2025年製作/120分/G/アメリカ 劇場公開日:2025年11月14日
映画の邦題について、映画を観ているときにはとくに意識していなかったので、「孤独のハイウェイ」というサブタイトルがどこからとられたのは、スプリングスティーンの歌詞にあるものなのか、有名な引用句なのか、映画会社が勝手につけたのか、わからない。
まず、映画.COMでの紹介
ドラマ「一流シェフのファミリーレストラン」のジェレミー・アレン・ホワイトが主演を務め、ギター、ハーモニカ、歌唱トレーニングを経て若き日のスプリングスティーンを体現。「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」のジェレミー・ストロングがマネージャーのジョン・ランダウ役、「帰らない日曜日」のオデッサ・ヤングがガールフレンドのフェイ・ロマーノ役、「ボイリング・ポイント 沸騰」のスティーブン・グレアムが父親ダグ役、ドラマ「ブラック・バード」のポール・ウォルター・ハウザーがサウンドエンジニアのマイク・バトラン役で共演。
この出演者紹介、本当にわかって書いているのか。AIだってもっとましな紹介をするぞ。というのも、出演者の最近作・代表作が、ジェレミー・ストロングの「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」以外に、どれも、代表作といえなかったり、日本人が観たこともない作品ばかりなのだ。
映画の時間での紹介
https://movie.jorudan.co.jp/film/101709/
「スプリングスティーン 孤独のハイ ウェイ」の解説
米ロック界の重鎮、ブルース・スプリングスティーンの若き日の父との確執、苦悩と創造の情熱を活写する音楽伝記ドラマ。大ブレイクする前の1980年代のニュージャージーを舞台に、わずか4トラックでレコーディングされたアルバム『ネブラスカ』制作の裏側を描く。出演は「アイアンクロー」のジェレミー・アレン・ホワイト、「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」のジェレミー・ストロング、「リチャード・ジュエル」のポール・ウォルター・ハウザー。監督は「クレイジー・ハート」のスコット・クーパー。
まあこれなら問題ない。主役のジェレミー・アレン・ホワイトの最新作は『アイアンクロ―』(足を切断する四男の役)、ジェレミー・ストロングは『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』で悪名高い弁護士ロイ・コーンを演じていた。ポール・ウォルター・ハウザーが主役の代表作は、なんといってもクリント・イーストウッド監督の『リチャード・ジュウェル』でしょう。あと父親役のスティーヴン・グレアムといえば、今年Netflixで配信された四話のミニシリーズ『アドルセンス』しか今のところ考えられない(彼は経歴の長い俳優で、その出演映画の多くを私は観ているのだが、どこに出ていたのかは覚えていない)。
監督のスコット・クーパーは『クレイジー・ハート』以外にも、いろいろ優れた映画を創作しているが、ただ『クレイジー・ハート』は素晴らしい映画でクーパー監督の映画の中では一番印象に残っている。
なお、CINEMA FACTORYでは、今年の8月の記事だが、予告編が解禁された時点で、こんな記事を載せている。
『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』スプリングスティーン役のジェレミー・アレン・ホワイトが熱唱する場面写真初解禁2025.08.072025.10.21
https://www.cinema-factory.jp/2025/08/07/86158/
【前略】
♪予告編に大反響!早くもアカデミー賞®最有力の呼び声が!
6月18日に世界に向けて解禁された『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』の予告編が大反響を巻き起こしている。
2000年に設立されたアカデミー賞®、エミー賞、ゴールデングローブ賞など、世界最大規模の賞レースを予想、分析するサイト“GOLD DERBY”が、“COLLIDER”、“Variety”など全米の権威あるサイト16名の担当記者によるアカデミー賞®ノミネート予想作品リストを発表。16人中11名が『スプリングスティーン:孤独のハイウェイ』を最有力候補作品に挙げている。
また、米のエンタメ&ポップカルチャーサイト“Decider”は、「この予告編は、すでに『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』オスカー受賞の可能性を示唆している。はたして、この作品でジェレミー・アレン・ホワイトは初のアカデミー賞®受賞を果たすことになるのだろうか」と指摘。「一流シェフのファミリーレストラン」 でゴールデン・グローブ賞3年連続受賞、先に発表されたエミー賞では4年連続ノミネートの快挙となったジェレミー・アレン・ホワイトの主演男優賞受賞の可能性に言及している。“Variety”のオスカー®予想では、作品賞とマネージャー役のジェレミー・ストロングを助演男優賞にリストアップ。また“AWARD WATCH”は作品賞、主演男優賞、助演男優賞(ジェレミー・ストロングと父親役のスティーヴン・グレアム)、スコット・クーパーを監督賞候補に挙げている。
「ノミネート予想作品リストを発表。16人中11名が『スプリングスティーン:孤独のハイウェイ』を最有力候補作品に挙げている」というのは、8月の時点で、狂気の沙汰である。まだこれからいろいろな作品が公開されるだろうから。と同時に、この映画「最有力候補作」というのは、どういう賞を指しているのだろうか。
まあスプリングスティーン役のジェレミー・アレン・ホワイトとマネージャー役のジェレミー・ストロングの両ジェレミーは、それぞれ主演男優賞と助演男優賞を獲るかもしれないが、最優秀賞ではないだろう。他の賞はちょっとむつかしいと思う。
映画の出来に問題があるということではない。地味な映画、しぶい映画だからである。アメリカのサイトでは、この映画を、ヒット曲のディスクのB面を聞いているようだとコメントしている評者がいて、言いえて妙だと感心した(もっともB面という比喩がアメリカや日本の若い世代に通用すると思えないのだが)。B面なのでそれなりによくできているのだが、A面の派手さ華やかさスケール感や深さはないというか、トーンダウンしていて地味なのである。【もっとわかりにくい例を挙げると、ギリシアの頌歌における、ストロペ―に応答するアンティストロペ―との関係か。とはいえアンティストロペ―は常に暗い短調のネガティヴな歌というわけではないので(歌の陰陽はストロペ―との関係で決まる)、メタファーとしては適切ではないかもしれないが】
映画のポスターとか宣材写真ではスプリングスティーンの力強いパフォーマンスを前面に押し出しているが、それは映画の冒頭だけのことであって、ライブハウスの歌唱でもゲストに呼んだロッカーとのデュオでしかなく、有名なBorn in the U.S.A.でもスタジオ録音で盛り上がるだけで、ステージ上の盛り上がりは映像化されていない。あとはスプリングスティーンが一人で悩んでいるだけである。トラウマから逃れることができず、ロックバンド「スーサイド」のレコードを繰り返し聞いているだけである。
作る楽曲の歌詞も、社会からの不適合者、犯罪者、疎外者たちの閉塞感を表現するものであり、また他人の感情をうたいながらもどこか、それが自伝的な色彩を帯びてしまうのである。あるいは、他人に憑依して歌っているのだが、いつしか、それが憑依ではなく自分語りにみえてしまうとでもいえようか。
たとえばテレビで映画『バッドランズ』を観て、モデルとなった犯罪者の心情の吐露というかたちの歌詞を書くというのは、どこまで暗いのかと誰もがあきれることだろう――それはアルバム『ネブラスカ』のなかのタイトル曲となった。【テレンス・マリックの映画『バッドランズ』(1973)は、イギリスにいるときにテレビで観た。今回の映画で映像の一部を観て、もしや『バッドランズ』ではと思ったら、まさにそうであって、変にうれしくなった――ちなみに「バッドランズ」が、普通名詞ではなく固有名詞(地名)であることはあとで知った。】
アルバム『ネブラスカ』の曲の大部分は、1982年スプリングスティーンの自宅の寝室で4トラックのマルチトラック・レコーダーで録音され、アコースティック・ギターの弾き語りの、しかもカセットのデモテープをそのまま音源としている。文字による著述なら、未完の下書きのような作品である。それを完成体として発表するというのは、本来なら日の目をみない作業中の使い捨ての文書に、日を当てようとする行為であって、それはまたこのアルバムで歌われている内容(未完の、使い捨ての、日の当たらない人びとの不満と不安と怒りと悲しみ)とシンクロしている。
もちろん、これは深層と立体性を拒否するポストモダン的な平面的なステレオタイプの美学からすると、地味な暗い音の響きと、その古臭く雑で荒削りの録音音源の存在感を活かすために、あえて社会性や政治性を帯びた、しかし陰鬱な内容の歌詞を作り上げたということになる。つまり売らんがために、アメリカンドリームの暗部をさらすような曲を並べた、しかし、それはビジネス・メランコリーであって、捏造でありフェイクであるという見方もできないわけではない。
しかし、そうした見方を拒絶する要因がひとつはあった。つまりスプリングスティーンがほんとうに、いわゆる鬱病であったということである(いまも鬱病と戦っているらしい)。ここにある苦悩せるスプリングスティーンの姿はフェイクでもビジネスでもなく、本物なのである。
本当は元気で陽気なのに、鬱々とした曲を作っていたら、たんなる詐欺師である。この鬱々とした曲を大々的に売り出し記者会見をし、ツアーもすることは、曲に対する裏切りである。そのため宣伝をしない、スプリングスティーンの顔写真も名前もアルバムのジャケットに使わないという、まさに日の当たらない販売方式をとった。これを挑戦的と評するのはポストモダン美学に毒された見方である。むしろその販売方式は、アルバムに収録された曲に責任をとったというべきであろう。
またそうなると今回の映画そのものもどうなるのかということになる。地味で暗い、とてもアカデミー賞をもらえそうもないという私の評言は、けなしているのではない。この映画がその内容を裏切ることを拒否している点を評価しているのである。ドラマティックな盛り上がりも少なく地味で暗くて鬱々としている映画は、実に、内容とシンクロしているのだ。
残念ながら映画会社はこの映画をアカデミー賞確定の傑作映画として派手なヒステリックな販売戦略に走っているが、まあ、やむをえないというべきか。それがスプリングスティーンも映画の内容も裏切っているといってもしかたがないかもしれないが、ただそれによって醸成された観客の期待を裏切ることになると、あとにはこの映画に対する反感しか残らないのではないかという心配になる。
たとえば過去とりわけ子供時代にトラウマに悩まされ、恋人(とはいえ実際にそうした恋人がいたわけではなく、複数の人物を合体させたものらしいが)とも別れ、ひとりカリフォルニアに行きそこで自分自身に向き合おうとする――逃げるのではなく――主人公が、そこで涙を流す。この涙は何であったのか。鬱状態から回復したのか、あるいは鬱状態からの回復の最初の一歩なのか。ただ、映画はそこからすぐに10か月後にとび、大成功をおさめたコンサート(コンサートそのものの映像化はない)のあと、会いに来た両親、とりわけ父親と和解するという展開になるのだが、肝心の鬱状態からの回復のプロセスは可視化されないままである。可視化されるのは鬱状態の主人公であって、鬱状態の克服あるいは回復の映像はない。映像は、意図的に地味すぎる、あるいは禁欲的なのである。ブルースス・プリングスティーンのアルバム『ネブラスカ』のように。
スコット・クーパー監督としては、だからこそ、マサノブ・タカヤナギ(高柳雅暢)とコラボしたかいがあったというものだろう――コラボとしては5作目。同じく、スランプに陥ったアーティストの復活物語である『クレイジー・ハート』(2009)では、美しい映像にいたく感動したのだが、それと同じような映像は今回はなかった。クーパー監督の最近作というか前作は『ほの蒼き瞳』(Netflix)だが、このエドガー・アラン・ポーが登場する映画で印象に残っているのは雪景色と曇天の空である。撮影監督のマサノブ・タカヤナギの映像には晴天の日は似合わない。曇り空こそがタカヤナギの映像である。今回の映画は、もちろん曇り空ばかりではないのだが、ただ、主人公の人生の曇天の日々がメインとなって描かれているのはまちがいない。晴天ではなく曇天の映像作家となった監督。
まさにグレート・スコット。
