フィンランドの監督ミッコ・マケラMikko Mäkelä(1981-)の2024年作の映画Sebastian。非正規雇用の雑誌記者として働くかたわら、短編小説を発表、将来有望な若手作家として長編第一作を執筆中のロンドン在住の若者が、最終的に長編を完成させるまでの物語。主役の美青年を演じているルアリ・モリカの美しさでもっているような映画だが、ただ英国の文壇事情に詳しくない私のような者にとっても、描かれる世界とか人物などには、リアル性を感ずる。
【ちなみにフィンランドとLGBTQについて。以前、トム・オヴ・フィンランドの伝記映画を観て知人に、こんなことを話したことがある。フィンランドといえば、あなたの好きなムーミンを思い出させるのだけれども、トム・オヴ・フィンランドの絵画・イラストはハードゲイで、ムーミンの世界の対極にあると語ったところ、なにを言っているのか、ムーミンの作者はレズビアンですよと言われたことがある。】
たとえば主人公の短編が掲載されるのが文芸誌『グランタ』。実在の雑誌で、この映画のように、次世代の有力作家たちの特集をよく組む。私がかつてイアン・マッキューアンやカズオ・イシグロを知ったのも『グランタ』の特集を通してであった。また出版関係のパーティでの席上で、主人公が『ロンドン・レヴュー・オヴ・ブックス』紙(実在の書評紙)の編集長のような人物に紹介されるところは、『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001シリーズ第一作)で、主人公がパーティで有名な作家(サルマン・ラシュディ――本人役で登場)に出会うシーンに劣らず、リアルだった。雑誌の記者たちの編集会議、あるいは文芸誌の編集者と主人公のやりとりなど、実際にそうした場にいたことがなくとも、いかにもありそうな設定と展開をしていて、そこもリアルだった。
実は、そうしたリアルさが、主人公のメイル・プロスティテュートとしての経験のリアルを裏付けることにもなった。ちなみに「男娼」というのは差別語に近く、映画のなかでもセクシュアル・ワーカーといいかえていたが、この映画で初めて知ったのだがEscortともいう(男女ともに)――これは辞書でも確認した。
おそらく主人公が執筆中の長編第一作の内容とも関係するというか、内容そのものは、男性エスコートの仕事であり、それを身をもって体験するために、みずからセバスチャンという名でエスコート業にはげんでいる。その実態は、ここで書くのがはばかられるくらいに、けっこうリアルだ。ただし出版社には、プロのエスコートたちを取材して小説のなかにとりいれていると説明している。
したがって進行中の小説の作者(マックス)とその小説の主人公(セバスチャン)は別人という体裁をとっているのだが、もちろん実際にはマックスがセバスチャンという名でエスコートの仕事をしているのである。
問題は、ふたりを分かつ境界がなくなること。エスコートの仕事は、あくまでも小説を書くための材料集めのための手段であって、それで生計をたてているわけではない。しかしいつしかその境がなくなる。正規の記者ではない主人公にとって、エスコートの収入が重要になるということだけではない。エスコートのゲイとして仕事をする彼は、いつしかエスコートであることをやめて、顧客を愛するようになるのだ。
しかしこれはミイラ取りがミイラになるというような、危険な誘惑に屈するということではない。むしろ屈した方がいいのだ。自分を偽って、ヘテロの仮面をかぶって生き仕事をするのではなく、むしろゲイとしてカミングアウトをして生きることを選ぶ。執筆していた小説は三人称の小説なのだが、最後に彼は、初老のパートナーの忠告もあって、それを一人称の小説にする、「彼」を「私」に変えて全面的に書き直す……。もはやいうまでもないだろう――その小説が年間ベストに選ばれることになる。
結局、アンドレ・ジッドだったと思うのだが、「ほんとうの自分を偽って人から愛されるよりも、ほんとうの自分をさらけだして人から嫌われるほうがいい」という名言を残したのだが、ここでいるほんとうの自分というのは、ゲイである自分ということである。たとえどんなに嫌われようともゲイとしてカミングアウトすることが自己にとって価値あることなのである。その意味で『セバスチャン』は、LGBT映画が当然のこととして前提としているカミングアウトすることの至高性を踏襲している。
しかし、カミングアウトすることがゲイ的自己確立となった時代はもう終わりつつある。むしろゲイであることは恥ではないし、むしろプライドでもある時代になって久しい(まあ、高市ファシスト政権においてバックラッシュはあるとしても)。だから『セバスチャン』においてカミングアウトすることへの苦悩と恐怖は主人公から感じられない。むしろなぜもっと早くそうしなかったのか。障害となるものはなにもないのに、自分で自分を縛っていて何が楽しいのか……という時代になっていることをあらためて確認させてくれるような映画のつくりにもなっている。
ジッドの名言は書き直される時代になっている――「ほんとうの自分を偽って人から愛されるよりも、ほんとうの自分をさらけ出して人から愛されるほうがいいのだ」と。
2026年02月03日
『Sebastian/セバスチャン』
posted by ohashi at 08:05| 映画
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