2026年02月06日

『ボディビルダー』2

問題は、幾多の事件なり試練を経て、キリアン・マドックスがボディビルダーになる夢をいったんはあきらめるが、最終的にあきらめないことである。アリストテレスではないが、物語には、始めと中と終わりがあるものならば、この映画には終わりがない。いや、終わりらしきものはみえるのだが、結局それは幻想か白昼夢であることがわかる。その終わりではない。ならばどんな終わりが。結局、終わりをみつけられないまま、始めと中だけがあり、終わりのない物語が、まさに終わるのである。

たとえば、『ボディビルダー』は『タクシードライバー』によく似ている。しかし『タクシードライバー』のほうは、疎外され孤立し狂気に陥る主人公が、その暴力を、社会のために使う。そうすることでヒーローになり社会的に高く評価される――その結果、追及していた承認要求が満たされる。孤独と狂気が昇華され社会的有用性を帯びることになる。これで主人公の苦悩と苦難は終わる。これに対し『ボディビルダー』では、主人公が必死に構築し改造してきた肉体は、芸術的な美の対象(コンテストの評価対象)ではあっても、社会的にみて無用の長物である。何の役にもたたない。その強靭な肉体は戦いのためのものではない。彼は殺人マシーンになるためにトレーニングに励んではいないのだから。彼の格闘能力はゼロである。そのため攻撃力を活かしてヒーローになることもできない。ただその筋力から力は出せるので、物的破壊へと暴走することにはなる。主人公の怒りは人ではなく物にむけられる。彼は他人を身体的に攻撃することは一度もない。たとえ身体的に攻撃されることはあっても。

おそらく主人公にとって最良の道は、プロのボディビルダーになることをあきらめることである。もちろんここまで来たのだから、簡単に別の道を選べない。しかしボディビルディングに固執している限り、確実に破滅し、社会的信用評価を下げることになる。

この映画における主人公の位置づけとして、ひとつ言えることは、アメリカン・ドリームの囚われ人(プリズナー)ということであろう。これに対して映画が提供する結末は、ドリームを達成するというハッピーエンディングであってもよかった。アメリカン・ドリームの達成者を主人公をする映画は多い。キリアン・マッドクスも、もしかしたらロッキーになれたかもしれない。だが、キリアン・マーフィーはロッキーよりもランボー(もともとは顧みられず差別されるヴェトナム帰還兵)に近い。

実際、アメリカン・ドリームの特徴は、ほんの一握りの成功者のほかに、やまのような負け犬を生み出すことである。そして成功者の映画があると同時に、映画とりわけアメリカ映画はまた負け犬にも寄り添う作品を輩出してきた。負け犬とは、たんに挫折を味わった人間ということではない。挫折はつらいものだが、挫折のつぎに新たな出発もある。しかし、アメリカン・ドリームの怖いところは、中毒症、依存症のように取り付いて、アメリカン・ドリームを手放さないようにさせることだ。いつまでも見果てぬ夢を見続ける。何度挫折しても夢を捨てない。薬物やアルコール依存症とまったく同じ症状である。負け犬とは、アメリカン・ドリーム依存症の別名なのである。

かくして『ボディビルダー』においてキリアン・マドックスは、挫折して人生をやり直せば救いを見出すことができても、挫折を、敗北を認めず、夢を追い続けるのだ――超一流のボディビルダーとなって名声を博し、多くの雑誌の表紙を飾る存在になるという夢を。『ボディビルダー』の原題とはMagazine Dreams(雑誌の表紙を飾る夢)であった。

だがそれだけではあるまい。キリアン・マーフィーがダイナーだかレストランで暴れ、そこの駐車場の車を壊すと、かけつけた複数の白人警官に取り押さえられるのだが、その姿はアメリカにおいて日常的に繰り広げられる白人警官のアフリカ系市民への暴行そのものでもあった。キリアン・マーフィーの承認要求は、たんに人気者に、ヒーローに、セレブになりたいということではない。その淵源には、人種差別があり、その克服、あるいは復讐が、彼をボディビルダーへとかりたてている。彼の承認要求は個人的・私的なものではなく、社会的なものであり、その怒りは公的差別と不公平にむけられているのである。

だからどうしたというなかれ。この映画は、そうしたアフリカ系市民が置かれた状況の特質を赤裸々に暴いている。つまり現時点では救いはない。今日もまたアフリカ系市民は白人警官に暴行を加えられるだろう。今日もまたアフリカ系市民は見下され、屈辱を耐え忍ぶしかないだろう。事態は改善される見込みはない。ただ忍耐することしかない。

こうみれば、アメリカン・ドリームを捨てきれないキリアン・マドックスはただ愚かではない。夢を捨てず、希望を抱き続ける彼は、実は楽観的であるのではなく、ただ耐えているだけなのだ。彼は不可能な夢を追い続けているかにみえて、実は、耐えているだけなのである。アメリカン・ドリームの拷問に。夢を抱くのではなく、夢という拷問に耐える。それが彼のような人種と階級にとって、いまできることのすべてであるように思われる。彼はこう語っているかにみえる。I will be the pattern of all patienceと。
posted by ohashi at 22:32| 映画 | 更新情報をチェックする