原題はThe Outrun。「追い抜く、追い越す」という意味のほかに、「限界を乗り越える」というような意味もある。「則を超える」というような意味だとすれば、まさにこれは、『システム・クラシャー』Systemsporenger/System Crasher(2019)の監督ノラ・フィングシャイトNora Fingscheitの面目躍如たる作品ということになる。
日本でつけた「おくびょう鳥」という、のほほんとしたタイトルは、この映画の激しさに似合わない。ただまったく場違いなタイトルというわけでもないだろう。「おくびょう鳥」と言われているのはcorn crakeという鳥で、「ウズラクイナ」と訳されているようだ。おくびょうな鳥で、なかなか姿をあらわさないこの鳥が、映画の最後で、鳴き声を聞かせる(姿はみせない)。それは主人公がようやくみつけた、本当の、隠れた自分の存在そのものだとわかる。
もちろん主人公にとって隠れた自分は、実は、映画の最初からあらわになっている。隠れた自分は、捜されたり隠されたりする対象ではなく、最初から出まくっているのだ――アルコールの力で。彼女はアルコールが入ると、まさにアウトラン状態になって、暴れまくる。そのため社会的信用を失い、恋人からも見捨てられる。そのため依存症の療養のため故郷のオークニー諸島を訪れる。そこで父親の農業を手伝う日々は、彼女に断酒生活を可能にさせるのだが、それも破綻する。そのためオークニー諸島の最北部のパパ(Papa)・ウェストレー島(Papaを映画では「パパ」と発音していなかったような気がするが、現段階では確かめることはできない)で野鳥観察の日々を送りつつ断酒をつづけることになる。
いくつかの示唆的状況なり設定がある。
まず彼女はなぜアルコール依存症になるのか定かではない。『システム・クラッシャー』の少女のように、なにかトラウマを抱えているわけではない。
ただ彼女の過去に依存症の原因をみつけようとすると、それは彼女の父親である。父親は、アルコールが入ると、気が大きくなって暴れはじめる。とくに悪天候の時には豪雨・暴風雨のなかで叫びまくる。この父親は、ふだんは穏やかな性格だが、アルコールによって性格が激変し、妻とは離婚するのだが、しかし、娘に暴力をふるったりはしなかった。その異様な暴れっぷりが幼い娘にはトラウマになったかもしれないのだが、しかし、娘のほうも長じてロンドンで大学院生として暮らすようになると、アルコールによって父親以上に暴れまくる。むしろ父親の狂気が一時的に乗り移ったかのようにもみえる。
パパ・ウェストレイ島の雑貨店の主人は、自身がアルコール依存症であったことを告白する。いまは断酒しているが、アルコールへの誘惑を必死で押さえつけているという苦しい生活、あるいは苦しい人生を彼女に吐露する。
昔、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を英語で読んだとき、主人公のフランケンシュタイン(人造人間のほうではなく、人造人間を作る科学者の方)が、スコットランドのオークニー諸島でもう一人の人造人間をつくろうとするのだが、このオークニー諸島とはどんなところかと調べたことがある。ロマン派的崇高(サブライム)を喚起する激しい天候と不毛の地でもあって、この最後のゴシック小説ともいえる作品にぴったりの場所だと感服した記憶がある。
実際、この映画からもわかるように大海に点在するオークニー諸島、とりわけその最北部のパパ・ウェストレイ島は、文明がそこで果て、むき出しの大自然と接するような殺風景な極北の地でもある――その殺風景さがかえって魅力となって観光地ともなっているくらいに。空と海とが交わる荒涼たる空間、しばしば荒れ狂い空と海との境を消し去る荒ぶる自然に接せる人々は、おそらく神的存在を意識することになろう……。
そしてこのオークニー諸島の自然、その決して癒しの自然ではない荒涼たる自然が、主人公のアルコール依存症を押さえつけるのではなく解放することによって主人公を救う。それは欲望を押さえつけ禁欲的な人生を強いるのではなく、自分の欲望に忠実に生きることで【これはラカンの考え方を踏まえている】、新たな自分を発見する、あるいは生まれ変わる、いや端的に自分を生むということである。
アルコールが入ったときハイになる、その快感を主人公は忘れることはできない。そのためなかなか断酒ができない。しかし、断酒なり禁欲的な生活は依存症の根本的な解決とはならない。断酒会でのノルマを達成して社会生活に復帰できても、自分の欲望を押さえつけ耐え忍び、また欲望の暴発におびえながらの生活は望ましいものでないばかりか、真の生活でもない。要は、アルコールや薬物によってハイになるのではなく(そのように得られる高揚感は最終的に心身を蝕み自身を孤立と破滅へと追いやり、周囲に限なき害悪をもたらす)、小さな自分、ちっぽけな人間など押しつぶしてしまいそうな大自然に、自らを開くことによって高揚感を得ること、自分のなかの荒ぶる欲望と荒ぶる大自然とをシンクロさせることで、新たな自分を見出し、シン生(新生、真正)を実現することである。
映画の最初のほうで主人公ローナは羊の出産に立ち会うというか、母羊の腹のなかに手を入れて赤子を取り上げる(これは実に生々しい場面で、実際に、それは特撮ではなく本当の出産場面であるとのこと。7回出産に立ち会って撮影、その中のひとつを最終的に使ったようだ)。そして映画の最後にローナ/シアーシャ・ローナンは、おくびょう鳥ことウズラクイナの声を聴く。映画のテーマが生まれることであるのは明白である。ただし、それは生まれ変わる、変身することではなく、これまでおくびょうで隠れていた、またアルコールの助けをかりることでしかおもてに出てこられなかった自分と決別して、自分をそこなうことなく、自分の欲望に忠実なままに、自分の力で自分を解放する自分になることなのである。
つづく
付記:シアーシャ・ローナンは有名な俳優だから、とくに語ることもないのだが、彼女の母親役としてサスキア・リーヴズが出演していて、なんともなつかしい思いがさいた。彼女はコンスタントに映画ならびにテレビに出演しているのだが、たとえば『ルーサー』にレギュラーで出ていた記憶があるが、それ以外の映画作品なりテレビドラマを日本で観る機会がなくて、なんだか久しぶりに出逢ったという印象が強い。私がストラットフォード・アポン・エイヴォンにいたころ、ロイヤルシェイクスピア劇団(RSC)に所属していた彼女は、RSCの演目のほとんどに出演していた。とくに感銘を受けたのは、シェイクスピア以外の作品で、ヘイウッドの『やさしさに殺された女』(A Woman Killed with Kindness)とかフォードの『あわれ彼女は娼婦』(’Tis Pity She’s a Whore)の舞台を私はサスキア・リーヴズのアン・フランクフォード(ジ・アザー・プレイス)やアナベラ(スワン)で観ている――これは自慢で、うらやましいだろういいたいところだが、今では誰もうらやましいとも思わないだろう。マイケル・ウィンターボトム監督の『バタフライキッス』(1995)という鮮烈なレズビアン映画も記憶に新しいのだが、もう30年も前の話となった。彼女が健在であることは私にとっては喜ばしいことで、これからも映画やドラマで観る機会があることを願っている。
2026年01月20日
『おくびょう鳥が歌うほうへ』
posted by ohashi at 20:08| 映画
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