十代の若者たちの青春恋愛映画(漫画とか小説なども)において、定番化していてうんざりするのは、ふたりのうち片方が死ぬこと。たいては女性のほうが、また事故死もあるが、病死が多い(殺人となると話がかわってしまうので、これはあまりない)。
10代で死ぬことの悲哀は大きいのだが、現実には10代で死ぬ、それも病死というのは、そうざらにあることではない。死によって恋愛感情を盛り上げようとするのは、姑息な感が否めないし、心中とか自殺によって愛を終わらせないための手段かもしれないが、常套化するとほんとうに鼻につく。実際、そうした映画はいまでは全く見ない。というか今でもそうした映画が作られていることは唖然とする。
以前、『殺さない彼と死なない彼女』(監督:小林啓一、主演:間宮祥太朗・桜井日奈子、2019)を、そのタイトルに惹かれて観たことがある。オフビートな青春物で私はとしては途中まで面白かった。確かに彼女(桜井日名子)は「死なない彼女」で安心して観ていたら、別に病弱そうにもみえなかった彼(間宮祥太郎)の方が途中で病死。おい、やっぱり、死ぬんかいと怒りがこみあげてきた。殺さない彼は、死んでしまう彼だったのだ。なんじゃいこれは。
『平場の月』では、中学生のとき同級生で、初恋の相手でもあった男女が、印刷会社に勤め仕事は順調だが妻と離婚し認知症の母を介護している男性(堺雅人)として、また病院の売店の店員としてバイトしながら、いくつかの男性遍歴を経て今は寂しい独り暮らしの女性(井川遥)として再会し、旧交を温めつつ、恋愛に発展する。そのため中学時代にどちらがか死ぬという紋切り型の展開とは無縁のいわゆる大人の恋愛映画として感動できるものと考えた。前評判はよかったように思う。
【ちなみに、舞台になっているTMGあさか医療センターに私が入院していた頃は、売店は、映画のように病院が経営しているのはなく、ローソンだったのだが、今はどうなっているのか不明。ただローソンの店員という設定は避けたという可能性はある。】
しかし、映画を観た人ならわかるように、結局は、死が2人を分かつのである。二人は中学時代には死ななかったのだが、死は遅れていただけで、中年になってから、ようやく追いついてきた。中学生は病死することはめったにないが、中年の男女にとって病死は身近な存在となる。結局、中学生時代に、死にぞこなったひとりが、いまようやく死神に追いつかれて死んだということか。しかし、それは死で終わる紋切り型の青春物の中年版ではないか。せっかく大人の恋を期待したのに、結局は中学生の恋愛の中年男女版にすぎなかったというのは、少々情けない。
実際のところ、映画は中学時代の出来事がフラッシュバックで入り、映画のいまとここが、中学時代のいまとここに重なって示されるために、中年版の中学生恋愛というイメージはいや増しに高まるのである。もちろん、そのぶん――中年の男女ふたりは、肉体関係ももつようになるが――二人の愛は中学生どうしのように、いや中学生以上に、純情そのものである。そこが面白いところかもしれない。中年の男女も、気持ちは、十代の中学生なのである。
そして紋切り型の青春恋愛映画のように、死が2人を分かつ。繰り返すが、それは青春恋愛映画の中年版にすぎない。そこがなんとも気に入らない。ハッピーエンディングであれ、そうでなくても、どうか死ではなく、別の要因で、愛に決着をつけてほしい。死は安易すぎる。恋愛映画における死とりわけ病死は安楽死にすぎない。
ただし中学生恋愛の中年版以外の点で、興味深いのは、女性が「太い」と語られているところである。体型のことではない。芯が太いというような、性格の強さというか堅固さを、どちらかというとポジティヴにとらえた表現で、これが映画とか原作のなかだけの表現か、一般によく使う言い方は私にはわからないが、映画のなかで井川遥は、「太い」女性として語られる。
とはつまり彼女が永遠の「少女」であるということだ。
比較的最近、映画の発明のひとつとして、何ものにも支配されない独立不羈の「少女」の存在があると語った私は、では、たとえばどんな映画がそうかと言われて、物忘れがひどい耄碌老人としての私は、すぐに作品名がでてこなくて、知名度の低い作品をなんとか引き合いに出すしかなかったのだが、よくよく考えれば、今年話題になった作品として『ルノワール』を真っ先に挙げるべきであった。あるいは河合優美が演ずる女性は、「少女」であることが多い。『ルノワール』の監督・早川千絵による『PLAN 75』(2022)の倍賞千恵子は、『TOKYOタクシー』でもそうだったが、永遠の少女というイメージがぴったりくる。彼女たちは、みんな「太い」のである。
実際、映画の中で何度も「太い」と語られる須藤葉子/井川遥は、結局、自分で人生を、生き方を、死に方を選択肢、誰にも従属しない。退院後は親族や恋人の世話になるしかないが、最後は、彼女は一人で死ぬ。誰にも迷惑をかけないのである。あるいは迷惑をかけることを潔しとしない、「太い」女性なのである。
【このことを異化的に示すのが、『殺さない彼と死なない彼女』で死ぬことになる間宮祥太朗のアウトサイダー的な芯の強い変人かつ傲慢なキャラクターである。それは誰にも支配されないまま死んでゆく少女の男性版のようなところがある。そしてこの間宮と桜井のふたつをあわせると、太い少女像が完成するようなところがある。原作の漫画とは異なる世界に映画は私たちを連れ出している。】
その意味で、彼女の現在が、中学時代の彼女と二重写しになるのは、彼女の、中年になっても少女であるという、少女性を強調することになろう(もちろんそれは中学生的心性を失わない堺雅人の感情と対になっているのだが)。そして誰からも支配されない彼女にとって、もっともふさわしいのは、ひとりで死ぬことである。
そう考えると、数多の青春恋愛映画で死ぬ中学生・高校生の女性(ヒロイン)たちは、少女性を全うするために、大人の女性として男性秩序に組み入られ、女性となる前に死ぬのだともいえよう。したがって、病死が恋愛を終わらせたり活性化したりする青春恋愛映画の紋切り型プロットに、ただうんざりするだけではなく、そこに「太い少女」の物語の可能性を、私たちは見出すべきかもしれない。
あと、堺雅人扮する青砥健将のキャラクターついて。彼女が手術後、病気の再発を怖れつつ生活し仕事をはじめると、青砥/堺雅人は、彼女との二人だけの旅行を計画しはじめる。人口肛門をつけての不便な生活を送る彼女を旅行に誘うというのは、あまりに理不尽で、これは女性を支配しようとするエゴイスティックな傲慢な男性の挙措にすぎないのではという批判の声があってもおかしくない。それは確かにそうだと思う。手術後の彼女に対する青砥/堺雅人のふるまいは、あまりに無神経であり、病人を思いやっていない。ただ、私自身の個人的経験からしても、それは起こりうることである。
私自身、母親を、須藤/井川と同じ病気で亡くしたのだが、手術後、病状から回復した母親に接して、私は母親がこれで病気から解放されて永遠に生きるものと思っていた。その思いは、もちろん幻想にすぎないことはわかっても、手術後に母親が死ぬことは想像すらできなかったのだ。私は手術後の母の余命について医師に尋ねなかった。医師としては私が余命について長くないことを自覚していると判断しただろうが、私は、母に、余命などない、母は永遠に健康な人間として老いることも病気で死ぬこともないと本気で信じていたのである。私としては、映画のなかの青砥/堺をこれ以上責めるつもりはない。私は母を旅行に連れ出そうとはしなかったが、青砥/堺の愚かさの多くを共有していることは認めざるを得ない。青砥/堺――それは愚かな私自身の姿でもあったのだから。
