2025年11月10日

明治大学シェイクスピアプロジェクト 2


明治大学シェイクスピアプロジェクト(以下MSPと表記する――これは正式な略号である)の舞台は、人物が登場して最初に台詞を発せする瞬間、なぜアマチュアがプロとしか思えない発声と台詞まわしをするのかと、いつも驚かさせるのだが、今回の『冬物語』でも、その驚きは、いつもと同様に、あるいはいちも以上に大きかった。

もちろん発声やデクラレーションだけではない、主要人物の存在感がはんぱないのであって、あとは観るの者の好みによって、レオンティーズが、ポリクシニーズが、ハーマイオニーが、ポーライナが、オートリカスが、それぞれの個性によって深い感銘をあたえることになろう。

また舞台装置や衣装というか美術については、これは上演の場(講堂でもあり劇場としても使える大ホール)の制約と、おさらく伝統を踏まえているのであろう、びっくりするような舞台美術ではなくて、どちらかというとアマチュア的な、学生演劇らしさが残る、まあ、ちょっとダサい舞台装置がMSPの特徴だったが、今回は、例年とは少しちがってプロの舞台美術に近いものとなった。

また衣装は、これは準備期間と予算の制約もあるのだろう(あるいはデザインがプロではなく学生によるもののせいか)、無国籍で、ややおとぎ話的で、アマチュアっぽい、少々ダサいという特徴は、今年も同じだったが、しかし、今年は、リアルであると同時にファンタジーでもあり、悲劇的でもあり喜劇的でもあり、深刻でもあり祝祭的でもあるという劇の特徴と見事にシンクロしていて、違和感を抱かなかったばかりか、劇中世界と見事な調和を達成していた。

台詞回しに戻ると、どうしてアマチュアがこんなに素晴らしい台詞を易々と口にできるのか、とにかく台詞回しのうまさに聞きほれていたし、それはまた、シェイクスピアが、当時の大劇場グローブ座の舞台ではなく、当時としては珍しい室内劇場であるブラックフライアーズ座での上演を考慮して人物の微妙で繊細な心理が観客に伝わる台詞を作ったことをあらためて実感させるものであった。

つまりシチリア王レオンティーズは、突然、后のハーマイオニーと、友人のボヘミア王ポリクシニーズと仲をというか不倫を疑い始めるのだが、そこにあるのは、不安と猜疑心からなる心理的苦悩であって、台詞がすべてである。オセローのようにイアーゴーに騙されて、口から泡をふいて卒倒するようなことはしない。レオンティーズにとって、イアーゴーは、レオンティーズ自身である。この自家中毒的葛藤をすべて台詞で表明しなければならないとき、台詞に説得力がなければ、すべてがだいなしになる。今回のMSPの舞台は、演者たちの見事な台詞回しによって、説得力のある見事な舞台が実現していた。

あと、これはいろいろな配慮ゆえの決定だろうが、熊が登場しなかった。『冬物語』では、「ボヘミアの海岸」というこの世に存在しない場所が登場する。そのボヘミアの海岸で、レオンティーズの家臣アンティゴノスは、「熊に追われて退場する」――シェイクスピア劇のなかで最もばかばかしいと言われているト書き(Stage Direction)である。

この熊は、本物の熊なのか、着ぐるみの熊なのか、熊の毛皮をかぶったのか、あるいは熊のはく製みたいなものなのか、昔から議論されてきた。この点については別の記事で語ることにするが、昨今の熊被害もあって、『冬物語』といえば熊なのだが、最終的には熊は登場しなかった。私が国内外で観た『冬物語』の舞台では、熊を登場させない演出もある。今回もMSPの舞台も、熊の存在を音響効果で暗示させるだけで終わっていた。私は残念に思うのだが、熊被害のことを考えると、たとえぬいぐるみのようなものであっても熊を登場させないのは英断だったかもしれない。とはいえ、熊被害に関係なく最初から熊は出さないことになっていたのかもしれない。そのへんはなんともいえないのだが。

あと劇は前半と後半で16年経過する。その後半の始まりに、「時Time」というコーラス役が登場して、30行余りの台詞を話す。その時、15行目の台詞あたりで、もっていた砂時計を逆転させる。あらたな時間がはじまることを暗示する。前半は悲劇。後半は、笑劇ではなく喜劇となる。そしてこの喜劇的後半が最後には奇跡へと至る。

ただ今回の舞台に登場した「時」は白いドレスの美しい女性で、女神というよりも妖精のような感じもしたのだが、あれが「時」をつかさどる超越的存在であると、この劇作品ついて何も知らない観客に思わせるには無理がある。『冬物語』はシェイクスピア作品のなかで知名度の高いものではない。知らない観客がいて当然である。だから、女性の「時」は美しすぎ洗練されすぎていて、なにかよくわからない。もっとどんくさく、いかにも時をつかさどる、たとえば「時の老人」のような人物にしてほしかった。せめて時計(砂時計でも、機械時計でも、デジタル時計でもいい)をもっていてほしかった。

とはいえ、演出としては、突然、若くきれいな女性が登場して、観客が不思議に思うことを狙っていたのかもしれない。それはちょうど、突然、熊があらわれて、観客が戸惑うのと似ている。熊という、いまや日本人すべてを敵に回している動物にかわって、妖精のような女性を出したということかもしれない。

ちなみに前半の最後に登場する、熊と、熊に食い殺されるアンティゴノス(ただしナレーションでのこと、実際に舞台で食い殺されるわけではない)のエピソードは、そのすぐあとの羊飼いの親子が赤子(パーディタ)を発見することから、死にゆく者と生まれたばかりの者との対照性が仕組まれていることはまちがない。そして熊に追われて退場するアンティゴノスの場面は、それまでの暗い悲劇的場面を喜劇的世界に転換させるピヴォットのような働きをしている。

私は学生の頃、今は亡き笹山隆氏(誰もが認めるすぐれたシェイクスピア学者だった)の、この熊を扱った論文を読んで衝撃を受けた。熊の登場が、観客操作と劇中世界の変換と連動していることの指摘は、当時は、誰もしていないかったように思われる。その考察の刺激性に私は圧倒された。ちなみに笹山ご夫妻は、北海道旅行中に、ほんとうに熊(子熊をつれた母熊)に遭遇されたとのこと。その時、笹山氏はやってはいけないことをしたらしい。つまり熊に背をむけ一目散に逃げだしたのである。取り残された奥様は冷静に熊に対峙しつつ、声を出して熊を威嚇し、ゆっくりと後ずさりして、その場を離れ難を逃れたとのこと。この話も、別の記事で。

熊の登場(今回の舞台では不在)が導く後半の祝祭世界は、そこにオートリカスという詐欺師・泥棒を登場させることによって、とりわけ彼が売り物にするのは、奇想天外な、あるいは下世話なバラード物語であることもあって、劇中世界の認識異化的視点への開かれや、虚構と現実との反転可能性の示唆など、通常の詐欺師的人物が帯びることのない役割をともなっていて、興味が尽きない。オートリカスは、たんなるトリックスターではない、というかそれこそがトリックスターの可能性の中心を体現しているのではないかと思う。

ちなみにこのオートリカス役の学生、とてもうまく存在感も抜群にあるし、劇がこの役に課した機能を真正面から受け止め、またその意義をみごとに発信していた。ちなみに彼が2年前の『ハムレット』公演で墓堀人を演じたときに気づいたのだが、左手の指がない。ある意味、ハンディを負っているのだが、そのハンディをまったく感じさせない力のある演技で、オートリカスという、けっこう面倒な役を演ずるのはこの人しかないと思わせ、アマチュア臭さは全く感じさせなかったことはすごい。なお指の件に関しては、私の親戚にも指のない者がいる。だから全く気にならないのだが、同時に、同じようなハンディのある人たちに、彼の頑張りと活躍が希望を与えることになることを確信している。

このオートリカスもそうだが、シェイクスピアは、ファンタジー的要素とたわむれている。「冬物語」というタイトルは、冬の物語りではなく(前半の世界の季節は冬だが、後半のそれは秋である)、かんたんにいえば「おとぎ話」「夢物語」という意味である。現実にはありえないおとぎ話ですが、まあ信じてくださいというタイトルの芝居のなかで、うそぽっい物語を売り物にする詐欺師を登場させるシェイクスピアは、虚構と現実との緊張関係を積極的に構築している--「ボヘミアの海岸」など、その最たるものだろう。「信じる者に、奇跡は起こる」とMSPのパンフレットには書いてある。もちろんそれに異議はないのだが、ただ、そういうあなた方はオートリカスとどう違うのですかという、けっこうやっかいな問題も生まれてくる。ただし、MSPに関しては、オートリカスと違うと自信をもって断言できる。オートリカスは、おとぎ話にうっとり聞きほれる人間から財布を盗むのだが、MSPはお金を一銭もとらないので、詐欺師ではない。

シェイクスピアの攻めたつくりは、劇の最後にあらわれる。本来なら、16年ぶりの友人との再会、死んだと思われていた娘との再会がクライマックスであるはずのところ、その場面は目撃者の語りですましている。いわばナレーションだけで終わっていて、観客の期待をおおきく裏切っている。

1989年『一杯ののかけそば』という童話が実話にもとづき誰もが泣ける童話として日本でブームをおこしたことを年配の人なら覚えておいでだろう。大みそか、そば屋に、若い母親とこども二人がやってきて、一杯のかけそばを親子三人でわけて食べたという話だが、それだけでは可哀そうな話だがそこだけでは泣けはしない。そこではなく、そば屋の夫婦が、この親子のことを覚えていて毎年大みそかになると現れるのではと心待ちしていたものの、いつしかあらわれなくなる。しかし、それでも夫婦は待ち続けて、やがて成人した二人の子供とともに母親がやってくる。待ち望んでいた親子が奇跡のように帰ってくる。しかも子供たちは立派な大人になり、そば屋夫婦に感謝の言葉をのべるのだ。長い時間のあとでの再会、待ってはいても再会できるとは思われなかった人物との再会は、時間的経過の介在によって、泣けるものとなっている。恥ずかしながら私は泣いた。

ただし作者の栗良平は、自作をテレビで朗読(口演)して有名になった(作品は毎日といってよいほどタレントや俳優が朗読していた時期がある)が、学歴詐称や詐欺行為によって、オートリカスさながらの詐欺師であることがわかり、お涙頂戴の作品への反発と作者が詐欺師であったことから、ブームは終わったのだが。【なおこの作品は映画化もされた。永井愛が脚本を書いていたことには驚いた。】

とにかく長い年月のあとの再会ほど、感動的なものはない。それも絶対に会うことがないと思っていた者どうしの再会となればなおのこと感動的である。シェイクスピアはそれを知っていたはずである。『ペリクリーズ』という、これもおとぎ話的なシェイクスピア劇では、死んでいた母親と娘が、またその夫ペリクリーズが、最後に再会するのだから。

しかし『冬物語』でシェイクスピアは感動的であることがまちがいない再会シーンをカットして、次の彫像場面を最後のクライマックスとした。このあたりの作劇術は、超絶技巧的で、けれんみたっぷりで驚異的なのだが、MSPも、実に見事な彫像の場面を用意してくれた。人間が彫像のふりをするのは、シェイクスピアの時代、現存ずる演劇作品としては作者不詳の『トラキアの悲劇』という作品があるのみである(私はそれを読んだが、なぜそんな誰も読まない作品を読んだかのかといぶかるなかれ、私は、『冬物語』を含む、シェイクスピアの晩年の劇で卒論を書いたからである)。シェイクスピアは『トラキアの悲劇』を知っていたかどうかわかないが、人間が彫像になる趣向は、神話や伝説(ピグマリオン伝説)、さらにはおとぎ話や民話にあっておかしくない。また演劇的な趣向としても、ふつうに存在するのではないかと思う。

今回ハ―マイオニーの彫像ぶり、ギリシア・ローマの彫刻のようではなく、人形やフィギュアのような形態で、けっこう真に迫っていた。その格好は、私のような筋力のない者には長時間していられない無理な格好なのだが、MSPの舞台では、その目覚め動き始める前まで、見事に微動だにせず静止し続けた。それを観るだけでも今回の舞台は価値がある。

また今回の舞台では、彫像の姿が実に美しく、人間に戻ってしまうとがっかりするかもしれない――私のような観客にとっては。そう、人形愛、あるいはフィギュア愛を刺激することもシェイクスピアは狙っていたふしがある。

そしてこのことをふくめ、今回のMSPの舞台は、シェイクスピアが狙っていたかもしれない、さまざまな挑戦的・挑発的効果を、可能な限り受け止め発信した点で、まさに語り継がれる舞台になったのではないかと思う。
posted by ohashi at 22:08| 演劇 | 更新情報をチェックする