2026年01月21日

『おくびょう鳥が歌うほうへ』2

シアーシャ・ローナンが演ずるローナは、女優の名前と似ているのだが、「Rona」は、ゲール語で「Seal 封印」を意味するらしい。封印された欲望を解放するというのはこの映画の主題でもある。またRonaは、この映画の監督ノーラ・フィングシャイトNora Fongscheitの名前Noraのアナグラムでもある――それがどうしたといわれれば、なにも言えないのだが、『システム・クラッシャー』Systemsrenger/System Crasher(2019)で鮮烈なデビューを飾った監督が、劇映画第二作の『消えない罪』The Unforgivable(2021)をへて、また今作で、システム・クラッシャー少女の物語に回帰したとことを、主人公の名前のアナグラムで宣言しているように思えてならない。

とはいえ『消えない罪』もまた私は少女物だと思っている。映画が発明あるいは発見した「少女」は、決して途絶えることなく間歇的に制作されつづけている。しかも少女物映画の魅力あるいは魔力は容易に捨てがたいものがあって、同じ監督は何度も少女物を作っている。

2025年の話題作のひとつは、少女物の傑作、早川千絵監督の『ルノワール』だったが、しかし、早川監督の前作『PLAN75』(2022)も部分的に少女物であり、登場する倍賞千恵子は、75歳以上の老人ながら、同時に永遠の少女でもあって、最後にはささやかなかたちかもしれなないがシステム・クラッシャーになる――実際、少女としての倍賞美津子がシステム・クラッシャーであることを山田洋次監督の『東京タクシー』(2025)は見事に露呈させいていた。

【なお2025年に私たちが出会った少女物の映画としては、『バレリーナ:The World of John Wick]』(レン・ワイズマン監督)がある。サブタイトルの付け方がバカなのだが。バレリーナというメインタイトルはよいとしても、それが「ジョン・ウィックの世界」と意味的にどうつながるのかわからない。原題はFrom the World of John WickとFromがついている。これを抜かしてしまうと意味が通らない。ジョン・ウィック物のひとつ、その派生物であるとうのがFromの意味なのだ。

 同様に間抜けな例として、『ファーナス/決別の朝』(2013)がある。スコット・クーパーのこの映画はいい映画なのだが、タイトルがおかしい。「ファーナス」というのは「溶鉱炉」のことかと思ったが、それでは意味が通じないので、固有名詞で人名・地名のどちらかだろうと思った。ところが原題はOut of the Furnaceで「溶鉱炉から離れて」とか「溶鉱炉から出て」といった意味で、ファーナンスは人名でも地名でもなかった。Out of を訳さないのでへんなことになる。

 閑話休題。2025年のアメリカでは話題作だったポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』では非合法のテロリスト/革命家の女性は、妊娠して大きな腹部をこれみよがしにさらすのだが、彼女は母親というよりも終始、システム・クラッシャーとしての少女だったし、映画では、彼女が生んだ娘もまた少女となって後半活躍をする。あと2025年から今年にかけてリバイバル4K上映されている『落下の王国』もまた少女物であることはいうまでもない。】

ノラ・フィングシャイトの『消えない罪』(2021)も、保安官殺しの服役囚で仮釈放中の女性をサンドラ・ブロックが女優のオーラを完全に消し去って演ずるというある意味すごい映画なのだが、そこでは娘への強い母性愛が際立っていて、少女物とは無縁に思われるかもしれない。しかしそれは最初のうちで、彼女の娘と思われていた女性は、実は彼女が母親代わりに育てた歳の離れた実の妹であって、彼女はを探すのが『消えない罪』であった。そう考えればこの作品もまたみごとなまでに少女物の範疇に入る。

ノラ・フィングシャイト監督はいまのところ少女物の映画しか撮っていないともいえる。『システム・クラッシャー』に戻ると、同情の余地はないわけではない9歳の少女が、あらゆる束縛を嫌い暴れまわるこの映画は、途中から、「じゃじゃ馬ならし」物語かと思えてくる。実際、彼女の通学の付添人をする男性が、森のなかで彼女と暮らすことで、彼女の暴走を抑え、彼女を社会性を身に着けた子供に変身させようとするところがある。そして、そのプロセスと結果に私たちは関心を抱くことになるのだが、同時に、野生動物を家畜化するような矯正行為には、たとえそれが暴力的なものではない、あくまでも教育的配慮に基づくものであっても、なにか落胆してしまう自分がいることに気づくのだが……。

大丈夫、彼女は馴致されることはない。森での合宿は、結局、なんの効果も奏さず、彼女は暴れまわる。映画の軽快な音楽が彼女を応援する。彼女が暴走しはじめると、それを支援するような音楽が付随するのだ。そして最後、逃亡のはてに死にかかった彼女は、施設にもどされ、やがてアフリカでの矯正教育の日々を迎えるのだが、大丈夫、アフリカへと向かう空港のなかで、彼女は逃げ出すのである。Run, Benni, Runというのがこの『システム・クラッシャー』の別タイトルのように思えてくる(Benniというのは主人公の少女の愛称)。

押さえつけ矯正するのではなく、解放して暴れるままにする。周囲の大人たちにとってはたまったものではないが、おそらく、誰もおさえることのできない、荒ぶるエネルギー体としての少女の無軌道なまでの自由な精神の横溢とそのかたくななまでの自己充足性が、不可能な実存を垣間見せてくれるという点で、こうした少女物の映画には得難いものがある。

それは狂人トランプ大統領と同じような専制的独裁の暴力を肯定するのかと、あきられるかもしれないのだが、問題は、そのような体制側の管理者目線で判断を下しては何も見えないということであって、抑圧され自由を奪われもがき苦しむ者の側に立った判断であれば、彼女の無軌道な暴走のなかに意義を見出し、ひいてはそれが、私たちの愛の無償性を引きだすことになるだろう。その意味で、彼女はある意味、教師である。私たちが彼女を教えるのではなく、彼女から教えられるのである――あいにく、彼女/教師からみた私たちは全員落第生となるしかなく、そこが悲しいとしても。

じゃじゃ馬ならしを思いついたのは偶然ではない。『システム・クラッシャー』の最後で彼女は野生のオオカミに出会う。彼女の愛をうけとめ、彼女を愛するのは動物でしかない。システム・クラッシャーとしての少女と心をかよわせることができるのは動物しかない。そういえば『ルノワール』でも、沖田フキ/鈴木唯は、馬と話せるのではなかったか。また『おくびょう鳥が歌うほうへ』においては主人公の女性とアザラシとの交流があった――もちろん映画の冒頭近くにおける羊の生々しい出産、映画の最後におけるおくびょう鳥ことウズラクイナの声も忘れてはならない。

ノラ・フィングシャイト監督の映画というよりも、少女物の映画において動物との交流あるいは〈動物になることBecoming Animals〉は重要なモチーフなのである。主に野生動物と、最初から野生である少女とは、同類として交流するものと措定されているのである。いやそれだけではない。〈動物になること〉〈動物への生成〉は、ドゥルーズの用語でもあって、それはモル化(システム化)するのではなく分子化する(システム・クラッシャー)運動性と同義でもあった。ならば私たちはここに、分子化する運動性の名称として、〈動物になること〉のほかに〈少女になること〉を追加してもよいだろう。これは少女よ永遠なれというスローガンにつながるものではない。少女であることがすでに成長も成熟も拒みシステム化も拒むものであること、つまりは永遠なのであるから。
posted by ohashi at 23:02| 映画 | 更新情報をチェックする