2026年01月23日

『役者になったスパイ』1

原題はMoskau Einfach! で、「モスクワまで、片道切符で!」という意味だろうか。日本語のタイトルとのギャップに驚かれる人もいるかもしれないが、日本語のタイトルはそっけないが、内容を反映してはいる。

映画.COMでは、「1989年、冷戦の緊張が続く中、スイスではソ連の共産主義に対する恐れが社会を覆っていた。反体制派の監視と情報収集を目的に、警察官のヴィクトール・シュエラーはデモ活動を行うシャウシュピールハウス劇場への潜入を命じられる。しかし、シュエラーは監視対象の女優オディール・ヨーラと恋に落ちてしまう。さらに劇団員たちとも交流を重ねるうちに、シュエラーは自らの任務に疑問を抱き始める。ウィリアム・シェイクスピア「十二夜」の稽古と現実が交錯しながら、シュエラーの心は任務と恋の狭間で揺れ動いていく」とある。

スイスというと「優しくて穏やかな国」という印象が昔はあった。事実、戦後日本にとって、永世中立国のスイスは手本とすべき、またそうなったらよいと思わせるユートピアのような国であった。しかし、いつのころからは、気づくと、スイスの実態は「強くて、周りからこわいと思われる国」となっていて、この映画もまた「強くてこわいスイス」の暗部をコメディを通して暴くものとなっている。

戦争中、スイスはナチスに協力していた。ドイツ語圏ということも大きく作用したのかもしれないが、戦後もまたそうしたファシストが実権を握り、反体制勢力を密かにスパイし監視対象としていた。監視対象はなんと90万件。そのファイルの存在が明らかになったのが1989年のフィッシュ・スキャンダル(Fichenskandal/Fichen scandal, 英語ではSecret Files scandalとかIndex card scandalともいうらしい)だった。ちなみに1989年はベルリンの壁の崩壊の年ででもあった(崩壊は11月9日)。

こうした政治的動乱あるいは変革期を背景にしたコメディなので、そこは政治的諷刺がたっぷりあるのかと思いきや、そうでもない。そのへんが、なんとも中途半端でいただけないのだが、今回、それはさておき、この映画のゆるがせにできない不穏な陰謀ともいえるような抑圧についてどうしても触れずにはいられない。

それはシェイクスピアの『十二夜』とも関係する同性愛の抑圧である。これは絶対に許せないヘテロセクシズム支配であって、この映画がやっていることは、結局、スイスの政治的ファシストと実は同じなのである。この映画には、シェイクスピアの『十二夜』についてよく知っている専門家ともいえる人たちが推薦の言葉を寄せているが、おそらく、映画を観てこんなはずではなかったと彼らは思ったに違いない。にもかかわらず推薦の言葉を寄せるとは、恥を知れ。

↑ただしもちろん別の考え方もある。スイスの闇歴史ともいえる事件にからめたコメディ映画は、たとえ1989年時点のこととはいえ、まだ記憶に新しいことかもしれず、いっぽうで左翼・リベラル派に肩入れしすぎると保守派からは反発されるかもしれず、かといって保守派を擁護すれば、違法な警察国家の監視体制を肯定することになり、結局、どっちつかずの中道的諷刺で終わるしかなかったのではないか。もちろんこれは誰か一人の判断ではなく、映画製作側における合議によって決定されたのであろう。そのとばっちりで保守とリベラル双方のご機嫌をとるべくシェイクスピアの『十二夜』から同性愛的・ジェンダー流動的要素を完璧に排除することになった。その結果、ありきたりな異性愛物語に落ち着くことになった。よりにもよって『十二夜』を上演するという映画が。

さらにこの映画を推薦することになったシェイクスピアの専門家たちも、おそらく映画をみて、なんだと思ったに違いないのだが、そこで推薦することを辞退はせずに、お茶を濁したような推薦をしたということだろう。世界は妥協からできている。

問題は、『十二夜』において、明らかに同性愛者である人物を、映画が、異性愛者にしていることである。この暴挙を、強制的異性愛体制化あるいは異性愛中心ファシズムといわずして、なんというのか。

この映画では、左翼反体制派の拠点となっていると疑われている劇団あるいは劇場に、警察の捜査官がエキストラの一人として送り込まれる【設定では、エキストラは二人である。ふつうの劇団が、端役の二人のために、わざわざ人を、それも演技経験のない素人を雇うことはない。劇団員がいなければ、劇団員の誰かが二役をするだけであって、エキストラを雇うというのは、演劇のことを知らない映画関係者のバカな発想か、あるいは実情と会わないと知りつつ、そうした設定にせざるをえない映画製作者側の観客を舐めきった仕掛けだろう】。劇団はそこでシェイクスピアの『十二夜』を上演準備中であり、本読みからはじめてリハーサルを重ねてゆく。主人公は最初、アントニオを逮捕する警官役だったのだが、アントニオ役の俳優が怪我をしたため、急遽、主人公がアントニオに選ばれ、舞台に立つことになる。

主人公は警察側から送り込まれる潜入捜査員なのだが、やがて劇団の主役俳優の女性を恋してしまう。その女優は『十二夜』ではオリヴィアを演ずる。オリヴィアというのは、死んだ兄のために喪に服し、公爵の求愛を退け、身近に女性だけを配している暮らしている貴族の女性だが、男性に変装した主人公、男臭くなくどちらかといえば女性的な美少年ともいえる主人公ヴァイオラ【この映画のなかでは男装の麗人ともいえるヴァイオラは完全に抹消され言及もされない】に恋してしまうのである。それがオリヴィア。

最終的に異性愛に走るオリヴィアだが、そこに至るまでは同性愛的傾向の強い女性である。それをこの映画では、最初から、演出家とできている女性俳優に演じさせる。レズビアンっぽい女性の役を演ずるのが、よりにもよって、むくつけき男性演出家と肉体関係にある女性俳優なのである。なんという悪意。なんというホモフォビア。同性愛をとにかく抑圧するという意図しかないのだ――これがスイスか。

そしてこのオリヴィア役の女性俳優と、潜入捜査している捜査官が恋に落ちる。この捜査官、最初はエキストラ(この設定の非現実性はすでに述べた)だったが、アントニオを演ずることになる。よりにもよって。そもそもオリヴィアは自らをレズビアンだとカミングアウトしているわけではないし、彼女のレズビアン性は解釈の問題かもしれないのだが、アントオは違う。アントニオは、シェイクスピアの戯曲そのものが、明確に、ゲイだと指定している。自分は愛のためなら何でもするというのが、アントニオの決め台詞だが、そこでいう愛とは男性への愛である。しかし映画では、それを女性(先ほどの女性俳優)への愛の告白に変えてしまう。明確な同性愛を異性愛にすりかえる、なんという悪意、なんというホモフォビア――これがスイスか。

『十二夜』のなかで、アントニオは船乗りというか船長である。映画のなかで潜入捜査員は「船乗り」ということになっていて、『十二夜』の設定に寄せようとしたのかもしれないが、まったく有効活用されていない。そのアントニオは、海で溺れかかった若い男を助ける。そしてこの男の面倒を見る。やがてイリリア(『十二夜』の舞台となる国)に到着し、その国をみてみたいという若い男の願望をかなえてやるために、アントニオは自分の財布を持たせて好きに使うようにとまでいう。ただ、アントニオはイリリアと敵対している国の出身で、見つかれば逮捕され処刑されるかもしれない。しかし、若い男のために、アントニオは危険をかえりみず、自身もイリリアに潜入し、若い男を守ろうとする。彼はいう、自分は愛のためには何でもする男だと――この愛が若い男への同性愛であることは歴然としている。そしてアントニオは敵国に潜入する。この設定は映画のなかの潜入捜査員の設定と同じだが、映画は、それをまったく有効活用していない。

アントニオが敵国人だとばれて逮捕されてしまうのは、彼が守ろうとしている若い男が、決闘騒ぎに巻き込まれ、命を落とそうとしているところに遭遇し、おのが身の危険を顧みずに、日本風にいうと決闘の助太刀をしたからである。アントニオはそれで逮捕されてしまう。

ただし、このとき若い男を助けにしゃしゃりでたアントニオだったが、実は、この若い男は、彼の双子の妹で男装したヴァイオラなのだが、アントニオにはそれがわからない。そこでさらに混乱に拍車がかかる(このあたりシェイクスピアの喜劇的センスがさえる)。

問題は、アントニオが自身を犠牲にしてまでして助けようとした若い男の、その名前である。セバスチャン。セバスチャンだぞ。アントニオとセバスチャン。『十二夜』は、ふたりが出会った瞬間から恋におちる――とくにアントニオのほうがセバスチャンに――ことを明確に伝えている。アントニオとセバスチャンの名前によって。

このことをまったく顧みないどころか、抑圧してしまう、この愚劣なスイス映画は、いったい何がしたいのだ。もちろん同性愛を抑圧したいのである。これがスイスなのだ。

つづく

posted by ohashi at 19:24| 映画 | 更新情報をチェックする