2025年11月19日

『ヴォイツェック』ふたたび

昔々、『悲しき天使』というヒット曲があった。メリー・ホプキンスの歌唱をテレビで観たとき、そのいかにもイギリスらしい素朴な、そして親しみやすいフォークソングにいたく感動した私は、全世界的にヒットしていることにも納得した。その後、英語の歌詞を検討して、昔をなつかしむというこの曲が、なぜ「悲しき天使」なのか理解に苦しんだが、当時、日本でこの曲は自由に歌詞をつけられて歌われていたから、そうした日本語ヴァージョンのひとつとマッチしていたのだろうと考えたが、あとから、当時は、なんでも無差別に「悲しき~」とか、「~の天使」いうタイトルをつけるのが流行っていたと知り唖然とした。

日本でつけたいくつかの日本語の歌詞には、ひどいもの、吐き気がするものも多くて、このイギリスのフォークソングのしみじみとした味わいに及ぶものはなかった。最近では、この曲の歌詞、“Oh my friend we're older but no wiser.”というのは、私の座右の銘にまでなっている。

ちなみにこの「悲しき天使」の原題はThose were the daysで、このなかのリフレインには、シェイクスピアの時代に使われていたようだが、なんといってもシェイクスピアの『お気に召すまま』の台詞として有名になった(テオ・アンゲロプロス監督の映画のタイトルにもなった)「永遠と一日Forever and a day」というフレーズがある。【テオ・アンゲロプロス自身は『お気に召すままの』の台詞からとったのではないとことわっているので、『永遠と一日』の英語のタイトルはEternity and a Dayなのだが。】ネット上でこの曲の歌詞を日本語訳しているサイトがいくつもあるのだが、forever and a dayがシェイクスピアに端を発していることに気づけ、そして「永遠と一日」というフレーズのニュアンスを無視して、「いつまでも」と適当にごまかして訳すなといっていやりたい。

ただし、後年になって驚いたのだが、これはイギリスのフォークソングではなくて、「ロシアの民謡」であった。そういわれれば、ロシア風の音階ではないかと納得した。しかし、それはロシアの民謡ではなく、20世紀初期に創られたれっきとした歌曲であった。ロシア的であることは納得したが、民謡ではなかったことにも驚いた。しかも曲は、クレズマーというイディッシュの民謡にルーツに持つ音楽、あるいはロマ音楽の様式をとりいれたものということになり、ロシア的でもなかったことがわかった。もう、そういわれれば……と思うことはやめたい。自分自身の判断力のなさ、あるいはいい加減な情報の流されている自分の愚かさを痛感するだけだから。

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長い前振りだったが、9月に喘息じみた咳に悩まされ観劇をあきらめた『ヴォイツェク』が、地方公演から再び東京に戻って来たので、そしてチケットがあったので、観劇することができた。

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『ヴォイツェック』の原作そのものは短い芝居であって、ふつうに上演すれば、1時間30分もあれば確実に終わるのだが、今回は、それを2時間30分(休憩20分)の作品にしたものの上演だった。つまり原作のアダプテーションであった。主人公を北アイルランドのベルファストの孤児とし、長じて、ドイツのベルリンにNATO(ネイトー)軍の英国部隊の兵士として派遣され、ワルシャワ条約機構軍と対峙する日々を送る兵士に変えた。上官の髭を剃るとか、科学者の人体実験に参加することなどは原作と同じだが、しかし、それ以外に、原作を思い起こさせる設定なり人物なりはいない。ヴォイツェクの妻を誘惑する上官たちはいない。最終的に妻を殺すことは原作と同じだが、そこにいたる過程はずいぶんと違う。

だが、これは批判しているのではない。このアダプテーションは、原作以上にヴォイツックの内面を掘り下げるというか、そのトラウマを可視化し舞台化することで、原作にはない驚くべき深みと奥行を実現しえたのは特筆に値するのだから。

実際、原作を知らずに今回の上演に接した観客は、これを冷戦期の事件を扱った、それもいかにも英国的な演劇としてとらえるだろう。社会的・政治的に緊張の高まる北アイルランドのベルファストと、東西対決の最前線であるベルリンとは地政学的に同じ位相であることは誰もが気づくであろう。また東西緊張の真っただ中に派遣された英国兵士が、その緊張の中で心を病んでゆくというのも、ある意味、必然的かつ蓋然的な展開であるように思われる。主人公がヴォイツェックという英国系でもアイルランド系でもない名前をもつのは変だが、それはドイツでの事件であることとなにかつながりがあることをにおわせているくらいにしか観客は感じないだろう。

だが観客は驚くはずである。これはドイツの戯曲であって、ドイツ人のヴォイツェックを英国人の主人公にしたものだと知ることになったら。とはいえ、それで主人公の名前がドイツ系であることに納得することになるだろう。また医師(不思議なことにドイツ人ではなくイギリス人になっている)が人体実験をするのも、ナチスの医師が強制収容所でユダヤ人に人体実験をした忌まわしい過去の歴史を彷彿とさせる設定だったのかとも納得するかもしれない。しかし、観客はさらに驚くだろう。この芝居はナチスとは関係がなく、原作は19世紀(1835年頃)に書かれたと知れば。

逆にいうと、これは英国の芝居としては、実によくできているし、英国らしさ――それがどんなものかは定義できないが、なにかよくわからないが、これこそが英国風だと思わせるような迫力に満ちている。演劇的強度、人物の掘り下げ、悲劇へと向かう緊張感など、英国現代劇の要件をすべて満たしているような感がある。

また英国ではなく外国を舞台にした作品、ここでは冷戦下のドイツベルリンに駐留する英国軍人と、現地の人々との関係など、英国の芝居にありがちな設定である。またそもそも外国において、妻もしくは愛人を嫉妬ゆえに殺してしまうというのは、オセローの世界ではないか。まあヴォイツェックは、身分的にはオセローというよりもイアーゴーに近いのだが。またヴォイツェックの上官の妻が浮気をしているというか、夫の部下の兵士たちと次々と寝ているというのは、ほんとうに浮気するデズデモーナと老将軍オセローのようではないか(ちなみに、これは原作にはない設定である)。

したがって、今回のアダプテーションは、繰り返すが、いかにも英国演劇らしさがふんぷんとしていて、原作の舞台化というよりも、独立した演劇作品、それもきわめて興味深い英国的悲劇作品とみることができる。

おそらく今回の舞台は、同じ原作をもつアルバン・ベルクのオペラ『ヴォツエック』よりも原作ばなれした、独立した作品と思っていいのだが、しかし、同時に、原作にある未完成で未整理でなおかつ空白ですらある部分を丁寧に埋めたという点で、原作のあるべき姿、その完成形を、独自の追加創作によって示したという点で、アダプテーションの見本のような作品かもしれない。原作創作時には盛り込めなかった細部を、今回のアダプテーションは可能なかぎり盛り込んでいる。そのため、原作から離れているが、離れていることは、原作を変容させその完成形を見せてくれるプロセスの成果としてある。

そして、それがまた原作とは異なる演劇性を実現してしまったという皮肉な結果になる。

というのも今回の上演は、圧倒的にヴォイツェック中心である。主演の森田剛の全舞台をみているわけではないのだが、今回の役柄は珍しいのではないかと思ったが、その経歴を振り返ると、ヴォイツェック的な人物はけっこうこれまでにも演じていることがわかる。そのすべてを観ているわけではないのだが、今回のヴォイツェックは、まちがいなく経歴のなかでベストのひとつに入るだろう。

そして言えるのは今回のアダプテーションは、ヴォイツェクの人生を徹底的に掘り下げていることで、ベルファストで孤児になったことからはじまる苦難の人生とトラウマがねちっこく語られる。これに比して、他の人物は類型的な造型にとどまる。今回のキャストは、原作にある人物だけをあげると、大佐に冨家ノリマサ、医師マーティンに栗原英雄と豪華キャストなのだが、ヴォイツェックと同棲し、彼にからみ、また殺される役の伊原六花は、ヴォイツェックの掘り下げとともに、原作にはない重要性を帯びることになるが、栗原、冨家は、スター俳優の無駄遣いという気がしないでもない。その役柄が、ヴォイツェックの圧倒的な存在感の前にかすんでしまっているからである(また原作にはない上官の妻/ヴォイツェックの母(伊勢佳世)、同僚の兵士(浜田信也)らのほうが存在感があるのも面白いのだが)。

原作では上官や医師、その他の人物(アダプテーションでは消された)らが、ヴォイツェックと同等の存在感をにじませている。それはまたヴォイツェックだけが突出するのではなく、他の人物と同等の薄っぺらさしかないのである。そう、今回のアダプテーションにおけるヴォイツェックは、立体的(ラウンド)な人物である。しかし原作の彼は、二次元的というか薄っぺらい平面的(フラット)な人物である。他の戯画化された人物たちと同等の一人であって、傑出した一人ではない。ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』は、革命と政治をめぐるねちっこい芝居である。今回の芝居もヴォイツェックの内面を掘り下げ、その苦悩やトラウマや愛への渇望と狂気を惜しみなく舞台に現前させるねちっこい芝居である。しかし原作の『ヴォイツェック』は、ねちっこくない。

原作は、未完の複数の断章というかたちで残っているだけで、場面の順番も確定していない。そして短い場面の連続によって、ある特定の人物を掘り下げることなく、深さを拒否した平面的芝居に終始する。ベルクのオペラも、今回のアダプテーションも、ともにこの軽さには到達していない。凶器と嫉妬、社会的分断、不正と正義への要求というテーマは次々と登場するが、いずれも、ダイナミックな有機的関係を構成することなく、あるいはメタフォリックな関係性を構築することなく、メトニミックに流れてゆくだけである。

かつてアウエルバッハは『ミメーシス』の有名な序章「オデュッセウスの傷跡」のなかで、ホメロスの叙事詩は、「現在」しかない、たとえ語りのなかで過去の出来事が言及されても説明のための注釈としてしか機能しないのに対し、聖書の物語では、過去と現在がダイナミックにインターセクトする――過去は現在を変え、現在もまた過去を変える――と論じたことがある。この二つの潮流、ヘレニズム的潮流とヘブライイズム的潮流の緊張関係が、やがてヨーロッパ文学を形成するというのがアウエルバッハの議論だった。

それを思い出すなら、今回の『ヴォイツェック』のアダプテーションは、過去と現在とが交錯し、その交錯はまた西と東という二つの世界の対立(さらにイングランドとアイルランドあるいは北アイルランド)とも、交錯し、個人的な生と、政治と歴史そして社会との葛藤を私的かつ公的に展開していたといえよう。

それに比べて原作の『ヴォイツェック』は、そうしたダイナミズムを知ることはない。そこには現在しかない。過去はないし、過去との葛藤もないし、トラウマもない。いっぽうアダプテーションでは人間が動いている。過去を背負い、過去の重圧に押しつぶされている哀れなヴォイツェックがいる。これに対し原作では、輪郭だけのスケッチのような人物が動いている。そうスケッチ。天然色のアニメでもない、色のない粗削りな輪郭だけのスケッチの動画。それが『ヴォイツェック』であり、そしてだからこそ、『ヴォイツェック』は、モダニズムを超えて、ポストモダン的な演劇へと突出しているのである。

ベルクのオペラも、今回のアダプテーションも、原作をモダニズムにとどめようと、あるいはおしもどそうとしている。だが原作はモダニズムすら超えてその先をいっている。ポップなというと軽すぎるかもしれないが、戯画的で類型的で平面的な人物像が織りなす魅惑的な薄さを誇示する群像劇、それが『ヴォイツェック』の、なかなか見出してもらえない、現代性あるいはポストモダン性だと私は信じている。

今回のアダプテーションはすでに述べたように原作とは独立した演劇として観れば、とても優れた迫力のある舞台であることはまちがいない。実際、観客の誰もが息を殺して見入ってしまう力強さ、演劇的迫真性がそこにある。

けれども原作の舞台化としては、原作のもつ独自の良さ(おそらくは観る人を選ぶであろう良さ)は具現化されていない。おそらく亡き岩淵達治先生は、この舞台をみて、怒るにちがいないと思う。原作とは似ても似つかぬ劇として。とはいえ私の議論に対しても岩淵先生は同様に激怒するにちがいない。呼び出されてしっかり説教をくらうことはまちがいないだろう--お前は何もわかっていない、と。
posted by ohashi at 22:15| 演劇 | 更新情報をチェックする