1月26日の『役者になったスパイ』に関する記事のなかで、アントニオとセバスチャンのペアは中世以来、西洋ではペアになって描かれることが多いことを指摘した。西洋の初期近代におけるシェイクスピア作品ではアントニオとセバスチャンのペアがゲイ・カップルとして登場する。その際、セバスチャンはゲイのアイコン的存在だから、あえて指摘するまでもないのだが、アントニオは、ゲイであれ、そうでなくとも、特徴的な性格付けがなされている。この映画においてシェイクスピアの『十二夜』のアントニオと、そのアントニオの役を割り振られる警察のスパイの男性も、片やゲイ、片やヘテロではあっても、なにか共通の性格類型のようなものを認めることができる。今回は、その答え合わせをしてみたい。
アレクサンドル・デュマの戯曲『アントニー』である。私は、この戯曲の存在を知らなかったのだが、今回といっても、少し前のことだが、翻訳で読んでみて、主人公というかタイトル・ロールのアントニーが、いかにもアントニーしているので驚いた。
その前におことわりせねばならないのだが、Amazonでこの戯曲をみつけ、タイトルに惹かれて、電子書籍版を購入した。アレクサンドル・デュマ『アントニー 五幕散文ドラマ』中田平訳(デジタルエステイト2014)である。フランス文学の専門家ではなく、フランス文学の翻訳事情をよく知らない私にとって、この演劇作品の翻訳は、見知らぬ翻訳者と出版社、そしてださい表紙(失礼)によって、過去それも版権の切れた古い翻訳を電子書籍化したものと思った。失礼な話だが。
しかし読んでみると、わかりやすいりっぱな翻訳で、ゆきとどいた解説にも驚いた。つまり、これは過去の翻訳の電子書籍化ではなく、新しい翻訳であって、調べて観ると紙媒体でも販売されていた。また翻訳者の中田平氏は、愛知県安城市にあるデジタルエステイト株式会社から電子版と単行本の二種類の書籍を販売していることもわかった。デュマのこの『アントニー』は日本初の翻訳のようで、それだけでも価値のある本である。中田氏はデュマの戯曲を次々と翻訳されている。その仕事というか業績が広く知られるとよいと思う。実際、デュマの戯曲は面白い。
その戯曲の内容だが--アデル・デルヴェーのもとに三年前に姿を消したアントニーが手紙を送り、自身もやってくる。二人は相思相愛の仲だったが、アデルは両親が望むデルヴェー大佐との結婚に応じ、今は娘がいる。いっぽうアントニーは私生児だったこともありみずから身を引くのだが、アデルへの思いが絶ち切れず三年ぶりの訪問となる。しかしアントニーに会いたくないアデルは馬車で外出。そのとき馬が暴走、そこにとおりかかったアントニーが身を挺して馬車を止め、アデルを救うが自身は大怪我をして、アデルの家に運び込まれ、そこで再会となる。
結婚し娘もあるアデルは、かつての恋人アントニーを避けるのだが、アントニーへの恋心が再燃しアントニーに身をまかせるまでになる。そのことが社交界で噂になり、最後にはアデルの夫がストラスブールからパリにおけるアデルの居室へとかけつける。せっぱつまったアントニーとアデルは駆け落ちをしようとするが……。
なおロマン派演劇であって、三一致の法則は守られていない。場所も第一幕・第二幕はパリ、第三幕はストラスブールに近い宿、第四幕と第五幕はパリとなる。第一幕から第五幕の間に5か月経過する。なお幕と場面分割については、各幕は同じ場所というか同じ部屋で展開。登場人物の数に増減がある場合に場面がかわる。この点で古典主義演劇の作劇術を踏襲している。ちなみにシェイクスピアはこの方式をとっていないが、同時代の劇作家・詩人のベン・ジョンソンの演劇は劇作家が古典主義者を標榜しているだけにこの形式を遵守している。
読みやすくわかりやすい翻訳なので、作品を理解することは容易である。問題はアントニーがどこまでアントニーかである。
比較のためにシェイクスピアの『十二夜』のアントニーを例にあげる。
アントニーの出自は問題がある。デュマの『アントニー』では主人公は私生児ということで自身の家系を知らない。財政的援助を受けていて金に困らないようだが、誰から援助を受けているかはわからない。また母親も父親もわからず、孤児に近い。本人もそのことを嘆いている【『十二夜』のアントニーは船乗り・船長で、出自そのものは特に問題はない。】
その出自のせいもあって、アントニーは社会のなかで、自身の正体をカミングアウトできない秘密のアイデンティティを保持することになる。その私生児であることから、負い目を感じ、うしろめたい存在となる。【『十二夜』のアントニオは、イリリアとは敵対関係にある国の出身で、身分・出自を偽ってイリリアに上陸し、愛するセバスチャンを人目を忍びながら守ろうとうる。『役者になったスパイ』においても警察官であることを隠して劇団のエキストラになり、やがてアントニオ役をまかされる。アントニオは、その真の隠れた姿と合致する。】
アントニーは、自身が愛する者に対しては激しい情熱でもって接する。出自に問題があり、、身分などを偽っているために、そのぶん愛情と愛情表現がエスカレートしがちである。愛のためにはなんでもする男、それがアントニーである【『十二夜』におけるアントニオにとって愛の対象は男性だが、その男性のためには何でもすることを宣言する。】
アントニーは、愛する対象に翻弄される。あるいは愛する者に裏切られる。デュマの『アントニー』は、アデルを愛したことによって、身を亡ぼすことになる。アデルは悪意のある女性ではないし、決してファムファタールではないのだが、彼女との交流によって、アントニーは自身を破滅へと追いやることになる。【『十二夜』でアントニオは、窮地に陥ったセバスチャンの助太刀をするのだが、彼が愛するセバスチャンと思ったのは、実はセバスチャンの双子の妹で男装しているヴァイオラであり、彼女はアントニオのことは何も知らず、ただ戸惑うばかりだが、アントニオはそれを裏切りと受け止める。アントニオにとっては、愛する者に裏切られたかたちになる。シェイクスピアにおけるもうひとりのアントニオ/アントニーを思い出してもいい。『アントニーとクレオパトラ』のアントニー(アントニウス)。彼がクレオパトラに翻弄されることはいうまでもない。】
アントニーは情にもろい。アントニーは感情的というか感情にゆさぶられる。それも恋愛にかかわる感情に。片想い、競争心、嫉妬、怨嗟、怨念、未練など、報われぬ愛における感情の全レパートリーがアントニーの性格表現の全レパートリーとなる。アントニーは悪人ではない。だがアントニーにはどこか弱い。感情的にも、道徳的にも弱い。その弱さと不幸がつながっている。アントニーは哀れをさそう人物なのである。
決して悪人ではないが、かといって観客からの全面的同情と共感の対象となるかというと、そうでもない。かわいそうだが、全面的な同情と共感の対象にはならない、あわれだが、同時にうっとうしい、そうした人物なのである。そのような人物をどう形容したらいいのだろうか。いまのところいえるのは、それが「アントニー的」だということである。
デュマが主人公にアントニーという名前を選んだのは決して偶然ではない。偶然に翻弄され不幸になるのがアントニーという名前の人物の特徴だが、そうした人物にアントニーという名が冠せられたのは決して偶然ではないのである。
予告編:次回は、私がもっともアントニー的と思われる人物が登場する劇作品をとりあげたい。シェイクスピアの次の世代の劇作家(シェイクスピアとも共作したか、シェイクスピアを改作した劇作家)トマス・ミドルトンの『魔女』(The Witch)である(日本語訳はおそらくない)。こんなにアントニーしている人物はないと思われる人物が登場する。その名はもちろんアントニー。
2026年02月10日
デュマ『アントニー』 アントニー劇1
posted by ohashi at 19:20| 演劇
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