2021年02月19日

親父にもみせたことがないのに

親父にもみせたことがないのは、私のチンポコである。もちろん母にも見せたことはない--大人になってからは。しかし、今回の入院で、多くの医療関係者に手術中だけでなく、その前後も、また退院まで、ふつうなら絶対に見せないものを、毎日みられてきた。まあ、病気だからしかたがないのだが。*

今から4年前も、ほぼ同時期、正確には3月だったが、入院手術をして退院した。その時も、退院した日は、快晴だったが、入院中に、あまり眠ることができず、帰宅後、すぐに床について、久しぶりに至福の熟睡を享受したことを覚えている。

今回は、帰宅後、寝ることもせず、眠たくもなく、日常を取り戻した。

ただ地震で、本が床に散乱していて、その後片付けに時間をとられた。ちなみに山積みしているDVDのケースが、二枚、エアコンの上に着地している。エアコンと天井との隙間にどうやってDVDが飛んでいったのか。いったいどういう揺れ方をしたか不明である。

追記
実は、*をつけたところに、「べつにテレビ・アニメ『はたらく細胞BLACK』に登場する淋病のような性病で入院したのではない」と書こうとしたことを告白せねばならない。淋病ではないのは確かだが、淋病あるいは性病であるなしに関係なく、ここで病気あるいは患者に対する差別意識が私のなかにあったことを深く反省した。病気になるのは、本人の意志ではないし、たとえ日ごろの不養生あるいは不注意であっても、病気になるのは、本人の責任ではない。ましてやコロナウィルス感染者や医療感染者に対する理不尽な差別が問題化している現在、罹患するしない、あるいは病気の質に関する差別は絶対にあってはならないことである。犠牲者をたたくようなことBlaming for the Victimは、ほんとうにあってはならないのである。
posted by ohashi at 07:12| 日記 | 更新情報をチェックする

2021年01月20日

抗原検査

1月20日、10ヶ月ぶりくらいで、本日電車に乗る。PASMOの残高がわからず、駅の切符売り場で入金したら、けっこう残高があったことに気づく。昨年の3月以来、自粛生活をつづけて県境をまたいでいないのだが、今回も、まだ県境をまたがないかたちで電車移動をした。県境を越えない日数については、まだ新記録を更新中。

緊急事態宣言が出され、不要不急の外出は避けるように言われているのに、何事かと思われるかもしれないが、病気になったので病院に行くためである。病気なので、しかたがない。

目指す病院に到着、入り口で、額に検温器を当てられ体温を測られる。36.2度といわれる。紹介状をもっての来院なので、手続きをして、該当する科の診察室前の待合スペースに到着。午後からの診察となる。診察時間まで時間がある。

午前中は、近くの病院に行き、紹介状を書いてもらった。いったん帰宅後、すぐに、この病院へと出かける。久しぶりの電車を使っての外出なので、変に緊張したが、しかし、平日の昼過ぎということもあって、以前とまったく変わらない。強いて言えば街行く人、電車の乗客がみんなマスクをしているだけで、他は、以前とまったくかわらない。いまは有事だというのに、この、何事もない感じは、どうなのだろうか。これでは感染を減らすことなどできないのではないかと心配になる。

病院の待合スペースに座っていると、看護師が来て、診察前に体温を測るということだった。そして驚いた。

体温を測ると微熱がある。午前中に別の病院に行ったときも入り口で自動的に検温されて、もし微熱があったなら、入館を止められるか、注意/警告を受けたはずである。それがない。またその後、家で体温を測ったときも平熱であり、先ほど、この病院に入るときも検査され平熱だった。

それがどうしていま微熱があるのだろうか。わからないが、病院側にとっては、大問題で、なにしろ、私は、年末年始にかけて107名のクラスターを出した病院の患者で、その病院から紹介状をもって、この病院にやってきた老人で、しかも微熱があるのである。

即、抗原検査となって、結果は15分くらいで出るからと言われた。

結果出るまで、確かに、体がほてっている。ただ、高熱のときは、体が熱くなるのではなく、寒気がするのであって、寒気がするのでなければ、高熱ではないとも言われる。また駅から10分くらい歩いて病院にやってきた(病院専用の送迎バスもあるが、それには乗らずに歩いた――けっこう元気)。体が冷えたあと、暖かい病院内で、体温調整がうまくいかなかったのか。

あるいはコロナウィルスに感染したのか。自粛生活で人と会うことはないし、県境を越えていない(とはつまり東京に出ていないということだが)。だから心当たりはまったくないのだが、しかし、コロナウィルス、誰もが、いつどこで感染してもおかしくないものなので、知らないうちに感染していたのかもしれない。もしそうなると自宅療養となって、急激に重症化、救急車を待っているうちに死亡、もしくは入院先を探しているうちに死亡という、自分の人生の終わりのシナリオすらみえてきた(実際、重症化して治療受ける前に亡くなられた方は気の毒でならないが、私もそうなる確率は高い)。

しかも、かりに陰性であったとしても、抗原検査は精度に難があるので、陽性であるかもしれない。また、陰性であったとしても、こちらがかかえている病気は、治療してもらえるのだろうか。それもまた心配である。今日は病院をふたつ回るので、朝早く起きた、その疲労が出たのか、睡魔にも襲われた。体調は不良である……

気づくと、診療室の前で待つように言われた。抗原検査の結果は陰性で、こちらが抱える病気について診察され、2月に手術と決まった。コロナ禍での医療崩壊のなか、手術をしてもらうだけでもありがたい。ただ、私が手術をしてもらうことによって、この病院に大きな負担をかけることはなさそうだということがわかり、そこは安心した。

残りの午後、手術に備えて各種検査を終えて帰宅。久しぶりの外出にけっこう高揚してしまい、駅周辺で食料品を買って帰ろうかと思ったのだが、糖尿病がある(だからコロナは恐い)うえに、本日、午前中、塩分を取り過ぎないようにとも言われ、甘いものも、塩辛いものもだめだと言われて、正直いって食べるものがない。買って帰れる食料品などないので、そのまま、なにも買わずに帰宅することになった。

なお手術前にはPCR検査をすることになった。

最後に、抗原検査をする際、病院側は、えらく恐縮していて、少し驚いた。微熱がある患者に、とりあえず抗原検査をするのは当然のことだし、私としても、感染しているかいないかがわかるのは(抗原検査の精度が低いとはいえ)、ありがたいことである。喜んで検査を受けたい。できればPCR検査までして欲しいくらいだが、これは自分の病状を知るためと同時に、他人感染させないためでもある。だから病院側が、むしろ恩着せがましく検査をしてやったぞという態度をとっても、私としては全然かまわないのだが、世の中、検査を嫌がるバカがいるのだろう。

もちろん陽性になれば職を失うから検査を受けないという貧乏人がいることは事実かもしれないが、こうなるのは日本が途上国に転落したあかしであって、これは政治が解決する問題だろう。まずは、自分の健康と命、そして他人にうつさないために検査するチャンスがあれば活用することが重要である(命か金かの天秤にかけるとき、その命が自分の命である場合、金があっても、死んでしまったら、終わりであり、それほど自分の命を粗末にしたいのなら、最初から殺されてもしかたがないことになる)。

追記
病院で、待っているときに、私よりも前の椅子に老夫婦(だと思う)がいて、夫のために、妻が、病院内の自販機から炭酸飲料を買ってきていた。まあ、そのときは、べつに気にもとめなかったのだが、順番が私よりも先の、この老夫婦は、受付番号を呼ばれて、診察室のなかに入るとき、入ったのは奥さんのほうだけだった。え、奧さんのほうが診察を受けにきた。

となると、このクソジジイは何のために来たのだ。椅子に座って動こうとはせず(歩けないわけではない)、奧さんに飲み物を買わせていたこのクソジジイは、てっきり病人かと思ったら、病人は奧さんのほうだった。私だったら、すくなくとも病人の妻に、飲み物を買ってこさせはしない。

もうひとつ、どうもこの奧さんは、自分の病気の検査結果を聞きにきたらしいのだが、家族の者の検査結果は、家族全員で聞いてもいいだろう(病院側が禁止しない限り)。実際、別の診察室に、車椅子の老人に付き添って四,五人(たぶんその老人の家族・親族)がぞろそろと入っていったのを見たばかりなので、このクソジジイ、なぜ、いっしょに奧さんと診察室に入って医師の話を聞かないのかと不思議に思った。待合室で座ったまま。何の役にもたたず、むしろ奧さんのお荷物になっているこのクソジジイ。

ああ、なんと美しい日本の老夫婦。私は結婚したことはないが、いまみたこの老夫婦をみるにつけても、ほんとに結婚しておけばよかったと、くやまれてならない。
posted by ohashi at 23:20| 日記 | 更新情報をチェックする

2018年02月16日

関西弁

失敗は続く。


本日、ある会議のあとの雑談の場で、


方言がどうのこうのとか、アクセントがどうのというような話になって、黙って聞いていたのだが、急に、私は、東京の出身かと聞かれて、いえ、名古屋ですと答えた。そして名古屋では、たとえば学校(小中高)では、名古屋出身の教師は、授業では絶対に名古屋弁を使わない。いわゆる標準語をしゃべる。ただ、名古屋には関西出身の教員も多く、その先生方は、関西弁まるだしてしゃべると言ってしまった。「関西弁まるだし」というのは、ちょっと表現が失礼だったかもしれない。関西出身の人の前で。


実はこのあとに、つまり名古屋の人間は、名古屋弁にコンプレックスがあって、あらたまった場とか公の場、あるいは教室での授業などでは名古屋弁を使わない。つまりバイリンガル。新幹線で東京に行く時にも、同じ名古屋人どうしで話していても静岡県に入ると、標準語に切り替えるといわれている。ところが関西出身の人は、関西弁に誇りをもっているようで、時と場所に応じて、関西弁と標準語を切り替えたりしない(実際には切り替える人も多いようだが)。だから子供心に関西出身の先生は関西弁に誇りをもっているようで、ある意味、うらやましいと思っていた、と、そうフォローするつもりが、次の話題に行ってしまって、なにか小ばかにしたような失礼な言い方をしただけで、終わってしまった。


こんなところで弁解してもはじまらないが、失言の多い人生だと、つくづく嫌になるぞ。



posted by ohashi at 21:24| 日記 | 更新情報をチェックする

2018年02月15日

ポリカルポフ

失敗続き。本日、通販で購入した、1/32のポリカルポフI-16(ウクライナのプラモデル・メーカーであるICM製)が届いた。昔は、同じプラモデルを2つ購入して、ひとつは作製用、もうひとつは永久保存用にしていたのだが、作る暇もなくて永久保存用がペアで、いくつもそろっている。ただ、手を動かすことで脳の老化防止にもなるということで、エアブラシも新しいのを購入し(とはいえ依然購入したものの半分以下の廉価版)、しかも、あらたにヒコーキのプラモデルを購入することにした。


ポリカルポフI-16というのは、両大戦間から第二次大戦中にかけての有名な戦闘機で、世界で初めての引き込み脚を採用した戦闘機として名高い(とはいえパイロットが手動で、機体の脚を出し入れするのだが――そういえば映画『ダンケルク』でもスピットファイア―は手動で脚を出していた)。しかし戦闘機とはいっても、複葉の機体の上の翼を取り去って単葉にしただけで、ずんぐりむっくりした機体は、およそかっこいいとはいえない、ぶさかわいい飛行機である。1/32のモデルは、ふつう大きなものだが、この機にかぎっては1/48の戦闘機くらいの大きさしかない。小さいぶん作りやすい。


このモデルに求めていたことは、スローガンのでる。この時期のソ連の戦闘機、あるいは戦車などがそうだが、胴体にスローガンを大きな文字で描いていた。そのスローガン付きの機体をなんとしてもつくってみたかった。有名なスローガンは、「スターリンのために」と「ファシストに死を」というロシア語のスローガン。ちょっと大きめのI-16の両側に、このスローガンがでかでかと入る。置物としても面白い。


そこで届いたモデルの箱をあけて、水転写のデカールを、見てみたらな、な、なんと、ない。スローガンのデカールがない。あるのは赤い星と数字のデカールだけで、スローガンがない、ない、どうしたのだ。


模型雑誌の作例には、このスローガンがあった。なぜこのスローガンをとってしまうのだ。ネット上の二三の通販サイトをのぞいてみたが、商品見本の写真をみると、スローガンのデカールがない。やはりもうなくなったのか。別売デカールが販売されるのを待つしかないのか。残念。


posted by ohashi at 21:25| 日記 | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

アイオーン

本日は、観劇予定だったが、うっかりしてチケット代金を振り込むのを忘れていたことに気づく。1週間以内に振り込むところ、1週間をとうに過ぎてしまった。まあ、ネット予約できないという劇団も不便なのだが、興味深い演劇だったし、チラシもけっこうりっぱだったので、残念。


本日は観劇と決めていたので、かえすがえす残念。結局、チケット代金の振込先から連想したことを卒論口頭試問でコメントしてしまい、学生に迷惑をかけたかもしれない。やつあたりでは絶対にない。まあ、時間論における三つの時間、クロノスと、カイロスと、アイオーンの時間について、講釈を垂れただけなのだが。


posted by ohashi at 20:34| 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月20日

『アイヒマンの後継者…』2

『アイヒマンの後継者、ミルグラム博士の恐るべき告発』2

アントン・フクワ監督の『マグニフィセント』(『荒野の七人』のリメイク)では、ラスボスとして存在感のある悪役として(つまりケチな悪役はよく演じていたのだが)登場し、デンゼル・ワシントンと対決したピーター・サースガード主演の映画。アイヒマンの後継者といのは、誰のことか、ミルグラム博士/サースガードのことかと思われるかもしれないが、そうではなく、このミルグラム博士というのは、ナチスに協力してアウシュヴィッツで人体実験をしたヨーゼフ・メンゲレみたいなマッドサイエンティストかと誤解されるかもしれないが、それもでなく、アイヒマンの後継者というのは、私たちのことである。ミルグラム博士は、私たち全員(あるいは私たちの65%以上)がアイヒマンの後継者になりうることを明らかにする心理実験をした実在した社会心理学者のことである。


この映画の唯一の短所をいえば、映画館でみなくても、テレビでみてもおかしくないような作り方をしていることである。ただ、それはよいことかもしれなくて、テレビでの放送をとおして、多くの人にみてもらうことは有意義だと思わるからである。


とりわけ日本人は第二次世界大戦中における大陸での残虐行為をねぐっているのだから、たとえ善良な一般市民でも残酷な悪魔に変貌をとげることが、この映画からもわかることは絶対にいいことだ。自分の状況によっては、残酷な悪魔にかわりうることを知っていることは、それに抵抗する力ともなるのに対し、日本人はそんな悪魔ではないという妄想にとらわれている人間は、逆に、無抵抗に悪魔になりうる可能性があるからだ。そもそも私たちの世代の父親は、日本では善良な一市民であっても、15年戦争中には、朝鮮半島や中国大陸で残虐行為をはたらいた可能性があるというか、まちがいなく残虐行為に手を染めていた。


私たちより以下の世代は、これまで一度も残虐行為に手を染めたことはなかったかもしれないが、私たちの親の世代は残虐行為を最後までやり遂げてきたのだ。他人ごとではない。ちなみに私の父親は戦争に行ってもよい年齢だったが、わけあって兵役にはついていない。抵抗したり、逃げたりしたら、父親を尊敬してもよかったのだが、尊敬も軽蔑もできない、一応、まともな理由で兵役を免除されたので、兵隊にはなっていない。


もちろん、ミリグラム実験というのは、有名な実験のようで、知らないのは、私だけかということにもなるのだが、そのミリグラム実験に、アイヒマン実験という別名があることから、今回の日本語タイトルになったかもしれない。ただし、このアイヒマン実験というのは、ミスリーディングで、アイヒマンが収容所でおこなった実験ということではない。善良な一般市民も環境や状況によってはアイヒマンに変わってしまう、つまりアイヒマン化が起きるかどうかを検証する実験なので、アイヒマン化実験というならわからないでもないが、アイヒマン実験ではわかりにくい。


ハンナ・アーレントはアイヒマンのような小市民的・小役人的人物がなぜホロコーストを行なえたのかについて、役所仕事における事務手続きで、人間が数字や記号に抽象化されたことで、生身の人間の命を奪うという感覚がなくなり、抽象的な事務処理となって、罪の意識も消えてしまうというようなことを考えたが、ミリグラムは、これを代理状態といって、ただ命令とマニュアルに従って事務手続きをするだけで、それによって自己の判断や責任を回避すると考えた。


この説に対しては、たとえばホロコーストに関係した者たちは、悪を根絶するというような正義と使命感に燃えて自ら志願して虐殺を行なった可能性があり、無垢な事務員ではないという反論がなされてきた。


まあ、間をとれば、たとえ善良な市民であっても、状況によっては悪魔化する、あるいは同じことだが正義の闘士に変わるということだ。寛容さを欠いた正義の追及は悪に反転することを私たちは忘れてはならないだろう。


この映画のよさは、ミリグラム博士の実験のありようを、丁寧に再現していることで、その実験の意味なり効果を観客に説明し観客に思考の糧をあたえてくれることである。この実験をフィクションをまじえてとりあげたテレビドラマ『レベル10』については、この映画のなかでも戯画化されて扱われているが、安易なアダプテーションでは実験の意味を取り違えたりする可能性がある。その意味でも、実験の実際と、その反響(批判もふくむ)をきちんと提示してくれるこの映画は、ミリグラム博士が観客に直接語りかけるという語りの形態とあいまって、知的な刺激を、深い内省の契機をふんだんに与えてくれる。


また時折、映画も、時折、背景が、古い映画のように、映写されることがある。いかにも古い映画ですといわんばかりに。背景が映写されたスクリーンなのだ。おそらくこれは語れる時代背景ということもあろうが、同時にまた、私たちの現実が、映画のなかの一場面、どのような重厚な現実でも虚構にすぎないことの暗示であろう。なぜ虚構なのか。それは、私たちの現実が、いうなれば、この映画の心理実験と同様に、作られたものであり、そのなかで私たちは、どのような反応を示すのか、神によって試されているという暗示だろう。この世界は、夢でも虚構でもなく、神による心理実験なのである、と。


実際、この映画のなかでも面白いシーンがある。ミリグリム博士が、ケネディ大統領暗殺のニュースもって、すでに同僚が授業中の教室にとびこんでくる。実際、大ニュースなので、いち早く、同僚や学生たちに伝えたいという気持ちなのだろう。ところが、学生たちは、また心理実験かと、ニュースを疑ってしまう。嘘じゃないから、ラジオで臨時ニュースを聞いてみろと博士が言うと、確かに、ラジオはニュースを伝えている。しかし学生はいうのだ、また、ラジオに手の込んだ仕掛けまでして実験をしようとは、と。


心理実験のしすぎで、学生たちには、現実が創られた虚構の状況にみえてしまうのである。そもそも心理実験は、人間の残虐性の証明だけではなく、一定の特殊な状況をこしらえて人間の反応をみるわけだから、現実と想定されるところの虚構は絶対に必要なのである。簡単に言えばどっきりカメラ(どっきりカメラそのものでも人間の心理的反応は観察できる)。


これは、現実を実験の場あるいは試練・試験の場として考えてしまうという弊害を生むが、それは弊害かもしれないが、同時に、神様にどうみられているのか、あるいは自分の真の姿は何であるのかを反省する契機ともなる。現実を実験場という名の虚構としてみることは、それなりに意味のあることとなる。


この点は、興味深く、また不快なところもある。今回のミリグラム実験は、興味深いこと、人間の本性をかいまみせてくれて深い洞察を得た気がした。このミリグラム実験は有名な実験でも、私はよく知らなかったが、この映画で、それのもつ意味がよくわかったように思う。またミリグラム博士の、この実験以外の実験も、実に興味深いもので、博士は頭がいい。社会心理学の実験をみなおした気がする。


またドイツ映画『es』(エス)(Das Experiment監督オリヴァー・ヒルシュビーゲル)や、そのアメリカ版リメイク映画『エクスペリメント』のモデルとなったスタンフォード監獄実験にくらべても、実験手順は、穏健で説得力がある。とはいえ『エス』は、実験を再現した虚構、つまり虚構の虚構であって実験の実情とは違う。さらにいえばスタンフォード監獄実験は、ミリグラム実験よりも強制力が強いと同時に虚構力も強い、つまり看守と囚人を演じさせるゲーム感覚が強い。ほんとうの囚人や看守ではないため、虚構性が暴力を許容するところがある。


とはいえこう考え始めると、ミリグラム実験と監獄実験との間に境界をひいても、どのような境界もうそっぽくなって困る。またどちらの実験にも不快感を感ずる人もいるだろう。


たとえば映画『愚行録』の最初のバスの場面。妻夫木聡が車内で座っていると、中年のオヤジから、杖をついて立っている老婦人に席を譲りなさいと言われる。妻夫木の反応がにぶいと、ぼさっと座っていないで、さっさと席をゆずりなさいと、かなり強く言われると、妻夫木もゆっくり立ち上がって席を譲る。ところが妻夫木は脚が悪いようで、バスが揺れると、床に倒れてしまう。この時点でわかるのは、妻夫木は、ただ自分が楽になりたくて、老人が立っていようが席りつづけていたということではなく、実は、脚が不自由で座っていた。そのことを知らずに注意をした中年のオヤジに対して文句も言わずに席をゆずったということになる。そしてその居丈高な中年オヤジは、脚が悪くて倒れた妻夫木に声をかけたり、あやまることもせず、ばつが悪そうだが知らんかおをしている。周囲もこの中年オヤジがしたことが、判断ミスとか悪意ではなかったとしても、脚の不自由な青年に痛い思いをさせたことがわかってくる。


この冒頭のエピソードにはオチがあって、すぐつきの停留所で、妻夫木は脚をひきずりながらゆっくりとバスのステップを降りる。カメラは妻夫木の脚とか靴を大写ししている。バスが去るまで足を引きずっていた妻夫木は、バスが去ると、ふつうにすたすたと歩いていく。脚が悪いというのは演技だったのだ。ここで妻夫木扮する青年は、けっこうなワルだとわかるのだ。


これは心理実験の一つとは言える。老人に席をゆずらなかったからといって、ぶしつけな若者というのではなく脚が不自由であったというような、責められない理由があることもある。またそのことを知らずに注意をし、居丈高に命令した中年のオヤジにも罪はない。悪意とか判断ミスとはいえないだろう。しかし、その中年オヤジは、事情がわかって、青年に、知らぬこととはいえ無理をさせてすまなかったと声をかけてもよかったと思う。あるいは悪くないにせよ、謝罪しもよかったかもしれない。しかし、それをせずに知らん顔をしている。ここで暴露されるのは、こうして偉そうに注意する人間は、道徳心が強いというよりも、人に注意をして、人を動かすことに快感を得ているだけで、道徳とか正義となどどうでもいいのである。自分が偉い人間であることを誇示できればそれでいい。自分の命令で人が動けばそれでいいと思っている。つまり老人たちをたたせたまま傍若無人にも自分だけ席にすわって、自分が人よりも偉いと思っているような不道徳な人間と、実は、まったく同類なのである。またおそらくこの中年オヤジは、妻夫木のような一見おとなしそうな青年だから上から目線で注意したのであって、これがヤクザっぽい怖そうな人間なら、どこまで注意したかどうかわからない。


で、さらにいえば、こういう道徳化タイプ、教育者タイプというのは、注意はし、謝罪させるが絶対に自分から謝ることはない実に鼻持ちならない人間であって、それがこの『愚行録』冒頭の心理実験で、暴露されるのである。


と同時に、これが嘘という詐欺、つまり脚が悪いふりをすることによってもたらされたことに、なにか不快なものを感じてしまう。この冒頭のくそ中年オヤジの愚行は不愉快極まりなくて、ああいう道徳家、教育者タイプの人間を、私は本当に嫌うのだが、それとはべつに、そうした状況をつくった妻夫木に対しても拍手喝采をおくるというよりも、むしろこちらにも底知れぬ悪意を感じてしまうのだ。


今回のミルグラム実験も、人間の残忍さに対しては、弁護の余地はないように思われる。しかし、それをあぶりだす実験を考案した場合、神がみそなわす試験・試練の場というのなら、許されもしようものの、人間がつくったとなると、それは、みずからの神と同列におこうとする傲慢な姿勢すら垣間見えるし、そこまで考えなくても、虚構的設定という、ある種の詐欺のなかで人間の不都合な真実をあぶりだすというのは、嘘から出た真とはいいがたい不快感、問題感が生まれてしまうのだ。


実験は、整合性あるいは客観性を高めるためには、実験者を超越的立場に置くことになるが、そのような超越的立場は、神様以外にとりようがあるのか、また、そうでなかったら、神様を詐称する人間の問題はどうなるかということになる。ここにきて外部があるのかというポストモダン的問題が立ちはだかり、ミルグラム実験も、実は、外部と内部との二つの側の行き来することなるだろう。やっかいな問題として。


つまりエレファント。映画のなかでミリグラム博士が観客に話しかけるときに、後ろに意味もなく象(本物)が出てくるシーンがある。象elephantの比喩的な意味に「厄介な所有物、持て余し物」(研究社大英和辞典)がある(ガス・ヴァン・サント監督の高校生の銃乱射事件を扱う映画『エレファント』には、どこにも象は出てこないので、タイトルは比喩的な意味となっている)。この実験そのものが、どう対応していいかわからない人間の残忍さを白日のもとにさらしたの厄介な実験なのだが、同時に、この実験の成果というか結果そのものだけでなく、実験のありようもまた、ある意味、真実性と倫理性をめぐるやっかいな問題であって、まさにエレファントが大学内を歩き回っているのである。あのエレファントの姿は面白かった。


最後に、この時期、アイヒマン裁判の直後くらいの時期に、こうした心理実験が生まれたことにも演劇史的に興味がある。実際、文学あるいは演劇は、特殊な状況をこしらえて人間の反応をみる心理実験的なところがある。あるいは心理実験のルーツは演劇や文学的虚構であるともいえる。そして追い詰めて人間の残忍性をあぶりだすような演劇、たとえばハロルド・ピンターの暴力的不条理演劇の傑作が書かれたのもこの時期である。実験性と暴力。それはまたある種の不条理演劇も確実に共有しているし、それはまたこの時期の文化的底流にある歴史的・文化的・政治的無意識ではないかとも考えている。



posted by ohashi at 18:23| 日記 | 更新情報をチェックする

2017年01月05日

『マンハンター』

アレックス・コックスの『ムーヴィードローム』について触れたので、思い出話をひとつ。このテレビ番組でみた映画のなかで、けっこう衝撃的だった映画に、マイケル・マン監督『マンハンター』があって、この映画、ぼんやりみはじめて、予想外に怖い映画であって驚いた。犯人像は、異様すぎて、言葉を失ったし、繰り返し示される一家惨殺現場の生々しいドキュメンタリー風の映像は、リアすぎて、目を覆う感じだったし、また、捜査官にアドヴァイスをあたえる謎の受刑者がいて(いまでは、こういう設定は日本のドラマでも多くて、珍しくもなかったが、当時は新鮮だった)、不思議な感じがした。捜査官が、受刑者の指示とか暗示によって、捜査をすすめていく? そう、これは『羊たちの沈黙』の前作、『レッド・ドラゴン』の映画化だった。


トマス・ハリス原作の『レッド・ドラゴン』は、すでに2度映画化され、また連続テレビドラマ化もされているのだが、これはその最初のもの。マイケル・マン監督の骨太の演出によって不気味で迫力のあるは異色映画になっていた。ちなみにレクター博士は、ブライアン・コックスが演じていて、次作の『羊たちの沈黙』ではレクター博士は、アンソニー・ホプキンズ。レクター博士といった異様な怪人ともいえる人物が、どうして二作ともイギリス人俳優なのか、理由はよくわからないのだが。


この『マンハンター』は、『刑事グラハム/凍りついた欲望』のタイトルで1988年に日本公開。ただし当時、私は、映画をみてる時間もなくて、公開されたことすら知らず、イギリスのテレビで、カルト映画を紹介するアレックス・コックスの番組で、はじめて、この映画を知ることになり、全編見ることになった。


のちに、この映画は、『羊たちの沈黙』のヒットによって、『レッド・ドラゴン/レクター博士の沈黙』と改題されビデオ化再発売されたとのこと。また私がイギリスのテレビでみたのは、『羊たちの沈黙』のヒットによって、過去の前作にも光が当たったという事情によるのかもしれないが。


原作では、ハンニバル・レクターとかかわる捜査官のウィル・グレアムは、最後に、精神的に破綻してしまうのだが、また、そのことがあって、次作の『羊たちの沈黙』でも、クラリス・スターリングがレクター博士とかかわることで、おかしくなるという暗い可能性がつねについてまわった。いっぽう映画版『マン・ハンター』では、グレアムは精神的に崩壊することはない(なおマッツ・ミケルセンがレクター博士を、グレアム捜査官をヒュー・ダーシーが演ずる連続テレビドラマ版『ハンニバル』は、どうなっているのかは未見なのでわからず)。


ちなにに『マンハンター』でウィル・グレアム捜査官を演じたのは、ウィリアム・ピーターセン。はじめて観た時は、私の知らない俳優で、その後、テレビの仕事が多かったようで、日本では、映画館などで見ることはなかった。しかし、私は、奇しくも再会した。テレビで。


とはいえウィリアム・ピーターセンって誰だといぶかる人も多かろう。


CIS科学捜査官』(最初のラスベガスを舞台にしているシリーズ)で、日本版では「主任」と呼ばれているギル・グリッソム博士、それがウィリアム・ピーターセンだった。『マンハンター』の頃とくらべれば、歳をとった以上に、太ったのだが、しかし、それでも、すぐに、ウィリアム・ピーターセン/グレアム捜査官だとわかった。CSIシリーズは、本国では、2016年をもって終了したようだが、日本では、再放送がいまもつづいている。グリッソム博士をみるたびに、『マン・ハンター』のことを、それをテレビで見たイギリスでの日々を今も思い出す。


posted by ohashi at 04:25| 日記 | 更新情報をチェックする

2016年06月29日

『あわれ彼女は娼婦』2

今回の公演パンフレットのなかで野田学氏が「演劇における近親相姦」と題して、『オイディプス王』にはじまる近親相姦劇を見開きにページの短いスペースの中できちんと紹介していて(最後は個人的経験になるのがやや残念だが)参考になる。強いて言えば、ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』だって、近親相姦の話でしょう、触れてほしかった。また、世田谷パブリック・シアターでの2017年3月の再演が決定したワジディ・ムワワド(藤井慎太郎訳)『炎 アンサンディ』についても(新国立劇場とは関係ないのかもしれないが)触れていないのは惜しい。近親相姦は戦乱状態のなかで起こる。サラ・ケインの作品を出すのなら、こっちも出してほしかった(触れるスペースはあったはず)。

ちなみに戯曲『炎 アサンディ』は、日本では映画版(『灼熱の魂』)のほうが先にきて、それで衝撃を受けた。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作で、その後ハリウッド・デヴュー作『プリズナー』(2014)は普通に面白い作品だったが、『複製された男』(2014)で、ハリウッドからは消えたのかもと思っていたが(いくら原作が有名でも、一般観客には、あの映画は不条理すぎる)、『ボーダーライン』(2016)で復活か--とはいえエミリー・ブラントの使い方が悪くて、期待された彼女の男っぽい魅力が出ていない。野田氏はネタバレを恐れて『アンサンディ』について触れるのを控えたのかもしれないが、いまさらネタバレもないので、言えば、『アンサンディ』の映画化『灼熱の魂』をみたときの私を含め知人の感想は、まるでギリシア悲劇だというもの。

そうギリシア悲劇と近親相姦とは相性がいい。野田氏が真っ先に触れた『オイディプス王』が、代表作だろう。アリストテレスが『詩学』(内実は悲劇論)のなかで『オイディプス王』を中心的に扱ったのは、形式分析のためだったと思われるし、近親相姦の内容とは関係なかったと思われるのだが、選ばれた代表的悲劇が近親相姦物であることは、のちにギリシア悲劇→悲劇→近親相姦という連想方向を確定した感がある。ギリシア悲劇といえば近親相姦(実際、『オイディプス王』だけが、ギリシア悲劇のなかで近親相姦を扱っているわけではない。他にも多くの作品がある)。そうなると近親相姦物の悲劇は、どこかギリシア悲劇という母型を連想させる、地中海ギリシアの土地の匂いをもたらすのである。

シェイクスピアの悲劇もまた近親相姦的テーマに貫かれている。『ハムレット』は母親との近親相姦(兄弟愛の近親相姦もある)。かもしれない。『リア王』は父親と娘。『オセロー』は『マクベス』は夫婦愛の話だが、そこにも父親と息子、父親と娘の近親相姦的関係がにおわされる。レヴィ=ストロースがかつてオイディプス神話についての構造分析において述べた言葉を借りれば、「過大評価された親族関係」がそこにみられるのである。そして悲劇は近親相姦テーマと相性がいい。

またシェイクスピアの時代、それこそエリザベス朝においても近親相姦とギリシア悲劇とのつながりは重視されていた。ギリシア神話のカナケ―の近親相姦物語がある。

風神アイオロスの娘カナケーは、兄弟のマカレウスと近親相姦の恋に落ちたとされる。この物語はエウリーピデースが悲劇『アイオロス』で上演し、その後、オウィディウスが『名婦の書簡』で取り上げ、ヒュギーヌスも断片的に触れている。それらによると、カナケーとマカレウスとの間に子供が生まれたが、赤子が泣いたためにアイオロスに見つかり、赤子は山に捨てられて狼に食わされる。カナケーはアイオロスが送ってきた剣で自殺し、マカレウスもまた自殺する。日本版ウィキペディアの説明を丸写しなのだが、

さらにウィキペディアから引くと、

関連文献として。アポロドーロス『ギリシア神話』高津春繁訳、岩波文庫(1953年)『ギリシア悲劇全集12 エウリーピデース断片』岩波書店(1993年)ヒュギーヌス『ギリシャ神話集』松田治・青山照男訳、講談社学術文庫(2005年)『ヘシオドス 全作品』中務哲郎訳、京都大学学術出版会(2013年)

があり、これらにカナケ―の物語が記されている。

イタリアの人文学者スペローネ・スピローニは1542年パドュアの文学・哲学アカデミーのために『カナケー』と題する悲劇を書き上演する。1546年に出版。この悲劇は論争を呼ぶ。ギリシア悲劇の復興という観点から近親相姦を取り上げるのは妥当な選択としても、オイディプス王の場合、知らずに母子相姦となるのに対し、この兄と妹は、意識的に近親相姦のタブーを犯す。その点をめぐる非難とスペローニからの反論は、スペローニの死後1797年に論争集が出版されるほど注目を集めていて、イタリア語が堪能だったかもしれないフォード(劇中でアナベラが歌う歌詞の原文は日本語ではなくイタリア語である)は、この論争について知っていたかもしれない。もちろん知らなったかもしれないが、フォードの狙いもまた、スペローニと同じであったとはいえよう。

ギリシア悲劇の同時代における復活。題材は近親相姦。スペローニはギリシア神話のカナケーの物語を利用した。フォードは、スペローニの例にならったか、独自で考案したのかもしれないが、兄と妹の近親相姦を題材とした。ギリシア悲劇の同時代における復興。もちろんそこに情念のほとばしりなり、センセーショナリズムの目論見、スキャンダラスな反応に対する意識などあったのだろうが、同時に、そこにアカデミックな関心があったこともまた忘れてはならないだろう。アカデミックな関心だけが、忘れられているのである。

このことはArden Early Modern Dramaのなかの’Tis Pityのなかのイントロにも書いてある。珍しい知識ではない。またこう書いたからといって、野田氏や、「近親相姦+未婚者淫行+姦通」という文章をパンフレットに寄せている中野春雄氏が無知だということではない。

野田学氏も、また、私が、学会のウーマンラッシュアワー村本大輔と呼んでいる中野春夫氏(本人の性格が「ゲスキャラ」というのではなく、中野氏の文章の想定される作者は、今回のパンフレットの文章も含め、まぎれもなく「ゲスキャラ」である)も、こうしたことを知らないわけではないだろう。ただ、あわれ彼らは商業演劇の宣伝係り。チャールズ朝演劇をエリザベス朝演劇と昭和の時代の命名にかえ、フォードのアカデミックな関心を無視して、ただ希釈されたセンセーショナリズムへと走る。あわれ彼らは娼婦。ということでしかないのだが。

つづく
posted by ohashi at 10:48| 日記 | 更新情報をチェックする

2015年12月04日

情報漏洩3

入試問題の作成者とか採点者は、絶対に内密すべきものなので、たとえ、なんとなく、わかる場合でも、絶対にみずから作成者であることはばらしてはいけない。なんとなくわかるといのは、たとえばある大学で入試問題の外国語で、ペルシア語を出題しているとしよう(実際に、そういう大学はないのだが、あくまでもたとえばの話である)。ペルシア語の教員がその大学では一人しかいなかったとすれば、その教員が問題を作っているのだろうと察しはつく。しかし、だからといって、その教員が、自分が作っているとみずから語ることは許されない(現実問題としては専任教員がつくるかどうかわからないことがある)。

また、これも許されないことは、自分は作っていない、採点もしないと、語ることである。作っているといってはいけないのだが、作っていないのならいいのではないかと思われるかもしれないが、逆に、作っていないことで、誰がつくっているのか、推測されてしまう場合がある。どこの大学でも、外注したりとか、センター試験だけですますというのではないかぎりは、英語の問題は、英文科とか大学直属の英語教育センターのようなところでつくっているのだろうということはわかる。そんなとき英文科の教員が、私はつくっていないとか、今年は作っていないなどと言ってはいけない。まあ、英文科の教員が100名いたら、残り99名で入試問題を作っているとは思えないので、そのくらいのことなら害があるとは思えないのだが、しかし、どういう結果になるのかわからないので、黙っていることにこしたことはない。仮に英文科で作っているのだろうとわかっても、誰がつくっているのか、全員でつくったりしているのか、応援を頼んだりしているのかなどは、わからないまままに、まあ、ブラックボックス状態にしておく。これが常識だろう。

ときには、そうした常識が無視される場合もあって、比較的最近でも、ある大きな会議で、誰が問題をつくっているのか、わかってしまうようなことがあった。これまで(まあ、これからもないことを祈るが)、誰も、そのようなことをしなかったにもかかわらず。

直接的ではなかったので、意識せずに発表してしまった当人(こいつは、ほんとうにバカだと思うのだが)は、自分がばらしてしまっているという軽率さ、不祥事と言ってもいいものに、全く気付かなかったようだ。この無神経ぶりには、あきれかえったが、しかし、それはやってはいけないなことだと、その場で指摘しようものなら、気づいていない会議メンバーもいるはずだから、そのメンバーにもわかってしまうし、事がまさに大ごとになりかねないので黙ってい。ほんとうに心の中で、こいつはなんという無神経なバカなのだ、呪っていた。ついうっかりではすまされないことである。もちろん、実害は出ていないだろう。というか実害が出る可能性はゼロに近い。またその会議のメンバーが外部に情報を漏らすことはまずないだろう。しかも、その場では問題にならなかったのだから。しかし、情報へのこうした無神経な扱いは、思わぬ大きな結果を生むかもしれない。そして情報とは、漏洩した本人が気づかぬうちに漏洩していくものなのだろう。
posted by ohashi at 21:47| 日記 | 更新情報をチェックする

2015年08月27日

復活の日

復活の日
8月に入って、このくそ暑いのに夏かぜになった。かぜは2,3日でなおったのだが、その後も、体調不良がつづき、この8月は、なにもできないまま、寝込んでいる日が多かった。

8月の初めにブログで、オリンピックのロゴのパクリ事件について、どうせぱくったのではないかというようなコメントを書いたので、その罰でもあたったのかと思ったら、気づくと佐野研二郎、パクリ疑惑の百貨店状態になっていて、ネットの話題としても食傷気味のところがある。まあ、それでも、まだ擁護したり、似ていないと言い張る人間がいることにはあきれるが。

ということで、私の体調不良は、無実の佐野氏に対して、パクリ疑惑をぶつけたことの罰があたったのではなかったことになる。

まだ外出すると体が重い。昨日あたりから涼しくなったのだけれども、外出がまだつらい状況になっているが、なんとかパソコンに向かえるようになったので、コメントを書いておこう。一応8月3日から今日までのあいだの適当な日にコメントをいれるおとにする。【8月27日に記す】
posted by ohashi at 15:48| 日記 | 更新情報をチェックする