 東京人でない私でも、あそこ走った後、そこ行く?って分かりましたよ…」と語っているが、たしかに、走行ルートが合理的あるいは現実的でないことは私も気づいた。そこをつっこんで、マウントをとった気分になってもいいのだが、つっこんでマウントをとることは、頭がいいと思っているこのバカにまかせておけばいい。
走行ルートの問題は、たしかに私も気づいた。監督が気づかなかった可能性もあるが、おそらくは気づいている。ただ映画の編集段階で、物語の進行上あるいは情動的な演出上の理由から、効果的な絵の配列が優先され、地理的関係は無視されたのかもしれない。さらにいえば、乗客の倍賞千恵子の自分語りは、過去と現在とを往復する。そしてまた外の景色、走行している場所とも相関関係にある。空間的・地理的にあり得ないルート、遠回りあるいは無意味なルートは、過去と現在との時間的往復運動の錯綜性と同調しているのである。
木村拓哉扮するタクシー運転手が道路の一時停止を無視したため監視していた警官に止められるところがある。ささいながら苦境にたつ木村拓哉に対して乗客の倍賞千恵子が助け舟を出す。自分は心臓の病で手術を受けなければいけないため、自分の甥であるこの運転手は、あせって、ついつい道路標識を無視してしまったのであって、どうか大目に見てほしいと、警官に語る。事情を理解した警官は、見逃してくるのだが、この場面の映画全体のなかに占める重要性はどんなに強調しても強調しすぎることはない。
ちなみに交通規則は映画のなかでは破られるためにある。公開中の『爆弾』では、人が通りの向こうで殺されそうになっているとき、横断歩道で赤信号だから立ち止まってそれを傍観しているのか、規則を破ってでも助けに行くのではないかということが語られる場面がある。これも公開中の『平場の月』では、自転車の二人乗りが登場する(映画の最後のクレジットには、自転車の二人乗りは交通規則違反だが安全に配慮して往来の少ない通りで撮影しているという言い訳が文字で示される)。
『TOKYOタクシー』では一時停止の無視が警察によって摘発されるが、口八丁の乗客の老婦人によって見逃してもらえる。いずれの場合も交通規則は破られるためにあるようだ。そしてその違反は、交通規則に限らず、多岐に及ぶ。『TOKYOタクシー』では、地理的関係なり地理的規則・法則が破られ、タクシーは寄り道と回り道、蛇行と循環を繰り返す。その「違反行為」は、乗客の老婦人の語る人生の紆余曲折という内容だけでなく、現在と過去との境界すらも一時停止せずに無視してしまう混迷と錯綜と自由闊達な語り口、そして想起の偶発性を反映している。またタクシーの後部座先には、現在の老婦人(倍賞千恵子)と若い頃の彼女(蒼井優)が並んで座る場面もある。地理的空間の迷走は過去と現在との迷走的往復を呼び寄せるのである。
実際、山田洋次監督は、規則を破るときにドラマが生まれると考えているようだ。だからこそ監督は規則には反感をもっている。以前、なにかのトークの場で、最近では映画館で上映前に観客に対して、スマホの電源を切れとかおしゃべりをするなとか前の席をけるなといったこまごまとした注意事項が語られるが、あれがうっとうしいと語って、ネット上で反感を買っていた。私はそうした注意事項は必要だと思うしマナーの悪い観客にはほんとうに腹が立つが、それとは別に、山田洋次監督の規則嫌いについて、それが映画の内容にまで浸透していることは重視すべきであることを指摘したい。
そしてこの一時停止無視の場面についていえば、これによってタクシー内でのやりとりに変化が生まれる。そしてまた、ここまでの運転手と乗客との会話が一時停止無視の迷走と迂回であり、しかも地理的規則を無視した回遊であったことがあらためて前景化される。それだけではない。乗客の倍賞千恵子の肝の座った要求、それも虚言に端を発する図々しいまでの要求は、彼女のキャラクターについて多くの示唆を与えることになる。そもそも彼女は振り返れば規則を踏みにじって来た人生であった。そのためには服役すらした。また警官に温情を求める押しの強さは、彼女が服役後、アメリカでネールアーティストの修行をして日本で成功を収めたことも、さもありなんと観客の思わせるものだ。
しかも、彼女は嘘をかたって警官を丸め込んでいる。ここからいえることは、ひょっとしたら彼女がこれまで運転手に語ってきたとは、全部、口から出まかせの嘘だったかもしれないということだ。多くの観客は、そうは思わないかもしれない。しかし、嘘だったという可能性はある。しかも、嘘であったことで、運転手と乗客の交流が意味のないものになるどころか、この巧みな嘘ゆえに(そこにはほんとうことも含まれていようが)、本来なら、生ずることのない心の交流が生まれたからである。嘘でなかったら、ふたりの会話は、凡庸で冷たいものであっただろう。嘘であったからこそ、二人の間に、おそらく一生消えることのない交流が生まれたのである。
そしてこのことは、このタクシーを都会のただの運搬手段ではなく、観光タクシーに変えた。そのため走行ルートがおかしいというコメントは作品の可能性をせばめてしまうことになる。つまりこの走行ルートは観光タクシーのルートなのだ。観光タクシーだからこそ、運転手が観光ガイドになる。また乗客も観たいところを指定して、ルートを変更させる。最短距離を最速でという効率重視の走行ルートは、もはや消え、効率の点からは無意味な迷走的な走行ルートが出現するのである。
こうしてさまざまな小さなルールの変更とルール破りの果てに、彼女の人生にボーナスのような一日が訪れる。運転手にとっても、この走行はボーナスに近い。そしてこの一日が、心温まる会話物語として成立することになる。まさにルール破り、規則違反は、映画製作に関するメタコメンタリーともなっているのである。
*
あとは、この映画の評価とは別に、個人的な感想を述べさせてもらう。
倍賞千恵子の回想のなかで、若い頃の彼女(蒼井優)は、夫(迫田孝也)に暴力をふるわれるわけだが、この迫田孝也扮する夫は、サラリーマンで、妻を顎で使い、気に入らなかったり、妻が反抗的であったりすると殴る。そして帰宅すると、部屋に閉じこもって、クラシック音楽のレコードを聴いている。
この場面を観ながら私は緊張しはじめた。この人間のクズの夫を表象するのに使われたタイプというのがクラシック音楽を聴くサラリーマンである。ただサラリーマンが悪人だとはいえまい。サラリーマンが職業や職種を横断してクズ人間ということにはならないだろう。となると、狭い団地の部屋で、妻や子どもとは交わらず、クラシック音楽を聴いている夫というがクズであるところの構成要素であるように思われる。妻や子供と交流しない夫はクズだろうが、そのクズっぷりと、クラシック音楽のレコード好きということが連動しているのである――あとなにかにつけて几帳面だということもクズであることの要因として映画では想定されているようである。
だが、それでいいのだろうか。たしかに映画のなかでは迫田孝也演ずるこの男は、いかにもクズという感じがするのだが、それでいいのだろうか。というのも、この男にそっくりな人間を私は知っているからである。
私の父親である。
私の父親もサラリーマンで、帰宅したら、部屋に閉じこもって自分で構築したオーディオセットでクラシック音楽のレコードを聴いていた。母はともかく私とはほとんど口をきかなかった(ちなみに私は連れ子ではない)。う~ん、やはり、やはり、私の父は、クズ人間のステレオタイプになっておかしくない人間だったのだろうか。う~ん、と、うなってしまうしかないが、そう、まさに人間のクズだった、アグリー(agree)ですとしかいいようがない。
ちなみに私も、父がいないとき、父の大事にしているレコードに触ったことがある。紙のケースからレコードを出してしげしげとみた。父親がレコードを扱うときの、びっくりするほど慎重な手つきを思い出し、それをまねながら、丁寧に扱い、もとのケースに戻して、いじったことがわからないようにした。しかし、几帳面な父親は、私がレコードをいじったことをすぐに見抜いた……。
映画を観ながら、なんで、こんなエピソードが出てくるのだと、映画館で、手に汗をかき、おしっこをもらしそうになった。私の子供の頃の話ではないか。映画のなかの虚構と、私の実人生が、なぜ重なってしまうのだ。めまいまでしてきた。
ちなみに、私は、父に呼び出され、物差しでひっぱたかれたりはしなかった。それはほんどうである。もし父が私をひっぱたこうものなら、私の母が父を絶対に許さなかっただろう。父は局部にやけどをするくらいではすまなくて、母にほんとうに殺されていたにちがいない。
posted by ohashi at 20:22| 映画
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