2025年10月29日

『グランドツアー』

ポルトガルのミゲル・ゴメス監督とは、ほんとうに相性が悪い。いまをさかのぼること10年以上も前、『熱波』(2012)が公開されたときのこと。評判のこの映画を私はイメージ・フォーラムに観に行った。そうしたら不覚にも眠ってしまった。

まあ誰でも映画を観ながら眠ってしまうことはある。ただ、目が覚めて最後まで観終われば、眠っていてもどんな映画なのか理解に苦しむことはない。ところが『熱波』の場合、物語が複雑なこともあり、さらによほど長く眠ったらしく、内容がさっぱり把握できなかった。そこでさすがにこれではいけないと私は深く反省した。

反省したので、もう一度、映画館イメージ・フォーラムに足を運ぶことにした。前回は疲れていたのかもしれない。今回は、どんな映画かは、たとえ眠っていたとしても、ある程度はわかっているから、そしてたとえ疲労していても、映画に取り残されて眠ってしまうことはないだろう。そう考えた。

そして二度目も眠ってしまった。

それから13年。今回公開された映画『グランドツアー』(2024)をル・シネマ渋谷宮下で観た。ル・シネマ渋谷宮下は、席と席との間が、前席の背を蹴ろうとしても足が届かないくらいに広い。それはいいのだが、傾斜が急ではないので、以前、大男が私の前に座って見切り席みたいになってしまい困ったことがあった。今回は見切り席にならずに、映画を満喫することができた。

13年前は寝てしまったが、今回は、眠ることはないだろうと思っていたが、今回も寝てしまった。129分の映画が短く感じた。あたりまえだろう。寝ていたのだから。

そのため眠っていた人間の無責任な発言なのだが、そして自分の注意力散漫を棚に上げての暴言かもしれないのだが、この映画、クソ・オリエンタリズムでしかないだろう。眠ったことは後悔していない。といいつつも、まだ公開中なので、再度観に行くかもしれない。どうせまた眠るのだろうが。
posted by ohashi at 02:19| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年10月28日

『ハウス・オブ・ダイナマイト』

すでに10月10日から劇場公開もされていたようだが、私はNetflixの配信でみた。実はこのところ風邪と仕事で忙しく、映画館にも足を運べない状態なので、予備知識なしで観て、キャスリン・ビグロー監督作品であることをエンドクレジットで初めて知った。

ビグロー作品は『ラブレス』(1982)から『デトロイト』(2017)までほとんどすべてを観ているので、本当なら気づくべきだったが、まあぼけ老人になっているのでしかたがない。ただ近年のビグロー作品らしい内容・形式ともに骨太な映画で、充分に満足できるものだった。

核弾頭ミサイルについては、昭和脳から脱却できていない私は、大陸間弾道ミサイル(ICBM)を迎撃するのは不可能に近いと常々思っている。

ただ、迎撃する側も核弾頭付きのミサイルを使用すれば、直撃しなくても、近くまで行って核爆発の力でICBMを無力化できるのだが、自国の上空で核爆発を起こすのは危険なのでこの方法は採用されていない。そうなるとICBMが発射されて放物線を描いて飛翔するとき、発射から放物線の頂点に達するときが狙い時で、とりわけ放物線の頂点では速度がゼロになる。しかし、その後、落下しはじめ、最終的に複数各弾頭に別れたら、もう迎撃は不可能になる。またICBMの飛翔コースは、放物線ではなく、台形の底辺以外の3辺の形をとる。上昇段階・水平飛行段階・落下段階の三段階のうち、現在では、ICBMが慣性によって水平飛行に入ったときが落とし時であり、それ以外には、発射される前に発射基地を攻撃する以外にICBMを防ぐ方法はない。

この映画のなかで「傾斜が水平に」というタイトルが第一部というか第一章についているが、これはICBMが水平飛行コースに入ったということだろう。この段階で、弾道弾迎撃ミサイル(GBI)で迎撃しないと、あとは打つ手がないというのも驚きである。ICBMは落下しはじめたら落とせないだろう。そもそも迎撃ミサイルは、高空をのんびり飛んでくる大型の戦略爆撃機を落とすためのもので、それなら成功の確率は高いだろうが、落下してくるミサイルを落とすためのものではない。実際それは「弾丸で弾丸を打つ」ようなものと常々思っていた私にとって、同じことがセリフとして映画で聞けたのは驚いた(第2章のタイトルにもなっている)。

とはいえ私の脳は昭和脳であって、現代でも進歩はないのかと驚きもした(もう少し迎撃ミサイルの精度はあがっているのではないか)。

映画のなかではミサイルによる迎撃の成否は五分五分である。戦略空軍の指令室で空軍大将がいうようにこれは「fuckingコイントス」でしかない――成否が五分五分ということと、運を天にまかせるということか。そして迎撃に失敗し、ICBMは18分でシカゴを直撃するとわかる。

同じNetflix配信の映画『INTERCEPTOR/インターセプター』(Interceptor2022)は、太平洋上に浮かぶミサイル防衛拠点を舞台に、テロリストたちによる攻撃(彼らはロシアから盗んだICBMで米国攻撃を計画)に対し、単身立ち向かう女性指揮官という、ダイ・ハード型のアクション映画だが、その防衛拠点には迎撃ミサイルも装備されていたように記憶する(実際には洋上の拠点にはレーダーがあるのみ)。『ハウス・オブ・ダイナマイト』では、GBIを発射するアラスカのフォート・グリーリー基地と洋上レーダー施設のみがICBM防衛システムのようだ(ICBMを打ち合うような世界大戦は起こらないと予測されていたのだろうか)。実際には、もっと多くの防衛施設があるようだ。とはいえ落下モードに入ったICBMを落とすのは、コイントス状態である。

映画は、朝、「ホワイトハウスのシチュエーションルーム(WHSR)で、オリヴィア・ウォーカー海軍大佐は深夜帯の当直チームから勤務を引き継いでいた」(Wikipedia)というところからはじまるが、ウォーカー/レベッカ・ファーガソンのいるところはシチュエーション・ルームそのものではなく、モニター・ルームのようなところで、シチュエーション・ルームは彼女の上司であるミラー大将/ジェイソン・クラークが赴くホワイトハウス地下の小さな会議室だと思われる(公開されている実際のシチュエーション・ルームの写真から判断すると)。

あと、大統領(POTUS――この威厳のない表現は好きである)が乗り組むのがヘリコプターというのも最初は驚いたが、これは、いわゆる「マリーンワン」――POTUSが短距離間を移動するときに利用するヘリコプターのこと。映画のなかで予算がなくて、エアフォースワンではなくて、ヘリコプターにしたのではない。いや、予算がなかったのかもしれないが。実際、現在、来日中のPOTUSもこれに乗っている(二機編隊で飛んでどちらにPOTUSが載っているのかわからないようにしているらしい)。

またこうした映画の感想として、日本人の右翼は、「平和ボケ」という言葉が好きなようだ。たしかにこの映画では、POTUSをはじめアメリカ人はみんな平和ボケであり、日常生活のリアルに埋没して、非常事態、つまり世界に終末をもたらす危機に対し、なんら対処できないまま、茫然と立ちつくことしかできない。平和ボケの末路である。

とりわけイドリス・エルバ扮する大統領は、平時に、有権者のご機嫌をとるために、ハイスクールのバスケットボールのイベントに参加、そこで、気さくで頼りがいのあるカリスマ的魅力をたたえた大統領像を強烈に印象付けるのだが、しかし非常時になって決断を下す段になると、優柔不断なポンコツの大統領となる――この落差を示すイドリス・エルバの演技はすごすぎる。平和ボケの大統領には有事の際の指導は荷が重すぎるのである。

だが、「平和ボケ」を日本人がいうな。この映画のなかではICBMは日本海あたりから発射されたようだが、最初、北朝鮮の潜水艦からと推測されたが、最終的にはどこの国なりどこの勢力が発射したのかわからないままである――つまり宣戦布告なき攻撃。

いうまでもなく、この宣戦布告なき不意打ち攻撃の原型は日本の真珠湾攻撃である(ちなみに、日露戦争時にも宣戦布告前に攻撃を始めた卑劣な日本軍にとって、宣戦布告なき奇襲はお家芸みたいなものである。当時の外務省が米国に宣戦布告を伝えるのを手間取ったというような話はあとから捏造したものだろう)。そして真珠湾攻撃を全く予測していないアメリカ海軍とアメリカ政府は、最終段階まで攻撃可能性を信ずることなく、気づくと日本の奇襲攻撃にさらされていた。この日本の狡猾さ卑劣さを宣伝することで当時のPOTUSは米国民を奮い立たせた。米国の平和ボケに乗じて卑劣な奇襲攻撃をかけたのは日本の軍部である。

前置きはこれくらいにして、この映画の特徴は、結局、ICBMはどうなったのかをオープン・エンディングにしていること――身も蓋もないことをいえば、世界最終戦争になり地球の文明は消滅したということだろう。そして同一の出来事を三つの視点から描いているこことを指摘したい。

基本的に主人公のレベッカ・ファーガソンがICBMによるシカゴ直撃が避けられないことを知り、何も知らない家族に愛を伝えるところで終わる第一章「傾斜が水平に」のあと、物語は最初にもどり、ホワイトハウスに向かう途中の大統領補佐官ジェイク・バリントン/ガブリエル・バッソ夫妻から話が始まる。基本的にこの大統領補佐官と戦略空軍司令施設の軍幹部の視点から同じ出来事が眺められるのが、「弾丸で弾丸を打つ」と題された第二章。第三章「爆薬が詰まった家」もふたたびふりだしにもどり、今度はPOTUS中心に話が展開する。同じ出来事が三つの視点から描かれる。

これをループ物とみていいように思う。もちろん、ループ物ではなく、同じひとつの事件を、多角的に語る様式であり、たとえば『バンテージ・ポイント』(Vantage Point2008 監督:ピート・トラヴィス)のような映画――スペインでのPOTUS狙撃事件の際、その現場にいた8人の視点から同じ事件を描くもの。同一対象の見え方の違いを、視差=パララックス・ヴューというが、それを主題としたジャンルでもある。ただしこれはパララックス・ヴュー好きのジジェイクに触発されたもので、映画『パララックス・ビュー』(The Parallax View 1974)とは無関係。とはいえ『バンテージ・ポイント』はタイム・ループ物として分類されることもあるので、今回の『ハウス・オブ・ダイナマイト』もそれと同等とみなしたい。というかそもそも、物語はループするのだ。ただし理由なく。

タイム・ループ物、あるいは無限タイム・ループ物の小説とか映画たるものの、第一条件は、主人公が、周囲が、世界が、反復・ループしているのを知っていること。これまでの世界についての記憶があることである。そうなると同一の出来事を視点をかえて描く今回の映画の表象法では、主人公ないし登場人物が、これは前回の反復だとは思わないから、ループ物の要件を満たしていないことになる。しかし、その中間的存在がある。出来事は反復される。そして主人公ないし登場人物は前回の出来事の記憶を保持しているように思われる。ただしループの原因についてSF的説明はない。というか原因は心的なものである。失敗した前例に対してセカンドチャンスを求めずにはいられない人間の願望がそこにある。

たとえば有名な例として『ラン・ローラ・ラン』(Lola rennt/Run Lola Run1998 監督:トム・ティクヴァ)がある。これはタイム・ループ物の映画として数えられていないかもしれないが、しかし、まぎれもなく物語が最初にもどり、最初からやりなおされる。ローラは、恋人のために高額な金を用立てることに失敗、強盗に入るが、発砲した警官の流れ弾に当たって死亡。と物語は、最初に戻る。今度は、ローラは、お金を強奪することに成功するが、恋人が死んでしまう。そして三回目に、偶然と幸運が重なりローラは恋人のためにお金をつくり、恋人も失った金を取り戻し、再開した二人には明るい未来が開けている……。この場合、なぜ出来事が3回も反復するのかについては、最初とその次の出来事は失敗に終わるがゆえに、前2回の失敗を教訓に3回目には成功するという、失敗をなんとか挽回したい、リセットしたい、あるいは失敗に対する悔恨ゆえに別の可能性を模索せずにはいられない人間のリセット願望の具現化ととることもできる。

『ハウス・オブ・ダイナマイト』は、同じ出来事を異なる視点から描くので、それぞれの視点は、補いあうことはあっても、矛盾したり、異なるものになったりすることはない。2回目も3回目も、それまで描かれていない細部が露呈しても出来事の展開は全く同じである。しかし、最初の出来事のあと、同じ出来事をもう一度描くということのなかに、『ラン・ローラ・ラン』におけるような、失敗を克服したい願望を感じ取れるのではないか。米国が宣戦布告鳴きICBM攻撃を受けて壊滅するという出来事は、あってはならない惨事であり、それを未然に防ぎたい、あるいは防衛方法のオルターナティヴを探りたいという、ある意味素朴な人間の願望が、出来事の振出しにもどるような物語を希求したともとれる。

『ハウス・オブ・ダイナマイト』のループ構造は、出来事をリセットしたい、オルターナティヴを探りたいという人間の願望の影をにじませている。とはいえ、通常のループ物と異なり、繰り返される出来事には、異変はなく、まったく同じ出来事であって、どうあがいても、出来事のオルターナティヴや、変更点や、マルチユニヴァースはみあたらない。破局へむかう必然的放物線(まさにICBMのコースそのもの)から誰も逃れられないというかたちで映画は終わる。

とはいえ、三つの視点からの物語は、どれもオープン・エンディングであって、結末はわからない。これは視聴者が想像せよということかもしれないが、同時に、核攻撃(さらには核の報復の連鎖)はすべの消滅をもたらすのであって、終わりそのものをも消し去るともいえる。

この映画の真の恐怖がそこで暗示される。三つの物語、三つの視点の物語は終わりを失っている、つまり物語は終わりがない、いわゆる成仏できないまま宙刷りになっている。そして成仏するまで、終わりがみつかるまで、さらに別の人物の視点からの物語が紡がれてゆくだろう。しかもそれらは同じ一つの出来事を、異変も差異もないかたちでただ再構築するだけであり、破局は回避されず、破局の核心は明示されず、別の視点からの物語は永遠に終わることがない。核という最終兵器による最終戦争によって瞬時にして消滅する人類が消滅のまぎわに夢にみた、何度も繰り返される終末の最後の瞬間、まさに悔恨と絶望の無限ループがここに生起するのだ。そう、同じ一つの出来事を語るこの映画は、ループ物の映画ではないかもしれないが、もし核戦争が起こったら生ずるであろう、隠れた戦慄的無限ループの誕生を暗示しているのである。


付記:1 とはいえ映画は、核攻撃後の世界も映画いている。ICBMの着弾後、ペンシルヴェニアのレイヴンロック・マウンテン・コンプレックスの核シェルターに入る人々が描かれているし、フォート・グリーリー基地の外にたたずむ指揮官の姿もみえる。ポストアポカリプスの世界が始まろうとしている。続編でもつくるつもりなのだろうか。あるいは絶望で終わらせたくなかったのだろうか。

付記:2 『トワイライト・ゾーン』の第4シーズン(このシーズンだけ1時間物となった)のなかで「幻の宇宙船」(Death Ship)は、すでに墜落して全員死亡したのに、それを知らない宇宙船の乗組員たちが遭遇する異変を描くものだが、彼らクルーは、自分たちの死を発見するや、ふたたび出来事の発端へと引き戻され、無限のループに囚われる。そして、囚われているかぎり、成仏できずにいる。死ぬことができない。『ハウズ・オブ・ダイナマイト』における最終的に露呈する無限ループと似た構造を、このエピソードは持っているのではないか。詳しい考察はいまは行なわないが。
posted by ohashi at 14:08| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年10月08日

『ベートーベン捏造』

そもそも翻訳劇しか観ない私が、日本人がベートーヴェンや彼の秘書だったシンドラーを演ずるのは違和感があるなどといえた義理ではないが、実際、今回の『ベートーヴェン捏造』は違和感で息が詰まると思いきや、そうでもなく、すんなりと映画の中に入って行けたので、いったい違和感の臨界点はどこなのかと思いをはせることになった。

たとえば浅田次郎原作で、橋本一監督の映画『王妃の館』(2015)では、ルイ14世が寵姫のために建てたという『王妃の館』に宿泊した日本人作家(水谷豊)がルイ14世時代の出来事(ルイ14世と、その寵姫と息子をめぐる)について思いを巡らせるのだが、そのとき、作家の想像のなかに登場するルイ14世を石丸幹二が演じている(その他、主要人物を日本人が演じている)。せっかくパリまでロケにでかけ、ベルサイユ宮殿を一日貸切りでロケまでしたにもかかわらず、なぜルイ14世が、石丸幹二なのだ。

ただ理由がないわけではない。ルイ14世とその寵姫のことを調べた作家は、それをもとにミュージカル台本を創作しようとする。当然、その台本は、日本人の歌手たちがルイ14世その他を演ずることになる。石丸幹二=ルイ14世は、作家の脳内劇場のなかに登場したルイ14世を演ずる歌手、もしくは作家が完成させた日本語によるミュージカル台本によって実現した公演でルイ14世を演ずる歌手なのである。だからルイ14世が石丸幹二であることに納得できるかというとそうでもない。実際のパリの風景のリアリティは何物にも代えがたいのだが、それを日本人のルイ14世は損なうのである。

実は、この『王妃の館』の宝塚版をみたことがある。『王妃の館-Château de la Reine-』(2017年2 ~ 4月)の宙組公演で、作家を朝夏まなとが、ルイ14世の亡霊を真風涼帆が演じていた(いまや二人とも退団しているのだが)。これには何の違和感もなかった。たとえていえば、翻訳小説とか翻訳劇で、外国人の名前の登場人物が全員日本語をしゃべり、地の文というか描写もすべて日本語であっても、べつに違和感を抱かないのと同じである。

しかし、たとえば英語の小説の日本語訳のなかで、一人か二人のある特定の人物が、英語だけを話している(ローマ字で記載されている)としたら、あるいは逆に、英語の小説で、ある特定の人物が、日本語で話し、日本語を書いているとしたら、よほどの理由付けがないかぎり、違和感満載であろう。これと同じで、石丸ルイ14世は、日本人とフランス人が交流しているところに、突然、フランス人の格好とメイクをした日本人が出現するようなものであり、違和感はハンパない。

だが、ベートーヴェンの時代の人物全員を日本人が演ずる場合はどうか。翻訳小説と同じことなのだろうか。翻訳劇をみているようなものなのだろうか。

映画のなかでは山田裕貴扮する高校の音楽教師が、音楽室に忘れ物をとりにきた男子高校生に対してベートーヴェンの秘書だったアントン・シンドラーによる捏造事件について話をする。ちなみにこの高校生、シンドラーはベートーヴェン像を勝手にこしらえたのかもしれないが、それを語る音楽の先生のシンドラー像も、ある意味、想像の産物で捏造かもしれないと脱構築的に語るのが印象的だった。で、それはともかく、彼が音楽室に向かう途中に高校の教員の何人かに出会う。古田新太もその一人で、音楽教師/山田裕貴の語りのなかで、この古田新太がベートーヴェンとなる。その他、高校の教員の何人かが、ベートーヴェンやシンドラーをとりまく人々となる。むろん、山田裕貴が、シンドラーとなる。

これは音楽教師/山田裕貴の脳内劇場で、職場の同僚である他の教員に役を割り振ったということなのか。それならばベートーヴェンをはじめとして当時のドイツやヨーロッパの関係者が全員日本人なのも納得がゆく? むしろなぜ古田新太がベートーヴェンなのかと考えたときに、山田の高校での同僚だったという、それだけでは因果関係にはならないのだが、なんとなく関連性をにおわせることで、なんとなく観客を納得させるものかもしれない。

ただ、ここでいえるのは、音楽教師/山田裕貴が語るシンドラーによる捏造事件に、身近な同僚が登場しているということは、この遠い過去の異国の出来事を想像し再現するというきわめて困難な試みを前にして、おそらく慣れ親しんだものを基軸として、そこからアナロジーを駆使することにしたということだろう。つまり、身近にあるもの、手に入りやすいものなら何でも利用し、限られた材料や手段を可能な限り活用して、想像力を駆使したのである。この手仕事感、知のブリコラージュといってもいいが、それを映画の設定は前面に押し出している――音楽教師/山田裕貴の語りのなかに登場する欧米人がみな日本人であることで。

原作とされているのが、かげはら史帆『ベートーヴェン捏造―― 名プロデューサーは嘘をつく』(2018)というノンフィクション作品だが、映画のほうは、この著書に触発された、実話に基づく再現ドラマ映画である。再現ドラマというのが日本人ベートーヴェンの鍵となる。たとえばテレビの知的バラエティー番組において、再現ドラマは、実際に起った事件を簡潔にまた要点だけを示すために、外国の事件でも日本人俳優を使う。そのほうが手っ取り早くてわかりやすい。再現ドラマは実際に起った事件の再現である以上、主導権は事件のほうにある。再現ドラマは便宜的なものでいい――挿絵的なもの、写真、アニメ、CGでもいいのだ。そうした便宜的手法のひとつに、日本人俳優を使ったコント的なものがある。この映画は、実際に起った事件・実話に基づく劇映画というよりも、実際に起った事件をわかりやすく説明するための再現ドラマなのである。

と、まあ、こう考えれば、違和感は減少するかもしれない。逆に観客は、簡略的なコントでよいものを、けっこう力を入れてドラマとしても成立させたことに、感銘をうけるかもしれない。そしてさらにいうなら、音楽教師と男子高校生という枠物語の部分もまたコント的であって、映画全体が、長いコントとみることができる。ならば違和感はさらに減少するのかもしれない。


なお『ベートヴェン捏造』に関して、まず語るべきは、こうした違和感についてであろうが、内容に即してみると、「嘘」の問題が次に語られることかもしれない。これについては、このブログで紹介しているイーグルトン『悲劇とは何か』についてで、語られることを参照していただきたい。
posted by ohashi at 13:44| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年09月23日

『遠い山なみの光』

Warning:Spoiler

映画『遠い山なみの光』(監督 石川慶)について、前作『ある男』と優るとも劣らぬ作品なのに、公開からそれほど日がたっていないにもかかわらず、観客動員が失速気味なのは惜しまれる*。カズオ・イシグロの原作に対する大胆な解釈、あるいはその大胆な翻案に圧倒された者として、多くの人に観てもらいたい映画だと思う。原作は読んでいなくていい。むしろ原作を読んでいると、もちろんその翻案に驚くだろうが、それ以上に、原作の曖昧さに頭を抱えるだけだから。前作『ある男』では、最後の方でどう終わるのか観ていてはらはらした。というのも映画は原作の終わりに到達しても、まだ続いていたからで、最終的に、最初に戻って枠物語を完成させる終わり方をしていた。それはきわめて知的かつ論理的な終結方法で、映画に比べると、むしろ原作のほうがぐだぐだの終わり方をしているという印象をもったくらいだった。今回も、原作のなかでもやもやしているところを魅力的なひねりを加えながら、原作の味わいをきちんと残しながら、明晰に組み替えた点、大いに評価されてよいだろう。

*正直いって、U-NEXTで謎解き解説の番組(それも一回で終わらない連続番組)などをつくるから、敷居が高い映画ではないかと観客を遠ざけたのではないか――私はU-NEXTのそれは観ていないし、観るつもりもない。映画は、べつに謎解きなどしなくても、謎は解明されtている。むつかしい映画でもなんでもない。映画会社の愚かな戦略が『遠い山なみの光』を、前作の『ある男』のようにいつまでも上映される映画ではなく、早々と上映が終わりそうな映画にしてしまったのはほんとうに残念である。

以下、映画を観ていない方は絶対に読まないで欲しい。ネタバレあり。ネタバレに接すると映画の魅力が半減するので。

Warning:Spoiler

原作のA Pale View of Hills、日本語訳では「遠い山なみの光」と原題とはやや異なるタイトルをつけているが、これは第7章の冒頭にある
I could see far beyond the trees on the opposite bank of the river, a pale outline of hills visible against the clouds. It was not unpleasant view, and on occasions it brought me a rare sense of relief from the emptiness of those long afternoons I spent in that apartment. (Vintage Bools, 1982, 1990, p.99)

から来ているのだろう、英国にいる悦子による過去の回想のなかのコメント。【なお人名は今回の映画化も従っている日本語訳における漢字表記に従う。】

この本文ではPaleなのは山なみの具体的・物理的輪郭(a pale outline of hills)なのだが、作品のタイトルは、ノスタルジックな回顧のなかで浮かび上がる山々の—ひいては過去の一時期の――思い出(a pale view of hills)である。思い出のほうがぼんやりしている。実際、読者にとっても、語り手である悦子の「信頼できない語り手」(unreliable narrator)的性格が気になってきて、語られる内容自体に、ぼんやりとした懐疑の念、あるいはもやもや感のようなものを抱くことはまちがいない。

これに対して映画は大胆な解釈を行なって、事態を整理してみせた。その水際立った解釈は、なぜそうした解釈をできなかったのだろうかという悔恨と羨望の念を私に引き起こすことになったのだ【なお私はカズオ・イシグロの専門家ではないので、アカデミックな場ですでに、この映画のような解釈が存在するのかはどうか知らない】。

映画をご覧になった方ならいうまでもないことだが、それは語り手の悦子が、30年前の日本の長崎で暮らしていたころ出会い、つきあうことになったと語られる佐知子が、実は、悦子が捏造した人物であったこと、それだけではない。佐知子の性格や行動として語られるものが、実は悦子のそれであったということである。

この衝撃的なアナグロリシス【アリストテレスが悲劇を語るときに使った用語をこれからも出すのを許していただきたい――「発見」という意味】によって、映画全体の見方が変わる。

舞台は1952年に日本と、1982年の英国である【どちらも原作には指定されていない。1982年というのは、原作が出版された年であり映画ではそれを語り手の現在時としたのだろう】。語り手の悦子は1980年の英国(悦子/吉田羊)で、30年前の1952年の長崎(悦子/広瀬すず)での佐知子/二階堂ふみとの出会いを回想している。

この回想は、映画のなかでは悦子の次女ニキ(英語名Nikkiなので漢字はあてられない)の頼みによって日本で英国人の特派員と結婚して英国に渡って来ることになった事情を聞きだし、それをまとめて、長崎出身で渡英した日本人女性の回想録として出版しようとしている。娘の求めに応じて、長崎で出会った佐知子とのふれあいを中心に悦子が語った内容、それが映画のメインアクションとなっている。

この設定はありがちなことである。だが原作の小説では、次女のニキは、友人の女性の詩人が、お母さんのことを詩にしたいから、昔の思い出を聞かせてくれと頼む。詩にする? 

そのためお母さん(悦子)の話も、佐知子を中心とする断片的なものとなり、なぜ英国人男性と知り合い英国に渡ることになったのかは、あいまいなままである(映画では、それは語られたらしいということになる)。原作の小説は、語られたこともさることながら、語られていないこと、ぼんやりと示されたことなどが気になる。1952年(この年次もぼんやりと示されているにすぎない)の思い出は細部のリアリティはあっても全体としてぼんやりしている、まさにPale View――ぼんやりした思い出なのである。

佐知子捏造
映画ではこのぼんやり感をどう処理したか。〈アナグロリシス〉(どんでん返しといってもいいのだが)によって、人間関係や見方が全く変わるよう映画にしたのである。『ファイトクラブ』(1999年、デイヴィッド・フィンチャー監督)のような映画にしたといってもいい。

思い出しいただきたい。『ファイトクラブ』(あるいはそのような映画ということだが)では、主人公/エドワード・ノートンは、タイラー・ダーデン/ブラッド・ピットという、謎めいた、だがカリスマ的な魅力を持つ男と出逢い、土曜の夜、バーの地下室で、殴り合いの喧嘩をするという秘密の「ファイトクラブ」を二人で立ち上げる。喧嘩によって日ごろの憂さを晴らすこのクラブは、秘密裏に人気を博し、二人にとっても生活の一部と化す。やがて映画ではタイラー/ブラッド・ピットがテロ行為に走りだし、主人公の「僕」もそれに巻き込まれてゆくのだが、最後にどんでん返し的にあきらかになる。本来気弱な、どちらかというと内向的な「僕」/エドワード・ノートンと、陽気で暴力的で危険な犯罪者的性格のタイラー/ブラッド・ピットとは同一人物であったということ、が。

ウィキペディア日本版の『ファイトクラブ』の記事では、「僕」と「タイラー」との関係を、「僕」にとってタイラーは「理想の全てが詰まった存在であり、自分を変えるために生み出したもう一つの人格(オルター・エゴ)だった」と記述している。言いえて妙である。このことは、映画『遠い山なみの光』のなかでの悦子/広瀬すずと佐知子/二階堂ふみとの関係にそのままあてはまる。

こうした二人が一人(1+1=1)という関係の映画はこれまでもいくつもあったように思うのだが、ぼけ老人にはすぐにあれこれ思い浮かばない。かろうじて思い出したのが、日本映画『ブルーアワーにぶっとばす』(1999年、箱田優子監督)である。主人公/夏帆は、故郷の茨城県に、女友達/シム・ウンギョンと旅行するのだが、ずっと行動を共にした友人が、最後に、実はいなかったということがわかる。主人公の女友達は、主人公の空想上の存在であり、主人公のソウルメイトでもあり、オルターエゴでもあった。このことも映画『遠い山なみのの光』における二人の女性の関係にあてはまるだろう【なお『ブルーアワー』では伊藤沙莉が歌うますぎて驚いた】。

悦子/広瀬すずにとって、佐知子/二階堂ふみは、ある意味、彼女にはできない/彼女があこがれる生き方をしている、まさに悦子のあこがれと理想的が詰まった存在である。またすでに一女をもうけている佐知子/二階堂ふみは、妊娠中の悦子/広瀬すずにとっても、母親的な信頼のできる先輩女性でもある。

悦子は、もと音楽の教員だったらしく、バイオリンが演奏できる。つまり、いわゆるええところのお嬢さんであり、戦後は公団住宅というか団地住まいでつつましい生活をする専業主婦であり、夫(緒方二郎/松下洸平)のネクタイを締めてやり、靴紐も結んでやるという、戦前の伝統的な女性像に忠実である注1。そんな悦子にとって、奔放な生き方をする佐知子は、悦子自身がめざす規範的な女性でもある。実際、映画のなかでは「子供を言い訳にしない」という佐知子の言葉を、悦子自身も、夫に対してぶつけることからも、佐知子の生き方なり考え方が、悦子に影響を与えていることがわかる。

もちろん悦子と佐知子は同一人物であることが映画の最後にはわかる。悦子にとって、佐知子は彼女のソウルメイトでもありオルターエゴでもあった。では、悦子は、娘のニキに、長崎での過去の出来事を語るのに(それはまた彼女の夫、ニキの父親でもある英国人のジャーナリストとの出会いを語ることもであったのだが)、なぜ、そんな別人を捏造し、別人を通して自分のことを語ったのか。なぜ自分のことを三人称どころか別人として語ることになったのか。

新しい女
映画では英国のグリーナム・コモンでの女性たちの抗議運動のことが触れられる。次女のニキは、それを取材しているジャーナリストでもあるという設定である。1982年という映画の設定は、この運動への言及を適切なものとしている(原作にはない)。またニキ自身、結婚を人生の目的とはしないで、女性にとっての新しい生き方を模索している。

グリーナム・コモンでの女性たちの抗議活動にはまったく興味を示さなかった母親の悦子だが、またそれがニキをいらだたせることにもなったのが、1952年当時を回想することによって、悦子もまた、そうしたフェミニズム運動とはまったく無縁ではなかったことが示唆されることになる。

そして〈アナグロニシス〉すなわち悦子=佐知子だったことを考慮すれば、悦子自身、実は、新しい生き方を模索し、実践する新しい女であったことが映画の最後にわかるのである。

では悦子にとって、あこがれの女性であり、みずからもそうであった女性でもあった佐知子が、いっぽうで、なぜ悪女的に語られ描かれなければならなかったのか。

それは保守的父権性的男性中心社会(日本が典型だが、いまなお世界中にそうした社会は存在している)において、「新しい女」が帯びる負のイメージを登録しておく必要があったからであろう。またその負のイメージは、「新しい女」であった悦子が経験しなければいけなかった差別と試練そのものでもあった。

フェミニズムは、保守的男性側からの抵抗と攻撃にさらされつづけてきたことはいうまでもないが、そのとき「新しい女」はどういう汚名を着せられたのか。

1)ひとつには、性的に奔放な女性である。それは娼婦もしくは娼婦的女性へとつながる。家庭に閉じこめられ、夫しか男性を知らず、夫に守られ夫に信頼を寄せるといえばまだ聞こえはいいが、夫に隷属しているだけの女性が美徳の女性とされる社会や世界観では、家の外に活動の場を求め、男と対等の立場で仕事する女性は、良妻賢母ではない女性、つまり尻軽女、街の女、娼婦なのである。実際、映画では佐知子がなにをしている女性かわからないが、派手な服装をした男を拾う街娼というイメージはある。

また映画でも原作でも佐知子はフランクというアメリカ人(おそら軍人)と結婚してアメリカに移住することになっているが、要は米兵相手の「パンパン」である【この「パンパン」は蔑称であるが、それが使われた時代が遠い時代となったために、侮蔑語としてのリアリティは失われているのでここで使わせてもらう。実際、いまの若い人たちは、この言葉は知らないだろうし、知らなくていいのだが】。映画のなかで佐知子はパンパンかもしれないが、彼女が悦子と同一人物だとすれば、悦子は街娼の汚名を着せられていたかもしれない新しい女だったのである。

2)また母性の欠如というのも新しい女への避難の常套句でもあった。家から外に出る女性は、当然、子供の育児や教育をないがしろにするというイメージがある。そもそも新しい女は母性性を欠落させた不良品である。性に奔放で、男たちとのセックスにあけくれるような女性たちは、自分の子供を省みることはなく、また妊娠を最も忌み嫌い恐怖する。母性性を喪失したモンスター、それが新しい女たちである注2。なお新しい女に独身女性が多いのは、結婚制度への異議申し立てあるいは懐疑のためとは思われず、ただ、男にもてないブスだからというイメージもある(先の街娼・パンパンのイメージとは逆に)。

また映画のなかで佐知子が子猫を殺すところは(猫というのは長崎らしいのだが、なにも殺す必要ないと思われるのだが)原作でも映画でももっともおぞましい場面であるが、もしそれが捏造でなければ、猫に対して象徴的に示される母親の残忍さと子捨ての母親というイメージが後年万里子を自殺に追いやった遠因ともいえるだろう。そしてこれもまた悦子が、佐知子を悪魔化し、悪魔祓い的に自分から切り離し、自己防衛行為のひとつなのである。

3)外国かぶれ。新しい女は、日本古来の大和なでしこの伝統を捨て、外国産のフェミニズム思想に染まった外国かぶれのバカ女であるというイメージもある。映画のなかでも原作でも、佐知子は、戦前から英語を学んでいて、父親からもディケンズの『クリスマス・キャロル』の本をもらって、それで英語の勉強をしようとしていたのが、戦争になり、敵性言語である英語を学ぶことを禁じられたという。だがその英語の知識は、通訳として米兵に接するときに役になったということだった。それがほんとうに通訳なのかどうか定かでない。しかし、佐知子=悦子とみれば、悦子は通訳の仕事をしていて、英国人特派員と知り合いになったことは、まちがいないとわかる。しかし、1+1=1という発見までは、佐知子がパンパンとして米兵に接していたのではないかという疑念を映画ははらしていない。外国かぶれ=パンパンなのである。
【『クリスマス・キャロル』の本の話は印象的なのだが、1982年、悦子の次女ニキは、母の持ち物のなかに、この『クリスマス・キャロル』の本を発見する。この発見、この〈アナグロリシス〉も衝撃的であり、佐知子は、実は、母、悦子だったことが、ニキにわかるのである。】

もちろん外国かぶれというのは街娼のイメージと結びつくだけではない。それは当然、純正の国産品ではない、輸入品であり、日本古来の伝統とは無関係な非純正品あるフェミニズムに魂を売った愚か者というイメージともむすびつく。古来から日本の女性は男につくすことを美徳と感じただけでなく喜びも感じていたのであって、それを男性による虐待だの、女にも生き方を選ぶ権利があるなどと考え方は外国の悪影響そのものであるという保守派の考え方と結びつく。

映画のなかで悦子はなにか記憶喪失になっているところがある。原作の小説でも同じだが、義父/三浦友和から、悦子が義父の家に遊びに来たとき、真夜中にバイオリンを弾いたというのである。近所迷惑にもかかわらず。義父はそれを面白い思い出として語るのだが、悦子は、そんな傍若無人なふるまいに及んだことを覚えていない。それは映画のなかでの悦子の性格からも想像しがたいところである。たとえ、悦子が、なんとなくそれを思い出したとしても。

あるいは映画では語られていなかったが、小説では、アゼリア【日本語でどういうのか、アゼリアのままでいいのかもしれないが】が好きな悦子は、義父の住んでいる家の玄関周辺にアゼリアを植えるように、義父をまるで雇われた庭師であるかのように、命じたというのである。悦子はこのことも覚えていない。だが義父は、悦子の威圧的な態度をはっきり覚えている。悦子もそんなことがあったかもしれないと徐々に思い出す。

このエピソードは、1952年の彼女の今からは想像できない、激しい性格、威圧的な態度、自己中心的なところがかいまみさせるものとなっている。と同時に、そうした激しい性格を彼女はもともともっていたのだが、1952年の段階では専業主婦の生活のなかで抑圧するか忘却していたとも考えられる。それが佐知子との出会いを通して、思い出し、本来の自分を取り戻す途についたということになる。もとより佐知子=悦子なので、彼女は、自己再発見へと至り、夫に忠実なのではなく、自分自身に忠実な生き方を選択しはじめるということになる。ただの外国かぶれではない。また「佐知子かぶれ」でもないのだ。

娼婦、非母性性、外国かぶれ――こうした汚名を、新しい女たちは、必ず着せられたし、また彼女たちは、その汚名を晴らそうと苦闘した。必ずそこを通過せねばならない試練のようなものだったが、しかし、そのような試練は、汚名などは、最初からないほうがいい。娼婦、非母性性、外国かぶれ――こうした汚名は、佐知子があたかもスケープゴートのように背負わされるといっていい。またそれが佐知子という分身を悦子が造らざるを得なかった理由なのだが、実は、もうひとつ、新しい女たちが、それとは一線を画そうとしていた汚名があった。それが

4)レズビアンである。原作でも映画でもそうだが、悦子は、佐知子という女性と出会うことで、彼女に魅力を感じ、彼女に惹かれてゆくのである。彼女の奔放な生き方に感銘を受けたのかもしれない。実際、佐知子の語ることは、ほとんど嘘か捏造であると思うのだが、それでも悦子は佐知子から離れることはない。

これは不良に惹かれる優等生という昔からあるパターンともいえる。そして新しい女は「不良」なのである。優等生をたぶらかす不良。だが優等生のほうでも、不良は不良とわかっていても、惹かれずにはいられないという古典的なパターンの再来なのか。

もちろん優等生事態を把握していないのではない。優等生にとって不良というのは、自身にないものをもっている優れた存在、あこがれの存在なのだ。またそれゆえに、優等生にとって不良は、自分を変えるために、あるいは自分を向上させるために必要な同一化の対象なのである。

同一化といえば、『美しい夏』の記事でも触れたが、同性に同一化する場合、それは同性愛ではない。同性愛者は、異性と同一化し、同性を所有の対象として愛するのである。たとえば私(男性)が、女性のようになりたいと思い、女性のようになって男性に抱かれたいと思えば、私はりっぱな同性愛者である。私(男性)が、ほかの男性にあこがれ、ほかの男性のようになろうと努力し、そうして女性を抱こうと思えば、私はりっぱな異性愛である。したがって同性と同一化することは、同性愛とはならない。

事実、映画のなかで佐知子にひかれる悦子は、佐知子のようになりたいと思っているだろうが、しかし、佐知子と結婚したいと思っているわけではない。悦子は夫と離婚に至るようだが、その後、英国人男性と結婚するわけで、女性の共同体なり共同生活をめざしているわけではない。だから、悦子と佐知子の関係は、女の友情でありつづけるのである

だが、たとえば、異性(女性)と一体化して同性(男性)を愛したい私(男性)が同性愛者だとしても、男性のなかにいることはとくに苦痛でもなんでもない。私(男性)は同性愛者であるとして、男性と同一化したくはないのだが、男性のなかにいることは苦痛ではない--自分が女性っぽいと差別されない限りは。つまりホモソーシャルな集団のなかにいることは、男性同性愛者にとっては苦痛ではないことが多い。いっぽうホモソーシャル集団を構成する異性愛者にとって、同性愛者が混じっていることは問題で、同性愛者はその集団からは排除せねばならない。したがって異性愛者の集団であるホモソーシャル集団は、それが排除しようとしているホモセクシュアル的なものにつねに侵蝕され、ホモセクシュアル的なものに反転する可能性が常にある。

したがってホモソーシャル集団は、異性愛者と同性愛者を、友情と愛情を峻別しなければ成立しなくなるために、異性愛者はホモソーシャル集団のホモセクシュアル化をますます警戒し排除を強める。いっぽう同性愛者は、友情と愛情の区別を消滅させる。あるいは友情を愛情の隠れ蓑にする。ただし、これは男性ホモソーシャル集団のことであって、女性の場合はすこし違ってくる。

そもそも女性の場合は、女性ホモソーシャル集団における友情と愛情の区別は留意されず、なし崩しにされることが多い。女性の場合、友情は容易に愛情へ横滑りする。また先ほど述べたことだが、異性愛者は同性と同一化し異性を愛するという図式は、基本的に男女両方にあてはまるのだが、女性の場合、たとえば古典的な「女性に同一化する女性Woman-identified Woman」宣言があるように、女性同士の連帯は(男性のホモソーシャル関係が簡単にはホモセクシュアル関係にならないのとは対照的に)容易にレズビアン関係に転化する。「女性に同一化する女性Woman-identified Woman」宣言は、レズビアン・フェミニズム宣言だった。

男性ホモソーシャル連続体の個々の男性メンバーは、女性をパートナーとするのだが、それによって女性のホモソーシャルな連帯を切り裂き分断させる。保守的な男性にとって家庭に閉じ込めている自分の妻(専業主婦)が、近所の主婦たちとしている井戸端会議ほど恐ろしく嫌悪すべきものはない。女性たちは連帯を拒まれている。それゆえに女性たちの連帯を宣言することは父権制に対する強烈な抵抗となる。

しかも「女性に同一化する女性Woman-identified Woman」宣言は、レズビアンであることを誇りに思うという宣言でもあった。そしてこれは過去の女性運動におけるレスビアンの扱いとも関係していた。

19世紀から20世紀にかけての第一波フェミニズムの息の根をとめたのは、男性側からの新しい女はレズビアン(倒錯者)であるという非難だった。1950年代から60年代にかけて始まる第二波フェミニズムにおいても、フェミニストたちはレズビアンとは一線を画していた、というかレズビアンを嫌悪していた。それゆえ「女性に同一化する女性Woman-identified Woman」宣言は、男性だけでなく、フェミニズム内にもある同性愛嫌悪の流れに異議申し立てをするものであり、それは男性をパートナーとする女性フェミニストよりもレズビアン・フェミニストのほうこそ真正なフェミニストであるという過激な主張でもあり、また男女両方にある同性愛的欲望の解放をめざすものであった。

こうしたことを踏まえたうえで、映画に戻ると、『遠い山なみの光』においては佐知子に出会った悦子が、佐知子に恋をしはじめることが暗示されているとわかる。

事実、佐知子の住んでいる小屋は、川べりにある。川はつねにみえている。そして川にまつわる物語。川に自分の子供を沈めた母親の話。川に子猫を沈めて殺す佐知子。

長崎は、坂道とネコと豚の角煮饅頭(卓袱料理もというべきか)とチャンポンだけの町ではなく、川の町、港湾と造船の町、つまり水の都=ゲイ・タウンでもある注3。水と同性愛とのイメージ上の結びつき。原作も映画も、悦子と佐知子の関係をレズビアン的なものとしてみているのである。

と同時に、新しい女にとって、レズビアンという汚名は、現在とは異なり(今だったら「レズビアンで何が悪い」あるいは「レズビアンというのはかっこよすぎ」という反応だろうが)、汚名でもあった。まさに新しい女に着せられる汚名をすべて佐知子にスケープゴート的に背負わせるという、悦子の語りの佐知子捏造戦略がここでも作用している。1982年でもむつかしかったかもしれないが、1952年ではなおのことむつかしかったレズビアンの認知は21世紀に持ち越され、悦子にとってレズビアン的愛の対象でもあった佐知子は、最後にはネコ殺し・子捨て女として悪魔化されて消されてゆく。そもそも悦子=佐知子であった――とすれば悦子は、内なる佐知子、内なるレズビアン的欲望を外に出しながらも埋葬したのである。

侵蝕
悦子と佐知子が別人であると想定して、時系列にそって映画の物語を整理してみる。

1952年長崎、緒方悦子/広瀬すずは、戦中は学校教師として音楽を教えていたが、校長の息子緒方二郎/松下洸平と結婚し、今は団地住まいの専業主婦として、初めての子供を妊娠して出産を待つ日々を送っている。そんなとき川べりの野原に建つ小屋で暮らす佐知子/二階堂ふみと出逢う。佐知子には万里子/鈴木碧桜という娘がおり、悦子は佐知子の奔放な生き方に惹かれ友情関係を築き上げる。佐知子はフランクという米兵と、娘を連れてアメリカに移住することになっていた。そのため神戸に行くために荷造りをしている夜、万里子が飼っている子猫を連れて行けないと殺す佐知子。死んだ子猫が入った箱が流れていくのを追いかける万里子。万里子のことが心配で、後を追う悦子……。

ここでこの物語は途切れる。違う別の物語が侵蝕する。なぜなら万里子は、佐知子の子供ではなく悦子の子供だとわかる。というか佐知子は悦子だったとわかる。

悦子と佐知子が同一人物だと想定して時系列に沿って映画の物語を再構成する

1952年長崎、緒方悦子は、戦中は学校教師として音楽を教えていたが、校長の息子緒方二郎と結婚し、今は団地住まいの専業主婦として、初めての子供を妊娠して出産を待つ日々を送っている。やがて長女万里子を出産するが、たとえ軍国主義者の父親を嫌う夫だとしても、古い父権性的な考えを脱しきれてない夫のもとを、悦子は万里子をやがて連れて去る【悦子が被爆者だったという秘密が露呈して離婚に至ったという可能性も映画では示唆されている】。

万里子との二人暮らしのなか、英語の知識がある悦子は、通訳として働き、そのなかで英国人の特派員と出逢い、結婚する(このあたりは佐知子の生きざまと重なる)。おそらく日本に永住してもよいと考えた夫の意に反して、悦子は嫌がる万里子/景子を連れて夫とともに英国に移住する。日本在住時か、英国移住時に次女ニキ/カミラ・アイコが生まれる。英国での平穏な日々のなか、夫が死去。

以下は小説における語りから推測した内容。映画では示されることはない。夫と死別した頃には、長女の万里子/景子は引きこもり状態となって父親の葬式にも出席しなかった。やがて彼女は家出をし、滞在中のホテルの一室で首をつって自殺する。自殺直後なのか、自殺後何年たったのかわかりないが、ロンドンの大学で勉強をし、ジャーナリストになったNikkiが久しぶりに独り暮らしの母親を訪ねて来る。母親から長崎にいたころの思い出を聞き出し、なぜ英国に英国人の夫とともに移住するようになったか、当時の日本における「新しい女」(という言葉は使われていないが)の生き方を記録する本を執筆しようとしている。

ニキが母親から聞いた話が、映画の長崎での物語となる。ただニキは、母親が日本からもってきた持ち物をさぐるうちに、母、悦子の話にでてくる佐知子が、実は、母のことだったことを発見する。ニキはこの発見を母と静かに共有し、母の生き方をあらためて振り返りかみしめながら、実家を後にしてロンドンに向かう。

ニキにとって、母、悦子は信頼のできない語り手だったが、母のついた嘘あるいは捏造が判明することで、ぼんやりとした景色が晴れ上がるような、ある種の爽快感を映画はあたえてくれる。そして映画による原作の改変というよりも、大胆な解釈と翻案には衝撃をうけつつ、原作に対する深い読みと、原作の不穏な感じの拠ってきたるとこを解明するその知的な解析には、多くの観客がおそらく私のように驚き、なかには私のように羨望の念すら抱く観客もいよう。

映画をご覧になった方とは、ここでお別れしたい。以下は、原作を読んだ方へのコメントである。

映画が原作を、ある意味、整合的に解体・再構成したことは、原作に対するリスペクトがないのでは(たとえ映画化というのは、そうしたものだとしても)と思われるかもしれないが、整合的な解体・再構築によって、実は、原作の不気味さ、不穏な感じがかえって際立ったところがあり、原作の特質(不気味さ、不穏な感じ)を、なにか原作に忠実な映画化よりも、はるかにをよく伝えることができたのではないかと思わずにはいられない。実際、原作を読み、この映画に接した観客なら、はたして原作は、映画の大胆な解釈にすべて回収されてしまうのか疑問を抱かざるをえないのではないか。

たとえば、映画の最後の方、おそらく死んだ子猫たちの箱が流されてゆくのを追いかけて姿を消した万里子を、悦子は心配になって追いかける。そして船着き場のようなところに係留してある小舟のなかに万里子がいることを悦子は発見する。この後、万里子は、悦子のことを「お母さん」と呼び、万里子と悦子(佐知子と悦子ではなく)が親娘関係にあることが観客にわかる。この〈アナグロリシス〉は、衝撃的などんでん返しであって、観客は、映画全体の物語を見直すことを余儀なくされる。ただし原作では、この場面で、万里子と悦子が親と娘であるとはわからない(第10章の末尾のセクション)。

実際、その箇所をじっくり読み直してみると、万里子に追いついた悦子と、万里子との会話は、明日旅立つ佐知子と万里子、それを見送る悦子の会話ではなく、明日旅立つ佐知子と万里子の、まさに親娘との会話に読めなくもないのだ。この場面で語り手である私は万里子に「あなたがあっちへいって嫌だったら、私たちはすぐに帰ってくるのだから」(“If you don’t like it over there, we’ll come straight back”(p.173)と約束する。「私たち」というのは誰のことか。悦子と万里子のことではなく、佐知子と万里子のことではないか。

このセクションの他の部分もふくめてふたりの会話からは、後を追ってきた悦子と万里子ではなく、佐知子と万里子のやりとりであることが濃厚にうかがわれる。実際、このふたりを、悦子と万里子の母子関係と解釈した映画は、実に的を射た解釈をしていると感服せざるをえない。

だが、それだけではない。このとき万里子は、佐知子の足首についているものを指摘する:“Why are you holding that?”と。私は“This? It just caught around my foot, that’ all.”と答えるのだが、万里子はさらに“Why are you holding that?”と問いを繰り返す。私は“It caught around my foot. What’s wrong with you ?”と同じ答えをして笑いとばす。しかし万里子は、私がいぶかるほどに、私のことをじっと見ているのである。

映画でもこの場面は再現されていた。川べりの草むらをかけてきた悦子の足にまとわりついているのは、紐ようなものである。原文では紐とは書いていない。何かがまとわりついていて、万里子はそれをじっとみているのである。映画では紐切れのような形状だった。

この紐のようなものは、原作では前にも悦子の足首にまとわりついていた(これは映画には出てこないが)。そしていま、万里子がそれをじっとみている。この紐は、彼女が英国のホテルの一室で首を吊る紐を予見するものだった。万里子には未来を観る能力があって、映画ではこのあと、長崎の市電の窓ガラスから、自分の母親の未来の姿を街でみかけるのである。そしてそれはまた自分の母親が死の天使であることを予見しているかのようであった。

そういえば万里子が会ったという若い女は自分の子供の首をしめて川のなかで溺れさせ、自分も自殺していた。彼女が幼い頃に出会ったか、妄想したかもしれない女は、未来の母親の姿でもあったかもしれない。

ちなみに映画では紐ははっきり見せていて、英国に渡った万里子がやがて縊死することの予言となっている。万里子は自分の運命を、死とそこで出会っているのだが、映画では悦子の長女が英国で首をつって自殺したと語られるだけで、映像化されているわけではないので、観客は紐と縊死を結びつけないかもしれない。しかし、結びつかないほうがよいともいえて、足首にまとわりついている謎の紐は、解決できない、もやもやとした謎として受け止めることこそ映画の意図かもしれない。たとえば原作でも映画でも子供を狙った連続殺人事件が起こっているが、それが何であるのか未解決のまま終わっている(悦子が、万里子のことを常に気遣う原因になるというだけで、子供の連続殺人事件が登場しているとは思えないのだ)。

そうした処理に困る、名状しがたい未解決な要素は、映画そのものが原作から引き継いでいる。そして映画が、原作のもつ曖昧なところに、人物の二重性を持ち込んで高度な解釈をおこない、ある程度すっきり整理してくれたおかげで、同時に、解決できない不気味な要素や名づけえない要素も残すこととなった。それは大胆な翻訳にもかかわらず、原作の雰囲気を残そうとする、ある意味、リスペクトに満ちた翻案であることを証明してみせた。

いっぽう原作の読者でもある観客にとっては、原作のぼんやりしたところが整理された爽快感とともに、映画以外の解釈はないものかと考える以上に、映画化ではとりこぼされた要素や謎について気になってしまう――たとえ映画も謎めいたところは温存しているとはい
え。

原作について、私には映画以上に大胆な解釈を出せる用意も能力もない。むしろ、謎の深まりのなかに身を置いてこの作品の不気味なところ――実際、私は、原作の小説をポストモダン的ホラーだと思っている――にについて、いずれは再考してみたい。

映画を観た後、原作に向き合おうとする私が抱いているイメージとは、コンラッドの『闇の奥』の有名な末尾と同じようなものである。ぼんやりとした遠い山なみの景色。水墨画のような薄墨がにじんだような山なみの景色は、もう消えかかっている。そのかわり明晰な輪郭が浮き上がるのではなく、むしろ、どす黒い暗黒の闇が周囲を満たすように思われる。迫りくる大きな闇が私たちを覆い隠すときに、そこにどのような景色があらわれるのだろうか、いや暗黒につつまれ消えてゆくのだろうか。


注1 原作の小説にはない映画だけの話なのだが、悦子は、夫の靴紐は結んでやるのに、夫の父親/三浦友和は自分で靴紐を結ぶ。このことは映像的にも強調されているのだが、なぜそのような違いが生ずるのかは不明。ひとつの解釈だが、たとえ義父は夫と将棋をさしたり、悦子が弁当をつくったり、悦子といっしょに散歩に出かけたり、長崎の平和の像を観たりするのだが、ほんとうは存在していない、悦子にしか見えない、あるいは悦子の頭のなかにある亡霊のような存在ではないか。義父のことを「緒方さん」と呼ぶのもおかしい。また確かに軍国主義を主導した学校の校長であり、いまお右翼民族主義と封建的な考え方を捨ないこの義父、そして悦子が忘れたか抑圧していた過去のエピソードを思い出させるこの義父は、比喩的に過去の亡霊なのだが、文字通りにも亡霊だった可能性がある。ただこの点は追究するのは、話がさらにややこしくなるので、やめる。

なお、「緒方さん」について、原作でもOgata-sanとあっておかしいのだが、これはイシグロが日本語を話すことができず、日本のことを知らないからと多くの読者は考えることだろう。直接耳にしたわけではいが、この映画を観たある人が、映画館からの帰り際に、ご婦人たちが話しているのを耳にしたのだが、それによるとカズオ・イシグロは芥川賞をとっていたのではご婦人方のひとりがとコメントしたのだが、それに対して同伴していた女性たちが誰も突っ込まなかったとのこと。カズオ・イシグロは芥川賞ではなくノーベル文学賞をとったのであり、また最初から英語で書いている英国の作家で、日本の作家ではない。そのため日本を舞台にした作品に、変なところがあったりするのはいたしかたないと思っていた。義父のことを「さん」付けするのはおかしい。しかし、原作では、佐知子の幼い娘万里子のことも、「万里子ちゃん」ではなく「万里子さん」というのも変だったのだが、だが、これもイシグロの無知というよりも、意図的なものではなかったかと考え直すべきかもしれない。悦子は、亡霊には「さん」付けしているのである。この小説はゴーストストリーであるのかもしれない。


注2 映画『めぐりあう時間たち』(The Hours 2002年、スティーヴン・ダルドリー監督)のなかで、幸せな結婚生活(優しい夫と男の子、そして妊娠中)を送る専業主婦のジュリアン・ムーアが、にもかかわらず(ホテルでの自殺を思いとどまったあげくに)子供と夫を捨てて家出をするというエピソードを覚えておいでだろうか。時代は1951年。『遠い山なみ光』の1952年と同時代といってよい。

もう少し最近だと『ドント・ウォーリー・ダーリン』(Don't Worry Darling 2022年、オリヴィア・ワイルド監督)において、不満をかかえた主婦を男性が支配するファンタジー世界は冷戦期の始まりを告げる1950年代という設定だった。

1952年の日本というと、戦後の混乱が終わり、朝鮮戦争も終わりかかり、戦争景気によってはずみがついた日本が行動成長期へとはいってゆく、過渡的な時代であると、思われるのだが、この時期、西洋世界では、主婦の反乱が起こっていた時代でもある。それは、アメリカなどでのフェミニズム運動が起こる直前の時代あるいは黎明期であった。こうしたことも、原作でははっきりしないが、映画のなかでは取り入れられているとみるべきではないか。

あと『めぐりあう時間たち』で、ジュリアン・ムーアが家出をし、あとに残した一人息子は、二一世紀になって自殺をする(エド・ハリスがその成長した息子役だった--『ダロウェイ夫人』の物語に基づく設定だが)。新しい女とその子供の自殺は、『遠い山なみの光』のなかでも繰り返される。悦子=佐知子の長女の万里子は、イギリスでホテルの部屋で自殺する。〈新しい女〉と〈母性の欠如〉と〈子殺し〉は、たとえ保守的男性側からの悪辣な印象操作だとしても、新しい女に呪いのごとくとりついているともいえる。だから、映画のなかの悦子は、悪魔祓い的に自分から佐知子を切り離したともいえる。これが佐知子捏造の重要な理由のひとつである。

なお映画『めぐりあう時間たち』からの連想を敷衍すれば今述べた、ジュリアン・ムーアの息子で長じて自殺をする男性は同性愛者という設定でもあったのだが、そこから考えると、万里子の自殺の原因は、彼女が同性愛者だったということも論理的ではなく連想されるイメージから言えなくもない。

注3 映画『国宝』で女形の国宝ともなる喜久雄の生まれ故郷は長崎だった。これは原作者の吉田修一が長崎出身だからという理由だけではないように思われる。卓袱料理ではないが、長崎は、東洋と西洋と日本とが出会うコンタクトゾーンであり、異種混淆的なコンタクトゾーンは同時にジェンダー的にも異種混淆的であって、男女混淆的・同性愛的要素が顕著である。そこに水の要素が加わる。おそらくゲイ・タウンあるいはクィア・タウン長崎の文化史を書くことは可能だろう(すでに書かれているかもしれないが)。
posted by ohashi at 22:19| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年08月30日

『8番出口』

映画『8番出口』(川村元気監督)は、同名のゲームの映画化ということで、正直言って、引いた。ゲームがどのように映画化されるのかという興味で映画館に足を運ぶ観客もいただろうが、そうした観客は、肩透かしをくらっただろう。それはよいことで、この映画、予想外に、もう映画の古典ともいえる風格が漂っていた。

こんな浅薄なことを書いているネット記事があった:
原作の同名ゲームは主観で進行してゆくため、プレイヤーが“見ようと試みたもの”のみが画面に映し出されるという特徴がある。同様に、今作では迷える男の姿をカメラが追いながら、彼が“ヒントを見つけようとする”姿を映し出してゆく。基本的に地下通路は、同じデザインの通路が右や左に曲がりながら作られている。さほど差異がないため方向感覚も鈍ってくるのだが、やがて同じ通路を繰り返し歩いていることを悟った男性は、無限回廊に閉じ込められているのではないか? との疑念を抱くようになるのである。重要なのは、状況を明確にしないことで、観客に対しても道に迷っている感覚を訴求させている点。それによって迷える男性も観客も、脱出するための<謎>を解くべく数少ない情報に注視し始め、本来は受動的な芸術であるはずの“映画”なるものに対して、無意識のうちに能動的になってゆくという(ゲームに興じることと近似した)快感を導いているのである。

嘘をつくなバカヤローと言ってやりたいのだが、この映画はゲームを映画化して、ゲームの快感を、あるいはホラーを観客に伝えることなど二の次だということがわかる。もちろん挑戦的映像表現の試みはあるだろう。だが最終的には、この映画は迷路とは何か、迷路から出ることができなくなるのはどのような心的メカニズムが働いているのか、そこが重要になってくる。また映画がその内容を伝える最良の手段(つまり現在の観客に受けること、興収を上げることを考慮した手段)として、著名な迷路ゲームが選ばれたということだろう。

そしてこの迷路ゲームのプレーヤーとして特定の背景をもつ人物を選ぶことによって、今度は、迷路ゲームそのものに意味を与えることになった。その意味付けは、ゲーム好きにはどうでもいいことかもしれないが、逆に川村元気監督に人間ドラマとしての要素を期待する観客にとっては、著名なゲームを利用して主題を展開するその手腕に感嘆することになった。

実際、映画冒頭から、満員の地下鉄で通勤する若い男(二宮和也)が、別れた恋人(小松菜奈)から妊娠していま病院にいるという電話がかかってくる。その恋人は出産するか中絶するかを別れた恋人に尋ねようとしている。男は、煮え切らないというか要領を得ない回答をしているうちに、迷路に迷い込んで地下道から外に出られなくなる。

この展開は、どこかのバカが書いていた「本来は受動的な芸術であるはずの“映画”なるものに対して、無意識のうちに能動的になってゆくという(ゲームに興じることと近似した)快感を導いているのである」と言えるのか。観客のなかにいる男性は誰もが、この映画の二宮のように煮え切らなくて、自分が父親になることに抵抗があるものの、それを女に言えないどうしようもない、なさけない男というのだろうか。

なお映画のなかの若い男がなさけない男だと語っても、その人物を断罪しているのではない。そうではなくて、こういうキャラクターを出されてきては、ゲームに興じることと近似した快感を得るどころか、映画の内容、人物そのものに気が散ってしまい、ゲームどころではなくなるのである。

なかにはこんなコメントもあった:
……可もなく不可もなくという印象でした。/ゲームのシステムは分かりやすかったです。
異変も分かりやすくてその点は面白かったかなと思います。/心情のストーリーはありきたりでよくある流れだなと感じました。/カンヌ正式招待作品だったので期待しすぎてしまったかな。と感じました。

ここまで書かれるとゲームの部分はかなり迫力があったと反論したくなるのだが、主人公(実際には迷える若い男、歩く男、少年の三つの視点から描かれるのだが)の若い男をめぐる人情噺とゲームの世界は適合性がないかのように感ずるのはわからないわけではない。むしろ映画は「心情のストーリー」(もっとまともな言い方はなかったのか)を語る点において卓越していたと思う。

またなさけない男に対する断罪は、私たちがするのではなくて、ゲームそのものがやってくれる。実際、若い男が出られなくなる迷路は、この煮え切らなさに対する罰であるかのように思えてくる。彼が別れた彼女に明確に回答できるまで迷路からは逃れられないということは、観客誰もが予想することであり、その予想はあたっている。

なぜ迷路があるのか。男はなぜ出られないのか。それは若い男にとって、この迷路が罰であるからである。このゲームは、皮肉な言い方だが「罰ゲーム」なのである。

異変に気付いたら引き返すというのがゲームのルールなのだが、その異変(天変地異的なものまで含む)は、すべて若い男のこれまでの人生とつながっている。だとすれば、ゲームにおいて異変とは、ゲーム・クリエーター(上位の支配者)が仕掛けるものだが、この8番出口罰ゲームにおいては、ゲーム・プレーヤーが、自身の人生のなかで抑圧したか排除しトラウマになっている記憶を実体化させたともいえる。となると異変に気付けというのは、「汝自身を知れ」というメッセージであるし、異変に気付いたら引き返せというのは、「異変」を通して内省・回顧せよということである――自身の人生を。

つまりこの地下の通路/迷路は、彼の記憶の世界あるいは心象風景といってもいい。この出口なき通路は彼の出口なき内面なのである。したがってそこで出会う人物たちも、彼の人生と何らかの接点をもっている。

歩く男(河内大和)は、毎日ロボットのように通勤するサラリーマンの若い男の鏡像あるいは分身といってもいい。しかしそれだけではない。歩く男は、過去において若い男を見捨てた父親の幻影かもしれない。そして歩く男が中心となる第二章において、彼は少年とともにこの迷路を歩むのだが、最終的に少年を見捨てることになる。そうなると、河内は二宮を捨てた父親と同じような存在、あるいは父親そのものかもしれない。

少年を捨てた河内に対して、二宮は、あれはもう人間でなくなっていると言い放つのだが、その根拠は示されていないことがかえって河内が二宮の子捨ての父親である可能性が浮かび上がる。

だが歩く男は、二宮の分身でもあって、二宮もまた子供を捨てようとしていた(妊娠した元カノに中絶を暗にすすめているのではないか)、結局のところ、二宮が子供の父親になるのを躊躇しているのは、自分を捨てた(おそらく海浜、もしくは濁流のなか)父親のような存在に自分がなってしまうのではないかという不安あるいは恐怖のせいだとわかってくる。自分も父親のようなクズになってしまうと、生まれてくる自分の子供がかわいそうだという理屈である。

途中からあらわれる少年についても、同じことがいえる。少年は、父親に捨てられた二宮自身でもある。しかし少年は、やがて生まれてくる二宮の子供でもある。二宮自身でもあるとともに二宮の子供でもある少年。それは少年が、現在(二宮)と未来(息子)の両義的存在であるからであり、彼が二宮以上に異変に敏感に気づくのは、少年が未来からの使者であるからだ。少年は二宮を出口へと導くことのできる救済的人間であるとともに(自分の父親にお守りを手渡すのだし)、未来からやってきたので結末を知っているということもいえる。

【実は、この映画の設定は、父を探す息子であり、また息子を探す父という、父と息子にかかわるテーマともつながっている。映画では自分、父親、息子の三人が登場する。息子を探す父親と父親を捜す息子のテーマは、有名なところでは、たとえばシェイクスピアの『間違いの喜劇』、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』がある。ただ、これについては、いずれ語ろうと思う。】

若い男とこの少年とのかかわりは若い男を決定的に変えることになる。濁流に飲み込まれるという異変において、若い男は、自分を犠牲にして少年を助ける。ここには二重の意味がある。おそらく若い男の父親も、そのようにして自己を犠牲にして息子を助けて死んだのであって、若い男を見捨てたわけではなかった。少年を見捨てた歩く男(河内大和)は、若い男がいなくなった父親に投影した悪人像でもあったのだ。父親の自己犠牲を知った若い男は、今度は父親となって、自分の息子を助けるのである。それはまた元カノの妊娠と出産を祝福することでもあった。幻想なのかで、若い男とは、元カノとその幼い息子と海辺で戯れる。若い男は生まれてきた息子をおそるおそるかわいがる。濁流による溺死が海辺の親子の水遊びに昇華されたのである。

ちなみに、若い男が喘息持ちであるということは、演ずる二宮和也のアイデアで台本に付加されたとのこと。主人公に、喘息持ちという負荷をかけることで、緊迫感を増すことにしたという記事があったが、理由はそれだけではないだろう。若い男は、終始、濁流/記憶のなかで溺れかかっている、窒息寸前なのである。父親が濁流のなかで自分を見捨てたというトラウマのなかで溺死しそうになっていた若い男は、濁流のなかで自分を助けてくれたのだと悟ることで、窒息/トラウマから解放される。事実、喘息持ちの設定は映画の終わり近くになると消滅しているのである

映画のなか、この迷路のなかで若い男が出会う人たちは、彼の人生のなかでなんからの意味をもった人たちであったが、同時に、全員、彼自身の分身あるいは彼自身でもあった。この迷路のなかで彼は、自分と出逢っている――抑圧してきた、あるいは逃げてきた、あるいは怒りをぶつけてきた、自分自身と出逢っている。そして自分自身と和解すると同時に、彼の人生でかかわりあってきた人びととも和解する。

まさにこの8番出口へと向かう迷路は、彼にとっても罰ゲームであり、同時に、彼を人生と和解させる救済の無限回廊でもあった。

付記:
1映画としてみると、俳優が思いのほか素晴らしくて圧倒された。二宮和也の演技力は折り紙付きだし、河内大和のそれは、不気味さと人間らしさとのスイッチの切り替わりが見事で、あらためてその演技力に感嘆した。小松菜奈は、残念ながら役柄上、あまり見せ場がなくて、残念だったが、花瀬琴音、出番は少なくて不気味な役どころだったが、存在感があって惚れた。実は、以前、なにか映画でみたことがあると思っていたが、どこだか思い出せなかった(ドラマでは、「どこかで会った記憶があるがどこか思い出せない」という人物によくおめにかかるが、そういうとき、筋に関係する重要なことに決まっているから、じらさなくて、早く思い出せ、このバカヤローと心のなかで叫んでいるのだが、同じ叫びを自分自身に対して発することになった)。あとで調べたら『遠いところ』(23)の主人公。あの沖縄のリアルを描いた映画(このブログでも過去に絶賛している)の主人公だったとは。『九龍ジェネリックロマンス』を観に行くことにした。

2迷路のなかの異変として、電灯が消えて真っ暗になり、そこに不気味な生物がうごめくという、さすがに観ていて気味の悪さに声を出しそうになったのだが、あの超不気味な生物(腹に人間の耳が埋め込まれたりしていた)は、実は若い男が地下鉄のなかで観ていたネット記事に登場していた。この8番出口への連なる迷路は、ネットの世界という迷路でもあった。ネットは出口なき迷路なのだということかと、思わず、拍手しそうになった。
 と同時に、ネット記事でみたものが自分の経験のなかにしまい込まれ、それが恐怖のイメージとして登場するというのは、この8出口迷路は、主人公の夢の世界だともいえる。昼間みた強烈なイメージが記憶に残り、夢のなかに出てくる。実際、この映画全体、迷路ゲームそのものが主人公のみた夢の世界という解釈もできる。悪夢の世界の彷徨の何が楽しいのか(ゲームとして)と思うのだが、その恐怖はどこか喜びでもあって、たえずそこに立ち返る。それが出口なき迷路ゲームの醍醐味なのかもしれない。
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2025年08月26日

『メルト』

先に『ルノワール』についての記事で、少女物というのが映画における伝統的発明であると語った。最近、CSで小沼勝監督の『NAGISA』(2000)を放映していて、これが『ルノワール』のインスピレーション源かと納得した。もちろんインスピレーション源はそれだけではないとしても、それが放送されたということは、映画『ルノワール』を意識してのことだろうから、まったく無関係ということはないだろう。

恥ずかしながら、この映画は初めてみる映画で、少女物の映画として並々ならぬ興味をもってみた。Wikipediaはこんなふうに内容を紹介している:
1960年代。舞台は江の島。なぎさは、居酒屋を営む母とふたりで暮らす12歳の女の子。漁師の父を4年前に亡くしているが青春まっただ中で元気満開。その年の夏休みは生涯忘れられない夏休みになる。/なぎさが海の家でバイトを始めたのはレコードプレーヤーを手に入れるため。海の家を経営する叔母の不良娘・麗子に影響されてパーマをかけたり、麗子の彼氏とアメ車でダンスパーティーに行ったり、東京から帰省中の金持ちの美少女・真美に意地悪をされたり、東京から来た病弱な少年・洋と出会ったり、毎日が様々な出来事満載。砂浜への漂着物を拾うのが趣味の洋に泳ぎを教えているうちに生じる恋心、そして初キス。でもその洋は溺死してしまう。/いろんなことがあった夏の終わり。レコードプレーヤーを手にしたなぎさは、少し大人になっていた。

たしかに湘南を舞台にしているのだけれども、今とは違ってさびれた観光地みたいな湘南海岸にはちょっと驚くのだが(2000年の作品とは思えない、映画の設定である1960年代に制作された映画にみえる)、少女の夏休みの経験を描くこの作品は、まさに『エトワール』の原型ともいえる。『エトワール』のほうは、『NAGISA』の主人公に、少女らしさ(子供らしい冷酷さと大胆さと)を加えて、さらにあくどい作品となっている。なおWikipedia の説明の最後にある「少し大人になっていた」は、物語上そうみえるが、成長はしていない。成長はしていないからこそ、『NAGISA』は少女物映画の古典的作品ともいえるのだ。

ただし『ルノワール』とその系譜的作品だけが少女物の映画ではない。たとえばいまもなお上映中の映画『メルト』(2023)は、『ルノワール』や『NAGISA』とは大いに趣が異なるように思われるのだが、しかし、まぎれもなく少女物の映画である。それはなぜか。

予備知識なく、この映画をみたので、映画の最後のほうになってはじめてタイトルの『メルト』が「溶ける」を意味する英語なのだとわかった。だが、なぜ英語なのか。そもそも、原題はなにか。リゼ・スピット原作のタイトルHet Smelt(オランダ語)を映画のタイトルにも使っている。このタイトルは英語だとThe Meltingという意味らしい。ちなみにこの映画の英語タイトルはWhen It Meltsである。

映画は13歳の少女の過去と10年後の23歳になった若い女性のふたつの現実を交錯させて提示しながら、10年前に起こったことを徐々に明らかにしてゆく。23歳の彼女がなぜかたくなに心を閉ざし親の世代を目の敵にしているのか。彼女にとって友人(おそらくはレズビアンの恋人)がその友人の両親と仲良くすることすら許さないのはなぜか。そして現在の彼女が大きな氷の塊を車に積み込んで移動しているのはなぜんか。

10年前の出来事に少しずつ光を当てながら、なぜ10年後の彼女がこうなったかが解明されてゆく。その出来事はある意味、驚愕的な出来事で、心身ともに彼女を深く傷つけたことが最後にわかる。

映画を観ながら特殊性と普遍性の交錯に巻き込まれた。子供というのは、どれほど無垢であどけないものであっても、一皮むけば、冷酷で自己中心的で欲望丸出しのミニ怪物であるとはいえる(残酷な普遍性)。しかし私の子供時代は、私も周囲の子供たちも、ひどいところは多々あったが、幸いにも、ここまでひどいことはなかった。その意味でこの映画のやや常軌を逸した特殊な世界においては、無垢な子供は傷つかずにいられない。彼女の深い心の傷は同情に値するが、環境が悪かったせいかもしれない(異様な特殊性)。

とはいえこの映画の世界は超自然的な驚天動地の異様な事件が起こるような、悪魔に支配され暗黒世界ではなく、ベルギーの地方都市の何気ない日常的世界である。そんな平凡な日常のなかに隠蔽された犯罪がこの映画のテーマである。となると、この一見、異様な、不幸な出来事も、実は、表面化しないで、常時発生しているのではないか。いやそれだけではない。誰もが、この少女が経験したような苦難を経て成長しているのではないか。一見、異様な特殊な事件を描いているかのようで、その実、どこにでもある、誰もが体験している、苦難を描いているのではないか。なるほど、それはトラウマになるほどの悲惨な体験である。だが、程度こそ異なれ、誰もがトラウマを抱えている。そのトラウマを抱えながら、誰もが大人になった。これは大人になるために、誰もが受け入れる通過儀礼なではないのか。

実際、この少女にも加害性はある。悪しき意図はなく、あくまでも無垢な、善意によるものであっても、残念ながら彼女の行為は犯罪といえるものでもあった。自身の加害性を認識しながら、同時に、被害者としての苦しみにも耐えること、それが少女を大人にする。私たちは程度こそ異なれ、そのようにして大人になったのではないか。そう考えると、この映画は世の習いを、隠れた現実だが誰もが容認せざるをえない暗黒面――つまり隠れた世の習い――を知らしめる真実を開示する映画であり、さらには、そのような悪――世の習い――が人間を成長させるという、〈弁神論〉的主張をしているように思われる。

この映画を、少女物映画の典型としているのは、主人公の少女が、そうした偽善なり詭弁をいっさい認めないことである。

すでに触れたことだが、この映画のなかで彼女は大人たちを絶対に許そうとしない。彼女の女友達が両親と仲良くすることに対しても不快感を抱くくらいに、彼女は親の世代を嫌悪しているのは、彼女自身の両親が、とりわけ母親が、クズだったからである。もし誰もがトラウマを抱え、苦しみに耐えながら、それゆえに人間的な深みと重みのある、まさに「大人」になったとするのなら、彼女の実の母親は、わがままな子供のままのアルコール依存者であり、娘としての彼女は親からの精神的・身体的暴力に耐えるほかはない。だが彼女の妹は、そのような母親に苦しめられながらも、すべてを許すか封印して成人したかのようにみえる。だが、妹と異なり、彼女自身は、この母親を絶対に許さない。絶対に成長しない。

食肉店を営む女性は、親から冷遇されるこの少女をかわいがり、あなたのような娘が欲しかったとまでいってのける、慈愛にみちた母親のような存在である。しかし事件が起こり、それが身内の息子にもかかわることと知ると、この食肉店の店主は、彼女のことを冷たく見放す。事件が起こることで、露呈する大人たちの事なかれ主義と身内ファースト主義の愚行。心優しき慈母の裏切りなればこそ、彼女の復讐心は、自分の母親に対する以上に燃え上がる。実際、彼女の復讐の場は、この食肉店の倉庫なのである。

10年後になっても、彼女はガールフレンドはいてもボーイフレンドはいないまま、独身を貫き、誰のものにもならない、永遠の少女として生きている。彼女は成長しない。成長を拒んでいる。不当な扱いを受けても、忍耐と諦念によって加害者たち(社会も含む)を容認することが成長であると洗脳されて大人になるようなことは絶対にしない。屈辱を受け入れることが人間的成長の証しであると信じ、不正を隠蔽するだけでなく、不正を擁護する共同体の一員と化している「大人」たち――彼らに復讐するために、彼女は「大人」にならない。成長を拒否するのである。

この意味で彼女は、傷つき失われた無垢と人生の回復を要求する少女革命戦士である。彼女のあとに、声を奪われ犠牲者となった多くの少女たちがつづくだろう。やがて、その列の最後尾には、少女たちだけでなく、女性の大人たちも、そして男性たちも加わるだろう。とりわけ男性たちは自らの加害性を認識しそれに恥じ入り自身を断罪しつつ、また自身もまた少女たちと同じように凌辱され屈辱的なめにあわされ人生を奪われたことを告白し社会を共同体を断罪することになろう。

ただ、それにしても映画のなかでの氷を使った自殺方法は、およそ現実的ではない【10年前の凶行の証拠である血の付いた衣類を彼女が隠し持っていたこともまた現実的ではないのだが】。氷の上で足が滑るということはないようだが、しかし、どう考えても、その方法は、理論上の仮設、理論的に可能であっても、実践あるいは実現は不可能だと思われる。となると、それはアレゴリカルな、あるいは象徴的な意味で用意された設定とみるべきか。

まあ、そうなのだろうが、しかし、もし可能だとすれば、それは当人にまったく生きる意志がないか、すでに当人が死んでいるときであろう(1時間以上かけて首が徐々に絞められることに耐えられる人間はいない)。そう、あの自殺方法は、生きている人間には無理である。彼女は生きる意志がない。たとえ生きていても、すでに死んでいるのである。ならば氷の自殺も可能だろう。となれば彼女は事件があった時点で死んだのである。死後硬直が全身に広がるまでに10年かかったというべきか。あどけなき、無垢な少女は10年前に死んだ。彼女は、多くの少女たちのようにゾンビとなること、大人=ゾンビになることを拒んだのだった。
posted by ohashi at 23:34| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年08月16日

『ファンタスティック4:ファースト・ステップ』

以下の記事というかストーリーが目についた。おそらく映画公開前から出している記事なのだろうが、ここに至って、再度か再再度かわからないが、必死の宣伝のために出してきている。

ファンタスティック4:ファースト・ステップ:夏休みオススメ映画 マーベル初!4人のヒーローチームの活躍描く レトロな世界観も
MANTAN Inc. によるストーリー• 2025年08月16日

 夏休みにクーラーの効いた劇場で楽しみたい、MANTAN編集部オススメの映画をピックアップ。マーベル・スタジオが伝説のヒーローチームを描くシリーズ第1作「ファンタスティック4:ファースト・ステップ」(マット・シャクマン監督)を紹介する。

 異なる力と個性を持った4人のヒーローチーム「ファンタスティック4」の活躍を描く。世界中で愛され、強い絆で結ばれた彼ら“家族”には、間もなく“新たな命” も加わろうとしていた。しかし、チームリーダーで天才科学者リードのある行動がきっかけで、惑星を食い尽くす規格外の敵“宇宙神ギャラクタス”の脅威が地球に迫る……というストーリー。

 マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の一作で、マーベル・コミックス初のヒーローチームの活躍を描く。つまりヒーローが4人いる贅沢(ぜいたく)さ。レトロフューチャーな世界観も楽しめる。

必死の宣伝のためというのは、8月16日現在、ほとんどの上映館で、この映画は1日1回か多くて2回しか上映していない。またその多くにおいて、上映時間も朝早くか夜遅くである。7月25日公開だから、公開後3週間を経て、完全に失速している。はっきりいってもう終わっている。この映画を推薦する宣伝記事が必死であればあるほど空しい感じがする。

映画の舞台は1965年(パラレルワールドの地球ということらしいが)。その当時に考えられた未来像を映像化している。レトロフューチャーな世界観を売りにしているのだが、1965年に考えられた未来の家族というのは、おそらく、絵に描いたような白人家族であっただろう。そこに、白人優位性の政治的・社会的・文化的無意識がみえかくれするにしても、レトロフューチャーだから許容される――そうでなかったら何のレトロフューチャーか。

だがペドロ・パスカルとヴァネッサ・カービーの夫婦は、レトロフューチャーの夫婦からもっとも隔たったところにいる。ペドロ・パスカルもヴァネサ・カービーも人気のある、よい俳優たちだが、ほかにいなかったのか。ひげを生やしたレトロフューチャーのパパ。はあ?これはないよ。ペドロ・パスカルとヴァネッサ・カービーのペアは、1965年頃に夢見られた未来の理想的な夫婦・父母では断じてない。このぺアはギャングのボスと、その情婦というのがいちばんぴったりくる。ギャングのボスとその情婦がスーパーヒーローのコスプレをしている。そんな映画、観ていて恥ずかしくなる映画、痛々しい映画、誰が観に行くか。

付記:ちなみにファンタスティック4は、コミック版ではなくアニメ版で私は知っていた。1968年から日本でもアニメ版をテレビで放送していて、私は、それをけっこう面白がって観ていた。土曜日か日曜日の午後5時30分か6時頃に放送する30分アニメだった。その名も『宇宙忍者ゴームズ』。「ゴームズ?」。パパであるリード・リチャーズは体がゴムのようにのびるから、ゴームズ。ばかばかしいでしょ。


posted by ohashi at 20:45| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年08月15日

『ジュラシックワールド 復活の大地』

ギャレス・エドワーズ監督らしさが出ているのかどうか気になった。というのもエドワーズ監督は、企画が始動してから、監督として指名された、いうなれば雇われ監督であったからだ。結論からいえば、監督らしさは出ていたが、同時に、さまざま制約から、監督のオリジナリティを全開させることはできなかったようだ。またそれ以前に、この作品はエンターテインメントに全フリすることを求められていた。むしろ、そんななかで監督らしさをかろうじて保つこともできたともいえる。

この映画が、『ジュラシック・ワールド 新たなる支配者』(2022)の続編であることも、制約のひとつに数えることができる。ただし前作から5年後の世界では、恐竜たちは新たな支配者になるどころか、環境になじめず死滅への途をたどり、熱帯地方の大西洋上の孤島で繁殖しその生を永らえているにすぎないため、前作と物語上の緊密な連携はないが、前作のフォーマットには従っているように思われる。巨大企業による恐竜の利用とそれを阻止する側との熾烈な争いとか、巨大企業の責任者が恐竜に食べられるとか、ふたつのグループがそれぞれのルートを経て再会するという展開など。

脚本は、最初の2作『ジュラシック・パーク』(1993)と『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(1997)の脚本を手掛けたデヴィッド・コープが担当した。また『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』(2022)の脚本も無名で手掛けたとのことで、前作との連続性、そしてまたジュラシック・パークとの連続性が生まれるものと期待されていた。そのぶんエドワーズ監督らしさは弱まった。

また『ジュラシック・パーク』への原点回帰のようなところもあって、第一作の監督だったスピルヴァーグの存在が、あらためて意識されるようになった。今回はエグゼックティヴ・プロデューサーに名を連ねているスピルヴァーグが、デヴィッド・コープに脚本を依頼したところから、映画プロジェクトは始動したこともあり、映画のなかの随所に第一作へのオマージュめいた映像がてんこもりになると予想された(実際には、それほどでもなかったのだが)。またデヴィッド・コープはマイケル・クライトンの原作に立ち戻って脚本を書き、スナック菓子の包み紙の不始末から大惨事が起こるというのは、クライトンの原作にある設定らしい。さらにティラノザウルスが川のなかで追いかけてくるという場面も、クライトンの原作にあるとのこと。

ここまで確認すると、この原点回帰の趨勢は、監督のオリジナリティを奪うばかりではないかと心配になるかもしれない。だが、そのようなことはない。たとえばジュラシック・パーク・シリーズやジュラシック・ワールド・シリーズでお約束でもあった、千両役者のティラノザウルス・レックスが最後に登場して暴れ大見得を切ったり咆哮したりするというシーンは今回はない。お約束にどこまでも忠実というわけではない。

実際、映画の終わりのほうに出てくる、ミュータントの恐竜ディストータス・レックスDistortus rexは、「監督のギャレス・エドワーズによると、デザインはティラノサウルスに、彼がインスピレーションを受けた、映画『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』に登場したランコアと、映画『エイリアン』のゼノモーフ XX121をベースにしているという」とWikipediaに述べられているが(実際、Vanity Fairの記事も確認したが)、大雑把すぎて意味をなさない。このDレックスは、たとえば『クローバーフィールド』(Cloverfield, 2008)の最後に登場する怪獣に似ている。そしてなによりよく似ているのは、エドワーズ監督の『GODZILLA』(2014)に登場する、ムートー(Muto)であろう。

実際、思い出すところが適切ならば、この映画は、監督らしさを発見できる。

この映画は、秘密工作員のゾーラ・ベネット/スカーレット・ヨハンソンが、遺伝子研究の製薬会社に雇われ、古生物学者と傭兵の隊長/船長らとともに遂行するのが、新たな心臓薬を作成するために、「ティタノサウルス、ケツァルコアトルス、モササウルス」という陸・海・空の恐竜からDNAサンプルを回収することである。極秘任務というとなにやらものものしいが、主人公(たち)が経験し克服し達成する三つの試練・課題・使命・任務などと考えると、これはもうおとぎ話や昔話において定番となっているプロットである(そもそも3はマジカルナンバーまたイエス・キリストの三つの試練というものもある)。

そしてこのフェアリーテイル的設定は、ジュラシック・パーク・フランチャイズでは珍しいのではないか(たとえどんな物語でも、任務(目標)と達成(成果)は重要な構成要素なのだが。今回はそれが前面に出てくる)。

そしてこの課題・任務・試練を担って、恐竜たちの本拠地(恐竜しかいない)に侵入するチームという物語設定は、戦争映画に近い世界である。そう、戦争映画のお約束として、まさに物語は敵中突破形式となる。

とここで思い出すのは、ギャレス・エドワーズ監督作品で、〈スター・ウォーズ〉のスピンオフ作品の中で最高傑作という評価を得ている『ローグ・ワン』(2016)である。これもある意味、敵中突破の戦争映画であって、帝国の超兵器デス・スターの弱点がわかる設計図を奪い反乱軍に届けるという任務を帯びたローグ・ワン・チームの決死の戦いは、『ジュラシック・ワールド 復活の大地』の物語と重なる部分がある。

そしてこれがエドワーズ監督とスピルヴァーグ監督をさらに強力に結びつける映画的絆を形成する。『ローグ・ワン』では、使命を帯びたチームが最後には全滅する。全滅するが、デス・スターの設計図を反乱軍のレイア姫に送りとどけることができた。大きな犠牲を払って達成された任務。それはもうひとつの戦争映画、スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』(1998)を髣髴とさせる。【なお『ローグ・ワン』は、女性がチームのリーダーである点、『ジュラシック・ワールド 復活の大地』と似ている】

『プライベート・ライアン』では、出征した4人の息子のうち3人の息子が戦死した家族のもとに、行方不明の末子ライアンを探して送り届けるという任務を帯びたミラー大尉の中隊(6人(数え方にもよるが)なので規模としては分隊――なお『ローグ・ワン』における設計図奪還チームも6人)がノルマンディー上陸作戦直後のフランスでドイツ軍と戦いながらついにライアンを発見する。ライアンが所属する空挺部隊は、内陸部(つまり敵中)に降下したため、以後、敵中突破の戦闘が繰り広げられる。ドイツの武装親衛隊に包囲される空挺部隊ならびに中隊は、激戦の末にライアンを生きて本国に届ける任務を達成するが、中隊は中隊長をはじめそのほとんどが戦死する。

『ローグ・ワン』と『プライベート・ライアン』は似ている。ともに任務は達成するが、チームは全滅する、もしくは全滅に近い終わり方をする。それに比べれば『ジュラシック・ワールド 復活の大地』では、チームは全滅を免れ、任務を無事達成するために、悲劇性は薄く、課題達成のフェアリー・テイル、フォーク・テイル的様相が前面に出ることになった。

ただそれでも『ジュラシック・ワールド 復活の大地』の観客は、任務を帯びたチームのメンバーがけっこう簡単に死ぬという印象を受けたかもしれない。この映画には、エドワーズ監督の『ローグ・ワン』あるいはスピルヴァーグ監督の『プライベート・ライアン』になっておかしくない要素が確実にある。そう、この映画も、チーム全員が全滅すれば、ジュラシック・パーク・フランチャイズのなかでの最高傑作という評価は得たかもしれない。まあ、みんな死ねばよかったのにというのが、私の偽らざる感想なのだが【ちなみにチームの船長だったダンカン/マハーシャラ・アリがみずからおとりとなって他のメンバーを救うという場面は、彼の死を予想させて悲劇性が一挙に高まるところだったが、安心してください、生きてますという展開だった】、しかし全滅・玉砕というのは、無理だということも承知している。

というのも、この映画では恐竜たちは決して悪者でも悪の存在でもない。予告編ではスカーレット・ヨハンソンが銃を構えているのだが、そんな銃で恐竜をしとめることができるのかとつっこみを入れたくなるその映像は、それでも、人間が恐竜を狩ることを連想させるものだった。しかし映画はそうではなかった。この映画では人間は恐竜を殺さない――恐竜に食い殺されることはあっても。実際、スカーレット・ヨハンソンが構える銃は、恐竜を殺すためのものではなかった。恐竜は人間の敵ではなく、人間はたとえ食われても、敵に殺されたわけではなかった。むしろ、恐竜に食われることは事故死に近い(あるいは恐竜の縄張りを犯す侵略者として罰を受けたともいえる)。そのためいくら恐竜に食われても悲劇性は増さない。悪辣な敵を前にして自らを犠牲にして使命をやり遂げるという悲劇性は、今回の映画では生まれにくいのである。

生まれにくいのだが、それでもメンバーの内何人かの死(犠牲者、死者の存在)は、ミッションの意義を左右した。製薬会社に雇われ任務達成しか頭にないゾーラ/スカーレット・ヨハンソンも、古生物学者ルーミス博士/ジョナサン・ベイリーに諭されて、恐竜のDNAを無償で提供して全人類のために役立てることを決意するのだが、その決意を後押しするのが、チーム・メンバーの死であろう。貴重な設計図のデータを送信するために全滅していったローグ・ワン・チーム。将軍ではなく一兵卒(プライベート)を本国に送り届けるために全滅した中隊(『プライベート・ライアン』)。ミッションの成否は、死んでいった者たちに対し、生き残った者が、自己を正当化できるかどうかにかかっている。究極の正義の問題といってもいい。

生き残った私たち(戦時とか戦争直後でなくても、誰もが生き残りである)が、過去を忘れ、死者を弔うこともせず、享楽的な生活を営んでいるとしても、それは死者にとってはどうでもいいことだろう。むしろ生き残った者たちが幸福になることは死者の望みでもある(もちろん非業の死をとげた者たちが幸福な生者を呪うということもあるにせよ)。死者に申し開きがたつのはどんな時か。

それを決めるのは難しいことであり、私たち自身がそれぞれ考えるしかないことだとは思うのだが、戦後80年の現在、私たちが全世界で行なっていることは、およそ死者に申し開きがたつようなことではない。いやさらにもっとおぞましいのは、戦争を起こし、ジェノサイドをやってのける勢力が、彼らの自身にとっての死者とその犠牲を無駄にず、死者を喜ばすことを口実にしていることであろう。

『プライベート・ライアン』でミラー大尉/トム・ハンクスは、死に際に、ライアンにむかって‘earn this. . . earn it’と言い残す。のちにライアンは、このことを‘earn these sacrifices’とも言いかえているので、「死を、犠牲を、無駄にするな」くらいの意味だろうが【作中では、さらにこのことにつながる、なにか深いあるいは冗談めいたやりとりがあったような気がするが忘れた】、おそらくそれだけではないだろう。

それはなにか。死者・犠牲者のために、正しい人生を送ることが、死者に対する申し開きではないのか。ならば死者にとって、死者が望む正しさとは何か。死者を前にして申し開きをする、死者の目で生者を判断する、おそらくそれが倫理的思考のはじまりなのかもしれない。

『ジュラシック・ワールド 復活の大地』は、思い出す方向をまちがえなければというのはいいすぎかもしれないが、思い出す方向によっては、これほど、戦後80年にふさわしい問題提起をする作品はないように、思われる。
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2025年08月14日

『美しい夏』

いまでは岩波文庫で簡単に読める『美しい夏』だが、私がたまたま読んだのは『集英社版 世界の文学14 パヴェーゼ』(1976)で、岩波文庫と同じ河島英昭訳。同じ訳者のブリリアントな解説が印象的であり、今回、映画版の公開にあわせて読み直した際にも大いに参考になった。

小説は三人称の語りだが、実質的には裁縫工場で働くジーナという17歳の少女の視点から描かれ、彼女の一人称小説といってもよく、彼女の夜勤の兄との二人暮らし、まだ同世代の若い男女とのつきあい、そして絵画のモデルで稼いでいる20歳のアメーリアとの出会いと、アメ―リアを通して知ることになる若い二人の男性画家との恋愛が、ある意味淡々と、またある意味ジーナという少女の成長過程と繊細な心の動きを通して、描かれる。

重要なのは年上のアメーリアとの出会いであって、彼女は、20歳と、ジーナの3歳年上だが、ジーナにとっては人生経験(男性経験)豊富な成熟した30代くらいに感じられる女性のように思われる。その彼女にジーナは惹かれる、彼女のようになりたいと、いうなれば背伸びをするジーナの行動が物語の中心となる。ただ、アメーリアも、好奇心旺盛で、背伸びをしたがるがまだ幼い少女のようなジーナに、過去の自分自身を投影して惹かれているようなところがある。

私が読んだ文学全集の解説では、ジーナとアメーリア、要は、この二人は鏡像関係にあるということだった(鏡像関係という言葉は使っていないのだが)。ジーナにとってアメ―リアは、未来の、そうなれたらいいと思う、自分の姿である。彼女のようになりたいと、ジーナはアメ―リアと想像的関係(imaginary relationship)を結び、さらに想像的一体化(imaginary identification)へとすすむ。そのためになんでもアメ―リアと同じでなければ気が済まなくなる。

たとえば、幼い妹や弟が、年上の姉や兄と同じ扱いをされないことに腹を立て、親に文句をいうことは、ふつうにおこる。なぜ、少し遅く生まれてきただけで、兄や姉とは異なる扱いを受けるのか、と。実際には、親は、あとから生まれてきたほうに注力するから、兄や姉はなおざりにされることがあり、そのため兄や姉のほうが、妹や弟に嫉妬することもある。だだし、妹や弟は、歳の差だから仕方がない扱いの違いをあきらめるのだが、年齢を重ねても忘れ去られることはなく、それが年長者へのあこがれのなかにも顔を出す。

これを背伸び(その一)は、10代前の子供に特有のと考えてもいい。

10代の若者になれば、姉や兄との待遇差に腹をたてることはなくなるが、そのかわりかどうかわからないが、年長者に対するあこがれが生まれる。同性の年長者(兄とか姉とか、学校の先輩など)のなかに理想的な自画像をみつける(つまり将来の自分がなりたい、あるいはなれそうな自分の姿をみる)。ラカン的鏡像段階における鏡像(未来の理想的な自己像)との想像的関係が生まれる。年長者を模倣し、少しでも年長者に近づこうとする。時には、年長者を凌駕して自分がマウントしようとする。これが小説『美しい夏』における17歳のジーノが20歳のアメーリアに抱く、あこがれの感情(想像的一体化)であり、やがてそこから憎悪(想像的闘争)にもかわる感情が生まれる――姉や兄と同等の扱いを要求して駄々をこねる子供が顔を出す。

10代の背伸び(その二)は、年長者に対するあこがれと嫉妬と考えてもいい。その起源あるいは原型は、背伸びその一にあるとみることもできる。

ジーナとアメーリアの関係の場合、年齢差、経験差によってジーナはアメ―リアとの想像的一体化が拒まれる。そのためフラストレーションに陥るジーナは、想像的一体化に満足するのではなく、つまり自分の理想像であるアメーリアと同じになることにあこがれるだけでは満足できず、アメーリアにとってかわろうとする。そのため、ジーナは、アメーリアのかつての恋人だったらしい画家との関係を強化する。ジーナが画家との仲を深める過程と、アメーリアが梅毒を罹患する過程は軌を一にしている。まるで、ジーナが恋人の男性と結ばれることが、アメーリアへの勝利でもあるかのように、そう、アメーリアにとってかわったかのように。いっぽう、アメーリアは敗北したかのように、衰弱してゆく。ジーナがアメーリアを凌駕しつつあるという心的過程の幻想化かもしれないという可能性を残しつつ。

ジーナとアメーリアの想像的一体化と想像的葛藤。愛と憎しみといってもいいのだが、その行き着く果ては、ジーナの苦い悔恨である。結局、ジーナは、むりに背伸びをしていただけで、アメ―リアにはなれなかった――年齢差はともかく、経験差はともかく、おそらく容姿の差によって、あるいは性的な魅力によってアメーリアには並べなかった。田舎者で容姿も劣るジーナは都会的で経験豊かで美貌のアメーリアにはなれない。

だが、それはまた究極的には自己発見にいたる途でもある。なぜなら好ましい自分の未来像と一体化はできないとわかったとき、ただ自分でしかない自分を発見することになるのであり、それによって、他者にふりまわされない自分を獲得することになる。

ところがこれが中途半端なかたちで、自分の理想像と一体化してしまうと(まあ想像的一体化という錯誤によって)、そこに自分の自我が生まれ、自分の理想的自我を築きあげてしまい、自身を世界の王様・女王様と思い込む、自己中な自分が出来上がる。だが、気づくと、そこから、平凡な、紋切り型の、女性像へと自分を落とし込む途についている――平凡な主婦なったり、アメーリアのようにファム・ファタール的な女王様になるとしても、いずれも決められた路線に従うことになる(ラカン的ないいまわしをすれば、他者の領域、つまり象徴界にとりこまれることになる)。鏡像という他者に魂を奪われた私はいつしか社会的存在と社会的役割という他者に吸収される象徴界の住人になるのである。

性的欲望の成長のなかに、この鏡像段階とか想像的一体化を考えてみると、私が異性愛者になる過程で、自己自身へのナルシシズムあるいは同性との一体化を経るということがわかる。したがって、同性との同一化は、不可欠で、これは同性愛とは異なる。【なお小説におけるナルシシズムは、ジーナを愛するアメーリアというかたちで顕在化する。アメーリアにとって、ジーナは、過去の自分、まだ無垢で未経験で、そうであるがゆえにいとおしい自分そのものでもあったのだから。】

そもそも異性愛というのは、たとえば男である私が、ほかの男性(同年齢の仲間、年長者、父親やその世代の男性など)と同じように、女性のパートナーを持ちたいと思ったとき、私は異性愛者となる。私は同性と同一化することによって異性愛者となる。これが基本的条件である。あなたが女性なら、ほかの女性と同じように、男の恋人をもちたい、男とセックスがしたいと思えば、あなたはりっぱな異性愛者である。【では、同性愛者はどうなのかというと、異性と一体化・同一化したいと願うのが同性愛者である。私が男だとして、ほかの女性のようになって、女性と同一化して、男に抱かれたいと思ったら、私はりっぱな同性愛者である。異性と一体化するのが同性愛者、同性と一体化するのが異性愛者である。】

小説『美しい夏』のなかで、ジーナが、アメーリアにあこがれ、アメーリアと同一化したいと望むとき、彼女はレズビアンではなく、女性の異性愛者として「正常な」道を歩んでいることになる。やがて彼女が真の男性パートナーを得るときに通らねばならない苦い青春の道あるいは青春の悔恨。それが『美しい夏』が描いている世界の若い女性の青春である……。

ただし『美しい夏』では、それ以外のことも起こっている。そのような誰もが通う道をノスタルジックに描く小説というのは、この小説の時代とのかかわりによって強化されたともいえる。舞台は1940年頃であり、戦争前もしくは戦中のファシズムがイタリアを支配していた頃の話であり、その頃に執筆された小説は、まさに、いまとここを描く、同時代小説であり、ノスタルジアとは無縁であった。しかし刊行されたのは、戦後である。他の作品とあわせて、短編中編集のなかの一作品として、また表題作として1949年に刊行されたこの『美しい夏』は、戦前の世界(ひょっとしたら失われた世界)を描くノスタルジーにあふれた作品として受け止められたのかもしれない。

おそらくイタリアがファシズムに苦しんでいた時期の、楽しくもあり、はかなかくもあり、そして苦くもあり、甘くもある思い出を描くノスタルジックな作品は、書かれた当初は、表立ってファシズム批判はないとしても、現実批判をこめた、リアルな作品で、あまいノスタルジーとは無縁だったはずだ。

また『美しい夏』に描かれているのも二人の女性の出逢いだけではない。最初に書いたように、三人称小説だが、ジーナの視点で描かれた一人称小説でもあり、それゆえジーナという未熟な女性の視点からは見えないあるいはこぼれたしまった真実があるのではと思えてしまう。

たとえばジーナと同居している兄との関係は、それ自体何かを疑わせるようなものではないが、アメーリアはジーナの兄のことを意識しているように思われる。実際、その兄とアメーリアが深い関係になるのではと私は当初予想していた。そのようなことはなかったのだがアメーリアとジーナの兄とは、小説では未完の関係である。

あるいはふたりの女性が関係をもつことになる同居している男性画家たちクィードとロドリゲスは、どういう関係なのだろう。二人ともヘテロな男性にみえるが、同時に、ゲイ男性にもみえる。アメーリアがそうであるように、この二人の男性も、バイセクシュアルなのかもしれない。もちろん二人の真相は小説のなかでは語られることはない【おそらく文化的コノテーションとして二人の画家は同性愛者なのだろう】。

いま挙げた二例は代表的なのかもしれないが、この小説には、行き場のない名状しがたい、まさにクィアな欲望が渦巻いているのではないだろうか。その典型というかその淵源がジーナである。

小説『美しい夏』が興味深いのは、年上のちょい悪のエロい女性にあこがれ、またその女性に触発されて背伸びをしたものの、結局、大人たちにもてあそばれていたことを知るジーナは、その間の出来事を、楽しくもあり苦くもあり甘くもあったひと夏の(ただし実際には秋から冬、そして春へとつづく)思い出として語っている。このステレオタイプ的語りにことよせて、夢から覚めたあとの自分の、成長とか悟りとは無縁のあるがままの姿をジーナは語っている。不定形な欲望をかかえた得体の知れない自分、なにものにも満たされるものがない人生。

その彼女のかかえる不定形な名づけえぬ欲望をレズビアニズムと指定することを小説はしてない。ファシズム下においてそれは不可能だったし、戦後の世界においても、それはほぼ不可能であった。またそうしなかったがゆえに、つまりこの小説がレズビアン小説とならず、またそのように受け取られなかったがゆえに、高い評価を受け、ストレーガ賞を受賞できた。またそれだけではない。ジーナがかかえる不定形な欲望、あるいは彼女の周辺の人物たちの不定形な欲望の存在は、この小説を、クィア小説の先駆けにしていたのだ。

【ちなにに「クィアqueer」とはレズビアンあるいは同性愛だけを指すのではく、名状しがたいあるいは分類しにくい多様な欲望の総称でもある。ただしLGBTQという表記は、Qを残り物の収容場所としているようだが、本来ならLGBTI+すべてを意味する語としてあるべきなのだ。とまれクィアは「同性愛」のみを意味する場合と、「同性愛」を含む「多様な欲望」を包括的に意味する場合に別れることを確認しておきたい。】

その不定形な欲望――いまでなら、つまり21世紀においてはクィアな欲望といえるもの――は、潜在的可能性として小説にはあったのだが、それを顕在化したのが映画版(ラウラ・ルケッティ監督2023年)である。映画版は『美しい夏』をクィア作品として位置付けた。

繰り返すが小説は、ファシズム政権下において10代から20代へといたる青春時代を過ごした女性の、はかなくも、また苦くもあり、甘くもある青春物語(年上の女性との友情と葛藤を描く)物語として受け止められてもおかしくない作品である。執筆当時、作品には、同時代の社会に対する暗黙の政治的文化的抵抗がこめられていたかもしれないが、戦争を経たのちに出版されたとき、それは戦前の失われた社会(と失われた青春への思いが重なり合う)へのノスタルジアに彩られた回顧的小説となった――そして最初にあったかもしれな政治的批判性は、刊行時点では、ノスタルジアによって骨抜きとなったといってもよい。

ラウラ・ルケッティ監督の映画版は、もちろん原作を省略したり原作にはない設定を付け加えたりしてアダプテーションといってもいいかもしれないが、これくらいのアダプテーションは、原作の映画化といってもさしつかえないものでもある。

ジーナが働く縫製工場は、映画のようにりっぱなところではない。そもそも映画ではオートクチュールのアトリエのようなところがジーナの職場になっているが、小説のなかでは、ジーナの職場は、ごく簡単に触れられるだけで、職場が物語の舞台になることはない。当然、ジーナの才能が認められたにもかかわらず、夜遊びがすぎていつも遅刻して最後には回顧されるというような物語は、小説にはいっさいない。さらに兄が休学中の大学生という映画の設定も、小説とは異なる。兄は夜勤の仕事についていて、兄と妹が顔をあわすのは、夕方、仕事から帰った妹と仕事にでかける兄とが食事をする時間でしかない。アメーリアも、そんなに裕福な暮らしをしているわけでもなく、トリノの有名画家のモデルをかたっぱしからしているということもない。小説には、ファシスト党員が市民を見下しながら街を闊歩しているというような描写はない。映画は、小説の設定をスケールアップしている。
【ちなみに、この映画のポスターに使われているアメーリアとジーナが草原にあおむけになって横たわっているという場面は、映画のなかにはありません。】

ただそれでも原作との大きな違いとして留意すべきは――原作に潜在していたものでもあるのだが――、二人の女性がレズビアン関係に目覚めるということである。正確にいえばアメーリアはバイセクシュアルで、レズビアンでもあるのだが、ジーナはアメーリアとの関係を深めてゆくなかでレズビアンに目覚めてゆく。

実際、映画のなかで湖か川でボート遊びをしている若い男女のなかで、アメーリアが岸にいる仲間をみつけて、いきなり、そのまま湖か川に飛び込むという、原作にはないシーンからして、この映画が同性愛映画になることを宣言・予告しているのである――水の物語。

小説でも映画でもジーナはアメーリアからキスされるときには戸惑うのだが、小説では身体的接触を求めるアメーリアの奔放な予測不可能な行為であり、女性同士の友情を深めるためのやや過剰な接触という程度のものとしか読者は思わないだろう。というのも、その後のジーナは画家のクィードとの親密さの度合いを深め、完全に恋する乙女になってしまうのだから。しかし映画ではアメーリアとのキスはジーニアに決定的な影響を及ぼす。つまりレズビアン的欲望を彼女のなかに呼び覚まし、彼女は以後、一途にレズビアニズムに傾斜してゆくからである。

そう、小説のなかのいくつかのエピソードが、映画ではジーナがレズビアニズムに傾斜してゆく契機として機能転換させられる。男と戯れるアメーリアにジーナは嫉妬の焔を燃やす。ジーナが裸体のモデルに自分から志願するのは、アメーリアと同じになるかさらに彼女を凌駕し、彼女の元カレを奪い取るという自暴自棄的な行動だったのだが【背伸び行為その一】、映画では、アメーリアになりきって男に自分の裸体を観られるときの羞恥や喜びなどアメーリアの複雑な感情を体験したい(つまりアメーリアへの愛は継続している)、あるいはアメーリアに裸体をみてもらうことの代償行為であるように思われる【背伸び行為その二】。映画のなかでジーナは、アメーリアにキスされ、そしてダンスホールで女同士踊った至福の瞬間を反復したいと願っている。だが、アメーリアとは別れたままで次の夏を迎える。

小説のなかでジーナはふたたびアメーリアと再会する。だが、そのときのジーナは、自分が背伸びして大人の世界に入ろうとして逆に笑いものになっていたかもしれないという苦い悔恨の念にとらわれていて、もはやアメーリアへのあこがれも、そしてそのはての嫉妬や憎しみを再び感ずることはない。アメーリアとの再会は、反復でもなければ修復でもない。喪失を、帰らぬ夏を、決定づけるものであり、ジーナにとってアメーリアはただの年上の友人として存在しつづけるだけである。再会は、終わりの確定なのである。

だが、映画は……。次の年の夏。ジーナがはじめてアメーリアと出逢った岸辺。同年代との友人たちとやってきたハイキングで泳ごうという誘いをことわって岸辺にひとり残るジーナ(それにしても、この翌年の夏の湖の岸辺は、夏の暑さなどまったくない、またなんと寒々としたところなのだろう――意図的にそのような映像を使っているのだろうが)。そこに、アメーリアが、森のほうからあらわれる。再会をよろこぶジーナはアメーリアに誘われて岸辺から離れ森へとふたり手をつないで去ってゆく。映画が最高の曖昧性・二重性を発揮する。ジーナが最後に出会ったアメーリアは、ほんとうに存在しているのか(とすれば、物語は新章へとつづく)、あるいはジーナの幻想なのか(とすればおそらく彼女は死んでゆくときに、あるいは死んだも同然の人生のなかで、幻想をみているのか)、わからないのである。この世にものとは思わない愛の女神のようなたたずまいをみせるアメーリア、その彼女を無言のまま迎え手をとるジーナ。あれほど会いたかったアメーリアに再会した(あるいは夢のなかで出会った)ジーナにとって、美しい夏は終わったのである。永遠の夏が、終わらない至福の夏がはじまったのである。

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原作には明確に存在していないレズビアンを顕在化させた映画は原作に対する裏切りなのだろうか。原作にレズビアン的要素が明確にみえないのは当然である。執筆当時、ファシストが政権を握っていたイタリア社会で、女同士の友情の話は書けても、レズビアニズムを主題とすることはできるはずもなかった。それを21世紀の映画監督がクィアな主題あるいはレズビアニズムを前面に出す映画としてよみがえらせたのなら、それはそれで興味深い試みであるとはいえよう。だが、同性愛的テーマは、この作品ともっと深くかかわっているのではないだろうか。

1949年に刊行されたのち、1950年、チェーザレ・パヴェーゼは自殺している。なぜ自殺したのかについては、すでに解明されているのかもしれないが、私がネット上で軽く調べた限りでははっきりしない。謎である。

『美しい夏』という小説に、もう一人人物を加えて読んでみたらどうだろう。その人物とは作者のチェーザレ・パヴェーゼである。三人称で書かれた一人称小説でもあるこの小説の語りが、若い女性の内面に分けいって、その心の繊細な動きを丁寧に再現していることに、私は、感銘を受けたし不思議な感じもした。

男性作家が女性の内面を描くことは珍しいことではない。作家なら将軍から一兵卒、聖人から殺人鬼、農民や商店主から労働者やホームレス、子供から老人にいたるあらゆる階層と地位と年齢の人物と一体化しその内面を描けるのは当たり前で、17歳の若い女性の内面を描くことは、作家の技量として褒められることこそあれ、違和感をもたれることはないだろう。

しかし、にもかかわらず、私はパヴェーゼという作家が17歳の女の子に憑依というか、なりきって、小説を書いている姿を意識しないではいられない。彼もまた、物語の一部になっているのではないか。それは、主人公の女性の恋心、それも尋常ではない、同性に対する友情とも愛情ともとれる恋心を丁寧かつ繊細に描写しながら、自身の欲望をそこに溶かし込んでいる、女性以上に女性的な作者の物語である。

すでに述べた同性愛者の定義を思い出してもいい。同性に一体化する人間は異性愛者であり、異性に一体化する人間は同性愛者である。このパヴェーゼという人物は小説の作者として、とくに疑われることもないまま、主人公の女性と一体化し、その彼女と、男性への欲望を共有する。この小説のジーナは作者自身のことであり、この作者は、なんらかの男性同性愛物語を、女性どおしの友情物語に偽装しているのである。小説のなかの女性同士の同性愛的感情は、男性の作者の男性に対する同性感情と連動しているのである。

パヴェーゼにとって『美しい夏』における、最後に自己の満たされぬ不定形な欲望を自覚することになる17歳の女性こそ、みずからのクィアな欲望を自覚しつつまた苦悩する自画像であるともいえるだろう。と同時に、この小説は、レズビアニズムに発展してもおかしくない女性の友情とともに、男に抱かれることを欲する若い女性の物語ともなっていて、作者のクィアな欲望を多層的に充足する内容ともなっている。そう、これが私が想像する、この小説のもう一つのメタ的物語である。

このメタ的物語において、物語の世界は、作者にとって、ある種のユートピア的世界でもあった。暗い時代のなかにある一条の光。たとえはかなく消えることになっても、苦い悔恨を残すことになっても、青春時代のかけがえのない夏。現実の夏は消えることはあっても、夏としての作品、小説は、夏を消すことはない。この小説こそが美しい夏なのだ。美しい夏は永遠の夏として、この小説のなかに/小説として、燦然と輝きつづける。それは救いだろうか。不幸にも、作者にとって、それは現実との乖離を意識させかえって絶望を助長するものだったのかもしれない。現実か小説か。作者は、同性愛者の悲しい伝統に従うしかなかった。芸術を選び、芸術に殉じたのである。同性愛者の悲しい自死というかたちで。

1. 結局、成長して大人になるかならないか、どちらかというと大人になることを拒むような主人公の意識は、この映画を、少女物ジャンルへと高めている。

2. あとこれは、私が気づくのが遅すぎた点、お詫びするしかないが、小説も映画も、とくに小説は、いわゆる「お針子」と芸術家(画家たち)との交流を描いている。映画のほうは映像によって、画家たちとそれをとりまく人々の、いわゆるボヘミアン性が強調されているように思われる。そうボヘミアン。ボヘミアン芸術家たちとお針子。これはプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』の世界ではないか。小説版は、『ラ・ボエーム』的世界をお針子の視点からとらえ直そうとする試みともいえるだろう。では、なぜお針子なのかについては、別の機会に。

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2025年08月11日

『ルノワール』

吉沢亮主演の『ババンババンバンパンパイア』(2025)の浜崎慎治監督の前作は、吉沢亮も出演している『一度死んでみた』(2020)だが、そのなかで広瀬すずは〈魂ズ〉というデスメタルバンドのボーカルをしていて、実際にステージでパフォーマンスもするのだが、それを聞いていた音楽プロデューサー(大友康平演ずるところの)は、残念ながら彼女の歌には魂がない、あれではバンド名〈魂ズ〉を、ただの〈ズ〉にしたほうがいいと酷評する(ただし映画で観る限り、それなりに力のこもったパフォーマンスなのだが)。

映画『ルノワール』(早川千絵監督、2025)で11歳の小学生、沖田フキ/鈴木唯は、ガンで父親(リリー・フランキー)を亡くすのだが、しばらくして学校で、そのことを知った先生から、もしまたお父さんに出会うことができたら、なんて声をかけてあげたいと聞かれた彼女は、少し考えたあと、屈託のない笑顔で「久しぶりね」と声にする……。

こいつ、魂がない。魂のぬけた〈ズ〉以下の、なんにもないガキんちょだ。お父さんが死んだのだぞ。もう絶対に会えないのだぞ。それを、単身赴任で家族のもとを離れたあと久しぶりに帰って来た父親を出迎えるときの挨拶だって、「久しぶりね」はないぞ。ましてや、死んだ父親だぞ。こいつ、魂のひとかけらもない。腹立たしいほど冷酷で思いやりがない自己中のバカ少女。う~ん、だから、大好き。

【この映画で主人公は沖田フキという珍しいカタカナ名である。まったく個人的なことだが、カタカナの名前の女性は私には好感度が高い。ただ現実にはカタカナの女性はあまりいないのだが、役名ではカタカナ名はけっこうある。榊マリコとか。なぜかというと私の死んだ母がカタカナの名前だったから。母自身は、自分のカタカナの名前を嫌がって、日常における署名には、かなの名前に変えたり、漢字をあてたりしていたが、晩年はカタカナ名を気にしなくなっていた。私は母のカタカナ名が好きだった。】

映画史のなかで特記すべき事件は、少女物ジャンルの発明だろう。実際、少女物というのは、けっこう多いし、一見して少女が出てこない作品でも、少女物といえるようなものがある。

その典型が、同じ早川千絵監督の前作『Plan75』(2022)である。どこに少女がいるのかと思うかもしれないが、おそらくすぐに河合優美のことを思い浮かべるかもしれない。たしかに彼女は永遠の少女としての面影がある。しかし私が『Plan75』のなかに(そのすべてではないのだが)作品を少女物にする存在を見出したと思ったのは、倍賞美津子のことである。

驚かないで欲しい。映画のなかでは75歳以上の後期高齢者の彼女は、身寄りもなく独り暮らしで、最後には政府・自治体が進める後期高齢者の安楽死プログラムを受け入れる。どこが少女だと驚かないで欲しい。最後に彼女はプログラムにそって死ぬことができずに、ひとり施設を抜け出すことになる。これは彼女がこの世に未練を残しているからでも、あるいはほんとうは死んだのだけれども幽霊となって存在しつづけるということでもない。彼女はこの世界の仕組み、とりわけ安楽死プログラムを批判的にみる超越性を備えているということである。誰からも、何物にもコントロールされない超越性につけられた名前、それが「少女」である――実際の少女がそのような存在であるかどうかとは関係なく。また実際の年齢とも関係もない。映画のなかで河合優美と倍賞美津子が意気投合するのも、どちらも「少女」であるからだ。

少女物の映画の原型ともいえるのは、映画ではないが、たとえば『不思議の国のアリス』である。アリスのトランプの国とかチェスの国での冒険を構成するのは、さまざまな奇人変人あるい人間ではない異形の者たちとの出会いであり、そこには明白な社会性とか政治性はないとしても、社会風刺的側面は色濃くでている。それは文学ジャンル的にいうとメニッポス的諷刺に近い、いやそのものである。

アリスにとってこの不思議な国をさまようのは試練に近いものでもあるのだが、彼女は、決して傷つかないし、アイデンティティを失うことはなく、最後には、疑似地獄めぐりから、無事に生還する。少女物の映画は、まさにこうしたアリスの冒険の新たな物語をつくり、映像化したものといえよう。そのときのフォーマットとは、少女が超越性を維持すること。つまり少女は、最後まで、決して傷つかない、自らを失わないのである。

たとえばテリー・ギリアム監督の『ローズ・イン・タイドランド』(Tideland 2005年、日本公開2006年)は、10歳の少女を主人公にした少女物映画の傑作のひとつだが、その映画の驚異とは、主人公の常に夢見る少女が、現実と夢の世界との区別がつかないだけでなく、生と死との区別もつかないことである。夢見る者/少女は、生と死の境界を乗り越える――生と死の境界を知らないのだ。生者も死者も、彼女にとっては同等である。薬物のオーヴァー・ドーズで死んだ父親を彼女はなんの逡巡も躊躇もなく生きているかのよう扱う。

『ルノワール』における魂のない11歳の少女にとっても、生と死は連続しているのであって、彼女にとって、父親の死も夏休みの些細な一挿話にすぎない。彼女は父の死よりも林間学校での楽しい思い出のほうを重視している。父親とも、いつか会えるのであって、彼女にとって、死者と生者との間に根源的な相違はないのである。

映画は彼女の無垢の目に映った世界を提示する。ただし無垢の目といっても、汚れを知らぬ幼い可憐な少女の心やさしい眼差しとはまったく無縁である。この少女、沖田フキ/鈴木唯は、母親の浮気相手には手厳しくあたり、衰弱した父親をからかう若者を蹴りとばすような、家族思いの、家族の絆を重んずるところがあるかと思うと、友達の少女には残酷で、彼女が苦しむのをみて面白がっているような冷酷なところ、あるいは友人のプライヴァシーを暴き、苦しむ友人をゲーム感覚で観察するという底意地の悪さを観客に見せつける。彼女は決して心優しい可憐な少女ではない。

彼女は大人の世界にあこがれていて、出会い系サイトというか電話で知り合った変態受験生にいたずらされそうになるが、からくも助かる。だが、それは運がよかったというよりも、彼女がこの世界を本来的に超越しているからだろう。大人になるというのも、子供らしい無垢あるいは残酷さを捨てて、優しさを身に着け、魂をもつように成長するのとは異なり、ただ、現実から夢の世界への横滑りするだけである。大人の世界は、変化と成長によって到達するのではなく、あるいは、代償として何かを失ってはじめて到達できるのではなく、ただ空想と妄想をたくましくするだけで簡単に入ってゆけるのである。

映画の最後において、私たちは、彼女が若い大人のセレブたち、それも外国人のセレブの男女にまじって、クルーズ船の甲板上で交友しているという姿をみることになる。これは彼女が成長した姿というよりも、彼女の妄想というか空想の映像化であろう。その楽しい空想の世界に遊んでいる彼女は、いまなお11歳の少女のままなのである。彼女は成長することはない。成長して、この世界にとりこまれることはない。

となるとこれは何を意味しているのか。この魂のない冷酷な自己中の彼女がみる世界は、なんらかのかたちで組織化されたり統一されたりしておらず、ただ、淡々と流れゆく日常でしかない。彼女のみる日常に、テーマはないのだ。そして、それを反映にしてこの映画にもテーマがない。「ルノワール」というタイトルは、全体の内容を明示的あるいは暗示的に示すメタファー的なものではない。

少女フキが父親の入院している病院内の売店で売られていた複製画ルノワール作の『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』(Portrait d'Irène Cahen d'Anvers)を気に入って購入、父親の病室にそれを飾ることになる。この絵画はとても有名なもので、誰もが一度は目にしたことのあるルノワールの肖像画。『可愛いイレーヌ』とも呼ばれ、「絵画史上最も有名な少女像といわれる」(Wikipedia)ということは知らなかったが、沖田フキがこの複製画が気に入ったというのは、ラカン的鏡像段階におけるのと同様に、この絵画の少女像が、彼女にとって想像的同一化の対象となる理想像であったということだろう。そのためこの肖像画は、彼女そのものというより、理想化された彼女を示すメタファーといってもいいのだが、それをルノワールというかたちでずらす。その絵画の名前でもなければ、その絵画に描かれた人物なりテーマでもなく、その絵画を描いた画家の名前というのは、メタファーではなくメトニミーである。それは、日常の数々のエピソードのなかのひとつ(決して中心的なものではない)であって、映画全体の統一テーマを暗示しているのではない。むしろ映画は、統一的テーマのなさを暗示しているように思われる――その「ルノワール」というタイトルの選定からして。

統一的テーマがないことは、ひとつには少女が統一化・組織化ができていない幼い存在であることと連動している。だが、これは決して悪いことではない。なぜなら統一性がないということは、中心と周縁、重要性と瑣末性、優秀と劣等の区別がなく――ヒエラルキーもなく――すべてが平坦な起伏のない世界が広がるということだが、それゆえにひとつひとつのディテールが仕分けされることなくすべて中心的なものとなる。中心のなさは、すべてが中心という状況へと裏返る。

そしてどれにも優劣がつかないときに、細部が際立ち輝きはじめ美しくも悦ばしい世界が生まれるのだが、それと同時に、白黒がはっきりしない灰色の世界が広がることもまた確かであろう。メニッポス的諷刺というのは、主人公が出会う現象なり人物のどれにも問題があって、この世に完璧なもの理想など存在しないと落胆する物語である。映画『ルノワール』において主人公の少女が出逢う人びと(両親も含まれる)は、誰もが問題をかかえた愚か者たちであり、全体として愚行録の要素を呈してもいる。

メニッポス的諷刺作品として有名なのはヴォルテールの『カンディード』である。主人公は旅してさまざまな賢者に出会いその叡智にあずかろうとするのだが、誰もが欠陥をかかえた愚者であって、落胆して故郷に帰って来た主人公は自分の畑を耕すことにする――他人に意見を求めるのではなく、自分で考えるようにするのである。あるいは『不思議の国のアリス』では、アリスは最後には不思議の国を全否定して夢から覚めることになる。彼女がめぐってきた不思議の国は、少女の子供らしい内面世界であって、それを否定することで、彼女が少女から大人になる成長過程に入ったことが暗示される――ただしそれには不気味だが同時に楽しい不思議の国を失うという代償がともなうのだが。

そして『ルノワール』の少女は、彼女もまたその一人でもあった愚者たちの営みのなかで、ただひとり、それに染まることなく、自己を守りつづけ、決して傷つくことなく、夢見る少女でいつづける。まさに彼女は、おそらく、これからも独身で、75歳をすぎた後期高齢者となっても、世界の真相を見抜きつつ、嘆くか哄笑しつづけながら、成長をとげず、魂を持つことなく、永遠に生きることだろう。まさに彼女は少女物映画の正統的なヒロインそのものである。『Plan75』で部分的に提示された少女物映画は、『ルノワール』において十全の開花を見せたのだと私は考えている。
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