良い作品だとは思うが、パリタクシーを公開時に見ているので元作品は超えてないと感じた.
というのがあった。これは個人の意見なのだとやかく言えないのだが、どっちが超えている、超えていないという感想ほど、語る人間の愚劣さを露呈させるほどのものではなく、また評言の低下というか劣化を招くものはない。私も『パリ・タクシー』を公開時に観たが、『TOKYOタクシー』のほうが超えていると思った。こう語ったところで、何の意味もない。それぞれの映画に、それぞれのよさがあり、それを玩味することが重要で優劣をつけることに意味はない。
ただし、上記の評者は愚かであってもバカではない。次のコメントはバカのそれである。
止めた車に周囲の映像を組み合わせた撮影ですね。
昔はよくある手法でした。【いまでもそうだぞ。ド阿呆】
かなり良くなったとはいえ、【いまはAIでやっているので、抜かりはない】
車の振動や周囲の影などが伝わらず、【伝わるわけねーだろう。体感シアターか】
残念でした。【残念なのはお前の頭だ】
走行ルートも目茶苦茶ですね(笑)
東京人でない私でも、あそこ走った後、そこ行く?って分かりましたよ…【以下略】
こういう自分が頭がいいと思っているバカは救いようがない。これは小さな子供が訳知り顔に話しているさまが思い浮かぶ。このテレビではこの人殺されるんだけれども、これは殺されたふりをしているだけで、ほんとうは死んでないよ。ここで血が流れるんだけども、これは血のりっていって、血にみせかけた偽物なんだな。だからみんな嘘なんだ――という頭のいいバカな子供に対しては、そんなことは誰だってわかっている、ドラマのなかでほんとうに殺し合いをしているとは誰も思わない。でも、この人はほんとうに殺された、この人は平気で人を殺す人なんだと、そう頭のなかで想像してごらん、そうして恐ろしい、悲しいと思い、ショックを受ける方が、ドラマをずっと楽しめるし、ドラマの内容もよく理解できるよと教え伝えることは必要である。
その子どもがもう少し歳をとっていると、こう語るかもしれない。演技で死んでいるんだけれども、血の出かたが少ないとか、死に際の痙攣sita
ほうがいいとか、拳銃で殺すのだったら頭を狙ったほうがいいとか、わけ知り顔で話す、以前として、頭のいいバカだとしたら、この子が長じて「止めた車に周囲の映像を組み合わせた撮影ですね。昔はよくある手法でした」とクソ偉そうに語って恥をさらすかもしれないので、こうやって教え伝えた方がいい――
もしこれがほんとうに、この人は死んでしまったのだと視聴者が信じてしまうような演技なり演出をしたら、観客は不快と恐怖を感じて動転してしまうかもしれない。たとえ一瞬でもいい、そんなふうに動転してしまったら、ドラマがだいなしになるでしょう。視聴者が、なにかの場面に驚き恐怖心を抱いたらドラマの内容はそっちのけになる。この殺害場面は、ほんとうに現実で起こった殺害の再現なり真に迫った模倣なのではなく、人が殺されたという記号であればよいというか記号でないといけない。そうでないと視聴者は不快になり憎しみさえ抱いたりするからだよ、と。
さらにいうと、ほんとうに記号だったら、視聴者は白けてしまうから、ある程度、真に迫った行為というものを示す必要がある。真に迫りすぎてもまずいけれども、抽象的な記号的表現になってもまずい、その按配というかバランスがたいせつなんだね。あ、ごめん、こんな話は君にはついていけなかったね。
「走行ルートも目茶苦茶ですね(笑) 東京人でない私でも、あそこ走った後、そこ行く?って分かりましたよ…」と語っているが、たしかに、走行ルートが合理的あるいは現実的でないことは私も気づいた。そこをつっこんで、マウントをとった気分になってもいいのだが、つっこんでマウントをとることは、頭がいいと思っているこのバカにまかせておけばいい。
走行ルートの問題は、たしかに私も気づいた。監督が気づかなかった可能性もあるが、おそらくは気づいている。ただ映画の編集段階で、物語の進行上あるいは情動的な演出上の理由から、効果的な絵の配列が優先され、地理的関係は無視されたのかもしれない。さらにいえば、乗客の倍賞千恵子の自分語りは、過去と現在とを往復する。そしてまた外の景色、走行している場所とも相関関係にある。空間的・地理的にあり得ないルート、遠回りあるいは無意味なルートは、過去と現在との時間的往復運動の錯綜性と同調しているのである。
木村拓哉扮するタクシー運転手が道路の一時停止を無視したため監視していた警官に止められるところがある。ささいながら苦境にたつ木村拓哉に対して乗客の倍賞千恵子が助け舟を出す。自分は心臓の病で手術を受けなければいけないため、自分の甥であるこの運転手は、あせって、ついつい道路標識を無視してしまったのであって、どうか大目に見てほしいと、警官に語る。事情を理解した警官は、見逃してくるのだが、この場面の映画全体のなかに占める重要性はどんなに強調しても強調しすぎることはない。
ちなみに交通規則は映画のなかでは破られるためにある。公開中の『爆弾』では、人が通りの向こうで殺されそうになっているとき、横断歩道で赤信号だから立ち止まってそれを傍観しているのか、規則を破ってでも助けに行くのではないかということが語られる場面がある。これも公開中の『平場の月』では、自転車の二人乗りが登場する(映画の最後のクレジットには、自転車の二人乗りは交通規則違反だが安全に配慮して往来の少ない通りで撮影しているという言い訳が文字で示される)。
『TOKYOタクシー』では一時停止の無視が警察によって摘発されるが、口八丁の乗客の老婦人によって見逃してもらえる。いずれの場合も交通規則は破られるためにあるようだ。そしてその違反は、交通規則に限らず、多岐に及ぶ。『TOKYOタクシー』では、地理的関係なり地理的規則・法則が破られ、タクシーは寄り道と回り道、蛇行と循環を繰り返す。その「違反行為」は、乗客の老婦人の語る人生の紆余曲折という内容だけでなく、現在と過去との境界すらも一時停止せずに無視してしまう混迷と錯綜と自由闊達な語り口、そして想起の偶発性を反映している。またタクシーの後部座先には、現在の老婦人(倍賞千恵子)と若い頃の彼女(蒼井優)が並んで座る場面もある。地理的空間の迷走は過去と現在との迷走的往復を呼び寄せるのである。
実際、山田洋次監督は、規則を破るときにドラマが生まれると考えているようだ。だからこそ監督は規則には反感をもっている。以前、なにかのトークの場で、最近では映画館で上映前に観客に対して、スマホの電源を切れとかおしゃべりをするなとか前の席をけるなといったこまごまとした注意事項が語られるが、あれがうっとうしいと語って、ネット上で反感を買っていた。私はそうした注意事項は必要だと思うしマナーの悪い観客にはほんとうに腹が立つが、それとは別に、山田洋次監督の規則嫌いについて、それが映画の内容にまで浸透していることは重視すべきであることを指摘したい。
そしてこの一時停止無視の場面についていえば、これによってタクシー内でのやりとりに変化が生まれる。そしてまた、ここまでの運転手と乗客との会話が一時停止無視の迷走と迂回であり、しかも地理的規則を無視した回遊であったことがあらためて前景化される。それだけではない。乗客の倍賞千恵子の肝の座った要求、それも虚言に端を発する図々しいまでの要求は、彼女のキャラクターについて多くの示唆を与えることになる。そもそも彼女は振り返れば規則を踏みにじって来た人生であった。そのためには服役すらした。また警官に温情を求める押しの強さは、彼女が服役後、アメリカでネールアーティストの修行をして日本で成功を収めたことも、さもありなんと観客の思わせるものだ。
しかも、彼女は嘘をかたって警官を丸め込んでいる。ここからいえることは、ひょっとしたら彼女がこれまで運転手に語ってきたとは、全部、口から出まかせの嘘だったかもしれないということだ。多くの観客は、そうは思わないかもしれない。しかし、嘘だったという可能性はある。しかも、嘘であったことで、運転手と乗客の交流が意味のないものになるどころか、この巧みな嘘ゆえに(そこにはほんとうことも含まれていようが)、本来なら、生ずることのない心の交流が生まれたからである。嘘でなかったら、ふたりの会話は、凡庸で冷たいものであっただろう。嘘であったからこそ、二人の間に、おそらく一生消えることのない交流が生まれたのである。
そしてこのことは、このタクシーを都会のただの運搬手段ではなく、観光タクシーに変えた。そのため走行ルートがおかしいというコメントは作品の可能性をせばめてしまうことになる。つまりこの走行ルートは観光タクシーのルートなのだ。観光タクシーだからこそ、運転手が観光ガイドになる。また乗客も観たいところを指定して、ルートを変更させる。最短距離を最速でという効率重視の走行ルートは、もはや消え、効率の点からは無意味な迷走的な走行ルートが出現するのである。
こうしてさまざまな小さなルールの変更とルール破りの果てに、彼女の人生にボーナスのような一日が訪れる。運転手にとっても、この走行はボーナスに近い。そしてこの一日が、心温まる会話物語として成立することになる。まさにルール破り、規則違反は、映画製作に関するメタコメンタリーともなっているのである。
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あとは、この映画の評価とは別に、個人的な感想を述べさせてもらう。
倍賞千恵子の回想のなかで、若い頃の彼女(蒼井優)は、夫(迫田孝也)に暴力をふるわれるわけだが、この迫田孝也扮する夫は、サラリーマンで、妻を顎で使い、気に入らなかったり、妻が反抗的であったりすると殴る。そして帰宅すると、部屋に閉じこもって、クラシック音楽のレコードを聴いている。
この場面を観ながら私は緊張しはじめた。この人間のクズの夫を表象するのに使われたタイプというのがクラシック音楽を聴くサラリーマンである。ただサラリーマンが悪人だとはいえまい。サラリーマンが職業や職種を横断してクズ人間ということにはならないだろう。となると、狭い団地の部屋で、妻や子どもとは交わらず、クラシック音楽を聴いている夫というがクズであるところの構成要素であるように思われる。妻や子供と交流しない夫はクズだろうが、そのクズっぷりと、クラシック音楽のレコード好きということが連動しているのである――あとなにかにつけて几帳面だということもクズであることの要因として映画では想定されているようである。
だが、それでいいのだろうか。たしかに映画のなかでは迫田孝也演ずるこの男は、いかにもクズという感じがするのだが、それでいいのだろうか。というのも、この男にそっくりな人間を私は知っているからである。
私の父親である。
私の父親もサラリーマンで、帰宅したら、部屋に閉じこもって自分で構築したオーディオセットでクラシック音楽のレコードを聴いていた。母はともかく私とはほとんど口をきかなかった(ちなみに私は連れ子ではない)。う~ん、やはり、やはり、私の父は、クズ人間のステレオタイプになっておかしくない人間だったのだろうか。う~ん、と、うなってしまうしかないが、そう、まさに人間のクズだった、アグリー(agree)ですとしかいいようがない。
ちなみに私も、父がいないとき、父の大事にしているレコードに触ったことがある。紙のケースからレコードを出してしげしげとみた。父親がレコードを扱うときの、びっくりするほど慎重な手つきを思い出し、それをまねながら、丁寧に扱い、もとのケースに戻して、いじったことがわからないようにした。しかし、几帳面な父親は、私がレコードをいじったことをすぐに見抜いた……。
映画を観ながら、なんで、こんなエピソードが出てくるのだと、映画館で、手に汗をかき、おしっこをもらしそうになった。私の子供の頃の話ではないか。映画のなかの虚構と、私の実人生が、なぜ重なってしまうのだ。めまいまでしてきた。
ちなみに、私は、父に呼び出され、物差しでひっぱたかれたりはしなかった。それはほんどうである。もし父が私をひっぱたこうものなら、私の母が父を絶対に許さなかっただろう。父は局部にやけどをするくらいではすまなくて、母にほんとうに殺されていたにちがいない。
